カテゴリー「020田沼意次 」の記事

2009.05.10

田沼意行の父(4)

ちゅうすけつぶやき】今日:5月10日(旧暦)は、平蔵宣以の命日である。戒行寺の霊位簿は、寛政7年5月10日 海雲院殿光遠日耀居士 とある。
旧暦の5月10日は、新暦の6月26日にあたるらしい。

『寛政譜』では、寛政7年5月19日卒 50歳 となっている。

現役でのまままの逝去なので、先手組頭の当番の彦坂氏らが、辞職願を14日に幕府へとどけ、16日に受理され、公式に喪を発することができたのが19日であったということ。

★2006年6月25日[寛政]7年5月6日の長谷川家]
★2008年4月28日[ちゅうすけのひとり言] (11
★2006年4月1日[長谷川平蔵年譜
★2006年5月1日[高貴薬・瓊玉膏の下賜]
★2006年5月12日[平蔵の後釜に坐る


ずっと前に、田沼意行(もとゆき)がらみで、安池欣一さんから『南紀徳川史 第一冊』の部分コピーをいただいていた。

安池さんのリポート[田沼意行の父]を転載するにあたり、めくりかえしていて、「これは---」というページに目がとまった。

七代将軍・家継がわずか8歳で死去したとき、紀州藩主・吉宗(33歳)が後継として指名され、藩邸から急遽、二の丸へつめたことはつとに知られている。

そのとき、扈従というより吉宗の身辺警護のために150人前後の江戸詰藩士が柳営に入った。
その中に、田沼意次の父・専左衛門意行もいた。

意行の紀州藩(37万5000石)での職分と家禄が記録されていたのである。

小姓 50石。
田代七右衛門養子

とも書かれている。

吉宗が将軍職につくことにより、意行の職と家禄は、

300俵 小姓
主殿頭

に格上げされた。
徳川幕府の直轄地は実質400万石ともいわれていたから、紀州藩での10倍になってもおかしくはない。
それが、6倍でぁった。
吉宗が、もともとの幕臣たちへ配慮したのでろう。
(もっとも、意行は、その後加増されて700石になっているから、結果的には14倍であった)

同じリストに、菅沼新左衛門の名があったので、主題とはかかわりがないが、参考までに転紀しておく。
紀州藩士のときは、

用達 400石

扈従しての江戸城入りの直後は、

小納戸(側近) 主税正 400石

これも、幕臣たちへのはばかりであろう。
11年後に従五位下、主膳正。さらに7年のちに300石加恩。
まわりを紀州出身者でかためた吉宗の、したたかな施政ぶりがうかがえる。

このほか、膳まわりの者が12名、のちにお庭番と名を変えた薬込めの者が6家、急ごしらえにしても鷹狩りかかわりの者が鷹匠・鳥見をふくめて5名も指名されているのは、いかにも、鷹狩りがすきな吉宗らしい。

参照】2009年5月8日`~[田沼意行の父] () (

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2009.05.09

田沼意行の父(3)

静岡のSBS学苑[鬼平クラス]でともに学んでいる安池欣一さんの田沼意次(おきつぐ)の父・意行(もとゆき)の、さらにその父捜しのリポートのつづきである。

どうして、そのようなことが、[『鬼平犯科帳Who's Who]なんだ---とおっしゃらないで。
データを後学者のために公開しておくことも、大きな意義がある。
少なくとも、ぼくは、そう、かんがえている。
田沼意次まわりの論文で、そこまので考究がすすめられたとおもえないからである。
大げさにいうと、安池さんが初めて鍬をいれた人かもとれない。


菅沼家「系譜」の検討


田沼意行
『寛政重修諸家譜>』では、

 田沼意行 重之助 専左衛門 主殿頭 従五位下

南紀徳川史 第5冊』では、

田沼専左衛門 重意 初名:専之助

と表記されています。

また、『寛政譜』では、
「享保19年(1734年)12月18日死す。 年47。」

となっていますから、計算すると元禄元年(1688年)生まれとなります。

1.菅沼家代々の当主の没年を調べますと、元祖は寛永19年(1642)、2代目は寛文11年(1671)で、意行が誕生する前ですから、父親ということはありえません。

5代目は元禄4年(1691)生まれですから、これも該当しません。
意行の父親の可能性があるのは3代目と4代目です。

ちゅうすけ注】ここで、理解をやさしくするために、『山家三方集』(愛知県鳳来町立長篠城跡保存館 1997.3.1)から、長篠菅沼の系図から、紀州へ付随した初代・半兵衛のすぐ上の2人を引く。

_300_2_120_3

_200_22..3代目新九郎政則について
菅沼家は代々半兵衛を名乗っているのに、3代目だけが新九邸です。
没年は正徳3年(1713)ですが、そのときの年齢は不詳となっていまして生年が計算できません。
常識的には4代目よりは早い生年と考えられます。
(右の系図は、紀州菅沼家の2代目~5代目 前掲書より)

寛文11年(1671)に跡目を相続して、延宝6年(1678)には弟を養子としますが、弟が死去しますので、翌年4代目とな渋谷家の三男を養子として、自分は隠居します。
このとき、知行2000石のうち、500石を隠居料とします。
子供がいたという記事はありません。

3. 4代目半兵衛政等、渋谷角太郎三男紋之丞、明暦2年(1656)生まれ。
15歳のとき小姓に召出され、延宝7年(1679)歳で菅沼家の養子となり、家督と知行1500石を相続します。
元禄4年(1691)に惣領が誕生し、以後息子2人・娘2人が生れます。

宝永7年(1710)に城代となり、享保10年(1725)に隠居、享保12年(1727)72歳で病死しています。

長男が家督し、その他の2人の息子は一人は杉田家の養子となり、もう一人は菅沼姓です。

意行を生んで他家に養子に出した記録はありません。
意行の誕生は元禄元年(1688)です。
その時、政等は33歳で、すでに菅沼家を相続した後ですし、まだ惣額が生れる以前ですから、もし意行が生れたとしても、養子に出す可
能性はほとんどないといっていいでしょう。

4.課題
以上1-3の検討によりますと、田沼意行の父の家はこの菅沼家ではないこと
になります。あるいは、南紀徳川史の記事が間違っているのでしょうか。
もし、『南紀徳川史』の記事が正しく、田沼意行がこの菅沼家の出身であると仮定しますと、どういう可能性があるのでしょうか。
あるとすれば4代目の子供というより、3代目の子供であるという方が可能性が高いのではないでしょうか。
3代目は自分の息子がいなくて、他家より養子をもらっていますが、隠居後30年以上生存している勘定ですし、500石の知行もありました。
当時、隠居した人のところに生れた子供はどのように扱われたのでしょうか。
「隠居したら元気になって、子供までできちやって、生活は楽じゃないけど長生きもできた。よかったよ」なんてうそぷ゛いていてくれたほうが救われます。


さて、安池さんの疑問、仮定にこたえられるのは、紀州の郷土史家しかあるまい。
うまく、このコンテンツがお目にとまるといいのだが。

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2009.05.08

田沼意行の父(2)

田沼主殿頭意次(おきつぐ 52歳=明和7年 老中兼側用人 相良藩主 2万5000石)と長谷川銕三郎(てつさぶろう)宣以(のぶため 25歳)とのかかわりあいを、[相良城、曲輪内堀の石垣]と題し、2009年5月4日(1)から(2)(3)(4)と4回つづけた。

参照】2009年5月4日~[相良城、曲輪内堀の石垣] () () () (

というのも、父・宣雄(のぶお 52歳=明和 先手・弓の8番手組頭)の代から長谷川家(400石)の諱(な)となった平蔵を引き継いだ銕三郎宣以が、41歳という若さで先手の組頭に登用されたのも、実力老中だった意次に引きたてられたからである。

もっとも、その分、意次が門地門閥派によって失墜したあと、その派の代表格としてまつりあげられた老中首座・松平定信(さだのぶ)から、平蔵田沼派もしくは田沼的体質としてにらまれ、物要(い)りな火盗改メを足かけ8年間もやらされ、備蓄を大きく減らしてしまったばかりか、借財をつくった。

そのことは、いま書いている当ブログ[『鬼平犯科帳』Who's Who]の16年先の経緯である。

歳月の引きもどしついでに、80年ほど、遡る。

この5年間、静岡駅ビル7階、SBS学苑パルシェで、月1回(第1日曜日の午後)、[鬼平クラス]でともに学んでいる安池欣一さんから、膨大な史料とともに、手紙をいただいた。

安池さんが、いま、田沼意次の父・意行(もとゆき)の実父を調べていることは、当ブログの2009年3月4日の[田沼意行の父]()で報告しておいた。
↑の色変わり(1)をクリックで再読なさってから、今日のテキストをお読みいただくと、理解が微細におよぶはず。

_130じつは、安池さんのリポートは、4月初めにいただいていた。
内容が、三河国の長篠菅沼にもかかわりが深いので、宮城谷昌光さん『風は山河から 全五巻』(新潮社)をひろい再読したりしていて、ご紹介がおくれた(しかも、この1回では足りない。順次、つづけたい)。

まず、安池さんの「田沼意行の出自の調査について」と題した手紙の前文から。

内容の点で進展はないのですが、資料の点では前進があったと個人的には考えておりますので、途中経過を報告させてください。

_120
「山家三方衆」 編集:長簾城祉史跡保存館

1_100宮城谷昌光さんの『古城の風景 Ⅰ』のなかで、長篠菅沼氏に関連して「山家三方衆」の解説がありましたので読んでみました。

長篠菅沼氏については、新城市教育委員会が所有している菅沼家譜・子孫蔵の家譜や菩提寺の過去る帳・墓碑などにより、現代にいたるまでかなり詳細に調査してあります。
また、『南紀徳川史』の名臣伝に菅沼半兵衛正勝について記載されていることも紹介されております。
但し、本のなかでは、二男以下まで全ての人が記載されている訳ではありません。

集められた資料のなかにはそれらのことも記載されている可能性はあります。
長篠城祉史跡保存館に確認したところでは、この資料については館内に展示されていることはなく、前館長(故人)の個人的な保有となっているそうです。
その資料の整理はしたいが、現在のところは手が廻らないとのことでした。


菅沼家「系譜」  
    --明治4年に菅沼家10代目が提出したもの 和歌山県立文書館保管--

1年程前、和歌山県立文書館に「田沼意次の父親にあたる人を養子に出した菅沼半兵衛という人の資料を捜しているのですが---」と、今から考えると随分漠然とした事項の調査をお願いしてしまいました。

そのときは、それでも調査していただいたのですが、「皆菅沼半兵衛を名乗っている家はあるが、何代も続いているから、諱がわかりませんか?」と問い返されて終わりになってしまいました。

「山家三方衆」を読んで、長篠城祉史跡保存館に問合せをして、この件に関して、こちらから、それ以上の情報収集は難しいと考えた後、「和歌山県立文書館」のことを思い出しました。

1年前には、気がつかなかったホームページを発見。

文書館で保管している古文書類」の「館蔵文書」として「紀州家中系譜並ニ親類書上」とあります。
早速、電話にて照会しました。
1年前にも照会させていただいたことなども、くどくどと言訳がましく説明し、判明しているかぎの諱も申し上げて、菅沼家の系譜があればコピーを送っていただきたいとお願いしました。

担当者のM さんは時間がかかるかもしれませんよといいながらも、そんな系譜があるか調べて下さるとのことでした。
結果として、M さんの「ありましたよ」という弾んだ声のお返事をいただました。

入手した系譜はいわゆる古文書に該当するもので、何という文字か判別できなかったり、判別できてもどういう意味か容が理解できなかったりという部分はありましたが、自分なりに検討したところでは別紙「菅沼家『系譜』の検討」に記載したとおりで、田沼意行が菅沼家の出身であるという結論は出ませんでした。

現在は、性懲りもなく、『寛政重修諸家譜』のなかで、田沼意行が養われたと記載されている「田代七右衛円高近の系譜」がないかとM さんお願いしているところです。

安池さんの、この探索手つづきは、読んでいて、わくわくしてくる。
ビジネス社会で活躍後、時間的に自由な身となり、やりたかった研究テーマを追い詰める方にとっても、大きく参考になろう。

さて、肝心の、安池さんが解読・現代語訳などは、後日。


【参照】2009年5月8日`~[田沼意行の父]  () (

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2009.05.07

相良城・曲輪内堀の石垣(4)

「恐れながら---」
佐野与八郎政親(まさちか 37歳 1100石)であった。
3年前から西丸の目付衆の一人として、徒(かち)目付や小人(こびと)目付を統括している。

参照】2007年6月5日~[佐野与八郎政親] (
2008年11月7日~{西丸目付・佐野与八郎政親] () () (

「おお、佐野うじの耳には、どのようなことが入っておるかの?」
老中格・田沼意次(おきつぐ 52歳 相良藩主 2万5000石)が気軽に受けた。

老中格のやりようではない、というのは、目付は若年寄に直結しているからである。
しかし、形式ばった柳営ではともかく、下屋敷での意次は、そういう垣根を意識しない。

「いま、話にでました先手・鉄砲(つつ)の1番手の為井又六祐安(すけやす 80歳 200俵)組頭のことに、じかにかかわることではございませぬ。先手の組頭衆のみなさまについての苦情でこざいます」
「それは、聞きずてならぬこと。申されてみよ」

佐野政親が告げたのは、徒目付・小人目付が聞きこんできている、つぎのような声であった。
先手の組頭は1500石格で、並みの番方(武官系)の、ほとんど終着地位に近い。
番方の幕臣がさらに高い地位をもとめるとすると、役方(行政畑)へ転じるしかない。
それでも、家禄によって壁があるから、このところ、先手組頭に死ぬまで居座るようになっている。

しかし、先手組というのは、泰平のいまの世でこそ江戸城内の門の警備役であるが、いざ、戦時ともなれば、第一線で敵と槍をまじえ、鉄砲を射ちあう部隊である。
その指揮者で組頭が、個人差はあるというものの、70歳代、80歳代でいいものか---との批判めいた声がないでもない。

「もっとも、おいしい席の先がつかえているために、長老たちの職への執着をとやかく言う者も少なくはありませぬ」
佐野目付は、言葉を選びえらびしながら、幕府の役人たちの高齢化を述べている。

勝手方の勘定奉行・石谷(いしがや)備後守清昌(きよまさ 56歳 800石)が口をはさんだ。
「当主がいつまでも在職していると、多くの継嗣は、30歳をすぎても、あるいは40歳になっても部屋住みのままで、あたら、才能をくさらしておりますな」

「うむ。さりとて、この職は乃公(われ)でのうてだれにできるか---と思いこみがちなのも、人の業(ごう)ではあるがな」
意次の言葉に、備後守清昌は遠慮をしない。
「人生は、仕事のみではございますまい。ほかに楽しみもあるはず」
「仕事人の備後どのの口からでた言葉ともおもえぬことを---」
同じ紀州の出身で、しかも親類というあいだからなので、意次清昌は忖度会釈なしの仲であった

「ところで、佐野うじは先手組頭の高齢化を申されたが、なにか、証拠をお持ちかな?」
意次が訊いた。
「はい。下の小人目付たちからの言上がありましたので、調べてみました」

佐野政親によると、この年---明和7年(1770)の弓の10組の組頭の平均年齢は64歳を超えており、最年長は78歳、鉄砲の20組のそれは60歳強で、最長老は80歳の為井又六祐安(すけやす 200俵)と。

「西丸の先手組頭4人のことは、お許しくださいますよう---」
「それは申しにくいであろう。よいよい。先手の爺い組頭のこととして、少老(若年寄)部屋へ、若返りをささやいておこう。
今宵は、この話はでなかったことにいたそう」
佐野目付よりも、長谷川平蔵宣雄(のぶお 52歳 400石)の頭の下げ方が深かった。

宣雄が与(く)みしている弓組の10人組頭のうち、50歳台は宣雄ともう一人、60歳代前半が4人、後半が2人、70歳代が2人であった。
最若年は宣雄の52歳。

田沼意次の提案にもかかわらず、先手組頭の対高齢化策は、銕三郎(てつさぶろう 25歳)が平蔵を襲名して組頭になる17年後まで、ほとんどとられなかったといってよい。
人事の若返りは、一度は築かれた石垣のように、改修はそれほどむつかしいともいえる。
とりわけ、定年制が明文化されていなかった徳川体制のものでは。


参照】2009年5月4日~[相良城、曲輪内堀の石垣] () () (

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2009.05.06

相良城・曲輪内堀の石垣(3)

長谷川うじ」
老中格で、将軍・家治(いえはる)の信任もあつく、側用人も兼帯という異例の重臣・田沼主殿頭意次(おきつく 52歳 相良藩主 2万5000石)が、今宵の客---というより、情報将校あつかいしている長谷川平蔵宣雄(のぶお 52歳 先手組頭)に呼びかけた。

宣雄とともに、銕三郎も盃をおいて、意次を注視した。
江戸城内では、老中を注視するなどは許されない。
目を伏せて、上申・応答するのが下のもののとるべき挙措である。
が、ここ、木挽(こびき)町の田沼家の中屋敷では、儀礼ぬきの会話が求められているし、宣雄たちは、これまでもそうしてきた。

「はい」
「率直に聞かせてもらいたいたい。先手組頭衆のあいだで、紀州出身の者たちが優遇されすぎておるという風評はでておらぬかな?」
「とんと、耳にいたしてはおりませぬ」
「ふっ、ふふふ。先手・弓組の組頭10名のうち、有徳院殿(ゆうとくいんでん 吉宗)さまにしたがってきた者は、いま、何人かな?」
細面で面高(おもだか)の意次の細い目は、やさしげではあるが、笑ってはいない。

菅沼摂津守頼尚(よりなお)
橋本丹波守忠正(ただまさ)
石原惣左衛門広通(ひろみち)

名をあげた。

「ことのついでに、その者たちの齢と家禄も言ってみてくれまいか」

菅沼摂津守   57歳  700石
橋本丹波守   60歳 1300石
石原惣左衛門  78歳  200俵

応じた宣雄は、横の佐野与八郎政親(まさちか 39歳 1100石)にそれとなく同意を求めた。
与八郎は西丸の目付である。
そのことをこころえている意次は、仕置の機微にふれることは、与八郎には訊かない。

宣雄は、意次の真意は、弓組のこともあろうが、20組ある鉄砲(つつ)組のことではないかと気づいた。

とりわけ、去年(1769)12月に81歳で逝った鉄砲(つつ)の一番手の組頭・寺嶋又四郎尚包(なおかね 300俵)の後任にすえられた為井又六祐安(すけやす 80歳 200俵)について風音を求められていると類推した。

先手の組頭は1500石格である。
この組頭になることにより、家禄300俵の寺島には1200石の足(たし)高がつけられ、あわせて1500石にしてもらえた。
家禄が200俵だった為井の場合には、1300石の足高が任期中は給される。

一瞬、宣雄は、寺嶋尚包の前任の鉄砲・一番手の組頭の名をおもいだそうと試みた。
しかし、寺嶋の就任は12年前の宝暦(ほうりゃく)8年(1758)のことで、宣雄が先手組頭に着任するずっと前のことである。

しかも、宣雄は弓組、寺島は鉄砲組で、つきあいの密度がちがう。

それで、宝暦12年(17662)から鉄砲の16番手の組頭を足かけ7年のあいだ勤めていた本多采女紀品(のりただ 57歳 2000石 新・大番頭)へ質してみた。

寺嶋どのの前任といえば、先年、奈良ご奉行のまま亡くなられた---」
石谷(いしがや)備後守清昌(きよまさ 56歳 800石 勘定奉行兼長崎奉行)が、さすがに能吏らしい記憶力で、
「奈良で逝かれた奉行といえば、山岡豊前どの---」
「さようです。先手組頭のころは、まだ、五郎作景之(かげゆき 享年54歳 1000石)でござった」

「山岡五郎作というと、神代のちょっとあとからの家筋とかであったな」
意次もおもいだしたらしい。
「そのように自慢していました。はっ、ははは」
本多紀品は、笑いで座をとりつくろった。

「いや、長谷川うじのご推察どおり、80歳で鉄砲の一番手の組頭に抜擢した為井がことでな。あの職の年寄りたちの推挙ということになっておったが、なにしろ80歳---少老の水野壱岐(守忠見 ただちか 40歳=当年 上総・鶴牧藩主 1万5000石)に、気をつかいすぎるなと申したのだが---」

先手組頭の補充は、年寄りたち---最年長の長老、次老、三老が候補者の名をあげ、入れ札で決めることが多いが、為井祐安の場合は、三人の年寄りの推挙できまったという。
それが、紀州系の将軍・家冶田沼に対する思惑ではないかと、ひそかにささやかれていた。
なにしろ、80歳の祐安は、言葉を発するたびにたれるよだれを手拭いで拭きとるほどで、城中の躑躅(つつじ)の間でもしゅっちゅう、腰が痛いの、息があがるのとこぼしている。

景之に会ったことのない銕三郎は、
(役人というのは、仲間のあれこれについて、よく、まあ、調べているものだ。が、話題がせますぎる)
腹の底で、いつも感じているおもいを、牛の咀嚼のように、くりかえしていた。

ちゅうすけ注】為井又六祐安の個人譜を掲げる。

Photo
(為井吉太祐安の個人譜)

祐安は、吉宗にしたがって急遽、江戸城二の丸に詰めたのではなく、4ヶ月後の享保元年(1716)8月、赤坂の紀州藩江戸屋敷から、長福(ちょうふく 6歳 のちの家重)に扈従してご家人になっている。

このときの紀州藩士について、深井雅海さん『江戸城』(中公文庫 2008.4.25)は、つぎの表を掲げている。
_360

又六はこの中の一人であった。


参照】2009年5月4日~[相良城、曲輪内堀の石垣] () () (


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2009.05.05

相良城・曲輪内堀の石垣(2)

それぞれの引きあわせ---といっても、新顔は相良から出府してきた普請奉行・三好四郎次郎だけだが---がおわり、気がおけなくなったところで、この邸の主である田沼主殿頭意次(おきつぐ 52歳 老中格兼側用人)が、手を打って召使に膳を言いつけた。

「領内が違作で、お上から多額に拝借しているので、ぜいたくはできない。ま、話が肴と分別を願って---」

膳には、鮒の甘露煮と、松茸と青菜の煮もの、大根の千切りが載っていた。
「鮒は、佐野うじからの到来もの---であったな」
給仕の召使にたしかめた。

「知行をいただいているところの一つに、常陸(ひたち)の牛久沼のほとりの佐貫(さぬき)村がございまして、日持ちするからともってきましたものです。鄙びたものなので、お歴々のお口にあいますれば幸甚---」
佐野与八郎政親(まさちか 39歳 西丸目付)が恐縮したふうi述べた。

「松茸は長谷川うじのお気づかい---であったな?」
「知行地の上総(かずさ)の寺崎村の山でとれたものです。ことしは、雨が少なく、出来がも一つのようで、村長(むらおさ)もすまながっておりましたが、香りだけは並みかと---」
平蔵宣雄(のぶお 52歳 先手・弓の組頭)がいいつくろった。

さっそく、石谷(いしがや)備後守清昌(きよまさ 56歳 800石 勘定奉行兼長崎奉行)が箸でつまんで鼻へかざし、口へふくんで嚥下、
「いや、けっこうな芳香と風味です」

本多うじの新しい知行地からということで、鮑(あわび)の干しものをいただいていたな?」
給仕の合点を待って、
「せっかくの珍味なれど、備後どのの手前、供するわけにはいかぬ」
14年来、長崎奉行として、唐土への支払い銀に替えて、鮑や海鼠(なまこ)の増獲・集荷を督励している石谷備後守に軽あてつけ、生真面目な石谷奉行が苦笑したのを、おもしろそうに眺めた意次が、
「なれど、今宵は備後どのに目をつむってもらい、調理するように申しつけてある」
一同が笑い声をたてると、石谷清昌もつられて笑い、座が一気になごんだ。

笑いがおさまったところで、本多紀品が陳べた。
「3年前に、主殿頭(とのものかみ)さまのおはからいで、遠江・城東郡(きとうこおり)の知行地の一部を、相模湾に面した鎌倉郡とお取り替えいただいたのです。それで、海の幸があがってくるようになった次第」

銕三郎は、出仕のこころえのあれこれを、みんなの会話から学んでいく。
とりわけ、意次の気くばりは感銘を受けた。
献じものの紹介にしても、佐野政親から平蔵宣雄、本多紀品へと、若年者を先にたてた。
さりげなく、本多家の知行地替えに話題をふって、それとなく希望の有無を問うている。

本多うじの遠江国の知行地は、まとまっていすぎた。あれには、享年には根こそぎ参ってしまう。出荷の手間はかかるが、知行地は国あるいは郡(こおり)を割っておいたほうが、まさかのときに互いに補いあえるからの」
意次の意見に、みな、うなずいた。

「さきほど、お上から拝借金とかおっしゃいましたようですが---」
銕三郎がおもいきって質(ただ)した。

「おう、そのことか。いや、恥をさらしたな」
意次が笑った。
三好四郎次郎がすぐに引きとって、
「領内が違作ゆえ、勘定ご奉行のお計らいで、返済は5ヵ年ということで、お上のご金蔵から3000両、拝借したのです。したがって、相良のお城は、二ノ丸、三ノ丸の堀の石垣の完成したとろこで、殿のご決断で、本丸などの建築は一時延期ということに決まりました」

「ご築城は、将軍家のお言葉によるものと、先にうかがっておりますが---」
銕三郎に、意次はこだわりなく、
「そのとおりであるが、拝借金をしている身で、築城の続行は、あまりに恐れおおすぎよう---」
石谷勘定奉行が、
「小職はじめ、宿老のお歴々も、本丸ほかを早く完成なされるのが、お上のお言葉へのお応えになるとおすすめしたのですが、主殿頭さまは頑として、おしりぞけになりましての」

ちゅうすけ注】理由がたてば幕府の金蔵から拝借金ができるということを記憶にとどめた銕三郎は、20年後に、石川島に人足寄場を創建した2年目、幕府からのあてがいが半減ちかくに落ちたのを補うため、物価安定の口実で金蔵から3000両を借りだし、銭相場に介入して500両近く利ざやをかせいだ。
経緯の詳細は、当ブログ2007年9月19日現代語訳[よしの冊子(ぞうし)] (18

ちゅうすけ注:とくに歴史の好きな方へ】田沼意次の実力発揮の端緒
2007年8月19日~[徳川将軍政治権力の研究] () () () () () () () () () (10) (11) 

参照】2009年5月4日~[相良城、曲輪内堀の石垣] () () (

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2009.05.04

相良城・曲輪内堀の石垣

三好どのと仰せられますと、近江の---」
佐野与八郎政親(まさちか 39歳 1100石 西丸目付)が、相良藩の普請奉行・三好四郎次郎に訊いた。
老中格で側用人も兼務している田沼主殿頭意次(おきつぐ 52歳 相良藩主 2万5000石)の木挽(こびき)町の下屋敷である。

久びさに私邸でくつろぐために下城した意次が、そろえて招くのが通例のようになっている、新番組頭の本多采女紀品(のりただ 57歳 2000石)、先手の組頭・長谷川平蔵宣雄(のぶお 52歳 400石)とその嫡男・銕三郎(てつさぶめろう 25歳)、そして佐野政親の4人。

参照】2009年3月6日[蝦夷への思い] (
2007年7月25日~[田沼邸] (1) () (3) (4)

田沼意次の財政面の知恵袋ともいわれている勘奉行で足かけ9年来長崎奉行を兼任している・石谷(いしがや)備後守清昌(きよまさ 56歳 800石うち300石は当年加増)も、連日つづく激務にいささか憔悴した面持ちで、いつものようにつらなっている。

参照】2007年3月29日{石谷備後守清昌] () () () 

新顔は、この6月に相良城の基礎工事である二の丸、三の丸の堀の石垣工事が成った報告と、あとの築城の指示をうけに出府してきていた三好普請奉行である。

参照】2009年3月3日[ちゅうすけのひとり言] (31

「ほう。佐野うじはさすがにお目付衆、三好普請奉行が近江・浅井の旧臣と、よくも推量なされた」
意次が、すかさず、与八郎をもちあげた。

_80「お恥かしいかぎり。長谷川組頭どのゆずりの、武鑑の知識でございます。ご普請奉行どののお腰の印籠(いんろう)の大割牡丹(おおわりぼたん)の蔭紋で推察をつけただけのことで---}

そのむかし、北近江の浅井家は越前の朝倉家に味方して、織田信長の恨みを買い、ほろぼされた。
牡丹は、浅井家の蔭紋でもあり、重臣たちはいろいろにくずして自家の蔭紋としていた。

主を失った三好家の子孫は、諸国をめぐりなから築城術を学んだという。
その知識に目をつけた意次が、四郎次郎を召しかかえた。
もっとも、その時点では、城持ちになるとは考えていなかった。
由緒のある家柄の家臣ならいくらでもほいしほど、意次の家禄は急激にふくらんでいたのである。

堀の石垣の工事ぶりを観察したことを、銕三郎は黙している。
意次が父とともに自分を招いてくれるのは、そんなことを聞くためではないことを承知していたからである。
相良へは、〔仲畑(なかばたけ)〕のお(りょう 30歳=当時)といったことも秘密にしておきたかった。

参照】2009年1月25日[ちゅうすけのひとり言] (30

しかし、話は相良城の郭の石垣におよんでいた。
江戸城の石垣の石の多くが伊豆から運ばれたように、相良城のための石も、西伊豆からきりだされていた。
運搬も、江戸城のときにそうしたように、筏から綱でしばった石を海中にたらして重さを軽くし、つないだ筏を船で引いて駿河湾を横断させた。

このときのことが、江戸で石を手早く調達するならと、銕三郎が工夫を重ねるきっかけの一つとなった。
20年ほどのち、満潮時には水びたしの湿地になる石川島に人足寄場をつくることになり、寺社奉行にかけあい、無縁仏の墓石を寺でらからかき集め、江戸ふうテトラポットとして、たちまち地揚げを果たすことにつながった。

ちゅうすけ注】佐野与八郎政親の武鑑を見る趣味は、長谷川宣雄ゆずりというのは、いつだったか、宣雄がもらしたこの話に刺激されたものである。
2008年7月6日[宣雄に片目が入った] (

銕三郎が父・宣雄から学んだことで、石川島の人足寄場の創設に生かされた知恵の一つ---無縁仏の墓石の件についての裏話:2006年6月21日[家風を受けつぐ

宣雄から学んだことが人足寄場の創設で実地に生かされてもう一つの例:2008年3月3日[南本所・三ッ目へ] (10

ちゅうすけ注:とくに歴史好きな方へ】田沼意次の財政の知恵袋・石谷備後守清昌について
2007年7月27日~[石谷豊後守清昌] () () (
2007年や月25日~[田沼邸] () () () (
2007年12月18日~[平蔵の五分(ごぶ)目紙] () () () 
 
参照】2007年1月3日[平岩弓枝さん『魚の棲む城』] (1) (2) (3) (4) (5) (6) (7)
2007年11月6日[相良城址の松樹

参照】2009年5月4日~[相良城、曲輪内堀の石垣] () () () 

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2009.03.06

蝦夷への想い

明和6年(1769) 8月18日の『徳川実紀』には、こう、記録されている。

西城宿老(注:老中)。板倉佐渡守勝清(かつきよ 64歳 上野・安中藩主 2万石)本城の列となる。
所司代・阿部飛騨守正允(まさちか 54歳 武蔵・忍藩主 10万石)西城の宿老となり豊後守とあらたむ。
_100御側用人・田沼主殿頭意次(おきつぐ 51歳 遠江・相良藩主 2万石)、加判の列に準じられ、侍従に任じ、加秩五千石を賜ひ、諸老とともに祗候すべしと命じらる。昵近(じっこん)の職兼る事故(もと)の如し(訳:側(そば)用人の職はそのまま兼ねよ。 肖像画)。

2万石の城持ち大名であった意次は、さらに5000石加増され、老中格で、待遇や権限が老中並みとなっわけで、しかも、側用人も兼任という異例さであった。

慶祝のあれこれが一段落した晩秋の宵、意次は久しぶりに清談を愉しみたいからと、木挽町(こびきちょう)の下屋敷に、長谷川平蔵宣雄(のぶお 51歳)・銕三郎(てつさぶろう 24歳)父子と、本多采女紀品(のりただ 56歳 新番頭 2000石)、佐野与八郎政親(まさちか 38歳 西丸・目付 1100石)のコンビを招いた。

参照】2007年7月25日~[田沼邸] (1) (2) (3) (4)
2007年2月28日[平賀源内と田沼意次]

銕三郎は、意次からの婚儀祝いにとどけられた源内焼の皿の礼を述べたのち、しばらく、本多紀品たちの話を、興味ぶかく聞いていた。

と、意次が、とつぜん、声をかけてきた。
銕三郎。このごろ、変わった捕りものの話はないかの?」
「はっ---変わっていますかどうか---拙が手先のように使っております者が、蝦夷(えぞ)の鹿が現われたと申しております」
「ほう。蝦夷の鹿が、両国広小路の見世物小屋にでも出たかの?」
「いえ。ほんもののエゾジカではございませぬ」

銕三郎は、〔相模(さがみ)〕の彦十(ひこじゅう 34歳)が幻視したという雌鹿の話をしたが、本所・深川の悪業ご家人・木村惣市父子のことは伏せた。

参照】2008年3月5日「雌エゾジカ

「その、彦十という者は、蝦夷となにかかかわりでもあるのかの?」
意次が、いたく関心を示したので、宣雄があわてて、たしなめる。
。はしたない小者のことなど、田沼さまのお耳へお入れするでない」
「いや。大いに感じておる。そのような下じもの者までが、蝦夷に気をそそられているというところが、なんとも時代らしい」

意次は、これは内密のことだが---と前置きして、オロシヤという北の大国の軍船が、蝦夷の近海にまで出没しているという書き上げが、松前藩からご用部屋へとどいていることを打ち明けた。
「その彦十とやらの幻視にエゾジカが現われたほど、ことは急なのじゃ。銕三郎彦十が、雌鹿にかぎらず、もし、蝦夷のなにかを幻視したら、かならず、予のところへとどけてくれるように」

銕三郎は、意次の政治家としての勘の鋭さを、さすが、と感じた。
真の政治家とは、庶民の潜在意識の中から未来をすくいとり、政策に反映させる準備を早めにしておくのが才能である。
工藤平助(へいすけ)の『赤蝦夷風説考』が板行されたのは、このときから14年後で、さらに意次が、勘定奉行・松本伊豆守秀持(ひでもち 56歳=天明5年 500石)に命じて、蝦夷地調査隊を派遣させたのは16年後であった。

参考】2007年7月29日~[石谷備後守清昌] (1) (2) (3)

2007年8月2日[松平武元後の幕閣
 

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2009.03.04

田沼意行の父

SBS学苑の〔鬼平クラス〕と田沼主殿頭意次(おきつぐ 51歳=明和6年)の話題がでたついでに、同〔くクラス〕でいつも啓発してくださる安池欣一さんから、かねてお預かりしていた研究ノートを転載させていただく。
(ことわっておきますが、SBS学苑の〔鬼平クラス〕は、ふだんはもっとくだけた話を交わしています)


田沼意行(もとゆき)の父について
1. 『寛政重修(ちょうしゅう)諸家譜』(以下『寛政譜』)

田沼家の欄
「・・・・・・男次右衛門吉次はじめて紀伊頼宣卿につかえ、其子次右衛門吉重、其子次右衛門義房相継紀伊家に歴任し、義房のち病により、辞して和歌山城下の民間に閑居す、これを意行が父とす。

意行 重之助 専左衛門主殿頭 従五位下

父次右衛門義房仕官を辞するの時、意行は叔父田代七右衛門高近が許に養はれ、後紀伊家に於て召れて有徳院殿に仕へたてまつり、享保元年(1716)(江戸)城にいらせたまうのとき御伴の列にありて御家人に加へられ、・・・・・・」

これによりますと、田沼意行の父は次右衛門義房であり、「田代七右衛高近が許に養はれ」とあることから、田代家の養子になったと理解されます。

2..『南紀徳川史』第5冊

田代角兵衛の箇所につづく「田沼専左衛門重意 初名専之助」のところで「専左衛門ハ田代七右衛門重章之養子実ハ菅沼半兵衛倅之処由緒有之七右衛門養子に被 仰付御伽二被 召出田代之一字卜菅沼之一字トヲ取リ田沼卜名乗家之紋ハ田代之常紋七曜ヲ用ヒ侯様被 仰付後御小姓五十石ニテ 有徳院様 公儀御相続之節御供二被 召連正徳六年(1716)六月二十五日御小姓三百俵諸大夫・・・・」

これによりますと、
重意 初名専之助」は『寛政譜}』と一致しませんが、内容からいって田沼意行のことと考えられます。
・『寛政譜』の田代七右衛門高近と、ここの田代七右衛門重章とは同一人と考えられます。
・上からの命令で田代七右衛門の養子になったようで、田沼家の紋は田代家の紋を用いることとなったと記載されています。

3.『南紀徳川史』第12冊

財政に関する「歴世経済之大略」の有徳公のところで、
「此比奉行役に田代七右衛門あり宝永五子年(1708)九月淡輪新兵衛跡奉行を被命四百石に御加増(初伊都郡御代官八十石にて元禄六年(1693)十月御勘定頭に拝任同七年二月添奉行打込勤三百石と成り後主税頭公御勝手役又御本家御勝手奉行を経て如本記)同七年閏八月江戸詰中病死會計在職十八年也(七右衛門養子を田沼専左衛門と云有徳公御供にて公儀へ被召出則田沼玄蕃頭の祖先也)」

ここでは田代七右衛門としか書かれていなくて、田代七右衛門高近なの:か田代七右衛門重章之なのかはわかりません。ただし、田沼専左衛門が田代七右衛門の養子であることは書かれています。

4.後藤一朗著『田沼意次』付録の「田沼家系図」

田沼意行の父吉房のところには、

次右衛門仕紀州家享保15年(1730)6月18日華法名-峰玄枝居士葬江戸駒込勝林寺」

これによりますと
次右衛門書房の祖父・父は和歌山に墓地がありますが、吉房は江戸に埋葬されている。
・享保15年(1730)6月18日卒で田沼意行と同じ寺に埋葬されている。
意行吉房を江戸に引取ったのではないでしょうか。享保15年というと意行43歳であり、吉房は60歳を越えていたのではないでしょうか。

参照】2007年11月15日[駒込の勝林寺(しょうりんじ)]

疑問点
後藤一朗氏は『田沼意次』のなかで、
吉房は病弱のため比較的早く退官し、剃髪したという」
「1734年(享保19)冬、父意行、病にたおれ、危篤状態に陥ったとき、龍助を枕辺に招き、・・・・・これより家の紋を改め、七面様の七曜紋をいただき、わが家紋と定めよ。と遺言した.。
これにより今まで丸に一'だった家紋を七曜星に改めた」
と書かれている。家紋は南紀徳川史によれば、宝永2年(1705)頃七曜にしたと書かれてあるのに対して、後藤氏は享保19年(1734)としている。後藤氏はこの話を何により得たのでしょうか。

_360

ちゅうすけは、安池さんの疑問に答える原資料をもちあわせていない。
藤田覚さんの『田沼意次』(ミネルバ日本評伝選 2007.7.10)は、『寛政譜』の田沼家分から引いておられ、田沼家が書き上げた原文は引用されていない。
いや、国立公文書館に田沼家が書き上げ家史原文が残されているかどうかも記されていない。

ということは、『南紀徳川史』を参照した安池さんの調査のほうが、意行にかんかるかぎり、周到といえようか。

そういえば、藤田さんの上掲書は、意行に(もとゆき)とふられているルビは誤りらしいからと、(おきゆき)説をおとりになっていることを付記しておく。


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2007.12.01

『田沼意次◎その虚実』(5)

相良の郷土史家・故・後藤一朗さん『田沼意次 ゆがめられた経世の政治家』(センチュリー・ブックス 1971.9.20)は、その後、同じ版元から、新書シリーズノ1冊『田沼意次◎その虚実』(1988.10.10)に衣替えし再刊行された。

(意知 をきとも の四男)意明(をきあき)以下四人の死後、意次(をきつぐ)の四男意正(をきまさ)が相続した。彼は田沼家全盛のころ、水野忠友(ただとも 出羽守 駿州・沼津藩主 老中 3万石)に養子に行っていた忠徳(ただのり)である。忠友は意次に引き立てによって出世し、老中にまでなったのに、田沼失脚と見るや自分に難がおよぶのをおそれ、この忠徳(離縁後、意正 をきまさ)を離縁帰籍させた。それが家にもどっていたのである。
意正には娘が一人(長男意留 をきとめ のほかに)あったが、彼女は文政九年(1826)柳生但馬守栄次郎(大和国柳生 1万石)の室になった。武術万能のそのころ、将軍家指南番柳生家へ正室として迎えられたくらいだから、女流剣士として当代一流だったことは、まずまちがいないところであろう。意次以下田沼家の人々の武芸実力を語った文献はないが、この孫娘を見て、家風の様子がほぼうかがい知ることができよう。(略)

柳生家と聞いて、女武芸者を連想することをとやかくいうのではない。
_1池波ファンなら、田沼意次(をきつぐ)と女武芸者の文字からは、『剣客商売』のヒロイン・佐々木三冬を連想する。
三冬は、池波さんが直木賞を受賞した年の『別冊文藝春秋』に発表した[妙音記]佐々木留伊(るい)の再来であることも、ファンなら承知している。

しかし、『剣客商売』『小説新潮』で連載が始まったのは、1972年新年号からと書くと、改めて『田沼意次 ゆがめられた---』の刊行年へ目をやるのではなかろうか。
---連載開始の前年の、1971年9月。

もちろん、若い女武芸者と老齢の剣客---秋山小兵衛をからませた『剣客商売』の構想は、もっと早くから練られていたろう。、『小説新潮』の編集部には、予告もされていたろうし、資料もそれなりに集められていたろう。
が、しかし、『田沼意次 ゆがめられた---』が発想の一つの引き金になったと考えても、的はずれとはいえないのではなかろうか。

いや、それよりも、『田沼意次 ゆがめられた---』によって、意次像が、池波さんの中ではじけたというほうが、より正確かも知れない。平岩弓枝さんが『田沼意次 ゆがめられた---』に触発されて『魚の棲む城』の田沼意次を造形したように。

あるいは、すべてはぼくの妄想かも知れない。
しかし、意次と池波さんの接点の一つは、解けたといえるのではあるまいか。『剣客商売』の5年前に始まった『鬼平犯科帳』における、賄賂取りの田沼像から脱却したことの説明もこれでつかないだろうか。

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