カテゴリー「001長谷川平蔵 」の記事

2009.11.29

銕三郎、江戸へ帰った

「江府はいい。空の色からしてちがう」
峠、また峠の木曾路から、中山道を旅してきただけに、板橋をわたりながら銕三郎(てつさぶろう 28歳)が感慨をこめていうと、久栄(ひさえ 21歳)が馬の脊から、
「おんなは、都のほうがいい---とおっしゃりたいのでございましょう?」

「見た目ではきまらないぞ」
「あら、お抱きになったのでございましょう」
「しらぬな」

久栄の前にまたがっている辰蔵(たつぞう 4歳)が口をはさんだ。
(たつ)は、佐久(さく)に抱かれたよ。佐久は京都で生まれたといっていました」
佐久(17歳)は、堀川通り蛸薬師下ルの打物師の次女で、亡じた備中守宣雄(のぶお 享年55歳)の召使として役宅にあがっていたが、宣雄はけっきょく、手をつけなかった。

参照】2009年10月8日[備前守宣雄の嘆息] (

辰蔵。抱かれたのでありませぬ。転びかけたので、抱きあげられたのです」
久栄が訂正する。
「幼な子どもがいうことだ。いちいち、目くじらをたてずとよい」
「いいえ。まもなく、平蔵をご襲名になる、あなたさまの嫡子でございます。しっかりしつけませぬと、家督が相続できませぬ」

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(板橋駅 『江戸名所図会』 塗り絵師:ちゅうすけ)

板橋のたもとの茶店に、用人・松浦与助(よすけ 57歳)が出迎えにきていた。
会わなかったのは1年たらずでしかないのに、髪は真っ白、腰がすこしまがりかけてきていた。
与助の後ろには、下僕の太助(たすけ 70歳ちかい)がひかえていた。

銕三郎は、太助とは秘密を共有している仲と観念している。
14歳のときに、はじめておんなを抱いた。
手配をしたのは太助であった。

参照】2007年7月16日[仮(かりそめ)の母・お芙沙(ふさ)]
2007年8月3日[銕三郎、脱皮] (

あいさつの交しあいがひとわたり済んだところで、太助久栄をはばかりながら、耳打ちをした。
権七どんが、毎日のようにお屋敷へ参っております」
「用向きをいったか?」
「若さま---いえ、殿さまのお戻りを待っていますようで---なんでも、〔泥棒酒屋〕だか〔盗人酒屋〕だかの亭主のことらしゅうございます」
(そうか。まだ、ご公儀の跡目相続のお許しはうけてはいないが、この者たちにしてみると、おれはすでに主人なんだ)
身が引きしまるとともに、なんとも面映い感じであった。

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2009.11.28

銕三郎、京を辞去(2)

滝川政次郎先生が『長谷川平蔵 その生涯と人足寄場』(中公文庫)の執筆時には、鬼平ブームは起きていなかったばかりか、平蔵宣以の同時期の詳細な記録『よしの冊子』(中央公論社 『随筆百華苑』第8、9巻)も刊行されていなかった。

そこで、滝川先生は窮余の策として、「全幅の信頼を措くには足らないが---」とことわりながら、牢人・岡藤利忠の『京兆府尹記事』を引き、京都時代の銕三郎(てつさぶろう 28歳)を素描なさっている。

その一つ---家族を引き連れて江戸へ帰府する銕三郎を、町奉行所の与力・同心が見送るくだり---、
,
平蔵が曰、おのおの方御堅固に御在勤あるべし。后年長谷川平蔵と呼ばれて、当世の英傑と世に云れん事を思う。(中略)各(おのおの)方御用として参府あらパ、必らず訪(とむら)ハせらるべく候、と暇乞いたしける。組士とかくいふ、幼者とて平蔵大言猥(みだ)りに吐(はく)。

いつかも記したが、筆者の藤岡は、銕三郎をこのとき13歳としている。
史実は28歳だから、半分以下に誤記しているぐらいだから、信用度は薄い。

が、言ったかどうかはともかく、
「用務で江戸へお下りになった節は、南本所のわが屋敷へもお立ちよりになり、その後の都の話などに花を咲かせて、奥などを楽しませてやってください」
くらいのお世辞を吐いたとしても、別に、おかしくはない。

鬼平犯科帳』では巻16[見張りの糸]で、町奉行所の与力・浦部彦太郎が訪ねてき、〔五鉄〕のしゃも鍋をふるまわれているが、じっさいに組士がきたかどうかは、分明でない。

似たような逸事が、四壁菴茂蔦わすれのこり』(中央公論社 『続燕石十種 第2巻』)に「長谷川平蔵殿」と題して掲げられている。

本所花町に、火附盗賊改長谷川平蔵殿役中、賞罰正しく、慈悲心深く、頓知の捌(さばき)多し、名高き稲葉小僧といふ賊も、その手にて召捕らたり。人々、今の大岡殿と称し、本所の平蔵様とて、世にかくれなし。上にも、町奉行になされ度き御含なれど、持高の少き故、其御沙汰もなかりし。

【参照】2006年7月27日[ 「今大岡」とはやされたが

盗賊・稲葉小僧は、ある資料によると、明和元年(1764)の生まれというから、平蔵宣以が火盗改メに任じた天明7年(1787)にはまだ14歳である。
池之端で厠の用をいいたてて縄抜けし、いらい行く方しれずとなったというから、捕らえたのは長谷川組ではなさそう---というひことは、「わすれのこり」の記述も信用がおけないということになる。

しかし、この件は別段、正確さをうんぬんするほどのものでもなので、以下、現代語訳にして綴っておく。


そのころ、本所三ッ目のあたりに、大工職で平蔵というのおり、かせぎのために京へ上り、2,3年後に江戸へ帰るにあたり、もし、江戸へくるようなことがあったら「本所の平蔵」でわかるから、寄ってくんねえ。悪いようにはしねえから」と大言をぬかした。

ところか゜、真にうけたのが江戸へやってきて平蔵を探し、火盗改メの平蔵のところへ案内された。
もちろん、平蔵宣以に覚えはないが、捨ててもおけず、手をつくして大工の平蔵を見つけだし、面倒をみてつかわせ」と、その京男を渡した。

この話から察するに、牢人・藤岡は、「わすれのこり」から換骨脱胎したのではあるまいか。


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2009.11.27

銕三郎、京を辞去

推測ではあるが、(陰暦)安永2年(1773)6月23日の葬儀を終えた銕三郎(てつさぶろう 28歳)は、手ばやく諸事をかたづけ、月末近くには所司代・土井大炊頭利里(としさと 52歳 古河藩主 7万石)ほか、東町奉行や禁裏付、山科代官所などへの返礼まわりをすませていた。

司所代では、用人・矢作(やはぎ)吉兵衛(きちべえ 39歳)と密談の形で、禁裏役人の不正の暴露ができなかったことを詫びた。
「なにしろ、ご任期がお短かすぎましたよ。せめて、もう半年、任につかれておられれば、手がかりがえられましたものを。備中さまも、さぞや、ご無念でありましたろう」
矢作用人は、銕三郎をなぐさめた。

「じつは、堺町四条上ルの宮中御用の白粉卸〔延吉屋〕へ、お(おかつ 32歳)と申す化粧(けわい)指南師をもぐりこませ、地下(じげ)官人の女房かむすめがひっかかる手はずをしております。もし、手がかりがつかめた節は、矢作さまへお伝えするように申しつけておきましたゆえ、しかるべくお手配をお願いいたします」
「おお、そのような奇特なお手くばりをなされておりましたか。さすがは、田沼老中さまが見込まれた備中さま---」

strong>銕三郎は、自分の手配であることを、ついにいいそびれたてしまった。

には、首尾があがらないようなら、てきとうに打ち切り、〔狐火(きつねび)〕のお頭のところへ戻るなり、江戸下ってくるようにいってあった。

の返事は、いまの仕事の実入りがいいし、お乃舞(のぶ 14歳)とその妹とのこともあるから、しばらく指南師をつづけるといったあと、
「もし、江戸へ行くようなときには、お乃舞たちもいっしょでいいですか?」
「江戸へ帰れば、亡父の跡目を継いでいようから、おぬしら3人くらいの面倒はみられよう」
「ありがとうございます」

参照】2009年9月24日~[お勝の恋人] () () (

祇園一帯の香具師(やし)の元締・〔左阿弥(さあみ)〕の円造(えんぞう 60すぎ)と2代目・角兵衛(かくべえ 41歳)に別れを告げに行き、〔化粧読みうり〕の板元は、打ち合わせ通りに、しばらくは〔相模(さがみ)〕の彦十(ひこじゅう 38歳)ということで町奉行所へ登録をすませことを告げた。
角兵衛は、お披露目(ひろめ 広告)枠の手数料がつづいてはいることを喜んだ。
もっと嬉しがったのは彦十で、彫り師や刷り職へ手間賃をくばってまわるだけで1板でるごともに、2両(32万円)をこえる広告料がころがりこんでくるというので、有頂天であった。

さん、2両からはみ出た分は、貞妙尼(じょみょうに)の供養料ということで、母親のお(かね 47歳)にとどけてやってくれるとありがたいのだが」
「がってんでやすとも」
銕三郎には、彦十がおを抱くことはわかっていたが、花園の天寿院の住職の通い妾をするより、貞尼(ていあま)の供養になるとおもえたのである。

最後に、〔狐火(きつねび)〕の勇五郎(ゆうごろう 53歳)に別れを告げに、川原町すじの骨董舗〔風炉(ふろ)屋〕を訪ね、お(りょう 享年33歳)が葬られている寺を訊いた。

祇園丸山町の安養寺の墓域の中の、塔頭・蓮阿弥(れんあみ)の区画だと教えられた。
「そこのご住職が茶碗がお好きなもので、最初の女房・お(せい 没年26歳)が死んだときに、ささやかな墓地を買ったので、おの墓石も隣につくってやりました」
「分骨はしていただいおりますが、別れの墓参をいたしてやりたくて---」
「お(しず 25歳)に案内させましょうか?」
6年前、おが〔狐火〕のもちものになってすぐに、向島の寮で2人はできてしまったが、たしなめただけで勇五郎は若かった2人を許してくれた過去があった。

「とんでもない。いえ、葬儀にも加われなかったので、独りで、ゆっくり詣でてやりたいのです」
「それでは、庫裡(くり)のほうへ通じて、花と塔婆を用意させておきます」
「なにからなにまで、かたじけない」

参照】2009年8月1日[お竜(りょう)の葬儀] () () (

安養寺へ詣でた銕三郎は、はじめて左阿弥という塔頭もあることを知った。

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(円山・安養寺 左端中が蓮阿弥、下中が左阿弥 
『都名所図会』 塗り絵師;ちゅうすけ)

小さな墓石に香華をたむけ、銕三郎は胸の中で語りかけた。
(江戸へ帰る。ふたたび、この地へくることはあるまい。が、お、江戸の戒行寺にも納骨する。彼岸ごとに詣でてやるからな。それより、お前は、おれの頭のすみにいつもいて、なにかと教示してくれ。頼りにしている。あすは、大津に泊まり、お前を呑んだ湖に花を撒いてやろう)

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2009.11.19

三歩、退(ひ)け、一歩出よ。(3)

「ひとりの比丘尼をめぐり、人が死にました」
銕三郎(てつさぶろう 28歳)が告白する気分になった。

老師のやわらかな眸(め)は、動かなかった。

「拙との淫行がもとでした」
「淫行---とは、ちがいまんな」
「は---?」
「おことは俗界の人。いつくしみおうただけのことや」
「------」
「夫婦(めおと)の睦みごとを淫行と禁じよったら、子がでけしまへん。歓喜の所行(しわざ)や」
「比丘尼とは、夫婦ではありませなんだ」
「還俗(げんぞく)しましたやろ?」
「する、と申しておりました」

老師が眸を湖中の弁財天の社へやり、
「あそこのご本尊は、淫らな姿態で修行者を試してはる。釈尊が比丘尼に得度しィはったんも、比丘(男僧)らの淫心を試しはったんかもな」
いいおえて、かっかかかと笑った。

老僧がいうには、、五戒とはいうが、不殺生(ふせっしょう)、不偸盗(ふちゅうとう)は、俗界でも悪行であるが、害を蒙った者とその縁者のほかはこだわりをもたぬ。
不妄語(ふもうご)---うぬぼれて自分を誇大にいう者は、俗界では嫌われる。
不飲酒(いんしゅ)---飲酒は俗界では禁じられてはいないし、罪の意識もない。

やっかいなのは、不邪淫(ふじゃいん)である。
淫心は、老若男女をとわず、だれのこころにもある。
こころにあっても、おいそれと実行できるものではない。
それだけに、やりえた者への妬みが大きい。

釈尊の教えをうまく汲みとって天竺(インド)国で栄えたヒンズー教では、その所行そのものを歓喜であるとしている。
_120仏道では戒のままなので、妬みのほうが害をなしているといっては、いいすぎになるかな---と苦笑した。

「おことの父ごどのが、元賢(げんけん 43歳)坊におだやかなんは、仏門の不邪淫を、悪法と観じていやはるためかもしれへんな」

「かたじけのうございます。いまのお言葉で、かの比丘尼も許されたと喜びましょう」
「なに、あの女性(にょしょう)は、われからわれを許しとったやろ」

(三歩、退(ひ)け、一歩出よ---は、むしろ、貞尼(ていあま)のほうが会得していたとおもいたい。退きすぎたかもしれないが---)

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2009.11.18

三歩、退(ひ)け、一歩出よ。(2)

白居易の、こないな詩ィ、ご存じやろか?」
老師が低い声で楽しげiに朗唱した。

「30、40やと、五欲が牽(ひ)きよる
 70、80やと、、病気の問屋や
 50、60は、いいことだらけ
 愛貧声利、ほどほどに手に
 よたよたなんぞ、はるかに先や

貞妙尼(じょみょうに 享年25歳)と銕三郎(てつさぶろう 27歳)との逢いびきのことを、隣家のお(ぎん 60すぎ)婆ぁが旦那寺・西迎寺の暁達(ぎょうたつ 36歳)にしゃべったことから、2人もの人が死んだ。

銕三郎としては、おを許すわけにはいかない。
そうであろう、嫁入りするまで、お(てい)は、隣の老婆にこころをかけ、なにかと世話をやいてきていたのである。

そのおが、好きな男と睦んだからといって、おにはかかわりはないことだ。

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(歌麿『洗い髪』 貞尼(ていあま)とのイメージ)

参照】2009年10月24日[貞妙尼(じょうみょうに)の還俗(還俗)] (

それを、道家者ぶって---。

ただ、相手は60過ぎの婆ぁである。
仕置きするのは、なんとなく、気がとがめる。
手だてもおもいつかないまま、役宅に近い神泉苑(じんせいえん 現・上京区御池通り門前町)に老師を訪ねた。
銕三郎の表情を読んだ老師は、茶を点じながら、白居易の間適詩の断片を暗唱したのである。

「拙は、唄われている30には、まだ、達しておりませぬが---」
「ということは、五欲---とりわけ、淫欲がさかりで、真っ赤に燃えとるいうことやの。この欲はしつこうて、寿量をすぎた愚僧かて、熾火(おきび)のように、かかえとる」
「寿量と申されますと---?」
「80歳のことや」

寿量の80歳は、釈迦が入滅した年齢である。
世俗でいう傘寿(80歳の祝い)---喜寿(77歳の祝い)もこれからきているのであろう。

「ははぁ、80をおすぎになられても---」
「生きとるうちは、淫欲との戦いや。男もおんなも、比丘も、比丘尼も、な」

高僧にしてそういうことであれば、貞妙尼の淫心は、貞尼(ていあま)が打ちあけたとおり、とがめられるおよばないことにもおもいいたった。

また、僧たちの言いより、それを拒まれた憤りと嫉妬もうなずけた。

そればかりか、60すぎのお婆ぁの妬みの変形にもおもいがおよんだ。

すると、父・備中守宣雄(のぶお 55歳)は、どうやって淫欲を抑えこんでいるのであろうか。
白居易によれば、50、60は、淫欲をおのれでほどほどに制御できるいい時期ということか。

しかし、父の立ち居は、いかにも大儀げである。
70、80の病魔が気ぜわしく先ばしって襲ってきているのであろうか。

目の前の老師は、寿量をすぎたとおっしゃっているのに、矍鑠(かくしゃく)としておられるが---。

「(弘法)大師は、中寿(なかじゅ 40歳)までにやるべきことをすませとかな---いうて、さとしてはる。たしかにそうや、中寿からのこっちの歳月の脚の早いこと---矢のようや」

「老師。お名をおうかがいしておりませぬ」
「なんで、そんなもん、訊かはるのや。名ァなんちゅうもんは、かりそめのもんでの。死んだときの戒名も、100年もすぎてみなはれ、ご先祖さま---でいっしょくたにされよる。名ァは、あってなきにひとし。おことの目の前におるのが愚僧、そのもの---」


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2009.11.17

三歩、退(ひ)け、一歩出よ。

(ひこ)さん。膺懲(ようちょう)は、これまでだ」
銕三郎(てつさぶろう 28歳)が〔相模(さがみ)〕の彦十(ひこじゅう 38歳)、万吉(まんきち 22歳)、啓太(けいた 20歳)にいいわたした。

万吉啓太は、せっかく馴れてきて、尾行や噂のばらまきが面白くなってきたところであったので、がっかりした気配をあからさまに示した。

安堵したのは、誠心寺(じょうしんじ)の寺男・又平(またへい 50がらみ)であった。
山端(やまはな)の知りあいの山寺・弘法寺の順慶(じゅんけい 40歳)が逐電しないですんだからである。
つい、調子にのり、貞妙尼(じょみょうに 享年25歳)の問責犯人の一人として順慶の名をあげてしまったことを後悔する気持ちがだんだんに強くなってきていたのである。

参照】2009年11月8日[奉行・備中守の裁処(さいしょ)] (

貞妙尼の母親・お(かね 47歳)は、不満と同時に、油小路・二条通りの家へ戻れることを喜ぶという、奇妙な感覚をかみしめていた。
自分の住まいに帰れば、花園の天寿院の庫裡(くり)へ泊まりに行けるうれしさ半分、むすめ・お(てい)を責め殺した僧たちが死罪になりそうもないくやしさが半分であった。
(死んだえおはかわいそうだが、生きている自分のほうがもっと大事)
おもわぬでもなかった。

彦十が反問してきた。
(てっ)つぁんは、それでいいのかえ?」
「もちろん、気はおさまらない。が、父上の裁決だからな」

銕三郎は、心の中で、高杉銀平師の決別の献辞ともいえる忠告をかみしめていた。

---三歩、退(ひ)け。一歩出よ。

(ここまで、彼らを苦しめたのだから、おれの立場がわかっている貞尼(ていあま)なら、許してくれよう)

ひょんなことから、2人が噂を流した若者と、竜土寺や延命寺のまわりのものに気づかれることをおもんぱかった銕三郎は、万吉啓太に言った。
「元締には、拙から話を通すから、2人は、2年か3年、江戸の〔音羽(おとわ)〕の重右衛門(じゅうえもん 41歳)元締のところで世話をみてもらうことにしてほしい」
重右衛門元締はんのことは、2代目からいつも聞かされてきとります」

音羽〕の重右衛門は若いとき、〔左阿弥(さあみ)〕の円造(えんぞう 60すぎ)に預けられ、角兵衛(かくべえ 41歳)と兄弟のようにして仕込まれた。

誠心寺の寺男・又平は、西町奉行所にとどめおかれ、聞き取りをうけていたことにし、その旨を浦部源六郎(げんろくろう 51歳)与力が告げると、そのまま寺へ戻り、後任の尼僧に仕えるようにとのことであった。

が油小路・二条通りの2軒長屋へ戻ってみると、隣家のお(ぎん 60歳すぎ)婆は、さっさと息子夫婦の家へ越していたあとであった。

が移転する前に、彦十銕三郎に訊いた。
つぁん。これで、ぜんぶ終わったのかえ?」
銕三郎が頚をふり、
「そもそもの始まりをつくった、婆ぁさんの仕置きがのこっておる」
「やるかえ?」
「やらなきゃ、おさまらない」

彦十は、錦小路通り・室町通りの2階家に、居座っていた。
「お婆ぁさんが移った先をあたっとく」
「息子は、仏光寺通り・麩屋町通りの〔丹波屋〕の通い番頭をしておる」
「仏光寺通りの旅籠〔炭屋〕からもう1本東の通りだ」
「その息子の家にでもころがりこんだのかもしれない」

参照】2009年11月7日[奉行・備中守の裁処(さいしょ)] (

そういってから銕三郎は、気がついた。
をこらしめたら、息子がおへまわしていた仕立ての賃仕事がとまるのではないかと。
それでなくても、おを避けて引っ越している。
のこれからの生活(たつき)を、すっかり見てやるというわけにはいかない。
(なんとしたものか---)

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2009.11.04

銕三郎、膺懲(ようちょう)す(7)

暁達(ぎょうたつ 36歳)は、啓太(けいた 20歳)が予想したとおり、毘沙門町の竜土寺へはいっていった。

彦十(ひこじゅう 38歳)たちが前門の暗部でうかがっていると、暁達ともう一人の僧がでてき、暁達は五条通りをきた方角へ、この寺の住職らしい僧は西の桂川のほうへ別かれた。
当寺の住職のほうは、また、啓太が尾行(つけ)、行く先をたしかめることになった。

暁達は、彦十万吉が追う。
行き先は源泉寺とわかっている。
〔大文字町(だいもんじまち)の藤次もまようことなく、東行きのほうを選んだ。

千本(せんぽん)〕の世之介iに吹きこまれたとおりのことを源泉寺の元賢(げんけん)の耳にいれたお(とき 57歳)は、意気揚々と戻ってくるや、ふくみ笑いをしながら表戸をしめはじめた。
「お。戸を閉めるのんは、ちょっと待ちィ。夜は長いのんや、あせるでない」
「そやかて---もう、腰がうずいとるよ」
万吉はんがきよる。裸で出会うわけにもいかんやろ」
「なんで、今夜、きィはるの?」
科(しな)をつくっているつもりで腰をふり、鼻をならした。

「それより、元賢少僧正の様子をきかせてんか」
元賢は、おの耳打ちに、真っ赤になって、
「どこのど奴がいうてんねん」
あまりのどなり声に、おは、さっききた客の口からでた話だとごまかし、あわてて庫裡(くり)を飛びでてきたと打ちあけた。

が床を延べおわったとき、万吉が、
「〔千本〕の---〕
顔をだした。
は、鼻をしかめてお茶の用意に立った。
世之介に、世話女房らしいところを見せたかったのである。

万吉は、世之介を手招きし、耳元で、
暁達がワナにはまりよった。これから、庫裡で修羅場がはじまりよる。彦十の旦那も、長谷川はんも、向かいの寺にひそみはった」
世之介は、賢念(けんねん)小坊主が描いた見取り図をわたし、
長谷川の若はんに、早く、これを。わてもすぐにいきますよって」

聞きとがめたおが、
世之はんの舞台はこっちやでぇ---」
悲鳴に近い声であった。

ほんとうの悲鳴は、庫裡からあがった。
「ぎゃあッ」
どうすれば、人間にそんな声がだせるのかといえるほどの恐ろしげな悲鳴であった。

銕三郎(てつさぶろう 28歳が飛びこんだ。
つづいたのは、別のもの陰にいた藤次---。

元賢は、略衣の胸から裾にかけて返り血にそめ、うわごとのように、
「自分がへまをしといて、ひとをゆすりおって---阿呆が---金子になど、手をつけよってからに---」
繰り返していた。
その足元に、暁達が伏せたおれていた。

銕三郎がいった。
藤次どの。元賢のいい分、聞きましたね」


宗派は、さっそくに、殺人と姦淫の破戒により、元賢を破門に処dqしたと、西町奉行所にとどけてきた。

錦布の巾着にはいっていた貞妙尼(じょみょうに)の11両(176万円)は、そっくり西迎寺の庫裡の手文庫にあった。

奉行所から本山に、その11両は、〔化粧(けわい)読みうり〕の板元名代料として貞妙尼個人にわたされたものであって、誠心院への寄進ではないとの、〔左阿弥(さあみ)〕の円造(えんぞう 60すぎ)元締の言葉を伝えると、処分はそちらのおもうままに---との返事がかえってきた。

奉行・備中守宣雄(のぶお 55歳)が空咳をし、
(てつ)。そういうわけで、この11両、貞妙尼の母親へわたすが、異存あるまいな」
銕三郎は、深ぶかと頭をさげ、
「お気のままに---」

山伏山町の家に集まった彦十万吉啓太に、銕三郎がはっきりと告げた。
貞妙尼を責め殺した数人の僧たちへの膺懲(ようちょう)は、まだ終わっていない」
{おもろい。やってこませまひょ」
啓太が応じ、あとの2人もしっかりとうなずいた。

源泉寺門前の花屋では、連日、夜おそくまで表戸をしめないで、おがなんども五条坂のほうをすかしてみていたという。


参照】[銕三郎、膺懲(ようちょう)す] () () () () (5) (

2009年10月19日~[貞妙尼(じょみょうに)の還俗(げんぞく) () () () () () () () () () (10


お断り】あくまでも架空の色模様で、貞妙尼も実在の誠心院、泉湧寺および同派の寺院もかかわりがないことをお含みの上、お楽しみのほどを。

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2009.11.03

銕三郎、膺懲(ようちょう)す(6)

烏丸蛤ご門前の粽司(ちまきつかさ)〔川端道喜〕の10代目あての書状をしたため、朝早に松造(まつぞう 22歳)を7やり、求めさせた粽20本のうち半分を久栄(ひさえ 21歳)に、あとを携えて山伏山町(錦小路・室町上ル)の家へ寄った銕三郎(てつさぶろう 28歳)は、待っていたご用聞・〔大(文字町だいもんじまち)〕の藤次(とうじ 50前)と話した。

藤次は、東町奉行所の目付与力・浦部源六郎(けげんろくろう 51歳)から十手をあずかって20年近くにもなる、老練の者であった。
貞妙尼(じょみょうに 享年25歳)がいびり殺された現場も検分しており、犯人たちが寺僧との推測はついているものの、寺域にふみこむことははばかられたのと証拠がないので、手をこまねいていたところであった。

そこへ、銕三郎からの呼びだしがき、浦部与力に伺いをたてたところ、いわれたとおりに働けとの指示が返ってきていた。

誠心院(じょうしんいん)の寺男・又平(またへえ 50がらみ)が山伏山町の家にいたので、不審をつのらせはしたが、浦部与力の指示をおもんぱかって、訊くことはひかえた。

銕三郎の頼みは、油小路通二条通り上ルの、鞘師・三右衛門の店の裏手、2軒長屋のお銀(ぎん 60すぎ)婆(ばば)に、十手をちらつかせ、「貞妙尼が邪淫な破戒を隣の実家でやっていると、どこかの住職に、お前はんが告げ口したため、尼が責め殺されたと見て、奉行所は宗門裁きみたいなことに加わった全員を調べていると脅し、後ろをつけて、告げにいった先をたしかめてほしい---であった。

生前のお(りょう 享年33歳)が、なにかのときに、潜入している閒者を見つけるには、秘密めかしたことがらをさぐりとらせたふりをして、その後の動きでたしかめる法もある---といったあと、山本勘助どのの〔啄木鳥(きつつき)〕の戦法の変わり形---と笑ったのをおもいだしたのである。
は、商舗の金のかくし場所をさぐりだすための法として考えていたのかもしれない。

が駆けこんだ先は、やはり、筋屋町の西迎寺であった。

出かける暁達(そうだつ 36歳)を尾行(つけ)たのは彦十(ひこじゅう 38歳)と万吉(まんきち 22歳)と啓太(20歳)、〔千本(せんぼん)〕の世之助(よのすけ 60すぎ)だが、その後ろをさらに追っいる者がいるのを、4人は気づきもしなかった。

五条通りへでたところで、暁達は、左へ折れないで右に折れた。
啓太が、
「毘沙門町へいくきよるんやないか。おとといの僧の寺は、そこの竜土寺やった」

4人はちょっと相談をし、手に粽をもった世之助だけが左折した。
彦十万吉啓太は、まよわず、右に折れて暁達を追ったが、まん前のきせる問屋の〔松坂屋〕の店舗を指さした万吉が、
「この大店の年増の後家はんが、元賢(げんけん 43歳)から功徳を施こされとるんや」

4人を尾行していた藤次は、とりあえず〔松坂屋〕もおぼえておくことにしたものの、事件とどうかかわっているのかは見当もつきかね、首をひねった。

源泉院前の花屋では、お(とき 57歳)の誘いでやってきた小坊主・賢念(けんねん 13歳)が3本目の粽をほうばりながら、
「〔松坂屋〕のご内儀は、お(さと)いうて、若うは見えるけど、白粉と紅おとしたら、やっぱり、30は30で、ごまかしはきかへん」
「白粉おとすこともあんの?」
「泊まっていかはるとき、湯殿をのぞき見しとんのや」
「悪い小坊主や」
「うちだけやあらへん。寺男の五平(ごへえ 59歳)はんが板に穴、刳(く)りはってん」

は、粽よりも世之助で、引きよせた手を、着物の上から尻にみちびいていた。

「和尚はんは、おはんと、湯ゥもいっしょ?」
「そうどす」
「おもろい。湯殿から寝間までの図を書いてェみ」

賢念は筆を借り、手の米粉をはたき、間取り図を描いた。
「本堂へつながっとる廊下は?」

賢念が4本目にのばした手をぴしゃりと叩いいた世之助が、
「〔道喜〕の粽は、1本、なんぼするおもうてんねん。値段聞いたら、口がまがるでェ」

小坊主が満足して源泉院へ戻っていくと、おは、世之介にしなだれかかって口をさしだした。
ちょっと吸ってやってから、
「お---」
「あい」
呼び捨てにされ、もう、情婦気どりで甘えている。

「これからすぐに、向かいの寺の住持の---なんていうたかな---」
元賢少僧正はん」
「そや。その少僧正はんにな、誠心院はんで、庵主(あんじゅ)はんが殺されはったとき、11両(176万円)ほどが紛失しとるを、奉行所がみつけたらしと、わいがいうとったと、耳うちしてやってんか。10両盗んだもんは、死罪なんや」
「奉行所?」
「そや」
「すると、世之はんは、奉行所かかわり?」
「ちがう。奉行の息子はんと知り合いの、知り合いなんや」

「ほな、いてきますよって、帰らんと、待ってておくれやす」
「待ちなはれ。も一つあんのや。誠心院の須弥壇(しゅみだん)の陰から、殺された尼はんの手控えがでてきよってな、それには、言いよった坊(ぼん)さんの名ァと、口説きせりふがぜぇんぶ書きとめてあったらし、とささやいてきなはれ」

参照】[銕三郎、膺懲(ようちょう)す] () () () () () (

2009年10月19日~[貞妙尼(じょみょうに)の還俗(げんぞく) () () () () () () () () () (10


お断り】あくまでも架空の色模様で、貞妙尼も実在の誠心院、泉湧寺および同派の寺院もかかわりがないことをお含みの上、お楽しみのほどを。


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2009.11.02

銕三郎、膺懲(ようちょう)す(5)

瀬戸川(せとがわ)〕の源七(げんしち 56歳)に頼んだのは、なんと、〔牝誑(めたらし)の現役と古手(ふるて)であった。

「古手のほうは、今日明日にもほしい」
源七は、さすがである。
遣い道などは訊きもしないで、しばらく思いをめぐらせていたが、ぽんと手をうち、
「〔千本(せんぼん)}の世之介などというふざけた名を〔通り名〕にしていますが、なに、生まれが千本通りの北の端の浄興寺の住職が妾に産ませたって奴で。千本を目ざしたが寄る年波には勝てねえ、888本で撃ちどめだなんて、大ぼらをふいてます。1本はおなご衆1人だっていうからタチがわるい。まあ、面(つら)だけは〔牝誑〕を自称するたけあり、若いときはそれなりに見えたようですが---」

ちゅうすけ注】〔牝誑めたらし)鶉〕の福太郎(25歳)は、『鬼平犯科帳』文庫巻2[(くちなわ)の眼]p20  新装版p21に登場。
巻7[はさみ撃ち]で薬種屋〔万屋〕の30妻・おもんをたらしこんだ〔針ヶ谷(はりがや)〕の友蔵(31歳)は、〔女だまし〕専門と。p81 p85

万吉が中古の牝誑〔千本〕の世之介をともない、東山の源泉院の門前の花屋へあらわれたのは、翌日の午後おそくであった。

老婆・お(とき 57歳)は、一目で世之介が気にいったようで、お茶を淹れるは、饅頭をすすめるはして、歯が浮くようなお世辞に脂っけのぬけた躰をくねらせている。
このままいくと、臍くりをみつぐから、今夜、泊まっていけといいかねないかもしれない。

世之介にまかせた万吉は、店の奥から、源泉院の山門からあらわれる年増を待っている。

きょうあたりは庫裡(くり)へしけこむころだと、きのう、おから告げられていた。
花屋の奥で隠れて見張るために引っ張りだされた世之介だったのである。

おんなは、見込みどおりに庫裡から出てきた。

山門にも夕やみがしのびよっているので、遠目には25歳をすぎたかかどうかの齢ごろとふんだ。

着つけは乱れていないが、髪はいくらかほつれている。
家へ帰りつくころにはすっかり暮れているから、とおもいさだめているのであろう。

20間(300m)ほどの距離をおいて尾行(つけ)ていく。
さっきまでの情事をおもいかえしているのか、腰がひだるそうな歩きぶりである。
「ちきしょう。うまいことやりよって---」
坂の両側に表戸をおろした焼きものの小店が点在している五条坂で、おもわず、つぶやいた。

富小路五条の南角、〔きせる問屋 松坂屋〕の看板があがっている店の、くぐり戸に消えた。

C_360_5
(きせる問屋〔松坂屋〕 『商人買物独案内』)

その先の路地の呑み屋の灯が見えたので、障子戸をあけ、空き小樽に腰をすえ、
「おお、こわかった」
「どないしはりましたん?」
訊いたのは、燗したばかりの徳利を、黙って飯台(はんだい)に置いた店の親父である。
このごろは、こんな店までが、銅製の燗用ちろりから、陶器製の徳利になっていた。
冷めがおそくなるからである。

五条坂をくだっていたら、別嬪(べっぴん)の年増が清水焼の窯元の脇からあらわれて前をゆくので、ゆれてる腰からいつ尻尾がでるかとつけてきたら、表通りの〔松坂屋〕で消えてしまったと、万吉が即席のつくり話に、、
「〔松坂屋〕のご新造はんでしすやろ。後家にならはったばかりやで、おおかた、旦那寺からの帰りどしたんやろ」
亭主が笑い顔で、一夜漬けの小かぶを呈した。

「後家?---25,6の若年増にしかも見えへんかったが---」
「若うても、後妻なら、後家にならはります」
「後妻? あない別嬪で?」
「〔松坂屋〕はんほどの身代(しんだい)があったら---」
「どこから、きィはったんどす?」
「------」
しゃべりすぎたとおもったらしい親父は、聞こえないふりをして大徳利からちろりに酒を注ぐことで、問いをそせらせた。

向かいの相客に酒をすすめると、その中年男が飯茶碗で受け、小声で、
「五条橋下におます料理屋〔ひしや〕の座敷女中やったんが、〔松坂屋〕の55歳の旦那に見初められよって---」

C_360
(料亭〔ひしや〕 『商人買物独案内』)

源泉院の門前の花屋では、引きとめるお婆ァに、
「あすの夕刻まえに、手みやげに〔川端道喜〕の粽(ちまき)をさげてくるよって、向かいの寺の小坊主も呼んどいきなはれ」
銕三郎から口うつしの甘言をのこし、〔千本〕の世之介は、どうやら、889本目を数えられるとほくそ笑みながら、おぼつかない足どりで、五条坂をくだっていた。

参照】[銕三郎、膺懲(ようちょう)す] () () () () () (

2009年10月19日~[貞妙尼(じょみょうに)の還俗(げんぞく) () () () () () () () () () (10


お断り】あくまでも架空の色模様で、貞妙尼も実在の誠心院、泉湧寺および同派の寺院もかかわりがないことをお含みの上、お楽しみのほどを。


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2009.11.01

銕三郎、膺懲(ようちょう)す(4)

(お(りょう)だったら、どういう策でのぞむだろう?)
久しぶりに、お(享年33歳)のことが懐かしくおもえた。
この場にいて、知恵を貸してほしかった。

どんな奇策を立てるか。
あるいは、正攻法でのぞむか。

躰の触れあいも忘れがたい女性(にょしょう)であったが、おの頭脳の動きは、名将と閒者を一身に秘めていた。
(どんなことを言っていたか)

「必ず敵の閒者をさがし、これを利すべし」

そんなことを、笑いながらささやいたことがあった。
(そのときおれは、おの右の内股のつけ根にあった黒子(ほくろ)を、舌でなぶっていた。

〔利すべき敵の閒者---〕
いまのところ、2人いる。

その一人からの風音(ふういん)をもって、万吉(まんきち 22歳)が戻っているはずである。

〔炭屋〕の2階の部屋へはいったときであった。
彦十(ひこじゅう 38歳)が啓太(けいた 20歳)をまねき、西迎寺の山門から出てきた僧形の男を窓から見せ、
「帰る先と、身許をつきとめな」

すばやく降りていった。

部屋へあがる前に頼んでおいたきつねうどんの出前がとどいた。
万吉は、出ていった啓太のどんぶり鉢にも箸をつけながら、源泉院の門前の花屋の老婆の話を述べる。

いちばん新しい後家の身許はいずれわかるが、この前までは、寺町五条上ルのちょうちん傘屋〔鎰屋(ますや)〕の寡婦となった内儀・お(こう 30歳)がそうであった。
それが、ややができてしまい、水子にして躰をこわし、お呼びでなくなった。
「ぽってりした、ええおなごどしたけど---」

360
(ちょうちん問屋〔鎰屋〕 『商人買物独案内』)

「姐(ねえ)はんの若いときに似てましたんやろ」
万吉の大仰な冗談を真けた婆さんは、その前の寡婦を教えた。

六角堂高倉角の、主として真言宗の法衣を商っている〔岡屋〕の女将・お(りく 28歳=当時)は、背筋がすっきりとのびたいいおんなだったが、そのときの声が大きすぎて、隣の寺までとどくというので〔鎰屋〕の寡婦にとってかえられた。

C_360_4
(法衣〔岡屋〕 『商人買物独案内』)

さん。〔風炉(ふろ)屋〕の番頭さんに顔を貸してもらうように、使いをだしてくれと、ここの主人にいってきてくれないか」

参照】〔風炉屋〕の番頭とは、〔瀬戸川(せとがわ)〕の源七のことである。まわりの耳を気づかって、〔通り名〕で呼ばなかった。
2008年5月28日~[〔瀬戸川(せとがわ)〕の源七] () () () (
2009年7月20日~[千歳(せんざい)〕のお豊] () (

彦十がおりていくと、
万吉どの、その花屋の婆さんは、50幾つだといってましたか?」
「60までに3年とか---」

参照】[銕三郎、膺懲(ようちょう)す] () () () () () (

2009年10月19日~[貞妙尼(じょみょうに)の還俗(げんぞく) () () () () () () () () () (10


お断り】あくまでも架空の色模様で、貞妙尼も実在の誠心院、泉湧寺および同派の寺院もかかわりがないことをお含みの上、お楽しみのほどを。

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