カテゴリー「018先手組頭」の記事

2008.03.18

明和2年(1765)の銕三郎(その11)

長谷川どの。いい屋敷が手に入りましたな。さすが---と感じいっております」
本多采女紀品(のりただ 52歳 先手・鉄砲(つつ)の16番手の組頭)が褒めた。
長谷川平蔵宣雄(のぶお 47歳 この日から先手・弓の8番手の組頭)が恐縮する。
「いや、その節は、本多どのからもお知恵をいただきながら、小普請組支配の有馬采女則雄(のりお)さまへもお願いにあがらずじまいで---」

参考】有馬采女則雄のことの経緯は、2008年3月1日[南本所三ッ目へ] (8)

「なんの、なんの。おかかわりを持たれずにすんで、かえってよろしゅうござった」
田沼主殿頭意次 おきつぐ 47歳 遠州・相良藩主)さまのご用人・三浦どのの肝いりをいただきまして---」
「いよいよ、長谷川どのにも、火盗改メのご用命がくだりますな」
「とんでもございませぬ。本家はともかく、わが家は、そのような家系ではございませぬゆえ」
宣雄が生真面目な表情で否定するのを、銕三郎(てつさぶろう 20歳 のちの小説の鬼平)が不服げに見守っている。

「いや、そうではござらぬよ、長谷川どの。いまの先手の組頭で、火盗改メに任じられた顔ぶれをごろうじろ」

弓・5番手
 笹本靱負佐忠省(ただみ)    54歳  2年  500俵
  火盗改拝命 宝暦13年(1763)2月16日  (52歳)
       免   同          5月14日      
       拝命 宝暦13年(1963)11月26日 (52歳)
       免   明和 元年(1764)4月6日
       拝命 明和元年 (1764)9月7日  (53歳)
       免   同  2年 (1765)5月24日

【参考】笹本靱負佐忠省については、[本多采女紀品] (,2) (3) (5) (6) (7)


弓・7番手 
 長谷川太郎兵衛正直(まさなお)56歳  2年  1450石
  火盗改メ拝命 宝暦13年(1763)10月13日 (54歳)
        免   明和 元年(1764)5月4日
        拝命 明和 2年(1764)4月1日   (56歳)

鉄砲・10番手
 酒井善左衛門忠高(ただたか)  54歳   5年 1000俵
   火盗改メ拝命 宝暦11年(1761)9月27日 (50歳)
        免   同  12年(1762)閏4月4日

鉄砲・16番手
 本多采女紀品(のりただ)      52歳   4年 2000石
   火盗改メ拝命 宝暦12年(1762)12月12日 (49歳)
        免   同 13年(1763) 5月14日

  *()内の年齢は、発令年のもの。

「ご覧のように、50歳代の先手・組頭にまわってくる役目とお覚悟めされい」
本多紀品の言葉に、銕三郎の目が一瞬、かがやいた。
しかし、平蔵宣雄はあくまで冷静に、
「50歳代の組頭の方々と申せば、弓では、どの、桜井どのもおられます」
「堀信明(のぶあきら)どのは、家禄が1500石で、役高がつかないことを理由に、避ける工作をしておられるらしい。桜井以勝(よりかつ)どのは、病身で、いつ辞表が出てもおかしくないありまさ---」

参考】弓組の組頭のリストは、2008年3月9日[ちゅうすけのひとり言] (8)

「鉄砲のほうにも、雨宮どの、諏訪どの、竹中どの、松前どの、浅井どの---などもいらっしゃいますれば---」

参考】鉄砲組の組頭のリストは、2008年3月10日[ちゅうすけのひとり言]  (9)

長谷川どの。若年寄でもない拙が、用命するわけではござらぬ。おこころしておかれよ---と申しているだけです」
本多どののように、与力10騎、同心50人という組なれば、火盗改メの職務もつつがなくこなせましょうが、なにしろ、わが組は、与力5騎、同心30人なので---」
「愚痴は、若年寄筋か、田沼さまへ申されよ」
これで、笑いとなった。

ちゅうすけ注】その後、鉄砲の21番手の浅井小右衛門元武(もとたけ)、23番手の曲渕隼人景忠(かげただ)も拝命し、本多紀品も2度目の用命を受けた。

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2008.03.15

明和2年(1765)の銕三郎(その9)

「鉄砲(つつ)組には、古郡(ふるこおり)孫大夫年庸(としつね)どののような、歴史学者や埼玉県の教育委員会を喜ばすような仁がいてよろしいな。残念ながら、弓組には---」
こんなことを、弓の7番手の長谷川太郎兵衛正直(まさなお 56歳 1450石余)が口に出すはずはない。
言ったのは、こうである。

本多采女紀品 のりただ)どの。鉄砲組は、20組中8人の組頭が70歳をこえておられると慨嘆なされたが、うっかり、弓組も、お一人漏らしておりましたよ」

4番手
 牟礼清左衛門葛貞(かつさだ) 71歳  9年   800石

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(牟礼清左衛門葛貞の個人譜)

今川家ゆかりの集まりでも、いつも、部屋の隅で静かに、みなの話すことを聞いておられるだけなので、つい、忘れてしまうのです」
「そういえば、躑躅(つつじ)の間でも、たえて、お声を聞いたことがありませぬな」
本多紀品(53歳 鉄砲の16番手組頭 2000石)が応じる。
牟礼(むれい)さまは、今川出身でございましたか?」
佐野与八郎政親(まさちか 34歳 使番 1100石)も言葉をはさんだ。

家系譜には、今川に属していたときには駿河の蒲原(かんばら)の城代をずっと勤めていたとある。
義元・氏真(うじざね)が滅んだのちには、織田右府(うふ 信長)に仕え、その後、徳川家康の傘下に入った。
蒲原という地勢からいって、どうして、じかに家康に結びつかなかったのか、そのあたりの動きが不明である。

ちゅうすけ注】『延喜式』牟礼神(むれのかみ)が所出しており、摂津国島下郡、伊勢国多気郡の牟礼神社があるらしい。 『旧高旧領取調帳』の信濃国水内郡(みうちこおり)に牟礼(むれ)村(現・長野県上水内郡飯綱町牟礼)が記録されているが、今川系牟礼(むれい)家とは直接にはつながるまい。
むしろ、牟礼家は、同じく今川家に仕えていて、のちに徳川に属した岩瀬家とのえにしが深い。幕臣・岩瀬の分家の一つの主が、古郡家のむすめを娶っているのも、なにかの因縁を感じる。夫・氏長(うじなが)は失心して長男を斬殺し、自裁をしているのだが。
葛貞岩瀬の出ではなく、牟礼家から出て大久保加賀守忠方(ただまさ 小田原藩主 11万3000石)の家臣となっていた、牟礼九右衛門正賀(まさよし)の息で、25歳で幕臣・牟礼家の養子に入った。
先祖が、織田右府から徳川に付いたとき、大久保忠世の組へ入れられたのかもしれない。

「先祖が、今川滅亡ののち、織田右府さまを経てから葵(とくがわ)の陣営に転じたことも、清右衛門葛貞どのが肩身を狭くしておられるのでありましょうか?」
これは銕三郎(てつさぶろう 20歳 のちの平蔵宣以=小説の鬼平)の問いであった。
「いや。胃の腑に持病があって、いつもそのことを気に病んでおられると、ふと、うけたまわったことがある」
答えたあと、太郎兵衛正直は、
「やや。五ッ(午後8時をすぎてしまった。おもわずの長居、(たえ)どのに、いかい迷惑をおかけした」

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2008.03.14

ちゅうすけのひとり言(10)

父・長谷川平蔵宣雄(のぶお 47歳)が、先手・弓の8番手の組頭に抜擢された明和2年(1765)4月---。

同じ先手ではあるが、鉄砲(つつ)のほうの15番手の組頭に、82歳になる古郡(ふるこおり)孫大夫年庸(としつね)という篤実で切れ者がいた。
『寛政重修諸家譜』から[個人譜]をつくって読んでいるうちに、驚くべき文言(もんげん)に目がとまった。

(享保)十五年(1930)十二月三日父年明(としあきら)致仕するのときにおさめられし新墾田十が一現米三百ニ十石余の地を年庸にたまひ、永く所務すべきむねおほせを蒙る。

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(新墾田分の返還を受けたことを記した古郡年庸の個人譜)

あらためて、『寛政譜』を開く。
小野朝臣の流れらしく、小野一門の中に、古郡家が1家だけある。

太田亮博士『姓氏家系辞書』(秋田書店 1974 12.15)には、
 武蔵【春日氏族、横山党】となっている。
一族のうち、古郡村に住んでいた者がいるにちがいない---と見当をつけて、グーグルの[旧高旧領]に、「古郡」といれてみる。

武蔵には1ヶ所---那賀郡(なかこおり)古郡(ふるこおり)   岩鼻郡

旧高旧領取調帳 関東篇』(近藤出版社 1969.9.1)の那賀郡をみる。
秋山、小平、円良田、猪俣、甘粕、古那(古郡の誤植か?)、駒衣などの村々が並んでいる。
古郡はない。

ふたたび、勘で、グーグルに、[古郡 埼玉県]。
出てきた。埼玉県 児玉郡 美里町 古郡。
まだ、合併・市化していないらしい。

郵便番号帳』で確認すると、甘粕も、駒衣も、古郡も、いまも存在している。
グーグルの地図だと、八高線「松久」駅の北東。
八高線の先に「寄居」駅が---。

_100記憶がある。
池波さんの旅のエッセイ集『よい匂いのする一夜』(講談社文庫)の〔京亭〕だ。
こんなふうに書き出されていた。

三年ほど前に、甲賀の忍びの者を主人公にした新聞連載小説を書いたとき、前半の背景を武州(埼玉県)の鉢形(はちかた)城にしようとおもい、泊りがけで、城址を見にでかけた。
その小説の一節を、抜き書きにしてみよう。
 埼玉県の北西部にある寄居(よりい)町は、秩父(ちちぶ)市の北東に位置している。
 奥秩父の山脈(やまなみ)を水源とする荒川が、秩父市の長瀞(ながとろ)を流れてきて、その川幅が大きくひろがるあたりに寄居町はある。
 駅前から南へ通ずる通りの両側は、美しい柳の並木だ。
 この通りを十五分も行くと、荒川に架(か)かる正喜橋のたもとへ出る---。

「はて、どの甲賀忍者ものだったっけ?」
書庫の文庫棚で、甲賀ものをめくりはじめる。
「いかん!」
寄居に寄り道をしている場合ではない。
小説の題名は、このブログを読んだ池波ファンが教示してくださるだろう。
いまは、古郡孫大夫に専念するときだ。

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(古郡家の〔『寛政譜』)

上段・緑○が年庸。その右の●がついているのが、徳川家康の麾下に入ってからの三代目当主・文右衛門年明である。家譜に記された、父・年明の記録を読んでみた。

元禄五年(1692)駿河国の支配所を転ぜらるるにより、祖父重政がとき賜ふところめの新墾田の十が一を収めらる。

要するに、初代の祖父・庄右衛門重政(しげまさ)が、駿河のどこかの代官をしていたときに、富士郡加嶋で新しく6500余石を開墾した功績で、その(5割の公収分にあたる)10分の1相当の現米320余を年々下賜されていたのを、取りやめられたわけである。
(富士郡加嶋もしらべねば---)

理由は明らかでない。重政の代官としての家禄は廩米50俵ほどであったらしいから、この320俵の下賜は大きかった。
家禄は100俵になってはいたが、その5O余年後に取り消されるのは、あまりにも痛手が大きい。察するに、文右衛門年明は、代官として不手際があったか、80歳という老齢が原因だったか。

継嗣・孫大夫年庸は、身を粉にして篤実に勤めながら、たびたび請願していた10分の1---320余石を36年後に首尾よく取り戻したのである。まずは、めでたい。

長谷川平蔵関連を仔細に調べていると、こういう幸運に出会う。
古郡家などという、幕臣の端っぽほどの人物は、ふつうは、だれも目もくれまい。だぶん、美里町教育委員会も見のがしているであろう人物である。

ところが、ライトをあててみると、徳川初期には、代官が新田を、たぶん自費で開墾すると、その10分の1にあたるものを、ある年数、給付する制度があったらしいこと。
また、その権利は、50年ほどで消滅することもあったらしいこと。
さらには、その復活のありえたこと。

また、徳川初期の代官の家禄が50俵程度の仁もいたらしいこと。
つまり、あとは、才覚で管理をまかされている村々からしぼりとれ---ということだったのかもしれない。

小説的には、古郡孫大夫年庸の悲願みたいなものも感じとれる。
いやあ、おもしろ---くないですか?

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2008.03.13

明和2年(1765)の銕三郎(その8)

「なにか、おもしろい話でもありましたかな」
そう言いながら席についたのは、本多采女紀品(のりただ 52歳 先手・鉄砲(つつ)の16番手組頭)だった。
佐野与八郎政親(まさちか 34歳 使番)とつれだっていた。
平蔵宣雄(のぶお 47歳)への祝辞をすますと、銕三郎(てつさぶろう 20歳)の酌をうける。

「いや。お祝いの場にふさわしからぬ話題になりましてな。先手も、宣(せん 宣雄)どののような若手にどんどん入れ替えないと---。弓は、10組のうち、70歳をこえた組頭が3人もおいででな」
と長谷川太郎兵衛正直(まさなお 56歳 火盗改メ・本役)
「なに。鉄砲のほうはもっと老けております。大きな声でいえないが、20組のうち、8人の組頭が70歳をこえておられましてな。率からいうと弓の倍以上です。いざ、戦(いくさ)となったときがおもいやられますよ」
(弓も加えての通し番手。鉄砲組だけだと10を差し引く。年齢は明和2年(1765) 次の数字は先手組頭になってから明和2年までの在職年数)

11番手 
 寺嶋又四郎尚包(なおかね)  77歳   8年  300俵 

12番手
 織田権大夫正幸(まさゆき)  79歳   10年  500石

13番手
 井出助次郎正興(まさおき)  76歳     6年  300俵

16番手
 鈴木市左衛門之房(ゆきふさ)  70歳   12年  450石

19番手
 阿部十郎左衛門正氏(まさうじ) 87歳   11年  200俵

25番手
 古郡孫大夫年庸(としつね)   82歳   11年  320石

28番手
 市岡左兵衛正軌(まさのり)    72歳   10年  500石

30番手
 福王忠左衛門信近(のぶちか)  73歳  12年  200俵

佐野政親が口をはさんだ。
「仕事に精通しているからといって、親が長くお勤めをつづけますと、わが家のように、継嗣の父に先立たれ、孫のそれがしが家督するような変則がふえます」
与八郎は、11歳の時に、祖父から家督している。

11_360
(寺嶋又四郎尚包の個人譜)

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(織田権大夫正幸の個人譜)

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(井出助次郎正興の個人譜)

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(鈴木市左衛門之房の個人譜)

19_360_2
(阿部十郎左衛門正氏の個人譜)

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(古郡孫大夫年庸の個人譜)

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(市岡左兵衛正軌の個人譜)

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(福王忠左衛門信近の個人譜)

ちゅうすけ注】8名の個人譜を読んでいて、「父に先立つ」も目についたが、それよりも、古郡孫大夫年庸のところで、「大発見!」と叫びたいような記述を見つけた。
「新墾田十が一現米三百二十石余の地を年庸にたまひ---」がそれである。詳しくは。明日。

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2008.03.12

明和2年(1765)の銕三郎(その7)

「ご本家の大伯父上さま」
銕三郎(てつさぶろう のちの平蔵宣以 のぶため=小説の鬼平)が、本家の当主・長谷川太郎兵衛正直(まさなお 56歳 火盗改メ・本役)に呼びかけた。
奥田山城さまと、瀬名さまは同い年の75歳でございます。奥田さまは従(じゅ)五位下(げ)と授爵もなされており、瀬名さまよりも上席のはずなのに、長老は瀬名さま、次老が奥田さまというのが、合点がまいりませぬ」

たしかに、リストを見ると、奥田山城守は弓の2番手の組頭だし、瀬名孫助は10番手でもある。
先手組の総揃えで1番手から並んだとしても、奥田山城のほうが上にきそうなものである。

2番手
 奥田山城守忠祗(ただまさ)  75歳   2年  300俵

10番手
 瀬名孫助貞栄(さだよし)    75歳   3年  200俵

「奥田山城どのが先手の組頭になられたのは、2年前の宝暦13年(1763)7月21日、対する瀬名貞栄どのは3年前の宝暦12年(1762)12月15日に拝命されておられる。
組頭衆の順位は、拝命した年月の早い人順ということが不文律になっている。いや、お上もそういう秩序でよろしいとお考えである。したがって、半年早く役に就かれた瀬名さまが長老、奥田さまは次老---というわけじゃ」
そう言ってから、太郎兵衛正直はにやりと頬をゆるめ、一と言つけくわえた。
「ほかの役職での順位は、拝命順だが、先手組頭だけには、その上に、もう一つ、べつの順位が働く---」
「なんでございますか?」
「火盗改メは、最上位につく」
「すると、大伯父さまが最上位ということでございますか?」
「そうじゃ。わしは偉いのだぞ」
「へへえッ。お頭(かしら)さま」
銕三郎が大げさにに平伏したので、大笑いとなった。

ちゅうすけ は、瀬名奥田の長老、次老に加え、三老で1番手の組頭・松平源五郎乗道も含めての70歳代の組頭について、史料により、べつの感慨を持った。

1番手
 松平源五郎乗通(のりみち)  73歳  12年  300俵 


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(瀬名孫助貞栄の「個人譜」)

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(奥田山城守忠祗の「個人譜」)

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(松平源五郎乗通の「個人譜」)

いずれも、家禄が廩米300俵(知行地300石に相当)、200俵(同200石に相当)と低いから、一度手にした役高の1500石は手放しがたかろうという想像である。

瀬名貞栄は、この翌年の明和3年2月29日に公式に喪を発するまで、職を辞していない。在職は足かけ5年。行年76歳。

奥田山城守は、このあと、安永2年(1773)正月まで通算で11年間を先手組頭、さらに別の職務をこなして寛政8年(1796)正月に93歳で歿するまで現役。

松平(滝脇)乗通は、明和7(1770)年まで足かけ17年間弓の1番手の組頭でありつづけた。そして職を辞したのが78歳。行年82歳。

先手の弓組の3人だけで判断してはいけないが、徳川の中期をすぎると、役職者の老齢化が問題とならなかったろうか。
もっとも、いまの高級官僚たちが、次の職、その次の職と渡っていくのも、徳川時代の習慣を受け継いでいるのであろうか。

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2008.03.11

明和2年(1765)の銕三郎(その6)

南本所・ニ之橋通りの長谷川邸の書院---平蔵宣雄(のぶお 47歳)が先手・弓の8番手の組頭を発令された夕刻である。
本家の当主・太郎兵衛正直(まさなお 56歳)が祝辞を兼ねて、挨拶まわりの作法を伝授しにきている。
正直は、2年前から、弓の7番手の組頭を勤めていた。

「若年寄どのの上屋敷へは、明日にでもお礼に参上することだ。献上品はかつお節を3本ずつ。ととのえるのは、日本橋瀬戸物町の〔かねにんべん〕こと、伊勢屋伊兵衛方で、背筋2本に腹筋1本と指定して箱詰めにすること。
くれぐれも薩州産はさけ、土州ものか紀州ものと指定するのを忘れるでない」
太郎兵衛の注意はゆきとどいている。

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(屋標=かねにんべんの〔伊勢屋〕 間口は24間(44m)もあった)

銕三郎(てつさぶろう)が口をはさんだ。
「大伯父上さま。どうして薩州ものをさけるのでございますか?」
「おお、そのことよ。関ヶ原以来の暗黙のことでな」
「薩摩沖のかつおは早獲れで若すぎるのかと存じておりましたが、関ヶ原でしたか。しかし、うらんでいるのは、鹿児島一藩にとじこめられた薩州のほうでしょうに---」
「これ。めったなことを口にするでないッ!」
「はい」

(てつ)よ。若年寄のお歴々のお名をいうてみい」
銕三郎は、封地、石高まで諳(そら)んじた。
(明和2年での年齢は、ちゅうすけが補った)。

小出伊勢守英持(ふさよし 60歳) 丹波・園部藩2万6000石
松平宮内少輔忠恒(ただつね 49歳) 上野・篠塚藩1万200石
水野壱岐守忠見(ただちか 46歳) 安房・北条藩1万5000石
酒井石見守忠休(ただよし 65歳) 出羽・松山藩2万5000石
鳥居伊賀守忠意(ただおき 49歳) 下野・壬生藩3万石

は、ようできた。ところで、(せん 宣雄)どの。組頭の方々へのお披露目だが、小十人組のときは?」
「つい先ごろお亡くなりになった佐野大学為成(ためなり 当時の2番組の頭)どのが長老格で、そのお屋敷が北本所・南割下水にあったものですから、近いところということで、東両国の駒留橋脇の〔青柳(あおやぎ)〕にいたしました」
佐野どのは、去年、先手・鉄砲(つつ)のお頭になられたばかりなのにのう。月番だったので、西久保の天徳寺のご葬儀に参列したのだが、61歳だったとか。天命だから仕方がないが---。それはともかく、〔青柳〕とは張りこんだものよ」
「このたびは、いかがいたせばよろしいでしょう?」
「長老・瀬名孫助貞栄 さだよし)どのの屋敷は、四谷追分でな。そこに近いところというと、四ッ谷あたりになるが---」
「長老ということでは、古郡(ふるこおり 孫大夫年庸 としつね)どのが---」
「あいや、失礼した。弓は弓同士、鉄砲は鉄砲同士というのが、先手のしきたりなのじゃ」
「それは助かります。34名の宴会ともなれば、100両がとこ軽く吹っ飛ぶと、ひやひやしておりました。で、四ッ谷あたりでよろしいので?」
「いや。長老、次老のご老体お2人はご出席になるまい。あとで、ご挨拶の品をとどけておけばよろしい。三老・松平源五郎乗通 のりみち)どのは小石川七軒町だが、宴後に駕籠でお送りする手もある」
「市ヶ谷八幡社境内の〔万屋〕ではいかがでしょう?」

ちゅうすけ注】『鬼平犯科帳』巻4[おみね徳次郎]の女盗・おみねが座敷女中をしていたのがこの〔万屋〕だし、巻6[狐火]では、鬼平おまさをここの座敷へ呼び出すから、ちゅうすけとしては、〔万屋〕にしてほしかったのだが---。

「〔万屋〕も悪くはないが、石段がきつい。どうであろう、飯田橋中坂下の〔美濃屋〕では? ここも小石川には遠くないし、お城からも田安門からも近い」
「お頭衆に失礼でなければ---」
「なにが失礼なものか。水戸家一橋家の御用達(ごようたし)の料亭じゃ」

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(九段坂の北隣の中坂下の〔美濃屋〕 『江戸買物独案内』)

「ところで、どのも、先刻ご承知のとおり、大権現(家康)さまの最初のごに内室---築山さまは、瀬名家の出で、今川家とのえにしが濃いお家柄。このこと、もよくよく心得ておくように」
「はい」

ちゅうすけ注】長谷川家は、大和・初瀬(はせ)の出と記録されているが、いつのころにか、駿河・小川(こがわ)の豪族となって今川家に属した。
今川義忠が一揆のために塩貝坂で戦死したとき、法永長者が幼い継嗣・竜王丸をかばったことが司馬遼太郎さん『箱根の坂』に書かれている。法永長者の孫か曾孫が、三方ヶ原で戦死した長谷川紀伊(きの)守正長(まさなが)である。
法永長者については、2007年6月7日[田中城しのぶ草](9)
2007年8月8日[銕三郎、脱皮](4)

SBS学苑パルシェ(静岡駅ビル7F)で、5年來つづけている[鬼平]クラスで、ともに学んでおり、駿河の長谷川遺跡---小川(こがわ)の信香院(長谷川紀伊守正長の墓碑がある)、小川城址、法永長者が開基し、夫妻の墓碑もある林臾院などについて教えてくださっている中林氏は、静岡市北東部の瀬名にお住まいなので、瀬名家には特別の興味を持ってきた。
中林氏によると、益津郡田中城(現・藤枝市)を守っていた長谷川紀伊守正長は、武田信玄方の数万の軍勢に攻められ、衆寡敵せずと観音山へこもり、のち一族は浜松へ走って徳川家康の麾下へ入った。そのとき、幼児だった弟を瀬名村へひそかに落とした。この家がいまでも中川を名乗る旧家と。姓を変えたのは、武田軍の追及をのがれるためだったが、小川の「川」と、田中城の「中」をとっての隠れ姓とも。

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2008.03.10

ちゅうすけのひとり言(9)

長谷川平蔵宣雄(のぶお)が天明2年(1765)4月11日に先手・弓のお頭(かしら)に発令されたときの、鉄砲(つつ)の20組の組頭を、弓組につづいて、氏名、天明2年現在の年齢、天明2年4月11日までの在任年数をリストにしてみる。

こういうリストこそ、ブログのタイトル---[『鬼平犯科帳』Who's Who]にふさわしいし、父・宣雄を理解するためには、必須の史料とおもうから、煩瑣をいとわず、2日間をあてた。
『鬼平犯科帳』にとどまらず、徳川幕府の官僚制度などを理解する資となるからである。
無味乾燥な名前の羅列---とおもう人には無価値だが、一人々々の人生ドラマを読み取ることができる人には、宝の山のはず。

11番手 
 寺嶋又四郎尚包(なおかね)  77歳   8年  300俵 

12番手
 織田権大夫正幸(まさゆき)  79歳   10年  500石

13番手
 井出助次郎正興(まさおき)  76歳     6年  300俵

14番手
 雨宮権左衛門正方(まさかた) 58歳   10年  100石

15番手
 永井内膳尚伊(なおただ)    68歳   5年   500石

16番手
 鈴木市左衛門之房(ゆきふさ)  70歳   12年  450石

17番手
 諏訪左源太頼珍(よりよし)    59歳   3年  200石

18番手
 有馬一学純意(すみもと)     67歳   1年  1000石

19番手
 阿部十郎左衛門正氏(まさうじ) 87歳   11年  200俵

20番手
 酒井善左衛門忠高(ただたか)  54歳   5年 1000俵

21番手
 浅井小右衛門元武(もとたけ)   56歳   0年  540石

22番手
 竹中彦八郎元昶(もとあきら)   58歳   2年 1000石
 
23番手
 曲渕隼人景忠(かげただ)     60歳   6年  400石

24番手
 奥村甲斐守正守(まさふさ)    60歳   9年  600石

25番手
 古郡孫大夫年庸(としつね)    82歳   11年  320石

26番手
 本多采女紀品(のりただ)      53歳   4年 2000石

27番手
 松前主馬一広(かずひろ)      43歳   13年  400俵

28番手
 市岡左兵衛正軌(まさのり)     72歳   10年  500石

29番手
 仙石監物政啓(まさひろ)      62歳    4年 2700石

30番手
 福王忠左衛門信近(のぶちか)   73歳    12年  200俵

最年長は、87歳。平均は65.7歳。 
弓組は56.8歳だったから、こちらは、平均で9歳老けている。
家禄の平均はどちらも計算していないが、一見、こちらが少禄とはおもえない。
先手組頭の老齢化は、栄進の先がつかえていて、幕府にとっても頭痛のタネだったのではなかろうか。

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2008.03.09

ちゅうすけのひとり言(8)

長谷川平蔵宣雄(のぶお)が弓の8番手の長に発令された明和2年(1765)4月11日現在の、先手組の組頭を調べるべく、『寛政譜』22冊と、『柳営補任』第3巻を手元におろした。
先手組頭は、番方(ばんかた 武官系)の終着駅近く---「番方のじじいの捨てどころ」とはやされていたというが、ほんとうにそうだったのか、リストをつくってみるためである。

というのも、平蔵宣雄がこの職についたのは、47歳であった。
いくら人生50年と言われた時代とはいえ、この齢(とし)で〔じじい〕呼ばわりはひどすぎるとおもった。

先手組は、弓が10番手まで10組。
鉄砲(つつ)が20番手まで20組。
西丸に鉄砲組が4組。
宣雄の時代は計34組あった。
戦力としてではなく、武芸の格からいって、弓組が鉄砲組の上に座す。

いや34組しかなかったというべきかも知れない。
ひとたび組頭の席へ座ると、役高1500石に未練があるのか、老齢になっても自分からは辞るとは、なかなか、言い出さなかったという。だから、席が空かない。「じじいの捨てどころ」と皮肉られた所以(ゆえん)であろう。

とりあえず、平蔵宣雄の発令日の、弓組10人の年齢とそれまでの在任年数、家禄を調べてみた。

1番手
 松平源五郎乗通(のりみち)  73歳  12年  300俵    

2番手
 奥田山城守忠祗(ただまさ)  75歳   2年  300俵

3番手
 堀甚五兵衛信明(のぶあき)  56歳   5年  1500石

4番手
 牟礼清左衛門葛貞(かつさだ) 71歳  9年   800石

5番手
 笹本靱負佐忠省(ただみ)    54歳  2年  500俵
  
6番手
 遠山源兵衛景俊(かげとし)   58歳  1年  400石

7番手
 長谷川太郎兵衛正直(まさなお)53歳  2年  1450石

8番手
 長谷川平蔵宣雄(のぶお)    47歳      400石

9番手
 桜井監物依勝(よりかつ)     55歳  3年 1300石

10番手
 瀬名孫助貞栄(さだよし)     75歳   3年  200俵
 
年齢は、最長老が75歳が2人。70代ということでみると4人と、けっこう老けている。
体力には個人差があるとはいえ、70代で先手の長として、最前線で戦えるかというと、いささか首をかしげたくなる。
まあ、宣雄のように40代が入ってきたから、平均では56.8歳。それでも人生50歳から見ると、宣雄以外は亡者の集まりといわれても仕方があるまい。


【ちゅうすけ注】笹本靱負佐忠省の個人譜は、2008年2月10日[本多采女紀品](2)
牟礼清左衛門葛貞は、先手組頭の前は、宣雄の従兄で六代目当主・権十郎(小説では修理)宣尹(のぶただ)の西丸小姓組与頭(くみがしら)だった。200年4月29日[牟礼清左衛門葛貞]

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2007.10.10

太田運八郎資同

火盗改メの組頭を務めた太田運八郎は2人いる。

長谷川平蔵宣以---いわゆる鬼平の助役をやったのが父親・資同(すけあつ)。
松平太郎さん『江戸時代制度の研究』で、平蔵とともに名火盗改メといわれたのは、その子の資統(すけのぶ)。ただし、この人の業績はまだ、目にしたことがない。松平太郎さんはどんな資料に基づいて評価したのか。

太田姓は、先祖が丹波国太田郷へ住んだことに発しているらしい。その孫の代に相模国へ移った。
そから太田道潅まで数代を経る。
道潅が属していた上杉定政に殺されたので、息子の資康(すけやす)は山内の上杉についた。
その子は北条氏綱に仕える。
その孫娘・家康の子を生むが、4歳で夭折。
の甥・資宗(すけむね)は5万石の大名にとりたてられた。
資宗の実弟・資良(すけよし)は5000石を分知されて幕臣となる。その曾孫が資同で、24歳の時、同族・資演(すけのぶ 2000石)の末期養子となる。

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資同の実父・資倍は、両番の番頭(ばんがしら)などを歴任、旗奉行の重職にあった。
養父・資演は、天明6年(1786)6月23日に34歳で卒している。資同が家督したのは同年9月4日である。いろいろな細工がほどこされたと想像する。

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24歳まで養子に出なかった事情が解(げ)せない。
平蔵に軽くあしらわれたのにも、何か理由(わけ)がありそうだが、いまのところ、分明していない。
ただ、息・資統が松平太郎さんに買われているのだから、遺伝的な異常があったとは思えない。

参考:参考:2007年10月5日[よしの冊子](33)
2007年10月7日[よしの冊子](35)
2007年10月8日[よしの冊子](36)
2006年6月10日『江戸時代制度の研究』(3)

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2007.08.31

先手組に鎮圧出動指令

天明7年(1787)5月20日から24日におよんだ江戸町民による打ち壊しの時期を、深井雅海さん『徳川将軍政治権力の研究』  (吉川弘文館)の第3編[第3章 徳川幕府御庭番の基礎研究]は、成り上がり組・田沼意次(おきつぐ)一派とと、門閥家柄重視組・松平定信(さだのぶ)一派の、政権権力をめぐるせめぎあいの渦中であったと見ている。

この騒乱鎮圧に、月番の町奉行所も火盗改メ・堀 帯刀組(先手弓一番手)も無能であったことを、同著が御庭番の風聞書であきらかにしている文書は、すでに引いた。

2007年8月29日[堀 帯刀秀隆]
2007年8月30日[町奉行・曲渕甲斐守景漸]

そして、町奉行所は機動隊ではない。大がかりな鎮圧訓練もしていなければ、装備も備えていなかったと思える。
火盗改メは、本来は戦闘軍団であるべき先手組から選ばれるが、その組頭が番方(武官系)では役料が最出頭の1500石であるために、幕府後期ともいえる天明期には、ほとんど終身職の気配になっていた。
ちなみに、堀 帯刀はこのとき51歳と、平均よりも若いほうに属していたが、組の戦闘力の劣化はいなめなかった。

ついでだから、長谷川平蔵宣以(のぶため)が先手(弓の2銀手)の組頭に抜擢されたのは、騒擾の前年で41歳であった。
このときの、長谷川組を除く33組の組頭の平均年齢は65.2歳と高齢化しており、最長老は82歳、次老が77歳、三老は74歳であった。若手は平蔵をのぞくと46歳が最年少。在職年は平均で7.9年。

そうした中から、暴徒鎮圧が発令された10組は、若手の組頭が選抜されたといっても、リストを見るとおわかりのように、かなり齢ょをくっている。
(氏名につづく数字が出動発令の天明7年の年齢。平均55.4歳)
弓組
長谷川平蔵宣以   のぶため 42  400石
松平庄右衛門穏光  やすみつ 60  730石
筒組
安部平吉信富    のぶとみ 59 1000石
柴田三右衛門勝彭  かつよし 65  500石
河野勝左衛門通哲  みちやす 64  600石
奥村忠太郎正明   まさあきら56  600石
安藤又兵衛正長   まさなが 60  330俵
小野治郎右衛門忠喜 ただよし 54  800石
武藤庄兵衛安徴   やすあきら46  510石
鈴木弾正少弼政賀  まさよし 48  300石

リストの順序は、 『続徳川実紀』天明7年5月23日の記述順である。
長谷川平蔵が代表のように先頭にあげられているのは、2つの理由による。
まず、弓組は筒(鉄砲)組よりも格が上であること。実戦では鉄砲だろうが、古来からの弓馬の道ということで、格式は弓術のほうが高くおかれている。
2つ目は、長谷川平蔵のほうが、年齢も家禄も上の松平庄右衛門よりも4ヶ月早く先手組頭に着任していること。すなわち、同職の場合は先任順にならぶのが恒例なのである。

2006年4月27日[天明飢饉の暴徒鎮圧を拝命]
2006年4月26日[長谷川平蔵の裏読み]

ついでに書いておくと、小野治郎右衛門は、小野派一刀流の家元の末。

さて、御庭番の風聞書---例によって現代文に置きかえる。

一 このたび、仰せつけられたお先手組は、めいめいの了見次第の趣きによってばらばらに行動していて、足並みが揃っておらないように聞いております。下命を受けた10組のうち、怪しげな者を見かけ次第に捕えたのは、ようやく2組だけとの噂であります。残りの組は、いちおう昼夜町々の所々を警戒に回っているようであります。

なんともしまらない軍律というか、作戦指令である。この時期の先手組は若年寄の指揮下にいたわけだから、若年寄たちも平和ぼけしていたとしかいえない。

それはともかく、深井雅海さんは、この風聞書が徳川宗家に保存されていたことから、御庭番に隠密を命令したのは、田沼意次とその派の横田筑後守準松(のりとし 54歳 9500石)、本郷大和守泰行(やすゆき 33歳 2000石)らに距離を置いていたただひとりの側衆・小笠原若狭守信喜(のぶよし 70歳 7000石)と推理している。

この御庭番を駆使する命令権は松平定信に引き継がれたとも。

史料として、小笠原家の『寛政譜』と信喜譜を掲げておく。
礼法を家伝とする小笠原家には3流れがあり、1は武田家から徳川へ。
これは、信濃から今川、徳川から、紀州侯。吉宗について江戸へ来た小笠原である。

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2007.06.07

佐野大学為成

(父上にいわれて、武鑑で、佐野どのの曾祖父さま、祖父さまの職歴を、手前が調べました)
銕三郎(のちの平蔵宣以=小説の鬼平)は、いくどもそういいかけて、父・宣雄(のぶお)と、他言はしないと約束したことを思い出し、口を結んだ。

それほど、佐野与八郎政親(まさちか)の人柄は、14歳になったばかりの銕三郎を安心させ、柔らかだった。

「過日、本多侯(伯耆守正珍 まさよし 駿州・田中藩の元藩主)の中屋敷で、小十人組頭の長老、佐野大学為成(ためなり)どのとは、遠くたどれば、どこかで交わる---と申されたが」
Photo_371「はい。出自はともに、下野(しもつけ)国の佐野であることは間違いないと存じます。なれど、わが家の家紋は丸に剣木瓜です。あちらは鎧蝶。永いあいだに、それぞれが土着、家紋も変えたとおもわれます」
「なるほど。剣と鎧では、同じ武具でも、まるで違いますな」
Photo_372「親戚づきあいも致してはおりませぬ」
「なぜに?」
「さあ。しいて申せば、あちらの先々代と先代に、やや、酒乱の気味があったのを、わが祖父・政春(まさはる)が避けたのかと。その酒癖を案じられた有徳院(八代将軍・吉宗)さまが、紀伊の家臣・長谷川半兵衛どの---あ、こちらさまとは?」
「いや。遠くたどっても、つながりませぬ。はっははは」
「それであれば---。その長谷川どのから養子に入られたのが、いまの為成どの。したがって、酒乱の血筋は断たれたはずです」
「そういえば、組頭新任の宴会でも、召し上がられなんだような。ひとえに、先手組頭を願っておられるとか」

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幕臣で両番(小姓組と書院番)の家柄はもちろん、小十人組、新番組、大番組といった番方(武官系)の者は、組頭の次に、先手組頭を期待するのは、番方としての出世双六の「上がり」に近いからである。
先手組頭は1500石高、小十人組頭は1000石高と、吉宗の時に明文化された。
有能な士を抜擢する目的であった。

佐野大学為成のように、540石の家禄のものが小十人組頭になると、1000石高となり、家禄540石との差額---460石が足(たし)高として補填される。
その意味は、1000石高にふさわしい武装・戦闘員の備えをせよ---というのは表向きの口実で、ありようは、実収増、やる気の拍車。

番方の最高役高は、1500石の先手組頭だった。
そのポストは、
・弓組頭---10人、
・筒(つつ 鉄砲)組頭---20人、
・西丸筒(つつ 鉄砲)組頭---4人。
しかも高齢になってから発令されがちだった。
また、その先のポストがきわめて少なかった。
それゆえ、そうとうな老齢になっても辞職しなかった。
「先手組頭は、番方じじいの捨てどころ」と、幕臣間でいわれたほどである。

で、先手組頭をねらう旗本たちの噂は、何番組の組頭が危篤らしい---と、まるでその死を待っているかのように、非情なものだった。
組頭の死による空席を待っているいるうちに、自分が死の床についてしまいかねないあせりぶりは、はたから見ると滑稽というか、人間喜劇的でもあった。

紀州藩主出身の将軍・吉宗は、8年前の宝永元年(1751)、68歳で、前立腺肥大による尿毒症を患い、西丸で歿していた。
しかし、紀州出身組には、田沼主殿頭(とのものかみ)意次(おきつぐ)、加納遠江(とおとうみの)守久通(ひさみち)・久堅(ひさかた)親子という希望の星がいた。

宝永9年(1759)で62歳に達した佐野大学為成は、希望をすててはいなかった。
5年後の明和元年9月に76歳の長寿をまっとうして没した、先手筒(つつ 鉄砲)組11番手の組頭・水野藤九郎忠鄰(ただちか 250俵)の後任に発令された。
為成は67歳になっていた。

そして、翌明和2年4月の卒した。胃の疾患であった。
あれほど願っていた先手組頭の在任は、半年で終わった。

葬儀は池上本門寺で執行された。養家先の宗派を無視、日蓮宗に改めたのである。表の飄々とた顔とは別に、胸の内には強情を秘めていたと思われる。

参列した平蔵宣雄と佐野与八郎政親は、肩を並べて帰りながら、
「念願の先手組頭を手にいれられたのだから、もって瞑すべしでしょうな」
「念願がかなわないあいだは、生を延(なが)びかせられるということかも」

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2007.06.06

佐野与八郎政信(2)

宝暦8年(1758)暮れ。
長谷川平蔵宣雄(のぶお)は再び、一門中の大身・讃岐守正誠(まさざね)を、御納戸町の敷地が3000余坪もある屋敷に訪ねていた。
伺いを立てたところ、「毎日が休日で退屈している隠居の身じゃ。話相手がきてくれると助かる」との返事を小者が持ちかえったのである。

佐野与八郎政信(まさのぶ)どのがことなあ。かすかに覚えているが、佐野どのがどうかしたか?」
田中藩の元藩主・本多因幡守正珍(まさよし)侯から、曾孫の与八郎政親(まさちか)の指南役を頼まれた経緯を打ちあけると、正誠は、
「うーむ」
うなったきり、しばらく、宣雄の顔を凝視していたが、部屋から立った。

樹々の多い庭で、気の早い鶯が、まだよくまわらぬ舌で、キキョ・ケキョと鳴いた。

戻ってき正誠老の手には、数冊の古い日録が乗っていた。

「50年前の宝永5年(1708)じゃから、それがしは、御目見(おめみえ)もまだの部屋住みの身であった。そうさな、前髪を落としたかどうかという年齢であった。祖父・正明(まさあきら)が致仕した年だから、覚えている。いや、違った---祖父の致仕は、宝永元年(1704)じゃった。まず、そのときのことから話そう」

宝永元年8月2日、5人の幕臣が〔奉職無状〕---職務を遂行していない、との理由で小普請へ落とされた。

普請奉行 奥田八郎右衛門忠信(ただのぶ) 
       60歳 3300石
先手組頭 中島孫兵衛盛忠(もりただ)
       49歳 500石
同      宮崎甚右衛門重広(しげひろ)
       年齢不詳 300石
同      津田三左衛門正氏(まさうじ)
       51歳 1200石
目付    多門伝八郎重共(しげとも)
       46歳 700石

このうち、罷免の内容がはっきりしているのは多門伝八郎重共で、目付に発令されたが就任を拒否したのである。幕臣の非理を探索するのに耐えられないと告げた。
先手組頭の3人は、推測するに、出仕もかなわないほどの病床にありながら、足(たし)高に未練があって辞表を提出しなかったために、同僚の組頭が上訴したと推測された。
普請奉行の奥田忠信は不適任であったのであろう。収賄だと、小普請落ちではすまない。 

〔奉職無状〕が、それから4年後の宝永5年6月23日に、またも発せられた。

普請奉行 甲斐庄喜右衛門正永(まさなが)
       48歳 4000石
大目付   安藤筑後守重玄(しげはる)
       60歳 1400石
小姓番頭 阿部壱岐守正員(まさかず)
       44歳 2000石
先手頭   大岡次右衛門忠久(ただひさ)
       66歳 700石
同      佐野与八郎正信(まさのぶ)
       64歳 1100石
山田奉行 長谷川周防守勝知(かつとも)
       62歳 3100余石

佐野どのの理由はなんだったと、先々代どのはおっしゃっていましたか?」
「いや。聞いてはいないが、やはり、辞職願いの出しそびれでは---。その後、佐野どのの致仕前に柳営でちらっとお姿を見かけたが、病身には見えない、武者らしい大柄の仁であったな」

宣雄は、佐野正信の年齢を先日会った与八郎正親に重ねてみたが、〔奉職無状〕の原因は推測できなかった。

翌宝暦9年(1759)の新年の行事がすっかり終わったころ、佐野与八郎政親が、築地鉄砲洲の長谷川家を訪ねてきた。そのころ佐野家の屋敷は二番町にあった。

数奇屋河岸の菓子舗〔林氏塩瀬〕の練菓子を差し出した。ここは、明国から渡来した菓子杜氏(とうじ)が、京菓子とは異なる逸品をつくっていた。

銕三郎は、男の兄弟に恵まれておりませぬ。兄者として、きびしくご指導いただきたい」
「わたくしも一人子同様なのです。弟がおりましたが、早くに逝きました。銕三郎どのを実の弟と思わせていただきます」
そういわれても銕三郎は、突然に現れた、年齢差の大きい兄を、どうあつかったものか、困惑して、かしこまっているのみだった。

四方山ばなしのついでのような形で、宣雄がさりげなく問うた。
「曾祖父・政信どのが、先手組頭を免じられたのは?」
与八郎はこだわっていなかった。
「祖父・政春から聞いておりますのは、犬公方(いぬくぼう・綱吉)さまに関係する不祥事だったそうです。先手組頭同役の大岡次右衛門忠久どのが、先手でよかった、中野の犬小屋の組頭へまわされた某はくさりきっている---といわれたのに、曾祖父が、なるほど、と合いづちをうったのを、告げ口されたらしいのです。奇妙な世には奇妙な仁が現われますようで---」
と笑った。
「犬公方さまがお逝きになる半年前とは、よりによってご不運な---」
宣雄が受ける。

【つぶやき】〔みやこのお豊〕さんから、2007年6月5日[佐野与八郎政親]の項に、駿河城番をやったという、与八郎政親の祖父・政春『寛政譜』も読みたい---とのコメントをいただいた。

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(享保11年の武鑑l)

長谷川家にかかわりができた与八郎政親に家督をゆずったのは祖父・政春だから、この際、掲示しておくのも何かの参考とおもったので、掲げた。

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ついでといってはなんだが、家督することも出仕することもなく42歳で逝った、政親の父・政隆(まさたか)の『寛政譜』もあわせて掲げておこう。
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2007.06.05

佐野与八郎政親

銕三郎が、2日目に持ち帰ったのは、次の1件のみであった。

佐野与八郎調べ
享保11年(1726)
駿河御城番 御役料七百俵
千百石 二番丁
佐野与八郎政春(まさはる)

「年代からいって、きのうの佐野与八郎政信(はるのぶ)どのご子息だな。それにしても、妙だな。駿河御城番の前の役職があるはずだが---」
「見落としたのでしょうか。ずいぶんと念入りに見たつもりですが---」
「いや。そのほうの見落としではあるまい。板元の手落ちであろう」
父親に言われて、銕三郎は安堵した。
(注:その後に編まれた『寛政譜』と引き比べると、武鑑lでは使番が脱落している)。

毎年刊行される武鑑lは、幕府の事業ではなく、江戸の出版元が出しているものであった。幕府は、なるべく民間でできる事業には手をださない。

「父上。伺ってもよろしゅうございますか?」
「む?」
「このたびのことは、何のためのお調べでございましょうか?」
銕三郎。他言しないか?」
「刀にかけまして」
「いや。さほどに大仰(おおぎょう)なものではない。じつはな、そのほうの手をわずらわせた、佐野与八郎どのが、近く、わが家に訪ねて見える」
「佐野与八郎政春どのは、享保17年(1732)の武鑑lでも、まだ、駿河御城番をなされておられました。そういたしますと、80歳をはるかに越えたおん身で、また、何用で御座いましょうか」
「いや、私がぬかった。お訪ねあるのは与八郎政春どのはない。その孫御の与八郎政親(まさちか)どのといわれる、西丸の小姓組に召された、まだ、30歳には手のとどかぬ仁じゃ」
「その政親どのが何ゆえに?」
「そのほうの指南役をしてくださる」
「ありゃ---」
講読も剣術もさぼりたいざかりの銕三郎にしてみれば、家庭教師が来るように思ったのかもしれない。

ここで、佐野家の『寛政譜』を掲げる。
銕三郎が麻布百姓町の長倉家へ各年ごとの武鑑lを写しに通ったのは、『寛政譜』『徳川実紀』『柳営補任』もまだできていなかったからである。
また、できていたとしても、銕三郎ごときが目にできるものではなかった。

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銕三郎。このこと、よくよく心にとどめおくように。初めてのお方とお会いする前、お会いしたあとは、その方のことをでるかぎり知るようにすると、間違いがない」
「あ、それでこのたびの探索---」
「これ、探索などと、人聞きの悪い言葉をつかうでない。知る---といいなさい。人の己を知らざるを患えず、人を知らざるを患うるなり---人が自分を知らないことは困ったことではない。自分が人をしらないことこそ困ったことなのだ。(宮崎『論語』による)」

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2007.06.04

佐野与八郎政信

鬼平(平蔵宣以 のぶため)の父の長谷川家7代目当主・平蔵宣雄(のぶお)は、歴代当主が番方(武官系 小姓組と書院番)でもヒラのまま終わっていたのに、突然のように役付きに引き上げられた理由を推理している。

ところが、2007年6月3日の[田中城の攻防(3)]に、若き日の佐野与八郎政親を登場させたところ、熱心な鬼平ファンの〔みやこのお豊〕さんから、

>佐野与八郎は、2006年6月12日[現代語訳『江戸時代制度の>研究』火附盗賊改(1)]に登場した佐野与八郎政信と関係があ>りますか?

と質問のコメントをいただいた。
『江戸時代制度の研究』は、幕府最後の陸軍総監だった松平太郎の息で同名の松平太郎氏の一大労作であり、池波さんも『鬼平犯科帳』文庫巻3に引用して、愛読書の一つであることを、期せずしてもらしている。

1年前に掲載した『江戸時代制度の研究』の[現代語訳]は、上記のリンクずみを意味するをオレンジ色のタイトルをクリックしてご再読願うとして、佐野政信に触れられた数行を転記すると、

3年後の元禄15年(1702)4月、ふたたび、盗賊改メを置き、先手頭の徳山五兵衛重俊を任じた。
ついで翌16年11月、佐野与八郎政信に火附改メを命じた。

このブログは、いまのところ、エンドレスの予定である。

ニフティ・ココログからは2GBのスペースを与えられているが、2004年12月20日に立ち上げてから、2年半、ほとんど1日も休まずに書きつづけてやっと88.1445MB(4.41%)を消化したにすぎない。
1日に原稿用紙3枚分として、3,000枚超。

聖典『鬼平『犯科帳』は文庫24巻。1巻280ページ平均として、旧版の1ページは42字18行で756マス目。
1巻あたり約300枚。その24倍で7200枚とみなすと、なんと、このブログ、聖典の40%強も考究(?)。 

ということは、『鬼平『犯科帳』および長谷川平蔵宣以に関する、世界一長大な探索記録といえそう。

ま、きょうから2,3日、脇道にそれても、許していただけようか。

上記、〔みやこのお豊〕さんへのレスは、

》すごい検索バワー!
佐野与八郎政信の曾孫が佐野与八郎政親)です。
》ぼく自身、そのことに気づきませんでした。

翌朝、宣雄は出仕前に息・銕三郎を呼び、仕事をいいつけた。
「祖父どのに一筆したためていただき、麻布百姓町の長倉どのの屋敷へ参上して、武鑑を写して参れ」

祖父どのとは、病気がちで、いまは宣雄が養生させている、宣雄の実父・宣有(のぶあり)のことである。銕三郎には祖父にあたる。
宣有の次兄・正重(まさしげ)の実母は長倉家(稟米300俵)の女で、正重が末期養子に入った。もっとも、正重もその嫡子の正安(まさやす)もいまは亡く、これまた末期養子の23歳の正尚(まさなお)が出仕の命がおりるのを待っている。

宣雄が、長倉家の武鑑lに目をつけたのは、この家は同朋(どうぼう 営内の茶坊主)頭の家柄ゆえである。柳営に登城している大名・幕臣の家格・家筋を暗記していないと、同朋頭は勤まらない。

「元禄のころからでよい。目当ては、佐野という1100石の旗本。佐野家は少なくはない。写すのは、名が政治の〔政〕ではじまっている仁だけでよい」

その夕、宣雄が下城して着替えをしていると、さっそくに銕三郎があらわれ、
「父上。みごと、写して参りました」
奉書紙1枚をさしだした。

Photo_369佐野与八郎調べ
延宝元年(1672)
大御番頭
 五千こく
田中大隅守殿
 とら御門之外
   佐野与八郎殿
(注:これは、佐野与八郎が番頭・田中大隅守の大番組の組(与)頭ということであろう。田中組は12番組)。

15_1元禄16年(1703)
惣御鉄砲頭
父与八郎 佐野与八郎
 与力十キ 同心五十人
 千百石
 △二番丁

とだけ、13歳の男の子らしく稚拙さがまだ残っている運筆で写されていた。

「なんだ、これだけか。ほかにはなかったのか」
「いいえ、御座いました。ただ、ここまで写しましたら、八ツ半(午後3時)になりましたので、お父上のご帰宅に間にあうよう、いそぎ戻って参りました。麻布は坂が多く、長倉どのからわが家までは、1里半ほども御座いますれば、片道1刻(2時間)ほど要します」
「明日、もう一度、行ってまいれ」
「承知。明日は、六ツ半(午前7時)に出発いたしますから、じゅうぶんに写せましょう」
宣雄は苦笑しながら、
「運筆も、だいぶんに上達したようだの」

注:図版は『大武鑑l』から。

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2007.04.29

牟礼清左衛門葛貞(かつさだ)

出は讃岐国だが、先祖が駿河国今川義元・氏真に仕えて、蒲原に住したというから、今川家臣の系統。
ということでは、今川家臣で徳川へ就いた長谷川家と、まんざら、縁がないわけでもなさそうである。

Photo_344

いま以上に血縁、地縁などの人間関係が重きをなした時代である。もし、徳川幕臣の中に元・今川とでもいう懇親グループがあったら、長谷川本家の太郎兵正直衛(まさなお)と顔見知りだったということも想像できて面白い。

さて、延享5年1月10日に病死するまでの権十郎宣尹(のぶただ)が属していたのは、松平長門守定蔵(さだもち)が番頭だった西丸の小姓組で、組下を実質的に取り仕切っていたのは、寛保2年(1742)から(与)を勤めていた牟礼清左衛門葛貞(800俵)だった。

牟礼清左衛門葛貞(48歳)の許へ、長谷川太郎兵衛正直(39歳)が平蔵宣雄(30歳)を同道で、権十郎宣尹の病気免職願いを提出してきた。
前年、太郎兵衛正直は、大御所(吉宗)つきの小姓組組頭になったばかりで、じつは前夜、単身で牛込築土下五軒町にある牟礼家を訪れて、病免願の上呈を打診していた。
太郎兵衛正直の長谷川本家の拝領屋敷は、外堀を隔てて牛込に近い一番町新道にあった。
石高は長谷川本家は1410石で、牟礼家の800俵よりも家格は上位にあったが、組頭の先輩としての礼をふんだのである。

宣雄を見た清左衛門が、上機嫌で言った。
「ご息災のおもむきで、なによりのこと」
権十郎宣尹のたびたびの病欠に困り果てていたことを匂わせた。
太郎兵衛正直が代弁した。
「組頭には、ご心配のかけどおしでございました。これは、ご覧のとおりに躰だけは頑健に育っております」
宣雄の父が病床にあることは伏せて、言葉をつぐ。
「これの家督のお願いもよしなにお取り計らいを」

宝暦5年(1755)
 牟礼清左衛門葛貞は先手弓の第4番組頭に(66歳)。
宝暦13年(1763)
 長谷川太郎兵衛正直は先手弓の第7組番組頭に(54歳)。
明和2年(1765)
 長谷川平蔵宣雄は先手弓の第8番組頭に(47歳)。

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2006.07.12

山本伊予守組の失態

天災や飢饉が多いのは天明(1781~88)という元号がよくないせい、と松平定信内閣は朝廷から下賜された寛政(1789)に改めたが、盗賊による被害は一向に減らない。

プロ集団に加え、養子の口もない閉塞感から旗本の次男三男などで強盗をおこなう者まででる始末。

幕府は奉行所を通じて四ツ(夜10時)以降は無用の夜行を禁止する触れをだした。
火盗改メの本役・助役を督励するとともに、非番の先手組へは夜廻りを命じた。

鬼平ファンのあなたなら先手組頭の山本伊予守という名におぼえがあるはず。
そう、文庫巻8所載の[流星]で、暗殺団から四谷坂町長谷川組組屋敷を警護してやるように、と若年寄・京極備前守に下命された仁。

実在の組頭で諱(いみな)は茂孫(もちざね)、家禄は1000石。『鬼平犯科帳』にもうひとり実名で記されている堀帯刀秀隆の後任として先手弓の1番手の組頭に36歳でなったほどだから、よほどにやり手だった。
屋敷は一ツ橋通り小川町。

池波さんが警護担当に、なぜ山本伊予守を当てたかは不明。というのは、山本組の組屋敷は牛込山伏町(新宿区弁天町)だ。

Iyogumi_1
牛込の弓の1番手の組屋敷=赤○

四谷坂町の長谷川組組屋敷(小説)へは1.5キロほどある。

四谷坂町の隣の伊賀町には市岡組市谷本村町小野組(小野派一刀流の宗家)、同鍋弦町土方組四谷左門横町松波組四谷船板横町柴田組組屋敷があった。

Yotsuya_1
四谷御門外の先手組屋敷。赤○=小説の長谷川組
                 緑○=ほかの組

この5組から臨時の警備組を選んだほうが距離的には理にあっていたはず……と考えたので、組頭の年齢をあたってみた。

[流星]は寛政5年(1793)の事件。
そのときの組頭の年齢を右記の順に並べると53、62、51、72、70歳。最年少の41歳で気力充溢の山本伊予がやはり正解だった。

51歳の土方宇源太だって現役ばりばり……と思うのは現代流の考え方。人生50年といわれた時代、長谷川平蔵50歳で没した。

さて、寛政3年5月、同心を従え、若さにものをいわせた山本伊予の夜廻り記録がのこっている。

牛込山伏町の組屋敷から神田川ぞいの外堀通りを加賀っ原(千代田区外神田一丁目)あたりまで夜半から巡回したがひとりも怪しい者を見かけない。

夜明けとともに同心たちを引きあげさせたところ、同夜近所の町屋2軒へ強盗が入ったと組屋敷で留守番をしていた者が報告。

事情を伝え聞いた平蔵は、
「あの組の与力・同心は火盗改メの役料ほしさに、伊予どのの前の頭・堀帯刀どのの用人へ100両もの袖の下を贈って移ってもらっている。そんな連中ゆえ、夜廻りの時刻や順路を賊方へ洩らした者がいても不思議はない。伊予どのもいずれ手をお打ちになろう」

つぶやき:
鬼平ファンにいわせると、
「弓の1番手・堀組から与力筆頭の佐嶋忠介を長谷川組へ引き抜いたために、組の統制がガタガタになったのだよ」

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2006.07.10

部下を信頼する

榎本武揚(たけあき)は、オランダで海陸兵制を学んで帰国、幕府の海軍奉行として五稜郭(ごりょうかく)に立てこもった人物として知られている。

武揚と行をともにした陸軍総裁・松平太郎のほうはさほど有名ではない。
五稜郭の開城後、東京へ護送・幽閉され、のち恩赦。
ものの本には「性格は豪放にして機知に富み、意表をつく企画を考え、ものごとにこだわらなかった」とある。

長谷川平蔵の再来みたいだと思っていたら、同名の息子・太郎が大正9年(1020)に出版した名著『江戸時代制度の研究』にこう書いた。

江戸幕府270年を通じて200人近くいた火付盗賊改メで「英才ぶりが広く知られているのは長谷川平蔵、中山勘解由(かげゆ)、太田運八郎」。
平蔵をいの一番に据えてたのだ。

中山勘解由(3500石)は平蔵より100年むかしの人。
エビ責めの拷問(ごうもん)を考案したり、不良旗本・白柄(しらつか)組と対抗した町奴(やっこ)組をこっぴどく取り締まった。

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太田運八郎(3000石)のことは太田道潅の末、としか調べがついていない。
(丸に内桔梗は太田家の表家紋)

父親(30歳)が平蔵(47歳)の助役(すけやく)に発令され、教えを乞うたら、
「本役と助役とは競争しあってこそお役目が果たせるというもの。こっちはこっちでやるから、そっちはそっちでおやりになるんですな」
とけんもほろろにあしらわれ、火盗改メを管轄している若年寄へ泣き言を持ちこんだと記録にある。

記録だけを読むと、せっかく着任の挨拶をしにきた父のほうの運八郎平蔵がいじめているみたに思える。

が、事情がわかると平蔵の処置もうなずける。

その1。運八郎は若年寄の執務室へ呼ばれたとき、てっきり西の丸の目付(めつけ)に任命されるものと期待して行ったが、先手の組頭だったのでがっくりきた、とまわりへふれまわした。

目付は1000石高先手組頭は1500石高役職手当
ふつうなら後者に発令されるのを喜ぶのに、家禄が3000石で役職手当を超えているために1石もつかない。
そこで彼は、目付は出世コースとして先手組頭より優先させたのだ。先手組頭の平蔵にはカチンくる。

その2。運八郎が就任した先手鉄砲(つつ)11番の組は、それまでの50年(600か月)のあいだに火盗改メに104か月も従事しており、平蔵の組の144か月に次いで経験豊富な組下ぞろい。
盗人逮捕のコツは「おれに教えを乞うより、組の与力同心に聞いてやってこそ、彼らも働き甲斐を感じるというもの」と平蔵は言いたかった。

組の与力同心をやる気にさせるのが組頭の最大の仕事の一つだ。その仕事ぶりを認めてやり誉めあげ信頼されていると感じさせることだ。

Katoutsuki
赤○は長谷川組 緑○は太田運八郎組

つぶやき:
「自分が望んでいたポストはここではなかった」などと口にしていることを耳にした部下は、
「なんだ、こいつ」
と仕える気もなえ、
「長谷川どのはよくぞたしなめてくだされた」
と思う。

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