カテゴリー「005長谷川宣雄の養女と園 」の記事

2008.03.30

於嘉根という名の女の子(その7)

もし、銕三郎(てつさぶろう 18歳=当時 のちの小説の鬼平)と、縁切りの尼寺へ入った阿記(あき 21歳=妊娠当時)のあいだに生まれた女児・於嘉根(おかね 宝暦14年 1764 1月に尼寺で誕生)が、長谷川家に引き取られるとおおもいになったとしたら、筆者の力が至らなかったことをお詫びしないといけない。

於嘉根が年齢からいって、長谷川家の養女ではありえないことは、2008年2月7日[ちゅうすけのひとり言]の(4)で気がついて、(たえ 銕三郎の実母)から生まれたかどうかは別として、実妹に間違いないことは明らかにしておいたつもりである。
どうぞ、上掲のリンクつきの印してげあるオレンジ色(4)をクリックして、史実をお確かめおきいただきたい。

『寛政重修諸家譜』にある銕三郎の妹は、亡父・宣雄(のぶお 享年55歳 をもうけた時は52,3歳)の隠し子・(その 文庫巻23[隠し子])なんかではない。もっとも、寛政7年(1795)前後に元下僕・久助(きゅうすけ 75歳)が鬼平(50歳)へ打ち明けた時のは30歳であったから、平蔵宣以の子という仮説もなりたたないわけではない。

そういうおもいが、筆者の頭の片隅にへばりついていて、ことあるごとに、実妹が平蔵宣以(のぶため)の子であるとすると、どういう経緯(ゆくたて)で妹として届けえたのであろうと空想にふけるわけである。

ここまで、銕三郎阿記の睦みあい、阿記の会話を記録していて、どう結末をつけるか---などと、空想した一つを、赤面しながら記してみると---。

春の某日---が訪問して旬日後。
芦ノ湖畔であそんでいた於嘉根が、何かにみとれて湖へ落ちる。阿記があわてて飛び込み、於嘉根をつかんで岸へ放りなげると、都合よく、男が受け取ってくれる。
しかし、そこは意外な深みで、水を吸い込んだ着物の重みで、阿記は溺死。
そのことを聞いたは、ふたたび芦ノ湯村へやってきて、於嘉根を貰いうける。
そのあと、は実家の上総国武射郡(むしゃこおり)寺崎村(千葉県山武市寺崎)へ引きこもり、半年後に於嘉根とともに南本所・二之橋通りの長谷川邸へ戻ってき、何食わぬ顔で幕府へ実子としてとどけた---といった筋書きを、まじめくさってかんがえるのである。

しかし、解決しなければ問題は別にある。
辰蔵の生年である。明和7年(1770)、銕三郎宣以が25歳の時の嫡子。
とすると、久栄(ひさえ 小説の妻女 大橋家のむすめ)との婚儀はその前年であったろう。銕三郎は24歳。
銕三郎が23歳の明和5年(1775)12月5日がお目見(めみえ)---これを済ましたことで、いつ、父・宣雄にもしものことがあっても、家督する権利を得たことになる。
久栄との婚儀の話は、この前後からおきていたろう。
阿記とのことがすっかり片づいていないと、婚儀にさしさわりがでる。

と、阿記を溺死が、現実味をおびてくる。

しかし、きょうからあと、銕三郎の婚儀成立までの3年間、色恋沙汰がないというのも、さびしい。書き手とすれば、銕三郎阿記を、もう一度、合褥(ごうじょく)させてやりたい。
銕三郎が23歳なら、阿記は26歳、芦ノ湯小町といわれた色香は、十分に残っていよう。
ただ、於嘉根が4歳だから、彼女の目を忍んでの同衾させるのは、工夫を要する。
秘画特有の、これみよがしの、しどけない大胆な姿技の引用もひかえることになろうか。

B_360
(国芳『葉奈伊嘉多』([仮の逢う瀬]部分))

それとも、3年経って、髪も伸びてきているとすると、こっちの絵かなあ。

_360_3
(国芳『江戸錦吾妻文庫』部分)

なにをくだらないことに時間を浪費しているんだ---と自分が自分を叱る。

類推するなら、於嘉根が18歳ほどになった時の平蔵宣以との対面シーンではなかろうか。平蔵36歳の男ざかり。徒の頭(かしら 役高1000石)。分別十分。

於嘉根のイメージ。芦ノ湯村小町だった母親に似て、なかなかの美形。

_300
(英泉『玉の茎』)

それでは、あと16年、於嘉根のことには封印をしておこう。
銕三郎には、別のいい女との出会いを設定してやるか。

参照】2008年3月19日~[於嘉根という名の女の子] (1) (2) (3) (4) (5) (6)

| | コメント (0)

2008.03.29

於嘉根という名の女の子(その6)

「お髪(ぐし)は、どれほど、伸びましたか?」
(たえ 40歳 銕三郎の実母)が、於嘉根(おかね 2歳)を阿記(あき 23歳)に渡しながら、訊いた。
阿記は、頭に巻いていた水色の布ぎれを無造作に外した。
3寸(約10cm)ほど伸びた毛髪が直立しているようにあらわれた。
「尼寺では、山を去る半年前から頭を剃らなくてもよいきまりになっており、ちょうど9ヶ月で、これほどに---。髪が結えるようになるには、あと2年ばかりかかりましょう。その日が待ちどうしゅうございます。髪は、女の2番目のおしゃれどころでございますから---」

「お産は軽うこ゜ざいましたか?」
「いえ。初産(ういざん)でもあり、軽うはございませんでした。でも、銕(てつ)さまのお子を授かるのだと、懸命に力みました」
阿記が、頭へ布巻きながら、恥ずかしそうに答える。
「私が銕三郎を産みました時も、重いお産で、なんという親不孝な子だろうと---」
2人は、顔を見合わせて笑った。

「お産は、鎌倉の尼寺で?」
「はい。一度、得度(とくど)いたしますと、お産といえども、山を出ることは許されません」
「寺でお産みになる方も多いのですか?」
「少なくはございませんが、縁を切りたい男の人の子ではないのを、入山の前夜か2夜ほど前にもうけたというのは、私だけでございました」
「では、ずいぶんと責められましたか?」
「いいえ。山では、浮世のことは、一切、み仏にお預けして---ということでございましたから---」
銕三郎の不行きとどき、幾重にもお詫びいたします」
「とんでもございません。こんなかわいい子を授けてくださいました。感謝しております」
「そのようにお許しいただくと、肩の荷がおりたようで、ここまで訪ねてきた甲斐がありました。ところで---」

と、は、於嘉根の人別(戸籍)のことを訊く。
縁切り寺で生まれた子は、ふつうは、父(てて)なし子として、扇ヶ谷村支配の代官所江川太郎左衛門へ届けるのだが、阿記の場合は、箱根・畑村宿をとりしきっている、めうがや畑右衛門が手まわし、父・次右衛夫婦の子ということになった。
産褥(さんじょく)に臥せっている阿記の知らぬ間の、再婚のことをおもんぱかった処置という。

「ひどい話だと怒りましたが、於嘉根が手元にいさえすれば、そのことはどうでもいいとおもうようになりました」
阿記さんは、お若いのですから、この先、独り身というわけにもいかないでしょう?」
「この湯治宿は、いま、よその温泉場で見習いをしております兄が継ぎます。その兄が嫁をむかえた時には、私は、ここを出て行くつもりにしております。たつきのお金は、兄が仕送りしてくれるといってくれておりますから、仕立てものでもしながら、どこかで、於嘉根と暮らしていくことになりましょう」

阿記は、が、「うちへおいでなさい」と言ってくれるとは、つゆ考えてもいなかった。しかし、のつぎの言葉には、内心、むっとした。
阿記さま。於嘉根ちゃんは、わたしが産んだ子として、長谷川家でお引きとりしてもよろしいのですよ。阿記さまの再婚のために---」
「とんでもございません。さまのお子をつくろうと決めました時に、はっきり申しあげました。ご迷惑はおかけいたしませんと」

【参照】その夜のことは、2008年2月1日[与詩を迎えに] (38)

「しかし、その時はその時。再婚のお話がでた時は、また、別でございましょう?」
「お伺いいたします。いまのお話は、銕三郎さまのお気持ちでしょうか?」
「いえ。あれはまだお目見(めみえ)もすんでいない部屋住みの身ですから、なにも相談しておりません。私一人の考えたことです」
「わかりました。どうぞ、このお話は、なかったことにしていただきとうございます」

阿記は、銕三郎が、突然、遠い存在になったようで、軽いめまいをおぼえた。
で、
阿記さんのような嫁なら、私ともうまくやっていけそうな気もするのだが。於嘉根も父親の下で安らかに育つことであろう。ただ、阿記さんは、武家の嫁にしては美しすぎる)
おもっていたが、心を鬼にしていた。

_260
(歌麿 阿記のイメージ)

strong>於嘉根を、自分の子として幕府に届けけられるのは、この夏までがぎりぎり---とふんでいたのである。

【参照】2008年3月19日[於嘉根という名の女の子] (1) (2) (3) (4) (5)

| | コメント (0)

2008.03.28

於嘉根という名の女の子(その5)

吾平(ごへえ)どん。先に〔めうが屋〕さんへ行って、まもなく、私が阿記(あき)どのを訪ねてきている、と申してきておくれでないか」
芦ノ湯村の手前の立場(たてば)で休んだ(たえ 40歳 銕三郎 てつさぶろう の実母)が、下僕の吾平(46歳)を先触れにゆかせ、供の女中・有羽(ゆう 31歳)から鏡を受け取り、髷(まげ)のほつれや白粉のはたはなおしをする。
それから、有羽の着付けのゆるみにも視線をくばった。
長谷川家のしつけのがしっかりしているところを、阿記(23歳)に見せるつもりなのである。

立場の老婆がだしたお茶をすすっていると、吾平のうしろから、かつて長谷川家で下僕をしていた藤六(とうろく 47歳)が駆けつけてきた。
「奥方さま。お久しぶりでございます。ようこそ、こんな雛へお越しくださいました」
「おお、藤六どん。そなたが阿記さまと於嘉根さまにお仕えしていてくれていることは、銕三郎から聞きました。いつまでも忠義のこころを忘れずにいてくれて、ありがたくおもっております」
「勝手をしました藤六をお許しくださったばかりか、おはげましのお言葉まで頂戴して、夢のようでございます。阿記さまがお待ちでございます。さ、どうぞ---」

〔めうが屋〕では、玄関で、於嘉根(かね 2歳)を抱いた阿記と亭主・次右衛門夫妻が待っていた。
阿記は、尼僧時代に剃髪した髪が伸びきらないらしく、淡い水色の布で頭をつつんでいた。
頭髪はまだ生えそろってないとはいえ、若い母親らしいゆとりのある阿記の美しさに、は、内心で、
銕三郎には、すぎたおなご---)
とおもった。
あいさつの交わしあいがすむと、有羽は、離れへ案内された。
脚絆などの旅装束を解いたは、有羽が差し出す、400石の幕臣の内室らしい裾を引く召し物に着替え、阿記を待った。

阿記が、お茶を捧げて、入ってきた。
の前に茶托(ちゃたく)をすすめ、
「このような山奥までのお運びで、さぞ、お疲れになられましたことでございましょうが、阿記は、このうえなく、うれしゅうございます。、湯で、ごゆっくりと、お疲れをおいやしくださいませ」
折り目正しい、口上に、またも妙は、内心、
銕三郎には、すぎたおなご---)

阿記さま。その節は銕三郎がすっかりお世話になりましたようで、お礼を申しあげます。これは、ほんの気持ちだけのものですが、お嬢さまの節句にでも着せてあげてくださいませ」
尾張町の呉服舗〔布袋(ほてい)屋〕であつらえた、女の幼児の着物である。

_360
(尾張町の呉服太物[布袋屋] 『江戸買物独案内』
川柳に「尾張町通りすぎると静かなり」 京弁の呼び込み)

360
([尾張町角に恵比寿屋、布袋屋、亀屋があったので、川柳は、
「尾張町めでたきものでおっぷさぎ」)

「まあ、お祖母(ばあ)さまからの頂戴もの。於嘉根が大喜びでございます」
平塚の太物舗〔越中屋〕の若女将だった阿記は、有名店〔布袋屋〕の名は知っている。

「私が、於嘉根さまのお祖母でございますか?」
「お祖母さまのお許しもなく、お嘉根をつくりまして、申しわけございませんでした。幾重にもお詫びいたします。でも、阿記は、なんとしても、銕三郎さまのお子をもうけたかったのでございます。悔しいのは、男の子でなく、女の子だったことですが、いとおしさには変わりございません」
「可愛い孫むすめを、このお祖母(ばば)にも抱かせてくださいますか?」

いそいそと母屋へもどっていく阿記のうしろを、有羽が〔めうが屋」への土産物を携えてしたがう。 
しかし、阿記於嘉根を抱いてふたたび離れへやってきた時には、有羽の姿はなかった。さりげなく、席をはずしたのである。

「おお。於嘉根ちゃん。私が、銕三郎の母ですよ」
は、あやしながら、於嘉根の顔から、20年前に抱いていた赤子---銕三郎の面影を探している。
於嘉根への呼びかけに、阿記が目をうるませたようだ。
於嘉根は母親似で、もし、長谷川屋敷で育てば、〔本所小町〕は間違いないとおもったが、ちょっぴり落胆したことも事実であったと言いそえておく。

「で、阿記さま。嘉根という名づけは---?」
さまにお諮(はか)りもせずにつけまして、申し訳ございません。さまの金偏(かねへん)をいただきました」
(そういえば、阿記の前夫の名は幸太郎、屋号は〔越中屋〕---どこにも嘉根の名にかかわるところはない)
於嘉根の根は、さまと知り合い、結ばれたのが箱根権現さまのお引きあわせとおもい、箱根の「根」をいただました」
於嘉根ちゃん、あなたは箱根権現さまのおさずかりものだそうですよ。後光がさしていますよ」
は、拝むふりをして、阿記を笑わせた。
は、こんなに躰の奥からなごんだ気分になったのは何年ぶりであろうかと考え、赤ん坊の銕三郎を抱いていた以来だから、20年ぶりに近いと気づき、はっとした。
その時---なぜか、於嘉根が小さな手をのばしての顔にさわり、
「おばば」
と言って微笑んだのである。
それで、はすべてを了解し、ほとんどを許してしまっていた。
許せなかったのはただ一点---銕三郎が、阿記母子のことを、この時まで妙に話していなかったこと。

参考銕三郎阿記との出会いとなれそめ 
2007年12月29日~ [与詩を迎えに] (9) (10) (11) (12) (13) (14) (15) (25) (26) (27) (28) (29) (31) (32) (35) (36) (37) (38) (39) (40) (41)

2008年3月19日[於嘉根という名の女の子] (1) (2) (3) (4)

| | コメント (0)

2008.03.22

於嘉根という名の女の子(その4)

「殿さま。なにか不調法でも---?」
(たえ 40歳)は、夫・宣雄(のぶお 47歳)の怒声を久しく耳にしていなかったので、急ぎ足で部屋へ入ってきた。

妻の顔を見て、平蔵宣雄は、いつもの冷静さを取りもどしたといえる。
「いや。大事ない。そうだ、もここへ座って、(てつ)がしでかした不始末をどう結末つけるか、いっしょに考えくれ」
「不始末とは?」
「赤子だ」

「父上。1歳と3ヶ月の子です」
銕三郎(てつさぶろう 20歳 のちの鬼平)が、むきになって正した。

事態が呑みこめなくて首をかしげている母・に、銕三郎が2年前の阿記(あき 当時=21歳)との成り行きを説明する。

【参考】阿記とのなれそめ 2008年1月1日[与詩を迎えに] (12) (13) (14)

B_360
(北斎『させもが露』)

「まあ。おめでたい話ではございませんか。でも、男のお子でしたら、もっとよろしかったのに---」
。じつのところ、の子なのか、前の夫の種なのか、まだ、決まってはいないのだ」
「いいえ。鉄三郎の子に決まっております」
「どうして、わかるのだ」
「殿さま。ご自分の時のことをお考えになってごらんなさいませ。殿さまと私とは、婚儀もあげていないのに、銕三郎をつくりました。私が、ややができました、銕三郎を孕みました、とお告げしました時、殿さまは、別の殿ごの種だとお思いになりましたか?」
には、ほかに男がいなかったではないか」

「それでは申しあげます。その阿記さんというお方が、銕三郎の子だとおっしゃったら、お信じになりますか?」
「それは---」
「女には、子どもがお腹に宿った瞬間の時のことが、ふしぎと感じとれるのでございます」

ちゅうすけ注】阿記銕三郎の子が着床したと想像できる夜 2008年2月1日[与詩を迎えに] (38)

「しかし---」
「いいえ。私が、阿記さんに会って、お話を聞いてまいります。阿記さんが、銕三郎がその子の父親だとおっしゃってから、あとの手だてを考えても、遅くはないのでございませんか。お子は、もう生まれてしまっているのですから」
「うーむ」

「しかし、母上。あとの手だて---と申しましても、阿記どのからは、何も申してきてはいないのです。箱根で荷運びをしていた者から聞いただけなのです」
「お黙りなさい、銕三郎ッ。あなたは、なぜ、阿記さんは、お子が宿ったこと、無事に生まれたこと、育っていることを、あなたに、まったく、知らせてこなかったか、考えたのですか? 長谷川の家名に傷をつけてはならない、といじらしくお考えになったからではないでしょうか? 私には、痛いほど、わかります。そなたがお腹の中に宿った時、どのように、殿さまへお伝えしようか、すまいかと、何日も何日も悩みました。殿さまは、その時は、2代つづいての冷や飯のご身分でしたから、お困りになるだろうと---」
「おいおい。そんな昔のことを持ち出さなくても---」

「いいえ、殿さま。あの時の私は、村長(むらおさ)のむすめといっても、お武家さまの正妻になれる身分ではございませんでした。それでも、平蔵宣雄という男の方が好きで好きでたまりませんでした。大きなつつんでくださるお方におもえたからです。この殿ごのお子を産みたいとおもいました」
の目からは、大粒の涙がこぼれはじためた。
銕三郎も、自分の出生の筋立てを、あらためて聞き、感じいっていた。

阿記さんとおっさしゃる方も、銕三郎のことが好きで好きでたまらなかったから、身をおまかせになったのでしょう。箱根へ行って、お会いしてまいります。そうしないではいられません」
「母上。拙もお供をいたします」
「いいえ。銕三郎がいては、筋立てがもつれるだけです。そなたは残っていなさい」

| | コメント (0)

2008.03.21

於嘉根という名の女の子(その3)

「父上。折り入ってのお願いがございます」
母・(たえ 40歳)が2人の膳を召使に下げさせて部屋を出ると、銕三郎(てつさぶろう 20歳)がかしこまって、父・平蔵宣雄(のぶお 47歳)へ言った。

「じつは、子どもができました」
「ほう。どこに、じゃ?」
「箱根です」
「それだけでは、飲みこめぬ。もちっと、詳しく話してみよ」

銕三郎は、2年前の春、与詩(よし 宣雄の養女)を迎えに駿府へ旅したとき、旅程に芦ノ湯村を加えて、その地の湯治宿〔めうが屋〕のむすめで、実家へ帰っていた阿記(あき 21歳=当時)を抱いたこと。
【参考】阿記との出会いとなれそめ 2007年12月29日~ [与詩を迎えに] (9) (10) (11) (12) (13) (14) (15) (25) (26) (27) (28) (29) (31) (32) (35) (36) (37) (38) (39) (40) (41)
 
_360
(英泉『古能手佳史話』)

阿記が鎌倉の縁きり寺・東慶寺へ入山まで付き添ったことを打ち明けた。
なんのためらいもなく、すらすらとありのままを話せる自分に、銕三郎は、
(それだけ、大人になったのだろうし、あれは、自然の成り行きだったからだ)
と、自分でも合点した。

「そのことは、辞めた藤六からは聞いておる。目の前においしいものがぶらさがれば、飛びついてでも食らうのが若さの特権というものだ」
「しかし、赤子ができたとなると、話は別でございます」
「いま、は、なんと申した? 嫁家先から実家へ帰る途中で知り合った---と言わなかったか?」
「申しました」
「さすれば、父親は、嫁家先の夫やも知れない」
「いえ。拙にはおもいあたるふしがございます」
「たわ言(ごと)を申すでない。母親は間違いなく産んだといえるが、父親はだれにもわからぬものと、古今からそういうことになっておる」

「しかし、阿記は、拙の子を産みたいと申しました」
「そのことを言っているのではない。父親はだれにもわからないと言っておるのじゃ。この場合、当の母親にもわからない」
阿記は、3年ものあいだ、幸兵衛(こうべえ)---あ、阿記の夫の名です、でした---幸兵衛とともに暮らしていましたが、子なしでした」
「3年目に子をなす夫婦もあれば、10年目にできる夫婦もある。2年と11ヶ月があいだ、孕まなかったからといって、銕三郎の子と断ずることはきぬ」
「そんな、無責任ないいのがれは、できませぬ」
銕三郎は、阿記との純粋に燃えた情熱が、汚されたような気がした。

「無責任になれ、と申しておるのではない。よく確かめろというておるじゃ」
「どのように確かめればよろしいのでございますか?」
「赤子は、10月10日目にかならず出てくるとはかぎらない。したがって、出生の日からは決めることはできない。が、しばらく待てば、親に似たところもでてこよう」
「1歳と3ヶ月ほど経っています」
「では、誰かに、顔、姿を確かめてもらおう。それには、その太物屋の幸兵衛とやらをも見分してもらう必要もあるな」

_300
(国芳『葉奈伊嘉多』)

「で、もし、拙の子に間違いないとなりました時は---?」
「厄介なことになる」
「どのような?」
「武家の出でない婚姻外の女が産んだ子は、庶子としてとどけることになるが、お目見(みえ)もすんでいないの子としてとどけるのは、いささかむずかしい」
「拙は、一向にかまいませぬ」
「そうはいかない。その方は、この長谷川の家を継がねばならぬ身じゃ」
「拙が家を出て、養子をお迎えになれば---」
「馬鹿ッ! それこそ身勝手というものじゃ」

その鋭く大きな声を聞きつけたが、何事かと驚いた表情で、2人が睨みあっている部屋へ入ってきた。

| | コメント (0)

2008.03.20

於嘉根という名の女の子(その2)

「知らなかった!」
胸の奥の奥からしぼりだしたような声で、銕三郎(てつさぶろう 20歳 のちの小説の鬼平)はくりかえし、うめいた。

つばめが軒先をかすめて半転し、飛び去る。

風速(かざはや)〕の権七(ごんしち 33歳)は、 いたわるような眼差(まなざ)しで銕三郎の次の言葉を待っている。

むせるような匂いは、隣家との境界に育っている数本の桐の薄紫の花からのものだ。

ようやくに、銕三郎が言葉をつないだ。
阿記(あき)どのは、縁切りができたのですか?」
「そりゃもう、2年間、尼寺にお籠(こ)もりとおしなすったのですから、どこからも文句の出るもんじゃあござんせん。長谷川さまもご存じの、平塚宿一帯の顔役・〔馬入(ばにゅう)〕の勘兵衛(かんべえ 37歳 )どんも、〔越中屋〕の幸兵衛(こうべい)に念を入れてくれたと言っとりました」

芦ノ湯小町といわれていた阿記は18歳で、平塚宿の太物(木綿衣料)の老舗〔越中屋〕の当主・幸兵衛(こうべえ 22歳=当時)に嫁いだが、姑の意地悪に耐えかねて実家へ逃げもどる箱根路で、銕三郎と出会い、夫とはケタ違いの大きな器量に、一と目で魅せられた。

_360
(当時の旅人が携行した『懐中東海道道しるべ』
赤〇は阿記の実家がある芦ノ湯村)

_360_2
(浜松以東と以西の2巻もの)

阿記に未練たっぷりだった幸兵衛は、〔馬入〕の勘兵衛をおどし役に雇って阿記の実家・〔めうが屋〕へ連れもどしにやってきたが、〔風速〕の権七が仲へ入り、勘兵衛は手を引くことになって、けっきょく、幸兵衛は泣き寝入りの形になった。

阿記は、鎌倉の縁切り寺・東慶寺へ入り、2年間、尼僧としての修行をつんだ。それで、元の夫・幸兵衛との縁は断ち切れる。

もちろん、銕三郎は、ふとした時々、こころも躰もゆるしあった阿記との旬日のあれこれを偲んだが、江戸と鎌倉---ましてや、東慶寺は男子禁制でもあり、文をやることもなくすごしてきたのである。
(勤行(ごんぎょう)明けのときにでも、文をとどけておいてやればよかった)
しかし、
(未練がましいし、阿記のこんごの人甲斐(ひとがい 風評)の邪魔となってはいけない)
自分をいましめていたことも事実である。
(しかし、おれの子が生まれていたとなると、話は別だ)
(できたのは、おれの子を産みたいといって燃えた、あの夜だろうか?)

_320
(英泉『夢多満佳話』)

ちゅうすけ注】銕三郎が想いだした燃えた[あの夜]とは、2008年2月1日[与詩を迎えに](38)

(それとも、東慶寺で剃髪してきてからでてきた、その異相におもわず興奮しながら交わった鎌倉の旅籠でだったのであろうおか?)

_300
(国芳『枕辺深閨梅』)

(それにしても、尼寺での子育ては苦労だったろう)

権七(ごんしち)どの。阿記どのの消息をも少しお聞かせいただきたいが、この家ではまずいとおもいます。どこか、安心して話せるところへ---」
「狭いところですが、須賀の店へ参りやしょう。夕刻までは、人はきません」

銕三郎は、松浦用人に(夕飯までには帰る)と断り、権七とつれだった門を出ようとした時、与詩(よし 8歳。宣雄夫妻の養女。銕三郎の義妹)がどこから帰ってきて、権七に、
「あら。箱根のおじさま」
与詩さま。しばらくのうちに、大きく、きれいにおなりで」
権七は、心得ている。
「きれいになった」といわれて喜ばない女はいない。与詩のような8歳の子でも。

「箱根のおじさま、あいかわらずのお口上手なこと」
与詩も成長いちじるしい。

 

| | コメント (2)

2008.03.19

於嘉根(おかね)という名の女の子

「若さま。〔風速(かざはや)〕とかおっしゃる方がお待ちになっておられます」
下僕の太作(たさく 60歳近い)が、学而(がくし)塾から帰ってきた鉄三郎(てつさぶろう 20歳 のちの小説の鬼平)に、告げた。
太作はめっきり老け込んで、腰もすこし曲がってきている。
屋敷の主・平蔵宣雄(のぶお 47歳 先手・弓の8番手の組頭)は、長年の働きを多として、仕事はしないで隠居していろと言っているのだが、本人にはその気がない。あいかわらず、小まめに薪を割ったり、門前の掃除をしてりしている。

「なに、〔風速〕と申したか?」
「はい。箱根路の〔風速〕と言っていただけばわかるとおっしゃって---手前の部屋でお待ち願っております」
「よし。躰の汗を流して着替えたら、おれの部屋へ案内してくれ」

箱根路と聞いて、咄嗟に、久しく忘れていた2年前の、芦ノ湯村湯治宿のむすめ・阿記(あき 当時21歳)の、事が終わったあと、薄紅色がさした白い肌をさらしたままで恍惚とまどろんでいた姿が、生々しく、よみがえった。

_360
(国芳『江戸錦吾妻文庫』)

18歳の春、銕三郎は駿府(静岡市)へ、養女・与詩(よし 当時6歳)を迎えに行く箱根路で知り合い、鎌倉の縁切り寺の東慶寺までいっしょに旅をし、幾夜も躰を重ねた。

井戸端で水をかぶっているあいだも、股間のものの緊張はやまなかった。
(そういえば、この春、東慶寺で2年の奉仕を終えて、無事に離縁できたろうか?)
阿記の実家、芦ノ湯の湯治旅籠の〔めうが屋〕の離れの浴槽で背から抱いた阿記の張りのあった臀部の感触は、まるで、春の川の流れに身をまかせていてのできごとのように、思いだす。

_360
(英泉『玉の茎』[水中浮流])
ちゅうすけ注】2人が、上の絵のような愉しみ方をしたのは2008年1月18日[与詩を迎えに] (28)

単衣に着替えたところへ、太作が〔風速〕の権七(ごんしち 33歳)を案内してきた。
長谷川さま。お久しぶりでごぜえます」
「権七どのらしくもない。挨拶は抜きです。いつ、江戸へ?」
「もう、2ヶ月になりますか---」
「それで普段着なのですね。どうして、すぐに来てくれなかったのです?」
長谷川さま。それは無理というもの。鉄砲洲を訪ねてゆきましたら、阿波(あわ)さまの中屋敷の門番たちに追っ払われちまいました」
「それは、相すまぬことでした。昨年末にここへ越したのです」
「さようだそうで---。湊町の名主に教えられました」

「で、江戸へは---?」
「はい。箱根で、ちょいとまずいことを起こしまして---」
「で、江戸では、どこに住んでいますか? 須賀どのは?」
須賀の奴を、覚えていてくださいましたか。あいつにいってやれば、喜びましょう。いえ、須賀もいっしょ、というより、あれが、永代橋東詰でちっぽけな呑み屋を開きまして、居候をしてまして」
「なんだ、近くではないですか」

「それはそうと、長谷川さま。駿府へのお供をなさっていた、藤六(とうろく 47歳)どんが、芦ノ湯村の〔めうが屋〕の女中・都茂(とも 45歳)と仲むつまじく、〔めうが屋〕で働いているのはご存じで?」
藤六が1年前に暇をとったのは、そういうことだったのか。よほどに、躰と躰があったとみえる)

ちゅうすけ注】『鬼平犯科帳』巻6[狐火]で、〔相模(さがみ)〕の彦十が、おまさに、2代目狐火とは、「よほどに躰と躰があったんだね」と。あれです、藤六都茂の仲は。百に一つ---あるかなしなんですってね。

B_360_2
(北斎『ついの雛形』)

「〔めうが屋〕といえば---」
「それでございますよ、長谷川さま。阿記さんが子づれで尼寺から帰ってきたのはご存じで?」
「なに? 子づれ---?」
「はい。1歳ちょっとの---」
「知らなかった!」


| | コメント (0)

2008.02.05

与詩(よし)を迎えに(番外)

【訂正とお詫び】
2008年1月5日[与詩(よし)を迎えに](16)で、駿府で銕三郎(てつさぶろう)が宿泊したのは脇本陣〔大万屋清右衛門方とした。
宿名は、岸井良衛さん『五街道細見』(青蛙房 1959.3.15 再版)から拾った。
同書には町名が記されていなかったので、城下を東西に通っている東海道筋のどこかとふんで、本通りとし、その地図を添えた。
青○の地点がそれである。

_360_2
(駿府町地図 青○=本通りに面した本陣〔大万屋〕 赤○=町奉行所
緑○=奉行所与力屋敷 黄○=同心屋敷 ピンク面=寺社地)

SBS学苑パルシェ〔鬼平〕クラスは開講5年になる。ここで共に学んでいる安池さんが、[与詩(よし)を迎えに](16)を読んで、〔大万屋〕の所在を調べてくださった。

研究書のコピーによると、駿府の旅籠のほとんどは、本通ではなく、伝馬町に集中していたようである。駿府城の東南にあたる、東海道筋の一郭である。

_360_3
(青○上伝馬町の〔大万屋〕清右衛門 )

上伝馬町 上本陣  望月治右衛門
    建坪=191坪
同    脇本陣  松崎権左衛門
    
下伝馬町 下本陣  小倉平左衛門
    建坪=215坪
同    脇本陣  平尾清三郎

旅籠40軒(うち、大旅籠3軒)

それで、『五街道細見』の記述を詳細に見たら、〔大万屋清右衛門には「脇」ではなく「宿」の略号がついていたから、「脇本陣」を「大宿」と訂正し、お詫びする(1月5日の記述は、安池さんのご教示を称えるために、誤記のまま残しておく)。 

別の資料には、上伝馬町の脇本陣として、太兵衛 建坪=107坪もあがっているが、安池さんからいただいた配置図には、見あたらない。

1_360_3
(上伝馬町の旅籠群・西寄り部分 青=旅籠 緑=本陣 赤=寺社
青○ 大宿・〔大万屋〕清右衛門)

また、別の資料には、札之辻町の〔難波屋仁左衛門方と車町の中村善左衛門方が加番本陣だったとある。本・脇本陣が満杯のときに臨時に本陣の役をつとめたのであろう。

大万屋〕清右衛門が本通りでなく上伝馬町に移転しても、町奉行所までの距離がほとんど同じだったのは、奇遇である。

さらに付記すると、上伝馬町、下伝馬町の呼称は、京都により近いほうを上、その逆の地区に下とつけるのが、当時の呼称のつけ方であった。

| | コメント (4)

2008.02.04

与詩(よし)を迎えに(41)

阿記(あき 21歳)が入山する尼寺・東慶寺は、鎌倉5山の第2---円覚寺の南にあった。

『東海道名所図会』から要点を拾うと---。

松岡と号す。禅宗比丘尼住職す。開基は北条時宗(ときむね)の室、秋田城介(じょうすけ)の娘にして潮音院覚山志道尼と号す。第廿世の住職は豊臣秀頼(ひでより)公の息女にて、天秀泰(てんしゅうたい)和尚という。時に八歳。

「縁切り」のことは記してはいない。

衣装を替えるために、近くの旅籠〔小町屋〕の部屋を借りた。
着替えた阿記は、観念したように寺門をくぐろうとしかけて、銕三郎(てつさぶろう)のもとへきて、
「お願いですから、今夜一と晩、旅籠にお泊りおきくださいませんか?」
「夕暮れも近い。そうするつもりでいる」
返事をえると、決心したように、門をくぐった。

銕三郎たちが夕食を終えたころ、阿記がやってきた。
丸めた頭の青さが、銕三郎の目には、ひときわ艶(なま)めいて映った。
「どうかしたのか?」
「得度(とくど)の前に、この姿をお目にかけたくて、1刻ほどの許しをいただいてきました」

藤六(とうろく 45歳)が気をきかせて、与詩(よし 6歳)を連れて、部屋を出ていった。
待ちかねていたかのように、阿記が抱きついてきた。
「いまいちどの、福をください」

銕三郎も、異様な興奮をおさえきれなくなった。

_300
(国芳『枕辺深閨梅』)

衣服の乱れを整えた阿記は、深ぶかと礼をして、
「これで、730夜の煩悩に耐えることができそうです」
そう言って、微笑み、出て行った。
銕三郎は、掌中の珠が消えたような喪失感を味わっていた。これほどに痛みが大きく深いとは、予期していなかった。

| | コメント (0)

2008.02.03

与詩(よし)を迎えに(40)

江ノ島の東の腰越村から稲村ヶ崎までの渚道(なぎさみち)は42丁。7里ヶ浜である。
坂東流の距離表記で、6丁(ほぼ654m)を1里としたための7里であることは、常識。上総(かずさ 千葉県)の九十九里浜も同上の計算による命名。古いチャイナの計測法によっているものか。

_360_4
(明治19年製版。参謀本部陸地測量部。江戸期に最短)

阿記(あき 21歳)が入道する縁切り寺の東慶寺は、鎌倉でもうんと北にあり、稲村ヶ崎からさらに50丁(5.5km)はあると、〔三崎屋〕の亭主が教えた。
阿記は、銕三郎(てつさぶろう)といっしょに俗世にいられる最後の半日だから、東慶寺のある台村まで、共に歩きたいという。

藤六(とうろく 45歳)が、与詩(よし 6歳)のために、牛を手配してきた。砂道なので、馬よりも牛とのことであった。
「牛のあゆみだと、台村まで、2刻(4時間)ちかく、かかりましょうな」
〔三崎屋〕の亭主の読みである。そのことを、阿記はむしろ、よろこんだ。銕三郎とそれだけ長くいられる。

腰越村をすぎる時、銕三郎は、その昔、軍目付(いくさめつけ)の梶原景時(かげとき)に、
「御弟、九郎大夫判官(だいぶのはんがん)殿こそ、終(つい)の御敵(かたき)」
頼朝(よりとも)へ書き送られ、ここの満福寺へ足止めをくらった義経の、胸のうちを推察したが、阿記は、彼のそんな忖度(そんたく)など気にもとめておらず、
御前(しずかごぜん)も、義経公のことをおもいながらこの道を通ったのでしょうね?」
(まあ、阿記は、おんなだから、仕方がないか)
あきらめて、生返事をしておく。
(讒言(ざんげん)おそるべし、とはいえ、武家の目付とは、もともとそういう役目なのだ。留意して、しすぎるということはない)。

銕三郎は自分が、25年後に、政敵・森山源五郎孝盛(たかもり)による讒言によって、宰相・松平定信(さだのぶ)から嫌われることになろうとは、ゆめ、おもわなかったろう。

稲村ヶ崎までは渚道(なぎさみち)と呼ばれるだけのことはあって、打ち寄せる波に、いまにも足をあらわれそうなほどである。

昼食は、極楽寺村の茶店で摂った。

_360_5
(左から長谷、坂下、極楽寺の各村 道中奉行制作『江嶋道見取絵図』)

_360_3
(左から由比ヶ浜からの八幡参道と長谷村
 道中奉行制作『江嶋道見取絵図』 )

長谷村を過ぎて、八幡参道にかかるころから、阿記の口数が減ってきた。
かわりに、牛背の与詩の口がなめらかになった。
「はちまん(八幡)さま、おしろ(城)の、とおくに、ありまちた---した」
駿府城の南の八幡(やはた)山のことを言っているのである。

「あにうえ(兄上)。えど(江戸)にも、はちまんさまはありましゅか---すか?」
「八百余州、八幡さまのないところは、ありません」
「かまくら(鎌倉)のはちまんさまと、おしろ(駿府)のはちまんさまと、どっちが、おおきいでしゅか---ですか?」
「鎌倉の八幡さまは、東国で一番大きいのです」
「とうごく(東国)とは、どこのことですか?」
与詩のお城のあったところから、ずっとずっと東、江戸のむこうまで、のことです」
「かまくらの、はちまんさまより、おおきいの、ありますか?」
「鎌倉の八幡さまは、京の近くの石清水八幡さまの弟だから、京のほうが大きいとおもうが、兄は行ったことがないから知りません」
「あにうえでも、しらない---おしりでないことが、ありますか?」
「あたり前です。知らないことは山ほどあります」
「あの、ふじ(富士)の、おやま(山)ほど、ですか?」
「そうです」
藤六が笑っている。
与詩も、みんなのお蔭で、だいぶ、丁寧に話せようになってきた。あと一ト息だ)

そのまま、鶴岡八幡宮に参詣し、台村へ向かう。

_360_6
(鶴岡八幡宮 『東海道名所図会』 塗り絵師:ちゅうすけ)


| | コメント (1)

2008.02.02

与詩(よし)を迎えに(39)

江の島---正確には、島の対岸なのだから、片瀬村というほうがあたっているのかもしれない。ま、ここは世俗に従って、江ノ島海岸の旅籠・〔三崎屋〕としておく。

遅い朝餉(あさげ)を、下の大部屋で、4人、そろって摂った。
与詩(よし 6歳)が、今朝は、お芙沙(ふさ)母上から貰った黒漆塗りの木匙で食べたいといいだした。
「けさも、おねしょ、なかった。ごほうびにいいでちょ---しょ」

【参考】黒漆塗りの木匙の1件は、2008年1月20日[与詩(よし)を迎えに](30)

黒漆塗りの木匙は、お芙沙が家業を継いだ三島宿の本陣・〔川田伝左衛門方が、尾張侯紀州侯などの貴顕の膳に添える食器の一つである。そのため、参勤交代の大名が宿泊する宿で使うことは、お芙沙から、きびしく禁じられたいた。
しかし、〔三崎屋〕は、参勤交代の道筋の本陣ではないばかりか、遊楽客が一夜だけ泊まる、いってみれば団体客のための宿である---と、銕三郎'(てつさぶろう)は判断を甘くして、
「一度だけですよ」
と、許した。
油断である。
銕三郎は、阿記(あき)の美貌に馴れてしまっていた。
彼女は、〔芦の湯小町〕と謳われたこともあり、引きつめの半髪、薄化粧、地味な着物でも、人目を惑(ひ)く。

阿記に向けていた羨望と好色のなまざしの片隅に、与詩の匙をいれた男がいた。

先に食事を終えていた40がらみのその男は、食後の茶をすすっている銕三郎たちのところへ寄ってきて、でっぷりした顔に似合わないかん高い声で、
「ご免なさって。わっちは、武州・八王子で塗師(ぬし)をやっとる弥兵衛と申す職人でごぜえます。こちらの和子(わこ)がお使いになっとった黒漆塗りが、遠目にも、あんまりみごとだったから、失礼とは存じましたが、もし、お許しがでるなら、ちょっくら、拝観をさせていたたけねえかと存じまして---」

銕三郎が黙ってその男を見ているので、藤六(とうろく)が気をきかせて、
「八王子のお方。こちらは急いでおります。お申し越しは、ご無用ということに---」
ところが、与詩が、匙をさし出して、
「いいでちょう---しょう」
銕三郎の動きは速かった。
「なりませぬ。口で汚したままのものを人さまのお目に入れるものではありませぬ」
泣きそうな顔になった与詩を、阿記が立たせて、大広間から連れ出す。

藤六。旅籠のご亭主をお連れしろ」
そう命じておいて銕三郎は、弥兵衛の顔をやんわりと見すえて、
弥兵衛どのとやら。塗師といわれましたな。掌をお示しいただきたい」
あわてるかと思いのほか、弥兵衛は贅肉のついた顔をほころばせて、
「見破られたのでは、仕方がありませんな。お若いに似合わず、心得がおありのようで---」
「ご用件を承りましょう」
「名は、さきほど名乗ったとおりの弥兵衛---ただし、世間ではその上に---」
窮奇(かまいたち)〕の通り名がついている、と言おうとしたのを、
「待たれい、弥兵衛どの。そこから先は、この場では、聞かないでおいたほうがよさそうです。幸い、〔三崎屋〕のご亭主が見えました。ご亭主の前での、話しあいとしましょう」

_300
(鳥山石燕『図画百鬼夜行』[窮奇かまいたち]
 起こした風が剃刀のように人を切る動物と)

なにごとかと、いぶかる亭主に、
「ご亭主どの。お手間をかけて申し訳ありませぬ。さきほど、こちらの八王子の弥兵衛どのから、拙が連れている妹の持ち物を見せてほしいと乞われました。あれは、わが家の家宝の品だったゆえ、お断りいたした。もっとも、弥兵衛どのがわが家の家宝がお目当てだったのか、それは口実だったのかは、わかりませぬが、とにかく、弥兵衛どのと、ここでかかわりができたこと、ご亭主どののご記憶にとどめおきいただき、もし、公儀にかかわるようなことが起きたときには、証(あか)し人(びと)に立っていだければと---」
「さような大ごとが起きるのでございますか?」
「いや。起きないように、お願い申しておるのです」
「お若いお武家さん。おめえさんの勝ちだ。この弥兵衛の負け。あきらめたよ。ところで、のちのちのために、お名前を聞かせてはくだるまいか?」
「名乗るほどの者ではありませぬが、告げなければおあきらめくださるまい---江戸で火盗改メのお頭(かしら)を拝命している本多紀品(のりただ)どのの相談役・長谷川銕三郎宣以(のぶため)と申します」
「あ、火盗改メ---」
〔三崎屋〕の亭主のほうが驚いていた。火盗改メは、代官支配地や幕臣の知行地の多い相模国あたりへまで出役(しゅつやく)しているからである。
「ほう。火盗改メの相談役をねえ。桑原、くわばら。長谷川さん、ご縁があったら、また、お会いしましょう」
弥兵衛どの。お別れする前に、一つだけ、お教えいただきたい。〔荒神〕の助太郎というお仲間をご存じないでしょうか?」
「〔荒神〕のお頭が、なにか?」
「やっぱり---」
「あのお頭は、りっぱなお盗(つとめ)をなさるとの、もっぱらの噂ですよ」

「若。あの男の正体が、鍵の手だと、よくお分かりになりました」
「いや。〔ういろう〕屋のことがなければ、気がまわらなかったであろうよ」
「なにが狙いだったのでしょう?」
「さあ、それはあの男に聞いてみないとわからぬが、阿記どのほどの美人を嫁にとっている商家なれば、よほどに裕福とみて探りにかかったか。あるいは、与詩の匙を商っていた店の名でも聞きだそうとしたか。あれほどの品を扱う店なら大きな塗物(ぬりもの)問屋(漆器の問屋)---江戸でいえば、日本橋室町の〔木屋〕あたりであろうよ」

ちゅうすけ雑語】室町の塗物問屋〔木屋〕は、いまの三越百貨店のライオン口に向かって左手半分に、大震災まで店構えした大店であった。この〔木屋〕からのれん分けされ、向いに主家とは異業種の店を出したのが打物(刃物)の〔木屋〕である。

_350
(室町2丁目の塗物の大問屋〔木屋〕 震災で廃業)

_350_3
(塗物〔木屋〕からのれん分けして向かいに開店した打物〔木屋〕)

それから銕三郎たち4人は、江嶋の弁財天の本宮、上の宮、下の宮を巡った。

_360
(江島弁天宮 『東海道名所図会』 塗り絵師:ちゅうすけ)

阿記は、
「弁天さまは、女体でありながら、子授かりの功徳ではなく、弁舌・音楽・財福・知恵の神様なのがつまらない」
と、いささか罰あたりな感想をもらした。
まあ、江嶋が海中から一夜にして出現し、そのときに天女が舞ったという経緯からいって、天女が子を孕んだなどということは伝わっていない。

Photo_2
(江ノ島の某所から移したという、静岡市梅ヶ嶋の旅館〔梅薫楼〕に
鎮座している弁才天。ここは、文庫巻7[雨乞いの庄右衛門]も湯治
した、武田軍の負傷者用の秘められた温泉場)

与詩は、本宮へは(こわい)と言って入らなかった。


| | コメント (0)

2008.02.01

与詩(よし)を迎えに(38)

平塚宿の東端を流れている馬入川は、馬乳川と書いた時期もあると。
相模最大の川なので、相模川とも呼ばれた。
武家は渡舟料の16文が不用である(1両(4000文)10万円換算だと375円)。

馬入渡舟場の対岸---中島村から藤沢宿まで、3里12丁(14km)たらず。
銕三郎(てつさぶろう 18歳)は、藤沢までの今宿、茅ヶ崎村の西はずれの立場(たてば)の南江(なんこ)などの風景を愛(め)でながら、松並木の一人旅をくつろいだ。

072_360
(茅ヶ崎村 左(西))の村はずれが南江の立場)

『鬼平犯科帳』巻15・長編[雲竜剣]では、南江から海岸への道にある報謝宿を、同心・木村忠吾おまさが見張る。
南江から藤沢は2里9丁(約10km))。

藤沢宿は、本町の本陣・〔蒔田源左衛門方で、阿記(あき 21歳)、藤六(とうろく 45歳)、与詩(よし 6歳)が、昼食も摂らないで待っていた。

「若。ご無事で---」
「なにを案じていたのだ。ただ会って、顔を立たててやっただけだ。阿記どの、〔馬入(ばにゅう)〕の勘兵衛が、縁切りのことにかかわってくることは、もう、ありませぬ」
「ありがとうございました。胸のつかえば晴れました」

食事を終えると、阿記が、せっかくだから、時宗の総本山である清浄光寺(通称・遊行寺)へ参詣して行きたい、という。
蒔田」を辞去して、東海道を南へ、江嶋(えのしま)道の分岐点の手前左手の丘に建立されている。

_360_3
(藤沢宿 東海道(右下)から江嶋道(左)へ 『江嶋道見取絵図』)

07_360_2
(遊行寺門前の江嶋大鳥居と大鋸(だいぎり)橋
 広重『東海道五十三次』)

樹齢数百年という銀杏の大樹が目じるしである。いや、この大樹があったから、ここに総本山が置かれた。
山門からは、いろは48文字をもじって、48段のいろは坂が参道である。
与詩が、どうやら、数えられる数である。
遊行寺の由来は、開祖・一遍上人が、「南無阿弥陀仏 決定往生六十万人」と書いた札をくばりながら全国を遊行布教したことによるらしい。

_360
(遊行寺本堂)

_360_2
(本堂の内陣)

阿記は、本堂の阿弥陀如来像に、なにかを入念に祈った。与詩が見習った。

待たせていた馬に、阿記与詩が乗った。
江嶋まで1里14丁(5.5km)。
ゆっくりやっても、1刻(2時間)かからない。
阿記の表情が、なにやら、硬い。

石上村では、相模湾ごしに富士山が迫ってきて、与詩がはしゃいだ。

_365
(石上村から望む富士 『江嶋道見取絵図』 )

阿記は、思案をつづけているようだ。

片瀬村から、江嶋の全容が望めた。

_260
(江嶋海浜 『東海道名所図会』)
江ノ島から富士山を眺めた写真

_360_4
(江嶋全景 『江嶋道見取絵図』)

_360_5
(江嶋祭礼 『東海道名所図会』 塗り絵師:ちゅうすけ)

宿は、〔三崎屋〕で、大磯のときのように、銕三郎与詩阿記藤六と、3室とった。
「手前の部屋に、与詩どのを---」
藤六が言うと、ぴしゃりと、
「それは、この子の将来のために、いかぬ。そういうことを感じさせてはならぬのだ」

本坊の竜穴・弁財天への参詣は、明日の午前中の潮が退(ひ)いたらすぐということになり、与詩藤六に預けて、銕三郎阿記の部屋を訪ねた。

「どうして、ふさいでいる」
声をかけるなり、阿記がむしゃぶりついてきた。まるで、阿記のほうが齢下のようだ。
「今夜が最後の夜です」
「そうだな。これまで、いい思い出をつくってくれて、ありがたいと思っている」
「思いだしてくださいますか?」
「あたり前だよ。忘れるわけがない。今夜は、与詩を早く寝かしつけよう」
「こころ待ちにしています」

与詩が眠ったのを確かめて、銕三郎は、阿記の部屋へ忍んだ。
寝着のままで、酒をなめている。
銕三郎に、盃をつきつけて、
「今夜は、正気ではいられません。酔って、乱れられるだけ、乱れるのです」
もうかなり酔っている阿記を、抱くようにして、床へ入れた。
おぼつかない手で寝着をはぎ取り、銕三郎のものも脱がせる。
さま。お子が産みたい」
「えっ?」
「ご迷惑はおかけしません」
よくまわらない舌で、兄が湯元の旅宿で修行しており、やがて帰って家業を継ぐから、自分は、どこにでも行ける身で、江戸へ住むこともできる。なりわいの金は、兄が送りつづけてくれるとおもう。
そんな意味のことを、銕三郎の耳元で、ささやくように繰り帰す。
「ふくらんだ腹では、尼寺が置いてくれまい」
「ですから、江戸でもどこでも住みます」
「尼寺に2年入っていないと、縁切りが成就しないのではないのか?」
「だから、悩んでいるのではありませんか」
突然、裸身でのしかかり、銕三郎の首に腕をまきつけると、くるりと反転、上下が入れ変わった。

_300
(栄泉『好色 夢多満佳話』)

陰に陽に干渉する姑(しゅうとめ)から解き放たれての、銕三郎との睦みあいには、遠慮をしなかった阿記だったが、この夜は、夜叉にでもなったかとおもうほどのはげしさで、求めた。
この7日ほどの営みで、立派に成年したつもりになっていた銕三郎も、目を瞠(みは)りながら応じるしかなかった。

真夜中に部屋へ戻ってみると、藤六与詩を厠へ連れて行って、また寝かしつけたところであった。
藤六が、うなずいて、自室へ帰っていった。


| | コメント (0)

2008.01.31

与詩(よし)を迎えに(37)

大磯宿から平塚宿は、27丁(ほぼ3km)。
宿はずれの馬入村で、銕三郎(てつさぶろう 18歳 のちの平蔵宣以 のぶため)は、土地(ところ)の顔役である〔馬入(ばにゅう)〕の勘兵衛(かんべえ 35歳)と対面することになっている。

阿記(あき 21歳)が、姑(しゅうとめ)の嫁いびりがはげしいのに耐えかね、嫁家先---平塚宿・西中町で太物商いをしている〔越中屋〕との縁を切りたいと、箱根六湯の一つ---芦の湯村の実家へ逃げるようにして帰った。
その後を追って、夫・幸兵衛(こうべえ 25歳)が、脅し役の勘兵衛を雇って、阿記の実家・〔めうが屋〕へ乗り込んできた。
折りよく、駆けつけてきた、箱根山道の荷運び雲助の頭格の〔風速(かざはや)の権七(ごんしち 31歳)が仲に入り、阿記には、江戸の旗本の嫡男・長谷川銕三郎宣以という庇護者ができた---この仁は将来の大器だから、勘兵衛も辞を通じておいて損はない---いや、大いに得をもらえるはずだと口説いて、ことを納めた。

銕三郎の一行は、大磯宿の旅籠〔鴫立(しぎたつ)屋〕を六ッ半(7時)に発(た)った。
馬上の阿記は、昨夜、銕三郎に見せた熊野比丘尼の黒頭巾の下に半髪をかくしてその上から深めの網代笠をかぶり、同じような網代笠を頭にのせている与詩(よし 6歳)を、前に抱いている。

ここからが平塚宿---という西はずれの(古)花水川に架かった43間(77M余)の板橋をわたるころ、阿記は躰をこわばらせていたが、見上げる銕三郎のやさしげな目に、うなずくだけの余裕を、まだ保っていた。
橋のたもとに、勘兵衛の身内の者と一ト目でわかる若いのが立っていた。
それから1丁(109m)おきくらいに、こういう任務に馴れていないらしく、妙に肩をいからせたのが見張っている。

08_360
(平塚宿 『東海道分間延絵図』部分 道中奉行製作
 左端が古花水川。家々の真ん中を東海道が東西に)

〔越中屋〕も、店はあけていたが、幸兵衛は店頭には出ていない。
今朝、阿記の一行が通ることを、〔馬入〕の勘兵衛は、さすがに漏らしてはいなかったとみえる。
一行は、店の前を、ふつうの旅人のような物腰で、通りすぎた。

八幡宮の大鳥居の前もすぎた。
この宮は、平塚新宿・八幡・馬入の3村の鎮守と、ものの本にある。

宮前から5丁ほどで、馬入川の渡舟場である。
銕三郎は、藤六(とうろく)をつけて、次の宿場の藤沢の本陣・〔蒔田屋〕源左衛門方で休んでいるようにと、阿記与詩の馬を先に行かせた。
藤六は、連夜、褥(しとね)をともにしてきた都茂(とも 〔めうが屋〕の女中頭)のお相手から解放された一夜をすごして、晴ればれしい顔をしている。

馬入川から藤沢宿までは3里12丁(14km)たらずである。

馬入渡舟場の手前の蓮光寺の西隣が、勘兵衛が妾にやらせている料理屋---会見場所の〔榎(えのき)屋〕である。
銕三郎権七は、阿記たちが向こう岸へ着いたのをみさだめてから、〔榎屋〕の入り口をくぐった。
朝なので、料理屋はしんとしている。
若いのが出てきて、奥へ案内した。部屋々々からは、しみついている酒の匂いが廊下までただよってくる。あまり呑まない銕三郎の鼻は鋭い。

部屋へ入ると、さすがである、勘兵衛は下座にいて、丁寧に頭をさげた。
権七が仲をとりもって、あいさつの交換がすむと、勘兵衛は、配下が捧げている徳利をとって、
「朝っぱらから、お近づきの盃というのもなんでごぜえますが---」
と冷酒を注いだ。
形だけ唇を湿らせた銕三郎は、盃洗をくぐらせた盃を返した。

儀式が終わると、
「ときに、〔榎屋〕のご亭主どの。使用人の中で、この数日のうちに、金遣いが大きくなった仁はいませぬか?」
勘兵衛が不審げな顔をすると、
小田原の〔ういろう〕の盗難のことを話して、遠国(おんごく)の盗賊の仕業(しわざ)と観じているが、すべての手兵を連れてきたとはおもえない。見張りの2、3人は、土地勘のある土地(ところ)の者に口をかけているかもしれない。
「おこころあたりは、ございませぬか?」
「さて、うちの者は、手なぐさみはしても、盗みの手先までにはならねえとおもいますが」
「ごもっとも。いかがでしょう? もし、ご亭主どののお耳に、いま申した、金遣いのあらくなった者の噂が入りしたら、江戸の火盗改メのお頭(かしら)・本多采女紀品(のりかず)どのの相談役---この長谷川銕三郎宣以の代理と申されて、代官所へお届けくださらないでしょうか?」
一瞬、沈黙した勘兵衛は、膝を打って、
「きっと、承知いたしやした」

銕三郎が立ち去ってから、勘兵衛が、残った権七に、しみじみとした声で言った。
「えれえ若者がいたもんだなあ。この俺さまを、〔榎屋〕のご亭主どの---と決めつけて、煙ったい代官所へさっと結びつけた知恵もすごいが、江戸の火盗改メのお頭・本多采女紀品(のりかず)どのの相談役---長谷川銕三郎宣以の代理と申されよ---にゃあ、この勘兵衛も恐れ入ったわ。いや、金では買えねえ、みごとな手裁きよ」
「な、言ったとおりの、でかブツだったろうが---惚れねえ女もいねえだろうが、男のほうがもっと惚れるぜ」

【参考】本多采女紀品の個人譜は、2008年1月23日[与詩(よし)を迎えに](33)

| | コメント (0)

2008.01.30

与詩(よし)を迎えに(36)

小田原宿から大磯宿までは、4里(16km)。
さしたる山道もなく、馬上の阿記(あき 21歳)と与詩(よし 6歳)は、母子のようにも見えるほど、打ち解けた、他愛もない会話をつづけている。
(おんなというのは、与詩のような幼い齢ごろから、もう、おしゃべりが止まらないんだ)
馬の横を後になり先になりしてあゆんでいる銕三郎(てつさぶろう 18歳)の発見である。

「長谷川さま。大磯の旅籠は、どうなさいます?」
小いそ村(鴫立沢 しぎたちさわ)で、〔風速(かぜはや)〕の権七(ごんしち 31歳)が訊いてきた。

_360_4
(鴫立沢 鴫立庵『東海道名所図会』 塗り絵師:ちゅうすけ)

阿記どのを伴っての本陣・〔尾上市左衛門方というわけにもいかないでしょうな」
「あっしの顔見知りの、〔鴫立(しぎたつ)利助ではいかがです? 本陣や脇本陣とは格式も風格もどっと落ちますが、落ち着くことは落ち着けます。本街道から一本、山側の道路に面しておりやすが---」
銕三郎はうなずいて、
「阿記どの。権六どのが、〔鴫立屋〕という旅籠をおすすめだが、いかがです?」

_360_5
(秋暮鴫立沢 『東海道名所図会』 塗り絵師:ちゅうすけ)

「心なき 身にもあわれはしられけり 鴫(しぎ)立つ沢の秋の夕ぐれ
旅籠の名前も気に入りました。泊めていただきましょう」
阿記どのは、学があるんだなあ」
「とんでもございません。鴫立沢(しぎたつさわ)は、嫁(とつ)いだ平塚宿にも近いし、『新古今集』に選ばれている西行上人さまの名歌ですから、覚えていただけです」

さっそくに与詩が教えてくれと頼んだ。
「このあたりの秋の景を詠んだのですよ」
「あきって、あき(阿記)あねうえ(姉上)のことですか?」

「こころなき みにも あばれば---」
与詩さま。あわれは---です」
「でも、あき(阿記)あねうえ(姉上)は、あにうえ(兄上)のことがだいす(大好)きだから。あわ(哀)れではありましぇん---せん」
阿記が顔を真っ赤にしている。躰中がほてったらしい。
銕三郎は苦笑し、権七藤六は笑っている。

大磯宿の入り口で、追っかけてきた、20歳前の仙次(せんじ)という若いのが、
「お頭(かしら)。〔ういろう〕の猫道の汲み取り戸のことがわかりました」
という。
「これ、仙次。場所がらってものを心得ろ、こんなところで、バカでかい声でしゃべるんじゃねえ。〔鴫立屋〕で、ゆっくり、長谷川さまに、お話し申しあげろ」
仙次どの。遠路、ご苦労でした。旅籠で気つけを一杯おやりになってから、承ります」
銕三郎の応対に、権七がしきりに頭をふって感じいっている。
「仙次どの」と奉られた当の本人も、すっかり気をよくして得意顔になっている。

藤六は、〔尾上市左衛門あての銕三郎の請(こ)い状をもって、本陣へ向かった。父・宣雄が前もって送っておいた宿泊代から、取り消し手数料を差し引いた分を受けとりにまわった。

09_360
(大磯宿(部分) 『東海道分間延絵図』 道中奉行制作)

鴫立屋〕では、権七に割り当てられた部屋で、仙次が湯呑みの冷酒をすすりながら調べたことを報告している。
小田原の薬舗〔ういろう〕の東の猫道の閉まりっぱなしの戸は、厠の汲み取り口へ通じているもので、毎月1回、月始めに、城下に接している一色村の百姓・八蔵がきたときだけに開け閉めするのだという。
この月も、八蔵は月初めにきて、汲んでいった。
そりからこっち、賊が侵入した夜まで、落し桟を動かした者はいない。戸の下の厚い木枠の穴へ落ちて錠がわりの働きをしている縦の落ち桟は、盗賊たちが立ち去ったあと、しっかりと下の穴にはまっていた。
それで、調べにきた町奉行所の同心へも告げなかったのだが、仙次に訊かれて改めて検分してみたら、縦におちる桟を、上げた時に横から留める留め木口と、落とした時の桟を錠がわりに留める木口に、巧妙な仕掛けがほどこされていることがわかった。
両方の木口の中に四角い鉄の塊が入っているのが見つかったのは、ほかの雨戸の木口とくらべると、動かす時の手ごたえが重いように感じられると、下僕が気づいたたからである。
仕掛けた者は、木口のすべりをよくするために、溝に蝋を薄く塗っていたという。
つまり、外から、戸の板ごしに、強い磁石で木口を動かすことができたわけだ。

「〔ほうらい〕が、何かの普請で、大工を入れたのは何時だって言ってましたか?」
「4年前の春だそうです」
(あのとき、〔荒神屋〕の助太郎に小田原宿の松原神社で会った)
「細工をした者は、多分、流れ大工でしょう。その仕掛けを、磁石ともども、盗賊の頭に売ったのです。普請に入った棟梁に、その流れ大工のことを訊くのはいいが、棟梁に疑いをかけてはならないと、〔ほうらい〕藤右衛門どのに、江戸の火盗改メ・本多紀品(のりただ)どのの相談役の長谷川宣以(のぶため)が、しかと念を入れていたと、ご苦労ですが、申しつけてください」
急につくった威厳に、同年輩の仙次は恐れ入り、権七はたのもしげに銕三郎を見やった。

(しかし、〔荒神屋〕助太郎の仕業とすると、盗賊の頭分としての助太郎は、さして、大物ともおもわれないな。逃げ口があの狭い猫道一つだと、まさかのおりに、一人ずつ躰を横にしないと通れまいから、ほとんどの配下が捕縛されてしまう。そういう危険をともなった儲け口を買うようでは、な)

仙次をねぎらうために、食事は、権七の部屋で、藤六も呼んで、とった。
与詩は、阿記の部屋で、ぼろぼろこぼしなから食べている。

部屋へ帰り、与詩が寝息を立てているのを確かめてから、寝着をもち、離れた突きあたりの阿記の部屋へ行って着替えた。
臥(ふ)せていた阿記が寝着1枚で起きて、銕三郎の衣服を畳む。