カテゴリー「020田沼意次 」の記事

2009.05.10

田沼意行の父(4)

ちゅうすけつぶやき】今日:5月10日(旧暦)は、平蔵宣以の命日である。戒行寺の霊位簿は、寛政7年5月10日 海雲院殿光遠日耀居士 とある。
旧暦の5月10日は、新暦の6月26日にあたるらしい。

『寛政譜』では、寛政7年5月19日卒 50歳 となっている。

現役でのまままの逝去なので、先手組頭の当番の彦坂氏らが、辞職願を14日に幕府へとどけ、16日に受理され、公式に喪を発することができたのが19日であったということ。

★2006年6月25日[寛政]7年5月6日の長谷川家]
★2008年4月28日[ちゅうすけのひとり言] (11
★2006年4月1日[長谷川平蔵年譜
★2006年5月1日[高貴薬・瓊玉膏の下賜]
★2006年5月12日[平蔵の後釜に坐る


ずっと前に、田沼意行(もとゆき)がらみで、安池欣一さんから『南紀徳川史 第一冊』の部分コピーをいただいていた。

安池さんのリポート[田沼意行の父]を転載するにあたり、めくりかえしていて、「これは---」というページに目がとまった。

七代将軍・家継がわずか8歳で死去したとき、紀州藩主・吉宗(33歳)が後継として指名され、藩邸から急遽、二の丸へつめたことはつとに知られている。

そのとき、扈従というより吉宗の身辺警護のために150人前後の江戸詰藩士が柳営に入った。
その中に、田沼意次の父・専左衛門意行もいた。

意行の紀州藩(37万5000石)での職分と家禄が記録されていたのである。

小姓 50石。
田代七右衛門養子

とも書かれている。

吉宗が将軍職につくことにより、意行の職と家禄は、

300俵 小姓
主殿頭

に格上げされた。
徳川幕府の直轄地は実質400万石ともいわれていたから、紀州藩での10倍になってもおかしくはない。
それが、6倍でぁった。
吉宗が、もともとの幕臣たちへ配慮したのでろう。
(もっとも、意行は、その後加増されて700石になっているから、結果的には14倍であった)

同じリストに、菅沼新左衛門の名があったので、主題とはかかわりがないが、参考までに転紀しておく。
紀州藩士のときは、

用達 400石

扈従しての江戸城入りの直後は、

小納戸(側近) 主税正 400石

これも、幕臣たちへのはばかりであろう。
11年後に従五位下、主膳正。さらに7年のちに300石加恩。
まわりを紀州出身者でかためた吉宗の、したたかな施政ぶりがうかがえる。

このほか、膳まわりの者が12名、のちにお庭番と名を変えた薬込めの者が6家、急ごしらえにしても鷹狩りかかわりの者が鷹匠・鳥見をふくめて5名も指名されているのは、いかにも、鷹狩りがすきな吉宗らしい。

参照】2009年5月8日`~[田沼意行の父] () (

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2009.05.09

田沼意行の父(3)

静岡のSBS学苑[鬼平クラス]でともに学んでいる安池欣一さんの田沼意次(おきつぐ)の父・意行(もとゆき)の、さらにその父捜しのリポートのつづきである。

どうして、そのようなことが、[『鬼平犯科帳Who's Who]なんだ---とおっしゃらないで。
データを後学者のために公開しておくことも、大きな意義がある。
少なくとも、ぼくは、そう、かんがえている。
田沼意次まわりの論文で、そこまので考究がすすめられたとおもえないからである。
大げさにいうと、安池さんが初めて鍬をいれた人かもとれない。


菅沼家「系譜」の検討


田沼意行
『寛政重修諸家譜>』では、

 田沼意行 重之助 専左衛門 主殿頭 従五位下

南紀徳川史 第5冊』では、

田沼専左衛門 重意 初名:専之助

と表記されています。

また、『寛政譜』では、
「享保19年(1734年)12月18日死す。 年47。」

となっていますから、計算すると元禄元年(1688年)生まれとなります。

1.菅沼家代々の当主の没年を調べますと、元祖は寛永19年(1642)、2代目は寛文11年(1671)で、意行が誕生する前ですから、父親ということはありえません。

5代目は元禄4年(1691)生まれですから、これも該当しません。
意行の父親の可能性があるのは3代目と4代目です。

ちゅうすけ注】ここで、理解をやさしくするために、『山家三方集』(愛知県鳳来町立長篠城跡保存館 1997.3.1)から、長篠菅沼の系図から、紀州へ付随した初代・半兵衛のすぐ上の2人を引く。

_300_2_120_3

_200_22..3代目新九郎政則について
菅沼家は代々半兵衛を名乗っているのに、3代目だけが新九邸です。
没年は正徳3年(1713)ですが、そのときの年齢は不詳となっていまして生年が計算できません。
常識的には4代目よりは早い生年と考えられます。
(右の系図は、紀州菅沼家の2代目~5代目 前掲書より)

寛文11年(1671)に跡目を相続して、延宝6年(1678)には弟を養子としますが、弟が死去しますので、翌年4代目とな渋谷家の三男を養子として、自分は隠居します。
このとき、知行2000石のうち、500石を隠居料とします。
子供がいたという記事はありません。

3. 4代目半兵衛政等、渋谷角太郎三男紋之丞、明暦2年(1656)生まれ。
15歳のとき小姓に召出され、延宝7年(1679)歳で菅沼家の養子となり、家督と知行1500石を相続します。
元禄4年(1691)に惣領が誕生し、以後息子2人・娘2人が生れます。

宝永7年(1710)に城代となり、享保10年(1725)に隠居、享保12年(1727)72歳で病死しています。

長男が家督し、その他の2人の息子は一人は杉田家の養子となり、もう一人は菅沼姓です。

意行を生んで他家に養子に出した記録はありません。
意行の誕生は元禄元年(1688)です。
その時、政等は33歳で、すでに菅沼家を相続した後ですし、まだ惣額が生れる以前ですから、もし意行が生れたとしても、養子に出す可
能性はほとんどないといっていいでしょう。

4.課題
以上1-3の検討によりますと、田沼意行の父の家はこの菅沼家ではないこと
になります。あるいは、南紀徳川史の記事が間違っているのでしょうか。
もし、『南紀徳川史』の記事が正しく、田沼意行がこの菅沼家の出身であると仮定しますと、どういう可能性があるのでしょうか。
あるとすれば4代目の子供というより、3代目の子供であるという方が可能性が高いのではないでしょうか。
3代目は自分の息子がいなくて、他家より養子をもらっていますが、隠居後30年以上生存している勘定ですし、500石の知行もありました。
当時、隠居した人のところに生れた子供はどのように扱われたのでしょうか。
「隠居したら元気になって、子供までできちやって、生活は楽じゃないけど長生きもできた。よかったよ」なんてうそぷ゛いていてくれたほうが救われます。


さて、安池さんの疑問、仮定にこたえられるのは、紀州の郷土史家しかあるまい。
うまく、このコンテンツがお目にとまるといいのだが。

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2009.05.08

田沼意行の父(2)

田沼主殿頭意次(おきつぐ 52歳=明和7年 老中兼側用人 相良藩主 2万5000石)と長谷川銕三郎(てつさぶろう)宣以(のぶため 25歳)とのかかわりあいを、[相良城、曲輪内堀の石垣]と題し、2009年5月4日(1)から(2)(3)(4)と4回つづけた。

参照】2009年5月4日~[相良城、曲輪内堀の石垣] () () () (

というのも、父・宣雄(のぶお 52歳=明和 先手・弓の8番手組頭)の代から長谷川家(400石)の諱(な)となった平蔵を引き継いだ銕三郎宣以が、41歳という若さで先手の組頭に登用されたのも、実力老中だった意次に引きたてられたからである。

もっとも、その分、意次が門地門閥派によって失墜したあと、その派の代表格としてまつりあげられた老中首座・松平定信(さだのぶ)から、平蔵田沼派もしくは田沼的体質としてにらまれ、物要(い)りな火盗改メを足かけ8年間もやらされ、備蓄を大きく減らしてしまったばかりか、借財をつくった。

そのことは、いま書いている当ブログ[『鬼平犯科帳』Who's Who]の16年先の経緯である。

歳月の引きもどしついでに、80年ほど、遡る。

この5年間、静岡駅ビル7階、SBS学苑パルシェで、月1回(第1日曜日の午後)、[鬼平クラス]でともに学んでいる安池欣一さんから、膨大な史料とともに、手紙をいただいた。

安池さんが、いま、田沼意次の父・意行(もとゆき)の実父を調べていることは、当ブログの2009年3月4日の[田沼意行の父]()で報告しておいた。
↑の色変わり(1)をクリックで再読なさってから、今日のテキストをお読みいただくと、理解が微細におよぶはず。

_130じつは、安池さんのリポートは、4月初めにいただいていた。
内容が、三河国の長篠菅沼にもかかわりが深いので、宮城谷昌光さん『風は山河から 全五巻』(新潮社)をひろい再読したりしていて、ご紹介がおくれた(しかも、この1回では足りない。順次、つづけたい)。

まず、安池さんの「田沼意行の出自の調査について」と題した手紙の前文から。

内容の点で進展はないのですが、資料の点では前進があったと個人的には考えておりますので、途中経過を報告させてください。

_120
「山家三方衆」 編集:長簾城祉史跡保存館

1_100宮城谷昌光さんの『古城の風景 Ⅰ』のなかで、長篠菅沼氏に関連して「山家三方衆」の解説がありましたので読んでみました。

長篠菅沼氏については、新城市教育委員会が所有している菅沼家譜・子孫蔵の家譜や菩提寺の過去る帳・墓碑などにより、現代にいたるまでかなり詳細に調査してあります。
また、『南紀徳川史』の名臣伝に菅沼半兵衛正勝について記載されていることも紹介されております。
但し、本のなかでは、二男以下まで全ての人が記載されている訳ではありません。

集められた資料のなかにはそれらのことも記載されている可能性はあります。
長篠城祉史跡保存館に確認したところでは、この資料については館内に展示されていることはなく、前館長(故人)の個人的な保有となっているそうです。
その資料の整理はしたいが、現在のところは手が廻らないとのことでした。


菅沼家「系譜」  
    --明治4年に菅沼家10代目が提出したもの 和歌山県立文書館保管--

1年程前、和歌山県立文書館に「田沼意次の父親にあたる人を養子に出した菅沼半兵衛という人の資料を捜しているのですが---」と、今から考えると随分漠然とした事項の調査をお願いしてしまいました。

そのときは、それでも調査していただいたのですが、「皆菅沼半兵衛を名乗っている家はあるが、何代も続いているから、諱がわかりませんか?」と問い返されて終わりになってしまいました。

「山家三方衆」を読んで、長篠城祉史跡保存館に問合せをして、この件に関して、こちらから、それ以上の情報収集は難しいと考えた後、「和歌山県立文書館」のことを思い出しました。

1年前には、気がつかなかったホームページを発見。

文書館で保管している古文書類」の「館蔵文書」として「紀州家中系譜並ニ親類書上」とあります。
早速、電話にて照会しました。
1年前にも照会させていただいたことなども、くどくどと言訳がましく説明し、判明しているかぎの諱も申し上げて、菅沼家の系譜があればコピーを送っていただきたいとお願いしました。

担当者のM さんは時間がかかるかもしれませんよといいながらも、そんな系譜があるか調べて下さるとのことでした。
結果として、M さんの「ありましたよ」という弾んだ声のお返事をいただました。

入手した系譜はいわゆる古文書に該当するもので、何という文字か判別できなかったり、判別できてもどういう意味か容が理解できなかったりという部分はありましたが、自分なりに検討したところでは別紙「菅沼家『系譜』の検討」に記載したとおりで、田沼意行が菅沼家の出身であるという結論は出ませんでした。

現在は、性懲りもなく、『寛政重修諸家譜』のなかで、田沼意行が養われたと記載されている「田代七右衛円高近の系譜」がないかとM さんお願いしているところです。

安池さんの、この探索手つづきは、読んでいて、わくわくしてくる。
ビジネス社会で活躍後、時間的に自由な身となり、やりたかった研究テーマを追い詰める方にとっても、大きく参考になろう。

さて、肝心の、安池さんが解読・現代語訳などは、後日。


【参照】2009年5月8日`~[田沼意行の父]  () (

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2009.05.07

相良城・曲輪内堀の石垣(4)

「恐れながら---」
佐野与八郎政親(まさちか 37歳 1100石)であった。
3年前から西丸の目付衆の一人として、徒(かち)目付や小人(こびと)目付を統括している。

参照】2007年6月5日~[佐野与八郎政親] (
2008年11月7日~{西丸目付・佐野与八郎政親] () () (

「おお、佐野うじの耳には、どのようなことが入っておるかの?」
老中格・田沼意次(おきつぐ 52歳 相良藩主 2万5000石)が気軽に受けた。

老中格のやりようではない、というのは、目付は若年寄に直結しているからである。
しかし、形式ばった柳営ではともかく、下屋敷での意次は、そういう垣根を意識しない。

「いま、話にでました先手・鉄砲(つつ)の1番手の為井又六祐安(すけやす 80歳 200俵)組頭のことに、じかにかかわることではございませぬ。先手の組頭衆のみなさまについての苦情でこざいます」
「それは、聞きずてならぬこと。申されてみよ」

佐野政親が告げたのは、徒目付・小人目付が聞きこんできている、つぎのような声であった。
先手の組頭は1500石格で、並みの番方(武官系)の、ほとんど終着地位に近い。
番方の幕臣がさらに高い地位をもとめるとすると、役方(行政畑)へ転じるしかない。
それでも、家禄によって壁があるから、このところ、先手組頭に死ぬまで居座るようになっている。

しかし、先手組というのは、泰平のいまの世でこそ江戸城内の門の警備役であるが、いざ、戦時ともなれば、第一線で敵と槍をまじえ、鉄砲を射ちあう部隊である。
その指揮者で組頭が、個人差はあるというものの、70歳代、80歳代でいいものか---との批判めいた声がないでもない。

「もっとも、おいしい席の先がつかえているために、長老たちの職への執着をとやかく言う者も少なくはありませぬ」
佐野目付は、言葉を選びえらびしながら、幕府の役人たちの高齢化を述べている。

勝手方の勘定奉行・石谷(いしがや)備後守清昌(きよまさ 56歳 800石)が口をはさんだ。
「当主がいつまでも在職していると、多くの継嗣は、30歳をすぎても、あるいは40歳になっても部屋住みのままで、あたら、才能をくさらしておりますな」

「うむ。さりとて、この職は乃公(われ)でのうてだれにできるか---と思いこみがちなのも、人の業(ごう)ではあるがな」
意次の言葉に、備後守清昌は遠慮をしない。
「人生は、仕事のみではございますまい。ほかに楽しみもあるはず」
「仕事人の備後どのの口からでた言葉ともおもえぬことを---」
同じ紀州の出身で、しかも親類というあいだからなので、意次清昌は忖度会釈なしの仲であった

「ところで、佐野うじは先手組頭の高齢化を申されたが、なにか、証拠をお持ちかな?」
意次が訊いた。
「はい。下の小人目付たちからの言上がありましたので、調べてみました」

佐野政親によると、この年---明和7年(1770)の弓の10組の組頭の平均年齢は64歳を超えており、最年長は78歳、鉄砲の20組のそれは60歳強で、最長老は80歳の為井又六祐安(すけやす 200俵)と。

「西丸の先手組頭4人のことは、お許しくださいますよう---」
「それは申しにくいであろう。よいよい。先手の爺い組頭のこととして、少老(若年寄)部屋へ、若返りをささやいておこう。
今宵は、この話はでなかったことにいたそう」
佐野目付よりも、長谷川平蔵宣雄(のぶお 52歳 400石)の頭の下げ方が深かった。

宣雄が与(く)みしている弓組の10人組頭のうち、50歳台は宣雄ともう一人、60歳代前半が4人、後半が2人、70歳代が2人であった。
最若年は宣雄の52歳。

田沼意次の提案にもかかわらず、先手組頭の対高齢化策は、銕三郎(てつさぶろう 25歳)が平蔵を襲名して組頭になる17年後まで、ほとんどとられなかったといってよい。
人事の若返りは、一度は築かれた石垣のように、改修はそれほどむつかしいともいえる。
とりわけ、定年制が明文化されていなかった徳川体制のものでは。


参照】2009年5月4日~[相良城、曲輪内堀の石垣] () () (

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2009.05.06

相良城・曲輪内堀の石垣(3)

長谷川うじ」
老中格で、将軍・家治(いえはる)の信任もあつく、側用人も兼帯という異例の重臣・田沼主殿頭意次(おきつく 52歳 相良藩主 2万5000石)が、今宵の客---というより、情報将校あつかいしている長谷川平蔵宣雄(のぶお 52歳 先手組頭)に呼びかけた。

宣雄とともに、銕三郎も盃をおいて、意次を注視した。
江戸城内では、老中を注視するなどは許されない。
目を伏せて、上申・応答するのが下のもののとるべき挙措である。
が、ここ、木挽(こびき)町の田沼家の中屋敷では、儀礼ぬきの会話が求められているし、宣雄たちは、これまでもそうしてきた。

「はい」
「率直に聞かせてもらいたいたい。先手組頭衆のあいだで、紀州出身の者たちが優遇されすぎておるという風評はでておらぬかな?」
「とんと、耳にいたしてはおりませぬ」
「ふっ、ふふふ。先手・弓組の組頭10名のうち、有徳院殿(ゆうとくいんでん 吉宗)さまにしたがってきた者は、いま、何人かな?」
細面で面高(おもだか)の意次の細い目は、やさしげではあるが、笑ってはいない。

菅沼摂津守頼尚(よりなお)
橋本丹波守忠正(ただまさ)
石原惣左衛門広通(ひろみち)

名をあげた。

「ことのついでに、その者たちの齢と家禄も言ってみてくれまいか」

菅沼摂津守   57歳  700石
橋本丹波守   60歳 1300石
石原惣左衛門  78歳  200俵

応じた宣雄は、横の佐野与八郎政親(まさちか 39歳 1100石)にそれとなく同意を求めた。
与八郎は西丸の目付である。
そのことをこころえている意次は、仕置の機微にふれることは、与八郎には訊かない。

宣雄は、意次の真意は、弓組のこともあろうが、20組ある鉄砲(つつ)組のことではないかと気づいた。

とりわけ、去年(1769)12月に81歳で逝った鉄砲(つつ)の一番手の組頭・寺嶋又四郎尚包(なおかね 300俵)の後任にすえられた為井又六祐安(すけやす 80歳 200俵)について風音を求められていると類推した。

先手の組頭は1500石格である。
この組頭になることにより、家禄300俵の寺島には1200石の足(たし)高がつけられ、あわせて1500石にしてもらえた。
家禄が200俵だった為井の場合には、1300石の足高が任期中は給される。

一瞬、宣雄は、寺嶋尚包の前任の鉄砲・一番手の組頭の名をおもいだそうと試みた。
しかし、寺嶋の就任は12年前の宝暦(ほうりゃく)8年(1758)のことで、宣雄が先手組頭に着任するずっと前のことである。

しかも、宣雄は弓組、寺島は鉄砲組で、つきあいの密度がちがう。

それで、宝暦12年(17662)から鉄砲の16番手の組頭を足かけ7年のあいだ勤めていた本多采女紀品(のりただ 57歳 2000石 新・大番頭)へ質してみた。

寺嶋どのの前任といえば、先年、奈良ご奉行のまま亡くなられた---」
石谷(いしがや)備後守清昌(きよまさ 56歳 800石 勘定奉行兼長崎奉行)が、さすがに能吏らしい記憶力で、
「奈良で逝かれた奉行といえば、山岡豊前どの---」
「さようです。先手組頭のころは、まだ、五郎作景之(かげゆき 享年54歳 1000石)でござった」

「山岡五郎作というと、神代のちょっとあとからの家筋とかであったな」
意次もおもいだしたらしい。
「そのように自慢していました。はっ、ははは」
本多紀品は、笑いで座をとりつくろった。

「いや、長谷川うじのご推察どおり、80歳で鉄砲の一番手の組頭に抜擢した為井がことでな。あの職の年寄りたちの推挙ということになっておったが、なにしろ80歳---少老の水野壱岐(守忠見 ただちか 40歳=当年 上総・鶴牧藩主 1万5000石)に、気をつかいすぎるなと申したのだが---」

先手組頭の補充は、年寄りたち---最年長の長老、次老、三老が候補者の名をあげ、入れ札で決めることが多いが、為井祐安の場合は、三人の年寄りの推挙できまったという。
それが、紀州系の将軍・家冶田沼に対する思惑ではないかと、ひそかにささやかれていた。
なにしろ、80歳の祐安は、言葉を発するたびにたれるよだれを手拭いで拭きとるほどで、城中の躑躅(つつじ)の間でもしゅっちゅう、腰が痛いの、息があがるのとこぼしている。

景之に会ったことのない銕三郎は、
(役人というのは、仲間のあれこれについて、よく、まあ、調べているものだ。が、話題がせますぎる)
腹の底で、いつも感じているおもいを、牛の咀嚼のように、くりかえしていた。

ちゅうすけ注】為井又六祐安の個人譜を掲げる。

Photo
(為井吉太祐安の個人譜)

祐安は、吉宗にしたがって急遽、江戸城二の丸に詰めたのではなく、4ヶ月後の享保元年(1716)8月、赤坂の紀州藩江戸屋敷から、長福(ちょうふく 6歳 のちの家重)に扈従してご家人になっている。

このときの紀州藩士について、深井雅海さん『江戸城』(中公文庫 2008.4.25)は、つぎの表を掲げている。
_360

又六はこの中の一人であった。


参照】2009年5月4日~[相良城、曲輪内堀の石垣] () () (


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2009.05.05

相良城・曲輪内堀の石垣(2)

それぞれの引きあわせ---といっても、新顔は相良から出府してきた普請奉行・三好四郎次郎だけだが---がおわり、気がおけなくなったところで、この邸の主である田沼主殿頭意次(おきつぐ 52歳 老中格兼側用人)が、手を打って召使に膳を言いつけた。

「領内が違作で、お上から多額に拝借しているので、ぜいたくはできない。ま、話が肴と分別を願って---」

膳には、鮒の甘露煮と、松茸と青菜の煮もの、大根の千切りが載っていた。
「鮒は、佐野うじからの到来もの---であったな」
給仕の召使にたしかめた。

「知行をいただいているところの一つに、常陸(ひたち)の牛久沼のほとりの佐貫(さぬき)村がございまして、日持ちするからともってきましたものです。鄙びたものなので、お歴々のお口にあいますれば幸甚---」
佐野与八郎政親(まさちか 39歳 西丸目付)が恐縮したふうi述べた。

「松茸は長谷川うじのお気づかい---であったな?」
「知行地の上総(かずさ)の寺崎村の山でとれたものです。ことしは、雨が少なく、出来がも一つのようで、村長(むらおさ)もすまながっておりましたが、香りだけは並みかと---」
平蔵宣雄(のぶお 52歳 先手・弓の組頭)がいいつくろった。

さっそく、石谷(いしがや)備後守清昌(きよまさ 56歳 800石 勘定奉行兼長崎奉行)が箸でつまんで鼻へかざし、口へふくんで嚥下、
「いや、けっこうな芳香と風味です」

本多うじの新しい知行地からということで、鮑(あわび)の干しものをいただいていたな?」
給仕の合点を待って、
「せっかくの珍味なれど、備後どのの手前、供するわけにはいかぬ」
14年来、長崎奉行として、唐土への支払い銀に替えて、鮑や海鼠(なまこ)の増獲・集荷を督励している石谷備後守に軽あてつけ、生真面目な石谷奉行が苦笑したのを、おもしろそうに眺めた意次が、
「なれど、今宵は備後どのに目をつむってもらい、調理するように申しつけてある」
一同が笑い声をたてると、石谷清昌もつられて笑い、座が一気になごんだ。

笑いがおさまったところで、本多紀品が陳べた。
「3年前に、主殿頭(とのものかみ)さまのおはからいで、遠江・城東郡(きとうこおり)の知行地の一部を、相模湾に面した鎌倉郡とお取り替えいただいたのです。それで、海の幸があがってくるようになった次第」

銕三郎は、出仕のこころえのあれこれを、みんなの会話から学んでいく。
とりわけ、意次の気くばりは感銘を受けた。
献じものの紹介にしても、佐野政親から平蔵宣雄、本多紀品へと、若年者を先にたてた。
さりげなく、本多家の知行地替えに話題をふって、それとなく希望の有無を問うている。

本多うじの遠江国の知行地は、まとまっていすぎた。あれには、享年には根こそぎ参ってしまう。出荷の手間はかかるが、知行地は国あるいは郡(こおり)を割っておいたほうが、まさかのときに互いに補いあえるからの」
意次の意見に、みな、うなずいた。

「さきほど、お上から拝借金とかおっしゃいましたようですが---」
銕三郎がおもいきって質(ただ)した。

「おう、そのことか。いや、恥をさらしたな」
意次が笑った。
三好四郎次郎がすぐに引きとって、
「領内が違作ゆえ、勘定ご奉行のお計らいで、返済は5ヵ年ということで、お上のご金蔵から3000両、拝借したのです。したがって、相良のお城は、二ノ丸、三ノ丸の堀の石垣の完成したとろこで、殿のご決断で、本丸などの建築は一時延期ということに決まりました」

「ご築城は、将軍家のお言葉によるものと、先にうかがっておりますが---」
銕三郎に、意次はこだわりなく、
「そのとおりであるが、拝借金をしている身で、築城の続行は、あまりに恐れおおすぎよう---」
石谷勘定奉行が、
「小職はじめ、宿老のお歴々も、本丸ほかを早く完成なされるのが、お上のお言葉へのお応えになるとおすすめしたのですが、主殿頭さまは頑として、おしりぞけになりましての」

ちゅうすけ注】理由がたてば幕府の金蔵から拝借金ができるということを記憶にとどめた銕三郎は、20年後に、石川島に人足寄場を創建した2年目、幕府からのあてがいが半減ちかくに落ちたのを補うため、物価安定の口実で金蔵から3000両を借りだし、銭相場に介入して500両近く利ざやをかせいだ。
経緯の詳細は、当ブログ2007年9月19日現代語訳[よしの冊子(ぞうし)] (18

ちゅうすけ注:とくに歴史の好きな方へ】田沼意次の実力発揮の端緒
2007年8月19日~[徳川将軍政治権力の研究] () () () () () () () () () (10) (11) 

参照】2009年5月4日~[相良城、曲輪内堀の石垣] () () (

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2009.05.04

相良城・曲輪内堀の石垣

三好どのと仰せられますと、近江の---」
佐野与八郎政親(まさちか 39歳 1100石 西丸目付)が、相良藩の普請奉行・三好四郎次郎に訊いた。
老中格で側用人も兼務している田沼主殿頭意次(おきつぐ 52歳 相良藩主 2万5000石)の木挽(こびき)町の下屋敷である。

久びさに私邸でくつろぐために下城した意次が、そろえて招くのが通例のようになっている、新番組頭の本多采女紀品(のりただ 57歳 2000石)、先手の組頭・長谷川平蔵宣雄(のぶお 52歳 400石)とその嫡男・銕三郎(てつさぶめろう 25歳)、そして佐野政親の4人。

参照】2009年3月6日[蝦夷への思い] (
2007年7月25日~[田沼邸] (1) () (3) (4)

田沼意次の財政面の知恵袋ともいわれている勘奉行で足かけ9年来長崎奉行を兼任している・石谷(いしがや)備後守清昌(きよまさ 56歳 800石うち300石は当年加増)も、連日つづく激務にいささか憔悴した面持ちで、いつものようにつらなっている。

参照】2007年3月29日{石谷備後守清昌] () () () 

新顔は、この6月に相良城の基礎工事である二の丸、三の丸の堀の石垣工事が成った報告と、あとの築城の指示をうけに出府してきていた三好普請奉行である。

参照】2009年3月3日[ちゅうすけのひとり言] (31

「ほう。佐野うじはさすがにお目付衆、三好普請奉行が近江・浅井の旧臣と、よくも推量なされた」
意次が、すかさず、与八郎をもちあげた。

_80「お恥かしいかぎり。長谷川組頭どのゆずりの、武鑑の知識でございます。ご普請奉行どののお腰の印籠(いんろう)の大割牡丹(おおわりぼたん)の蔭紋で推察をつけただけのことで---}

そのむかし、北近江の浅井家は越前の朝倉家に味方して、織田信長の恨みを買い、ほろぼされた。
牡丹は、浅井家の蔭紋でもあり、重臣たちはいろいろにくずして自家の蔭紋としていた。

主を失った三好家の子孫は、諸国をめぐりなから築城術を学んだという。
その知識に目をつけた意次が、四郎次郎を召しかかえた。
もっとも、その時点では、城持ちになるとは考えていなかった。
由緒のある家柄の家臣ならいくらでもほいしほど、意次の家禄は急激にふくらんでいたのである。

堀の石垣の工事ぶりを観察したことを、銕三郎は黙している。
意次が父とともに自分を招いてくれるのは、そんなことを聞くためではないことを承知していたからである。
相良へは、〔仲畑(なかばたけ)〕のお(りょう 30歳=当時)といったことも秘密にしておきたかった。

参照】2009年1月25日[ちゅうすけのひとり言] (30

しかし、話は相良城の郭の石垣におよんでいた。
江戸城の石垣の石の多くが伊豆から運ばれたように、相良城のための石も、西伊豆からきりだされていた。
運搬も、江戸城のときにそうしたように、筏から綱でしばった石を海中にたらして重さを軽くし、つないだ筏を船で引いて駿河湾を横断させた。

このときのことが、江戸で石を手早く調達するならと、銕三郎が工夫を重ねるきっかけの一つとなった。
20年ほどのち、満潮時には水びたしの湿地になる石川島に人足寄場をつくることになり、寺社奉行にかけあい、無縁仏の墓石を寺でらからかき集め、江戸ふうテトラポットとして、たちまち地揚げを果たすことにつながった。

ちゅうすけ注】佐野与八郎政親の武鑑を見る趣味は、長谷川宣雄ゆずりというのは、いつだったか、宣雄がもらしたこの話に刺激されたものである。
2008年7月6日[宣雄に片目が入った] (

銕三郎が父・宣雄から学んだことで、石川島の人足寄場の創設に生かされた知恵の一つ---無縁仏の墓石の件についての裏話:2006年6月21日[家風を受けつぐ

宣雄から学んだことが人足寄場の創設で実地に生かされてもう一つの例:2008年3月3日[南本所・三ッ目へ] (10

ちゅうすけ注:とくに歴史好きな方へ】田沼意次の財政の知恵袋・石谷備後守清昌について
2007年7月27日~[石谷豊後守清昌] () () (
2007年や月25日~[田沼邸] () () () (
2007年12月18日~[平蔵の五分(ごぶ)目紙] () () () 
 
参照】2007年1月3日[平岩弓枝さん『魚の棲む城』] (1) (2) (3) (4) (5) (6) (7)
2007年11月6日[相良城址の松樹

参照】2009年5月4日~[相良城、曲輪内堀の石垣] () () () 

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2009.03.06

蝦夷への想い

明和6年(1769) 8月18日の『徳川実紀』には、こう、記録されている。

西城宿老(注:老中)。板倉佐渡守勝清(かつきよ 64歳 上野・安中藩主 2万石)本城の列となる。
所司代・阿部飛騨守正允(まさちか 54歳 武蔵・忍藩主 10万石)西城の宿老となり豊後守とあらたむ。
_100御側用人・田沼主殿頭意次(おきつぐ 51歳 遠江・相良藩主 2万石)、加判の列に準じられ、侍従に任じ、加秩五千石を賜ひ、諸老とともに祗候すべしと命じらる。昵近(じっこん)の職兼る事故(もと)の如し(訳:側(そば)用人の職はそのまま兼ねよ。 肖像画)。

2万石の城持ち大名であった意次は、さらに5000石加増され、老中格で、待遇や権限が老中並みとなっわけで、しかも、側用人も兼任という異例さであった。

慶祝のあれこれが一段落した晩秋の宵、意次は久しぶりに清談を愉しみたいからと、木挽町(こびきちょう)の下屋敷に、長谷川平蔵宣雄(のぶお 51歳)・銕三郎(てつさぶろう 24歳)父子と、本多采女紀品(のりただ 56歳 新番頭 2000石)、佐野与八郎政親(まさちか 38歳 西丸・目付 1100石)のコンビを招いた。

参照】2007年7月25日~[田沼邸] (1) (2) (3) (4)
2007年2月28日[平賀源内と田沼意次]

銕三郎は、意次からの婚儀祝いにとどけられた源内焼の皿の礼を述べたのち、しばらく、本多紀品たちの話を、興味ぶかく聞いていた。

と、意次が、とつぜん、声をかけてきた。
銕三郎。このごろ、変わった捕りものの話はないかの?」
「はっ---変わっていますかどうか---拙が手先のように使っております者が、蝦夷(えぞ)の鹿が現われたと申しております」
「ほう。蝦夷の鹿が、両国広小路の見世物小屋にでも出たかの?」
「いえ。ほんもののエゾジカではございませぬ」

銕三郎は、〔相模(さがみ)〕の彦十(ひこじゅう 34歳)が幻視したという雌鹿の話をしたが、本所・深川の悪業ご家人・木村惣市父子のことは伏せた。

参照】2008年3月5日「雌エゾジカ

「その、彦十という者は、蝦夷となにかかかわりでもあるのかの?」
意次が、いたく関心を示したので、宣雄があわてて、たしなめる。
。はしたない小者のことなど、田沼さまのお耳へお入れするでない」
「いや。大いに感じておる。そのような下じもの者までが、蝦夷に気をそそられているというところが、なんとも時代らしい」

意次は、これは内密のことだが---と前置きして、オロシヤという北の大国の軍船が、蝦夷の近海にまで出没しているという書き上げが、松前藩からご用部屋へとどいていることを打ち明けた。
「その彦十とやらの幻視にエゾジカが現われたほど、ことは急なのじゃ。銕三郎彦十が、雌鹿にかぎらず、もし、蝦夷のなにかを幻視したら、かならず、予のところへとどけてくれるように」

銕三郎は、意次の政治家としての勘の鋭さを、さすが、と感じた。
真の政治家とは、庶民の潜在意識の中から未来をすくいとり、政策に反映させる準備を早めにしておくのが才能である。
工藤平助(へいすけ)の『赤蝦夷風説考』が板行されたのは、このときから14年後で、さらに意次が、勘定奉行・松本伊豆守秀持(ひでもち 56歳=天明5年 500石)に命じて、蝦夷地調査隊を派遣させたのは16年後であった。

参考】2007年7月29日~[石谷備後守清昌] (1) (2) (3)

2007年8月2日[松平武元後の幕閣
 

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2009.03.04

田沼意行の父

SBS学苑の〔鬼平クラス〕と田沼主殿頭意次(おきつぐ 51歳=明和6年)の話題がでたついでに、同〔くクラス〕でいつも啓発してくださる安池欣一さんから、かねてお預かりしていた研究ノートを転載させていただく。
(ことわっておきますが、SBS学苑の〔鬼平クラス〕は、ふだんはもっとくだけた話を交わしています)


田沼意行(もとゆき)の父について
1. 『寛政重修(ちょうしゅう)諸家譜』(以下『寛政譜』)

田沼家の欄
「・・・・・・男次右衛門吉次はじめて紀伊頼宣卿につかえ、其子次右衛門吉重、其子次右衛門義房相継紀伊家に歴任し、義房のち病により、辞して和歌山城下の民間に閑居す、これを意行が父とす。

意行 重之助 専左衛門主殿頭 従五位下

父次右衛門義房仕官を辞するの時、意行は叔父田代七右衛門高近が許に養はれ、後紀伊家に於て召れて有徳院殿に仕へたてまつり、享保元年(1716)(江戸)城にいらせたまうのとき御伴の列にありて御家人に加へられ、・・・・・・」

これによりますと、田沼意行の父は次右衛門義房であり、「田代七右衛高近が許に養はれ」とあることから、田代家の養子になったと理解されます。

2..『南紀徳川史』第5冊

田代角兵衛の箇所につづく「田沼専左衛門重意 初名専之助」のところで「専左衛門ハ田代七右衛門重章之養子実ハ菅沼半兵衛倅之処由緒有之七右衛門養子に被 仰付御伽二被 召出田代之一字卜菅沼之一字トヲ取リ田沼卜名乗家之紋ハ田代之常紋七曜ヲ用ヒ侯様被 仰付後御小姓五十石ニテ 有徳院様 公儀御相続之節御供二被 召連正徳六年(1716)六月二十五日御小姓三百俵諸大夫・・・・」

これによりますと、
重意 初名専之助」は『寛政譜}』と一致しませんが、内容からいって田沼意行のことと考えられます。
・『寛政譜』の田代七右衛門高近と、ここの田代七右衛門重章とは同一人と考えられます。
・上からの命令で田代七右衛門の養子になったようで、田沼家の紋は田代家の紋を用いることとなったと記載されています。

3.『南紀徳川史』第12冊

財政に関する「歴世経済之大略」の有徳公のところで、
「此比奉行役に田代七右衛門あり宝永五子年(1708)九月淡輪新兵衛跡奉行を被命四百石に御加増(初伊都郡御代官八十石にて元禄六年(1693)十月御勘定頭に拝任同七年二月添奉行打込勤三百石と成り後主税頭公御勝手役又御本家御勝手奉行を経て如本記)同七年閏八月江戸詰中病死會計在職十八年也(七右衛門養子を田沼専左衛門と云有徳公御供にて公儀へ被召出則田沼玄蕃頭の祖先也)」

ここでは田代七右衛門としか書かれていなくて、田代七右衛門高近なの:か田代七右衛門重章之なのかはわかりません。ただし、田沼専左衛門が田代七右衛門の養子であることは書かれています。

4.後藤一朗著『田沼意次』付録の「田沼家系図」

田沼意行の父吉房のところには、

次右衛門仕紀州家享保15年(1730)6月18日華法名-峰玄枝居士葬江戸駒込勝林寺」

これによりますと
次右衛門書房の祖父・父は和歌山に墓地がありますが、吉房は江戸に埋葬されている。
・享保15年(1730)6月18日卒で田沼意行と同じ寺に埋葬されている。
意行吉房を江戸に引取ったのではないでしょうか。享保15年というと意行43歳であり、吉房は60歳を越えていたのではないでしょうか。

参照】2007年11月15日[駒込の勝林寺(しょうりんじ)]

疑問点
後藤一朗氏は『田沼意次』のなかで、
吉房は病弱のため比較的早く退官し、剃髪したという」
「1734年(享保19)冬、父意行、病にたおれ、危篤状態に陥ったとき、龍助を枕辺に招き、・・・・・これより家の紋を改め、七面様の七曜紋をいただき、わが家紋と定めよ。と遺言した.。
これにより今まで丸に一'だった家紋を七曜星に改めた」
と書かれている。家紋は南紀徳川史によれば、宝永2年(1705)頃七曜にしたと書かれてあるのに対して、後藤氏は享保19年(1734)としている。後藤氏はこの話を何により得たのでしょうか。

_360

ちゅうすけは、安池さんの疑問に答える原資料をもちあわせていない。
藤田覚さんの『田沼意次』(ミネルバ日本評伝選 2007.7.10)は、『寛政譜』の田沼家分から引いておられ、田沼家が書き上げた原文は引用されていない。
いや、国立公文書館に田沼家が書き上げ家史原文が残されているかどうかも記されていない。

ということは、『南紀徳川史』を参照した安池さんの調査のほうが、意行にかんかるかぎり、周到といえようか。

そういえば、藤田さんの上掲書は、意行に(もとゆき)とふられているルビは誤りらしいからと、(おきゆき)説をおとりになっていることを付記しておく。


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2007.12.01

『田沼意次◎その虚実』(5)

相良の郷土史家・故・後藤一朗さん『田沼意次 ゆがめられた経世の政治家』(センチュリー・ブックス 1971.9.20)は、その後、同じ版元から、新書シリーズノ1冊『田沼意次◎その虚実』(1988.10.10)に衣替えし再刊行された。

(意知 をきとも の四男)意明(をきあき)以下四人の死後、意次(をきつぐ)の四男意正(をきまさ)が相続した。彼は田沼家全盛のころ、水野忠友(ただとも 出羽守 駿州・沼津藩主 老中 3万石)に養子に行っていた忠徳(ただのり)である。忠友は意次に引き立てによって出世し、老中にまでなったのに、田沼失脚と見るや自分に難がおよぶのをおそれ、この忠徳(離縁後、意正 をきまさ)を離縁帰籍させた。それが家にもどっていたのである。
意正には娘が一人(長男意留 をきとめ のほかに)あったが、彼女は文政九年(1826)柳生但馬守栄次郎(大和国柳生 1万石)の室になった。武術万能のそのころ、将軍家指南番柳生家へ正室として迎えられたくらいだから、女流剣士として当代一流だったことは、まずまちがいないところであろう。意次以下田沼家の人々の武芸実力を語った文献はないが、この孫娘を見て、家風の様子がほぼうかがい知ることができよう。(略)

柳生家と聞いて、女武芸者を連想することをとやかくいうのではない。
_1池波ファンなら、田沼意次(をきつぐ)と女武芸者の文字からは、『剣客商売』のヒロイン・佐々木三冬を連想する。
三冬は、池波さんが直木賞を受賞した年の『別冊文藝春秋』に発表した[妙音記]佐々木留伊(るい)の再来であることも、ファンなら承知している。

しかし、『剣客商売』『小説新潮』で連載が始まったのは、1972年新年号からと書くと、改めて『田沼意次 ゆがめられた---』の刊行年へ目をやるのではなかろうか。
---連載開始の前年の、1971年9月。

もちろん、若い女武芸者と老齢の剣客---秋山小兵衛をからませた『剣客商売』の構想は、もっと早くから練られていたろう。、『小説新潮』の編集部には、予告もされていたろうし、資料もそれなりに集められていたろう。
が、しかし、『田沼意次 ゆがめられた---』が発想の一つの引き金になったと考えても、的はずれとはいえないのではなかろうか。

いや、それよりも、『田沼意次 ゆがめられた---』によって、意次像が、池波さんの中ではじけたというほうが、より正確かも知れない。平岩弓枝さんが『田沼意次 ゆがめられた---』に触発されて『魚の棲む城』の田沼意次を造形したように。

あるいは、すべてはぼくの妄想かも知れない。
しかし、意次と池波さんの接点の一つは、解けたといえるのではあるまいか。『剣客商売』の5年前に始まった『鬼平犯科帳』における、賄賂取りの田沼像から脱却したことの説明もこれでつかないだろうか。

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2007.11.30

『田沼意次◎その虚実』(4)

相良の郷土史家・故・後藤一朗さん『田沼意次 ゆがめられた経世の政治家』(センチュリー・ブックス 1971.9.20)は、地元の研究者でなければ気がつかないし、知ることも困難なデータについて、いくつも明らかにされていて、教えられるところが大きい。

その一つ。
天明7年(1787)i10月2日、田沼意次(をきつぐ)につげられた再度の知行(2万7000石)とl領地の没収と強制隠居と蟄居(ちっきょ)の結果、陸奥・下村ほかで1万石を与えられた孫・龍助淡路守意明 をきあき)は、大坂城の守衛を命ぜられ、かの地で歿したことは、『寛政譜』にある。寛政8年(1796)9月22日、24歳であった。

その後を継いだ次弟の意壱(をきかず)は、一七九九年(寛政11)ニ月、新見大炊頭(おおいのかみ)の娘と結婚したが、翌年九月一七日死去した。(略)
ついで末弟意信(をきのぶ)が家督相続し、一八○ニ年(享和ニ)一一月、松平播磨守妹を嫁に迎えたところ、彼女は翌年八月ちょうど一○ヶ月目に没した。引き続いて翌九月一ニ日、意信も死去した。
このようにして、意知(をきとも)の三人の遺児はついに絶えてしまった。そのあと、意次の弟意誠(をきのぶ)の孫意定(をきさだ)を養子に迎えて嗣がせたところ、意定は相続九ヶ月、一八○四年(文化元)七月に四日(意次の命日)に没した。
以上一七九六年意明の死から、一八○四年意定の死まで、なんと八年間に五人の若者たちがつぎつぎと死んでしまった。(略)

さすがに後藤さんも、この連なった死を、一橋治済(はるさだ)による毒殺とは言っていない。
まあ、不遇による精神的ストレスはあったかもしれない。
後藤さんに望むのは、4人の享年を記しておいてほしかった。

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2007.11.26

『田沼意次◎その虚実』(3)

静岡県・相良の郷土史家・故後藤一朗さん『田沼意次◎その虚実』(清水新書 1984.10.10)を紹介している。

第1章「田沼意知の危禍」はこんな書き出しではじまっている。

一七八三年(天明三)一一月、山城守(やましろのかみ)田沼意知(おきとも)は若年寄(わかどしより)を拝命、新たに五○○○石の蔵米(くらまい)を賜ることになった。父田沼意次は十代将軍家治(いえはる)の寵臣(ちょうしん)、すでに十数年間老中の職にあり、四万七○○○石の相良(さがら)城主(一七八五年には五万七○○○石となる)。当時”田沼父子"といわれて幕政の実権を握り、飛ぶ鳥も落とす勢いであった。(略)

そういう得意絶頂の時、一七八四年(天明四)三月ニ四日、意外な大事件が起きたのである。
その日の夕刻近くの退庁時、城中若年寄部屋から、酒井石見守(いわみのかみ)・太田備後(びんご)守・田沼山城守・米倉丹後(たんご)の四人がそろって退出、中(なか)の間を過ぎて桔梗(ききょう)の間へ入ってきた時のことである。すぐその下の新番御番所に控えていた下級武士五人のなかの一人、佐野善左衛門政言(まさこと)はにじり出て、
「山城守、佐野善左衛門にて候(そうろう)、御免(ごめん)!」
と大声でせ叫んで粟田口(あわたぐち)ニ尺一寸の大刀、鞘を払って斬りかかった。

(ちょうすけ注:)「夕刻近く」はなにかのはずみの思いちがいであろう。老中の退出は2時。それを待って若年寄が退(ひ)く。
『徳川実紀』のその日の記述にも、「けふ例のごとく事はて、午(うま)の刻(午後1時から1時間)のをわりに、宿老(老中)の輩はみなまかりでぬ。少老(若年寄)も是にさしつぎて退出(さがら)むとと、打連て中の間より桔梗の間にかかりたるところ---とある。
次の疑問は、城中へ登る時には、大刀は預ける決まりのはずだが、新番番所へ詰める時には所持がゆるされているのだろうか。
も一つ。粟田口といえばかなりの名刀で、『鬼平犯科帳』長谷川平蔵が帯びていることにも疑問が呈されている。家禄500石の佐野がもてるのだろうか。

意知が振り向いた時には、早くも切っ先は目の前に来ていた。防ぐ間も、避くる間もなく、肩先に長さ三寸、深さ七分ほどの一太刀(ひとたち)をうけた。次の間に避けようとした意知の後ろからおろしたニの太刀は、柱へあたって届かなかった。(略)

善左衛門は柱にくいこんだ刀をはずすと、人びとの間をくぐって後を追い、意知の姿を見るとまたも斬りかかった。とどめを刺すつもりで腹をめがけて突いたところ、意知は必死になって鞘のままこれを防ぎ、からくも腹はまぬがれたが、両股(りょうまた)にニ太刀、また深手を負った。(略)

近くにいあわした大目付松平対馬守は、すでに七○歳の老人であったが、血刀を振り廻している佐野に飛びかかって羽交締めにした。続く柳生主膳正(しゅぜんのしょう)は、彼の刀を奪い、ようやく捕りおさえた。善左衛門は、あとニ太刀とも手応え十分だつたので、
「目的達成のうえは、手向かいいたしません。」
と神妙に捕えられたが、前後を御徒(おかち)目付にとり囲まれて連れ去られた。

(ちゅうすけ注:)『徳川実紀』のニュアンスは微妙に異なる。「意知殿中をやはばかりけん、差添をさやともにぬき、しばしあひしらひたりしに、その場にありあふ人々は、思ひよらざることなれば、たれ押さへむともせず、あはてさはぎしに、はるかへだてし所より、大目付松平対馬守忠郷(たださと)かけきたりて、善左衛門政言をくみ伏せし処を、目付柳生主膳正久通(ひさみち)打逢て、ともに政言をとらへ獄屋に下しぬ」

この経過は、すでにいろんな形で伝えられているから、目新しいところはない。ただ、後藤さんの発明は、ことの経緯を図にしめしているところである。
それを引用する。

_360

後藤さんは、この事件を、ある勢力のテロリズムと談じている。その説は改めて詳述する。

2006年12月4日[田沼意知、刃傷後]
2007年1月3日[平岩弓枝さん『魚の棲む城』(その1)]
2007年1月4日[平岩弓枝さん『魚の棲む城』(2)]
2007年1月6日[平岩弓枝さん『魚の棲む城』(その3)]

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2007.11.25

『田沼意次◎その虚実』(2)

学習院大学で日本史を経済史的な視点から研究していた大石慎三郎教授は、1965年(昭和40年)の『日本歴史』誌第237号に、「田沼意次に関する従来の史料の信憑性」と題したユニークな論文を発表した。

_110この論文によって、それまで田沼意次に冠されていた賄賂政治家との悪評のもとになっている諸史料に疑問を呈したのである。
不勉強でこの所説は目にしていないが、おおよそは大石さんの著書『田沼意次の時代』(岩波書店 1991.12.18 のち、岩波現代文庫)やその他の論説に溶解していると見ている。

1965年の大石さんの論文は、素人歴史研究家で田沼意次の行政家としての業績を強く支持していた後藤一朗氏を、わが意を得たり---とばかりに興奮させた。

大石さんも、相良を訪れた時、後藤氏に会って話し合い、その実証的な意次研究がなまなかでないことを見抜いたとおもう。
100後藤一朗氏の『田沼意次◎その虚実』(清水新書 1984.10.10)に寄せた大石氏の序文が、素人研究者の著作に対し学者として義理で書いた単なる推薦文の域を、大きく越えていることからもうかがえる。

若干を引用してみる。

江戸時代の歴史、なかんずく政治史をみてみると、将軍の代替りを境として前後に大きな断絶(また曲折)があるのに気がつく。(略)
これらのなかで、(1)柳沢吉保(よしやす)-荻原重秀(しげひで)のいわゆ元禄後期政権とつぎの新井白石政権との間、(2)田沼意次(おきつぐ)政権とつぎの松平定信政権との間の二つの場合が、その断絶の幅がもっとも広い。(略)
この二つの政権交替劇は、将軍交替に伴う側近グループの入れ替わりといった普通のケースとちがって、まったくクーデターともいうべき手段による政敵への権力行使である。(略)
松平定信が政敵田沼意次を倒そうと、ひそかに剣を帯びて意次刺殺の機会を伺ったことは、定信自身が後に書きしるしているところで、白石の場合と似ているが、また実際の政権交替劇も、御三家をバックとし徳川家譜代門閥層に支援されたクーデターのごときものであったことはすでに学界の定説のようになっているところである。
このような事情があったためか、荻原重秀についても、田沼意次についても、信用するに足る基礎資料がほとんど残されていない。実権をにぎった反対政権のために関係史料が湮滅されたのであろうか。(略)

残っているのは、クーデター側の中心人物ともいえる白石や定信が書きまくった文章であるとし、荻原も田沼も後世から評価してもらうのに、非常に不幸なハンディを背負った人物としたあと、後藤氏の著述には、

著者の苦心探訪にかかる新史料が数多く使われている。たとえば田沼意次失脚後の相良城取毀(とりこわ)しに関連しては「相良御引渡御城毀一件」などを用いて従来の説がいかに真実から遠かったかを証明している。また諸大名から意次への贈物についての手紙を多数紹介して、意次が受け取ったというのは世間普通の儀礼的な贈物にすぎなかったのではなかろうかということを暗示しているなどそれである。(略)

そして最後に、後藤氏の「一橋幕府説」をなかなかおもしろい---と、学者らしくぼかしてほめている。
この「一橋幕府説」は、あらためて紹介する。


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2007.11.24

『田沼意次◎その虚実』

平岩弓枝さんへ、快作『魚の棲む城』(新潮社 2002.3.30 のち新潮文庫)をいただいたお礼の電話をかけた時、平岩さんが「田沼ファンで銀行出身の研究家が書いたいい本があったから---」と打ち明けてくださった。

それ以来、その本のことが気になっていて、静岡県立中央図書館へ行くたびにそれらしい本を探していたのだが、行きあたらない。
200先日、相良史料館のケースで、後藤一朗さん『田沼意次◎その虚実』 (清水新書)が飾られているのを見、
(ああ、平岩さんが言ってたのは、これだな)
と見当をつけて、いつか、図書館から借り出す心づもりをしていた。

そしたら、なんと、SBS学苑パルシ〔鬼平クラス〕でともに勉強している安池欣一さんからメールで、
「静岡市立図書館で後藤一朗著『田沼意次 その虚実』を借り出しました。すでに県立図書館で借りている『田沼意次 ゆがめられた経世の政治家』と同じでした。返却期限は12月4日なので、12月2日の講義の日にお持ちいただけば間に合いますから、お送りしましょうか」
と、うれしいメッセージ。
早速に托送便で届いた。

奥付の著者紹介---
1900(明治33)年田沼の城下静岡県相良町に生まれる。静岡銀行に奉職、32歳で支店長となり、以後25年間各地歴任。定年後、本部に入り、「静岡銀行史」編集に参画。1960年退職。以来田沼意次の史料収集とその研究に専念、幾多の新事実を発掘した異色の歴史家。1977年逝去。

なお、清水書院の清水新書としての同書の刊行は、1984年10月10日だから、逝去7年後である。
監修者として大石慎三郎さんの名が表紙に刷られており、序文も寄せている。
その序文の日付けに、1980年11月23日 於学習院大学官舎 とあるから、もしかすると、最初は単行本として刷られ、のちに改題されて新書化されたのかも知れない。

単行本は、安池さんが県立図書館で借りた『田沼意次 ゆがめられた経世の政治家』というタイトルだったとも思える。

すると、大石さんの「序文」も、後藤さんの「あとがき」も、単行本をそのまま写したのかも。

後藤さんのあとがきを抜粋---

私は文筆をもって職とする作家ではなく、また専門の歴史家でもない。(略)

元来銀行家が、融資先の実態を把握するためには、過去の盛況にまどわされず、世間の評判や、業者の宣伝売込みに耳をかさず、もっぱら確実な資料によって独自の判断を下し、将来を見とおすことが要請され、いささかたりとも誤算をゆるさないものである。
徳川中期の歴史上の人物田沼意次は、あれだけの政治活動をした大宰相であるにかかわらず、研究資料の少ないことで、歴史家泣かせの一人だと言われている。わずかに伝わる文献は、反対政権の御用史家の作為のもの、あるいは低級な町のうわさ本が、そのすべてであると言ってよいだろう。(略)

思うに、山の形は---巨大な山岳の形容は、その山のなかにいたのではわからない。向かい側の山に登って眺め、そこではじめて全貌がわかる。反対側から見てこそ「幕府」という山の姿はわかるものだが、当時はみな「幕府」の傘の下にいたので、、わからなかったのである。(略)

ふと徳川将軍家のお家騒動が私の目に映り、大政変の根源を見出すことができた。田沼失脚の原因もつかみえたが、それよりもむしろ副収穫のほうが大きかったらしい。「一橋幕府説」は、あるいは私の発言が最初のものかも知れない。(略)

歴史家大石慎三郎博士が、私の説を支持され、推薦の労をとってくれくれたことは、このうえない喜びである。
(略)

著者の「一橋幕府説」と大石博士の推薦の序文はつづいて紹介する。

論語にいう。
子曰く、学んで思わざれば罔(くら)し。思って学ばざれば殆(あや)うし。
(教わるばかりで自ら思案しなければ独創がない。自分で考案するばかりで教えを仰ぐことをしなければ大きな陥し穴にはまる)(宮崎市定『論語』)

後藤さんは、さいわいにも、大石慎三郎博士の指導がえられた。

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2007.11.19

相良の平田寺(2)

相良ウォーキンを反芻してみて、何か、大事なことを見落としているような気がしていた。

気がついた。
平田寺だ。

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(平田寺前景)

第42代目にあたるという老禅師(この称号は、生前には与えられないものらしいが---)は、開創が弘安6年(1283)年と由緒が古いこと、聖武天皇が当時の12大寺へ賜った勅書のうちの一つがめぐりめぐって当山にたどりついて国宝に指定されていること、
_360_2
(聖武天皇の勅書 部分)
石の宝塔のことなどは話してくださった。

ところが、寺は宝暦年間に焼失したが、藩主・田沼意次(おきつぐ)の支援によって、天明6年(1786)に、本堂が再建されたという史実は、聞かなかったような気がする。
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(平田寺の本堂・外観)

参詣・見学の時間が足りなくて、本堂の伽藍へは案内されなかったせいもあろう。
本堂の左手には、藩主のような高位者だけが出入できる玄関も造りつけられていたから、それを解説する時に聞く予定になっていたのかも知れない。
あるいは、リーフレットに印刷してあることだから省略されたか。
鬼平と田沼意次の関係にまで連想が及ばなかったか。

ただ、天明6年といえば、田沼意次と、門閥派勢力の代弁者・松平定信との、権力をめぐる暗闘がつづいていた時期である。
その時期、いろいろと軍資金も必要であろうに、そんなことはおくびにも見せず、香華寺から本堂を再建---といわれてきたら、ぽんと何千両かを出さなければならない藩主の苦労を想いやらざるを得なかったのである。
当時の寺は、領民の心の拠(よ)りどころの一つであったはずだから、領民統治の方便でもあったろう。
それで、意次のほうから、平田寺に申しいれたのかも知れない。
そのような心遣いのできる人物だったから、小禄の家に生まれたにもかかわらず、将軍の側用人、老中までのぼりつめられた。
長谷川平蔵宣雄の才能を見抜いて引きあげたのも、意次の人物鑑識眼と心くばりの一面であろう。
藩主たるもの、器(うつわ)が大きくないと慕われない。

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2007.11.18

せんだい河岸

大石慎三郎さん『田沼意次の時代』(岩波書店 1991.12.18 のち、岩波現代文庫 2001.6.15)は、辻善之助さん『田沼時代』(岩波文庫 1980.3,17)によって被(き)せられた、賄賂取りの名人の汚名を雪(そそ)いだ名著といわれてきた。

それにたいして、藤田 覚さん『田沼意次』(ミネルヴァ書房 2007.7.10)は、大石説には史料の誤読がある---と、歴史学者同士の論争の形で、大石さんの田沼意次清廉説を攻撃している。
藤田説は、意次の賄賂取りは当時の風潮であったとしているが、それではなぜ、意次だけに非難が集中したかについては、田沼家の家来たちが一流の士でなかったとしてすましている。
大石さんが、松平派によって捏造・示唆されたものが多いという啓蒙の指摘には、ほとんど答えていない。

したがって、田沼意次を「おらが国さの殿さま」と思いたい相良では、大石説をもっぱらとしている。とうぜんであろう。

大石さんは、相良に残っている史蹟---せんだい河岸についても、早々に仙台藩による寄進とはきめられないのでは、と疑問を呈し、「仙台河岸」としないで、「せんだい河岸」と保留している。

同地に牧之原市教育委員会が建てた銘板は、
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ご覧のように、仙台藩からの「石垣用材の寄進」と書いている。
仙台藩側、あるいは相良藩側に、それを証拠づける史料でもあるのだろうか。

仙台藩の幕閣への手入れ(収賄)のことは、辻さん、大石さん、藤田さんとも、伊達家の文書に拠って論を進めているのだが、この河岸のことには、辻さんと藤田さんは触れていなかったように思う。

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(せんだい河岸の遺構のいま)

せんだい河岸がいまのように縮小されたのは、松平定信らの命令で、相良城が取り壊しになったときに河岸も縮小されたのであろうか。
銘板の文は、そのことには触れていない。


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2007.11.17

田沼街道(下)

相良には、田沼街道始点の標識が3ヶ所にある。

一つは、相良城跡の本丸跡---相良史料館の前庭。「相良城址」の石碑の脇にある。
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(この石碑の脇にささやかにたったいる)
まあ、城と東海道とを結ぶ街道と考えれば、ここに立てられていても不思議はない。

_2502つめは、萩間川(旧・相良川)に架かる湊橋の右岸(手前の城下町側)の近くにある大和神社の玉垣の角に立られている石の起点道標。
神社の石鳥居Iに社号額が掲けられていないので、神社名を地元の人もよく知らないようだったが、拝殿の庇の蔭にあがっていた。

3つめは、港橋の親柱の脇。
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まあ、どこが始点・起点であろうと、田沼街道そのものが、明治以来の交通手段の変化でズタズタに寸断されている現在、さほど気にすることもない。

田沼街道の終点---旧・東海道との合流点---は、旧・藤枝宿を貫通している瀬戸川に架かる勝草橋の下手である。

【参照】 〔瀬戸川(せとがわ)〕の源七---文庫巻6[狐火]で、引退して先代〔狐火〕の勇五郎の遺児・お久を預かっている。

SBS学苑〔鬼平クラス〕の村越一彦さんは、藤枝市在住なので、終点に立てられている銘板を写してきてくださった。
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(田沼街道は旧・東海道に合流して終わっている)
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始点と終点はわかった。そのあいだの、ズタズタをどう結ぶか。
明治19年(1886)に作られた20万分の1[静岡]を前に、考えこんだ。東海道線の藤枝駅の建設が始まったのは翌明治20年だから、相良街道は、田沼意次(おきつぐ)の時代から、さほど変貌しないで測量されていると思った。

さいわい、街道筋の市や町の郷土史家の方々が、点と点をつなぐ研究をしておられる。
研究結果は、前出・村越一彦さんがコピーをくださった[田沼街道](『静岡県の街道』郷土出版社)のコピーで、ある程度うかがえる。筆者は、大井町文化財保護委員の山下二郎さん。
引用してみよう。

田沼街道は、田沼意次の城下町「相良」の萩間川(旧・相良川)に架かる湊橋を起点として藤枝市志太の瀬戸川河畔で東海道に合流するまでの延長七里(約27㌔)の道である。(中略)
相良築城と平行して進められた田沼街道建設工事は従来からあった下街道・小山街道の幅員を一間幅に拡張改修し、途中下街道が焼津・駿府(静岡市)へ向かう上新田で上新田村(大井川町上新田)の里道(さとみち)を利用、その先兵太夫新田(藤枝市高洲一丁目)で小山街道に出合うまでの間を新設したというべきである。いずれにしても現代とは違い農地が極めて貴重な幕藩体制下で、自領藩内はともかく他藩領や幕府直轄領にまで改修の手がつけられている。このことは、後世大老・老中首座の名をさしおいて一老中に過ぎない意次の加わる幕閣を「田沼政権」と評しているように、将軍家治の覚えめでたく権勢とみに秀で、他藩主や直轄領代官もこれに迎合して初めて成し得たものと言えよう。

街道は、相良城の落成祝いに出座する意次の国入りに間に合うように進められたろう。
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(明治19年の地図に田沼街道(推定)を赤インクで。東海道線は未敷設)

意次は、安永9年(1780)4月7日に江戸を出発、東海道金谷宿から牧野原越えして13日に相良入りしており、往路は整備された田沼街道を通らなかった。
帰路にこの道を選んだものの、意次は生涯でたった一度だけ、自家の名で呼ばれている街道を踏破したことになる。


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2007.11.16

田沼街道(上)

相良の下見は、SBS学苑〔鬼平クラス〕のメンバーで、相良生まれの八木忠由さんの案内で2007年10月下旬に行った。
この人の土地勘と事前調査、それに同クラスの安池さんの探索がなかったら、相良ウォーキングは実りの薄いものになったはずだ。

八木さん運転の車は、最初、町はずれの花庄屋・大鐘(おおがね)家へ向かった。
_120同家のリーフレットはいう。

一五九七年、柴田勝家家臣、福井県丸亀城、城代家老、大鐘藤八郎が遠州相良へ移り、この大鐘屋敷を構えた。
旗本三千石の格式を持ち、十八世紀頃より大庄屋となる。現在、長屋門・母屋が国の重要文化財に指定されている。

柴田勝家の家老が、相良へ隠棲したということは、羽柴秀吉に敗れたからであろうか。
越前国北の庄(柴田家)の滅亡は天正11年(1583)と、手元の年表にある。大鐘家が相良へ移ったのはそれから14年もあと。家康が招じたのかも。

大鐘家は、長屋門の前の〔門膳〕で客に料理を供しているとリーフレットにあり、八木さんはここでの昼食を予定していたが、その日は営業していなかった。
(ついでに付記すると、大鐘家が長屋門を建てたのは、相良城が落成して、田沼意次が国入りをした翌安永10年(1781)である。田沼意次(おきつぐ)から、何かの指示でもあったのであろうか)。

_220いや、昼食はどうでもいい。 
主眼は、同家の前に、非舗装のまま歴然とのこっている田沼街道である。
田沼街道サイトからいうと、「同家の前」にのこっている、という表現になるが、大鐘家側から見れば、そこに旧道「小山街道」があったから居を構えたら、それが田沼意次の相良拝領につづく相良城の築城につれて整備された「相良街道」、またの名「田沼街道」となったのだ---ということになる。

いずれにしても、相良地区にかろうじて残っている4ヶ所の「田沼街道」の1ヶ所なのだ。
昼食をあきらめ、国道473号線からはずれた、車もすれ違えないほどに狭い田舎道を、しばらく眺めた。

意次は、将軍・家治から、相良城の築城を命じられたことになっている。命じられたか、意次側から伺って将軍が許可したのかは、不明である。
とにかく、明和5年(1768)から築城が始まった。
膨大な資材が相良へ運びこまれる。
そのための道路を整備する必要が生じた。
いついかなる時代でも、道路は経済活動の血管でもある。
そのことを承知していた意次は、築城支配役に任じた用人・井上寛司らにもそのことをいいふくめたに違いない。


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2007.11.15

駒込の勝林寺

相良からちょっと脇道---といっても江戸なんだが。

_150駒込の勝林寺(豊島区駒込7-4-14)で、田沼意次(おきつぐ)の墓へ詣でがてら、当山(万年山)の小冊子を購った。
それによると、開山は了堂良歇(禅河弘禅師)---湯島天神(文京区)の前あたり。
開基は中川元故(医師)。
そして、中興開基が田沼意次とされている。
開基とは、寺院を創設するときの、主として経済的な援助者。

江戸開府のころに開山。
明暦3年(1657)の大火で焼失し、駒込蓬来町へ。

それから七十年たった安永九年(1780)十ニ月十四日に、勝林寺の中興開基とされる老中田沼意次から、下屋敷二百六十坪を勝林寺に寄進する申し出があったのです。
申し出は直ちに寺社奉行阿部備中守へ届けられ、十八日寺社奉行土岐美濃守御内寄合で聞き届けられました。
その後勝林寺を支え、庇護者となった田沼家が、この時点はじめて勝林寺の歴史に登場したわけで、それは勝林寺にとって大変大きなことであり、特筆しなければならないことでしょう。

安永9年といえば、意次が老中となって9年目、この年の4月13日に、この年に落成した相良城へ初めて国入りしている。
ということは、相良・大江の平田寺の住職とも会ったということで、相良においての香華寺を平田寺としたのかもしれない。
平田寺も勝林寺も、ともに臨済宗妙心寺派。
勝林寺への下屋敷の寄進は、相良から帰府後のことである。

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さて、この小冊子に一つの不思議がある。

収録されている意次の肖像画が、そう。
これまで、勝林寺蔵と諸書に掲げられているものよりも、はるかに加齢している。

2007年11月12日[田沼意次の肖像画]参照。

勝林寺には、2幅の肖像画があるということであろうか。
このことも、寺へ問い合わせてみなければならない。

それとは別に---。

明治40年(1907)本郷通りの拡張のために墓地を染井に移転。
昭和15年(1940)に道路新設のため寺自体も現在地へ。
昭和20年(1945)戦災。
昭和28年(1953)本道再建。

空襲が郊外ともいえる染井のような地区にまでおよんだのは、滝野川の造兵廠の爆撃のとばっちりだったのであろう。
意次が寄進した袈裟が失われたのは、この戦災時であろうか。


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2007.11.14

田沼意次の生年月日

_1002007年11月5日[山本周五郎さん『栄花物語』に、田沼意次(おきつぐ この時、老中)の誕生日が3月12日としてあり、生年は享保4年(1719)だから、物語の天明4年(1784)のこの日は、65回目の生誕の祝いにあたると書いた。

ともに学んでいるSBS学苑パルシェ〔鬼平クラス〕の安池欣一さんから、地元の相良の研究史家・川原崎次郎さん『城下町相良区史』は、意次の誕生日を享保4年(1719)7月28日としているとのコメントがついた。

で、安池さんにもすこし調べていただいたので、その全文を紹介する。


1.『城下町相良区史』の著者・川原崎次郎氏に電話しました。
氏は2~3年前に脳梗塞に罹られ、歩行にも苦労されております。
この11月4日に相良に行く前も電話しましたが、たいへんそうでしたので遠慮しました。
今回、電話して『城下町相良区史』に記載されている意次の誕生日の出典を確認したところ、『寛政重修諸家譜』だったかな」という返事で、それ以外はすぐには思い出せそうにもありませんでした。

2.相良町教育委員会編『相良藩主 田沼意次』にも享保4年7月27日誕生と記載されているので、教育委員会へ問合せたところ、資料館の方へまわされました。
担当者の話では後藤一朗著『田沼意次 その虚実』(清水書院 1984.10.10 目下品切れ)だろうということでした(相良資料館の館長に電話確認)。

県立図書館には後藤一朗著『田沼意次 ゆがめられた経世の政治家』(大石慎三郎監修 清水書院出版)がありました。
そこには確かに「田沼意次 享保4年7月27日誕生」と記載されています。
清水書院のURL http://www.shimizushoin.co.jp/search/free.html

3.資料館に確認したところ、後藤一朗氏は相良の人で、静岡銀行に勤務されていたそうで、すでに10年以上以前に亡くなられています。

4.後藤一朗氏には別の著書『今日の相良史話』があります。
中に、田沼意次の菩提寺である駒込の勝林寺の意次の墓の前で、住職らしき人と写っている写真があります。
後藤氏はここで調べられたのかも。

5.相良町教育委員会編『相良藩主 田沼意次』の表紙に使われている意次の肖像画の件もついでに確認しました。
あの絵は15~16年前に浜岡町の画家・鈴木白花氏が描かれたものということでした。画家・鈴木白花氏についての情報はありません。

6.意次の墓のある勝林寺(臨済宗 豊島区駒込7-4-14)に電話を入れ、住職の奥様と思われる方に確認。
命日を尋ねられたことはありますが、誕生日を尋ねられたことはあまりないので、過去帳を見れば解るでしょうが、今にわかにお答えしかねます。
静岡の方でしたら、相良の平田寺(へいでんじ)に位牌がありますから、そちらで解るかもしれません---とのことでした。
http://www.portaltokyo.com/guide_23/contents/c16036shorinji.htm


ということで、とりあえず、駒込の染井霊園の北はずれにある勝林寺の意次の墓へ詣でてきた。

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染井霊園と承知していたので、表示板で探したけれど、記載されていないので、霊園事務所で尋ねたら、勝林寺は霊園とは別で、意次の墓は勝林寺の墓域にあると。

勝林寺では、山門を入ったとたんに警報みたいなチャイムが鳴りひびき、墓域への扉に「田沼意次も記載されている小冊子200円」と張り紙がでていた。
納所へ申し出て200円払ったら、若い僧が意次の墓地を教えてくれた。
背後の目隠し様の塀は、裏手に家が建ったためだろう。

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(高さ2.5メートルほど。前面は戒名、右側面に従四位侍従 田沼主殿頭源意次朝臣)

なお、平田寺とともにこの寺へも意次が寄進した袈裟のことを尋ねたら、若い僧は、いつのころか「無くなった」と。


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2007.11.13

相良の平田寺

遠州で最も古い禅寺・平田寺(へいでんじ)は、相良の大江459にある。開基は弘安6年(1283)。
臨済宗の寺院らしく、庭園は、閑静なたたずまいの中にも、凛(りん)とした気品を保っている。
山号・寺名は、「山は長江を吸い、寺は平田に誇る」に由来する

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田沼家
が相良に封じられたとき、ここを旦那寺としたのも、なんとなくわかるような気がする。

老禅師が、宝蔵・書院を開けて国宝・秘宝・文化財のかずかずを説明してくださった。

国宝第74号に指定されたのは、聖武天皇の勅書。もっとも、当寺にくだされたものではなく、めぐりめぐって、当寺に流れついたもの。その経路は謎である。

また、延慶3年(1310)の刻字のある石造・宝塔は、風雨による損傷を顧慮、宝蔵へ移されている。
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(老禅師から宝塔の由来を聞くSBS学苑パルシェ〔鬼平クラス〕)

さらに感銘を受けたのは、リーフレットに掲げられている、田沼意次(おきつぐ)から江戸・駒込の勝林寺と当寺に贈られた、夏冬ニ肩の裁交金襴九条袈裟の写真を見た時である。

_360_2絢爛豪華なことはいうまでもないが、賄賂取りの悪名がもっぱらの意次のほうが、旦那寺へ贈与をしている事実を初めて知った。

2007年11月12日に紹介した相良教育委員会編 『田沼意次』 には、領内の神社へお神輿なども寄進したことが書かれている。
平賀源内などにほどこした金子のこともある。

だからといって、賄賂を取らなかったという反証にはならないが、領主たるもの、いろいろと気と金子を遣わねば敬意が受けられない---とわかって、参考になった。

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2007.11.12

田沼意次の肖像画

相良は、田沼意次(おきつぐ)が城持ち大名になった土地である。
政敵・松平定信(さだのぶ)の門閥派のために、いったんはこの地を追われたが、四男・意正(おきまさ)が領主に帰り咲いた。
相良の人たちにとっては、「おらが国さの殿さま」は田沼といってさしつかえない。

その田沼家の遺品を中心に展示しているのが、相良史料館である。
史料館のことは、2007年11月10日[相良史料館]に簡単に紹介した。

_200この史料館の玄関ホールのガラス・ケースに入れられて、700円で販売されているのが、相良町教育委員会編『相良藩主 田沼意次』と題した24ページばかりのパンフレットである。
政敵のために、史料類を居城とともに、ほとんど消滅された意次にしては、その後の研究者のプラスの論を取り入れて、要領よくアレンジしてある。
田沼ファンは、700円を投じる価値はある(そういうぼくは、SBS学苑パルシェ〔鬼平クラス〕安池欣一さんから贈られたんだけど)。

その表紙に置かれている肖像画は、顔の皺などから察するに、意次の60歳代の姿を模したものであろうか。
直垂(ひたたれ)に家紋の七曜が散らしてあるのは、従5位下・諸大夫以上の官位をあらわす。意次は老中だから、とうぜんの略礼服。

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(意次の加齢肖像)

意次の肖像画は、これと、あと2点きりしか残っていない。うちの1点。

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(直垂に家紋と文様が透きこんであるから従5位下拝受(元文2年 1737 19歳)後、30歳前後か。相良史料館蔵)

この加齢肖像画の原寸大とおぼしき複製が、史料館に掲げられている。
その絵と対面した瞬間に、
「あっ。背景は、あれだっ!」
と声をだしてしまった。

相良探訪の最初に訪れた般若寺で見たばかり---西村ご住職がわざわざ広げてくださっていた杉戸(襖)の1枚に描かれていた虎だった。
杉戸の絵師は、狩野典信。

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(般若寺蔵の相良城・大書院の杉戸。
SBS学苑〔鬼平クラス〕村越一彦さん撮影)

杉戸は、相良城の大書院のものだということであった。
城の竣工は、安永9年(1780)、そして4月に意次の最初にして最後のお国入り(滞在はわずか10日間)。
意次は60歳。

絵師による、杉戸の虎を背景にした絵は、まさか、在城中にスケッチしたものではなく、以後に合成して描かれたものであろう。
絵師の名は、メモしそこなった。あとで、史料館にたしかめて補っておく。

それにしても、背景に虎の絵を選んだ意図は?
意次の生年は、引用のパンフレットの年表によると、享保4年(1719)7月27日。この年は、己亥。寅ではない。
7月27日に、寅が入っていたのだろうか。

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2007.11.11

相良の遺跡地図

相良を訪れて、田沼意次時代の遺址を見学しようという篤志家のために、地図を掲げておく。

交通は、自家用車やグループによるバス旅行はいいとして、個人の場合は、、国道473号線が国道150号線と交差する手前まで運んでくれる、静岡駅前からの定期バスがよかろう(ただし、筆者は利用したことがない。詳しいことは、相良観光協会に問い合わせていただきたい。電話0548-52-3130)。

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掲出の地図のスポットを、ごくごく簡単に左から順に説明する。
緑○---般若寺 杉戸絵は平常は仕舞われている。
黄○---大沢寺。国道150号の「国」の字の左上
赤○---史料館。中央の相良町役場(現在は牧之原原相良庁舎)の左。市営の駐車場が隣接>
青○---平田寺(記述は近日中)。
ほかに、仙台堀址。

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2007.11.10

相良史料館

田沼意次(おきつぐ)の老中失脚後、所領の相良城は、政敵・松平定信派によって、徹底的に棄却された。
その経緯は、

2006年12月4日[『甲子夜話」巻33-1]
2006年12月5日[田沼意知、刃傷後。その2]
2006年12月7日[相良城の請け取り]
2006年12月12日[さらに6万両の上納命令]

城はもちろん、家臣の居宅まで根こそぎ破壊され、用材は競りにかけて売却された。したがって、残っているのは、ニの丸の土塁と松樹だけである。

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(相良城(中央)と城下町の図 誠心女子大蔵)

本丸の取り壊しを担当したのは、意次の三女を内室に迎え、僅かな歳月のうちに死去させた、横須賀藩主・西尾隠岐守忠移(ただゆき)である。
こんな真偽不明のエビソードが、まこととしやかに伝わっている。
思った以上の堅牢な造りに、隠岐守の配下の者が手を焼いていると、一人の老人が現れ、「魚網をかけて、滑車で引けば壊れる」と教えた。
そのとおりにやってみると、建物は苦もなく壊れた。
その老人が、江戸の大伝馬町の牢を、田沼意次の配慮で脱け出て、相良にかくまわれていた平賀源内だったというのである。

2007年3月12日[相良の平賀源内墓碑]

その本丸跡に建てられたのが、相良史料館(牧之原市相良275番地2)。
入館料210円。

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(入館券 絵柄は、初入国した意次の領内遠望図)

_130史料館の外観は、リーフレット表紙の写真でご覧のように、相良城風。
館内には、田沼家ゆかりの品々や、田沼領となる前の本多家やその前の相良家の遺品などが陳列されている。
中でも、36歳で凶刃に斃れて、遺品が極めて少ない田沼意知の真筆は、珍重であろう。

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田沼家の七曜の紋をあしらった刀箱)

史料館の隣は、相良庁舎。横は、小・中学校と高校。

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2007.11.08

相良の大沢寺

幕府評定所(最高裁判所)の五手掛(ごてかかり 寺社奉行、町奉行、勘定奉行、大目付、目付)で詮議していた(郡上)八幡藩(金森家 3万5000石)に、将軍・家重の命令で御用取次・田沼意次(おきつぐ)が同席、主導したことはすでに、書いている。

2007年8月15日[徳川将軍政治権力の研究』(2)~

この事件によって、宝暦8年(1758)9月14日に、相良藩主・本多長門守忠央(ただなか 西丸若年寄 1万石)が所領召し上げの改易(かいえき)、お預けの処分を受けた。

2007年8月22日[新編物語藩史 八幡藩]

9年後の明和4年(1767)7月1日、5000石加増されて2万石となった田沼意次(49歳)が、相良領を領知して領主の班に加わった。
翌6年、相良城の築城に着手。
伊豆の天城や大井川上流千頭(ちず)から欅(けやき)材を集めたという。
足かけ12年かけて、安永7年(1778)に相良城が落成。

その間の安永4年(1775)に、城下の新町にあった真宗大谷派・大沢寺(だいたくじ)が焼失。天明3年(1783)iに初津(はづ)村に代地を求めて、整地・移転の準備をはじめる。
波津村---:現在の表記は、牧之原市相良地区波津。
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(212年後の大沢寺本堂)

_200_2波津(はつ)--- 『鬼平犯科帳』で、文庫巻1[本所・桜屋敷]から登場した、銕三郎(てつさぶろう のちの平蔵宣以)の継母の名前。池波さんは、田沼意次を調べていて、この地名を見覚えたとも思える。

さて、『大沢寺沿革史』によると、天明8年(1788)年、整地終了。
寛政3年(1791)、棟上。
寛政7年(1795)、落成。

とあるが、その前に、
安永7年(1778)、相良築城の余材を大沢寺へ下賜。
天明6年(1786)、意次(68歳)失脚。
天明8年(1788)、相良城破却
が割り込む。

つまり、波津村に再建された大沢寺の本堂は、相良築城の余材によって建てられ、現在にいたっているというわけである。
総欅材による風格のある建築で、棟梁は、三河国牛窪(豊川市牛久保)の伊藤平左衛門であった。

相良城はその姿をわれわれには見せてくれない。
また、意次(没年70歳)も大沢寺の落成を目にすることはなかった。
われれはいま、大沢寺の本堂に、その遺材を偲ぶのみ。

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2007.11.07

相良の般若寺

般若寺は、静岡県牧之原市相良地区の山沿いの大沢にある。
田沼意次(おきつぐ)---というより、相良城ゆかりの遺品が2つあることで、知られている。
そのことは、寺の門前に、教育委員会の銘板に記されている。
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(相良城下町・大沢の般若寺山門と門前右の銘板)

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(般若寺所蔵の破れ陣太鼓の銘板)

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(般若寺所蔵の相良城の杉戸の銘板)

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(相良城ゆかりの品を収納している般若寺本堂)

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(SBS学苑パルシェの鬼平クラスに寺の来歴と所蔵品の説明をする般若寺の西村住職)

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(太鼓の腹部に金塊がつまっていると誤解した泥棒が、皮を破って確認したが金塊がないので、そのまま逃走したため、破れ陣太鼓となったと伝わる)

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(般若寺に8枚保存されている相良城大書院の杉戸。普段は公開されていない)


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2007.11.06

相良城址の松樹

田沼意次(おきつぐ)が、家柄・門閥派の大名・幕臣たちに排斥され、陰謀のような形で政権を奪われた経緯は、これまで何度も記した。
もちろん、政治家が権力闘争の権化であることは心得ているつもりである。

しかし、政権の座から追い落としておいて、その居城であった相良城まで徹底的に壊しつくした史実は、支那やヨーロッパの歴史では読んでいるが、日本ではそんなに多くはないのでは---。
憎悪していても、ある程度のところで許すのが、日本人ではあるまいか。
政敵・松平定信(さだのぶ)のやりすぎは、どうも、彼の性格からきているように思え、調べてみたいことの一つにあげている。

ところで、徹底的に破壊しつくされた相良城だが、城址には数本の松樹だけが暴力をまぬがれた。小・中学校の校庭に健在である。
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牧之原教育委員会の銘板がそのことを伝えている(相良町は、2006年に牧之原市相良地区となった)。
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松樹たちは、城が壊されるのを、黙って見ていたろうが、胸のうちでは「なんて、無残な---」とつぶやいていたろうか。
まあ、意次は、この城が落成した時に10日間しか滞在していないから、松樹たちは、侯にはなじみが薄かったはず。
本丸跡には、牧之原し相良資料館が建てられ、田沼家の遺品なども陳列されているが、このことは別の機会に。

_100相良城の松樹のことを想起したのは、故・村上元三さん『六本木随筆』(中公文庫 1980.3.10)のせいである。村上さんは晩年は六本木に住まった。表通りからちょっと入って、たしか、うどん坂といったと思うが、その坂を背にした閑静なたたづまいの邸だった。

同エッセイに、六本木の町名の由来は、このあたりに六本の松の大樹があったからという説と、江戸期に、上杉、朽木、高木、片桐、一柳、青木と6人の「大名の中屋敷あるいは下屋敷があった」ためと『遊歴雑記』にあり、後者のほうが好ましいと。

そう。 『鬼平犯科帳』がらみを離れると、後者の命名のほうが、6大名家の歴史などへも空想が飛ぶ。

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2007.11.05

山本周五郎さん『栄花物語』

_100_2山本周五郎さん『栄花物語』(新潮文庫 1972.9.30)の主人公は、田沼意次だとするのは、文庫の解説者の山田宗睦さんにかぎらない。
文庫の底本になっている『山本周五郎小説全集5』(新潮社 1968.8,30)の解説を書いている土岐雄三さんも、

『栄花物語』は、徳川中期、後に田沼時代と呼ばれた時代の中心人物、老中田沼意次を柱にした長編であるが、これも『樅の木は残った』と同様、所謂伝統的史実を排して、意次を商業資本経済に移行しはじめた当時の先見的執政者として描き、汚職、収賄の権化とまで伝えられた先覚者の孤独さを主題にしている。

小説には、こんなくだりも描かれている。柳営中で、若年寄の継嗣・意知(おきとも)が佐野善左衛門政言(まさこと 30歳代後半? 新番組 500石)に斬りつけられたとの報を知らされた時である。

彼は頭の中で、はっきりとあの足音を聞いた。眼に見ることはできないが、紛れもなく自分に追いついて来る、あの確かな足音を。

足音の主は、政敵・松平定信(さだのぶ  27歳 白河藩主 11万石)である。
ついでに言っておくと、その後、政権をにぎった定信派の手によって抹殺されたのか、捏造されたものは論外としても、意次のちゃんとした史料はほとんどといっていいほど残されていない。

にもかかわらず、山本周五郎さんは、この作品中で、田沼意次の誕生日を享保4年(1719)3月12日としている。
どんな史料に拠ったのだろう? 

天明4年(1784)の65回目の誕生日、神田橋内の屋敷に家族一同が集まって、祝いの宴をもよおすが、激しい雷雨があったことにしているから、『武江年表』の記述にあわせたかと推察してみたが、同『年表』にはそのような記載はなかった。
3月24日の意知に加えられた凶事の暗示を、雷鳴に托したかったのかもしれない。
それはともかく、この宴で、山本周五郎さんも小さなミスを冒す。

西尾隠岐守忠移(ただゆき 39歳 と遠州・横須賀藩主 3万5000石)と井伊兵部少輔(しょうゆう)直朗(なおあきら 38歳 越後・与板藩主 2万石)に嫁した2人の娘の顔もみせたとあるが、西尾忠移の内室だった意次の三女・千賀は、菩提寺・勝興寺(港区須賀町)の霊位簿によると、10年前の安永3年(1774)11月23日に没したことになっている。

2007年1月21日[意次の三女・千賀姫の墓]

_120このことは、藤田 覚さん『田沼意次』(ミネルヴア書房 2007.7.10)も、うっかり筆をすべらせている。
もっとも、 『寛政譜』などには、内室の没年までは記されていないから、誤るほうが当たり前かもしれない。

こういうことは、市井の暇人のほうが、気が利く。

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2007.11.04

村上元三さんの田沼意次像

長谷川伸師の一門である故・村上元三さんに『田沼意次』(毎日新聞社 のち講談社文庫)があることは、、2006年12月29日から5回にわたってアップしている。
また、2007年10月9日[30年來の疑問]でも触れた。

_100書庫の隅から、村上元三さんのエッセイ集が2冊出てきた。『江戸雑記帳』 (中公文庫 1977,910)と、 『六本木随筆』(1980.2.25)。

前者に、『加賀騒動』の主役・大槻伝蔵についての小文があり、

歴史上、あるいは巷説、講談、歌舞伎などで悪人扱いをされてきた人物に興味をもつたのは、昭和十年、作家になり立てのころあった。
昭和十六年に直木賞をもらってから、「サンデー毎日」に「北斗の鐘」という連載を十三回書いた。その中で、賄賂取りの名人で悪徳政治家の見本のように言われていた田沼意次の冤を、いささかでも雪いだ、と思っている。田沼もよくないことはしているが、当時の新知識といわれる人々を身分にかかわらず自邸に集め、その意見を聞く、ということをやっているし、当時としては珍しいことに開国主義者であった。しかし、太平洋戦争に突入したので、やはり書くものに制限を受け、そう自由には逝かなかった。戦後になって、「佐々木小次郎」や「新選組」「銭屋五兵衛」などを連載で書き、「改造」に「足利尊氏」を書いたのは、戦時中に抑圧された反撥、というほど大げさなものではない。
わたしの師匠の長谷川伸先生は、歴史の流れに埋められた、あるいは埋めさせられた人々を掘り起こして書く、という仕事を続け、それを自分で紙碑(しひ)と呼んでいた。弟子のわたしも、そのひそみにならった、と言ったほうが当っているいるだろう。

_120『田沼意次』(毎日新聞社)の「あとがき」には、上記を補うように、

田沼意次に興味を持ちはじめたのは、戦前、師の長谷川伸先生から、門下一同に「めいめい専門を持て」と言われたためであった。そのころ北海道、千島、樺太などの歴史を材料に、いくつか短篇を書いていたので、自分では北方物と呼ぶ専門を持つことにした。
はじめて『サンデー毎日』に連載を書くとき、「北斗の鐘」という題名で、北方問題を扱った。宝暦から天明年間にかけての資料を漁っているうち、時の老中で賄賂取の名人といわれた田沼意次に興味が起ってきた。しかし戦時中で、豊富に資料を集めることができず、その資料も戦災で焼けた。
戦後になって、何べんか短編の中で意次と、その用人の三浦庄二を登場させた。三浦は実在の人物だが、素性も顔立ちも創作したもので、わたしにとっては馴染みの深い人物になり、声をかければ、いつでも現れてくれた。
この「田沼意次」は、『世界日報』に昨年(注;1984年)の十月まで七百七十回、連載した。これでもう意次を書くことはあるまい、と思うと、戦前戦後にかけて扱ってきた人物だけに、やはり感慨が残った。
この作品で、いささか意次の雪冤らしたと思っているが、やはり資料を集めるのに苦労をした。主人公があちこちと歩きまわっていると、その跡を追って行くのが普通だが、意次は居城のある遠州相良のほかは、どこへも旅していない。屋敷と江戸城のあいだを往復しているだけなので、たまには生き抜きに旅をさせたくなった。しかし、意次を、史実にない旅行に出すわけには行かなかった。(以下略)

2つの小文を書き写して思ったのは、2007年10月9日[30年來の疑問]の書き直しだが、その前に、「北斗の星」を探して読んでみないことには---。
「北斗」は、北方と、田沼家の家紋---七曜にかけた題名であろうか。


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2007.10.09

30年來の疑問

『鬼平犯科帳』『剣客商売』を読み始めて30年が過ぎた。
この間、ずっと疑問に思っていたのは、池波正太郎さんの田沼意次像の変遷についてである。

_100『鬼平犯科帳』巻1[血頭の丹兵衛]p90 新装p95にこうある。

先年、いわゆる〔賄賂(わいろ)政治〕の呼び声をたかめた老中の田沼意次(おきつぐ)政権が倒れ、田沼が失脚すると共に、松平定信政権がこれにかわった。
定信は、うちつづく天災や飢饉(ききん)の後に起った人心(じんしん)の荒廃(こうはい)と経済危機を、武家と農村との結合による〔質実剛健〕な本来の武家政治のすがたにもどすことによつて切りぬけようとしている。

『鬼平犯科帳』シリーズの第1話[唖の十蔵]『オール讀物』に掲載されたのは1968年(昭43)1月号である。

_100_2『剣客商売』シリーズの第1話[女武芸者]に、ヒロインで老中・田沼意次の隠し子の佐々木三冬が『小説新潮』に登場したのは、5年後の1972年(昭47)1月号。
ここでの田沼意次は、スケールの大きい、「政事(まつりごと)は、汚(よご)れの中に真実(まこと)を見出すもの」で、それができる政治家とされている。p51 新装p55

5年間のあいだに、池波さんの田沼意次像を逆転させたのは、なんだったのか--ずっと考えてきた。

_100_3たとえば、賄賂取りの田沼意次を史料から否定した大石慎三郎さん『田沼意次の時代』 (岩波書店 1991 のち岩波現代文庫)がある。大石さんのこの画期的な著作のもとの論文が著作以前の史論雑誌などに発表されていたとしても、1968~72年とは、あまりにもへだたりがありすぎ、妥当とはおもえない。

_120じつは、田沼意次を好意的に視線で描いた小説に、村上元三さん『田沼意次』(毎日新聞社 1985 のち講談社文庫)がある。
もっとも、小説では賄賂のことにはほとんど触れていない。しかし、田沼意次を改革派の仁として描いている。
村上元三さんは、長谷川伸師の没後、新鷹会の会長を長くつとめられた。
『長谷川伸全集』全15巻の解説も一手になさっている。

00さらに、近くは、同じは長谷川伸門下で、村上元三さんが逝かれたあと、新鷹会の会長に就かれた平岩弓枝さんが、女性的なやさしい目で田沼意次を見た『魚の棲む城』 (新潮社 2002 のち新潮文庫)を書いている。[魚の棲む城]とは、松平定信の怨念ともいえる命によって跡形もなく徹底的に壊された相良城のこと。相良港にいろんな舟が出入りするように、この城にさまざまな能才が出入りすればいいとの意味をこめた題名である。

こうして、長谷川伸門下の田沼意次関係の小説を並べていって、一つ気がついた。
すべて、長谷川伸師の没後に書かれていることである。
長谷川伸師の没年は1963年。

それで、はっとひらめくことがあった。

_100_4山本周五郎さん『栄花物語』(1953 要書房 のち新潮文庫)に、2人の若い幕臣の目でとらえた、それまでの教科書にあるのとは違う田沼意次像が描かれていること。

ひらめいた一つは、山本周五郎作品を論ずることは、新鷹会ではタブーみたいになっていたのかもという仮説。長谷川伸師も、山本周五郎さんもともに小学校卒まで。つまり、池波さんは律儀に、1968~72年まで『栄花物語』に手をのばさなかったと。

もう一つは、 『栄花物語』田沼意次像を超える自信がなければ、田沼を書かないという作家としての心意気。

これから、平岩さんにでも、第一のほうの疑問をお聞きしてみよう。


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2007.08.28

田沼時代についての若干の覚書

郡上八幡の農民一揆の裁決への、側衆・田沼主殿頭意次(おきつぐ)の介入・再審の詳細と、本多伯耆守正珍(まさよし 駿州・田中藩主 4万石)の老中罷免のくわしい経緯は、ついに分明しなかったが、雅兄氏から示唆をいただいたので、全文を掲載する。(雅兄は、古来からの最高級の雅称)。

田沼意次について、幕府官僚の中でも幕末期に特別の光彩を放った川路(左衛門尉)聖謨(としあきら)が時の権力者の水野越前(忠邦 ただくに 老中 遠州・浜松藩主 6万石)に語った言葉は、深井氏のみでなく多くの歴史家が引用しているが、最近出た藤田覚氏『田沼意次』(ミネルヴァ書房2007年)でも、田沼評価での一種の基準として使われている。

深井氏もその全部を紹介しているわけではないので、次に原文(『遊芸園随筆』吉川弘文館「日本随筆大成」第1期23 167~168ページ)の読み下し文をあげておく。
 
五月九日、(水野)越前守(忠邦)どのと御物語の序でに、近来の執政の優劣を評して申しけるは、田沼主殿頭(意次 おきつぐ)どののご事世によろしからず申し候えども、よほどの豪傑にはをはしけり。ただいま享寛(享保・寛政)のご政事ご改正のころに向かひ、かく申さむはいかがの様に候えども、さりながらその証のこれあり候故、お聴(きき)に入れ候にて候。

(田沼)主殿頭どのもお側ご用人よりご老中にならせられ候。初めは必ず世にも称え奉り候御人にこそ候べき。そのわけは宝暦八年の金森(兵部少輔頼錦 よりかね 郡上藩主 3万9000石)の一件にて、本多伯耆守(正珍 駿州・田中藩主)どの(老中)お役召し放たれ、金森ならびに本多長門守(忠央 ただなか 若年寄 当時寺社奉行 遠州・相良藩主 1万5千石)のお願に相成りたる、みな主殿頭殿の手に成りけるものと見え候ところ、右のご政事はよほどよく出来たる様に、その頃の書物(ここは資料類の意味)ども見候ても存ぜられ候様にござ候。
【割注】「評定所に金森一件の帳面あり。阿部伊予守(正右 まさすけ 寺社奉行 芸州・福山藩主 10万石)家に、その頃寺社奉行にて取り扱ひ候書留の帳面これあり候。右等によりても、主殿頭どのの躰(てい)はほぼ知るるなり。」

そのほか、同時代に石谷備後守(清昌 きよまさ 500石のち300石加増)を挙げ用ひられけるに、同人世に勝れたるよき奉行にて、今にいたり候まで、佐渡も長崎もご勘定所も、備後守の跡を以てよりどころとする事にて、備後守正直の豪傑なるはおしはかれ候事に候。同人をかくまでに遣われたるは、そのおん身にも正直の豪傑のお心ありたるなるべし。

しかるに上の御覚えもよろしく。天下靡かずといふことなきにいたって、いつか驕慢の気起こりて、その弊ついに松平(松本の誤記)伊豆守(秀持 ひでもち 勘定奉行 500石)がごとき、利口にて御用弁よきものを用ひられ候故、用は足り候へども無利(無理)なることのみ多く、人しらず人望を失ひて、終りには世にもうとみはてられ候て、天明末年のお姿とはならせられたり。

今の人は主殿頭どの全終(終わりを全うする)ならざるによりて、奢侈賄賂のことは田沼時代などといひて、主殿頭どのを以て骨髄よからぬ人のごとくにいふは、気の毒千万なることとと存ぜられ候。

これ畢竟ひとたび天下の権を取り給ひて、誰たがふものなきより驕慢の気は甚だしくなりて、日々に私心専らに成り行き、良心は失ひはててをこなる御事ども多くなり候故に、後世よりはよきことはことごとくに捨て、悪事のみいふことになり候かに候。

それと申し候も一心の置き所よりとは申しながら、平よりお用ひの人に、ご用立ち候より、貞実のものをお撰びなされ候はば、少しはご諫言をも申し、身を捨てまじく候へども、お気の障る位の儀は申し候て、相保ち申すべく候へども、末に至りては利口にてご用弁よきもののみお用ひ故、後年はともかくも先ず当時のご一応そのほかの事のみに流れ行きて、主殿頭の相輩も大いに衰へたるものかと存ぜられ候と申し候ところ、至極もっともなる心附きに候由(越前守どのが)仰せられ候事。

I氏の見解
この中で川路が金森一件の裁きを批評する際に参照している資料は、評定所にある帳面と、阿部伊予守の家にある書留の帳面の二つだが、深井氏が指摘するように後者は例の「御僉議御用掛留(ごせんぎごようがかりとどめ)」に違いない。
評定所に保存されていたという帳面は多くの調書を含んだ公式の記録だろうが、天保以降三度にわたる江戸城の焼失の際に失われた可能性が高い。
つまり、川路は今日見るよりもずっと詳細な記録を読みこなした上で、この事件に対する田沼の処理の見事さを賞賛していると考えられる。

ところで、川路のこの文章は多くの先学が引用しているのだが、彼がなぜこうした重要な記録にアクセスできたか、またどんな関心から過去の事件や政策を調べようとしたか、などに触れた研究はない。

まず勘定所の記録等については、天保2年(1835)に勘定組頭、同6年(1839)に勘定吟味役に任命されているから、勤勉な彼のこととて資料類を丹念に研究した可能性は十分あるだろう。
問題は金森一件である。上記の水野越前との物語の時点では、川路は小普請奉行になっていたが、その程度の役職では評定所の記録に触れることは許されるわけがない。
(若い時に評定所の書記役をしていたこともあるが、過去の重要書類を勝手に見る権限はもちろんない)。また、備後福山藩10万石の阿部家の秘録を見せてもらうなど、言い出すこともはばかられるはずだ。

謎を解く鍵は〝仙石騒動〟にある。
複雑怪奇なこの事件を簡単に要約するのは難しいが、当面の問題に必要な範囲で述べる。

その頃但馬出石藩(5万8000石)では、財政危機を乗り切る方策での重商主義的積極派と保守派の激しい対立が起こり、一門家老同士の根深い抗争が続いていた。

たまたま若い藩主政美(まさよし)が病没した後、後継をめぐるお家騒動もからんで、争いは泥沼化し、その中で、積極派の仙石左京が実権を独占する。

左京は実子小太郎の妻に幕府老中・松平(周防守)康任の姪を迎えていたが、幕府組織を動かすのにこの閨閥を利用したらしい。

一門の反対派・仙石弥三郎の用人の神谷転がたまたま左京の幕府要人を抱き込んでの陰謀を知り、国元の親友の河野瀬兵衛に急報したが、それを察知した左京は河野を捕らえて処刑し、さらに神谷を情報源と見て捜索する。

あやうく江戸藩邸を出奔し、虚無僧に身をやつして普化宗の本山の小金井の一月寺に潜んでいた神谷は、左京派の要請を受けた町奉行所の手で外出中に捕縛された。虚無僧(普化僧)の特権をたてに寺側は神谷の身柄引き渡しを要求したが、老中・松平康任の権勢をはばかる奉行所はこれを拒否し、幕府を巻き込む騒動になった。

ここで寺社奉行の井上(河内守)正春(まさはる 陸奥・棚倉藩主 5万石)からこの件の調査を命じられたのがその下で吟味物調役をしていた川路で、隠密の間宮林蔵も使って綿密な調べを行った彼は、神谷の忠誠を認め、逆に仙石左京の江戸召還と審問を進言したが、町奉行や勘定奉行は容易にはこれを認めようとしなかった。

情勢の突然の急変をもたらしたのは将軍・家斉の介入で、事件の吟味は寺社奉行の手に移されることになり、家斉の信頼する寺社奉行・脇坂(中務大輔))安董(やすただ 播州・辰野藩主 5万1000石 )の下で調査の実権は川路の手にゆだねられたのである。

この時に川路は、脇坂から直接に伝えられた将軍の上意を受けて、あらゆる資料を調査したはずで、特に幕府の要職を巻き込んだ騒動の判例として、郡上騒動の一部始終は徹底的に研究したに違いない。
老中のからむ事件と知れてからはいわゆる五手がかりの合議となり、左京の獄門など関係者の重罪のほかに、郡上騒動以来の世情を騒がす幕閣内の処分もあって、一件落着となった。
こうした経緯で川路が郡上一件の記録に当たったとすると、今日のわれわれよりはるかに多くの正確な記録を利用できたはずで、その上に立って田沼の主導権を認め、その裁きの優秀さを賞賛しているということを、十分考慮しなければいけないと思う。

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2007.08.16

田沼主殿頭意次(おきつぐ)の介入

宝暦元年(1751)6月、33歳の吉宗が、紀州藩主から第8代将軍として江戸城へ入ったとき、200名前後の紀州藩士を幕臣へ取り立てたという。
これだけ多数の藩士を連れることができたのは、小藩の藩主だった綱吉と違い、紀州藩が55万石の大藩だったからであろうか。
その中の1人に、田沼意次の父・意行(もとゆき)がいた。

祖先は、藤原氏の系統で、下野国安蘇(あそ)郡田沼邑(むら)に住し、田沼姓を称したということになっている。
子孫が武田家に仕え、勝頼の没落により、信濃を飄泊ののちに徳川頼宣の家臣として紀州に住んだが、意行の父・義房が病気になって辞し、和歌山城下に閑栖していた---と『寛政譜』には記されている。
とにかく、意行は叔父・田代七右衛門に養われて、紀州侯となった吉宗の家人となり、その江戸城入りのときに小姓となったと同譜はいう。
家禄は300石。のちに300石加増されて小納戸の頭取となった。

Photo_2吉宗は、紀州藩士出の200余名のうち、半数を側近に配置したと、深井雅海(まさうみ)さん『徳川将軍政治権力の研究』(吉川弘文館)にある(のちに御庭番と呼ばれた薬込組出身の17家もこの中に含まれる)。

郡上八幡の農民騒動の再吟味にかかわるまでの意次の年譜をつくってみた。

享保4年(1719)     生
   17年(1732) 14歳 拝謁
   19年(1734) 16歳 西丸(のちの家重)小姓
               父・意行卒(47歳) 
   20年(1735) 17歳 家督
元文2年(1737) 19歳 従五位下主殿頭 叙勲
延享2年(1745) 27歳 本城勤仕
   4年(1747) 29歳 小姓組番頭
               諸事を執啓見習い
寛延元年(1748) 30歳 1700石加増 計2000石
宝暦元年(1751) 33歳 御側  諸事を執啓
    5年(1755) 38歳 3000石加増
    8年(1758) 41歳 5000石加増
               評定所出座を拝命

つまり、宝暦8年9月3日の評定所出座を拝命とともに、家禄1万石の大名と同格の家禄になったということ。
と同時に、宝暦元年に歿した吉宗のあと、元紀州藩士たちの面倒を見る責任の一端---というより、大きな部分を期待され、政治的権力の掌握へむかって志を立てたともいえそうである。それには、家重の後ろ盾を十分に援用しはじめたといってもおかしくはないのでは---。

というのも、吉宗が江戸城へ入った時に雇従し、側衆となって吉宗の政策の浸透をはかった有馬兵庫頭氏倫(うじのり 当初1300石、のち1万石)は、享保20年(1735)に68歳で卒していたし、同じく御側となった加納近江守久通(ひさみち 当初1000石、のち1万石)も、寛延元年(1748)に76歳で亡くなっていたからである。意次に期待がかかっていた。

幕府の権力をにぎるということは、将軍・側衆として幕臣・大名家への人事に間接的介入、評定所一座に加わって政策の立案と公事(くじ)裁決、勘定奉行所を押さえて幕府財政の掌握などがある。
宝暦8年9月3日の、意次の評定所への出座と主導は、上記の意味で大きかったと見る。

一方、老中や若年寄を独占していた開府以来の門閥派から見ると、意次が評定所で郡上八幡の農民一揆に関係した幕僚を重罰に処することは、火中の栗をあえて拾ってくれるようなものだったのかもしれない。

ついでなので加納家『寛政譜』と、久通(ひさみち)の個人譜(赤○)。
緑○は孫・久周(ひさのり)は、家斉から平蔵宣以に下賜された秘薬〔瓊玉膏〕を預かり、辰蔵がうけとりに加納邸へ参上した。寛政7年(1795)5月6日の長谷川家
Photo

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2007.08.01

田沼主殿頭意次(おきつぐ)

あとさきになるが、氏の講義録の書き出しは、こうである。

郡上騒動から生まれた田沼政権

江戸中期に郡上八幡を中心に大きな騒動が起こって、天下をゆるがしたことがある。これが近年〔郡上一揆』という映画になって上映され、多くの人の共感をよんだ。

【参考】映画『郡上一揆』

江戸後期には、この騒動よりもはるかに多数の農民を巻き込んだ一揆や騒動は全国各地に頻発しているが、その中でも、これは暴発的な破壊行動を極力避け、権力の中枢部に対して整然として道理に訴える活動を展開した点で、極めて政治的に成熟した農民運動だったし、またそれに対応した幕府側が最高の政治機関である評定所で審議を行い、農民側の中心人物の処刑という重い罰を課した他に、郡上藩の取り潰しとか、老中や勘定奉行を含めた幕臣たちの処罰といった異例の結末によって、ほかの百姓一揆とは全く違う特別な意味があった。

幕閣・藩主側の処罰を、『柳営補任』から拾って記す。

本多伯耆守正珍(まさよし) 老中罷免 伺之上差控 
 (駿州・田中藩主 4万石 49歳)
本多長門守忠央(ただなか) 若年寄罷免 領地公収
 (遠州・相良藩主 1万石 54歳。御預け)
曲渕豊後守英元(ひでちか) 大目付罷免 閉門
 (1200石 68歳)
大橋近江守親義(ちかよし) 勘定奉行罷免 改易
 (2120余石 御預け)

金森兵部少輔頼錦(よりかね) 領地公収
 (美濃・郡上八幡藩主 3万9000石 51歳
  御預け 家臣追放)
 
この処置について、氏は、

_110実はこの事件の審議の前後から田沼意次(おきつぐ)が評定所に参加するようになり、この責任者たちの処分には彼の意向がかなり反映されていたらしいから、これを田沼時代の幕開けとする見方もある。(こういう面から郡上騒動を扱った本では、大石慎三郎著『田沼意次の時代』がよい手引き書)。

I氏説に異を唱える気持ちはさらさらないが、意次が評定所の式日に席につらなるように下命されたのは宝暦8年9月3日ともとれる記述が、意次の『寛政譜』にある。
裁決は、9月14日である。席につらなった早々に意見を述べるほど、諸事に慎重で思慮深い意次が向こう見ずな発言をするとは、ちょっと信じられないのだが。
しかも、金森頼錦の罪状は、農民への重税を課そうとしたことに端を発している。

氏は、こうも書いている。

反抗する百姓たちを押さえるために幕府の老中や勘定奉行・郡代まで巻き込んだから、、幕閣の中の農業改策観の対立へと発展し、この機会に(吉宗主唱による)享保改革以来の重税派人脈を新政策推進派の中心だった田沼が追い落として、商業流通への課税に重点を移すという幕府政治の重要な転換が図られていったのである。

「追い落とし」ということであれば、老中を罷免された本多伯耆守正珍も農民への重税派ということになるが、田中藩の徴税がはたしてそうであったかは、まだ、調べていない。
本多長門守忠央の相良藩についても同然である。

あえて私見を述べると、老中首座・松平右近将監武元(たけちか)が、いまだ健在の時期である。武元は、吉宗の信任をえて、享保改革政策の継承まかされていたはず。
意次もそのことは十分に心得ていたろう。
武元が卒する21年後の安永8年(1779)までは、急激な政策転換は果たせなかったかともおもうのだが。
あるいは少なくとも、昨日の日記に記した、石谷豊前守清昌(きよまさ)の勘定奉行着任の宝暦9年(1759)9月までは---。
 

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2007.07.28

田沼邸(4)

源内(げんない)どの。よい機会だから、お引き合わせしておこう。こちらは、佐渡奉行の石谷(いしがや)備後守どのじゃ。佐渡の薬草探しを見てあげてくれ---と申したいところなれど、石谷どののご在任はそう長くはない。石谷どののご出府中に、相番の荒川助九郎匡富(まさよし 1000石)どのに顔つなぎをお願いしておくがよろしかろう。佐渡は〔くまのい〕などがよく育とうよ。なにしろ、対岸は朝鮮じゃによって---」
田沼意次(おきつぐ)は冗談めかしたが、平賀源内はそうはとらなかった。
「〔くまのい〕は、新しい土でないと、うまくないですからな」

佐野与八郎石谷清昌(きよまさ)にそっと訊いた。
「佐渡にも、熊がおりますか?」
それを耳ざとい源内が聞きつけ、
「くまのい〕と申しても、山に住む熊のことではありませぬ。人参でござる。朝鮮人参からつくった丸薬」
「迂闊(うかつ)でした」
主殿頭(とのものかみ 意次)どのが仰せられたのは、佐渡は気候が朝鮮のそれとよく似ていようから、朝鮮人参の栽培にも適していよう---と」
長崎における清国からの大きな輸入ものの一つに朝鮮人参などの医薬用の薬草があった。それを、国中で探して、いささかなりとも金銀の支払いを少なくするというのが、有徳院(吉宗)の時代からの公儀の方針でもあった。
その薬草探しに長(た)けているのが、平賀源内の特技の一つだった。

吉宗が命じた輸入減らしの品目には薬草のほかに、絹呉服、鹿皮、木綿などもあった。養蚕の振興と木綿の栽培はけっこう根づき、ひろまっていた。砂糖黍(きび)も試植された。

源内どの。石谷どのは、いずれ、長崎奉行にもと嘱目されているご仁。よくよくおん覚えをよくしておくようにな」
「それは重畳(ちょうじょう)。石谷どの。よしなにお願いつかまつりましょう」
「かしこまりました」
朴訥な石谷備後守は、素直にうけとっている。が、じつは、その後、石谷は長崎奉行となり、現地で源内の世話をみることになろうとは、この時はだれも予想していなかった。

「それから、源内どの。こちらの本多紀品(のりただ)どのは、まもなく目付におなりになる方じゃ。おことのような、無頼非常の徒は、一番にお世話になりかねないゆえ、いまから親しくなさっておかれい」
意次は、源内をつぎつぎとたくみに引き合わせていく。
これでは、いちど交誼を得た者は、みごとに田沼派にくみこまれる。
(よき人ばかりなら申すことはないが---)
宣雄は、事前に慎重に人選びをしている意次を思った。

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2007.07.27

田沼邸(3)

佐渡奉行の石谷(いしがや)備後守清昌(きよまさ)が田沼意次にいった。
「侯へは手紙で申しあげておりますが、佐渡・相川金銀山の採掘の割合は、銀20に対して金1でございます。この点から申して、山の呼称は、銀金山としたほうが理にかなっていると、山奉行とも笑って話しあっておりますが、ありようは、銀の値打ちにもっと目をむけてほしいからでございます」

「ほれ、いつもの石谷どのの持論がでましたな」
と受け流す意次に、田夫士然としている石谷がわざと憮然とした表情をつくり、
田沼侯には幾度上申しても、時期尚早---とばかりで。銀をいまのように低く見ておりますと、そのうち、この国中から銀が逃げてしまいます。銀も立派な通貨でございますれば---」
意次が引き取って、
「金と銀との両替えの按配を、金1両につき銀20匁(もんめ)に引き上げよ---というのが石谷どのの献策なのじゃ。相川金銀山の採掘の実績からきているのではなく、異国での値打ちなどから導き出された献策での。したが、拙は、勝手掛(かってがかり)はおろか、いまだ老職ではないのでの」
「金1両に対して銀50~60匁という、いまの両替え率は、この国に銀がどっさり産出していた300年も昔にきまったことでございます。ひとつことが300年も変わらないというのは、あまりにも浮世ばれしております」

そこへ、用人が入ってきて、取り次いだ。
源内どのが、ふらりと来駕されましたが---」
「おお。天竺浪人め、何用でまいったか---」
意次がわらっているうちに、勝手に入ってきたのは、顔も目も髷(まげ)も細づくりの、武士とも儒者ともつかぬ、30歳なかばの男であった。

_120「平賀源内どのと申されての。元讃岐・高松藩の本草学者であったが、いまは自由気ままな、うらやましいようなご身分の仁じゃ。いずれからの帰りかの」
源内は、けろりとした顔で、一同に軽く会釈し、
「越後の佐竹侯のところで、金山の指導をしておりました」
「ほう。で、いかがかな」
田沼侯がいかがと仰せられるは、幕府の天領にならないかとの意味でしょうな。これはむつかしい」
「人聞きの悪いことをぬけぬけと申す。お上は、そこまで、逼迫してはおらぬは。いかがと申したのは、陸奥の各藩の飢饉のあとの回復加減じゃ」
「天竺浪人は幕府隠密を勤めるほど、落ちぶれてはおりませぬ」
あいかわらず、けろりとしたものである。

長谷川平蔵宣雄(のぶお)は、
田沼侯の底の知れないほど大きな器量)
を、またも見せつけられた気がしてきて、ただ、驚くばかりであった。

源内焼
相良の平賀源内墓碑
平賀源内と相良凧
平賀源内と田沼意次(つづき)
平賀源内と田沼意次

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2007.07.26

田沼邸(2)

ひととおりの紹介が終わったところで、石谷(いしがや)備後守清昌(きよまさ)が、
「では---」
と姿勢をあらためると、田沼意次(おきつぐ)がさえぎった。
石谷どの。無礼講でござる。まずは、お気楽に---」
酒も出た。肴もくばられた。

素朴で田夫子のような風貌の石谷清昌が、佐渡の相川金銀山がむつかしくなってきているというと、意次が、
石谷どのが着任されてより、長崎へ送る煎海鼠(いりこ)や鮑(あわび)の量がふえましてな」
と水をむける。
長谷川平蔵宣雄(のぶお)は、
(あっ)
と感じ入った。
国中の幕府直轄の金銀山が痩せてきていることは、幕臣であればほとんどの者が知っている。長崎の交易での流出が激しかった。
清(しん)国との交易に、金銀の代わりに俵物とよばれる煎海鼠や鮑が使われていると聞いたことがあったが、産地は松前藩とばかり思っていたが、じつは佐渡だったのか。
見ると、本多采女紀品(のりただ)も佐野与八郎政親(まさちか)も瞳を輝かせて聞き入っている。

「佐渡の金銀山が、島の西北側の朝鮮に対面している相川の裏山にあることはご存じでございましょうか。

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(佐渡島 赤○=奉行所のある相川 緑○=金銀を産する青盤鉱山)

その相川に、新海士町(あままち)を設けて、海士村にいた働き手たちを移住させましたら、監視の手がうんと少なくてすむようになりました。長崎奉行所へなるべく多くの煎海鼠と鮑を届けるために、佐渡島内での売買を禁じましたので、その監視がたいそうな手間だったのです」
石谷どののお手柄は、それだけではありませぬぞ。鉱山の精錬所を一つところへまとめて、諸掛かりを半減された。役人にはきわめて稀な、掛かり経費というものがお分かりになっているご仁なのじゃ」
意次の目は、見るべきところをきちんと見ている。

宣雄が問うた。
「佐渡奉行所の人手は、いかほどでございますか」
「与力30人、同心70人です。これで、相川、小木、赤沼、夷(えびす)の4ヶ所の代官所をまかなっております」
佐野与八郎も訊く。
「金銀、煎海鼠と鮑のほかに採れますものは?」
「冬の豪雪を除くと、米が3万石をきるほど。山ばかりの島で、田畑になる土地がすくないのです。それで、松前藩との交易もすすめております。こちらからは、竹細工もの、藁細工もの、籐細工もの、味噌、醤油、串柿などを細々と。越後の米も買いこんで送っております」
石谷どのは、みごとな経綸家での。それでこたび、勘定奉行をお願いしようと、な。そうそう。石谷どのは、大きな夢をお持ちなのじゃ。ご披露くださらぬか」
またも意次のすすめ上手。
石谷清昌も、あまり変化のでない顔に、まんざらでもなげな微笑をうかべ、
田沼侯の、せっかくのおすすめなので。じつは、年来、国内の通貨の一元化を考えております。上方から西の銀単位、名古屋からこちらの金量目、これを一つにする方策でございます」

川井次郎兵衛久敬(ひさたか)が、膝をのりだした。
石谷さまのご計画、拙も大賛成で、あれこれ、案を練っておりますが、大坂商人たちの反発もありましょう、一筋縄ではなりがたく---」
意次が大きくうなづいた。
どうやら、通貨の東西一元化は、今宵始めて出た議題ではないらしい。

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2007.07.25

田沼邸

石谷(いしがや)備後守どの(清昌 きよまさ)が佐渡から公用でお戻りになっての。くさぐさのお話をみなみなで拝聴しようと---」
田沼主殿頭意次(おきつぐ)の木挽町の屋敷である。
長谷川平蔵宣雄(のぶお)のほかに、本多采女紀品(のりただ)、佐野与八郎政親(まさちか)の3人、ほかには、横田和泉守準松(のりまつ 5000石)、川井次郎兵衛久敬(ひさたか)が招かれている。

_100備後守どのは、わが田沼家とおなじく紀州からの出頭じゃが、わが家とちがい、初代さま(頼宣)につけられて紀州へ下られたお家柄での」
「なにを仰せられますか、主殿頭さま」
いまは、1万石、評定所出座の意次である。
「いや。失礼つかまつった。備後守どのの公用というは、勘定奉行をお引き受けくださるかとの下相談のためだが、このこと、10ヶ日もしないでご内示がでようほどに、人事につき、おのおの、ご内密にな」
石谷家は500石(のち800石)。清昌はこの年、45歳。佐渡奉行として赴任したのが3年前。屋敷は小川町。

「こちらは、川井久敬どの。いまは小普請組の組頭をしておいでだが、なかなか。遠江の川井村の出でござったな。つまりは今川の旧家臣であり、早くからの大権現さま(家康)のご直参でもある。そうじゃった、長谷川どののご先祖も今川どのから徳川へお移りになったのでしたな。姉川、三方ヶ原でともに武田勢とお戦いになったわけじゃ」
川井です。お初にお目にかかります」
川井家は530石。この年、35歳。屋敷は表六番町。のちに意次に引きたてられて勘定奉行として腕をふるったのは10数年後。
「ああ、長谷川どのとは、今川のご縁でしたか」
「遠江の小川(こがわ)の出でございます。よろしゅう、お願いいたします」
宣雄が挨拶を交わすのが終わるのを待って、意次が、
本多どのも表六番町でござったのでは---」
「はい。同じ町内なので、本多さまのご門前はよく通っております」
「よく、お見かけしますな」
本多采女がそつなく応じる。

「こちらは、横田和泉守どの。西の丸のお小姓組におられるから、佐野与八郎どのとは、もう、お顔なじみでござろう」
「組は異なっておりますが、年齢も近く、年少組など称してお近づきさせていただいており、なにかと---」
佐野与八郎が答えた。年齢は近いとはいえ、横田家は5000石。佐野家は1100石。
「いや、教えられているのは当方でして---」
横田準松が受けたところで、
「そうそう---」
思い出したとでもいった風情で意次が、
横田どのも屋敷は築地でござったな」
これを引き取って、宣雄が、
「はい。横田どのは本願寺の脇に構えておいでですが、陋屋は大川の川辺近くでございます」

それにしても、田沼意次の記憶力と調べには、本多紀品長谷川宣雄も恐れ入った。
いったい、どういう頭の仕組みになっているのか。
この調子でやられたら、たいていの人間は、意次を好きになってしまうだろう。

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2007.07.21

田沼主殿頭意次(おきつぐ)(続)

田沼主殿頭(とのものかみ)意次(おきつぐ)が立ち上がったとき、本多采女(うねめ)紀品(のりただ)、佐野与八郎政親(まさちか)も見送りのために廊下で待つ。
もちろん、長谷川平蔵宣雄(のぶお)も従った。

本多紀伊守正珍(まさよし)は座についたままである。蟄居(ちっきょ)中といえども、半年前まで老職を13年間勤めた4万石の前田中藩主である。年齢も10歳ほど上。
意次は将軍のお側取次ぎで、評定所に連なって仕置を学んではいるが、まだ1万石、格がちがう。

駕籠に乗るとき、さも、いま思い出したように、さりげなく、
「そうそう。木挽町の拙宅には、さまざまの人が寄っています。蘭学者もくれば、山師も、商人も、絵師もきます。お三方、もし、興がそそられたら、参られませんか。お三方とも番方(ばんかた 武官系)とお聞きしたが、いずれは役方(やくかた)へお転じになるはずの方々。後学のためにもなろうかとぞんじて---」
「は。ありがたく---」
あまりの突然の誘いに、3人ともただ、頭をさげる。
意次は、その様子に笑いながら、家士をうながして、駕籠を出させた。

駕籠を見送った3人は、あまりにあざやかすぎる人あしらいに、お辞儀もわすれてため息をつくばかり。
(人を寄せるということは、あのようなお人柄あってのこと)
宣雄は、意次の躰がたくまずして発する魅力に、しばらく酔わされたように、放心していた。
(天性の人たらしの才としか、いいようがないな)

書院へ戻ると、酒の用意ができていた。
3人に酒をすすめてから、本多侯が訊く。
「どうやら、3人とも、主殿頭どのの魅力にあてられたらしいの?」
「いや、たいへんなお人でございますな」
感にたえた声で、本多采女紀品が口火をきった。
「近時の本多一門には、あれほどの器量の士は見あたらないのでは---」
紀品は、自分よりも4歳も若い意次に、軽い嫉妬さえ感じている口ぶりである。 
紀品どのは、また、深く傾倒されたことよ。長谷川どのはいかが?」
「はい。末恐ろしいお方と拝察いたしました」
「末恐ろしい?」
「さまざまな階層の人びとの声をお聞きのようでございます。これまでの上っ方にはおいでにならなかった向きの方かと。それだけに、お仕置きは広く目くばりが届きましようが---」
「ふむ?」
「門閥の方々からの反発もはげしかろうかと---」
そう所信をのべた宣雄を、若い佐野与八郎が黙って見つめている。

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2007.07.20

田沼主殿頭意次(おきつぐ)

≪明宵六ツ(午後6時)、寓居に珍客が見えるので、おさしつかえなければ、ご来駕ありたく。息・銕三郎どのもご同道、よろしく。(本多采女紀品(のりただ)どの、(佐野与八郎政親(まさちか)どのもお招きしており---≫
駿州・田中藩の前藩主・本多紀伊守正珍(まさよし)侯からの文面である。
宝暦9年4月某日のこと。寓居とは、侯が隠居所同様に暮らしている芝二葉町の中屋敷である。
 本多紀伊守正珍、本多采紀品→本多家
 佐野与八郎政親

おとなうと、すでに珍客の塗り駕籠が門の内側にあった。駕籠に金箔で描かれている七曜の紋所から、田沼主殿頭(とのものかみ)意次(おきつぐ)とわかった。
 田沼主殿頭意次
(評定所への列座を命じられたばかりのお方が、ようも---)
不審をはらいのけながら、書院へ通った。本多采女紀品も佐野与八郎政親もすでに控えている。

「遅れまして、申し訳ございませぬ」
「なんのなんの。主殿頭どのとは、半刻も前から相談ごとをしておっての。主殿頭どの。これなるが、先刻もお耳にいれた、今川どののときの田中城主・長谷川紀伊守正長どののご子孫にて---」
「田沼です。よろしゅう」
40歳をこしているというのに、秀麗でおだやかな面(おも)ざしが、鋭利さをつつみ隠している。大髱(おおたぼ)を結った大奥の女どもが色めいているとの噂も、どうやら、
(もっとものこと)
平蔵宣雄は納得した。
長谷川平蔵と申す、ふつつか者でございます。お初にお目にかかり、光栄にぞんじます」
「さ、さ。堅苦しいことはこれまでじゃ。長谷川どの。自慢の息・銕三郎どのは連れなんだかの?」
「はい。運あしく、ただいま、遠出をしておりまして」
「遠出とな?」
「いささか西へ」
「それは残念。主殿頭どの。長谷川どのは、番方(ばんかた 武官系)にしておくのは惜しいほどの仁でしてな。いずれ、役方(やくかた 行政官)の上つ方をこなさせてみたいもので---」
正珍侯の推薦の弁に微笑みながら、宣雄に視線をすえた。目は笑っていない。相手の心の底まで見通すような眼の光である。
「とんでもございませぬ」
平伏する宣雄から視線をそらした意次は、
「ご一族の本多長門守忠央(ただなか)侯のご赦免のこと、せっかくの本多侯のご配慮なれど、館林侯があのようなご性格で、農民一揆にはことのほかきびしく、一罰百戒の意気ごみであたられておられますゆえ、努めてはみますが、なかなかにむつかしいかとおもいます」
館林侯とは、老中首座・松平右近将監武元(たけちか)のことである。

なるほど、平蔵宣雄が着到するまでの話題は、美濃・郡上八幡の農民一揆の処理で、職は解任、封地は召し上げの若年寄・本多長門守忠央の救済に、本多一族がそれぞれ幕閣にあたっているということであろう。

「では、拙はこれにて---」
潮時とみた意次がいう。
「おお。いま、酒の用意をしているというに---」
「いや。ほかに所要もありますれば---」
「それは残念。瀬戸川下で採れる丸干しを献じようとおもいましたのに---」
「いずれ、また、参じますこともありましょうほどに、それまでお預け---あ、失礼つかまつった。ご容赦」
本多長門守忠央松平越後守長孝(ながたか)に預けられていることを詫びたのである。

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2007.03.01

平賀源内と田沼意次(つづき)

戦前に出た平凡社『日本人名大事典』(1938.3.5初版刊 1979.7.10復刻)に、平賀源内について人さわがせな数行があった。入牢した容疑について---、

Photo_307 発狂して人を斬りし説と、蝦夷において密貿易した機密書を見られたその人を斬った説とがあり、後説が近年信じられている。更に一説によれば、この事は田沼侯と関係あり、、牢中で病死と号し実はその手に救われ、遠州に隠棲して80余歳で歿したといふ。
(肖像:『偽作者考補異』所載 部分)

今井誉次郎さん『平賀源内』(国土社 世界伝記文庫3 1973.8.25)は、少年少女向きに書かれたやさしい文章だが、内容は、田沼意次についての捏造された風評を除くと、まあまあ、吟味されている。付された年表によると、源内が老中・田沼意次に「ひそかにあったのは明和6年(1769)、源内が41歳のこととなっている。
田沼意次は、秋山小兵衛と同じ享保3年(1719)の生まれだから、源内より10歳年長である。
明和6年といえば、2006年2月23日の当欄に引用した田沼意次の年表によれば、この年、意次は老中格に任じられている。

ただし、蝦夷開発のための探索計画が勘定奉行・松本秀持(ひでもち)によって提案されたのは、それから14年ほどのちの天明4年(1784)である。

今井さんの年表では、源内はその5年前の安永8年(1779)に蝦夷での密輸文書うんぬんの殺傷事件を起して入牢、1カ月後に獄内で病歿したことになっている。
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屋根がつけられた源内墓石

田沼意次がひそかに蝦夷へ派遣して、植物や鉱物を探索させたという話のほうが想像力をそそられはする。が、意次との接点でえば、同年表にある明和7年の2度目の長崎遊学の便宜をみてもらったと、世俗的に考えるほうがまっとうだろう。

平岩
さんは、『魚の棲む城』で、源内という多芸多才な仁を評して、意次の近親者の口を借り、
「ああ気が多くては、とても一つのことを成しとげられますまい」
とうがつ。

ま、戯文はともかく、田沼意次にひそかにあった翌年---すなわち明和7年(1770)に、江戸の外記(げき)座で上演された、新田左兵衛佐(さひょうえのすけ)義興(よしおき)の怨霊をうたいあげた『神霊(しんりょう)矢口渡』(風来山人集 日本古典文学大系55 岩波書店 1961.8.7)は、歴史知識はもとより口調もあざやかだとおもう。
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矢口古事(『江戸名所図会』部分 塗り絵師:ちゅうすけ)

忘れるところであった。源内と佐竹藩のつながりだが、今井誉次郎さん作成「源内の足跡地図」に記載されている久保田領内の鉱山は、院内銀山(秋田県雄勝郡雄勝町)と阿仁鉱山(同北秋田郡阿仁町)である。

も一つ。
源内の墓の右後ろ、一段と小さい墓石は、久保田生まれの従僕・福助のもの。
福助は源助より8カ月早く墓に入っている。その縁で源内が総泉寺へ葬られたとの説もある。

さらに、も一つ。
浄瑠璃『神霊矢口渡』は、福内(ふくち)鬼外(きがい)という人をくった筆名で発表された。

もう一つ、おまけ。
都庁公園課へ墓域の開扉について問いあわせた。公園内の施設でないから管轄外だが、とあちこち聞いてくれ、けっきょく、担当部署不明。しかし、開扉日は毎月第一土・日と命日の18日のみと。
ぼくは2月25日に行って半開扉ですっと入れたけれど、あれはなんだったんだろう?
臨時開扉の申請先は、けっきょく、わからずじまいだった。

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2007.02.28

平賀源内と田沼意次

00_1 平岩弓枝さん『魚の棲む城』(新潮文庫 2004.10.1)を単行本で読んだとき、よく調べたとともに、ワイロ政治家・田沼意次の風説をひっくりかえした腕力に感動。
すぐに電話でお礼を述べた。というのは、単行本は平岩さんからいただいたから。

魚の棲む城』に、田沼意次の木挽町の中屋敷を描写した、こんにな一節がある。

神田橋の屋敷がいわば公邸なら、ここは全くの私邸であった。
月に一度、ここに様々な人々が集まって来た。
職業はまちまちで蘭方の医者、蘭学者が多い時もあるし、江戸や上方の商人が来るときもある。画家や俳諧師(はいかいし)や狂歌の仲間がそろって顔をだしたりもする。かと思うと蘭学者、漢学者、詩文の愛好家が集まる日であったり、算勘に長じている者、鉱山に知識のある者など多士済々(せいせい)であった。p360

田沼意次という政治家の、いわゆる懐の深さであり、人脈の豊富さをよくあらわしている。
「鉱山に知識のある者」の中に、平賀源内もふくまれていたろう。

そして、多芸多才というか奇人というほうが妥当か、平賀源内を田沼意次に引きあわせたのが、幕医でもあった千賀道有ではないかと、思えてきた。

というのは、『台東区史』(1955.6.30)は、獄内で病死(54歳と57歳説がある)した源内の遺品を橋場の巨刹・総泉寺へ葬ることがかなったのは、親友だった千賀道有の口ききがあったからであろうとの仮説を記している。
遺体は罪人ゆえに下げ渡しにはならない。

千賀道有のことは、([2-1 くちなわの眼]に、

ずらり武家屋敷が三ッ俣(みつまた)の河岸通一帯にかけてならんでいる。その中の、ちょうど平十郎の家からななめ右寄りの対岸に、敷地・二千坪にあまる宏大な屋敷がのぞまれるが、これを土地(ところ)の人びとは〔道有(どうゆう)屋敷〕と、よぶ。
先年まで将軍の侍医として世にきこえた、法眼(ほうげん)・千賀(ちが)道有の屋敷だからである。p17 新装同

〔道有屋敷〕が、ここではなく、紺屋町3丁目と大和町の間---藍染橋ぞいにあったことは、いまは問わない。

千賀道有という人物は、もとは伝馬(てんま)町の牢屋敷(ろうやしき)に所属し、囚人の病気治療に専念していた下級医であったが、そのころ、三百五十俵どりの旗本にすぎなかった田沼意次(おきつぐけ)家へ出入りをし、田沼を案内しては、よく諸方の岡場所などへ女を漁(あさ)りに出かけたりしたものだ。(略)
田沼の出世につれ、千賀道有も地位を高めていった。
若いころの〔遊び友達〕であったばかりでなく、田沼は道有の養女(もとは矢場の女)を愛妾にしていたし、何かにつけて、わけ知りの道有というのが、便利な存在となった。p18 新装同

池波さんの道有非難の根拠にもいま触れないでおく。

風俗画報』(明治41年7月20日号 新撰東京名所図会 浅草区之部 巻之四)の巻末「区内有名の墳墓」リストにも、総泉寺に千賀道隆の名が記されている。道有の子か孫であろうか。

魚の棲む城』はp443で平賀源内の名を出し、何にでも首を突込む面白い奴だが---、
「あいつは久保田(現・秋田市)へ行っていたのだよ」
と、田沼意次にいわせている。佐竹藩に招かれて、封内鉱山の調査をしていたらしい。
(『日本歴史地名体系 秋田県』(平凡社)で調べたが、封内町には鉱山はみつからなかった。この件は後述)。

佐竹藩との鉱山の所属をめぐって、幕府の田沼側と佐竹藩との間に、ある種のいきさつがあったこともなにかで読んだ。

佐竹藩の在府の香華寺は、総泉寺であった。その関係で源内が同寺へ葬られたかも知れないとも『区史』は記す。
板橋・小豆沢の総泉寺の若い寺僧は、その経緯については知らず、ただ、平賀源内の墓は、旧地の橋場に残っているとだけ告げてくれた。
360_23
【銘板の文】
平賀源内墓(国指定史跡)
                台東区橋場2丁目22番2号
平賀源内は享保13年(1728)、讃岐国志度浦(現香川県志度町)に生まれる(生年には諸説ある)。高松藩士白石良房の3男で名は国倫(くにとも)、源内は通称である。寛延2年(1749)に家督を継ぎ、祖先の姓である平賀姓を開いた。本草学・医学・儒学・絵画を学び、事業畑では成功しなかったが、物産開発に尽力した。物産会を主催、鉱山開発、陶器製造、毛織物製造などをおこない、エレキテル(摩擦起電機)を復元制作、火浣布(かかんぷ 石綿の耐火布)を発明した。一方で風来山i人(ふうらいさんじん)・福内鬼外(ふくちきがい)などの号名をもち、『風流志道軒伝』の滑稽本や浄瑠璃『神雲矢口渡』などの作品を残した。
安永8年(1779)11月に誤って殺傷事件を起こし、小伝馬町の牢内で病死。遺体は橋場の総泉寺(曹洞宗)に葬られた。墓は角塔状で笠付、上段角石に「安永8巳亥年12月18日 智見雲雄居士 平賀源内墓」と刻む。後方に従僕福助の墓がある。
総泉寺は昭和3年(1928)板橋区小豆沢へ移転とたが、源内墓は当地に保存された。昭和4年に東京府史跡に仮指定され、昭和6年には松平頼壽(旧高松藩当主)により築地塀が整備される。昭和18年に国指定史跡となった。
平成17年3月
                    台東区教育委員会

風俗画報』は、大震災前は「総泉寺本道の左側、十三仏の裏にありて、高さおよそ六尺ばかり(1.8m)」と記している。
その後の推移を『区史』は、総泉寺の移転に伴って「現在は石浜町三丁目の加藤氏宅の一隅にあり」としているが、区の史跡指定、つづいて昭和18年に国史跡に指定されたので、加藤氏から都の管理へ移ったと推定できる。

訪ねると、橋場2丁目22-2にあった。
360_24

築地塀は、旧高松藩主・松平頼壽侯の寄贈によるものとか。
(この項、つづく)

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2007.01.21

意次の三女・千賀姫の墓

遠州・横須賀藩(3万5000石)の西尾家7代目の藩主である隱岐守忠移(ただゆき)の内室---田沼意次の三女の墓が四谷・須賀町8番地の法輪山勝興寺にあるというので、行ってきた。

あらかじめ、葉書で案内を乞うておいたので、ご住職・吉川(きっかわ)弘眼(こうげん)師(72歳)が準備してまっていてくださった。

Photo_272
正面門柱。ただ真正面は別の家。左カーブした参道奥に本堂。

本堂は、屋根の修理中なので、足場と幕に覆われていて、見えない。

当寺には、西尾家の累代藩主の内室と愛妾、家督前に逝去した子息たちの墓がある。

隱岐守忠移の内室は、千賀姫。安永3年(1775)11月23日歿(20歳)。
法名:真光院殿珠繋円明大姉

Photo_275

生前に、男子・千次郎を産んでいるが、この子も3歳で歿。

於千賀が逝ったとき、忠移は28歳。
田沼意次が老中として政治をとっていた時期だから、離縁もなにもなかった。意次の失脚は、於千賀の没12年あとであった。

ついでながら、青年医師・千賀道有が若かった意次と親しかったことは[2-1 蛇(くちなわ)の眼]に書かれている。この千賀と於千賀の命名にはなんらかの関係があるのだろうか。

吉川師のご指摘で初めて知ったのだが、於千賀の墓石の正面左右の枠には、田沼家の家紋・七曜が刻まれていた。Photo_276

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2007.01.20

西尾隱岐守忠移の内室

遠江国横須賀藩主・西尾隠岐守忠移(ただゆき)の内室は、田沼意次(おきつぐ)の三女である。名の於千賀(千賀姫)。母は意次の正妻ではない。

2006.12.9の当ブログに、意次の失脚後の「上奏文」を掲げた。時宜を得て将軍・家斉(いえなり)の披見を期待したもののようだ。
その文言に、「親族縁座、あるいは義を絶ち縁を絶ち、かつてそのゆえを知ることなくして止みました」といった血涙を流すような一節もある。

それで、意次の三女を正妻としていた西尾隠岐守も、意次の失脚後には離縁したろうかと、疑念が生じた。

1月7日の静岡の[鬼平]クラス(SBS学苑パルシェ)で、受講者の一人---安池欣一さんに、地元なんだから、調べていただけないか、と依頼しておいた。

安池さんは、『大須賀町史』の隠岐守忠移の項を閲覧し、「相良城取り壊しの参加の記述はあるが、田沼の三女の去就についての言及はない」ことを確認。西尾家の菩提寺が龍眠寺であること知り、その伝手で郷土史家・桑原氏と面談。離縁されてないと。

以下の経緯と感想は、安池さんのコメントをそのまま掲出する。


課題について、自分としては結構動いたという高揚感がありますので、自慢話を誰かに聞いてもらいたいような気持で書きます。

1.いつか機会があれば勝興寺を訪問して墓碑を確認できたらとも思いますが、実現しますかどうか。

2.龍眠寺の住職が古文書の研究家桑原氏を教えてくれたのは全くの幸運でした。
桑原氏に会えなければ頓挫していたと思います。

3.桑原武氏について。最近、喜寿の祝いを頂いたそうです。
(大須賀町の)目抜通りに印刷会社を構えて経営されています。
自宅は横須賀城跡の近くで倉庫を改造されたという広い2階に蔵書と資料がありました。
市の関連する古文書の勉強会で指導されているそうです。
西尾家関連の資料は、千葉県の鴨川や東京の戸越(国立の古文書の資料館があるとか)まで行かれて集められたとか。
由緒書や分限帳などの写を見せてもらいました。
歴史勉強の心得なども教えて下さいました。
執筆された文章もあるそうなので県立図書館で捜してみるつもりです。
いきなり電話したり、訪問したのは、厚かましかったのですが親切に応対していただいて、後で考えるとラッキーでした。

4.インターネットによる検索はかなりのことができるものですね。
試しに「西尾家の菩提寺」で検索したら、勝興寺をヒットしました。
但し、適切なキーワードが思いつくかどうか。今後はもっと旨く利用しようと思いました。

5.西尾隠岐守忠移の父は京極若狭守の二男とあります。
京極備前守高久と関わりがあるのか、と調べてしまいました。
また、西尾隠岐守忠移の二代前は老中を勤めるなど名門なんですね。
田沼家との縁談はどんな経緯があったのでしょうか。
それから小梅の西尾隠岐守の下屋敷は先生にいただいた地図をみると鬼平にも何度も出てきますね。
(注:日本たばこ東京工場が[4-7 敵(かたき)]に、南八丁堀四丁目の下屋敷は[9-2 鯉肝(こいぎも)のお里]に。ただし、池波さんは近江屋板の切絵図のミス・プリのまま五丁目としている)

6.今回初めて図書館で寛政重修諸家譜をみたり、由緒書や分限帳をみせてもらったり、これで町誌をふたつ読んだりと、それらしいことをしました。
また桑原氏にも会えました。
名指しで課題を頂かなければ動かなかったことと思います。
有難うございました。今後ともよろしくご指導ねがいます。

                SBS学苑 鬼平クラス受講生 安池

【ちゅうすけ後記】明21日、意次の三女で忠移の内室が葬られている四谷・須賀町8の勝興寺へ詣でてきます。

安池さん。郷土史家・桑原さんの知遇を得られたのですから、桑原さんの郷土史家ネットワークで、掛川藩や沼津藩へも広げられますね。

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2007.01.09

平岩弓枝さん『魚の棲む城』(その7)

【終章】つづき・2

(天明6年 1786)九月八日、将軍家治の死去が正式に発表され、十月四日には上野寛永寺に埋葬されたが、意次はその葬列に加わることはなかった。
十月五日、意次は「諸事不届のあるによって」という、曖昧(あいまい)な理由で、五万七千石の中、二万石を召しあげられ、神田橋の上屋敷と大坂の蔵屋敷を没収の上、江戸城への出仕を禁じられた。
(略)

この間、訊問や申しひらきの機会は与えられていない。
政敵を倒すときには、そのような斟酌は無用ともいえないこともないが、正当とはいいがたい。
翌天明7年(1787)6月、老中首座についた松平定信は、まだいじめ足りないとおもつたかのように、10月、意次の蟄居と所領の2万7000石を没収し、孫・意明に陸奥と越後に捨て扶持のように1万石の領知を与えた。
その1万石も、定信の性格からしては、必要ないとおもったであろうが、周囲にいさめられての、しぶしぶの結果であろう。

意次が死んだのは、その翌年の七月二十四日、七十歳であった。

相良湊(さがらみなと)は小春日和の中にあった。
岸壁に続く砂浜に、品のよい老夫婦とも見える男女が腰を下ろし、海原を眺めている。
男は板倉屋龍介、女はお北であった。

板倉屋龍介は、物語の中の狂言まわし役の、意次の幼馴染。美禄の幕臣の次男で、蔵前の札差の家へ養子へ入っていた。
お北も幼馴染で、のちに意次がもっとも心を許した個人秘書のような形で、諸事をとりしきった。

「全く、十年一昔とはよくいったものだな。殿様がお歿(なくな)りになって五年、殿様のお供をして俺が相良城を見物させて頂いたのが、その八年前のことだった」
大海へ向って白く輝やく美しい城は、跡形もなくなっている。
白河なんて奴(やつ)は何を考えていたんだか。御倹約を御政道の旗じるしにしたくせに、うちの殿様が気に食わない。坊主(ぼうず)憎けりゃ袈裟(けさ)までと、折角、出来たお城を叩(たたき)きこわして元も子もなくしちまった。どれほどの無駄か。とっておけば後から入って来るお大名の役にも立とうに、ものを粗末にするにも程があるよ」
龍介がふりむいたあたりには、なにもなかった。かつて、小さいながらも優雅なたたずまいをみせていた相良城は消えて、ただ荒涼とした風景が広がっている。
(略)

城の破壊を命じた定信は、その取り壊し費用を考えたろうか。
それよりも、取り壊しにかり出されたり、取り壊しをながめていた領民のこころに気持ちがおよんだろうか。
築城のために、意次といえども、領民の税を使っている。
領民は、無力感を味わったろう。

「いいたかないけど、あのお方はうちの殿様がおやりになったことは片っぱしから御破算にしちまいたい、いいものはきちんと受け継いで、後の世の役に立てたいなんて度量は芥子粒(けしつぶ)ほども持ち合わさない、そんな小人だからこそ、たった六年足らずで、ばっさり首を切られちまったんじゃありませんか」
お北はいささか溜飲(りゅういん)を下げたという顔をし、龍介も笑った。
(略)

松平定信が寛政五年(1793)三月、外国船が房総沖に姿をみせたとの報告によって、自ら伊豆、相模(さがみ)、房総の海岸巡視に出た留守に、将軍家斉が決断して定信を老中から解任したことは、江戸中の評判になっている。
(略)

「まあ、一番、腹黒いのは一橋様だと、これもみんながいっている。自分の子が将軍様になって、白河と通じてうちの殿様をおとし入れたあげくに、白河の実家の田安家にも自分の五男を相続させた。もともと、白河の奴は田安家相続を餌(えさ)に、一橋を篭絡(ろうらく)したんだが、どっこい、むこうのほうが役者は一枚上だった。取るものは取って、要らなくなると、はい、さようならと来たけさ。義理も恩義も知らねえ犬畜生のすることだ」
(略)

二人がわざわざ相良城址まできたのは、相良湊に、世界の国々から船と人材が、魚が群れるように集まってくることを願って築城した、意次の気持ちを反芻するためであった。
「魚の棲む城」と命名されたゆえんである。

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2007.01.08

平岩弓枝さん『魚の棲む城』(その6)

【終章】つづき

印旛沼、手賀沼の工事は、印旛沼が全体の三分の二以上、手賀沼が九分通り完成して、今一息と関係者は勇み立っていた。
五月になって関東では長雨が続いていた。六月に入って雨の範囲はいよいよ広がり、大豪雨が利根川一帯に襲いかかった。七月、草加、越谷、粕壁(かすかべ)、栗橋(くりはし)など浸水がはじまり、家は流され、多数の死者が報告された。印旛沼、手賀沼の干拓工事はこのため、壊滅状態になってしまった。
(略)

歴史に「もし」はないといわれる。しかし、もし、この長雨がなく、印旛沼、手賀沼の干拓が成功をおさめていたら、御三家、一橋治済(はるさだ)、松平定信らの、田沼引き落としはなかっただろうか。
いや、そんなことで計画をやめるような、お人よしではなかった。
意次は暗殺されていたかも知れない。

印旛沼の北岸---佐倉・臼井は、鬼平の剣師・高杉銀平、剣友・岸井左馬之助、そしておまさの父親・〔鶴(たずがね)〕の忠助の故郷である。

家治危篤(きとく)の知らせが入ったのは(天明六年八月)二十五日、実はその死は二十日の深夜のことで、二十四日、印旛沼の工事中止の命が、溜之間詰から発令されているりを、意次は全く知らなかった。
(略)

意次の政治家としての、徳川幕府の将来を見据えた遠大な計画は、こうして四つとも葬りさられたのである。
彼の、何十年後を予想した政治能力について、いま、再評価の波がうねっている。
しかし、松平定信派によって巧妙に捏造された意次への汚名は、容易なことでは正されない。
平岩弓枝さんは「100年経っても無理ね」と苦笑気味におっしゃった。作家の鋭い直観力が、こればかりは外れてほしいものだ。

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2007.01.07

平岩弓枝さん『魚の棲む城』(その5)

【終章】

松平定信を溜之間詰(たまりのまづめ)に任命する件について、将軍家治(いえはる)が田沼意次に相談したのは、(天明5年 1785)十一月の終りであった。
「御三家、並びに一橋より強く推して参ったが、何如(いかが)したものか」
自分は気が進まぬと力なくいい切った将軍に対して、意次は、
「御三家、一橋様のご推挙にては止(や)むを得ますまい」
と答えた。
「主殿(とのも)は、それでよいのか」
家治は不安をむき出しにして異次をみつめた。松平定信が田沼意次に敵意を持ち、意知(おきとも)暗殺の黒幕だったらしいというのは、将軍の耳にも聞えている筈(はず)であった。そうした人間を溜之間詰にしたら、意次の立場が悪くなると憂(うれ)えている。それを承知で、意次は反対しなかった。松平定信が一橋治済(はるさだ)と手を組んだと知った時から、覚悟は出来ていた。

googleで「溜之間詰」を検索してみると、藤陽文庫殿席に「5日か7日に一度江戸城へ登城。 白書院で将軍家のご機嫌を伺い、溜之間に控える老中に挨拶して退出するのが常」とあった。
それだけ、将軍に親しく接触でき、政治向きの意見を述べることもできる地位ということで、老中職の一歩手前という見方もある。
もっとも、いきなり溜之間詰という幕臣はほとんどなく、京都所司代などの顕職を経てから許される。そんな経歴を持たない定信の例は、異例中の異例、最初にして最後の人事といえる。

この時、意次がおそれたのは、将軍家治の立場であった。
一橋治済はすでに我が子、豊千代を将軍の世子にしていた。すみやかに我が子が将軍職につき、自らが後見人として実権を握ることこそ望ましい。いってみければ、現在の将軍派邪魔な存在であった。権力欲のかたまりのような人物と、狂騒の気味のある松平定信が結べば、家治に対して何をしでかすかわからない。
(略)

『徳川実紀』の天明5年12月朔日の記述。
○松平越中守定信きこれより後出仕の時は溜間に候し、月次は白木書院。五節には黒木書院にいでて拝賀すべしと命じらる。これ宝蓮院尼(田安宗武未亡人)申請さるるによれり。さればその家の例とはなすまじと仰下されぬ。

家治の立場を安泰にするには、松平定信の願いをきき入れ、溜之間詰にし、老中同様の権力の座につかせるのが良策と意次゛は判断している。その上で、印旛(いんば)沼、手賀沼の工事と蝦夷(えぞ)地開発のニ件を、我が子忠徳(ただのり)が養子に入っている勝手掛老中格の水野忠友に托して自分ば隠居し、政事から退く決心を固めていた。
(略)

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2007.01.06

平岩弓枝さん『魚の棲む城』(その4)

2006年11月21日に[田沼意次の4重要政策(その1) 年貢増徴でなく流通課税による財政再建]を、同月24日に(その2)として[通貨の一元化]を紹介したまま、3.蝦夷地の調査と開発、 4.印旛沼の干拓に入る前に、別の情報へ移ってしまった。

(承前)
「わしは少しあせりすぎたのかも知れない。印旛(いんば)沼、手賀沼の干拓といい、利根川の掘割工事といい、また、蝦夷(えぞ)調査にしたところで、わし一代では到底、やり遂げられぬ大事業だ。わしの志を意知に継がせ、完成させれば、幕府のためにまたとなき財産を後世に残すことが出来ると信じたが故(ゆえ)に、我が子が若年寄に任じられるのを、心から喜んだ。今となっては、それが間違いであったとよくわかる」
(略)

意知の若年寄への起用は、将軍・家治の発案であったといわれている。幕政につくのが名門の出で、しかも、いったん就任すると、病気にでもならないかぎり高齢まで居座りがちだから、必然、幕政の老齢化がすすむ。
その傾向は、老中や若年寄とは格式に大きな差があるが、長谷川平蔵宣以が就任した先手組頭にも及んでいた。

家治が、田沼意知を若年寄に、といったのも、若年寄の若返りを図ったともおもえないではない。
老齢者はとかく旧例にこだわりすぎる弊がある。

「親馬鹿を承知でいうなら、意知にはわしにはない先見の明があった。とりわけ、蝦夷地にはわし以上に関心が深く、よく勉強して居った。蝦夷地のみならず樺太(からふと)・千島などの地についても、本来ならば日本固有の地にて松前藩の施政あったことは、元禄の頃、松前藩より提出された地図並びに松前島郷帳(しまごうちょう)にても明らかであると申し、それが今日、赤蝦夷、即ちおろしやの者共がしきりに南下しつつあるのは、松前藩が北鎮の使命をないがしろにしていた故だと談じて居った---」
(略)

意次が生前の意知の提言を容れて、北海道検分隊を派遣。松前藩は、交易の利益を独占しつづけるために、幕府には不毛の地との報告し、じつは、アイヌ人に農作を禁じていたことも報告された。
調査隊は、内輪にみつもっても、面積の一割は耕作可能で、その数字は、国内の幕領の400万石を上回る600万石---と試算。
意次は、これの開発こそ、徳川家にたいする最大の贈り物と考えていた。
しかし、北海道探検は、ご三家、一橋治済(はるさだ)、松平定信らの反田沼・門閥派により、家治の意向と偽って中止・撤収・処罰された。

なおざりにしていた[3.蝦夷地の調査と開発]を、平岩さんの作品に代弁していただいた。

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2007.01.05

平岩弓枝さん『魚の棲む城』(その3)

(承前)
水野出羽守が改めていうまでもなく、すでに、佐野善左衛門を使嗾(しそう)して田沼意知を殺害させたのは、白川藩主松平定信だと噂(うわさ)は江戸城内はもとより、下々でも根深くささやかれている。
だが、意次は更にその裏の裏を察していた。松平定信の背後にいるのは、まぎれもなく御三家であった。

佐野善左衛門は、菩提寺である浅草・東本願寺の塔中・徳本寺(現・台東区西浅草1-3-11)に葬られた。
360_7

米価の高騰などによる生活苦で不満をくすぶらせていた江戸庶民は、「世直し大明神」と書かれた幟を奉じた者たちに先導されて、徳本寺の佐野家の墓へ参ることで鬱憤をはらした。
幟を奉じた者が何者かも確かめないで。
180寺社奉行は、公には、徳本寺への白昼の墓参を禁じた。
殿中で刃傷におよんだ犯罪者として処罰された佐野善左衛門であるから、当然の処置である。

佐野の家はその後に絶えたかして、いま、徳本寺の善左衛門の墓石ぼろぼろに欠けて、塔婆も香華のあとも見られない。


生まれながらに徳川家の一族の誇りを持つ人々にとって一介の成り上がり者が幕府を動かす権力の座についていることが面白くない。
ただ、それだけの理由で田沼父子に憎悪の牙(きば)をむく。
その証拠に、田沼意次が刃傷の翌日、将軍家治にお目通りを願い、倅(せがれ)意知の御暇願いをしたことに対して、水戸家の当主、徳川治保(はるもり)が、産褥(さんじゅく)でさえ七日の遠慮があるに、嫡子(ちゃくし)深疵(ふかきず)にて血なまぐさき身をもって登城するとは以(もっ)ての外だ、とののしったなぞというのも、意次の耳に入っている。
親ならば誰しも瀕死(ひんし)の我が子の枕辺(まくらべ)から一刻なりとも離れ難いに違いない。あえて、意次が登城したのは、けじめのためであった。
その心さえ思いやらず、悪態をつく人々は最初から、この刃傷に加担していたというべきであった。

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2007.01.04

平岩弓枝さん『魚の棲む城』(その2)

天明4年(1784)4月2日、事件から9日後に、田沼意知(おきとも)は三十六歳でその生涯を終えた。
その翌日、加害者である佐野善左衛門は乱心として切腹を命ぜられた。
(略)

『徳川実紀』4月3日の記述。
○少老田沼山城守意知瘢(はん)を病て死せりにより。新番佐野善左衛門政言(まさこと)に死を給ふ。こは獄屋に下されしのち。有司鞫問(きくもん)せしが。つゐに狂気のいたすところと断案し。獄屋にて腹きらせらる。よて目付山川下総守貞幹属吏を率て検視す。(日記、藩翰譜続編)。

殿中で鯉口を切ったんだから、切腹の断は狂気が理由ではないはず。いったい、誰がなんのために狂気と記録したのだろう?

田沼家の人々が唖然(あぜん)としたのは、取調べにに当たっての佐野善左衛門の口上であった。
まず、刃傷に及んだ理由の第一にあげていたのは、佐野家の系図を意知に貸したところ返さなかったというものであり、第ニには上州の佐野家の領地に佐野大明神という社があったのを、田沼家の家来が、勝手に田沼大明神と改め、横領した。第三は役付にしてもらいたいと、意知に六百ニ十両をさし出したが願いをきいてくれなかった。第四は昨年十二月の鷹狩(たかがり)の時、自分の射止めた鳥を意知は他の者が射たといい、自分の手柄を上様に言上しなかった。
(略)

四つの理由のうちの第ニがおかしいことは、ぼくだって反論できる。
すなわち、佐野政言は、佐野一門の末流であり、『寛政譜』によると、家禄は知行地ではなく廩米500俵の蔵前取り---つまり、「領地に佐野大明神---うんぬん」はありえない。

100_8辻 善之助さん『田沼時代』(岩波文庫 1980.3.17)は、佐野家の領地につき、「一体善左衛門の領分は上州甘楽郡(かんらぐん)西岡村と高井村の両村で、四百石の高を持っておって、実はニ千石計(ばかり)納る所である。そこに佐野大明神という社があり---」としている。
『旧高旧料取調帳 関東編』(近藤出版社 1969.9.1)を確かめたが、甘楽郡には「西岡村」も「高井村」も存在していなかった。念のためにgoogleで「旧高旧領」へも検索を入れてみたが、データは存在していない、と出た。
辻さんは、確認しなかったのかしらん。ほかの研究者も---。

意次は直ちに家来達を調べたが、第二、第三、第四に関しては全くの事実無根とわかった。
強いていえば、第一の理由だが、たしかに佐野がみてもらいたいといっておいて行った系図はあるにはあったが、どうみても最近、作られたもので、それ自体に値打ちがあるとは思えず、田沼家にとってはそんなのを持っていても何の役にも立たない代物(しろもの)で、意次からその系図を受け取った大目付があきれて口もきけない有様であった。
「佐野と申す奴は知恵足らずと申すか、日頃から風狂の気味があったそうな。左様な者を使って凶刃をふるわせた御方が誰か、我らにもおよそ推量は出来申す。この上とも、かまえて、御要心のほどを---」
意次の子、忠徳を養子らに迎えている間柄の水野出羽守忠友がささやいたが、伊次は黙って頭を下げただけだった。
(略)

水野出羽守忠友については、 [親族縁座、義を絶ち縁を絶ち]を参照。

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2007.01.03

平岩弓枝さん『魚の棲む城』(その1)

100_9平岩弓枝さん『魚の棲む城』(新潮文庫2004.10.1)

天明4年(1784)3月24日。

田沼山城守意知(おきとも)は、今日、未(ひつじ)の下刻(午後三時頃)若年寄御用部屋を退出、先輩の若年寄、酒井石見守(いわみのかみ)、太田備後守(びんごのかみ)、米倉丹後守に続いて中之間から桔梗(ききょう)之間へ進んだ。
その時、すぐ下の新御番所控えの中から一人の侍が出て来て、いきなり意知に斬りつけた。初太刀は意知の肩先三寸、深さ七分ほどの深傷(ふかで)を与えた。ニ太刀目は柱に切りつけ、その間に意知を除く三人の若年寄は羽目之間へ逃げ込み、意知もそれに続いが、下手人は追いすがって遮二(しゃに)無二(むに)、刀を突き出し、意知は脇差(わきざし)を鞘(さや)ごと抜いて相手の攻撃を防いだが、むこうはニ尺一寸もある太刀のことで、かわし切れず両股(りょうもも)にニ太刀刺された。
そこへ大目付の松平対馬守(つしまのかみ)忠郷がかけつけて下手人を背後から羽交締めにし、続いて目付の柳生主膳正(しゅぜんのかみ)久通が下手人の手から太刀を叩き落すようにして取り上げ、その後、漸(ようや)く御徒目付(おかちめつけ)どもが呼ばれて佐野善左衛門を押さえた。
(略)

酒井石見守忠休(ただよし) 71歳。出羽国松山藩主。2万5000石。
米倉丹後守昌晴(まさはる) 58歳。武蔵国金沢藩主。1万2000石。
太田備後守資愛(すけよし) 46歳。遠江国掛川藩主。5万石。
偶然に年齢順になったが、そうではなく、若年寄への任官順である。
したがって、御用部屋から退出するとき、前年に就任した田沼意知がもっともあとに従うのは当然といえる。

松平対馬守忠郷(たださと) 70歳。大目付。1000石。この件で200石加増。
柳生主膳正久通(ひさみち) 41歳。目付。600石。

佐野善左衛門政言(まさこと) 28歳。新番。廩米500俵。

「その、御一緒だった若年寄の方々は、意知様をお助けもせず、逃げたと---」
知らせに来た者は返事をしなかった。ただ、うつむいて唇を噛みしめるばかりである。
「どれほど、お口惜しくございましたでしょう。殿中とて、意知様は脇差をお抜きなさることもせず---」
江戸城では刀の鯉口(こいぐち)を切っただけで切腹というきまりであった。
(略)

田沼意次は刃傷の翌日、登城して将軍に対し、我が子意知の若年寄辞任並びにお暇頂戴(いとまちょうだい)を申し出た。
「若年寄の重職たる身で、凶刃(きょうじん)を受け、心ならずも上様の御傍をさわがせましたる段、不届(ふとどき)至極、また武門の恥辱にございますれば、何卒、山城守に御暇たまわりますよう---」
苦悩を面に見せず言上した意次に対し、家治は即座にこう答えた。
「その斟酌(しんしゃく)無用。役はそのまま、ゆるゆる養生し、元通り奉公するように---」
(略)

『徳川実紀』は、3月29日の項に、
○少老田沼山城守意知病あつきをもて、職ゆるされんことをこふといへども。なを心永く療養すべしと、近縁西尾隠岐守忠移(ただゆき)を召して伝へらる。(日記)

西尾忠移は、駿河・遠江に3万5000石を領する横須賀藩主で、十年数年前に、意知の3番目の妹を内室としていた。ことき39歳。

なお、この事件に対する松浦静山『甲子夜話』の記述。

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2007.01.02

村上元三さん『田沼意次』(その5)

天明6年(1786)8月26日
城内において、将軍・家治の病間への見舞いを阻止された意次は、家治が逝去していることを確信、早々と下城し、仏間へ入った。

ご三家をはじめ、一橋治済(はるさだ)、清水重好、そして御用部屋の人々は、すべて意次に背をむけている。そして意次を失脚させようと急先鋒に立ったのは、松平定信であった。
Photo_265「さりながら、老中職を召しあげられようとも、それがしは遠州相良の城主、五万七千石の大名であることには変りござりませぬ」
仏壇を仰ぎながら、意次は言葉をつづけた。
「西丸様、将軍職につかれたる暁は、これまでと同様の忠勤をはげむ所存を据えておりまする。この後のご奉公、ごらん下さいませ」
長いあいだ仏間に平伏したあと、意次は仏間を出た。
(略)

翌8月27日、幕命によって意次が老中を解任され、その後には所領の大部分を召し上げられたことは、村上元三さんは百もご存じ。
それでこのシーンを挿入したのは、読み手の気分を意次に共感させたいためであったろう。

田沼意次へのいわれのない悪意とデマゴーグが、定信派に流布されてから200年の歳月という塵埃が厚く積まれている。
この塵埃、一朝一夕には除けない。
村上元三さんは、それでも意次の冤罪を晴らしたかった。

意次と同時代にいて、田沼の引き立てを受けた長谷川平蔵宣以も、ひそかに、同じ思いだったにちがいないと想像する。

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2007.01.01

村上元三さん『田沼意次』(その4)

『徳川実紀 第10編天明6年(1786)8月20日

東叡山  有徳院殿(吉宗)霊廟に。田沼主殿頭(とのものかみ)意(おきつぐ)代参し、心観院霊牌所に。松平周防守康福代参す。

きょうは代参なので、意次は吉宗の霊廟の下にひろげられた敷物に坐り、長いあいだ両手を合せ、口の中でつぶやいた。
「もはや、それがしの心底、お耳に達する術(すべ)もござりのせぬ。さりながら、これにて三代の将軍さまに仕え、片時も忠節を忘れなんだ意次の志、おわかりくださると存じまする」
将軍吉宗には、意次も若いころ教えをうけたが、それはいまでも忘れていない。

合掌しているうちに、ふっと意次が思いついたのは、自分のいまの心境を上奏文の形にして書いておこう、ということであった。
もやもやしていたものが、拭っ切れた気がした。
(略)

『相良町史』(相良町 1993.9.28)から、現代語に直した「上奏文」を、2006年12月9日[田沼意次の上奏文]に引いておいた。
上奏文の日付は1年近いあとの天明7年5月15日となっている。

ということは、村上元三さんは、執筆以前に「上奏文」の存在を知っていたということだ。『町史』の刊行前に、田沼家の遺族を取材したのだろう。
『相良町史 資料編』が、「上奏文」の伝承者を遺族としていることからの推測である。

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2006.12.31

村上元三さん『田沼意次』(その3)

村上元三さん『田沼意次』(『世界日報』 1982.9.1~1985.11.5)の続き。

第47章にあたる[落葉]天明6年(1786))8月15日

御側御用取次をやめさせられた稲葉越前守正明が、庭から雨をふくんだ風の吹きこむ座敷に、肩衣姿でひかえていた。
正明の妻は、亡き田沼意知の養女という縁で、房州館山一万石の大名に取り立てられたが、いまは菊の間縁側詰の閑職であった。

稲葉正明(まさあきら)の家は、斉藤道三から織田・豊臣・徳川と仕えた名門の流れをくむ一つ(家禄3000石)。正明は早くから家治に小姓として西城に勤め、のち小姓組番頭の格となり、諸事を執啓する。家治が将軍となると本城へ。しばしば加増があって一万石に。
田沼派とみられていたのであろう、『徳川実紀』も『寛政譜』も、田沼が老中職を解かれた天明6年8月27日に、御側御用取次の職をとりあげられ、5年前に加増された3000石も召し上げと記しているが、じっさいには、この月の中旬にはご三家によって家治の側から追放されていたと、村上元三さんは見ている。
この日、正明は64歳。意次は68歳。

「それがしのご奉公、力足りませず、面目もござりませぬ」
はじめから詫をのべる越前守正明へ、意次は、やわらかい語調でい言った。
「ご三家と一橋卿の勢い、いよいよと殿中にひろがって参るようだな」
「それのみにてはなく、大奥より吹いて参る風、ますます強くなりましょう」
「年寄大崎が、ご三家や一橋家を訪ねてまわっているようだな」
「お知保(ちほ)の方様を、お忘れなされてでございますか」
「忘れてはおらぬ。いまだにお腹を痛められた家基(いえもと。家治の嫡男)様、ご他界なされたは田沼の手落ち、と恨んでおられるらような」
「身分の上下にかかわらず、女子の一念というのは、おそろしいものでござりまする」
(略)

大奥の年寄・大崎が幾つであったかは、未見である。
年寄とはいっても、老中とおなじで、実年齢ではない。30歳後半の、脂ぎり、さかしらげな女性を想像している。

110_1翌年、天明7年2月1日のこととして、藤田 覚さん『松平定信』(中公新書 1993.7.25)は、こう記す。

大奥の老女大崎(おおさき)が尾張徳川家の市ヶ谷の屋敷に来て、幕府の内情を語っている。
将軍家斉(いえなり)は、御三家の申し出であることに配慮して定信を登用したい意向であったが、老中水野忠友が反対したこと、また、大崎と同じ大奥老女の高岳(たかだけ)と滝川(たきがわ)が将軍から意見を求められ、九代将軍家重(いえしげ)の代に、将軍縁者を幕政に参与させてはならないという上意があり、その点で定信は、将軍家斉と同族であり、そのうえ定信の実妹種姫(たねひめ)が十代将軍家治の養女となっていて、家斉とは姉弟の関係にある「将軍の縁者」であるので、定信の老中登用は家重の上意に反することになると答えたことが伝えられた。

大奥の年寄・高岳や滝川へ、裏から手をまわした意次の工作であったろう。
しかし、その甲斐なく、ご三家や一橋治済(はるさだ)らは、白河藩主・松平定信を老中に送り込んだ。
意次の政策は、ことごとく葬り去られた。

ご三家、一橋治済、松平定信派による政権奪取のあと、年寄・高岳と滝川に待っていた処遇の記録も、未見である。

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2006.12.30

村上元三さん『田沼意次』(その2)

村上元三さん『田沼意次』(毎日新聞 1997.9.30)の続きに入る前に、きのう---12月29日---の(『世界日報』への掲載年月日は、ウィキペディアにも書き込みがないため、いま調べている)に対して、ミク友の「ぴーせん」さんから、
「近所の古書店で講談社文庫全3巻 1991年第3刷を今日入手したところ、下巻の終わりに、[本書は、一九八二年九月一日より、八四年十一月五日まで『世界日報』に連載され、一九八五年五月に毎日新聞社より、全三巻で刊行されたものです]、との書き込みがありました」とコメントをいただいた。

おなじくミク友LDさんからも「1982年9月1日より1984年11月5日までの連載」との報が入った。

ネット時代の知的連携の有効さとありがたさを、しみじみと感じた次第。

もっとも、田沼意次を陰の主人公とした『剣客商売』の連載開始は『小説新潮』1972年新年号からだから、池波さんの田沼観は村上元三さんのこの小説に先行していることがはっきりした。

天明6年(1786)の田沼意次をめぐる周囲の続きに入る前に、も一つ---。
『徳川実紀 第10編』7月26日の項に、

○西城徒頭長谷川平蔵宣以(のぶため)先手頭となる。(日記)

とあることを書き添えておきたい。
この人物、小説の「鬼平」である。
西丸の徒頭(かちのかしら)の辞令をもらったのは、1年半前の天明4年(1784)12月8日で、ふつうは10年は勤める役職なのに、1年半で先手組頭---しかも、弓の第2組への抜擢。
弓の第1組と第2組は別称[駿河組]ともいい、由緒があり格が高い組なのである。

ついでだから書き留めておくと、平蔵宣以の亡父・平蔵宣雄(備中守)と嫡男・平蔵宣義(のぶのり。小説では辰蔵。山城守)が就いたのは弓の第8組の頭だった。
平蔵宣以の抜擢の意味を別の言葉でいいかえると、先手組頭の役料は1500石格、徒頭のそれは1000石格---ーそれぞれ、家禄との差額の足高(たしだか)が給された。

長谷川平蔵のこの大抜擢に、田沼意次の示唆があったとの確たる史料はないが、推測しうる噂はある。いつか言及する。

六月に入ってから、関東地方一帯にかけて雨が降りはじめた。
はじめのうちは、長雨にはなるまい、見ていた司天台の観測は外れて、十日になっても降りやまず、各所の河川はあふれはじめ、印旛沼の工事現場からも勘定方の役人が早馬で江戸へ知らせて来た。
せっかく水路に建設した堰(せき)も次第に崩れているという。
(略)

110斉藤月岑(げっしん)『武江年表』(東洋文庫)から、江戸の水害について、長めに引く。

○早春より四月の半ば迄、雨なく、日々烈風にして、諸人火災の備へのみにて安きこヽろなし。
○五月の頃より、雨繁く隔日の様なりしが、七月十二日より別けて大雨降り続き、山水あふれて洪水とむ成れり。
(十三日、十四日より牛込、小日向出水。石切橋辺もっとも洪水にて、柳町、戸崎町家潰れ、江戸川水勢すさまじく、橋の流れたるもあり。
神田上水掛樋(かけどい)危ふく、大勢の人夫を以て防がしむ。後には樋の上一尺程水来たりしが、十七日、十八日頃より少しずつ減じたり。
目白下、山崩れ、上水樋つぶれ、水道一月の余途絶えたり。
昌平橋、筋違橋危ふく、和泉橋は仮橋故流れたり。
十五日より、大川千住出水。小塚原は水五尺もあるべし。千住大橋往来留り、掃部宿(かもんじゅく)軒迄水あり。
本所、深川は家屋を流す(本所三ッ目の長谷川平蔵邸も浸水したろう)。
平井受(請)地辺、水一丈三尺とい云ふ。
大川橋、両国橋危ふく、十六日往来留る。十七日昼、新大橋中の間四間流失。永代橋、二十間程流失。
隅田堤三間程弐ヶ所押し切れ、男女江戸へ向け、両国橋を渡り逃げ着たり、浅草辺は船にて往来せり。
吉原は床へ水上る。雑司谷、大水にて怪我人多し。
四谷、牛込辺は高き所なれども、一両日水たたへて、難儀せり(以下略)。

月番老中の水野出羽守は、すぐ大老や老中たちと相談をして、作事奉行、普請奉行、先手頭も動員し、大名火消しや定火消番の旗本たちにも充分の用心を命じた。
(略)

先手組屋敷と組頭の邸宅のほとんどは、高台にあったから警戒の任につけたろうが、長谷川平蔵邸だけは水災のもっともひどい深川に接した南本所にあったから、人ごとではなかったろうと想像する。

いっぽうの老中・田沼は、率先して対策の指揮をとった。しかし---、

印旛沼の干拓は完成し、てまは検見川(けみがわ)までの運河を切りひらいている最中だが、この雨で利根川の水が十倍にも増え、せっかく作った堰もすべて流れたという。沼も川も一面の水となり、水をかぶったおびただしい数にのぼるだろうし、溺死した者の数は、まだ調べるどころではあるまい。
意次が長い年月をかけた計画も、この雨ですべて流されたわけであった。
(略)
「庶民は、政事(まつりごと)がよろしくないゆえの天災、と風説を立てましょう」
うっかり言ったのであろう、牧野越中守が、いそいで老中たちの顔をみた。
「庶民は、おのれたちの立つる風説に、責めを負わずとも済みまする」
と松平周防守康福が、牧野越中守の失言を取りなすように、微笑を浮かべた。
「天災も政事がよろしくないために起る、と申しておればよいのでござるからの」
「われらは、責めを免がれるわけには参りませぬ」
と意次は、はっきり言った。
「いまの市中の出水は、あらかじめ防ぐ法なかりしや、と省みるを忘れてはなりますまいな。天災ゆえ是非もない、と申すのは、老職としての勤めを怠ることでござる」
御用部屋の人々は、黙りこんでいた。
(略)

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2006.12.29

村上元三さん『田沼意次』(その1)

Photo_264村上元三さん『田沼意次』は大著で、毎日新聞社[愛蔵版](1997.9.30)は本編が2段組で781ページにもおよんでいる。
もともとは、『世界日報』に770回連載された。1回分が原稿用紙3枚とすると、3,770枚! (『世界日報』への掲載年月日は、ウィキペディアにも書き込みがないため、いま調べている)。

史伝に近いものとしては、おそらく、村上元三の代表作といってさしつかえなかろう。
『田沼意次』の[あとがき]に、作家ご当人も書いている。
「これでもう意次を書くことはあるまい、と思うと、戦前戦後にかけて扱った人物だけに、やはり感慨が残った。
この作品で、いささか意次の雪冤をしたと思っているが、やはり資料を集めるのに苦労をした」

検分の箇所は、55章あるなかの第46章からの[将軍不豫][落葉]][日光山神符][その前日][上意][転落]の5章となろう。

[将軍不豫]は、天明6年の正月から始まる。

年が明けて天明六年の正月七日、若菜の祝儀の朝から、江戸市中は大雪に見舞われた。
曲輪(くるわ)うちの大名たちの登城の道は、すべての屋敷から小者が総出で雪を払ったが、休みなく雪が降り続き、午(ひる)ごろには、もう五寸(約15cm)ほども積った。

『徳川実紀 第10編』(吉川弘文館 1982.2.1)は、
○七日 若菜の佳儀規のごとし。(略)けさ大雪ふりければ、三家使もてもの奉り御景色伺はる。(日記)
○八日 けふ雪なをふりやまず。(日記)
○十日 東叡山  諸廟に御詣あり(略)四十三人ほ簿に列り---。(日記)

村上さんが降雪を採りいれたのは、意次失脚を年初に暗示したかったのかも。

八日も九日も雪はやまず、十日にはその雪の中を将軍家治(いえはる)は東叡山寛永寺の諸廟へ詣でた。
(略)
この日、田沼主殿頭意次は、江戸城御用部屋にとどまって留守の役であった。
「上様、雪の御礼拝にて、いかがであろうかな」
同じ留守の松平周防守康福(やすよし)へ向かって、意次は話しかけた。
(略)

松平(松井)康福(浜田藩主 6万4000石)は、12月11日[親族縁座、義を絶ち縁を絶ち]で、意次の嫡男・意知(おきとも)が刺殺されるや、嫁していたむすめを引きあげた仁である。
そして、意次の心配どおり、風邪気味をおして参廟した家治は、帰城するなり臥所へついた。
12日、松平定信の生母の田安家・宝蓮院が66歳で逝去。
弔問に行った意次は、辞去する玄関先で、やってきた定信と鉢合わせした。

「なにかと宝蓮院、お気にさわることをいたしたようなれど、お許し下されたい」
と定信が言ったのが、意次に対する皮肉のように聞こえた。
それを意次は聞き流して式台から草履へ足をのばした。
乗物が神田御門外の屋敷へ向う途中、意次は、さっき眼にした宝蓮院の死顔を眼の前に思い浮かべた。
宝蓮院としては、松平定信が溜の間詰になり、老中になる足がかりをつかんだのだから、さぞ満足であったに違いない。
(略)

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2006.12.28

佐藤雅美さん『田沼意次 主殿の税』

100_7佐藤雅美さんの『田沼意次 主殿(とのも)の税』(学陽書店 人物文庫 2003.5.20)は、1988年に講談社から『主殿の税 田沼意次の経済改革』の表題で単行本として刊行され、3年後に講談社文庫となって絶版されたものの復刻である。

もともとの作品が連載された誌名はまだ調べていない。連載と推察するのは、章が12立てられているから。

第10章にあたる[裏切り]から引用。

(天明6年(1786))。
八月になった。
将軍家治(いえはる)は身体の不調をうったえはじめた。足にむくみができているというのである。脚気をわずらったようなのだ。
(略)
家治の病状はおもわしくなかった。日に日に病はおもくなっていった。
田沼は毎日のように枕元にはべって家治を見舞った。
(略)
「医者だ。医者がわるい」
病状がおもくなると人はおおく医者のせいにする。田沼も医者のせいにした。

名医の評判が高い町医の日向陶庵と若林敬順を城内へ招いた顛末は、12月4日[田沼意知、刃傷後] に日記の形で記した。
この町医の招聘が裏目に出た。2人が調合した薬が家治の口にあわなかった。
温厚な家治が、謝罪する意次に口もきかなくなった。

「ほとぼりがさめるまで、しばらく病ということで休まれてはいかがでござる」
水野(出羽守忠友。老中。沼津藩主。3万石)のもののいいかたにはどことなくよそよそしさがあった。
(略)
「かたじけのうござる。御忠告にしたがうことにいたそう。御前によしなにおとりはからいくだされ」
その日田沼は早退した。
(略)

田沼の男子・意正をを養子にむかえていた水野だが、すでに田沼を裏切り、反田沼派に與(くみ)していたのだった。
家治の決断という形で、印旛沼の開拓事業の中止と、日本国中のすべての人に課税する新御用金令も廃止と令され、田沼の幕府財政の再建案はつぶされた。

田沼はうかつだった。家治の回復を祈るばかりで目配りを忘れていた。その虚を水野につかれた。
つぎになにがおこるか。田沼はつぎにおこりうる事態にそなえて、急ぎ情報収集の手配りをした。
翌日二十五日、明け番の奥坊主がやってきていった。
「明け方にわかに騒がしくなり、西丸から若君様があわただしく駆けつけてこられました。一橋邸、清水邸にも使いが出され、民部卿(一橋治済)様も宮内卿(清水重好)様も御登場なさいました。そのあと奥医師らも総登城いたしました」
ただごとではない。
「上様の御容体が急変されたのか?」
「そのようでございます」
(略)

けっきょく、家治の死は伏せられた。

翌々日の八月二十七日のことだった。
田沼のところへ上使がやってくるというしらせがあった。現職の老中のところへ上使がくるなどというのは碌な用件ではない。田沼はすぐに察しがついた。八月二十五日の早朝におこったこともほぼ確信できた。
八月は田沼が月番だった。九月に月番になる予定の牧野(越中守)貞長がやってきた。牧野は平伏してむかえた田沼に、老中を解任する旨の家治の意向をつたえた。
ただし不始末による解任ではない。病で老職をつとめさせるのは気の毒だからという解任である。

幕閣の田沼家に対する以降のムチについては、これまでに十分に記してきている。

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2006.12.27

家治臨終日の謎

田沼意次(おきつぐ)が老中として政治力を存分に発揮できたのは、第10代将軍・家治(いえはる)の信任があったからである。

徳川実記 第10編』の付録によると、家治は幼いときから聡明で、寛容の人であったらしい。

その家治が50歳で薧じた日付けは、公には天明6年(1786)9月8日ということになっているが、これにはいくつかの疑念がもたれている。

その1は、12月4日の[田沼意知、刃傷後]の年表には書かなかったが、信任あの篤かった意次が、8月25日に家治の病室へ見舞いに行こうとして拒否され、果たせなかったこと。

その2は、上記の項に書き記したように、2日後の8月27日に、意次に、老中を病免、雁間詰の辞令が発せられ(『実紀』) 、意次が「まことにお上(家治)の台命か」と訊き返し、ためらいつつ「しかり」と答えられたらしいこと。

つまり、いずれの場合も、家治生存の姿が確認されていない。

このあたりを、3人の作家---村上元三さん、平岩弓枝さん、佐藤雅美さんがどう描いているか、順々に引用してみたい。

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2006.12.26

因縁の領知替え

12月23日の[田沼意次の領知]に記した、SBS学苑パルシェの〔鬼平〕クラスでともに学んでいる安池さんから送られてきた資料『相良町史 通史編 上』(相良町 1993.9.29)のうち、「相良藩を理解するための20ページほど」というのは[一橋領の成立]と題された1節のことである。

[一橋領の成立]は、「一橋領というのは、(略)徳川御三卿の一つ一橋家の領地ということである」との文章で始められている。

田沼意次の失脚とともに、島田代官所が管理していた榛原・城東両郡の88ヶ村が、寛政6年(1794)11月19日から一橋家の領知となったという。

130_1 『徳川諸家系譜 第3巻』(続群書類従完成会 1979.3.2)の[一橋徳川家記]は、この領知替えをごくあっさりと、「同(寛政)六年甲寅九月廿四日命収甲斐国采地三万石余、更賜遠江国三万石余」と<2ヶ月ほど先行させて記載している。

つづいて『相良町史』は、
「これはそれまで甲斐国(山梨県)巨摩郡下五十七か村にあった一橋領を、遠江国に領地替えしたものであった。
この領地替えは、一橋家にとってどういう意味があったのであろうか。一般的には甲斐国巨摩郡にあった領地を遠江国榛原・城東両郡に移されたのであるから、単純に両者の優劣を決めるのは慎まなければならないが、一ツ橋家にとってこ見れば、かねてからぜ是非そうあって欲しい領地替えであつたかもしれない。
いっぽう、相良藩田沼の転封した後に一橋の領地が成立した事は、あくまでそれは将軍家ないし幕府の方針であったと見るのが常識的てあると言えよう。こうした中で若干の憶測を加えるならば、田沼意次は自ら掌握した権力の安定化を図るため、あらゆる勢力と密接な関係をむすんでいった。すなわち大奥と結託したり、また兎角口うるさい、御三家や御三卿。あるいは有力外様大名などとの関係強化をはかったていたといわれる」

意次の子・意正(おきまさ)は領知替えによつて、因縁の領知の一部をとり戻したともいえようか。

田沼家と一橋家の関係をいうと、一橋家の家老には、意次の二つ違いの弟・意識(おきのぶ)が送りこまれ、意識が死ぬとその子・意致(おきむね)が継いでいた。

しかし、一橋治済(はるさだ)は一方で、自分の長子・家斉(いえなり。幼名・豊千代)を将軍・家治の養子として送り込み、尾張・水戸・紀伊を動かして田沼失脚に暗躍、門閥派の松平定信内閣を組閣させてもいる。

一橋治済が意次失脚にどうかかわっていたかをのぞいてみたい。

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2006.12.25

後期田沼領の絵地図

12月20日の記事[相良の村々]に、「若年寄にのぼりつめた奥州信夫郡下村藩主・田沼玄蕃頭(げんばのかみ)意正(おきまさ)は、亡父・意次(おきつぐ)の領知だった相良へ国替えする幸運を射止めた」として、明治21年の静岡県榛原郡の地図に、25ヶ村中の16ヶ村に赤ドットを付して所在を掲出した。

不明だった9ヶ村を明らかにするために、SBS学苑パルシェ〔鬼平〕クラスでリサーチに長けている杉山さんに、江戸期の絵地図の探索を依頼しておいた。

『静岡県史』35冊中、『資料編10』の付録に、東北大学附属図書館所蔵の「遠江国絵図」があったと、カラーコピーを送ってくださったので、田沼領の村々に赤○を付して掲出。

Photo_261

12月20日の記事で不明としていた、堀切、大磯、平田、坂井、園、東中村、西中村などの村々の位置が明らかになった。

こんなふうに、英知がつながって疑問がとけていくのが、ネットの最高の喜びだし、ありがたみである。

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2006.12.24

ふたたび、田沼玄蕃頭意正

12月17日の[田沼玄蕃頭意正]で書き漏らしていたことがいくつかあることに、『相良町史 資料編 近世(一)』(相良町 1991.3.30)を精読していて気づいた。

意正(おきまさ)は意次(おきつぐ)の第4子であることは、すでに記した(非業の死をとげた嫡男・意知(おきとも)の下に2人の男子が生まれたが夭折)。

田沼内閣で老中を勤めた水野出羽守忠友(沼津藩主。3万石)の養子(16歳)に迎えられ、その女を室としたが、一件後、縁を解消されて田沼へ帰された(28歳)とも紹介。

帰家後に称した「田代姓」は母方のそれであったと(『相良町史』)。

意次の嫡孫・意明(ともあき)が24歳で卒(しゅっ)するや、養子となっていた舎弟・意壱(おきかず)が家督したが、彼も25歳の若さで逝った。

意壱の大叔父にあたる意正が遺領一万石を受け継いだのは享和3年(1803)7月、意正46歳のときであった。

「家譜」によると、相続の礼として、将軍・家斉(いえなり)へ、
・太刀1腰、紗綾2巻、馬代として20両
を献上。西丸の家慶(いえよし)へ、
・太刀1腰、馬代20両
台所へは、
・白銀3枚
を献じている。家督相続の費用もなかなかのもの。玄蕃頭の官位を授かったが、まさか献上品々の代償ではあるまい。官位の礼はふたたび太刀1腰、馬代として白銀1枚。家慶へも同様。

あわせて、木挽町の居室から駒込の下屋敷へ引き移った。

太刀1腰と馬代は、その後も、なにかあると、献上している。

意正は76歳で卒(しゅっ)するまで30年間、藩主でありつづけた。ために嫡子・意留(おきとめ)は、家督後わずか4年余で致仕、家督を子の意尊(おきたか)へ譲ったと、『相良町史』は、一言ありげに記している。

意正には、柳営(江戸城)内での遊泳術に、相当の自信があったのであろうか。

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2006.12.23

田沼意次の領知

このところ、『相良町史 通史編 上』(相良町 1993.9.29)を主な出典として田沼家にまつわる話をすすめている。

SBS学苑パルシェの〔鬼平〕クラスでともに学んでいる安池さんから、「引用している『相良町史』をみていると、どうも、後期田沼の部分をコピーしなかったのではないかと思えるので」と、その部分100ページ分ほどと、別に相良藩を理解するための20ページほどを送ってくださった。

まさに、1月の静岡行きで、県立中央図書館でコピーをとろうと予定していた箇所だったので、安池さんの推理力に舌をまいた。

送っていただいた中に、[宝暦8年(1758)と天明6年(1786)の田沼意次の相良領図]があった。
360_6

宝暦8年といえば、将軍・家重によってさらに5000石を加増されて意次が大名格になった時期である。

天明6年は、失脚寸前の時期(長谷川平蔵が先手組頭に大抜擢された年でもある)。

Photo_260

120_7『徳川将軍列伝』(北島正元編 秋田書店 1974.9.20)に、竹内 誠教授が意次の年表を掲出しておられるので、引用させていただく(ほんとうは、自分でつくるべきなのだが)。

領知図と年表は、意次の栄進の速さ---その能才ぶりと将軍の信頼の篤さ、そして周囲の嘆声と嫉妬、反発が聞こえてくるようである。

この領知の一部を復元した第4子・意正の手腕と得意はおもうべしだが、資料を手配くださった安池さんに、まずは感謝。

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2006.12.22

天領農民の苦悩

『相良町史 通史編 上』(相良町 1993.9.29)に、「へえ、知らなかった」と浅学を誅されるような史実が紹介されていた。

すなわち、田沼意次が領知を召し上げられると、相良藩だった村々は幕府領の代官支配地となった。
つまり、年貢米を幕府へ納めるという、村々にとっては初めての経験が発生したのである。。

村々の代表は、島田をはじめとするあちこちの幕領の有力者に問い合わせて、3分の1は金納にするほうがいいと教えられたので、その旨、代官所へ届けたという。
(ぼくとしては、年貢の金納も制度としてあったというのを、この記述で初めて知った。浅学)。

他の幕領の者たちから金納をすすめられた理由は、年貢の米納は、江戸や駿府の幕府の御米倉へ廻米してはじめて終了する。その船賃、代表が江戸へ出向いて行う諸手続きの費用一切は納入側持ちだからと。

120_6手元の鈴木直ニさん『徳川時代の米穀配給組織』(国書刊行会 1977.10.20)にも、年貢米(御城米 おしろまい)の廻送についての記述はあるが、その諸経費の負担には言及されていない。
相良港の廻船問屋・福岡町太郎兵衛方の例だと、江戸表までの運賃は100俵につき1両3分(『相良町史』)。

金納を選んだ村々は、相良近郊で米を売ろうとしたが、金納の価格ではとても売れないことがわかった。
それに江戸で行わなければならない幕府側への引渡し手続きに要する費用もばかにならない。
金納をやめ、全量を米納に変更したいと代官所へ願った。

が、聞き入れられなかった。
ついに、村々から選抜された代表4人が江戸へで、松平定信へ禁令の駕籠訴(かごそ)を強行した。

もちろん、禁令ゆえ、駕籠訴が取りあげられるはずはない。

ことの決着より、幕府直轄領は全国の400万石以上あった。それらがどのように納米したか、それに要した諸費用をどうしていたかの研究事例があったら、読んでみたい。ご教示いただきたい。

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2006.12.21

越後頸城(くびき)郡の3000石

12月16日のこの記事に、天明7年(1787)、田沼意明が下知された1万石のうち、「越後国頸城郡についての手がかりは、いまのところ、なし」と書いた。

近くの図書館で、目にとまった平凡社版『日本歴史地名大系 福島県』(1993.6.15)で、偶然のように、陸奥・岩代国下(しも)村以下の7ヶ村の7000余石の明細が判明したことは、19日[奥州信夫郡下村藩]で報告した。

ついでだからと、期待しないで、『地名大系 新潟県』を開き、あちこちめくっていて、[西頸城郡]の項で、

「田沼意次の孫意明が天明7年1万石に復し、陸奥国下村(現福島市)と上出(かみいで)村(現糸魚川市)に陣屋を設け、上出陣屋では35カ村2906石余を文政7年まで支配した。これらの村々は田沼氏支配以前は幕府領であり、上知後は幕府領に戻った。
以下に田沼氏領の村名を谷ごとに記す」

ひゃあ、小躍り。 

それにしても、35ヶ村で2906石余とは! ほんとうに谷間の痩せた土地だったんだろうなあ。
相良は、25ヶ村・1万石。福島は7ヶ村で7000余石。

コピーして、参謀本部陸地測量部が明治22年(1889)に製作した地図と照合。

01_1

該当の4つの谷は「高田」のページにはなく、西の「富山」のページにあった。つまり、越後国とはいえ、越中国との境界に近く、海岸は「知不親(おやしらず)」ぞいに東へ、背後には乗鞍岳、雨飾岳が聳えている。


35ヶ村中、32ヶ村に赤○ドットを貼ることができた。地図は、右(東)から左(西)へ(小数点4桁以下は4捨5入)。

早川谷(現・糸魚川市)
上出村         91.457
下出村         56.254
谷根(たんね)村   283.855
小坂村         20.706
西塚村        115.314
東塚村        148.293
五十原(いかはら)村 60.312
角間(かくま)村    58.261 
北山村        105.883
砂場村        143.987
北越村         47.727
西越村         38.500
土塩村         87.076
猿倉村         63.931
吹原(ふきはら)村 126.705
大平(おおだいら)村166.654
土倉村         49.545
中河原村       119.652

西海谷(現・糸魚川市)
釜沢村        (旧高旧領に記載なし) 
道平(どうたいら)村 150.828
川島村        115.434
真光寺村        46.153
市野々(いちのの)村 57.260

根知谷(現・糸魚川市)
御前山村        35.038
大神堂(だいじんどう)村
             53.117
山寺村         59.922
別所村         52.830
大久保村       23.024
上山村         11.971
杉之当(すぎのと)村 37.842
西山村         32.384
蒲池村         99.612

川西谷(現・糸魚川市)
岩木村          63.849
頭山(つむりやま)村 100.530
今村新田       153.799     

こんなリサーチになんの意味があるのか---自分の達成感だけかもしれないが、少なくとも、胸のつかえは氷解した。
まあ、意味があるとすれば、相良町(現・上之原市)教育委員会も、いくら田沼家のこととはいえ、他県分までは手をつくしていまいから、『相良町史』の追加資料としては役立つかも。

新潟県の糸魚川市とその近辺の鬼平ファンからの反応も期待できるかもしれない。
 
(注)『旧高旧領取調帳 中部編』の上記の村々の石高は、すべて「高田藩預分」となっていたから、幕府領を高田藩に管理代行させていたのかも。

糸魚川市

(注2)『地名大系 新潟県』では、今井新田は青海町に属してしきたが、青海町は平成17年4月に糸魚川市へ合併された。

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2006.12.20

相良の村々

12月18日のここの記事[奥州・下村から遠州・相良へ]で、若年寄にのぼりつめた奥州信夫郡下村藩主・田沼玄蕃頭(げんばのかみ)意正(おきまさ)は、亡父・意次(おきつぐ)の領知だった相良へ国替えする幸運を射止めた。

もっとも、亡父・意次の領知は、遠江(とおとうみ)国榛原(はいばら)郡相良を基点に100ヶ村---5万7000石におよんでいたが、意正の場合は、陣屋を置いた相良をふくめて25ヶ村・1万石であった。

25ヶ村のうち、16ヶ村を明治20年製作の地図でたどりえたので、掲出する。
01
(相良川の河口、左の赤○が相良、右の赤○は福岡)

その他の赤○は、上から下へ---(小数点以下4桁は4捨5入)
和田村   90.868
大寄村  513.574
黒子村  117.690
女神村  154.924
西山寺   69.067
男神村  173.469
松本村  230.775
菅ヶ谷村 781.291
波津村  318.454
須々木村 423.444
鬼女新田  48.054
落居村  183.263
笠名村  274.715
新庄村  464.198

のこりの9ヶ村については、地図上に表記がないか、地図外かもしれない。地元の鬼平ファンの方のご教示時を俟ちたい(同)。
堀切村   83.647
大磯村  136.166
法京村   26.451
平田村  487.793
坂井村   65.919
徳村    195.632
園村    295.441
東中村  166.557
西中村  145.963

以上の村々は、福島の藩内だった村々と比べ、地味の点は比較するデータをもたないが、気候的にはずっと恵まれていたといえよう。

また、同じ1万石とはいえ、岩代国と越後国の2国に分かれている場合と、榛原郡内にまとまっているのとでは、管理の難易、そのための経費の多少、さらには、江戸表の上屋敷への連絡の遅速なども比較してみる必要があろう。

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2006.12.19

奥州信夫郡下村藩

12月16日のここの記事で、田沼家に与えられた1万石のうち、奥州岩代国信夫郡下村(現・福島市佐倉下)の分は、陣屋がおかれた下村ほか、7000余石と報告した。

Photo_259

「下村が1558.333石ということだと、7000石に5,400石ほど足りない」として、近在のいくつかの村々を候補にもあげた。

平凡社版『日本歴史地名体系 福島県』に、次の村々だったことを教えられた。

下村   1558.333
下渡鳥村 1078.941
上渡鳥村 1504.967
在庭坂村 1202.679
赤川村    671.263
内町村    177.004 
上野寺村 1178.400
(掲出の地図をよく見ると、下村の近辺にいくつかの村は見つけうる)。

同書は、「下村」について、こうも記述している。
「荒川右岸にあり、西はかつて本村であった上名倉(かみなぐら)村、南は上鳥渡(かみとりわた)村、東は仁井田(iにいだ)村、北は荒川を隔てて桜本(さくらもと)村」「寛保2年(1742)幕府直轄領となったが、(中略)天明7年(1787)下村藩領(田沼家)、文政6年(1823)幕府領となり、幕末に至る」

この記述で、田沼意明(おきあき)が代替として与えられた1万石のうちの信夫郡内7000余石は、幕府直轄領であったことがわかる。

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2006.12.18

奥州・下村から遠州・相良へ

12月17日、手元の『文政武鑑1 大名編』(柏書房 1982.12.24)で、田沼玄蕃頭(げんばのかみ)意正(おきまさ)が、文政元年(1818)から同4年(1821)までは、奥州(岩代国)信夫(しのぶごおり)郡下(しも)村に陣屋を置く、1万石の下村藩の大名であったことを確認した。

意次(おきつぐ)のころの相良へ戻ったのはいつか?

『文化武鑑』は[役職編][大名編]全8巻が書架にある。
長谷川平蔵がらみでは、『文政武鑑』までは---と判断して、巻1[大名編]、巻2[役職編]で購入をやめてしまっていた。

近くの図書館が所蔵していることがわかっていたので、リサーチに行った。
『文政武鑑3 大名編』の同5年(1822)、同6年とも、信夫郡下村に陣屋。

360_5

3_1文政7年(1824)の分に、

・一万石 在所遠州榛原郡(はいばらごおり)相良
と。
このとき、越後・頸城郡(くびきごおり)の約3000石に相当する村々(幕府領だった3つの谷にある32ヶ村。このことが判明した経緯は、改めて後日に)も上知後、元の幕府領へ戻された。

とにかく、そういうことだと、文政6年(1823)の『徳川実紀』に発令日が記載されているはずである。

さっそく、『索引 下』の田沼意正の項をたしかめた。 
120_5 『続実記 第2編』に、
 ・転封 91ページ
とあった。

 (文政六年)七月八日 田沼玄蕃頭意正遠江国相良へ邑(むら)がへあり。

なぜ、こういう幸運が舞い込んだか、疑念をもった。
で、再度、『索引 下』の意正の項に目をこらした。

 ・側用人 124ページ
 ・致仕   271ページ

これは、どういうことだ---と、本文をあたってみる。

 文政八年四月十八日 田沼玄蕃頭御側用人となり、

 天保七年(1836)四月廿一日 遠江国相良領主田沼玄蕃頭
 意正病により致仕す。

 その子備前守意留(おきとめ)に領知一万石を継がしむ。
 この意正は、主殿頭(とのものかみ)の四子にして玄蕃という。
 文化元年(1804)七月廿六日(46歳)
 主計頭(かずえのかみ)意定(おきさだ)が遺領を襲ぎ、
 十月朔日謝恩の日初見したてまつり、
 十二月叙爵し頭に任じ、
 同じき三年六月朔日大番の頭となり、
 文政ニ年八月八日西城の少老(若年寄)となり、
 おなじき五年七月廿八日本城へうつり(本丸の若年寄)、
 あくる六年七月八日旧領相良へうつり、
 おなじき八年四月十八日御側用人となり、若君に附属せられ、
 その十二月従四位下にのぼり、
 天保五年四月廿六日病免し、
 けふ、致仕してのち、
 ことし八月廿四日とし   (空白のまま)歳にて卒しぬ。
                     (注・76歳)

ははあ、そういうことだと、相良への転封は、本城の若年寄のころのこと。幸運が舞い込むのは当然といえる。納得。

それにしても、定信内閣からさんざいじめられたのに、よく、まあ、復帰したものである。
意正というご仁、父・意次にまさるとも劣らない心くばりのきく人であったのだろう。実母は某女としかわからない。

それより、『文化武鑑』『文政武鑑』をめくっていて、一万石の田沼家の記載序列は、全大名の中で末尾の寸前---いってみれば大名家のブービー(最後尾は武門とはいえない松前藩)。

田沼の家禄を1万石以下の旗本にするより、万石最低の大名にとどめて、毎年の『武鑑』で屈辱感をあじあわそうという、松平定信陰湿なイジメともおもってみたが、まさか、ね。

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2006.12.17

田沼玄蕃頭意正

12月14日の、田沼家が相良へ戻ったという記事で、1万石の領知が田沼玄蕃頭意正の名になっていることを、何気なく、告げた。
これは、不注意であった。

150_3手元の『文化武鑑1 大名編』(柏書房 1981.9.25)の文化4年(1807)の項に、在所・信夫郡下村の領主として、突如、田沼玄蕃頭意正の名が記載されている。

文化元年(1804)7月家督

とある。
この意次の次男・意正のことは、12月11日の意次の上奏文を紹介した[親族縁座、義を絶ち縁を絶ち]で、田沼内閣で老中を勤めた水野出羽守忠友(沼津藩主。3万石)の養子(16歳)に迎えられたが、一件後、縁を解消されて田沼へ帰された(28歳)と紹介。
『寛政重修諸家譜』はさらに、「父がもとにかえり、田代を称す」と付すが、田代姓では『寛政譜』にひろわれていない。
田代姓にしたのは、田沼の一員としての類縁を避けたためか。

文化4年(18007)の田沼玄蕃頭意正の記載は図版のとおり。

1_3

引いている『文化武鑑1 大名編』の文化元年の項に、田沼主計頭(かずえのかみ)意定(おきさだ)という大名が収録されてい、

享和3年(1803)7月家督

とある。

Photo_257

意次の嫡孫・意明は、寛政8年(1796)大坂副城代として赴任中、その年の9月22日に大坂で卒している。24歳であった。(長谷川平蔵の卒した翌年)

七歳下の舎弟(意知の次男)・意壱(かず)は、意明の養子となって享和3年に家督したのであろう。
この意壱は大名として半年しか生存しなかった。享年25歳(意知の30歳代での事件死、意明と意壱の若死を、何かの祟りのように世間の悪意はいわなかったろうか)。

120_4意壱の没後、田代姓を称していた大叔父・意正が復籍して後継したのであろう。

意知の実弟とはいえ、あいだに5人の姉、2人の兄(どちらも夭逝)がはさまっているから、意次にとっては孫のような年齢だったろうか。
(その後の調べで、意次41歳の時の子だから、孫はかわいそうか。意知とは10歳違い---ということは、意次は毎年のように子を産ませていたともいえる。側妾が複数いたのだろう)。

『文政武鑑』(柏書房 1982.12.24)は、文政元年(1818)の項に、嫡子・を併記している。
Photo_258

在所は、依然として信夫郡下村である。

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2006.12.16

奥州信夫郡下村

田沼家に与えられた1万石のうち、奥州(岩代国信夫郡下村(現・福島市佐倉下)は、ある史料から7000石とわかった。

『旧高旧領取調帳』は、下村は1558.333石で、幕府領分となっていることは、12月14日の『旧高旧領取調帳』の項で報告ずみ。

下村が1558.333石ということだと7000石に、5,400石ほど足りない。

『旧高旧領』には、下村の周辺に幕府領分の村々が、40ヶ村ほど列記されている。
この中のいくつか---たぶん、10ヶ村ほどが田沼意明に分与され、のち、田沼家が相良町に戻された---といっても領知は1万石に減知のままだが---ときにまた幕府の直轄地に復帰したにちがいない。

Photo_256
陸地測量部製 福嶋周辺 赤○=下村

下村に代表された7000石分の10ヶ村ほどを、明治21年に製作された地図と『旧高旧領』、『郵便番号簿』で推察してみようという、いってみれば、遊戯を試みた(いずれ、『福島県史』などで検証するまでのお遊び)。

入江野村  475.738
井野目村  469.200
大笹生村  824.131
大谷地村  753.293
下村   1558.333
赤川村    671.263
仁井田村 1229.734*
泉村    1119.311
南沢又村 1442.594
笹木野村 1298.486*
上大笹生村2218.507
庭坂村    979.486
下渡鳥村 1078.941*
在庭坂村 1202.679*
李平村     38.440
土船村    840.229*
桜木村  1278.916*
(*は地図で下村の近くに存在しており、可能性が高い)。

まあ、正確なところは、福島市在住の郷土史家の方か、市教育委員会の鬼平ファンの方からの教えを俟つしかない。

越後国頸城郡の3000石についての手がかりは、いまのところ、なし。

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2006.12.15

田沼意次の遺訓

田沼意次が70歳で、失意のまま、天明8年(1788)7月24日に卒(しゅっ)したことは、すでに記した。

彼の遺訓が子孫のもとに残っていて、『相良町史 資料編 近世(一)』(相良町 1991.3.30)に収録されてい、『同 通史編』に現代語訳が載っているので、そちらを引用する。

350_30
田沼意次 『相良町史』より転載

人が守るべき正道はよく知られているようであるが、人には善と悪の人がおり、用いるべき人と用いざるべき人がいるものである。

(悪の人と用いざるべき人の)両者は我侭より発する事である。

もっともこの教えを知らない者はないと考えるが、学問のある者でもこの教えを別のように考えて、人が守べき正道を学問と名付けて、学びはするが、自己の行いとは別のもののようにし、芸のようにもて遊んでいる者がいる。

卿の行いは我侭次第に通行していることが多いが、これは勿論教え方が悪いのではなく、学ぶ者が能く心得るべきことである。
これにより先ず人が守るべき道にはずれた無道のないように、左の七ヶ条を示すので、よく守るようにすべきである。

第一、まず主君に対する忠節のこと。、仮りにも忘却致すまじきこと。当家(田沼家)においては、九代将軍家重侯、十代将軍家治侯には比類のない御厚恩を受けているのであるから、両代の御厚恩を決して忘れてはならない。

第ニ、親への孝行、親族に対する親しみはおろそかにせず、朝夕このことを心がけるべきである。

第三、一類(同族)中には申すにおよばず、同席の衆、付合のある衆へは表裏なく、疎意ないように心がけるべきである。
どんなに低い身分の者でも人情をかけるべきはかけて差別なきようにすること。

第四、家中の者たちに憐憫を加え、賞罰は依怙贔屓なきように心がけるべきこと。且つ用人、雑用人にもできる限り心配りをし、油断なく召仕うこと。
但し、家来に対しても我侭、無道の扱いをせず、邪な申付けをせず、家臣として一身を任せ、主君の命令は異議なく行い、その所をよくわきまえて憐憫を遣すように。
勿論、咎めに当たるべきことは相応に罰し、無罰ということはないようにすること。

第五、武芸は懈怠なく心がけ、家中の者たちに油断なく申付け、若い者は特別精を出し、他所から見ても見苦しくない芸は折々に見分けさせ、自身が見物することもよい。
且つ、武芸に心がけた上で余力があれば遊芸を嗜しなむのも勝手次第である。
但し、不埒な芸はしてはならないことは勿論である。

第六、権門の衆中に疎意なく、失礼がないように堅く守り、すべて公儀にかかわる事はどんなに軽いことでも大切に思い、諸事念を入れることが肝要である。

第七、諸家の勝手向きが不如意のことは一般的で、勝手向きが宜しいのは稀なことである。不勝手が募ると公儀御用も心ならず勤めがたくなり、軍役に差しつかえにもなるもので、武道に励み、領知ょを頂戴していることをよく知るべきである。この事は油断なく旦暮心がけることが肝要である。

右の条々ょ厳重に守り、朝夕忘れることなく心がけるべきであね。
人並みとちがって、世俗からのそげ者(変人)と称される者も間々いるが、この者は慎むべきである。
わざわざ少なめに記したが、この外にも心を用い、心を用い、人情の正道を怠りなく守るべきである。

(第七条には、「この条はとりわけ難しいことなので追記する」として---)

大身小身ともにすべて勝手向のことは、一年の収納をこれくらいと思っても、時により損毛があり、思いの外の減収があるものである。

また、支出は一年間これ程と思っても思いがけない吉凶のものいり、やむを得ない支出があり、また特別に支出が増えることも絶えずおこるものである。

したがって、収納が増えることは決してなく、支出が増すひとは極めて多いのである。

このような収支をくり返している内に勝手向はゆきづまるものである。

借金がたとえば1000両できると、その利息はたいてい1割は支出することになるから、知行100両分が減ったことに相当する。

もし大借するようになれば、その割合で減る分ーは増えるので、たとえ領地が半分になっても、その理をわきまえなければえ大借になり、建て直す術も尽きてしまうのである。

このことをよくよく心得て、聊かも奢りなく、無益の支出を省き、倹約を怠らないことが大切である。
もし、よんどころなきことで少しでも収支が悪くなったならば深く心にかけてやりくりすべきたである。

このことは役人たちへも厳重に申し付け、建て直しができるように処させ、相応の余裕金があるように少しでも油断ないように心掛けるべきである。

もっとも、そうだからといって、領内に無体な年貢を申付け、これによって財政不足を補うことは筋の通らないことで゜ある。
すべて百姓町人に無慈悲なことをすれば、必ず御家の害になるものである。いくえにも正直を以て万事にあたるべきである。

【つぶやき】
読むかぎり、心づかいのこまやかな、生活ぶりも堅実で、賄賂などを要求することのない領主とおもえるのだが。
また、学問と人格は別といっているのは、学問を鼻にかけて平気で人の道をふみはずしている幕閣を、暗に軽蔑・非難しているのかもしれない。

牧之原市の田沼意次プロフィール

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2006.12.14

『旧高旧領取調帳』

田沼意次の嫡孫・意明(おきあき 15歳)が、陸奥国信夫郡、越後国頚城郡の両郡においての1万石に減知をされたことは、すでに報告した。

それが、額面どおりの1万石はおぼつかない痩せ地であったらしいことも想像した。

120_2具体的にどの村々であるかを確認してみようと、手元の『旧高旧領取調帳 東北編』(近藤書店 1979.8.25)を開いた。
『旧高旧領取調帳』は、幕末維新時の村名・村の石高、旧領主名・新支配が克明に記されている基本資料である。
岩代国信夫郡下村 1558.333石 幕府領分となっている。
その前後の、下大笹生村、太谷地村、赤川村、仁井田村なども幕府領分。
目を皿のようにして信夫郡全部を検分したが、田沼のタの字も見つからない。
伊達郡、安積郡も見た。ない。

120_3つづいて、『旧高旧領取調帳 中部編』(近藤書店 1977.4.20)の越後国頸城郡を検分。やはり、ない。
またも、松平定信派の陰謀で記録が抹消されたか---などと考えてみたが、定信内閣ははるかむかしに解体されている。この史料に影響力をおよぼしたとおもうほうがどうかしている。被害妄想にすぎる。

で、にんとなく、別の史料を眺めていたら、なんと!! いつの時期にか、田沼家は相良へ復帰しているではないか。
で、、『旧高旧領 中部編』の遠江国榛原郡の相良を捜す。あった!!安堵されていた。
田沼玄蕃頭領分(石)
 堀切村   83.6474
 大磯村  136.1657
 法京村   24.451
 坂井村   65.919
 平田村  187.793
 相良町   47.767
 福岡村   26.957
 波津村  318.454
 (以下16ヶ村分略)

城も家臣の屋敷も破壊されつくした田沼家が、どういう理由で、いつ、相良へ帰ってきたのか、1月にふたたび、静岡県立中央図書館へ足を運んで『相良町史』を読まねば。


【ついでながら】
『旧高旧領取調帳』は、歴博の手によって、なんとデータベース化されていて、検索したい村がわかっていると、じつに簡単に検索できる。すばらしい!

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2006.12.13

残った家臣の禄高

田沼意次の嫡孫・意明(おきあき 15歳)が、陸奥国信夫、越後国頚城の両郡においての1万石の減知されたことは、すでに触れた。

5万7000石から1万石---6分の1に近い減知である。
当然、家臣の員数は減らさざるをえない。
家臣の多くは、意次の急激な加恩につりあう形でふくらんだ371人だった。彼らは入れ札の形で整理された。

(天明7年 1787)12月23日、52名、明けて天明8年(1788)正月9日に69名、正月13日47名、同19日に55名が相次いで御暇を申し渡され、それぞれに手当てを受けて去っていった。(『相良町史 通史編 上』[相良町 1993.8.28])。

171名である。退職手当については、http://onihei.cocolog-nifty.com/edo/2006/12/post_746d.html

転封にしたがった員数を、禄高からいって100人以下と推量してみた

河原崎次郎さん編著『城下町相良区史』(相良区 1986.10.1)は、「板沢武雄氏の小稿[俄大名の家臣団](『日本歴史』第31号)に、意次が失脚して、孫の意明が一万石に減封されたことについて『雑記』という一史料を掲げ、

一、田沼家一万石二被仰付此度左之通ニ相成候由。
百石家老    倉地金太夫
          潮田由勝
七十石用人   井上直記
          内藤奥右衛門
          深谷一郎右衛門
五十石物頭   楠木半七郎
          磯部十郎兵衛
          本間儀左衛門
五十石留守居 川村長左衛門
   目付    三人
   給人    三人
   取次    三人
諸士分百六、七十人相残り申候由」

予想よりも多くの家臣が残ったのは、意次への報恩と敬意、意明への忠誠心はうたがわないが、禄高を5分の1以下で了承したからでもあろう。

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2006.12.12

さらに6万両の上納命令

12月10,11日の記事で、天明6年(1786)8月16日、クーデターにでもあったように突如、老中を解任蟄居を命じられた田沼意次は、つづいて2万石の召し上げを通告された。

翌7年10月2日には、さらに所領の地2万7000石を収公、相良藩を上知、特別のおぼしめしにより、意次の嫡孫・意明(おきあき このとき15歳)へ、陸奥国信夫、越後国頚城両郡において1万石を下されると。

この領地は、公称の1万石もの実収はない痩せ地だったらしい。

12月8日の記事では、相良城の請い取り・破却のとき、なんのためか1万3000両が公収された不審を指摘しておいた。

天明8年(1788)7月24日田沼意次卒(しゅっ)す。70歳。耆山良英隆興院。葬地・駒込の勝林寺。

『寛政重修諸家譜』の意明の項。
天明8年9月24日、川々普請御用途のため金6万両上納すべき旨台命かうぶる。

知行地1石の実収は換算すると1両といわれている。
所領は家臣たちの俸禄にもあてなければならないことだし、100両の余分の金もあるまいに、6万両!
意明をはじめ家臣とその家族一同に、死ね! と命じているに等しい。

弱小藩として、家老たちが、この結末をどうつけたかは、『寛政譜』には記録されていない。おそらく、その記録はどこにもあるまい。『相良町史』も、すでに他領の藩主となった意明については、当然、記していない。

100_6 平岩弓枝さんも、田沼意次を主人公にすえた秀作『魚の棲む城』(新潮文庫 2004.10.1)でも触れていない。

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2006.12.11

親族縁座、義を絶ち縁を絶ち

12月9日に掲げた田沼意次の上奏文の中に、

「しかるに親族縁座、あるいは義を絶ち縁を絶ち、かつてそのゆえを知ることなくして止みました」

という、ただならぬ文言がある。

憤りをぶつけられている一人は、意次とともに老中職をつとめていた松平(松井)周防守康福(やすよし 浜田藩主。6万石)とおもわれる。次女が意次の嫡男で若年寄のときに刺された意知(おきとも)の室として嫁いだが、意次逼塞後、実家へ戻った。

相良を上知され、代わりに陸奥国信夫、越後国頚城の両郡において1万石を下された意次の嫡孫・意明(おきあき このとき15歳)の実母ではない。

同じく田沼にひきたてられた水野出羽守忠友(沼津藩主。3万石)は、意次の次男・意正を養子に迎えておきながら、一件後、縁を解消、田沼へ帰らせている。なんと、水野の『寛政譜』からはその事実も抹消。

意次の継室の実家・黒沢家は事をいいたてられて追放になっている。

ほかにも、『寛政譜』にあらわれていない無道の処置もあると想像できる。

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2006.12.10

家中への教諭

日時がさかのぼるが、田沼意次が老中を罷免・蟄居を命じられ、知行からまず2万石を召し上げられた天明6年8月16日から旬日を経た9月9日に、相良の家中諸士へあてた教諭文が『相良町史 資料編 近世(一)』(相良町 1991.3.30)に収録されている。
漢文なので、『同 通史編』に概略が載っているので、そちらの大意を補足しながら引用する。

老中罷免以後、家中に親しく会うこともなかったが、皆、心痛してくれているのであろう。

先だってのことは、意次にとっても思いもよらないことだが、皆々は難儀であったろうに、神妙に勤めてくれていると聞いて、皆々の心中を推しはかりながらも安心している。

田沼家は、ほかの大名衆とはちがい、いたって小身より取り立てられ、追々と繁栄してきた。
もっぱら、お役目を第一として勤めた分、家政がおろそかにになっていたことも否めない(つけとどけなどを受取ってしまう者もいたかも。つまり、脇が甘かったことを反省)。

いま、反省してみると、驕りとでもいえようか、家政不取締りとでもいうべきか、後悔することもある。
厳しく倹約を履行すべきであったかともおもう。

今後の家中の暮らし方については、万事に質素を旨とし、入用も減らすが、上下心を一つにして難局に対処していきたてい。

皆々においても、何事にも精を出し、諸芸におこたりなく、他家からあなどられないよう、公義へのご奉公が肝要である。
家中諸士は、武芸はもちろんのこと、学問にもはげみ、ゆだんなきよう、心がけられたい。

これはもちろん、上奏文とはちがい直筆ではなく、祐筆の手になもののようで、文章も意のあるところはわかるが、真情を正直に吐露している名文とはいいがたいけれど、家士をおもっていることは十分に察しがつく。

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2006.12.09

田沼意次の上奏文

天明6年(1786)10月5日から蟄居中の田沼意次が、翌7年5月15日に上奏を文を呈した。
『相良町史』(相良町 1993.9.28)に、意次の人間像をよく示したものとしてそれを読み下したものが掲出されているので、引用する(漢字は若干ひらいた)。

源意次、謹んで大元帥尊の宝前に白(もう)します。

意次の父意行は有徳院様(吉宗)が天下を御相続のときに紀州より供奉し、ことに御高恩を蒙って一家を興しました。

意次はいまだ若年の節、有徳院様に拝謁を奉り、以来、惇信院様(家重)浚明院様(家治)に仕え奉り、莫大の御高恩を蒙り、あまつさえ老中に補せられ、大禄を下賜され、将軍様の御慈恵は月々に厚く、年々に重くなるばかりです。

将軍家の御慈恵の高きこと嶽のごとく、深きこと海のごとくです。
しかればすなわち、昼夜心力を尽くして御高恩の万の一を報じ奉らんと欲するほかに他事はありません。

天下の御為を存じ奉り、いささかも身の為を致さざるところは、
上天日月の照覧するところであり、神明仏陀同じく共に明知したまう也。

しかるに去る(天明6年)秋、御不予のときに一日にわかに(家治様の)御機嫌穏やかならざる趣を告げる人がありました。
しかるといえども意次はあえて御不審を蒙るべきことは身に覚えなく、昨日までも御機嫌うるわしくはいらせらるるところに、
たちまち、御不興の御容躰は意次の傾運の致すところで、是非におよばざる次第にて、身の不肖を恨むほかなく、しかしながらたとえ一旦に、御不審を蒙り奉るといえども後日誤りなきをもってこれを言上せば、御明察の上、再び御機嫌うるわしき御時節も御座あるべきと存じ奉るところに、かたわら頻りに老中職を辞すべき旨勧める者がありました。

故によんどころなく病と称してと職を辞し奉りました。ときに、
浚明院様(家治)にいささかの 御別慮なく願いの通り職を免じしめられ、かつ慎みの儀には及ばざる旨 台命を蒙りました。

しかるに親族縁座、あるいは義を絶ち縁を絶ち、かつてそのゆえを知ることなくして止みました。
唯、
浚明院様御在世久しく天道偽りなきの道理にもとづき、意次は私心をすてて忠精をはげみ、いかでか顕れざらん哉と(浚明院様の)御長久を祷り奉るところに、 終に 崩御され、意次は胸間割くがごとく、寝食共に廃すること数日、病を懐にし、その後 御当代(家斉)より俸禄を減じられたまうこと、意次の何んという不幸か、さらに覚悟せざるところであります。

しかるといえども在職のとき、粉骨砕身して天下の御為にならんと欲するといえども、凡慮のおよばざるところが間々在ったか。
かえって御為にならざると相響いたか薄運の致すところで、御為にならざるは嘆いてもなお余ることです。
かつまた小事といえども一存で取り計らったことはなく、必ず同席と相議して 上聞に達し、しかるに意次の一人の所為となるは如何なる災難でしょうか。

仰ぎ願わくは
大元帥尊、ほかには悪を降伏して、忠勤怠りなく操を顕はし、
内には慈悲を垂れて秋毫も欺がざる志を照らし、すみやかに 御廟に拝謁し、かつ 御当代の
尊顔を拝し奉り、再び親族相和し予を誹り、予を悪(にく)む人、意次毫厘も虚妄せざる趣を明知し、世の雑説を捨て、怨親平等之思いを成さしめ賜えと、誠惶誠志 敬して白(もう)す。

天明七年未五月十五日       源意次稽首三拝


悲痛の感、ひしひしと迫る。

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2006.12.08

相良藩士への退職金

12月7日の記事---相良城の請け取り で、田沼意次の居城だった相良城召し上げのとき、幕府が金1万3000両を提出させたことに触れて、「相良藩士たちの多くは失職するのだから、1両でも多く手にして去りたかろう」に、と記した。

河原崎次郎さん編著『城下町相良区史』(相良区 1986.10.1)は、離散藩士たちが手にした退職一時金の額を以下のように記録している。

 金200両   物頭席
 金170両   西広間席
 金150両   給人席
 金130両   近習席
 金 80両   中小姓席
 金 70両   中小姓並席
 金 50両   徒士席
 金 30両   坊主・小役人・小頭共

江戸詰はこの2割減だったという。

この退職金で、何年暮らしていけるか、想像するだけで身がすくむ。
『鬼平犯科帳』はしばしば、江戸の裏長屋での親子5人の生活費は、1年間に10両前後と報じている。
身分の高い仁ほど、再就職はむずかしくなろう。

領地での家臣数は360人前後だったと記されている。
1万3000両を400人の家臣に等分に割ったとして、1人あたり32両余。それでも、ないよりあったほうがいいにきまっている。

1万3000両は、岡部美濃守の岸和田藩や、警備と城破却に動員された掛川藩、駿州田中城、遠州横須賀藩、三州吉田城などへの動員費であったのであろうか。

約90年前の赤穂城召し上げのときの退職金や幕府への供出金などと比較してみたいともおもわないでもない。

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2006.12.07

相良城の請け取り

川原崎次郎さん編著『城下町相良区史』(相良区 1986.10.1)によると、『相良町始之事』に、

「十一月廿二日岡部美濃守様御預り到着、御人数凡千四百六十人程、伊賀士五十騎」

とあると。
『寛政重修諸家譜』の「このときこふて近江国甲賀の士五十人を召具す」が、ますます、おかしくなってきた。
それはともかく、『城下町相良区史』は、岡部美濃守(27歳)が本陣と定めた平田寺(へいでんじ)が、前年、田沼意次の寄進で新築・落慶なったばかりで、それが「幕府方収城使の本陣になったのは皮肉なめぐり合わせ」と記している。いや、まさにその憾が深い。

岸和田藩というか、岡部美濃守長備(ながとも)の田沼意次に対する私憤からかもしれないが、収城方は、12月25日、「朝六ッ、鉄砲五十挺火縄に点火して構え、弓五十張、矢をつがえ」「騎馬隊に前後を守らせた岡部美濃守は、陣笠、陣羽織のいでたち」であったたという。
まるで、戦争気分だ。

しかも、掛川藩主・太田摂津守および駿州田中城主・本多伯耆守が率いる各五十人が周辺の東川崎を、峯田村は遠州横須賀藩主・西尾隠岐守の精鋭が、平川村は三州吉田城主・松平伊豆守の部隊が固めていたのに、である。

出迎えた相良城方は、城代・倉見金太夫、家老・各務久右衛門、中老・潮田由膳以下三百七十一人、麻裃の正装で控えていたという。

城方は、米1000俵、金1万3000両、塩30俵、味噌10樽もすんなりと渡している。

わからないのは、1万3000両である。相良藩士たちの多くは失職するのだから、1両でも多く手にして去りたかろう。
松平定信は、田沼憎しが先にたったのか、そこまで思慮が及んでいない。武士の情けというものが作用しなかったらしい。

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2006.12.05

田沼意知、刃傷後。その2

天明7年10月2日 田沼主殿頭意次へ仰せ下されたのは、
(1787)        勤役の中不正のことが追々と判明して
            きたので、どうしたことかと思しめしてい
            る。
            前の将軍が御病気のうちにお耳に達し、
            御沙汰なさっておられたこともある。
            所領の地2万7000石を収納し、引退
            を命ぜられ、下屋敷に蟄居し、きっと慎
            しあるべしと。

            また、嫡孫・竜助意明同じことによる。
            (この箇所、意味のとれない文章)。
            前々代お取立てのことにより、前代に
            も御容恕あれば家をつがしめられ、
            1万石を下されて、遠江国相良の城
            は収められ、御前をとどめられる。

            その家人どもへも同じことを令されて、
            意明はいまだ年少だから家士どもが
            よく後見して諸事つつしんみ、念を入
            れるように。         

    10月12日 上使の旗本。大久保忠兵衛・井上兵
            兵衛が取り締まりのために相良到着。

    11月14日 岸和田藩の先発の永井伊織、久留十
            右衛門が相良入り。
            勘定所役人3名、代官・前沢藤十郎以
            下手代6名も相良入り。

    11月22日 岡部美濃守長備(ながとも)の一行2,
            600人が金谷宿から相良いり。平田寺
            を本陣いとする。

    11月25日 相良城明け渡し。田沼家臣らは、裃姿で
            岡部勢を迎え、無事引き渡しを終えると、
            裏門から礼儀正しく退去。

天明8年1月16日 この日から2月5日まで、人夫1500人
(1788)        を動員して、城はもちろん家臣の邸宅ま
            で根こそぎ破却。
            監督に動員されたのは、浜松、田中、横
            須賀の3藩から各60士であったと。

(ちゅうすけ注) 城の引渡しはともかくとして、このような破却は一体なんのためであったのか。
田沼憎しとはいえ、松平定信の狂気の沙汰としかおもえない。
城や役宅は、次に所領する者へ残しておくのが経済的な見地であろう。        

   

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2006.12.04

田沼意知、刃傷後

田沼意次の居城---相良城の召し上げにいたるまでの、あれこれの事件を年順に並べてみる。

天明4年3月24日 いつもののごとくに仕事を終え、午(うま)
(1784)  の刻の終わり(午後2時前)ごろに、老中たちは退出。
       つづいて若年寄たちも提出しようとうち揃い、中の間か
       ら桔梗の間へさしかかったとき、新番組の士・佐野
       善左衛門政言
が直所から走り出てきて、刀を抜いて、
       田沼山城守意知に切りかかった。

       意知殿は殿中であることをはばかったのであろうか、
       差添をさやとともにぬき、しばしあしらっている。
       その場にいたほかの若年寄たちは、思いもよらない
       事態に、だれも佐野を取り押さえようともせず、あわ
       て騒ぐのみであった。

       そのとき、はるかへだたった場所から、大目付の
       松平対馬守忠郷がかけよってきて善左衛門
       を組み伏せたところを、目付・柳生主膳正久通
       打ち逢うて、ともに政言を捕らえて、獄舎に下した。

       (この件の『甲子夜話』の記述↓)
       『甲子夜話』巻1-7

       あちこち傷を負った意知を、やってきた番医・峯岸
       春庵と天野良順が治療をほどこし、轎i(たけで編
       んだこし)に乗せて主殿頭意次の邸へ送った。
       (『実紀』。日記 藩翰譜続編)


天明4年4月3日 若年寄・田沼山城守意知
(1784)  が癈(はい)を病んで死んだので、新番士・佐野善左
       衛門
に死を給う。
       善左衛門は、獄屋に下されたのち、有司が鞠問
       したが、けっきょく狂気のせいということにして、
       獄屋で切腹。
       よって、目付・山川下総守貞幹が属吏を率いて
       検視した。(『実紀』。 藩翰譜続編) 

 (天明4年12月8日 西城書院番・長谷川平蔵宣以は同
              徒頭となる(『実紀』))
 (天明4年12月16日 西城徒頭・長谷川平蔵宣以とほか
              19人が布衣の侍に加わる。
              (『実紀』))
天明5年12月1日 松平越中守定信、溜間詰となる。(『寛政譜』)
(1785)

 (天明6年7月26日 西城徒頭・長谷川平蔵先手頭となる。
              (『実紀』))

天明6年8月16日 (将軍家治の病気のため)拝謁をゆるされてい 
(1786)        た市井の医者・日向陶菴某と若林敬順某を、
             田沼主殿頭意次推戴し、にわかに内殿に
             召して御療治のことをあずからしめる。
             (『実紀』)

天明6年8月27日 老中・田沼主殿頭意次、老中を病免、
            雁間詰となる。(『実紀』)

     8月28日 奥医・日向陶菴某と若林敬順某は、さきに賜
            った廩俸を収められ、職を放免される。
            (『実紀』)
 
     9月3日  (将軍家治の)御病が重くなllり、溜詰、雁間
            詰、奏者番はじめ群臣が出仕。(『実紀』)
           *このとき、田沼意次は病体を押して枕頭へお
            もむこうとするが、さえきられたとの説がある。
            家治はすでにして、薨じていたかもと。
        
     9月8日  (将軍家治の)喪を発する

    閏10月5日 田沼主殿頭意次はさきに職を免じられてい
            たが、加恩の2万石を収公され、御前を
            とどめられる。
            大坂の蔵屋敷とこれまでの邸宅を取り上げ
            られ、きょうより3日のうちに立ち去るよう命
            ぜられる。
            また、勘定奉行・松本伊豆守秀持は、御
            旨に違うことがあったと職を奪われ、采地
            500石の半分を収め、小普請入りの逼塞
            をいいつかる。。(『実紀』)

天明7年絵5月20日  夜から騒擾---いわゆる暴徒による
(1787)        打ちこわしがはじまる。
       5月23日  長谷川平蔵宣以ほか先手9組の組頭
            へ暴徒鎮圧の命が下る。

       5月24日 御側申次・本郷大和守が奉行申次を免
              ぜられる。(『実紀』)    

       5月28日 御側申次・田沼能登守意致病免して、
              菊の間詰となる。
              一橋邸より召し連れられていたので、
              特旨により、これまでの足米はそのまま
              給う。(『実紀』)

       6月16日 松平定信老中となる。(『寛政譜』)

(ちゅうすけ注) 田沼罷免後も、松平定信老中就任がすすまなかったのは、ひとつには、側御用取次で田沼派の本郷大和守泰行横田筑後守準松(のりとし)らが大奥へ手をまわして、定信の就任を拒んでいたからという。

天明7年5月某日、老女・大崎が尾張家を訪れ、同職の高岳と滝川が、先代将軍の遺言に「将軍家の縁者は閣僚にはしない」というのを楯にとり、定信の妹・種姫が家治の養女となっていることを理由にしていると話したと、菊池謙二郎さんが『史学雑誌』(第26編 大正4年1月20日刊)[松平定信入閣事情]で報告している。

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2006.11.24

田沼意次の4重要政策(その2)

故・大石慎三郎先生『田沼意次の時代』(岩波現代文庫)が、田沼時代の重要政策としてあげた第2は、

 2.通貨の一元化

同書は、こう断言する。

200 明和2年(1765)年9月に発行された「明和五匁銀」(左の写真)と、安永元年(1772)9月に発行された「南錂ニ朱判」とは、江戸通貨史のなかで、特異な位置を占める通貨である。

当時の国内は、中部地域以北は金本位制、関西以西は銀本位制によっていた。
幕府は、金1両に対し、銀60匁、銭4貫目(4000文)を公定交換率と定めていたが、ともすると守られなかった。

「明和五匁銀」が発行され、12枚でもって1両と交換することで、公定交換率が定着し、通貨の一元化が達成したといえないこともない。

95 しかし、幕府のおもわくどおりには、「明和五匁銀」は流通しなかったという。
そこで、少額貨幣として発行されたのが、「南錂ニ朱判」(左の写真)である。これ8枚で1両換算。

発案者は、明和2年2月に小普請の組頭から勘定吟味役へ取り立てられた川井次郎兵衛(のち越前守 530石)久敬(ひさたか)だったと、畏友・I君は推定する。
このとき久敬は41歳。6年後には勘定奉行へ栄進。

川井家は、今川義元の没後、長谷川家と同じように徳川へ仕えている。もしかしたら、幕臣のなかでは少数派の今川出身同士ということで、つながりがあったかも知れない。

田沼意次との関係でみると、勝手掛職も兼ていた松平右近将監武元(たけちか)が歿したのは、川井久敬が勘定奉行を辞して4年後だから、経済政策での縁はそれほど濃かったとはおもえない。

[田沼時代の経済政策](『幕藩体制Ⅱ』)で、「明和五匁銀」「南錂ニ朱判」の意義を認めた土肥鑑高さんと宮沢嘉夫さんは「田沼の政治は、物価高騰やその他多くの点で非難そされることは多いが、貨幣政策の根本は、寛政期(定信政権下)に入っても、何らの変更をも受け付けていないのであって、ニ朱判の通用などは、却ってこの寛政期に入って初期の目的を達成した」と。

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2006.11.21

田沼意次の4重要政策(その1)

中部圏の某女子大の英語関連の教授を定年した旧友I君が、〔愛知年金者大学〕で講じている江戸史の講座のテキストを送ってくれた。

[田沼時代の経済政策---石谷清昌の役割について---]と題されている。

100_4 じつをいうと、春にクラス会での会食前の雑談で、長谷川平蔵を引きたてた田沼老中の件から、話が故・大石慎三郎先生『田沼意次の時代』(岩波現代文庫 2001.6.15 1000円+税)におよんだ。
〔( )内は、つい最近、鬼平熱愛倶楽部の大島の章さんと亀戸のおKさんに教わった。ぼくが所有しているのは単行本のほうで、そちらは文庫化の10年前に刊行され、2,400円)。

I君のテキストの冒頭のほうに、、大石先生の前掲書が、田沼時代の重要政策として、
 1.年貢増徴ではなく流通課税による財政再建
 2.通貨の一元化
 3.蝦夷地の調査と開発
 4.印旛沼の干拓
をあげていると。

おととい(11月19日)、中井信彦さんの論述から、田沼期の経済政策として12事例があげられていると転記したが、ダブっている項目にしぼって、中井説を紹介したい。

 7.御用金の徴募
   幕府は宝暦11年(1761)に、初めて大坂町人205人から70万
   両の御用金を徴し、大坂3郷の町々へ貸し付けた。米価調節と
   金づまりの緩和のためであった。
 
 8.株仲間の結成
   冥加金の上納と引き換えに、数多くの株仲間が認可された。

株仲間の1例として、塗物問屋---塗物とは漆器のこと---が、十組のメンバーであることを明記した『江戸買物独案内』を掲示しておく。
Photo_247
文政7年(1824)刊

要するに、卸商行為の独占体制に対する営業税とおもえばいい。それまで農家の稲作を主たる税の対象にしていたのを、流通の隆盛にも目をむけ、収税の対象としたのである。
この着眼は、為政者側からすると、すばらしい。

運上金は以後、いろんな名目で株仲間へ割り当てられた。

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2006.11.20

田沼時代の賄賂

100_3 直木賞作家・佐藤雅美さんの初期の著作に『江戸の経済官僚』(徳間文庫 1994.4.15)がある。
小説『田沼意次 主殿の税』(講談社文庫 のち人物文庫)のもとになった論述である。

『江戸の経済官僚』は、最初は1989年に、太陽企画出版から単行本ででた。たしか、竹村健一さんが関係している出版社のはずだから、感度の鋭い竹村さんの示唆で本になったのかもしれない。

そのことはおいて、『江戸の経済官僚』は、田沼意次に先だつ時代に賄賂がはびこったのは、財政難の幕府が諸大名への天下普請を復活したからだと指摘している。
諸藩とすれば、自藩とはまったく関係のない河川の改修などに何10万両も使わせられるよりも、その50分の1の1000両を幕府高官たちへ贈って普請の下命をのがれたほうが経済的だと判断したのだと。

天下普請のもとはといえば、家康が全国支配を完了して幕府を開いたときに、全国からの徴税権を忘れたところにある---と。

佐藤さんは学者ではないから、すぱすぱと歯切れよくものをいいきる。
で、読み手は、「一理ある」と納得してしまう。

田沼への賄賂取りの風評も、つい信じてしまいそうだが、田沼個人のことは別として、天下普請のがれが賄賂の横行の原因の一つであったことはうなずける。

賄賂の目的はそれだけでなく、猟官もあろうし、利権あさりもあったろうが。

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2006.11.19

中井信彦さん[宝暦--天明期の歴史的位置]

中井信彦さん[宝暦--天明期の歴史的位置]を読みたいと念願していた。

近くの図書館で調べたら、『論集 日本歴史 8 幕藩体制Ⅱ』(有精堂出版)に収録されており、それが足立中央図書館にあることがわかり、取り寄せてもらった。

こまかいところはあとまわしにして、
田沼期の経済政策の12事例を転記しておく。

1.新田開発
2.国役普請
3.拝借金の廃止
4.空米切手の禁止と米手形の規制
5.貨幣改鋳
6.銭の増鋳
7.御用金の徴募
8.株仲間の結成
9.兵庫・西宮の収公
10.八丈島農産物専売
11.北海道開発計画
12.開国貿易計画

それぞれについての詳細は、順次、紹介していく。

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2006.11.17

深井雅海さん[田沼政権の主体的勢力]

深井雅海さんの論文[田沼政権の主体的勢力]は、国史学会誌『国史学』(1978年10月)に発表された。

この論文の存在は、佐藤雅美さん『田沼意次 主殿の税』(学陽書房 人物文庫)の[参考文献]で知った。

論文が『国史学』誌に発表されていたことは、ミク友(ハンドル・ネーム)エムさんがW大学の蔵書を検索してつきとめ、読むことを熱望していると察し、コピーして送ってくださった。

深井さんは同論文で、吉宗が紀州から江戸城へは、紀州藩士200家余とその家族をともなっており、彼らを直参にしたとして、うち10数家の姓名を明記する。

その中に、田沼意次の父・意行(おきゆき)も選ばれていたことは、いうまでもない。
が、吉宗の選抜基準までは書かれていない。

200家余もの藩士を引きつれて入府した理由を2つばかりをあげると、
1.ずっと将軍を護衛し、政治を担当してきた幕臣たちを信用できなかった---というか、暗殺まで恐れたのではなかろうか。
2.吉宗が考える改革策を実現するためには、意思を忠実に汲み、実行していく紀州育ちの藩士のほうが信用できた。

吉宗は、御用取次と小納戸(将軍の身辺の雑用係)を紀州勢でかためたばかりか、西丸へ入った世子・長福のまわりにも紀州勢を手厚く配した。

さらに、三卿家を新設したことは、後継者問題もあったろうが、自分の没後、古くからの幕臣勢力によって元紀州勢が不当な扱いを受けないための予防策もあったかもしれない。

そういう視点からいうと、意次がやった紀州勢の抜擢は、とくに勘定奉行所にあらわれており、勘定奉行たちの家禄アップは目を見張るばかりである。

これから、徐々に、その記録をあげて考察をくわえていきたい。

なにはともあれ、エムさんのご好意に厚く感謝を。
コピーを一読、目の前に沃野がひらけたおもいがしている。

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2006.11.16

松平右近将監武元(たけちか)

午前中5時間、松平右近将監武元捜しに費やしてしまった。
とにかく、「松平」とあると、ぞっとする。

この仁は、松平播磨守頼明のニ男で、清武が起こした松平家を、養子として継いだ二代目・清雅の、養子となる。
このことは『寛政重修諸家譜』に記録されている。

この仁を調べなければならないのは、田沼意次が老中を勤めていたときの筆頭老中であったし、家重の信任が篤かったから、田沼はそうそう、勝手なことはできなかったとみているわけ。

武元が没した安永8年(1779)から天明7年(1787)までの8年間が、田沼が腕を振るえた時期とみるのが正しかろう。
田沼に引き立てられたのは、長谷川平蔵もその一人。

それはともかく、『寛政譜』の第1巻は松平にあてられている。それで、 『寛政譜』第1巻のすみからすみまで、蟻の穴を捜すみたいに目を凝らし、googleで検索したおしても、武元の実家の松平がわからない。

やっと思いついて、戦前の平凡社『日本人名大事典』を開いて、水戸の徳川につながっている仁とわかった。
なんだぁ、父親の頼明で、もっと早くそのことに気づくべきだったのだ。

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