カテゴリー「007長谷川正以 」の記事

2009.12.07

納戸町の老叔母・於紀乃(4)

(てつ)どのは、いまどきの若者じゃゆえ、、現金(げんぎん)とは存じていたが、京へ旅立つときに餞別をねだりにきてから、今日までそれきりとは、あまりにも現金すぎないかの」

銕三郎(てつさぶろう 28歳)が、
〔納戸町の老叔母〕
と、そのふところをあてにしてきた、4070石の長谷川家の老後家・於紀乃(きの 74歳)は、1年前よりさらに縮み、歯も下の左右に1本ずつを鬼婆の牙のようにのこしたきりなので声が抜け、意味がたどりにくい。

「叔母上。お達者なのが、なにより重畳。しかし、お言葉ではありますが、大権現(家康)さまも、ご当家の初代・讃岐さまに、いまどきの若者は現金じゃ---とのたまったそうですぞ」
久三郎どの。まことかの? 紀乃は、亡き殿_(正誠 まさざね 享年69歳=10年前)からは、さようなことは聞いておりませぬぞ」
の口まかせですよ」
「さもあろう。正妻の紀乃におもらしにならないことを、(てつ)ごとき道化におっしゃるはずはないわの。は、ははは」
男のように笑う齢になっているらしい。

久三郎正脩(まさひろ 63歳 小普請支配)は、隠居の養母の相手はしておれぬとばかりに、
「夕餉は半刻(はんとき 1時間)あとだから---」
早々に立ち去った。

それを見すました於紀乃は、、
「のう、どの。あの、甲斐の軒猿(のきざる 忍びの者)のむすめごは、その後、どうなったかの」
「あ、中畑(なかばたけ)村のお(りょう)でございますか?」

参照】2008年9月7日[〔中畑(なかばたけ)〕のお竜](1) (2) (3) (4) (5) (6) (7) (8) 


「さよう、さよう。おと申したかの---いやな、この齢になると、食い物も歯ごたえがなくなっての、本も目がきかなくなってすぐに疲れるし、男衆はちやほやしてくれないし---つまるところは、面白い話をきくだけが楽しみになってしもうてな」
「そういえば、こ本家すじの八木丹波守補道(みつもち 60歳 4000石)さまは、まだ、甲府勤番支配のままで?」
「まる3年も山流しというのに、お上はお忘れになっているのかもな---さ、それより、軒猿のことよ」

銕三郎は、おの死をどう告げたものか、おもい迷った末に、真実を話さないことに決めた。
親類に話が洩れることより、真実をあらためて自分にいいきかせることがつらかった。

とっさに、〔千歳(せんざい)〕のお豊(とよ 25歳)とすり替えことにした。
齢を33歳にした。
御所へ毎朝、つくりたての粽を奉供している〔道喜〕の財産を、おの一味が狙ってさぐりをいれているらしいことを、銕三郎が察知したふうに話した。

紀乃には、禁裏が理解できなかった。
それでつい、政権をご公儀に依頼なさっているお方だと解説し、おが、

 をみなへし 佐紀(さき)沢のへ辺(へ)の 真葛ヶ原 
        いつかも繰りて 我が衣(ころも)がに着む

などという和歌を〔道喜〕の10代目当主に贈って気を惹いたりしているというと、
「どういう意味の和歌かの?」
「あなたの樹皮を剥いて、糸につくり、織って、自分の身にまといたい、という恋の和歌です」
どのは、京で和歌も修行なさったか。えらいな。しかし、甲斐の軒猿にしては学があるの」
「御所出入の粽司をたぶらかすためには、学も身につけます」
「それで---?」

京都町奉行所の配下の者が、お---ではなかった、お竜の茶店に打ちこんだものの、抜け穴からまんまと逃げられたというと、お紀乃は不謹慎に、歯のない口を大きくあけ、
「は、ははは」
笑い転げた。

そして、訊いた。
「その、〔道喜}とやらの粽はおいしいのかな?」
(食い気もなくなったといったくせに---)

その笑い方から、本所ニッ目通り、弥勒寺門前の茶店〔笹や〕の女主人・お(くま)を連想してしまった、
(そういえば、おどのもそろそろ、50歳のはず---)

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2008.10.07

納戸町の老叔母・於紀乃(3)

銕三郎(てつさぶろう)どのは、おんなおとこ(女男)の睦あいをご存じかの?」
歯がまったくなく、風のぬけるのような声をさらに低め、にやりと笑った顔を、それでも赤らめながら、老叔母ろ・於紀乃(きの 69歳)が訊いた。
うんと年長でも、銕三郎(23歳 のちの鬼平)を、「どの」と尊称をつけて呼びかけるのは、嫡子だからである。嫡子は、いずれ将軍家の楯となる男子なのである。

「塾の悪童が春画を隠しもってくるのを覗いたことはありますが---」
「あれは、好きものの男どもの空想をほしいままにさせるためのものでの。ほんとうは、おんな同士の睦みあいは、男とおんなのそれよりも、もっと、もっと、情(なさ)けを通いあわせるものらしいの」

(世間の常識にさからっての性愛だから、不安とともに、信じあいが恍惚さをいっそう高めるのであろうな)
「叔母上は、どうしてご存じなのですか? まさか---?」
「このわちが、そのような好みをもったおんなに見えるかの?」
歯がないために、口のまわりは皺ばかり---の口をとがらせた。

「いいえ」
親指を西へ向けた於紀乃は、
「右隣りの三枝(さいぐさ )の登貴さまな---」
備中守守緜(もりやす 51歳 6500石)のご内室が---」
「ちがう、ちがう。 ご当代はご養子。そう、ご先代の斧三郎さまもそうであったが、19歳で卒され、奥方・登貴(とき 68歳)さまは、18歳からお独り身での」

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於紀乃の話を、ちゅうすけの解説もくわえながら手短にまとめると---。

三枝家は、掲示した「先祖書」にもあるとおり、仁明天皇の代というから、銕三郎の時代から920年ほども昔に、丹波の国から発した旧家で、ゆえあって甲斐国山梨郡(やましなこおり)能路の里に配流され、その子孫が武田信玄の傘下にあり、親類衆の扱いをうけていた。
長谷川家も因縁の深い田中城を守っていたときのことは、2007年6月1日~[田中城の攻防] (1) (2) (19)

家康が甲州・信濃を攻めたときも協力し、6000石級の大身旗本にとりたてられている。
5代目・丹波守守英(もりひで 享年47歳)には男子がなく、京の西洞院家・平松中納言時方(ときかた)の姫を養女に迎え、これに松平薩摩守の家臣の男子・守尹(もりただ)を養子として娶(めあ)わせた。
しかし、於紀乃の言ったように、守尹は養父・守英に先だって病歿した。
若い身ぞらで寡婦となった<strong>登貴は、貧乏公家の実家へ帰ることを拒否、広大な屋敷の一偶に別宅をたて、召し仕えにかしずかれて隠棲していた。

八木家から隣りの長谷川家へ嫁いてきた於紀乃とは年齢は一つ違いであったが、武家のむすめを蔑視し、つきあいを拒否、小間使いのむすめと情を深くかわしあっていたと。

_100「銕三郎どのよ。わが殿・久三郎どのが甲府で情けをかけた忍び者の家の小むすめのこともあったが、おんな男の〔中畑(なかばたけ)〕のお(りょう 29歳)とかに興味をもったのも、隣りの登貴姫どののこともあったからよ。ふへッ、へへへ」(お竜のイメージ)
「左様でございましたか。それなれば、大月へまいって、おの母親のことを調べてもよろしいかと---」
「いや。そちらは、丹後守の組下で十分。わちがおんな男とまじわるわけではないのでの。ふへッ、へへへへ」

銕三郎は、ほっとするとともに、軍資金を絶たれて残念にもおもった。

「それで、登貴さまはご存命で?」
「今月はじめに、みまかられての---」

(競いあう主(ぬし)がいなくなり、それで、興も減じたというわけか---この年齢になって、ようやく、な。しかし、おれが追跡しているのは、おんな男のものをかんがえるすじ道は、おれたちと異なるのかどうか、ということなのだ。叔母ごの話でひとつは、世間常識への抗議ということはわかったが---)


ちゅうすけのつぶやき】長谷川銕三郎の成長の過程で、かかわりのあったさのざまな幕臣の周囲を仔細に見ているのは、そうすることにより、幕閣のような実権をもった人たちではなく、光があたることは少ない下の層も示すことで、江戸時代の一端に触れられるとおもうからである。
ぜひ、ごいっしょに散策していただければ、うれしい。

コメントをお書き込みいただけると、とりわけ、嬉しい。

コメントがないと、o(*^▽^*)oおもしろがっていただいているのやら、
(*≧m≦*)つまらないとおもわれているのやら、
まるで見当がつかず、闇夜に羅針盤なしで航海しているようなわびしさ。

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2008.10.06

納戸町の老叔母・於紀乃(2)

「叔母上。讃岐守叔父上が、甲府勤番支配を仰せつかった節、伯母上もあちらへお住みになったのですございますか?」
銕三郎(てつさぶろう 23歳 のちの鬼平)は、何気ない口ぶりで、於紀乃(おきの 69歳)に訊いてみた。
讃岐守叔父上とは、ここ、納戸町に広大な屋敷地を賜っている長谷川家の先代の当主だった・久三郎正誠(まさざね 4050石)で、5年前、明和元年(1764)に69歳で亡じている。
於紀乃は、その寡婦である。

「とんでもないわの。なぜに、わちが山流しにならねばならぬかの」
勤番支配は、3000石以上の大身幕臣で、小普請支配10人の中から2人があたる。
7年前(45歳)から小普請支配をしていた讃岐守正誠が、勤番支配を拝命したのは、延享4年(17)10月15日であった。
2歳だった、しかも家が赤坂の銕三郎と、納戸町に久三郎だったから、叔父が甲府へ赴任したときのことは、まったく記憶にない。
西丸・持弓の頭となって帰府した4年後のことにも霞のようなものがかっている。

讃岐守叔父上が勤番支配に赴任なされたとき、於紀乃伯母上はおいくつであったのですか?」
「わちが47での。殿は52。もう、男とおんなの間柄ではなかったのよ。くっ、くくく。ところが、殿は---」
「向こうで、男がよみがえられましたか?」
「くっ、くくく---紀乃の小うるさい目がとどかなくなったことをいいことにの」
いまとなっては於紀乃も、屈託なげな口ぶりで話している。

「そのおなごとは、その後---?」
「なんでも、おんなの子を産んだげな---そうじゃ、軒猿(のきざる)の家系のむすめとかいっておったような---」
「まさか---?」
銕三郎どのから、〔中畑(なかばたけ)〕のお(りょう 29歳)のことを聞いたとき、わちも、まさか---とおもうての」

「年齢があいませぬ」
「そのとおり」
「すると、叔母上が拙を甲府へお行かせになったのは、そのことを調べさすためと---?」
「くっ、くくく。いのごろ気がついたかの」
「伯母上。調査賃が安すぎました」
「くっ、くくく---」

久三郎正誠の勤番支配の因について、書物奉行・長谷川主馬安卿(やすあきら 50歳 150俵)から、小普請組の頭として同役だった永井監物尚方(なおかた 38歳=当時)の先走った裁断の件がかかわっていそうだと、報せてきたので、銕三郎は、それも於紀乃に質(ただし)てみた。

「叔母上。讃岐守叔父上が、勤番支配を命じられたのは、永井丹波守さまの一件が因だったのでございますか?」

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(小普請支配・長谷川久三郎正誠おとがめ)

「なにをおっしゃるッ。元文5年(1740)の初冬の、永井さまにかかわるご譴責・40日間拝謁のおとどめは、わが殿だけがうけたのではありませぬぞ。ご同役の、大岡忠四郎忠恒 ただつね 57歳=当時 2267石余)さまも、阿部伊織正甫 まさはる 39歳=当時 2000石)さまも、ほかの4人の支配の方々も、みなさまが同じご譴責をおうけなになられのです」
「小普請お支配のみなさまが全員でしたのですか?」
「そのとおり。じゃによって、わが殿が甲府に山流しになったのは、永井さまの件とはまったくかかわりがありませぬ。だいいち、永井さまにおとがめがあってから、7年もあとのの発令でした」 
「ははあ---」

ちゅうすけ注】元文5年の永井監物尚方の事件というのは、『徳川実記』のその年の10月29日の記述にたしかに、こうある。

小普請支配永井監物尚方出仕をとどめらりれ。同職大岡忠四郎忠恒、能勢市十郎頼庸(よりちか 50歳=当時 2000石)、竹中周防守定矩(さだのり 52歳 2235石)、土屋午(平)三郎正慶(まさのり 58歳=当時 1719石)、阿部伊織正甫、長谷川久三郎正誠、北条新蔵氏庸(うじつね 48歳 3400石)、御前をとどめらる。
これは、、監物尚方が所属・嶋田八十之助常政(つねまさ 18歳=当時 2000石)が采地の農民ひが事せしにより、八十之助常政がもとにて鞠問(きくもん)し、手鎖つけをきしほど、農民の親戚等・監物尚方が宅にうたえ出けるを、八十之助常政にも問いたださず裁断せし事、忽略(そりゃく)の至りなり。
かつ、その処置も得ざりしかば、この後こころ入て相はかるへし、とて、かく仰付られしなり。

ここに列記されている大岡忠四郎忠恒ほか6名の小普請支配のそれぞれの『寛政譜』にも、同文の記述が記されているから、於紀乃の主張は正しいとおもう。

江戸幕府の役人の連座の珍しい例である。

参考
_360_6
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もっとも、嶋田八十之助常政は咎めを受ける立場にないから、彼の『寛政譜』はこのことについて、一字もふれていない。

参考

_360
(島田八十之助常政の個人譜)


ちゅうすけのつぶやき】長谷川銕三郎の成長の過程で、かかわりのあったさのざまな幕臣の周囲を仔細に見ているのは、そうすることにより、幕閣のような実権をもった人たちではなく、光があたることは少ない下の層も示すことで、江戸時代の一端に触れられるとおもうからである。
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2008.10.05

納戸町の老叔母・於紀乃

「甲府の丹後(たんご)からの飛脚便がとどいての。銕三郎どのも知りたかろうと存じたのでな---」
納戸町の長谷川家(4050石)の老後家・於紀乃(きの 69歳)が、ほとんど歯のないふがふが声で言い、書状を示した。

_360
(長谷川一門家系図 銕三郎=宣以 於紀乃=正誠夫人)

丹後とは、於紀乃の実家・八木家(4000石)の当主で、於紀乃には甥にあたる、丹後守補道(みつみち 55歳)のことで、この10年來、甲府勤番支配(役料1000石)を勤めている。
於紀乃に言わせると、支配とは言い条、実体は「山流し」同然と。

夫・讃岐守正誠(まさざね 享年69歳)を5年前に亡くし、毎日をこともなくすごしていて退屈していた於紀乃は、銕三郎(てつさぶろう 23歳 のちの鬼平)がたまたま話した、巨盗〔蓑火(みのひ)〕の喜之助(きのすけ 46歳)の下で女だてらに軍者(ぐんしゃ)として盗(つと)めている、〔中畑(なかばたけ)〕のお(りょう 29歳)に興味をもった。
多い目の旅費を銕三郎に与えて甲府へ行かせたが、満足する探索結果が得られないなかったので、甥の丹後守に書簡で言いつけて、再調査を依頼したのである。

その丹後守からの書状によると、中畑村の村長(むらおさ)・庄左衛門(しょうざえもん 55歳)は、銕三郎に話した以上のことは言わなかったという。以上というより、ありようは、以下であったらしいことを、銕三郎は文面から察した。

参照】[〔中畑(なかばた)のお竜] (7) (8)

新しい報らせは、おの母・お飛佐(ひさ 47歳)の居どころがわかったことぐらいであった。
4年前から大月宿の安旅籠〔桂屋〕又兵衛の飯炊きをしながら、住まいは別に借り、村の16になるむすめと同棲している。
むすめの親が、みっとともないからと、なんども掛けあいに行っているが、むすめのほうが帰るのを拒否しているかたちであるらしい。

「な、銕三郎どの。お飛佐は、このむすめとできておるのじゃろうて。女男(おんなおとこ)は血すじのような---」
「しかし、叔母上。お飛佐はおを産んでおります。おんな同士の睦みでは、ややはできますまい」
「それがの、とつぜん、おんなのほうがよくなるものらしい。紀乃は、もう、男もおんなもわずらわしいばかりとおもうがの」

(いつわりを申されるな。拙が訪れると、生き生きとなさるくせに)
しかし、銕三郎はそのことは口にしなかった。

「どうじゃかの、銕三郎どの。も一度、甲州路を歩いてみるかの?」
「せっかくですが、初目見(おめみえ)の予備面接が近いゆえ、そのような勝手は許されませぬ」
「残念じゃのう。この紀乃には、かんがえがあるのじゃが---」
「お考えとは---?」
「安旅籠の賃金で、一戸を構えられるはずはない。おからの仕送りがあるとにらんだ。そこいらをあたれば、おの居どころもしれように」
「ご明察です。丹後守さまへそのように文をお送りになったら、いかがでしょう?」
銕三郎は、下ぶくれの顔の丹後守のしかめ面をおもいうかべながらすすめた。

「いま、したためるゆえ、町の定飛脚屋へとどけてくだされ」
さすがに、公の継飛脚へ頼めとはいわなかった。

飛脚料として元文1分金をだした。

_100
(元文1分金 『日本貨幣カタログ』より)

_120_2江戸から甲府までの普通便(4日限)の書状の定飛脚の運賃は、銀6分(約50文)であったから、銕三郎は、返り道に飯田町の飛脚屋へ立ち寄るだけで、1200文ばかりの駄賃をえたことになる。
これは、3朱と200文。まさに濡れ手に粟。

ちゅうすけ注】横井時冬『日本商業史』(大正15年刊 原書房復刻 1982.4.10)によると、『江戸定飛脚仲間定則運賃』(大坂物価表よる)は、書状1包につき、
6日限  銀2匁
7日限  銀1匁5分
8日限  銀1匁
10日限  銀6分

これから換算し、江戸-甲府の定飛脚賃を試算した。


ちゅうすけのつぶやき】長谷川銕三郎の成長の過程で、かかわりのあったさのざまな幕臣の周囲を仔細に見ているのは、そうすることにより、幕閣のような実権をもった人たちではなく、光があたることは少ない下の層も示すことで、江戸時代の一端に触れられるとおもうからである。
ぜひ、ごいっしょに散策していただければ、うれしい。

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2007.08.08

銕三郎、脱皮(4)

「ほう。信香院へも、熊野神社へも詣でてきたとな」
長谷川讃岐守正誠(まさざね)は、感に堪えたような声をあげた。
牛込(うしごめ)納戸町の4070石の屋敷である。
報告しているのは、銕三郎(てつさぶろう のちの平蔵宣以 のぶため)。駿州・田中藩城下へ行ったついでに、瀬戸川下の小川(こがわ)まで足をのばしたことを告げた。

長谷川家は、藤原秀郷(ひでさと)の末裔が大和国の初瀬(はせ)へ移り住み、長谷川を称したことになっているが、歴史に名をだすのは、駿河国の小川の豪族・法栄長者としてである。
最近、小川城の遺跡が発掘され、今川家の支配下にあったことが証明された。
『小川町史』によると、小川城が大永6年(1521)、水野吉川多々羅山内らの謀反によって落城、熊野へ落ちた長谷川元長(もとなが)が、今川義元(よしもと)のもとへ立ちもどった時に、熊野権現から3社を勧請・祭祀したことになっている。

また、信香院は、法永長者の孫とも曾孫ともいわれている紀伊守(きのかみ)正長が、弟・藤五郎とともに遠州・浜松郊外の三方ヶ原で戦死したその遺体を葬ったと。
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(信香院の山門)。

「したが、大叔父さま。その墓は、150年のあいだに見るかげもなく朽ちておりました。銕三郎、悲憤の念にくれましたこと、申すまでもございません」
銕三郎としては、餞別を1両ももらっている手前、慷慨して見せざるをえない。

長谷川家の者として、悲しいのお。どうであろ、三郎助。わが家で墓石を新しく建立しては---」
正誠が、養子の正脩(まさむろ)に問いかけた。正誠はすでに致仕していて64歳。じつは正誠も分家(500石)からの養子で、正脩は実弟である。正脩は49歳。まだ、お上に召されていない。
「当家が手配するのはいと易(やす)きことなれど、ご本家の小膳正直(まさなお)どのの面子(めんつ)もありましょうほどに---」

けっきょく、正誠正脩も動かず、信香院に紀伊守<strong>正長の墓を新しく建立したのは、正脩の嫡子・栄三郎正満(まさみつ)の時であった。さらに後日談をいうと、銕三郎(平蔵宣以)の次男・正以(まさため)が正満の養子に入って4070石の長谷川家を継いだ。

「それにしても、銕三郎は、こたびの旅で、見違えるほどの若者ぶりになったものよのう」
軽い咳をおさえながらいう正誠の背を、正脩夫人がさする。
「大叔父さま。持参いたしました〔ういろう〕は、咳にも即効がございまようです。早速に温湯(ぬるまゆ)でお召しください」
すすめながら銕三郎は、三島でのあの夜、噴射して果ててかぶさった背中を、お芙沙がやさしく爪を立てながら愛撫してくれた感触を思いだしていた。
と、とつぜん、股間にきざしてきたので、あわてて辞意を告げる。

【参照】2007年7月16日[仮(かりそめ)の母・お芙沙(ふさ
【参照】2007年7月16日[仮(かりそめ)の母・お芙沙] (2)

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2007.04.13

寛政重修諸家譜(9)

2007年4月7日の[寛政譜(3)]に、寛政譜の一覧性を高めるために、見開き2ページがA4判になっている原本をコピーして、A3の用紙に貼りこんでいる例として、長谷川一門のそれを掲げておいた。
重複するが、一部に手を加えて再掲載しよう。

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(4段赤○=平蔵宣以、5段赤○=次男・正以---長谷川正満の養子)

2007年4月6日[寛政譜(2)]で、徳川軍団に加わった長谷川紀伊守(きのかみ)正長(まさなが)が、元亀3年(1572)極月の三方ヶ原の合戦で戦死したとき、3人の遺児が浜松へ連れてこられていたことを記した。

長男・正成 天正4年(15776)に家康に仕える。のち1,451石
次男・宣次 天正10年(1582)家康の小姓となり、のち400石。
3男・ 正吉 天正7年(1579)に秀忠の小姓に召され、4050石余。

次男に先んじて召された3男の高禄は、その眉目秀麗さが秀忠の好みにあったとしかいいようがない。
次男・宣次とは、母親が異なっていたのかも。

正吉家は、ずっと高禄を保ち、一門でもっとも裕福だった。
御納戸町に1000坪を越える屋敷に住み、数万坪の別荘地を千駄ヶ谷に拝領してもいた。

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青○=牛込御納戸町の長谷川邸(久三郎は10代目)

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(A3判貼りこみ家譜では、正吉家は第2ページ目にまわっている)。

8代目にあたる正満(まさみつ 青○)は、安永6年(1777)に家督したが、一生無役だったから、役柄にともなう出費もなかったろう。
天明・寛政初期とおもえる時期に、思い立って家祖の地・駿河国志太(しだ)郡小川村を訪れ、三方ヶ原の合戦で戦死した正長の墓(信香寺)と、今川義忠と竜王丸に仕えた法栄長者の墓(林叟禅寺)を一新し、それぞれの寺へ供養料を供えた。

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(長谷川正満が建立した祖・正長の墓 信香寺)

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(長谷川正満が建立した祖・法栄長者夫妻の墓 林叟院)
これを←クリック、目次から[林叟院の探索](SBS学苑〔鬼平〕クラス 中林さん)へ。

鬼平こと平蔵宣以は、この4000余石の長谷川分家へ、次男・正以(まさため)を養子に入れた。それだけ、一門の中での宣以の発言権が強くなっていたといえる。

360_53

正以は、平蔵宣以が没した3年後の寛政10年12月22日にお目見をすませた。18歳であった。
家譜には、母親は小説でいう、久栄とある。
天明元年(1781)年の生まれだから、父35歳、母29歳の子。
辰蔵とは10歳違い。

【つぶやき】長谷川一門の遠祖にあたる法栄長者は、司馬遼太郎さん『箱根の坂』で、相当に大きな役目を演じている。このことは、次の機会に紹介。
法栄長者が、鬼平=長谷川平蔵の遠祖である史実を、司馬さんは友人の池波さんへ告げたフシがない。
ということは、司馬さんも、法栄長者が鬼平の遠祖であることに気づかなかったのかもしれない。

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2006.05.24

正以の養家

長谷川平蔵宣以(のぶため)の次男・銕(てつ)五郎が、養子先の諱名の「正」と実父の「以」を合わせて、正以(まさため)を名のっているが、名の銕五郎のほうは、養家の当主のものである久三郎に改めている。
というのも、養父・正満(まさみつ)が、なぜか、久三郎を継がず、栄三郎を名のっていたからである。

正満栄三郎を名のったのは、父・正脩(まさひろ)が、当長谷川家三代目の正相(まさすけ)の次男・徳栄(たかよし)が廩米500俵を分与されて一家をたて、その五男の彼が養子にはいったために、祖父・徳栄の「」の一字をさずかったのであろう。

血のつながりからいえば、平蔵・長谷川家より、徳栄・長谷川家のほうが濃い。にもかかわらず、平蔵が正以を正満の養子としたのは、それだけ、平蔵宣以の根まわしが巧みであったとみる。このあたりに、平蔵のやり手ぶりが察せられもする。

長谷川一門で、家政的には最高の家禄4000余石をはんでいた、正満・長谷川家の系図を示す。

●初代・正吉(まさよし) 天正7年(1579)めされて家光の小姓
                と なる。
                しばしば加恩があり、4070石をたまう。
                8万坪の別荘をたまう。
                40歳卒(しゅつ)。娘4人で男子はなし。
●ニ代・正信(まさのぶ) じつは長谷川本家・筑後守正成 の長男。
                正吉の長女の婿となる。
                徒頭(かちのかしら)。書院番組頭。
                淡路守・従五位下。
                44歳卒。吉祥時に葬り代々の葬地に。
●三代・正相(まさすけ) 書院番士。先手弓頭。74歳卒。 
●四台・正明(まさあき) 小姓組番士。
                71歳卒。
●五代・正武(まさたけ) 32歳卒。
●六代・正誠(まさざね) じつは徳栄の次男。養子に入る。
                小姓組番士。西丸書院番士。
                小普請組支配。甲府勤番支配。
                従五位下・下総守。
                西丸持弓頭。
                65歳卒。
●七代・正修(まさむろ) じつは徳栄の五男。
                持筒頭。
                69歳卒。
●八代・正満(まさみつ) 出仕の記録がない。
                病身であったのであろう。
●九代・正以(まさため) じつは長谷川平蔵宣以の次男。
                18歳で御目見。
                正満の次女を妻とする。

初代・正吉がたまわった8万坪の別荘は、のちに29000坪を紀伊家に分譲。20000坪との記録がのこっている。

つぶやき:
宮城谷昌光さんの『史記の風景』(新潮文庫)で、天子の死去は「崩(ほう)」、諸侯は「薨(こう)」、大夫は「卒(しゅつ)」、士は「不禄(ふろく)」、庶民は「死」と記すと教わったが、『寛政重修諸家譜』は「卒」としているので、それにしたがった。

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2006.05.23

長谷川正以の養父

長谷川平蔵宣以(のぶため)の次男で、4000余石の寄合肝入格の長谷川栄三郎正満(まさみつ)の養子となった銕五郎正以(まさため)のことには、すでに触れた。

参照】2007年8月8日[銕三郎、脱皮] (4)

で、養父・正満を紹介しながら、長谷川家の祖先について述べたい。

池波さんは、『鬼平犯科帳』文庫巻3の[あとがきに代えて]で、

  平蔵の家は、平安時代の鎮守府将軍・藤原秀郷(ひでさと)
  のながれをくんでいるとかで、のちに下河辺を名のり、次郎
  左衛門政宣(まさのぶ)の代になって、大和の国・長谷川に
  住し、これより長谷川姓を名のつた。

と、太田亮『姓氏家系辞書』から引いている。

  のち、藤九郎正長(まさなが)の代になってから、駿河の国
  ・田中に住むようになり、このとき、駿河の太守・今川義元
  (よしもと)につかえた。

寛政重修諸家譜』からの類推である。
なぜ、類推というかというと、今川義元につかえていたのは、正長の数代前から小川(こがわ)城主(現・焼津市)としてで、義元が桶狭間で織田信長に討たれたとき、田中城主(現・藤枝市)も戦死したので、正長が小川城から田中城へ移ったのが、史実だからである。

小川における長谷川家について、司馬遼太郎さんが北条早雲の後半生を描いた『箱根の坂 中』(講談社文庫)から、引く。

  小川(こがわ)村は、こがわ(ヽヽヽ)という名の一筋の川
  が駿河湾の西の一角に流れこむ河口にある。そこに湊
  (みなと)がある。(略)
  小川村はいまは焼津(やいづ)市に属してしまっているが、
  早雲たちの当時は、焼津はただの田舎にすぎず、小川村
  のほうこそ、
  「小川湊(あるいは小河の津)」
  などと呼ばれて大いに栄えていた。(略)
  この浜では、塩がつくられる。
  (塩は、小川村の法栄(ほうえい)の富の基礎(もと)だ)
  と、早雲は考えていた。(p51 新装版p60)

法栄(死後は法永)---この長者こそ、平蔵を含めた長谷川家一門の祖であることは、静岡県では周知といっていい(鬼平に興味のない人は、もちろん、論外である)。

京から今川義忠に嫁いで竜王丸を産んだ千萱(ちがや)---北川殿---は、早雲の妹格で、義忠の戦死後の家督あらそいに、竜王丸を擁した早雲法栄長者が、反対派と争う。

それはともかく、法栄長者は、曹門の寺院を開基した。林叟禅寺(現・焼津市坂本)である。

B
坂本の山裾にある林叟禅寺の鐘楼とその奥の本堂

したがって、法栄長者夫妻は、当寺へ葬られた。
天明年間(正満40~47歳)、正以を養子に迎えて後継のことを安堵(あんど)した長谷川栄三郎正満は、祖先の故里である小川村を訪れ、林叟禅寺に墓参、衰えていた法永長者夫妻の墓を、墓域の中心---ホルトの大樹の下に新しく2基建てた。現存しいるのがそれである。

C
向って右が法永の、左は夫人の墓石

正満はさらに、長谷川家先祖代々の位牌と、法永の位牌を奉納し、永代供養の費を寄進した。位牌はいまなお位牌殿の最高席に安置されている。

B_1
長谷川家先祖の位牌(中央)と法栄長者夫妻の位牌(左)。
長者の法号・林叟院殿扇伴菴法永大居士
夫人の法号・長谷寺殿松室貞椿大姉

この3月の参詣が4度目であった。初回は2年前に畏友・中林正隆氏に案内された。
長谷川家の歴史探求の一端である。

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2006.05.22

平蔵の次男・正以の養子先

長谷川平蔵の家禄は400石だった。

家康のころ、浜松郊外・三方ヶ原(みかたがはら)で、数倍する武田勢と戦って戦死した先祖の、遺児・次男がうけた禄高が、そのままつづいたのである。いってみれば200年間昇給なし。

遺児・長男がついだ本家は1750石。そこからのちに断絶した分家へ300石をわけた。本家の次男には別途に500石が給された。

特筆すべきは遺児・三男。つまり平蔵家の祖の弟。11歳で秀忠の小姓に召され、しばしば加増をうけてしめて4070石! 1800坪を超える牛込・御納戸町の屋敷はともかく、渋谷にも2万坪の別荘地をもらっている。異例だ。寵童だったとの推察もできなくはない。

Masatame
養子先の牛込の1800坪を超える屋敷(近江屋板)

長谷川一門でもっとも富裕な家柄なので、つねに一門の養子先として狙われていた。

平蔵の時代…寛政元年(1789)ごろ、ここの九代目をつぐべき嫡子が夭折(ようせつ)した。

残ったのは女子2人。上は病みがちでとても嫁げそうもない。下は7歳。当主の栄三郎正満(まさみつ)は平蔵よりも1歳年上の45歳だがいちども役職につけないほどの病身だった。
名奉行・大岡越前守忠相(1万石)直系の孫娘だった後妻は出産年齢をとうにすぎていた。

まわりを見わしたところ長谷川一門には、平蔵の次男で9歳の銕(てつ)五郎のライヴァルはほとんどいなかったものの、係累の多い大岡家のほうには数人いた。

平蔵はさっそくに根まわしをはじめた。一門の長老で火盗改メをつとめたときに若かった平蔵がその助手のようなことをした、本家の当主・太郎兵衛正直(79歳)を説いた。

「かの家へこれまで一門外から養子に入った者はありません」

言外に、4000余石をほかからの血にむざむざむしられることはないと匂わせた。

このときの平蔵の論理はいささか滑稽でもある。4000余石は家についているのであって、それが守られれば血は関係ないというのが当時の考え方だった。

したたかな太郎兵衛は、曽孫2人の顔を思いうかべたが、なにぶんにも幼なすぎた。しょうことなく銕五郎の養子入りに賛意をあらわした。

徳川幕臣の次男、三男は養子にいけなければ一生を実家で厄介者として送るのがふつうだった。だから平蔵とすれば、次男・銕五郎の養子口が決まらないかぎり死んでも死にきれなかった。もっとも、そのころの平蔵はピンピンしていて火盗改メの仕事に腕をふるっていたが。

平蔵が次男の養子先として4000余石の裕福な一族へ白羽の矢を立てたのは、火盗改メの役目を長くつとめればつとめるほど、わが家の資産が激減していくことを予想していたためだ。
いや、持ちだしになってもこの役目は立派につとめあげよう、つとめなければならない時代に生きている……との使命感に燃えていたともいえる。

平蔵が8年間も火盗改メをつとめたため、平蔵家の家計は逼迫の極におちた。

つぶやき:
知行の1石は1両と換算するのがふつうである(1両は現代なら10万円見当。『鬼平犯科帳』末期、池波さんの換算率は20万円と高かった)。
扶持(ふち)の1俵(3.5斗)も1両。
というのは、知行のばあい4公6民で、400石の長谷川家なら手取りが160石前後だからである。
つまり、長谷川家の年収は400両。それで家宰や用人、家僕・女中などすべての給料もまかなう。
先手組頭は1500石格なので、平蔵の場合、家禄との差の1100石の足(たし)高がもらえる。

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