老中たち
御用部屋で、老中たちが現役の老中・本多伯耆守正珍(まさよし 駿州・田中藩主 49歳 4万石)を裁いたのが、郡上八幡の農民一揆事件である。
2007年8月23日[徳川将軍政治権力の研究(8)]に、ときの老中首座・堀田相模守正亮(まさすけ 下総・佐倉藩主 47歳 10万石)の個人譜を掲示した。
宝暦8年の老中のリストを、 『柳営補任』から引いておくのも、当時の背景への理解を深めよう。
順序は『補任』にあるとおり。氏名列の年齢は宝暦8年)
首座
堀田相模守正亮(下総・佐倉藩主 47歳 10万石)
任・延享2年(1745)12月12日(36歳) 大坂城代から
老中
松平右近将監武元(たけちか 上州・館林藩主
46歳 6万1000石)
任・延享3年(1746)5月15日(34歳) 寺社奉行から
本多伯耆守正珍(駿州・田中藩主 49歳 4万石)
任・延享3年(1746)10月25日(37歳) 寺社奉行から
酒井左衛門尉忠寄(ただより 出羽・鶴岡藩主 55歳
10万8000石)
任・寛延2年(1749)9月28日(46歳) 譜代席から
西尾隠岐守忠尚(遠州・横須賀藩主 70歳 3万5000石)
任・延享3年(1746)5月13日(58歳) 西丸老中から
(延享4年大御所様つき
大御所崩御につき寛延4年(1751)から老中末座)
西丸老中
秋元但馬守凉朝(すけとも 武州・川越藩主 42歳 7万石)
西丸若年寄から
さて、堀田家だが、徳川政治史に名を残した藩主が5人いる。
武門ではほとんど書きあげるほどのことはない。
まず、加賀守正盛(まさもり)---家光の側近くに仕え、佐倉藩11万石を領した。慶安4年(1651)、家光に殉士死。44歳。美男でもあったか。
その嫡子・上野介正信(まさのぶ)---貧している幕臣へ自領を分けてほしいと上申して無断で帰国。断絶。延宝8(1680)年、家綱の死を聞いて、配所・徳島で自裁。
正盛の三男・筑前守正俊(まさとし)---生後すぐ春日局の養子となり、幼年時代を大奥で送る。家綱の小姓となり、のち、上州・安中藩主(2万石)。さらに古河藩主(7万石)。大老(13万石)。
禄があがるにつれて、正信の奇行によって浪人せざるを得なかった家臣たちを探しては再雇用につとめたという。
貞享元年(1684)、江戸城内で若年寄・稲葉石見守正休(まさやす)に刺殺された。
その孫・相模守正亮---伊豆守正虎(まさとら)五男だが、いろいろあって出羽・山形藩主に。その時代に藩財政を立て直すなど、藩政改革才腕を示したと、『新編物語藩史 第3巻』(新人物往来社 976.3.1)の(当時・明治大学教授の)木村礎さん[佐倉藩]にある。
老中に就任後、下総・佐倉藩(10万石)。宝暦2年(1752)、佐倉宗五郎100年祭を行う。
これから一気に江戸末期へ飛ぶから、長谷川家には直接のかかわりがなくなる。
堀田備中守正篤(まさひろ 改め正睦 まさよし 下総・佐倉藩主 11万石 老中上座)
徳富蘇峰『近世日本国民史 堀田正睦』5巻(講談社学術文庫 1981.2.10~ )の第4巻[安政条約締結篇]の末尾に、「幕府の中心においてさえも、開国を好まぬものは、皆無ではなかった。否、真実の開国論者は、幕府当局側においてさえも、むしろ少数であった」と、少ない支持者の中での開国であったこと、また、内には「将軍継嗣問題---水戸斉昭(なりあき)の第七子・一橋慶喜(よしのぶ)の擁立派と、紀州・慶福(よしたみ)の擁立派の対立があった中でのむずかしい政局運営であったことをあげている。
また別に、佐藤雅美さん『開国 愚直の宰相・堀田正睦』(講談社文庫 1997.11.15)もある。
しかし、このブログは、家重、家治、家斉の時代の長谷川家まわりを書いている。
幕末はまだずっと遠い。










将軍(家重)への定例のご拝賀の日にあたっていたので、諸大名や重臣たちが登城していた。
犯人・板倉修理勝該は、自分を廃嫡にしようとした本流・板倉板倉周防守勝清(かつきよ 安中藩主 2万石)の板倉巴紋と細川宗孝の九曜紋を見間違えての刃傷だったというが、よほど目が悪かったか、殿中が薄暗かったか。
館の係に希望を申し出たが、初めて受けた相談らしく、PCで検索---ったって、google みたいに史料の内容まで入力しているわけではないから、書名であたりをつけるだけ。
さらに奥から出されたのが池谷盈進さん『現代語訳 田中藩史譚』(1994刊)。
辻 善之助さん『田沼時代』(岩波文庫 1980.3.17)は、こんな落書「懸け・とき」を収録している。


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