カテゴリー「017幕閣」の記事

2007.08.24

老中たち

御用部屋で、老中たちが現役の老中・本多伯耆守正珍(まさよし 駿州・田中藩主 49歳 4万石)を裁いたのが、郡上八幡の農民一揆事件である。

2007年8月23日[徳川将軍政治権力の研究(8)]に、ときの老中首座・堀田相模守正亮(まさすけ 下総・佐倉藩主 47歳 10万石)の個人譜を掲示した。

宝暦8年の老中のリストを、 『柳営補任』から引いておくのも、当時の背景への理解を深めよう。
順序は『補任』にあるとおり。氏名列の年齢は宝暦8年)

首座
堀田相模守正亮(下総・佐倉藩主 47歳 10万石)
 任・延享2年(1745)12月12日(36歳) 大坂城代から
老中
松平右近将監武元(たけちか 上州・館林藩主 
 46歳 6万1000石)
 任・延享3年(1746)5月15日(34歳) 寺社奉行から
本多伯耆守正珍(駿州・田中藩主 49歳 4万石)
 任・延享3年(1746)10月25日(37歳) 寺社奉行から
酒井左衛門尉忠寄(ただより 出羽・鶴岡藩主 55歳 
  10万8000石)
 任・寛延2年(1749)9月28日(46歳) 譜代席から 
西尾隠岐守忠尚(遠州・横須賀藩主 70歳 3万5000石)
 任・延享3年(1746)5月13日(58歳) 西丸老中から 
 (延享4年大御所様つき
  大御所崩御につき寛延4年(1751)から老中末座)

西丸老中
秋元但馬守凉朝(すけとも 武州・川越藩主 42歳 7万石)
 西丸若年寄から

さて、堀田家だが、徳川政治史に名を残した藩主が5人いる。
武門ではほとんど書きあげるほどのことはない。

まず、加賀守正盛(まさもり)---家光の側近くに仕え、佐倉藩11万石を領した。慶安4年(1651)、家光に殉士死。44歳。美男でもあったか。
その嫡子・上野介正信(まさのぶ)---貧している幕臣へ自領を分けてほしいと上申して無断で帰国。断絶。延宝8(1680)年、家綱の死を聞いて、配所・徳島で自裁。

正盛の三男・筑前守正俊(まさとし)---生後すぐ春日局の養子となり、幼年時代を大奥で送る。家綱の小姓となり、のち、上州・安中藩主(2万石)。さらに古河藩主(7万石)。大老(13万石)。
禄があがるにつれて、正信の奇行によって浪人せざるを得なかった家臣たちを探しては再雇用につとめたという。
貞享元年(1684)、江戸城内で若年寄・稲葉石見守正休(まさやす)に刺殺された。

_120_3その孫・相模守正亮---伊豆守正虎(まさとら)五男だが、いろいろあって出羽・山形藩主に。その時代に藩財政を立て直すなど、藩政改革才腕を示したと、『新編物語藩史 第3巻』(新人物往来社 976.3.1)の(当時・明治大学教授の)木村礎さん[佐倉藩]にある。
老中に就任後、下総・佐倉藩(10万石)。宝暦2年(1752)、佐倉宗五郎100年祭を行う。

これから一気に江戸末期へ飛ぶから、長谷川家には直接のかかわりがなくなる。

堀田備中守正篤(まさひろ 改め正睦 まさよし 下総・佐倉藩主  11万石 老中上座)
_100徳富蘇峰『近世日本国民史 堀田正睦』5巻(講談社学術文庫 1981.2.10~ )の第4巻[安政条約締結篇]の末尾に、「幕府の中心においてさえも、開国を好まぬものは、皆無ではなかった。否、真実の開国論者は、幕府当局側においてさえも、むしろ少数であった」と、少ない支持者の中での開国であったこと、また、内には「将軍継嗣問題---水戸斉昭(なりあき)の第七子・一橋慶喜(よしのぶ)の擁立派と、紀州・慶福(よしたみ)の擁立派の対立があった中でのむずかしい政局運営であったことをあげている。

_100_2また別に、佐藤雅美さん『開国 愚直の宰相・堀田正睦』(講談社文庫 1997.11.15)もある。
しかし、このブログは、家重家治家斉の時代の長谷川家まわりを書いている。
幕末はまだずっと遠い。

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2007.08.02

松平武元後の幕閣

いわゆる[田沼時代]を、何時からいつまでとみるかは、史家によっていろいろである。
老中首座・松平右近将監武元(たけちか)の没後以降とする見方も、一理ある。
武元は、享保の改革を主導した8代将軍・吉宗から後事を託されていたから、いかに田沼に構想があっても、武元の了解なしでは腕がふるえなかったとも見られるからである。
そこで、武元没後の幕閣リストをつくってみた。

青○=松平武元
赤○=田沼意次
緑○=田沼意知
黄○=松平康福 娘が意知の室

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ながめているだけで、さまざまな妄想が、雲のように湧いてきて、飽きないが、ほかの人はどうなんだろう。


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2007.07.22

幕閣

長谷川どの。行く末、田沼侯への門閥の老職衆からの反発が---といわれたが---」
藩の江戸中屋敷の主ともいえる本多紀伊守正珍(まさよし)の誘いに、
「はい。私、お仕置き(政治)の根本は、裁き(裁判)の公平と、貢租(税)の適当と愚考しております。しかし、ご公儀の収税は、大権現さま(家康)の時代からほとんど変わっていないやに思われます。もちろん、いつのご老職も税の源をあれこれお探しとはおもいますが、どなたも、新しい税源にはお手をおつけになさろうとはなさいませぬ」
長谷川平蔵宣雄(のぶお)は、ここまで言っては言いすぎになると思ったが、田沼意次(おきつぐ)に声をかけられたことが興奮の引き金になってしまったのであろうか、 安全地帯から、つい、一歩踏みだしてしまった。

「新しい税の源とは、商人かな?」
本多侯は、飛騨・郡上八幡の農民一揆の経緯にからめて老職を罷免、蟄居を命じられているが、つい半年前まで、13年間も老中職を勤めていたから、幕閣としての仕置きにも経験が深い。

「商行為も、もちろんでございます。そのほか、このごろの農家は、米よりも高値(こうじき)でさばけるものにあれこれと心をくだいております。たとえば、繭。たとえば、木綿。たとえば、水物(果物)、たとえば、青物(野菜)」
「ふむ、ふむ」
「農民たちは、大権現さまの時代同様に地方(じかた 農村)に住んではおりますが、意識は同じ農民ではございませぬ。ご公儀に対しても、言うべきは言って、自分たちの権利と利益を守ろうとしております。それが、このところの農民一揆でございましょう」
「まことに、のう」
「商業者や、農民たちから新しい税を、納得づくで収めさせる筋立て、田沼さまならおできになりましょう」
「なるほど」
「ことは、そのあとでございます。筋立ては田沼さま、そのあがりは門閥のお歴々---失言でございました。平にご容赦を---」

長谷川どのは、いま口になさったお仕置きのやりようを、どなたかにお話しなされたか?」
宣雄と同職の小十人組頭だが、家柄は上の2000石の本多采女紀品(のりただ)が口をはさむ。
「滅相(めっそう)もございませぬ。ただいまが初めてでございます。どうか、お忘れくださいますよう---」
「それであれば、他言はしませぬから、ご安堵めされよ。いや、田沼どのが遊びに参れといわれたのは、長谷川どの説をお耳になされたゆえかと推しはかったまで」

長谷川どのが、田沼侯を末おそろしい方と見立てたのは、田沼侯の身を案じてのことであったのじゃな---」
本多侯は、じっと考えこんだ。

(言い述べる順序を、我れにもなく、誤ったようだ)
宣雄は、冷や汗が背中や脇の下から流れるのを感じている。
(時代が移っているということを、知行地の上総(かずさ)・寺崎の農民たちのいまのありようから話し始めるべきであった)

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2007.07.09

大久保相模守忠隣

大久保相模守忠隣(ただちか)は、譜代の名門・七郎右衛門忠世(ただよ)の嫡男として生まれ、優れた武将であるとともに、行政能力も確かであった。
しかし、家康(いえやす)歿後、江戸の内閣へ移ってきた本多上野介正純(まさずみ)と権力争いをすることになってしまった。
忠隣は、与力として重用していた、武田からの取立て組の地方巧者・大久保長安(ながやす)の不正があばかれ、正純はそれを口実に忠隣まで類をおよぼして失脚させた。
そのやり方は、忠隣を京都へ出張させておいて、そこで告示するという姑息なやりかたであったために、忠隣への同情が残るとともに、正純への反発も強まった。

大久保忠隣の譜を『寛永諸家系図伝』から引用する。事件にもっとも近い時代の2次史料として目をとおしておきたい。

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2007.07.08

本多上野介正純

本多上野介正純(まさずみ)は、駿府で大御所・家康に仕えて、江戸政府に家康の指示を伝えていた。
元和2年(1616)、家康と父・佐渡守正信(まさのぶ)があいついで歿すると、江戸へ移って幕閣入りし、辣腕を振るった。
芸州・広島藩49万8000石の福島正則(まさのり)を無届けの城改築を口実に改易するとか、政敵とみなされていた大久保相模守忠隣(ただちか)を失脚・蟄居へ追い込むなど、その策謀はみごとなほどであった。
しかし、宇都宮藩15万5000石の増封を受けたことで逆に政敵たちの陥穽(かんせい)にはまった形となり、断家の憂き目をみた。
政敵の嫉妬を警戒して、増俸をいましめていた父・正信の遺訓にそむいた結果という歴史家もいる。
(もっとも、見方を変えると、ダーティな陰謀は実務政治家・正純へ---と振られたともいえないことはない)。

『寛永諸家系図伝』から、正純を引用する。

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2007.05.13

細川越中守宗孝の刃傷事件(2)

2007年5月12日[細川越中守宗孝の刃傷事件]に関する『徳川実紀』の記述のつづきである。

前回は、知らせを受けた月番老中・本多伯耆守正珍(まさよし 駿州・田中藩主 4万石)と若年寄・本多伊予守忠統(ただむね 勢州・神戸藩主 1万5000石)が事件の知らせをうけて急ぎ登城、あと処置にとりかかったところまでを引いた。

【また、永井伊賀守直陳御使者奉りて、宗孝が家にまかり、御たづねの仰をつたえぬ。次の日掘田相模守正亮またその邸にまかり、さきに弟民部をかわりの養子に聞えあげ置たれば、かつて継嗣の事は心安かるべければ、しづかに手きず養べしと、いとねんごろなる特旨をつたふ。】

永井伊賀守直陳(なおのぶ 奏者番 武州・岩槻藩主 3万2000石)が将軍の代理として、大名小路にある細川越中守宗孝(むねたか 肥州・熊本藩主 54万石)の上屋敷へ、見舞いの使者に立った。
翌日には、老中の掘田相模守正亮(まさすけ 下総・佐倉藩主 10万石)が細川屋敷をおとない、継嗣のことは、さきに仮の養子として2歳違いの弟・重賢(しげかた)との届けがでいるから、安心して、心置きなく養生にはげまれたいと述べた。
(注:重傷の宗孝は32歳。室は紀伊大納言宗貞卿の息女だが、まだ子がなかったらしい。国持ち大名は、参勤交で帰国のさい、まさかのときの世継ぎの名を書いた奉書を幕府に差し出し、上府すると戻してもらうしきたりになっていたという。そのしきたりに準じての継嗣なのか、あるいは別段で届けていたのかは不明)。

【(世に伝ふる所は、板倉修理勝該、日ごろ狂癇の疾ありて、家をおさむべきものならねば、宗家の佐渡守勝のはからひにて、勝該を致仕せしめ、勝清の庶子もて家つがせんとをきてしを、勝該聞付て、はじめこの事はかりしをのが家人をころさんとせしかば、其家人はではしりぬ。よて勝清ひそかに勝該を家にこもらせおきしが、勝該はとかくいひこしらへてけふ出仕し、勝清を御所のうちにて、一太刀にきりすてんとおもひもうけしが、細川越中守宗孝が家の紋の似かよひたるにまどひて心みだれ、かつ、見たがひて殺害せしといふ。これしかしながら、修理狂気のいたす所にて、害せし後も、すずろ言のみいひさせぎしとぞ。)】

(いろいろ調べていくと、板倉修理勝該(かつかね 35歳? 6000石 寄合)は、日ごろから奇矯な言動があり、一家の主人としては不適当ということで、板倉一門の宗家で側用人・佐渡守勝清(かつきよ 上州・安中藩主 2万石)は、勝該を致仕・隠居させ、自分の5人の男子のうちから家督を継がせるべく相談に乗っていた。
そのことを知った勝該は、家人(妻は建部丹波守政民の女。ただし妻とはかぎらず、用人ということも考えられる)を斬ろうしたが、家人は姿をくらませた。
このことがあって、佐渡守勝清は、勝該を屋敷内に閉じこめておくように指示したが、なんのかのと理由をつけて登城し、江戸城内で勝清をねらっていたが、たまたま、紋が似ている細川越中守宗孝を見誤って斬りつけてしまった。
取りおさえられたあとにいうことも意味をなさず、これはもう、狂気の沙汰としかいいようがない)

付記:板倉修理勝該は、預けられていた水野大監物忠辰(ただとき 岡崎藩主 5万石)の屋敷で同月26日に切腹、家は改易となった。

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2007.05.12

細川越中守宗孝(むねたか)の刃傷事件

2007年5月11日[本多伯耆守正珍のエピソード]に、江戸城内での本多伯耆守正珍(まさよし)のエピソードを、  『現代語訳 田中藩史譚』 から引いた。

延享4年(1747)8月15日のこの事件は、 『徳川実紀』にもうすこし詳しく記載されており、『現代語訳 田中藩史譚』といささかニュアンスが異なる。
本多伯耆守正珍の性格にもかかわることなので、長めだが、引用してみる。

【○十五日 月なみの拝賀なれば群臣出仕す。然るに細川越中守宗孝もおなじくまうのぼりしが、辰のときばかりに、大広間のかはやのもとにいたりしに、うしろよりなにものともしれず、差添もてきりつけたり。】

Photo_355将軍(家重)への定例のご拝賀の日にあたっていたので、諸大名や重臣たちが登城していた。
午前8時すぎであったろうか、細川越中守宗孝(むねたか 熊本藩主 32歳 54万石)もそのなかの一人として、大広間・北の落縁にある厠(かわや)のあたりを歩いていると、何者かが背後から差添で斬りかかって、何箇所も傷をおわせた(左は細川家の九曜紋)。

【朝会の輩擾騒してその事聞えしかば、上直のくすしをはじめ、朝参せし医どもまでめしあつめられ、療治せしめらる。】

朝会に参列の諸侯が「医師ッ 医師ッはおらぬか」と騒ぎたてので、宿直の医師をはすじめ、登城してきていた医師たちが治療に当たった。

【さて、宗孝をあやめし者をたづね出さんとて、目付等ここかしこもとめしに、さらにたづね得ず。よて、玄関のまゐら戸をとざし、諸門を打たせて出入りを禁ず】

宗孝に傷をおわせた犯人を、目付があちこち探がしたが、見つからない。そこで、玄関への戸を閉ざし諸門も扉をと閉めさせた。

【かかる内に宗孝いたてゆえ、元気よはりければ、ことに奥医武田叔庵信郷、おなじく外科西玄哲規弘に療治の事仰下りて、葠湯をたまひ、、湯漬の飯を下され、かれが家人二人を殿中にめして看侍せしめらる。】

数箇所におよぶ宗孝の傷はかなり重傷でだいぶんに弱ってきた。奥医・武田叔庵信郷と外科医・西玄哲規弘に手当てを仰せられ、葠湯と湯飯を下された。御殿の外に控えていた藩中の供の者のなかから、2人を特別に殿中に呼んで看護させた。

【やがて、大広間の厠の中に、何ものともしれず、ひそみ居けるものありしかば、尋よりてこれを見るに、寄合板倉修理勝該なり。目付等事のさまとひきはめしに宗孝をあやめしよしをこたちへたれど、そぞろごといひて、失心のさまなれば、蘇鉄の間のかたにとらへ置、網をかけたる轎にのせて水野大監物忠辰にめしあずけらる・】

そうこうしているうちに、大広間の厠にひそんでいた寄合・板倉修理勝該(かつかね 6000石 35歳?)が見つかった。目付たちがいろいろ尋問したが、越中守宗孝に斬りつけたことは認めたが、あとは失心でもしたかのようにしどろもどろなので、蘇鉄の間に引きこんで、網をかけた轎(竹かご)に押しこんで、水野大監物忠辰(ただとき 岡崎藩主 5万石)に預けられた。

【この事、宗孝が家士に告しめられんとて、中らひある織田山城守信旧に命じてかの邸へいたらしむ。さて、宗孝を、殿中まで轎かき入。家におくりかへさせ給ふ。このとき宿老いまだのぼらざるまへなれば、よろづの事、御側まの輩御旨をうけ給はりて事はからひしとぞ。本多伯耆守正珍、少老本多伊予守忠統は直月なれば、此事により速に出仕し、それよりの事どもはからひしなり。】

事件の成り行きを熊本藩に告げるべく、内室が細川家の姫という縁筋の織田山城守信旧(のぶひさ 柏原藩主 2万石)がさしつかわされた。轎を殿中まで運び入れて重傷の宗孝を乗せておくった。
このときまで月番老中・本多伯耆守正珍と若年寄・本多伊予守忠統(ただむね 伊勢神戸藩主 1万5000石)はただちに登城、あとのことにあたった。

付記:細川越中守宗孝は、手当ての甲斐もむなしく、翌16日に息を引き取った(『現代語訳 田中藩史譚』は17日としている)。
Photo_357犯人・板倉修理勝該は、自分を廃嫡にしようとした本流・板倉板倉周防守勝清(かつきよ 安中藩主 2万石)の板倉巴紋と細川宗孝の九曜紋を見間違えての刃傷だったというが、よほど目が悪かったか、殿中が薄暗かったか。

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2007.05.11

本多伯耆守正珍のエピソード

2007年5月7日本多伯耆守正珍(まさよし)で、静岡県立中央図書館に、この老中の性格を類推する史料が少なすぎた---と嘆いた。

この日の午後、SBS(静岡放送)学苑パルシェで4年来ともに学んでいる[鬼平]クラス安池さんに、ついでがあったら田中藩があった藤枝市図書館か、藤枝資料館をあたってほしい---と依頼しておいた。

中央図書館で『現代語訳 田中藩史譚』まで辿りつきながら、時間がなくて見逃した、つぎのようなエピソードが、安池さんからメールされてきた。

談叢第一(藩主略伝
第七世 克亨公(正珍)(まさよし)

板倉修理の江戸城中刃傷事件

延享3年(1746)正珍公は老中を拝命した。
延享4年8月は公が月番に当たっていたが、その月の15日、江戸城で細川越中守宗孝に斬りつけた者が居り、城内は大騒ぎとなった。

これより先、板倉修理は本家の板倉周防守勝清を恨み、ここ幾年か仕返しの時機をねらっていた。

たまたま城中で細川越中守の九曜の紋所を遠くから見て、それを板倉家の九つ巴と勘違いして、その衣装を着た越中守を背後から斬った。

正珍公はその時、登城の途中で、人々が大騒ぎしているのに出会(でくわ)して、心中、何事かと怪しんだ。
城門にさしかかると、騒ぎはますますひどくなった。目付の役人が慌ただしく公を迎えて城中の事件を伝えた。
ついで、大目付もまた出迎えた。

公は静かにうなづき、諸門の閉鎖を命じ、事の次第を問いただして、真相を了解すると、直ちに門外の者に対して、「細川越中守を傷つけた者は旗本の板倉修理である。」と告げたので、人々の心はやっと静まった。

石竹の水かけ
公は石竹を好んだ。ある夏、永いこと雨が降らなかったので、渋川貞蔵に水をかけるように命じた。彼は袴の股立ちを取り、水を入れた桶を一荷担いで来て、桶を傾けて、ざんぶり水をかけたので、石竹はそれに耐えられず、地面に倒れてしまった。公は後に、
「いやしくも武士たる者に、こんな事をさせたのは不覚の至りであった。」
と言って笑った。

孝心
公は至って孝心に厚く、老中を退いてからは、自ら質素倹約につとめ、飲食服飾をきりつめたが、母君には不自由な思いをさせぬよう、手厚くいたわった。

慈悲心
公は寛大で慈悲深く、罪人に対する刑さえ執行するに忍びないというところがあった。死刑該当者があっても、もし母君が命乞いをすれば、寛大な処置をしたという。

二葉町での老後
公は老後を二葉町の邸で過ごした。田中からやって来てご機嫌伺いをする者があれば、その家柄にはお構いなく、裏の庭園を自由に見物させ、彼等の喜ぶ様子を見ては楽しんだという。

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(注:田中藩の芝二葉町の中屋敷は安永(1780)まで、土橋の西突き当たり---近江屋板切絵図・赤○の西にあったが、近江・大溝藩(分部若狭守 2万石)上屋敷に収公され、赤坂三河台へ移転。
正珍は隠棲しても駿河へ帰国しなかったのは、諸侯との交遊もあったためか)。

談叢第二(藩士略伝)

丹波長喬(ながたか)
丹波平治兵衛長喬は克亨公の守(もり)役となり、彼の仕法によって輔導をした。
公は学問を好み厳しい日課を設けて勉励した。
母の広寿院は勉強の度が過ぎると心配し、文をしたためて時には休養もせよと勧めたが公は従わなかった。
寛保2年(1742)6月長喬が病に伏すと、公は彼をいたわり、自ら薬まで煎じてやるほどであったが、そのかいなく病状は悪化した。長喬は再起不能を知ると、薬を断って程なく没した。

公は後に老中を拝命した時「自分がこのような大任をかたじけなくしたのはひとえに彼の教導の賜である。」と言い、急いで駕籠を用意させ、その墓所に詣でて供養をした。以後彼の命日にはいつも遺族に贈り物をし、その後、浅草徳本寺の本多家先祖の墓地のある所に改葬した。

これだけの史料が入手できたのだから、、本多正珍の性格は、ある程度、類推できようというもの。江戸城・菊の間で跡目相続の許しを伝えられた平蔵宣雄へも、予想どおり、案外、気軽に声をかけたかも。

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2007.05.07

本多伯耆守正珍(まさよし)

2007年5月某日、朝、8時6分東京駅発〔ひかり〕で、静岡県立中央図書館へ史料を探しに行く。
この列車だと、静岡駅から草薙駅へ引き返し、バス。9時から開館している図書館へ、ちょうどいいのだ。

目的は、本多三弥左衛門正重(まさしげ)からははじまった本多家は、6代目・正矩(まさのり)のときに、駿州・益津の田中藩(現・藤枝市)に移封。

次の7代目藩主が、老中をつとめた伯耆守正珍(まさよし)である。
長谷川家の7代目を養子相続をした平蔵宣雄(のぶお)との初接触は、2007年5月1日[宣雄、異例の出世]の項に記した。

宣雄との接触度を類推するために、さらに、正珍の人柄の手がかりを知りたくなった。

正珍が礼式にくわしいことは『寛政譜』からも読みとれる。
郡上八幡の藩主・金森頼錦(よりかね)に対する一揆の処置をめぐって、老中を辞めさせられた経過は、大石慎三郎さん『田沼意次の時代』(岩波現代文庫 2001.6.15)にくわしい。 鷹揚すぎるところもあったようだ。
38年の長期間、田中藩主であった。そのあいだに、 『寛政譜』のような公式記録には記録されるべくもない、一人の人間として、いろん面を見せているはず。

正珍の人柄の記録を読むには、静岡県立中央図書館にしくはないと、断じたのである。

150_7館の係に希望を申し出たが、初めて受けた相談らしく、PCで検索---ったって、google みたいに史料の内容まで入力しているわけではないから、書名であたりをつけるだけ。
『藤枝市史』は手持ちしているから、不要と告げる。

非開架式の奥の部屋から取り出してきたのが、ガリ版刷を製本した『田中城 本多御系図御家譜大略 解字』
坂野徳治という市井の研究家のご苦労の作だが、「正珍公御条目御定書(おさだめがき)」の部分だけコピー。
多分、幕府が各藩へ示したものの写しだ。

130_16さらに奥から出されたのが池谷盈進さん『現代語訳 田中藩史譚』(1994刊)。
「子の正珍公が立つ。人に情け深く、親に孝行で人材を大切にした---うんぬん」
うーん、これって、誰にでもあてはめられる形容だなあ。

「従五位に叙され紀伊守に任ぜられる」
これも、宣雄との会話の一つにはなりそうな---長谷川平蔵家の祖・正長は、今川の田中城主時代、紀伊守(きのかみ)を称し、武田信玄軍勢の猛攻にあい、一族と徳川へ走っている。

「元文2年(1737)奏者番(そうじゃぱん)となり、4年寺社奉行を兼ね、延享2年(1745)天下の朱印状を審訂し、3年(1745)老中を拝命し---」老中就任は36歳---政治的なやり手でもあったのだ。
しかし、この記述は『寛政譜』を写しているだけとみる。

けっきょく、これ以上の史料は見つからなかった。
あとは、藤枝市資料館へ問い合わすしかなさそう。
家臣のエッセイがあるはずなんだが、幕末に安房国長尾へ移封されているから、資料もそっちにあるのかもしれない。

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2006.11.25

勘定奉行・川井久敬(ひさたか)

昨日(11月24日)の[田沼意次の4重要政策(その2)]で、通貨の一元化を目指して「明和五匁銀」(明和2年(1765)年9月発行)と「南錂ニ朱判」(安永元年(1772)9月発行)を発案したのは、勘定奉行の川井次郎兵衛(のち越前守)久敬(ひさたか)---と、畏友・I君が推定しているとした。

彼は、勝手掛で首席老中の松平右近将監武元(たけちか)の下で、勘定奉行として逼迫した幕府の財政を立て直すために、向こう5年間の倹約令も草案したとおもえる。

100_5 辻 善之助さん『田沼時代』(岩波文庫 1980.3.17)は、こんな落書「懸け・とき」を収録している。

 右近と懸(かけ)て 洗濯やととく 意ハ しぼりてほし上る
 
 田沼と懸て みそすりととく 意ハ ひとりかきまわす

 川井と懸て まま母ととく 意ハ めったにつめる

 牧野とかけて 気じょうな痔持ちととく 意ハ 下の痛みにかまわぬ
 (以下略)
 
右近は、老中首席の松平武元、田沼は老中兼御側用人の田沼意次、牧野は備後守貞長(常陸・笠間藩主)。

『田沼時代』は、1915年(大正4)に日本学術普及会から刊行されたのが最初である。
当時の学会の田沼認識を反映して、賄賂、腐敗政治を糾弾する色合いが強いが、引用した資料の信用性がきわめて薄いことは、これまでもこのブログで紹介したように大石慎三郎さん[田沼意次の時代]が仔細に衝いている。

もっとも、上に引用した「懸け・とき」などは、警鐘めかしておもしろおかしく皮肉る人種がいつの時代にも存在することをしめしているに過ぎないが。

わざわざ掲げたのは、川井久敬が3番目に槍玉にあげられるほど、当時、知名度が高い存在だったらしいことを示したかったから。

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2006.11.18

松平武元(たけちか)と『続三王外記』

『日本人名大事典 6』(平凡社 1938.10.31)の、松平右近将監武元(たけちか)の記述。

 マツダイラタケモト 松平武元(1716-1779) 上野館林藩主。
 水戸の庶流松平播磨守頼明の三男、享保元年(1716)を以て生
 れ、幼名丹下、また源之進といひ、
 同13年(1727)上野館林城主松平肥前守武雅の養子となる。

 この年雁間詰となり、陸奥棚倉城(今の磐城棚倉町)に移る。
 同14年(1728)従五位下右近将監に叙任し、
 延享元年(1744)5月寺社奉行となる。
 
 2年(1745)9月将軍吉宗隠居して職を子家重に譲るに及び、特に
 命じて家重を補佐せしめ、
 3年(1746---注・長谷川銕三郎誕生)5月老中に擢でられ、
 4年(1747)9月再び館林城主となる。

 宝暦10年(1960)家重の将軍職を家治に譲るや、国務に就きて及
 ぶ限り補佐すべしとの命あり。

 武元、資性忠謙謹恪、老中の職にあること38年に及ぶも、禄を増
 すこと僅に7000石に過ぎず。
 田沼意次の如きもこれに憚りてその私を恣にすることを得なかった
 が、武元歿するにおよびて遂に政権を弄するに至ったといはれる。
 
 毎に曰く、「諺にいふ男子一たび閾(しきい)を踰ゆれば7人の敵あ
 りとは、蓋し我が身に具する7欲の謂であらう」とて、その機を慎む
 の意より、毎朝儒臣をして『論語』一章づつを進講せしめて登城した
 といふ。
 されば領民その徳に服すと称したといふ。

 安永8年(1779)7月25日歿す。年64。
 (美作鶴田松平家譜寛政重修諸家譜)

この項の担当者は、『続三王外記』を参照したに違いない。同書は、武元の祐筆だった石井蠡(れい)が述したものだから、武元寄りでまるごとは信じがたい---と批判したのが故・大石慎三郎さん[田沼意次に関する従来の資料の信憑性について](『日本歴史』第237号)。

大石先生の田沼擁護研究は、このころから始まっていたらしい。   

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2006.07.01

武士には重罰を

「縁は遠いのですが、一族と申して頼られてきたのでは一概に断ることもできかねまして……」
きり出したのは、鉄砲(つつ)・16番手組頭の佐野豊前守政親(1100石)だ。

寛政2年(1790)。8月に組頭に発令された政親の就任祝いの席であいさつを交わしたときから、長谷川平蔵は15歳年長のこの仁に親しみを感じていた。

Yugeta

政親には、20年前に200俵の旗本・弓削多(ゆげた)甚左衛門の後妻にはいった従妹(いとこ)がいた。
(←弓削多家の家紋)

弓削多家の家来・小山隼人が供をして西の丸へあがったとき、あろうことか、納戸部屋へしのびこんでつづらから衣類を盗みだし、1分(1両の4分の1)で質入れしたのだ。

質屋からの通報でご用となった隼人を、弓削多家は即刻に罷免、彼は無宿人に転落した。

「従妹が申しますには、甚左衛門は72歳ながら近く留守居役の内意もたまわっているとか。家来の不始末は昇進にさしつかえるゆえ、なにぶんの配慮がいただけないものか…と」
「身内の女どものいい分には、お互い手を焼きますな」
平蔵は笑って承知し、1両にもおよばない盗みのゆえ、入墨(いれずみ)とたたきの上で宿主へ引き渡しでよろしいか、と幕府の評定所へ伺った。

評定所からくだされた裁決は「死罪」。

理由は、道理もわきまえない市井人が1分程度の盗みをしたのであれば、伺いどおりの入墨とたたきでよいが、被告はかりにも両刀を帯している武士である。庶民の鑑(かがみ)とならねばならない存在なのに、城内で盗みをしたのは言語道断である。町人百姓よりとうぜん重く罰されるべきで、よって切腹。

江戸時代の武士は、人口のほんのひと握りの数でしかなかったが、人びとの上に立つ者としてきびしく裁かれたのだ。

国家公務員や地方公務員の不祥事にまつわる処分が甘すぎると、国民の多くがいきどおりをおぼえる。
税金から報酬を得ている公務員は、年貢から扶持を得ていた武士に匹敵するともいえようか。
その武士への罰は重かった。着物の2,3枚の盗みで武士だと死罪を申しわたされたのだ。

「豊前どの。お力になれなくて面目ない。したが、評定所のいう、武士の刑量は町人百姓より数倍重く---との建て前もうなずけます。まあ、武士が町人百姓の範となるような行動をいつもとっているか、公儀がいつも武士をきびしく裁いているかと問われると、忸怩(じくじ)たるものがありますが……」

「長谷川どの。いただいたおこころづかいのほどは十分に身にしみております。従妹も老妻といわれるほどの齢になっているのにせんないことを頼んできたものです。この上は、どうか、ご放念くださるよう」

甚左衛門はつつがなく、留守居役へ昇進した。

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2006.06.30

美質だけを見る

本コラムに登場させる幕臣でもっとも愛着を感じているのは、平蔵の同僚で、鉄砲組16番手の組頭・佐野豊前守政親(1100石)だ。

Sanokanon

経歴は堺町奉行や大坂町奉行を経ており平蔵の先輩で、15歳年長なのに、火盗改メ・助役(すけやく)という立場を忘れず、謙虚に教えを乞う姿勢をとった。
(←佐野家の表家紋 丸に剣木瓜)

欧米流パフォーマンスとかで、「おれが、おれが……」と自分を売りこむのが今日風と思われている。平蔵にもその嫌いがあった。だから同僚たちが敬遠しもした。

この国には、「能あるタカは爪を隠す」といって佐野豊前式のひかえ目を美徳とする暗黙の評価基準がある。
人望は、どちらかといえば平蔵流より豊前守式のほうへあつまる。

平蔵と豊前守は性格がまるで対照的なのにもかかわらず互いに敬意をもって親交をつづけえたのは、人を見るときは美質だけ、との豊前守の信条によるところが大きい。

豊前守の組の者が神田の岡っ引きの勘太を捕らえた。長谷川組の同心たちが所轄ちがいの所業といきまくのを、平蔵は「豊前どののやりようを学ぶよい機会(おり)だわ」ととりあわない。所轄ちがい---火盗改メ・本役の所轄は日本橋から北、助役は日本橋の南を担当、と決まっており、神田は本役の管轄内。

長年岡っ引きをやっていた勘太は、商店をむしった金で米屋株を買ったり、素行の悪い男たちを中間として番所や見付へ入れるなどの悪評が立っていた。平蔵もいずれ引っ捕らえるつもりだった。

佐野組はまず、中間の1を博奕の現行犯で捕らえ、その身元引受人というふれこみで勘太が偽の名主や大家をこしらえて出頭してきたところを入牢させてしまった。

「あれで終わらせるような豊前どのではあるまい」
平蔵が与力同心たちへいった3とたたないうちに、佐野組は勘太を放免した。

(うちのお頭も焼きがまわったか)組下たちがささやいたとき、佐野組は中間に化けてあちこちの見付へもぐりこんでいる盗賊たちを引きたてはじめた。勘太の密告(さし)だった。
「かの仁の悪(わる)の使いようは、おれ以上よ」と笑う平蔵から、長谷川組配下の者たちは敬意のささげ方をおぼえた。

ここで佐野豊前守のもう一つの顔を紹介しておきたい。
天明4年(1784)春、殿中で若年寄・田沼山城守意知に斬りつけた佐野善左衛門(500石)は、切腹を申しつけられて家は断絶。
人びとは彼を「世なおし善左衛門」とほめそやして墓前に紫煙がたえなかった。
本家すじの豊前守は大伯父にあたる。

善左衛門のことはほとんど話題にしない豊前守だったが、平蔵には洩らした。
「あの者は、とり柄の正義感が強すぎたがために扇動に乗りやす質(たち)で、父親が50をすぎてからの子なので諸事甘く育てられました。産んだのは美人自慢の、自分が中心になりたがる芸者……それを継いでいたのを反田沼派にたくみに利用され……」

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