カテゴリー「092松平左金吾 」の記事

2007.11.21

堀切菖蒲園

『葛飾区の歴史』(名著出版 1979.1,10)を眺めていて、松平左金吾(さきんご)の名前がでてきたので、驚いた。

この松平家は、久松松平だから、家康の実母・於大に関係する。
於大 

尾張国知多郡の豪族・水野忠政のむすめで、徳川広忠に嫁いだが、広忠今川家と和を結んだため離縁、織田方の阿古居城主・久松俊勝と再婚し、3人の男児をもうけた。

今川家が滅亡後、家康織田信長と結び、実母に再会。長男・定勝を伏見城代に任じ、その次男・定行が勢州・桑名藩主(11万石)から伊予・松山藩主(15万石)へ転じ、弟・定継が桑名藩へ入った。
(一時、白河藩へ転封されたときに養子に入ったのが定信)。
定勝の四男・定実は、多病を理由に藩主を嫌ったので2000石の旗本となった。
この旗本となった(久松)松平の子孫に、松平左金吾定寅(さだとら)がいる。
松平左金吾定寅の家系

『葛飾区の歴史』から引用する。

堀切の花菖蒲は、室町時代に時の領主窪寺胤次(たねつぐ)の家臣、宮田将監が奥州安積(あづみ)沼から移植した「花かつみ」の変化したものだと伝えるが、名所として知られるようになったのは江戸中期の寛政三年(1791)堀切村の百姓伊左衛門父子がニ代にわたって花菖蒲に興味をもち、各方面から変わり花の品種を集め、自家の田圃を利用して栽培し、江戸市街へ切り花として売り出したのがはじめである。
中でも出入り先の本所割下水に住む旗本、万年録三郎や麻布桜田町の菖翁(しょうおう)こと松平左金吾という花菖蒲を好んだ五○○○石の旗本屋敷から「十二一重(じゅうにひとえ)」「立田川(たつたがわ)」「羽衣(はごろも)」などの珍しい品種を譲りうけ---。

_360
(広重 堀切の花菖蒲 『葛飾区史 上巻』

_360_2
(小林清親 堀切花菖蒲)

ここに書かれた松平左金吾が、長谷川平蔵宣以(のぶため)のいちぱんの政敵だった当人かどうか、5000石は2000石の誤記としても、時代がいささか合わないでもない。

平凡社『東京都の地名 日本歴史地名体系13 (2002.7.10)は、

当村で花菖蒲の栽培が本格化したのは一九世紀初頭といわれ、百姓伊左衛門(小高園の祖)が花菖蒲の愛好家である旗本松平左金吾(菖翁)から多くの品種をもらい受けて栽培をはかった。

左金吾定寅は、先手・弓の2番手組頭だった長谷川平蔵宣以が病死するや、先手・鉄砲の8番手組頭からすぐに後釜へすわって、平蔵が培った士風を一掃にかかった仁だが、一年後の寛政8年(1796)に逝っている。
ということは、『東京都の地名』のいう19世紀初頭にはおよばないのである。

『葛飾区の歴史』の記述の「寛政3年(1791)」だと、同年4月28日から翌4年5月11日まで火付盗賊改メとして、長谷川平蔵の相役を勤めている。
菖蒲の花期である。職務をおろそかにして、花に凝っていたのだろうか。


【参考】
松平左金吾定寅に言及している[よしの冊子(ぞうし)]
(2)  (3)  (4)  (6)  (8)  (9)  (10)  (11)  (13)  (14)  (15)  (17)  (30)  (32)  (36)


| | コメント (4)

2007.05.04

寛政重修諸家譜(21)

長谷川平蔵宣雄(のぶお)が、寛延元年(1748)閏10月某日に初出仕した西丸には、継嗣・竹千代(のちの第10代将軍・家治)のために、4組書院番が配置されている。

組衆は各組50名ずつ。各組には1000石格の(与)(くみがしら)がそれぞれ1名。
3番手の組(与)頭は、久松松平新次郎定為(さだため)。組(与)頭の地位について6年目。63歳。家禄1000石。屋敷は麻布一本松町(ただし、幕末の切絵図にはないから屋敷替えがあったか)。

指導番の氏名は記録されていないが、組内はもとより、ほかの3組への挨拶まわりに付き添ってくれたのは、組の中でも先輩格の指導番であった。
なにしろ、この日と翌日は、書院番・小姓組番など、17人が初出仕の挨拶まわりをするものだから、西丸の廊下は行きかいで混雑した。
挨拶まわりが数日間にわたるのは、書院番士も小姓組番士も1直(宿直つき)勤務だからである。
このとき、番入りの古い順の者から先に挨拶をするのがしきたり。順序を間違えるとあとでいじめられる。もちろん、そこは指導番がうまく手引きしてくれる。

さて、宣雄の組(与)頭となった松平新次郎定為。この家の一統の『寛政譜』を示す。

_360_2

当主の印である黒丸を、やや大きめにした3名が、長谷川家と縁(えにし)がある。
2列目の右は、権十郎宣尹(のぶただ)の番頭(ばんがしら)だった長門守定蔵(さだもち)。
同じ列の左は、火盗改メ時代の平蔵宣以とことごとに対抗した因縁の、左金吾定寅(さだとら)。
5列目は、初代・信濃守の3男が立てた分家で、3代目・新次郎定為

Photo_348

一覧用のA3判の『寛政譜』で見わたすまで、久松松平12家の中で、祖・定勝(さだかつ)の4男・定実(さだざね)が立てた1家のみと長谷川家が縁が深かったとは、想像もしていなかった。というのも、こちらの目が左金吾定寅に固定していたからだ。

新次郎定為にしても、40年もあとに、本家の従弟・左金吾定寅が、配下・宣雄の息・平蔵宣以と職務上の政敵(ライヴァル)になろうとは予想もしなかったろう。そもそも、当時、次男・定寅家督相続の目はなかったのだから。

穏健で、むしろ無能とおもえるほど人のよい組頭・新次郎定為だったが、すべてに折り目正しく、のみ込みは早いのに控えめで、発言はいつも最後に行い、それでいて人の気をそらすことのない穏和なまなざしをした宣雄には、ひそかに目をつけていた。
同輩たちからの敬意がたまったころをみはからって、指導番に推挙するつもりでいた。

120_15ついでだから、稲垣史生編『三田村鳶魚 武家事典』(青蛙房 1959.6.10 四版)から、[書院番(補)]を写す。笹間良彦『江戸幕府役職集成』(雄山閣)も、ほとんどこれの引き写しだから。

「戦時には小姓組と共に将軍(継嗣)を守るのが役目だが、平時は殿中(西丸)の要所を固め、儀式に際して小姓組と交替で将軍(継嗣)の給仕に当たった。
また将軍(継嗣)が外出する時は前後を護衛するので、重代の旗本中から先任するのがならわしである。
はじめ四組であったが、中頃から十組(うち4組が西丸詰)に増加し、各組とも(番頭と)組頭の下、番衆五十人が属していた。
その他各組に与力十騎、同心二十人が配された」

| | コメント (0)

2007.04.28

久松松平家と長谷川平蔵家の因縁

2007年4月21日[寛政譜(17)]に、辰蔵宣義(のぶのり)が幕府に上呈した[先祖書]の6代当主・権十郎宣尹(のぶただ)が病気から再起して、

延享四丁卯年(1747) 再御奉公 奉願同年
五月十二日 西丸小姓組 松平長門守え御番入
被命

と書き出していることを報告した。

この、西丸小姓の第1組の番頭の松平長門守定蔵(さだもち)については、2006年5月6日[脇ばし、2つ]にある程度のことを記している。

その後の、久松松平家と長谷川平蔵宣以(のぶため)との陰の確執を理解するためにも、久松系の松平定実(さだざね)から発する[寛政譜]を掲げる。

360_62
青○=長門守定蔵、緑○=左金吾定寅(さだとら)

久松松平一門の成り立ちの経緯については、2006年5月6日[松平左金吾の家系]にゆずり、重複を避けたい。

さて、青○=長門守定蔵と緑○=左金吾定寅の項をアップ(部分省略)。

360_63
属親をカットして2人は親子関係だけをクロースアップしている。

ここでは、権十郎宣尹と短い縁(えにし)がつながった長門守定蔵の項をさらに取り出して読めるようにしてみよう。

360_64

年譜をつくってみる。

元禄16年(1703)      生
享保 5年(1720)前後 18歳 松平家へ養子に入る
    6年(1721)   19歳 吉宗へ御目見
    7年(1722)   20歳 遺跡相続 寄合
   11年(1726)    24歳 中奥の御小姓として出仕
                   このころ婚儀、
                   内室は平野九左衛門長喜が養女
                   女(夭折)、男(28歳で歿)誕生
   17年(1732)    30歳 従五位下長門守に叙任
寛政 2年(1742)   40歳   定浄(さだもと のち左金吾)誕生
                    母親は杉本氏
延享 3年(1746)    44歳 西丸御小姓組の番頭
宝暦 1年(1751)   49歳 西丸御書院番番頭
    9年(1759)   56歳 大番の頭
    11年(1761)   58歳 致仕
明和  8年(1771)   68歳  歿
  
名家にふさわしい、順当な栄達であり、長谷川平蔵宣雄のあわただしい養子縁組を拒むような遺恨はまったくない。
次には、権十郎宣尹の直截の上司だった、小姓組組頭・牟礼清左衛門葛貞(かつさだ)を検分してみたい。
    
ご興味のある鬼平ファンは、『鬼平犯科帳』にはその名がでていないが、史実では平蔵宣以の強烈なライヴァルだった松平(久松)左金吾定寅のあれこれを、この画面の右サイドバー[カテゴリー]欄 [092 松平左金吾定寅]をクリックして補習。

| | コメント (0)

2006.09.22

松平左金吾と連名で

火盗改メ時代の長谷川平蔵の実記録はないものかと、乏しい書架を眺めていて、最上段に『市中取締類集』(東京大学史料編纂所)が8冊あるのに気づいた。
脚立に乗らないと取りだせない高さなので、これまで、横着をきめこんでいた。

写真でご覧のように、1,2の函が赤茶けている。奥付を確かめた。
Photo_205

    初版        復刻       定価
1.  1959.03.30              1,000
2.   1960.03.30              1,000

3.   1961.03.30    1999.09.30   12,000
4.   1962.03.30    1999.09.30   12,000
5.   1965.03.25    1999.10.20   12,000
6.   1966.03.30     1999.10.20   12,000
7.   1967.03.30    1999.10.20   12,000
8.   1969.03.25    1999.10.20   12,000

わかった。1,2は、卒業して勤めたS電機時代に、H堂のKさん経由で、無理して購入したもの。
2が刊行された時点で転職し、H堂との縁がきれた。

30余年後、収入も、まあ、安定したので、12倍に値上がりしていた復刻本を補充したのだ。
復刻は、もとができているから、1回に4冊ずつ。買うほうは大出費。

手にとって目次を確認していて、3.で長谷川平蔵の名が目に入った。
開くと、なんと、松平左金吾定寅との連名の伺書で、これまで、どの平蔵本でも目にしたことのないもの。
日付は天明8年11月19日---平蔵が火盗改メの本役、左金吾が平蔵の監視役を買って出て助役になって翌月。
Photo_206

内容は、『よしの冊子(ぞうし)』で、老中・定信方の隠密が、さも、左金吾の提案らしく報告しているもの。
「なんだ、平蔵の発議だったんではないか」

要するに---、

捕らえた盗賊を翌日、火盗改メの役宅に連行すべく、町内の自身番所にとどめておくと、食事をさせたり警備の人数をふやしたりと物入りも多くて難儀だし、万一出火でもあったらあれこれ手続きが大変だから、夜、どんなに遅くなってもかまうことはないから、役宅へ連行するようにしたい。
ただし、真夜中だと町方にとっても難儀ということもあろう、そのときは、その旨を願いでて、翌朝連行してくればいい。

これに関連したことは、この9月19日[平蔵の練達の人あしらい]に書いていたはず。

また、HP[『鬼平犯科帳』の彩色『江戸名所図絵』]の[現代語訳 よしの冊子]の第6回にも紹介している。

| | コメント (4)

2006.05.17

松平左金吾の大言壮語癖

冬場の火盗改メ・加役を志願した松平(久松)左金吾定寅に対する、宰相・松平(久松)定信派の隠密たちの追従の報告書はつづく。


一. 長谷川平蔵は追従上手だが、学問のほうはダメのよし。左金
  吾どのと対等にやりあえるほど弁が立つとは思えない。議論
  で左金吾どのに太刀打ちできるはずがない。
   殿中でいいあったという噂もあるが、なんのなんの、一ト口
   もいいかえせることではない。
   まあ、初日から頭巾と笠のことでいいあったようだが、あれ
   でいい納めだろう。
   なんとしてもかなうはずはない。長谷川平蔵が左金吾どのへ
  伺いを立てて勤めるという噂すらあるようだ。

隠密たちは、もっぱら、左金吾派のところへ行って取材している。そのほうが、定信の配下で隠密たちを束ねている水野為永が喜ぶからである。

水野為永は、先手組与力の息子で、定信より7歳年長だが、学問ができるというので、定信の勉学の友として伺候した。
そして、保守・家柄派、アンチ田沼の輿望をになって定信が老中首座に任じられたその日から、内閣調査室長の役をみずからに課したのである。隠密たちの報告書にすべて目を通した上で、定信へあげた。

一. 左金吾が殿中で話すことには、このごろ、天下に学者は一人
   もいない。武術者もこれまたいない。
  歌詠みも天下に一人もいない。歌を詠むなら武者小路実陰
  卿のように詠むのがよろしい。
  そのほかの歌は歌ではない。
  拙者の娘も先年歌を詠むことになったので、実陰卿のよう
  に詠まないのなら無用だといって辞めさせたことだ。
  これを聞いた者が、最初から実陰卿のように詠めるものでは
  ない、というと、最初から実陰卿のように詠めないでは役に
  立たない、といい放ったよし。
  かつまた、絵描も天下に一人もいない。いま栄川(泉)など
  が上手といわれているが、あれは絵ではない、墨をちょっと
  つけて山だといい帆と見せるような絵は、ほんとうの絵では
  ない。
  絵はものの形をしたためるものだから、舟の帆は帆らしく、
  山は山らしく見えるように描いたものがほんとうの絵である。
  法印でごさる、法眼でござると、名称だけは立派でも、
  ほんとうの絵が描ける者は天が下に一人もいない、といい
  放ったよし。
  その席に山本伊予守もいたが、言葉に困って一言も発言し
  なかったよし。伊予守は奥の御絵掛である。

山本伊予守(茂孫もちざね。38歳。1,000石)Iは、堀帯刀の後任で、先手弓の1番手の組頭(長谷川平蔵は弓の2番手の組頭)。

『鬼平犯科帳』では、京極備前守に命じられて、四谷・坂町の長谷川組の組屋敷の警護をしている。伊予守の組の組屋敷は牛込の山伏町である。そんなところから、わざわざ四谷・坂町まで出向かなくても、坂町のまわりには、先手の数組の組屋敷があった。備前侯は、それらの組に命じればよかったものを、この点では、ぬかった。

先手組頭たちの江戸城の詰め所---ツツジの間での、左金吾の大言壮語を許したのは、彼が宰相・定信と同じ久松松平の一族で、ことあるたびに、「定信どのに申し上げたいことがあったら拙者に申されよ。取り次いで進ぜる」といっていたからである。

| | コメント (0)

2006.05.16

松平左金吾の暴言と見栄

天明8年(1788)年10月2日に、火盗改メの本役になった長谷川平蔵宣以を追っかける形で、同月6日に、冬場の火盗改メ・助役(すけやく)の肩書きを得た松平左金吾帝寅が、さっそくに放言したことを、宰相・定信派の隠密が『よしの冊子(ぞうし)』に書きとめている。

一. これまで、放火犯または盗賊を吟味するために逮捕している
  のは、はなはだよろしくない。火附盗賊をしない前に逮捕して
  こそ加役の第一の心得といえる。
  将軍のお膝元に火附盗賊がいるなどということははなはだ悪
  いことだから、そのような者をいないように、その前から手をう
  っておくのが加役のご奉公というもの。
  まず、それについては江戸中の無宿がはなはだ悪者である、
  これを残らず召し捕り首を切ってしまえ、とまではいわないが、
  せめて(水替人夫として)佐渡送りにすべきだ。
  田沼以来、とりわけ無宿人がのさばり、丹後縞などを着てい
  る者までいるというではないか。

これは、もう、暴言というべきであろう。

まず、放火犯、盗人を、事前に逮捕するべきだ---といっているが、放火犯や盗賊が、その行為をする以前に、どうして「やる」と見極めるのだ?
そんな見極めができるのは、神さまだけであろう。

また、将軍のお膝元に、そういう犯罪者がいるのはおかしい---というが、仮に、江戸から放出できたとしても、そこはやはり日本国内である。来られた藩は迷惑千万。

左金吾の頭の中には、たぶん、宰相・定信の考え方---無宿人は犯罪予備軍---が染みついていたのであろう。
だから、無宿人を佐渡ヶ島へ鉱夫として送りこめ、という。
犯罪を犯していな者を、金鉱の穴掘り人にしてしまえ---とは、法治国家の上に立つ者のいうことではない。

当時、佐渡金山の水替人夫の死亡率は極端に高くて、送られて半年もしないうちにたいてい病衰弱死したという。
佐渡送りになったのは、掏摸の現行犯が主であった。そこで掏摸は、捕り方に元髪(もとどり)をつかまれても、すぽんと抜けて、逃げおうせるように、元髪をかつらにしていたと。

将軍のお膝もとへ、凶作と飢饉のために、田畑を捨てた農民が無宿人となって集まったのは、大都会なら、なんとか露命がしのげると考えるのが、古今東西の例だからである。

その無宿人対策として、のちに、平蔵が、授産施設である人足寄場を提案し、石川島にそれを建設してもいる。
左金吾の暴論をいいっぱなしとくらべると、月とすっぽんほどの違いといえよう。

丹後縞うんぬんにいたっては、もう、この仁の情報の収集と判断の仕方は、幕臣としては「処置なし」というほかない。
無宿人の痛みがまるでわかっていないし、自分の目で見たものでもないものを、判断の基にしているのだから。

その点、平蔵は、人足寄場を無宿人の更生施設として考えている。

一. 左金吾は麻の上下の小紋、衣類の小紋など、みなおも高(沢
  潟 おもだかの葉を図案化したもの)の小紋のよし。
  目立つほどの大きな小紋のよし。
  これは拙者の替紋だといっているよし。

下々の暮らしぶりには目をつむり、自分の虚栄のみをみたしているだけのことではないか。

注:陣幕、裃、高張提灯などにつける定紋(表紋)に対し、私物などにつける紋を替紋という。

| | コメント (0)

2006.05.14

松平左金吾のその後

寛保2年(1742)生まれの松平左金吾(当初は金次郎)は、延享3年(1746)に庶子として生まれた長谷川平蔵(当初は銕三郎)より4歳年長である。
したがって、先手弓の2番手の組頭へ横すべりしてきたのは54歳であった。歿した平蔵は50歳。

着任してきた左金吾は、気ぜわしく、与力・同心に、密偵たちとの縁を絶つように厳達し、密偵のリストを提出するように命じた。
絶てといわれた与力・同心たちは、当初は腹の中で笑っていた。火盗改メの職を免じられれば、密偵たちに密偵仕事をいいつけることはなくなるのだから、あとは単に知友として付き合っていけばいいとおもっていた。

しかし、リストを出せといわれると、ことは面倒になる。密偵たちが旧悪をあばかれて処刑されるかもしれない。
そこで、弓の2番手の与力・同心---『鬼平犯科帳』の佐嶋忠介、小柳安五郎たちは、ひそかに談合して、3,4人連名で1人の密偵の名をあげ、その密偵には、なるべく早く江戸を離れ、時をおいてふただび江戸へもどってくるようにいいふくめ、そうとうな路銀を渡して、対処した。

だから、ほとんどの密偵たちは、公けの場へ現れることなく、闇の世界へ消えた。
もちろん、左金吾グループも幕府の隠密を使って長谷川組の密偵を探したが、徒労に帰したみたいだ。

弓の2番手の与力・同心たちへの面従腹背の態度は、左金吾も気づいてはいたが、どうなるものでもない。何人かの与力や同心を買収しよう試みたが、うくまくいかない。

毎日うっとうしい気分でいたために、左金吾はもともと奇矯なふるまいの人であったのが、気欝が嵩じて、出仕もままならなくなった。

翌寛政8年8月27日の『続徳川実紀』は、
「先手弓の頭松平左金吾定寅病免して寄合となる。」
と記している。

97927
『続徳川実紀』寛政8年9月27日の項

先手の組頭は34人いる。2人や3人、長く病欠しても、泰平時にはどうってことはない。それなのに病気免職願を出したということは、すでに歿したか、再起不能の病状であったとおもえる。
事実、9月14日には公式に喪を発している(公式に喪を発したということは、寄合の辞席願も受理された後とみていい)。
享年55。

このあと、不思議なことが先手弓の2番手組におきた。

左金吾の後任の組頭は、家禄1500石の加藤玄蕃(げんば)則陳(のりのぶ)であった。着任時56歳。小十人頭からの栄転である。
寛政9年10月9日に、火盗改メ・冬場の助役(すけやく)として、玄番が発令されたのである。

長谷川平蔵の残影の強い弓の2番手には、二度と再び火盗改メをさせないというのが、松平左金吾の方針であった。しかるに、左金吾が歿して1年後に組が火盗改メに従事するとは---。

ぼくは、これをワナと観ずる。
というのは、ひそかに温存していた与力・同心たちと密偵たちとの糸を、それみたことかとあからさまにするワナだったのではないかと。
ワナは2度、しかけられた。

| | コメント (0)

2006.05.13

平蔵色の一掃とは---

長谷川平蔵がまだ死の床にある寛政7年(1795)5月8日、まるで、早く薨じてしまえといわんばかりの拙速で、平蔵が組頭だった先手弓の2番手の組頭へ横すべりしてきたのが、松平定信とは同族の松平左金吾であった。

左金吾は横すべりした、と書いたのは、7年前、1500石格の先手組頭の座に、2000石の家禄の左金吾が降格の形でついていたからである。彼がいたのは、先手鉄砲(つつ)の10番手の組頭。そこから、弓の2番手へ移った。格は、弓のほうが鉄砲組の上である。

左金吾が、いそいでやろうとした平蔵色の一掃とは、佐嶋忠介や酒井祐助、木村忠吾らと、五郎蔵、おまさ、粂八、彦十といった密偵たちとの接触を絶つことであった。
すなわち、長谷川組の実績に貢献の大きかった五郎蔵やおまさに代表される密偵たちをお払い箱にすることであった。

証拠はある。
松平定信や左金吾と通じていて、平蔵の政敵の一人でもあった森山源五郎孝盛のエッセイ『蛋(あま)の焼藻(たくも)』に、火盗改メとしての自分のやり方は王道、密偵を使って実績をあげた平蔵のやり方は覇道---と京極備前守高久が評したと記している。
つまり、平蔵は、幕府が禁じている密偵を駆使して実績をあげたにすぎない、違法の結果の功績である、と攻撃したわけ。

源五郎は、つねに平蔵をライパル視していて、左金吾が弓の2番手の組頭になった同じ日---5月8日 に、平蔵は二度と立ちあがれまいからと、火盗改メ代行の辞令を受けている。
そして、平蔵が息を引きとるや、予定していたように、たちまち、正式の火盗改メに任じられた。
もちろん、先手の組が違うから、佐嶋忠介や酒井祐助は、当然、任を解かれたのたである。

保守・家柄派による平蔵包囲網は、着々と設営されていった。

| | コメント (2)

2006.05.12

平蔵の後釜に座る

門閥尊重の保守派のシンボル・松平定信の意を帯した同族の松平左金吾定寅が、能力派の長谷川平蔵を徹底的に看視したなによりの証拠を示すために、一気に、平蔵の死へ飛ぶ(いじめぬいた6年間のことは、おいおい明かす予定)。

寛政7年(1795)4月、平蔵は病床についた。そして、5月10日に薨じたことは、菩提寺の戒行寺の霊位簿に記されている。

『続徳川実紀』が5月16日の項に、
「先手弓頭長谷川平蔵宣以病により捕盗の事ゆるされ。久々勤務により金三枚。時ふくニ賞賜あり」
と記しているのは、辞職願を受領されたのがこの日だからである。

95516_1
『続徳川実紀』寛政7年5月16日の項

嫡男・辰蔵が呈した「先祖書」は、5月14日に、
「大病に相い成り候につき、同役月番の彦坂九兵衛、岩本石見守をもって、御加役御免願いたてまつり候ところ、同月十六日召されにつき、右石見守登城つかまつり候ところ、願いのとおり御免、且つこれまでの出精相勤め候につき、御褒美として金三枚時服、御祐筆部屋縁頬にて、戸田采女正これを伝う。
同月十九日卒」
とある。

すなわち、10日の死を秘し、公式には辞職願の受領後に喪を発したための『続実記』の記述である。

まあ、そういうことは、公の手続きだから、どうでもいい。

憤慨に堪えないのは、平蔵の息がまだある5月8日、『柳営補任』が、先手弓の2番手の組頭に松平左金吾が発令されたと記していることである。
つまり、平蔵色の一掃を策したわけである。

平蔵が掌握していた先手弓の2番手は、先に記したように、平蔵着任前の50年間に144か月ももっとも長く火盗改メの任をこなした経験豊富な与力・同心たちがいる組で、平蔵の下で、さらに88か月も経験を重ねた、最強の部隊である。

ところが、この組の組頭へ転じてきた左金吾は、弓の2番手に、二度と火盗改メの任をもたらさなかった。私情優先、公益無視のとんでもない処置である。
こういうことを平気でやった松平定信一派を、なんと、呼べばいいのであろう。

| | コメント (0)

2006.05.11

陣笠か、頭巾か

長谷川平蔵と松平左金吾の最初の鞘当てを、『よしの冊子(ぞうし)』は、こう報告している。

一. 左金吾が加役を仰せつかった当日、殿中で長谷川平蔵がいう
には、
「火事場へ出張るときは陣笠。頭巾はだめ。そのようにお心得あれ」
と。
「それは公儀よりのきまりでござるか」
聞き返す左金吾。
「いや、そうではなく、本役加役の申し合わせでござる」
「それなら、拙者は頭巾をかぶります。公儀よりの掟として文書
になっているのでならば頭巾であれ陣笠であれかぶりましょう。
が、仲間うちの申し合わせということなら、自分の好きでよろしい
ではござらぬか。ことに拙者は馬が苦手なので、落馬しても頭巾
ならば怪我がくない」
これには平蔵も、
「ご勝手に」
というしかなかったよし。

左金吾が「加役を仰せつかった当日」といえば、天明8年(1788)10月6日であろう。
登城して拝命した形をいちおうはとり、ツツジの間へ下がってきて、平蔵のそばへより、
「拙者、加役を仰せつかまつった。ま、ともどもに励もう。ついては、聞き申すが、火事場への出張りには、陣笠か、それとも頭巾かな?」

これは、「ああいえば、こう答えよう、こういえば、ああ返事しよう」と、はなから仕掛けた質問である。
火盗改メのお頭の出張りは、問いただすまでもなく、陣笠にきまっている。火事場も戦場の一種だからである。

それを、先手の組頭たちが聞き耳をたてているところで、ことさらに聞いたのである。
言葉づかいも、先役に対するような控えめないい方ではなかった。

「馬が苦手」とは、いいもいったり---左金吾は、ひどい痔疾で、馬に乗れなかった。なにが、落馬のときにケガが軽くてすむ---だ。

(私事だが、きょう、これから、朝日カルチャーセンター(新宿・住友ビル7F)で、『御宿かわせみ』の第1回を講じなければならないので、この稿は、短くても、ご容赦いただきたい)。

| | コメント (1)

2006.05.10

唯我独尊ぶり

松平左金吾が、火事の多い冬場だけの火盗改メ・助役(すけやく)の席を強引にもぎとった天明8年(1788)年10月上旬の、隠密たちの報告書---。

一. これまで加役に就任した当座は、張り切って捕物をしたもの
  だが、ことしの加役はめったに捕物をしないので、かえって
  気味が悪いと悪党どもも用心しているよし。

隠密たちが悪党を取材するはずはない。
「悪党どもも用心している」との言葉は、左金吾側の強弁としか受け取れない。いうところのご用報告文。

だいたい、長谷川平蔵が着任した先手・弓の2番手は、平蔵がくる前の50年間(600カ月)に144カ月と火盗改メを経験、34組の先手組の中でもっとも経験豊富な組である。
対するに、左金吾が配された先手・鉄砲(つつ)の8番手は、同じく50年間に就いた火盗改メの経験はわずか9カ月。これでは、捜査方法もなにも、蓄積がないにひとしい。

にもかかわらず、左金吾は意気軒昂。

一. 左金吾は先手の同役約30人の組頭の前でいうことに、

  「拙者、このたび加役を仰せつかった。せんだっての加役の
  勤めぶりはよろしくなく、いろいろと了見違いもあったから、
  その方が改めるようにといいつかった」

「せんだっての加役」とは、天明7年9月から翌春まで、本役・堀 帯刀を助(す)けて火盗改メ・助役を務めた長谷川平蔵を暗に非難しているのである。
事情をしっている先手組頭の中には、横をむいてしまったのもいたろう。

一. 松平左金吾が先手を仰せつけられたとき、師匠番は松平庄右
  衛門(親遂ちかつぐ。天明6年から7年まで弓組頭。930石)
  のよし。
  庄右衛門が左金吾へ、

  「早々のお礼廻りとして、先手筆頭ならびに師匠番へはぜひ
  お廻りになるように」

  と教えたところ、

  「いや、拙者はそうはしない。あなたはいまは引退なさってい
  る。引退なさっている方のところはあとまわしでよい、
  現職の方々が優先だ、引退のお方はいちばん後にまわれば
  よい」

  といってのけたので、庄右衛門は、「それはそれは---」と絶
句して引きさがったよし。

庄右衛門は能見(のみ)松平の支流。祖は世良田二郎三郎信光の八男。こちらも、松平姓の中では名門である。

| | コメント (1)

2006.05.09

『よしの冊子』の左金吾

『よしの冊子(ぞうし)』は、松平定信家で、門外不出とされてきた、隠密たちの報告書である。

長谷川平蔵の火盗改メ時代に書かれたものだから、同時代の記録として珍重すべきだが、いかんせん、当初は、定信方の色眼鏡の色が濃すぎる。

天明8年10月末と推定できる報告書。
一. 左金吾の組の同心は30名いるのに、うち11名が病気と称
して出仕してこないので、こんなありさまでは、せっかくお
役についたのに、欠勤者が多くて他の組から人を借りてこな
ければならない。
  これはあまりに外聞が悪い。
  で、30人全員の家族状況を書きださせてたみたら、11名
  の者は家族数が多いから、出勤しないのは貧窮のためだ
   ろうと見てとって、11名に3両ずつ支度金を渡したよし。
  そうしたらたちまち11名が出勤してきたよし。
  手当をお出しになっても、よくもまあ、全員出勤の実をおあ
  げになったと評判上々のよし。

前に記したように、松平左金吾差定寅の屋敷は、麻布・桜田町である。
火盗改メの組頭は、自宅を役宅にあてる。

なお、左金吾が組頭に就任したのは、鉄砲(つつ)組き8番手である。与力5人(ふつうは、与力10人)、同心30人。
組屋敷は、四谷左門横町 (現:新宿区左門町)である。左金吾の邸宅まで、徒歩20分か。
(切絵図は、尾張屋板、近江屋板とも、「先手組屋敷」と一括しないで、ここと長谷川組の目白台のみ、個人割りにしている。理由は不明)。

同じころの報告書。
一. 松平左金吾が加役中は役料を40人扶持ずつ下されているが
日々五ツ(8時)前に出勤してきた与力同心へは、宅より弁
当を持参するにおよばず、と炊き出しをして食事をあてがわれ
  て いるよし。
  五ツ過ぎに出勤してきた者へは振る舞われないとか。お役
  についていらっしゃる間は物入りが多いのに、こんなお心
  遣いまされては、いよいよ大変。まあ、ご本家がいいから
  家計のほうは大丈夫とはいえるが。 ずつ下されているが
  を持参するにおよばず、と炊き出しをして食事をあてがわ
  れているよし。
  五ツ過ぎに出勤してきた者へは振る舞われないとか。お役
  についていらっしゃる間は物入りが多いのに、こんなお心遣
  いまでされては、いよいよ大変。
  まあ、ご本家がいいから家計のほうは大丈夫とはいえるが。

火盗改メの組頭の役手当の1日40人扶持---1人扶持は玄米5合。その40倍だから、2斗。1升100文とすると2000文---2分(1両は、平時は4000文。この頃は銭の価値が下がって6000文前後。
この役手当で、収監した犯人の飯代も、与力同心の宿直の茶代も、新しく雇った小者の給金も、仮牢の施設費もまかなう。
与力の火盗改メ手当ては、1日20人扶持)。

一. 左金吾はつねづね革柄の大小をさしておられるよし。加役
  (火盗改メ・助役)を仰せつけられて登城された日も革柄だ
   ったよし。

なんとも、子どもっぽい見栄っぱり。大人げない。

一. 松平左金吾は加役につくと、家来を江戸中の自身番へ差し向
  け、

  「加役中に左金吾の配下の者と名乗り、町家々々でもし飲食
  物をねだったり、金銭を無心した者がいたら、召し捕って連行
  してくるように」

  との触れを置き、五人組の印形をとって帰ったよし。江戸中へ
  これほどにするからには一大決心の上だろう、と噂しているよ
  し。
  先達てまでは本役加役の配下の者が自身番へ来たら、小菊の
  鼻紙、国府の煙草、中抜きの草履を差し出すのが常識だった。
  そのための費用が1町内で月に5、6貫(1両ちょっと)かかって
  いたよし。
  いまのようなご時世になり、こんなこともだんだんにやんできたの
  で、町内は大悦びのよし。

とはいえ、先手組の同心を、役宅まで連行するほど度胸のある町(ちょう)役人がいるだろうか。
あまりにも見えすいた触れのようにおもえるが。

ま、着任早々の気がまえとしては、けっこう、けっこうといっておく。
メッキはやがて、はげる。

| | コメント (0)

2006.05.08

脇ばなし、2つ

対長谷川平蔵とは無縁とおもえる脇ばなしを2つ、記す。

その1。
左金吾が脇腹の産まれであることはすでに記した。
実父---すなわち、当家の5代目・定蔵(さだもち)について書きとめておく。

この人は、4代目・定相(さだすけ)の実子ではない。養子である。しかも、不自然な形での養子である。
定相には、男子が2人いたが、最初の子は幼くして歿した。
2番目の子は、定蔵を迎えるためであろうか、養子に出された。
定蔵は、姫路・15万石、酒井雅輔楽頭(うたのかみ)忠恭(ただずみ)の家老・松平次郎左衛門定員(さだかず)の4男である。
輻輳をおそれずに記すと、定員は松平家の3代目---定相の父---のニ弟で、酒井家の家老に転出したご仁。
その子・定蔵は、定相には従弟あたる。

酒井家が謀略家であることは、池波さんの直木賞受賞作『錯乱』にも描かれている。
家老の4男を、ゆかりの濃い久松松平へ押しこむぐらいのことは、以上の経緯からすればなんでもなかったろう。
また、、定蔵が長門守と、当家で初めてなんとかの守を受爵したのも、酒井大老の配慮であろう。

おかしいのは、『徳川実紀』である。

71126b
『徳川実紀』明和8年12月6日 左金吾が家督した日の記録。

定蔵は、明和8年(1771)9月26日に歿し、左金吾の家督相続は12月6日に「父死て家つぐ者15人」の一人として「松平長門守が子織部定寅」と、自慢げにつけた呼称「左金吾」を無視している。左金吾、30歳。
後世における、左金吾の人気の悪さを想像していい扱い方といえるかな。

その2。
家督すべき嫡男・定栄(さだなが)が28歳で病死し、脇腹に生まれた定寅(家督前は定虎)が家を継ぐべく、御目見したことは、この月6日に『実紀』を引いて既述した。
定栄の死は、宝暦2年8月20日で、妻はいない。つまり、未婚のまま薨じた。長いあいだの闘病だったと推察する。
同年の3月ごろには、余命いくばくもなしと、医師が告げたのかもしれない。
急遽、定寅の御目見の手続きがとられた。
じっさいの御目見は、5月23日であった。まだ息を引きとってはいなかった定栄は、殿中へ出かける定寅を、どういう気持ちで病床から見送ったろう。

| | コメント (0)

対抗意識むきだし

長谷川平蔵の政敵---松平左金吾が、老中首座・松平定信派の隠密の報告書『よしの冊子(ぞうし)』に顔をだすのは、天明8年(1788)10月6日に火盗改メ・助役(すけやく)を発令されて---というより、定信を説きふせて強引にその席を手に入れてすぐである。

一. 松平左金吾は加役を仰せつけられたのはいいことだと、人び
   とがいっているよし。左金吾殿は、去年の米屋打ち壊しの騒
   動のとき、鎗をもって市中を巡回された人だと噂されているよ
   し。

(注:ここでいう「加役」は、先手組頭が兼任する火盗改メ全般を指す場合と、火事の多い冬場に発令されるもう一人の火盗改メ---「助役(すけやく)」を指す場合がある。『鬼平犯科帳』では、この「助役」にまったく触れない)。

88106b
『徳川実紀』天明8年10月2日と6日の項

報告書をあげたのは、小人目付、徒(かち)目付といったきわめて身分の低い、したがって、どちらかというと器量の小さい、つまり、人物を小さくしか見ない者たちとおもってよかろう。

最初のうちは、政変によって為政者の座についた門閥派たちの気に入るように、アンチ田沼派を取材してまわる傾向がいちじるしかった。

平蔵と左金吾が火盗改メとなった10日後ごろの報告書。

一. 殿中にて長谷川平蔵、松平左金吾と御役筋について大いにい
  い争ったもよう。どちらもきかぬ気の人だから、負けずにいいあ
  ったらしい。
  どちらもきかぬ気の人だから、負けずにいいあったらしい。

殿中でのことを、いったい、だれが隠密に洩らしたか。
先手組頭が詰める部屋はツツジの間である。そこで、2人がやりあったのを見物した組頭のだれかが、おもしろがって隠密に話したのであろうか。

その組頭は、どちらかというと、やり手の平蔵をやっかんでいた者であろう。ひそかに、左金吾へ声援をおくっていたものと推察する。


一. 加役を申しつけられたその日から犯人逮捕に働くのがこれま
  では普通だったが、左金吾は急には諸事の打ち合わせも終
  わらない、4、5日過ぎてから捕らえはじめよう、無理に捕ら
  えることもないのだ、といっているよし。これまでの加役とは
  流儀が異なっている。
  長谷川は一体に毒のある人のよし。左金吾は毒のないと噂
  されている。

これの発信源も、前掲と同様、アンチ平蔵グループの組頭である。

| | コメント (0)

2006.05.07

奇矯の仁・左金吾定寅

めったなことでは、ぼくは、歴史上の人物にニックネームをつけない。
それほど、史実に通じてはいないから。

ところが、松平左金吾定寅ドノには、躊躇することなく、〔寛政のドンキホーテ〕なる綽名をたてまつったのである。
それは、次のエピソードを読んだからだ。

天明6年(1786)5月19日から江戸の町に発生した打ちこわし騒動については、長谷川平蔵の項ですでに2回触れた。
https://app.cocolog-nifty.com/t/app/weblog/post?__mode=edit_entry&id=11384062&blog_id=75545
https://app.cocolog-nifty.com/t/app/weblog/post?__mode=edit_entry&id=11366989&blog_id=75545

この年、左金吾46歳。住まいは江戸西北のはずれの麻布桜田町。
この仁、都心で米商を弾劾する暴徒が発生したと知るや、鑓の鞘をはらって自邸の門内を昼夜巡邏したばかりか、近隣の幕臣の屋敷のある街路をも巡視したというのである。

暴徒が襲っているのは、売り惜しみをしている米商や、貧乏人がふだんから不満を抱いている質屋や冨商である。どんな暴徒が大身幕臣や大名屋敷を襲うというのか。
情報不足によるおもいこみの所作を、江戸のドンキホーテに見立てた。46歳の一張前の武士がすることとはとてもおもえなかった。

しかも左金吾どのは、その節のふる舞いを後年、テレもせずに、他人へ吹聴しているのである。だからエピソードが記録となって残った。

こういうトンチンカンな思考に対し、為政の立場にある人たちは、家柄は家柄として、敬して遠ざける策をとった。
一度だけ、火事場見廻りという軽い役をふったが、これも1年半でそうそうにお役ご免とし、あとは無役のまま放っておいた。

ところが、養子とはいえ一族の松平定信が老中首座に就いたから、「わがとき至れり」とばかりに運動開始。
すなわち、「田沼派といえる長谷川平蔵を火盗改メ・本役に据えるのであれば、拙が相役となって、きやつめを看視しよう」と、定信に申し出た。

家柄派の定信一統とすれば、田沼色一掃は役方(やくかた 行政担当)にかぎり、仕置きにかかわりの薄い番方(ばんかた 武官系)は無視することにしていたのだ。

ちょっとやそっとで、他人の言を聞く仁ではないから、定信一統としても、「まあ、仕置き(政治)に深く関係する職務ではなし、好きにやらせておこう」と、異例の発令をした。
すなわち、火盗改メは先手組頭から選ばれるのがしきたりだから、左金吾を火盗改メ・助役(すけやく)に発令するには、まず、先手組頭に据えないといけない。

困ったことに、先手組頭は1500石格、左金吾の家は事情ありの2000石。下手をすると降格視されかねない。

そのことを左金吾へ質すと、「やむをえぬ。お仕置きを正すためには、あえて身を沈めよう」
どこまでも、芝居がかりだ。

つぶやき:
まあ、8000坪の屋敷を擁しているから、火盗改メに任じられても、仮牢や白洲を設けるには困るまい。

| | コメント (0)

2006.05.06

松平左金吾定寅の家系

永禄3年(1560)、家康(19歳)は、2歳のときに生別した実母で織田方の久松俊勝に再嫁していた於大と、尾張国智多郡阿古居の城で再会した。

異父弟の三郎四郎( 9歳)、源三郎( 9歳)、三郎四郎( 1歳)を紹介され、「自分は兄弟に恵まれなかった。今後はおん身たちを弟として遇する」と約した。

この年の5月、今川義元が桶狭間で信長に討たれ、家康は信長と同盟を結ぶ。

3弟のうちで、もっとも家康の信任を得たのが三郎四郎、のちに伏見城代となった松平定勝で、次男・定行がその領国の桑名藩(11万石)を継いだのち、伊予松山(15万石)へ封じられた。

定行の弟・定継はのちに桑名藩に入り、7代定賢のときに越後・高田から陸奥・白河藩へ移った。
この白河藩のときに、三卿の一、田安家から養子となったのが定信である。この策謀に荷担したのが田沼意次と、定信は終生、意次を敵視することになった。
たしかに、養子に入っていなければ、家斉に代って定信が将軍になる目もなかったとはいえない。

定勝の四男・定実(さだざね)は、伊勢・長嶋(7000石)の命がきたとき、多病のため任に堪えられずと謝辞、2000石の寄合席となった。左金吾定寅はその6代目で、寛保2年(1742)の生まれだから、長谷川平蔵より4歳年長である。

母は杉本氏とあるから、とうぜん正腹ではない。
正室が産んだ嫡男・定栄(さだなが)が宝暦2年(1752)に28歳で歿したために、急遽のお目見となった。24歳であった。

65512b
『徳川実紀』巻10 明和2年5月12日


それまでの冷や飯時代の修養のほどは不明だが、その後のいささか奇矯ともいえないこともない言動から推察するに、正しい過程の習得を軽視としてすごしたのではなかろうかと危惧する。

46歳のとき、白河藩主の定信が30歳で老中首座となるや、名門・久松松平の一員であることに目覚めたかのように、にわかに政治づいた。

つぶやき:
左金吾定寅の墓は、品川の東海寺の墓域に、久松松平の一員らしく、広い霊地を擁している。
2代目定之から以来の菩提所である。
しかし、近年、墓参が途絶えているのか、寒々としているようにおもった。

Photo_9
久松松平左金吾家の霊域

Photo_8
左金吾の墓石

| | コメント (0)

2006.05.05

たかが十手---の割り切り

テレビの『鬼平犯科帳』は、中村吉右衛門丈を得たことにより、女性視聴者をも引きつける魅力的な番組となった。原作の上質さとともに、知的時代劇の評はとうぜん。

とはいえ、そ視聴率は平均して15パーセント前後。関東エリアの視聴率1パーセントは50万人とも100万人相当ともいわれるから、知的ぶってばかりはいられない。

その一つが、与力同心たちが終盤近くに十手を振りかざしての乱闘、血闘の捕物劇。もちろん平蔵の剣さばきもあざやかな殺陣(たて)も見せ場だが。

黄門番組の「これが目に入らぬか!」の葵の紋入り印籠のデモりと似た爽快感を期待してのテレビ、といってしまえばそれまでだが、困ったことに史実の長谷川平蔵は配下の与力同心たちへ、「十手は腰のものと同じとこころえ、みだりに抜くことのないように」と申しわたしていた。

「これから先、十手で人を殺(あや)めたなどと耳にしたら、それなりの処分を申しつける」
とも。

で、長谷川組はよくよく手にあまったときでなければ十手を抜かなくなった。

火盗改メの拷問の激しさには定評があるが、平蔵はこれもしないと宣言した。
「拷問などしなくても、おれが訊けばすらすらと白状するよ」

これも盗人世界への伝播をねらった広言と見る。じっさい、どうせ捕まるなら拷問のない長谷川組に---と、自首同然の形で縛についた者も少なくないのだ。

護送中に縄抜けして逃げた盗人がいた。1か月以内に再逮捕できなかったら、当事者の同心は責任をとらなければというところへ、くだんの盗人が自首してきて、
「いや、もう、この20日間、きょう見つかるか、あす捕らえられかと生きた心地がしませんでした。自首してホッとしています。これが縄抜けしたときのお縄です」
と捕縄をさしだした。

十手の話では、平蔵の監視役の形で火盗改メ・助役(すけやく)をしていた松平左金吾(2000石)の組下与力が十手を盗まれた。左金吾は大いに怒り、「お上へ届けなければ…」と先任の平蔵へ相談。、平蔵は高笑して、

「バカも休みやすみにおっしゃられい。気をつけていても十手以上のもを盗まれることだってある。深傷(ふかで)を負わされたというなら届けずばなるまいが、たかが十手一本ごとき、そう四角四面に考えずとも…」

これを伝え聞いた左金吾組の与力は、できることなら長谷川組へ配転してほしいと思った。もっとも、男を下げた左金吾は一層、平蔵を憎んだが。

つぶやき:
長谷川平蔵の直接の政敵が、この松平左金吾である。松平は松平でも、家康を産んだ於大の方を母に持つ、いわゆる異父兄弟にあたる久松松平だから、格が高い。
平蔵が火盗改メのお頭の頃の老中首座・定信もこの久松松平の白河藩主。で、左金吾とは従兄弟同士。だから、平蔵が火盗改メに任命されると、左金吾はただちに火盗改メ・助役となって平蔵を看視。

Photo_5
近江屋板 松平左金吾邸

松平左金吾は、先祖がゆえあって2000石の幕臣の道を選んだが、屋敷は麻布・桜田に8000坪と、小大名並みの敷地。現在はその一部が中国大使館と麻布消防署となっている。

切絵図は上が西。左金吾邸から右へ100メートル行くと六本木ヒルズ・ビル。

| | コメント (1)

その他のカテゴリー

001長谷川平蔵 | 002長谷川平蔵の妻・久栄 | 003長谷川備中守宣雄 | 004長谷川平蔵の実母と義母 | 005長谷川宣雄の養女と園 | 006長谷川辰蔵 | 007長谷川正以 | 008長谷川宣尹 | 010長谷川家の祖 | 011将軍・家斉 | 012松平定信 | 013京極備前守高久 | 014本多家 | 016三奉行 | 017幕閣 | 018先手組頭 | 019水谷伊勢守勝久 | 020田沼意次 | 021佐嶋忠介 | 032火盗改メ | 041酒井祐助 | 042木村忠吾 | 043小柳安五郎 | 044沢田小平次 | 045竹内孫四郎 | 051佐々木新助 | 081岸井左馬之助 | 088井上立泉 | 090田中城主 | 091堀帯刀秀隆 | 092松平左金吾 | 093森山源五郎 | 094佐野豊前守政親 | 095田中城代 | 096一橋治済 | 098平蔵宣雄の同僚 | 099幕府組織の俗習 | 100盗賊一般 | 103宮城県 | 104秋田県 | 105山形県 | 106福島県 | 107茨城県 | 108栃木県 | 109群馬県 | 110埼玉県 | 111千葉県 | 112東京都 | 113神奈川県 | 114山梨県 | 115長野県 | 116新潟県 | 117冨山県 | 118石川県 | 119福井県 | 120岐阜県 | 121静岡県 | 122愛知県 | 123三重県 | 124滋賀県 | 125京都府 | 126大阪府 | 127兵庫県 | 128奈良県 | 129和歌山県 | 130鳥取県 | 131島根県 | 132岡山県 | 133広島県 | 136香川県 | 137愛媛県 | 139福岡県 | 140佐賀県 | 146不明 | 150盗賊通り名検索あ行 | 151盗賊通り名検索か行 | 152盗賊通り名検索さ行 | 153盗賊通り名索引た・な行 | 154盗賊通り名検索は・ま行 | 155盗賊通り名検索や・ら・わ行 | 160小説まわり・池波造語 | 161小説まわり・ロケーション | 162小説まわりの脇役 | 163『鬼平犯科帳』の名言 | 165『鬼平犯科帳』と池波さん | 169雪旦の江戸・広重の江戸 | 171文庫 第1巻 | 172文庫 第2巻 | 173文庫 第3巻 | 174文庫 第4巻 | 175文庫 第5巻 | 176文庫 第6巻 | 177文庫 第7巻 | 178文庫 第8巻 | 195映画『鬼平犯科帳』 | 200ちゅうすけのひとり言 | 201池波さんの味 | 205池波さんの文学修行 | 208池波さんの周辺の人びと | 209長谷川 伸 | 211御仕置例類集 | 212寛政重修諸家譜 | 213江戸時代制度の研究 | 214武家諸法度 | 215甲子夜話 | 216平賀源内 | 217石谷備後守清昌 | 219参考図書 | 220目の愉悦 | 221よしの冊子