カテゴリー「094佐野豊前守政親」の記事

2009.07.12

佐野与八郎政親(2)

佐野与八郎政親(まさちか 41歳 1100石)は、西丸・目付になって満5年近くになる。
目付という職掌がら、口が重い。

その政親は、弟あつかいをしている銕三郎(てつさぶろう 27歳)に、父・平蔵宣雄(のぶお 54歳)が京都西町奉行に取り立てられる風評が、すでに西丸の上層部でもひそかに流れていると漏らしたばかりか、この京都行きには、幕閣から内々の密命がこめられるらしいことを、暗に告げた。

帰宅した銕三郎は、まわりに人の気配がないことをたしかめ、宣雄に話すと、
「番方(ばんかた 武官系)できたわしに、役方(やくかた 行政官系)がつとまるとはおもえぬ」
宣雄は否定はしないで、勤務がきびしいことを匂わせた。

「それはそうでしょうが、番方から役方にまわられた衆は少なくありませぬ。げんに、京都西町ご奉行・太田播磨守正房(まさふさ 59歳 400石)さまも、わが家とおなじ両番の家筋です」
宣雄は、言っても仕方がないとおもったのであろう、太田正房は、実は分家・支家一門の多い水野の家系の五左衛門忠意(ただもと 享年35 500石)の次男で、太田家に養子に入り、そこのおんなを妻したことまでは、教えなかった。
女系のことをいうと、嫁・久栄(ひさえ 20歳)にも、奥どうように遇してきている銕三郎の母・(たえ 47歳)にも、余計なおもわくを与えることもばかったこと。

銕三郎は、そうした父の思慮にまではおもいがいたらない。
なおも、京師東町奉行・酒井丹波守忠高(ただたか 61歳 1000俵)も両番の家筋だから、父上が任命されても不思議はないと言いはる。
よほどにうれしかったのであろう。
ついでに口をすべらせた。
佐野の兄上は、老・若(老中・若年寄)方から、特別任務が密命されようとも---」

(てつ)。口が軽すぎるぞ。与八郎どのは、伊達に目付をなされてはおらぬ。そのような極秘の大事をお漏らしになるとはおもえぬ」
「あ。父上はご存じなのですね?」
「しらぬ。か、京の極秘のことといえば、だいたいのところは推測がつく」
「わかりました。詮索はいたしませぬ」
「もし、わしが京の町奉行に引き上げられたとしても、おそらく、に、手つだわせるわけにはいかない密事であろう。忘れよ」
「はい」
「そのこと、2度とふたたび、口にだしてはならぬ。久栄に話すことも禁じる」
「断じて---」

「話はかわるが、仮に、仮にだ、わしが京へ赴任することになったとして、久栄はどうするな?」
宣雄は、生後3ヶ月初女孫・於初(はつ)をかかえての道中を案じているのである。

「首がすわるまで、同道は無理かとおもいます」
「かわいそうだが、来春まで、留守番をしてもらうことになろうな」
「拙はお供をします」
「あたりまえだ」
これで、銕三郎は、父・宣雄の京都町奉行は、風説ではないことを確信した。

_360
_360_2
(京都西町奉行の前任・太田三郎兵衛正房の[個人譜])

| | コメント (0)

2009.07.11

佐野与八郎政親

佐野どのの長屋門ができあがったそうな。名代として、午後にでもお祝いをとどけてもらいたい」
銕三郎(てつさぶろう 27歳)が、父・宣雄(のぶお 54歳)に言いつかった。
(そういえば、佐野の兄上にも、4年ほどご無沙汰していたな)

参照】2008年11月7日~[西丸目付・佐野与八郎政親} () () (
2007年9月28日[『よしの冊子(ぞうし]) (27
2008年11月10日[宣雄の同僚・先手組頭] () () () () (

銕三郎は忘れている。
たしかに4年前、佐野政親から、銕三郎は、先手・鉄砲の組頭の誰かに、父・宣雄の役職である先手・弓の8番手の席が狙われていると教えられた。

_100その探索の行きがかりで、〔中畑(なかばたけ)〕のお(りょう 29歳=当時)と躰をあわせてしまった。(歌麿 お竜のイージ)
銕三郎は、おんなおとこ(女男)だったおの中へ入った初めての男となった。

参照】2008年11月17日[宣雄の同僚・先手組頭] (

につながる思い出が強烈だったせいか、銕三郎は、去年の春、茶問屋〔万屋〕源右衛門(げんうえもん 51歳)の頼みをきいて、農家が茶を喫することを禁じた古いお触書(ふれがき)を廃する手くだを伝授した行きかがかりで、田沼意次(おきつぐ 53歳=当時)の用人・三浦庄司と会った。

その1年前---明和7年(1770)だが、おとともに相良へ行き、ほとんど完成していた曲輪内堀の石垣を見、そのことを木挽町の中屋敷で意次に報告したときに、いつものように佐野与八郎も同席していた。

参照】2009年5月6日[相良城・曲輪内堀の石垣] (

参照】2009年6月1日[銕三郎、先祖返り] (

松造(まつぞう 21歳)に角樽をもたせて、永田馬場南横寺町の佐野与八郎政親(まさちか 41歳 1100石)の屋敷へ溜池にそって坂をのぼる。

_360_4
(永田町馬場近くの緑丸=佐野家)

あたりの大名屋敷は、さかんに建築の仕上がりがすすんでいる。
そんななか、佐野の屋敷は、長屋門を焼いただけで母屋は奇跡的に火をかぶらなかった。

1000石級の長屋門ともなると、門扉の板も乳房鉄(ちぶさがね)をあしらった堅固なものであった。

ちゅうすけ注】乳房鉄とは、女性の乳房と乳頭の形をした釘頭隠しの金具。

政親が下城したころをみはからっての訪問なので、書院へ通された。
父からの口上を述べると、政親は笑って、
「そう、気ばられずともよい。こたびの、付火人(つけびびと)の逮捕には、銕三郎どのの交誼がずいぶんと役だったそうですな」
「あ、〔愛宕下(あたごした)〕の元締のことまで、お耳に達しておりましたか」
「組頭どのが申されておりました。銕三郎どのの顔は、慮外なほどひろがっておるとな」
「恐れいります。怪我の功名です」

「ところで、柳営では、組頭どののこたびのお手柄で、遠国奉行へ栄転なさるげな噂が、ささやかれておることをご存じかな?」
「いいえ。父からはなにも---」
「京都あたりと、漏れきいております」
「京---」
「西町ご奉行あたり---」

「しかし、佐野の兄上。わが長谷川家は両番(書院番士と小姓組番士)の家柄ではありますが、祖父・宣尹(のぶただ 享年35歳)までは、だれひとり、役付までのぼった者はおりませぬ。父が小十人頭はおろか、先手の組頭まであがっただけで望外なこと---」
「これ。銕三郎どの。お父上の才腕を、低く見つもってはなりませぬ」
「しかし---」
「上つ方々は、もっと買っておられるのですぞ。それに---」
「それに---?」
「禁裏の役人たちの---」
「京のご所のお役人たちの---?」
「いや。これは、口をすべらすわけにはいかぬことでありました」

| | コメント (0)

2008.11.09

西丸目付・佐野与三郎政親(3)

「粗飯(そはん)だが、供餐(きょうさん)していってくだされ」
平蔵宣雄(のぶお 50歳 先手・弓組の8番手・組頭)が、西丸目付・佐野与三郎政親(まさちか 37歳 1100石)にすすめた。

(てつ)。ご相伴して、酒のお相手を---」
言われて、銕三郎(てつさぶろう 23歳)も、相席している。
このところ、銕三郎の酒の腕は、機会が重なっているので、ほどほどにあがってきている。

生鰹節(なまり)と野菜の煮たのに、茄子(なす)の丸煮、白瓜(しろうり)の塩もみ、冷奴が、膳にならんだ。
銕三郎は、ちろりをとって、佐野与八郎の杯に注ぎなから、
(はて---?)
と、不審におもった。

先刻、与八郎政親は、銕三郎と〔中畑(なかばたけ)〕のお(りょう 29歳)が、永代橋ぎわの居酒屋〔須賀〕で呑んでいるところを、徒(かち)目付の下働き(徒押 かちおし)が目にし、向島のおの住まいに看視がついたと言った。

参照】[西丸目付・佐野与三郎政親] (1)

徒目付は、目付の下支えをする者たちである。役高200俵。本丸に40人、佐野のいる西丸に24人。その者たちが使っている徒押はその倍以上の人員であるが、彼らの職務はお目見(みえ)から上の幕臣の理非の探索であって、よほどのことがないかぎり、町人にはおよばない。

とすると、おの住まいが見張られるはずはない。
(見張られているのは、おれ、なのだ、この銕三郎なのだ。しかし、お目見もすんでいないおれが、なぜに?)

銕三郎が、与八郎に酌をしながら、その顔に目を向けると、与八郎がうなづいた。

晩餐が終わり、与八郎が席を立つまえに、すかさず、銕三郎が、
与八郎お兄上。新大橋まで、お送りいたしましょう」
佐野与八郎の屋敷は、永田馬場南横寺町(今の霞ヶ関裏手)にある。

_360
(緑○=佐野家の屋敷 議事堂裏手 1000坪ほど)

さすがに初夏で、表は、暮れなずんでいた。
海からの風が涼気と潮の香をはこんでくる。

銕三郎が並ぶと、与八郎は供の者に、後(おく)れてくるように言いつけた。

「お兄上。先刻のご注意は、徒(かち)のお目付衆が、拙の行状をさぐっておられるからなのですね?」
「察しがついたか。さすがだ。長谷川どのに落ち度が見つからぬための、苦肉の策(て)であろう」
「なにゆえの、落ち度さがしでございますか?」
銕三郎どのも存じおろうが、先手の組頭は、番方(ばんかた 武官系)出世双六(すごろく)のあがりの地位といえる。あとは、資質のすぐれたご仁のみが、役方(やくかた 事務方 行政官)となって遠国(おんごく)奉行へ転出なさる」

「しかし、父上は、組頭におなりになって、まだ、足かけ3年でございます。次のご出世までは、うんと間が---」
「そうではない。長谷川どのは、弓の組頭。先手は、鉄砲(つつ)よりも弓のほうが格が上。鉄砲組のお頭で、弓の組頭への組替えを狙っておられる方がいても不思議はない」
「ということは、拙の不埒(ふらち)が、父上の足を引っぱることに?」
「たくらむものがいるやも---な」

ちゅうすけ注】こうなると、ちゅうすけとしても、銕三郎の注意をうながすためにも、目付に手をまわした、あってはならない醜業をおこないそうな仁さがしに、協力しないわけにはいくまい。
ま、どこの世界にもいつの時代にも、同僚をおしのけて出世したい輩(やから)がいて、不思議はない。とりわけ、鬼平のころの幕府では、家禄が固定した閉塞状態がつづいていたゆえ、役高(職務手当)をねらったり、地位をすこしでもあげたがる幕臣が、少なくはなかったともいえよう。
清いばかりの世界など、小説の中にしかない。

銕三郎が、おと睦んだり、おと親しくはなしたりしたことは、徒目付の下働きによって、松平定信への報告書『よしの冊子(ぞうし)』に、次のように書かれれてもいる。

参照】[『よしの冊子』] (20)←橙色の番号をクリック

長谷川平蔵は、かつて手のつけられない大どら(放蕩)ものだったので---

参照】2008年8月9日~[〔梅川〕の仲居・お松] (8) (9) 
2008年8月14日~[〔橘屋〕のお仲]  (1) (2) (3) (4) (5) (6)  (7) (8)
2008年9月7日~[〔中畑(なかばたけ)のお竜(りょう)](1) (2) (3) (4) (5)  (6) (7) (8)

| | コメント (0)

2008.11.08

西丸目付・佐野与八郎政親(2)

佐野与八郎政親(まさちか 37歳 1100石)が任じられていたのは西丸の目付だが、目付全版について、松平太郎『江戸時代制度の研究』(初版 大正8年 校訂版 柏書房 1964.6.30)から、現代語訳にして抜粋してみる。

第11章 監察の制として、[大目付。附闕所物奉行]、[目付]、[徒(かち)目付と歩押(かちおし)つき小人及中間目付]の節に分けて書かれている。
とりあえず、[目付]の節---。

目付も、大目付と同じく、監察の任につく。もっぱら、幕臣を統率している若年寄の耳目となって政事の得失を糾察し、諸役人の非曲を弾劾する。とはいえ、その干渉は、奥向きと万石以上の諸侯にはおよばない。
本務としているのは、評定所への出座、万石以下の急養子の当否の検察、そのほか非常の検視、殿中の巡察と詮議を本務とする。
定員は、吉宗の時代に10人と定められて以降、定着した。西丸は別に3~4人と、規模・勤務人数の割に密度が高い。

目付の分掌は、俗に役当(やくあたり)と言って、座敷番、供番、評定所番、名代番、学問所および医学館廻り、米廩および囚獄廻り、勘定奉行宅立会い、諸普請出来栄え見分などの管務がある。
役当は、目付部屋付きの坊主が、前日にあらかじめこれを調査し、次に順をおってその分当を決めるのである(意味がとれない)。

別に、勝手係(予算・出納か)、日記係、外国係、海防係、大船製造係、開港係(上の4係は幕末の新設)などがあった。これの任命は老中。

座敷番は、年始・八朔の殿中儀席を整え、あるいは老・若の大名、旗本に上命を申達するにあたって、座席についての習礼の予行に任じ、奏者番・進物番とともに儀式の任にあたる。
年頭・拝賀の儀礼は次第・進行や格式がややこしいから、もしちょっとでも手落ちがあると、式が混乱するので、この番の者の神経のつかい方はなみたいていのものではない。

供番は、紅葉山や東叡山。増上寺の定式の啓行をはじめ、鷹狩り、川船へのお成りなど随従して。、一向を監督する。定員は2名。
お成りに随従しているとき、雨天であれば駕籠者、小人、黒鍬者、中間などに濡れ手当てを給してやる。
この供番の目付は、評所所の評定が開かれる日は、3奉行(寺社・町・勘定)の裁断に陪席する。

評定番は、単に列席するだけでなく、目安箱の出納、誓詞人の差し引きなどをする(誓詞人の差し引きの意味不明)。

火の口番は、消防の看視をする。出火があれば、昼夜の別なく出行して臨検し、定火消し、町火消し、大名火消しなどの勤怠を視察し、努力抜群の者には褒賞を推薦する。
火災には、火の口番以外の非番目付も居宅から遠くなければ、かなら騎馬で出場し、火勢によっては当番目付に注進すること。

勝手係は、将軍家の会計の経理あるいは勘定所の出納について、だいたいの協定に参与する。

日記係は、殿中の日常の事件やそのほかを記録することになっているが、実際は目付部屋つきの坊主が記録したものを監督している。

諸局が呈出する願書・伺い書・建議書などの文書は、老中・若年寄などが、当番目付へ下附して目付部屋で評議させる。議案の趣旨によつては大目付の参加を求める。
機密にわたる事件などは、それについての意見書の草案を所属の徒(かち)目付に起草させ、当番目付が一覧・添削、捺印し、名下のものから順次回覧し、異存がなければこれに下札(さげふだ 付箋)をつけて奥祐筆へまわし、老中・若年寄へ返達するのがふつうの手順である。

目付は、その職が百僚の規範たるべき地位にあるので、挙措はつねに法や規則にかなうように務める。

本番と称する当直の目付の登城は、大手門から入ると矩折し、歩道の規矩にしたがって歩む。決して近道して斜め横断はしない。諸門の衛士の下座にも目もくれず、玄関にいたると帯刀のまま式台へのぼる。このとき、当番の徒目付・組頭ならびに加番は左右に列して迎え、城内の保安に異常がないことを報告する。
虎の間の徒士番所前をすぎ、紅葉の間の前で、咳をする。書院番士がここに詰めているからである。
こうして、目付部屋の入り口へきて、はじめて帯刀を外し、前日の当番と引き継ぎを行う。

目付は布衣(ほい)の格で、役高は1000石。したがって、佐野与八郎は、持高勤(もちたかづと)めである。

参照】2007年6月8日[布衣(ほい)の格式]

目付は、おおむね、使番から選抜されるが、補任の予選は、同僚の投票である。その結果を若年寄へ上申し、さらに老中の認可をへて、将軍の面前で下命される。
ときには、将軍から候補者の内意が老中・若年寄へ告げられることもあるが、筆頭がうけたまわって目付部屋で評議し、熟議のすえに否となったら、その旨を老中へ進達して阻止するできるが、ま、たいていは台命にしたがってきた。

席次は、先手頭の次で、使番の上(幕末に変更があつたが、佐野与八郎の当時はこのまま)。

西丸の目付は、地位・役高はこれに準じているから、佐野与八郎も同職の投票によって選抜されたとみる。

佐野与八郎の在任は、足かけ11年におよび、安永6年(1777)7月26日に堺奉行が発令された。遠国奉行の中では、長崎奉行に次ぐ要職である。もちろん、このうえには京都町奉行(東西2人)、大坂町奉行(東西2人)がある。

| | コメント (0)

2008.11.07

西丸目付・佐野与八郎政親

与八郎お兄上、久びさでした。おもしろいお話でもございますか?」
銕三郎(てつさぶろう 23歳 のちの鬼平)は、父・平蔵宣雄(のぶお 50歳)との打ち合わせが一段落したらしい書院へ顔をだし、客の佐野与八郎政親(まさちか 37歳 西丸・目付 1100石)へ、あいさつした。

ご記憶のいい方は、兄弟のいない銕三郎のために、兄代わりにと請うたのが、14年長の与八郎であったことを、覚えておられよう。

参照】2007年6月5日[佐野与八郎政親(まさちか)]
2007年9月28日[よしの冊子(ぞうし)] (27

去年の10月3日に西丸・小姓組番士から、目付に抜擢されてからは、役目がいそがしいのと、役目がら、ほかの幕臣との私的な交際はひかえるよう申しわたされているせいか、以前ほどには訪ねてこなくなっていた。

「おお、銕三郎どの。あるぞ。ありますぞ」

与三郎が話したのは、まず、側用人・田沼意次が、将軍・家治(いえはる 32歳)の声がかりで、所領の遠江国相良に城を築くことになったが、うわさでは、小さいながらも、その美しさは、鍬入れしたばかりで、もう、ささやかれているという、銕三郎も、すでに知っていることであった。

「そうそう。さるお役付き直臣の子息が、内室をむかえるというので、町方のおんなとのつづいていた縁を、無理矢理切ろうとしたところ、おんなが大川に身を投げての。まあ、行きあった舟に引き上げられて助かったが、そのことが徒歩目付の耳にはいり、いま、詮議の最中だ」
そう言って、与八郎は、もともと大きい目で、じっと銕三郎を見つめた。

与八郎お兄上。なぜにそのように、拙をご覧になりますか。拙には、無縁の出来事ではございませぬか」
「そうかの?」
「そうですとも---」
「永代橋ぎわのなんとやらいう居酒屋で、しばしば、大年増の美形と親しげに飲んでいる部屋住みがいると、お徒(かち)の下働き(徒押 かちおし)からご注進がきておっての、それで、長谷川どのに、大事にいたらないうちにと、伺った次第---」

その後、銕三郎が〔須賀〕で、〔中畑(なかばたけ)〕のお(りょう 29歳)と2度ばかり話しあったのが、徒(かち)目付の下働きの目にとまったか、告げ口をした者がいるらしい。
(おの美形が目立ちすぎるのだ)

「おどののことなら、ご心配にはおよびませぬ。あの者は、おんなおとこで、拙とは、そういう関係にはなりませぬ」
銕三郎は、なぜか、むきになって言い訳をした。
与八郎は、にやりと気味の悪い笑みをもらし、
「いや、大事に至らない前の、杖です」

与八郎お兄上は、お目付におなりになってから、人が悪くおなりになりました」
「これ、佐野どのに対して、なんという口のきき方をする---」
「いや、銕三郎どのが、これから、気をおつけになれば、よろしいのです。銕三郎どの。あの美形の大年増の隅田(すだ)村の家にも目が光っておるので、こころえおきを---」

(そうか。これは、与八郎兄上の、精一杯の好意であったのだ。さっそくに、おに言って、〔狐火(きつねび)〕に連絡(つなぎ)をつけ、あれたちの住まいを替えなければ---)

〔須賀〕でおに目をつけた下働きが、その帰りを尾行(つ)けて、あの家に行きついたのであろう。
(さて、だれに言伝(ことづ)けたものか。その者も尾行(つ)けられようから、滅多な者はつかえない)

ちゅうすけ注】佐野与八郎は、その後、堺の奉行、大坂の町奉行---と順当に出世をし、体調をくずして役をしりぞいてから、平蔵宣以鬼平)が火盗改メ・本役を勤めていた45歳のとき、59歳で助役(すけやく)としてともに盗賊追捕の職に働いたこともあるご仁なので、鬼平ファンなら、ご注目をつづけられたい。
もっとも、そのときは与八郎ではなく、従五位下・豊前守に受爵しており、格は鬼平よりも上であったが、つねに平蔵をたてていたと、史書なある。それだけでも、人柄がしのばれる。

参照】[よしの冊子(さっし)] (17) (18) 

B_360
B_360_2
(佐野家3代 政春・政隆・政親の家譜)

| | コメント (0)

2008.03.16

明和2年(1765)の銕三郎(その10)

「ご本家。まだ、よろしいのではありませんか?」
長谷川平蔵宣雄(のぶお 47歳 この日から先手・弓の8番手の組頭)が、本家の当主・太郎兵衛正直(まさなお 56歳 火盗改メ・本役)を引きとめた。
「それがの。奈未(なみ 正直のニ女)が松田(善右衛門勝美 かつよし 20歳)の許(もと)から帰ってきておっての---」
「それではお止めできせぬ。(さと 正直の内室)どの、奈未どのへよろしゅう---」

残った佐野与八郎政親(まさちか 34歳 使番)が、銕三郎(てつさぶろう)に訊いた。
「たしか、20歳(はたち)におなりでしたな?」
「はい」
長谷川さま。さきほど、ご本家のお言葉ではございませぬが、今日のようなおめでたい席で申すのもなんですが、それがしの例もございます、銕三郎どののお目見(みえ)を早くおすませになられたほうが---」
「それがでござる、佐野どの。こちらが気をもんでいるのに、銕(てつ)が、まだ、学問の下吟味がうけられぬと申しまして、逃げているのですよ」

「そのことは、手前からお話しいたします」
銕三郎は佐野与八郎とは心易い。
「このニ之橋通りへ屋敷替えいたしまして、鉄砲洲の黄鶴塾が遠くなったので、近くの学問塾を探しているのですが、これとおもえるところが、なかなか、見つからないのです」
「見つからないのではなくて、見つけないのでしょう」
与八郎も、銕三郎の本音(ほんね)を読んでいる。

銕三郎どの。父・与七郎政隆 まさたか)が42歳で身罷(みまか)りました元文4年(1739)には、それがしは8歳でした。父は享保元年(1716)のお目見以来ほとんど寝たり起きたりでした」

与八郎の打ち明け話を手際よくまとめると、次のようになる。
19歳でお目見をしたものの、病身のために正室が迎えられない。しかし、看病にきていたむすめが与八郎を孕んだ。

宣雄が言った。
「手前とおなじです。3年前に物故した亡父は、継嗣ではなく3男で、厄介者の身分でしたが、手前を孕ませました」

【参考】2006年11月8日[宣雄の実父・実母
2007年4月12日[寛政重修諸家譜](8)

与八郎の祖父・政春(まさはる)は、それがために駿府城代を早めに辞して江戸へ帰り、万が一に備えていた。 万が一は現実となり、8歳の与八郎が残されたが、その3年後には、祖父も65歳で歿する。
与八郎は幸い、その1年前、10歳でお目見をすませていたので、跡目相続もとどこおりなく受けつけら;れた。
銕三郎どの。お目見を済ませておくことは、幕臣たる者には、親孝行の一つと申せますぞ」
与八郎を兄とも敬っている銕三郎に、この一と言は、こたえた。

_360
(佐野家3代 与八郎はこの日の使番まで)

「巨細(こさい)を見れば、どの家にも、それぞれの事情があるということだな」
本多采女紀品(のりただ 53歳 先手・鉄砲(つつ)の16番手組頭)がのんびりした声で言い、座が一転してなごんだ。

【参考】2007年6月4日[佐野与八郎政信]
2007年6月7日[佐野与八郎政信](2)

| | コメント (0)

その他のカテゴリー

001長谷川平蔵 | 002長谷川平蔵の妻・久栄 | 003長谷川備中守宣雄 | 004長谷川平蔵の実母と義母 | 005長谷川宣雄の養女と園 | 006長谷川辰蔵 | 007長谷川正以 | 008長谷川宣尹 | 009長谷川太郎左衛門正直 | 010長谷川家の祖 | 011将軍・家斉 | 012松平定信 | 013京極備前守高久 | 014本多家 | 016三奉行 | 017幕閣 | 018先手組頭 | 019水谷伊勢守勝久 | 020田沼意次 | 021佐嶋忠介 | 031その他の与力 | 032火盗改メ | 041酒井祐助 | 042木村忠吾 | 043小柳安五郎 | 044沢田小平次 | 045竹内孫四郎 | 051佐々木新助 | 074〔相模〕の彦十 | 075その他の与力・同心 | 076その他の幕臣 | 078大橋与惣兵衛親英 | 079銕三郎とおんなたち | 080おまさ | 081岸井左馬之助 | 082井関録之助 | 083高杉銀平 | 088井上立泉 | 090田中城かかわり | 091堀帯刀秀隆 | 092松平左金吾 | 093森山源五郎 | 094佐野豊前守政親 | 095田中城代 | 096一橋治済 | 097宣雄・宣以の友人 | 098平蔵宣雄・宣以の同僚 | 099幕府組織の俗習 | 100盗賊一般 | 103宮城県 | 104秋田県 | 105山形県 | 106福島県 | 107茨城県 | 108栃木県 | 109群馬県 | 110埼玉県 | 111千葉県 | 112東京都 | 113神奈川県 | 114山梨県 | 115長野県 | 116新潟県 | 117冨山県 | 118石川県 | 119福井県 | 120岐阜県 | 121静岡県 | 122愛知県 | 123三重県 | 124滋賀県 | 125京都府 | 126大阪府 | 127兵庫県 | 128奈良県 | 129和歌山県 | 130鳥取県 | 131島根県 | 132岡山県 | 133広島県 | 136香川県 | 137愛媛県 | 139福岡県 | 140佐賀県 | 146不明 | 147このブログの盗賊 | 148〔からす山〕の松造 | 149お竜・お勝 | 150盗賊通り名検索あ行 | 151盗賊通り名検索か行 | 152盗賊通り名検索さ行 | 153盗賊通り名索引た・な行 | 154盗賊通り名検索は・ま行 | 155盗賊通り名検索や・ら・わ行 | 156〔五鉄〕 | 157〔笹や〕のお熊 | 158〔風速〕の権七 | 159〔耳より〕の紋次 | 160小説まわり・池波造語 | 161小説まわり・ロケーション | 162小説まわりの脇役 | 163『鬼平犯科帳』の名言 | 165『鬼平犯科帳』と池波さん | 169雪旦の江戸・広重の江戸 | 1716 | 172文庫 第2巻 | 173文庫 第3巻 | 174文庫 第4巻 | 175文庫 第5巻 | 176文庫 第6巻 | 177文庫 第7巻 | 178文庫 第8巻 | 195映画『鬼平犯科帳』 | 197剣客 | 199[鬼平クラス]リポート | 200ちゅうすけのひとり言 | 201池波さんの味 | 205池波さんの文学修行 | 208池波さんの周辺の人びと | 209長谷川 伸 | 211御仕置例類集 | 212寛政重修諸家譜 | 213江戸時代制度の研究 | 214武家諸法度 | 215甲子夜話 | 216平賀源内 | 217石谷備後守清昌 | 219参考図書 | 220目の愉悦 | 221よしの冊子