カテゴリー「004長谷川平蔵の実母と義母 」の記事

2008.04.15

妙の見た阿記(その5)

「殿さまが阿記(あき 23歳)さまにお会いになるのは、なにも心配することはないのです。むしろ、祖父として、於嘉根(かね 2歳)を抱いてやっていただきたいと、阿記さまも願わしゅうおもっておいででしょう。こんな立派な祖父さまですもの」
「わしもできれば、そうしてやりたいが---」
(たえ 40歳)は、すこし眉根を寄せて、夫・宣雄(のぶお 47歳)に言う。

「気がかりは、銕三郎(てつさぶろう 20歳 のちの鬼平)のほうでございます。いまは、ご本家のご当主・太郎兵衛(57歳 火盗改メ・本役)さまのお手伝いに余念がないようですが、いつ、気が変わって、阿記さまとよりが戻るかと---」
「江戸と箱根では、よりを戻したくても、手がとどくまい」
「いえ、阿記さまは、銕三郎が声をかければ、すぐにも、箱根から於嘉根ともども、上府なさるおつもりのように見受けました」
「それほどに慕われて、銕三郎も幸せ者よのう。ふっ、ふふ」
「殿さまらしくもない---笑いことではございませぬでしょう。大権現(家康)さま以来のお旗本の長谷川家に、跡継ぎの男子を産む嫁がきてくれるかどうかの、重大事でございます」
も、大げさな。嫁の来手がなければ、その阿記とやらに、もう一人、つぎは男の子を産ませれば解決しないでもない」

「殿さまはやはり、殿方らしいお考えをなさいます。嫡子と庶子では、お上(おみ)の扱いが異なりましょう? 庶子を産まされる阿記さまのお気持ちもお察しになってくださいませ」

幕臣の場合、早く生まれた男の庶子がいても、家督の権利は、嫡男に優先権があることを、が言っている。

「待て待て。なにも、阿記鉄三郎の男の庶子のを孕んでいるというわけではあるまい。そういうこともあろう---と言ってみただけのことではないか」
「仮のお話でも、そうなった時の阿記さまの気持ちをおもうと---」
「これ、。まだ、どうもなっていないことを想像して、そなたが涙ぐむというのも、おかしいぞ」
阿記さまと、私とは、実の母子のように、こころが結ばれたのでございます」
「困った---妙なことになりおった。お、ここは、笑えぬ」

は、宣雄がまだ厄介者であったのに、婚儀もあげないで、銕三郎を孕んでしまった時の20年前の自分に、阿記を重ねているつもりであろうが、じつは、銕三郎をいつまでも「わが子」という母親の目でかばっていることには気づいていない。
この感情は、自然のもので、もつれると解きようがない。 

自室で切絵図を広げている銕三郎は、宣雄・妙の父母のあいだで、自分と阿記・於嘉根をめぐっての会話が交わされていようとは、つゆ、おもっていない。

ひろげているのは、北と南の本所、深川、そして下谷(したや)と入谷(いりや)・三ノ輪(みのわ)の彩色切絵図である。
当時の価格で1枚1分をこしていた。1両は4分、そして1両は学者たちによって10万円に換算されている(2008年4月現在)。
銕三郎の目は、とりわけ、深川・北森下町の長慶寺、本所の〔五鉄〕と緑町2丁目の料亭〔古都舞喜(ことぶき)〕、入谷の正洞院に目をとめては、その道筋を念入りにたどる。

〔五鉄〕から竪川ぞいに元町をぬけて右に折れて両国橋をわたる。
それから、神田川ぞいに柳原堤を和泉橋までたどる。
(しかし、ここで橋をわたったのでは、ほとんど武家屋敷と寺だ)

武家屋敷には、要所々々に辻番所が置かれており、盗賊一味が通りぬけるのはむずかしい。

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(神田川北側から下谷一帯の武家の辻番所=青〇)

(筋違(すじかい)門まで足をのばしてわたり、お成道を上野へ向かうとどうなる?)
やはり、辻番所を避けて入谷へ達することはできない。
(ということは、両国橋西詰か内神田---うん?)

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2008.04.14

妙の見た阿記(その4)

いうまでもなく、平蔵宣雄(のぶお 47歳 家禄400石 先手・弓の8番手組頭)は、妻女同様の(たえ 40歳)に感謝していることをかくさない。

そもそも、長谷川家の四代目・伊兵衛宣就(のぶなり)の三男として生まれた平蔵宣雄の父・藤八郎宣有(のぶあり)は、生来病弱で養子にも出されないで、宣就の厄介者のままで、宝暦13年(1763)に一生を終えた。享年は推定ではあるが70歳をはるかに超えていた。

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(四代目・宣就から八代平蔵宣以など。 参考=本家・正直)

その宣有が30歳のころ、看護にきていたむすめとねんごろになった。牟弥(むね)というむすめは、平蔵(のちの宣雄)を産んだ。
牟弥の父は、備中・松山藩の浪人・三原七郎右衛門であった。
浪人する羽目になったのは、藩主に家督相続の手つづきの手落ちがあり、取りつぶされたからである。
浪人とはいえ、元は100石の馬廻役という主要な藩士であったから、牟礼はしっかりした教育を受けており、平蔵をみっちり仕込んだ。

参照】2007年5月21日~[平蔵宣雄が受けた図形学習] (1) (2)
2007年5月22日~[平蔵宣雄が受けた『論語』学習] (1)  (2) 2007年5月25日[平蔵と権太郎の分際(ぶんざい)]

牟祢もよくできた武家育ちのおんなであり、宣雄は受けた教育をありがたいといまでも感謝している。もっとも。史実には、その後の牟礼の行方をたしかめる手がかりはない。浪人のむすめとして市井にうもれていったのであろうか。それとも、長谷川家の厄介者の看護者であり、さらなるや厄介者(---平蔵宣雄)の母親として、長谷川家の片隅で一生を終えたのであろうか。

いっぽうのは、知行地の山家(やまが)育ちのむすめとはいえ、銕三郎の実母であり、のちにはstrong>長谷川家の主婦代理として献身的につとめた。
老いた病人の宣有ばかりでなく、臥せていることのほうが多かった六代当主・権十郎宣尹(のぶただ)、さらには夫の平蔵宣雄の正妻であり家つきだが、歿するまでの10数年間、起きあがりえたことのない波津の下(しも)の世話まで、時にはこなしたのである。

宣雄が、に頭があがらないのは当然だし、もっと感心するのは、歴代当主たちは女ぐせがいいとはいえなかった長谷川家で、銕三郎を産んで以後、その悪癖をぴたりと止めたのである。
(もっとも、銕三郎のお芙沙阿記のことは、例外である。まあ、家系なんだから、しばらくは修(おさ)るまいとおもうが)

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(英泉『浮世風俗美女競』部分 阿記のイメージ)

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(英泉『美麗仙女香』部分 お芙沙のイメージ)

これは、他人が類推することではないが、は、躰によほどの自信をもっていたのであろう。

「そなたは、阿記という女性(にょしょう)は、武家の奥には美形すぎると申したが、それほどの美人なれば、いちど、会ってみたいものよのう」
「殿さま。お齢(とし)をお考えさないませ」
「まだ、側室を持ってもおかしくはない齢だぞ」
「お持ちになりますか?」
「冗談だ。言ってみただけよ」
「よろしいのでございますよ、お持ちになっても---」

「なに、一はやらず、二はやめずという。持ったとしても、そちらまで、気がまわらぬであろうから、宝の持ちぐされになろう」
「宝のようなおなごが、おりましようか?」
「おるぞ。目の前に、一人な」
「お世辞も、ほどほどになさいませぬと、効きが薄れます」
「は、ははは」
「ほ、ほほほ」

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2008.04.13

妙の見た阿記(その3)

与詩(よし 8歳 養女)が、於嘉根(かね 2歳)がきたら、自分が使っていたおむつを、あててやるなどと申しているのでございますよ」
「は、ははは。女の子だの」
夕餉(ゆうげ)をすませ、銕三郎(てつさぶろう 20歳 のちの鬼平)が自分の部屋へ戻ったあと、(たえ 40歳)は、平蔵宣雄(のぶお 47歳)に茶を注ぎながら告げた。

銕三郎の子を産んだ、なんといったかな、その---」
阿記(あき)さまです」
「そうであったな。このごろ、新しく知った人の名が、どうも、覚えきれぬ---齢(とし)だな」
「なにを仰せられます、殿さま。50歳には、まだ数年ございます」
「いや、役目の上でのお人なら、覚えるべく努めるから、まあ、不覚はとらないのだが、そうでないお人の名が、どうもいかぬ。あ、このこと、他言するでないぞ」

「その阿記さまでございますが、いかがいたしましょう? 銕三郎は、急に未練たっぷりになってきたようでございますが---」
「女性(にょしょう)との縁が、このところ、薄いようだから、過ぎた日の女性が恋しくなっているのであろうよ」
阿記さまは、武家の奥には、美しすぎます。最初のお嫁入り先は、平塚の太物(木綿衣類)屋の看板むすめとして望まれたらしゅうございます」
長谷川家の容貌(みめ)改良になったやも、しれなかったかな」
「まあ、殿さま。そのことに資(し)さないで、悪うございましたこと」
「許せ。つい、口がすべったわ」
「よけいに、傷つきました」
「は、ははは」
「ほ、ほほほ」

「そうか。銕三郎は、付きあう女性の容貌(みめ)にこだわる年齢を、まだ、抜けておらぬか?」
「殿方は、いくつになっても---」
「いや、そうではないぞ。見た目よりも、賢さ、やさしさぞ」

ちゅうすけ注】宣雄は口にこそしなかったが、いまなら、「テレビの時代劇の女性たちがそろいもそろってそれなりに美人なのは、江戸の実情を反映しておらぬ」と言ったかもしれない。
まあ、あれは虚構の世界のことだが。

「その、なんといった---そうそう、阿記であったな。うん、阿記於嘉根という子とともに実家をでて、江戸か近在ででも独り暮らしをするようにでもなったら、再婚先が見つかるまで、当家としても放ってはおけまい。何がしかの手当てをせねば、な」
「そうなさっていただけると、阿記さまも安心でございましょう」
「ただし、(てつ)には内緒にな」
「心得ております」

「美形というほかに、見てとったことは?」
「親馬鹿とおっしゃられるかもしれませんが、一と目で銕三郎の器量を見抜いた女性でございます、それはもう、若いに似合わず、しっかりなさっていて---」
「そこは、そなたと同じだな。冷や飯食らいのわしの器量を見抜いて、銕三郎を身ごもった---」
「あら。帯に手をおかけになったのは、殿さまのほうだったではございませぬか」
「たしかに指は触れた、が、解いたのは、が自分の手で---」
「20年も昔のことになりました。もう、忘れてしまいました」
「とぼけるでない。こまかなところまで覚えているくせに---」
「ほ、ほほほ」
「は、ははは」

は、『寛政譜』などでは、正妻としては記録されていない。側室という立場でもない。
宣雄が30歳、23歳、銕三郎3歳の寛延元年(1748)正月10日、かねて病床にあった六代目・権十郎宣尹(のぶただ)が34歳で歿した。
親類一統の手配で、急遽、宣尹の妹の養女願いが伺われ、認可されるや、つづいて宣雄との養子縁組が申請された。
それらの手続きがすべて終わり、公けに宣尹喪が発されたのは2月8日であった
もっとも、『寛政譜』のための「先祖書」の呈出は、半世紀後の寛政11年(1799)であったから、宣尹の入寂月日は菩提寺・戒行寺の霊位簿にしたがって申告された。

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(四谷・戒行寺 『江戸名所図会』部分 塗り絵師:ちゅうすけ)

戒行寺の霊位簿をいうと、宣雄が入り婿養子となった、『鬼平犯科帳』の鬼平の義母---波津(はつ)は、これまで幾度も記してきたように、婚儀の2年後の寛延3年(1750)7月15日に亡くなったことになっている。銕三郎5歳の年である。

それで想像しているのだが、波津は、20歳のころから病床にあって30歳をすぎてもふつうの嫁入りができず、宣雄との婚儀後も、いちども起き上がることはなかったであろうと。
だから、実際に家政を取り仕切っていたのは、であったろう。

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(戒行寺 長谷川平蔵供養碑)

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2008.04.12

妙の見た阿記(その2)

「母上。明日、左馬(さまのすけ 20歳)が、印旛沼の蓮根(れんこん)持参で、食事にまいります。馳走してやってください」
銕三郎(てつさぶろう)は、都合が悪いことは、すぐに、そうやってごまかします」
(たえ 40歳)は、いつものことと、あきらめたように苦笑した。
笑うと、目じりの皺(しわ)が深まり、目立つ。
(母上も、お齢をおとりになったのに、こんどの箱根行きでは、ご苦労をかけてしまった)

にしてみれば、気苦労どころか、初孫・於嘉根(かね 2歳)を抱いたり、阿記(あき 23歳)という一生の話相手ができたりで、若やいだ気分でいることを、銕三郎は見ぬけない。

岸井さまのご実家は、臼井で積荷船問屋も兼ねていらっしゃるのでしたね?」
「そのように聞いております」
「それゆえ、郷士のご身分なのに、商人のようにお気がまわるのです。ところの採れものの蓮根を江戸へ届けておけば、左馬さまが世話になっている家々へ配ることができると」
「言ってやりました。道場隣の、ふさどのの桜屋敷へも、蓮根を届けておくようにと」
阿記さまが、早く江戸へお住みになれば、蓮根を煮た時などには、持っていってあげられるのに。於嘉根は、もう、歯がはえてきているから、柔らかく煮れば、あの子も食べられる」
「抱いてやりたいな」
「なりませぬ。嫁にきてくださるお人のお許しがなければ、近寄ってはなりませぬ」
「心得ました」

阿記さまに似て、それは、それは、器量よしの女の子なのですよ」
「拙に似なくてよかった、とおっしゃっておられるようにも、受け取れますが---。ま、母上だけがお会いになって、拙も父上もまだ、顔も見ておりませぬ」

そこへ、与詩(よし 8歳 養女)が女手習所(おんな・てならいどころ)から戻ってきた。

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(春信『歳旦の錦絵』与詩のイメージ)

長谷川邸のある三ッ目通りをはさんた東西両側は旗本の屋敷ばかりだから、与詩が通っている菊川橋西詰の手習所は、師匠も女性なら、手習い子もすべて女の子。
つまり、武士の子は、男女7歳にして席を同じゅうせず---を生真面目に守っているのである。
「母上。ただいま、もどりました。きょうも、きちんと、お習字ができました。かね(嘉根ちゃんは、きました---まいられましたか?」
於嘉根が来ると、誰から聞きましたか?」

「きのう、母上が、父上に、もうしておられました。かねをひきとれたらと---。かねちゃんがきたら---まいられたら、わたくし、おむつをかえてあげます。わたくしのおむつ、のこしてありますね?」
「それは殊勝なおこころがけです。おむつは大切に仕舞ってありますよ。与詩のお嫁入りの荷物の中に入れてあげるつもりです。6歳までお寝しょのくせがあったと、お婿さまにお教えするために---」
「いやでございます---うそでしょう?」
「はい。うそ、うそ。でも、於嘉根は、ここへまいりませんよ」
「どこにゆけばあえますか? かねちゃんは、与詩のいもうとでしょう? そうですね? 兄上?」

「む。そういうことになるのかな---いや、そうでもあり、そうでなくもあり---」
銕三郎は言葉につまった。
正確にいうと、与詩には姪にあたる。

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2008.04.11

妙の見た阿記

阿記(あき)さまは、銕三郎(てつさぶろう)などより、よほど、大人です」
箱根から帰ってきた(たえ 40歳)が、ことあるごとに、そういってはばからないのに、銕三郎(20歳 のちの鬼平)は閉口した。

阿記(23歳)は、箱根・芦ノ湯村の湯治宿〔めうが屋次右衛門のむすめである。
嫁入り前は〔芦ノ湯小町〕とはやされていたが、18歳のむすめざかりの時、親類の実力者・茗荷屋畑右衛門夫妻の口ききで、平塚の太物舗〔越中屋〕幸兵衛(こうべえ 22歳=結婚時)に嫁いだが、姑とのおりあいが悪く、夫は姑の言いなりで、しかも嫁(か)して3年子ができなかったので、縁切りのつもりで里帰りの途中、銕三郎(18歳=当時)と出会い、実家の離れでしぜんに躰をあわせた。

参照】2008年1月1日~[与詩を迎えに]  (12) (13) (14) (15)

鎌倉の尼寺・東慶寺に駆けこみ、み仏のお情けで嫁家との縁が切れるのを待っているうちに、女児を産んだ。銕三郎の子である。

参照】2008年2月1日[与詩を迎えに] (38)
2008年3月20日[於嘉根(おかね)という名の女の子] (1) (2) (3) (4) (5) (6) (7)

銕三郎は、箱根からの旅籠賃を、阿記さまに払わせなかったそうですね」
「そのう、まあ、分けるもの水くさいとおもいましたので---」
「藤沢宿から江ノ島、鎌倉は、阿記さまの都合で遠まわりしていただいたのだから、せめて、この分だけでもと、2年間包んでおいて、時がくれば---と、お待ちになっていたのです。さすがに商家育ちのお人、お金のけじめをきちんおつけになる」
「はあ---?」
「人と人が付きあっていくおり、金銭はきちんとしないと、長つづきしません。私は、農家といっても山持ちの家育ちですが、山の木は、育つのに何十年もかかります。気が遠くなるほどの長い目でやらないないと、やっていけません。人との付きあいも2代、3代と長くつづく場合のことを考えて仕切ります」
「------}
「お武家は、金銭のことは避けておくほうが潔いと考えていらっしゃいます。そのくせ、役についた時のご挨拶のご招待のお料理がどうとか、お土産の菓子舗の格がどうとか---金銭というものへの考え方が、どこか平衡を欠いておられます」
「------」
「そなたのお父上は、私の父のところに滞在なされて、新田開墾にもお立会いになり、山の植林も体験なさって、諸掛かり費用と実り成果ということをたえず勘案なさっておられました。ふつうのお侍のようではありませんでした。これは、損得勘定に似ていますが、まったく違ったこころ根です。私は、そなたのお父上のそういうお考え方を、尊敬申しあげてきました」
「------」
阿記さまにも、そなたのお父上と同じような考えのところがありました。お金のことを考えることを避けてとおらないし、お金を汚いものともおもわない---お父上が阿記どのにお会いなると、一と目でお気に入りになるとおもいます」
「さようですか」

「でも、阿記さまは、於嘉根を独りで育てるとお決めになっております。ほんとうに、こころ根のすわった、しっかりしたお人です」
「母上もお気に入ってくださいましたか」
「話そうとしているのは、そういうことではありませぬ。銕三郎は、将軍家へのお目見(みえ)がすむと、嫁迎えが待っております。その時、妻となるお人に、於嘉根のことを打ち明け、のちのちまで、長谷川家で面倒を見ることの許しを得ておかねばなりませぬ」
「はい」
「覚悟はできておりますね?」
「はい」
阿記さまを、2度とお抱きしないという決心も---?」
「しかし、母上。阿記どのから抱いてほしいと望まれたら?」
「馬鹿をお言いでないッ!」


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2008.01.09

与詩(よし)を迎えに(20)

長谷川さま。お申しつけの馬力が参っております」
駿府の脇本陣〔大万屋〕の番頭が取りついだ。

銕三郎(てつさぶろう のちの平蔵 18歳)の荷は、供の藤六(とうろく 45歳)が馬の背にくくりつけた。
「いささか早いが、遅れるよりはましであろう」
本町通りを北へ6丁(600メートル)ほど行ったところに、町奉行所の脇門がある。待ち合わせ場所だ。
門は閉まっていた。
藤六が表門へまわって、番所へ声かけた。

しばらく待つと、年増が少女をつれてあらわれた。笹田左門(さもん 50歳)が後ろについている。継母・志乃(しの)は見送りにも出ないつもりらしい。
「お守(もり)り役の(たけ)でございます。与詩(よし 6歳)さまをお渡しいたします」
年増があいさつをした。
銕三郎は、包んでいた金子(きんす)を2個、にわたして、
「一つは、賄所(まかないどころ)の者たちで分けるようにいってください。これまで、与詩によくしてくだされた、寸志です」
角樽は、左門が受けた。
「おお、鶯宿梅(あうしゅくばい)ですな。これは銘酒中の銘酒。はここにいますから、あと、松だが---梅、竹、笹でも--まずは、めでたい。ははは」
くだらないしゃれを言って、ひとり悦にいっているふりをして、志乃が欠けているのをごまかしている。

与詩、馬に乗ったことはあるか?」
銕三郎の問いかけに、少女は頭をふった。
与詩は、江戸まで馬だが、こわいか?」
また、頭をふる。
「そうか。では、乗せてやるが、しばらくは、兄といっしょに乗る」
うなずいた。
馬の両脇に荷がくくりつけてあるため、乗馬にはちょっとしたコツが必要だが、銕三郎はなんなく乗り、藤六与詩の脇から持ちあげて銕三郎へわたした。

銕三郎は、馬上から左門にあいさつを述べ、藤六に目で「やれ」と合図をする。
与詩のためにも、一瞬でも早く、この雰囲気を去りたかった。

東海道は、駿府城の追手門の前をすぎると北へ向きを変え、さらに東へとつづく。

駿府の城の天守閣は、失火で焼けて以来、再建されていない。だから、すこし離れると松の巨樹しか見えなくなる。
そのころを見計らって、前に乗せている与詩に、
与詩。今日から、おれがそちの兄者だ。これからは兄上と呼べ。言ってみろ」
少女は黙っている。
与詩は、耳なしか、それとも、口なしか?」
「若。たぶん、舌切り雀なのででしよう」
藤六も口をそえた。
「ちがう。舌はある」
少女は赤い小さな舌をだした。
「後ろからでは見えないぞ。藤六には見えたか?」
「いいえ。見えませぬ。やはり、舌切り雀でしょう」
「ちがう。ほら---」
与詩が振りむいてだした舌を、すばやく銕三郎がつかみ、
「とってつけた偽の舌か、ほんとうに与詩の舌か、検分してやる」
与詩はしゃべれなくなった。う、う、うう---うめく。
銕三郎が指をはなすと、与詩は涙を浮かべながら、
「ほんとに与詩の舌でしょう」
「では、兄上といってみろ」
「あにうえ」
「それでいい」
「いいえ。藤六の耳にはきこえませなんだ。与詩さま、もういちど、お願いします」
「あにうえ」
「聞こえました、しっかり、聞こえましたぞ、与詩姫さま」
少女は、くしゃくしゃの泣き笑い顔になった。


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2008.01.05

与詩(よし)を迎えに(16)

駿府・本通りの脇本陣〔大万屋〕清右衛門方には、夕刻前にはいった。
藤六(とうろく)は待ちかまえていて、奉行所の内与力(うちよりき)・笹田左門(さもん)との打ち合わせの経緯を要領よく報告するとともに、これから、銕三郎の到着と、明日の訪問時刻を告げてくるという。
「そうか、では、拙も参ろう」
「若はお疲れでしょうから、手前一人でよろしいかと」
「いや、それでは礼にかなうまい。節(せつ)をふもう。訪問用の羽織と袴をだしてくれ」

奉行所は追手門外にある。〔大万屋〕から5丁(約500メートル)と離れていない。

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(駿府町地図 青○=本通りに面した本陣〔大万屋〕 赤○=町奉行所
緑○=奉行所与力屋敷 黄○=同心屋敷 ピンク面=寺社地)

内与力とは、親代々の奉行所与力6名とは別に、奉行が江戸から連れてきた自家の用人を当てる。いってみれば、秘書課長みたいな職柄である。奉行の解任とともに、内与力も役を解かれ、幕府からの扶持もなくなる。

藤六がまず、奉行所の表門で当直の同心に笹田左門への刺(し)を乞う。
奥から戻ってきた同心は、銕三郎を丁重に、家族が住む役屋敷のほうへ案内してくれた。

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(駿府奉行所図 笠間良彦氏『江戸幕府役職集成』 雄山閣出版)

役屋敷の玄関脇の部屋で待たされていると、笹田与力(50がらみ)と年増の女性が入ってきて、上座に座った。銕三郎は無役・無禄なのだから、とうぜんである。

「お初(はつ)にお目どおりいたします、小十人組五番手頭(かしら)・長谷川平蔵宣雄(のぶお)が息(そく)・銕三郎(てつさぶろう)宣以(のぶため)にございます」
「内与力の笹田です。こちらはご内室さま。ま、ここは表とちがい、内むきの役宅でもあるし、私用のことにつき、堅苦しいことは抜きして、ざっくばらんに話しあいましょう」
「ありがとうございます。父の名代で、ふつつかなれど、与詩(よし)どのを養女としてお受け取りに参上いたしました」
志乃(しの 25歳)がうけた。
朝倉の奥の志乃です。銕三郎どのとやら、多可(たか)が、えろうお世話になったとか。文(ふみ)で、それはそれは立派な兄上といってきておりました」
駿府奉行・朝倉仁左衛門景増(かげます 61歳 300石)の3人目の内室・志乃は、多可の従姉(いとこ)にあたる。
多可は、気の毒をしました」
「ほんに。それで、与詩は、いつ、発(た)たせますか?」
「もし、ご用意がよければ、明日の朝にでも---」
「荷は、4日前の船に載せました。手まわりのものは、今晩にでもととのえられます」

志乃の口ぶりからすると、一日も早く、手放したい感じだ。
夫の景増は病床にあり、夫とのあいだにできた子が2人、さらに志乃が内室におさまってからも、景増は4人の子を脇で産ませて、すべて引きとっている。
内輪のとりしきりだけでも大ごとであろう。
志乃が、25歳というじつの齢よりも、かなりやつれて見えるのはそのせいかも知れない。

「それでは、明朝、五ッ(8時)に奉行所の脇門前へお越しくだされ」
そういって立ち上がった笹田に、
「あ。これは、小田原で求めてまいりました〔透頂香(とうちんこう)〕という万能薬です。さしつかえなければ、朝倉さまにお用いいただけば幸甚です。ご快復、こころより、念じております」
「これは重畳。医師方と相談してから、進(しん)ずることにしまします」

笹田与力が去ってから、志乃がいった。
「いま、与詩を呼びますが、その前に一と言。神経が細かすぎるところがありまして、興奮すると、6歳にもなって、お寝しょうを漏らします。旅のあいだ、宿々でお気をつけくださいますよう」
「毎晩でございますか?」
「ええ、ほとんど。おむつがはなせません」
志乃はにんまりと笑っているが、銕三郎は、心中、困りはてていた。
(そういうことは、養女の話の前に言っておいてほしい)

宿へ帰ると、銕三郎藤六に命じた。
「おむつにする古着を、そう、六日分ほど求めてきてくれ」
驚く藤六に、志乃の打ち明け話を告げると、
「若さま。そういうことですと、先さまがお持たせになるでしょう。まあ、いまの季節ですから、一夜で乾くはずはございませぬし、洗ったおむつを旗のように立てて道中して乾かすわけにもまいりませぬ」
「あたりまえだ。そんな臭いものをもって歩けるか。毎朝、使い捨てだ」
「いえ。朝倉さまがお持たせになった分が足りなくなったら、そのときにこそ、宿々で求めればよいこと。あましてもつまりませぬ」
「なるほど。理だ。藤六は、お寝しょうぐせの子をもったことでもあるのか?」
「女房もおりませぬのに、子がいるわけはありませぬ」
「そうであった。ははは。おれは明日から、お寝しょうぐせの妹もちとは---われながら、冴えぬのお」


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2008.01.03

与詩(よし)を迎えに(14)

阿記どの---」
(てつ)さま。2人だけのときは、阿記と呼んでください。わたしも他人行儀の長谷川さまではなく、さまにしますから」
阿記
「はい」
「箱根宿での待ち合わせだが、芦の湯小町といわれた阿記のことゆえ、箱根六湯じゅうに顔が知られていよう」
「嫁入り前のことです」
「いや、懸想(けそう)していた者も多かったであろう。箱根じゅう、どこの旅籠にひそんでも、たちまち、うわさが流れる。噂は、阿記に一生ついてまわって、阿記を傷つけ、苦しめる。都茂(とも 女中頭 44歳)の口もふさぐ思案もしておかねばな。それに権七(ごんしち 31歳)にさとられてもならぬ。あの者どもは噂を飯の種にしている」
「どのようにすれば---?」
「うーむ」
さま。湯で、躰を暖めながら、思案しませぬか」

湯の中の阿記は、こんどは正面から銕三郎の太腿(ふともも)をまたいできた。腹と腹はぴったり接している。
両腕をしっかりと背中へまわし、顔がまともに向き合った。
乳首が銕三郎の胸をくすぐる。

「箱根六湯は危ないとなると、小田原宿か三島宿だが、三島だと、阿記に関所手形も要(い)るし、往還8里の箱根山道を登り下りさせることになる」
「それは、かまいませぬ。いいことが待っているのですもの。手形など、この商売ですから、なんとでもなります。」
「三島宿だと、翌くる日、箱根関所まではあと先になりながらいっしょだが、小田原では4里(16キロ)の道を帰すことになる」
「足が重い帰り道でしょうね」
話のあいだにも、阿記がたえまなく口を吸ってくる。

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(北斎『させもが露』[睦言]部分)

銕三郎の股間が膨張をはじめた。

都茂の口封じには、男をあてがえばいいのです」
「それには、供の藤六(とうろく 45歳)がいるが---。2人とも部屋を空けて、6歳の与詩をひとりきりでほおっておくわけには---なあ」
「いっそ、ここでは? お供の人の部屋へ、都茂をしのばせましょう」
与詩は?」
「母に見ていてもらいます」
「ご両親はご存じなのか? このことを---」
「喜んでおります。東慶寺へ入る前に訪れた阿記の福(ふく)なんですもの」

このあと2人は、案を練るとの口実で、2度も湯に躰を浸(ひた)した。

しかし、箱根の山内だと、山道一帯を荷運びの縄張りにしている〔風早(かざはや)〕の権六の目をごまかして、逢引きできる良案はおもいつかなかった。

権六の通り名(呼び名ともいう)の〔風早(かざはや)〕は、小田原から山道へのとば口、須雲川に架かる箱根石橋の川下の村名である。そこの生まれなのだろう。
したがって、権七が箱根じゅうにはりめぐらしている連絡(つなぎ)の網目をくぐっての逢引きなど、できそうもない。
ましてや、6歳の与詩づれである。

最後の湯浴(ゆあ)みのあと、横たわった阿記がこころをきめたように呟いた。

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(国芳『江戸錦吾妻文庫』部分)

「三島にしましょう。わたしは、さまたちのお着きより1日早くに三島へ入ってお待ちしています。箱根関所までの帰りも、ごいっしょできないのが無念ですが、帰りも1日遅らせます。そのようにこころ配りをすれば、いかな権六でも、気がつきますまい」
与詩はどうする?」
「お芙沙(ふさ)さんにお願いして、〔樋口屋〕さんに預かってもらうのは? おんな同士の話し合いです。お芙沙さんものってくださるでしょう。与詩さくんをお乗せした山駕籠も、〔樋口屋〕から出ると、なんの疑いもかかりません」
「うむ」
「明日、ご出立までに、父から、三島のわたしたちの泊まる、これという旅籠を訊きだしておきます」
こういう秘め事になると、こころを決めた女性のほうが、案も浮かぶし、肝(きも)もすわる。

「さあ、そろそろ、眠ろうか」
「はい」
阿記は床から抜け出し、赤い襦袢の前をあわせて正座した。

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(国芳『江戸錦吾妻文庫』部分)

さま。大きな福をいただき、ありがとうございました。うれしゅうございます。こんなに嬉しかったことは、近年、ございませんでした。阿記には、一生忘れられない深い思い出でとなります」
ふかぶかとさげた顔から、涙が落ちた。
目尻をぬぐった阿記は、静かに添い寝したかとおもうと、銕三郎の首の下へ腕をさしいれて抱きついた。
涙がとまらない。
背中をさすってやりながら、
「どうしたのだ、阿記?」
「自分で初めて選んだ男(ひと)に抱かれたので、頭の髪の一筋々々から足の指一本々々まで、躰のぜんぶが喜んで泣いているのです。嬉し涙です。お許しください」
銕三郎の上に覆いかぶさる。
離れ屋の裏を流れている谷川のせせらぎの音が、銕三郎の耳から消えた。

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2007.11.09

波津まちがい

2007年11月8日[相良の大沢寺]の項で、寺の所在を、

安永4年(1775)に、城下の新町にあった真宗大谷派・大沢寺(だいたくじ)が焼失。天明3年(1783)iに初津(はづ)村に代地を求めて、整地・移転の準備をはじめる。
波津村---:現在の表記は、牧之原市相良地区波津。

とし、

波津(はつ)--- 『鬼平犯科帳』で、文庫巻1[本所・桜屋敷]から登場した、銕三郎(てつさぶろう のちの平蔵宣以)の継母の名前。池波さんは、田沼意次を調べていて、この地名を見覚えたとも思える。

32425_120必要があって、『風俗画報 第231号』(明治34年 1901 4月25日)の『新撰東京名所図会 京橋区之部 巻之ニ』の目次を眺めていて、

 ○挿畫
   築地海岸波津より佃島を望むの図

を目にした。
「はて、築地に〔波津〕という場所があったとすると、池波さんが、銕三郎の継母にとったのは、こっちの波津かもしれない」と気がつき、ページをめくったら、この絵があった。

2_360

たしかに鉄砲洲から佃島・石川島のあたりを眺めた風景である。
絵の上欄のタイトルは、

  築地海岸渡船場より佃島を望むの図

〔波津〕よりが、〔渡船場〕より、にすりかわっている。
それで、もう一度、目次の細かい活字にルーペをあてて確認したら、なんのことはない、

  築地海岸渡津より佃島を望むの図

であった。〔渡津〕を〔波津〕と、いつものおっちょこちょいの癖で早のみこみしたのだ。
しかし、目次は〔渡津〕、絵のタイトルは〔渡船場〕と変わっているのを見て、恥は恥として、別に考えた。

〔津〕は、たしか、湊(みなと)、船着き場、渡し場---などの意で、「津岸(しんがん)」「津涯(しんがい)」などとも書いた。
「津頭(しんとう)」といったら、渡し場のほとり。
『鬼平犯科帳』文庫巻1の[むかしの女]にも、<みすや針>売り女に落ちぶれているおろくが、佃島からの渡し船で人足寄場から戻ってきた鬼平こと長谷川平蔵を、火の見やく゜らの陰で待ち伏せする場面がある。火の見やぐらは『江戸名所図会』に描かれているのを池波さんが使ったのだが、あのあたりを「津頭」と呼ぶこともできる。

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( 『江戸名所図会・佃島』 手前中央下の火の見やぐらを池波さんは使った。塗り絵師:ちゅうすけ)

上の『江戸名所図会 佃島』をもつと大きく見るには、←色の変わったところをクリック。

けっきょく、築地には〔波津〕という地名はなかったのだが、遠江・相良の〔波津〕は、波の寄せる湊ということでつけられた地名かしらん。
簡単な『漢和辞書』に、〔波津〕は収録されていない。


【つぶやき】
津のつく海ぞい地名を思いつくままにあげると、江戸湾には、木更津(きさらづ)、富津(ふっつ)。
東海道ぞいに、沼津(ぬまづ)、興津、焼津(やいづ)、津、(琵琶湖ぞい)大津。
泉大津。
(九州)中津、唐津。
(日本海側)江津、宮津(みやづ)、魚津、珠津。
漏れと読みを、お教えください。

内陸部にあるのは、川の船着き場だったところでしょうね。


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2007.07.24

仮(かりそめ)の母・お芙沙(2)

それから5日後の昼すぎ、銕三郎(てつさぶろう のちの平蔵宣以 のぶため)と供の太作は、東海道・三島宿の本陣・樋口伝右衛門方に着いた。
予定よりも2刻(約4時間)も早く投宿したのは、江尻宿をまだ薄暗いうちに出立したからである。
銕三郎は、明日はお芙沙(ふさ)に会えるとおもうと、興奮してほとんど眠れなかった。
夜中をかけても、三島へ走りたかった。

ああしてみよう、こうも愛撫しよう---あの夜、お芙沙 がやってみせてくれた仕儀(わざ)に、自分なりの工夫を加えた架空の性技を、頭の中でくりかえしひねくりまわしてみる。
空想の基(もと)はといえば、誰かが密かに儒塾へ持ちこんで回覧した秘画の男女の姿態からほとんど出ていない。
(いや。仮(かりそめ)の母上にまかしきったほうが、お芙沙どのの満足もより深まるのではなかろうか)
(なに、14歳とはいえ、銕三郎は男なのだ。男として、さすがといわれるほどのところを見せてこそ、女性(にょしょう)の尊敬がえられるというもの)
(秘画では、どの女性も着たままで行なっていたが、あれは、無理やりに裾を割られることに一層の刺激を感じているのであろうか。ならば、お芙沙どのにも、こんどは着たままで、いてもらおう)

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(歌麿『若後家の睦』部分 芸術新潮2003年1月号)

いやはや、とめどもなく空転していく。それほど、銕三郎にとっての先夜の初体験は戦慄的な刺激であった。
これからの長い性生活の最初の炎としては、あまり燃えあがりすぎた。

旅籠を発ってからも、足が自然と速くなった。
「若さま。もうすこしゆっくりお歩(あゆ)みくださいませんと、太作がついてゆけません」
しばらくはゆるむが、太作の悲鳴は、三島まで何度もつづいた。

伝右衛門が呼ばれた。
「ご亭主どの。今夜もご案内、よろしくお頼み申します」
「それが---」
「母上も、一日早い到着を心得でおいでのはず」
「それが---お役に立てませんのですよ」
「なに---なんといわれました?」
「あのお女(ひと)は、もう、この土地にはおいでにはならないのです」
「なんと!」
「はい。お亡くなりになったご亭主の百ヶ日が3日前に開けまして、ご縁が結ばれた方のところへ片付かれたのでございます」
「そんなこと信じられない。虚言でしょう?」
「いいえ、なんで虚言など申しましょう」
「いい。行ってみる」

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銕三郎は、飛ぶようにして、三島神社の裏の路地へ行った。

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(本陣〔樋口屋〕=左下赤○とお芙佐の家右=上赤○
三島市観光協会小冊子より)

思い出の家の戸はしまり、なんど敲いても静まりかえって、人の気配はなかった。

銕三郎の落胆は大きく、大切なものが目の前からばっさりと消えたようだった。胸の中に大きな空洞ができた。

宿に戻ると、太作がいたわるように言った。
「若さま。いい思い出は、大切にしまっておおきになることです」
銕三郎は、太助にむしゃぶりつき、声をあげて泣いた。
その背中を、太作がやさしくなでてやる。
「お泣きなさいませ。うんと泣けば、涙が胸の空洞に満ちて泉になりましょう。男のほんとうのやさしさがその泉から湧きでます」

三島神社の裏の家でも、お芙沙が涙を流しながら、耐えている。
初物の、青い硬い果実を、こちらの躰で、夜ごとに熟(う)らしていく味わいを 経験したかった。
高齢の亡夫からはえられなかった、若い男だけが発する獣のような匂い---。
銕三郎の声がした時、おもわず、戸閉まりをあけに立ちそうになったが、ふみとどまった。
伝右衛門から強くいわれたのである。
長谷川さまは、旗本のご嫡子として将来のあるお方。それを三島などで朽ちはてさせてはなりませぬ」

先夜、伝右衛門に頼みこんだのは、太作であった。
その太作も、お芙沙伝右衛門の実の娘であることは知らなかった。

翌朝。
銕三郎太作は、はやばやと三島を発っていった。

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2007.07.16

仮(かりそめ)の母・お芙沙(ふさ)

銕三郎(てつさぶろう のちの平蔵宣以)が夜の街へ出ようとすると、本陣の主人・伝左衛門に呼びとめられた。
伝左衛門は、銕三郎を帳場の奥の部屋へみちびいた。

長谷川さま。今夜のところは、黙って、伝左衛門におまかせください」
「なんと---?」
「お遊びにお出かけでございましょう? なりませぬ。もし、悪い病気でも感染(うつ)され遊ばしたら、お父上に申しわけがたちませぬ」
「----」
「私めが、ご案内いたします」
50すぎの伝左衛門は、太作とどっこいどっこいの年齢だが、大旅籠の主人らしく貫禄があり、衣服もいいものを着ている。

伝左衛門が案内したのは、〔樋口屋〕からほど遠くない、三島神社の裏の路地奥のしもたやであった。

Photo
(左下の赤○=旧東海道ぞいの本陣〔樋口屋〕
右上の赤○=三島大社裏、銕三郎の記憶のお芙沙の家)

出てきた小女に銕三郎を渡すと、伝左衛門はそのまま引き返した。

瀟洒な、かぐわしい香りのする部屋に案内された。香りには線香の匂いもかすかに混じっているような気がする。
女が入ってきた。
眉を落としているから、ちょっと老けてみえるが、肌の張りから、25,6の年増と銕三郎は見た。
芙沙(ふさ)と申します」
細めた目でわらうと、左の頬に浅いえくぼができた。
銕三郎です。は、金偏に夷(えびす)と書く、です」
銕三(てっさ)さまと呼ばせてくださいませ。そのほうが、母親らしい気持ちになれます」
「----母御(ははご)?」
「はい。仮(かりそめ)の母」

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(歌麿『歌まくら』[若後家の睦」の部分 「芸術新潮]2003年1月号)

夕餉はすましたというと、小女が点茶を捧げてきた。
芙沙は小女に、もう帰ってよい、と告げた。
そして、風呂場へ案内し、灯火を細くしてから、自分も衣服を脱いで入ってきて、銕三郎の背中をながしながら、話した。
亡夫は、樋口伝右衛門とは幼なじみだったが、3ヶ月前に病死したこと。17歳のときに後妻に入ったこと。
男の子を生んだが、育たなかったこと。
「だから、銕三さまが、赤ん坊のときに逝った子のように思えるのです。いえ、銕三さまのように育っていてくれたらと---」
突然、芙沙は、脇の下から腕をまわし、後ろから抱きしめてきた。重くはずみのある乳房が背中を押す。
銕三郎の躰の芯から熱くなった。
女の唇が首筋をはう。
息をおくれ毛に感じる。
秘画がよみがえり、股間が膨張しきる。

「さ、お湯へおつかりくださいませ」
芙沙の声に、銕三郎はすくわれたように湯に入った。

湯を出ると、芙沙は裸躰のまま、新しい浴衣で銕三郎をつつみ、さっきの隣部屋へみちびいた。
蚊帳が吊ってあった。
「もう、お婆(ばば)ですから、明るすぎると、銕三さまに嫌われますゆえ」
そういって、風呂場へ去った。

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(歌麿『美人入浴図』)

蚊帳の中で横たわりながら、銕三郎は、太作の周到な手くばりを感じていた。太作が、伝右衛門に頼みこんだに違いない。

芙沙が、入ってきて、左に寝た。湯上りのはずなのに、肌はひんやり、しっとりとしている。
銕三郎が動けないでいると、左の薬指をつかんで自分の茂みの中へ誘い、
「その指で、やさしく、ゆっくり、軽やかに、動かしてくださいませ」
銕三郎は、黙ったまま、いわれたとおりにする。
掌に茂みがこころよくあたっている。
その左手をまたいだ芙沙の右手に、挙立(きょりつ)しているものを、そっと握られたとき、銕三郎の全身がぴくっとふるえた。
芙沙は小さく笑って、
「そのままま、おつづけになっていて---お初めてとうかがいました」
「----」
「わたくし、後妻だったものですから、初めての殿方、わたくしも初めて。こうして安らかに睦みあっていますと、母子の添い寝のようです」

もちろん、添い寝でおさまる2人ではなかった。
銕三さまは、いつのまにやら、「---てつ---ああ、てつ」に変わっていた。
そのときも、片頬に浅いえくぼができていた。

着物を着た銕三郎が、
「ご教授、かじけなかった。ついては束脩(そくしゅう)ですが---」
銕三。母親に小遣いをわたそうとする子がどこの世界にいますか。息子というものは、いくつになっても母に甘えて、気苦労をかけてこそ、母孝行なのですよ」

芙沙は玄関でぶら提灯を渡してくれながら訊いた。
「お戻りは、いつでございますか?」
「行きが2宿、田中城下に2泊---いや、1泊になるやも。帰路に2泊」
5日目でございますね。こんども、母孝行をしてくださいますか」
「お母上。よろしゅうに」

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提灯に〔樋口屋〕の屋標「二引き両」が描かれていたが、銕三郎は、もう気にしなかった。

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2007.04.22

寛政重修諸家譜(18)

2007年4月21日『寛政譜(17)』で、書き忘れていたのは、6代目当主・権十郎宣尹(のぶただ)が妻帯していなかつたことだ。

Photo_3429代目当主・辰蔵宣義(のぶのり)が幕府へ上呈した[先祖書]に、

       宣尹妻   無御座候
       宣尹養子 譜末ニ有之

とある。
30歳代にも達した家禄400石の家柄の当主のところへ、嫁が来ないというのは、いささか不審だ。
仮に、宣尹が衆道好みであったとしても、体面上、娶るはず。
宣尹の持病を怖れて、来手がなかったというほうが、より真にちかいのではなかろうか。

そういう目で[先祖書]を眺めていくと、いろいろと納得がいく。

__7

『寛政譜』黄○女子は、同一人である。小説で波津(はつ)という名を与えられている。
左端のおって書きには、

実は宣安(むすめ---つまり、宣尹の妹)。宣尹にやしなわれて宣雄となる。

このあたりの経緯は、鬼平ファンなら、小説でしっかりと心得ているはず。
ほんとうに、そうか?

母親
は、兄の宣尹と同じ、家女---つまり、召使い女、池波さん流の表現をとると、下女であり、妾(めかけ)。
父親は、2007年4月19日の[寛政譜(15)]に記したように、これまた、40歳近くまで妻帯もかなわなかった病気もちの5代目・宣安

兄・宣尹は、父・宣安が39歳のときの初めての子。
当の家女が、1人産めば2人産むもそう変るものでなし---とおもえば、2人目の女の子は2,3年で産んだろう。
とすると、黄○の女子は、宣有の庶子・宣雄よりも1,2年、先に生まれたことも考えられる。

兄・宣尹の養女になったときは、30歳をすぎていたかも。
それまで嫁がなかった---いや、嫁げなかったのは、病身で、夫婦生活に耐えられなかったから、とも推測できる。ふた目と見られない醜女(しこめ)でないかぎり。

病床に寝たままの30歳すぎの花嫁を了承するのは、厄介者ぐらしをしてきた宣雄しかいない。
形の上はともかく、波津は真の妻ではないのだから、3歳の子・銕三郎とともに厄介になっていた宣雄の(?)も同意するしかなかった。

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2007.04.18

寛政重修諸家譜(14)

辰蔵宣義(のぶのり)が上呈した[先祖書]のうち、平蔵宣以の項にこだわっている(国立公文書館に保管されているものを、長谷川本家の末・長谷川雅敏さんがコピーしたもの)。

引きかえって、頭書の部分。

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               長谷川備中守宣雄総領
一、八代目  生 武蔵  長谷川平蔵宣以
        母 家女    始 銕三郎
  右平蔵宣以義
  明和五戌子年十二月五日 部屋住ニテ初メテ
  御見得仕候 父備中守宣雄 京都町奉行
  相勤候節
  安永ニ癸己年六月廿一日京都於御役宅
  卒 同年九月八日父願置候通 跡目菊之間

銕三郎は、武蔵で生まれた、とある。
武蔵は広い。江戸の長谷川邸---赤坂築地中之町(港区赤坂 6-11)もそうなら、巣鴨本村も武蔵である。
知行地の一つであった寺崎村は上総国だから、そこの庄屋のむすめ説をとるばあいは、赤坂へ引き取られて出産したと推定する。

母親は〔家女〕とあるから、父親の本妻ではないことはたしか。もちろん、この時期、父・宣雄は、従兄で六代目・宣尹の厄介になっていたから、本妻を娶ることばほとんどできない。
〔家女〕ということは、奉公にあがっていたむすめといっていい。

ただし、この項、 『寛政譜』では、〔某氏〕と記入されている。
池波さんが読んだのは、 『寛政譜』の〔某氏〕のほうである。
それを、巣鴨本村の大農家の三沢家から奉公にあがっていた〔むすめ〕---すなわち〔家女〕と見抜いたのは、たまたまとはいえ、するどい。

「明和五戌子年十二月五日 部屋住ニテ初メテ御見得仕候」というのは、まだ家督相続していないうちに御目見したということ。

宣雄の没年については、2007年4月14日の[諸家譜(10)]で言及しているので、6月22日と21日の異同については、ここでは触れない。

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2006.07.24

実母の影響

  長谷川平蔵は、父・宣雄の妾腹の子に生まれた。
 生母・お園(その)は、巣鴨(すがも)村の裕福な大百姓・
 三沢仙右衛門の次女に生まれ、長谷川家へ行儀(ぎょうぎ)
 見ならいがてらの奉公にあがり、宣雄と、
 「わりなき仲……」
  になってしまったのである。([霜夜])

池波さんは、御目見(おめみえ)以上の幕臣の家譜をあつめた『寛政重修諸家譜』に平蔵の実母が「某氏」とあったので、「妾腹」とした。

Nobutamekafu_1
『寛政重修諸家譜』の平蔵宣以の項

その女性とのあいだに、銕(てつ)三郎(平蔵の幼名)をもうけていた宣雄が、長谷川家の六代目当主で、甥(史実は従兄)の修理(しゅり)の死の床からの懇望に負けて末期養子となり、これも修理の養女になった姪(史実は宣雄の従妹。修理の実妹)の波津(はつ)と結婚、家督した経緯は小説でいくども語られる。
:系図は2006年5月26日に。
     ↑(クリックし、スローダウン)

宣雄30歳、平蔵3歳。
お園は銕三郎とともに実家へ帰され、悲嘆のあまりに病死、銕三郎は17歳まで三沢家で育てられる。

平蔵の母親がだれかを問題にするのは、平蔵におよぼした精神的な影響を類推するからだ。

小説ではお園は早死するから、平蔵は三沢夫婦から多大の影響をうけたはず。庄屋をつとめるほどの家柄だから格式は問題ない。が、なんのかんのといっても番方(武官)の家の嫡子だ、そこらの農家の子なみに育てるわけにはいかない。

銕三郎が17歳になるまで三沢家はどんな教育をほどこしたろう。小説はそこのところをぼかしている。

平蔵の幼時に病死したとされている実母「某氏」は、研究家の釣洋一さんが菩提寺・戒行寺(新宿区須賀町)の霊位簿で、平蔵が病死した寛政7(1795)年まで生存していたことを発見した。

はやばやと死去したのは継母の波津(はつ)のほうで、平蔵が歳5の時に世を去っている。享年30歳前後か。
実兄同様に病身だったので婚期がおくれていた。

平蔵が家出して不逞(ふてい)の輩(やから)の仲間へ入ったのは継母との折りあいが悪かったからとした池波説は史実からはなりたたない。

滝川政次郎博士『長谷川平蔵 その生涯と人足寄場』(中公文庫)は、戒行寺の霊位簿の長谷川家の項に、

 延享二年一〇月二一日
 守玄覚成 長谷川権十郎知 行地
   戸村品左衛門

とある仁は、平蔵の実母の父ではないかという。

千葉県成東町の文化財保護委員長(当時)の長谷川常夫氏が調べてくださった結果、知行地の庄屋だった戸村家は五左衛門か権左衛門を代々伝承し、品左衛門なる仁はいない、と。

品左衛門探しはふりだしにもどったわけだが、それはおいて、仕事のできる男性としては(いや、男性とはかぎらないが)、子どもにおよぼした母親の影響も推察しておきたい。

部下とくつろいで話す機会がもてたら、さりげなく母親のことを話題にのせてみると、彼の言動を深いところから理解できることもある

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2006.05.28

長生きさせられた波津

伊兵衛・長谷川家の六代目・修理(しゅり)宣尹(のぶただ)が、34歳での死にのぞみ、実妹の波津(はつ)を養女にし、同居していた従弟・宣雄(30歳)をその婿にして家禄を継がせたことは、すでに記した。

厄介者の身分の宣雄は、このときすでに同居している女性とのあいだに子をつくっていた。3歳になる銕三郎である。
銕三郎を産んだ女性も、赤坂・築地の長谷川家に住まって、宣雄と夫婦同様の生活をしていた。

Akasaka
享保2年(1717)の江戸図(赤坂氷川社のあたり)
赤○伊兵衛・長谷川家は、開府から寛延元年(1748)に鉄砲洲・築地へ移転するまで、赤坂・築地へ拝領屋敷を賜っていた。

このことから推察するに、六代目・宣尹の妹・波津は、ふつうの躰ではなかったろう。ずっと寝たっきりの病人であったとしか思えない。つまり、養女になることも宣雄を婿にむかえることも、家禄を守るための形式の上でのことだったろう。

このあたりの事情を、なぜ、池波さんは斟酌しなかったか。
それには、『鬼平犯科帳』連載時の事情から推察してみる必要がある。

花田紀凱さんに[特大カツとハイボール]と題したエッセイがある。
朝日新聞社、1076年刊『池波正太郎作品集』の付録月報に載ったものである。

『オール讀物』編集部に配属されて2年目の花田さんは池波担当となり、1967年の秋、荏原(えばら 品川区)の池波邸へ依頼してあった原稿を受け取りに行った。
できあがっていた短篇は[浅草・御厩河岸]であった(いまは、鬼平シリーズの文庫巻1、第4話として収まっているこの篇は、じつはその年---1967年12月号の『オール讀物』に掲載する単発ものとして依頼されていたもの)。

1967年というこの年、池波さんは、大衆文芸の世界では巨誌ともいえる『オール讀物』へ4篇寄せている。
花田さんの言によると、当時の発行部数は40万部!であったと。

1967s

うち、新年号の[正月四日の客]と、12月号の[浅草・御厩河岸]が白浪(盗賊)もので、後者には長谷川平蔵がちらっと顔をあらわす(ついでながら、[正月四日の客]も鬼平シリーズでテレビ化され、吉右衛門さんはもとより、山田五十鈴さん、河原崎長十郎さん好演している)。

原稿[浅草・御厩河岸]を読み終わった花田さんへ、池波さんは、
「そこへ登場させておいた長谷川平蔵だけど---おもしろい男でね、人足寄場なんかを作ってね」
と、長谷川平蔵という火盗改メを8年もやった幕臣について、いつものくせで、極めて手みじかく説明した。

長谷川平蔵についても、火盗改メという職についてもまったく知らなかった花田さんは、ただ聞き役に徹し、帰社するや、杉村友一編集長へ、池波さんの長谷川平蔵論を復命した。

とたんに、杉村編集長は、長谷川平蔵ものの連載を決断、その旨を池波さんへ伝えた。
想像するに、
「半年後の、7月号あたりから、連載をはじめられませんか」
といった条件が示されたとおもう。

連載小説は、大新聞なら1年前、主要雑誌なら半年間の準備期間を用意するのがこの世界の常識である。

ところが、杉村編集長の申し出をきいた池波さんは、12月号の原稿をわたしたばかりなのに、
「新年号からで、どうですか。こちらはそれで書きましょう」
と答えた。

池波さん、よほど、長谷川平蔵ものが書きたかったとしか思えない。
いや、花田さんに平蔵の話を持ち出したのも、いってみればコナをかけたのである。

というのは、[浅草・御厩河岸]の前に、池波さんは、長谷川平蔵が顔見せする2編の短篇を世に問うている。しかし、どの編集部からも、平蔵シリーズの依頼がこなかった。
池波さん、しびれをきらして、花田さんにコナをかけた。

[浅草・御厩河岸]の前に書かれた平蔵ものは、

のちに加筆されて[妖盗・葵小僧]のタイトルで鬼平シリーズの1篇となった、[江戸怪盗紀](『週刊新潮』)。

1964s

この年、『『オール讀物』への寄稿は、2篇。

つづいて[看板](じつは、この篇の『別冊小説新潮』掲載時のオリジナル・タイトルは[白浪看板]〔夜兎〕の角右衛門が密偵となった契機を描いたストーリー)。

1965

そして、3篇目の[浅草・御厩河岸]で連載依頼へこぎつけた。
連載シリーズ・タイトルが〔鬼平犯科帳〕という秀逸なものとなった経緯は、後日あかす。

『オール讀物』連載第1話は[唖の十蔵]で、同心・小野十蔵を主人公としたストーリーのものだった。
物語自体は鮮烈でも、杉村編集長にとっては意外だった。それで、花田さんに言ったとおもう。
「おすすめの長谷川平蔵は、どうなっているんだ。これは、脇の人物の物語ではないか。頼んだのは、長谷川平蔵が主人公の物語のはずだ。そういって、つぎは配慮してもらえ」

当時の池波さんは、中堅作家ではあったが、『鬼平犯科帳』でブレイクした大家にはまだほど遠かった。

で、杉村編集長の要望を容れて書いた第2話が[本所・桜屋敷]
ただ、急いで平蔵やその周辺を造形したために、いろいろと泥なわの面もでてきた。
波津の没年もその一つ。
見たように、『寛政重修諸家譜』は、女子の没年は記さない。
ただ、伊兵衛・長谷川家の菩提寺は記載されているから、戒行寺で確かめることはできたはず。

つぶやき:
波津という女性の存在は、『長谷川平蔵 基メモA』をつくりはじめた30歳代前半には決めていた。
〔波津〕が、田沼意次の知行地・相良(静岡県中南部)一地区の地名からとっているらしいことは、SBS学苑パルシェ(静岡)の[鬼平]クラスの八木忠由氏が指摘している。

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2006.05.27

聖典『鬼平犯科帳』のほころび(2)

銕(てつ)三郎父・宣雄従妹・波津との結婚をいう前に、『寛政重修諸家譜』から、伊兵衛・長谷川家の六代目当主・修理(しゅり)宣尹(のぶただ)の項を見ておきたい。

0014
第14巻

筆者が所有しているのは、続群書類従完成会の昭和55年12月25日刊の第4刷である。全23巻・別iに4冊の索引つきで、ご覧のとおり、黄土色の装丁。
台東区の池波記念文庫の移転書斎にあるのは灰色の装丁で、黄土色の前の版だが、内容に大差はない。

さて、修理宣尹の項。

Nobuyqda_1

宣尹(のぶただ)
   権太郎 修理 権十郎 母は某氏。
  享保十年(1725)九月朔日はじめて有徳院殿(吉宗)に
  拝謁す。時に十一歳。
  十六年四月六日遺跡を継ぐ。
  元文二年(1737)十月二十日西城御書院の番士となり、
  延享二年(1745)閏十二月番を辞す。
  四年(1747)五月十二日西城御小姓組に列し、寛延元
  年(1748)正月十日死す。年三十四、
  法名日順。
女子 宣尹が養女。

この「女子」とあるのが、妹の「波津(小説での名)」。『諸家譜』では、女子は名前を記さない。
宣尹と宣雄は四つ違いの従兄弟同士であるから、波津は宣雄の従妹にあたる。
(宣尹は正徳5年--1715の生まれ、宣雄は享保4年--1719の生まれ)。

実兄の歿年が34歳というから、波津は30歳前後ともいえる。
30歳近くまで嫁がなかったのは、嫁げなかったのであろう。兄とおなじく病身だったとみる。
もしかすると、病床にあったまま、家禄を守るために、急遽、兄・宣尹の養女となっての婿とりともおもえる。

宣雄の項を見てみよう。

宣雄(のぶお)
   平蔵 備中守 従五位下 
   実は宣有が男。母は三原氏の女。宣尹がときにのぞみて養
   子となり其女を妻とす。
 寛延元年(1748)四月三日遺跡を継。(略)。

宣尹の死からほぼ4ヶ月を経ての家督である。この間の、諸手続きの輻輳が想像できる。
おそらく、あちこちへ口留めとまいないがくばられたことであろう。

宣雄と波津の婚儀がなったとき、銕三郎は3歳であった。
また、波津は妻としての所作が行えなかったから、家裁は、銕三郎の実母がとりしきっていたはずである。

この実母を、池波さんは(妾)と記しているが、この表現が妥当かどうか。

また、波津は銕三郎が十七歳にまで家に入れなかったというが、じっさいは、婚儀の2年後の寛延3年(1750)に死去していることが、戒行寺の霊位簿にきろくされていると、研究家の釣洋一氏からおそわり、霊位簿のコピー---秋教院妙精日進---も見せられた。

実母のほうは、平蔵宣以が死ぬ4日前まで生存し、夫・宣雄と同じ位の戒名をさずけられている。
すなわち、興徳院殿妙雲日省大姉
ちなみに、泰雲院殿夏山日晴大居士が、従五位下・備中守だった宣雄の法名。

つぶやき:
池波さんが、銕三郎のぐれを、継母の継子いじめとしているが、これは、安易な見方ともいえる。
まあ、継子いじめは、古今東西に共通の悲惨事だから、おおかたの共感を得られやすいが。
ぼくは、池波さんの安易は、急ぎすぎたための窮余の結果と見ている。そのことは明日。

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2006.05.26

聖典『鬼平犯科帳』のほころび

よくできている聖典『鬼平犯科帳』にも、いくつかのほころびがある。
いや、20年近くも書きつづけられ、ファンを魅了しつくたのだから、そんなほころびには目をつむれ、となだめる識者も少なくない。NHKのプロデューサーだった立子山さんもその一人(立子山さんのご父君は、池波少年の西町小学校時代の担任だった)。

そのとおりなのだが、そのほころびから、池波さんの素顔がうかがえたり、執筆時の秘密が洩れているなら、深読みファンとして指摘しないわけにはいかない。

文庫巻1の[本所・桜屋敷]に、こんな数行がある。

 長谷川平蔵の生いたちについて、のべておきたい。長谷川家の
 祖先は、むかしむかし大和(やまと)国・長谷川に住し、戦国末期
 のころから徳川家康につかえ、徳川幕府なってからは、将軍・旗
 本に列して四百石を知行(ちぎょう)した。
 それより五代目の当主・伊兵衛宣安の末弟が、平蔵の父・宣雄
 (のぶお)だ。
 家は長兄・伊兵衛がつぎ、次兄・十太夫は永倉正武の養子とな
 った。こうなると、末弟の宣雄だけに養子の口がかからぬ以上、
 長兄の世話になって生きてゆかねばならぬ。
 長兄がなくなり、その子の修理(しゅり)が当主になってからも、
 宣雄はこの甥(おい)の厄介(やっかい)ものであった。
                         p55 新装p59

この文章の由来は、池波さんが30歳すぎのときに長谷川平蔵を『寛政重修(ちょうしゅう)諸家譜』で見つけたという、その『寛政譜』から書き写した[長谷川平蔵年譜 基メモA]と題したノートにある。

2_3
[長谷川平蔵年譜 基メモA]の表紙

連載のずっと前に準備されたこのノートは、台東区の池波正太郎記念文庫のガラスケースに入れられ、最初のページが開かれている。
そのページは、

Notekeizu
青○が宣雄

となっている。
当時、芝居の台本作家として立ったばかりの池波さんは、『寛政重修諸家譜』を購うだけの経済的な余裕はなかったろうから、長谷川伸師邸の書庫の『寛政譜』を借り出し、大急ぎでくだんのノートに書き写したはずである。
その際に、写し間違いをした。

『寛政譜』によると、長谷川一門の家系図は、こうなる。

Keizu_1

宣雄と宣以(のぶため 小説の鬼平)の部分をクロースアップして掲げよう。

Nobuokeizu

青○の宣雄は、末弟ではなく、三男・宣有が、看護にきていた、備中松山藩・元藩士で浪人・三原七郎兵衛の娘に産ませた子である。
したがって、六代目の伊兵衛宣尹(のぶただ 修理)とは従兄弟同士である。

宣安・長谷川家は、どちらかというと病身の者がおおく、宣雄の父・宣有も病気がちで、養子には出られなかった。

池波さんは、なぜ、宣雄の位置を写しちがえたか。
この人特有の、回転の早いあたまのめぐり、寸時も休むことのない決断---が裏目にでたときに生ずる早合点が遠因とおもう。

池波さんは、その後、『寛政重修諸家譜』をらくらくと買える流行作家になり、事実、池波記念文庫へ移された書斎には、その『寛政譜』が麗々しく置かれているが、長谷川平蔵