カテゴリー「003長谷川備中守宣雄」の記事

2009.11.26

京都町奉行・備中守宣雄の死(7)

この[宣雄の死]の項の(4)に引いた、江戸時代の初期から幕末までの幕府役人の任免記録を役職別に分類した『柳営補任』の記録を、ふたたび引く。

長谷川平蔵宣雄(備中守)
明和9年(1771)10月15日御先手加役ヨリ
安永2年(1772)7月17日卒


山村十郎右衛門良旺(信濃守)
安永2年(1772)7月18日御目付ヨリ
同  7年(1777)7月20日御勘定奉行 

参照】2009年11月23日[京都町奉行・備中守宣雄の死] (4)

ちゅうすけ注】山村十郎右衛門良旺(たかあきら 45歳 500石)に信濃守に叙されたのは、京都着任後の9月1日付であった。
山村信濃守良旺の【個人譜

宣雄の卒日が、6月でなく、1ヶ月近くもずれていることも指摘しておいたが、これだと、後任の山村十郎右衛門良旺は、卒日の翌日に着任してきたようにこみえないこともない。
いや、正確にいうと、内示があってから発令とみ、内示の段階で上洛の準備をはじめたとしても、正式の申し下しがなければ、江戸でのあいさつ廻りができまい。

2日でそれをすませたとして、行列を組んで東海道を順調にのぼって14日、千本通りの役宅へはいったのは、早くて8月10日---じっさいは、それよりも少し遅かったのではあるまいか。

その到着まで、銕三郎(てつさぶろう 28歳)は、役宅を整理しながら待っていたのであろうか?
なんのために?
引継ぎ?

彼は、正式に嫡子であるが、父の京都・町奉行の職務とは、表向きにはかかわりはない。
引き継ぎは、京都在住の与力・同心たちが全員、そのまま居座っており、筆頭与力が中心となっておこなうであろう。

ちゅうすけとしては、役宅の整理を手早くすませ、内与力格で働いていた桑島友之助(とものすけ 40歳)を山村新奉行への応対にのこし、遺跡(400石)相続の呼び出しがいつあってもいいように、早ばやと京をあとにしたのではなかろうか。
少なくとも、残暑のきびしい6月晦ごろには京を発したとみる。

銕三郎の遺跡相続の申しわたしは、同じ年(安永2年)の9月8日であったことは、[宣雄の死]の項の(1)に記しておいた。

参照】2009年11月20日[京都町奉行・備中守宣雄の死] (1)

銕三郎は、久栄に言った。
「去年の初冬、父上とともに京へのぼるときには東海道であったろう。帰府には中山道というのは、どうかな?」
(てつ)さまが、そうなさりたいのでしょう?」
「歩いたことがないゆえ、この機会の目におさめておけば、今後の勤めに役立つようにおもえるのだ」
「東海道の宿場々々のおなじみのおんな衆へのごあいさつが欠けますが、それておよろしいのでしたら、中山道といたしましょう」
「こいつめ---」
「う、ふふふふ」

柳営補任』の誤記を鵜呑みにした書き手がいたらしい。
着任した山村良旺が、帰府する銕三郎の世話をあれこれしたというふうなことを書いていた。
ところが、いま、その文章をあちこち探しているのだが、どこへまぎれこんだのか、みつからない。

明記しなくても、まあ、どうってこともないか。

気になったので、あれこれ検索していたら、3年前の当ブログ---2006年7月27日[今大岡とはやされたが]にぶつかった。
なんのことはない、自分で書いていたのである。(笑)
なにを読んでそう記したか、やはり記憶はない。

(始まってきたのかな---?)

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2009.11.25

京都町奉行・備中守宣雄の死(6)

京都町奉行の交替の期間差を調べることで、幕閣の動き方や幕府枢要・所司代間の連絡などがのぞけたらとおもい、長谷川備中守宣雄(のぶお 享年55歳)から10人ほど前の京・町奉行の任免の年月日を『柳営補任』でたしかめている。
メモのつもりでおつきあいいただければ幸い。

きょうは、東町奉行---。

山口安房守直重(なおしげ 2000石)
正徳3年(1713)2月29日(64歳)禁裏付ヨリ
享保6年(1721)正月22日辞(72歳)


河野勘右衛門通重(みちしげ 豊前守 500石)
享保6年(1721)2月15日(70歳)佐渡奉行ヨリ
500石加増
享保9年(1724)12月18日卒(73歳)


小浜六之助久隆(ひさたか 志摩守 900石)
享保10年(1724)1月18日(50歳)佐渡奉行ヨリ
ちゅうすけ注】『柳営補任』は享保9年としていたが、訂正しておいた。
享保12年(1727)9月8日卒(56歳)


永田三右衛門元隣(もとちか 越中守 680石)
享保12年(1727)10月22日(50歳)御目付ヨリ
300石加増
享保17年(1732)3月1日(55歳)小普請奉行


向井兵庫政暉(まさてる 伊賀守 900石)
享保17年(1732)3月1日(49歳)先手組頭加役ヨリ
元文4年(1739)7月2日卒(56歳)


馬場宮内尚繁(なおしげ 讃岐守 2000石)
元文4年(1739)7月19日(43歳)先手組頭加役ヨリ
延享3年(1746)7月21日(50歳)町奉行


永井監物尚方(なおかた )
延享3年(1746)7月22日(44歳)小普請支配ヨリ
宝暦2年(1752)d)正月11日(50歳)勘定奉行

土屋長三郎正方(まつかた 越前守 700石)
宝暦2年(1752)2月15日(57歳)駿府町奉行ヨリ
同  3年(1753)12月24日(58歳)町奉行


小林甚五左衛門春郷(はるさと 伊予守 400石)
宝暦3年(1753)12月24日(57歳)町奉行ヨリ
明和3年(1766)9月12日普請奉行(70歳)


石河庄九郎政武(まつたけ 土佐守 2700石)
明和3年(1766)9月12日(43歳)御目付ヨリ
同  7年(1770)閏6月3日(47歳)持弓頭


酒井善左衛門忠高(ただたか 丹波守 1000石)
明和7年(1770)閏6月3日(61歳)奈良奉行ヨリ

在府の現職が京都へ赴任すばあいは、期間差がみじかいのかと予想していたが、それもみごとにはずれた。
前例を大事にすると諸書にあるが、そういうものでもないみたいだ。

ちゅうすけのつぶやき】年齢の割り出しに時間をとられる。
これが安永以前だから、9割9分の人が没しているので、没年から数え齢が逆算できるが、平蔵宣以と同世代の幕臣だし、『寛政譜』ではまだ生存している確率が5割前後だから、こういう年齢つきのリストりの作成は困難をきわめる。

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2009.11.24

京都町奉行・備中守宣雄の死(5)

長谷川備中守宣雄(のぶお 55歳 400石)の役務中の死にことよせて、遠国奉行の筆頭ともいえる、京都町奉行の交替の期間差をみている。
幕政のしきたりの一端がうかがえるかもしれないとおもってのこころみである。

宣雄から10人ほどもさかのぼれば、ある提示の傾向が知れようか。
では、まず、西町奉行すから---。


水谷弥之助勝阜(かつおか 信濃守 1700石)
元禄12年(1699)9月28日(40歳)御目付ヨリ
丹波国氷上郡に500石加増
宝永2年(1705)8月4日(46歳)辞
ちゅうすけ注】『寛政譜』8月3日と。
なお、水谷は(みずのや)と読み、この本家の伊勢守勝久が宣以が書院番にあがったときの番頭。


中根宇右衛門正包(まさかね 摂津守 1000石)
宝永2年(1705)8月5日(45歳)書院番与頭ヨリ
同         9月28日500石加増
正徳4年(1714)8月15日(57歳)辞


諏訪七左衛門頼篤(よりあつ 肥後守 500石)
正徳4年(1711)8月15日(54歳)小姓組与頭ヨリ
丹波国氷上郡に500石加増
享保8(1723)7月24日(66歳)町奉行
ちゅうすけ注】前任の奉行が辞任の場合は、前もって届けているから、同日後任が発令されている。
また、このころは、京都町奉行になると、500石加増が例であったらしい。
役高が1500石格と定まつたのは吉宗の享保からか?


本多勘右衛門忠英(ただひで 筑後守 1200石)
享保8(1723)7月28日(56歳)小姓組与頭ヨリ
元文2年(1737)3月10日(70歳)御旗奉行


島 角左衛門正詳(まささだ 長門守 1000石)
元文2年(1737)3月10日(51歳)駿府奉行ヨリ
同  5年(1740)12月28日(54歳)町奉行


三井采女良竜(よしたつ 下総守 1000石)
元文5年(1740)12月28日(43歳)御目付ヨリ
寛延2(1751)7月6日(52歳)御勘定奉行


稲垣精右衛門正武(まさたけ 出羽守 600石)
寛延2(1751)7月23日(51歳)御目付ヨリ
宝暦6年(1756)10月28日(58歳)御普請奉行


松前隼人順広(としひろ 筑前守1500)
宝暦6年(1756)11月3日(43歳)駿府奉行ヨリ
明和元年(1764)閏12月15日(57歳)御旗奉行
ちゅうすけ注】


太田三郎兵衛正房
(まさふさ 400石 播磨守)
明和元年(1764)閏12月15日(50歳)御目付ヨリ
同  9年(1772)10月8日(59歳)小普請奉行


長谷川平蔵宣雄(のぶお 備中守 400石)
明和9年(1772)10月15日(54歳)先手組頭加役ヨリ

こうしてみてみると、引継ぎの期間差には、この50年近くには、さしたる法則性はないようにもおもえる。
明日は、東町をあたってみよう。

(ふうー、くたびれた。4日ついやしての作業であった)

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2009.11.23

京都町奉行・備中守宣雄の死(4)

(旧暦)安永2年6月22日

幕府が10数年がかりで編纂した『寛政重修l諸家譜』に記されている、京・西町奉行・長谷川備中守宣雄(のぶお 55歳)の逝去日であることは、これまで何度も告げてき、さらにこれが実際の卒日ではなく、幕府への諸手続きをとどこおりなくすますための公けの歿日であることも報じてきた。

実際の歿日を推測するただ一つの手がかりは、香華寺・戒行寺(新宿区須賀町9)の霊位簿にある、

6月12日歿

これがもっとも史実に近いとおもわれるが、宣雄が歿したのは江戸においてではなく京師であり、戒行寺には、後日、納骨された。

いちおう、一鬼平ファンとしては、6月12 日で納得しておきたい。

想像するに、銕三郎(てつさぶろう 28歳)は、<この日の亥の刻(夜10~12時)>として、江戸の三ッ目通りの屋敷で留守宅を守っていた備中守宣雄の内妻・(たえ 48歳)と、本家の当主・長谷川太郎兵衛正直(まさなお 63歳 先手・弓組頭)には、早飛脚でことを報せたろう。

忌日をめぐって、ずっとこだわっていることがある。


江戸時代の初期から幕末まで、幕府役人の任免記録を役職別に分類した『柳営補任』の記録がそれである。

長谷川平蔵宣雄(備中守)
明和9年(1771)10月15日御先手加役ヨリ
安永2年(1772)7月17日卒


山村十郎右衛門良旺(信濃守)
安永2年(1772)7月18日御目付ヨリ
同  7年(1777)7月20日御勘定奉行 

ちゅうすけ注】(  )内の官名は町奉行着任後に贈られたもの。

なんと、宣雄の卒日が『寛政譜』のそれよりも1ヶ月近くも遅らされている。
後任・山村十郎右衛門良旺(たかあきら 45歳 500石)の発令の前日である。

備中守宣雄が卒したことは、『徳川実紀』には記されていないが、山村良旺の発令は、『柳営補任』どおりに記載されている。

それで、京で任期中に卒した町奉行の忌日はそのようにしているのかと、あたってみた。

もっとも近いのは、備中守宣雄と同時期に東町奉行だった酒井丹波守忠高(ただたか 没年62歳 1000俵)である。

酒井然右衛門忠高(丹波守)
明和7年(1770)閏6月3日奈良奉行ヨリ
安永3年(1773)3月6日卒


赤井越前守忠晶
安永3年(1773)3月20日御先手加役
天明2年(1782)1月25日御勘定奉行

赤井越前守忠晶(ただあきら 45歳=着任時 1700石)の発令は『寛政譜』のとおりであり、酒井忠高の公式卒日から17日後である。
その間に、継飛脚が往復はする余裕は十分にあった。

もう1例、あげよう。
備中守宣雄と同じ西町奉行である。

井上太左衛門正貞(志摩守 重次)
延宝7年3月4日御先手ヨリ
元禄2年11月12日卒


小出淡路守守秀strong>(守里)
元禄3年1月11日御書院番与頭ヨリ
同  9年5月25日辞

寛政譜】とつきあらせたところ、井上志摩守(丹波守)重次(しげつぐ 没年60歳 3000石)の歿日は22日となっていたが、それにしても、後任の発令まで2ヶ月近くある。

宣雄の分だけが遅らせられた理由は、依然として不明である。

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2009.11.22

京都町奉行・備中守宣雄の死(3)

このタイトルの項(1)で、鬼平こと平蔵宣以(のぶため 享年50歳)の死後、家督した宣義(のぶのり 30歳=寛政11年)が『寛政重修l諸家譜』編纂の基材として上呈した[先祖書]を引き、備中守宣雄(のぶお 享年55歳)が逝去前に、銕三郎(てつさぶろう 28歳)への家督相続を老中に願っていたかのように記していたことをとりあげた。

父・備中守宣雄、京都(西)町奉行を相勤めておりました節、
安永2年(1773)癸巳(みずのとみ)6月21日、京都のご役宅で卒、
同年9月8日、父が願いおきましたとおり、跡目菊之間で
(老中)板倉佐渡守(勝清 68歳 上野国安中藩主 2万石)より
伝えられた。

備中守宣雄の逝去のとき、辰蔵は4歳であったから、経緯のはっきりした記憶はなかったろう。
成人するどの段階かで、父・平蔵宣以か母・久栄から聞かされていたのを、[先祖書]の記したとおもわれる。

_100滝川政次郎先生『長谷川平蔵 その生涯と人足寄場』(朝日選書 のち中公文庫)は、京都在住の牢人・岡藤利忠が書いた『京兆府尹記事』を引き、宣以の機転と利発のあかしとされている。
長くなるが、現代語に置き換えて資として供してみる。

(宣雄が逝去したとき)息子・銕三郎は父に同伴する形で京都にいた。(中略=原著)

まだ、跡目顔いを呈していなかったので、家士たちが銕三郎に、「末期願いの取りはからいを相役の東町奉行の酒井丹波守忠高(ただたか 62歳 1000俵)どのにお願いしました」ことを告げた。(中略=同)

末期願いは、死去の節は、継嗣のだれそれへ跡式を継がされたくと願いおくことで、それにはお目付役の判元見届が必要なので、「酒井奉行どのが入来されます」と。(中略)

ちょうど、在京している目付役が大坂へ出張中であったので、相役・酒井丹州が判元見届けにやってきた。

ちうすけ注】東・西の京都町奉行の役宅は、3丁と隔たってはいない。

そこで、家士が銕三郎にすすめた。
「判元見届けをする役を、誰にかお申しつけになってください」
銕三郎は十三歳(原文のまま)であったが才智抜群で、凡慮の者は及ばないほどであった。
銕三郎は笑って言い放った。
「実子がいるのに、どうして見届の人を臥床へ入れる理由があるものか。拙みづからが応対しよう」

そうはいっても、幼年の銕三郎の言い分なので、家士たちは安堵せず、再度、説得ほ試みたが、聞き入れない。 

仕方なく、ことの次第を東町奉行宅へ参じて酒井丹州に告げた。
「長谷川家のためをおもってのおのおの方の忠告とこころえた。悪くははからわないから安心しておられい」

酒井奉行は西町奉行の役宅に来、
「判元を見届けいたそう」
言いながら案内を求めた。

麻裃で式台で迎えた銕三郎は、
「父の名代として、ここで印形をいたしましょう」
「なるほど。実子どの調印なさるのであれば子細はないが、先例では本人の臥床にいたり、調印を見とどけることになっておりますぞ。それゆえ、この度もそのように致されませぬと、ことが荒立ちます。ご幼年ゆえに案じておられるのであろうが、この丹州を信用なされて、おまかせあれ」

「先例にそむいたときはご役義がはたされないとのお言葉、一見、理があるやに聞こえますが、臥床にいらっしゃっても、お役義が勤まるとは申せませぬ。父・備中守が死去しているので、夜具の袖から代人が印形を捺したものをお持ちになると、後日、そのことが発覚しましたならば、丹州さまのお手落ちということになって、お家がとりつぶされるやもしれませぬ。それより、実子が代印したので、 一応、備中守へは挨拶だけしておいたとお届けになれば、後日露顕しても、、私の不調法ということですみ、丹州さまへはおとがめはありませぬ」

丹州は横手を打って、
「才子なるかな。その明智に従うべし」
といい、13歳平の銕三郎に教られ、60歳を超えていた丹州も、その言葉に従い、遺願書を持ちかえって、所司代・土井大炊頭利里(としさと 52歳 古河藩主)へ届けた。


このとき、著者・岡藤牢人は銕三郎を13歳としているが、われわれは28歳であったことを熟知している。
岡藤がなぜ銕三郎の年齢を間違えたか、この際、いくら詮索しても解明できはしない。
それよりも、末期(まつご)願いの手続きを学んだほうがよかろう。

ちゅうすけは、酒井丹波守がもともと、銕三郎に好意をいだいていたため>の処置であったと解しているのだが。


参照】2009年9月7日[備中守宣雄、着任] (

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2009.11.21

京都町奉行・備中守宣雄の死(2)

京都西町奉行・長谷川備中守宣雄(のぶお 55歳)の逝去日については、いくつかの記述がある。

まず、『寛政重修l諸家譜』の安永2年(1773)6月22日説。

_360
(『寛政譜』 長谷川家より宣雄の項)

これの基となったはずの、孫・平蔵宣義(のぶのり 『鬼平犯科帳』時代では辰蔵)が幕府に上呈した[先祖書]では、安永2年(1773)6月22日と読める。

_360_3

同じ[先祖書]で、本稿(1)に披露した平蔵宣以の項でも、6月21日になっていたが、どちらにしても、公式の命日で、実際の逝去日ではない。
公式の---とは、幕府に対しての諸届け・手続きをすますための命日の意である。

幕臣の任免・辞職の詳細を記した『柳営補任』にいたっては、安永2年7月17日卒と、半月以上も遅らせている。

長谷川平蔵宣雄(備中守)
明和9年(1771)10月15日御先手加役ヨリ
安永2年(1772)7月17日卒


山村十郎右衛門良旺(信濃守)
安永2年(1772)7月18日御目付ヨリ
同  7年(1777)7月20日御勘定奉行


それで、京都と江戸とのあいだを結ぶ、公用の継飛脚のことをかんがえた。
どれほどの日数で、備中守宣雄の死が、管轄している老中へ届き、後任が選ばれるのかと。
継飛脚でもっとも早いのは、70時間であったとWikipediaにある。

それに近い至急便で、宣雄の死は、老中へ告げられたろう。
秘密の要務---禁裏役人の不正摘発のこともあった。
老中たちは、後任の登用に意をつくしたとみるが、この推測は後日にまわしたい。

いや、推察はもう一つある。
京都へ付随しないで、江戸の留守宅を守っていた、宣雄の非公式の奥方で、銕三郎(てつさぶろう 28歳)にとっては実母の(たえ 48歳)のもとへの知らせは、どれほどの日数で達したか。
早くて7日後か。

陰暦の6月中・下旬といえば新暦の7月下旬で、酷暑の季節であり、遺骸の傷みも早かろう。
の上洛を待って葬儀というわけにもいかなかったろう。
もちろん、遺骸を江戸の菩提寺・戒行寺へ移送して葬るわけにもいかない。

葬儀は、『寛政譜』にあるとおり、京・千本通り出水(でみず)の華光寺(けこうじ)で行われた。
戒名も華光寺が贈った。
叙太夫・従五位下の宣雄にふさわしく、泰雲院殿夏山日晴大居士

参照】2006年5月27日[聖典『鬼平犯科帳』のほころび] (
2005年3月25日[女盗(にょとうおたか(お豊)]

長谷川本家の末・雅敏(まさとし)さんが華光寺へ問い合わせた結果は、すでに記している。

参照】2007年4月14日~[寛政重修諸家譜] (10)おたか(お豊

肝要な史料なので、煩瑣をいとわず、再掲示する。

_300

これには、西町奉行の示寂(じじゃく 死」)は、6月17日亥刻いのこく 午後10~11時代)となっている。

葬儀は23日の酉刻(とりのこく 午後5時)からだが、晩夏なのでもだ明るかった。
所司代に次ぐ要職である京・町奉行の現役の葬儀であるから、弔問者は多かったろう。

進行・整理には、浦部源六郎・彦太郎父子をはじめ、奉行所の同心や小者や、彦十(ひこじゅう 38歳)らがあたったことも想像がつく。

ただし、遺族席に、内妻・の姿はなかった。

回向帳に、化粧指南師・お(かつ 33歳)の名があり、〔狐火きつび)〕の勇五郎(ゆうごろう 53歳)は骨董商・〔風炉(ふろ)屋〕勇五郎と記名していた。

参照】2009年7月20日~[〔千歳(せんざい〕のお豊)] () (

祇園一帯の香具師の元締・〔左阿弥(さあや)〕の父子は、はっきりと屋号と名を記帳していた。

葬儀がおわり、香典をあらためた西町奉行所の同心たちが首をかしげたのは、四条通り麩屋j町の〔紅屋〕平兵衛が1両(16万円)つつんでいたことであった。
「お奉行は、口紅の〔紅屋〕と、どんなかかわりがおありになったのか?」
ひとしきり、隠しおんなの詮索を話題にしてみたものの、けっきょく、わからずじまいで話がつきた。


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2009.11.20

京都町奉行・備中守宣雄の死

平蔵宣以(のぷため いわゆる鬼平)の没後4年---寛政11年(1799)12月20日に、嫡男・平蔵宣義(のぶのり 30歳 辰蔵の家督後の継承名)が幕府に提出した[先書祖]を、にらんでいる。

_300
(平蔵宣義(辰蔵)が上呈した[先祖書]の表紙)

先祖書]は、先の老中首座・松平定信の発案で企画されたもので、お目見(みえ)以上の幕臣、および大名に提出が下達されていた。

12月20日は、締め切りぎりぎりともいえる期日であった。

5,200余家から上提された[先祖書]は、編纂役人たちの照合をへて、13,年後の文化9年(1812)に完成をみた。

参照】『寛政重修諸家譜

にらんでいるのは、『寛政譜』の基となった[先祖書]のほうである。

その[先祖書]は、長谷川本家の末裔である長谷川雅敏氏が国立公文書館からコピーしてきたものが、研究家・釣 洋一氏iにわたり、氏がワープロ活字化したのと、原文のコピーをいただき、おりにふれてにらんできた。

いや、〔にらんでいる〕のは、もっぱら、ワープロ活字化されたほうである。
それの、八代目・平蔵宣以の冒頭部分。

ブログでは、銕三郎(てつさぶろう 27歳)は京都にいる。
在・京都の条をアップにしてみよう。

_360_2

1行目の最初の5文字は、前の事項のしっぽだから無視。

父・備中守宣雄、京都(西)町奉行を相勤めておりました節、
安永2年(1773)癸巳(みすのとみ)6月21日、京都のご役宅で卒、
同年9月8日、父が願いおきましたとおり、跡目菊之間
(老中)板倉佐州(佐渡守勝清 68歳 上野国安中藩主 2万石)より
小普請支配・長田備中守の組へ入ると伝えられた。

ちゅうすけ注宣雄の歿年月日について別の日にふれるので、いまは、ここには立ちどまらない。
小普請支配・長田備中守も、管見では『寛政譜』に見あたらない。
長田(おさだ)越中守元鋪(もとのぶ 74歳 980石)の誤記とみる。

眸(め)を凝らしているのは、

(父が願いおきましたとおり、跡目---)

この1行である。

いつ、願いおいたのであろう?
病床にあり、回復がままならぬと自覚し、急遽、継飛脚便を発したのであろうか。
そのとき、備中守宣雄の胸中には、25年前、病弱だった6代目の従兄・宣尹(のぶただ 没年35歳)の死の前後の末期(まつご)継嗣の手続きのあわただしさ---というより、一種の偽装がよみがえっていたろうか。

参照】2007年4月14日~[寛政重修l諸家譜] (14) (15) (16)(17) (18
2007年5月2日[柳営補任〕の誤植

それで、まだ生きているうちに、願書を江戸へ送ったのかもしれない。
あるいは、死の日時を糊塗し、あたかも生前に願い出たようにしたか。

宣雄が病床にあった期間はどれほどであっか。
病名はなんであったか。
記録はまったくのこされていない。

明和19年(1772)10月15日に京都西町奉行を拝命し、8ヶ月と7日ばかりの、短すぎた病死であった。
備中守宣雄までの京都町奉行で、これほど勤務年月が短かった奉行はいない。


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2009.11.16

奉行・備中守の審処(しんしょ)(11)

「父上。いまのままの吟味ですと、元賢(げんけん 43歳)は、島送りとなりますな」
表の役所から役宅へもどり、夕餉(ゆうげ)の席についた西町奉行・備中守宣雄(のぶお 55歳)に、銕三郎(てつさぶろう 28歳)が話しかけた。

晩酌はしない宣雄は、はやくも箸を手にしていた。
銕三郎の膳には、銚子が1本添えられているのは、いつものとおりであった。
書院での夕餉は、ずっと前から、2人だけである。
もっとも、辰蔵(たつぞう 4歳)が元服すれば、3代そろっての食事になったはずだが。

「決裁は、まだ、してはおらぬぞ」
「しかし、拝聴しておりますかぎり、死罪はないと---」
「不満のようじゃな?」
「いえ。流島となれば、どの島であれ、囚人として生きていくのはきわめて困難でしょうから、これから先、10年、15年の苦難をかんがえれば、当人にとっては、死罪にもまさる刑かと存じます」

宣雄は、慮外な---といった面持ちで銕三郎を瞶(みつめ)た。
(てつ)は、人の生死を、そのように観ておったのか」
「は------?」

箸を置き、両こぶしを膝にそろえた宣雄は、
「人はだれも、死後の世界を看(み)てはおらぬ。つまりは想像の国にすぎない。とはいえ、仏道では、極楽と地獄を絵巻にしておる。元賢に死罪を申しわたせば、地獄図をおもいうかべるは必定であろう。そこへおちるよりも、いかになる苦難が待っていようと、流島のほうが苦しみがすくないと推察するのではなかろうか」

「あの者が、そのようにかんがえましょうか?」
元賢は、自分勝手な男である。自分に都合がいいようにかんがえるは必定じゃ。島で生き延びられるほうを選ぶであろう」

銕三郎は、元賢がきせる問屋〔松坂屋〕の後家・お(さと 30歳)との出事(でごと 情事)のときの好みを、ためらいながら父に洩らした。

宣雄は深く嘆息し、
は、そのような細事まで、探索しておるのか?」
「探索したわけではなく、たまたま、知りえましたことで---」
「人には、知られたくない秘事というものがある。たとえ、公事(くじ)であろうと、明かしてはならないものは、そっとしておいてやるのが人情というものである---」
「承りました。爾後、肝に銘じておきます」

「ところで、。だいぶ、酒の腕があがったようであるな。今宵から、銚子は2本にしてよいぞ」
「かたじけのう、ございます。久栄(ひさえ)!」

 【参照】[銕三郎、膺懲(ようちょう)す] () () () () (5) () ()   


2009年10月19日~[貞妙尼(じょみょうに)の還俗(げんぞく) () () () () () () () () () (10

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2009.11.15

奉行・備中守の審処(しんしょ)(10)

「きょうの取り調べは、正式のものである。そのつもりで、よく考えて答えるように」
白洲に引きすえられた元賢(げんけん 43歳)に、吟味方の次席与力・入江吉兵衛(よしべえ 48歳)が申しわたした。


梅雨の晴れ間の白洲ではあったが、1ヶ月をこえた入牢(じゅろう)暮らしと、庵主(あんじゅ)面責の顔ぶれの大半が割れていること、さらには言いよった僧たちの証拠も奉行所がつかんでいるらしいことをにおわされてきた元賢は、眠られない夜をつづけているらしく、顔色もさえず、憔悴しきっていた。

「「その前に、報せておくことがあろう」
奉行・備中守宣雄(のぶお 55歳)が上座からうながした。
ふつう、奉行は口述取りの席には立ち会わないのだが、この日は、とくに着座した。

入江次席与力がかしこまったふうで、
「「その方と親しかった竜土寺の照顕(しょうけん 39歳)と、延命寺の秀涌(しゅうゆう 32歳)は逐電しおった」
元賢が疑うような目で吟味方与力の表情をうかがった。

「逐電の理由(わけ)は、近所の噂の耐えきれなくなったのであろう。
誠心院(じょうしんいん)の庵主(あんじゅ)を問責、死にいたらしめた者たちの一味であったことを奉行所に知られ、吟味を恐れたためとおもわれる。
むろん、奉行所からすべの代官所はいうにおよばす、寺院へも手くばりがまわっておることゆえ、どこを頼るわけにもいくまい。
あわれであるが、いずれ、盗人と化すか、野たれ死にすることになろう」

「これ、吟味役どの。元賢坊がおびえるようなことまでいうでない」
奉行がたしなめたが、入江与力はこころえたもので、ちょっと頭をさげただけで受け流した。

元賢坊。きょうの吟味は、暁達(ぎょうたつ 36歳)坊の死は、自分からご坊の包丁にぶつかってきたものか、ご坊のほうが刺したものかを決めることが主題で、貞妙尼の問責殺しは、別の日の裁きとなるから、暁達坊の死因に集心するように---」
奉行は子どもをさとすようにいうが、それなら、照顕秀涌の逃亡を告げることはなかったのである。

暁達が庫裡(くり)にかけこんできて、なんとわめいたのだ?」
しぱらく思念している体(てい)であったが、
「なんで発覚(ばれ)たんや、と---」
「なんと答えた?」
「11両、盗んださかいに、奉行所が動いたんや、と。そしたら---」
「そうしたら---?」
「淫乱尼(いんらんあま)は、殺してぇへん。引きあげるときには、生きとった、と」
「生きておった?」
「確かに、そない、わめきよりましてん」
「おかしいな。庫裡(くり)の軒下に潜んでいた密偵は、そのわめき声は聞いてはおらんぞ」

奉行・備中守が手で書役(しょやく)を制し、
「庵主のことはおき、ご坊は、いつ、出刃包丁を手にしたかの?」
暁達の剣幕がはげしかったゆえ---」
暁達坊の剣幕は、最初からはげしかったのではなかったのか?」
「はい。そやよって、暁達が駆けこんできてすぐに---」
「出刃は、いつも庫裡に置いておるのか? 仏に任える身で、魚を料理する出刃を---とは、どういうことかな?」
「護身用に---」

「護身用なら、短刀でもよいのではないのか?」
「--------」
「厨(くりや)にあったものを、つい、庫裡へ持ってきてしまったのであろう?」
「そうどした---」
「うむ。与力どの。つづけられよ。この場は、破戒裁きどころではないゆえな」
奉行は、おだやかに微笑み顔で元賢をながめた。

暁達を威嚇する出刃をどのように構えたかを訊いた与力に、元賢は、腹に刃先を相手側に向けて---と答え、備中守が首をかしげ、
「おかしいな。暁達の傷はもっと上方で、あれだと胸のあたりにあげていないと、符合しない」
「あげたかもしれまへん。興奮してましたよって、よう、覚えておりまへん」
「あげたんだな」
「ええ」
「あげて、突きだした。それに暁達がかぶさるように突っこんできた」
「たしか---そないどした」
「しかし、ご坊は、その出刃を抜いている」
「おもわず---」
「ふむ---」

入江与力が代わって訊いた。
「出刃が暁達の心の臓を突き刺したとき---」
奉行が訂正を求めた。
「吟味与力どの。元賢坊は、突き刺したとは申してはおらぬ。向こうが出刃へぶつかってきたのだ」
与力が訂正した。
「出刃に暁達が心の臓をぶつけてきたとき、なんと言ったか?」
「おぼえてぇおへん」

備中守宣雄の後方でやりとりを聞いていた銕三郎(てつさぶろう 28歳)は、尋問の呼吸、安心した罪人にしゃべらせるコツを学んでいた。
それと同時に、
(父上は、殺人の死罪から、裁決を、なんとかして事故殺人にして流島へもちこもうとなさっている)
と感じた。


 【参照】[銕三郎、膺懲(ようちょう)す] () () () () (5) () ()   

2009年10月19日~[貞妙尼(じょみょうに)の還俗(げんぞく) () () () () () () () () () (10

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2009.11.14

奉行・備中守の審処(しんしょ)(9)

「その坊主の名前を、あっしが八幡・橋本村の行慶寺へひとっ走りして、調べてきやしょう」
相模(さがみ)〕の彦十(ひこじゅう 38歳)が、いまにも出かけそうにいったのは、淀川ぞいの橋本津(みなと)には、船頭たち相手に繁盛していた私娼窟が目あてだったかもしれない。

「この雨の中を出かけていくこともあるまい」
銕三郎(てつさぶろう 28歳)は、京都町奉行の父・備中守宣雄(のぶお 55歳)に問うまでもなかろうと判断した。

天慶寺の和尚の稚児趣味と、元賢(げんけん 43歳)と、貞妙尼(じょみょに 享年25歳)の私刑とはつながるまいとふんだこともある。
貞妙尼のうつぶせになっていた死顔は、あくまでおだやかで美しかった。

_100_2元賢貞妙尼を、背後から馬乗りに犯している姿を想像するのもはばかられた。
元賢が懸想したことすら許せなかった。

銕三郎には、謙虚に淫らな尼僧から還俗し、自分なりの考え方にしたがって生きるお(てい)であってほしかった。
そういえば、新造になってからの呼び名も決めないまま逝ってしまった。

貞妙尼へのおもいにふけっていた銕三郎に、〔女誑(めたらし)〕の〔高倉(たかくら)〕の由三(よしぞう 32歳)が問いかけた。
長谷川の若はん。〔松坂屋〕のおは、ご用済みでおますか?」
「惜しいのか?」
「もちぃと、舐(な)めてみとぅおますが---」
「それより、寺町五条上ルのちょうちん問屋〔鎰(ます)屋〕のお(こう 30歳)から、元賢坊の癖をさらに訊きだせないものか」
「ほな、そないに---」

由三は2日目に、
「聞いとるのが阿呆らして---」
帰ってくるなりの嘆息であった。

は、松原通り烏丸の平等寺の塔頭・西の坊に水子地蔵を寄進し、日参しているとわかったので、門前で張っていて、話しかけた。
水子にしたことに同情をしたふりをよそおうと、、にわかに心を許してき、寄進をすすめたのは水子の父親だと打ち明けた。
その父親はなぜだか、あのときに稚児髷(ちごまげ)の鬘(かつら)をかぶり、おを下腹をまたがせるのを好んだと。

「おのときのと、違うではないか」
「あのことの好みは、相手によって変わることもおますよって、いちがいにはきめられしまへん」
「そういうものかの」
「そないなもんどす」
銕三郎の眸(ひとみ)の奥をのぞきこむようにして笑った。
(おんな極めつくしたといううぬぼれの顔つきだな。いずれ、その鼻柱は、おなごによってへし折られるであろう)
銕三郎は自分の予想を、洩らしたりはしなかったが---。

とのときの元賢の好みのことは、父・備中守宣雄には打ち明けることがはばかられた。
(しかし、どちらにしても、橋本村の行慶寺での体験が基になっているに相違なかろう)

このあいだに、万吉(まんきち 22歳)と啓太(けいた 20歳)は、別の計略をすすめていた。
西銅院通り・五条通りあたり---ということは、照顕(しょうけん 39歳)が住職をしている竜土寺のある俗称・湯屋町近辺の一膳飯屋、茶飯屋をわたって昼飯・夕飯を食いながら、あたりの者の耳にはいるほどのひそひそ声で、
「お奉行所は、誠心寺(じょうしんじ)の美人尼殺しの片割れと目ぼしをつけたらし---」
「寺男が顔を見たいうことか?」
「竜土寺はんも、美人尼はんに言いよってひじ鉄くらははった一人やいうことや」
などと噂をまいてまわっていたのである。

夜は呑み屋を3軒も5軒もはしごをするので、きりあげるときには、そうとうにまわっており、あと3日もつづいたら躰がもたないとぼやいていた。

ぶったおれる前に、照顕が夜逃げをしたので、
「明日からは、桂川の西の松室村の延命寺のあたりで、秀涌(しゅうゆう 32歳)について、同様の噂をばらまけ」
げんなりしていたところへ、近くの西芳寺の小坊主が、秀涌も行く方知れずになったとの報らせをとどけてきた。
備中守宣雄が手配しておいてくれたのである。
ちなみに、西芳寺は、俗称・苔寺として知られている。

 【参照】[銕三郎、膺懲(ようちょう)す] () () () () (5) () ()   


2009年10月19日~[貞妙尼(じょみょうに)の還俗(げんぞく) () () () () () () () () () (10

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