カテゴリー「020田沼意次 」の記事

2007.12.01

『田沼意次◎その虚実』(5)

相良の郷土史家・故・後藤一朗さん『田沼意次 ゆがめられた経世の政治家』(センチュリー・ブックス 1971.9.20)は、その後、同じ版元から、新書シリーズノ1冊『田沼意次◎その虚実』(1988.10.10)に衣替えし再刊行された。

(意知 をきとも の四男)意明(をきあき)以下四人の死後、意次(をきつぐ)の四男意正(をきまさ)が相続した。彼は田沼家全盛のころ、水野忠友(ただとも 出羽守 駿州・沼津藩主 老中 3万石)に養子に行っていた忠徳(ただのり)である。忠友は意次に引き立てによって出世し、老中にまでなったのに、田沼失脚と見るや自分に難がおよぶのをおそれ、この忠徳(離縁後、意正 をきまさ)を離縁帰籍させた。それが家にもどっていたのである。
意正には娘が一人(長男意留 をきとめ のほかに)あったが、彼女は文政九年(1826)柳生但馬守栄次郎(大和国柳生 1万石)の室になった。武術万能のそのころ、将軍家指南番柳生家へ正室として迎えられたくらいだから、女流剣士として当代一流だったことは、まずまちがいないところであろう。意次以下田沼家の人々の武芸実力を語った文献はないが、この孫娘を見て、家風の様子がほぼうかがい知ることができよう。(略)

柳生家と聞いて、女武芸者を連想することをとやかくいうのではない。
_1池波ファンなら、田沼意次(をきつぐ)と女武芸者の文字からは、『剣客商売』のヒロイン・佐々木三冬を連想する。
三冬は、池波さんが直木賞を受賞した年の『別冊文藝春秋』に発表した[妙音記]佐々木留伊(るい)の再来であることも、ファンなら承知している。

しかし、『剣客商売』『小説新潮』で連載が始まったのは、1972年新年号からと書くと、改めて『田沼意次 ゆがめられた---』の刊行年へ目をやるのではなかろうか。
---連載開始の前年の、1971年9月。

もちろん、若い女武芸者と老齢の剣客---秋山小兵衛をからませた『剣客商売』の構想は、もっと早くから練られていたろう。、『小説新潮』の編集部には、予告もされていたろうし、資料もそれなりに集められていたろう。
が、しかし、『田沼意次 ゆがめられた---』が発想の一つの引き金になったと考えても、的はずれとはいえないのではなかろうか。

いや、それよりも、『田沼意次 ゆがめられた---』によって、意次像が、池波さんの中ではじけたというほうが、より正確かも知れない。平岩弓枝さんが『田沼意次 ゆがめられた---』に触発されて『魚の棲む城』の田沼意次を造形したように。

あるいは、すべてはぼくの妄想かも知れない。
しかし、意次と池波さんの接点の一つは、解けたといえるのではあるまいか。『剣客商売』の5年前に始まった『鬼平犯科帳』における、賄賂取りの田沼像から脱却したことの説明もこれでつかないだろうか。

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2007.11.30

『田沼意次◎その虚実』(4)

相良の郷土史家・故・後藤一朗さん『田沼意次 ゆがめられた経世の政治家』(センチュリー・ブックス 1971.9.20)は、地元の研究者でなければ気がつかないし、知ることも困難なデータについて、いくつも明らかにされていて、教えられるところが大きい。

その一つ。
天明7年(1787)i10月2日、田沼意次(をきつぐ)につげられた再度の知行(2万7000石)とl領地の没収と強制隠居と蟄居(ちっきょ)の結果、陸奥・下村ほかで1万石を与えられた孫・龍助淡路守意明 をきあき)は、大坂城の守衛を命ぜられ、かの地で歿したことは、『寛政譜』にある。寛政8年(1796)9月22日、24歳であった。

その後を継いだ次弟の意壱(をきかず)は、一七九九年(寛政11)ニ月、新見大炊頭(おおいのかみ)の娘と結婚したが、翌年九月一七日死去した。(略)
ついで末弟意信(をきのぶ)が家督相続し、一八○ニ年(享和ニ)一一月、松平播磨守妹を嫁に迎えたところ、彼女は翌年八月ちょうど一○ヶ月目に没した。引き続いて翌九月一ニ日、意信も死去した。
このようにして、意知(をきとも)の三人の遺児はついに絶えてしまった。そのあと、意次の弟意誠(をきのぶ)の孫意定(をきさだ)を養子に迎えて嗣がせたところ、意定は相続九ヶ月、一八○四年(文化元)七月に四日(意次の命日)にむ没した。
以上一七九六年意明の死から、一八○四年意定の死まで、なんと八年間に五人の若者たちがつぎつぎと死んでしまった。(略)

さすがに後藤さんも、この連なった死を、一橋治済(はるさだ)による毒殺とは言っていない。
まあ、不遇による精神的ストレスはあったかもしれない。
後藤さんに望むのは、4人の享年を記しておいてほしかった。

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2007.11.26

『田沼意次◎その虚実』(3)

静岡県・相良の郷土史家・故後藤一朗さん『田沼意次◎その虚実』(清水新書 1984.10.10)を紹介している。

第1章「田沼意知の危禍」はこんな書き出しではじまっている。

一七八三年(天明三)一一月、山城守(やましろのかみ)田沼意知(おきとも)は若年寄(わかどしより)を拝命、新たに五○○○石の蔵米(くらまい)を賜ることになった。父田沼意次は十代将軍家治(いえはる)の寵臣(ちょうしん)、すでに十数年間老中の職にあり、四万七○○○石の相良(さがら)城主(一七八五年には五万七○○○石となる)。当時”田沼父子"といわれて幕政の実験を握り、飛ぶ鳥も落とす勢いであった。(略)

そういう得意絶頂の時、一七八四年(天明四)三月ニ四日、意外な大事件が起きたのである。
その日の夕刻近くの退庁時、城中若年寄部屋から、酒井石見守(いわみのかみ)・太田備後(びんご)守・田沼山城守・米倉丹後(たんご)の四人がそろって退出、中(なか)の間を過ぎて桔梗(ききょう)の間へ入ってきた時のことである。すぐその下の新番御番所に控えていた下級武士五人のなかの一人、佐野善左衛門政言(まさこと)はにじり出て、
「山城守、佐野善左衛門にて候(そうろう)、御免(ごめん)!」
と大声でせ叫んで粟田口(あわたぐち)ニ尺一寸の大刀、鞘を払って斬りかかった。

(ちょうすけ注:)「夕刻近く」はなにかのはずみの思いちがいであろう。老中の退出は2時。それを待って若年寄が退(ひ)く。
『徳川実紀』のその日の記述にも、「けふ例のごとく事はて、午(うま)の刻(午後1時から1時間)のをわりに、宿老(老中)の輩はみなまかりでぬ。少老(若年寄)も是にさしつぎて退出(さがら)むとと、打連て中の間より桔梗の間にかかりたるところ---とある。
次の疑問は、城中へ登る時には、大刀は預ける決まりのはずだが、新番番所へ詰める時には所持がゆるされているのだろうか。
も一つ。粟田口といえばかなりの名刀で、『鬼平犯科帳』長谷川平蔵が帯びていることにも疑問が呈されている。家禄500石の佐野がもてるのだろうか。

意知が振り向いた時には、早くも切っ先は目の前に来ていた。防ぐ間も、避くる間もなく、肩先に長さ三寸、深さ七分ほどの一太刀(ひとたち)をうけた。次の間に避けようとした意知の後ろからおろしたニの太刀は、柱へあたって届かなかった。(略)

善左衛門は柱にくいこんだ刀をはずすと、人びとの間をくぐって後を追い、意知の姿を見るともた斬りかかった。とどめを刺すつもりで腹をめがけて突いたところ、意知は必死になって鞘のままこれを防ぎ、からくも腹はまぬがれたが、両股(りょうまた)にニ太刀、また深手を負った。(略)

近くにいあわした大目付松平対馬守は、すでに七○歳の老人であったが、血刀を振り廻している佐野に飛びかかって羽交締めにした。続く柳生主膳正(しゅぜんのしょう)は、彼の刀を奪い、ようやく捕りおさえた。善左衛門は、あとニ太刀とも手応え十分だつたので、
「目的達成のうえは、手向かいいたしません。」
と神妙に捕えられたが、前後を御徒(おかち)目付にとり囲まれて連れ去られた。

(ちゅうすけ注:)『徳川実紀』のニュアンスは微妙に異なる。「意知殿中をやはばかりけん、差添をさやともにぬき、しばしあひしらひたりしに、その場にありあふ人々は、思ひよらざることなれば、たれ押さへむともせず、あはてさはぎしに、はるかへだてし所より、大目付松平対馬守忠郷(たださと)かけきたりて、善左衛門政言をくみ伏せし処を、目付柳生主膳正久通(ひさみち)打逢て、ともに政言をとらへ獄屋に下しぬ」

この経過は、すでにいろんな形で伝えられているから、目新しいところはない。ただ、後藤さんの発明は、ことの経緯を図にしめしているところである。
それを引用する。

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後藤さんは、この事件を、ある勢力のテロリズムと談じている。その説は改めて詳述する。

2006年12月4日[田沼意知、刃傷後]
2007年1月3日[平岩弓枝さん『魚の棲む城』(その1)]
2007年1月4日[平岩弓枝さん『魚の棲む城』(2)]
2007年1月6日[平岩弓枝さん『魚の棲む城』(その3)]

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2007.11.25

『田沼意次◎その虚実』(2)

学習院大学で日本史を経済史的な視点から研究していた大石慎三郎教授は、1965年(昭和40年)の『日本歴史』誌第237号に、「田沼意次に関する従来の史料の信憑性」と題したユニークな論文を発表した。

_110この論文によって、それまで田沼意次に冠されていた賄賂政治家との悪評のもとになっている諸史料に疑問を呈したのである。
不勉強でこの所説は目にしていないが、おおよそは大石さんの著書『田沼意次の時代』(岩波書店 1991.12.18 のち、岩波現代文庫)やその他の論説に溶解していると見ている。

1965年の大石さんの論文は、素人歴史研究家で田沼意次の行政家としての業績を強く支持していた後藤一朗氏を、わが意を得たり---とばかりに興奮させた。

大石さんも、相良を訪れた時、後藤氏に会って話し合い、その実証的な意次研究がなまなかでないことを見抜いたとおもう。
100後藤一朗氏の『田沼意次◎その虚実』(清水新書 1984.10.10)に寄せた大石氏の序文が、素人研究者の著作に対し学者として義理で書いた単なる推薦文の域を、大きく越えていることからもうかがえる。

若干を引用してみる。

江戸時代の歴史、なかんずく政治史をみてみると、将軍の代替りを境として前後に大きな断絶(また曲折)があるのに気がつく。(略)
これらのなかで、(1)柳沢吉保(よしやす)-荻原重秀(しげひで)のいわゆ元禄後期政権とつぎの新井白石政権との間、(2)田沼意次(おきつぐ)政権とつぎの松平定信政権との間の二つの場合が、その断絶の幅がもっとも広い。(略)
この二つの政権交替劇は、将軍交替に伴う側近グループの入れ替わりといった普通のケースとちがって、まったくクーデターともいうべき手段による政敵への権力行使である。(略)
松平定信が政敵田沼意次を倒そうと、ひそかに剣を帯びて意次刺殺の機会を伺ったことは、定信自身が後に書きしるしているところで、白石の場合と似ているが、また実際の政権交替劇も、御三家をバックとし徳川家譜代門閥層に支援されたクーデターのごときものであったことはすでに学界の定説のようになっているところである。
このような事情があったためか、荻原重秀についても、田沼意次についても、信用するに足る基礎資料がほとんど残されていない。実権をにぎった反対政権のために関係史料が湮滅されたのであろうか。(略)

残っているのは、クーデター側の中心人物ともいえる白石や定信が書きまくった文章であるとし、荻原も田沼も後世から評価してもらうのに、非常に不幸なハンディを背負った人物としたあと、後藤氏の著述には、

著者の苦心探訪にかかる新史料が数多く使われている。たとえば田沼意次失脚後の相良城取毀(とりこわ)しに関連しては「相良御引渡御城毀一件」などを用いて従来の説がいかに真実から遠かったかを証明している。また諸大名から意次への贈物についての手紙を多数紹介して、意次が受け取ったというのは世間普通の儀礼的な贈物にすぎなかったのではなかろうかということを暗示しているなどそれである。(略)

そして最後に、後藤氏の「一橋幕府説」をなかなかおもしろい---と、学者らしくぼかしてほめている。
この「一橋幕府説」は、あらためて紹介する。


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2007.11.24

『田沼意次◎その虚実』

平岩弓枝さんへ、快作『魚の棲む城』(新潮社 2002.3.30 のち新潮文庫)をいただいたお礼の電話をかけた時、平岩さんが「田沼ファンで銀行出身の研究家が書いたいい本があったから---」と打ち明けてくださった。

それ以来、その本のことが気になっていて、静岡県立中央図書館へ行くたびにそれらしい本を探していたのだが、行きあたらない。
200先日、相良史料館のケースで、後藤一朗さん『田沼意次◎その虚実』 (清水新書)が飾られているのを見、
(ああ、平岩さんが言ってたのは、これだな)
と見当をつけて、いつか、図書館から借り出す心づもりをしていた。

そしたら、なんと、SBS学苑パルシ〔鬼平クラス〕でともに勉強している安池欣一さんからメールで、
「静岡市立図書館で後藤一朗著『田沼意次 その虚実』を借り出しました。すでに県立図書館で借りている『田沼意次 ゆがめられた経世の政治家』と同じでした。返却期限は12月4日なので、12月2日の講義の日にお持ちいただけば間に合いますから、お送りしましょうか」
と、うれしいメッセージ。
早速に托送便で届いた。

奥付の著者紹介---
1900(明治33)年田沼の城下静岡県相良町に生まれる。静岡銀行に奉職、32歳で支店長となり、以後25年間各地歴任。定年後、本部に入り、「静岡銀行史」編集に参画。1960年退職。以来田沼意次の史料収集とその研究に専念、幾多の新事実を発掘した異色の歴史家。1977年逝去。

なお、清水書院の清水新書としての同書の刊行は、1984年10月10日だから、逝去7年後である。
監修者として大石慎三郎さんの名が表紙に刷られており、序文も寄せている。
その序文の日付けに、1980年11月23日 於学習院大学官舎 とあるから、もしかすると、最初は単行本として刷られ、のちに改題されて新書化されたのかも知れない。

単行本は、安池さんが県立図書館で借りた『田沼意次 ゆがめられた経世の政治家』というタイトルだったとも思える。

すると、大石さんの「序文」も、後藤さんの「あとがき」も、単行本をそのまま写したのかも。

後藤さんのあとがきを抜粋---

私は文筆をもって職とする作家ではなく、また専門の歴史家でもない。(略)

元来銀行家が、融資先の実態を把握するためには、過去の盛況にまどわされず、世間の評判や、業者の宣伝売込みに耳をかさず、もっぱら確実な資料によって独自の判断を下し、将来を見とおすことが要請され、いささかたりとも誤算をゆるさないものである。
徳川中期の歴史上の人物田沼意次は、あれだけの政治活動をした大宰相であるにかかわらず、研究資料の少ないことで、歴史家泣かせの一人だと言われている。わずかに伝わる文献は、反対政権の御用史家の作為のもの、あるいは低級な町のうわさ本が、そのすべてであると言ってよいだろう。(略)

思うに、山の形は---巨大な山岳の形容は、その山のなかにいたのではわからない。向かい側の山に登って眺め、そこではじめて全貌がわかる。反対側から見てこそ「幕府」という山の姿はわかるものだが、当時はみな「幕府」の傘の下にいたので、、わからなかったのである。(略)

ふと徳川将軍家のお家騒動が私の目に映り、大政変の根源を見出すことができた。田沼失脚の原因もつかみえたが、それよりもむしろ副収穫のほうが大きかったらしい。「一橋幕府説」は、あるいは私の発言が最初のものかも知れない。(略)

歴史家大石慎三郎博士が、私の説を支持され、推薦の労をとってくれくれたことは、このうえない喜びである。
(略)

著者の「一橋幕府説」と大石博士の推薦の序文はつづいて紹介する。

論語にいう。
子曰く、学んで思わざれば罔(くら)し。思って学ばざれば殆(あや)うし。
(教わるばかりで自ら思案しなければ独創がない。自分で考案するばかりで教えを仰ぐことをしなければ大きな陥し穴にはまる)(宮崎市定『論語』)

後藤さんは、さいわいにも、大石慎三郎博士の指導がえられた。

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2007.11.19

相良の平田寺(2)

相良ウォーキンを反芻してみて、何か、大事なことを見落としているような気がしていた。

気がついた。
平田寺だ。

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(平田寺前景)

第42代目にあたるという老禅師(この称号は、生前には与えられないものらしいが---)は、開創が弘安6年(1283)年と由緒が古いこと、聖武天皇が当時の12大寺へ賜った勅書のうちの一つがめぐりめぐって当山にたどりついて国宝に指定されていること、
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(聖武天皇の勅書 部分)
石の宝塔のことなどは話してくださった。

ところが、寺は宝暦年間に焼失したが、藩主・田沼意次(おきつぐ)の支援によって、天明6年(1786)に、本堂が再建されたという史実は、聞かなかったような気がする。
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(平田寺の本堂・外観)

参詣・見学の時間が足りなくて、本堂の伽藍へは案内されなかったせいもあろう。
本堂の左手には、藩主のような高位者だけが出入できる玄関も造りつけられていたから、それを解説する時に聞く予定になっていたのかも知れない。
あるいは、リーフレットに印刷してあることだから省略されたか。
鬼平と田沼意次の関係にまで連想が及ばなかったか。

ただ、天明6年といえば、田沼意次と、門閥派勢力の代弁者・松平定信との、権力をめぐる暗闘がつづいていた時期である。
その時期、いろいろと軍資金も必要であろうに、そんなことはおくびにも見せず、香華寺から本堂を再建---といわれてきたら、ぽんと何千両かを出さなければならない藩主の苦労を想いやらざるを得なかったのである。
当時の寺は、領民の心の拠(よ)りどころの一つであったはずだから、領民統治の方便でもあったろう。
それで、意次のほうから、平田寺に申しいれたのかも知れない。
そのような心遣いのできる人物だったから、小禄の家に生まれたにもかかわらず、将軍の側用人、老中までのぼりつめられた。
長谷川平蔵宣雄の才能を見抜いて引きあげたのも、意次の人物鑑識眼と心くばりの一面であろう。
藩主たるもの、器(うつわ)が大きくないと慕われない。

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2007.11.18

せんだい河岸

大石慎三郎さん『田沼意次の時代』(岩波書店 1991.12.18 のち、岩波現代文庫 2001.6.15)は、辻善之助さん『田沼時代』(岩波文庫 1980.3,17)によって被(き)せられた、賄賂取りの名人の汚名を雪(そそ)いだ名著といわれてきた。

それにたいして、藤田 覚さん『田沼意次』(ミネルヴァ書房 2007.7.10)は、大石説には史料の誤読がある---と、歴史学者同士の論争の形で、大石さんの田沼意次清廉説を攻撃している。
藤田説は、意次の賄賂取りは当時の風潮であったとしているが、それではなぜ、意次だけに非難が集中したかについては、田沼家の家来たちが一流の士でなかったとしてすましている。
大石さんが、松平派によって捏造・示唆されたものが多いという啓蒙の指摘には、ほとんど答えていない。

したがって、田沼意次を「おらが国さの殿さま」と思いたい相良では、大石説をもっぱらとしている。とうぜんであろう。

大石さんは、相良に残っている史蹟---せんだい河岸についても、早々に仙台藩による寄進とはきめられないのでは、と疑問を呈し、「仙台河岸」としないで、「せんだい河岸」と保留している。

同地に牧之原市教育委員会が建てた銘板は、
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ご覧のように、仙台藩からの「石垣用材の寄進」と書いている。
仙台藩側、あるいは相良藩側に、それを証拠づける史料でもあるのだろうか。

仙台藩の幕閣への手入れ(収賄)のことは、辻さん、大石さん、藤田さんとも、伊達家の文書に拠って論を進めているのだが、この河岸のことには、辻さんと藤田さんは触れていなかったように思う。

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(せんだい河岸の遺構のいま)

せんだい河岸がいまのように縮小されたのは、松平定信らの命令で、相良城が取り壊しになったときに河岸も縮小されたのであろうか。
銘板の文は、そのことには触れていない。


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2007.11.17

田沼街道(下)

相良には、田沼街道始点の標識が3ヶ所にある。

一つは、相良城跡の本丸跡---相良史料館の前庭。「相良城址」の石碑の脇にある。
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(この石碑の脇にささやかにたったいる)
まあ、城と東海道とを結ぶ街道と考えれば、ここに立てられていても不思議はない。

_2502つめは、萩間川(旧・相良川)に架かる湊橋の右岸(手前の城下町側)の近くにある大和神社の玉垣の角に立られている石の起点道標。
神社の石鳥居Iに社号額が掲けられていないので、神社名を地元の人もよく知らないようだったが、拝殿の庇の蔭にあがっていた。

3つめは、港橋の親柱の脇。
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まあ、どこが始点・起点であろうと、田沼街道そのものが、明治以来の交通手段の変化でズタズタに寸断されている現在、さほど気にすることもない。

田沼街道の終点---旧・東海道との合流点---は、旧・藤枝宿を貫通している瀬戸川に架かる勝草橋の下手である。

【参照】 〔瀬戸川(せとがわ)〕の源七---文庫巻6[狐火]で、引退して先代〔狐火〕の勇五郎の遺児・お久を預かっている。

SBS学苑〔鬼平クラス〕の村越一彦さんは、藤枝市在住なので、終点に立てられている銘板を写してきてくださった。
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(田沼街道は旧・東海道に合流して終わっている)
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始点と終点はわかった。そのあいだの、ズタズタをどう結ぶか。
明治19年(1886)に作られた20万分の1[静岡]を前に、考えこんだ。東海道線の藤枝駅の建設が始まったのは翌明治20年だから、相良街道は、田沼意次(おきつぐ)の時代から、さほど変貌しないで測量されていると思った。

さいわい、街道筋の市や町の郷土史家の方々が、点と点をつなぐ研究をしておられる。
研究結果は、前出・村越一彦さんがコピーをくださった[田沼街道](『静岡県の街道』郷土出版社)のコピーで、ある程度うかがえる。筆者は、大井町文化財保護委員の山下二郎さん。
引用してみよう。

田沼街道は、田沼意次の城下町「相良」の萩間川(旧・相良川)に架かる湊橋を起点として藤枝市志太の瀬戸川河畔で東海道に合流するまでの延長七里(約27㌔)の道である。(中略)
相良築城と平行して進められた田沼街道建設工事は従来からあった下街道・小山街道の幅員を一間幅に拡張改修し、途中下街道が焼津・駿府(静岡市)へ向かう上新田で上新田村(大井川町上新田)の里道(さとみち)を利用、その先兵太夫新田(藤枝市高洲一丁目)で小山街道に出合うまでの間を新設したというべきである。いずれにしても現代とは違い農地が極めて貴重な幕藩体制下で、自領藩内はともかく他藩領や幕府直轄領にまで改修の手がつけられている。このことは、後世大老・老中首座の名をさしおいて一老中に過ぎない意次の加わる幕閣を「田沼政権」と評しているように、将軍家治の覚えめでたく権勢とみに秀で、他藩主や直轄領代官もこれに迎合して初めて成し得たものと言えよう。

街道は、相良城の落成祝いに出座する意次の国入りに間に合うように進められたろう。
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(明治19年の地図に田沼街道(推定)を赤インクで。東海道線は未敷設)

意次は、安永9年(1780)4月7日に江戸を出発、東海道金谷宿から牧野原越えして13日に相良入りしており、往路は整備された田沼街道を通らなかった。
帰路にこの道を選んだものの、意次は生涯でたった一度だけ、自家の名で呼ばれている街道を踏破したことになる。


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2007.11.16

田沼街道(上)

相良の下見は、SBS学苑〔鬼平クラス〕のメンバーで、相良生まれの八木忠由さんの案内で2007年10月下旬に行った。
この人の土地勘と事前調査、それに同クラスの安池さんの探索がなかったら、相良ウォーキングは実りの薄いものになったはずだ。

八木さん運転の車は、最初、町はずれの花庄屋・大鐘(おおがね)家へ向かった。
_120同家のリーフレットはいう。

一五九七年、柴田勝家家臣、福井県丸亀城、城代家老、大鐘藤八郎が遠州相良へ移り、この大鐘屋敷を構えた。
旗本三千石の格式を持ち、十八世紀頃より大庄屋となる。現在、長屋門・母屋が国の重要文化財に指定されている。

柴田勝家の家老が、相良へ隠棲したということは、羽柴秀吉に敗れたからであろうか。
越前国北の庄(柴田家)の滅亡は天正11年(1583)と、手元の年表にある。大鐘家が相良へ移ったのはそれから14年もあと。家康が招じたのかも。

大鐘家は、長屋門の前の〔門膳〕で客に料理を供しているとリーフレットにあり、八木さんはここでの昼食を予定していたが、その日は営業していなかった。
(ついでに付記すると、大鐘家が長屋門を建てたのは、相良城が落成して、田沼意次が国入りをした翌安永10年(1781)である。田沼意次(おきつぐ)から、何かの指示でもあったのであろうか)。

_220いや、昼食はどうでもいい。 
主眼は、同家の前に、非舗装のまま歴然とのこっている田沼街道である。
田沼街道サイトからいうと、「同家の前」にのこっている、という表現になるが、大鐘家側から見れば、そこに旧道「小山街道」があったから居を構えたら、それが田沼意次の相良拝領につづく相良城の築城につれて整備された「相良街道」、またの名「田沼街道」となったのだ---ということになる。

いずれにしても、相良地区にかろうじて残っている4ヶ所の「田沼街道」の1ヶ所なのだ。
昼食をあきらめ、国道473号線からはずれた、車もすれ違えないほどに狭い田舎道を、しばらく眺めた。

意次は、将軍・家治から、相良城の築城を命じられたことになっている。命じられたか、意次側から伺って将軍が許可したのかは、不明である。
とにかく、明和5年(1768)から築城が始まった。
膨大な資材が相良へ運びこまれる。
そのための道路を整備する必要が生じた。
いついかなる時代でも、道路は経済活動の血管でもある。
そのことを承知していた意次は、築城支配役に任じた用人・井上寛司らにもそのことをいいふくめたに違いない。


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2007.11.15

駒込の勝林寺

相良からちょっと脇道---といっても江戸なんだが。

_150駒込の勝林寺(豊島区駒込7-4-14)で、田沼意次(おきつぐ)の墓へ詣でがてら、当山(万年山)の小冊子を購った。
それによると、開山は了堂良歇(禅河弘禅師)---湯島天神(文京区)の前あたり。
開基は中川元故(医師)。
そして、中興開基が田沼意次とされている。
開基とは、寺院を創設するときの、主として経済的な援助者。

江戸開府のころに開山。
明暦3年(1657)の大火で焼失し、駒込蓬来町へ。

それから七十年たった安永九年(1780)十ニ月十四日に、勝林寺の中興開基とされる老中田沼意次から、下屋敷二百六十坪を勝林寺に寄進する申し出があったのです。
申し出は直ちに寺社奉行阿部備中守へ届けられ、十八日寺社奉行土岐美濃守御内寄合で聞き届けられました。
その後勝林寺を支え、庇護者となった田沼家が、この時点はじめて勝林寺の歴史に登場したわけで、それは勝林寺にとって大変大きなことであり、特筆しなければならないことでしょう。

安永9年といえば、意次が老中となって9年目、この年の4月13日に、この年に落成した相良城へ初めて国入りしている。
ということは、相良・大江の平田寺の住職とも会ったということで、相良においての香華寺を平田寺としたのかもしれない。
平田寺も勝林寺も、ともに臨済宗妙心寺派。
勝林寺への下屋敷の寄進は、相良から帰府後のことである。

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さて、この小冊子に一つの不思議がある。

収録されている意次の肖像画が、そう。
これまで、勝林寺蔵と諸書に掲げられているものよりも、はるかに加齢している。

2007年11月12日[田沼意次の肖像画]参照。

勝林寺には、2幅の肖像画があるということであろうか。
このことも、寺へ問い合わせてみなければならない。

それとは別に---。

明治40年(1907)本郷通りの拡張のために墓地を染井に移転。
昭和15年(1940)に道路新設のため寺自体も現在地へ。
昭和20年(1945)戦災。
昭和28年(1953)本道再建。

空襲が郊外ともいえる染井のような地区にまでおよんだのは、滝野川の造兵廠の爆撃のとばっちりだったのであろう。
意次が寄進した袈裟が失われたのは、この戦災時であろうか。


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2007.11.14

田沼意次の生年月日

_1002007年11月5日[山本周五郎さん『栄花物語』に、田沼意次(おきつぐ この時、老中)の誕生日が3月12日としてあり、生年は享保4年(1719)だから、物語の天明4年(1784)のこの日は、65回目の生誕の祝いにあたると書いた。

ともに学んでいるSBS学苑パルシェ〔鬼平クラス〕の安池欣一さんから、地元の相良の研究史家・川原崎次郎さん『城下町相良区史』は、意次の誕生日を享保4年(1719)7月28日としているとのコメントがついた。

で、安池さんにもすこし調べていただいたので、その全文を紹介する。


1.『城下町相良区史』の著者・川原崎次郎氏に電話しました。
氏は2~3年前に脳梗塞に罹られ、歩行にも苦労されております。
この11月4日に相良に行く前も電話しましたが、たいへんそうでしたので遠慮しました。
今回、電話して『城下町相良区史』に記載されている意次の誕生日の出典を確認したところ、『寛政重修諸家譜』だったかな」という返事で、それ以外はすぐには思い出せそうにもありませんでした。

2.相良町教育委員会編『相良藩主 田沼意次』にも享保4年7月27日誕生と記載されているので、教育委員会へ問合せたところ、資料館の方へまわされました。
担当者の話では後藤一朗著『田沼意次 その虚実』(清水書院 1984.10.10 目下品切れ)だろうということでした(相良資料館の館長に電話確認)。

県立図書館には後藤一朗著『田沼意次 ゆがめられた経世の政治家』(大石慎三郎監修 清水書院出版)がありました。
そこには確かに「田沼意次 享保4年7月27日誕生」と記載されています。
清水書院のURL http://www.shimizushoin.co.jp/search/free.html

3.資料館に確認したところ、後藤一朗氏は相良の人で、静岡銀行に勤務されていたそうで、すでに10年以上以前に亡くなられています。

4.後藤一朗氏には別の著書『今日の相良史話』があります。
中に、田沼意次の菩提寺である駒込の勝林寺の意次の墓の前で、住職らしき人と写っている写真があります。
後藤氏はここで調べられたのかも。

5.相良町教育委員会編『相良藩主 田沼意次』の表紙に使われている意次の肖像画の件もついでに確認しました。
あの絵は15~16年前に浜岡町の画家・鈴木白花氏が描かれたものということでした。画家・鈴木白花氏についての情報はありません。

6.意次の墓のある勝林寺(臨済宗 豊島区駒込7-4-14)に電話を入れ、住職の奥様と思われる方に確認。
命日を尋ねられたことはありますが、誕生日を尋ねられたことはあまりないので、過去帳を見れば解るでしょうが、今にわかにお答えしかねます。
静岡の方でしたら、相良の平田寺(へいでんじ)に位牌がありますから、そちらで解るかもしれません---とのことでした。
http://www.portaltokyo.com/guide_23/contents/c16036shorinji.htm


ということで、とりあえず、駒込の染井霊園の北はずれにある勝林寺の意次の墓へ詣でてきた。

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染井霊園と承知していたので、表示板で探したけれど、記載されていないので、霊園事務所で尋ねたら、勝林寺は霊園とは別で、意次の墓は勝林寺の墓域にあると。

勝林寺では、山門を入ったとたんに警報みたいなチャイムが鳴りひびき、墓域への扉に「田沼意次も記載されている小冊子200円」と張り紙がでていた。
納所へ申し出て200円払ったら、若い僧が意次の墓地を教えてくれた。
背後の目隠し様の塀は、裏手に家が建ったためだろう。

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(高さ2.5メートルほど。前面は戒名、右側面に従四位侍従 田沼主殿頭源意次朝臣)

なお、平田寺とともにこの寺へも意次が寄進した袈裟のことを尋ねたら、若い僧は、いつのころか「無くなった」と。


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2007.11.13

相良の平田寺

遠州で最も古い禅寺・平田寺(へいでんじ)は、相良の大江459にある。開基は弘安6年(1283)。
臨済宗の寺院らしく、庭園は、閑静なたたずまいの中にも、凛(りん)とした気品を保っている。
山号・寺名は、「山は長江を吸い、寺は平田に誇る」に由来する

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田沼家
が相良に封じられたとき、ここを旦那寺としたのも、なんとなくわかるような気がする。

老禅師が、宝蔵・書院を開けて国宝・秘宝・文化財のかずかずを説明してくださった。

国宝第74号に指定されたのは、聖武天皇の勅書。もっとも、当寺にくだされたものではなく、めぐりめぐって、当寺に流れついたもの。その経路は謎である。

また、延慶3年(1310)の刻字のある石造・宝塔は、風雨による損傷を顧慮、宝蔵へ移されている。
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(老禅師から宝塔の由来を聞くSBS学苑パルシェ〔鬼平クラス〕)

さらに感銘を受けたのは、リーフレットに掲げられている、田沼意次(おきつぐ)から江戸・駒込の勝林寺と当寺に贈られた、夏冬ニ肩の裁交金襴九条袈裟の写真を見た時である。

_360_2絢爛豪華なことはいうまでもないが、賄賂取りの悪名がもっぱらの意次のほうが、旦那寺へ贈与をしている事実を初めて知った。

2007年11月12日に紹介した相良教育委員会編 『田沼意次』 には、領内の神社へお神輿なども寄進したことが書かれている。
平賀源内などにほどこした金子のこともある。

だからといって、賄賂を取らなかったという反証にはならないが、領主たるもの、いろいろと気と金子を遣わねば敬意が受けられない---とわかって、参考になった。

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2007.11.12

田沼意次の肖像画

相良は、田沼意次(おきつぐ)が城持ち大名になった土地である。
政敵・松平定信(さだのぶ)の門閥派のために、いったんはこの地を追われたが、四男・意正(おきまさ)が領主に帰り咲いた。
相良の人たちにとっては、「おらが国さの殿さま」は田沼といってさしつかえない。

その田沼家の遺品を中心に展示しているのが、相良史料館である。
史料館のことは、2007年11月10日[相良史料館]に簡単に紹介した。

_200この史料館の玄関ホールのガラス・ケースに入れられて、700円で販売されているのが、相良町教育委員会編『相良藩主 田沼意次』と題した24ページばかりのパンフレットである。
政敵のために、史料類を居城とともに、ほとんど消滅された意次にしては、その後の研究者のプラスの論を取り入れて、要領よくアレンジしてある。
田沼ファンは、700円を投じる価値はある(そういうぼくは、SBS学苑パルシェ〔鬼平クラス〕安池欣一さんから贈られたんだけど)。

その表紙に置かれている肖像画は、顔の皺などから察するに、意次の60歳代の姿を模したものであろうか。
直垂(ひたたれ)に家紋の七曜が散らしてあるのは、従5位下・諸大夫以上の官位をあらわす。意次は老中だから、とうぜんの略礼服。

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(意次の加齢肖像)

意次の肖像画は、これと、あと2点きりしか残っていない。うちの1点。

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(直垂に家紋と文様が透きこんであるから従5位下拝受(元文2年 1737 19歳)後、30歳前後か。相良史料館蔵)

この加齢肖像画の原寸大とおぼしき複製が、史料館に掲げられている。
その絵と対面した瞬間に、
「あっ。背景は、あれだっ!」
と声をだしてしまった。

相良探訪の最初に訪れた般若寺で見たばかり---西村ご住職がわざわざ広げてくださっていた杉戸(襖)の1枚に描かれていた虎だった。
杉戸の絵師は、狩野典信。

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(般若寺蔵の相良城・大書院の杉戸。
SBS学苑〔鬼平クラス〕村越一彦さん撮影)

杉戸は、相良城の大書院のものだということであった。
城の竣工は、安永9年(1780)、そして4月に意次の最初にして最後のお国入り(滞在はわずか10日間)。
意次は60歳。

絵師による、杉戸の虎を背景にした絵は、まさか、在城中にスケッチしたものではなく、以後に合成して描かれたものであろう。
絵師の名は、メモしそこなった。あとで、史料館にたしかめて補っておく。

それにしても、背景に虎の絵を選んだ意図は?
意次の生年は、引用のパンフレットの年表によると、享保4年(1719)7月27日。この年は、己亥。寅ではない。
7月27日に、寅が入っていたのだろうか。

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2007.11.11

相良の遺跡地図

相良を訪れて、田沼意次時代の遺址を見学しようという篤志家のために、地図を掲げておく。

交通は、自家用車やグループによるバス旅行はいいとして、個人の場合は、、国道473号線が国道150号線と交差する手前まで運んでくれる、静岡駅前からの定期バスがよかろう(ただし、筆者は利用したことがない。詳しいことは、相良観光協会に問い合わせていただきたい。電話0548-52-3130)。

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掲出の地図のスポットを、ごくごく簡単に左から順に説明する。
緑○---般若寺 杉戸絵は平常は仕舞われている。
黄○---大沢寺。国道150号の「国」の字の左上
赤○---史料館。中央の相良町役場(現在は牧之原原相良庁舎)の左。市営の駐車場が隣接>
青○---平田寺(記述は近日中)。
ほかに、仙台堀址。

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2007.11.10

相良史料館

田沼意次(おきつぐ)の老中失脚後、所領の相良城は、政敵・松平定信派によって、徹底的に棄却された。
その経緯は、

2006年12月4日[『甲子夜話」巻33-1]
2006年12月5日[田沼意知、刃傷後。その2]
2006年12月7日[相良城の請け取り]
2006年12月12日[さらに6万両の上納命令]

城はもちろん、家臣の居宅まで根こそぎ破壊され、用材は競りにかけて売却された。したがって、残っているのは、ニの丸の土塁と松樹だけである。

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(相良城(中央)と城下町の図 誠心女子大蔵)

本丸の取り壊しを担当したのは、意次の三女を内室に迎え、僅かな歳月のうちに死去させた、横須賀藩主・西尾隠岐守忠移(ただゆき)である。
こんな真偽不明のエビソードが、まこととしやかに伝わっている。
思った以上の堅牢な造りに、隠岐守の配下の者が手を焼いていると、一人の老人が現れ、「魚網をかけて、滑車で引けば壊れる」と教えた。
そのとおりにやってみると、建物は苦もなく壊れた。
その老人が、江戸の大伝馬町の牢を、田沼意次の配慮で脱け出て、相良にかくまわれていた平賀源内だったというのである。

2007年3月12日[相良の平賀源内墓碑]

その本丸跡に建てられたのが、相良史料館(牧之原市相良275番地2)。
入館料210円。

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(入館券 絵柄は、初入国した意次の領内遠望図)

_130史料館の外観は、リーフレット表紙の写真でご覧のように、相良城風。
館内には、田沼家ゆかりの品々や、田沼領となる前の本多家やその前の相良家の遺品などが陳列されている。
中でも、36歳で凶刃に斃れて、遺品が極めて少ない田沼意知の真筆は、珍重であろう。

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田沼家の七曜の紋をあしらった刀箱)

史料館の隣は、相良庁舎。横は、小・中学校と高校。

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2007.11.08

相良の大沢寺

幕府評定所(最高裁判所)の五手掛(ごてかかり 寺社奉行、町奉行、勘定奉行、大目付、目付)で詮議していた(郡上)八幡藩(金森家 3万5000石)に、将軍・家重の命令で御用取次・田沼意次(おきつぐ)が同席、主導したことはすでに、書いている。

2007年8月15日[徳川将軍政治権力の研究』(2)~

この事件によって、宝暦8年(1758)9月14日に、相良藩主・本多長門守忠央(ただなか 西丸若年寄 1万石)が所領召し上げの改易(かいえき)、お預けの処分を受けた。

2007年8月22日[新編物語藩史 八幡藩]

9年後の明和4年(1767)7月1日、5000石加増されて2万石となった田沼意次(49歳)が、相良領を領知して領主の班に加わった。
翌6年、相良城の築城に着手。
伊豆の天城や大井川上流千頭(ちず)から欅(けやき)材を集めたという。
足かけ12年かけて、安永7年(1778)に相良城が落成。

その間の安永4年(1775)に、城下の新町にあった真宗大谷派・大沢寺(だいたくじ)が焼失。天明3年(1783)iに初津(はづ)村に代地を求めて、整地・移転の準備をはじめる。
波津村---:現在の表記は、牧之原市相良地区波津。
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(212年後の大沢寺本堂)

_200_2波津(はつ)--- 『鬼平犯科帳』で、文庫巻1[本所・桜屋敷]から登場した、銕三郎(てつさぶろう のちの平蔵宣以)の継母の名前。池波さんは、田沼意次を調べていて、この地名を見覚えたとも思える。

さて、『大沢寺沿革史』によると、天明8年(1788)年、整地終了。
寛政3年(1791)、棟上。
寛政7年(1795)、落成。

とあるが、その前に、
安永7年(1778)、相良築城の余材を大沢寺へ下賜。
天明6年(1786)、意次(68歳)失脚。
天明8年(1788)、相良城破却
が割り込む。

つまり、波津村に再建された大沢寺の本堂は、相良築城の余材によって建てられ、現在にいたっているというわけである。
総欅材による風格のある建築で、棟梁は、三河国牛窪(豊川市牛久保)の伊藤平左衛門であった。

相良城はその姿をわれわれには見せてくれない。
また、意次(没年70歳)も大沢寺の落成を目にすることはなかった。
われれはいま、大沢寺の本堂に、その遺材を偲ぶのみ。

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2007.11.07

相良の般若寺

般若寺は、静岡県牧之原市相良地区の山沿いの大沢にある。
田沼意次(おきつぐ)---というより、相良城ゆかりの遺品が2つあることで、知られている。
そのことは、寺の門前に、教育委員会の銘板に記されている。
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(相良城下町・大沢の般若寺山門と門前右の銘板)

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(般若寺所蔵の破れ陣太鼓の銘板)

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(般若寺所蔵の相良城の杉戸の銘板)

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(相良城ゆかりの品を収納している般若寺本堂)

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(SBS学苑パルシェの鬼平クラスに寺の来歴と所蔵品の説明をする般若寺の西村住職)

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(太鼓の腹部に金塊がつまっていると誤解した泥棒が、皮を破って確認したが金塊がないので、そのまま逃走したため、破れ陣太鼓となったと伝わる)

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(般若寺に8枚保存されている相良城大書院の杉戸。普段は公開されていない)


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2007.11.06

相良城址の松樹

田沼意次(おきつぐ)が、家柄・門閥派の大名・幕臣たちに排斥され、陰謀のような形で政権を奪われた経緯は、これまで何度も記した。
もちろん、政治家が権力闘争の権化であることは心得ているつもりである。

しかし、政権の座から追い落としておいて、その居城であった相良城まで徹底的に壊しつくした史実は、支那やヨーロッパの歴史では読んでいるが、日本ではそんなに多くはないのでは---。
憎悪していても、ある程度のところで許すのが、日本人ではあるまいか。
政敵・松平定信(さだのぶ)のやりすぎは、どうも、彼の性格からきているように思え、調べてみたいことの一つにあげている。

ところで、徹底的に破壊しつくされた相良城だが、城址には数本の松樹だけが暴力をまぬがれた。小・中学校の校庭に健在である。
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牧之原教育委員会の銘板がそのことを伝えている(相良町は、2006年に牧之原市相良地区となった)。
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松樹たちは、城が壊されるのを、黙って見ていたろうが、胸のうちでは「なんて、無残な---」とつぶやいていたろうか。
まあ、意次は、この城が落成した時に10日間しか滞在していないから、松樹たちは、侯にはなじみが薄かったはず。
本丸跡には、牧之原し相良資料館が建てられ、田沼家の遺品なども陳列されているが、このことは別の機会に。

_100相良城の松樹のことを想起したのは、故・村上元三さん『六本木随筆』(中公文庫 1980.3.10)のせいである。村上さんは晩年は六本木に住まった。表通りからちょっと入って、たしか、うどん坂といったと思うが、その坂を背にした閑静なたたづまいの邸だった。

同エッセイに、六本木の町名の由来は、このあたりに六本の松の大樹があったからという説と、江戸期に、上杉、朽木、高木、片桐、一柳、青木と6人の「大名の中屋敷あるいは下屋敷があった」ためと『遊歴雑記』にあり、後者のほうが好ましいと。

そう。 『鬼平犯科帳』がらみを離れると、後者の命名のほうが、6大名家の歴史などへも空想が飛ぶ。

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2007.11.05

山本周五郎さん『栄花物語』

_100_2山本周五郎さん『栄花物語』(新潮文庫 1972.9.30)の主人公は、田沼意次だとするのは、文庫の解説者の山田宗睦さんにかぎらない。
文庫の底本になっている『山本周五郎小説全集5』(新潮社 1968.8,30)の解説を書いている土岐雄三さんも、

『栄花物語』は、徳川中期、後に田沼時代と呼ばれた時代の中心人物、老中田沼意次を柱にした長編であるが、これも『樅の木は残った』と同様、所謂伝統的史実を排して、意次を商業資本経済に移行しはじめた当時の先見的執政者として描き、汚職、収賄の権化とまで伝えられた先覚者の孤独さを主題にしている。

小説には、こんなくだりも描かれている。柳営中で、若年寄の継嗣・意知(おきとも)が佐野善左衛門政言(まさこと 30歳代後半? 新番組 500石)に斬りつけられたとの報を知らされた時である。

彼は頭の中で、はっきりとあの足音を聞いた。眼に見ることはできないが、紛れもなく自分に追いついて来る、あの確かな足音を。

足音の主は、政敵・松平定信(さだのぶ  27歳 白河藩主 11万石)である。
ついでに言っておくと、その後、政権をにぎった定信派の手によって抹殺されたのか、捏造されたものは論外としても、意次のちゃんとした史料はほとんどといっていいほど残されていない。

にもかかわらず、山本周五郎さんは、この作品中で、田沼意次の誕生日を享保4年(1719)3月12日としている。
どんな史料に拠ったのだろう? 

天明4年(1784)の65回目の誕生日、神田橋内の屋敷に家族一同が集まって、祝いの宴をもよおすが、激しい雷雨があったことにしているから、『武江年表』の記述にあわせたかと推察してみたが、同『年表』にはそのような記載はなかった。
3月24日の意知に加えられた凶事の暗示を、雷鳴に托したかったのかもしれない。
それはともかく、この宴で、山本周五郎さんも小さなミスを冒す。

西尾隠岐守忠移(ただゆき 39歳 と遠州・横須賀藩主 3万5000石)と井伊兵部少輔(しょうゆう)直朗(なおあきら 38歳 越後・与板藩主 2万石)に嫁した2人の娘の顔もみせたとあるが、西尾忠移の内室だった意次の三女・千賀は、菩提寺・勝興寺(港区須賀町)の霊位簿によると、10年前の安永3年(1774)11月23日に没したことになっている。

2007年1月21日[意次の三女・千賀姫の墓]

_120このことは、藤田 覚さん『田沼意次』(ミネルヴア書房 2007.7.10)も、うっかり筆をすべらせている。
もっとも、 『寛政譜』などには、内室の没年までは記されていないから、誤るほうが当たり前かもしれない。

こういうことは、市井の暇人のほうが、気が利く。

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2007.11.04

村上元三さんの田沼意次像

長谷川伸師の一門である故・村上元三さんに『田沼意次』(毎日新聞社 のち講談社文庫)があることは、、2006年12月29日から5回にわたってアップしている。
また、2007年10月9日[30年來の疑問]でも触れた。

_100書庫の隅から、村上元三さんのエッセイ集が2冊出てきた。『江戸雑記帳』 (中公文庫 1977,910)と、 『六本木随筆』(1980.2.25)。

前者に、『加賀騒動』の主役・大槻伝蔵についての小文があり、

歴史上、あるいは巷説、講談、歌舞伎などで悪人扱いをされてきた人物に興味をもつたのは、昭和十年、作家になり立てのころあった。
昭和十六年に直木賞をもらってから、「サンデー毎日」に「北斗の鐘」という連載を十三回書いた。その中で、賄賂取りの名人で悪徳政治家の見本のように言われていた田沼意次の冤を、いささかでも雪いだ、と思っている。田沼もよくないことはしているが、当時の新知識といわれる人々を身分にかかわらず自邸に集め、その意見を聞く、ということをやっているし、当時としては珍しいことに開国主義者であった。しかし、太平洋戦争に突入したので、やはり書くものに制限を受け、そう自由には逝かなかった。戦後になって、「佐々木小次郎」や「新選組」「銭屋五兵衛」などを連載で書き、「改造」に「足利尊氏」を書いたのは、戦時中に抑圧された反撥、というほど大げさなものではない。
わたしの師匠の長谷川伸先生は、歴史の流れに埋められた、あるいは埋めさせられた人々を掘り起こして書く、という仕事を続け、それを自分で紙碑(しひ)と呼んでいた。弟子のわたしも、そのひそみにならった、と言ったほうが当っているいるだろう。

_120『田沼意次』(毎日新聞社)の「あとがき」には、上記を補うように、

田沼意次に興味を持ちはじめたのは、戦前、師の長谷川伸先生から、門下一同に「めいめい専門を持て」と言われたためであった。そのころ北海道、千島、樺太などの歴史を材料に、いくつか短篇を書いていたので、自分では北方物と呼ぶ専門を持つことにした。
はじめて『サンデー毎日』に連載を書くとき、「北斗の鐘」という題名で、北方問題を扱った。宝暦から天明年間にかけての資料を漁っているうち、時の老中で賄賂取の名人といわれた田沼意次に興味が起ってきた。しかし戦時中で、豊富に資料を集めることができず、その資料も戦災で焼けた。
戦後になって、何べんか短編の中で意次と、その用人の三浦庄二を登場させた。三浦は実在の人物だが、素性も顔立ちも創作したもので、わたしにとっては馴染みの深い人物になり、声をかければ、いつでも現れてくれた。
この「田沼意次」は、『世界日報』に昨年(注;1984年)の十月まで七百七十回、連載した。これでもう意次を書くことはあるまい、と思うと、戦前戦後にかけて扱ってきた人物だけに、やはり感慨が残った。
この作品で、いささか意次の雪冤らしたと思っているが、やはり資料を集めるのに苦労をした。主人公があちこちと歩きまわっていると、その跡を追って行くのが普通だが、意次は居城のある遠州相良のほかは、どこへも旅していない。屋敷と江戸城のあいだを往復しているだけなので、たまには生き抜きに旅をさせたくなった。しかし、意次を、史実にない旅行に出すわけには行かなかった。(以下略)

2つの小文を書き写して思ったのは、2007年10月9日[30年來の疑問]の書き直しだが、その前に、「北斗の星」を探して読んでみないことには---。
「北斗」は、北方と、田沼家の家紋---七曜にかけた題名であろうか。


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2007.10.09

30年來の疑問

『鬼平犯科帳』『剣客商売』を読み始めて30年が過ぎた。
この間、ずっと疑問に思っていたのは、池波正太郎さんの田沼意次像の変遷についてである。

_100『鬼平犯科帳』巻1[血頭の丹兵衛]p90 新装p95にこうある。

先年、いわゆる〔賄賂(わいろ)政治〕の呼び声をたかめた老中の田沼意次(おきつぐ)政権が倒れ、田沼が失脚すると共に、松平定信政権がこれにかわった。
定信は、うちつづく天災や飢饉(ききん)の後に起った人心(じんしん)の荒廃(こうはい)と経済危機を、武家と農村との結合による〔質実剛健〕な本来の武家政治のすがたにもどすことによつて切りぬけようとしている。

『鬼平犯科帳』シリーズの第1話[唖の十蔵]『オール讀物』に掲載されたのは1968年(昭43)1月号である。

_100_2『剣客商売』シリーズの第1話[女武芸者]に、ヒロインで老中・田沼意次の隠し子の佐々木三冬が『小説新潮』に登場したのは、5年後の1972年(昭47)1月号。
ここでの田沼意次は、スケールの大きい、「政事(まつりごと)は、汚(よご)れの中に真実(まこと)を見出すもの」で、それができる政治家とされている。p51 新装p55

5年間のあいだに、池波さんの田沼意次像を逆転させたのは、なんだったのか--ずっと考えてきた。

_100_3たとえば、賄賂取りの田沼意次を史料から否定した大石慎三郎さん『田沼意次の時代』 (岩波書店 1991 のち岩波現代文庫)がある。大石さんのこの画期的な著作のもとの論文が著作以前の史論雑誌などに発表されていたとしても、1968~72年とは、あまりにもへだたりがありすぎ、妥当とはおもえない。

_120じつは、田沼意次を好意的に視線で描いた小説に、村上元三さん『田沼意次』(毎日新聞社 1985 のち講談社文庫)がある。
もっとも、小説では賄賂のことにはほとんど触れていない。しかし、田沼意次を改革派の仁として描いている。
村上元三さんは、長谷川伸師の没後、新鷹会の会長を長くつとめられた。
『長谷川伸全集』全15巻の解説も一手になさっている。

00さらに、近くは、同じは長谷川伸門下で、村上元三さんが逝かれたあと、新鷹会の会長に就かれた平岩弓枝さんが、女性的なやさしい目で田沼意次を見た『魚の棲む城』 (新潮社 2002 のち新潮文庫)を書いている。[魚の棲む城]とは、松平定信の怨念ともいえる命によって跡形もなく徹底的に壊された相良城のこと。相良港にいろんな舟が出入りするように、この城にさまざまな能才が出入りすればいいとの意味をこめた題名である。

こうして、長谷川伸門下の田沼意次関係の小説を並べていって、一つ気がついた。
すべて、長谷川伸師の没後に書かれていることである。
長谷川伸師の没年は1963年。

それで、はっとひらめくことがあった。

_100_4山本周五郎さん『栄花物語』(1953 要書房 のち新潮文庫)に、2人の若い幕臣の目でとらえた、それまでの教科書にあるのとは違う田沼意次像が描かれていること。

ひらめいた一つは、山本周五郎作品を論ずることは、新鷹会ではタブーみたいになっていたのかもという仮説。長谷川伸師も、山本周五郎さんもともに小学校卒まで。つまり、池波さんは律儀に、1968~72年まで『栄花物語』に手をのばさなかったと。

もう一つは、 『栄花物語』田沼意次像を超える自信がなければ、田沼を書かないという作家としての心意気。

これから、平岩さんにでも、第一のほうの疑問をお聞きしてみよう。


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2007.08.28

田沼時代についての若干の覚書

郡上八幡の農民一揆の裁決への、側衆・田沼主殿頭意次(おきつぐ)の介入・再審の詳細と、本多伯耆守正珍(まさよし 駿州・田中藩主 4万石)の老中罷免のくわしい経緯は、ついに分明しなかったが、雅兄氏から示唆をいただいたので、全文を掲載する。(雅兄は、古来からの最高級の雅称)。

田沼意次について、幕府官僚の中でも幕末期に特別の光彩を放った川路(左衛門尉)聖謨(としあきら)が時の権力者の水野越前(忠邦 ただくに 老中 遠州・浜松藩主 6万石)に語った言葉は、深井氏のみでなく多くの歴史家が引用しているが、最近出た藤田覚氏『田沼意次』(ミネルヴァ書房2007年)でも、田沼評価での一種の基準として使われている。

深井氏もその全部を紹介しているわけではないので、次に原文(『遊芸園随筆』吉川弘文館「日本随筆大成」第1期23 167~168ページ)の読み下し文をあげておく。
 
五月九日、(水野)越前守(忠邦)どのと御物語の序でに、近来の執政の優劣を評して申しけるは、田沼主殿頭(意次 おきつぐ)どののご事世によろしからず申し候えども、よほどの豪傑にはをはしけり。ただいま享寛(享保・寛政)のご政事ご改正のころに向かひ、かく申さむはいかがの様に候えども、さりながらその証のこれあり候故、お聴(きき)に入れ候にて候。

(田沼)主殿頭どのもお側ご用人よりご老中にならせられ候。初めは必ず世にも称え奉り候御人にこそ候べき。そのわけは宝暦八年の金森(兵部少輔頼錦 よりかね 郡上藩主 3万9000石)の一件にて、本多伯耆守(正珍 駿州・田中藩主)どの(老中)お役召し放たれ、金森ならびに本多長門守(忠央 ただなか 若年寄 当時寺社奉行 遠州・相良藩主 1万5千石)のお願に相成りたる、みな主殿頭殿の手に成りけるものと見え候ところ、右のご政事はよほどよく出来たる様に、その頃の書物(ここは資料類の意味)ども見候ても存ぜられ候様にござ候。
【割注】「評定所に金森一件の帳面あり。阿部伊予守(正右 まさすけ 寺社奉行 芸州・福山藩主 10万石)家に、その頃寺社奉行にて取り扱ひ候書留の帳面これあり候。右等によりても、主殿頭どのの躰(てい)はほぼ知るるなり。」

そのほか、同時代に石谷備後守(清昌 きよまさ 500石のち300石加増)を挙げ用ひられけるに、同人世に勝れたるよき奉行にて、今にいたり候まで、佐渡も長崎もご勘定所も、備後守の跡を以てよりどころとする事にて、備後守正直の豪傑なるはおしはかれ候事に候。同人をかくまでに遣われたるは、そのおん身にも正直の豪傑のお心ありたるなるべし。

しかるに上の御覚えもよろしく。天下靡かずといふことなきにいたって、いつか驕慢の気起こりて、その弊ついに松平(松本の誤記)伊豆守(秀持 ひでもち 勘定奉行 500石)がごとき、利口にて御用弁よきものを用ひられ候故、用は足り候へども無利(無理)なることのみ多く、人しらず人望を失ひて、終りには世にもうとみはてられ候て、天明末年のお姿とはならせられたり。

今の人は主殿頭どの全終(終わりを全うする)ならざるによりて、奢侈賄賂のことは田沼時代などといひて、主殿頭どのを以て骨髄よからぬ人のごとくにいふは、気の毒千万なることとと存ぜられ候。

これ畢竟ひとたび天下の権を取り給ひて、誰たがふものなきより驕慢の気は甚だしくなりて、日々に私心専らに成り行き、良心は失ひはててをこなる御事ども多くなり候故に、後世よりはよきことはことごとくに捨て、悪事のみいふことになり候かに候。

それと申し候も一心の置き所よりとは申しながら、平よりお用ひの人に、ご用立ち候より、貞実のものをお撰びなされ候はば、少しはご諫言をも申し、身を捨てまじく候へども、お気の障る位の儀は申し候て、相保ち申すべく候へども、末に至りては利口にてご用弁よきもののみお用ひ故、後年はともかくも先ず当時のご一応そのほかの事のみに流れ行きて、主殿頭の相輩も大いに衰へたるものかと存ぜられ候と申し候ところ、至極もっともなる心附きに候由(越前守どのが)仰せられ候事。

I氏の見解
この中で川路が金森一件の裁きを批評する際に参照している資料は、評定所にある帳面と、阿部伊予守の家にある書留の帳面の二つだが、深井氏が指摘するように後者は例の「御僉議御用掛留(ごせんぎごようがかりとどめ)」に違いない。
評定所に保存されていたという帳面は多くの調書を含んだ公式の記録だろうが、天保以降三度にわたる江戸城の焼失の際に失われた可能性が高い。
つまり、川路は今日見るよりもずっと詳細な記録を読みこなした上で、この事件に対する田沼の処理の見事さを賞賛していると考えられる。

ところで、川路のこの文章は多くの先学が引用しているのだが、彼がなぜこうした重要な記録にアクセスできたか、またどんな関心から過去の事件や政策を調べようとしたか、などに触れた研究はない。

まず勘定所の記録等については、天保2年(1835)に勘定組頭、同6年(1839)に勘定吟味役に任命されているから、勤勉な彼のこととて資料類を丹念に研究した可能性は十分あるだろう。
問題は金森一件である。上記の水野越前との物語の時点では、川路は小普請奉行になっていたが、その程度の役職では評定所の記録に触れることは許されるわけがない。
(若い時に評定所の書記役をしていたこともあるが、過去の重要書類を勝手に見る権限はもちろんない)。また、備後福山藩10万石の阿部家の秘録を見せてもらうなど、言い出すこともはばかられるはずだ。

謎を解く鍵は〝仙石騒動〟にある。
複雑怪奇なこの事件を簡単に要約するのは難しいが、当面の問題に必要な範囲で述べる。

その頃但馬出石藩(5万8000石)では、財政危機を乗り切る方策での重商主義的積極派と保守派の激しい対立が起こり、一門家老同士の根深い抗争が続いていた。

たまたま若い藩主政美(まさよし)が病没した後、後継をめぐるお家騒動もからんで、争いは泥沼化し、その中で、積極派の仙石左京が実権を独占する。

左京は実子小太郎の妻に幕府老中・松平(周防守)康任の姪を迎えていたが、幕府組織を動かすのにこの閨閥を利用したらしい。

一門の反対派・仙石弥三郎の用人の神谷転がたまたま左京の幕府要人を抱き込んでの陰謀を知り、国元の親友の河野瀬兵衛に急報したが、それを察知した左京は河野を捕らえて処刑し、さらに神谷を情報源と見て捜索する。

あやうく江戸藩邸を出奔し、虚無僧に身をやつして普化宗の本山の小金井の一月寺に潜んでいた神谷は、左京派の要請を受けた町奉行所の手で外出中に捕縛された。虚無僧