カテゴリー「005長谷川宣雄の養女と園 」の記事

2008.03.30

於嘉根という名の女の子(その7)

もし、銕三郎(てつさぶろう 18歳=当時 のちの小説の鬼平)と、縁切りの尼寺へ入った阿記(あき 21歳=妊娠当時)のあいだに生まれた女児・於嘉根(おかね 宝暦14年 1764 1月に尼寺で誕生)が、長谷川家に引き取られるとおおもいになったとしたら、筆者の力が至らなかったことをお詫びしないといけない。

於嘉根が年齢からいって、長谷川家の養女ではありえないことは、2008年2月7日[ちゅうすけのひとり言]の(4)で気がついて、(たえ 銕三郎の実母)から生まれたかどうかは別として、実妹に間違いないことは明らかにしておいたつもりである。
どうぞ、上掲のリンクつきの印してげあるオレンジ色(4)をクリックして、史実をお確かめおきいただきたい。

『寛政重修諸家譜』にある銕三郎の妹は、亡父・宣雄(のぶお 享年55歳 をもうけた時は52,3歳)の隠し子・(その 文庫巻23[隠し子])なんかではない。もっとも、寛政7年(1795)前後に元下僕・久助(きゅうすけ 75歳)が鬼平(50歳)へ打ち明けた時のは30歳であったから、平蔵宣以の子という仮説もなりたたないわけではない。

そういうおもいが、筆者の頭の片隅にへばりついていて、ことあるごとに、実妹が平蔵宣以(のぶため)の子であるとすると、どういう経緯(ゆくたて)で妹として届けえたのであろうと空想にふけるわけである。

ここまで、銕三郎阿記の睦みあい、阿記の会話を記録していて、どう結末をつけるか---などと、空想した一つを、赤面しながら記してみると---。

春の某日---が訪問して旬日後。
芦ノ湖畔であそんでいた於嘉根が、何かにみとれて湖へ落ちる。阿記があわてて飛び込み、於嘉根をつかんで岸へ放りなげると、都合よく、男が受け取ってくれる。
しかし、そこは意外な深みで、水を吸い込んだ着物の重みで、阿記は溺死。
そのことを聞いたは、ふたたび芦ノ湯村へやってきて、於嘉根を貰いうける。
そのあと、は実家の上総国武射郡(むしゃこおり)寺崎村(千葉県山武市寺崎)へ引きこもり、半年後に於嘉根とともに南本所・二之橋通りの長谷川邸へ戻ってき、何食わぬ顔で幕府へ実子としてとどけた---といった筋書きを、まじめくさってかんがえるのである。

しかし、解決しなければ問題は別にある。
辰蔵の生年である。明和7年(1770)、銕三郎宣以が25歳の時の嫡子。
とすると、久栄(ひさえ 小説の妻女 大橋家のむすめ)との婚儀はその前年であったろう。銕三郎は24歳。
銕三郎が23歳の明和5年(1775)12月5日がお目見(めみえ)---これを済ましたことで、いつ、父・宣雄にもしものことがあっても、家督する権利を得たことになる。
久栄との婚儀の話は、この前後からおきていたろう。
阿記とのことがすっかり片づいていないと、婚儀にさしさわりがでる。

と、阿記を溺死が、現実味をおびてくる。

しかし、きょうからあと、銕三郎の婚儀成立までの3年間、色恋沙汰がないというのも、さびしい。書き手とすれば、銕三郎阿記を、もう一度、合褥(ごうじょく)させてやりたい。
銕三郎が23歳なら、阿記は26歳、芦ノ湯小町といわれた色香は、十分に残っていよう。
ただ、於嘉根が4歳だから、彼女の目を忍んでの同衾させるのは、工夫を要する。
秘画特有の、これみよがしの、しどけない大胆な姿技の引用もひかえることになろうか。

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(国芳『葉奈伊嘉多』([仮の逢う瀬]部分))

それとも、3年経って、髪も伸びてきているとすると、こっちの絵かなあ。

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(国芳『江戸錦吾妻文庫』部分)

なにをくだらないことに時間を浪費しているんだ---と自分が自分を叱る。

類推するなら、於嘉根が18歳ほどになった時の平蔵宣以との対面シーンではなかろうか。平蔵36歳の男ざかり。徒の頭(かしら 役高1000石)。分別十分。

於嘉根のイメージ。芦ノ湯村小町だった母親に似て、なかなかの美形。

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(英泉『玉の茎』)

それでは、あと16年、於嘉根のことには封印をしておこう。
銕三郎には、別のいい女との出会いを設定してやるか。

参照】2008年3月19日~[於嘉根という名の女の子] (1) (2) (3) (4) (5) (6)

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2008.03.29

於嘉根という名の女の子(その6)

「お髪(ぐし)は、どれほど、伸びましたか?」
(たえ 40歳 銕三郎の実母)が、於嘉根(おかね 2歳)を阿記(あき 23歳)に渡しながら、訊いた。
阿記は、頭に巻いていた水色の布ぎれを無造作に外した。
3寸(約10cm)ほど伸びた毛髪が直立しているようにあらわれた。
「尼寺では、山を去る半年前から頭を剃らなくてもよいきまりになっており、ちょうど9ヶ月で、これほどに---。髪が結えるようになるには、あと2年ばかりかかりましょう。その日が待ちどうしゅうございます。髪は、女の2番目のおしゃれどころでございますから---」

「お産は軽うこ゜ざいましたか?」
「いえ。初産(ういざん)でもあり、軽うはございませんでした。でも、銕(てつ)さまのお子を授かるのだと、懸命に力みました」
阿記が、頭へ布巻きながら、恥ずかしそうに答える。
「私が銕三郎を産みました時も、重いお産で、なんという親不孝な子だろうと---」
2人は、顔を見合わせて笑った。

「お産は、鎌倉の尼寺で?」
「はい。一度、得度(とくど)いたしますと、お産といえども、山を出ることは許されません」
「寺でお産みになる方も多いのですか?」
「少なくはございませんが、縁を切りたい男の人の子ではないのを、入山の前夜か2夜ほど前にもうけたというのは、私だけでございました」
「では、ずいぶんと責められましたか?」
「いいえ。山では、浮世のことは、一切、み仏にお預けして---ということでございましたから---」
銕三郎の不行きとどき、幾重にもお詫びいたします」
「とんでもございません。こんなかわいい子を授けてくださいました。感謝しております」
「そのようにお許しいただくと、肩の荷がおりたようで、ここまで訪ねてきた甲斐がありました。ところで---」

と、は、於嘉根の人別(戸籍)のことを訊く。
縁切り寺で生まれた子は、ふつうは、父(てて)なし子として、扇ヶ谷村支配の代官所江川太郎左衛門へ届けるのだが、阿記の場合は、箱根・畑村宿をとりしきっている、めうがや畑右衛門が手まわし、父・次右衛夫婦の子ということになった。
産褥(さんじょく)に臥せっている阿記の知らぬ間の、再婚のことをおもんぱかった処置という。

「ひどい話だと怒りましたが、於嘉根が手元にいさえすれば、そのことはどうでもいいとおもうようになりました」
阿記さんは、お若いのですから、この先、独り身というわけにもいかないでしょう?」
「この湯治宿は、いま、よその温泉場で見習いをしております兄が継ぎます。その兄が嫁をむかえた時には、私は、ここを出て行くつもりにしております。たつきのお金は、兄が仕送りしてくれるといってくれておりますから、仕立てものでもしながら、どこかで、於嘉根と暮らしていくことになりましょう」

阿記は、が、「うちへおいでなさい」と言ってくれるとは、つゆ考えてもいなかった。しかし、のつぎの言葉には、内心、むっとした。
阿記さま。於嘉根ちゃんは、わたしが産んだ子として、長谷川家でお引きとりしてもよろしいのですよ。阿記さまの再婚のために---」
「とんでもございません。さまのお子をつくろうと決めました時に、はっきり申しあげました。ご迷惑はおかけいたしませんと」

【参照】その夜のことは、2008年2月1日[与詩を迎えに] (38)

「しかし、その時はその時。再婚のお話がでた時は、また、別でございましょう?」
「お伺いいたします。いまのお話は、銕三郎さまのお気持ちでしょうか?」
「いえ。あれはまだお目見(めみえ)もすんでいない部屋住みの身ですから、なにも相談しておりません。私一人の考えたことです」
「わかりました。どうぞ、このお話は、なかったことにしていただきとうございます」

阿記は、銕三郎が、突然、遠い存在になったようで、軽いめまいをおぼえた。
で、
阿記さんのような嫁なら、私ともうまくやっていけそうな気もするのだが。於嘉根も父親の下で安らかに育つことであろう。ただ、阿記さんは、武家の嫁にしては美しすぎる)
おもっていたが、心を鬼にしていた。

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(歌麿 阿記のイメージ)

strong>於嘉根を、自分の子として幕府に届けけられるのは、この夏までがぎりぎり---とふんでいたのである。

【参照】2008年3月19日[於嘉根という名の女の子] (1) (2) (3) (4) (5)

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2008.03.28

於嘉根という名の女の子(その5)

吾平(ごへえ)どん。先に〔めうが屋〕さんへ行って、まもなく、私が阿記(あき)どのを訪ねてきている、と申してきておくれでないか」
芦ノ湯村の手前の立場(たてば)で休んだ(たえ 40歳 銕三郎 てつさぶろう の実母)が、下僕の吾平(46歳)を先触れにゆかせ、供の女中・有羽(ゆう 31歳)から鏡を受け取り、髷(まげ)のほつれや白粉のはたはなおしをする。
それから、有羽の着付けのゆるみにも視線をくばった。
長谷川家のしつけのがしっかりしているところを、阿記(23歳)に見せるつもりなのである。

立場の老婆がだしたお茶をすすっていると、吾平のうしろから、かつて長谷川家で下僕をしていた藤六(とうろく 47歳)が駆けつけてきた。
「奥方さま。お久しぶりでございます。ようこそ、こんな雛へお越しくださいました」
「おお、藤六どん。そなたが阿記さまと於嘉根さまにお仕えしていてくれていることは、銕三郎から聞きました。いつまでも忠義のこころを忘れずにいてくれて、ありがたくおもっております」
「勝手をしました藤六をお許しくださったばかりか、おはげましのお言葉まで頂戴して、夢のようでございます。阿記さまがお待ちでございます。さ、どうぞ---」

〔めうが屋〕では、玄関で、於嘉根(かね 2歳)を抱いた阿記と亭主・次右衛門夫妻が待っていた。
阿記は、尼僧時代に剃髪した髪が伸びきらないらしく、淡い水色の布で頭をつつんでいた。
頭髪はまだ生えそろってないとはいえ、若い母親らしいゆとりのある阿記の美しさに、は、内心で、
銕三郎には、すぎたおなご---)
とおもった。
あいさつの交わしあいがすむと、有羽は、離れへ案内された。
脚絆などの旅装束を解いたは、有羽が差し出す、400石の幕臣の内室らしい裾を引く召し物に着替え、阿記を待った。

阿記が、お茶を捧げて、入ってきた。
の前に茶托(ちゃたく)をすすめ、
「このような山奥までのお運びで、さぞ、お疲れになられましたことでございましょうが、阿記は、このうえなく、うれしゅうございます。、湯で、ごゆっくりと、お疲れをおいやしくださいませ」
折り目正しい、口上に、またも妙は、内心、
銕三郎には、すぎたおなご---)

阿記さま。その節は銕三郎がすっかりお世話になりましたようで、お礼を申しあげます。これは、ほんの気持ちだけのものですが、お嬢さまの節句にでも着せてあげてくださいませ」
尾張町の呉服舗〔布袋(ほてい)屋〕であつらえた、女の幼児の着物である。

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(尾張町の呉服太物[布袋屋] 『江戸買物独案内』
川柳に「尾張町通りすぎると静かなり」 京弁の呼び込み)

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([尾張町角に恵比寿屋、布袋屋、亀屋があったので、川柳は、
「尾張町めでたきものでおっぷさぎ」)

「まあ、お祖母(ばあ)さまからの頂戴もの。於嘉根が大喜びでございます」
平塚の太物舗〔越中屋〕の若女将だった阿記は、有名店〔布袋屋〕の名は知っている。

「私が、於嘉根さまのお祖母でございますか?」
「お祖母さまのお許しもなく、お嘉根をつくりまして、申しわけございませんでした。幾重にもお詫びいたします。でも、阿記は、なんとしても、銕三郎さまのお子をもうけたかったのでございます。悔しいのは、男の子でなく、女の子だったことですが、いとおしさには変わりございません」
「可愛い孫むすめを、このお祖母(ばば)にも抱かせてくださいますか?」

いそいそと母屋へもどっていく阿記のうしろを、有羽が〔めうが屋」への土産物を携えてしたがう。 
しかし、阿記於嘉根を抱いてふたたび離れへやってきた時には、有羽の姿はなかった。さりげなく、席をはずしたのである。

「おお。於嘉根ちゃん。私が、銕三郎の母ですよ」
は、あやしながら、於嘉根の顔から、20年前に抱いていた赤子---銕三郎の面影を探している。
於嘉根への呼びかけに、阿記が目をうるませたようだ。
於嘉根は母親似で、もし、長谷川屋敷で育てば、〔本所小町〕は間違いないとおもったが、ちょっぴり落胆したことも事実であったと言いそえておく。

「で、阿記さま。嘉根という名づけは---?」
さまにお諮(はか)りもせずにつけまして、申し訳ございません。さまの金偏(かねへん)をいただきました」
(そういえば、阿記の前夫の名は幸太郎、屋号は〔越中屋〕---どこにも嘉根の名にかかわるところはない)
於嘉根の根は、さまと知り合い、結ばれたのが箱根権現さまのお引きあわせとおもい、箱根の「根」をいただました」
於嘉根ちゃん、あなたは箱根権現さまのおさずかりものだそうですよ。後光がさしていますよ」
は、拝むふりをして、阿記を笑わせた。
は、こんなに躰の奥からなごんだ気分になったのは何年ぶりであろうかと考え、赤ん坊の銕三郎を抱いていた以来だから、20年ぶりに近いと気づき、はっとした。
その時---なぜか、於嘉根が小さな手をのばしての顔にさわり、
「おばば」
と言って微笑んだのである。
それで、はすべてを了解し、ほとんどを許してしまっていた。
許せなかったのはただ一点---銕三郎が、阿記母子のことを、この時まで妙に話していなかったこと。

参考銕三郎阿記との出会いとなれそめ 
2007年12月29日~ [与詩を迎えに] (9) (10) (11) (12) (13) (14) (15) (25) (26) (27) (28) (29) (31) (32) (35) (36) (37) (38) (39) (40) (41)

2008年3月19日[於嘉根という名の女の子] (1) (2) (3) (4)

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2008.03.22

於嘉根という名の女の子(その4)

「殿さま。なにか不調法でも---?」
(たえ 40歳)は、夫・宣雄(のぶお 47歳)の怒声を久しく耳にしていなかったので、急ぎ足で部屋へ入ってきた。

妻の顔を見て、平蔵宣雄は、いつもの冷静さを取りもどしたといえる。
「いや。大事ない。そうだ、もここへ座って、(てつ)がしでかした不始末をどう結末つけるか、いっしょに考えくれ」
「不始末とは?」
「赤子だ」

「父上。1歳と3ヶ月の子です」
銕三郎(てつさぶろう 20歳 のちの鬼平)が、むきになって正した。

事態が呑みこめなくて首をかしげている母・に、銕三郎が2年前の阿記(あき 当時=21歳)との成り行きを説明する。

【参考】阿記とのなれそめ 2008年1月1日[与詩を迎えに] (12) (13) (14)

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(北斎『させもが露』)

「まあ。おめでたい話ではございませんか。でも、男のお子でしたら、もっとよろしかったのに---」
。じつのところ、の子なのか、前の夫の種なのか、まだ、決まってはいないのだ」
「いいえ。鉄三郎の子に決まっております」
「どうして、わかるのだ」
「殿さま。ご自分の時のことをお考えになってごらんなさいませ。殿さまと私とは、婚儀もあげていないのに、銕三郎をつくりました。私が、ややができました、銕三郎を孕みました、とお告げしました時、殿さまは、別の殿ごの種だとお思いになりましたか?」
には、ほかに男がいなかったではないか」

「それでは申しあげます。その阿記さんというお方が、銕三郎の子だとおっしゃったら、お信じになりますか?」
「それは---」
「女には、子どもがお腹に宿った瞬間の時のことが、ふしぎと感じとれるのでございます」

ちゅうすけ注】阿記銕三郎の子が着床したと想像できる夜 2008年2月1日[与詩を迎えに] (38)

「しかし---」
「いいえ。私が、阿記さんに会って、お話を聞いてまいります。阿記さんが、銕三郎がその子の父親だとおっしゃってから、あとの手だてを考えても、遅くはないのでございませんか。お子は、もう生まれてしまっているのですから」
「うーむ」

「しかし、母上。あとの手だて---と申しましても、阿記どのからは、何も申してきてはいないのです。箱根で荷運びをしていた者から聞いただけなのです」
「お黙りなさい、銕三郎ッ。あなたは、なぜ、阿記さんは、お子が宿ったこと、無事に生まれたこと、育っていることを、あなたに、まったく、知らせてこなかったか、考えたのですか? 長谷川の家名に傷をつけてはならない、といじらしくお考えになったからではないでしょうか? 私には、痛いほど、わかります。そなたがお腹の中に宿った時、どのように、殿さまへお伝えしようか、すまいかと、何日も何日も悩みました。殿さまは、その時は、2代つづいての冷や飯のご身分でしたから、お困りになるだろうと---」
「おいおい。そんな昔のことを持ち出さなくても---」

「いいえ、殿さま。あの時の私は、村長(むらおさ)のむすめといっても、お武家さまの正妻になれる身分ではございませんでした。それでも、平蔵宣雄という男の方が好きで好きでたまりませんでした。大きなつつんでくださるお方におもえたからです。この殿ごのお子を産みたいとおもいました」
の目からは、大粒の涙がこぼれはじためた。
銕三郎も、自分の出生の筋立てを、あらためて聞き、感じいっていた。

阿記さんとおっさしゃる方も、銕三郎のことが好きで好きでたまらなかったから、身をおまかせになったのでしょう。箱根へ行って、お会いしてまいります。そうしないではいられません」
「母上。拙もお供をいたします」
「いいえ。銕三郎がいては、筋立てがもつれるだけです。そなたは残っていなさい」

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2008.03.21

於嘉根という名の女の子(その3)

「父上。折り入ってのお願いがございます」
母・(たえ 40歳)が2人の膳を召使に下げさせて部屋を出ると、銕三郎(てつさぶろう 20歳)がかしこまって、父・平蔵宣雄(のぶお 47歳)へ言った。

「じつは、子どもができました」
「ほう。どこに、じゃ?」
「箱根です」
「それだけでは、飲みこめぬ。もちっと、詳しく話してみよ」

銕三郎は、2年前の春、与詩(よし 宣雄の養女)を迎えに駿府へ旅したとき、旅程に芦ノ湯村を加えて、その地の湯治宿〔めうが屋〕のむすめで、実家へ帰っていた阿記(あき 21歳=当時)を抱いたこと。
【参考】阿記との出会いとなれそめ 2007年12月29日~ [与詩を迎えに] (9) (10) (11) (12) (13) (14) (15) (25) (26) (27) (28) (29) (31) (32) (35) (36) (37) (38) (39) (40) (41)
 
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(英泉『古能手佳史話』)

阿記が鎌倉の縁きり寺・東慶寺へ入山まで付き添ったことを打ち明けた。
なんのためらいもなく、すらすらとありのままを話せる自分に、銕三郎は、
(それだけ、大人になったのだろうし、あれは、自然の成り行きだったからだ)
と、自分でも合点した。

「そのことは、辞めた藤六からは聞いておる。目の前においしいものがぶらさがれば、飛びついてでも食らうのが若さの特権というものだ」
「しかし、赤子ができたとなると、話は別でございます」
「いま、は、なんと申した? 嫁家先から実家へ帰る途中で知り合った---と言わなかったか?」
「申しました」
「さすれば、父親は、嫁家先の夫やも知れない」
「いえ。拙にはおもいあたるふしがございます」
「たわ言(ごと)を申すでない。母親は間違いなく産んだといえるが、父親はだれにもわからぬものと、古今からそういうことになっておる」

「しかし、阿記は、拙の子を産みたいと申しました」
「そのことを言っているのではない。父親はだれにもわからないと言っておるのじゃ。この場合、当の母親にもわからない」
阿記は、3年ものあいだ、幸兵衛(こうべえ)---あ、阿記の夫の名です、でした---幸兵衛とともに暮らしていましたが、子なしでした」
「3年目に子をなす夫婦もあれば、10年目にできる夫婦もある。2年と11ヶ月があいだ、孕まなかったからといって、銕三郎の子と断ずることはきぬ」
「そんな、無責任ないいのがれは、できませぬ」
銕三郎は、阿記との純粋に燃えた情熱が、汚されたような気がした。

「無責任になれ、と申しておるのではない。よく確かめろというておるじゃ」
「どのように確かめればよろしいのでございますか?」
「赤子は、10月10日目にかならず出てくるとはかぎらない。したがって、出生の日からは決めることはできない。が、しばらく待てば、親に似たところもでてこよう」
「1歳と3ヶ月ほど経っています」
「では、誰かに、顔、姿を確かめてもらおう。それには、その太物屋の幸兵衛とやらをも見分してもらう必要もあるな」

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(国芳『葉奈伊嘉多』)

「で、もし、拙の子に間違いないとなりました時は---?」
「厄介なことになる」
「どのような?」
「武家の出でない婚姻外の女が産んだ子は、庶子としてとどけることになるが、お目見(みえ)もすんでいないの子としてとどけるのは、いささかむずかしい」
「拙は、一向にかまいませぬ」
「そうはいかない。その方は、この長谷川の家を継がねばならぬ身じゃ」
「拙が家を出て、養子をお迎えになれば---」
「馬鹿ッ! それこそ身勝手というものじゃ」

その鋭く大きな声を聞きつけたが、何事かと驚いた表情で、2人が睨みあっている部屋へ入ってきた。

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2008.03.20

於嘉根という名の女の子(その2)

「知らなかった!」
胸の奥の奥からしぼりだしたような声で、銕三郎(てつさぶろう 20歳 のちの小説の鬼平)はくりかえし、うめいた。

つばめが軒先をかすめて半転し、飛び去る。

風速(かざはや)〕の権七(ごんしち 33歳)は、 いたわるような眼差(まなざ)しで銕三郎の次の言葉を待っている。

むせるような匂いは、隣家との境界に育っている数本の桐の薄紫の花からのものだ。

ようやくに、銕三郎が言葉をつないだ。
阿記(あき)どのは、縁切りができたのですか?」
「そりゃもう、2年間、尼寺にお籠(こ)もりとおしなすったのですから、どこからも文句の出るもんじゃあござんせん。長谷川さまもご存じの、平塚宿一帯の顔役・〔馬入(ばにゅう)〕の勘兵衛(かんべえ 37歳 )どんも、〔越中屋〕の幸兵衛(こうべい)に念を入れてくれたと言っとりました」

芦ノ湯小町といわれていた阿記は18歳で、平塚宿の太物(木綿衣料)の老舗〔越中屋〕の当主・幸兵衛(こうべえ 22歳=当時)に嫁いだが、姑の意地悪に耐えかねて実家へ逃げもどる箱根路で、銕三郎と出会い、夫とはケタ違いの大きな器量に、一と目で魅せられた。

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(当時の旅人が携行した『懐中東海道道しるべ』
赤〇は阿記の実家がある芦ノ湯村)

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(浜松以東と以西の2巻もの)

阿記に未練たっぷりだった幸兵衛は、〔馬入〕の勘兵衛をおどし役に雇って阿記の実家・〔めうが屋〕へ連れもどしにやってきたが、〔風速〕の権七が仲へ入り、勘兵衛は手を引くことになって、けっきょく、幸兵衛は泣き寝入りの形になった。

阿記は、鎌倉の縁切り寺・東慶寺へ入り、2年間、尼僧としての修行をつんだ。それで、元の夫・幸兵衛との縁は断ち切れる。

もちろん、銕三郎は、ふとした時々、こころも躰もゆるしあった阿記との旬日のあれこれを偲んだが、江戸と鎌倉---ましてや、東慶寺は男子禁制でもあり、文をやることもなくすごしてきたのである。
(勤行(ごんぎょう)明けのときにでも、文をとどけておいてやればよかった)
しかし、
(未練がましいし、阿記のこんごの人甲斐(ひとがい 風評)の邪魔となってはいけない)
自分をいましめていたことも事実である。
(しかし、おれの子が生まれていたとなると、話は別だ)
(できたのは、おれの子を産みたいといって燃えた、あの夜だろうか?)

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(英泉『夢多満佳話』)

ちゅうすけ注】銕三郎が想いだした燃えた[あの夜]とは、2008年2月1日[与詩を迎えに](38)

(それとも、東慶寺で剃髪してきてからでてきた、その異相におもわず興奮しながら交わった鎌倉の旅籠でだったのであろうおか?)

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(国芳『枕辺深閨梅』)

(それにしても、尼寺での子育ては苦労だったろう)

権七(ごんしち)どの。阿記どのの消息をも少しお聞かせいただきたいが、この家ではまずいとおもいます。どこか、安心して話せるところへ---」
「狭いところですが、須賀の店へ参りやしょう。夕刻までは、人はきません」

銕三郎は、松浦用人に(夕飯までには帰る)と断り、権七とつれだった門を出ようとした時、与詩(よし 8歳。宣雄夫妻の養女。銕三郎の義妹)がどこから帰ってきて、権七に、
「あら。箱根のおじさま」
与詩さま。しばらくのうちに、大きく、きれいにおなりで」
権七は、心得ている。
「きれいになった」といわれて喜ばない女はいない。与詩のような8歳の子でも。

「箱根のおじさま、あいかわらずのお口上手なこと」
与詩も成長いちじるしい。

 

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2008.03.19

於嘉根(おかね)という名の女の子

「若さま。〔風速(かざはや)〕とかおっしゃる方がお待ちになっておられます」
下僕の太作(たさく 60歳近い)が、学而(がくし)塾から帰ってきた鉄三郎(てつさぶろう 20歳 のちの小説の鬼平)に、告げた。
太作はめっきり老け込んで、腰もすこし曲がってきている。
屋敷の主・平蔵宣雄(のぶお 47歳 先手・弓の8番手の組頭)は、長年の働きを多として、仕事はしないで隠居していろと言っているのだが、本人にはその気がない。あいかわらず、小まめに薪を割ったり、門前の掃除をしてりしている。

「なに、〔風速〕と申したか?」
「はい。箱根路の〔風速〕と言っていただけばわかるとおっしゃって---手前の部屋でお待ち願っております」
「よし。躰の汗を流して着替えたら、おれの部屋へ案内してくれ」

箱根路と聞いて、咄嗟に、久しく忘れていた2年前の、芦ノ湯村湯治宿のむすめ・阿記(あき 当時21歳)の、事が終わったあと、薄紅色がさした白い肌をさらしたままで恍惚とまどろんでいた姿が、生々しく、よみがえった。

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(国芳『江戸錦吾妻文庫』)

18歳の春、銕三郎は駿府(静岡市)へ、養女・与詩(よし 当時6歳)を迎えに行く箱根路で知り合い、鎌倉の縁切り寺の東慶寺までいっしょに旅をし、幾夜も躰を重ねた。

井戸端で水をかぶっているあいだも、股間のものの緊張はやまなかった。
(そういえば、この春、東慶寺で2年の奉仕を終えて、無事に離縁できたろうか?)
阿記の実家、芦ノ湯の湯治旅籠の〔めうが屋〕の離れの浴槽で背から抱いた阿記の張りのあった臀部の感触は、まるで、春の川の流れに身をまかせていてのできごとのように、思いだす。

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(英泉『玉の茎』[水中浮流])
ちゅうすけ注】2人が、上の絵のような愉しみ方をしたのは2008年1月18日[与詩を迎えに] (28)

単衣に着替えたところへ、太作が〔風速〕の権七(ごんしち 33歳)を案内してきた。
長谷川さま。お久しぶりでごぜえます」
「権七どのらしくもない。挨拶は抜きです。いつ、江戸へ?」
「もう、2ヶ月になりますか---」
「だから、その普段着なのですね。どうして、すぐに来てくれなかったのです?」
長谷川さま。それは無理というもの。鉄砲洲を訪ねてゆきましたら、阿波(あわ)さまの中屋敷の門番たちに追っ払われちめえました」
「それは、相すまぬことでした。昨年末にここへ越したのです」
「さようだそうで---。湊町の名主に教えられました」

「で、江戸へは---?」
「はい。箱根で、ちょいとまずいことを起こしまして---」
「で、江戸では、どこに住んでいますか? 須賀どのは?」
須賀の奴を、覚えていてくださいましたか。あいつにいってやれば、喜びましょう。いえ、須賀もいっしょ、というより、あれが、永代橋東詰でちっぽけな呑み屋を開きまして、居候をしてまして」
「なんだ、近くではないですか」

「それはそうと、長谷川さま。駿府へのお供をなさっていた、藤六(とうろく 47歳)どんが、芦ノ湯村の〔めうが屋〕の女中・都茂(とも 45歳)と仲むつまじく、〔めうが屋〕で働いているのはご存じで?」
藤六が1年前に暇をとったのは、そういうことだったのか。よほどに、躰と躰があったとみえる)

ちゅうすけ注】『鬼平犯科帳』巻6[狐火]で、〔相模(さがみ)〕の彦十が、おまさに、2代目狐火とは、「よほどに躰と躰があったんだね」と。あれです、藤六都茂の仲は。百に一つ---あるかなしなんですってね。

B_360_2
(北斎『ついの雛形』)

「〔めうが屋〕といえば---」
「それでございますよ、長谷川さま。阿記さんが子づれで尼寺から帰ってきたのはご存じで?」
「なに? 子づれ---?」
「はい。1歳ちょっとの---」
「知らなかった!」


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2008.02.05

与詩(よし)を迎えに(番外)

【訂正とお詫び】
2008年1月5日[与詩(よし)を迎えに](16)で、駿府で銕三郎(てつさぶろう)が宿泊したのは脇本陣〔大万屋清右衛門方とした。
宿名は、岸井良衛さん『五街道細見』(青蛙房 1959.3.15 再版)から拾った。
同書には町名が記されていなかったので、城下を東西に通っている東海道筋のどこかとふんで、本通りとし、その地図を添えた。
青○の地点がそれである。

_360_2
(駿府町地図 青○=本通りに面した本陣〔大万屋〕 赤○=町奉行所
緑○=奉行所与力屋敷 黄○=同心屋敷 ピンク面=寺社地)

SBS学苑パルシェ〔鬼平〕クラスは開講5年になる。ここで共に学んでいる安池さんが、[与詩(よし)を迎えに](16)を読んで、〔大万屋〕の所在を調べてくださった。

研究書のコピーによると、駿府の旅籠のほとんどは、本通ではなく、伝馬町に集中していたようである。駿府城の東南にあたる、東海道筋の一郭である。

_360_3
(青○上伝馬町の〔大万屋〕清右衛門 )

上伝馬町 上本陣  望月治右衛門
    建坪=191坪
同    脇本陣  松崎権左衛門
    
下伝馬町 下本陣  小倉平左衛門
    建坪=215坪
同    脇本陣  平尾清三郎

旅籠40軒(うち、大旅籠3軒)

それで、『五街道細見』の記述を詳細に見たら、〔大万屋清右衛門には「脇」ではなく「宿」の略号がついていたから、「脇本陣」を「大宿」と訂正し、お詫びする(1月5日の記述は、安池さんのご教示を称えるために、誤記のまま残しておく)。 

別の資料には、上伝馬町の脇本陣として、太兵衛 建坪=107坪もあがっているが、安池さんからいただいた配置図には、見あたらない。

1_360_3
(上伝馬町の旅籠群・西寄り部分 青=旅籠 緑=本陣 赤=寺社
青○ 大宿・〔大万屋〕清右衛門)

また、別の資料には、札之辻町の〔難波屋仁左衛門方と車町の中村善左衛門方が加番本陣だったとある。本・脇本陣が満杯のときに臨時に本陣の役をつとめたのであろう。

大万屋〕清右衛門が本通りでなく上伝馬町に移転しても、町奉行所までの距離がほとんど同じだったのは、奇遇である。

さらに付記すると、上伝馬町、下伝馬町の呼称は、京都により近いほうを上、その逆の地区に下とつけるのが、当時の呼称のつけ方であった。

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2008.01.24

与詩(よし)を迎えに(34)

箱根の関所は、三島宿から登っていくと、箱根宿の先---東側にある。

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(小田原側からの箱根駅と関所 『東海道名所図会 塗り絵師:ちゅうすけ 右上に宿とその手前に関所と江戸口門 左下は芦の湖)

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(上図部分拡大)

三島からだと京口の冠木門から入り、江戸口と呼ばれている門から出る。

【参照】よみがえる箱根関所

とりあえず、手まわりの荷と与詩(よし)を本陣の〔川田角左衛門方へ預け、銕三郎(てつさぶろう)と〔風速(かざはや)〕の権七(こんしち)は、関所へあいさつにおもむく。

京口の番人に、 権七がなにやら囁くと、一人が足軽番所へ走った。
そこから、40がらみのやや太めの男が出てきて、権七に合図をする。こちらも会釈した。
「小頭(こがしら)の打田内記さまです」
羽織の襟を正して丁寧に腰をかがめ、
長谷川銕三郎です。このたびは、小頭さまのお手を、私用でいたくわずらわせて、恐縮でした」
「いやあ、手前どもこそ、恐縮しておりますぞ。お側御用取次ぎ・田沼意次 おきつぐ)侯のご用人・三浦庄ニなるお方が、わが小田原藩のご用人・正木さまへ、わざわざ書簡をくだされたことで、関所・番頭(ばんがしら)どのがたいそう面目をほどこされましてな。それにしても、なんですな、長谷川どのは、けっこうな繋がりをお持ちですな」
「三浦さまのご配慮のこと、初めて耳にいたしました」
「本陣の〔川田角左衛門方にも伝えてありますから、粗略にはあつかいますまい」

関所から引き返しながら、権七が感にたえたような声で、
長谷川さま。小頭さんもかつて見たことがないほどの喜びようでしたな。権七の株も何倍かあがりましてございます」
権七どの。じつは、それで困っております」
「えっ?」
「1日での箱根越えは、幼い与詩(よし)には辛かろうゆえ、本陣・〔川田〕で1泊するようにと、父上から言われております。で、せんかたなく、〔川田〕で阿記どのと落ち逢うこと、しめし合わせました。しかし、関所からのお声がかかっていると、本陣のご女中衆の目が、拙ども、ひいては阿記どのへ集まります」
「なるほど」
「別の旅籠で逢い引きしても、かつて、芦の湯小町と囃(はや)された婦(ひと)ゆえ、どこでも目立ちましょう」
「そうですとも」
「ついては、あの婦(ひと)を、そのまま芦の湯まで、権七どのに送っていただけないかと---」
「おっと合点。宿場の西はずれで待ちかまえますぜ」

【参考】2007年12月30日[与詩(よし)を迎えに(10)]

「女中頭どののほうは、もう一晩、堪能させたいので、この箱根宿のそれにふさわしい旅籠へ案内してやってくださいませぬか。おっつけ、そこへ藤六(とうろく)をさしむけますゆえ」
「妙案でごぜえますな」

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(箱根宿と芦ノ湖。『東海道分間延絵図』 幕府道中奉行製作)

しばらくして、権七が本陣〔川田〕へ戻ってきて、万事、指示どおりに手配したことを告げ、
「芦の湯村へ行き、すぐに引き返してめえります」
入れ替りに、なんとも奇妙にまじめくさった表情を浮かべた藤六が、出て行く。親の仇でも討ちにゆくように、肩をいからせている。
その背に、権七が、
「明日は、五ッ(午前8時)発(た)ちでごぜえますよ」

本陣・〔川田〕には、大風呂があった。
芦の湖のむこうに、富士山が、4分ばかり、白い頂(いただき)を見せているのが浴槽から望めた。
昼間なので、風殿には客はいない。
与詩といっしょに湯につかる。
抱かれたまま、湯舟で銕三郎の顔に湯を飛ばし、
「きゃっ、きゃっ」
と、与詩は大満足であった。
(父上がここに一泊することをお命じなったのは、こういうことをして兄妹の絆(きずな)を堅めよ---ということだったのだ)
「与詩。泳いでみるか」
与詩の胸と腹にを支えて湯舟のなかを動いた。
「両腕を前に伸ばし、脚を互いちがいに、ばしゃばしゃする」
そう教えながら、
(父上は、知行地の片貝(180石)に近い九十九里浜で、あわび採りを身ににつけられたのかも知れない。母上は、同じ上総(かずさの)国でも、山側の武射郡(むしゃこおり)のほうの知行地・寺崎(220石)の村長(むらおさ)の家のむすめだが、片貝にも、父上にあわび採りを教え、そして情を交わした婦(おんな)がいるはず。あれで、けっこう、艶福家だっんだ)

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(歌麿『歌まくら』[あわび採りの海女])

その海女の姿態が、湯舟での阿記の躰とかさなって、股間のものが目をさましそうになり、銕三郎はあわてた。

【参照】
2007年7月28日[実母の影響]
2008年1月12日[与詩(よし)を迎えに(23)]

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2008.01.23

与詩(よし)を迎えに(33)

ちゅうすけ注:】与詩(よし)が乗った山駕籠について、喜多川守貞 『近世風俗志』(岩波文庫)から図を引いておく。箱根山専用の駕籠で、底が円形で広いため、長く担いでいても足を痛めないと。屋根は網代。『近世風俗志』『守貞漫稿』の書名で知られている。

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三島宿の本陣・〔樋口伝左衛門方から東海道を東へ1丁半で三島大社の大鳥居の前に達する。

広重の絵は、深い靄が立ち込めている社前を、駕籠と宿場馬が箱根道へ向かっている図である。

12_360
広重  『東海道五十三次』 [三島 朝霧]
大きな画面は、↑をクリックでNo.12)

駕籠の乗り手を与詩(よし)と入れ替えると、まさに銕三郎(てつさぶろう)一行だ。

靄で霞んでいた大鳥居の柱の脇から、のそりと〔風速(かざはや)〕の権七(ごんしち)が現れた。
「お待ちしておりやした」
歩みをとめないで、銕三郎が供の藤六(とうろく)を引き合わせた。 

権七が、靄をすかして、あたりを見まわし、駕籠と藤六をすこし先へやってから、
長谷川さま。〔めうが屋〕のお嬢さんはどうなさいました?」
「ひと足、遅れてくるようにしました」
「なして?」
権七どのに、三島にいっしょに泊まっていたことを断ってなかったですから---」
「じょ、冗談じゃありません。こっちは、わかりきったことだから、ゆうべは黙っていただけです」
権七どのはお含みくださっても、駕籠の人たちの口から噂が立つと、阿記(あき)どののこの先の人甲斐(ひとがい)に染(し)みがつくことを怖れています」
「なるほど。ありえますな」
「それで、ともに歩くのは、畑宿村からの下り---畑宿から小田原まで、権七どのの配下で、口の堅い馬方を2頭、手くばり願えないかと。1頭は、打田内記(ないき)どの気付の書状に書きましたとおり、箱根宿から乗りますが---」

三島大社前から、最初の登りが愛宕坂である。

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(箱根街道(西坂道)=茶色 白色=国道1号
青○=三島大社 赤○=富士見平 三島観光協会バンフ)

_260
(富士見平からの富士山 霧しぐれ富士を見ぬ日ぞ面白き 芭蕉
三島観光協会バンフより部分)

富士見平でひと息入れた。
「あにうえ。ここのおやま(山)も、おおきいでしゅ---です。おかし(菓子)みたい」
「お砂糖がたっぷりかかったお菓子です。藤六与詩を茶店の厠へ。ついでに、食べるものをなにか求めてやってくれるか」
_200銕三郎は、気になるのか、坂下のほうを見やる。阿記都茂(とも)の姿は見えなかった。支度によほど刻(とき)がかかったらしい。
藤六め。あれだけ言っておいたのに、けっきょく、都茂の粘っこい求めに屈したな)
口には出さなかった。藤六も、都茂の口封じになればと、励んでくれたのであろう。

_300
(栄泉『古能手佳史話』[強い誘い]部分)

長谷川さま。〔めうが屋〕の2人づれがご心配ですか。大丈夫でごぜえます。あっしの手下(てか)の若いのを、こっそり、尾行(つ)けさせておりますから」
「いつの間に?」
〔甲州屋〕を見張らせておりました」
「どうして、〔甲州屋〕と---?」
「蛇(じゃ)の道は蛇---っていいましてね」
権七どのには、隠しごとはできませんな。ははは」
「ふふふ」
「火盗改メの密偵さながらですな」
「なんでごぜえます、その火盗改メの密偵というのは?」
「ま、登りながらお話ししましょう」

銕三郎の父・平蔵宣雄(のぶお)が小十人・5番手の頭(かしら)に任じられた時、6番手の頭・本多采女(うねめ)紀品(のりただ 49歳 2000石)と親しくなり、銕三郎も面識がある。
幕臣のあいだで、大久保99家、本多100家といわれるほど一族が多いので、引きもある代わりに、不始末のとばっちりで譴責をくらう率も高いとの自嘲も、本人の口から聞いたこともあったが、前年の宝暦12年(1762)11月7日付でめでたく先手・鉄砲(つつ)の16番手の組頭(くみがしら)に発令された。
本人はいつもの軽口もどきに、「家禄2000石の身が、引下(ひきさげ)勤めよ」と苦笑していたが、鉄砲の16番手というのは、別称〔駿河組〕といって、家康公以来の伝統のある組なので、ほんとうは満更でもないらしかった。出世ポストの一つなのである。
引下(ひきさげ)勤めとは、先記したように、本多家の家禄は2000石、先手組頭の役高はそれよりも低い1500石だから、足(たし)高が補填されない役についたことをいう。

_360_2

本多采女紀品、先手・鉄砲の頭から火盗改メに)

しかし、本多紀品は、その年の12月16日から、火盗改メの助役(すけやく)に就いた。
助役とは、年間を通して火盗改メを勤めている本役に対して、火事の多い冬場から春先に併勤する火盗改メのことを指す(『鬼平犯科帳』では、読み手の混乱を防ぐためであろう、助役には触れられていない)。
火盗改メの役料は、40人扶持。1人扶持は1日玄米5合。40人分が支給されるが、屋敷内に白洲や仮牢も新たに設けなければならないから、それっぽっちの手当てではまかないきれなかったとも、史料にある。

ま、それはともかく、父・宣雄ついて、番町の屋敷へお祝いに行ったとき、本多紀品が、
銕三郎よ。躰が空いているときには、密偵でもやってくれないか」
と親しげに言い、火盗改メの密偵としての仕事の内容を話してくれた。
もちろん、父は反対で、密偵仕事よりも、番方(武官系)の家柄の嫡子として、四書五経の勉学や剣術や乗馬、弓や水練などの武術の修行に励め---ときつく言われた。

参考
2007年5月30日[本多紀品と曲渕景漸]2007年5月31日[本多紀品と曲渕景漸](2)のほか、 [本多家]の各項を。


「そうですかい、現役の火盗改メとお親しいのでは、〔馬入(ばにゅう)〕の勘兵衛なんざあ、ますます、恐れ入谷(いりや)の鬼子母神(きしもじん)でごぜえますよ。ところで、火盗改メといえば、3日ほど前に、小田原の有名な店---〔ういろう〕に不思議な盗賊が入ったんでございますよ」
「え! あの、〔ういろう〕に---〕
盗賊と聞いて、銕三郎の頭に浮かんだのは、なぜか、京の天神口で太物商いの店〔天神屋〕をやっているいると言っていた助太郎の顔であった。

参考
2007年7月14日~[〔荒神〕の助太郎] (1) (2) (3) (4)
2007年12月28日[与詩(よし)を迎えに(8)]


ちゅうすけからのお薦め
このところ、当ブログは、アクセス約400/日をいただき、感謝しております。
立ち上げて3年ほどになりますが、この6ヶ月ほど前からアクセスしてくださっている方は、今日、【参考】にあげた本多采女紀品の2日分、クリックして、お読みいただいておくと、これからのストーリーの展開がラクに執筆できます。

薄すうすお気づきとおもいますが、当ブログは、長谷川家を中心において、当時の幕臣の生き方や庶民の生活ぶりを、史実を踏み台にして書きすすめております。

究極の狙いは、未完の『誘拐』を補筆して、おまさを救出することですが、さて、それまで、筆者の体力が保ちますかどうか。

ご愛読、感謝するとともに、お知り合いの鬼平ファンの方にもおすすめいただけると嬉しいです。

このブログを、本にする意思はまったくありません(DVDなら考えますが)。このブログのままでも十分とおもっております。


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2008.01.22

与詩(よし)を迎えに(32)

「箱根御関所の足軽小頭(こがしら)・打田内記(ないき)どのにも、お世話になったが、謝礼はどうしたものでしょう?」
銕三郎(てつさぶろう)が、雲助の頭(かしら)格・〔風速(かざはや)〕の権七(ごんしち 31歳)に訊く。昨日、由井の問屋場から彼あての書簡を、打田小頭気付で早便に託した。
心得た打田が、きちんと権七へ渡してくれたから、こうして権七が三島に泊まりにきている。
長谷川さま。それは要りませぬ。打田の旦那とあっしとは、兄弟分の間柄なのです。お礼だなぞ、水くさいことはなし、なし」
「それでは、このことは、権七どのの言葉にしたがっておきましよう」
長谷川さま。その、権七どのの、〔どの〕も、ただいまかぎりで、なし、ということにいたしてくださいませぬか。〔どの〕をつけられると、背中がむずがゆくなります」
「〔どの〕がいけないとなると、権七うじかな」
権七---で、よろしいのですよ」
「それは、いけませぬ。人と人との付きついですから」
「参ったな。じゃ、2人きりの時は、権七どのもあり、ということで。みんなの前では、権七でお願いします」

「では、明朝六ッ半(午前七時)に、〔樋口〕に山駕籠をつけてください」
「かしこまりました。しかし、あっしは、先ほども申しましたように、〔樋口〕は鬼門なので、山駕籠の者だけがお迎えに行きます。あっしは、(三島)大社さんの大鳥居の前でお待ちしております」
「よろしく、お願いします」

〔甲州屋〕へ帰りつくと、気配で察した供の藤六(とうろく)が、きちんと着物のままで、部屋から出てきた。
「どうした? 都茂(とも)どのが、よく、辛抱しているな」
「若。冷やかさないでくださいませ。で、〔馬入(ばにゅう)〕の勘兵衛の件はいかがなりました?」
権七が、うまく、話をつけてくれていて、平塚宿の先の馬入村の勘兵衛の家で会うことになった」
「大丈夫でございますか?」
権七が付き添ってくれる」
「小田原宿から、代官所へ使いをだしましょうか?」
「いや、それは無用のようだ。安心していてよろしい」
「それでは、お休みなさいませ」
口を寄せた銕三郎がにやりとして、
都茂にな。箱根宿でもう一泊するから、今夜は軽くですますように言ってやれ」
藤六がぼんのくぼを掻く。

部屋では、阿記(あき)が、寝着のままで起き上がってきた。
「寒いから、床に入っていなさい。話は、その中でできる」

羽織・袴を脱いで寝着に着替えた銕三郎が床へ横たわると、早速に阿記がもぐりこんでくる。
権七には、阿記とこうなったこと、言いそびれた。明後日、箱根宿から畑宿村への山道で言うつもりだ」
「それでは、明日、私どもは?」
「後ろからつけてくれ。箱根宿の本陣・〔川田角右衛門方で落ち合おう」
「はい」
「〔川田〕方から、阿記は芦の湯村へ帰って東慶寺へ入門する支度を整え、明後日の四ッ(午前10時)に畑宿村の長(おさ)・めうがや畑右衛門どのの屋敷で落ちあおう。あとは鎌倉までいっしょだ」
「まあ、うれしい」
阿記が東慶寺へ入ってしまえば、噂が広がることもあるまい」
「いろいろと、ありがとうございました」
阿記銕三郎の寝着の腰紐をほどく。自分の前はすでに開いている。
「明日は、六ッ(6時)起きだ」
「はい」

朝靄(もや)が濃い朝であった。
七ッ前に〔樋口屋〕の門の前で、山駕籠が待っていた。

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(〔樋口〕伝左衛門方の門を移した円明寺の山門
 三島観光協会パンフレットより)

ちゅうすけ注:】本陣・〔樋口〕伝左衛門方の門構えは、現在は旅籠〔甲州屋〕の北隣の円明寺に移築されて健在である。

藤六が先に入って行って、与詩(よし)の荷物を取ってき、駕籠にしばりつける。
芙沙(ふさ)と手をつないで、与詩があられた。2日間だけでかなり大人びたように見える。
「うちの子が、与詩ちゃんになついてしまって、お別れがつらいようで、手間どりました」
与詩。お芙沙母上にお別れのご挨拶をしなさい」
「ふさ(芙沙)ははうえ(母上)、また、おあ(逢)いちまちょう」
「ええ。また、お泊りにいらっしゃい」
「あにうえ(兄上)。こんどこそ、ふさははうえのおいえ(家)で、ね(寝)まちゅね---すね」
「その節は、お芙沙どの、よろしく」
「お阿記さんを大切にしてあげてください」
3人の会話を、亭主の伝左衛門が、帳場から不機嫌な目で見ている。

与詩の躰をすがり綱につないだ赤いしごきは、お芙沙のものだった。2人の仲をつないだ細帯のようにも見える。山道で駕籠が傾いても、これで与詩がこぼれ落ちることはない。

「では」
「つつがないお旅を」
「また、お逢いできましょう」
「お待ちしています」

銕三郎とお芙沙が、また逢うことになったのは、それから9年後---父・宣雄が京都西町奉行として赴任のために東海道をのぼった時であった。

与詩のお寝しょうの報告はなかった。

参考三島観光協会

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2008.01.14

与詩(よし)を迎えに(25)

蒲原(かんばら)は六ッ(6時)の朝発(だ)ち、と決めていた。
七ッ半(5時)に、藤六(とうろく)が起きてきて、
「若。与詩(よし)さまも起こしますか?」
「おれたちが顔を洗い、房楊枝をすましてからでいいだろう」

与詩を起こしてから、おもってもいなかったことが出来(しゅったい)した。
幼女の着物の着せ方がわからない。
〔木瓜(もっこう)屋〕忠兵衛の内儀が、着せてから、うしろから袂(たもと)をまとめて歯を磨かせた。
(明朝からは、着付けの前に顔を洗わせよう)

朝飯も、食べおわらない。
一と口ずつの大きさのにぎりにして海苔(のり)でつつんでもらい、茶をいれた竹筒をもって馬に乗った。

この季節の六ッは、まだ、暗い。が、土地(ところ)生まれの馬方も馬も馴れたもので、薄暗い道を提灯に灯も入れないで東へすすむ。
富士川で、暁の陽をうけた雪が金色に染まる富士山を見た。

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(北寿『東海道富士川真写之図』)

そのみごとな山容に、与詩もはっきりと目がさめたらしい。
「きれい」
「みごとだな」
馬方が口をそえる。
「きょうも、きれいな晴れでごぜえますよ。旦那さまがたはついていらっしゃる」

〔木瓜屋〕忠兵衛が、あらかじめ渡し場の川役人に通じておいてくれたので、荷をつけた馬ごと舟で対岸の松岡村へわたることができた。

いつまでも富士山を眺めていた与詩が訊く。
「あにうえ。えどで、おやまがみえましゅか?」
「お山とは、この富士のことか---ことですか?」
「うん---はい」
「見えるところと、見えないところがあります」
「あにうえの、おうちは?」
「家からは見えない---見えませぬ。しかし、近くの川端へ行けば見えます。それと、江戸には、富士見坂という名前の坂が十(とう)と五ッほど---あります。十と五ッ---わかるかな、両の手の指が全部と、も一度、右の手だけの指、五ッ---です」
「さか、よしもゆきたい---です」
「連れて行って、あげます」
「げんまん」
与詩は、振りむいて小指をさしだした。

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(広重『東都名所』[日本橋の白雨])

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(国芳『東都三十六景』[昌平坂の富士])

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(北斎『富嶽三十六景』[礫川(こいしかわ)雪ノ旦(あさ))

吉原でお茶にした。与詩は小にぎりを食べ、厠をすませた。といっても、これが---公用宿・〔扇屋〕伝兵衛方の年配の女中の手を借りなければならなかった。与詩は、落し紙が自分で使えなかったからである。

吉原宿で馬を換え、原宿(はらしゅく)へは3里6丁(約13km)。
〔若狭屋〕九兵衛方で昼食を摂る。
沼津宿へ1里半(6km)。

銕三郎(てつさぶろう)は、少々飽きてきた与詩に、柏原から一本松のあいだ、村ごとに行きちがう女の旅人、男の旅人の数をかぞえさせ、11から30までの数を教えるなど、たわいもない会話をかわしながら、気は、阿記(あき)へ飛んでいる。
(お芙沙(ふさ)に、この子を一と晩預かってもらう話は、うまくはこんだであろうか)

沼津から三島宿へも1里半。
また、馬を換える。

三島宿へ入った。

本陣〔樋口〕伝左衛門方の向いも、本陣〔世古〕郷四郎方である。

_360_4
(東海道筋に面している本陣〔樋口〕伝左衛門方=赤○)

その手前に、見おぼえのある女が2人立って、街道の西を見ている。
近づくと、やはり、阿記都茂(とも)であった。
「寒かったであろう」
「いいえ。懐炉を入れていますから」
「阿記どの。眉をどうなされた?」
阿記は眉を落としていた。着物もうんと地味なものを着ているので、21歳から5つか6つばかり、齢をとったように見える。
「どうせ東慶寺さんのお世話になるのだからと、おもいきって---」
「ふむ。その話はあとでゆるりと、な。与詩のことは?」
「お芙沙さんが承諾してくださいました。お待ちになっております」
「お待ちに---って、与詩ではなく、この銕三郎をか」
「はい。たいそう、懐かしげで、ございましたよ。おほほほ」
阿記は、それでも、いいのか?」
「ほほほほ」

【参照】2007年7月16日[仮(かりそめ)の母・お芙沙]
2008年1月日[与詩(よし)を迎えに(13)]

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2008.01.13

与詩(よし)を迎えに(24)

由井では、問屋場で馬を換えているあいだに、書役(しょやく)に紙を借りて、まず、権七(ごんしち)あての依頼状をしたためた。
2日おいて3日目の朝六ッ半(7時)に、山駕籠を本陣・〔樋口〕伝左衛門方へ手くばりしてほしいこと、山駕籠はそのまま、小田原宿の本陣・〔保田〕利左衛門方まで使いたい旨を、見なれない漢字にはふりがなをつけて、簡単に述べた。最後に、再逢を心待ちにしていると付け加えた。

宛先は、権七が指定した、「箱根御関所・小頭(こがしら)・打田内記(ないき)さま気付 風速(かざはや)の権七どのとした。
当時は、「どの」よりも、「さま」のほうがより丁寧な尊称として使われていた。

打田内記が勤めている小頭というのは、関所に詰めている11人の足軽の長(ちょう)である。荷運び雲助の顔役らしく、権七は何かと小頭と接触していたらしい。

箱根関所の役人の構成は、小田原藩から派遣された伴頭(ばんがしら)の下で、定番人が3人、足軽と人見女2人となっていた。
定番人は、関所すぐ西に隣する箱根宿に在住、と定められていた。阿記(あき)の父・〔めうが屋〕次右衛門が、湯治宿という商売がら、定番人の1人と懇意にしていると言ってくれたが、このときばかりは権七の顔を立てることのほうを、銕三郎は迷わずに選んだ。

余談だが、旅する婦女に恐れられていたのは、人見女である。疑われると---というより、中年女の彼女たちの虫の居所が悪いと、素裸はおろか、髪もくずして調べ、あげくのはてに、秘部まで指でさぐられたという。いや、噂にすぎないのだが。

よみがえる箱根関所

[打田内記さま気付]との宛名と、お小十人組・5番手頭(かしら)長谷川平蔵宣雄(のぶお)内・銕三郎宣以(のぶため)の裏書を見た問屋場の書役が、
「差し出がましいことをお尋ねしまが、今夜のお泊りは蒲原(かんばら)でございましょうか?」
「さよう。〔木瓜(もっこう)屋〕忠兵衛方のつもりですが---」
「それでは、〔もっこう屋〕さんへも、馬の手くばりのお使いをおだしになっておおきになったほうがよろしいかと。蒲原宿の旅籠は、馬を常備(つねぞな)えしておりませんのです。その朝に手くばりさせますと、1刻(2時間)も待たされますゆえ」
「それはいいことをお聞かせくださった。かたじけない」

銕三郎は、三島で待っているはずの阿記への文をの宛先を、旅籠〔甲州屋〕気付としたあと、蒲原宿の脇本陣〔もっこう屋〕忠兵衛にあてて、6歳の女の子づれであること、明け六っ(6時)発(だ)ちであることを記して、馬の手配をくれぐれも頼んだ。

3通の書状はすべて早飛脚便とすることを、問屋場の書役Iに笑顔で念をおし、借りた書状紙代として、心づけをはずんだ。

由井から蒲原は1里。半刻(1時間)もあればたりるが、気になるのは、明日の馬である。馬の手配がつかないと駕籠だが、与詩が一人で乗れるかどうか。いや、箱根道での山駕籠の練習になるから、むしろ駕籠のほうがよかったかも---。

富士見橋たもとの宿屋〔木瓜(もっこう)屋〕忠兵衛方に投宿して、父・平蔵宣雄の手くばりのよさを、銕三郎は、2つもおもいしらされた。

_100一つは、〔木瓜屋〕の商標が紋所が「一木瓜(ひとつもっこう)」であることを、入り口の暖簾の染めぬきで知ったとき。
なんと、駿府の町奉行・朝倉家の家紋の「一木瓜」だった。与詩の印籠につけられている金箔(きんぱく)の紋が三木瓜(みつもっこう)だったので、まさか、朝倉家の表紋が「一木瓜」とまでは察しがつかなかった。

【参考】朝倉仁左衛門景増の『寛政重修諸家譜』

Photo「三木瓜」は、私物につける替え紋だったのである。
「一木瓜」は日下部氏の紋どころで、日下部氏は、仁徳帝の皇子から発していることになっている。その末の一と流れが越前国を領していた朝倉氏である。

忠兵衛どののご先祖は、越前の出でございますのか」
あいさつに出た亭主・忠兵衛銕三郎が訊くと、
「はい。駿府の朝倉仁左衛門さまとも、遠い縁つづきになるのでございます」
「今夜、お手数をおかけするのは、駿府の朝倉さまの於姫(おひー)で---」
「江戸のお父上さまからの文(ふみ)で、さように存じております。お世話ができますことを、こころ待ちにしておりました」
「実は---」
と、銕三郎忠左衛門を帳場へ誘(いざな)って、与詩の夜の危惧を伝えると、
「なんのご心配もございませぬ。油紙を縫いこんだ布団をつねに備えております。ご寝所も、厠へもっとも近い部屋にとらせていただきました。
それから、早飛脚でいただいた明朝の駅馬のことでございますが、お父上さまも、くれぐれもとお気づかいをなされておりますので、すっかり用意がととのっております」

いざ、寝床へ伏すだんになり、
「与詩。おむつをあててあげようか?」
「じぶんで、つけます。でも、おしろのちちうえは、ごじぶんで、できましぇんのですよ。おとなのくせに」
中風で倒れて寝たきりになった朝倉仁左衛門のことをいっている。下(しも)も独りではできぬ躰になってしまっているらしい。
それでも辞職願い幕府にを出さないのは、職務給への未練のためなのか、回復を期待しているためなのか。

その夜、隣の間に寝た藤六(とうろく)は酒をひかえ、与詩に、2回、厠を使わせた。用後のおむつを、与詩は、藤六がつけるにまかせた。
使用人は、木の幹かなにかのように見ているのかもしれない。
(薄目でその様子を見ながら、これは、改めさせなければ---と銕三郎はこころにとめたが、おむつの取替えだけは藤六にやってもらいたい気もして、ひそかに反省)

油紙入りの布団は、必要がなかった。

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2008.01.12

与詩(よし)を迎えに(23)

「こちらの手が左、こちらが右の手。左と、右---さあ、言ってごらんなさい」
「こちらのてが、みぎ---」
「ちがいました。こちらが左、こちらが右」
「ひだり、みぎ」
「よくできました」
「---よくできました」
さつた峠を越えながらも、銕三郎(てつさぶろう)は根気よく、それこそ、道中合羽の中で与詩(よし)の手をとって、教えている。
馬上は少しさむい---と与詩が訴えたので、馬力に道中合羽を借りたのである。

与詩さま。左をごらんなされませ。富士のお山があのように高々と見えます」
脇を歩む藤六(とうろく)も、与詩の手習いを助ける

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(広重 『東海道五十三次』[由井 さつた峠から望む富士])

富士は、まだ白い衣を五合目あたりまで着ていた。

_360_2
(快晴の日の富士山)

「おしろからは、おやまは、ちづ(智津)のせのたかさ」
「ここでは、お兄上さまの背よりも、もっと高く見えますでございましょう」
「うん」
与詩。約束げんまんしたばかりでしょう、『うん』ではありません」
「『はい』、でしゅ」
「です」
「---です」

下りになると、与詩がこわがった。
銕三郎は、縄で自分と与詩の躰をしばって固定させた。
(箱根道は、与詩には馬は無理だな。山駕籠を、由井宿の問屋場から、権七(ごんしち)あての書状を送って、頼んでおこう)
ついでに、三島宿の旅籠〔甲州屋〕で待っている阿記(あき)にも、明日の投宿時刻を知らせる手紙を早飛脚に届けさせることにした。
蒲原(かんぱら)宿から三島宿までは、9里(36km)。朝発(だ)ちを明け六ッ(6時)にすれば、暮れの七ッ(4時)には宿へ着けるだろう。

与詩。一ッ、二ッ、三ッ、四ッ---つづけて、数えてごらん」
「いつッ、ななッ、むっッ---」
「六ッ、七ッですよ」
「むっッ、ななッ、やっッ、ここのッ、とう」
「はい。道の松の樹をかぞえよう。一ッ---」
「ふたッ、みっッ---」
与詩は、指を折って数えている。
教育は根気だ、と銕三郎はつくづくおもいしった。

峠を降ると、倉沢村である。
数軒の茶店がさざえのつぼ焼きを、旅人たちに呼びかけている。
父・宣雄は〔休み陣屋・柏屋〕へ、いくばくかの金子(きんす)を手くばりしておいてくれていた。
姓を告げると、亭主・幸七(こうしち)があいさつにきた。
長谷川さまには、お変わりございませんか?」
「息災iにて、小十人組・5番手の頭(かしら)を勤めておりますが、ご亭主は、父をご存じなのですか?」
60歳に近い幸七は、むかしをしのぶように腰をのばして、
「申しあげますこと、お父上には内緒にしておいてくださいませよ。じつは---」
と言いかけたのに、
「ご亭主。この子に厠(かわや)をお貸しください。藤六与詩を厠へ」

2人が裏手へ去ったのを見すましてから幸七が話したことに、銕三郎は驚ろいた。
上方への旅の途中に〔柏屋〕へ立ちよった父・平蔵は、22歳の冷や飯の身で、これといった要件もない気楽なひとり旅だったらしい。
店先から、海女(あま)たちのあわび採りを眺めていたが、幸七から漁師たちがしめる赤ふんどしを借りて海へもぐり、たちまち、数ヶのあわびをものにした。

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(倉沢の海であわびを採る海女たち 北斎画)

その姿に、倉沢村一番のあわびの採り手を売りものにしていた若年増の海女がひと目ぼれしてしまった。
長谷川さまは逃げまわられたのですが、お(きみ)のほうはあきらめるものですか。あわび採りも名人なら、いい男捕りも一番手と自分に言い聞かせたのでしょう、ついに3夜ほどをいっしょにお過ごしになりました。その後、どう話をおつけになったものか、4日目には、長谷川さまは京へお発ちになりましたよ」
(謹厳を絵に描いたような父上に、そのような艶聞があったとは---ということは、おれのは、その血筋なんだ)
「それで、おとか申す海女どのは、いかがなりました? ご存命なら、40と幾つかにおなりのはず---」
「なに、お父上が去られてから、中古(ちゅうぶる)の亭主とくっついて---ほら、あそこの岩の上で躰を休めている齢をくっている海女がいましょう、あれがおです」

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(一と休みして、躰を温めている海女たち 北斎画)

すませて戻ってきた与詩に、
与詩も、あそこの海女たちのように、泳ぎを覚えたいですか?」
「はい」
「そうか。では、江戸の家で、父上に、『泳ぎを教えてくださいませ』とお頼みしなさい。さ、言ってごらん」
「ちちうえ。およぎをおおしえ、くだちゃいませ」
「よくできました」
(父上の、驚愕のお顔が見えるようだわ。おれも、けっこう、悪(わる)だってこと)


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2008.01.11

与詩(よし)を迎えに(22)

与詩(よし)。目の下の清水の海の向こう---覚えておくがいい、向こうが南。その反対が北。言ってごらん」
銕三郎(てつさぶろう)が、清見寺(せいけんじ)の門前から、対岸の三保の松原を見せながら、かんでふくめるように与詩に説明している。
清見寺は、俗に「きよみでら」とも呼ばれている。
晴れた日には、ここからの眺めが、三保の松原がもっとも美しく望見できる。

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(三保松原・三穂神社 『東海道名所図会』 塗り絵師=ちゅうすけ)

与詩は、これまで、美的体験が乏しいようにおもえる。
それで、立ち寄った。 

「南と北だ。さ、言ってごらん」
「みなみ、きた」
「春、梅や桜の花を咲かせる暖かい風が吹くのが南だ。冬に寒い風を吹かせるのが北。海の向こうに見える三保の松原は、ここからは南だ」
「でも、あいにうえ。あたたかいかぜは、ないよ」
「寒いのか?」
「すこし」
「よし道中合羽を借りて、暖かくしてやろう。藤六(とうろく)、馬力どのに合羽を貸してもらってくれ。与詩、いいか、朝、お天道(てんとう)さまが顔をおだしになるほうを東という。言ってみなさい」
「ひがし」
「そう。よくできました。もう一度、言ってみなさい」
「ひがし」
「そうではない。よくできました---と言ってみなさい」
「よくできまちゅた」
「よくできました、というのは、与詩が賢い子だということです」
「よくできましちゅたは、よしが、かしゅこいでちゅ」
「そう。お天道さまがお隠れるほうは、西です」
「おてんとさまが、かくれるの、にしでちゅ」
「まあ。いいでしょう」
「まあ、いいでちょう」
「海の南に見えているのが、三保の松原といって、与詩を産んでくださった母者の里です」
「よしには、おたあさまはいない」
「そうであったな」

与詩は、風景の美しさの経験がほとんどないように、銕三郎は感じている。
駿府城からほとんど出たことがないらしい。
さらに、お守(も)りをしていたは、花鳥風月を教えなかったとみえる。
いまは、三保の松原の広大で清涼な風景を前にして、とまどっているとしか、銕三郎にはおもえなかった。
(こちらも、ぼつぼつだな。しかし、阿記に会ったらどんな印象をもつだろう? なんといっても女の子だから、若くて美しい女性とは、阿記のような人のことだと感じるだろうか?)

藤六。泊まりの蒲原(かんばら)まで、さつた峠越えをふくめて、4里(16km)近くある。先を急ごう」


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2008.01.10

与詩(よし)を迎えに(21)

府中から2里30丁(11km)たらずで江尻。問屋場で馬を継ぐ。
荷物の載せかえをいいつけておいて、早めの昼を本陣〔寺尾屋〕で摂る。
終えた藤六(とうろく 45歳)は、荷のぐあいを確かめに問屋場へ引き返した。

与詩(よし)は、なにやら、本陣の向いの茶店のほうを真剣な目つきで見ている。

_260_5
([玩具(てあそび)行商人]『都鄙図巻』より)

与詩とおなじ齢ごろの子と母親が、玩具(てあそび)行商人をひやかしている。
与詩もほしいのか?」
訊いた銕三郎(てつさぶろう)に、与詩は頭(かぶり)をふった。
(そうか、姉妹のことを考えているのだな。それにしては、目つきが真剣すぎるが---)
与詩は、お城の屋敷では、誰と遊んでいたのだ?」
ちづ(智津)」
「妹か? 幾つだ?」
「5歳」
「母者は、志乃(しの)どのかな」
与詩は、また、頭をふって、
「ちがうけど、しらない」
(町奉行・朝倉仁左衛門景増(かげます 60歳 300石)どのの、『左門(さもん)、また出来たぞ』の口の一人か)

与詩。厠(かわや)はいいのか?」
「ゆく」
「ひとりで、てきるのか?」
「できる」
「昼間だからな」
言ってしまってから、銕三郎は(しまった!)とおもった。
与詩に、お寝しょうのことを気にさせてはいけなかった。

(しかし、江戸へ着くまでに、与詩に言葉づかいを教えておかないと、父上・母上が困惑なさるであろう、まあ、ぼちぼちだな)

馬の背の前に、また、与詩を乗せた。
できるだけ、安心させてやりたかった。
与詩は、智津と仲よくしていたのか?」
与詩は、また、首をふった。
ちづは、いぢわる」
「どんなふうに、悪いのかな?」
「うそ、つく」
「ほう、どんなうそをつくのかな?」
よしのこと、おねしょっ子って---」
「ほう。そうではなかったのか?」
「ときどきしか、してない」
「それは、智津がいけないな。ときどきのお寝しょうっ子っていわないとな」
「あにうえ、きらい!」
「どうして、嫌う?」
「おねしょっ子っていった」
「ときどき---をつけたぞ」
「それでも、きらい!」
「お寝しょうをしないように、直してやろうと思っているのだぞ」
よしをいじめる、こわいものがでてこないように?」
「そうだ。与詩をいじめるものは、ぜんぶ、退治してやる」
「あにうえは、つよいの?」
「強いとも」
「それなら、すき」
「今夜から、安心して眠れ。もし、こわいものが出てきたら、兄上って呼べば、たちまち駆けつけてやる」
「こんやは、でない」
「ほう、どうしてだ?」
たけがいないから---」
って、与詩のお守(も)りだった、あのか---?」
「おねしょすると、たけがおしりをぶつの」
「そうか。いけないだな」
「いけない、たけ」
は、もう、与詩をぶてない。は、お城の牢屋へ入れてやった」
「ろうや、でられない?」
「出ることはできない。おれが許しを出さないからな」
「よかった」
(これで、与詩の心の中の敵の一人は、封じこめたかな。あとに何人、いることやら)


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2008.01.08

与詩(よし)を迎えに(19)

藤六(とうろく)、頼まれてくれないか。番頭どのに訊いて、土地でもっとも上等の酒を、角樽(つのだる)で求めてきてくれ」

町奉行所の内与力(うちよりき)・笹田左門(さもん)が帰るとすぐに、銕三郎(てつさぶろう 18歳)は藤六(45歳)に声をかけた。

「どう、お使いになりますので?」
「明朝、与詩(よし)を迎えに行ったとき、内与力どのに贈るのだ」
「それなら、若。酒好きのあの用人どのには、おなじ金高で、並みの酒を多くなさったほうが喜ばれるとおもいますが---」
「お前の考えにも、たしかに、一理ある。拙も、一度はそのように考えた。しかし、つねづね、父上からお教えいただいているのは、音物(いんもつ)は、少しずつたびたび贈るか、一度きりならできるだけ値のはるものを贈ってこころに残していただくようにせよ、と。明朝のことは、後者だ」
「分かりましてございます。つい、出すぎたことを申しあげました。お許しください」
「そうだ---ついでに、藤六、お前の寝酒も求めてくるがよい」

藤六は帳場へ行った。
銕三郎は、懐紙に小判を1枚ずつ包んだものを5個用意した。
明日、与詩を育ててくれた乳母と賄方の下女たちへの心づけである。実際に渡すのは2個か3個だが、そのときになって急にふえたときの用心に多めに備えたのだ。

内与力・左門が現れたのは、酒にことよせて、そういうことを悟らせるためと気がついたのである。
左門には、父・平蔵宣雄(のぶお)から、すでにしっかりと渡されているはずだから、角樽で、顔を立ててやればいい。

帳場へ降りて、番頭に小間物の老舗を訊こうと立ち上がりかけたが、苦笑して、腰を据えた。
3日後に再会する阿記(あき)への笄(こうがい)でもとおもったのだが、旬日のうちに頭を丸めて尼寺へ入るのだから、髪飾りはおかしい、と気づいたのだ。
(いや、早まるな。お芙沙(ふさ)に会ことになるやもしれない。なにか贈るべきであろう。そうだ、もっと難物---〔めうが屋)の女中頭(がしら)・都茂がいるぞ。これへの口止め料も必要だ。やはり行かねば---)

銕三郎は、帳場へ降りていった。
番頭と話していると、藤六が角樽を下げて戻ってきた。

「若。鶯宿梅(おうしゅくばい)の極上を仕入れて参りました。清水の蔵元の酒です」
「む。鶯宿梅とな。いまの季節にぴったりだ。まてよ、どっかで聞いたような---そうだ、雑司ヶ谷(ぞうしがや)から宿坂(しゅくさか)を下りて姿見橋(すがたみばし)の手前、砂利場村に南蔵院という真言宗の名刹がある。この寺の古梅樹が、たしか、鶯宿梅といったと、母上と鬼子母神へ参詣したときに聞いたのだ。これは、江戸育ちの笹田与力どのにはなによりの音物となろう。でかした、藤六」
銕三郎の土地勘は、すばらしい。いちど足をはこんだ地のあれこれも、正確に記憶する。

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(上端=鬼子母神 赤○-南蔵院)

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(南蔵院 『江戸名所図会』部分 中央樹=鶯宿梅 塗り絵師=ちゅうすけ)

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([鶯宿梅]拡大図 塗り絵師=ちゅうすけ)

「して、若はどちらかへお出かけで?」
「そのことよ。ちょっとした買い物がある。いま、番頭どのに店を教えてもらった。すぐ、そこだ。お前の好みも知りたい。ついて参れ」

ひとり言
〔鶯黄梅〕は、元禄期(1688)に創業の現・静岡市清水区西久保の三和酒造(株)が江戸期に醸造していた銘柄である。


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2008.01.07

与詩(よし)を迎えに(18)

【ひとり言】
きょうは、全部、ひとり言を記す。わざわざ、ひとり言と断ったのは、長谷川家に直接にはかかわりがない史実だからである。
とはいえ、養女・与詩(よし)の父親・朝倉仁左衛門景増(かげます 61歳 駿府町奉行 300石 1000石高・役料500石)に関する部分も大きいから、与詩にも、そのDNAが伝わっているかもしれない。

きのう再掲した景増とその子どもたちの『寛政譜』の個人の項を、くどいとおもわれても、すこし加筆して掲げる。

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まず目を引き、ふっと疑念が生じたのは、景増の嫡男・主殿(とのも)光景(てるかげ)の項に、「母は某氏」とあったこと。
『寛政譜』で「母は某氏」とあったら、武家のむすめではないとおもっていい。奉仕している家婦(小間使いや下女)が真っ先にうかぶ。

しかし、幕臣の場合、正妻以外のおんなが産んだ庶子が長男であっても、正妻に男子がいれば、その子が継嗣となるように定められている。

江戸期に流布した著者不知『武野燭話』に、こんなエピソードも記されている。
2代将軍・秀忠夫妻は、長子の竹千代(のちの家光)よりも、次男の国千代(のちの忠長)を寵愛していた。そのことを憂えた家康が、両子同道での対面を伝えた。
重臣たちが居並ぶ中、家康は自分の座を指し、
竹千代どのはここへ」
その後ろについてきた国千代へ、
国千代はあれへ下がりいるべし」
これで、3代将軍は家光---すなわち嫡男と、秀忠も重臣たちも納得したという。
【参照】国千代こと忠長のその後の乱心・自裁の顛末は、2007年6月30日[田中城しのぶ草(12)]

で、掲げた景増個人譜の中段に、主殿につづいて、次男・又四郎正景(まさかげ)、三男・伝次郎経章(つねあきら)が記されている。
この2人の中に正妻((大木孫八郎親次 ちかつぐ のむすめ)から生まれた子はいないのかと、養子先の『寛政譜』をのぞいてみた。

まず、織田の家臣から徳川に属した兼松家の末である吉五郎正僚 (まさとも 300石)を養父とした次男・正景(まさかげ)も、「母は某氏」とあった。すなわち、脇腹の生まれ。

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それでは---と、三男・伝次郎経章(つねあきら)が養子に入った先の高階家(200俵)を調べた。なんと、彼も「母は某氏」。

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それぞれの生年の、景増の年齢を表にしてみた。

朝倉仁左衛門景増の年齢および3人の男子の生年

元禄16年(1703) 景増生 (1歳)
享保13年(1728) 長男生 (26歳)
寛保元年(1741) 次男生 (39歳)
寛延3年 (1750) 三男生 (48歳)

子どもたちの年齢差からいって、母親はすべて異なっていると見る。根ぐせがよくない。

冒頭の年譜の、長男と次男のあいだに山川下総守貞幹(さだもと)に嫁いだ女子がいる。
母親は不明である。 『寛政譜』は女性の名も生母もふつうは記さないからである。

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景増が養女として出した与詩の妹は、志乃の産んだ女子であろうか。

 

 

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2008.01.06

与詩(よし)を迎えに(17)

「ご奉行所の内与力(うちよりき)さまが、お越しになりました」
〔大万屋〕の番頭が緊張した声で告げた。
銕三郎(てつさぶろう)が迎えにでるために、あわてて立ち上がると、早くも部屋の前に来ていた笹田左門は、
「そのまま、そのまま。あ、番頭さん。酒(ささ)の用意を、な」
どっかと座り、
「先刻は、わざわざ、ご足労でござった。なに、今宵は、長谷川どのと、くつろいで一献とおもいましてな。役宅では、なんですから---」
鼻の先が赤いから、よほどの酒好きで、役宅につけをまわして飲める機会があれば、逃(の)がさずにつかんでいるらしい。

「このご府中近辺は、霊峰の雪解け水で、酒もおいしゅうできあがるのですよ。江戸へ下っていないのは、駿河の酒飲みどもがみんな飲んでしまうからでしてな。ははは」
ひとりで、嬉しがっている。
銕三郎は、訪問の真意をはかりかねて、はあ、はあ、と受けてのみである。

酒が来て、酌の応酬---というより、銕三郎が一方的に注いでいる。
早くも、2、3本が空になった。
番頭が自ら新しい銚子を運んでいるのは、聞き耳見を立てて、笹田内与力の来訪が、店にかかわりがあってかどうかを確かめたいからであろう。

「いや、長谷川どの。与詩さまの養女の件、ご奉行---と申すより、奥方・志乃さまがどれだけ安堵なされておりますことか。
なにしろ、ご役宅に6人いるお子たちのうち、志乃さまが腹をおいためになったお子はお2人だけ。
志乃さまのそのご懐妊中に、3人もの小間使いに---。
あ、番頭さん、そなたは引き下がりなさい。酒がなくなったら声をかけるほどに---。あ、下がりついでに、もう2本ほど、持たせてくだされ。
いや、まあ、ご奉行がお盛んで、根(ね)ぐせ---ああ、男根の根(ね)と、寝床の寝(ね)をかけた、ははは、拙の新造語でござる---その根ぐせ悪いのは男である証拠といってもよろしいが、あれほどに、悪いと、ご府内でもかなりな噂になっており、いまさら隠してもはじまりませぬな。ははは。
55歳をこえられてから、なんと、5人ものお子ですぞ。拙など、40半ばから、妻(つま)が妙な気をおこさないで、静かに寝(しん)についてくれることを、ひやひやもしながら願っておりますよ」
おんなより酒、といいたいのであろう。

「とにかく、『左内、出来たらしい、頼むぞ』といわれると、あと始末は用人の役目---そうですが、ああいうのを、垂れながしとでもいうのでごさろうかな。
中風も、その報いかも知れれません、て。や、失言々々。いまのはお忘れくだされ」

「さっきのお子たちのつづきですが、長らく用人を勤めている身としては、もう、2、3人、どこかへ養女の口がないものかと---江戸へお帰りになったら、長谷川さまにお話になってみてくださらんかな。
いやあ、きょうの酒は、めっぽう、おいしゅうござる。
おや、銕三郎どのはすすんでおりませぬな。飲(い)ける口とお見受けしたのだが。
ほう、長谷川さまはが召し上がられない---これはしたり、存ぜぬこととはいえ、ご無礼つかまつった。
しかし、なんですなあ、いまのご公儀は、つきあいで出世がきまりますからな、お飲みならないと、ご不便でしょう。
銕三郎どの。お父上に隠れてでも、飲み修行をなされよ。剣術の修行よりも飲み修行のほうが実が稔りますぞ」

笹田与力が帰ってから、銕三郎は、与詩のお寝しょうの原因について、おもいあたることがありやいなや、訊きそびれたのに気がつき、唇をかんだ。

再録朝倉仁左衛門景増が3人の夫人と何人かの脇腹に産ませた嫡男・光景以下11人の子どもを確認するために、2007年12月26日に掲載した個人譜をもう一度、掲示。
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2007.12.28

与詩(よし)を迎えに(8)

(はて。あの男、〔荒神屋(こうじんや)〕の助太郎(すけたろう)ではないのか。京師の東のはずれの荒神口に太物(ふともの 木綿の着物)の店をだしているとかいっていたが、また、下ってきたのか?)

銕三郎(てつさぶろうが)が不審におもった男は、万能薬と評判の〔透頂香(とうちんこう)〕を商っている〔ういろう〕店の向いで、帳面になにやら書き込んでいる2人づれである。

_365
ういろう屋 (『東海道名所図会』)

4年前に駿州・田中城や志太郡(したこおり)の小川(こがわ)への旅の途次、箱根の芦ノ湖畔で話しかけられ、沼津で別れた。
【参照】2007年7月14日~[〔荒神〕の助太郎] (1) (2) (3) (4)

その時の助次郎は一人旅だったが、こんどは、25,6歳の精悍な男づれである。
助次郎のほうは相変わらず、細身をたもっているが、そろそろ、40の代の半ばのはず。

あのとき、いっしょだった老僕の太作(たさく)は、絵図面師かも---と見たが、当人は妻女と太物屋をやっているとはいっていた。余裕ができると、ほうぼうの風景を写生してまわるのと、大店の表がまえを写し描くのを趣味にしているとも、本人の口から聞いた。

声をかけるかどうか一瞬、迷ったが、〔ういろう〕店に出入する姿は認められるにきまっている。
こころを決めて、声をかけた。
「〔荒神屋〕の助太郎どのではありませぬか」

呼びかけられた助太郎は、瞬時、びくっとしたが、銕三郎を確認すると、たちまち、細い目を柔和な笑みに変えて、
「おや---長谷川さまでは---こんなところで---。ごりっぱな若衆におなりになっているので、咄嗟に、わが目を疑いました。お久しぶりでございます」
「京ではなかったのですか?」
長谷川さまこそ、どうして小田原へ?」
「府中(静岡市)への途次です。助太郎どのはいずれへ?」
「これの母親の病気が重いということで---下総へ」
と連れの男を目で指し、
「あ、娘婿の彦次でございます。これ、ごあいさつしないか。お旗本の長谷川さまの若さまだ」
彦次と申します。お初にお目にかかります」

助太郎どのの四方山(よもやま)話しもお聞きしたいのですが、この店で〔透頂香(とうちんこう)〕を求めたら箱根越えです。先を急ぎますので---」
銕三郎はそういって、彦次の母親の分の〔透頂香(とうちんこう)〕も小さな包にしてもらって店の外へ出てみると、2人は消えていた。
東海道の大磯のほうを見やったが、その姿はなかった。
(相変わらずの速脚だなあ)

あきらめた銕三郎が、箱根口のほうへ去ると、〔ういろう〕店の向いの家の脇の猫道に潜んでいた2人がぬっと現れた。
「危ないところであった。彦次がうまく口うらを合わせてくれたので助かった」
長谷川とかいいましたか、あの若侍さん?」
「そうだ。父ごは、小十人組の頭(かしら)といっていたから、のちのちには先手の組頭、そして、火盗改メだ」
「くわばら、くわばら」

荒神〕の助太郎は、まさか、銕三郎の父・平蔵宣雄(のぶお)が、火盗改メから京都・西町奉行として赴任してくることも、そのあと、銕三郎が火盗改メとなった〔鬼平〕に、娘の二代目〔荒神〕のお(なつ)が追われることになろうとは、このときは予想もしていない。

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2007.12.27

与詩(よし)を迎えに(7)

藤六(とうろく)。おぬし、一足先に駿府へ参り、 おれの到着が一日か二日遅れると、朝倉ご奉行の役宅へ通じておいてくれぬか」

小田原の脇本陣〔小清水伊兵衛〕方を発つ朝、銕三郎(てつさぶろう)は、供の藤六(45歳)に命じた。
「若、お疲れですか?」
「うん。久しぶりの遠出で、いささかくたびれておる。それで、箱根の湯に、一日、二日か、浸(つ)かって行きたい。これは、駿府で、おれを待っているあいだの、夜の軍資金だ」
「これは、どうも---。それでは、お言葉のとおりにさせていただきます」
「うん。おれはこれから、、〔ういろう〕へ立ち寄って、朝倉ご奉行への見舞いの〔透頂香(とうちんこう)を求めてくる。おぬしは、先をいそげ」
「はい。駿府でお待ちしております」

箱根道へ急ぐ藤六の背中へ、声にはださず、銕三郎は胸の奥でつぶやいた。
(してやったり。三島での一日がこれで得られた)
三島へは昼に着き、大社の裏のお芙沙(ふさ)の消息を近所で聞いてみるつもりなのだ。

さて---。
このアーカイブの書き手は、ずっと、思案しつづけてきた。というより、探しつづけてきた。
なにを? 銕三郎がお芙沙に再会できたとして、その様子を伝える絵を、である。
4年前の初めての出会いの姿は、なんども引いたように、歌麿『歌まくら』[若後家の睦(むつみ)]に象徴させてきた。

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偶然に出会ったこの絵、着衣とはいえ、銕三郎がお芙沙に抱いているイメージに、あまりにもぴったりしすぎていることに、あとで気がついた。

で、4年後---銕三郎は18歳、お芙沙は30歳になるかならぬか。その2人の出会いにふさわしい絵をさがしまくったのだが、出会わない。
芙沙は後家か人妻だから、眉を落としていなければならない。

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(北斎『ついの雛形』[豪的なおんな]部分)

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(北斎『させもが露』[好色女の独言]部分)

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さすが、北斎。法悦の境地をただようこの面もち---とくに、見るでもなく、閉じるでもない双瞳には瞠目(?)。

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(北斎『させもが露』[好色女の独言]部分)

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(北斎『させもが露』[夫婦の戯れ]部分)
裸は品格がもう一つ。やはり、着衣の柄や色合いも色気の一つですねえ。

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(北斎『させもが露』[若後家の好色]部分)

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(北斎『多満佳津良』[男髪結と女房]部分)

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(北斎『多満佳津良』[養母の色道指南]部分)

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(歌麿『絵本笑上戸』[後家]部分)

歌麿も『歌まくら』の時期がいいのかも、なあ。手をつくしてどうでも、『歌まくら』を見つけないとなあ・

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(国貞『艶紫娯拾余話』[杉生]部分)

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(国貞『艶紫娯拾余話』[水原]部分)

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(英泉『春情指人形』[どうもどうも]部分)

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(英泉『春情指人形』[夏の夜の営み]部分)

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(国芳『江戸錦吾妻文庫』[後家の介抱]部分)

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(国芳『江戸錦吾妻文庫』[舐乳]部分)

どうも、どれも、銕三郎が描いているイメージではなさそうだ。歌麿の若後家の、匂うように上品で、それていて秘めた色気がほしいのだ。

これでは、銕三郎をお芙沙にあわせるわけにはいかなくなってきてしまう。

それでも、読み手の方々が、だれそれの絵でいいのでは---とおっしゃるのであれば、ご支持にしたがうのにやぶさかではない。


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2007.12.26

与詩(よし)を迎えに(6)

銕三郎。これは、道中の小遣いである。なんになと、使うがよい。旅籠の支払いは、前のときと同じで、すでにとどけてある」
あすは駿府へ旅立つ前の日の夕餉(ゆうげ)のとき、父・平蔵宣雄(のぶお)がかなり重い金袋を渡してくれた。

「かたじけのう。遠慮なく頂戴いたします」
「こんどは、親類中から餞別を集めていないらしいゆえ、それぐらいは必要であろう」
「はっ。どうも。あの節は、見苦しいことをいたして申し訳こざいませぬでいた」
「もう、よい。すんだことをくよくよと悩むでない」

4年前に銕三郎は、あることを調べるために駿州・藤枝宿はずれの田中城まで、旅をした。初めての旅という口実を使って、親類中をまわり、餞別をたっぷり集めたのだ。

その旅には、銕三郎にとって、思いがけない人生体験が待っていた。女躰に初めて接したのである。

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(歌麿『歌まくら』[若後家の睦」部分 「芸術新潮]2003年1月号)

【参照】2007年7月16日[仮(かりそめ)の母・芙沙(ふさ)]
2007年7月24日[仮(かりそめ)の母・お芙沙(2)]

夫を亡くしたばかりのお芙沙に出会い、男になった。豊饒な体験であった。お芙沙のやわらかな女躰が発した、山百合のそれのように濃密な香りが、いまでも鼻あたりで匂うよう気がすることがときどきある。
(4年も前のことなのに。以来、女躰には触れていない。塾の悪童たちからしきりに誘われるが、お芙沙を裏切るようで、そういう場所の女は、抱きたくない)

(お芙沙に会うことがかなうやもしれない)
そう思っただけで、股間が固くなってくる。そういう年齢なのだ。股間もお芙沙を求めてうずく。
自分でも怖いほどに再会を熱望している。
(元服名・宣以 のぶため となったと告げたら、お芙沙は「やはり、わたしには、(てつ)さまです」というだろうか)
とめどもない。

銕三郎は、妄想をふりはらって、書物奉行筆頭の中根伝左衛門正雅(まさちか 75歳 書物奉行筆頭 廩米300俵)のところの小者がとどけてくれた、駿府町奉行・朝倉仁左衛門景増(かげます 61歳 300石)の経歴書に、しばし専念することにした。

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駿府奉行は1000石高だが、役料が別に500俵。奉行所には与力8騎、同心60人。
(身内でいうと、本家の主膳正直(まさなお 54歳 徒(かち)の頭 1450石)伯父とおもって対すればいいか)。

銕三郎は、自分の意見を気はることも気おくれもしないで坦々というが、年長者の言うことも最後までうなずきながら聞くので、彼らからは不思議と可愛いがられるほうだ。
朝倉のじいさんは病床にあるときいている。小田原で〔ういろう〕でも買って行こう)。

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2007.12.25

与詩(よし)を迎えに(5)

中根さま。朝倉ご奉行の最初の奥方に嫁がれた、大木(400石)さまのことをお伺いしてよろしゅうございますしょうか?」
「先代の孫八郎親次(ちかつぐ 82歳卒)どのですかな、それとも、当代の喜兵衛親祇(ちかまさ 53歳 新番の2番手組頭)どののほうですかな」

銕三郎(てつさぶろう)は、そこまでは意識していなかった。嫁いだ人は、朝倉仁左衛門景増(かげます 61歳 300石)が駿府の町奉行(1000石高 役料500俵)として赴任する前に、江戸ですでに亡じている。
中根伝左衛門正雅(まさちか 75歳 書物奉行筆頭 廩米300俵)は、温和な目に、興味深げな色をうかべて、銕三郎の問いかけを待っていた。

「いえ、大木さまの菩提寺が、わが家とおなじ、四谷・須賀町の戒行寺なものですから、どのようなお家柄かと---」
「そのことでしたか。大木家は、武田勢の流れです。長谷川どのは法華宗でしたな。推察ですが、大木どのは身延(みのぶ)のご縁やもしれませぬな。屋敷はたしか、三番町。ご当代は、新番・2番手のお組頭が長いようです」
「あの、お逝きになった方には、お子は?」
「あったとしても、江戸の屋敷にお住まいでしょうが、もう、相当のお齢ゆえ、男子なら養子に、女子なら嫁がれていると考えたほうがよろしいでしよう。お子がなにか?」
「駿府に迎えに行きます養女がj6歳なので、いじめにでもあっていたら案じましたが、なるほど、朝倉ご奉行のお齢をからしますと---これは、杞憂でした」

「それで、いつ、お発ちかな?」
「あと、3日のうちでございます」
「それまでに、朝倉ご奉行のご経歴をお届けいたしましょう」
「あ、お手数をおかけして、恐縮に存じます」
「なんの、なんの。銕三郎どのに妹ごができる慶事のお役にたてば、老骨の喜びでもありますわい」

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2007.12.24

与詩(よし)を迎えに(4)

「駿府の朝倉ご奉行(仁左衛門景増 かげます 61歳 300石)の2番目の奥方は離縁---また、何ゆえでございましょう?」
銕三郎(てつさぶろう)は、うっかり質(き)いて、恥じた。
他家の内緒(ないしょ)ごとに立ち入ってはならぬと、父・宣雄(のぶお)から、きつく言われている。

中根伝左衛門正雅(まさちか 76歳 書物奉行筆頭 廩米300俵)が応えた。
「さあ。そこまでは、届け書には記してありませんが、女子の出生届けと、奥方の離縁届けが同じ日になっているところをみると、その女子の誕生にかかわることかもしれませんな」
「その、女子の誕生は?」
「宝歴8年だったような---」
「と、すると、いま6歳---」
「そうなりますかな」
「冗談ではない。与詩(よし)だ」
「いま、なんといわれました?」
「いえ。なんでもありません」
「そうですか。それで、同じ年に3番目の奥方をお迎えになり申したが、なんでも、20歳のお若い女性(にょしょう)だったようです」
志乃(しの)どのです」
「ほう---」
「わが家に養女にきた多可の、従姉(いとこ)です」
「すると、飛騨・加納藩(3万2000石)の江戸詰の三木---忠大夫(ちゅうだゆう)と申されたかな。そのご仁の---」
「兄の子と聞いています」
銕三郎どの---」
「はい」
長谷川どのには内緒にしてくだされますかな」
「なんでございましょう?」
「その、2番目の奥方のことじゃ」
「つまり、6歳の与詩の実母---」
「そのお方は、駿州の天領地のご代官・平岡彦兵衛良寛(よしひろ 51歳 200俵)の妹ごとなっており、朝倉どのが駿府のご奉行に赴任されときに、身辺のお世話をしていて、奥方になられたようで---」
「------」
「それが、平岡どのの実の妹ではなく、養女---」
「養女?」
滝川家ゆかりの女性(にょしよう)らしく---」
滝川といわれますと、織田右府信長)さまの重職だった?」
「はい。しかし、その女性(にょしょう)の父親・滝川無久(むきゅう)なるご仁は、徳川の家臣にはおりません。平岡良寛どのの亡父・良久(よしひさ)どのが山城の代官時代にでも知りあった、滝川一族の中の浪人でしょう。いや、出自はともかく---」
中根伝左衛門は、駿府定番から帰任した大番の番士から聞いたところによると---平岡家の養女を、赴任してきた朝倉ご奉行の身辺のお世話をするように持ちかけたのが、平岡代官だったとか。そのときも、その女性(にょしょう)は20歳をすぎているように見えたと。
朝倉奉行は53歳だったから、女性(にょしょう)の年齢は気にならなかったろうと、彼女が妊娠して2番目の奥方になおったときの、番士たちの無責任なうわさだった。

宝暦8年(1758)---すなわち、与詩が生まれた年、加納藩(3万2000石)の江戸詰・三木久大夫が、藩主・直陳(なおのぶ)の帰国で駿府に停泊したとき、直陳がとつぜん、体調をくずして旬日の滞在となった。久太夫は何度か町奉行の朝倉景増と打ちあわせで会っているうちに、亡妻とのあいだにできていた娘・志乃を江戸から呼んで、懐妊中の2番目の奥方に代わって、身辺の世話がかりにする話がついた。
そして、奉行はこの20歳の志乃にも手をつけ、たちまち懐妊。そのことが2番目の奥方の耳に入るや、重い気欝になり、やがて、離縁ということにまでなった。

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2007.12.23

与詩(よし)を迎えに(3)

「お取りこみご多用のところ、私ごとの些事をお願いいたし、恐縮に存じます」
「なんの、なんの。銕三郎(てつさぶろう)どのは、親戚も同然ゆえ。しかも、養女のことは手前がおすすめしたことでもありますから---」
中根根伝左衛門正雅 まさちか 76歳 廩米300俵)邸である。
3年前よりもさらに歯が抜けてしまっているので、伝左衛門の言葉は、聞きとりにくい。

老僕の太作が書箋をとどけた2日後が伝左衛門の非番で、依頼した調べはすませいくれていた。

取り込み---銕三郎が言ったのは、伝左衛門が2年前に迎えた養子---花井惣右衛門貞辰(さだとき 当時67歳 甲府勤番 260俵)のニ男・忠三郎正庸(まさつね 28歳 無役)に、最初の女子が生まれたばかりであることを指している。

3年前、築地の長谷川邸を訪れた伝左衛門を、銕三郎が付きそって牛込逢坂まで送ったときには、忠三郎正庸の養子の件は決まっていなかった。
当主が50歳を過ぎてからの継嗣養子は手続きがいろいろと面倒なこともあるが、伝左衛門の場合は、実の息子への愛着が強かったのと、自分が職に執着して家督を遅らせた自責の念もあり、このまま家名を絶ってもとひそかに考えもし、養子縁組を後(おく)らせていた。

そんなこともあって、伝左衛門は、亡息・銕之助(てつのすけ)と同じ「」の字を名にもつ銕三郎に特別の親しみを感じたらしく、自分が11歳で天野家から中根家へ養子に入ったときの生ぐさい話しを打ち明けてくれた。
というのは、若くて後家になった家付きむすめの義母の情事についてのことだった。養子だった28歳の夫が、大坂定番で赴任中に病死したのである。帰任まではと張り詰めていた決意がくずれたか、孤閨がまもれなくなり、養子の大助(のちの伝左衛門)につらくあたった。
寡婦の生理に気づいた大助は、その期間の夜は、義妹2人を連れて親類の家へ泊まりこんで難を避けることにした。

そのときの詳細は、2007年10月15日[養女のすすめ](2)
2007年10月16日[養女のすすめろ](3)

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(中根伝左衛門。緑○=継母と亡妻。黄○=養子の正庸)

「お2人目の養女をお迎えになるとか」
「はい。両親がそのように決めました。で、妹になる子を、手前が駿府へ受け取りにまいります」
「それは、重畳。先に養女になられた---」
多可です」
「そう。その多可どのは、まことにご不憫でしたな」
「こんどの養女は、多可の継姉に縁があるようです」
「そのようですな。じつは、ご依頼があったので、駿府のご奉行・朝倉朝倉仁左衛門景増(かげます 61歳 300石)どののご内室との婚儀届けをあらめてみました。後妻どのがおもうけになったおんなのお子のようですな」
「さあ。そこまでは存じませぬでしたが---」

多可どのの実父は、美濃・加納藩の松平侯のご家中でしたな」
三木忠大夫どの」
「さよう、さよう。齢なもので、遠いお方の姓名は咄嗟に出なくなりまして、失礼つかまつった---朝倉ご奉行の三度目のご内室も、その三木どののむすめごでござった」
「そのように聞いております」
「2人目のご内室が、離縁されていることも?」
「存じませんでした」

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2007.12.22

与詩(よし)を迎えに(2)

翌日。
銕三郎(てつさぶろう 諱(いみな)は宣以 のぶため)は、老僕・太作(たさく 57歳)を呼んだ。
「牛込ご門まで、使いをしてくれぬか」
「牛込ご門といいますと---」
「ご書物奉行の中根伝左衛門正雅 まさちか 76歳 廩米300俵)さまのところだ。いつだったかの夜、拙がお送りした。逢坂横町あたりだ」
「昼間ですから、あたりの店屋か自身番所で訊けば、たやすくわかるとおもいます」
「書状をとどけ、家僕にいちばん近い非番の日を教えてもらってきてくれ」
銕三郎は、昨夜のうちにしたためた書状を手渡した。

「若---」
「む。なにか、分からぬことでも---」
「さようではありませぬ。このたびの駿府行きにお供がかないませず、申しわけありませぬ」
「なんだ、もう、太作たちのあいだにまで知れているのか」
「このたびのお供は、殿さまから藤六(とうろく 45歳)が申しつかっております。あれはまだ若いし、しっかり者ですから、お供は大丈夫、勤まりましょう」
「そうか、藤六か」

太作は、にじりよって声をひそめた。
「若。三島宿で、大社の裏へいらっしゃってはなりませぬ」
「なにを申すかと思えば---」
「いいえ。若は、大社の裏をお訪ねになろうとお考えのはずです。しかし、それだけは、なさってはなりませぬ」
「なにゆえ、だ?」
「若。あれから、5年近く経っております」
「うむ---」
「女性(にしょう)にとって、20代の5年は、ふつうの齢の倍にも3倍にもあたるほど、変化がございます」
「3倍も、な」
「はい。その女性(にょしょう)の方は、いま、若さまと顔をあわせたら、ひどくお困りになるやもしれませぬ」
「そうときまったものでもなかろうが?」
「いえ。女性(にょしょう)の過去に立ち入るようなことはしないのが、まことの男というものでございます」
太作の忠告、しかと分かったから、安心していてよい」
「男と男の約束でこざいますぞ」
「うむ。男同士の約定だ」

しかし、銕三郎のこころのうちは、太作の言葉で逆に火がついていた。
(5年か。お芙沙(ふさ)も30歳近い。どんなおんなになっていることか)。

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(歌麿『後家の睦』部分 芸術新潮2003年1月号)

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(歌麿『歌撰恋之部 物思恋』

(お芙沙は、ときどきは、おれのことを思いだしていてはくれないのだろうか)。
(おなごは、処女(むすめ)のしるしをささげた男と、初穂を食わせてくれた男は忘れぬ---ものと、黄鶴塾の大久保が言っていたがなあ。お芙沙はおれの初穂を食った)。

【参照】2007年7月16日[仮(かりそめ)の母・芙沙(ふさ)]
2007年7月24日[仮(かりそめ)の母・お芙沙(2)]

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2007.12.21

与詩(よし)を迎えに

夕食に、母・妙(たえ)が同席した---といっても、膳はない。

(てつさぶろう)に、駿府へ行ってもらわねばならぬ」
父・平蔵宣雄(のぶお 45歳)が改まって切りだした。
「あの、駿府でございますか?」
「そうじゃ。じつは、こなたの母者とも相談の上のことだが、養女を迎えることにした」
「また、養女でこざいますか?」
「また---とは、なんという言い草じゃ}
「申しわけございませぬ。して、どちらからでございますか?」

「駿府の町奉行(1000石高 役料500俵)・朝倉仁左衛門景増(かげます 61歳 300石)どのの娘ごでの」
先手の組頭(1500石高)からの転任だから、ふつうの1000石高の遠国(おんごく)奉行では格下げになるということで、駿府になったのであろう。宝暦5年(1754)からだから、足かけ8年在任している。

が口をはさんだ。
「じつは、多可に従姉(いとこ)がいたことは知っておいででしょう?」
「はい。多可がわが家へ養女にまいるまえに嫁いでいたとか、聞きました」
「その、多可の従姉の嫁ぎ先が、朝倉さまなのです」
「え? 駿府町ご奉行の朝倉さまは、たしか、かなりのお齢とお聞きしておりますが---」
「この春、61歳におなりじゃ」
「すると---多可の従姉は---?」
妙が笑みをうかべて言う。
「20歳のときに嫁いだそうです」
「何年前のことでございますか?」
「5年前とか」
朝倉さまは56歳!」
「これ、頓狂な声をだすでない。駿府町奉行ともなれば、奥方なしでは職務がうまく運ばぬ」
宣雄が制した。
妙が言葉をたした。
「3人目の奥方としてなのです」

「というと、養女にしますのは、まだ赤子?」
「そうではない。2人目の奥方のお子じゃ。齢は6歳。名前は、与詩(よし)」
「6歳の与詩でございますか」
朝倉どのが正月から病い伏されていての。奥方の志乃(しの)どの---多可の従姉のお名だが、志乃どのから、多可との縁が薄れないうちに、できるだけ早くと申されてきた。そこで、銕三郎、そなたに、迎えにいってもらいたいのじゃ。東海道は初めてではないからの」

「わたくしも、多可がいなくなってから、こころ寂しゅうて---」
母のが、さも、こころ細げにい言ったが、銕三郎のほうは、それどころではなかった。
(もしか---もしかして、三島宿で、お芙沙(ふさ)に再会できるかもしれない。お芙沙は、あの家にいるだろうか)
一晩だけ交わったお芙沙の、大胆にうごきながらもはにかむような姿態が、よみがえってきた。

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(歌麿『若後家の睦』部分 芸術新潮2003.1月号より)
【参照】2007年7月16日[仮(かりそめ)の母・芙沙(ふさ)]
2007年7月24日[仮(かりそめ)の母・お芙沙(2)]

そんな銕三郎の心の動きを読んでいるだろうに、宣雄は無表情を装い、18歳---男子としては一人前の、わが子を眺めているのだった。

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2007.12.09

多可の嫁入り(7)

多可の婚儀には、長谷川家側からは宣雄(のぶお)養父母と銕三郎宣以(てつさぶろう のぶため)、本家の小膳正直(なおまさ 徒頭 43歳 1450余石)夫妻が、三原(みはら)家側は実兄・幸田(こうだ)善太郎精義(まさよし 43歳 小十人組衆 廩米150俵)が、花婿(?)の三原善次郎の本所・二ッ目南割下水の家に、出席した。

再婚でもあり、自邸での婚儀でもあるということで、小普請組の与頭(くみがしら)をつとめていた善次郎正明(まさあきら 40歳 廩米200俵)の上役である支配・戸田弥十郎忠汎(ただあつ 54歳 2570石)は、別の日に料亭へ招いて挨拶をすることになった。

三原善次郎の小普請与頭には役料300俵と20人扶持がついていたから、生活はほどほどに余裕があったが、格式の高い長谷川正直宣雄に丁寧に挨拶されて、善次郎はいささか、緊張気味であった。
(あれなら、多可も粗略にはされまい)
銕三郎は、末席で、そうおもいながら、酌をしつされつする大人たちを眺めながら、箸を使っていた。

翌宝暦12年(1762)秋、男子を産んだ多可は、産後の肥立ちが悪しく、あっけなく歿した。
子どもは、幼名を源之助とつけられ、丈夫に成長したが、長谷川家とは縁がきれたも同然となった。
善次郎が、また後妻を迎えたからである。こんどは、一門の多い水野家の女で、父親は書院番与頭だった甚五兵衛忠堯(ただたか 500石)だが、むすめが嫁ぐ前年に歿しており、弟・忠居(たたおき 34歳)が家督していた。
女は36歳まで、嫁(い)きおくれていたのである。それでも、2人の男子を産んだ。
水野一門の引きがあったのであろう、善次郎は、着実に出世をつづけた。
息子の源之助保興(やすおき)も書院番士にとりたてられた。

しかし、水野から来た女は、源之助正興(ただおき)をどういう育て方をしたのか、博打をおぼえ、松平定信が老中になって綱紀の粛正をはかったとき、、幕臣で博打の首謀者だった者の家士を自分の屋敷にかくまったりしたことが発覚、遠島になった。27歳だった。
おかまいなしだった父親・善次郎保明は68歳。

天明8年(1788)8月9日だから、捕縛したのは、長谷川平蔵宣以(43歳)ではない。
平蔵宣以が火盗改メ・助役を勤めたのは、その前年の9月19日から、翌8年春までで、本役を拝命したのは、その年の10月2日からである。

平蔵宣以とすれば、多可の産んだ子を、わが手で捕縛しないですんだことが、まだしもの慰めであったろう。

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2007.12.08

多可の嫁入り(6)

長谷川どのは先刻、2人の与頭(くみがしら)に、それぞれ、代行者をつけるとなれば---と、お尋ねでしたな?」
「はい」

3年前の宝暦8年(1758)中秋、小十人の頭(かしら)に抜擢された長谷川平蔵宣雄(のぶお)が、前任の芝山小兵衛正武(まさたけ 56歳 800石)宅に引継ぎのお礼に行った時の会話のつづきである。

「与頭・佐原三十郎からは、もう、聞き取りずみでござろう?」
「まだ一度だけですが---」
「おこころばえは?」
「52歳には、とうてい見えない達者さで---」
「はは、はは。後妻(のちぞえ)が、いこう若こうござるのでな」
「なるほど。内儀の齢(とし)は、うっかり、聞きもらしました」
「あれには、与頭代行は無用ですな。もっとも、内儀を可愛がりすぎて、腎虚でも病めば別ですが---」

佐原三十郎正房(まさふさ)は、宣雄が小十人組の5番手の頭になる2年前の宝暦6年に、50歳で与頭の席を射とめていた。
初めて召されたのが39歳での小十人組入りだから、かなり遅かった。
このところ、役づきの幕臣の老齢化を、幕閣たちも議論していた。人生が50年では終わりがたくなっていたのである。

もっとも、佐原三十郎の与頭の席は、偶然のようにころがりこんできたものだった。

前任・酒井庄右衛門実清(さねきよ 71歳 廩米150俵)が、つまらない事件にまきこまれて、40年も小十人組衆を勤めた末に、63歳でやっと手に入れた与頭の職を、棒にふったのだ。
実子・小文太実行(さねゆき)は、父・実清がいっこうに隠居する気配を見せないので家督できず、手をつくして田沼意誠(おきのぶ)に認められ、一橋家の近習番となっていた。ところが7年目に30歳で父に先立って逝ってしまった。
当主が50歳を過ぎてからの継嗣の養子は、手続きもうるさく、なかなかにむづかしい。
それでも、小沢某(小姓番組 400俵)の三男・熊之助というのを養子に決めたが、熊之助は実家に居座ってよりつかない。それというのも、浅草・田町にある実家が博打場となっていて、そっちがおもしろいからだった。そのバチ場での口論から、人を斬り殺してしまったのを、親子ともどもに糊塗しようとした罪で、熊之助は遠島、実清は71歳でお役ご免の蟄居、その後は小普請入りを命じられたのである。
佐原三十郎が与頭の後釜として引きあげられた。

「いや、酒井庄右衛門は、貧乏くじを引いたともいえます」
そう前置きした柴山小兵衛は、庄右衛門が与頭に執着した遠因は、その前の与頭・酒井弥三郎元嘉(もとよし 廩米150俵)が、77歳までの21年間も与頭の席を後進にゆずらなかったからだといった。弥三郎も引退を遅らせたので、長嗣子が先立ち、家督をゆずりそこなっている。

長谷川どのは、酒井弥三郎や酒井庄右衛門といった頑固者たちがいなくなってからのお頭こ着任だから、まずはやりやすいはず。手前は、両というより老・酒井2人には手こずりましたからな。はっはは」

酒井というが、弥三郎は大老も出す名門・酒井の(清和源氏を称する)一統の末だが、庄右衛門のほうの酒井は近江の平氏系で、両者はまったくつながりはない。

長谷川どの。とにかく、幸田佐原の手綱をたくみにおさばきあれ。そうすれば、組衆はことさらに波風をたてますまい」

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(小十人組 絵版手 酒井・佐原系前後の与頭)
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2007.12.07

多可の嫁入り(5)

「2人の与頭(くみがしら)に、それぞれ、代行者をつけるとしますと、だれとだれが適任とお考えでしょう?」

長谷川平蔵宣雄(のぶお)が西丸・書院番士から、小十人組・5番手の頭(かしら)に抜擢さりれたのは、宝暦(ほうりゃく)8年(1758)の中秋であった。40歳だった。
ひととおりの就任挨拶廻りをすませた宣雄は、前任者の芝山小兵衛正武(まさたけ 56歳 800石)を、四谷南伊賀町の屋敷へ訪ね、後任の頭としての心得を儀礼的にうかがったあとで、質(ただ)した。
芝山小兵衛は、先手・弓組5番手の組頭へ栄転したので、機嫌がよかった。

柴山は、小十人組の頭を足かけ13年も勤めていた。
中奥御番から、延享2年(1745)に、5番手組の頭へ栄進。同じ日に、組衆・須藤三左衛門盛胤(もりたね 廩米150俵 48歳)が与頭に引きあげられた。

10組ある小十人組の番衆は1組20人。与頭は各組に2名ずついる。
5番手の与頭の先任者は、酒井弥三郎元嘉(もとよし 当時74歳 廩米150俵)で、すでに与頭を19年もこなしている老練の仁であった。

須藤老は、毒にも薬にもならない好人物だが、与頭の役高300俵を手放したくないのでありましょう。お役目をまっとうするには、長谷川どののお考えどおり、与頭の代行者がいたほうが万事につけてよろしいが、さて、手当てをどうするか」
高齢の酒井弥三郎という先例も経験している芝山小兵衛は、代行のことを検討したこともあったらしいが、役料のことで断念した気配だ。

「代行の役料はともかく、芝山さまの人選をお聞かせください」
「そうさな、須藤老の代行には、できるということでは幸田善太郎でしょう」
「人望もございますか?」
「もちろんのこと」

与頭の役高は300俵である。満額支給されるのではなく、足高(たしだか)といって、須藤三左衛門の場合は家禄が廩米150俵だから、300俵になるように150俵が足(た)される。

家禄150俵の須藤三左衛門にとってみれば、収入が倍になっているのだから、高齢になったからといって、うかうかとは手放せない。辞められない。
番衆たちからの音物(いんもつ 贈り物)も捨てたものではない。

将軍へのお目得(みえ)はふつうなら200俵以上の幕臣だが、小十人の番士は百俵お目見といって、100俵の家禄でもその資格がある。

こうした経緯で、幸田善太郎の与頭代行がきまった。
特別の手当ては、じつは、宝暦9年に田沼意次(おきつぐ)と面識ができてから、5人扶持が特別にでるようになった。
1人扶持は1日に玄米5合だから、5人扶持だと2.5升、1年だとざっと130俵(注:当時の1俵は3斗5升計算)。

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(小十人組 5番手与頭 須藤・幸田系の前後 『柳営補任』)

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(須藤家譜)

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2007.12.06

多可の嫁入り(4)

長谷川さまの若さまではありませんか」

声をかけてきたのは、つい先ほど、子どもたちが駆けだしてきた横丁から現れた中年の侍であった。
庭木の手入れでもしていたのだろう、丸腰で、手に剪定ばさみを持っている。
長谷川ですが、そちらさまは?」
「やはり、そうでしたか。いや、失礼とはおもいながら、見覚えがありましたゆえ---」

男は、宣雄(のぶお)が頭(かしら)をしている、小十人組の5番手で、与頭(くみがしら)代行役の幸田(こうだ)善太郎精義(まさよし 43歳。廩米150俵)と名乗った。
「お頭には、たいそう、お引き立てをいただいております。いつでしたか、築地・湊町のお屋敷へ所用で訪ねしましたおり、若さまをお見受けしたことがあったのでございます」
「さようでしたか。私はうつけで、お顔も覚えず、失礼いたしました」
「なんの、なんの。それより、お急ぎでなければ、拙宅にて、お茶なと、さしあげたいのですが---」
「せっかくですが、いささか、急いでおりますゆえ、ご辞退させていただきます」
「無理にとは申しかねますが、たまたま、非番だったので、若さまへお目にかかれました。重畳々々」

幸田善太郎は、丁寧すぎるほどに腰を折って、銕三郎宣以(てつさぶろう のぶため 16歳)に別れの挨拶をしたが、目は、なぜ、銕三郎が本所・二ッ目の南割下水のあたりをうろついているのか、疑っていることがはっきりと見てとれた。
庭木の手入れをしながら、あたりを行きつ戻りつしている銕三郎を、しばらく監視していたのであろう。

銕三郎はいい訳をすれば、かえって疑いを濃くするばかりだと観念し、黙ったまま、横網町のほうへ歩いた。

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(本所絵図 尾張屋板 赤○=二ッ目南割下水)

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(二ッ目通・南割下水あたりを拡大)

夜、銕三郎は、二ッ目の通りで幸田善太郎精義に会ったことを、父・宣雄に報告しておいた。
「おお、幸田どのにな---」
といってから、組のいまの与頭の須藤三左衛門盛胤(もりたね 64歳 廩米 100俵)どのは、銕三郎が生まれる1年前から、17年間も現職をつめとめている組の生き字引のような存在だが、なにしろ高齢で、最近は物忘れも多い。いずれ引退をすすめるつもりでいるものの、後任には幸田どのを推そうとこころづもりしており、内々に須藤どののやり方を見習うように申しつけてある---と、つねになく、役筋のことを話してくれた。
宣雄は、配下の者にもかならず「どの」をつけて話す。それも組下の者たちにうけがいい素因の一つでもあった。

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(幸田家譜 緑○=長兄・精義 赤○=養子に出た次男・保明)
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(緑○=長兄・精義 赤○=次男・保明)

幸田さまも、父上には、たいそう、引き立てをうけている、と感謝しておりました」
幸田どのの舎弟が、多可(たか)が嫁入りする水原(みはら)保明(やすあきら 40歳 廩米150俵 小普請)どのなのだよ」
「それで、幸田さまの懇請をお断りになれなかったと---?」
「そうではない。多可はわしの養女にはなっているが、出が陪臣の三木どののむすめであるために、正式には、徳川の旗本には嫁入りがむずかしい。(てつ)は、水原どのを40男と老人あつかいをするが、いまは小普請でも、いつお役に就かないものでもない」
「そうしますと、幸田さまとも、親類づきあいを---?}
「いや。舎弟は水原家へ養子に入っているゆえ、表むき、わが家とは、陪縁よりも薄かろう」
「あいわかりました。先夜のふとどきのこと、お許しください」
多可のことは、みなで、こころから祝ってやりたい」
「はい」
宣雄は、なぜ、銕三郎が本所・二ッ目などへわざわざ出向いたのか、訊かなかった。

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2007.12.05

多可の嫁入り(3)

銕三郎(てつさぶろう 16歳 元服後の諱:いみなは宣以 のぶため)が、母・(たえ)の部屋へ、挨拶に行った。

「母上。これより、講書へ参じてまいります」
「供は、太助ですね」
「はい」
の部屋には、尾張町の呉服商・布袋屋の手代・清助が、多可(たか)の紋服をひろげていた。

_100多可の嫁ぎ先---水原(みはら)善次郎保明(やすあき 40歳 小普請組 150俵)の家紋の〔丸に三橘〕である。

婚儀は菊の季節と決まっていた。
(わが家の家紋は左藤三巴、駿州・田中藩主の本多伯耆守正珍(まさよし)侯は立ち三葵だったなあ。多可は三木家からの養女だし、三つの縁かな)
宣以は、愚にもつかない数あわせをしながら、南八丁堀の横井黄鶴塾へ向かう。
このところ、愚にもつかないことを考えるのが、楽しくて仕方がない。そういう年齢なのだろう。
同年輩の塾生たちとの意味のない軽口のやりとりも、気楽な仲間づきあいと割り切れるようになった。

(三つ---など、たまたま、並んだだけだ、ばかばかしい)
その苦笑に、
「若。なにか?」
供をしている太助が訊いた。
「おお、そうだ。塾の帰りに、回向院(えこういん)へ詣でるから、迎えはいらないぞ」

回向院は嘘だった。本所の南割下水の水原家を下見に行った。

両国橋を渡らないで、瓦町から対岸の横網町へ不二見の渡し舟に乗った。
武士の装(なり)をしているので、渡し賃をはらわなくてよい。

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(不二見の渡し 『風俗画報 新撰東京図会 浅草区之部』 
明治41年4月20日号)

川面(かわも)に反射する光も真夏とは異なり、やわらいで見える。
頬をかすめる微風にも、秋の気配があった。

横網町をすぎ、御竹蔵の堀ぞいに東へ。
右手に津島侯の上屋敷の屋根がのぞめるあたりが二ッ目の通り。
南堀下水はそこから東へ、先端はとりあえず大横川につらなる。
堀幅は2間たらず。ものを運ぶ小舟を通すための掘割である。

水原保明の拝領屋敷も、保明の生家の幸田家も、二ッ目にあると聞いていた。
南掘下水をはさんで、両側は1戸あたり150坪(約500平方メートル)前後の下級幕臣の家が肩をよせあうように並んでいる。
門札はでていないし、人通りはないので、どれが水島家がわからない。
(俺は、いったい、なんのためにこんなことをしているのだ)
自嘲ぎみに、舌を鳴らした。
(これから、多可がどんな所で暮らすのか、見ておこうと思ったのだ)
(それを知ったからといって、どうなるものではないな)
自問自答している自分があわれに思えてきいて、また、舌打ちした。
(俺は、多可の兄者なのだ)
多可は、ここで、しみが浮き出た40歳のおやじの手で躰をなぶられるのだ。一文字の左右になびいている若い芝生も---だ)

突然、横の道から、幼い子どもが5人、走りでてきた。
「ちと、尋ねるが---」
子どもたちは、立ち止まりしないで、駆け去って行った。


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2007.12.04

多可の嫁入り(2)

夜、銕三郎(てつさぶろう のちの平蔵)が自分の部屋へ引きとってから、宣雄(のぶお)は、内室(妻)同様の(たえ)に、書院へ、茶を運ばせた。

は、幕府に届けている室ではない。
正式の室は、11年前に病死している。
いや、あれは妻というには、あまりに縁の薄い女であった。
婚儀の日も病床にいた。宣雄の養子願いを、小普請組頭(くみがしら)を通して、幕府へ提出しておしまい。
だから、宴ももうけていない。親戚へは、宣雄が巡回して内祝いの品を届けてまわった。
は、その前から長谷川家に住み込んでいた。銕三郎の実母だったからである。は、長谷川家の知行地の一つ、下総(しもうさ)国武射郡(むしゃこうり)寺崎村の名主・戸村家のむすめだったときに、宣雄の子・銕三郎を身籠ったと推察している。

長谷川家の当主だった宣尹(のぶただ)が病死(35歳)したとき、未婚だったために継嗣がいず、急遽、居候(いそうろう)身分の宣雄(30歳)が宣尹の実妹の婿養子となった経緯は、これまでに幾度も紹介した。
小説と史実は、いささか異なる。

は、ずっと、長谷川家の家政をみてきた。そう、籍のうえでは内室の波津(小説の中での名)が婚儀の3年後に、いちども病床を離れることなく歿するまでも、その後も。

「このたびの、多可(たか)のことでは、いろいろと気くばりをしてくれて、ありがたくおもっている」
多可は、当家のむすめでございますから、母親として、とうぜんのことです」
三木家では、養女に出したことで、縁がほとんど切れたとおもっているらしい」
三木さまは、お後妻(のちぞえ)をお迎えになっておりますから、多可のことは、こちらへお任せになったおつもりでございましょう」
「何分ともに、よろしく頼む」

16歳の多可が、後妻として嫁ぐ相手は40歳、役にめぐまれずに小普請入りしている水原(みはら)善次郎保明(やすあきら)だが、じつは、この仁は養子で、実家は幸田(こうだ 廩米150俵)家。
善次郎の3歳上の実兄・善太郎(43歳)は、宣雄の小十人組・5番手の組頭代理役をつとめている。そんな縁故で、水原家へ養子に入っている善次郎の後妻にと、多可を乞われた。

宣雄とすれば、多可を、もっと家禄の高い幕臣のところへ嫁がせたかったが、嫁入りをいそいだのは、多可がむすめとしての躰つきになるとともに、銕三郎のことを慕いはじめたからである。
このままにしておくと、どんな拍子に、銕三郎とできてしまうかもしれない雰囲気だった。
そのことはが先に気がついた。
自分と宣雄とのなれ染めのことを考えれば、危険はすぐそばまで来ているようにおもえた。
は、二年前に、銕三郎が三島宿で、若後家・芙沙(ふさ)から、濃厚な初体験を与えられたことは知らない。
宣雄は、男同士の秘密として、おくびにも出していない。

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(歌麿『若後家の睦』部分 芸術新潮2002年1月号)

銕三郎のほうは、女躰といえば、すでに夫の巧緻のかぎりをつくして開発された芙沙の性戯と、豊かだがしっとりなめらかな肌の記憶が、いまだに鮮明である。くり返しおもいだすこでよけいに美化されてもいる。

参考:銕三郎の初体験】
2007年7月24日[仮(かりそめ)の母・お芙沙(1)
(2)

多可の、来たときよりも丸みがついたとはいえ、あいかわらず細い躰には、銕三郎は魅力を感じていない。
一人っ子で育った銕三郎にしてみれば、多可は妹であった。
井上立泉(りゅうせん)医師から教えられた、太ももの付け根の割れ目をはさんで、左右にそよいでいるむすめの芝生探索のことは、すでに放念している。

鉄三郎が間違いをしでかす前に、多可を遠ざけるにしくはない」
「間違いがお好きなのは、お殿さまの血筋でございますれば---」
「ばか。どこやらの名主のおなごの誘いがはげしかったから、つい---」
「つい---どうなさいました? 着物を着たままだたったのに---」
「もう、よしなさい。昔のことではないか」
「いいえ。おなごにとっては、初めてのときのことは、いつまでも、つい、昨日のことでございます」
ふだんはきわめて控えめなだが、あのときのことになると、がぜん、多弁になる。
「わかった、わかった。それより、多可のことだが---」

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(水原家譜)
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(赤○=水原保明 緑○=多可 黄○=多可が産んだ保興)

【参考:】
2007年8月[多可が来た](1)
(2)
(3)
(4)
(5)
(6)
(7)

2007年12月5日[多可の嫁入り] (1)

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2007.12.03

多可の嫁入り

「父上、多可(たか)の婚儀のことにつき、少々、お訊きいたしとうございます」
銕三郎(てつさぶろう)が、思いつめた面もちで切りだした。

宝暦11年(1761)の晩夏のことである。
16歳になっていた銕三郎は元服もすまして宣以(のぶため)と名乗っている。そろそろお目見(みえ)の年齢である。
父の平蔵宣雄(のぶお)は44歳。小十人組・5番手の頭となって3年目で、組下のものたちからの評判もよい。

多可がどうかしたか?」
「どうもいたしません」
「では、なにが訊きたい?」
多可の婚儀の相手です」
水原(みはら)保明(やすあきら 200俵 小普請組)どのが、なにか?」
「あちらは、40歳というではありませぬか」
「それがどうした?」
多可は、手前とおなじ、16歳です」
(てつ)は去年は15歳であった。多可もおなじ15歳。ことし、揃って16歳になるのは、とうぜんのことだと思うがの」
「そのようなことを申しているのではありませぬ」
「なにを言いたい?」
水原さまには、前妻がいらっしゃいました」
「その奥方は、昨春に薨(みまか)られた」
「つまり、その---多可は、後妻(のちぞえ)ということになります」
「後妻といっても、前妻には世嗣ができなんだ」
「しかし、多可は初めての嫁入りです。なにも、40男の後妻にいかずとも、ほかに---」
「控えよ、銕三郎ッ。お主が出しゃばる事柄ではない!」

普段は温厚な宣雄が、この時は、目尻を朱にして声を荒立てた。
銕三郎は、もうそれ以上は異をとなえなかった。

あくる日、銕三郎は、多可に言った。
「ほんとうに、嫁(い)ってもいいのだな」
「はい」
「先方は、40歳だぞ」
「兄上。武家のおなごは、決めらたことに従うものと心得ております」
「む」
「兄上のおこころざしを、多加は終生、忘れませぬ」

【参考:】
2007年8月[多可が来た](1)
(2)
(3)
(4)
(5)
(6)
(7)

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2007.11.03

多可が来た(7)

翌朝。
多可(たか 14歳 養女)が襷(たすき)がけの稽古衣、袴、それに紫色の鉢巻まで結んで現れた。
(まるで、舞台での親の敵討ちだ)
「よいか。まず、弓手(ゆんで 左手)に木刀を持つ。そう、刃が上向き、そして、互いに、礼。木刀を抜いて構える」
多可の構えがどこか、おかしい。
多可。柄(つか)を握るには、馬手(めて 右手)が前だ」
多可が、ぎこちなく握りを入れ替える。
「お前、弓手遣いか?」
秘密を見つけられたみたいに、多可は赤くなってうなずいた。
「そうか。ま、女だから、実際に剣をとって戦うこともあるまい。利き手で鍔元(つばもと)を握るがよい。ただの素振りだから、やりやすい形でやればいい」

それから、木刀をふりあげて右足(多可は左足)を一歩踏み出すとともに、振り下ろし、肩の高さで木刀をとめる。
「両腕がまっすぐに、しかも、やわらかくのびている。そう、それでいい」
それから、一歩さがりながら、また振り下ろす。

多可の稽古衣の前が、すこし、はだけた。
銕三郎(てつさぶろう 14歳 のちの長谷川平蔵宣以)の目に、まだふくらんでいない乳房が見えている。幼い少年のような乳頭だった。
そのことに、多可は気づかない。
「ちょっと待て。お前、母上にいって、襟の身ごろあわせの結び紐を女前に逆につけかえてもらえ。男前あわせのままになっている。そのとき、結ぶ紐の位置をすこし高いところと、低いところにももう1組、ふやしてもらえ。いや、今日のところはこのまま、つづけよう」
言われて初めて、多可は事態に気がつき、また、赤くなった。

「おれの目を見たまま、振り下ろすのだ。さあ---1で振り上げ、2で打ちこむ。1、出る---2ッ、1、下がる--2ッ」
多可がふりあげたとき、稽古衣の幅広の袖口の奥、腕のつけ根が黒くなっているのが銕三郎の目に入った。
口では、「1、出る---2ッ、1、下がる--2ッ」をくり返し、自分も素振りをしながら、銕三郎は、多可の腕の奥の芝生に考えを飛ばしている。
(あの脇毛の具合では、秘部の茂みも生えていよう。一線をはさんで左右になびいているか)

20回目ぐらいで、多可の腕が肩よりも下がってきた。
「よし。一息いれる。最初はこたえるものだ。見ておれ」
銕三郎は先輩らしく、ことまもなげに、「1、2、1、2、1、2---」と50回ほどつづけて見せた。
多可の瞳に尊敬の色が浮かんだところで、
「じゃ、いま一度、1、出る---2ッを30回やって、きょうは終りにする」
「何日で、兄上のように、こともなく振れましょうか?」


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2007.11.02

多可が来た(6)

朝食を終えたあとの茶を手に、平蔵宣雄(のぶお 41歳 小十人頭)が、今朝から相伴することになった銕三郎(てつさぶろう 14歳 のちの平蔵宣以)へ、思いついたように、言った。
(てつ)よ。どうだろう、明朝から、多可(たか 14歳 きのうから宣雄の養女)に素振りを教えてやってくれないか」
「はぁ。多可に素振りをでございますか?」
「銕に嫌といわれたら、どこぞ、町道場をさがさねばならぬが、たかが素振りだけのことに、それは無駄遣いのような気がしてな」
「嫌---とは申してはおりませぬ。ただ---」
「ただ---なんじゃ?」
{なにゆえ---かと---」
「わけか。多可の躰つき、14歳の娘にしては、細すぎると思わぬか?」
「細すぎます」
「で、素振りでもさせれば、発育もおっつこうと思ってな」
「父上がさようなお考えなれば、教えましょう」
「くれぐも言っておくが、組み太刀などは無用だぞ。あくまでも素振りのみ。女剣士などつくるつもりはない」
「承りました」

銕三郎は、14歳になるすこし前から背丈がのびて、5尺4寸(1メートル62センチ)ほどになった。
多可は、5尺(1メートル50センチ)あるかなしだった。
銕三郎は、納屋から古い木刀をとりだして寸をつめ、細めに削りはじめた。
老僕の太作(たさく 50過ぎ)が見とがめた。
「若。なにごとでございまするか?」
父・宣雄に命じられて、多可の素振り用の木刀をつくっている、と答えると、
「軽くしたのでは、鍛錬になりませぬ。寸も太さも、それぐらいでよろしゅうございましょう」
木刀は、全長2尺2寸(66センチ)で、普通の大刀と脇差の中間の長さだった。

さらに銕三郎は、母親に訊いた。
「2年前までの稽古衣は残っておりましょうか?」
は、あるはずだが、と答えたあと、新しいのを求めて与えるほうがいいのでは---と首をかしげた。
「いえ、いつ止めることになるかもしれない素振りです。当座は、お下(さが)りでよろしいかと---」
多可はね、丈はたしかに小柄だけれど、足袋は私のものが間に合いませぬ。背丈もおっつけ伸びるでしょう」
と笑った。
さすがに、女親らしい観察であった。

「着てみろ」
銕三郎は、母が探し出してくれた古く小さな稽古衣と袴を、多可に渡した。きちんと洗って仕舞ってあった。
多可は、別室で着替えた。
「ふむ。襷(たすき)がいるな。母上にそう申して、みつくろってもらえ。明朝の稽古には、その剣術衣に襷をかけて現れよ」
たかが素振りなのに、なんだか、良師にでもなった気分は、つぎの多可の言葉でやぶられた。
「この刺し子の剣術衣には、兄上の汗の匂いがしみついていて、なんだか妙です」

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2007.11.01

多可が来た(5)

銕三郎(てつさぶろう 14歳 のちの平蔵宣以)は、剣術の道場へ行く朝は、井戸端で鉄条入りの木刀の素振りを500回やる。
けさも木刀を振っていると、多可(たか 14歳 養女で、きのうからは銕三郎の妹)が大川の上げ潮を見あきたか、帰ってきて、挨拶をした。
「兄上、お早うございます」
「お早よう」
「このあたりは、やはり、海が近いのでございますね。潮の香りの強さが、矢の倉あたりとは違います」
「匂いを嗅ぎに、わざわざ大川端(おおかわばた)まで行ってきたのか。もの好きな」
(女は匂いに敏感なんだな)
「両国橋の千本杭を見なれている多可の目には、川岸の風情が美しゅう見えます」
「ああ、両国橋のあたりは流れが速いので千本杭で、ゆるめているのだったな」

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(小林清親 「千ほん杭両国橋」)

「それに、佃島が目の前で、大きな船がもやっておりました」
「うん。菱垣廻船や千石船がいつも停泊している」
(小林清親 「佃島雨晴」)

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「いま、多可は佃島といったが、ここらあたりから見えていのは石川島のほうだ」、
のちに、平蔵宣以となった銕三郎が、この石川島の人足寄場を設けることになろうとは、このとき、多可も銕三郎自身も知らない。
銕三郎は、上半身をあらわにしているのが、なんとなく、照れくさく、いそいで、手ぬぐいをしぼって汗を拭き、袖を通した。

これまでは、下働きたちにしか見られなかったが、多可に見られるとなると、上半身、双肌(ろはだ)脱ぎはまずいかろう。しかし、素振りも500回もつづけると、汗びっしょりになる。
多可の目のとどかないところとなると、納屋の裏あたりしかないが、それにしても、嫡男のおれが、なんで泥棒猫かなにかのように、そんなところで隠れるように素振りをしなければならないんだ。間尺に会わない)
憤然としていると、多可が言った。
「兄上。汗がまだ匂っています。もう一度、お拭きなさいませ。背中のほう、お手伝いいたします」
「よ、余計なお世話だ」

銕三郎は、そのまま、自室へ戻ろうと、そばをとおりぬけながら、嗅ぐともなく多可の匂いを鼻に入れた。大川端までの往復ですこし汗ばんだか、みかんのような香りを発していた。
(これは、少女の匂いだ。あの夜、芙沙の裸躰から匂いたっていたのは、もっと濃密な、そう、生きもの---抱いた猫があばれるとき出すような匂いだった)
またしても、お芙沙との比較である。女を見る基点が、お芙沙になってしまっている。
家僕の太作(たさく)がひそかに苦慮しているところも、これなのだ。
少年の銕三郎が、熟しきったお芙沙を女の基点にしては、偏る。

朝食になったとき、母・が言った。
「今日からは、膳は父上とごいっしょとなりました」
これまでは、父・平蔵宣雄は書院で摂っていた。銕三郎は、母といっしょに台所の隣の部屋で食べた。400石の格式の幕臣の家のしきたりであった。
それが昇格した---というより、宣雄が、多可に配慮したのであろう。

朝食といっても、白粥と梅干、それに削り鰹節程度のものである。
昼は、宣雄は弁当を江戸城内の小十人頭がつめている桧の間で摂る。
書院に膳が運ばれてくると、宣雄がまず言った、
「こちらが箸をとるまで、箸をとってはならぬ。話しかけられたら、箸を措(お)いてから答えよ。箸を措くときは、箸先を自分のほうか横へ向けて措け。決して上級者のほうへ箸先を向けて措いてはならぬ。2本は乱さずに揃える。ものを含んだまま口をきいてはならぬ」
(いよいよ始まった。箸のあげおろしにまで気をつかうとは、まさにこのことだ)
銕三郎は思った。
母・は、上総(かずさ)の村長(むらおさ)の娘ゆえ、あまり行儀ばったことはいわなかった。
父・宣雄も、堅苦しいほうではなかったが、城勤めのあれこれを、いまから覚えさせておこうとしている。

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2007.10.31

多可が来た(4)

翌朝、銕三郎(てつさぶろう 14歳 のちの平蔵宣以 のぶため)の目覚めは、昨夜の寝つきの悪さにもかかわらず、思ったより早いかった。
といっても、初夏の七ッ半(5時)だから、裏庭の樹々もすっかり明るくなっている。
井戸端で顔を洗っていると、箒(ほうき)を手にした太作(たさく 50過ぎ)が挨拶にきた。
「若さま。おはようございます。昨夕は、私どもまでお祝いものをいただき、ありがとうございました」
「お祝いもの---?」
多可(たか 14歳)さまのお家入りの赤飯とご酒で---」
「酒好きの太作が満足するほどもあったかな?」
「もう、齢(とし)ですから、それほどには飲めません。若い六助などはすっかり酔っておりました」

「それはそうと---」
耳へ口を寄せた太作が、声をひそめた。
「あの多可さまというお嬢さまは、よくできたお方でございますな」
「なにか---」
「もう半刻(はんとき 1時間)も前に洗面をおすませになり、飯炊きのしげ婆(ばあ)に、手伝うことはないかとおっしゃって、あの口やかまし婆を、恐れ入らせてしまわれました」
「はっははは。この銕(てつ)をすら平気でやりこめる、しげ婆を、か。はっははは。これは快、快」
「しげ婆が恐縮すると、そのまま、大川の満ち潮を見に---」
「育ちが矢の倉の中屋敷だと言っていたから、大川はなじみの水なのであろうよ」

「ところで、太作。美濃の加納と、上野(こうずけ)の高崎と、どっちが遠い?」
「加納と高崎でございますか。木曽路(中山道)なら、高崎までが4日、それから信濃、木曾の山道を6日でしょうか。東海道ですと、藤枝から名古屋まで3日、それから2,3日かと。それで、加納がどうかいたしましたか?」
多可のお父御(ててご)が、美濃・加納藩の江戸屋敷にお勤めということでな。加納城も見てみたくなった」
「若さま!」
「わかっておる。三島宿でのことは、もう、あきらめておる」

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(広重『木曾海道』 加納宿)

「じつは---」
あたりを見まわしてから、太作がまた口を寄せてきた。
「三島の本陣・樋口伝左衛門どのから、殿さまあてのお礼の干物にそえられて、手前への書状がありました」
芙沙の行方が知れたのか?」
「いえ。そのことには触れておりませんで、若さまはつつがなくお過ごしかと---」
「そんなつまらないことを訊くために、わざわざ書状をか」
「若。人の情けを軽くお思いなってはなりませぬ」
「そうであった。太作からくれぐれもお礼を述べておいてもらいたい。ついでに---」
「ついでに---?」
「いや---いい」
太作は、主人の依頼だったとはいえ、銕三郎にお芙沙を引き合わせてよかったのか、決断がつかないまま、銕三郎から目をそらして言った。
「若。ご覧ください。朝焼けのちぎれ雲が、あんなに美しゅうございます」


【参照】
芙沙とのある夜の出来事2007年7月16日[仮(かりそめ)の母・お芙沙(ふさ)]
2007年7月24日[仮(かりそめ)の母・お芙沙(2)]

木曾海道での江戸から加納宿までの旅の行程は、
(1)
(2)
(3)

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2007.10.30

多可が来た(3)

その夜、銕三郎(てつさぶろう 14歳 のちの平蔵宣以 のぶため)は、なかなか寝つかれなかった。

多可(たか 14歳 この日から長谷川家の養女)には、ついに、手鏡の用い道は告げなかった。いや、告げなくて助かった。

多可は、手鏡は持参しておろうな」
「はい。母の形見のものを」
「うん。やがて、化粧もおぼえようほどに、な」
銕三郎がそういってごまかした時、母・(たえ)の呼び声に救われた。
「いつまで、もたもたしているのです。殿さまがお帰りになりましたよ」

銕三郎は、寝床にいて、兄妹の間柄について夢想した。
多可も14歳である。実の兄妹なら、同じ年に生まれたことになる。年子(としご)より間隔がつまっている。町方(まちかた)の長屋の子にはそのような例もないことはないが、武家の場合はほとんど、脇腹の子との兄妹になる。
もっとも、その場合でも、一つ屋根の下で育つことも珍しくない。
そうした場合---と、銕三郎は考える。
幼い時は、風呂あがりなどで、互いに裸を見合っていよう。
(まあ、14歳にもなれば、いささか照れくさかろうから、躰を見合うこともすまいが---)
(ましてや、真の兄妹でも、「お前、下の芝生は生えそろったか」などと訊くことはあるまい)

(しかし、なんだな。一線をはさんで、左右になびくように生えているいる乙女のほうが、風情はまさるな---などと、井上立泉(りゅうせん)先生も余計な暗示をお与えくだされたものだ。立泉先生は、患者の躰をごらんになったり、おさわりになるのが商売だからいいが、こちらはそんな機会がないから---)
そこまできて、銕三郎は、
(それにしても、多可の躰は、柳の小枝ほどに細い。ひきかえ、芙沙の豊かで張りのあった太もも。薬指を導かれた秘部の茂り。割れ目の湿り---)
想い出すと、銕三郎のものは、たちまち、熱く息づいた。
(仮の母御と言って、芙沙は、これをやさしく愛撫してくれたなあ---)
いつのまにか、お芙沙が、芙沙になっている。そのほうが、いかにも自分だけのものに思えるのだ。

 年々歳々 花相(あい)似たり
 歳々年々 人同じからず

呟いてみたが、芙沙は消えなかった。ますます鮮明によみがえってきた。

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(歌麿『若後家の睦』部分 芸術新潮2003年1月号)

---と、芙沙の姿態が、塾に誰かがもちこんだ秘画に置き換わった。

(いかぬ。芙沙に申しわけない)
理にあわぬ理を、少年らしくつけた銕三郎は、行灯の灯を消し、無理に目をつむって、妄想をふり払おうとした。

【参照】
芙沙とのある夜の出来事2007年7月16日[仮(かりそめ)の母・お芙沙(ふさ)]
2007年7月24日[仮(かりそめ)の母・お芙沙(2)]


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2007.10.29

多可が来た(2)

多可には、兄者はいないのか?」
正座し、一人前に三つ指をついて見上げている多可(たか 14歳 この日から長谷川家の養女)と、視線をあわせるためにかがみこんだ銕三郎(てつさぶろう 14歳 のちの平蔵宣以 のぶため)が訊く。
「はい。弟と妹が一人ずつ、藩邸・中屋敷の長屋で父上の帰りを待っております」
「そうか。それでは、今日からは拙が兄となってやろう。ほんとうの兄だぞ、義理兄ではなく---」
「かたじけのうございます」
「ほんとうの兄ゆえ、どんな時にも、妹の多可をかばってやる」
「心強いことです」
「その代わり、多可も、兄の言うことにはさからわないな」
「さからいませぬ」
「うむ---」
「なにか?」
「いや。いまはその多可の心根だけ、確かめておけばよい」

じつは、銕三郎は、新銭座に住む井上立泉(りゅうせん)に言われたことを、多可で試してみようと思ったのだった。
表番医の立泉は、父・平蔵宣雄(のぶお 41歳)の親友である。宣雄の義兄の修理宣尹(のぶただ)が病床にあったとき、宣雄が頼み込んで看立ててもらつて以来の、深い付き合いとなっていた。

先日の銕三郎の駿州・田中城への旅立ちのときにも、道中薬と餞別をとどけてよこした。
餞別返しに、小田原土産の〔ういろう〕を持参した。
その銕三郎の下腹部を、それとなく、診察した。
宿場の飯盛女から悪い病気をもらっていないか、父・宣雄がひそかに検診を依頼したのである。

その時、首、肩、胸、腹---と触診。
「ふむ。大人への兆しの、股間の芝生も、なかなかに生えそろってきましたな。しかし、なんだな。一線をはさんで、左右になびくように生えているいる乙女のほうが、風情はまさるな。男の子のは、勝手気ままな生えぶりだからの」
と呟いた、
(一線をはさんで、左右になびくように生えているいる乙女の---)
が、強烈に銕三郎の耳に残ったのであった。
三島で初体験させてくれたお芙沙は、一線を指でやさしくなぞらせただけで、しかと見せてくれたわけではなく、性体験も積んだ若後家でもあった。

その乙女がやってきた。
多可は、兄になったばかりの銕三郎のいいつけには、さからわないといっている。
多可は、柳の小枝のように細い体つきとはいえ、14歳だ。茂みもそれなりに芽をだしていよう。いや、そよぐほどに育っいるかも。
(一線をはさんで、左右になびいているいるか、確かめたい)。
最近のように、ギャルの素っ裸の写真が雑誌に載る時代ではなかった。

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(歌麿 『歌まくら』部分 芸術新潮2003年1月号より)

いや、いかになんでも、銕三郎が己れの目で乙女の秘部を覗くのははばかられる---見るだけでは納まらなくなるとも限らない。
どっちにしても、そのことが両親へ知れたら、それこそ、この家にはいられない。
だから、多可の口を厳重に封じてから、多可自身にたしかめさせるのだ。
多可だって、未通の乙女だ。乳房のふくらみが遅いことは気にしても、自分の割れ目の周囲を仔細に観察したことはあるまい。
いや、割れ目ではない。
それをはさんで左右にそよいでいる芝生だ。
多可にいいつけて、手鏡で確かめさせ、耳打ちさせるのだ。

多可は、手鏡は持参しておろうな」
「はい。母の形見のものを」
「うん。やがて、化粧もおぼえようほどに、な」

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2007.10.28

多可が来た

養女・多可が来る日。
銕三郎(てつさぶろう のちの平蔵宣以)は、朝から落ち着かなかい。
(自分にはなんのかかわりもないのだ。猫が一匹、やってきたと思えばいい)
そうは思っても、三島大社の裏の路地の家で交わしたお芙沙(ふさ)との愛の睦みが、昨日のことのように思い出されて、平静ではいられなかったのだ。

塾の黄鶴(こうかく)は、劉廷芝(りゅうていし)の詩を講じていた。

 洛陽城東(らくようじょうとう) 桃李(とうり)の花
 飛び来(き)たり飛び去って誰(た)が家に落つる
 洛陽の女児(じょじ) 顔色(がんしょく)好(よ)し
 行く落花落ちて逢(お)うて長嘆息(たんそく)す
 今年(こんねん)花落ちて顔色改まり
 明年(みょうねん)花開くも復(ま)た誰(だれ)か在(あ)る

 年々歳々 花相(あい)似たり
 歳々年々 人同じからず

長谷川。人同じからず---とは、なにを謳っているのか」
突然、黄鶴師に指名された銕三郎はあわてた。
「はい。きのうはなにごとも許してくれたのに、きょうはすべてを拒む女心---ということかと---」
「なにを考えておるのだ、長谷川。顔を洗って、頭を冷やしてこい。昼間から寝ぼけるでない」
(田中城下からの帰りの、お芙沙の無言の拒否は、人同じからず---だったが)
銕三郎は、塾の裏の井戸へゆきながらつぶやいていた。

夕刻、三木忠大夫忠任(ただとう 飛騨・加納の江戸詰の家士?)が、娘・多可を伴って現れた。
平蔵宣雄(のぶお)は、まだ、下城してきていなかった。城中でなにか差しさわりでも起きたのかもしれないが、供の若侍・桑島友之助も言伝(ことづて)を持ちかえってこない。

部屋へ通された多可は、14歳の少女とはおもえぬほど、柳の小枝のように細い躰を緊張でより固くしている。
銕三郎の実母・(たえ)が言葉をかけた。
多可さん。あなたさまのお部屋をご覧なさいますか」
「あ、奥方さま。多可は、ただいまからはそちらさまの娘。そのようにお扱いくだされ」
忠大夫忠任が恐縮した。40歳にはまだ間があるようだが、横鬢(びん)にはすでに白いものが混じっている。
「それでは。銕三郎多可を案内しておやりなさい」
の声がいつもより高ぶっている。やはり、気がはっているらしい。

多可の部屋になるのは、母の隣だった。
銕三郎が訊いた。
「お前、どこで育った?」
「中屋敷です」
「その中屋敷というのが、どこにのあるかと訊いておる」
(若葉(じゃくよう)の女児(じょじ) 顔色(がんしょく)好(よ)からず---ではないか)
「薬研堀・矢の倉」
「母者もか?」
「母は逝きました」
「いつ?」
「2年前」
多可は、突然、涙ぐんだ。
「なんだ、これしきのことで---」
しかし、銕三郎は戸惑った。
ところが、目じりをぬぐった多可は、ぴたりとすわって指をつき、銕三郎を見上げ、
「お兄上。これからもきびしくお叱りくださいますよう」
「む」
(これが妹という女か)
銕三郎は、ますます戸惑った。

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(赤○=両国橋西詰薬研堀・矢の倉の加納藩中屋敷 近江屋板部分)


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