カテゴリー「010長谷川家の祖」の記事

2009.06.02

銕三郎、先祖がえり (4)

司馬遼太郎さん『箱根の坂』(講談社文庫 1987.4.15 新装版2004.6.15)には、伊勢新九郎(のちの北条早雲)が、伊勢の津へあらわれる場面が描かれている。

伊勢の国は、その西方はながい海岸線となって伊勢湾にのぞんでいる。
「津(つ)」
といえば、古くから唐船までがここに入港するという名津(めいしん)で、市中に豪商富民多く、国司北畠氏の侍屋敷と混在し、さらには大きな人工による需要を需要をまかなうための鍛冶(かじ)や弓矢の工人の家も多い。
この港まち津は、ふるくは安津野とか安濃の津などとよばれたが、いつのほどか単に津とよばれるようになった。戸数は二千戸ほどもあるであろう。
---これはたいそうな賑(にぎ)わいじゃ。
と、物の反応のにぶい荒木兵庫でさえおどろいてしまった。(略)

それらの物資をあつかう交易業者がこの津にあつまり、利を積んで巨富をなすのは当然であるといっていい。
「駿河の小川(こがわ)の長者(法栄 ほうえい)もこの津に蔵をもっていて、手代(てだい)を置いているのだ
と、早雲はいった。
「今夜は、そこへとまる」(中巻 p18 新装版p20)

書いている小説に関連する膨大な量の史料を買いこみ、それらに片っぱしから目をとおして必要なものだけを残す司馬さんのこと、長谷川家の祖の一人・法栄長者に鳥羽出張支店があったことは、なにがしかの史料でみつけられたに相違ない。

史料にあるほどなら、長谷川本家か大身になっている納戸町の支家に伝わっていよう。
そのことを銕三郎(てつさぶろう 23歳)も耳にいれていたとおもう。

(法栄長者どのは、いま、京の呉服屋で、日本橋本町あたりに江戸店を出してい〔越後屋〕とか、大伝馬町の呉服太物の〔大丸屋〕ほどの勢いのある交易をされていたのだろうなあ。同じ長谷川家に生まれるのであれば、そのころ、法栄どの甥っ子に生まれていれば、明国へも往還したであろう)
銕三郎は、前で蒲焼をついばんでいる茶問屋〔万屋〕源右衛門をうかがいながら、ひとり空想していた。

参照】2007年4月13日[寛政重修l諸家譜] (

箸を置いた源右衛門が、ふと思いついたように、
井関さんの腕はあがりましたか?」
録之助(ろくのすけ 22歳)は、まもなく、免許をゆるされます」
「ほう。それは、めでたい」
「お店(たな)のほうに、用心棒でもご入用なんですか?」
「いいえ---」

〔万屋〕源右衛門の返事は、意外にもみみっちい計算づくのものであった。
町内の大店(おおだな)に組みする店は用心棒の浪人をやとっているが、聞いてみると、手当てはたいてい月1両1分(約20万円)、それに食費や晩酌2合が月2分2朱(約10万円)---これだけで年に24両(320万円)の費(つい)えになる。
それだったら、盗賊へのご苦労賃(200両)を渡してお引きとりいただいたほうが安あがりである---という勘定になると。

その上、赤の他人に家の中をみられてしまう。
娘姉妹がいる大店なら、その中の一人が傷ものにされるかもしれない。
だいたい、他人が一つ屋根の下にいるというのが嫌なんです。

「分かりました。〔万屋〕さんに押しこむ盗人が、200両で素直に引きあげてくれることを、日枝(ひえ 神社)さんにでも祈っておきましょう」
日本橋から南は、日枝神社の氏子で、北は神田明神。

銕三郎は、
(商売人というのも、法栄どののようにおおらかなこころがけの者ばかりとはかぎらないようだな。 ま、人の器(うつわ)は侍だって、大・中・小と、それぞれだから---)
それでも、今日の場合、いささか幻滅を感じた。


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2009.06.01

銕三郎、先祖がえり (3)

長谷川の若さま。こんどは、手前のほうから、お教えをいただきとうございます」
茶問屋〔万屋〕の主(あるじ)・源右衛門(げんえもん 50歳)がきりだした。

蒲焼をつついていた銕三郎(てつさぶろう 26歳)は箸をおき、笑顔の源右衛門を眸(み)た。
顔は笑みをたたえているが、目は真剣というか、もっとおもいつめている。
「なんでしょう?」

「茶葉の売り上げを増す妙法は、ございましょうか?」
「売り上げを増さねばならない、さしあたっての事情でもあるのですか?」
「さしあたってのことではございません。仕入れている茶園のほうから、畑をどのような割合でひろげていいか、と訊かれておりまして、な」

考えるふりをしながら、
(『孫子』にいわく。敵の情を知らざる者は、不仁(ふじん 職務に不忠実)の至りなり、とあるのは、このことだな)
口をひらいた。
「〔万屋〕どの。ご商売(なりわい)の、いちばんの障(さわ)りなっているものは、なんですかな?」

「もっとも大きいのは、ずっとむかしにだされた、農家は茶をひかえるようにとのお触れが、いまだに取り消されておりません。
100年以上もたったいまとなってみれば、あってなきがごときお触れですが、後生大事に守っている在所がございます。あれを、ご公儀がお取り消しくだされば---」
「といって、江戸の朱線引きの内側では、農家はほとんど残っていまいに---」
「長谷川さま。そうではないのです。〔万屋〕は、関東一円はおろか、陸奥のほうにまで卸しております」
「それは失礼した。わかった。こんど、田沼さまにお会いしたら、お触れ用ずみのことを話してもいい」
長谷川さまは、ご執政格の田沼さまとお親しいのでございますか?」
「ときどき、下屋敷のほうへ、お招きいただいています」
「それは重畳。田沼さまのご領内の相良あたり(現・静岡県牧之原市)も、茶葉の産地の一つでございます」

これは、1ヶ月ほど先の話だが---・
茶問屋の組合から、田沼主殿頭意次(おきつぐ 53歳)の用人・三浦庄司(しょうじ)のもとへ、さっそくに音物(いんもつ)がとどけられた。

三浦用人から呼び出しがあり、神田橋内の役宅へ銕三郎が出向くと、
長谷川どのの口利きといい、茶問屋の十組(とくみ)の者が陳情にきたが、まこと、銕三郎どのにかかわりのあることかな?」
「まちがいありませぬ。すでに使命を果たしおえているお定書(さだめがき)だかお触書(ふれがき)だかは、早くお取り消しになりませぬと、しもじもが混乱いたしましょう」
「きついことをおっしゃる。じつはな、お耳になされた殿も、笑っておられた。いまの宿老のご領内で茶葉を勧業しているのはうちの殿だけなので、なんとも面映いと仰せられたが、お取り計らいになりました。殿が申されておりましたぞ。さすが、平蔵組頭(宣雄 のぶお 53歳)どののご継嗣だけあり、町方のことがよう分かってござると。はっ、ははは」

【参照】2007年12月19日[平蔵の五分(ごぶ)目紙] () () (

茶問屋十組からは、銕三郎にお礼の志として、〔万屋〕源右衛門と年番(世話役)が、10両(約160万円)を持参したが、銕三郎は受けとらなかった。

安房行きの旅銀が半分以上のこったし、川越藩からも薄謝がきていた。
こちらは、ありがたく受けた。
幕府に知られてもどうということもない金だったからである。


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2009.05.31

銕三郎、先祖がえり(2)

儒学の〔学而塾〕の帰り、おもいつき、日本橋室町の茶問屋〔万屋〕まで足をのばした銕三郎(てつさぶろう 26歳)を認めた源右衛門(げんえもん 50歳)は、
「これは、長谷川さまの若さま。辰坊(たつぞう 2歳)さまは、そろそろ、あんよでございますか?」
「まだ、這い這いですよ」
「失礼いたしました。ところで、わざのお出ましは、鶴吉(つるきち 10歳)になにかおきたのでございましょうか?」
店の者をはばかって、急に声をひそめた。

源右衛門が女中のおみつ(19歳=当時)iに産ませた鶴吉は、北本所の寮で、乳母のお(もと 35歳)と暮らしている。
その用心棒として雇われた井関録之助(ろくのすけ 22歳)が、おとできてしまった経緯(いきさつ)は、すでに述べてある。

参照】2008年8月22日~[若き日の井関禄之助] (1) (2) (3) (4) (5

「いや。鶴坊はあいかわらずいたずらざかりです。源右衛門どの、小半刻(こはんとき 30分)ばかり、店を空けれられますか?」
そう誘われるのを待っていたといわんばかりの源右衛門は、銕三郎を近くの浮世小路の蒲焼・〔大坂屋〕の小部屋へみちびいた。

銕三郎は、親類から[ご先祖がえ]と笑われていること、先祖の一人が駿河の小川(こがわ)村(現・静岡県焼津市小川)で製塩や明国との交易をしていた武士であったことを話し、
「商(あはな)いについて、いくつかご指南いただきたいのです」
「どんなことでございましょう?」
「商い人(びと)で、もっとも大切なことというと---?}」
「一に信用、二に信用、三、四がなくて、五に利でしょうか」

「その信用をきずくのは?」
「約束をたがえないこと、虚言しないこと、相手の利を冒さないこと---。虚言のうちには、品物をごまかさないことも入ります。いま、長谷川さまは、ご先祖が駿河の小川と申されましたが、あの近辺で産する茶葉を、伏見ものといつわって高く売るものも同業者のなかにおります。それをつづけておりますと、いつか、信用をなくしてしまいます」

「信用の大切さは、武士もおなじです。利は?}
「お武家さまと商人(あきんど)の違いは、利についての受けとめ方でございましょう。お武家さまは、お上がくださるものをおいただきになっておればよろしゅうございますが、商人はそうは参りません。利を得なければ、商売がまわっていきません」
「利は、売り値から生ずる?」
「いえ。利のもとは仕入れにありといわれております。売り値は、仕入れ値に諸掛かりの一切---使用人の手当て・食費から家賃・倉敷き料、金利、火事にあったときの建て替えの引き当て---引き当てといえば売り掛けがままならなくなったときの貸しだおれも入ります、同業者との付き合いの飲み食い代、店の奥の生活費に、少しばかりの利をのせたものが売り値となります」
「本所の隠居所の掛かりも、井関録之助(ろくのすけ 22歳)の用心棒料もそこにはいって入っているのだな。はっ、ははは」

「それは、仕入れ値の何倍ですか?」
「扱っているものの種類によって異なるとおもいますが、仕入れ値とどっこいどっこいか、すこし上とみていいのではないでしょうか」
「なるほど。ところで、〔万屋〕どののところの、産地からの茶葉の送料は?」
「産地との取り決めで、産地持ちのところと、手前ども持ちとがあります」
「その荷送りの船賃は、風体(ふうたい)ですか、重さですか?」
「そう、風体のことが多いとおもいます」

「いや、お訊きしたのは、風体であれば、抑えに抑えれば、小さくなる---」
「圧すれば圧するほど、茶葉が傷んで、売り値がさがります」
「これは、素人考えでした」

「お武家の長谷川さまが、なぜに茶葉の風体のことまで?」
「いや。小川のご先祖は法栄(ほうえい)どのと申されるのだが、明国から茶葉を仕入れていたかもしれないので。なにしろ、江戸が開かれる100年も前のことで、駿河国や伏見あたりでは、茶樹はそれほどなかったろうとおもいましてな」
「いまは、交易は長崎にかぎられており、唐物屋さんが大きな利を得ておられます」

「もう一つ。出た利はどのように?}
「ここだけの話にかぎらせていただきます。諸掛かりを差し引いた売り上げのほとんどは、仕入れにわします。他店(よそ)よりもいい品をまわしてもらうためには、産地へ手付けのように前払いします」
「それでも、手元に残った利は?」
「寺へ貸して高利にまわしてもらいます」
「そんな寺があるのですな」
「寺がやるとはかぎりません。座頭金(ざとうがね)にまわるのでしょう」

「すると、盗賊が〔万屋〕さんを襲っても、現金はほとんどないということかな?」
「そのことなら、引き当て金として、つねに200両ほど、用意しております。盗人さんは手ぶらでは帰ってはくれますまい。手みやげをわたさないと、自棄(やけ)をおこして殺傷されてもつまりません」
(このことをお(りょう 31歳)が聞いたら、智者の慮(りょ かんがえ)は、必ず利害(利得と損害)を交える---というだろうなあ)

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2009.05.30

銕三郎、先祖がえり

(てつ)が先祖がえりしていると、本家の太郎兵衛正直 まさなお 61歳)どのが笑っておられたぞ」
父・平蔵宣雄(のぶお 53歳)に冷やかされた。

「なにをもって、本家(ほんけ)がえりと---?」
「これ。本卦(ほんけ)がえりとは、干支(えと)が一巡(ひとめぐ)りして60歳になったときを言うのだ」
「あ、そちらのほうの本卦がえりは、まだ、34年先でした」
「60歳まで、生きておられたら、な」
宣雄は、いい齢をして、本卦と本家の区別もつかないとは、困った嫡男だといわんぱかりの眸(め)で、銕三郎(てつさぶろう 27歳)を眺めた。

銕三郎のおもいは違う。
(父上、60歳までもお生きになり、本卦がえりをお祝いさせてください)
ただし、口にはださなかった。
言葉にしてしまうと、神仏がお怒りになるとおもったからである。

本家の長谷川太郎兵衛正直(1450石 先手・弓の7番手組頭)の揶揄(やゆ)で思いあたるのは、先夕、表1番町新道の屋敷を訪ね、
長谷川のご先祖の、法栄(ほうえい)長者どのがなさっていた商(あきな)いついて、お教えください」
「わが家には、くわしいことは伝わっておらぬ。銕三郎も存じおるように、小川館(こがわやかた)から田中城の守備にまわられた紀伊守(きのかみ)正長(まさなが)どのは、武田信玄公の大軍に攻められ、一族とともに城をでて浜松へ走り、徳川勢にお加わりになった。そのおり、紀伊守どのの3代ほど前の法栄長者のお仕事ぶりの書きものは、小川(こがわ)湊にいた一族のどの家にあったか、寺へ預けられたのではないか」

なにゆえ、いまごろ、法栄長者の事蹟をしりたいとおもったのかと訊かれたが、銕三郎は言葉をにごした。

安房国朝夷郡(あさいこおり)江見村へ、盗人の訊きこみへ行った帰り、勝浦湾の串浜湊から江戸へ向かう500石荷船に、江見浦でひろってもらった。

木更津湊まで、その船の知工(ちく 船の庶事頭)・瀬兵衛(せべえ 35歳前後)と、またも世の経済(からくり)について話しあった。
同心・有田祐介(ゆうすけ)は、昨夜の疲れがでたか、艫(とも)の荷にもたれて眠っている。

「船で運ぶのに、風体(かさ)に比して割りのよいのが菜種油であることは納得しました」
「種油よりも割りがよいのは金銀でしょうが、ま、これは別格として、安房で産するもののなかでは、木炭、檜あたりでしょうか」
「生糸は?」
「あれは、海路で運びません」
「なぜ?」
「潮水はもとより、雨水にも弱いからです」

「酒は?」
「灘、伊丹や伏見の下り酒なら割りにあうでしょうが、地酒は、江戸まで運ぶほどのものではありません」

「西瓜(すいか)や瓜(うり)、梨(など)の水菓子は?」
「水菓子の名のとおり、時がたつと水気がぬけていくものは、遠くからは無理です。しかも、季節のものですからね」
「日もちのするものは鮮度がおちないから、時がたっても値がくずれないということですね?」
「そのとおりです。だからご公儀が、米を貨幣の代わりとおかんがえになっているのです。米の敵は鼠と黴(かび)と相場師くらいですから---」

木更津湊で下船して別れる寸前に、瀬兵衛がつぶやくように言った。
長谷川さまは、お武家なのに、珍しく、勝手方(かってかた 経済)のことにおこころが向いています。むかしは、お武家といえども、ものや田をおつくりになり、取引きなさっていたのですが---」

このつぶやきに、鉄槌で打たれたような衝撃が銕三郎の躰を駆けぬけ、13年前に、法栄長者と呼ばれた館の主が統治していた小川湊を訪れたときの記憶がよみがえったのである。

そのことに関連して、法栄長者と銕三郎宣以(のぶため)の次男・銕五郎正以(まさため)のことは、【参照】に記した。

参照】2006年5月23日[長谷川正以の養父
2007年7月23日[青山八幡宮

Book_ogawajyo_150
焼津市がおこなった小川城遺跡発掘調査によると、遺跡から明との交易をしのばせる白磁片も出土しているという。
法栄長者とその一統が、遠く明国まで商圏に入れていたことがうかがえる。(焼津市の『小川城』調査報告書)
そのことは、長谷川家に言い伝わっていたのではあるまいか。

それで、本家・長谷川太郎兵衛正直が、ものの生産や商いに興味を示した銕三郎を評し、
「先祖がえり」
と言ったのであろう。

税のことにまつわり、父・平蔵宣雄が、老中格の田沼主殿頭意次(おきつぐ)に、こんなことしを言ったことも【参照】に記した。

参照】2007年7月22日[幕閣

どうやら、銕三郎の躰の中で、法栄長者の血が音をたててはじけはじめたらしい。

ただし、法栄長者は、単なる貿易商人ではなかった。
今川家の重鎮の武将でもあった。
つまり、武将が交易や製塩に手をそめて、資金力を増やしていたのである。


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2009.04.12

ちゅうすけのひとり言(32)

宮城谷昌光さん『風は山川より』(全5巻 新潮社 2006.12.1~)は、野田菅沼家3代を主軸に、徳川3代(清康・広忠・家康)をからめた、雄渾な物語である。
もちろん周辺の今川家武田信玄にも筆がおよぶ。

それで、つい、余計なことを期待した。
今川家の重臣であった、紀伊(きの)守正長(まさなが 没年37歳=1572)の田中城の立ちのきの事情にもくわしいかもと。

武田信玄の軍が、駿河国田中城を攻めたのは、永禄13年(1570 4月に元亀と改元)の正月である。
_130風は山河より 第5巻』からひく。

(永禄12年の)十二月十三日に信玄は府中(駿府)にはいり、家康に命じられて府中守禦の任についていた岡部正綱(まつさな)らを武力で排除せず、臨済寺の僧をつかって懐附(かいふ)させた。年が明けるや、信玄は軍を西進させて、花沢城と徳一色(とくしっしき)城を攻め、正月のうちに開城させた。徳一色城は馬場信春(のぶはる)によって改修され、田中城となる。二月中旬まで田中城にいた信玄は、清水(しみず)に移り、水軍編成をおこなうと同時に江尻(えじり)城の普請をはじめた。

たった、これだけである。
藤枝市史』(市史編纂委員会 1979.3.31)fは、

元亀元年(1570)1月22日、武田信玄は花沢城を攻略して27日にこれを陥入れると、その余勢をもって田中城を攻めた。
この時田中城を守っていたのは長谷川正長である。
思うに由井美作守は永禄3年(1560)の桶狭間の戦に戦死をとげたので、その後をうけて、小川に居館を構えていた長谷川氏が守衛したのである。
(長谷川正長の祖父は法永長者と呼ばれ今川の家督争いに氏親を庇護した功臣である)武田勢は新宿口・平島口から潮の如くおしよせた。
正長は一族二〇人余、三〇〇騎でこれを守ったが、衆寡敵せず、辛うじて脱出して金比羅山へ逃れ、再起逆襲の機をねらったが遂にその機会がなく、遠州に走って家康に投じた。(改行はちゅうすけ)

疑問点は、「一族20人余、300騎」の「300騎」である。
田中城は、本丸がわずかに860坪の平地城である。
こんなちっぽけな城にはたして「300騎」も収容できたであろうかか。
また、長谷川正長を受け入れた徳川家康側にしても、「300騎」では長谷川正長の処遇に当惑したとおもう。

駿州雑記』巻38は「長谷川次郎右衛門正長」の項を立てて、

伝えて云う。
長谷川次郎右衛門正長は、某元長の子なり。のち紀伊守に任ず。
頭郡徳一色の城(注:田中城)に在り。
永禄十三年(1570 注:元亀元年でもある)、武田信玄のために攻められ、一族二十一人、その勢三百余人を従え、去って遠州へ赴き、東照宮に奉仕。
元亀三年(1572)十二月廿二日、味方が原御合戦の時討死す。
墓は止駄郡小河村会下島、長谷山信香院(曹)に有り。
法名長谷院殿前紀州守林叟院信香大居士と号す。(略)

織田信長の要請で、家康は軍を率い、はるか、近江国まで遠征した。
いわゆる、姉川の合戦である。
徳川軍の朝倉援軍への活躍があって、織田軍はかろうじて勝利をええた。
この戦いに、長谷川正長も参加しているらしいが、その記録をいまだ、目にしていない。

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2008.11.30

三方ヶ原の長谷川紀伊(きの)守正長

長谷川家今川方から徳川家康の傘下に入った経緯(いきさつ)と、三方ヶ原の合戦で戦死したことは、もう、何回も書いている。

参照】2008年06月12日~[ちゅうすけのひとり言] (13) (14) (16) (17)
2007年4月6日[寛政重修諸家譜] (2)
[長谷川紀伊守正長の「於馬先」戦死をめぐる往復書簡
[三方ヶ原で戦死した長谷川紀伊守正長

_100
諏訪左源太頼珍(よりよし 62歳=明和5年 2000石)がらみで、新田次郎さん『武田信玄』(文春文庫)を読んでいることも、すでに報じた。
その『山の巻』に、三方ヶ原の合戦についてのおもしろい話が目にとまったので、転載してみる。

二股城を開城させた武田軍は、軍議に入った。
元亀3年12月18日(旧暦)のことである。

要点は次のこどくであったという。


(一) 浜松城を包囲して、持久戦に持ちこむことこそ当を得た戦法である。その理由として、
  (1)織田信長は現在約三千の兵を援軍として出して来ている。
     北近江の小谷城で、浅井、朝倉を相手に戦っている信長は
     これ以上の兵は出せない。
  (2)信長がこれ以上の援軍を寄こさないかぎり、
     包囲すれば、浜松城は必ず落ちる。
(ニ) 浜松城を包囲して、家康が降伏するのを待っていないで、このまま西上の軍を進めて、三河を攻撃すべきでる。その理由として、
  (1)三河を攻略すれば家康は事実上孤立する。
  (2)一路小谷城目ざして進軍して浅井、朝倉と力を合わせて
    信長を打ち破る。

これに対して、勝頼(27歳)が、家康(32歳)を浜松城からおびきだして叩く方法はないかと、提案した。
その具体策を信玄(52]歳)が求めたとき、真田昌幸(まさゆき 26歳)が、

「勝頼様のお申し様に賛成いたします。その策については、勝頼様かねてからのお考えのうちから、それがしが存じておりまするものの一つ二つを申し上げたいと思います。よろしゅうございますか」

と言ったというのである。
昌幸が説明した案は、武田軍が祝田村へ宿営するとみせかければ、家康は討ってでてくるから、反転して包み込んで撃滅するという、諸書の三方ヶ原戦記のとおりのものであるから、案そのものはどうでもいい。

「うまい」と、新田次郎さんに拍手を送ったのは、
「勝頼様かねてよりお考えの---」
と勝頼に花をもたせた言いようである。

これが、作家の創作であることは、間違いなかろう。
しかし、公務員として長く勤めた新田さんの、職場での自説の述べ方であったろうとも推測できる。
こういうもの言いをしているかぎり、敵はできまい。

武田信玄』4巻の、最高のヶ所と感心した。

なお、新田さんは、西上に参陣した武田側の勢力を、『甲陽軍鑑』から次のように引いている。

先衆七手 山県昌景(八百七十騎)、内藤昌豊(三百七十五騎)、小山田信茂、小幡信貞(五百騎)、真田信綱、高坂虎綱(八百騎)、馬場信春

二の手 勝頼、武田信豊、武田信光(信虎の庶子、上野介信友の子左衛門佐信光)、穴山信君、土屋昌次、望月信雅(信豊の弟)、跡部勝資
右脇備 小山田昌行 小宮山昌友、栗原左兵衛、今福丹波
左脇備 原隼人、相木市兵衛、安中左近、駒井右京(昌直)

これが、三方ヶ原での魚鱗の陣では、

最前線が小山田信茂隊、二列目の左翼が馬場信春隊、右翼が山県昌景隊。第三列の予備隊の左翼が内藤昌豊、右翼が武田勝頼。そして第四列目には信玄とその旗本隊。後備には穴山信君隊がいた。
兵団全体が魚のように細長く、各部隊が魚の鱗に相当するから魚鱗の陣というのである。

重層の陣立てである。
波状に徳川軍を攻撃したであろう。
長谷川紀伊守正長がどの武田軍と戦って戦死したかは、依然として解明できない。

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2007.06.02

田中城の攻防(2)

2007年6月1日駿州・[田中城の攻防]に、武田方の守将・依田(よだ)右衛門佐信蕃(のぶしげ)と書いた。

間違いではない。が、じつは、武田系の徳川幕臣・三枝(さいぐさ)備中守守緜(もりやす 6500石)は、蘆田右衛門佐信蕃(のぶしげ)といっていた。

『寛政譜』に、蘆田という家はない。それで、文献を探して、仲田義正さん『現代語訳 田中藩史譚』(共立印刷 1994.9.1)に行きあたたった。田中城関連の史料ということで、静岡県立中央図書館でコピーしておいたものである。同書の訳者注に、武田方の田中城落城について、

注2.(大久保彦左衛門の)三河物語によると、(天正10年 1582)徳川方は、本多平八郎(忠勝)、榊原小平太(康政)等がこの城を攻撃し、降伏した城将朝比奈又太郎の命は助けてやった---という。

地元・駿州の朝比奈川流域の岡部などを領していて、今川家滅亡後に武田方に従った朝比奈又三郎真直(さねなお)が田中城に入っていたのは、元亀年間(1570-73)のことらしい。『寛政譜』にはその記述はない。

注3.依田信蕃(のぶしげ)の降伏とその後 彼の名誉のために、若干捕捉する。織田信長の武田勝頼討伐作戦の一環として徳川家康は(天正10年2月)駿河の武田方の諸城を攻略しつつ甲斐に進撃することにした。即ち先ず田中城を攻め、用宗・久能両城を占領し、その先鋒部隊が江尻城に迫った頃、その守将穴山信君(勝頼の姉の夫)は家康に内通した。家康は甲府へ発向するに当り、使者を田中へ遣わし、信蕃に「勝頼の滅亡はもはや決まったも同然であるから」と開城を勧め、また「これまでの貴殿のたびたびの軍功といい、今次の田中城における防御といい、何れも敵ながら天晴れであるので、ぜひ我が家中に加えたい」と言った。

注は、さらに長くつつぐが、このあたりからの記述は『寛政譜』の依田右衛門佐信蕃に典拠しているらしいとわかったので、そちらから引く。

天正8年(1580)、勝頼の命令で駿河国の田中城を守ることになった。
東照宮は諸将を城攻めにあてられた。信蕃は勇をふるって防戦したから、寄せ手に戦死するものが多く出たために、この城の押さえとして酒井左衛門尉忠次をのこされて、兵を浜松へ収められた。

同10年2月。田中城攻撃にご進発され、諸将をして城を幾十重にも包囲せしめられた。しかしながら、城兵はいささかも屈しないで、すすんで防戦に努めた。
そこで東照宮は、かねてから信蕃と面識のある大久保七郎右衛門忠世(ただよ)を使者としてさしむけられていわしめた。

「近来、武田家の武威はとみに衰え、木曾の穴山信君(梅雪)は江尻城において謀反して徳川方へ就き、駿河における諸城はみな降っています。
しかるに貴殿ひとりがこの城を守っておられるのは、いかなる展望があってのことですか。たとえ持ちこたええとしても、城兵にどんな益がありましょうや。
早く城をお開けなさって、将兵の命を救ってやられてはいかが?」

じつは、大久保忠世を使者に立てたところが、いかにも家康らしい深慮遠謀というようか。
大久保忠世依田信蕃との面識は、7年前に、戦いの中でできたものである。

そのころ、信蕃は父・下野守信守(のぶもり)とともに天竜川畔の二股城を守護していた。二股城は3年前の元亀3年(1572)i徳川方から武田方が奪取したものである。その城中で信守は卒した。
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(天竜川ぞいの丘上の二股城跡。浜松市の最北部)

が、26歳の信蕃は屈しなかった。
家康は、大久保忠世に二股城を囲む五個の砦をまかせて浜松へ帰陣した。
やがて、勝頼が老臣を派遣し、甲府へ帰るように告げしめた。
信蕃忠世と談合、双方、人質を交換しあい、籠城兵士は粛然と撤退しえたのである。

家康の配慮は、さらに信蕃の上におよび、織田信長の武田の諸将殲滅から彼の命を救い、依田一門を甲信2国の帰属に功あらしめるのだが、それは、田中城の攻防とは別の物語であろう。

敵味方であっても、信がおければ、意志を通じあっておくことをいとわない日本的な心情を、信蕃忠世に見る。

【つぶやき】[上記とは無関係だが、『鬼平犯科帳』文庫巻3に所載[駿州・宇津谷峠]に出ている盗賊〔二俣(ふたまた)〕の音五郎の〔二股〕を池波さんはこの二股城から取っている。そういいきれるのは、二股城の川上の地名〔船明〕が文庫巻11の冒頭の[男色一本饂飩]の〔船明(ふなぎら)〕の鳥平に、もっと川上の地名〔伊砂〕が文庫巻3[盗法秘伝]の主人公〔伊砂(いすが)〕の善八に使われ、池波さんにまぎれもなく土地勘があることを物語っているからでである。

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2007.06.01

田中城の攻防

長谷川平蔵宣雄(のぶお)は、牛込加賀屋敷三枝(さいぐさ)備中守守緜(もりやす 6500石)邸を訪ねていた。

宝暦8年(1758)11月某日。

過日、小十人頭先任の同役・6番組頭・本多采女(うねめ)紀品(のりただ 2000石)から、三枝家の祖・右衛門尉虎吉(とらよし)、息・土佐守昌吉(まさよし)が、武田方の守将として駿州・田中城にこもり、家康軍の猛攻にもよく耐えていた史実を聞かされた。
宣雄今川だった長谷川紀伊(きの)守正長(まさなが)も、田中城にこもって武田信玄に攻められ、善戦したがもちこたえられず、城をでて徳川家康の陣営に走っていた。

それで、大久保99家、本多100家といわれる中の本多伯耆守正珍(まさよし)が田中藩(4万石)の前藩主なので、同流の采女紀品が、宣雄に徳川・武田の田中城攻防譚を持ち出したのだ。
采女紀品とすれば、西丸・書院番士時代の宣雄の番頭・伯耆守正珍田中城史実を結びつけることで、宣雄を自分の派へ引きつけようとしたのであろう。

田中城史実に興味を感じた宣雄は伯父で本家の当主・長谷川小膳正直(まさなお)に、三枝家への伝手(つで)の有無をたしかめた。

「平蔵ともあろうお人が、とぼけたことを---」
と正直は笑って、
〔御納戸町の〕隣家が、三枝どのの本家だよ」
〔御納戸町の〕とは、長谷川一門でも4000余石の大身・長谷川久三郎正脩(まさむろ)の屋敷をさす。

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(赤○=長谷川正脩邸。緑○=加賀屋敷の三枝家 尾張屋板)

元亀3年(1572)の三方ヶ原における武田信玄軍と家康軍の合戦で戦死した長谷川紀伊守正長の3人の遺児が浜松に残された。

家康は、その遺児たちを家臣として取り立てる。
藤九郎の相続名を継いだ長男・正吉(まさよし)が、本家・小膳正直の祖。
次男・宣次(のぶつぐ)の末が、宣雄
三男・正吉(まさよし)は、将軍・家光の寵をえて4000余石を給され、屋敷も御納戸町に3000余坪を賜った。その末が久三郎正脩である。

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(長谷川一門の系図)

正脩は七代目当主なので、本家の正直、第一支家の宣雄とは従兄弟同士。
養子にきて、前年---宝暦7年暮れに41歳で家督したばかりで、寄合に入れられているが、出仕はしていない。

〔御納戸町〕ご隠居なら、田中城の史実にも詳しく、隣家とも親しかろうよ」

〔御納戸町のご隠居〕とは、西丸・持弓頭を最後に50歳で致仕した讃岐守正誠(まさざね)がことである。眺山と号して、漢詩づくりと鉢植えの世話に精をつくしている。

宣雄は、その讃岐守正誠の口ききで、こうして備中守守緜を訪ねている。50歳の守やすは奥の小姓をしているので、宣雄の非番の日が重なるのに手間どった。

田中城の攻防の史実を、こんなふうに話してくれた。

元亀元年(1570)、信玄は、長谷川紀伊守正長から奪った一色城(のち信玄により田中城と改称)に馬場美濃守信房(のぶふさ)に命じて、三日月堀などを増築させた。
長谷川どのの抵抗もはげしく、城の諸施設はかなり荒れていましたそうな」
備中守守緜は、宣雄を立てるように、付け加えた。

城のその後の守将は、山県右三郎兵衛昌景(まさかげ)、板垣左京亮信安(のぶやす)、そして地元出身の朝比奈又三郎真直(さねなお)が光明城(現・浜松市の天竜地区山東光明山)から移ったときに、家康が攻めたが陥ちなかった。
天正8年(1580)、家康は三度目の城攻めをかけたが、このときも陥ちなかった。

「天正10年(1582)2月、大権現さまが甲州へ侵攻なされたとき、堀が埋められたのちに、酒井佐衛門尉忠次(ただつぐ)どの、本多平八郎忠勝(ただかつ)どの、榊原小平太康政(やすまさ)どのら1万余に攻めたてられ申した。
武田方の守将は依田(よだ)右衛門佐信蕃(のぶしげ)どのとわが三枝の兵でありました」

徳川方の記録は、信蕃が降伏を乞い、大久保七郎右衛門忠世(ただよ)に城を開けわたしたとなってい、勝頼の死うんぬんは省かれている。

聞き終わって礼を述べ、あいさつをしておくために、隣の〔御納戸町〕長谷川家へ立ち寄りがてら、
(戦記というものは、自分方に都合のよいように書かれるとの、母御の教えのとおりじゃ)
とひとりごちていた。

いや、戦記にかぎるまい。史料の多くは、そういうものなのだ。

【つぶやき】4000余石の長谷川正脩の嫡子・正満(まさみつ)には男の子がなかつたので、鬼平こと平蔵宣以(のぶため)の次男・正以が養子に入った。鬼平のすご腕ともいえる。

また、上記とは無関係だが、『鬼平犯科帳』文庫巻1[座頭と猿]に登場する凶悪な〔五十海(いかるみ)〕の権平と巻8[狐火]に出ている〔瀬戸川(せとがわ)〕の源七は田中城のある藤枝市の地名、巻4[五年目の客]に登場する盗賊---〔羽佐間(はざま)〕の文蔵は隣の岡部町の地名。

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2006.11.09

永倉家とのつながり

鬼平---史実では平蔵宣以---の祖父・宣有の項で、生母は、永倉家から嫁いできた女性か、脇腹か決めかねる、と書いた。

そこで、永倉珍阿弥真治の『寛政譜』を掲げる。
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真治とその末むすめの部分を拡大。
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長谷川家へ嫁いだむすめと、長谷川家から養子にきた正重の部分を拡大。
Photo_239

鬼平とは直接にはつながらない史料だが、後学の方の手引きとして掲出。

なお、永倉家は麻布桜田町に屋敷を賜っていた。いまの六本木ヒルズの西、元麻布2丁目。
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赤○=永倉邸 緑○=平蔵の政敵・松平左金吾邸(現・中国大使館など)
青○=桜田稲荷(現・桜田神社)

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