カテゴリー「002長谷川平蔵の妻・久栄」の記事

2009.10.02

姫始め(4) 

「吉報をお待ちしております」
銕三郎(てつさぶろう 明けて28歳)は、香具師(やし)の元締・〔左阿弥(さあみ)〕の円造(えんぞう 60すぎ)にあいさつをして立つと、2代目・角兵衛(かくべえ 42歳)が門口まで送ってきた。

長谷川さま。父にええ仕事をつくってもろて、ありがとおした。父も若返りますやろ」
「それほどにご執心ですか?」
「色ごころ抜きで、孫みたいに気ィをつこうてあげとりますのんで」
「それは上々」
「ところで、代人料ですが---」
「あちこちへ支払いをすますと、のこるの3両(48万円)です。その半分、1両2分(24万円)ではどうでしょう?」

参照】2009年8月30日[化粧(けわい)指南師お勝] (

「板ごとにでおますか?」
「そのつもりです」
「ありがとさんです」
月に3板刷るとう4両2分(72万円)である。
角兵衛は、父親へ報せるために、いそいそと引き返していった。
香具師のあがりはもっと大きかろうし、お披露目枠の扱い代だって3板なら6両(98万円)はいるのに、自分たちの腹が痛まない話なので、1板ごとに1両2分でもうまい話におもえるのであろう。

茶店〔千際(せんざい)〕は、お(とよ 明けて25歳)がいったとおり、表戸をおろしていた。
くぐり戸をコツコツとたたくと、すぐに開いて、おが顔をのぞかせた。

なんと、洗い髪を巻いている。
「どうした。さっきはきれいに結っていたで゜はないか」
銕三郎の手をとって引っぱりこみ、
「髪油の匂いが(てつ)さまの肌にのこっては、奥方にしれますでしょ」
「正月早々、そのおねだりか」
「お年玉をいただくのです」
「姫始め」
「はい」

湯もちゃんとわかしてあった。

あがるとき、閉じぶたを浮かす。
「こうしておくと、匂いおとしにおつかいになるとき、湯がさめていないのです」
(ずいぶん、馴れているな)
ちょっと不審におもったが、いわなかった。

終わって浴びてみると、おの言葉どおりであった。
「湯冷(ざ)めにお気をおつけになって」
見送られ、底冷えのする暗い街並みを急ぎ足で役宅へ帰りついたのは、六ッ半(午後7時)すぎであった。

書院では、久栄(ひさえ 明けて21歳)が、舅(しゅうと)・備中巣守宣雄(のぶお 55歳)の肩をもんでいた。
宣雄は、あいさつ廻りでくたびれきったのか、うつらうつらしている。
久栄が唇に指をあて、帰宅のあいさつをいうなと合図した。

自分たちにあたえられている部屋の隣室では、辰蔵(たつぞう 4歳)がすでに眠りこけていた。
部屋には床がのべてあった。
着替えていると、久栄がはいってきて、銕三郎の着物・袴を手ばやくたたみ、さっと帯をほどき、着物は衣紋かけになげるようにかけ、寝衣の腰紐もむすばないで床へはいった。

銕三郎が横にならぶと、
松造(jまつぞう 明けて22歳)をお連れくださいね。そうでないと、連絡(つなぎ)がつきませぬ」
「なにかあったのか?」
「舅どのの、新しい召使いを、浦部(与力 明けて51歳)どのがお連れになりました。あなたさまのお目にかなうかと心配しておいででした」
「おれの召使いではないのだから、父上がよければそれでいいのだ」
「いいえ。浦部どのは、舅どのは好き嫌い口になさらないからと---」

「その話は、あすでいい」
のばした手をまたではさみ、
「冷たい。あったまるまで、こうしていてください」
「姫初めだ。指があいさつをしたがっておる」
「きょう、あいさつをしてきたおなご衆のことを吐くまで、なりませぬ」
「ばか」
久栄が股をひらいた。


       ★    ★    ★

[姫始め] () () (

| | コメント (2)

2009.10.01

姫始め(3)

「板元(はんもと)の名代(みょうだい)---」
銕三郎(てつさぶろう 明けて28歳)がぜんぶ言い終わらないうちに、〔左阿弥(さあみ)〕の2代目・角兵衛(かくべえ 明けて42歳)が、
「それでしたら、先日おすすめした祇園社の---」

長谷川さまのお話をぜえんぶお聞きしたあとで、おまはんの案をいうたらええ」
円造(えんぞう 60がらみ)が゜、ぴしゃりと釘をさした。

「2代目さんが申された、祇園社の鳥居内の〔藤屋〕さんも悪くはないのですが、この際、商い人(あきないびと)は避けたほうがよろしいとおもいまして---」
「なんぞ、不都合でも?」
角兵衛が訊いた。

銕三郎の説明は、理にかなっていた。
〔化粧(けわい)読みうり〕は、煎じつめれば、お披露目引き札(広告チラシ)である。
お披露目は、ちょっとのものを大げさにふくらませていうことがないではない。
そこのところを世間には、〔千三ッ屋〕と極論する者もいる。
千に三ッしか真がない---ということらしい、

しかし、泰平がつづいている当今、物の売り買いがさかんになり、商いが繁盛している。
物には、質がピンからキリまであるが、ピンの物がかならずしも評判をとるとはかぎらない。
評判は、風評で上下する。
大切なのは風評である。
風評をきめるのは、人の口端(くちは)によることも大きいが、お披露目だって隅におけない。

「全部がそうだというのではないが、商人は、利にさとい。いえ、そのことをとやかくいうのではありませぬ。しかし、ことの実を伝えるはずの読み売りの板元が、商人とわかると、信が薄れましょう」
「なるほど、もっともや」
円造が賛意を示した。
2代目・角兵衛もうなずく。

「板元には、人びとが信を置く人がよろしいとおもうのです」
「たとえば?」
「手習い所---上方では、寺子屋と申しましたな、そこのお師匠とか、寺のご住職とか---」
「奉行所のお奉行はんとか?」
「いえ。幕臣は脇職を禁じられております」

「祇園社の執行(しぎょう)はんとか?」
「お引きうけくださいますか?」
「むずかしおすな」

「そうや、誠心院(じょうしんいん)の貞妙尼(じょみょうに)はんはどないやろ?」
「さすがは元締、ええとこに気ィがつきはらはった。名案どす」

_360
(赤○=誠心院 右から2堂目:蛸薬師 『都名所図会』)

角兵衛銕三郎に解説した。

誠心院(中京区京極六角下ル東側)は、蛸薬師(現・中京区蛸薬師上ル)の北にあり、和泉式部が剃髪して住んだといわれている寺で、貞妙尼は2年ほど前に武家の夫を亡くし、まだ23歳やいうのに仏道にはいってしまったのだと。
浪人だった夫は、祇園社の境内で蝦蟇(がま)の油を売っており、〔左阿弥〕一家と顔見知りであった。

「〔化粧(けわい)読みうり〕の板元代人料のいくばくかでも入れば、お布施のたしになりまひょ」
話は、円造自らがつけに行くという力の入れようであった。
「誠心院はんへお布施がいくんなら、月に4度の板行にしたかて、かめしまへん」
2代目も張り切った。
「ということは、貞妙尼さん、よほどの美人のようですな」
銕三郎は、図星をいいあてたようであった。

蛸薬師通りには、盗賊・〔狐火(きつねび)〕の勇五郎(ゆうごろう 明けて53歳)の妾・お(きち 明けて37歳)と息・又太郎(またたろう 明けて15歳)などか住んでいる家があることは、いう必要もないので、黙っていた。


       ★    ★    ★

[姫始め] () ()  (

| | コメント (0)

2009.09.30

姫始め(2)

「木を隠すには、森に置く」
(りょう 享年33歳)が、生前に言った。

「人を潜めるには、人ごみにまぎれさせる」
銕三郎(てつさぶろう 明けて28歳)がつぶやいた。

すれちがった男が、怪訝な視線をくれたが、銕三郎は意にかいさない。
賀茂(かも 33すぎ)母子がひそんでいるのは、京のまん真ん中かもしれない。
あるいは、伏見か。

昨年の12月のはじめ、東町奉行所の町廻り同心・加賀美千蔵(せんぞう 30歳)とともに、荒神河原に近い太物扱い〔荒神屋〕を改めて逃げられたとき、舟で賀茂川をさかのぼって逃げたと、銕三郎は推察した。

参照】2009年9月17日~[同心・加賀美千蔵]() (

加賀美同心たちの目をくらますために、川上へ避難したことはまちがいない。
しばらく刻(とき)をかせいで、川下の南へ漕ぎついて隠れたろう。
そのときには、丑三(うしぞう 40がらみ)とその女房らしいおんなは降り、舟に乗っていたのは、お賀茂とややであったか。

銕三郎は、舌打ちをして四条大橋を東へわたった。

祇園社は、初詣での人でごったがえしていた。
拝殿で賽銭をなげ入れ、家族の安寧を祈念し、とりわけ、父・宣雄(のぶお 45歳)の健康を長く願ったのは虫の報せであったかも。

雑踏をよけて北門から東へぬけると、〔千歳(ちとせ)〕が店をあけていた。
晴れ着の参詣帰りの客で満席らしい。

銕三郎の姿を認めたお(とよ 明けて25歳)がすばやく寄ってき、
「七ッ(午後4時)には店をi閉めておきます」
耳元でささやいて、客席へ去った。
(なぜ、かせぎ刻に店を閉めるのだろう。まさか、おれのためとは思えないが---

祇園一帯の香具師(やし)の元締・〔左阿弥(さあみ)〕の家を訪ねると、2代目・角兵衛(かくぺえ 明けて42歳)があわてて出迎え、
「こっちからお年賀にうかがわななりまへんのに、商(あきな)いびらきにとりまぎれ、かんにんしておくれやす」
恐縮しながら、奥へ通した。

奥座敷では、長火鉢の向こうの円造(えんぞう 60すぎ)が、肉づきのいい頬をゆるめて迎えた。
が、えらい、知恵習いをさせてもろうて、ありがとさんです。お屠蘇(とそ)を召しあがりはりますか?」

見ると、円造が手にしているのは茶であった。
「元締さんは?」
「暮れ六ッまでは、盃を手にせえへんことにきめとりますのや。家にこうしていることが多うおますよって、呑みぐせがついたら、どもなりまへんよって」
「では、拙も、見習って---」
「そうどすか。では、おぶうを---」

円造は、化粧(けわい)読みうりの思いつきを誉めにほめた。
「ものをやりとりせんと、口先だけでおたからがはいるいう術(て)があるのんは、この齢まで気ィがつきまへんどした。には、ええ学問どした」


角兵衛は、父親の前でかしこまっている。
「じつは、正月早々、そのことでご相談に伺いました」
「なんぞ、不調法でも?」
角兵衛が心配げな眼差しを向けた。

「そうではありませぬ」
銕三郎は、いそいで笑顔をつくり、
「先日、板元の名代(みょうだい)のことをお話しになりました」


       ★    ★    ★

[姫始め] () () (

| | コメント (0)

2009.09.29

姫始め

賀茂川土手を川下に向かってあるきながら、銕三郎(てつさぶろう 明けて28歳)は、お(かつ 明けて32歳)が言った、
「姫始めですよ。それとも、奥方となさるお約束ですか?」
にこだわっていた。
(そうだな。久栄(ひさえ 21歳)の姫始め---を、な)

河原では、子どもたちが凧をあげている。
悠々と空にとまっているのもあれば、くるくるとまわりながら落ちていくのもある。

(しかし、なんだな。姫始めというのは、2様に解釈できるな。おんながその年初めて男のものを迎えることをいっているようでもあるし、男がその年に初めて秘女(ひめ)に接するという意味にもとれる)

銕三郎は、〔孔雀(くじゃく)〕という言葉をおもいだした。
正月用に結いあげた髪をくずさないように、おんなが裾をひろげて上位になるのだと。
〔孔雀〕といえば、お(りょう 30歳=当時)が、掛川城下の川が見下ろせる貸し座敷で、裾を割って銕三郎の太股にまたがって秘部をあわせ、
「これが孔雀です」
と教えてくれた。

参照】2009年1月24日[銕三郎、掛川城下で] (

(そういえば、齢上のおなごに、いろいろと教わった)

14歳のときに、お芙佐(ふさ 25歳)。

参照】2007年7月16日[仮(かりそめ)の母・お芙佐(ふさ)]

19歳のときの芦ノ湯の阿記(23歳)

参照】20081月1日~[与詩(よし)を迎に] (12) (13) (14) 

22歳では、お(なか 33歳)。

参照】2008年8月7日~[〔梅川〕の仲居・お松] () () 
2008年8月14日~[〔橘屋〕のお仲] () ()  

そして、23歳のときからのお(りょう 29歳)。

参照】2008年11月17日[宣雄の同僚・先手組頭] (8

27歳になって、お

参照】2009年8月5日][お勝、潜入] (

齢下といったら、久栄は別として、21歳のときに18歳のお(しず)。

参照】2008年6月2日[お静という女〕 (

ここ、27歳でのお豊(とよ 24歳)だが、あのしたたかさは齢下といえるのかな。

参照】2009年7月29日[〔千歳(せんざい)〕のお豊] (10

(なぜに、新年早々から、なぜ、性歴なんぞを繰っているのだ、おれは---)
とはいえ、おとこにとっては、大事な功名手柄でもある。

銕三郎は、おもった。
(省みると、どのときも、もののはずみであったような---どうも、おれは、もののはずみに弱い。しかし、もののはずみがなければ、男とおんなのあいだ柄は、前にすすむものではない)

そういえば、銕三郎の誕生だって、父・宣雄(のぶお 26歳=当時)と、知行地の一つ・上総(かずさ)国武射郡(むしゃこおり)寺崎村の村長(むらおさ)・戸村のむすめだった妙(たえ 19歳=当時)のはずみの結実だったともいえる。

は、宣雄が家督しても正妻というの公式の座を求めず、陰の奥方として、この22年間、すごしてきた。

銕三郎久栄とのなれそめも、5年前、府中(甲府)への途中、深大寺へ寄り道し、掏られて困っていた久栄主従に、はずみで、つい声をかけたことからは始まった。

参照】2008年9月8日[中畑(なかばたけ)〕のお竜(りょう)] (

(あのとき、おれは、〔中畑〕のお竜に興をそそられ、府中を訪ねるべく、甲州街道を歩いていたのであ
った)

中畑村の村長・庄左衛門(しょうざえもん 55歳=当時)に、おが『孫子』を学んでいたと教えられた。

参照】2008年9月13日~[中畑(なかばたけ)〕のお竜(りょう)] () (

(人が身をひそめるとき、おは、どうすると言った?)
「木を隠すなら、森へ置く」

お(賀茂が身を隠すとしたら---)

銕三郎は双眸(りょうめ)をほそめて、三条大橋の西側にひろがるのいらかを瞶(みつめ)た。


       ★    ★    ★

[姫始め] () () (
 

| | コメント (0)

2009.03.18

久栄のおめでた(4)

「若奥方さま。ようこそ、おわたりくださいました」
雑司ヶ谷の料理茶屋〔橘屋〕の主人・忠兵衛(50歳すぎ)は、豊頬に笑みをみせて、久栄(ひさえ 17歳)にあいさつした。

なんと、1年前まで、お(なか 34才=当時)の宿直(とのい)の夜ごとに、銕三郎(てつさぶろう 23歳=当時)が泊まりにきていた部屋である。
(忘れろ、というこころづかいかな)
銕三郎は、そっと忠兵衛の顔色をうかがうが、かれはそしらぬ顔で、久栄にやさしげな目を向けている。
その忠兵衛の斜めうしろには、女中頭・お(えい 37歳)が静かにひかえている。

「婚儀のお祝いもの、かたじけなく---と、篤く述べるようにと、父上からくれぐれもいいつかっております」
久栄が、武家育ちらしく、かしこまった口調で礼を述べる。
こういうときの久栄は、17歳の新妻とはとてもおもえない、しっかりした言葉づかいである。

「とんでもないことでございます。長谷川さまとは兄弟同然のあいだがらゆえ、謝辞などにはおよびません。こんごとも、叔父の家とおぼしめして、しっかりとおわたりくださいますよう---」
忠兵衛は、細い目をいっそう細めて、久栄にそそぐ。

そこへ、お(ゆき 24歳)が折敷(おしき)に伊勢えびの剥き身を運んできた。
「若奥方さまが、お悪阻(つわり)はまだ、とうかがっており、帳場が、酢のものを多めに調理させていたしたようでございます」
が口をそえる。
(危ない。おが口をすべらせなければいいが---)
銕三郎の懸念をよそに、おは2人に配膳すると、そしらぬ表情で引きさがる。

参照】2008年10月11日[お勝というおんな] (
2008年10月22日[〔橘屋〕のお雪] (

久栄が箸をおろすと、忠兵衛は、それをしおに引きさがった。
あとは、無難に、おが応酬する。

食事が終わったころあいに、忠兵衛があらわれ、銕三郎を離れの外へいざなった。
「あの部屋でお寝(やす)みいただくのもはばかられますので、手前の家に寝所を用意いたしました」
「ご配慮をどうも。ところで亭主どまの。おとのこと、久栄に告げて、さっぱりしたほうがよろしいかとも---?」
「なりませぬ。そのために、この離れを用意いたしました。おとのことは、夢のなかでのあだなしごととお割り切りなさいまし」

参照】2008年8月14日~[〔橘屋〕のお仲] () (
2008年12月29日[〔橘屋〕の忠兵衛] () 

忠兵衛は、女房に浮気の現場へ踏み込まれ、上布団をはがれた亭主の科白---
「しっかり見さだめろ。まだ、半分しか入っておらん」
それで女房は、悋気と勘気をおさめたという笑い話を引き、
「山の神どのというのは、しらなければしらないで安心しているものなのですよ」
世慣れた男としての教訓をたれた。

その夜。
〔橘屋〕から、忠兵衛の提灯にみちびかれた2人は、鬼子母神の裏手ぞいに忠兵衛の屋敷の、布団が並んで敷かれた客間へ案内された。

「今夜はひかえよう」
用意されていた寝着に着替えて横になるとき、銕三郎が久栄の耳もとでささやく。
「はい」

おとなしく自分のふとんにはいった久栄が、すぐに銕三郎の横へ入ってき、その手をとって腹へたくりり寄せ、
「ほら、ややがご馳走によろこんでいます」
銕三郎の指は、蜘蛛が這うようにもぞもぞと、もっと下へ移っていった。

| | コメント (0)

2009.03.17

久栄のおめでた(3)

一の鳥居の手前で、久栄(ひさえ 17歳)が駕籠を降りた。
片手で腹をおさえながら、もう一方の手を横へのばして伸びをする。

そのあいだ、銕三郎(てつさぶろう 24歳)は、〔橘屋〕の知った顔の座敷女中に出会わないかと、あたりに気くばりながら、
「ややに、変わりはないか?」
久栄へ、いたわりの言葉をかけることを忘れない。
母・(たえ 44歳)から、動揺と冷えがお腹(なか)の赤ん坊によくないと、きつくいましめられたのである。

参道の欅は、早くも、半分ちかくの葉が色を変えはじめていた。
旬日のうちに、参道ぞいの酒肉店(りょうりや)は、大量の落ち葉の掃除に、毎朝、おわれるであろう。

鬼子母神(きしもじん)は、子授け、安産、子育ての功徳がいわれているインドの女神である。
この女神から生まれたのが、美と繁栄の吉祥天(きっしょうてん)といわている。
その下を行き来している参詣者は、さすがに女性が多い。

398_360
(鬼子母神と法明寺(右上方) 『江戸名所図会』
塗り絵師:ちゅうすけ)

参道の右側には、茶店や食べ物屋が軒をつらねている。
10月8日13日までの会式(えしき)には、こんな人出ではすまない。
堂内には、大がかりな機械(からくり)を仕掛けて人寄せをし、そのさまは、

 群集して、稲麻のごとし。

とものの本に書かれている。

399_360
(10月の会式 『江戸名所図会』塗り絵師:ちゅうすけ)

鬼子母神を祀っているのは、日蓮宗の寺院が多い。
雑司ヶ谷の鬼子母神堂も、日蓮宗の法明寺の子院である。
住職は、ふだんは、法明寺に住持している。

しかし、町飛脚便で銕三郎・久栄の参詣をこころえた〔橘屋〕忠兵衛が、法明寺へ布施したとみえて、寺僧が待っていた。
身の丈5寸ほどの本尊の前で安産祈願の経をあげた。
銕三郎には、

 「もし、人、天の中に生まれれば、勝妙の楽を浮け、もし、仏前にあらば、蓮華のなかに化生せん」

という箇所だけが聞きとれた。

ついてに記しておくと、長谷川家の香華寺・戒行寺も日蓮宗である。
戒行寺の本山は、身延の久遠寺と、ものの本にある。

座敷で茶をすすめられた。
境内の樹齢500年以上という子授け銀杏(いちょう)の太幹を、深夜、人目をさけて抱き、題目をとなえると子がさずかるとの奇縁を話したあと、寺僧は、
「奥方さまは、すでにお子が授かっておられますから---」
と笑った。

_100退去ぎわに寺僧は、お守りを久栄に渡し、帯締にでもさげておくようにとの言葉をそえた。
写真のお守りは、いまのものであるが、鬼子母神の「鬼」の字を形づくっている上の「田」に角(つの)のようについている「ノ」がない。
「仏に角はございませぬ」
と、いまの法明寺の住持・近江師に教わった。

ただ、都内にのこっている唯一の市電の駅「鬼子母神」は「鬼」の字のままである。
切符の印刷など、すべてから「ノ」を取り去るには、億という額を要するゆえ、手つかずのままのこしてあるとも。

一の鳥居の編額からは「ノ」が除かれている。

参照】〔〔白峰(しらみね)〕の太四郎の項
〔掘切(ほりきり)〕の次郎助の項

| | コメント (2)

2009.03.16

久栄のおめでた(2)

(てつ)さま。お願いがございます」
久栄(ひさえ 17歳)があらたまって、夫・銕三郎(てつさぶろう 24歳)の前に三つ指をついた。

「冬の着物でもほしくなったかな」
「いいえ。ややが無事に生まれますように、雑司ヶ谷の鬼子母神(きしもじん)さまへお連れいただきたいのです」
「鬼子母神は、雑司ヶ谷までゆかずとも、入谷(いりや)にもあるが---」

銕三郎としては、鬼子母神の隣の料理茶屋〔橘屋〕の座敷で、座敷女中をしていたお(なか)の宿直(とのい)の夜を、一年以上も合歓(ごうかん)していたこともあり、そこへ久栄と参詣に行くのは、なんともはばかられた。

「お母上にご相談したら、〔橘屋〕のご亭主・忠兵衛どのへ頼めば、夕餉(ゆうげ)のあと、一泊くらいは計らってもらえるとか、おすすめくださいました」
「母上が、さように---?」
「はい。お料理が、ぜいたくだけれど、たいへんにおいしいとも、おすすめいただきました」
「うむ。考えておこう」
「悪阻(つわり)がはじまらぬ前がいいとも、おっしゃいました」
「それもそうだな。悪阻では、せっかくの料理が胃の腑に納まらなくなる。では、明日にでも、忠兵衛どのへ、便をつかわそう」
「うれしゅうございます。2人きりの外での夜は、寺嶋村のあの家以来---」

けっきょく、銕三郎久栄に押し切られた。
(いくらなんでも、母者(ははじゃ)は、おれがおと睦んでいたことまでは、洩らしておられまい)

そういえば、おに仕込まれた性戯を、まだ、ほんの2,3しか、久栄に与えていない。
夫婦(めおと)の床技は、小出しにほどこしていても、妻のほうが快楽のむさぼり方を自然に会得してしまうもの、とおの忠告を守ってきた。

その日がきた。
父・宣雄(のぶお 51歳)が贔屓にしている菊川橋のたもとの船宿〔あけぼの〕から舟を頼んだ。
横川から小名木川へ出、高橋(たかばし)をくぐると大川。

_130は〔橘屋〕の座敷名である(そのときは、まだ、お 33歳)で、南本所・弥勒寺の塔頭(たっちゅう)・竜光院前の五間堀から舟にのった。
刺客の目をさえぎるために、おは夜鷹ふうに手拭いをかむっていた。(歌麿『寄辻君恋』 お留のイメージ)


_130_2武家の初々しい新造らしい薄紅色の揚げ帽子が、久栄にはよく似合っている。(清長 久栄のイメージ)

大川から日本橋川へはいり、江戸橋、日本橋をくぐっても、久栄は端然と銕三郎の顔をみつめていて、左右に眸(め)を散らさない。
銕三郎も、過去の連想を断ち切っていた。
一石橋、常盤橋、神田橋、一橋橋、俎板(まないた)橋でも、久栄のその姿勢は変わらなかった。

ちゅうすけとしても、気がひけるのだが、おの名を出したてまえ、2年前の参照ファイルだけは引いておく。
参照】2008年8月6日~[〔梅川〕の仲居・お松] () () (

江戸川橋のたもと桜木町で舟を降りたが、久栄は船酔いもしていなかった。
音羽町9丁目の角の駕籠屋で久栄が乗ると、勢いよく、目白坂をのぼってゆく。

のぼりきったところの右手が、先手・弓の2番手の組屋敷である。
奥田山城守さま組方衆の組屋敷でございましょう?」
駕籠の中から、声をだした。
「さよう」
応えたものの、
(いつのまに、奥田山城守忠祇(ただまさ 67歳 300俵)どののことを、どのようにして探索したのものか。これでは、もしかすると、〔橘屋〕でのおとのあいだのことも調べつくしているのかもしれないぞ)

銕三郎の思惑を読んだように、久栄が言った。
奥田さまは、舅(しゅうと)どのとご同役でございます。失礼があってはなりませぬゆえ、実家(さと)の父に、弓組の組頭衆のあれこれを教わりましたのです」

行く手に鬼子母神の森が見えてくると、銕三郎の緊張はいよいよ高まった。

参照】2008年8月14日[〔橘屋〕のお仲] (1) (2) (3) (4) (5) (6) (7) (8)

| | コメント (0)

2009.03.15

久栄のおめでた

(てつ)どの。久栄さんは、もしやして、おめでたではないのかえ?」
母・(たえ 44歳)が、私塾・学而(がくじ)塾へ出かけるために、離れから内庭を抜けようとした銕三郎(てつさぶろう 24歳 のちの鬼平)を呼び止めた。

久栄(ひさえ 17歳)は、嫁してきて3ヶ月がすぎ、夜中、灯(あ)かりなしでも手さぐりをしないで厠へ行けるようになっていた。

「あ。そういえば---」
「そういえば、って、月のものは---」
「ですから、それがないので、毎夜---」
「あきれたこと。月のものが止まれば、ややができたに決まっているでしょう」
「むすめのころ、ないこともあったと言うものですから---」
「いつからない---いえ、それは久栄の口から聞きましょう」

そういうことで、長谷川家では、その晩、赤飯を炊いて、おめでたを祝った。
父・宣雄(のぶお 51歳)も、わざわざ、
「祝いの膳ゆえ、奥も、久栄もともに---」
と、膳を書院へ運ばせた。

久栄。丈夫な子を、たのむぞ」
「明日から、2,3日、お実家(さと)帰りをなされては?」
も、久栄の躰をいたわるように言った。

「ありがとうございます。しかし、実家へは帰りとうはございませぬ。このまま、さまといてはなりませぬか」
「ならぬということはありませぬが、ややの腰が定まるまで 夜のことは控えぎみになされませぬと---」
「お母上が、さまをお身ごもりなりましたときも、実家へお渡りになりましたのでございますか?」

は、軽く笑いにごまかしながら、
どのが宿ったのは、実家にいたときです。殿さまが、知行地の一つである寺崎の新田開拓の監督においでになっていて、村長(むらおさ)であったわたくしの家の離れに、ずっとお泊りになっておられまして---」
「あら。ご婚儀なし---でございましたの?」
「婚儀もなにも---」
「これ。奥、人聞きのわるいことを話すでない---」
「いいえ。久栄はもう、長谷川の嫁なのです。隠すことありませぬ」
は、毅然と突っぱね、宣雄は、てれ笑いですませた。

「あのときは、わたくしのほうから離れへ押しかけたのですよ。そうでもしないと、殿さまは、言い寄る村の後家でおすましになりそうでしたゆえ---」
「これ。---」
「わたくしが、湯もじもつけない浴衣一枚で押しかけましたのに、殿さまときたら、本から目を離そうろとなさらないので---」
「もう、いいではないか。20何年もむかしのことじゃ」
「ですから、むしゃぶりついて---」
「よさないか。そんな話をしては、若い者が、今夜も張りきるぞ」
「おっほほほ。ほんに、わたくしまで、芯が熱くなってきて---」

参照】2007年6月12日[神尾(かんお)五郎三郎春由(はるより)]
2008年10月10日[〔五井(ごい)の亀吉] (

C_360
(歌麿『ねがいの糸口』 20数年前の夜のイメージ)

離れでの会話を盗み聞いてみる。
「お父上にも、火がついたみたいでしたよ」
「いいではないか。まだ、お若いのだ」
「------」
「------」
「------ う、ふん」
「---む」
「ややに、あいさつをしてやってくださいまし」
「こんにちは、赤ちゃん、拙が父だよ、ってか。よし、まいろう」

_360
(清長 久栄のイメージ)

虫の声がはげしくなり、その先は聞こえなくなった---ということにしておこう。


| | コメント (0)

2009.02.16

寺嶋村の寓家(4)

しばらくは、親指の太さほどの一本うどんを箸で口にあう長さに切ること専念している〔瀬戸川(せとがわ)〕の源七(げんしち 53歳)は、お(りょう 30歳)のことを放念したかにみえた。

「いや、なんとも歯ごたえのあるうどんで。、噛めばかむほど、味がしみでてきよります」
「お気にいっていただいたようで、なによりでした」
「しかし、なんですな。わっちも齢で、奥歯が3本ほど欠けておりますので、難儀はなんぎです」
「あ。そこへは気がまわらず、申しわけない」
「いえいえ。初物をいただけるのは、ありがたいことなんでやす」

源七は、新しい酒を注文し、銕三郎に酌をしてから、
「おどんが言ってましたが、近く、おめでただそうで---」
「おどのにお会いになったのですか?」
「江戸へくだってくるさに、掛川で---」
「再来月あたりの吉日に婚儀です」

「ご免」
源七は背を向け、なにやらもぞもぞとやっていたが、坐りなおし、
長谷川さま。このことを、〔狐火(きつねび)〕のお頭が聞いたら、どんなにかよろこびましょう。お頭に代わり、お祝辞をのべさせていただきやす。これは、〔狐火〕からのお祝いの気持ちです。お納めのほどを」

金包みを押しだした。切り餅(25両)であった。
源七どの。お気持ちだけはいただいておきます。こちらは困ります」
「あ、言葉をまちがえました。〔狐火〕からではなく、おさんからということで、ぜひとも、お納めください」

参照】2009年1月29日[〔蓑火(みのひ)と〔狐火(きつねび)] (2)
2009年2月1日[駿府町奉行所で] (4)

銕三郎があくまで押しもどしたか、おからというこことで受けたか、ちゅうすけはしらない。
まあ、あとあとのことを考えると、ここで受けては、いけない。
しかし、おからの5両はありがたく頂戴しているので、これも、おからとおもえば、固辞することもなかろうか。

参照】2008年6月2日~[お静という女](1) (2) (3) (4) (5

ただ、ちゅうすけとしては、銕三郎に、こう訊かせたい。

源七どの。その紙包みを示唆したのは、おどのですか?」

源七は、ちょっと躊躇してから、
「軍者(ぐんしゃ)・おどんがすすめてくれやしたのは、婚儀のお2人に、寺嶋村の寓屋をひと月、お貸ししてさしあげては---と」
源七どのもお人がわるい。それをお会いしたしょっぱなに明かしてくだされば、恥をかかずにすみもしたものを---」
「---恥?」
おまさ に妬(や)きごとを吐かせずにすみました」
「ご勘弁を。おどんのことを、おまさ坊はしってはいないとおもいこんでいましたで---」

ということで、明和6年(1769)4月(旧暦)の吉日に婚儀をおえた銕三郎久栄(ひさえ 17歳)は、ままごとのようなハネムーンを、銕三郎には思い出の多い、寺嶋村の寓家でおくった。
もっとも、蚊が多い土地ゆえ、蚊帳は吊りっぱなしで、それをいいことに、銕三郎は、なにかというと、久栄を蚊帳に誘いこんだらしい。

_360
(清長 寺嶋村の寓家での久栄のイメージ)

| | コメント (0)

2009.02.15

寺島村の寓家(3)

「このごろの子どもがかんがえていることは、見当もつきません。あっしらが子どものころは、よその家で飯を食わせてもらうなどというときには、親の許しをもらってからにしたもんです」
いっしょに歩きながら、〔瀬戸川せとがわ)〕の源七(げんしち 53歳)が嘆息まじりにこぼした。
連れて入府した〔狐火(きつねび)〕の勇五郎(ゆうごろう 49歳)お頭の子・又太郎(またたろう 11歳)が、源七に問うこともなく、〔盗人酒屋〕のおまさ(13歳)のところへ泊まると宣言したことにあきれているのである。

ちゅうすけ注】源七にしても、銕三郎(てつさぶろう 24歳)にしても、このときから13年後、24歳のおまさが、22歳の又三郎をはじめて男にしてやることになろうとは、予想だにしなかったろう(もっとも、又太郎が22歳まで女躰しらずだったというのも、納得しかねるが---)。

鬼平犯科帳』文庫巻9[狐火]は、寛政3年(1791)---平蔵宣以46歳、おまさ35歳 又太郎こと2代目〔狐火(きつねび)〕の勇五郎33歳、源七75歳のとき事件である。

ただ、〔狐火〕が寛政3年というのは、『犯科帳』の事件の季節を追っていくとそうなる---というだけで、途中で長期連載化しているので、池波さんのこころづもりでは、おまさは32,3歳かもしれない。{狐火]の執筆時、だれも事件年譜を、まだ、つくっていなかった。

源七どのは、藤枝の生まれでしたな?」
銕三郎は、わかっているのに、わざと訊いた。
「藤枝宿の在の瀬古郷の、小作人のせがれでやす」
源七どのが育ったころとちがい、江戸や京の町人の子らは、一度や二度の食事をふるまわれたからといって、いちいち、親には告げませぬ。それだけ世間にゆとりがあり、ぜいたくになっているのですな。もっとも、武家の子はそうはいきませぬ。親がきちんと礼を述べないと、節度をわきまえない輩と、後ろ指をさされます」
「盗人のあっちがいうのもなんですが、礼節がうしなわれて、いやな世の中になっちまいましたなあ」

日本橋・菊新道(きくじんみち)の〔山城屋〕へ帰るという源七は、三ッ目通りの長谷川邸の前で、
「このままお別れするのもなんでやすから 簡単に夕餉(ゆうげ)をおつきあいくださるわけには参りやせんか?」
「参りましょう。一本うどんなどどうです?」
「それは珍しい---」

長谷川邸から海福寺門前の一本うどん〔豊島屋〕までは6丁ばかりの距離である。
小名木(おなぎ)川ぞいに西行きし、高橋(たかばし)を南へわたったところが万年町2丁目で、海福寺門前。

577_360
(海福寺 左手・門前〔豊島屋〕 『江戸名所図会』 塗り絵師:ちゅうすけ)

小部屋を頼んだ。
窓越しに、永寿山海福寺の有名な石門が見える。
境内には武田信玄ゆかりの九層の石塔も安置されている。
「軍鶏なべでもよかったのですが、季節がいささか---」
銕三郎が言うと、
「初物を食べると寿命が3年のびるといいます。一本うどんはまだ試みたことがありません。3年長生きさせていただきましょう」
源七は、さすがにそつがない。

まず、酒がきた。
一本うどんは、客の注文をうけてから、太いので芯まで茹であがるのに小半刻(しはんとき 30分)近くかかる。
「寺嶋の寮ですが、お使いになるのでしたら、いつでもどうぞ。留守番の(しげ)婆さんに、そう申しておきます」
「かたじけない。その節は、お借りします」
「あの寮に、おまさどんはなにか不満がありげでしたが---?」
「剣友の左馬(さま 24歳)には、あきらめるように言っておくつもりです」
銕三郎は、あくまでもしらをきった。

「お(りょう 30歳)どんですが---」
「は?」
(相良行きが発覚(ば)れたか)
銕三郎が緊張したとき、つごうよく、一本うどんが運ばれてきた。

Ipponudon
(〔豊島屋〕ならぬ〔高田屋〕に再現してもらった一本うどん)

ちゅうすけ注】『鬼平犯科帳』文庫巻7[掻掘のおけい]p110  新装版p115には、こう、ある。

深川・蛤(はまぐり)町にある名刹(めいさつ)〔永寿山・海福寺〕門前の豊島(としま)屋で出す〔一本饂飩(うどん)は、盗賊改方の長官・長谷川平蔵が少年のころから土地(ところ)では知られたもので、
「おれが、本所・深川で悪さをしていた若いころには、三日にあげず、あの一本うどんを食いに行ったものだ」
などと平蔵、むかしをなつかしんで深川見廻りの若い同心たちへ語ったこともあった。

| | コメント (0)

2009.02.14

寺島村の寓家(2)

「例の〔荒神(こうじん)〕のお人の噂ですが、京師ではまったく耳にしませんが---」
瀬戸川せとがわ)〕の源七(げんしち 53歳)が声をひそめて、又太郎またたろう 11歳)とおまさ(13歳)をうかがう。
又太郎は、銕三郎(てつさぶろう 24歳)と源七のことはまったく気にしていない様子で、真剣な表情でおまさ(13歳)との会話に余念がない。

「こっちへの途中、藤枝宿で、〔牛尾うしお)の太兵衛(たへえ 39歳)お頭---あ、名前は聞かなかったことにしておいてくだせえ」
「聞かなかった」
「なんといいましても、あっしも、藤枝在の出なもんで、宿場に草鞋をぬいでいながら、お頭にごあいさつもしねえでしらんぷり、というのもなんでやすから」
「そういうものかもな---」

「で、ごあいさつついでに、〔荒神〕のお人のことを、〔牛尾〕のお頭にも、それとなくうかがってみたのでやす。そしたら、あそこの若い---三之助さんのすけ)とかいいましたかなあ、その若いのが、風のたよりだけど、去年の師走あたりに、駿府で盗(おつとめ)をなさったとかいうのですよ」
「なるほど」
銕三郎は、知らぬふりをきめこんだ。

ちゅうすけ注】〔牛尾〕の太兵衛のことは、『鬼平犯科帳』巻9[泥亀すっぽん)]に、藤枝宿で呉服太物屋〔川崎屋太兵衛〕が仮の姿として描かれている。24年後の寛政5年(1793)12月の事件である〔泥亀〕では、中風で逝ったことになっているが。
〔通り名(呼び名とも)〕の〔牛尾〕は〔潮(うしお)〕が転じた地名であることが多いそうで、海底が盛り上がったときに閉じ込められた塩水が湧く土地につけられると。
静岡のSBS学苑パルシェの〔鬼平クラス〕の村越一彦さんによると、藤枝市の青山八幡神社の裏手が「潮」村であったと。池波さんは、太兵衛をその村の出身のつもりで名づけたのかもしれない。

23_360
(藤枝宿 左;瀬戸川 右端下:青山八幡神社
『東海道分間延絵図』 道中奉行制作)

「ただ、〔荒神〕のお人が生ませたおんなの子が、秋口に病死して気落ちなさったらしく、ずいぶん弱気な仕事(おつとめ)だったと---」
「弱気な?」
「流れづとめの者にも声をかけねえで、身内の衆2人だけをおつかいだったらしいんで」

荒神〕の死んだおんなの子の話題がでたついでに、銕三郎は、お(しず 23歳)が産んだという〔狐火(きつねび)〕の勇五郎の子のことを訊いてみた。
なんと、去年の春に、風邪がもとで死んだというではないか。
銕三郎は、お(しず 23歳)の悲しみの深さをおもいやったが、口にはしなかった・。

641c_180ちゅうすけ注】おの最初の子を病死としたのは、文庫巻6{狐火}に登場する、荒川・新宿(にいじゅく)の渡し場・亀有の茶店で店を手伝っているおの忘れがたみ・お(ひさ)の齢が、17,8とあるからである。[狐火]は、寛政3年(1791)---いまの明和6年(1769)から22年後の事件である。あと5年後に生まれた第2子か第3子にしないと平仄があわない。
という名も、なんとなく、健康に育てという親の願いがこもっているようにもおもえる。

ことのついでに、源七は、又太郎は小田原での妾が産んだ子で、本妻が逝ったので、いまは母とともに京都に呼ばれ、本妻の遺児・文吉といっしょにも育てられているが、なんにでも好奇心を示す又太郎とちがって、文吉は自分の中にとじこもりがちで、父親のこともさほどに敬っていないようだと話した。
文吉坊という子は、実の母ごが3つのときに亡くなり、小田原からのお姐(あね)さんに育てられてる、それも気にいらないらしいんで、〔狐火〕のお頭も、手をやいとられやす」
「その文吉という本妻の子は、幾つです?」
又太郎坊より20日遅れの生まれでやすから、おない齢の11で---」
又太郎坊との仲は?」
「あんまりうまくねえみてぇで---」
「拙はひとり子ですが、腹ちがいの兄でも弟でもいてくれたらと、おもいます」

さて---と、源七が腰をあげたとき、又太郎が意外なことを言った。
源七おじ。坊、帰らへんえ」
「え?」
おまさ姉(いと)はんのとこに泊まる」

「なんてことを---」
あわてて声をあらげた源七に、板場からでてきた亭主・忠助(ちゅうすけ 50歳前)が、
源七どん。子ども同士の話しあいだ、きょうのところは大目に見てやんなせえ」

又太郎とすると、きちんと相手をしてくれる同じ齢ごろの友だちに出会ったのは、初めてだったのであろう。
おまさも、気にいった者には、おもいやりの情をかけるおんなの子であった。


参照】2007年7月14日~[〔荒神〕の助太郎] (1) (2) (3) (4) (5) (6) (7) (8) (9) (10)

2009年1月8日~[銕三郎、三たび駿府へ]()  () () () () () () () () (10) (11) (12) (13

| | コメント (0)

2009.02.13

寺嶋村の寓家

「おや、源七(げんしち)どの。 いつご出府に?」
銕三郎(てつさぶろう 24歳)が声をかけた相手は、まさしく、〔瀬戸川せとがわ)〕の源七であった。
記憶では、お頭の〔狐火きつねび)〕の勇五郎(ゆうごろう 49歳)より4つ齢上のはずだから ことし53歳---それにしては、めっきり白髪がふえている。

〔盗人酒屋〕の八ッ半(午後3時)で、店は開店前。
源七が坐っている飯台の前には、おまさ(13歳)が姉さんぶった口調で、10歳ほどの男の子と話している。

長谷川さま。こちらは、お頭のお子の又太郎坊です。11歳におなりです」
「そうですか。銕三郎です。おまさの手習いの師匠です」
又太郎どす。お世話さんになります」
京都弁で挨拶をすると、銕三郎には興味をしめさず、おまさへ、深川の八幡宮は石清水(いわしみず)八幡宮とどっちが大きいか、などと質問をあびせることに余念がない。

「子づれの仕事(おつとめ)とは、また、かんがえましたな」
「そんなんではありません。坊が、どうしても江戸が見たいというので、くだってきたのです」
「それだけのことで、わざわざ---」
「お頭が、世間はひろく見ておくものだとお考えなので---」
「世間だか、獲物の店だか---」
長谷川さま。めったなことを---」
「口がすべった。許されよ」

源七は、この江戸見物には、寺嶋村は離れすぎているので、あの寓家には泊まっていない。
いつもの定宿の日本橋・菊新道(きくじんみち)の〔山城屋〕に草鞋をぬぎ、諸々を見物しており、きょうは五百羅漢に参詣した帰りだと。

参照】2008年5月28日~[〔瀬戸川〕の源七] (1) (2) (3) (

「それでは、向島の、お(りょう 30歳)どのたちが住まっていた家は、いまは空いていると?」
銕三郎は、うっかり、「お(しず)さん」、といいかけて、あやうく、〔おどのたち」と言った。
こころなしか、源七の表情が動いたようにおもえた。
狐火〕の勇五郎の妾だったおとは、因縁がある。

参照】2008年6月2日~[お静という女](1) (2) (3) (4) (5
2007年3月6日[初代〔狐火(きつねび)〕の勇五郎]

いや、あの寓家で睦みあったのはおとばかりではない。
事情があって、〔蓑火みのひ)〕の喜之助(きのすけ)から〔狐火〕の勇五郎へゆずられた、〔中畑(なかばたけ)〕のおとも、その家の湯屋で情事をもったことがある。

それは、去年の夏前であった。

参照】2008年11月16日~[宣雄の同僚・先手組頭] () () (
2008年11月25日[屋根船]

「寺嶋村の寓屋のことで、なにか?」
訊いた源七の声に、おまさ又太郎の話しかけを制し、真正面から銕三郎を瞶(みつめ)てきた。
「どうされているのかとおもっただけで---」
おまさは勘がするどい。とくに、久栄(ひさえ 17歳)を恋敵のようにおもっているからな)

「お使いになるのでしたら、留守番の(しげ)婆さんにそうおっしゃればいいように、手はずをとっておきます」
「ああ、留守番を置かれましたか」
「空き家のままだと、無用心ですから」

銕三郎は、久栄との最初の躰あわせ、便船でわざわざ木更津くんだりまで行かなくても、もっと近間で---と考えないでもなかった。
しかし、おまさに黒い眸(ひとみ)で凝視されると、婚儀前に乙女(おとめ)のしるしをくれるという久栄に、これまで2人のおんなを抱いた家で---というのは、あまりに不謹慎というか、久栄にすまない気がしたのである。

「剣友に岸井左馬之助(さまのすけ 24歳)という男がおりまして、押上の春慶寺に寄宿しておるのですが、居を移したいとか言っているもので---」
銕三郎は、おまさの手前、苦しい言わけをした。
(てつ)兄さん。それはいけません。高杉道場に遠くなりすぎます」
おまさがするどい声でさえぎった。
「いかにも---」
銕三郎は、しどろもどろになった。
源七が、おまさ銕三郎の表情のうごきをうかがうように見くらべ、なにか言いかけようとして、言葉を呑んだようであった。

| | コメント (0)

2008.12.19

「久栄の躰にお徴(しるし)を---」(4)

B_120
「それは、男の人のおこころ遣いによるとおもいますよ」
小浪(こなみ 29歳)が言った。

銕三郎(てつさぶろう 23歳)が来て、口にしたことを聞くやいなや、ばたばたと店を閉め、お茶運びの小むすめも帰し、2人きりになってから、最初に口にした言葉だった。

「うちかて、そないに、こころ遣いしてもらいとお、おしました」
突然、わが身とひきくらべたか、小浪が京言葉に変えた。
そのほうが、思い出を語るには、都合がよかったのであろう。

「なん年ほど、前のことだったのですか?」
「15年、いえ、16年になりますやろか---」
「---というと、小浪どのが---まだ、14か15?」
「13どした」
「えッ!」

小浪は、遠くをみるようなに目を細めた。

小浪が打ち明けた。
生まれたのは、琵琶湖の西の首にあたる西近江・雄琴(おごと)村の漁師の家だった。
父親は、小浪がまだ、(なみ)という名前だった12のときに、琵琶湖が荒れ、舟もろとも沈んだ。
昼も夜も働きづめだった母親も、浪が13になったばかりの春に病死した。
延暦寺の山下の末寺の使い女として引き取られたが、3日目には中年の役僧に手ごめにされた。
あまりの痛さ気も遠くなりそうだったが、役僧は容赦しなかったぱかりか、いま考えると、小波の泣き声にかえって興奮を高めたようであった。
泣き声をあげても、だれもこなかった。

_300_2
(歌麿『歌まくら』 レイプIに抵抗のイメージ)

翌朝、坊主たちが朝の勤行に起きる前に、供えてあった布施の包みをかすめて寺を出、大津へ向かった。
途中で出あった30男が、小浪の着物の尻のあたりに散っている血に目をとめ、旅人相手の一膳飯屋で話を聞くと、いっしょにこないかと、誘った。
京都の荒神口に太物を扱う小さな店もっていた男であった。
夜、簡単には寝かせてくれなかった。
が、痛さは、もう、消えていた。

男の裏の仕事は、泥棒であった。
は、見張りをさせられた。
男の名は、助太郎といった。

小金の隠し場所を知り、男が仕入れに出ているすきに、あり金を盗(と)って大原のほうへ逃げようとしていたら、中年の男に呼びとめられた。
「お前さん、その装束(なり)やと、すぐに見つかってしもうて半殺しにされる。悪いようにはせえへんから、わてのところに隠れなはれ」
その男が〔堂ヶ原どうがはら)〕のお頭であった。
堂ヶ原〕のお頭は、躰を求めなかった。
ただ、引きこみに入った店の者になぶられたことは少なくなかった。
小浪の生まれつきの美形が、男たちをその気にさせるのである。

ちゅうすけ注】〔堂ヶ原(どうがはら)〕の忠兵衛親子は、『鬼平犯科帳』文庫巻16[見張りの糸]に登場する元盗賊。

盗みのいっぱしの手管をおぼえたところで、〔堂ヶ原〕の忠兵衛親子が一家を解散することになったので、退職(ひ)き金を分配され、ひとり働きとなった。

それで知りあった〔狐火(きつねび)〕のお頭とのくだりは、2008年10月23日[うさぎ人(にん)・小浪] (7)

「そやさかいに、うちには、初めてぇのときのええおもいちゅうのんは、おへんどしたんどす。長谷川はんが気ぃつこうてはるのんは、おのお方はんのためやろおもいますねんけど、あんじょうにしてあげておくれやす。うちからもお願いしぃます。おなごはんの一生のおもいでどすよってに---」
「その、あんじようを訊きにきているのです」
「そやなあ。ゆっくり、じっくり---おんごはんがその気ィになって燃えはるまで、ゆっくり、しいはることやおへんやろか」
「ゆっくり、じっくり---ですか」
「そうだす。ゆっくり、じっくり、たんねんに。たんとときをかけて。長谷川はんはお若ぅおすよって、気ぃがせきはらますやろけど、じぃっとこらえはって---」

「もう一つ、教えてください。温泉宿で---と言われています。どこか、おこころあたりの温泉は?」
「難儀どすなあ。ただ、旅にでぇはるのも気分が変わってよろしおすけど、なごう歩くのんは、初めてのあとのおなごはんにはきつおすえ。そや、船の旅やったら、初めてのあとかて、やさしゅうおすわなあ」
「船旅---」
「いまは季節が寒ぅおすよって、あと、2タ月もしたら、陽気もようなりますやろ。木更津へんなら、船でいけるし、温泉かておますやろ」
「木更津---おもいつきませんでした。あ、そろそろ、〔木賊(とくさ)〕のお頭のところの今助どのが見える時刻ですな。失礼しなくては---」
「なんや、しったはりましたん? 怖いお人やこと」
小浪は、形のいい唇を、小舌でちらりとなめた。
誘いこむような、色気たっぷりの仕草であった。


ちゅうすけからのお願い】京都あたりにお住まいの鬼平ファンの方。小浪の京言葉のおかしなところをご訂正ください。

| | コメント (0)

2008.12.18

「久栄の躰にお徴(しるし)を---」(3)

(つきあいが狭すぎる)
銕三郎(てつさぶろう 23歳)は、自分のつきあいの狭さを、つくづく嘆いた。

いや、男同士なら、狭くはない。
しかし、おんなとなると、いまのところ、5本の指にもみたない。
うち、2本は、おまさ(12歳)とお(きぬ 13歳)だから、まだ子どもといっていい。

このことは、母・(たえ 43歳)にも、本家の於左兎(さと 44歳)伯母にも、納戸町の於紀乃(きの 69歳)大叔母にも訊けるようなことではない。

気軽に教えてくれそうな阿紀(あき 享年25歳)はこの世のものではないし、おは黙って消えた。

Up_250
(国芳『江戸錦吾妻文庫』 阿紀のイメージ)

(しず 21歳)は京都だ。

ニッ目通りの弥勒寺門前の茶店〔笹や〕のお熊(くま 45歳)に訊こうものなら、それこそ狼の前の兎---たちまち、あの40おんなの餌食にされてしまうのが目にみえている。
銕三郎は、思案につまって、高杉道場の帰り、永代橋東詰の居酒屋〔須賀〕を訪れた。
長谷川さま。お久しぶりでした」
七ッ(午後4時)を打ったばかりなので、お須賀(すが 30歳)は、まだ、化粧もしていない。

「恥をしのんで、お須賀どのに教えていただきたいことがあります」
「なにごとでございましょう、長谷川さまが恥をしのんでとは---お金の工面なら少しは---」
「とんでもございませぬ。鳥目(ちょうもく)なら拙も、十分ではないが持ちあわせております」
「銭金(ぜにかね)でないとすると、おんな? まさか」

亭主の〔風早(かざはや)〕の権七(ごんしち 36歳)は板場で包丁をにぎっているのか、姿をみせない。

「いえ。その、おんな---です」
「まさか? できてしまったので?」
「いや。そうでは---」
「でなければ、なんでしょう?」
「お須賀どのの初めてのときのことを---」
「初めて---といいますと?」
「そのう、処女(おとめ)から、おんなになったとき---」
「いやですよ。こんなおばあちゃんに---処女時代のことなんかお訊きになって---」
「いや。初めて男を受けいれると---」
「あら。すっかり忘れておりました」
「やはり?」
「ええ」
「ひどく?」
「いえ。縫い物をしていて、針を持つ手元がすべって、ちくりときたような---」
「それを、感じさせない方法はありませぬか?」
「さあ。でも、そのことは、むすめ時代から聞きおぼえで、みんな、それとなく、覚悟はしていますからねえ。でも、そのうちにそのことがよくなり、好きになってきてしまい、つい、あのときのことは、忘れてしまいます。なんのかんのと言っても、たった一度きりの、またたきするあいだのことですからねえ、好きな男との---」
須賀は、齢甲斐もなくはにかんだ。

「なんの話だえ、うれしそうな顔して---」
板場から権七があらわれた。

「お前さんにはかかわりのない話さ」
長谷川さまにかかわることなら、おれにもかかわりがあるぜ」
「あたしが、おんなになったときのことさ」
「お前は生まれたときから、おんなでねえか」
「初めて男が入ってきたときのこと」
「はいってきたって---そりゃあ、お前のほうが招きいれたんでねえか」
「馬鹿お言いじゃないよ。お前さんとのときは、無理やり押しこんできたくせに」
「なにぬかしとる。お前は、躰をそり反えらせよがったぞ」
「それは、はいりきったあとの話。馬鹿だねえ、独り身の長谷川さまの前で、あられもない話におとして---」

「え? 初めてのとき、痛がらせないやり方を知らないかってんですか? そんな技(て)は、世界中さがしたってありゃしませんぜ。四の五のい言わせねえで、ずばっとひとおもいにいくんでさあ」
「万事の荒っぽいお前さんとは違うんだって、長谷川さまは。相手のおなご衆のことをおもいやって、思案していらっしやるんです」
「はしたない話を持参して、女将どの、ご容赦ください。また、そのうちに、ゆっくり、呑みにきます」

銕三郎は、永代橋を西へ渡った。
川風が、めっぽう、冷たかった。
川面も縮んだような小波をつくっていた。
それで、銕三郎は、6本目の指をおもいついた。

| | コメント (0)

2008.12.17

「久栄の躰にお徴(しるし)を---」(2)

翌日から、銕三郎(てつさぶろう 23歳)は、老職(老中)、少老(若年寄)、側用人、月番の奏者番(そうじゃばん)、それに、平蔵宣雄(のぶお 50歳)の配慮で、奥祐筆組頭の2人の家へもお礼の挨拶廻りをした。

挨拶廻りには、家格にふさわしい供ぞろえを従えなければならない。
長谷川家は、いまは宣雄が1500石高の先手・弓の組頭をしているが、銕三郎のほうは非役であるから、家禄400石の供ぞろえでいい。
それも略式で、侍、槍持ち、馬の口取り、挟み箱持ち、草履取りを各1人ずつ。
侍は、父・宣雄桑島友之助(とものすけ 35歳)が用人役もかねてくれたが、あとは口入れ屋から雇った。

老僕・太作(たさく 62歳)は、曲りはじめた腰をたたきたたき、裃姿の銕三郎に涙声で訴えた。
「もう3年早かったら、若の初見のお礼廻りにゃあ、この太作めが口取りをいたしましたものを---」

もっとも、銕三郎としては、お礼廻りのあいだ中も、久栄の処女(しょじょ)の徴(あかし)を貰いうけるのにふさわしい場所のことで頭がいっぱいであった。

お礼廻りそのものは、門番に用件をつげ、式台の用人に名刺と鰹節の箱を差し出し、
「このたびは、いろいろとおこころ遣いを頂戴し、めでたく初見参の儀をすませることがかないました。お礼に参上いたしました」
受けるほうは貰いなれてはいるが、初見の者たちのことゆえ、一応、
「おめでとうござる。ま、しっかりお仕えなされ」
と励ます。

老中、若年寄の役宅は、江戸城の東の曲輪(まる)の内に集まっているので、手間はかからない。
そのリストを掲げておく。

老中
松平右近将武元(たけちか 59歳)
  上野・館林藩主 6万1000石
松平右京大夫輝高(てるたか 44歳)
  上野・高崎藩主 7万2000石
松平周防守康福(やすよし 50歳)
  三河・岡崎藩主 5万400石
阿部伊予守正右(まさすけ 46歳)
  備後・福山藩主 10万石

西丸老中
板倉佐渡守勝清(かつきよ 63歳)

若年寄
水野壱岐守忠見(ただみ 39歳)
  上総・鶴巻藩主 1万3000石
酒井石見守忠休(ただやす 55歳)
  出羽・松山藩主 2万5000石
鳥居伊賀守忠孝(ただたか 52歳)
  下野・壬生藩主 3万石
加納遠江守久堅(ひさかた 60歳)
  伊勢・八田藩主 1万石
水野豊後守忠友(ただとも 38歳)
  三河・大浜藩主 1万3000石

西丸若年寄
酒井飛騨守忠香(ただか 54歳)
  越前・鞠山藩主 1万石

側用人
田沼主殿頭意次(おきつぐ 50歳)
  遠江・相良藩主 2万石

月番奏者番
久世出雲守広明(ひろあきら 38歳)
  下総・関宿藩主 5万8000石
 上屋敷=小川町 

問題は、蔭の実力者である奥祐筆の組頭。
職高は500石だが、家禄が150表と低いから、拝領屋敷も広くはない。200坪あるかないかだ。
しかも、武家の家は表札を掲出していない。探しあてるのがことである。

臼井藤右衛門房房臧(ふさよし 58歳 150俵)。
  屋敷=飯田橋モチノ木坂下の通り

参照】2008年8月21日[宣雄の後ろ楯] (7)
2008年6月11日[明和3年(1766)の銕三郎] (5)

橋本喜平次敬惟(ゆきのぶ 48歳 150俵)
  屋敷=神田明神下

参照】2008年6月23日[宣雄の後ろ楯] (9)
 
両組頭の屋敷を父・宣雄に訊くと上記の、臼井は飯田橋モチノ木坂下の通り、橋本は神田明神下としか答えてくれなかった。
神田明神下御台所町には、銭形平次というご用聞きの裏長屋もあるから、訊く(冗談!)こともできようが、臼井藤右衛門のもちの木坂通りは幕臣の家ばかりだから、尋ねることもできまい。
(それに、いまは、久栄とのことで頭がいっぱいなんだ)

そういう銕三郎を見かねたか太作が、
「若。奥祐筆の組頭さまのお屋敷を捜してくる役ぐれえは、太作にふってくだせえ」
そういって、出かけて行った。

なにしろ、14歳だった銕三郎に、東海道・三島宿で、20歳代半ばの若後家・お芙沙(ふさ)をあてがって男に脱皮させた老僕だから、銕三郎のことは、親類の子も同然である。

参照】2007年7月16日[仮(かりそめ)の母・お芙沙(ふさ)] (1) (2)

太作が捜しあててきた両家の所在は、下の切絵図(尾張屋板)の通り。

飯田橋モチノ木坂下の通りに面しているの臼井藤右衛門の屋敷。右手へ行くと飯田橋。
モチノ木坂は、九段坂の北の中坂のさらに北の坂名。
_360
(ただし、切絵図が後代の年のものなので名は後裔となっている)

神田明神下の橋本喜八郎の屋敷。後裔も襲名している。
_360_2
(同じころの近江屋板には同場所にない。転居したか)


  

| | コメント (0)

2008.12.16

「久栄の躰にお徴(しるし)を---」

銕三郎さま。さきほどのご老職(老中)・阿部伊予さまのご返礼の声色、いま一度、おきかせくださいますか」
沈黙の歩みにたえかねたように、久栄(ひさえ 16歳)が頼んだ。
阿部伊予守忠右(ただすけ 46歳 備後・福山藩主 10万石)が月番老中だったのである。

ちょうど、柳の巨樹のある林町2丁目角であったので、銕三郎(てつさぶろう 23歳)は足をとめ、葉のない枝垂(しだ)れの下へ寄り、
「うん。こうかな。『いずれも、念を入れて勤めい』---」
まず、将軍・家治(いえはる)の声色をやると、引き取った久栄が、阿部伊予の口調で
「忝(かたじけの)う、受けたまわりました。念を入れてあい勤めます---」
と、銕三郎の襟元に手をかけて引きよせ、目をつむって唇をだし、
「あい勤めますゆえ、ご褒美を---」
つぶやき、銕三郎の口づけを待つ。

鬼平ファンは、久栄は、隣家の近藤勘四郎に、17歳の処女のあかしをうばいとられたのではないのか---と不審がられよう。
鬼平犯科帳』文庫巻3[むかしの男]p257 新装版p269 ではそういうことになっている。

しかし、史実は違う。
いや、久栄銕三郎との結婚前に処女でなかったなどという史料があるはずはない。
そうではなく、長谷川家は入江町ではなく、竪川をはさんだ反対側---南本所の三ッ目の通りに面して屋敷があった。いまの地番でいうと、墨田区菊川3丁目15~16 都営地下鉄・新宿線の菊川駅の真上である。

また、久栄大橋家は、和泉橋通りだから、いまのJR秋葉原駅東の、首都高速1号上野線ぞいである。
隣家などではない。
そして、近藤勘四郎は架空の人物だが、入江町の鐘楼の前にぽつんと住んでいたのであろう。

参照】2008年9月25日~[大橋家の息女・久栄(ひさえ)] (6) (7) (8)

ちゅうすけ注】プライバシーに触れるからためらわれるのだが、池波さんはなにかのエッセイで、結婚の相手に処女性を求める愚を書いている。突然なので、探索する時間はないのだが。

そういうわけで、このとき、久栄は処女であった。
口づけも、おそらく、初めての経験といえよう。

その証拠に、銕三郎が長い口づけを解いたとき、腰が抜けたようにぐったりともたれかかってきた。
生まれて初めての性的な感覚が、腰のあたりから太股にかけて、極度に高まった結果であろう。
「歩けるかな?」
訊くと、頭をふった。

しばらく、かかえていたが、
「そこまでだから---」
と、脇をささえながら、ニッ目ノ橋をわたり、〔五鉄〕に連れていった。
板場から気がついて三次郎(さんじろう 19歳)がすっとんで出てきた。
「どうしましたか?」
「急にめまいがおきたらしい」
「2階の奥の部屋が空いてます」

板場をぬけ、裏の階段から2階の小部屋へ上がっていった。

ちゅうきゅう注】『鬼平犯科帳』でしばらくおまさが寄宿し、その後は彦十(ひこじゅう、そして〔高萩たかはぎ)〕の捨五郎(すてごろう)も住んだ、東側が雪見障子になっている部屋である。

三次郎が手早く布団を敷き、横たえた。
久栄は、うわごとのように、
銕三郎さま、銕さま---」
(これで、処女の徴(あかし)をいただく段になるともどうなってしまうのだろう?)

三次郎が板場へ降りたので、
「久栄どの。帯の結び目が苦しくはありませぬか」
「はい。解きましょうか?」

「楽になるなら」
銕三郎も手を貸した。

(ここでではない。ここではいけない。もっと、清らかなところで---)
銕三郎の妄想は、あちこちに飛んでいる。

_360_3
(湖竜斉『色道取組 銕三郎が描いているイメージ)

銕三郎さま。旅にでませぬか?」
目をぱっちりとひらいた久栄がつぶやいた。
「え?」
「婚前の旅。すてきでしょうね---」
「うむ」
「温泉などがあるところがいいですね。ごいっしょにお湯につかり、お湯をかけあったりして---」
(なんと無邪気な。男兄弟なしで育ったせいかな---。処女の徴(しるし)を与えるということを、どう、かんがえているのだろう?)


ちゅうすけのムダ話】
昨夜、20年來つづいている[初午会]の夕食会での、虎の門のJTビルの黄鶴楼からの帰り、銀座線・虎の門で足がすべってよろめいたら、「大丈夫ですか?」と声をかけてくれた初老の紳士が、なんと、京極さん。
ほら、『鬼平犯科帳』で、鬼平の理解者だった若年寄、丹後国峰山藩主だった京極高久のご子孫。
とはいえ、この方は、但馬の元・豊岡藩主の第4子で、峰山藩へ養子に入っているから、まあ、高久とは直接のつながりはないんだけど。
「奇縁ですなあ。もう、一パイ、どうですか」
ということになり、京極氏の行きつけの、ギンザの〔ルバン〕へしけこんだ。
〔ルパン〕は、太宰治や織田作之助、坂口安吾が常連だつた店、かつての太宰ファンとしては、うれしいかぎり。
ついでだが、マスターの開さんも、、『鬼平犯科帳』も『剣客商売』も文庫でぜんぶ所有と。またうれしくなって、出たばかりの新書『クルマの広告』(ロング新書 950円)を進呈。
なぜ、著編著をもっていたかというと、[初午会]のメンバーに配るために持参していたのだ。
ところが、物故者がせふえて、いま残っているのは12名---うち、出席者は、鎌倉節(前宮内庁長官)氏、日下公人(評論家)氏、金子仁洋(元警察大学校長)氏、唐沢(元衆議員議員)氏、谷川和雄(元衆議員議員)氏。
欠席は、竹村健一氏、三宅久之氏、佐々淳行氏、渡部昇一氏ら。

京極氏と、なぜ? じつは、朝日カルチャーセンター[鬼平教室]の講師をしていたときに聴講に見えていたの。


| | コメント (0)

2008.09.26

大橋家の息女・久栄(ひさえ)(8)

「おかしいじゃないか。入江町の長谷川家の左どなりが大橋家、そのまた左に、17歳の処女(むすめ)のあかしを久栄から奪った近藤勘四郎の家があったのではないのか?」([むかしの男]p257 新装版p269)

鬼平犯科帳』の熱烈なファンほど、疑問をお投げになる。
その疑問は、ダルビッシュ有くんの直球の強さほどに、ずっしりと重い。

熱烈ファンの方なら、

参照】2007年8月13日~[大橋家から来た久栄] (2) (1)

の逆順に、お目とおしいただきたい。
ついでに、

参照】2007年9月6日[『よしの冊子(ぞうし)』 (4)
2008年3月8日~[南本所三ッ目へ] (9)

ファンの夢をこわすみたいで、申しわけない。
ちゅうすけだって、文庫3[むかしの男]の名場面がなりたたなくなることを憂えてはいる。
しかし、小説と史実は違うのだ---と、割り切ることにしている。

このプログは、小説でもないし、歴史書でもない。
「じゃあ、なんなんだ?」
問われると、
銕三郎(てつさぶろう)のヰタ・セクスリアス(性の放浪)であり、〔荒神(こうじん)〕のお(なつ 26歳)に誘拐されたまま未完となっている、おまさを救出するためのあれこれ」
こう、答えるしかない。

むかしの男]の名シーンとは、

久栄が平蔵の妻になったとき、
「このような女にても、ほんに、よろしいのでございますか-----? 」
久栄が両手をつき、平蔵に問うた。
「このような女とは、どのような女なのだ?」
「あの、私のことを---」
「きいたが、忘れた」
「ま------」
「どっちでもよいことさ」
「は---」
「おれはとても極道者(ごくどうもの)だ。それでよいか、と、お前さんに問わねばなるまいよ」
いうや平蔵、ぐいと久栄を抱き寄せ、右手を久栄のえりもとから差しこみ、ふくよかな乳房をふわりと押さえつつ、
「久栄」
「はい---」
「お前、いい女だ」p260 新装版p272

男なら、一度でいいから、言ってみたい、やってみたいシーンであろう。
もっとも、最近は、ウ゜ァージニティなど、むしろ、男性のほうに多いのかもしれないが。

もう一つの、結婚23年後の名セリフ。

「それよりも久栄。お前もまた、むかしの男に何と強(きつ)いまねをしたものだ」
「存じませぬ」
「怒るな。いやみを申したのではない」
「申しあげまする」
「何じゃ?」
「女は、男しだいにござります」p287 新装版p300

若い女性が、『鬼平犯科帳』に惹(ひ)かれるところでもある。
もっとも、妻からこう言われて、忸怩(じくじ)たるおもいをする男性も少なくなかろうか---ちゅうすけは、忸怩の側である。

さて----明和5年(1768)の春、〔五鉄〕の2階へ戻って。

母親違いの姉・英乃(ひでの 22歳)のこころの傷を語り、自分は、養子をとる気はない、大橋の家を出たいのだ、と銕三郎(てつさぶろう 23歳 のちの鬼平)に打ち明けた久栄(ひさえ 16歳)が、
「家の恥を、はしたなくも口にした久栄を、銕三郎さまは、軽蔑なさいましたでしょうね?」
その目には、行灯の明かりをうけて、涙が光っていた。

(ここで抱けば、久栄はおれのおんなになる)

_300
(国芳『逢悦弥誠』 イメージ)

しかし、銕三郎は動かなかった。
久栄も、くずれてはこなかった。

「失礼をいたしました」
久栄が涙をぬくったとき、銕三郎は、
「武家の婚儀は、家と家の取り決めです。今宵の久栄どののお申し出は、母へ通じておきます」
「あ---」
「母は、さいわいなことに、久栄どのに好意を感じているようです」
「かたじけないことです。ありがとうございます」

「これから先のことは、親同士の手へ移すことに---」
「はい。でも、ときどきお逢いするのことぐらいは、私たちに許されているのでございましょう?」
おまさの師匠同士として---」
銕三郎は、無理に微笑んだ。

久栄も、もう、涙を浮かべてはいなかった。
その双眸で見返してきた。

久栄どの。拙の頼みを聞いてくださいますか?」
「なんでございましょう?」
「これを、久栄どのの麗筆で、写本していただきたいのです」
「『孫子』。いつまでにでございますか?」
「2日後---」
「三ッ目通りのお屋敷へお届けすればよろしいのでございますね?」
「拙が留守のときは、母へ、お渡しおきください」
久栄が、心得顔で、ゆったりと微笑んだ。
16歳とは、とてもおもえない、まさしく世故にたけた、大人のおんなの笑みであった。


[大橋家の息女・久栄(ひさえ)] (1) (2) (3) (4) (5) (6) (7)

| | コメント (0)

2008.09.25

大橋家の息女・久栄(ひさえ)(7)

[大橋家の息女・久栄(ひさえ)](6)でご披露した大橋与惣兵衛親英(ちかふさ)の[個人譜]にはつづきがある。
といっても、明和5年(1768)の春の銕三郎(てつさぶろう 23歳)と久栄(ひさえ 16歳)には関係が薄いが、再録ついでにつけくわえておく。

_360_2
_360_3
(大橋与惣兵衛親英の個人譜と久栄)

こういうものを見なれていれば、明和5年(1768)の久栄が16歳、父の与惣兵衛親英は卒した寛政8年(1796)が83歳なら、明和5年には55歳---と勘定なさろう。
とすると、久栄親英が39歳のときの子、二女・英乃(ひでの)は33歳の子とも暗算なさる。

久栄は、井口(いのぐち)家からの後妻の子とも言っていた。
二女・英乃(ひでの 22歳)は、万年家からの先妻---この先妻は離縁とも書かれていないし、万年家のほうの家譜にも離婚とは書いていないから、病死したものとかんがえられる。

後妻の最初の子が久栄であるから、亡じたのは、英乃が3,4歳のころであろうか。

親英は、先代・親定(ちかさだ 享年68歳)の末期養子に近い。
黒田家から19歳のときに迎えられた。
出仕は、それから5年後の元文2年(1237)。

役料なしの廩米200俵では、内証(ないしょ 暮らし向き)に余裕があるとはいえなかったかもしれない。
銕三郎久栄が出逢ったときには、西丸の新番の与頭(くみがしら 組頭とも書く)であったから、600石格で、400石の足(たし)高がついていた(もっとも、400石といっても、4公6民ということで、じっさいに給されるの400石の4割---160石であったらしい)。
それでも家禄に近い実収増である。

久栄が、「家の事情」といったのは、そういう家計のことではなかった。
「いずれお耳に入るとおもいますから、英乃姉上の病いのもとをお話しておきたかったのです」

英乃は、17歳のときに最初の夫を迎えた。
家譜に、某---岩佐五郎右衛門茂伴(しげとも 享年38歳 70俵5人扶持)の3男・左膳とある仁であったが、病気持ちとわかって、すぐに養子縁組が解消された。

_360
(岩佐左膳の個人譜)

去年の秋に迎えたのは、名門・京極一門ではあるが、末流に近い三右衛門高明(たかあきら 享年45歳=安永8年(1779) 2000俵)の弟・高本(たかもと 推定30歳)。

ちゅうすけ注】池波さんが、『鬼平犯科帳』で、平蔵宣以(のぶため)の理解者としている京極備前守高久(たかひさ 丹後・峯山藩主 1万1000余石 のちの若年寄)はこの一門。
参照】2006年4月11日[若年寄・京極備前守高久

_360_2
(京極文次郎高本の個人譜 水野姓から京極へ改姓)

その齢まで養子の口がかからなかった原因は、言動が異常者じみているからと、養子にとってみて分かった。
そのせいで、英乃はこころの病いになり、高本はとりあえず実家に引きとってもらっているが、与惣兵衛親英は、2人つづいての養子の不縁は世間体(てい)も悪(あ)しく、自分の見識も疑われると、離縁にはいまもって首を縦にふらない。
(2年がかりで、けっきょくは不縁となったことはなったが---)

「わが家の、2人つづけての養子不始末のことは、いずれ、世間の噂になるでしょうが---」
長谷川家は、他家のことは語らないことになっておりますゆえ---」
「家の犠牲になった形の、英乃姉上が痛わしくてなりませぬ。20歳をちょっとでたばかりの若い身ぞらで---。そして父は、こんどは私の婿養子を考えているようなのです。私は、嫌。お嫁にいって、大橋の家をでるつもりです」
銕三郎は、相槌(あいづちう)がうてず、久栄の潤(うる)んだ双眸を見つめるばかりであった。


[大橋家の息女・久栄(ひさえ)] (1) ((2) (3) (4) (5) (6) (8)


| | コメント (0)

2008.09.24

大橋家の息女・久栄(ひさえ)(6)

銕三郎(てつさぶろう 23歳 のちの鬼平)、大橋家の久栄(ひさえ 16歳)の出逢いを書いている。

しかし、読み手の理解を鮮明にするために、ちゅうすけは、すこし先走って、久栄の年賦を掲出しておきたい。

宝暦3年(1753)  大橋与惣兵衛親英(ちかひで)の次女として誕
            生。 
            母はその後妻。幕臣・井口新助高豊の三女。

明和5年(1768)  銕三郎と知り合う。
     (16歳)

明和6年(1769)  長谷川銕三郎宣以(のぶため)と婚儀。
     (17歳)

明和7年(1770)  嫡男・辰蔵を産む。
     (18歳)

安永元年(1772)  長女・を産む。
     (20歳)    河野吉十郎広通の妻。 

安永3年(1774)  次女・を産む。
     (22歳)   渡辺義八郎久泰の妻。
天明元年(1781)  二男・正以を産む。
     (29歳)   長谷川栄三郎正満の養子。

天明3年(1783)  三女を産む。
     (31歳)

寛政7年(1795)   夫・平蔵卒(享年50歳)。
     (43歳)

文化12年(1815)  久栄
     (63歳)   法名・滋雲院殿妙瑞日光大姉


銕三郎さま。聞いていただけますか?」
「なにを、ですか?」

本所もはずれに近い、四ッ目の裏通りの居酒屋〔盗人酒屋〕から、下谷・和泉通りの大橋家まで、久栄を送っての道すじである。

「私の家の複雑な事情を---でございます。ご迷惑でございましょうか?」
「よそさまのご家庭の事情に、深入りしてはいけないと、つねづね、父から言われております」
「やっぱり---」
「いえ。お話しになることで、久栄どののおこころの苦痛が、薄らぐのであれば、喜んでお聞きします。ただ---歩きながらでは失礼です。もう一軒、おつきあいくださいますか?」
「うれしい」

銕三郎は、二ッ目ノ橋北・東詰の〔五鉄〕へ、久栄をいざなった。
[軍鶏(しゃも)鍋」と白ぬきした紺のれんをくぐると、板場の格子ごしに三次郎(さんじろう 明けて18歳)が目ざとく認めて、包丁を置いてでてきた。

さぶどの。上の部屋を借りたいのですが---」
「どうぞ、どうぞ」
「酒となにか---」
「軍鶏の肝の甘煮でも---」
「頼みます」

三次郎が小女に準備を言いつけているあいだ、入れこみの端に腰をおろした久栄は、双眸をきらきら輝かせて店内を眺めている。

「軍鶏は初めてでございますか?」
問いかけた三次郎に、
大橋と申します。はい、軍鶏鍋は、まだ、いただいたことがございませぬ」
「こんど、長谷川さまと、早い時刻においでになって、お試しください」
「はい、そういたします」

入れこみの奥の階段をあがっていく銕三郎に、三次郎が片目をつむった。
銕三郎は、頭をかすかに振った。
三次郎がうなづく。

酒と肴は、三次郎がみずから運んできて、まず、久栄に酌をし、
「どうぞ、肝をお試しになって---」
久栄が箸をとり、1片を口にいれ、
「あ、柔らかくて、香ばしい」
感嘆の声をあげた。
三次郎は、すっかり満足して、降りていった。

「お酒は大丈夫ですか?」
銕三郎が訊いた。
「はい。父が毎晩のようにいただきます。お相伴は私なのです」
「そういえば、お姉上のお具合は?」
「おぼえていてくださったのですね。うれしゅうございます」

_360
(大橋与惣兵衛と久栄)

あすまでに、朱傍線の部分だけでも、一瞥しておいていただけると、話がすすめやすい。


[大橋家の息女・久栄(ひさえ)] (1) (2) (3) (4) (5) (7) (8)


| | コメント (0)

2008.09.23

大橋家の息女・久栄(ひさえ)(5)

(てつ)兄(に)さん。このあいだ、どこかで食べておいしかったと言っていた、田にしの酢味噌和(あえ)え、お父(とっ)つぁんが工夫しました。食べますか?」
おまさ(12歳)が、ことさら親しげな口調で、問いかけた。
おまさとすれば、あたしと銕三郎(てつさぶろう 23歳 のちの鬼平)との仲は、きのうきょう、始まったのではないと、久栄(ひさえ 16歳)にあてつけたのである。

久栄は、聞こえなかったふりをして、おまさの手習い帖を眺めている。

「おお、頼む」
銕三郎が答えたとき、2人づれの早めの客が入ってきて、見慣れない武家むすめ・久栄のほうをじろじろと眺めると、おまさはその視線をさえぎるように立ち、注文をとった。
対抗意識を燃やしながら、早くも、仲間意識も芽生えている。

板場から、亭主の〔たずがね)〕の忠助(ちゅうすけ 45歳からみ)が察しよく、ちろりと田にしを運んできた。
「のびるをあしらってみました。お口にあいますか?」

箸を久栄へもせた銕三郎が、田にしをつまんだ。
しこしこした歯ごたえ、身の舌ざわりに、ふと、なにかを思いだした。
(はて、この感触は---あ、お(なか 34歳)の乳首!)

顔に血がのぼったような気がして、思わず久栄をうかがったが、久栄は、頬をゆるませながら田にしをあじわい、
「母方が、近江の出の井口(いのくち)家の者で、元は浅井(備前守長政)さまに属しておりましたから、田にしは、わが家でもよく膳にのぼりますが、のびるの根まであしらったこの味は、格別でございます」

ちゅうすけ注】井口家は、徳川秀忠の内室・於江与(およえ)の推薦で幕臣となった。於江与は、太閤秀吉の養女だが、じつは浅井長政の息女。

うなずきながら銕三郎は、けしからぬことをかんがえていた。

B_360
(北斎『ついの雛形』部分 イメージ)

の乳首は、むすめのお(きぬ 13歳)と多くの男どもがが吸って、肉もこっちの田にしの身ほどもついているが、処女(おとめ)の久栄どのの乳首は、ちんまりしたほうの田にしほどであろうか。色もあざやかな桃色で---)

客への酒と肴の配膳をすませたおまさが、
大橋先生は、いつから来てくださるのですか?」
「おお、そのこと、そのこと---」
銕三郎はそう言ってから、いつかの母・妙(たえ 43歳)の言葉をおもいだした。

が座敷女中をしている雑司ヶ谷の料理茶屋「橘屋」でのことであった。
「このお部屋へ入りましたとき、香が炷(た)かれているのに気づきました。先日、銕三郎の着物から匂ったのと同じような香気と、いま、合点しました。伽羅(きゃら)とは異なり、清涼な感じがふくらんでいるやにおもいます。おどの、なんという香木でしょう?」
に、こう問いかけた。
と出事(でこと 交合)をする部屋で、脱いだ着物に香(こう)の匂いがしみ、翌日までのこっていることを、が言ったのである。

(すると、男女のそれの匂いものころう。もっとも、久栄どのは生(き)むすめゆえ、あの匂いの正体は知るまいが---生きむすめだけに、鼻はするどかろう。5の日のすぐあとは避けよう)

大橋どの。3の日ごということでいかがでしょう? 拙の道場での稽古も早くあがる日です。3の日ごとの七ッ(午後4時)から小一時間ということでは?」
「私のほうのお稽古ごとは、その時間にはございませぬ」
おまさ。そういうことに---」
兄さまも来てくださるの?」
「邪魔か?」
「とんでもない。2人ものお師匠(っしょ)さんなんて、豪儀だわぁ」

それまで、3人のやりとりを黙って聞いていた寅松が、泊めてもらっている家が四谷(よつや)なもので、遅くなると迷惑をかけるので---」
腰を浮かせながら、
「親分。明日、三ッ目通りのお屋敷へ伺ってもええでな?」
「昼すぎからなら、いつでも---」
「それでは---」
帰って行った。

そろそろ、客がたて混んできはじめたので、おまさも忙しく動きまわるようになった。
銕三郎は気をきかせて、久栄をうながした。

外は、すでに暮れかけていた。
おまさが、提灯と替えの蝋燭を3本、用意した。
下谷(したや)・和泉橋通りの大橋家まで、銕三郎が送って行くことを、少女らしいませた勘で見通していたのである。

竪川ぞいに銕三郎と並んであるくのも、久栄は、当時の武家のむすめとしては変わっていた。男の後ろから3歩遅れてあるくのが礼儀にかなっているとおもわれていたのである。
「並びませぬと、お話が通じませぬ」
久栄どの。拙には、敵がおります。暗いところではかまいませぬが、昼間は、避けておいたほうがよろしいでしょう」
「敵とおっしゃいますと---?」
「盗賊の一味です」
「なぜ、盗賊が銕三郎さまを---」
すでに、人目のないところでは、長谷川さま、大橋どのどでなく、銕三郎さま、久栄どのに、それが当然のように変わっていた。

「そ奴どもの探索をしましたので---」
「では、甲州へのお旅も?」
「からんでおりました」
「お気をつけあそばして---」
「拙は大丈夫ですが、久栄どのが拙とかかわりがあるように気どられてはなりませぬ」
「手でもつないで、見せつけてやりましょうか」
久栄は、ふっ、ふふと含み笑いをしながら言った。
大胆なむすめであった。
銕三郎はふたたび、不逞な空想をたくましくした。
銕三郎は、塾の悪友が隠しもってきた春画をおもいだし、いま、久栄の口を吸ったら、久栄はどんな抵抗ぶりを示すかと---。
ま、若者にありがちな空想てしかなく、このあたりは、並みの青年と変わらない。
いや、もうすこし悪かも。

_360jpg
(国芳『江戸錦吾妻文庫』[生むすめ]部分 イメージ)


[大橋家の息女・久栄(ひさえ)] (1) (2) (3) (4) (6) (7) (8)

 


| | コメント (0)

2008.09.22

大橋家の息女・久栄(ひさえ)(4)

「兄上。母上がお呼びです」
一応は武家のむすめ風に言ってから、
「兄上、やったじゃないの---」
与詩(よし 11歳)は、肩をすくめた。

駿府城代・朝倉仁左衛門景増(かげます 享年61歳)が晩年にもうけた二女だったが、長谷川家へ養女にきて5年になる。

参照】2007年12月21日~[与詩(よし)を迎えに] (1011121314151617181920212223242526272829303132333435363738394041) 

養父・宣雄(のぶお 50歳)や養母・(たえ 43歳)にはすっかりなじんだが、銕三郎(てつさぶろう 23歳)には、駿府へ迎えにきてもらった道中、お寝しょうの心配をさせたので、いまだに照れがのこっている。
だから、逆に姉さんぶった口をきく。

「やったって、なんのことだ」
さま」
大橋どののご息女か?」
わざと、とぼけた。

銕三郎には分かっていた。
今日あたり、〔あすか山〕の寅松(とらまつ 17歳 掏摸)が、大橋家を訪ねて、久栄一行から掏った金を戻しに行ったはずである。
そのとき、銕三郎に諌められたから、と告げる。

参照】2008年9月8日[中畑(なかばたけ)〕のお竜] (2) (3) (4)

そうすれば、まともな武家の家なら、明日あたり、久栄が礼を述べにやってくる。
しかし、こんなに早々とくるとは---。

「おとないは、これで2度目ですよ。兄上が女性(にょしょう)にとって隅におけない人であることは、阿記(あき 享年25歳)姉上のことでわかっていましたけれど、もう、次の方ができたなんて---」
「ばか。余計なことをしゃべると、嫁入りのときに、おむつのことをバラすぞ」
「意地悪」

客間へ行くと、母・と歓談していた久栄が、先細の三つ指をそろえ、黒々とした双眸で、まともに銕三郎の目をみつめて、
「その節はお世話になりましたばかりか、寅松どのまでお気くばりいただき、まことにありがとうございました」
ふかぶかと頭(こうべ)をさげた。
銕三郎には、久栄の白くきれいな項(うなじ)が、なまめかしく映った。

「いや。もののはずみで、としりあいましてな---」
どもりながら、やっと、言えた。

「〔船橋屋〕のお羊羹をおもちくださったのですよ」
「それは、それは---」
あいかわらず、口がまわらない。

Photo
(羊羹が秘伝の〔船橋屋織江)

【参照】〔船橋屋〕は、2008年8年9日[〔菊川の仲居・お松〕 (8) (10)

「お酒ともおもいましたが、父が、こちらさまはお召し上がりにならないようだと申しましたので」
「そうでしたか。いや、なに---」

銕三郎の、常にない、しどろもどろがつづく。
「ちと、約束がありまして。失礼」

いそいで支度をし、門から離れた角で待った。
しばらくして、供の小者を従えた久栄があらわれたので、
大橋どの」

「なんでございましょう?」
久栄はかすかに微笑んで、銕三郎をみつめた。
目じりがさがって、やさしげな表情になる。
「これから、寅松と逢います。遠路、そのことだけで府内にきたので、慰労してやります」
「それは行きとどいたおこころ遣いですこと---」
「お差し支えなければ、ごいっしょにいかがとおもいまして---」

「遠くでございましょうか?」
「いえ。四ッ目ノ橋のそばですから、ほんの5丁(500m)ばかり---」
久栄は、ちょっとかんがえるふりをして、
十蔵。そなたはお帰りなさい。私の帰りは長谷川さまがお送りくださりましょうほどに---」
みごとに供を帰してしまった。
武家のすめとしては、大胆きわまる決心である。

十蔵は、しつけよく表情も変えず、銕三郎に腰をかがめ、
「お嬢さまを、よろしく---」
とだけ言い、大川のほうへ去った。

「さ。邪魔者が消えました。参りましょう」
久栄が、先に立って三之橋に向かってあゆみはじめたのには、銕三郎のほうが、あっけにとられた形であった。
振り返った久栄は、いたずらっぽく、満面に笑みをたたえている。

_350
(三ッ目ノ橋から〔盗人酒場〕 長谷川邸は、三ッ目ノ橋の左手2丁)

〔盗人酒場〕へ入っていくと、寅松の話しを真剣な顔つきで聞いていたおまさが、飯台から立ち上がったが、久栄を認めて、寄ってはこなかった。

寅松が、
「おや。大橋のお姫さま。またお会いできました」
それで、おまさは、寅松の事件の主(ぬし)だとわかったようであった。

おまさ。手習いのいいお師匠さんをお連れした」
銕三郎が、
「手習い帖をもってきて、観ていただきなさい」
おまさは、しげしげと久栄を見つめていて、動かなかった。

久栄も表情をくずさず、生真面目な声で話しかけた。
おまささんですね。お初にお目もじいたします。久栄と申します。深大寺(じんだいじ)で、長谷川さまに、大層お世話になりました。そのいきさつは、そちらの寅松どのからお聞きになったとおもいます。きょうは、寅松どののご好意のご報告に、長谷川さまのお母上のところへ伺いました。そういたしましたら、寅松どのがこちらにいらっしゃるからと、銕三郎さまがお誘いくださいました。寅松どのに、長谷川さまへ報告できたことをお伝えできる、丁度いい折りとおもい、ご相伴させていただきました。突然のおとない、お許しくださいますよう」

おまさは、一言も返せなかった。
くやしいけれど、大人のおんなと子どもの対面だと、身にしみるほど分かった。
精一杯の笑顔を見せて、
「ようこそ、いらっしゃました」

久栄は内心からの笑顔を返し、
「私にも、4,5年前、おまささんの齢ごろがございました。ちょうどそのころは、お師匠さまに、筆をもつ手を、いつもぴしゃりとぶたれておりました」

おんな同士のすさまじい心理戦に、あっけにとられていた銕三郎が、やっと口をはさめた。
おまさ。拙だと、どうしても男文字になってしまう。おまさはおんななのだから、もう、そろそろ、おんなのお師匠さんのお手本を学んだほうがいいとおもうよ」
おまさがうなずき、手習い帖をとりに2階へあがった。

[大橋家の息女・久栄(ひさえ)] (1) ((2) (3) (5) (6) (7) (8)

| | コメント (0)

2008.09.21

大橋家の息女・久栄(ひさえ)(3)

「その後、神田鍋町の海苔問屋〔旭耀軒・岩附屋〕の賊の探索は、すすみましたか?」
銕三郎(てつさぶろう 23歳 のちの鬼平)は、加藤半之丞(はんのじょう 30歳 火盗改メ同心)に酌をしながら訊いた。
場所は、市ヶ谷八幡宮境内の料理茶屋〔万(よろず)屋〕の座敷である。

_360
(市ヶ谷八幡宮 境内に料理茶屋〔万屋〕=青小〇 近江屋板)

参照】同心・加藤半之丞 2008年2月20日~[銕三郎(銕三郎)、初手柄] (1) (4)
2008年9月3日~[蓑火(みのひ)〕のお頭] (6) (7)

甲州への旅費が半分近くのこっているので、きょうも、銕三郎加藤同心を誘った。

「進展しておりませぬ」
加藤同心があやまる。
加藤同心は、先手・鉄砲(つつ)の16番手、組頭・本多采女紀品(のりただ 55歳 2000石)の組下である。
銕三郎が、お頭(かしら)と親しいことを知っているので、言葉遣いも、おのずから丁寧になる。

「金を強奪してからの、引き上げの経路は、お調べがついているのでしょう?」
「はい。それは---」

加藤同心は書留(かきとめ)役同心だから、事件の記録には、ほとんど目を通している。

神田鍋町から神田川南岸の柳原土手まではずっと町屋つづきで、武家方の辻番所はない。
その代わり、町々の自身番所がいくつかあるが、大晦日から元旦にかけては、掛取りや初詣の人通りが絶えないので木戸を閉めない。
そこが、賊のつけ目であった。
柳森稲荷の下手に舟をもやっておき、一同、それに乗って大川へ逃げたらしい。

_360_2
(神田鍋町=緑〇から 神田川ぞい柳森稲荷=青小〇)

「高輪の牛舎前の松明舟といい、引き上げの舟といい、ずいぷんと、舟を利用していますが、そちらからの手がかりはないのですか?」
「船宿だけでもご府内には700軒からありますからね」
「船宿の舟でしょうか。足のがくような舟を使いますかな」
「たしかに---」
「佃島あたりの漁師の舟とか、深川・洲崎の釣舟とか---」
長谷川さま。それがしは書留役です。捕り方へ命令はできませぬ」
「そうでした。ご無礼をお許しください」
(そういうことだと、居酒屋〔須賀〕で頼んだ、中山道で〔蓑火みのひ)〕の喜之助(きのすけ)が買ったとおもわれる安旅籠調べの件も、岡野与力(41歳)へも通していまい)

参照】2008年8月29日~[〔蓑火(みのひ)〕のお頭]  (1) (2) (3) (4) (5) (6) (7) (8)
2008年9月13日~[中畑(なかばたけ)のお竜] (7) (8)
2008年9月16日~[本多組同心・加藤半之丞] (1) (2)

銕三郎は、そのことを加藤同心に確かめるのははばかられた。
加藤同心を追いつめるようなことになっては、とおもんぱかったのである。

しばならく、気まずい空気がただよった。
気分を変えるように、銕三郎が女中を呼び、新しい酒を頼んだ。

「話は変わりますが、鉄砲(つつ)の16番手の切支丹屋敷下のお組屋敷には、与力の方々もお住まいなのですか?」
話題が変わってほっとしたように、加藤同心が酌をしながら、
「与力の方々は、加賀町にお屋敷をもらわれております」
加賀町---いまの新宿区二十騎である。

「そうでしたか。あそこは、弓の1番手の与力の方々のお屋敷ばかりとおもっておりました」
「二十人の与力の方々がお住まいです。弓の1番手の与力が10家、われわれ鉄砲の16番手の与力の方々が10家---」
「どちらも、格式のお高い組なのですね」

公式には何番手で呼ばれているが、うちうちでは〔駿河組〕---すなわち、駿河以来の伝統を誇っている組なのである。

(そろそろ、雑司ヶ谷へでかけるかな)
銕三郎は、
「ちょっと野暮用がありまして、お先に失礼しますが、どうぞ、ごゆるりとお召しあがりください」

帳場で、加藤同心への手みやげの折詰の分も支払い、提灯を借りて、合羽坂へ向かった。

(34歳)が待ちわびているはずの鬼子母神脇の料理茶屋〔橘屋〕へは、たっぷり1里(ほぼ4km)の畑道をあるくことになる。

_36
(市ヶ谷八幡宮境内の料理茶屋〔万屋〕=青小〇 上は紀州家屋敷 右上〔橘屋〕=緑〇 その下の四角は小石川御殿 『宝永江都図鑑』部分)

参照】[〔橘屋〕のお仲] (1) (2) (3) (4) (5) (6)  (7) (8)

だが、銕三郎がおもいうかべていたのは、おの肉(しし)置き豊な躰ではなく、なんと、凛(りん)とした双眸の久栄(16歳)であった。

〔橘屋〕では、10日ぶりの抱擁というので、おは、もの狂ほしく求めた。
が、ふつと細目をあけて訊いた。
「甲府で、いい女(ひと)に出会ったのですね?」

_300_3
(清長『梅色香』 イメージ)

「どうして?」
「だって、うわの空なんだもの」
「そんなことはない」
(鋭いな)
「もっと---燃えあがらせて---」


[大橋家の息女・久栄(ひさえ)] (1) (2) (4) (5) (6) (7) (8)

| | コメント (0)

2008.09.20

大橋家の息女・久栄(ひさえ)(2)

「お願いの儀がございまして---」
驚き顔で白い顎ひげをしごく手をとめた竹中志斉(しさい 60歳)師に、銕三郎(てつざろう 23歳 のちの鬼平)は、いつになくかしこまって頭をさげた。

長谷川の頼みとは、はて、なんじゃろうかの?」
「『孫子』[虚実篇]を写本させていただきたく---」
「ほう。『孫子』をな」
志斉師は、ますます驚き顔になった。
銕三郎のことを、学問嫌いとばかりきめこんでいたからである。

「どうのような心境の変化かな?」
それには応えず、
「先生。ご所蔵でございましたでしょう?」
「あるにはあるが、貸し出すわけにはいかぬぞ。ここで写本する分にはかまわぬがの」

「拙の用ではないのです。じつは、ご公儀にかかわることでありまして---」
「『孫子』 がか---? はて、面妖な---」
「火盗改メへ本役のお頭・本多采女紀品(のりただ 55歳 2000石)さまからの、たってのお言いつけで---」
「そのような仔細ならば、いたし方ない。して、なんヶ日ほどかの?」
「3日---いや、5日で写本してご返却いたします」

咄嗟(とっさ)に、「5日」と答えた銕三郎のおもわくを推察すると、こうだ。

2日後に、〔からす山〕の寅松(とらまつ 17歳)が、上高井土(かみたかいど 上高井戸)から下谷(したや)・和泉橋通りへやってき、銕三郎に説諭されたからと言い、大橋家に掏(す)った金を返却するはずである。
すると、同家の息女・久栄(ひさえ 16歳)が、そのことを報告に、またも、長谷川家を訪れよう。
その機をとらえて、麗筆の久栄に、『孫子 第6章 虚実篇』を写してくれるように頼む。
そうすれば、写本も持ってきたときにも会える。
断られたら、自写すればいい。
それから返しても、5日あればたりよう。

まんまと借り出した[虚実篇]の出だしは、

孫子曰く、先んじて戦地に処(お)りて敵を待つ者は佚(いつ)し、後(おく)れて戦地に処りて戦い趨(はし)る者は労(ろう)す。故(ゆえ)に善(よ)く戦う者は、人に致(いた)すも人に致されず。能(よ)く敵をして自ら至ら使(し)むる者は、之(これ)を利すればなり。
(敵が戦場に陣を構える前に、到着した待ちかまえて軍は気力が満る。逆に遅れながら急いでたどりついた軍士は疲労が回復せず、士気もあがらない。だから、有利に戦おうとするならば、先手をうって敵をこちらのおもうままに動かし、敵のおもうままに動かされない)。

なにごとも先手をとれ、といういうことであろう。
それには、相手の手のうちを読む先見性が必要である。
そして、誘導する計りごとも。
織田信長公が今川義元どのの軍勢を狭い桶狭間へ誘いこむように仕組んだのもそうだ。ふっ、ふふふ。計ってしたことではないが、久栄どのが再度訪問するかもしれないような手だてになったのも、まあ、敵をしてみずから至らしむ---かもな)

参考】藤本正行さん『信長の戦争』(講談社学術文庫 2003.1.10)

正月の神田鍋町の海苔問屋〔岩附屋〕の押し込みでは、火盗改メは3組とも、後手々々にまわり、賊はあっさり逃げおうした。
(いや、まてよ。賊の逃げ道の探索は聞いていなかった---加藤半之丞 30歳)同心にたしかめることにしよう)。

翌日、まず、牛込(うしごめ)納戸町の長谷川邸に於紀乃(69歳)を訪ね、〔中畑(なかばたけ)〕のお(りょう 29歳)が武田方の軒猿(のきざる 忍び)のゆかりの者であることを報告することにした。

納戸町へ行くのに、ちょっと両国橋までまわり道して、和泉橋通りの大橋家の前をすぎてみたが、久栄は出てこなかった。

ちゅうすけ注】大橋家は、久栄の父・与惣兵衛から2代あとに、和泉橋通りから大塚へ屋敷替えになっているので、鬼平のころの地図には載っていない。
鬼平犯科帳』文庫巻3[むかしの男]p258 新装版p270 に本所・入江町からその後小川町へ移転したとあるのは、小説的虚構。気にするほどのことはない調査不足。

長谷川久三郎正脩(まさむろ 57歳 寄合 4050石)の広大な屋敷の隠居部屋である。
くる日もくる日も、季節の花々のほかはなんの変化もない屋敷で暮らしているこの老女は、武田の忍びのおんなにことのほか興味をもったようで、2朱(2万円ほど)で求めた土産の印伝の紙入れには、ほとんど関心をしめさず、銕三郎をがっかりさせた。
正脩は、別家からの養子で、於紀乃の実子ではない。
於紀乃は産まなかった。
他の腹が3人の子をなした。

もう9年ごし、甲府勤番支配をしている甥の八木丹後守補道(みつみち 55歳 4000石)に文(ふみ)をやって、もっと調べさせると、歯のない口で笑い、
「かっ。かかか。おもしろうなってきましたわい」
と喜んだ。
丹後守さまは、お忙しそうでございましたが---」
「なんの、なんの。山流しの身が忙しいものか」
勤番支配も、老叔母にかかっては、たまったものではない。
まあ、「山流し」は言いえているとしても---。

納戸町から中根坂を登り、左内坂を下ると、市ヶ谷の濠(ほり)に突きあたる。
そこが市ヶ谷ご門。

ご門からまっすぐ南へなだらかに下り、突きあたりが表六番町の通り。
左に曲がると、本多邸はほんの1丁先である。

火盗改メの役宅も兼ねている本多邸の門番が顔をおぼえていて、書留役(かきとめ)役の加藤半之丞(はんのじょう 30歳 30俵2人扶持)へ、すぐに通じてくれた。

出てきた加藤同心は丸い顔をほころばせ、
「市ヶ谷ご門わきに葭津張りの屋台茶店が出ていたでしょう? あそこなら、ゆっくりできます」
「それより、市ヶ谷八幡の境内の料理屋〔万(よろず)屋〕で、軽く---」
「いいですな。書類をしまってきますか、待っていてください」

ちゅうすけ注】市ヶ谷八幡の境内料理茶屋〔万屋〕は、『江戸名所図会』にも描かれている店である。『鬼平犯科帳』文庫巻4[おみね徳次郎]では、〔法楽寺(ほうらくじ)〕の直右衛門(なおえもん 60がらみ=)配下の女盗・おみねが座敷女中として働いていた。また、巻6[狐火]では、ここがなじみの鬼平おまさが呼ばれて、2代目〔狐火(きつねび)〕の勇五郎(ゆうごろう)とのかかわりを白状させられる。

338b_360
(市ヶ谷八幡宮 拝殿のある境内右手の瓦屋根〔万屋〕
『江戸名所図会』 塗り絵師:ちゅうすけ)

キャプション:或人の説に、市谷、昔は市の立ちし地なりゆゑに市買ひに作りたりといふ。しかれども詳らかならず。按ずるに、鎌倉鶴岡八幡宮に蔵するところの延文三年(1358)12月22日の(足利)基氏の古証文に、「鶴岡八幡の雑掌任阿(にんあ)申す。武蔵国金曾木彦三郎・市谷四郎等のこと、江戸淡路守押領を止む。正和元年(1312)8月11日の寄進状に任せ、社家に付きて沙汰せらるべし」と云々。証とすべし。社地に儀台(しばい)・楊弓(ようきゅう)の類ありて、つねに賑はし。また社前の大路は四谷への往来にて行人(こうじん)絡繹(らくえき)たり。

_360_3
【ちゅうすけ注】明治39年(1906)ごろの市ヶ谷八幡宮門前町
『風俗画報』1906年8月1日号 [牛込区之部 下])

境内の〔万屋〕でなく、門前の店でもよかったが、おみねに敬意を表して。

参照】女賊・おみね 2008年4月30日~[盗人酒屋]の忠助 (2) (3) (4) (5) (6) (7)
2008年7月22日[明和4年(1767)の銕三郎 (6)
2008827[〔物井(ものい)〕のお根] (1) (2)


[大橋家の息女・久栄(ひさえ)] (1) (3)(4) (5) (6) (7) (8)

| | コメント (0)

2008.09.19

大橋家の息女・久栄(ひさえ)

大橋さまのご息女・久栄さまがお見えになりりましたよ」
銕三郎(てつさぶろう 23歳 のちの鬼平)が、甲府から帰って、母・(たえ 43歳)の部屋へあいさつに出向くと、告げられた。

「深大寺(じんだいじ)で、銕三郎にずいぶん助けられたと感謝しておいででした」
は、久栄(ひさえ 16歳)が返してよこしたという1分金を2ヶわたしてくれた。

_100
(元文1分金 『日本貨幣カタログ』より)

「おや。2分(8万円)もでしたか。1分は、拙からの荷馬賃にと言いましたのに---」
銕三郎。それは、そなたが間違っております。武家のむすめが、見も知らぬ殿ごからのいわれもないお金を受け取るものではありませぬ」
「しかし、深大寺から---下谷(したや)の和泉橋通りの大橋どのの屋敷までは、たいそうな道のりです」
「そのことと、見知らぬ殿ごからのお金をもらうこととは、別ごとです。お返しになった久栄さまのお気持ちを察してあげなければ---」

「あいわかりました。軽率でした」
銕三郎への、書状も置いていかれました」
「ご大層なことで---」
「これ、口がすぎましょう」

銕三郎は、久栄からの麗筆の手紙を、ふところになおし、はやばやと母の前を去った。
なに、一刻も早く、久栄の文(ふみ)を読みたかったのである。
おんなからの文というだけで、胸がたかぶった。

もちろん、いつかも、〔橘屋〕の座敷女中・お(なか 33歳)から、達筆とはいえない文を貰ったことはある。
しかし、16,7歳という、齢ごろの生(き)むすめからの文というのは、初めてであった。

自室にもどるや、早々に開封した。

深大寺での礼、おかげで姉・英乃(ひでの 22歳)が深大寺そばを堪能し、病状が好転してきていること、銕三郎の甲府への往復の旅の無事を祈念していること---などが、流麗な筆法で記されていた。
書簡の紙には、かすかに香の香りもあった。

304_360
(深大寺蕎麦 『江戸名所図会』 塗り絵師:ちゅうすけ)

銕三郎は、3度読み、文箱にしまってから、また、取り出して読み返した。
読むたびに、胸に暖かいものがはしった。
きりりとした双眸とは逆に、少女からむすめへ移りつつあるほんのりと赤みのある久栄の頬の色がおもいだされた。

急に、おを抱きたくなった。
8日、逢っていない---といっても、おの宿直(とのい)の夜を1回、やりすこしただけだが。
夜をともにできる5の日は明日であった。

あさっては、〔からす山〕の寅松(とらまつ 17歳)が、江戸へやってき、大橋家に掏(す)った金を返すことになっている。
甲府からの帰り、おふくろに顔を見せるという寅松とは、高井土(かみたかいど 上高井戸)の手前で別れた。

大橋家の件をすませたら、〔(たずがね)〕の忠助(ちゅうすけ 45歳前後)がやっている〔盗人酒屋〕で落ちあうことになっている。
だから、〔蓑火(みのひ)〕の喜之助(きのすけ 46歳)の軍者の一人---〔中畑(なかばたけ)〕のお(りょう 29歳)のことを、忠助に話しに行くのは控えた。

納戸町の長谷川家のご隠居・於紀乃(きの 69歳)へ報告に行くには、遅すぎる。
帰りに日暮れてしまう。

なんとも、手もちぶ゜さたで、することもなく時刻(とき)をすごしていると、久栄の、あのときの凛(りん)とした姿ばかりをおもいだす。

いちばん近い儒学の学而(がくじ)塾の竹中志斉(しさい 60歳)師を訪ねることにした。
母にそのことを断ると、養女・与詩(よし 11歳)と召使いのお(きぬ 13歳)に縫いものを教えていたが、笑って、
「珍しいこと」
与詩も冷やかした。
「兄上。どうした風の吹きまわしでございますか?」
生意気ざかりの齢ごろになってきている。
駿府に迎えに行ってやったときには、お寝しょうの心配ばかりさせたくせに。

は、目をあわせなかった。
母のお銕三郎のことにうすうす気がついているようだが、けなげにも、気(け)ぶりにもださない。

北森下町の学而塾は、午後の部の塾生たちはみな退(ひ)いて、がらんとしていた。

_360
(南本所 三ッ目通り・長谷川邸と五間堀ぞい・学而塾 近江屋板)

竹中先生」
声をかけて教室にあてられいる部屋へ入ると、眼鏡をかけて書を読んでいた志斉師が、
「どうしたはずみじゃ。長谷川---」


[大橋家の息女・久栄(ひさえ)] (2) (3) (4) (5) (6) (7) (8)


| | コメント (0)

2007.11.23

妻女・久栄(ひさえ)

大橋与惣兵衛の三女・久栄(小説での名)が、本所三ッ目(現・墨田区菊川3-16)の長谷川家へ嫁いで、銕三郎(てつさぶろう)宣以(のぶため)の妻となったのは、明和6年(1769)と推定できる。
というのは、その前の年、明和5年12月5日に銕三郎が、将軍・家治へのお目見(みえ)をすましていること。
明和7年に嫡男・辰蔵の誕生をみていること---からの類推である。
平蔵24歳、久栄は小説のとおりの年齢差とすると、7歳違いの17歳。匂いたつような初々しい花嫁であったろう。

銕三郎の父・平蔵宣雄(のぶお)は、4年前の明和2年4月11日(この時、47歳)に、先手・弓の8番手の組頭へと大出世していた。大出世と書いたのは、長谷川家は両番(書院番士、小姓番士)の家柄とはいえ、宣雄以前の当主たちは、平(ひら)の書院番士のままで終わっていたからである。家禄400石の収入ままでやりくりしていた。

養子となった宣雄は、そのまじめな性格、心のこもった人使いぶり、公平な判断力が認められて、足高(たしだか)1000石の小十人頭、さらには同1500石の先手組頭へと累進していたのだ。
収入がふえても、宣雄は勤倹貯蓄にはげんでいた。本所三ッ目の1238坪の広い屋敷への移転もその成果といえる。
銕三郎の婚儀も、控えめなものであったろう。

それは、嫁・久栄の実家・大橋与惣兵衛親英(ちかひで)についてもいえる。家禄は廩米200俵(知行200石に相当)。

_360

久栄を嫁にだした時は56歳。西丸の新番与(くみ)頭をしていた。
(久栄は39歳の時の子だから、後妻を迎えたのはその5年前とみると34歳。先妻を逝かせたのは30代の初めかも)>

_360_2
_360_3

久栄は、三女とはいえ、ニ女とともに後妻(井口氏)の子であった。
先妻(万年氏)がもうけた長女(仮の名・伊都 いと)が10歳になったころに逝き、伊都は後妻がくるとともに、黒田左太郎忠恒(ただつね 廩米250俵)の養女となったはず。

それというのも、左太郎忠恒の妻女は、大橋家の本家筋にあたる与惣右衛門親宗(ちかむね)のニ女で、その三男が大橋与惣兵衛親定の養子に入って家督していたという関係にあったからである。つまり、黒田忠恒夫妻は、養子先の息子のむすめ(つまりは、孫)が、継子となることを気づかったともいえる。

_360_4

ま、そのことは、久栄にはあまり関係はない。
久栄は、井口家新助高豊 小納戸 廩米200俵)から後妻にはいった女性の子なんだから。

久栄は、姉の不運をじかに見ていたので、夫・銕三郎(のちの平蔵宣以)によくしたがった。
姉は、亭主運にめぐまれなかった---というか、養女として出て行っていった長女の代理として、武家のむすめ役を演じなければならなかった。すなわち、家系の維持である。

_280

姉の夫として養子に迎えた男たち2人が、ともに子もなさないうちに実家へ帰されたのである。


| | コメント (0)

2007.11.22

堀切菖蒲園(2)

堀切菖蒲園の由来を記した『葛飾区の歴史』(名著出版 1979.1,10)に、

名所として知られるようになったのは江戸中期の寛政三年(1791)堀切村の百姓伊左衛門父子がニ代にわたって花菖蒲に興味をもち、各方面から変わり花の品種を集め、自家の田圃を利用して栽培し、江戸市街へ切り花として売り出したのがはじめである。

そして、珍しい品種を、出入り先の本所割下水に住む旗本、万年録三郎や麻布桜田町の菖翁(しょうおう)こと松平左金吾(さきんご)から譲りうけた、とつづけている。

万年録三郎万年姓に覚えがあった。
長谷川平蔵宣以(のぶため)の妻女---小説では久栄(ひさえ)---の実家の父・大橋与惣兵衛親英(ちかふさ 船手組 廩米200俵)の先妻が、万年伊織覚長(あきなが 書院番士)のむすめであった。

_360_2
(大橋与惣兵衛の個譜 上の赤○=先妻 下の赤○=久栄)

徳川幕府における万年一族は、6家。
『寛政譜』の系譜書きにいう。

先祖は北面の侍にして文治年中(12世紀後期)鳥羽院より万年の称号を賜ふ。のち後堀川院の御宇故ありて遠江国に下り、代々榛原(はいばら)郡川尻に住す。

_360_3
_360_4
万年一門の家譜 上から2段目の左の緑○=頼済 下から2段目の赤○=大橋親英の先妻 最下段の緑○=六三郎頼豊

本家の七郎右衛門高頼(たかより)が東照宮に仕えた。廩米100俵と月俸10口。この家のこととをしるしているのは、10代目・三左衛門頼度(よりのり の息に頼済 よりずみ がいるからである)。

さて、堀切菖蒲園の伊左衛門に菖蒲の珍種を与えたという万年録三郎だが『寛政譜』にあるのは、万年六三郎頼豊。しかし、住まいは本所割下水ではなく、牛込赤城明神下石切橋通横町。廩米200俵 新番士。

_360_5

上の個譜に、

天明4年(1784)4月7日、さき(3月24日)の当番のとき、同僚の士・佐野善左衛門政言(まさこと 新番士 30歳代 500石)俄かに刀を抜きて田沼山城守意知に傷く。頼豊ら政言を止めんとして席を立つといえども、番所を離れん事を憚り、席に帰るのよしを申す。しかれども一列のものの狼藉をみながら制し止めざるの条、越度なりとて小普請に貶し、出仕とどめられ、5月6日ゆるさる。

現場近くにいた幕臣で罷免された士を、藤田 覚『田沼意次』(ミネルバ書房 2007.8.10)は、万年頼豊をふくめて新番士4名、目付7名のうち2名をあげている。

花菖蒲から、平蔵宣以の妻女につながり、ひいては田沼意次・意知へつながってしまった。
『鬼平犯科帳』を深読みすることは、その前後の江戸期のもろもろをうかがうことでもある。

そうだ、本所割下水の旗本・万年録三郎にふれないと。
万年一族で割下水に屋敷があったのは、一門の家譜のところにあげた新三郎頼済だが、時代がすこしさがる。

『江戸名所図会』で、絵師・長谷川雪旦は、葛西の農民たちの花づくりの風景を残してくれている。

626_360

参考:】この絵[葛西里]を大きく観る。

まことに風雅な時間が流れている。

| | コメント (2)

2007.08.14

大橋家から来た久栄(2)

2007年8月13日[大橋家から来た久栄]に掲げた、久栄(小説で鬼平の妻女に池波さんが与えた名。史実では不詳)の実家・大橋与惣兵衛親英(ちかふさ)『寛政譜』を再掲出する。

_360

大橋家系の分家の分家である与惣兵衛親英は、3代目だが、じつは黒田左太郎忠恒(ただつね 廩米200俵)の三男で、養子に入った仁。

分家の大橋与惣右衛門親宗(ちかむね)のニ女が、綱吉の祐筆に召された黒田左太郎忠恒の妻女となってから、大橋家と縁続きになった。
久栄の長姉が黒田家へ養女として貰われているのも、その縁である。
長姉が養女にいったのは、与惣兵衛の先妻が病死したためともおもわれる。

次姉は、養子に迎えた夫の2人ともが、病気を理由に縁組を解消して実家へ戻っている。
本家の近江守親義(ちかよし)の勘定奉行としての不始末---というか、田沼意次によって処罰されたことが離縁のほんとうの理由かもしれない。それぞれの親類が、田沼に睨まれることを危惧したのでは---。

久栄は、次姉の女性としての不運をいたましく感じていたろう。

大橋与惣兵衛親英は、元文2年(1737)の24歳から、西丸の納戸番として出仕した。
5年後の寛保2年(1742)には、西丸の新番組へ転入し、19年間つづけて勤めている。

長谷川平蔵宣雄(のぶお)が西丸・書院番士として出仕したのは寛延元年(1748)だから、顔をあわせた機会は幾度もあったろう。
郡上八幡の農民一揆の始末についての処分がきまった宝暦8年(1758)9月、宣雄が小十人組頭へ栄転したときには、祝辞を贈ったかもしれない。
「ご子息・銕三郎どのは13歳でしたな。うちの久栄は、6歳になりましてな」

小説では、長谷川家は本所入江町、その隣が大橋家となっているが、長谷川家が築地・鉄砲洲から南本所三ッ目通りへ引っ越したのは、銕三郎が19歳の明和元年(1764)。大橋家は、ずっと、下谷和泉橋通りである。

2人を結びつけたのが、父同士の縁なのか、ほかに結びの神がいたのか、まだ、憶測がついていない。

さて、宝暦8年9月13日の『御僉議御用掛留(ごせんぎごようがかりとどめ)に戻る。
この記録は、寺社奉行・阿部伊予守正右(まさすけ 備後・福山藩主 36歳 10万石)が書き留めていたものである。
深井雅海さん『徳川将軍政治権力の研究』(吉川弘文館)の第1編・第4章 [御用取次田沼意次の勢力伸長]から、引用させていただいている。

一 泉州(依田和泉守政次 町奉行 57歳 800石)、我等(阿部伊予守正右)・野州(菅沼下野守定秀 勘定奉行 60歳 1220石)へ内々被申候者、昨日(9月12日)主殿殿被仰候者、御僉議(せんぎ)方の儀何とぞ御役人之分早く片附候様可致迚、石徹白其外ハ手間取可申候得共、何とぞ御役人之方片附候様可然、品ニ寄兵部(金森頼錦)者残り候而も外御役人之分早く済候様ニと被仰候由被申聞

氏が添えてくださった<読み下し>文---。

一 泉州(依田和泉守政次)、我等(阿部伊予守正右)・野州(菅沼下野守定秀)へ内々申され候は、昨日主殿どの仰せられ候は、ご僉議(せんぎ)方の儀何とぞお役人の片付け候様いたすべしとて、石徹白そのほかは手間取り申すべく候えども、何とぞお役人の方片付け候様然るべく、品により兵部(金森頼錦)は残り候ても外のお役人の分早くすみ候様にと(将軍が)仰せられ候由(田沼が)申し聞けられ候。

誤読をおそれず、現代文に置き換えてみる。

一 北町奉行・依田和泉守政次(まさつぐ)どのが、手前、阿部伊予守正右(まさすけ)と勘定奉行(公事方の)菅沼下野守定秀)(さだひで)どのに耳打ちされるには、昨日(9月12日)、城内で御側御用の田沼主殿頭意次(おきつぐ)どのが、かようなことを申された。
「いま再僉議(せんぎ)している件だが、なんとしても、幕閣の分を早く片付けられたい。白山神社がらみの石徹白や農民がらみのことはゆっくりと手間をかけてもいいが、幕閣の処分は早々に裁決までもっていくようにとお上(将軍家)も望んでおられる。取調べで、事件の当の郡上藩主・金森兵部少輔頼錦(よりかね)にかかわることが残っても、それはおいてあとまわしでいいから、幕閣たちの分をとにかく急ぐようにとの、お上の仰せである」

田沼主殿頭意次はすでにリポートしたように、9月3日に、お側用人の身分で、幕府の最高裁判所ともいうべき評定所へ出座して審議に加わるように発令されている。
着座は3奉行の筆頭である寺社奉行の次、町奉行の上、発言も寺社奉行同等の資格となっていた。
あとにも先にも、このような権力を与えられた側衆はいない。

| | コメント (3)

2007.08.13

大橋家から来た久栄

深井雅海さん『徳川将軍政治権力の研究』(吉川弘文館)の第1編・第4章 [御用取次田沼意次の勢力伸長]から、評定所での郡上八幡の農民一揆の再吟味・幕閣処分に、御側でしかない田沼主殿頭意次(おきつぐ)が列座してくる経緯を、『御僉議御用掛留(ごせんぎごようがかりとどめ)を引用しながら、推測している。

『御僉議御用掛留』の記録者は、寺社奉行・阿部伊予守正右(まさすけ 備後・福山藩主 36歳 10万石)。

宝暦(ほうりゃく)8年(1758)8月10日の項---。

一 今日、口奥良筑ヲ以田沼主殿殿申込候而御退出後暫〆御出、羽目之間ニ而掛御目候、此度之御僉議之義共段々申上、追而百性方尋之義心得等之義伺、とかく真直ニ相分り候様第一ニ候、領主御咎附候者百性重ク成候義ニも有之間鋪、又先達而之通ニ軽く突留候と申儀ニも有之間鋪、とかく中分之処残り不申相当ニ有之様然、猶又趣茂候ハハ可被申聞候、替り候儀も有之候ハハ被仲聞鋪候、左候ハハ右被仰候通ニ可心得候、惣体吟味事品ニ寄軽く突留り候事も可有之候へ共、此度之義者甚御疑も有之事ニ候間、残り不申様可然候、品ニより是ハと存候儀茂出申候而も差略有之間鋪事候由被仰聞、何分ニも正道に相分り候様可申合被申候

氏が添えてくださった<読み下し>文---。

今日、口奥良筑をもって田沼主殿どのへ申し込み候て、御退出後暫くしてお出で、羽目之間にてお目にかかり候、この度のご僉議の義ども段々申しあげ、追って百姓方お尋ねの義心得などの義伺ひ、とかく真直ぐに相わかり候様第一に候、領主お咎め付き候は百姓重くなり候儀にもこれあるまじく、又先達ての通りに軽く突き留め候と申す儀にもこれあるまじく、とかく中分の処残り申さず相当にこれある様然るべく、なお又趣も候はば申し聞けらるべく候。替わり候儀もこれあり候はば仰せ聞けられまじく候、左候はば、右仰せられ候通りに心得べく候、惣体(そうたい→そうじて)吟味は事品により軽く突き留り候こともこれあるべく候えども、この度の儀は甚だお疑い(将軍の疑い)もこれあることに候間、残り申さざる様然るべく候、品によりこれはと存じ候儀も出で申し候ても、差略これあるまじきことに候由仰せ聞けられ、何分にも正道に相わかり候様申し合わすべく申され候(田沼がいった)。

誤読をおそれず、現代文に意訳。

今日、手前、阿部伊予守正右が、確認しておきたいことがあったので、口奥(たぶん同朋の)良筑を通じて田沼主殿頭どのへ面談を申し入れたところ、ご退出後しばらくして、城内の羽目の間でお目にかかることができた。
そのとき、このたびのご僉議(せんぎ)の経緯についていろいろご説明を申しあげた。
さらに、農民側の吟味についても、お尋ねがあり、僉議にあたっての心得などもお伺いした。
田沼どのがおっしゃるには、とにかく、だれもが納得がいくよう、まっとうであることが第一である。領主へのお咎めに対する気遣いから、百姓たちへの処罰が重くなってはいけない、また、先だっての裁決のように適当なところで打ち止めにしてはいけない、再吟味して、事実をすべて申しのべるように調べつくすことが肝心。
お上(将軍・家重)は、先の結果を承認なされてはいない。
まあ、吟味というものは、事と次第によっては軽めに打ち切ることもあろうが、この件の僉議については、お上もご疑念をお漏らしになっているのであるから、手抜きや妥協、えこひいきなどがあってはならない。だれが見ても正道---という取調べを申し合わせてやってほしいと申された。

その結果の一つが、勘定奉行(公事方)の大橋近江守親義(ちかよし)の処分であろう。
宝暦4年(754)4月9日に、顕職である長崎奉行から上記へ栄進。
この〔大橋〕の姓に見覚えがあった。そう、鬼平こと、長谷川平蔵宣以(のぶため)の妻女(小説では久栄)の実家の姓である。
彼女が長谷川家へ婚じたのは、宝暦8年のこの再僉議から、15,6年ほどのちだが。

それで、『寛政譜』をあたってみた。やはり---であった。大橋近江守は本家。

_360
(青=近江守親義 緑=久栄の父親・与惣右衛門親英 赤=久栄)

肥後国山本郡大橋の出自とある。
早くから家康に仕え、大坂の陣とか関ヶ原の戦いにも参陣している。家禄2120石。
3代目の次男が分家(400石・廩米200俵)。その分家から廩米200俵を分けてもらって家を立てたのが久栄の実家の大橋家
男子運が悪くて、戸主は全部養子だが、そのことはのちほど。

『寛政譜』は、近江守親義が家禄を召し上げられた理由をこう記している。

_360_3

(宝暦)8年10月29日、金森兵部少輔頼錦(よりかね)が所領の農民等騒動せしとき、(寺社奉行の)本多長門守忠央(ただなか)が申旨あるにまかせ、頼錦がたのみうけがい、配下に属する美濃郡代青木次郎九郎安清に書をあたへ、安清をのれが所存を記して其処置をこふのときも、頼錦が内存の趣を以てよろしくはからふべき旨、返書に及びしかば、安清彼の農民等を糺問するにいたる。これによりて農民等不平を抱き、公に訴へ、そのこと評議あるのときも、安清に示せし事はつつみて申述ず。再応糺明せらるるに及びてもなをこれを陳じ、只におのれが非をおほはんとせし条、重職のものの所為にあらずとて、相馬弾正少弼尊胤にながくめし預けらる。

この処罰は、3人の息子たちにもおよび、当然、断家。

ということは、世間の白い目は、久栄の実家・大橋与惣右衛門親英(ちかひで)にも向けられたろう。
久栄、この年には6歳。

_360_2

| | コメント (0)

2006.07.07

役宅の庭の花木

Mukuge__1
ムクゲの白い花

梅雨があけるのを待ちかねていたように、マンションの前庭のムクゲが花開く。
もう、まもなくだ。

文庫巻4[おみね徳次郎]では、役宅の庭に咲いているのを鬼平が眺めていたとき、佐嶋忠介が入ってきて、おみねの処置をうかがう。(p234 新装p245)

つぎに掲げた季節の庭木は、鬼平が起居している清水門外の役宅(千代田区九段南一丁目2)の庭に咲いていると『鬼平犯科帳』に書かれた花たちだ。
鬼平夫人・久栄さんの丹精によっている。
なかでも梅擬(もどき)は鬼平が手ずから植えこんだもの。
その姿や実、花のかたちを思い描けるのは、いくつ?

…白梅、桜。

初夏…つつじ、からたち、花ざくろ、南天、山桜桃(ゆすら)うめ。

夏から秋…女郎花(おみなえし)、むくげ。

秋から初冬…菊、梅擬(もどき)の実。

冬から春…藪椿(やぶつばき)。

12のうち6つ以上できたら、あなたの自然を愛する気持ちはかなり強い。
(ほとんどの花の写真を、ガーデニング・スペシャリスト村上孝子さんが、下記サイト[『鬼平犯科帳』の彩色『江戸名所図会(ずえ)][有朋(UFO)]コーナーへあげてくださっている。

火盗改メの長官に就任してからこっち、鬼平は盗賊団の追跡・逮捕、尋問・裁決に寧日なく、庭の花木を賞(め)でることで観花(はなみ)にかえている。

  長谷川平蔵が、亡父遺愛の銀煙管を把って煙草をつめなが
 ら、
 「桜花(はな)は、まだ、残っているかえ?」
 「いいえ、もう……」
 と、おまさの声が落ちつきを取りもどし、
 「もう、散ってしまいました」
 「そうか……今年もまた、ゆっくりと桜花を見なんだわ」
       ( [14―2 尻毛の長右衛門]p88 新装p90)

いまの中間管理職に似たワーカホリック(働きすぎ症候群)の鬼平だが、おいしいものや珍しいものと美酒を口にするほかに、どんな楽しみごとをもっていたろう。

そこで、あのころの江戸人の遊びの情景を『江戸名所図会』から抽出したら観花(はなみ)、紅葉狩り、雪見、潮干狩り、蛍狩り、聴虫、滝見、水車見、観劇、祭礼、行楽、買い物、外食、乗馬、旅行などなんと百景近くもあった。

各文化センターの[鬼平]クラスのメンバーを塗り絵師に仕立て、モノクロのそれらの絵を絵彩色(塗り絵)してもらった。色をつけられた江戸風景は生命を得たかのように現代へよみがえった。

鬼平研究から派生した塗り絵だが、『犯科帳』のそれぞれの話を創作するにあたって池波さんは、就寝前に『名所図会』の長谷川雪旦の絵と江戸切絵図を熟視、物語の舞台をきめていたようなのだ。

翌日、散歩しながらその舞台に鬼平などの人物を配し、あとは彼らが自由に動きまわるのを記録した、とエッセイにある。『犯科帳』を深読みするのに『名所図会』は主要な一手がかり。

| | コメント (0)

2006.06.19

超ロングセラー、一つの条件

ミリオン・セラーという。大ヒットして100万部以上も売れた本やレコードのことだ。ひとくちに100万というが、書籍では3年に1冊でるかどうかだ。

文庫が2000万部以上売れているシリーズを二つ知っている。司馬遼太郎さん『竜馬が行く』全8巻と、池波正太郎さん『鬼平犯科帳』全24巻。

後者は第1巻だけでも累計で150万部以上刷られている。
しかも、池波さんの生前にほぼ50万部、作家が逝ってから100万部、増刷頻度も早くなった。
池波さんの没後も鬼平ファンは着実に広がっているということだ。
朝日カルチャーセンターほかの「鬼平」教室で講じているが、土曜日午後のクラスには年配者にまじって、若い女性の受講者が目立つ。
鬼平ファンは新陳代謝の時期に入っているようだ。

年配の受講者には、『鬼平犯科帳』は雑誌に連載中から愛読していて、鬼平のことならすべてに通じていると自負している人もいる。

そういう人に、『老盗の夢』で簑火の喜之助が京都の一乗寺村で出会った山端(やまはな)の茶汲み大女・おとよの茶屋は、『都名所図会(ずえ)』に絵が載っていて、実際にあった店だね…というと、目をパチクリ。

722c
山端(やまはな)(『都名所図会』より)

722b
山端の麦飯茶屋(上の絵の部分拡大)

67歳の隠居老盗に勃然(ぼつぜん)たるきざし……つまりバイアグラ並みの効果をもたらした大女の巨乳は思いだしても、池波さんの創作の手の内までは推察していなかった。

鬼平は小説に登場後は、奥方専一主義をつらぬいている。
フランスのメグレ警視が鬼平のその主義のモデルだ。
ひろく女性読者を獲得してミリオン・ロングセラーになるには、細君のほかには目もくれない主人公でないといけなくなってきている。
『愛の流刑地』や『失楽園』はいっときはベストセラーになるかもしれないが……。なんだ、つまらない---などといわない。

史実の長谷川平蔵が奥方専一主義を守ったかどうかは記録にない。
とはいえ、平蔵まで八代におよぶ長谷川家の当主で正妻の腹から生まれたのは一人だけだ。むろん平蔵ではなく、辰蔵である。

鬼平の母親は、行儀見習いにきていた巣鴨村の大百姓・三沢家の次女ということになっており、冷や飯者の宣雄が手をつけた。

ところが、平蔵夫人……久栄(小説での名)さんはえらい。長谷川家の悪習を断ち切り、平蔵にも長男・辰蔵にも脇腹に子を生ませなかった。

| | コメント (0)

その他のカテゴリー

001長谷川平蔵 | 002長谷川平蔵の妻・久栄 | 003長谷川備中守宣雄 | 004長谷川平蔵の実母と義母 | 005長谷川宣雄の養女と園 | 006長谷川辰蔵 | 007長谷川正以 | 008長谷川宣尹 | 009長谷川太郎左衛門正直 | 010長谷川家の祖 | 011将軍・家斉 | 012松平定信 | 013京極備前守高久 | 014本多家 | 016三奉行 | 017幕閣 | 018先手組頭 | 019水谷伊勢守勝久 | 020田沼意次 | 021佐嶋忠介 | 032火盗改メ | 041酒井祐助 | 042木村忠吾 | 043小柳安五郎 | 044沢田小平次 | 045竹内孫四郎 | 051佐々木新助 | 074〔相模〕の彦十 | 075その他の与力・同心 | 076その他の幕臣 | 078大橋与惣兵衛親英 | 079銕三郎とおんなたち | 080おまさ | 081岸井左馬之助 | 082井関録之助 | 083高杉銀平 | 088井上立泉 | 089このブログでの人物 | 090田中城かかわり | 091堀帯刀秀隆 | 092松平左金吾 | 093森山源五郎 | 094佐野豊前守政親 | 095田中城代 | 096一橋治済 | 097宣雄・宣以の友人 | 098平蔵宣雄・宣以の同僚 | 099幕府組織の俗習 | 100盗賊一般 | 103宮城県 | 104秋田県 | 105山形県 | 106福島県 | 107茨城県 | 108栃木県 | 109群馬県 | 110埼玉県 | 111千葉県 | 112東京都 | 113神奈川県 | 114山梨県 | 115長野県 | 116新潟県 | 117冨山県 | 118石川県 | 119福井県 | 120岐阜県 | 121静岡県 | 122愛知県 | 123三重県 | 124滋賀県 | 125京都府 | 126大阪府 | 127兵庫県 | 128奈良県 | 129和歌山県 | 130鳥取県 | 131島根県 | 132岡山県 | 133広島県 | 136香川県 | 137愛媛県 | 139福岡県 | 140佐賀県 | 146不明 | 147このブログの盗賊 | 148〔からす山〕の松造 | 149お竜・お勝 | 150盗賊通り名検索あ行 | 151盗賊通り名検索か行 | 152盗賊通り名検索さ行 | 153盗賊通り名索引た・な行 | 154盗賊通り名検索は・ま行 | 155盗賊通り名検索や・ら・わ行 | 156〔五鉄〕 | 157〔笹や〕のお熊 | 158〔風速〕の権七 | 159〔耳より〕の紋次 | 160小説まわり・池波造語 | 161小説まわり・ロケーション | 162小説まわりの脇役 | 163『鬼平犯科帳』の名言 | 165『鬼平犯科帳』と池波さん | 169雪旦の江戸・広重の江戸 | 171BK | 172文庫 第2巻 | 173文庫 第3巻 | 174文庫 第4巻 | 175文庫 第5巻 | 176文庫 第6巻 | 177文庫 第7巻 | 178文庫 第8巻 | 195映画『鬼平犯科帳』 | 197剣客 | 199[鬼平クラス]リポート | 200ちゅうすけのひとり言 | 201池波さんの味 | 205池波さんの文学修行 | 208池波さんの周辺の人びと | 209長谷川 伸 | 211御仕置例類集 | 212寛政重修諸家譜 | 213江戸時代制度の研究 | 214武家諸法度 | 215甲子夜話 | 216平賀源内 | 217石谷備後守清昌 | 219参考図書 | 220目の愉悦 | 221よしの冊子