カテゴリー「003長谷川備中守宣雄」の記事

2008.03.03

南本所・三ッ目へ(10)

ちゅうすけのひとり言ふうに(その2)】「父上から教わったことは、それこそ、数えきれぬわ。『子曰く、これを知るものはこれを好む者に如(しか)ず。これを好む者は、これを楽しむ者に如かず』などは、おれの生き方にさえ、なっている」
長谷川平蔵宣以(のぶため 44歳 先手・弓の2番手組頭 400石)が、妻・久栄(ひさえ 小説の名 37歳)に、しんみりと、洩らした。

宮崎市定さん『論語』(岩波現代文庫 2000.5.16)の名訳から引くと、

子曰く、理性で知ることは、感情で好むことの深さに及ばない。感情で好むことは、全身を打ち込んで楽しむことの深さに及ばない・

父・宣雄(のぶお 当時46歳 小十人組頭)が、鉄砲洲・湊町から南本所・三之橋通りの1238坪へ引っ越した時の処置の一つを語ってのことである。

「父上は、倹約ということを、こころから楽しんでおられたのだ」
笑いながら、阿波・徳島藩(25万7000石)・蜂須賀家に、南八丁堀の同藩・中屋敷つづきに、湊町の47九坪余の拝領地を引き渡す交渉で、
阿波さま方がお望みなのは、敷地でございましょう。建物はかえって邪魔ものと存じますゆえ、当方で取り払います」
といい、棟梁に言いつけて解体し、三之橋通りへ運んで組み立ててしまった。
そのために、新築するよりも、転居が3ヶ月も早まったし、建築費用も材料費分、半減した。

いや、移転・組み立ての時に、棟梁に仰せられた父上の言葉が、いまだに耳にのこっている、と言い、宣雄の声色で、
「南本所とは言い状、深川と申したほうが正しいような所である、いつ、水が出て、冠水するやもしれぬ。家は船ではない。浮かびあがらぬよう、工夫をほどこしておいて貰いたい」
「まあ、お躰つきばかりか、お声まで、七代さま(宣雄)に似てきましたこと」
久栄は、つまらぬことに感心していた。

この挿話を記したのは、ほかでもない。
寛政2年(1790)、平蔵が老中から、無宿人のための人足寄場の創設を命じられ、大川河口の石川島にそれを建てたとき、四谷・鮫ヶ渕橋の某旗本が罪を得て廃絶になり、その家屋が競売に付されたのを、指し値に1分(1両の4分の1)上乗せして落札・解体、石川島へ運び、あっというまに組み立て、収容小屋に転用したのは、父・宣雄のひそみにならった---と言いたいがためである。

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(人足寄場が創建された石川島と深川南部 近江屋板)

さらに言うと、徳島藩の用人・五島某とのやりとりに、将軍・家治(いえはる)お側(そば)の田沼意次(おきつぐ 当時46歳 相良藩主)の手配で、用人・三浦庄司(つかさ)が書いてくれた紹介状が大きくものいっている。

五島用人は、宣雄の言い分を、苦笑しながら、呑んだ。


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2008.03.02

南本所・三ッ目へ(9)

_100ちゅうすけのひとり言ふうに】長谷川家が、南本所・三之橋通り、現在の菊川町へ移ったことには、松平阿波家蜂須賀家)と、小普請組の桑嶋家がからんでいることを、最初の示唆されたのは、滝川政次郎先生『長谷川平蔵 その生涯と人足寄場』(朝日新聞社 1975 のち朝日選書 中公文庫)である(『鬼平犯科帳』)の『オール讀物』連載から7年後に刊行)。

『東京市史稿 市街篇第27』を引いて、

長谷川家の屋敷が、築地湊町から本所のニッ目に移ったのは、明和元年(1764)のことで、平蔵は十九歳の秋まで築地に住んでいたのである。

これは、池波さんの『鬼平犯科帳』での入江町誕生説、目白台での死亡説を暗に意識しての文章であろう。あからさまな訂正は、あえて避けておられるやに、見うけられる。温情とも作法とも受けとれる。

滝川先生が確かめられた『東京市史稿』は、こうなっている---

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要約すると、桑嶋元太郎持古(もちもと 49歳 無役 廩米200俵)が拝領していた南本所・三之橋通りの土地1238坪を、長谷川平蔵宣雄(のぶお 46歳 小十人組頭 400石)へ譲り、長谷川宣雄は鉄砲洲湊町の479坪余の拝領屋敷を、松平阿波守重喜(しげよし 27歳 徳島藩主 25万7000石)の南八丁堀町の中屋敷へわたし、徳島藩は目黒白金の広大な下屋敷のうちから500坪の土地を桑嶋元太郎へ分与する---と、三角交換をしたということ。

ちゅうすけ付言】桑嶋元太郎の個人譜は、2008年2月25日[南本所・三ッ目へ](3)
三方相対土地替えの走り使いとして、〔丸子(まりこ)彦兵衛という、幕臣拝領地を専門にあつかう、いまでいう不動産屋も、地券(ちけん)屋として設定した。当初は「地目(ちめ)屋」ともおもったが、公儀の土地の相対を斡旋するには、もうすこし重みのある呼び名のほうがふさわしいとおもい、地券屋とした。地券とは、土地の権利書のこと。
〔丸子屋〕彦兵衛については、2008年2月23日[南本所・三ッ目へ](1)

また、桑嶋元太郎の説得役として、かの家の組頭・山口民部直郷 (なおさと 63歳 小普請支配 3000石)を捜しだした。
もっとも、慎重な宣雄のこと、桑島元太郎に上から圧力をかけては、成る話も成らないともかぎらないと読んで、手持ちの隠し玉としておくつもりであった。

ちゅうすけ付言】小普請支配・山口民部直郷の個人譜は、2008年3月1日[南本所・三ッ目へ](8)

滝川先生から貴重な教示を受けておいて、異を唱えるのはおこがましいが、宣雄が、1200余坪の屋敷地を望んだ動機を、先生は、

明和元年、宣雄が本所に千二百余坪の宅地を獲てからは、その宅地から上る地代が長谷川家の大きな財源となった。(中略)その一部を町人に賃貸して、地代を収めることが目的であり、彼は時勢の変化をよく見きわめていたか、それに応じた財政策を立てた理財家であったといわねばならない。

しかし、これには、そっと、異論をはさみたい。
先生も察しておられるが、三方相対交換とはいえ、1200余坪の土地を入手するには、よほどの増し金をはらったであろう。数百両であったろう。
その金利と、地代のあがりとどっちが大きかったろう?

ちゅうすけは、別の動機として、これまで推理してきたように、火盗改メを予想しての拷問部屋とみた。

それから、先生は、意識なさってかどう、桑嶋家が、目黒白銀に住むのではなかったらしい事実を黙殺しておられる。

『江戸幕府旗本人名事典』(柏書房 1989.6.30)の元太郎の孫・富三郎持晴(もちはる)の項である。

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屋敷が、本所林町5丁目と目黒白銀となっている。
(当分本所御蔵奉行石渡彦太夫宅同居(実家)とあるのは、桑島家へ養子へ入ったから)。

桑嶋家は、同じ天明元年に、手に入れた目黒白銀500坪の半分の250坪を、菊川町の河田孫太郎親良(ちかひさ 大番 廩米200俵)が所有していた林町の250坪の地と取り替え、そこへ住み替えている。
目黒白銀のような登城にはきわめて不便な遠隔の地との交換を許したのは、もともと、そこに住む気がなかったからともおもえる。
事実、幕末期の、松平阿波守の目黒白銀の下屋敷の一辺に名を連ねている数軒の幕臣の家々に、桑嶋河田の名はない。寛政以後、いつのころにか、売却したのであろう。
同時期の林町にも、桑嶋家と河田家の名はない。

枝葉の瑣末にすぎないが、今後の探索課題の一つではある。

ちゅうすけ付記】河田孫太郎親良は、銕太郎親茂(ちかしげ)の養子。年代的には、敷地の相対交換は親茂の時と思われる。


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2008.03.01

南本所・三ッ目へ(8)

中根さまが、父上にくれぐれもお礼を述べておいてくれ、とのことでございました」
銕三郎(てつさぶろう 20歳 家督後の平蔵宣以=小説の鬼平)が言った中根とは、書物奉行筆頭の伝左衛門正親(まさちか 75歳 廩米300俵)のことである。
銕之助(てつのすけ)という名の長子を早くに亡くしたために、年齢からいえば孫のような銕三郎に、「銕」の字つながりで特別な感情を抱いている。

ちゅうすけ付言】中根伝左衛門正親については、2008年2月24日[南本所、三ッ目へ](2)

過日、伝左衛門のほうから、銕三郎を話し相手をによこしてくれ、と頼んだのである。
銕三郎には、年配者を安心させる何かがあるらしい。
年配者の対して、目から鼻へ抜けるというすばしこっさを示さない、生来の気質かもしれない。

伝左衛門宣雄に、南本所・三ッ目の1200余坪が、桑島元太郎持古(もちもと 49歳 無役 廩米200俵)の祖が拝領した地だが、いまはそこに住んではいないのではないか、と教えた。

「これを、父上にさしあげてくれ、渡されました」
銕三郎が懐から紙片を取り出した。

山口民部直郷(なおさと)どの

とあった。
ちゅうすけが柳営補任(ぶにん)』で確かめたところ、小普請(こぶしん)第20組の支配であった。

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(山口民部直郷とその前後の同組支配)

「桑島元太郎持古(もちもと 49歳 廩米200俵)どののお支配役と申されておりました」
「よく、お気をおまわしくださる中根どのよ」

そういうことだと、ちゅうすけも気をまわさざるをえない。
『寛政譜』から、山口民部直郷の個人譜をつくってみた。

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丹波国赤井郷の旧家・赤井の流れで、3000石の大身。この時、58歳。

「大身よのう。伝手(つで)を見つけるのが、なかなかに、むずかしい」

その夜、宣雄は遅くまで、思案をめぐらせていたが、銕三郎にいいつけるしか考えがうかばなかった。
麻布・桜田町の縁者・永倉家は同朋頭の家柄だから、宝暦(ほうりゃく)期(1751~63)の武鑑類を保存しているにちがいない---大名家はおろか、営内に勤士している旗本たちに精通していないと勤まらない職だからである。

参照永倉家については、2007年6月21日[田中城しのぶ草](3)
永倉家は、 『鬼平犯科帳』文庫巻1[本所・桜屋敷]p59 新装版p62)

翌日、宣雄は常になく、うっかりしていて、銕三郎へ言いつけるのを忘れて出仕した。昨夜の 寝不足がたたったのであろうか。50歳に近くになると、そうしたことも翌日の躰にこたえてくる。

城中の厠(かわや)手洗(ちょうず)場で、先手組頭・本多采女(うねめ)紀品(のりただ 50歳 2000石)と行きあわせた。
参照】2008年2月[本多采女紀品(のりただ)](6)

雑談のついでに、山口民部直郷への伝手のことを口に出してみると、
「ご同役の小普請支配・有馬采女則雄(のりお 60歳 3000石)どのなら、知己だが---」
「どういう知己ですかな」
「他愛もないことでな。〔采女会(うねめのえ)〕というのがあるのよ。同名の集まりでな。そこでの顔見知り」
「いざ、という時には、よろしく、頼みます」
「それより、長谷川どの。先夜の田沼侯がお手配くだされた、ご用人・三浦どのを頼られたほうが早いかも---」
「それも、そうですな」


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2008.02.29

南本所・三ッ目へ(7)

平賀さま。発明というのは、どのようにして成るものでありましょう? われわれ凡人には、とうてい及びもつきませぬが---」
銕三郎(てつさぶろう 20歳 家督後の平蔵宣以 のぶため)が、平賀源内(げんない 39歳)が示した火浣布(かかんぷ)から、視線を当人へ移して、おめずに訊いた。

田沼主殿頭意次(おきつぐ 46歳)の木挽町の中屋敷である。
銕三郎どのも共に参られよ---と意次に言われて、父・平蔵宣雄(のぶお 46歳 小十人組頭)は恐縮しながら、連れてきている。
ほかには、本多采女(うねめ)紀品(のりただ 50歳 先手・鉄砲の16番手組頭 2000石)と佐野与八郎政親(まさちか 33歳 使番 1100石)である。政親は、西丸の小姓組から、去年の年初に使番に栄進している。
意次は、この3人が、前(さき)に老中を罷免された本多伯耆守正珍(まさよし 53歳 駿州・田中藩の元藩主 4万石)のところへ出入りしているのを知っていて、彼らの才幹をかって、目をかけている。

「発明ですか。そう、最初にどういいうものをつくりたいのか、想いえがくのです」
「火浣布のばあいは、どういうことを想いえがかれましたか?」
「ここの殿の思惑を---ですな」
「おいおい、紙鳶堂(しえんどう 源内の別称)。純真な若者に、妙なことを吹きこむでない」
それまでにこにこして源内の自慢話を聞いていた田沼意次が、盃を置いて、口をはさんだ。
「いえ。ほんとうのことを話しているのです。殿はつねづね、長崎の貿易の、出るをふやして、入るを減じたいと、愚痴(ぐち)をこぼしておられましょう。入るものの中に、天竺(てんじく インド)からの鹿の皮があります。銕三郎どの。鹿の皮をなにに使っているかご存じかな?」
「いえ---」
「火消しの法被(はっぴ)です。日本中の藩が定火消(じょうひけし)に着せているから、その量は莫大なものです。薬効の高い朝鮮人参も、出費の大きい貿易品です。だから、ここの殿は、それをこの国での栽培をお進めになった。この源内も、殿の世話になってばかりではこころ苦しい。鹿の皮に代わるものを発明すれば、いささかなりと、殿の悩みが薄らごうかと---」

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(町火消の重衣装・部分 『風俗画報』明治31年12月25日号)

紙鳶堂(しえんどう。そのように恩着せがせましく言わずとも、酒はふるまうぞ」
意次が、新しい酒を召使に催促した。

源内さま。火気をふせぐ鹿の皮を想い描いた、その次は?」
「そうであった、発明でしたな。想い描いたら、それにかかわりのありそうな文書をさがします」
「火浣布のばあいは?」
「かの国の、『述異記』という文書に記述がありましての。まあ、その内容は置くとして、そういったものを参考にしながら、いろいろと試していくのだが、もっとも肝心なのは、試したことをすべてこころ覚えに書き残すことです」
「こころ覚えを、書き残す?」
「そう。書き残していくことで、試しごとの順序が立つものです。やみくもに試していっても、万に一つはあたることもありましょうが、九千九百九十九はむだ弾です。人間、九千度(たび)試したところで寿命がつきるやも知れない」
「そうですか。発明の成る人と成らぬ人との違いは、試したことのこころ覚えを書き残すかどうかですか。きっと、こころに留め置きます」

銕三郎どの。火浣布の試作はできました。なれど、困難は、これからです。これを実際につくるのには、手当て金も要(い)りますし、大量に安く織るための織機も考案しないとなりませぬ」
「そう、安くじゃぞ、紙鳶堂。鹿の皮の半値でできないと、長崎での出金(しゅっきん)も減らぬし、国中にも弘まらぬ」

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(定火消役など提灯合印 『風俗画報』明治32年2月25日号)

しばらくして、意次宣雄に言った。
長谷川どの。何か、思案のつかぬことでもおありかな。この主殿(とのも)でできることかな?」
「恐れいります」
「遠慮は無用じゃ。言ってごらんなされ」
「じつは、阿波守さまのご用人どのとのご縁を探しております」
松平阿波どの?」
「手前どもの鉄砲洲の拝領屋敷は、阿波守さまの南八丁堀のお中屋敷と接しております。それで、阿波守さまのいずれかのお下屋敷と相対で換えられないかとおもっておりまして、手ずるをと---」
「造作もないこと。在府の用人どのは、たしか、五島どのとか申された。よろしい、うちの用人・三浦庄司(しょうじ)に口をきかせましょう」
「かじけないことでございます」

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2008.02.28

南本所・三ッ目へ(6)

「南本所・三ッ目の下領地のお改めの件、私ごとにつき、お手やわらかにお願いいたします。本日は、咄嗟のお願いにもかかわらず、お聞きとどけいただき、かたじけのうございました」
平蔵宣雄(のぶお 46歳 小十人の5番手組頭 400石)は、神田橋門外で、目付・長崎半左衛門元亨(もととを 50歳 1800石)に挨拶をした。
長崎半左衛門は、自邸のある駿河台の方へ去っていった。
宣雄は、半左衛門の鶴のように細い長身の躰が見えなくなるまでその場に立ちつくして、見送った。
半左衛門は、自分の考えに沈みこんでいたのであろう、振り返らなかった。

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(神田橋門外から堀ぞいに竜閑橋へ 近江屋板)

(納戸町を訪ねてみるかな)
一瞬、その考えが浮かんだが、即座に、
(おれとしたことが、よほど、どうかしている---早まるでない)
打ち消した。
南本所・三ッ目の1200余坪の敷地が手に入ったとして、家が建つまでの仮住まいを、屋敷が広大な一門の叔父・長谷川讃岐守正誠(まさざね 69歳)に、前もって、頼み込こんでおこうとおもったのである。
そして、正誠が体調をくずして病床にあることを、つい、失念もしていた。

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(常盤橋門外から日本橋へ 近江屋板)

堀の北ぞいを、鎌倉河岸、竜閑橋(りゅうかんばし)、一石橋(いっこくばし)とすぎて、日本橋の手前で船宿をみつけたので、若侍・桑島友之助(とものすけ 30歳)に舟の手配をさせた。
めったにないことなので、供の挟み箱持ち繁造(しげぞう 38歳)が驚いた顔をした。
「お疲れになりましたか?」
「うむ。気疲れだな」

舟が日本橋川へ出ると、
桑島のおじじどのは、下野(しもつけ)・河内郡(かわちこおり)の桑島村の出とかいっていたな」
「はい。下桑島村と聞いております」
「村では、伯楽か馬医か、なにかだったかな?」
「いえ。畑百姓のニ男と聞いておりますが、それがなにか?」
「親戚に、牧場かなにかをやっていた家のことは、耳にしておらぬか?」
「一向に、存じませぬが---」
「そうか。それなら、それでいい」
(ふつうの島の字と、山のつく嶋との違いは、大きいのかもしれないな)

夕餉(ゆうげ)の時、銕三郎が報告をした。
「三ッ目から大手門まで、きょうのような曇りの日ですと、半刻(はんとき 1時間)ともう少々かかります」
「大儀であったな」
「父上。〔丸子(まりこ)彦兵衛は、信用してよろしいのでしょうか?」
「どういうことだ?」
「いえ。なんとなく---」
「なんとなく、で人を疑ってはならぬ。仮に疑わしいことがあっても、たしかな証(しる)しがあるまで、顔にも口にも出してはならぬ」
「はい。ただ、地券商売の場合、地券の持ち主ではない者と談合することがございましょうか?」
「そのような場を目にしたのか?」
「いえ」
「よいか。三ッ目の敷地のことは、以後、どこであっても、口にしてはならぬ。支障なく手に入るように、父が手をまわしている」


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2008.02.27

南本所・三ッ目へ(5)

父・平蔵宣雄(のぶお 46歳 小十人組頭)が、目付・長崎半左衛門元亨(もととを 50歳 1800石)に連絡(わたり)をつけた日、嫡男・銕三郎(てつさぶろう 19歳 家督後の平蔵宣以=小説の鬼平)は、黄鶴塾をおおっぴらに欠席して、南本所・三ッ目通りの1200余坪の土地を下見していた。

鉄砲洲・本湊町(現・中央区湊2-12)屋敷から掘割ぞいに北行、京橋川の河口に架かる稲荷橋をわたるとすぐに亀島川の高橋。
それから2万9000余坪もある松平越前守(福井藩 25万石)上屋敷にそって永代橋。
永代橋を渡って大川ぞいに佐賀町、新大橋、船蔵の南橋---〔窮奇(かまいたち)〕の弥兵衛によく似た辻番人のいた番所までの行程は、先夜、本多采女(うねめ)紀品(のりただ)組の火盗改メの巡察で歩いた道。

【ちゅうすけ推薦】本多組に従って銕三郎が夜廻りにでたのは、2008年2月[銕三郎、初手柄] (1) (2) (3) (4)
永代橋から小名木川に架かる万年橋までの道順。ただし、下(しも)ノ橋から右折しないで、大川ぞいにまつすぐ万年橋へ。

ただ、暗い夜道と違い、昼間の深川・本所は庶民の生活の匂い---米飯や味噌汁の煮炊き、洗い張りの糊やおしめの匂いがたちこめている。
(うまく三ッ目に移転できると、父上は毎日、この匂いの中を登城・下城なさるわけだ。いや、家督すれば、おれだって、そういうことだ)。
銕三郎は苦笑した。
はからずも、10年後には、そうなった。

辻番所脇から、すとんと東へ。六間堀に架かる北ノ橋、さらに五間堀までは、深川らしい町屋つづきだが、伊予橋をわたると、その先は武家屋敷の密集と寺社ばかり。
(六間堀に架かる北ノ橋から、一つ小名木川寄りが猿子橋。土地の古老は「エテ公橋と呼んだらしい。 『鬼平犯科帳』ファンなら、文庫巻7[寒月六間堀]で、息子の敵討ちを助ける鬼平が、この橋のたもとで山下藤四郎を待ち伏せて仕留めさせる。
六間堀は、いま埋められてない。埋め立ては進駐軍の指示で、空襲の残骸をこの堀へ放りこんで行われた)

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(銕三郎の南本所・三ッ目の通りへの順路)

件(くだん)の辻番所からは、かれこれ半里(2km)ほども歩くと三ッ目通りである。
1200坪の敷地は、その角にあった。
その敷地だけに、仮小屋の店屋がならんで、たつきの品々を商っている。

ふつう、武家の妻女は買い物に店屋へは行かない。ほとんどはご用聞きにいいつけ、品物は出前してもらう。
だから、1200余坪にならんでいる店々も、店先に置いている商品の数は少ない。ご用聞きの詰め所のような形である。
もっとも、幕臣が敷地の一部を貸すときは、武家(ろうにん)か医者のほかは禁じられている。商人に貸すなどはもってのほかである。

宣雄が目付・長崎半左衛門元亨に相談し、半左衛門が、お目見え以下のご家人を監視する配下の小人(こびと)目付を桑島家へ行かせようと言ったのも、そこに仕掛けがある。
小人目付が、1200余坪の貸し先を糺(ただ)すだけで、桑島元太郎はふるえあがってしまう。
軽くて蟄居・閉門、重ければ遠島である。

(これは、解決が早そうだ)
敷地のぐるりをまわりながら、銕三郎でさえ、おもった。
もちろん、銕三郎は、父・宣雄が目付・長崎半左衛門に手をまわしていることなど、まったく知らない。

(さて、ここからのお城までの時間だが---)
そうおもいながら、敷地の西北角を三ッ目通りで出ようとした途端、左手、西南角に地券(ちけん)屋〔丸子(まりこ)彦兵衛が誰かと話しているのが目に入った。
瞬間、銕三郎は身を引いて、彦兵衛に見つかるのを避けていた。
なぜそうしたかは、銕三郎自身にも説明ができない。
反射的にそうしたほうがいいとおもったのである。

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(都営地下鉄・菊川駅の新しい銘板)


長谷川平蔵・遠山金四郎住居跡
  住所 墨田区菊川三丁目十六番地二号

 長谷川平蔵宣以(のぶため)は、延享三年(一七四六)赤坂に生まれました。
平蔵十九歳の明和元年(一七六四)、父平蔵宣雄の屋敷替えによって築地からこの本所三の橋通り菊川の千二百三十八坪の邸に移りました。ここは屋敷地の北西側にあたります。長谷川家は、家禄四百石で旗本でしたが、天明六年(一七八六)、かつて父もその職にあった役高(やくたか)一五〇〇石の御先手弓頭(おさきてゆみがしら)に昇進し、火附盗賊改役も兼務しました。火附盗賊改役のことは池波正太郎の「鬼平犯科帳」等でも知られ、通例二、三年のところを没するまでの八年間もその職にありました。
 また、特記されるべきことは、時の老中松平定信に提案し実現した石川島の「人足寄場」です。当時の応報の惨刑を、近代的な博愛・人道主義による職業訓練をもって社会復帰を目的とする日本刑法史上独自の制度を創始したといえることです。
 寛政七年(一七九五)、病を得てこの地に没し、孫の代で屋敷替えとなり、替って入居したのは、遠山左衛門尉景元です。通称は金四郎、時代劇でおなじみの江戸町奉行です。 遠山家も家禄六千五百三十石の旗本で、勘定奉行などを歴任し、天保十一年(一八四〇)北町奉行に就任しました。この屋敷は下屋敷として使用されました。
 屋敷地の南東側にあたる所(菊川三丁目十六番十三号)にも住居跡碑が建っています。
 平成十九年三月
                     墨田区教育委員会



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2008.02.26

南本所・三ッ目へ(4)

「下城をごいっしょ、願えましょうか?」
長谷川平蔵宣雄(のぶお 46歳 400石)は、顔なじみの表同朋頭・玄珍(げんちん 40歳 廩米200俵)にことづけた。
相手は、小十人の4番手組頭(くみがしら)から、いまは目付に任じられている長崎半左衛門元亨(もととを 50歳 1800石)である。4年前からいまの職へ移っているので、同僚だった時期は1年たらずであったが、対人関係には公平な仁であったので、宣雄としては、気がねなく付き合った。

【参考】小十人組頭当時の同職の名簿 2007年12月14日[宣雄、小十人頭の同僚](5)
2007年12月10日[宣雄、小十人頭の同僚
2007年5月30日[本多紀品と曲渕景漸]2007年5月31日[本多紀品と曲渕景漸](2)

小十人組頭から目付という栄進コースへ転じた、役職上の先輩だったのにはもう一人---曲渕勝次郎景漸(かげつぐ 45歳 1650石)もいるが、才気走り、上には慇懃(いんぎん)・丁重、下には意識的に無愛想なところが、宣雄の肌に合いかねた。
これから長崎半左衛門に話すようなことを曲渕へ話したら、それこそ、どんなふうに曲げてうけとられるか、知れたものではないとおもう。

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(小十人組頭から目付へ転じた2人 黄=曲渕景漸 緑=長崎元亨 『柳営補任』より)

玄珍が持ち帰った返事は、七ッ(午後4時)に、徒歩番所の前で待っていると。

中根伝左衛門正親(まさちか 75歳 書物奉行筆頭 廩米300俵)から、始祖が南本所・三ッ目に1200余坪を拝領している小普請組の桑嶋元太郎持古(もちもと 49歳 廩米200俵)のことを耳打ちされた翌日である。
五月雨(さみだれ)には、もうすこし間があったが、蒸す日和がつづいていた。

長崎半左衛門の屋敷は、駿河台---現在の千代田区神田駿河台1丁目、日大歯科病院のあたりにあった。

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(駿河台の長崎半左衛門元亨屋敷。子孫名。隣家は町奉行・根岸肥前守鎮衛の子孫。池波さん愛用・近江屋板)

大手門を出て大手濠(おおてぼり)ぞいに小川町へ向かいながら宣雄は、鶴のように細く長身の長崎半左衛門に、嫡子・市之丞元隆(もとたか 16歳)の病状を訊き、見舞いを述べた。
「気候の変わり目がよくないようでして---」
半座右門元亨の声は暗かった。
市之丞は、去年の春、将軍・家治にお目見(みえ)をすまして家督の資格をえたにもかかわらず、この春から体調がすぐれず、寝たり起きたりとの風評を耳にしていたのである。
父の齢に比して、市之丞の年齢が若いのは、半左衛門元亨の家つきの先妻が女子ばかり産んで病死、後妻がもうけた嫡子だからである。
不幸なことに、3歳下のニ男・寅之助元周(もとちか)も長く臥せっている。

神田橋門を出て、神田川を渡ったところで、長崎半左衛門が、供の者たちから離れて言った。
長谷川どの。お話はここで承りましょう。拙宅には病人が2人もおり、お招きできる仕儀ではありませぬ」
宣雄は、桑島家が他人に貸している南本所の厩(うまや)の跡と、湊町のいまの拝領屋敷との交換を考えていることを、手短に、正直に打ち明けた。

「分かりました。桑島元太郎---でしたか、その者のところへ、小人(こびと)目付でもやって、事情を調べさせましょう。小人目付を行かせるのは、4,5日のうちでよろしいかな? それとも、もうすこし後のほうが、そこもとの手順がととのいますかな?」
「4,5日のうちで、よろしいかと---」

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(目付・長崎半左衛門の個人譜。『寛政重修諸家譜』より)


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2008.02.25

南本所・三ッ目へ(3)

「小普請組に、桑嶋元太郎持古(もちもと 49歳 廩米200俵)というご仁がおられます」
書物奉行筆頭・中根伝左衛門正雅(まさちか 75歳 廩米300俵)のささやきによると、先祖が馬医として召された桑島姓の家は3家あるとのこと。
しかし、子孫で馬医として奉公しているのは1家にすぎず、それが、平蔵宣雄(のぶお)が知っている桑島新五右衛門忠真(ただざね 43歳 廩米100俵)である。

あとの2家は、番方(ばんかた 武官系)へ転じてしまっており、しかも1家は、不始末でもあったか、甲府勤番にまわされている。

もう1家が、桑嶋元太郎持古である。なぜか、勤仕はしていない。本所林町5丁目横町に住んでいて、先祖が厩用に拝領していた南本所・三ッ目通りの1200坪余の敷地の地代でけっこうな暮らしぶりだという。

「いや。手前は、『寛永譜』をのぞいただけですが、始祖の左近宗勝(むねかつ)という方から三代目までは、きちんとお馬医だったようです」

ちゅうすけ注】 『寛政譜』の前序は、出源をこう記している。
この家、旧記を失して先祖の出るところ詳(つまびらか)ならずという。
今、庶流鎰太郎宗英が家伝を按ずるに、その先、田原又太郎忠綱(官本系図・足利又太郎忠綱につくる)が後裔にして、陸奥国宮崎の寨(とりで)に住するがゆえに宮崎を称し、左近宗重がとき外家の称を冒して桑島にあらため、馬医をもって業とす。宗勝はその男なり。

陸奥国(むつのくに)津軽郡(つがるこおり)桑島村(257石余)は、現在は青森県中津軽郡西目屋村杉ヶ沢大字宮崎である。

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(陸奥国桑島出自の桑島家が幕臣となってからの『寛政譜』。上段右端の宗勝から三代が馬医)

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(始祖・宗勝と五代目・持古の個人譜)

「それだけの仔細をお漏らしいただけば、十分でございます。かたじけのうございます」
「いや、頼まれ甲斐があったというものです。ところで、銕三郎どのに、たまには、老人の話相手にお越しくだされと、お伝えのほど、お願いいたします」
「承知いたしました」

その夕べ、宣雄が地券(ちけん)屋の〔丸子(まりこ)彦兵衛を呼んだことはいうまでもない。
用人・松浦銕三郎(てつさぶろう 19歳 家督後の平蔵宣以=小説の鬼平)を同席させたうえで、中根書物奉行から聞いた桑島家の三ッ目の土地が手に入らないか、探索するように命じた。

〔丸子屋〕彦兵衛が退去してから、宣雄銕三郎に言った。
中根どのの非番を日を調べて、お訪ねするように。そのときには、お礼を届けてもらいたいから、事前に日時を教えること。それから、なるべく早く、南本所三ッ目菊川町の桑島家持ち分の1200余坪を見てくるように。できれば、その敷地からお城までに要する時間を実測してもらいたい。晴、雨、雪の日と、勘案してな」


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2008.02.24

南本所・三ッ目へ(2)

相良侯が羽目の間へお越しを---との仰せでございます」
茶坊主が躑躅(つつじ)の間へ、伝言を持ってきた。
相良侯とは、御側(おそば)・田沼主殿頭(とのものかみ)意次(おきつぐ 46歳 相良藩主 1万5000石)のことである。
城中での呼び出しとはただごとでない。
長谷川平蔵宣雄(のぶお 46歳)は緊張した。
この年の6月、改元があって、宝暦(ほうりゃく)14年(1764)が、明和元年となった。

宣雄が羽目の間へ行くと、襖が開かれ、阿部伊予守正右(まさすけ 40歳 備後国福山藩主 10万石)が出てくるところであった。
京都所司代から西丸老中に任じられていた。

ちゅうすけ補足】阿部伊予守正右については、2008年2月16日[本多采女紀品(ただのり)](5)
この日の阿部正右へのリンクもお読みのほどを。

目礼して、控えていると、本多采女(うねめ)紀品(のりただ 50歳 先手・弓の16番手組頭 2000石)が茶坊主に先導されてやってきた。
茶坊主が揃ったことを室内へ通じると、呼び込まれた。

意次は笑顔で迎えて、
「なに。わざわざご足労いただくほどのことともなかったのだが、久しぶりに、お顔を見たくなりましてな」
言葉つきは相変わらず、柔らかくて、丁寧だ。
紙鳶堂(しえんどう 平賀源内 39歳)が、火浣布(かかんぶ)を発明したから披露したいといってきましてな。明後日の夕刻、木挽町(こびきちょう)の陋屋(ろうおく)のほうで、いっしょに、あやつめのうだを聞いてやるのはいかがかと---」
「参上させていただきます」

羽目の間を出たとき、書物奉行筆頭の中根伝左衛門正雅(まさちか 75歳 廩米300俵)が通りかかった。
「やあ、長谷川どの。ちょうど、よかった」
そういったので、本多紀品は、手で合図をして、詰めている躑躅の間へ戻っていった。

【ちゅうすけ付言】中根伝左衛門正親と長谷川家については、2007年10月16日[養女のすすめ](3) (4)

廊下の隅へ寄ると、中根正親は、
長谷川どのは、お馬医(うまい)のお家柄の桑嶋どのをご存じですか?」
「と申されると、桑嶋新五右衛門忠真(ただざね 43歳 廩米100俵)どののことでしょうか?」
「これは、失礼つかまつった」

中根書物奉行は改めて、清水門外(しみずもんそと)の野馬仕込み地をどう見るか、と訊いてきた。
「どう見るかとおっしゃられても---あっ」
「お察しになりましたか?」
「ようやくに---」

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(清水門外の野馬仕込み地と厩 板行・嘉永2年)

つまり、お馬方にかかわりのある旗本は、家禄が小さくても、広い敷地を下賜されている者がいるのではないかというのである。
もちろん、清水門外の野馬仕込み地や、その脇の厩(うまや)が手に入るわけではない。
考えどころのヒントである。

ちなみに、清水門外とくれば、『鬼平犯科帳』のファンは、すぐに火盗改メの役宅を連想するが、あれは小説での話で、池波さんも、火盗改メの役宅はお頭(かしら)の拝領屋敷ということは百も承知の上で、便宜上、清水門外の野馬仕込み地と厩のあいだの、幕府ご用地に仮設したのである。

参考に掲出したのは、池波さんがつねに開いては確かめていた近江屋板の清水門外である。「竹田伊豆守預かり」となっている。『柳営補任』によると、切絵図が板行された嘉永2年(1849)前後なら、竹田伊豆守忠吉(ただよし のち斯緩 本丸普請係 500石)だが、『寛政譜』記載の圏外なので確認できない。
ただ、野馬仕込み方は、馬術で仕えていた村松家の職掌であった。

「左様なのです。当初はお馬方、またはお馬医として召しかかえられたお家で、いまはその仕事をしていない旗本の中に、広い拝領屋敷を手放すことを考えている仁もいようということです」

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2008.02.23

南本所・三ッ目へ

「登城している留守に、地券(ちけん)屋の〔丸子(まりこ)彦兵衛が来たら、用人・松浦とともに、きちんと聞きおくように」
銕三郎(てつさぶろう 19歳 家督ののち平蔵宣以=小説の鬼平)が、父・宣雄(のぶお 46歳 小十人組頭)からこう申しつけられて5ヶ月経つが、宣雄が首を縦にふる話は、まだもたらされてきていない。
来たのは、帯に短し襷(たすき)に長し---の物件ばかりであった。

宣雄の条件は、敷地が1000坪以上で、江戸城まで徒歩半刻(はんとき 1時間)前後ですむところというのだから、〔丸子屋彦兵衛の、
「そんな美味しい話は、ご府内で10年に一つあれば、まさに、めっけものでございますよ。この商(あきな)いをはじめて、手前で七代目になりますが、これまで一度も手がけたことがございませんからねえ」
の言い分ではないが、たしかにむずかしい注文であった。
1000坪の敷地を持っている幕臣は、まず、家禄1500石以上3000石の家柄だから、お目見(めみえ)以上の旗本5200余家の中でも300家もない。

一方、彦兵衛が七代目と自慢しているのは、大権現・家康公の江戸入りを追っかけるように駿府から移って来て、地券屋として、幕臣の相対(あいたい)屋敷替えを主に手がけて200年近くを経ているためである。
幕臣の拝領屋敷で商売をつづけるには、駿府時代からの利権と、上層部への繋がりがものをいっている。
商いは、地価などない拝領地に町方だったらと仮の値段をつけ、交換する双方から5分(5パーセント)ずつの手数料をもらうこと成り立っている。

宣雄と〔丸子屋〕の先代との付き合いは14年前に、開府以来の赤坂築地の拝領屋敷(現・港区赤坂6-11)から、大川べりの築地のいまの屋敷へ移ったときから始まっている。

赤坂・氷川宮脇の陰気くさい屋敷を嫌ったのは、銕三郎を産んだ(たえ)で、銕三郎が5歳のとき、宣雄の正室・波津(はつ=小説の名)が病死した寛延3年(1750)に、移転を当主・宣雄に懇請。

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(赤○=赤坂築地時代のハセ川イ平邸 赤坂氷川宮の下)

田園育ちのの希望で、健康な潮風が吹く湊町・築地(現・中央区湊2^12)が選ばれた。

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(赤○=築地・湊町の長谷川邸 京橋から鉄砲洲にかけて)

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(上図の部分拡大 赤○=長谷川邸が松平阿波守の中屋敷にくいこんでいたので、蜂須賀家とすれば、その敷地を合わせる機会を狙っていた)。

宣雄が1000坪以上の敷地を断固として主張して、それ以下の物件に見向きもしないのは、小十人組頭時代の同僚で、いまは先手・弓の16番手の組頭として火盗改メの助役(すけやく)に任じられていた、本多采女(うねめ)紀品(のりただ 50歳 2000石)の屋敷を施設を見たからだった。

白洲、仮牢、捕り物道具小屋などを案内してくれた本多組の与力が、
「一番の難題は、拷問小屋です。家族の者には悲鳴は聞かせたくはないでしょうが、お上からは見せしめのために、なるべく屋敷の外までとどくように、と申し渡されているのです」
と言ったのが、頭から消えないのである。

武家育ちではない妻同様のに、悲鳴は聞かせられないと、心に決めていたのである。
そのためには、これまで倹約に倹約を重ねて蓄えてきた、すべての金銭をあててもいいとまで考えている。

【ちゅうすけ・おすすめ】正室・波津の推理 2007年4月22日[寛政重修諸家譜](18)
実母・妙の推理 2007年4月18日[寛政重修諸家譜](14)

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2007.12.20

平蔵の五分(ごぶ)目紙(3)

「そういえば、源内(げんない 平賀)は、こんなことも申していたな」
側衆・田沼主殿頭意次(おきつぐ 43歳 相良藩主 1万石)は、場所が自分の下屋敷であること、集まっているのが気のゆるせる者たちであるせいだろう、いつもの酒量よりすごしたかして、口がなめらかだ。

「機略(きりゃく 発明)は、無から生まれるものではない---すでにあるものの新しい組みあわせによって、別の新しい器用(きよう 働き)が生まれるのだと」
「殿のいまのお言葉を、長谷川どのの〔五番手の碁盤目紙〕にあてはめますと、紙裁(だ)ち用の目安(めやす)紙と、清(しん)国渡りの書箋(しょせん)を新しく組み合わせた、ということでしょうか」
横田和泉守準松(のりまつ 29歳 西丸小姓 5500石)が、わかりきったなぞりをしてみせる。北京の文房四宝の有名店・栄宝斎の朱色罫入りの書箋を築地の屋敷に備えていることを匂わせたかったのだ。

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長谷川どのの〔平蔵の五分(ごぶ)目紙は、いまご覧になったものとは別に、もう一つございます」
ここぞとばかりに、本多采女紀品(のりただ 48歳 小十人組の頭 2000石)が同僚の平蔵宣雄の売り込みをはかる。

「ほう---どのような?」
勘定奉行(3000石高)の石谷(いしがや)淡路守清昌(きよまさ 48歳 500石)が鷹揚に受けた。

宣雄は、仕方なく、懐から取り出した手控え帳から小ぶりの碁盤目紙を引き抜いて、石谷淡路守に渡した。
その手控え帳は、30枚ほどの和紙を二つ折りにし、合わさった側を表紙ともども和書ふうに綴じたもので、大きさは紙入れほど、厚みは1分(いちぶ 3mm)なかった。
〔碁盤目紙〕は、二つ折りにした紙の間に入っていた。

長谷川どの。そちらの手控え帳は?」
淡路守が、渡された〔碁盤目紙〕を手に、宣雄の手控え帳に視線を向けた。
「はい。手前のはとりとめもないこころ覚えですが、組衆たちは、それぞれが己れの好みの主題を書きとめております」
「己れの好みといいますと---?」
「ある者は、その日の天候と風向きに寒暑。ある者は、毎日のお菜。またある者は、お城の下馬門脇の樹木のときどきの姿などなど---」
「なんのためでござるかな」
そう訊いたのは意次だった。
「なんのためと申しますより、組衆の気くばりが伸びればと存じまして」
「代わって申し上げます」
本多紀品が口をはさんだ。

「10組ある小十人組は、交替で営中の桧の間へ詰めておりますが、お上(将軍)はもとより、お供をすることもある重職方のご霊廟へのご代参の外出も、そうたびたびはありませぬ。そんなわけで、組の者たちはともすればお勤めがなおざりになりかねませぬ。 
それをおもんぱかった長谷川どのの、気分引き締めの観察養いで、効果は十分以上にあがっております。ゆえに手前の6番手でも、望む者には配ろうかと考えております」

意次が口元をほころばせながら言った。
本多どの。それならば、お急ぎあれ。お勤め変わりがあってからでは、手後れになりましょうぞ」
本多紀品は、はっと気がつき、頭を下げた。

本多采女紀品の、先手・鉄砲(つつ)の16番手組頭(くみがしら)への移動は、それから1ヶ月も経ない、その年の11月7日であった。


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2007.12.19

平蔵の五分(ごぶ)目紙(2)

「〔五番手の碁盤目紙〕を、いつ、どのように、思いつかれましたかな」
勘定奉行(3000石高)の石谷淡路守清昌(きよまさ 48歳 500石)がうながした。

佐渡奉行(1000石高)だった彼の、勘定奉行への大抜擢は、2年前の宝暦9年(1759)10月4日で、平蔵宣雄(のぶお 小十人頭 400石)や本多采女紀品(のりただ 小十人頭 2000石)がはじめて田沼意次(おきつぐ)の下屋敷に招かれた年のことであった。

いまでは前任者のうち、一色周防守政沆(まさひろ 72歳 600石 勝手(財務)をのぞき、前任者がすべて辞めたり転任して、石谷清昌は政策を立案しやすくなっている。
strong>意次の手まわしである。
高齢の一色周防守は、柔らかな性格で、ほとんど同僚や下役に異を唱えない。

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(4人の奉行の2人は公事(裁判)方がきまり)

宣雄が答えたことをかいつまんで記すと、30歳になるまで、当主で5歳年長の従兄(いとこ)・権十楼宣尹(のぶただ)の厄介(いそうろう)だった彼は、身の上だけは比較的自由であった。知行地の新田開拓の監督に行かないときには、知行地の名主・戸村五左衛門から次の村の名主へと申し送るように紹介状を書いてもらい、上総(かずさ)、下総(しもうさ)、安房(あわ)などの村々を旅していることが少なくなかった。
訪れた村むらの中に、田づくりよりも紙づくりに精をそそいでいる小村があった。そこの村長(むらおさ)の家で、漉きあげた100枚近い紙を、規格の寸法に裁つのに、線が刷ってある基(もと)紙をあて、それに乗せた分厚い定規板紙裁ち包丁を沿わせて切っていくのを見て感心し、心にとめた。
小十人組の五番手の頭(かしら)を仰せつかったとき、組下のものが記録している『御勤日録』の文字の大きさが、人によってさまざまなので、もっと読みやすくできないものかと考えているうちに、かの山村での裁断の当て紙のことを思いだし、ついでに、文字の大きさもそろえようと考えてつくったら、用紙が7割方減ることになったと。

つまり、いまの原稿用紙に似たものである。

「すると、用紙の節約は、結果でございますか?」
訊いたのは、川井次郎兵衛久敬(ひさたか 37歳 小普請組頭)。
「さようです。紙を使う量を減らすことは、初手には考えつきませぬでした。ただただ、揃った字の日録にするには---との思いだけがありました」
「いや。長谷川どがいわれたこと、じつにうがったお話しです。組衆に、紙を節約するための〔碁盤目紙〕だといえば、不服をとなえる偏屈者も出てまいりましょう。それを、字をそろえて読みやすく---といえば、誰も傷つかず、みんな気をそろえてとりくみましょう。その結果は、いわずしての用紙の節約---税もそのようにいきたいもの」
すぐに気がまわるところが、いかにも石谷淡路守らしい。

それに、田沼意次がつけたした。
「かの奇才・平賀国倫(くにとも 源内のこと)も申していたが、機略(きりゃく 発明)というものには、そのことをつきつめていってことがなったものと、別のことを狙ってつくったはずなのに、思いもよらない新しい働きが生まれたものとの2通りがあるとな」


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2007.12.18

平蔵の五分(ごぶ)目紙

長谷川どの。いま営中で評判の、〔平蔵の目紙〕というものを、ご披露ねがえませぬかな?」
席へ落ち着くなり、勘定奉行(3000石高)の石谷(いしがや)淡路守清昌(きよまさ 48歳 500石)がきりだした。
平蔵宣雄(のぶお 44歳 小十人組の頭)が石谷清昌と私ごとでこう間近で向きあうのは、3年前の宝暦9年(1959)の秋に、田沼意次の下屋敷で会って以来であった。
【参考】2007年7月25~28日[田沼邸] (1) (2) (3) (4)     2007年7月29~ [石谷備後守清昌] (1) (2) (3)    

「これは、恐れ入ります。そのようなことが、淡路(あわじ)さまのお耳にまで達していましょうとは---」
「いや、拙も耳にしているぞ」
笑顔で言ったのは、この屋敷の主・側衆の田沼主殿頭(とのものかみ)意次(おきつぐ 43歳 相良藩主 1万石)。

じつは、この年---宝暦11年6月にの薨じた家重の喪事と、将軍職の継承の諸事もほとんど片付いたので、久しぶりに浜町(蛎殻町)の下屋敷で、くつろいだ食事をしたいからと、宣雄本多采女紀品(のりただ 48歳 小十人組の頭 2000石)、佐野与八郎政親(まさちか 31歳 西丸小姓組)が招かれた。

田沼の息がかりは、石谷清昌のほかに、横田和泉守準松(のりまつ 29歳 西丸小姓 5500石)、川井次郎兵衛久敬(ひさたか 38歳 小普請組頭 530石)がはべっている。
横田家の祖は武田方からの幕臣入り、川井家の祖は遠江の出で今川方の徳川家への奉仕---よほど意次に目をかけられているのだろう。

酒と肴が出る前に、平蔵宣雄は、
「せっかくのお声がかりなので、不本意ながら---」
そう謙遜の辞をのべ、懐から厚めの美濃紙をとりだして、淡路守清昌の前に差し出した。
清昌がそれを、意次へ渡す。
意次から和泉守準松へ、そして、川井久敬へ。

それは、美濃紙に碁盤の目のような桝目を刷らせたものであった。

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久敬が訊く。
長谷川どのは、この〔平蔵の目紙〕---失礼、世間の呼び名に従いましただけです、これを組衆全員にお配りとか---」
「はい。幸いにも、手前の5番手組には、目が弱った者がおりませんので---」
「拝見しましたところ、この桝目は1寸(いっすん 約3センチ)の半分、5分(ごぶ 1.5センチ)ごとの目のようですな---」
「ゆえに、〔五番手の碁盤目紙〕とか、〔平蔵の五分目紙〕と呼ばれておるようでございます」
宣雄が赤面した。

「〔五番手の碁盤目紙〕とは、いいえておるのお。はっははは」
意次が細い目をさらに糸のように細めて笑った。
宣雄は恐縮の体(てい)で、首を縮める。
そこへ、井上寛司が指揮して、酒と肴が運ばれてきた。

「おお、わが屋敷の名用人どのよ。ちょうどよりおりじゃ。長谷川どのの公費の節約ぶりを勉強させていただくがよい。とくと拝見なさい」
意次は、〔平蔵の五分目紙〕を筆頭用人の井上寛司へ渡す。
突然のことで、井上用人は、首をかしげている。

意次は、みなに酒をすすめながら、
「それはな、井上。半紙の下において、その桝目の中に納まるように字をしたためるのじゃ。そうすると、字が小さくなる。その分だけ、用紙が少なくてすむし、文も曲がらない。なんとも、名案ではないか」
「なるほど---」
「どうじゃの、井上。わが田沼家は、家が新しいゆえ、老いて目がかすんでいる者もいない。長谷川どのに伺って、〔五分目紙〕の板木(はんぎ)を彫った彫り師と刷り師のところへ参り、わが家分を刷ってもらってこい」
「いや、井上どの。勘定奉行所であつえたものをおすそ分けいたします」
石谷清昌が横から、井上寛司を助けた。
と、すかさず、
淡路どの。そのように、公けでつくったものを横流しして、勘定奉行がつとまりましょうや?」
意次が軽く応じた。

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2007.10.23

養女のすすめ(10)

三木忠大夫忠任(ただとう)の娘・多可(たか 14歳)が、 長谷川平蔵宣雄(のぶお 41歳 小十人頭)の養女になったのは、宝暦9年(1759)と仮定して、推理・考察をすすめている。

2007年10月22日[養女のすすめ](9)では、関係のありそうな人脈の年表を掲示した。
しかし、徒労気味に終わった。

それで、最初に戻って、平蔵宣と三木忠任との出会いはどこだったか、手引きしたのは誰だったかを推理する資料として、その年表の前半部に、とりあえず宣雄大橋惣兵衛親英(ちかひで のち、宣以の義父)の職歴を付け加えてみた。幕臣の場合、職場でのむすびつきがかなり強いとおもうからである。

享保17(1732) 永井三郎右衛門(15)婚
          三木忠位が娘(17)

享保18(1733) 永井亀次郎

元文2(1737) 水原善次郎(16)お目見
          大橋与惣兵衛(24)西丸納戸

元文3(1738) 永井三郎右衛門(21)西丸小姓組

寛保3(1743) 水原善次郎(22)家督

延享3(1746) 水原善次郎(24)小普請組頭

延享4(1747) 永井三郎右衛門(30)卒
          亀次郎安清(15)家督

寛延元(1748) 長谷川宣雄(30)家督
          西丸書院番士
    
宝暦8(1758) 長谷川宣雄(40) 小十人頭

宝暦9(1759) 多可(14?)養女      銕三郎(14)
          三木忠大夫が娘

西丸が匂う---ここは本城の半分以下と規模も小さく、勤務している幕臣の数も少ない。職務をこえて、たいてい顔見知りであろうし、儀式ばることもさほどではあるまいし、頭(かしら)になっていない若いもの同士なら、気軽に声もかけあうだろう。

で、でてきたのは、大橋親英と永井保明(やすあきら)の線である。しかし、永井保明は、平蔵宣雄が西丸へあがる前に卒している。

もうすこし、視点を変えてみることも必要なようだ。
 
参照】
永井近江守保明
水原三郎右衛門安静

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2007.10.22

養女のすすめ(9)

『寛政譜』によってこれまでに分かった、三木久大夫忠位(ただたか)、忠大夫忠任(ただとう)と、それぞれ養女に出した娘たちを年表にしてみた。

不自然なところが、いくつもある。

享保17(1732) 永井三郎右衛門(15)婚
          三木忠位が娘(17)

享保18(1733) 永井亀次郎

元文2(1737) 水原善次郎(16)お目見

寛保3(1743) 水原善次郎(22)家督

延享4(1747) 永井三郎右衛門(30)卒
          亀次郎安清(15)家督

宝暦9(1759) 多可(14?)養女      銕三郎(14)
          三木忠大夫が娘

宝暦13(1763) 多可(17?)、水原近江守(42)の後妻
          水原源之助
          母は多可         銕三郎(17)        

明和6(1767) 水原源之助(4?)お目見 宣以(22)

天明8(1788) 水原源之助(25?)遠島  宣以(43)

寛政4(1792) 水原近江守(71)卒    宣以(47)

寛政8(1796) 辰蔵(25)婚
          嫁は亀次郎安清養女(18?)

永井三郎右衛門の結婚年齢についての疑問は、息・亀次郎のお目見年齢からはじいたものだが、そもそも、亀次郎のその年齢がサバを読んでのものと見えないこともない。そういうゲタばき年齢はいくらもあったらしいからである。

亀次郎という男、信用がおけないのは、 『寛政譜』のための「先祖書」を彼が提出しているはずだが、妻女の記述がないこと。それでいて、子どもが6人と養女が記されている。 『寛政譜』の編纂方は疑問に思わなかったのであろうか。

似た疑念は、水原源之助にもある。お目見の時の年齢が届けられていない。
しかしこれは、当人が遠島になっているおり、縁者が提出しているから、そのあたりはあいまいでも仕方がないか。とはいえ、「母は宣雄が女」---すなわち多可だが、彼女は病死したかして、彼女の夫・近江守保明(やすあきら)は、さらに後添えを貰っている。

ま、ここまで年表の素案ができたのだから、これをもとに、これから、いろいろと想像をめぐらせてみよう。

参照】
永井近江守保明
水原三郎右衛門安静

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2007.10.21

養女のすすめ(8)

いやあ、赤面、平身低頭、叩頭陳謝---とはいえ、疑問、ほぼ、半氷解(?)。

この20年間、銕三郎(てつさぶろう)の妹として養女にきた多可(たか)---その父親の三木忠大夫忠任(ただとう)を、『寛政譜』の記載を信じて、松平大学頭の家臣・高崎藩士としてきた。多可が高崎からとった仮の名であるのはいうまでもないこと。

ところが、2007年10月20日[養女のすすめ(7)]に、永井三郎右衛門安静(やすちか 西丸・小姓番 廩米400俵)の譜を掲げた。そこに、
 
 妻は松平大学頭家臣三木久大夫忠位(ただたか?)が女

と明記されていた。
一方、長谷川平蔵宣雄(のぶお 400石 小十人頭---1000石格)が養女にした件は、

 松平大学従三木忠大夫忠任が女

始めは、『寛政譜』の編纂陣が、「忠任」を「忠位」と誤記したのかと考えた。理由は成人名に「位(たか)」を使っている幕臣は皆無に近く、「任」と「位」は、くずすと似てくると思ったからである。

しかし、「忠大夫」を「久大夫」と誤記するだろうか。

それで、これは親子かなにかとふんで、三郎右衛門安静の譜を再読した。

 享保20年(1735)12月22日家督。18歳。
 延享4年1月18日卒。30歳。

3ヶ月後に家を継いだ継嗣・亀太郎安清(やすきよ)は、その時、15歳。
つまり、亀太郎は、三郎右衛門安静が15歳のときの子ということになる。若くして嫁を迎えたのは、実兄が23歳で逝ったからである。

亀太郎の誕生は、享保18年(1733)。銕三郎より15歳年長。
そう分かってみると、「久大夫」と「忠大夫」は親子か兄弟、あるいは従兄弟とも思える。
そして、どちらも松平大学の家臣---ということで、永井26家を再見してみる必要があるように思えた。

やってみた。

と、永井本家3代目・信濃守尚政(なおまさ)が3男・大学尚庸(なおつね)に2万石(河内国4郡のうち)を割譲され、のちに大名(下野烏山藩)になっているではないか(のち、1万石加増)。
この永井家は、さらに、播磨国赤穂藩(3万3000石 浅野家のあと)、信州・飯山藩(同)と移封をつづけて、濃州・加納藩で明治を迎えている。

いや、そのことよりも、大学を幼名にした藩主が信濃守尚庸のほかにも2人---うち、7代目・大学尚旧(なおひさ)が年代的にもっとも可能性が高い。
もちろん、その場合、「松平姓」は解決しない。

しかし、三木家は、播州・赤穂あたりで家臣に加わったということもありうる。そうだ、いつか、浅野家三木姓の遺臣をあたってみよう。

ということで、加納藩の重役で三木姓を、例の『三百藩家臣人名事典』 (新人物往来社 1988)で調べたが、やはり見あたらなかった。
しかし、加納藩はいま、岐阜市に編入されている。教育委員会なり郷土史家の教えを乞うてみよう。

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(青○の3人の藩主が幼名=大学)

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(年代的に最も可能性が高い7代目藩主・尚旧)


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2007.10.19

養女のすすめ(6)

平蔵宣雄(のぶお 41歳 小十人組頭)が養女に迎えるといった女の子の父親・三木忠大夫忠任(ただとう)の主は、どうやら、前の高崎藩主・松平右京大夫輝規(てるのり)らしい---というところまでは、『寛政譜』をくって推定した。

で、高崎教育委員会に三木忠任なる藩士を問い合わせたが、「該当者が見当たらない」との返事。松平家は享保2年(1717)から明治までずっと高崎の藩主だったから、ここの教育委員会以外に尋ねるところはない。
藩士名簿はどのクラスまで残っているのか、確認しなかったのが、手落ちといえば手落ち。

『三百藩家臣人名事典』(新人物往来社 1988)の高崎藩も見たが、三木姓の高級藩士は載ってなかった。
つまり、さほど家格の高くない藩士で、江戸の藩邸にずっと詰めており、引き続き前藩主に従っていたとすると、小納戸組で、家禄は100石前後か。

この武士と宣雄がどこで知り合ったかは、改めて推理するとして、きょうのところは、養女に来た女の子---仮に名を多可(たか)としておこう---多可は何歳であったろろうか。
推理の史料として、嫁に行った水原(みはら)近江守保明(やすあきら)の『寛政譜』を開いてみよう。
後妻とある。

しかも、継嗣・善次郎---のちの保興(やすおき)を産んでいる。
保興のお目見は明和6年(1769)6月28日とある。
長谷川家に養女に来たのを宝暦(ほいうりゃく)9年(1759)と仮定すると、10年後である。
多可長谷川家での序列は銕三郎(てつさぶろう 14歳 のちの平蔵宣以)の妹となっている。
とすると、もっともゆとりをみて、銕三郎と同年とし、17歳で水原近江守保明(その時、40歳)の後妻にはいったとすると、善次郎のお目見は5歳前後ということになる。
なんだか、変だ。裏がありそうな気がしてならない。

ところで、善次郎改め保興だが、『寛政譜』によると、博奕(ばくち)もやり、それにかかわる小者を屋敷に居住させたというので、遠島になっているが、男子を2人ももうけており、上の子は父親の罪をせいで追放。
成人してない---つまり15歳になっていないの処分は、その年齢に達するまで猶予されるように記憶している。

保興の処罰は、天明8年(1788)8月9日。宝暦9年から29年後。その年の晩秋、平蔵宣以が火盗改メ・本役につき、小説では鬼平として大活躍をはじめている。
多可は生きていれば、43歳か。
しかし、夫の保明は、三人目の妻を迎えているから、保興を産んでまもなく没したとも推理できる。

Photo

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2007.10.18

養女のすすめ(5)

この[養女のすすめ]、じつは、史料は、『寛政譜』の記述一つきりなのである。

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(銕三郎の妹3人=緑○。うち2人は宣雄の養女)

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(養女と実妹を拡大) 

平蔵宣義(のぶのり 幼名・辰蔵)が、 『寛政譜』のために、平蔵宣以の死後に、幕府に上呈した「先祖書」には、

 宣雄妻    長谷川伊兵衛宣安女(小説の波津)
 宣雄養女  小普請戸田弥十郎支配組頭之節、縁組
         願之通被仰付
         水原善次郎保明妻
    実 松平大学頭 従 三木忠大夫忠任女

 宣雄養女
    実 駿府町奉行 朝倉仁左衛門景頭女
    始小普請組堀三十八郎支配三宅半左衛門徳屋エ
    嫁候処 不縁ニ離別 厄介ニテ罷在 卒

 宣雄女  西丸御書院番
    水谷伊勢守組之節 大久保勝次郎忠居妻
                当時 平左衛門   

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(「先祖書」原本・部分 長谷川本家の末裔・雅敏氏の採集による)

それで、松平大学頭(だいがくのかみ)を探した。
平蔵宣以の時代までに、大学頭を称した松平は6人いた。
うち、形原松平の2人は、銕三郎(てつさぶろう のちの平蔵宣以)が14歳のころの100年も前に卒している。
久松松平大学は、頭がついていないが、50年も前に卒。
大給松平大学頭も100年ほど前の故人。
元久松松平大学は、榊原へ養子に行入って改姓。

のこったのが、先代の高崎藩主・右京大夫輝規(てるのり)侯。
もちろん、数年前に隠居しているが、何人かの家臣はついているはず。
で、三木忠大夫忠任(ただとう)もその中の一人と、強引に推定した。

むろん、無理は承知のうえである。
あと、考えるのは、宣雄忠任はどこで知りあい、肝胆あい照らす仲(?)になったかである。

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2007.10.17

養女のすすめ(4)

今夕は、銕三郎(てつさぶろう)も膳をともにするように言われた。

長谷川家では、書院でとる平蔵宣雄の給仕が終わって、さがってきた妻女と銕三郎が別の部屋で食事をする。
宣雄はよほどのことがなかぎり、晩酌はしない。嫌いなほうではないが、ふだんは倹約を心がけている。

妻女の多江からの飯椀を受けとりながら、宣雄が訊いた。
「中根どのは、無事にお帰りになったか?」
「父上のお心づかいに、重々のお礼を述べておられました」
「うむ。あの仁をどう思った?」
「お齢(とし)にも似合わず、お足の速いのには驚きました」
「お人柄のことだ」
「お若い時のお苦しみを、すべて胸におさめてきていらっしゃったようですが、それにしてもご子息に先立れたことが、よほどにおつらいようにお見受けしました。私の名前を、何度も、逝くなられた銕之助さまとお間違えになりました」
給仕についていた多江が口をはさんだ。
「世間では、親に先立った子の墓は早くには建てるな、と申します。不幸の最たるものと思われております」