カテゴリー「018先手組頭」の記事

2009.04.29

先手・弓の組頭の交替

明和7年(1779) 6月2日。
先手・弓の1番手の組頭に14年間在職していた・松平(滝脇)源五郎乗通(のりみち 76歳 300俵) が老年を理由の隠居願いが認められけられ、致仕した。

後任は、天野伝四郎富房(とみふさ 67歳 700石)で、小姓組・1番手の与頭(くみがしら 組頭とも書く)からの出世であった。
1000石格の小姓組与頭を14年間勤めての、やっとの先手組頭といえようか。

天野家といえば、竹千代と呼ばれていた6歳の家康今川方の人質として行くときに、戸田弾正少弼宗光(むねみつ)・正直(まさなお)父子の詭計によって織田信秀に売られたときも、のちに今川方の人質として駿府へ送られたときも、5歳年長の三之助(のちの康景 やすかげ)は、小姓としてしたがった。
富房は、この天野本家の庶流の末である。

宮城谷昌光さん『風は山河より 第三巻』(新潮社 2007.1.30)に、戸田五郎正直が渥美半島の田原城から竹千代を船に誘ったときを、

「さあ、竹千代どの、お乗りください。扈従(こしょう)のかたがたは、そこもととそこもとと---」
 正直は阿部徳千代と天野三之助のほかひとりの小姓をえらんで乗船させ、金田与三右衛門などの数人の供奉の人々を同乗させると、あとのかたがたはほかの船へお乗りください、といわんばかりに、おもむろに手をあげ、自身は配下の者と船尾へ移った。

このあと、詭計に気づいた三之助は、竹千代に異変を耳打ちする。
さすが、5歳の年長者であった。
 
竹千代の熱田での幽閉は2年つづいた。

新しい先手・弓の組頭を列記し、天野伝四郎の個人譜を掲げておく。

新任のあいさつの席を、体調がすぐれないからと、しきたりを破り、麻布飯蔵中町の自邸に近い宮下町の料亭〔車屋〕でもよおすという異例さであったが、富房の76歳という年齢をおもんぱかって、表立っては、だれも苦情はいわなかった。

むしろ、着任ちょっとで卒したことのほうをあわれんだというほうがあたっている。

天野富房の着任時の先手・弓の組頭

1番手
 天野伝四郎富房(とみふさ)  76歳       700石    

2番手
 奥田山城守忠祗(ただまさ)  67歳   4年  300俵

3番手
 堀甚五兵衛信明(のぶあき)  61歳   5年  1500石

4番手
 菅沼主膳正虎常(虎常)    56歳   4年  700石

5番手
 能勢助十郎頼寿(よりひさ)   69歳   3年  300俵
  
6番手
 遠山源兵衛景俊(かげとし)   63歳   3年  400石

7番手
 長谷川太郎兵衛正直(まさなお)61歳   7年  1450石

8番手
 長谷川平蔵宣雄(のぶお)    52歳   5年  400石

9番手
 橋本河内守忠正(ただまさ)    60歳  3年  1300石

10番手
 石原惣右衛門広通(ひろみち)  78歳   3年  200俵


番方の出世の終点とも思われている先手・弓の、しかも1番手の組頭を手にした天野富房は、就任2ヶ月後の8月18日に逝去が認められた。

_360
(先手・弓の1番手組頭・天野伝四郎の個人譜)

後任は、平岡与右衛門正敬(まさとし 69歳 300俵)で、小姓組与頭を15年まじめにに勤めあげたすえの抜擢である。
この仁については、後刻詳報することになろう。

ついでに記しておくと、しばしば家名がでた、先手・鉄砲(つつ)の7番手の組頭・諏訪左源太頼珍(よりよし 64歳 2000石)も、この年の5月13日に病死したことになっている。

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2009.04.11

先手・弓の2番手(5)

(たち)伊蔵(いぞう 53歳)筆頭与力が指揮して、侵入して打ち倒された賊8人を田原町(たはらまち)のすぐ西に広い境内を有している臨済宗の名刹・金竜寺へ、看視の小者をつけてあずけるの見とどけたかのように、読みうり屋の〔耳より〕の紋次(もんじ 26歳)があらわれた。

長谷川の旦那---」
夜っびいて開けている、駒形堂脇の菜飯屋へ、浅田剛二郎(ごうじろう 32歳)、岸井左馬之助(さまのすけ 25歳)、井関録之助(ろくのすけ 20歳)ともども案内した。

賊と対決した3人に、格闘の経緯を訊き終えたところで、銕三郎(てつさぶろう 25歳)が口をはさんだ。
紋次どの。まず、格闘の時刻を2刻半(5時間)ほど遅らせないと、版元に迷惑がおよぶ」
「なんで?」
「先手・弓の2番手の組頭・奥田摂津守さまが指揮されて、お馬先で召し取られたことなっておる。そう書かないと、かの組からとんでもないことでいいがかりがつけられる」

参照】お馬先召し捕りについては、2006年6月12日[現代語訳『徳川時代制度の研究」] () 

奥田の殿さまの紋どころは?」
「なにゆえに家紋が?」
「騎馬の奥田さまの勇姿の陣笠と羽織にでっかく描かせやすんで---」
「それはありがたい。しかし、家紋は大きめの武鑑なら、先手組頭の項に載っておるはず」
「さいでした。あとで調べて、絵師に伝えておきやす」

_100ついでだが、奥田山城守忠祇(ただまさ 66歳 300俵)の家紋は、丸に横二引両であった。

「そういたしやすと、浅田さん、岸井さん、井関さんの3剣豪の活躍どころはどこにすればよろしいので?」
「屋内でそれぞれが賊2人ずつ倒したが、逃げた2人を、奥田組が召し捕ったとでもしておいてくれませんか」
「承知しやした」

その読みうりが発売されたが、売れ行きはかんばしくなかったらしい。
紋次がぼやいた。
長谷川の旦那。お役人の落ち度なら町びとはよろこんで読みますが、賊を召し取るのは役目であって、面白くもなんともないんでやすよ」
「そういうことであろう。しかしな、紋次どのよ。なにごとも、二番煎じは興奮しないものよ」
「でも、二匹目の泥鰌(どどょう)をすくわぬ馬鹿、三匹めの泥鰌をねらう馬鹿---って言いやすぜ」
「泥鰌と泥棒を、いっしょにしては、なあ」

大売れはしなかった読みうりだったが、左馬之助録之助を名ざしでの用心棒の引きあいが、今助(いますけ 22歳)と権七(ごんしち 37歳)のもとへ、どっときた。

高杉銀平師は、岸井左馬之助には許可しなかった。
道場をゆずるつもりだったのかもしれない。

録之助には許しがでた。
もっとも、夜をあけるのでは、茶問屋〔万屋〕との契約に反するというお(もと 34歳)の強い異議がとおって、けっきょく、録之助も用心棒の2重稼ぎはできなかった。
30おんな相手のこってりした夜に、いささかうんざりした録之助の顔が見えるようでもある。

(ゆき 23歳当時)以来、自分の膝っ小僧を抱いて寝ている夜の多い左馬之助に言わせると、
「ぜいたくを言うな」
であろうが---。


参照】2008年8月21日 [若き日の井関禄之助](1) (2) (3) (4) (

2008年10月17日[〔橘屋〕のお雪] (1) (2)
 
(3) (4) (5) (6)


2009年~4月3日[用心棒・浅田剛二郎] () () () (


2009年4月7日[先手・弓の2番手] () () () (

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2009.04.10

先手・弓の2番手(4)

偶然とはいえ、浅草田原町(たはらまち)1丁目の質舗〔鳩屋〕長兵衛方を、2番目の賊が襲ったとき、来あわせたのが先手・弓の2番手の奥田組であったことには、運命のようなものを感じる。

前にも書いたが、長谷川平蔵家は徳川幕府体制のなかでは毛並みのいい両番(書院番と小姓組)の家柄とはいえ、7代目の宣雄(のぶお 47歳=明和2)の代になってはじめて役つきに引きあげられた。
それまでの6人の当主は、両番ではあっても、平(ひら)のままで終わっていた。

宣雄は、番方(武官系)でも最上位に近い先手組、しかも、格が上の弓組の8番手の組頭にまで抜擢された(その後、役方(行政)系の京都西町奉行)。
本家の太郎兵衛正直(まさなお 61歳=明和7)も、本家の歴代の当主では、初め役席についた。先手組頭としては弓の7番手の組頭であった。

この太郎兵衛正直、7番手の組頭を15年間も務めた安永5年(1776)12月に、突然、2番手へ組替えになったのである。
奇妙な人事移動であった。
弓の2番手の組頭・土屋帯刀守直(もりなお 43歳=安永5 1000石)iは、2日前に目付からこの組の組頭へ昇格したばかりで、諸方への挨拶まわりがおわらないうちの、火盗改メを下命され、同時に組替えをいわれた。
寛政譜』をあたってみても、役目上に落ち度があった形跡はない---いや、常識的にいって発令2日で落ち度など、あるわけはない。

2番手も7番手も、与力は10人、同心は30人と、差はない。

唯一考えられるのは、7番手は、前の組頭・長谷川太郎兵衛正直が、14年間に2度、火盗改メを勤めている。
組頭が火盗改メにつくと、与力、同心にも加役手当てがはいる。
それをあてこんでの、火盗改メの組頭を呼びこむという例は、ないわけではない。

ちゅうすけ注】平蔵宣以(のぶため)の火盗改メの前任、堀 帯刀秀隆(ひでたか)が役についていたとき、2回も組替をやっている。そのときに秀隆の用人がふところにいれた賄賂は80両と100両であったとうわさされている。

とにかく、長谷川家は、弓の2番手への実績が、本家の太郎兵衛によって開かれたとみなしておこう。

奥田摂津守忠祇(ただまさ)から長谷川平蔵宣以までの、先手・弓の2番手の組頭のリストを掲げておく。


奥田山城守忠祇( 300俵)
  先祖は越後から尾張へ移り、松永弾正につかえ、
  のち織田右府に属し、また豊臣太閤に。
  大和国畑に蟄居していたのを、関ヶ原のときに
  家康に召される。

61歳 宝暦13(1763)年3月15日 御小納戸頭取より
71歳 安永2(1773)年正月11日 御持頭
    (1791年歿。享年93歳)

赤井越前守忠晶( 700石)
  先祖は丹波国を領す。明智光秀に追われ、遠江国に
  逃げる。大久保忠世の推挙で家康につかえる。

47歳 安永2(1773)巳年正月11日 小十人頭より
          同月20日 火盗改メ
48歳 同 3(1774)年 3月20日 京都町奉行
    (1790年歿。享年64歳)

菅沼藤十郎定亨(2020石)
  先祖は三河国野田で育ち、額田郡菅沼の婿になる。
  一族が武田についたが、定亨の始祖は家康旗下に。

 45歳 安永3(1774)年3月20日 西丸御目付より
 47歳 同 5(1776)年12月12日 奈良奉行
      (1778年、奈良にて歿。享年49歳)

土屋帯刀守直(1000石)
  先祖は武田家に仕え、秋山、のち武田家臣の金丸
  を継ぐ。信玄とときに武田の臣・土屋と改む。
  伝手を頼り駿河国今泉村の清見寺にいたのを鷹狩り
  にきた家康に認められる。

 39歳 安永5(1776)年12月12日 御使番より
    同     12月14日 (弓7番組へ)
               長谷川太郎兵衛と組替え
               同日  火附盗賊改メ加役
42歳 同 8(1779)亥年正月15日 大坂町奉行

長谷川太郎兵衛正直(1450石)
  始祖は今川義元に仕え駿河国小川から田中城へ移り
  のち、家康に使えて三方ヶ原で討ち死。

54歳 宝暦13(1763)年8月15日 御徒頭より
                  (弓7番組へ)
   同   10月13日 火盗改メ加役
   同  14(1764)年5月3日 加役御免
56歳 明和2(1765)年4月朔日 定加役
    同  3(1766)年6月朔日 加役御免
67歳 安永5(1776)年4月 日光御供
   同  (1776)申年12月14日 他組より
                 (土屋帯刀組へ)組替え
 69歳 同 7(1778)年 2月24日 御持頭
    (1792年歿。享年83歳)

贅 越前守正寿( 300石のち 400石)
  始祖は家康、のち紀伊家につかえる。
  吉宗に従い、御家人に。

37歳 安永7(1778)年2月28日 御小姓頭より
39歳 同 8(1779)年正月15日 火附盗賊改メ加役
44歳 天明4(1784)年7月26日 堺奉行
    (1795年、堺にて歿。享年55歳)

横田源太郎松房(1000石)
 祖先は武田信玄と勝頼の足軽大将、武田滅亡後に、
 家康のとき、甲斐の士とともに芦田小屋を守る。

41歳 天明4(1784)年7月26日 西丸御目付より、
                  火附盗賊改メ加役
    同   10月15日 前田半右衛門と組替え
42歳 同 5(1785年11月15日 御作事奉行)

前田半右衛門玄昌(1900石)
 始祖は美濃国出身で織田信忠に仕え、前田玄以(丹波
 亀山)は豊臣の5奉行の1人。

50歳 安永8(1778)年2月20日 小十人頭より
56歳 天明4(1784)年10月19日 横田源兵衛と組替え
   同 6(1786)年 7月8日 卒(享年58歳)

谷川平蔵宣以( 400石)
41歳 天明6(1786 )年7月26日 西丸御徒士頭より
 42歳 同 7(1787 )年5月 組召し連れ相廻るべき旨
      (天明の騒擾・打ち壊しの鎮圧部隊に)
   同   6月 一統御免
   同   11月より増加役
43歳 同 8(1788)年 4月29日御免
   同     10月2日定加役
50歳 寛政7(1795) 5月16日 病気につき願いのとおり
             火附盗賊加役御免。
   同     5月19日卒(享年50歳) 
           (ただし、事実は5月10日卒)


参考】2009年~4月3日[用心棒・浅田剛二郎] () () () (


2009年4月7日[先手・弓の2番手] () () () (


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2009.04.09

先手・弓の2番手(3)

(たち)さま。御蔵片町のほうの放火犯人も、この〔鳩屋〕を襲った賊の手の者です。その者の名前も所在も、ここで捉えた者たちをしめあげれば、わかりましょう」
銕三郎(てつさぶろう 25歳)が、夜廻りをしていて行きあった先手・弓の2番手の筆頭与力・伊蔵(いぞう 53歳)にささやく。

「こちらの賊たちは、舟できて、駒形堂のあたりから陸(おか)へあがったはずです。駒形堂の河岸には、船頭が1人か2人、賊たちの戻りを待っています」
銕三郎は、自分が太刀の柄頭で気絶をさせた賊に活をいれ、縛られているのに気づいて泣き顔になっているまだ20歳前に見える男に、
「獄門になりたくなければ、火盗改メに協力しろ。お前のお頭をはじめ、一味は全員、獄門になるから、お前が火盗改メに口を割ったことは、だれにもしれはしないが、どうだ?」

獄門といわれた若い男は、かんたんにうなずいた。
腰縄だけにして、その男を大川岸まで連れて行き、
「おーい。こっちだ」
と呼ばせた。
金で雇われた船頭が、舟からあがってきたところを、銕三郎が太刀の鞘で首筋を打って倒すと、2番手組の小者がすばやく縛りあげた。

見張りをしていた若い者(の)は、〔越巻(こしまき)〕の定次(さだじ 17歳)と名乗った。
「〔腰巻〕とは、ずいぶん、艶っぽい〔通り名〕をつけたものだな」
「屁(へ)をこく尻に巻く腰巻じゃねえんで---越後の{越す〕って字の〔越巻〕ですだ。おらが生まれた村の名だで」
「その越巻村というのは、どこにあるのだ?」
「綾瀬川ぞいだで---」
「綾瀬川って、長いぞ」
「埼玉郡(さいたまこおり)の越谷宿から横手へへえった越巻村(現・埼玉県越谷市新川町)だで」
「最初(はな)からそういえばいいんだ。要するに、高台のふもとなんだ」
「すんません。〔浮塚(うきつか)〕の甚兵衛(じんべえ 30歳)お頭(おかしら)が、みんなに可愛いがられる名だから、つけておけって---」

「なんだ、〔浮塚〕の甚兵衛のところにいたのか?」
「へえ。見張りをしていて、お頭やみんなが捕まったので、逃げただど、銭がつきたで、口合人さんとこさ行ったら、〔釘無(くぎなし)の角兵衛(かくべえ 40歳)お頭につないでもらったで---」
「中へはいったのは、〔釘無〕一味なんだな」
「なんでも、比企郡(ひきこおり)にそういう名前の村があるだと」

ちゅうすけ注】『鬼平犯科帳』文庫巻16[見張りの糸]に〔稲荷いなり)〕の金太郎という盗賊が登場する。稲荷なんて、日本中に、わかっているだけでも12万社あるが、彼の兄が〔むじな)〕の豊蔵(とよぞう)というから、武蔵国比企郡(きこおりり)上か下の狢村(現・埼玉県比企郡川島町)出身と特定できた。隣が釘無村である。

定次を捕り方へわたして、銕三郎筆頭与力に頼んだ。
「あれは、まだ、盗みの道へはいったばかりで、足を洗う見込みがあります。ご温情を---」
「こころえた。わが方も、お馬先召し捕りを容認いただいておるのでな」

参照】お馬先召し取りについては、2006年6月12日[現代語訳『徳川時代制度の研究」] () 

「では、定次だけは、今夜のうちに、目白台へ引きたてください」

連れられていく定次の耳に、銕三郎がささやいた。
「困ったら、永代橋東詰の居酒屋〔須賀〕の亭主、権七(ごんしち 37歳)さんを訪ねるんだぞ」


参考】2009年~4月3日[用心棒・浅田剛二郎] () () () (

2009年4月7日[先手・弓の2番手] () () () (

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2009.04.08

先手・弓の2番手(2)

銕三郎(てつさぶろう 25歳)は、〔佐久屋〕の瀬戸口を裏手に出、隣家とのあいだの猫道から表へまわった。
表通りへのとば口で、見張りの挙動をうかがう。

見張りの賊は、新米らしく、じっとひそむことをしないで、あちこちと歩きまわっている。
その男が猫道の前へくるのを待ち、背骨を太刀の柄頭でつよくつくと、声もたてずに気絶して倒れた。
ついてきていた太作(たさく 63歳)にしばりあげるように言い、〔鳩屋〕の表戸に耳を寄せてみた。

激闘の音がかすかに伝わってくる。
表戸は、内から桟が降りていてあかない。

そこへ、やってきた一隊が、銕三郎を見とがめて取り囲み、提灯をつきつけた。
「怪しいやつ。なにをしておる?」
「あなた方は、何組ですか?」
「先に名乗れ」
「先手・弓の8番手組頭・長谷川平蔵宣雄の嫡子・銕三郎です」

一隊の中から、指揮者らしい年配のが、
長谷川どのでござったか---」
「おお、筆頭与力さま」
先手・弓の2番手の筆頭与力・(たち)伊蔵(いぞう 53歳)の顔が、新月の星明りでみとめられた。
2番手組の組頭は、奥田山城守忠祇(ただまさ 67歳 300俵)である。

筆頭とは、去年の晩春、盗賊・〔傘山(かさやま)〕の弥兵衛(やへえ 40がらみ)の記録のことで、目白台の組屋敷で会っている。
「わざわざのお見廻り、ご苦労さまでございます。それにして、奥田山城さまのお組がこのあたりをご担当とは---」
「目白台の組屋敷からは方角ちがいだが、お頭の屋敷は神田の元誓願寺なので、下谷(したや)あたりの見廻りを割りあてられてのでござる。ところで、ここで、なにを---?」

銕三郎太作がしばりあげた見張りの賊をしめし、
「〔鳩屋〕へ押しいった賊たちの、見張り役を捉えました」
筆頭与力は、賊が身動きしないので、
「斬り殺された---?」
「いえ。気をうしなっているだけです。切り傷はつけてはおりませぬ」

与力は、捕り方の同心に目で、賊を改めるように命じ、
「で、盗賊たちは?」
「いまごろは、この家の中で、みんな、気をうしなっておりましょう」
銕三郎が塀ごしに呼びかけた。
さん。表の大戸を開けてくれないか」

筆頭ほか組下一同が、奥へ行ってみると、廊下や庭に、8人もの賊が倒れてうめいていた。
浅田うじ。先手・2番手の筆頭与力どのです」
でござる」
「この家の用心棒・浅田剛二郎(ごうじろう 32歳)であります」
(てつ)さんの剣友で、佐倉の郷士・岸井左馬之助(さまのすけ 25歳)と申します」
「おなじく弟弟子の井関録之助であります」
それぞれが、筆頭に名乗った。

筆頭は、ひとりひとりに大きくうなずきながら、
「お手前方のあっぱれな働きは、組頭の奥田山城守さまが、上っ方へご報告になるはず。組頭さまは、今夜は、お風邪ぎみでご静養なので、小職から仔細に話しておきます」

1_360
_
(奥田山城守忠祇の[個人譜)
ちゅうすけ補】奥田山城守の嫡養子・吉五郎直道(なおみち)とは、銕三郎は2年前の明和5年(1768)12月5日、いっしょなに将軍(家冶)の初見をうけている。

筆頭は、銕三郎を廊下の隅へいざない、
「お頭はお齢をめしておられるので、小職に代役をお命じになりましたが、今宵のような手柄は、ご自分のものになさりたいはず。どうであろう、賊の逮捕は、明日、お頭のお馬先召し捕り---ということにしていただきたいのじゃが---?」
「承知しました。そういたしましょう」

参照】お馬先召し取りについては、2006年6月12日[現代語訳『徳川時代制度の研究」] () 【ちゅうすけ注】火盗改メの長官(かしら)のお馬先召し捕りというのは、じっさいにあったことらしい。が、先手の臨時見廻りであったかどうかはしらない。

銕三郎が訊く。
ところで、御蔵前片町あたりのようであった火事はどうなりました?」
「ぼやでの。大火にならないでよかった。そちらは、鉄砲の5番手の永井内膳直尹 なおただ 500俵)さまの組があたっておるが、組頭どのはやはり73歳とお齢での、次席与力どのが采配をとってござる」


参考】2009年~4月3日[用心棒・浅田剛二郎] () () () (

2009年4月7日[先手・弓の2番手] () () () (

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2009.04.07

先手・弓の2番手

http://onihei.cocolog-nifty.com/edo/2009/04/post-05ca-1.html如月(きさらぎ 陰暦2月)の新月の前後両日ともで3晩のうちに、
(きっと、くる)
鉄三郎(てつさぶろう 25歳)は、そう読んでいた。

もちろん、〔蓑火みのひ)〕の喜之助(きのすけ 48歳)のように、条理をわきまえた首領は、みすみす危険の多い盗(つと)めをするわけがない。
功名心にかられたうぬぼれ屋が、火盗改メの鼻をあかしてやったと、仲間内で自慢をこくためにやるのだ。
貧から盗みの道に入った者の中には、抑圧が裏目にでて、見せたがり屋も少なくはない。

新月が近づいいたので、鉄三郎は、3日間は、夜、外泊すると、久栄に告げた。
そのことをしった老僕・太作(たさく 63歳)が、
「若。わたくしめをお供にお連れください。それで、ご新造さまが安心なされます。いまが、ややにとって、一番大事なときで、母ごに心配ことがあっては、ややに感染(うつ)ります」
太作は、どこぞに隠し子でもつくったことがあるように、よう、気がまわるな」

鉄三郎は、質商〔鳩屋〕のおもてがのぞける向かいの小間物屋〔佐久屋〕の2階の一と間を夜だけ借りるように話をつけていた。
理由(わけ)を聞かなくても、近所のことだから、〔佐久屋〕は〔鳩屋〕の1件をしっていて、間接ながら事件にかかわることでわくわくであった。

〔鳩屋〕では、用心棒・浅田剛二郎のほかに、岸井左馬之助(さまのすけ 25歳)と井関録之助(ろくのすけ 21歳)が、高杉道場備えつけの鉄条入りの振り棒をたずさえて、待ちかまえている。
〔鳩屋〕の家族と奉公人は、1軒おいた家へ、夕食をすますと、さっさと避難していた。

鉄三郎は、見張りを太作にまかせて仮眠をとっていた。
太作が、ゆすって、
「若。きました」
鉄三郎も、窓障子のすきまから、向かいの〔鳩屋〕を見た。
「何刻(なんとき)だ?」
ささやき声で訊く。
「九ッ(12時)をすぎたところです」

10人近い人影が脇の塀に縄梯子をのぼっている。

そこへ半鐘が打たれた。
鉄三郎が、太刀を腰にさしながら、
(ばかめ!)
舌打ちした。
(放火するなら、もっと、遠くでやれ。これでは、近所中が起きてしまう)

〔佐久屋〕の亭主・伊兵衛も寝ていなかった。
そっと部屋へ入ってきて、
「物干し場から、火事のぐあいをたしかめてもよろしゅうございましょうか?」
「おやめなさい。盗人が気がついたら、命がない」
「へえ。さようで---」
亭主は、あきらめて、しぶしぶ降りていった。

鉄三郎は、見張りを1人残し、盗賊たち全員が塀を越えたのをみとどけてから、ゆっくりと階段を下りていった。


参考】2009年~4月3日[用心棒・浅田剛二郎] () () () (


2009年4月7日[先手・弓の2番手] () () () (

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2008.11.26

諏訪左源太頼珍(よりよし)(2)

私事を記すことをお許し願いたい。
というのは、諏訪左源太頼珍(よりよし 62歳 2000石)の拝領屋敷の本郷弓町についてである。
この仁が、先手・鉄砲(つつ)の7番手の組頭を、58歳の明和元年(1764)6月11日から、あしかけ5年ごしに勤めていることはすでに報じた。

(どうでもいいような正否を言いたてると、幕府の役職者の任免を記録した『柳営補任』は、頼珍の先手・組頭の発令年月日を、宝暦14年6月11日としている。宝暦は、14年の6月2日に改元となり、明和元年と改まっているから、『寛政譜』の記述のほうが正しいことは、正しい)

ついでに言うと頼珍は、2年後の明和7年の5月13日に、在職のまま64歳で卒(しゅっ)したことになっている。
日付けは公けに喪を発した日である。
在職のままの逝去だから、辞職願が聞きとどけられるまでには、1週間や10日の日時が必要なはずである。

屋敷があった本郷弓町---この弓町には、ここ30数年来、ちゅうすけも住んでいる。
同時代であれば隣組である。
というので、あわてて、近江屋板の切絵図をたしかめた。

ちゅうすけの住まいは、壱岐坂ぞいに屋敷があった松平帯刀信譲(のぶよし 享年27 5000石)の屋敷跡のマンション。帯刀から4代あとが切絵図に名が載っている美作守
壱岐坂については、文京区の標識が、駐車場をでた左に掲示されている。

_360_3
(壱岐坂由来の標識板)

書き写す。

「壱岐坂は御弓町へのぼる坂なり。彦坂壱岐守屋敷ありしゆえの名なりという。
按(あんずる)に元和年中(1615~1623)の本郷の図を見るに、この坂の右の方に小笠原壱岐守下屋敷ありて吉祥寺に隣れり。おそらくはこの小笠原よりおこりし名なるべし。」(改撰江戸志)
御弓町については「慶長。元和の頃御弓同心組み屋敷となる。」とある。(旧事茗話)

立ち止まっては、この標識板を読んでいる人を見かける。
余談だが、この坂をあがりきった先の手うちうどんの店〔高田屋〕が[一本うどん]を食べさせてくれる。

【ちゅうすけ注】2006年7月17日[一本うどん

向かいが、諏訪家の屋敷である。
いまは、東洋学園大学のビル校舎が新築された。その前は、東洋女子短大で、若いぴちびちした女子学生が坂をのぼって登校していたが、いまは男子学生が多く、授業について語りあっているのを聞いたことがないのは、まあ、どことも似たりよったりかも。

_280

諏訪家は2000石だから、屋敷地も1000坪はあったろう。東洋女子短大のころの校舎がすっぽりおさまっていた。
あの年ごろの女子学生は、都心に近い校舎だからこそ、地方からあこがれて受験したらしい。
郊外の校舎では、自分たちが住んでいる地方都市か町とかわらないからつまらないということらしかった。

旧・弓町---いまの文京区本郷1・2丁目の名物は、樹齢600年以上という巨樹・くすのきであろう。地上1mの幹囲が8.5mもあり、区内で最太という。

_300

告白すると、ちゅうすけが生まれたのは、日本海側の城下町T市の御弓町であった。
そんなこともあって、弓町には関心があった。
久生十蘭『顎十郎捕物帳』の主人公---仙波阿古十郎(せんばあこじゅうろ)の住まいも本郷弓町の乾物屋の2階だったが、と第1話[捨公方(すてくぼう)]を拾い(しゃれではない)読みしていると、なんとなんと、松平美作守が出てきたのには驚いた。
話はかわるが、田沼意次(おきつぐ)を主人公にすえた平岩弓枝さん『魚が棲む城』(新潮文庫 2004.10.1)の冒頭、意次が竜介(りゅうすけ)と呼ばれていたころの田沼家(700石)の屋敷も本郷弓町であった。出世後や失脚後の切絵図に載っているわけはないが---。

さて、ちゅうすけのマンションの向かいに屋敷があった諏訪家に、〔中畑(なかばたけ)〕のお(りょう 29歳)は、〔狐火きつねび)〕一味の者がすでに引きこみに入りこんでいると言った。
これから、それらしい人物を、ちゅうすけは、東洋学園大学に登下校する、いまふうのだらしない服装と頭髪をつったてた若者の中から見つけださないといけない(冗談)。


参照】2008年11月19日~[諏訪左源太頼珍] (1) (3) (付)

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2008.11.22

遠藤源五郎常住(つねずみ)

_100_2(りょう 29歳)が、身をよじって笑い転げてしまった。
銕三郎(てつさぶろう 23歳)の口からでた話だけに、よけいにおかしみが強いのだ。
畳をたたいて、うれしさをあらわしている。
足をばつかせたその勢いで、裾がひらいた。
それでも、白いふくらはぎを、銕三郎の視線にさらしたまま、背をふるわせ、声をあげて笑いつづけている。
すっかり気をゆるしてしまっている証拠で、外出用のほこり除けの揚げ帽子がくずれそうなほど。(歌麿 揚げ帽子 お竜のイメージ)

二ッ目ノ橋北詰の、しゃも鍋〔五鉄〕の二階の小座敷である。

_360
(〔五鉄〕の2階の間取り図 建築家:知久秀章画)

〔五鉄〕の一人息子・三次郎(さんじろう 18歳)が、新牛蒡(ごぼう)のササガキとしゃもの臓物を出汁(だしじる)で煮る鍋をみつくろってくれた。

ちゅうすけ注】この臓物鍋は、『鬼平犯科帳』巻8[明神の次郎吉]p104 新装版p111 に、「初夏、「熱いのを、ふうふうていいながら汗をぬぐいぬぐい食べるのは、夏の快味」と。おはほとんど化粧していないので、汗をかいて平気だと、三次郎は見きわめたのであろう。

参照】】〔五鉄〕の位置 2006年7月16日
〔五鉄〕の1階 2008年3月25日[盟友・岸井左馬之助] (2)
〔五鉄〕の1階パース [ちゅうすけのひとり言] (23)

ようやく笑いをおさめ、目尻の涙を懐紙でぬぐったが、双眸がしっとりと濡れており、29歳の年増の色っぽさが、増していた。
(「目病みおんなと風邪ひき男」とは、言いあてている。いまのおの涙目がそうだ)
銕三郎の、感想である。

4人の候補者(容疑者?)のうちの1人---かつて銕三郎がつながりをつけた遠藤源五郎常住(つねずみ 52歳 1000石 先手・鉄砲(つつ)の9番手組頭)の説明ついでに、柳橋の料亭〔梅川〕の仲居・お(まつ 30歳前=当時)の一件を話して聞かせたのである。

は、盗賊・〔初鹿野はじかの)〕の音松(おとまつ 35.6歳=当時)の情婦で、柳橋の料亭〔菊川〕の仲居に化けて引きこみに入っていた。
それで、好物の〔船橋屋〕の黄粉(きなこ)のおはぎに朝顔の種の粉をまぜたのをうまく騙して食べさせ、座敷でひどい下痢を演じさせた。

_360
(北斎 美人図 下痢に悩むお松のイメージ)

のこの失態で、〔初鹿野〕一味は、とりあえず江戸から去っていった。

参照】2008年8月10日~[〔菊川〕の仲居・お松] (9) (10) (11) 

「初鹿野村は、わたしの生まれた村から、それほど遠くはないんですよ」
は、甲州・八代郡(やしろこおり)仲畑村の育ちである。
初鹿野村は、隣の都留郡(つるこおり)も北の、甲州路ぞいといったほうがあたっている。
「さようでありましたな」
「ああ、長谷川さまは、村へいらっしゃったのでしたね」
「猿橋では、〔阿良居(あらい)〕方に宿をとりました」
「母が、猿橋宿の手前の大月の安宿で飯炊きをしていることも、ご存じなんですね」
の土地勘は、仲畑村が基点になっている。

「うむ」
「わたしが仕送りをしていることも---」
「------。いや。遠藤常住どのだが、父上から聞いたところでは、去年、不祥事があって、諸事、お控えのご様子らしい」
「不祥事とは---?」

銕三郎が語って聞かせる。
火盗改メに任じられた常住が、前任の細井金右衛門正利(まさとし 61歳廩米200俵)組が逮捕し、吟味未了だった賊を、誤認逮捕といって出牢させ、召し放したので、吟味を引きつぐことになっていた町奉行方から異議が出て、出仕(しゅっし)停止1ヶ月の処分を申しわたされたということであった。

参照】細井金右衛門正利は、2008年8月5日[〔菊川〕の仲居・お松] (5)
200年9月6日[火盗改メ・索引] (1)

ちゅうすけ注】常住は、出仕停止処分が解かれた翌日、火盗改メも解職された。もっとも、先手の組頭職のほうは、その後、70歳で卒(しゅっ)するまで、18年間つづけている。幕府の温情でもあったろうが、常住の諸方への手くばりも効いていた。

_360_2
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(遠藤源五郎常住の個人譜)

「そのようなご事情がおありですと、遠藤さまは、お外しになったほうがすっきりいたしますね」
「となると、調べるのは、諏訪さまということになりますが---」
「はい。諏訪さまは、わたしが調べてさしあげると申しました」
「お手数をおかけします」
「なんでございますか、水くさい」
「そうでした。水でなく、湯のあいだがら---」
長谷川さまっ!」
は、下腹がにじんでくるのを、懸命にかくした。

ことのついでである、遠藤一門の大名家というのは、近江の三上藩主・胤将(たねのぶ 40歳=明和5年 1万石)。


参照】[宣雄の同僚・先手組頭] (1) (2) (3) (4) (5) (6) (7) (8) (9)

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2008.11.21

松前主馬一広(かずひろ)

_130_3本所・二ッ目ノ橋北詰のしゃも鍋屋〔五鉄〕で、ゆっくりと話しあう銕三郎(てつさぶろう 23歳 のちの鬼平)と、女賊・〔中畑(なかばたけ)〕のお(りょう 29歳)が交わす会話が気になるところだが、おが、向島・須田(すだ)村の寓居の湯殿でのことは、「わたしの一生の秘めごとです」と断言しているのだから、二度と同じような睦みごとはおきまい---そう割り切ったちゅうすけは、松前主馬一広(かずひろ 1500石)の調べにとりかかる。(歌麿『高名美人六家撰』 お竜のイメージ)

旗本の嫡男が、女賊と躰をたしかめあったとあっては、出世のさまたげどころか、放逐もまぬがれまい。
したがって、あのことは、鬼平ファンみんなで、口をつむぐしかない。

参照】2008年11月17日[宣雄の同僚・先手組頭] (8)

旅籠のむすめにややを産ませたとか、料亭の女中とねんごろになった---といったこととは、わけがちがう。
それなら、盗賊・〔狐火きつねび)〕の勇五郎(ゆうごろう 45歳=当時)の愛妾・お(しず 18歳=当時)とのことはどうなのだ---とのつっこみもあろうが、おそのものが女賊であったわけではないから、知らなかった、で通しもできる。

参照】2008年6月2日[お静という女] (1) (2) (3) (4) (5)

先手・鉄砲(つつ)の17番手組頭の松前主馬一広(かずひろ)を、銕三郎に代わって調べていて、妙なことに気づいた。

番手(組屋敷)
(氏名 年齢 禄高 この年までの在職あしかけ年数)
17番手(市ヶ谷本村)
 松前主馬一広(かずひろ)      46歳 1500石 16年め

お気づきであろうか?
いや、なに、松前姓なら、蝦夷(えぞ)・松前藩の一族であろう---って??
そのとおり。
だが、妙というのは、そのことではない。もちろん、つながりはある。

妙なのは、明和5年(1768)夏、現在で、46歳という年齢である。
いや、46歳に不思議はない。生まれて、45年たてば、当時は数え齢で、だれだって46歳になる。

妙なのは、在職16年め、という記述である。
もし、この年数が、ちゅうすけのキーの打ちまちがいでなければ、30歳での先手組頭就任ということなる。

これまで先手組頭は、番方(ばんかた 武官系)の出世双六(すごろく)の「上がり」か、その一歩手前と、何度も書いてきた。
だから、30歳での組頭就任は、若すぎるし、事実とすれば、きわめて異例である。

今回の組頭リストは、『柳営補任』(東京大学出版会)に拠って、手っ取り早くつくった。
この史書には、誤記が少なくない。
(東大出版会は、誤記は誤記として、そのまま刊行している)。

それで、『寛政譜』を検(あらた)めてみた。

_360_2
_360_3
(松前主馬一広の個人譜)

念を入れて、『徳川実紀』[惇信院殿家重)]宝暦3年(1753)10月9日の項を確かめてもみた。

この日、目付松前主馬一広先手頭となり、

と記されている。
30歳での就任は、ミス・タイプではなかった。

ほかに、こんな若さでこの役についた者がいるであろうか?
記憶にあるかぎり、いない。
長谷川平蔵宣以---すなわち、銕三郎も早かったが、それでも41歳であった。
ただし、平蔵は、目付からではなく、徒(かち)の組頭からである。

時間があれば、目付から先手組頭になった全員の就任時の年齢を調べればいいのだが、残念ながら、そんな時間をいまは持ち合わせていない。

それで、松前一広と同じく、宝暦年間(1751~771)のみをあたってみた。
この期間中に転出したのは34人。うち、先手組頭へは、松前一広のほかにはもう1人。
竹中彦八郎元昶(もとあきら 1000石)が57歳のとき。

ついでなので、やり手として名をのこしている(にえ)壱岐守正寿(まさとし 300石)も見てみた。38歳。若いことはずば抜けて若いが、一広にはおよばない。

いったい、一広は、なぜ、そんなに就任が早かったのか。

松前藩は、1万石高だが、実収ではなく、アイヌとの交易独占権のみ。
明和のころには、砂金採集高も細っていたから、けっして裕福とはいえなかった。

主馬一広の家は、2代目藩主公広(きんひろ)の3男が立てた支家(幕臣 2000石)の、そのまた分家の幕臣(1500石)である。
一広は3代目。
個人譜]での栄進ぶりを見るかぎり、才幹の持ち主であったと認めるしかない。
先手の頭は1500石高だから、足(たし)高はなしの、持ち勤め(もちだかづとめ)である。
格を求めて、とうぜんかもしれない。
前職が目付ということも大きい。
目付時代の仲間が現職に残っているかもしれない。
そこのところは、銕三郎に調べてもらうとして、有力な容疑者(?)であることは間違いない。

が、銕三郎がどう見るかは、別である。

そのこととは別に、ちゅうすけは、ある妄想にふけりはじめた。

松前藩は、アイヌから毛皮や鷹、鮭(さけ)、海鼠(いりこ)、鮑(あわび)、鰊(にしん)などを買いつけていた。
ちゅうすけ が目をつけたのは、鮑である。
清国との交易の支払いの金・銀が不足していたので、幕府は海鼠(いりこ)や鮑と鱶(ふか)のひれをあてていた。

側衆で老中格・田沼主殿頭意次(おきつぐ 50歳)は、そのほうを長崎奉行だった石谷(いしがや)備後守清昌(きよまさ 54歳 800石)に考えさせていてた。
松前藩に好印象を与えるために、一門の俊才・一広の栄進に、備後守の示唆があったのではなかろうか。

参照】2007年7月28日[田沼邸] (4)

もし、そういう裏があるのであれば、銕三郎が的を一広へ向けては、虎の尾を踏むことになりそうだが。


参照】[宣雄の同僚・先手組頭] (1) (2) (3) (4) (5) (6) (7) (8) (9)

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2008.11.20

仁賀保兵庫誠之(のぶゆき)

「4家のうちの、仁賀保家ですが---」
_130銕三郎(てつさぶろう 23歳)が声をひそめて語りかけている相手は、美形の〔中畑(なかばたけ)〕のお(りょう 29歳)である。
場所は、御厩河岸の渡し舟場前の茶店〔小浪〕の小座敷。
いつもの揚げ巻の髪でなく、武家の内室ふうに結い、ほこり除けの揚げ帽子を巻いている。
銕三郎と逢うための、変装であった。

銕三郎とおは、別々の渡し舟でやってきた。
もちろん、おのほうがひと舟早いのを使った。
舟だと、岸を離れる寸前に飛びのれば、尾行(つ)けられるおそれが少ない。
また、茶店〔小浪〕のことは、徒(かち)目付の下働き・徒押(かちおし)たちも、まだ、気づいていないとおもわれる。

「じつは、廃絶になっているのです」
「廃絶?」

銕三郎が、書物奉行・長谷川主馬安卿(やすあきら 50歳 150俵)に、4家の名簿をだして、それぞれの家の祖が大名になった経緯が知りたいのだが---と頼んだら、安卿は怪訝な表情で言った。
仁賀保家? 大猷院家光)さまの時代---それも、たしか、寛永(1624~43)だったと記憶しているから、もう120年も昔のこと---」
「因(もと)は?」
「継嗣(あとつぎ)がなかったのです」

参照】2007年9月29日~[書物奉行・長谷川主馬安卿(やすあきら) (1) (2)

安卿が調べてくれたところによると、断家は、初代藩主・挙誠(たかのぶ 享年39歳)のときのことだという。
初代藩主とはいえ、仁賀保家は、信濃の太井から陸奥国由利郡(ゆりこおり)仁賀保郷へ移って領地とした家柄で、徳川からは、1万石の外様としてあつかわれていた。

挙誠は、遺言の形で、次弟・誠政(のぶまさ)に2000石、3弟・誠次(のぶつぐ)に1000石を遺贈していたため、遺領のうち、この3000石が仁賀保家にのこった。

ちゅうすけ注】仁賀保は、にかほ市となる平成17年まで、秋田県由利郡仁賀保町であった。

「お尋ねの、兵庫誠之どのは、1000石を遺贈された後に200石の加恩があった3弟・誠次どのの末---といいたいところですが、じつは、ご養子なのです」
「ほう---」
「われわれと同姓の長谷川甚五郎重行(しげゆき 享年59 両番 400石)どのの継嗣ぎでしたが、少年のころは多病で後継できず、18歳で養子に。あちらの長谷川は、美濃で、斉藤織田豊臣徳川と仕えを移しています。手前のところは、美濃から甲州ですが---」
「拙のところは、大和から駿州の今川です」
「そうでしたな」

仁賀保兵庫誠之が先手・鉄砲(つつ)の組頭に任じられたのは、今年---つまり、明和5年(1768)正月11日である。

「400石の実家から、1200石の家へ養子---という例はよくあるのでございますか?」
「さあ。そのようなことには、関心なくて---」
「養子になられた誠之さま---1200石の先へ婿に望まれたほどのお方ゆえ、よほどの美丈夫だったのでしょうね」
らしからぬ、妙な類推を口にした。
「さあ。いまや、59歳のご高齢ですからね」
23歳の銕三郎とすれば、父・宣雄(のぶお 50歳)より上は、高齢者である。
口にしてしまってから、
(いけない!)
臍(ほぞ)を噛(か)んだ。
29歳のおに、齢のことを意識させたくなかった。
が、おは、まるで、気にしていない。
自分が24,5歳に見られがちなことすら、気にもとめていなかった。
世間の思惑にふりまわされることがないほど、現実を見る力が強いのである。

「いささか立ち入る話になりますが、誠之どのの実家の長谷川一門へ、2000石のほうの仁賀保家から嫁入りされた姫がおられ、そのお口ぞえによるご縁とか。それに、美男子をお望みになった家付きのむすめごは、お子もなさないでお亡くなりになっています」
「すると、のちぞえのお方が---?」
「幾たりかのお子を---」
「お勝手向きも、たいへんそう」
「あっ、そうなりますか」

は、それがくせの、眉をひらいて、にんまりと微笑む。
「なりますね」
「しかし、大名家からの分家という枠からはずしてもよろしいような気はしますが---」
は、うなずいた。
「お3人になりますね。諏訪さまのお勝手向きの調べは、わたしのほうでやりましょうか?」
「なにか、手づるでも?」
「はい。一人、入れてあります」
「ほう---」

_130_2小浪さん。お酒、ください」
が、女将・小浪(こなみ 29歳)に声をかけた。

酒とつまみを給仕してきた小浪が、心得た表情で2人を看てから下がった。、
「まさか、湯殿でのこと、話してはいないでしょうね?」
「口が裂(さ)けても、洩らすものですか。わたしの一生の秘密ですもの。それに、小浪さんは、〔狐火(きつねび)〕の隠密ですよ」
「それにしては、意味ありげな目つきで見て行きましたよ」
「河岸を変えましょうか?」

_360
(「不二見の渡し」 『風俗画報』明治41年4月20日号 昇雲画)

「お米蔵の南はずれ、瓦町の不二見の渡しで、向こう岸の横網町へわたり、回向院の門前で待っています」
「夕焼けの富士のお山が、すてきそう」
「はぐれたら、二ッ目ノ橋北詰の〔五鉄〕というしゃも鍋屋です」
「はい。〔五鉄〕ですね」

_360_3
(仁賀保兵庫誠之の個人譜)

参照】[宣雄の同僚・先手組頭] (1) (2) (3) (4) (5) (6) (7) (8) (9)


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