カテゴリー「001長谷川平蔵 」の記事

2009.11.04

銕三郎、膺懲(ようちょう)す(7)

暁達(ぎょうたつ 36歳)は、啓太(けいた 20歳)が予想したとおり、毘沙門町の竜土寺へはいっていった。

彦十(ひこじゅう 38歳)たちが前門の暗部でうかがっていると、暁達ともう一人の僧がでてき、暁達は五条通りをきた方角へ、この寺の住職らしい僧は西の桂川のほうへ別かれた。
当寺の住職のほうは、また、啓太が尾行(つけ)、行く先をたしかめることになった。

暁達は、彦十万吉が追う。
行き先は源泉寺とわかっている。
〔大文字町(だいもんじまち)の藤次もまようことなく、東行きのほうを選んだ。

千本(せんぽん)〕の世之介iに吹きこまれたとおりのことを源泉寺の元賢(げんけん)の耳にいれたお(とき 57歳)は、意気揚々と戻ってくるや、ふくみ笑いをしながら表戸をしめはじめた。
「お。戸を閉めるのんは、ちょっと待ちィ。夜は長いのんや、あせるでない」
「そやかて---もう、腰がうずいとるよ」
万吉はんがきよる。裸で出会うわけにもいかんやろ」
「なんで、今夜、きィはるの?」
科(しな)をつくっているつもりで腰をふり、鼻をならした。

「それより、元賢少僧正の様子をきかせてんか」
元賢は、おの耳打ちに、真っ赤になって、
「どこのど奴がいうてんねん」
あまりのどなり声に、おは、さっききた客の口からでた話だとごまかし、あわてて庫裡(くり)を飛びでてきたと打ちあけた。

が床を延べおわったとき、万吉が、
「〔千本〕の---〕
顔をだした。
は、鼻をしかめてお茶の用意に立った。
世之介に、世話女房らしいところを見せたかったのである。

万吉は、世之介を手招きし、耳元で、
暁達がワナにはまりよった。これから、庫裡で修羅場がはじまりよる。彦十の旦那も、長谷川はんも、向かいの寺にひそみはった」
世之介は、賢念(けんねん)小坊主が描いた見取り図をわたし、
長谷川の若はんに、早く、これを。わてもすぐにいきますよって」

聞きとがめたおが、
世之はんの舞台はこっちやでぇ---」
悲鳴に近い声であった。

ほんとうの悲鳴は、庫裡からあがった。
「ぎゃあッ」
どうすれば、人間にそんな声がだせるのかといえるほどの恐ろしげな悲鳴であった。

銕三郎(てつさぶろう 28歳が飛びこんだ。
つづいたのは、別のもの陰にいた藤次---。

元賢は、略衣の胸から裾にかけて返り血にそめ、うわごとのように、
「自分がへまをしといて、ひとをゆすりおって---阿呆が---金子になど、手をつけよってからに---」
繰り返していた。
その足元に、暁達が伏せたおれていた。

銕三郎がいった。
藤次どの。元賢のいい分、聞きましたね」


宗派は、さっそくに、殺人と姦淫の破戒により、元賢を破門に処dqしたと、西町奉行所にとどけてきた。

錦布の巾着にはいっていた貞妙尼(じょみょうに)の11両(176万円)は、そっくり西迎寺の庫裡の手文庫にあった。

奉行所から本山に、その11両は、〔化粧(けわい)読みうり〕の板元名代料として貞妙尼個人にわたされたものであって、誠心院への寄進ではないとの、〔左阿弥(さあみ)〕の円造(えんぞう 60すぎ)元締の言葉を伝えると、処分はそちらのおもうままに---との返事がかえってきた。

奉行・備中守宣雄(のぶお 55歳)が空咳をし、
(てつ)。そういうわけで、この11両、貞妙尼の母親へわたすが、異存あるまいな」
銕三郎は、深ぶかと頭をさげ、
「お気のままに---」

山伏山町の家に集まった彦十万吉啓太に、銕三郎がはっきりと告げた。
貞妙尼を責め殺した数人の僧たちへの膺懲(ようちょう)は、まだ終わっていない」
{おもろい。やってこませまひょ」
啓太が応じ、あとの2人もしっかりとうなずいた。

源泉寺門前の花屋では、連日、夜おそくまで表戸をしめないで、おがなんども五条坂のほうをすかしてみていたという。


参照】[銕三郎、膺懲(ようちょう)す] () () () () (5) (

2009年10月19日~[貞妙尼(じょみょうに)の還俗(げんぞく) () () () () () () () () () (10


お断り】あくまでも架空の色模様で、貞妙尼も実在の誠心院、泉湧寺および同派の寺院もかかわりがないことをお含みの上、お楽しみのほどを。

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2009.11.03

銕三郎、膺懲(ようちょう)す(6)

烏丸蛤ご門前の粽司(ちまきつかさ)〔川端道喜〕の10代目あての書状をしたため、朝早に松造(まつぞう 22歳)を7やり、求めさせた粽20本のうち半分を久栄(ひさえ 21歳)に、あとを携えて山伏山町(錦小路・室町上ル)の家へ寄った銕三郎(てつさぶろう 28歳)は、待っていたご用聞・〔大(文字町だいもんじまち)〕の藤次(とうじ 50前)と話した。

藤次は、東町奉行所の目付与力・浦部源六郎(けげんろくろう 51歳)から十手をあずかって20年近くにもなる、老練の者であった。
貞妙尼(じょみょうに 享年25歳)がいびり殺された現場も検分しており、犯人たちが寺僧との推測はついているものの、寺域にふみこむことははばかられたのと証拠がないので、手をこまねいていたところであった。

そこへ、銕三郎からの呼びだしがき、浦部与力に伺いをたてたところ、いわれたとおりに働けとの指示が返ってきていた。

誠心院(じょうしんいん)の寺男・又平(またへえ 50がらみ)が山伏山町の家にいたので、不審をつのらせはしたが、浦部与力の指示をおもんぱかって、訊くことはひかえた。

銕三郎の頼みは、油小路通二条通り上ルの、鞘師・三右衛門の店の裏手、2軒長屋のお銀(ぎん 60すぎ)婆(ばば)に、十手をちらつかせ、「貞妙尼が邪淫な破戒を隣の実家でやっていると、どこかの住職に、お前はんが告げ口したため、尼が責め殺されたと見て、奉行所は宗門裁きみたいなことに加わった全員を調べていると脅し、後ろをつけて、告げにいった先をたしかめてほしい---であった。

生前のお(りょう 享年33歳)が、なにかのときに、潜入している閒者を見つけるには、秘密めかしたことがらをさぐりとらせたふりをして、その後の動きでたしかめる法もある---といったあと、山本勘助どのの〔啄木鳥(きつつき)〕の戦法の変わり形---と笑ったのをおもいだしたのである。
は、商舗の金のかくし場所をさぐりだすための法として考えていたのかもしれない。

が駆けこんだ先は、やはり、筋屋町の西迎寺であった。

出かける暁達(そうだつ 36歳)を尾行(つけ)たのは彦十(ひこじゅう 38歳)と万吉(まんきち 22歳)と啓太(20歳)、〔千本(せんぼん)〕の世之助(よのすけ 60すぎ)だが、その後ろをさらに追っいる者がいるのを、4人は気づきもしなかった。

五条通りへでたところで、暁達は、左へ折れないで右に折れた。
啓太が、
「毘沙門町へいくきよるんやないか。おとといの僧の寺は、そこの竜土寺やった」

4人はちょっと相談をし、手に粽をもった世之助だけが左折した。
彦十万吉啓太は、まよわず、右に折れて暁達を追ったが、まん前のきせる問屋の〔松坂屋〕の店舗を指さした万吉が、
「この大店の年増の後家はんが、元賢(げんけん 43歳)から功徳を施こされとるんや」

4人を尾行していた藤次は、とりあえず〔松坂屋〕もおぼえておくことにしたものの、事件とどうかかわっているのかは見当もつきかね、首をひねった。

源泉院前の花屋では、お(とき 57歳)の誘いでやってきた小坊主・賢念(けんねん 13歳)が3本目の粽をほうばりながら、
「〔松坂屋〕のご内儀は、お(さと)いうて、若うは見えるけど、白粉と紅おとしたら、やっぱり、30は30で、ごまかしはきかへん」
「白粉おとすこともあんの?」
「泊まっていかはるとき、湯殿をのぞき見しとんのや」
「悪い小坊主や」
「うちだけやあらへん。寺男の五平(ごへえ 59歳)はんが板に穴、刳(く)りはってん」

は、粽よりも世之助で、引きよせた手を、着物の上から尻にみちびいていた。

「和尚はんは、おはんと、湯ゥもいっしょ?」
「そうどす」
「おもろい。湯殿から寝間までの図を書いてェみ」

賢念は筆を借り、手の米粉をはたき、間取り図を描いた。
「本堂へつながっとる廊下は?」

賢念が4本目にのばした手をぴしゃりと叩いいた世之助が、
「〔道喜〕の粽は、1本、なんぼするおもうてんねん。値段聞いたら、口がまがるでェ」

小坊主が満足して源泉院へ戻っていくと、おは、世之介にしなだれかかって口をさしだした。
ちょっと吸ってやってから、
「お---」
「あい」
呼び捨てにされ、もう、情婦気どりで甘えている。

「これからすぐに、向かいの寺の住持の---なんていうたかな---」
元賢少僧正はん」
「そや。その少僧正はんにな、誠心院はんで、庵主(あんじゅ)はんが殺されはったとき、11両(176万円)ほどが紛失しとるを、奉行所がみつけたらしと、わいがいうとったと、耳うちしてやってんか。10両盗んだもんは、死罪なんや」
「奉行所?」
「そや」
「すると、世之はんは、奉行所かかわり?」
「ちがう。奉行の息子はんと知り合いの、知り合いなんや」

「ほな、いてきますよって、帰らんと、待ってておくれやす」
「待ちなはれ。も一つあんのや。誠心院の須弥壇(しゅみだん)の陰から、殺された尼はんの手控えがでてきよってな、それには、言いよった坊(ぼん)さんの名ァと、口説きせりふがぜぇんぶ書きとめてあったらし、とささやいてきなはれ」

参照】[銕三郎、膺懲(ようちょう)す] () () () () () (

2009年10月19日~[貞妙尼(じょみょうに)の還俗(げんぞく) () () () () () () () () () (10


お断り】あくまでも架空の色模様で、貞妙尼も実在の誠心院、泉湧寺および同派の寺院もかかわりがないことをお含みの上、お楽しみのほどを。


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2009.11.02

銕三郎、膺懲(ようちょう)す(5)

瀬戸川(せとがわ)〕の源七(げんしち 56歳)に頼んだのは、なんと、〔牝誑(めたらし)の現役と古手(ふるて)であった。

「古手のほうは、今日明日にもほしい」
源七は、さすがである。
遣い道などは訊きもしないで、しばらく思いをめぐらせていたが、ぽんと手をうち、
「〔千本(せんぼん)}の世之介などというふざけた名を〔通り名〕にしていますが、なに、生まれが千本通りの北の端の浄興寺の住職が妾に産ませたって奴で。千本を目ざしたが寄る年波には勝てねえ、888本で撃ちどめだなんて、大ぼらをふいてます。1本はおなご衆1人だっていうからタチがわるい。まあ、面(つら)だけは〔牝誑〕を自称するたけあり、若いときはそれなりに見えたようですが---」

ちゅうすけ注】〔牝誑めたらし)鶉〕の福太郎(25歳)は、『鬼平犯科帳』文庫巻2[(くちなわ)の眼]p20  新装版p21に登場。
巻7[はさみ撃ち]で薬種屋〔万屋〕の30妻・おもんをたらしこんだ〔針ヶ谷(はりがや)〕の友蔵(31歳)は、〔女だまし〕専門と。p81 p85

万吉が中古の牝誑〔千本〕の世之介をともない、東山の源泉院の門前の花屋へあらわれたのは、翌日の午後おそくであった。

老婆・お(とき 57歳)は、一目で世之介が気にいったようで、お茶を淹れるは、饅頭をすすめるはして、歯が浮くようなお世辞に脂っけのぬけた躰をくねらせている。
このままいくと、臍くりをみつぐから、今夜、泊まっていけといいかねないかもしれない。

世之介にまかせた万吉は、店の奥から、源泉院の山門からあらわれる年増を待っている。

きょうあたりは庫裡(くり)へしけこむころだと、きのう、おから告げられていた。
花屋の奥で隠れて見張るために引っ張りだされた世之介だったのである。

おんなは、見込みどおりに庫裡から出てきた。

山門にも夕やみがしのびよっているので、遠目には25歳をすぎたかかどうかの齢ごろとふんだ。

着つけは乱れていないが、髪はいくらかほつれている。
家へ帰りつくころにはすっかり暮れているから、とおもいさだめているのであろう。

20間(300m)ほどの距離をおいて尾行(つけ)ていく。
さっきまでの情事をおもいかえしているのか、腰がひだるそうな歩きぶりである。
「ちきしょう。うまいことやりよって---」
坂の両側に表戸をおろした焼きものの小店が点在している五条坂で、おもわず、つぶやいた。

富小路五条の南角、〔きせる問屋 松坂屋〕の看板があがっている店の、くぐり戸に消えた。

C_360_5
(きせる問屋〔松坂屋〕 『商人買物独案内』)

その先の路地の呑み屋の灯が見えたので、障子戸をあけ、空き小樽に腰をすえ、
「おお、こわかった」
「どないしはりましたん?」
訊いたのは、燗したばかりの徳利を、黙って飯台(はんだい)に置いた店の親父である。
このごろは、こんな店までが、銅製の燗用ちろりから、陶器製の徳利になっていた。
冷めがおそくなるからである。

五条坂をくだっていたら、別嬪(べっぴん)の年増が清水焼の窯元の脇からあらわれて前をゆくので、ゆれてる腰からいつ尻尾がでるかとつけてきたら、表通りの〔松坂屋〕で消えてしまったと、万吉が即席のつくり話に、、
「〔松坂屋〕のご新造はんでしすやろ。後家にならはったばかりやで、おおかた、旦那寺からの帰りどしたんやろ」
亭主が笑い顔で、一夜漬けの小かぶを呈した。

「後家?---25,6の若年増にしかも見えへんかったが---」
「若うても、後妻なら、後家にならはります」
「後妻? あない別嬪で?」
「〔松坂屋〕はんほどの身代(しんだい)があったら---」
「どこから、きィはったんどす?」
「------」
しゃべりすぎたとおもったらしい親父は、聞こえないふりをして大徳利からちろりに酒を注ぐことで、問いをそせらせた。

向かいの相客に酒をすすめると、その中年男が飯茶碗で受け、小声で、
「五条橋下におます料理屋〔ひしや〕の座敷女中やったんが、〔松坂屋〕の55歳の旦那に見初められよって---」

C_360
(料亭〔ひしや〕 『商人買物独案内』)

源泉院の門前の花屋では、引きとめるお婆ァに、
「あすの夕刻まえに、手みやげに〔川端道喜〕の粽(ちまき)をさげてくるよって、向かいの寺の小坊主も呼んどいきなはれ」
銕三郎から口うつしの甘言をのこし、〔千本〕の世之介は、どうやら、889本目を数えられるとほくそ笑みながら、おぼつかない足どりで、五条坂をくだっていた。

参照】[銕三郎、膺懲(ようちょう)す] () () () () () (

2009年10月19日~[貞妙尼(じょみょうに)の還俗(げんぞく) () () () () () () () () () (10


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2009.11.01

銕三郎、膺懲(ようちょう)す(4)

(お(りょう)だったら、どういう策でのぞむだろう?)
久しぶりに、お(享年33歳)のことが懐かしくおもえた。
この場にいて、知恵を貸してほしかった。

どんな奇策を立てるか。
あるいは、正攻法でのぞむか。

躰の触れあいも忘れがたい女性(にょしょう)であったが、おの頭脳の動きは、名将と閒者を一身に秘めていた。
(どんなことを言っていたか)

「必ず敵の閒者をさがし、これを利すべし」

そんなことを、笑いながらささやいたことがあった。
(そのときおれは、おの右の内股のつけ根にあった黒子(ほくろ)を、舌でなぶっていた。

〔利すべき敵の閒者---〕
いまのところ、2人いる。

その一人からの風音(ふういん)をもって、万吉(まんきち 22歳)が戻っているはずである。

〔炭屋〕の2階の部屋へはいったときであった。
彦十(ひこじゅう 38歳)が啓太(けいた 20歳)をまねき、西迎寺の山門から出てきた僧形の男を窓から見せ、
「帰る先と、身許をつきとめな」

すばやく降りていった。

部屋へあがる前に頼んでおいたきつねうどんの出前がとどいた。
万吉は、出ていった啓太のどんぶり鉢にも箸をつけながら、源泉院の門前の花屋の老婆の話を述べる。

いちばん新しい後家の身許はいずれわかるが、この前までは、寺町五条上ルのちょうちん傘屋〔鎰屋(ますや)〕の寡婦となった内儀・お(こう 30歳)がそうであった。
それが、ややができてしまい、水子にして躰をこわし、お呼びでなくなった。
「ぽってりした、ええおなごどしたけど---」

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(ちょうちん問屋〔鎰屋〕 『商人買物独案内』)

「姐(ねえ)はんの若いときに似てましたんやろ」
万吉の大仰な冗談を真けた婆さんは、その前の寡婦を教えた。

六角堂高倉角の、主として真言宗の法衣を商っている〔岡屋〕の女将・お(りく 28歳=当時)は、背筋がすっきりとのびたいいおんなだったが、そのときの声が大きすぎて、隣の寺までとどくというので〔鎰屋〕の寡婦にとってかえられた。

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(法衣〔岡屋〕 『商人買物独案内』)

さん。〔風炉(ふろ)屋〕の番頭さんに顔を貸してもらうように、使いをだしてくれと、ここの主人にいってきてくれないか」

参照】〔風炉屋〕の番頭とは、〔瀬戸川(せとがわ)〕の源七のことである。まわりの耳を気づかって、〔通り名〕で呼ばなかった。
2008年5月28日~[〔瀬戸川(せとがわ)〕の源七] () () () (
2009年7月20日~[千歳(せんざい)〕のお豊] () (

彦十がおりていくと、
万吉どの、その花屋の婆さんは、50幾つだといってましたか?」
「60までに3年とか---」

参照】[銕三郎、膺懲(ようちょう)す] () () () () () (

2009年10月19日~[貞妙尼(じょみょうに)の還俗(げんぞく) () () () () () () () () () (10


お断り】あくまでも架空の色模様で、貞妙尼も実在の誠心院、泉湧寺および同派の寺院もかかわりがないことをお含みの上、お楽しみのほどを。

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2009.10.31

銕三郎、膺懲(ようちょう)す(3)

「坊(ぼん)さんが一人、でてきよったぜ。背格好から、どうやら、暁達(ぎょうたつ)らしい---」
旅籠〔炭屋〕の2階の表部屋の窓から、はす向かいの西迎寺の山門を看視していた〔相模(さがみ)〕の彦十(ひこじゅう 38歳)が、助(すけ)っ人としてつめている万吉(まんきち 22歳)にささやいた。

万吉も、彦十の頭ごしに視線をとばした。
看視をはじめて2日目の午後であった。

きのうから神経の張りづめで、さすがの彦十も疲れていた。
横手の仏光寺通りも、まん前の富小路(とみのこうじ)も、〔炭屋〕の亭主・善三郎が示唆してくれたように、僧の往来が多い。
そのたびに緊張していたが、2日目からは、的を西迎寺の山門の出入りにしぼっていた。

すぐに身支度をととのえた万吉が、あとを尾行(つけ)た。
暁達(36歳)は、太めの躰のわりには速足で、富小路を南へ、五条通りで東へむかう。
大橋をわたり、東山のふもとの源泉院の山門をくぐった。

昼間なら、左のかなたに、清水寺(きよみずでら)の大屋根が見えるはずだと、万吉はおもった。

万吉の親は、清水寺の坂下でせんべえを商っている。

門前の花屋で50文(2000円)で供花を買い、店の老婆に、とぼけて住職の名をきいた。
銕三郎(てつさぶろう 28歳)からも〔左阿弥(さあみ)〕の2代目からも、探索に遣う金子を惜しむなといわれていた。

とぼけたふりで、源泉院の住職の名を訊いた。
元賢(げんけん)はんやおへんかいな。43やいうに、達者なご坊はんや。きょうもまた、新しい後家はんに功徳をほどこしはった」
「うらやましい。うちのおっかあと違うやろな」
「30歳ほどやったよって、違うてますやろ」
「うちのおっかあは、姐(あね)はんに似て、若うみられよるんや」
心得たもので、老婆の噂ばなしに調子をあわせている。
花屋は、50をとっくにすぎているのに、なんと、はにかんだ。

「こんど、昇進しはったとか耳にしたんやけど---」
カマをかけた。
「そんなことおへん、少僧正のまんまや。檀家の後家はんとのことが本山に知られてるよってに、階位はなかなかあげてもらわれへんねん」

長居がすぎるとあやしまれるから、山門をくく゜り、墓域のとっかかりの墓石の花立てに水もそえずに供花を挿しこみ、庫裏のほうをうかがったが、
「そら、あかん!」
元賢らしい声がもれたきり、話し声は聞こえてこなかった。
山門を出るときには、花屋の老婆は奥に引っこんでしまっていた、

翌日、〔炭屋〕をのぞきにきた銕三郎万吉が昨日の尾行の顛末を告げると、
「ご苦労だが、きょうは、花を倍ほど買って話を訊きだしてほしい。元賢とねんごろになった後家さんたちの名と住まいが知りたい。できたら、元賢の素性も---。それから、法泉院に出入りしている僧たちのことも---」

彦十の報告は、ゆうべ、暁達が西迎寺へ戻ってきたのは五ッ半(午後9時)まえだったが、酒を呑んでいたふうで、赤い顔をしているのが、月明かりでみとめられたと。
「破戒に加えることの、一だ」

山伏山町(錦小路通り・室町通り上ル)の本拠へ着いた銕三郎は、お(てい 享年25歳)の母・お(かね 47歳)に2つのことを訊いた。

旦那寺の山号、その所在、宗派、住持の法名と年齢。
もうひとつは---、
ここへ移るまえの住まい---油小路通り・二条通りの2件軒長屋の隣人。

旦那寺のことを訊いたとき、目じりと口まわりの皺はかくせないが、おどうようにととのった眉間に、影が走った。
寡婦になったとき、布団にはいってきて、おの太ももにすりつけて後家の欲を耐えていたというが、おが嫁したあとのことはわからない。
40歳にはなっていなかったろう。

寺は、花園の天寿院で、いずれ、この家に安置してあるおの遺骨も納めるといった。

「迂闊なお質(たず)ねごとだが、拙が貞妙尼と二条油小路町のそなたの家を借りたとき、泊まりにいったのは天寿院の庫裡(くり)でしたか?」
「8年ほども世話になっており、うちのほうが出向きますよって、近所はしりはらしまへん。親戚の家へ姪の子の世話にいっとる、おもうはるようどす」
「つかぬことをお訊きしました。この場かぎりで忘れます」
「おおきに」

隣家の主・お(ぎん)も、寡婦で、齢はおより15も上の、60すぎという。
生活(たつき)は、亭主が残してくれた6軒の長屋の店賃と、呉服屋の通い番頭をしている息子からの仕送りでやりくりしているという。
ちょっとした菓子や漬物などをやりとりする仲らしいが、おの仕立て物は、おの息子のこころづかいだと。

「おどのの菩提寺は?」
「筋屋町の、なんとやらいうお寺と聞いたことがおますが、覚えてェしまへん。すんまへん」

表情を殺してさりげなく、仕立ての仕事をまわしてくれる、おの息子が番頭として勤めている呉服屋の屋号と町名を訊いた。

仏光寺通り・麩屋町通りの〔丹波屋〕との返事。

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(太物類〔丹波屋〕 『商人買物独案内』)

(暁達の西迎寺と1丁と離れてはいない)

「ここへ移ってからの仕立てものの受けわたしは?」
「ここからは〔丹波屋〕はんが7丁ばかりと近いよって、じかに、うけわたしょ、おもうてますねん」
「では、まだ、ここのことは、伝えてない?」
「ええ。仕上がったら、うちがもっていこ、おもうて---」
「ここを、決して明かしてはなりませぬ。知られると、命があぶない」


参照】[銕三郎、膺懲(ようちょう)す] () () (4) () () (

2009年10月19日~[貞妙尼(じょみょうに)の還俗(げんぞく) () () () () () () () () () (10

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2009.10.30

銕三郎、膺懲(ようちょう)す(2)

「仏光寺通り・富小路通りの角の〔炭屋〕って旅籠の表側の部屋からだと、西迎寺の山門がはすかいに見わたせやす」

相模(さがみ)〕の彦十(ひこじゅう 38歳)が報せてきたので、銕三郎(てつさぶろう 28歳)は早速に〔炭屋〕へ出向き、亭主・善三郎(ぜんざぶろう 48歳)に、西町奉行の息子であることを告げ、江戸から彦十がご用の筋をもってのぼってきたので、表側の客室をしばらくのあいだ借り受けたいと頼んだ。

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(寄宿〔炭屋〕善三郎 『商人買物独案内』)

亭主は、銕三郎の顔色で秘密の用向きらしいと察し、番頭にも女中にも伏せておくから、と承諾したうえで、
「うちのすぐ西側には、親鸞上人はん自作の御影(みえい)を祀ってはる本山・仏光寺はんがございます。まわりの塔頭も10寺ではききまへんよって、お坊さんがぎょうさんいはります。よほどにお気張りなさりまへんと---」
助言してくれた。

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(仏光寺 『都名所図会』 塗り絵師:ちゅうすけ)

彦十は、江戸の十手持ち、〔左阿弥(さあみ)〕の若い衆---万吉(まんきち 22歳)と啓太(けいた 20歳)は、地元で雇われた手先ということになった。

網を仕掛けおえた銕三郎は、東町奉行所の同心・加賀美千蔵(せんぞう 31歳)に、役所の南の神泉苑(じんせんえん)の住職を紹介してもらった。
偶数月は、東組の月番で、奉行所の門は開かれている。

神泉苑は、近衛家が別当になっている真言宗・東寺に属する寺である。
池中に善女竜神を請じて旱魃の雨乞いを祈願してきた。

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(神泉苑 『都名所図会』 塗り絵師:ちゅうすけ)

銕三郎を茶室に招いた老師は、茶をすすめ、
「伝授をお望みのものは?」
「わが家の香華寺は、江府にありますに日蓮宗の戒行寺でございます。卒爾(そつじ)ながら、宗旨(しゅうし)により、比丘(男僧)が守るべき戒律は異なるものでございましょうか?」
老師は莞爾(かんじ)とした面持ちで、
「人は群れたがりよりますわなあ。群れはさらに鶏頭になりとうて小群れをつくりよる。これを名欲(みょうよく)いいますのんや。まあ、群れの中でだけのことやよって、俗界からの指弾(しだん)もおませんけど」

「俗界から指弾を受けなければ、かまわないのですか?」
「手きびしいの。欲のない人はおらしまへん。名欲くらいは、僧にもゆるしてやらんと、生きてても息がつまりよる。ほれ、この茶の湯も口欲の一つでおます」

「不殺生(ふぜっしょう)、不偸盗(ふちゅうとう)、不邪淫(ふじゃいん)、不妄語(ふもうご)、不飲酒(ふいんしゅ)の五戒は、いかがでしょう?」
「不飲酒は、俗界では戒やおへんな。前の三戒は、世間でも犯戒(はんかい)どすやろ?」
「そのように心得ております」

「殺生すれば死罪。親や主殺しは引きまわしの上、磔(はりつけ)、曝し(さら)しどすな」
「それは、奉行所の裁きです」

「僧職にはあと、不食魚肉、不食獣肉---乳もなりませぬ。人のおなごの乳もですぞ」
銕三郎が顔を赤らめたので、老師は声をだして笑った。
この若者、意外にも正直だとでもおもったのであろう。

「冗談がすぎよりましたかな」
「老師。たびたび、お教えを請けに参上してもよろしいでしょうか?」
「いつにても、お迎えしますぞ」

山門を出ながら、貞尼(ていあま)の悲痛は、きっと鎮(しずめ)てやる、と覚悟を新たにした。

参照】[銕三郎、膺懲(ようちょう)す] () () () () () (

2009年10月19日~[貞妙尼(じょみょうに)の還俗(げんぞく) () () () () () () () () () (10

お断り】あくまでも架空の色模様で、貞妙尼も実在の誠心院、泉湧寺および同派の寺院もかかわりがないことをお含みの上、お楽しみのほどを。

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2009.10.29

銕三郎、膺懲(ようちょう)す

(てっ)つぁん。これを、許しておいちゃあいけねえって、ダチがいってますぜ」
与力・浦部源六郎(げんろくろう 51歳)たちが帰ったあと、〔相模(さがみ)〕の彦十(ひこじゅう 38歳)がいきまいた。
左阿弥(あさみ)〕の円造(えんぞう 60歳すぎ)も、
「やらはるんなら、助(す)けさせてもらいます」
2代目・角兵衛(かくべい 42歳)もうなずいた。

「元締。口の堅い若い衆を2人ほど、お貸しいただけますか?」
「2人といわず、5人でも10人でも---」
「いえ。討ち入りするのではありません」
銕三郎(てつさぶろう 28歳)が説明した。

これは、個人的な報復とか復讐ではなく、悪をこらしめる膺懲(ようちょう)なんだと。
奴らは、僧籍にありながら、もっとも基本的な五戒(かい)のうち---不殺生(ふぜっしょう)、不偸盗(ふちゅうとう)、不邪淫(ふじゃいん)の3つまでを犯している。
宗門はそれを見ないふりをし、見のがすといってきているにひとしい。
天にかわって、この不義の徒をこらしめるのであると。

ただ、現世の法は、すべては、町奉行所の裁きにまかすようにと、私的な膺懲を禁じている。
宗門は、あげて、犯人たちの擁護にまわるであろう。
とりわけ、門跡(もんぜき)がからんでいるばあいには---

したがって、こらしめた側が誰かわからず、迷宮入りにしなければならない。
それには、小人数で、ほころびがでないようにしてかかることが肝要。

「盗みもやってますのんか?」
角兵衛が訊く。
「われわれが寄進した10両(160万円)ばかり、盗みました」
「許せまへんな」
元締が歯ぎしりした。
(もっとも3本が義歯なので、さほどに力ははいっていなかったが---)

「邪淫って、そこまで辱めよった?」
彦十が口をすべらせた。
「いや、あ奴たちは、庵主(あんじゅ)に言いよって、拒絶されたのを、逆恨みしたのだ。庵主は、これまで、それを口にしては自分が淫逸(いんいつ)に与(く)みしたと同じことになるとおもい、秘していた。しかし、あ奴らはその上にあぐらをかいていたが、庵主が還俗すれば、いつ暴露(バラ)されるかと、それを恐れての襲撃であったふしも、ないではない。まあ、本筋のところは、嫉妬だが---」

襲撃組にまだ知られていない錦小路通り・室町通り上ルの家を、膺懲の本拠にすることに決め、顔をしられている寺男は外出をひかえること、彦十は滞在している〔瀬戸川(せとが)の源七(げんしち 57歳)のところから、こちらへ移ること、貞妙尼(じょみょうに 享年25歳)の母親を、油小路・二条上ルから、しばらくのあいだ、ここへ住みかえてもらうこと、寺院を通しての葬儀はしないこと、無縁仏を火葬に付する手続きを奉行所でとってもらうことにした。

さんは、筋屋町の西迎寺が見渡せるところに見張り部屋ををみつけ、住持(じゅうじ)・暁達(ぎょうたつ)の出入りを看視し、訪ねてきた坊主がいれば尾行してどこの寺の者かたしかめてほしい。そのための手足を元締のところの若い衆から借りることになっておる」
「合点だ。ついでに、暁達とやらが囲っている妾と、庫裏の間取りも調べますぜ」
「妾をつくっていれば---だが」
みんなで笑った。


参照】2009年10月19日~[貞妙尼(じょみょうに)の還俗(げんぞく) () () () () () () () () () (10

[銕三郎、膺懲(ようちょう)す] () () () () () (

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2009.03.01

銕三郎、ニ番勝負(4)

「盗賊一味の浪人が使う居合とな?」
小野田治平(じへい  40歳前後) が、細い目をさらにせばめて銕三郎(てつさぶろう 24歳)に問いかけた。

「はい。その防ぎ手を考案いたしたく---」
「仕手(して)役は、この左馬めが勤めますゆえ、ご教授を---」
岸井左馬之助(さまのすけ 24歳)も脇からたのんだ。

不伝流居合の遣い手の小野田によると、その浪人が、これまでたびたび商店に押しいってきているとすると、刃先が天井や欄間にあたらないように、太刀を縦にはふるわず、横に遣ってきていよう。
したがって、咄嗟の斬りあいにも、横遣いをするはずである。
銕三郎どのは、横から切り上げてくる太刀を撥ねあげ、斬りかえす技を会得なされ」

実際に、真剣を腰に切り上げてみせた。
三度、模範を示したあと、左馬之助にやらせ、鯉口のひねりかげんや右手の握り方まで、勘どころを何度も口伝した。
もちろん、左馬之助も一刀流の皆伝を許されている上、高杉師から居合術も伝授されているので、会得は早い。

銕三郎
左馬之助と刃をつぶした太刀で、夕暮れまで、抜いては受け、斬り上げては撥ねかえして左手をうつ稽古をつづけた。

汗びっしょりになって刀を収めた2人を、
「だいぶ、コツがのみこめたようだ。明日には、新工夫を加えるように---」
小野田治平が、、細い目に笑みをたたえてはげました。

左馬さん。夕餉を食べによらないか?」
銕三郎が誘うと、
「願ってもないこと。春慶寺での精進料理がつづいていて、そろそろ、---とおもっていたところだ」
左馬之助が、一も二もなく応じた。

高杉師小野田食客へ挨拶をすませた。
横川の東ぞいを新辻橋へ向かいながら、話すことは、居合についてであった。
左馬さん。右手で太刀をすべらせ、左手を添えるのはどのあたりかな?」
左馬之助が立ちどまり、左手で腰の鞘をひねり、右手で見えない剣をぬきざま空を斬りあげてから、左手を添える態(てい)をしてみせた。

「拙が撥ねたときは、左手は、やはり、柄にかかっていず、構えなおしたときだな」
「そうなる---」
「うむ」
夕暮れの幕(しばり)が横川にも降りてき、水面が黒ずんでいる。

異変は、牧野遠江守康満(やすみつ 信濃・小諸藩主 1万5000石)の下屋敷前の辻番所をすぎたところで起きた。

辻番所のあかりがとどかなくなった下屋敷の陰から、小柄な影が、すっと出てきて、2人の前に立った。
長谷川どのは、どちらかな?」
「拙だが---」

「備州・岡山の浪人、川崎栄五郎(えいごろう)でござる」
「おお。そなたが---」
「お手くばりのお礼を申しのべる」
と言うより先に、太刀が風を切ってきた。
銕三郎は、左足を引いてかわすとともに、抜いた、

一撃を仕そんじた栄五郎が、柄に左手をゆっくりとそえた---瞬間。
ぱっと踏みこんだ銕三郎が、相手の左の親指を斬り、そのまま体あたりをして、駆けぬけた。
栄五郎が向きを変えたときには、左馬之助も、その背後で抜いていた。

川崎うじとやら。好意でしたことのお礼がこれか」
銕三郎が、正眼にかまえたままで言う。
「好意だと? とんだ恥さらしであったわ」
「それは、そちらが、火盗改メをみくびって、投げ文などをしたからだ」
「しゃらくさい」
「指の手当てをなされよ。われらは、このことをなかったことにするゆえ」

栄五郎の親指からは血が吹き出ていた。
第一関節から先がなくなっていたのである。

栄五郎が舌うちして刀を鞘の戻し、指を、懐紙でおさえたまま、北へ去っていった。


参照】2009年2月26日~[銕三郎、二番勝負] () () () 
2008年12月21日~[銕三郎、一番勝負] () () () () (


参考】2009年2月17日~[隣家・松田彦兵衛貞居] () () () () () () () () 

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2009.02.28

銕三郎、ニ番勝負(3)

東軍流の斉藤道場は、和泉橋の北詰から2丁とない、神田松永町にあった。
松永町からさらに1丁も北行すると、新妻・久栄(ひさえ 17歳)の実家の大橋与惣兵衛親英ちかふさ 56歳 300俵 西丸・新番与頭(くみがしら))の居宅である。

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(緑○=神田松永町の斉藤道場 和泉橋通り)

久栄長谷川家の嫁となる前は、おまさ(13歳)の手習いをみてやっていたあとの久栄を、和泉橋とおりの大橋家まで、よく送り、途中の竪川や神田川の川岸の並木にもたれて、口を吸いあったものである。

迎えてくれた斉藤五郎左衛門兼継(かねつぐ 68歳)は、細身の体形で、総髪は真っ白であったが、さすがに眼光はおとろえていなかった。
高杉銀平ぎんぺい 63歳)師より3つか4つ齢上に見える。
高杉さんはお達者かな」
さすがに声は枯れているが、よくとおった。
「はい。斉藤先生にくれぐれもよろしゅうお伝えするようにと、仰せつかりました」

高杉さんと試合ったのは、もう30年以上も前のことだ」
「うかがったことはございませぬが---」
形原(かたはら 松平)紀伊守(信岑 のぶみね 42歳=当時 奏者番 5万石)侯が、まだ丹波笹山藩主のころで、な」

東軍流の同門で、篠山藩の師範をしていた川崎源助の口ききで、鍛冶橋内の上屋敷・内庭で、他流の遣い手との御前試合がおこなわれた。
斉藤勝継の相手は一刀流の高杉銀平で、双方が構えた瞬間に、斉藤は小手をとられていた。

「むしろ、こころちよい負けであったのですよ。いや、昔ばなしをしていても、せんない。高杉さんからの文面によると、備前・岡山の浪人が遣っているのが東軍無敵流とか---」
「拙が聞きましたのは、東軍流ということでございましたが、わが師が、備前・岡山の浪人ならば、東軍無敵流であろうと申されまして---」
「そこまでご推察とは、さすがに高杉さん。もちろん、入江姓を名乗って東軍流を伝える者もおることはおり申す。その浪人者の姓は、なんと?」
「それが、〔殿との)さま〕栄五郎としか---」
「ふざけた〔呼び名〕を使う仁じゃな。東軍無敵流の教えているのは坂口八郎右衛門(はちろうえもん)といったが---」

斉藤五郎左衛門によると、東軍流がどちらかというと正攻法の剣術なのに対し、それから別かれた坂口八郎右衛門は独自に槍術と居合を加えたと。
まさか、江戸の町中で槍を遣うわけにはいくまいから、
「その、栄五郎とやらが遣うとすれば、居合ではなかろうかのう」

居合なら、高杉師から仕込まれてもいるし、道場の食客・小野田治平(じへい 40歳前)からも、かなり教わっている。

ちゅうすけ注】小野田治平は、武蔵国多摩郡(たまこおり)布田(ふだ)五ヶ宿の郷士の3男で、不伝流の居合術の秘伝を銕三郎(てつさぶろう 24歳)や岸井左馬之助(さまのすけ 24歳)に教えたと、『鬼平犯科帳』巻7[あきらめきれずに]にある。
布田五ヶ宿は、掏摸(すり)の〔からす山〕の寅松(とらまつ 18歳)が住まいのから1里20丁(6km強)ばかり府中寄りである。
(そういえば、寅松銕三郎久栄の婚儀に借り衣装の紋付袴でかけつけてきたことを書きわすれていたなあ)

出村町の道場へ戻り、斉藤五郎左衛門の言葉を伝えると、高杉師は、さっそくに小野田治平を呼んで、居合のはずし方を銕三郎へ伝授するように頼んでくれた。


参照】2009年2月26日~[銕三郎、二番勝負] () () 
2008年12月21日~[銕三郎、一番勝負] () () () () (

参考】2009年2月17日~[隣家・松田彦兵衛貞居] () () () () () () () () 

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2009.02.27

銕三郎、ニ番勝負(2)

(てっ)つぁんの旦那。〔蓑火みのひ)〕一味のおおかたは、あきらめて〔蕨屋〕を引きはらったようでやす」
相模さがみ)〕の彦十(ひこじゅう 34歳)が鼻をうごめかして、銕三郎(てつさぶろう 24歳)に告げた。

銕三郎小浪(こなみ 30歳)へ、月番少老(わかどしより)・加納摂津守久周(ひさのり 60歳 伊勢・八田藩主 1万石)が、先手組はじめ番方(武官系)へ市中見廻りを命じたことを教えた3日目である。

[〔うさぎ人(にん)・小浪] (1) (2) (3) (4) (5) (8) (7)

伊勢屋への押しいることを、とりあえず見合わせた〔蓑火〕の喜之助(きのすけ 47)一味が江戸での盗人宿とおもえる南本所の商人旅籠〔蕨屋〕から姿を消した---と告げているのである。
「でもね、旦那。〔殿との)さま栄五郎(えいごろう)って浪人者は、まだ腰をすえてやがるみてえですぜ」
「ほう。今度は、なにをたくらんでいるのかな」
「何者でやす?」
備州・岡山の浪人---と教えると、
「そういやあ、そんな奴が軍者(ぐんしゃ 軍師)としてへえったって、聞いたような気がしやす」

栄五郎が〔蓑火〕の喜之助知恵袋となったために、〔中畑(なかばたけ)〕のお(りょう 30歳)が〔狐火(きつねび)〕の勇五郎(ゆうごろう 49歳)へゆずられたという経緯(ゆくたて)は、彦十にはまだ話していなかった。
そこへ、仕込みが一段落した三次郎(さんじろう 19歳)が、板場から顔をだ゜し、冷や酒を彦十の前に置いた。
「おっ。(さぶ)公、気がきくようになったでねえか。ごっつおさんだぜ」

彦十の裏長屋は、〔五鉄〕の脇の二ッ目ノ橋を南へわたっ右折、館川ぞいに2丁ほど行った弁天社裏である。
〔蕨屋〕は川をはさんだ北側---相生町1丁目にあった。
どの。一息ついたら、見張りをたのみます」
「合点。まかしておいておくんなさい」

銕三郎は、両国橋をわたり、蔵前通りから三好町の〔小浪〕へ急いだ。
女将の小浪は、浅草一帯の香具師の元締・〔木賊(とくさ)〕の林造(りんぞう 60歳)に、御厩河岸の茶店を買わせていた。

蓑火〕の小頭・〔尻毛しりげ)〕の長助(ちょうすけ 27歳)たちが〔蕨屋〕を引きはらったことをたしかめると、小浪が声をひそめて、
「東軍流とかの遣い手の栄五郎って浪人者が、まだ残っているんですよ。長谷川さまに訊きたいことがあるらしいのです。お気をおつけになってください」
「訊くって、刀で訊くのですかな」
「どうも、そうらしゅうございます」
「ご忠告、かたじけなく---」

翌日、高杉銀平ぎんぺい 63歳)師の前に、銕三郎がいた。
「先生。東軍流の秘太刀をご存じでしょうか?」
「どうしたのだ?」

師の問いかけに、備州・岡山の浪人と、近々、決闘することになりそうだと、〔蓑火〕一味との経緯を打ち明けた。
「岡山の浪人なら、東軍流も坂口某が流祖の、東軍無敵流を修行している者かもしれぬぞ」
「無敵流といいますと---?」
「いや。わしもよくは知らぬ」
高杉師はそう言い、添え状をしたためてやるから、御徒町に東軍流の道場をかまえている斉藤五郎左衛門どのに会って教えを乞うてみるがよい、とすすめられた。

参照】『剣客商売』文庫巻7[決闘・高田の馬場]に、東軍流の道場主・斉藤五郎左衛門が試合の審判として出ているので、名を借りた。
岡山の東軍無敵流の始祖は坂口八郎右衛門勝清である(綿谷 雪・山田忠史『武芸流派大事典』)

【参照】2009年2月26日~[銕三郎、二番勝負] (
2008年12月21日~[銕三郎、一番勝負] () () () () (


参考】2009年2月17日~[隣家・松田彦兵衛貞居] () () () () () () () () 

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2009.02.26

銕三郎、二番勝負

日暮れ前に銕三郎(てつさぶろう 24歳)は、〔相模(さがみ)〕の彦十を、料亭〔片蔵屋〕の玄関隣の部屋に呼んだ。
部屋の向かいは、幕府の米蔵の一番倉の壁で、〔片蔵屋〕の屋号のゆえんである。

路地をはさんで、左は舟着き場茶店〔小浪〕。
つまり、左を見張っていれば゜、〔小浪〕に出入りする人が見張れる。
話は、火盗改メ方の松田組の筆頭与力・土方万之助(まんのすけ 50歳)から〔片蔵屋〕へこっそりと通してもらった。

_100そうしておいて銕三郎は、何食わぬ顔で〔小浪〕へ入っていった。(歌麿 小浪のイメージ)
女将の小浪(こなみ 30歳)に目くばせをし、席につく。
茶を運んできた小浪に、ささやいた。
「大事な話があるからと、〔木賊(とくさ)}のところの小頭・今助(いますけ 22歳)どのへ、使いをだしていただきたい」
合点した小浪が、下働きの老爺やへ言いつけ、小女には、店を閉めるように命じた。

「拙は、他用があるので、今助どのを待つけにはゆきませぬ」
銕三郎は、今助自身で、〔蓑火(みのひ)〕一味の小頭の一人・〔尻毛(しりげ)〕の長助(ちょうすけ 27歳)へ、伝えてほしい。
蓑火〕と名書きをした投げ文により、火盗改メの組だけでなく、先手の非番の10組、両番(書院番、小姓組)の非番の20組に、これから2ヶ月のあいだ、夜廻りの達しがでたと、父・平蔵から聞いた。
もし、〔蓑火〕一味がこの2ヶ月のあいだに仕事(つとめ)を予定しているなら、かならずといっていいほど網にかかるはずだから、見合わせたほうがいい。
「浅草諏訪の紙問屋の〔伊勢屋〕へ投げ文したのは、〔蓑火〕を騙(かた)った偽者とおもうが---」

そう言いおいて、銕三郎は、とも綱を解いたばかりの渡し舟に飛び乗り、対岸・石原橋の舟着きから四ッ目の〔盗人酒場〕へ直行した。

非番の先手組や書院番などの番方(武官系)に、火盗改メの補助をするようにとの達しは、このときにかぎらず、しょっちゅう下されていることは、『徳川実紀』にも記録されている。
このことを、徳川幕府の役職解説の諸書はほとんど抜かしている。

もちろん、実際の達しは、月番少老(若年寄)の加納遠江守久堅(ひさかた 60歳 伊勢・八田藩主 1万石)の名で出た。
ついでに記しておくと、加納家吉宗の左腕として紀州藩から幕府入りし、久堅は2代目である。
のちに、死の床にあった平蔵宣以(のぶため)に、将軍・家斉(いえなり)が見舞いとして下賜した、大陸渡来の 高貴秘薬瓊玉膏(けいぎょくこう)をあずかったのが、養子で3代目の久周(ひさのり)である。

参照】2006年5月1日[高貴薬・瓊玉膏(けいぎょくこう)の下賜]
2006年6月25日[寛政7年(1795)5月6日の長谷川家

小半刻(こはんとき 1時間)かそこらで、彦十が入ってきた。
隅っこの飯台から、銕三郎が手をふる。
腰をおろした彦十が、すぐに飯台ごしに身をのりだし、耳元でささやいた。
「おどろきましたぜ。今助ってんでやすか、あの若え者(の)。富士見の渡しで横網町飛び地へ着き、あっしの寝ぐらの川向こう、相生町1丁目の商人宿〔蕨屋〕へへえったとおもいなせえ」
「うむ。おもった」
「それっきりでさあ」
「でかした、どの。大手柄だ。ま、呑んでくれ。ついでに、あすから3日ほど、〔蕨屋〕を見張ってほしい、と頼みたいところだが、命が危ない。これは、左馬(さま 24歳 岸井左馬之助)に頼もう」
「さいですか。命がけだと、ねえ---」
彦十は、おまさ(13歳)が気をきかせて、とりあえず運んできた冷や酒に、もう、目がなかった。


参照】2008年12月21日~[銕三郎、一番勝負] () () () () (

参考】2009年2月17日~[隣家・松田彦兵衛貞居] () () () () () () () () 

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2009.02.01

駿府町奉行所で (4)

「あの者たちが盗賊と知れましたとき、とっさに、てまえの方から、報奨金200両で、うちの店を襲ってもらう芝居をおもいついたのでございます」
〔五条屋〕の旦那・儀兵衛(ぎへい 45歳)が、穴でもあったら入りたげな風情で告白した。

「掛川城下の〔京(みやこ)屋〕の盗難が暗示となったのですね?」
「はい。あなたさまが〔京屋〕へ再探索に行かれたと聞き、この数日は生きたこころちがいたしませんでした」

「店主どの。番頭どの。今宵、耳に入れましたことは、拙の胸の奥深くしまって、外に洩らすものではございませぬゆえ、安心してお眠りなされ。
されど、若年の拙が口をはさむのもどうかとおもいますが、お内儀のお(せい 40歳)どのは、香華寺の住職どのととくと相談なさり、先代の七回忌を機(しお)に、寺の門前の花屋でも買って与えるなりなんなり、とにかく〔五条屋〕からお出しになることですな。禍いの根は切ってしまわねば---。
さらに、どちらのお子を世継ぎにするかは、店主どのと番頭どのが談合され、親類衆への根回しは番頭どのに、もうひと汗かいてもらうのですな---」

来たときの不安顔とはうって変わり、晴れやかな顔で2人が帰っていったあと、銕三郎(てつさぶろう 24歳)は、考えこんでいた。

芝居もどきの押し入りを200両で引きうけた〔荒神(こうじん)〕の助太郎(すけたろう 50すぎ)が、〔五条屋〕出入りの肥え汲み・馬走(まばせ)村の吾平(ごへえ 40歳)にまで手をまわしてまぎらわしい偽装をした企図である。
その一方では、犯行は〔荒神〕一味と宣言するように荒神松を置いて消えている。

そうか、あの者ら一味にとっては、芝居ではなかったのだ。
あくまで、仕事(おつとめ)のこころづもりであたったのだ。
だから、仕事を終えると、金谷宿に近い菊川村の盗人宿を引きはらっている。

(お(りょう 30歳)がいてくれたら、この筋書きが読めたものを--)
4夜5昼をともにしたおは、今夜は寝間にはいない。

翌朝六ッ半(午前7時)というのに、〔五条屋〕の番頭・吉蔵(よしぞう 58歳)がやってき、いろいろな配慮のお礼といい、紙包みを置いていった。
開けてみると、鼈甲に貝の象嵌で菊花をしあらった飾り櫛であった。
(これで、母上への土産ができた)
掛川の〔京(みやこ)屋〕がくれた紙包みの横に置いたとき、久栄(ひさえ 17歳)へと決めていた紙包みの手触りが重くなっていることに気がついた。

不審におもい、あらためて包みをひらくと、櫛のほかに小判が2枚入ってい、
---ご婚儀、祝着 
と書いた紙片が添えられていた。
(おめ、いつのまに? しらぬふりをしながら、妬いていたんだ)

銕三郎には、齢上のおのこころ遣いが身にしみた。

五ッ半(午前9時)のちょっと前、銕三郎は駿府町奉行所の表門に立つ。
予告が通じてあったらしく、すぐに通された。
矢野弥四郎(やしろう 35歳)同心と竹中功一朗(こういちろう 22歳)見習いが迎えた。

内座の間らしい部屋に案内された。
江戸からきたときより、扱いが格上げされている。

町奉行・中坊(なかのぼう 左近秀亨(ひでもち 53歳 4000石)は、筆頭与力・河原頼母(たのも 53歳)をしたがえて着座した。
銕三郎が、昨夜の宴の礼を述べると、笑顔をつくり、
「いや。多用のためごいっしょできずに残念。して、いつ、江戸へ?」
「昼すぎにもと、こころづもりをしております」
「任期も3年ほどとこころえているゆえ、帰任したら、駿河台の屋敷へあそびに参られよ」

それ以上に話すこともなく、
矢野さまとの打ち合わせもございますれば---」
銕三郎のほうから、辞去のあいさつをした。
(こういうときのために、4000石級を満足させらる、どうでもいい話題をもっていないといけないな。たとえば、鴬の初音の聞き分け方とか、桜の花樹の種類とか---、おのお得意、信玄公の七分勝ちのことでもよかったかも---)

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2009.01.31

駿府町奉行所で (3)

銕三郎(てつさぶろう 24歳)から、おもいもかけなく、盗賊に持ち去られたまれた金額はほんとうに400両だったのか---しかも、うち、200両は戻ってきたのではないか? と訊かれた〔五条屋〕の主人・儀兵衛(ぎへえ 45歳)は、気絶せんばかりに度をうしない、口もきけなくなった。

代わって番頭・吉蔵(よしぞう 58歳)が、ぺたりと畳に額をつけ、
「お役人さま。申しわけもございません。すべては、手前、吉蔵が差配いたしましたことで、旦那さまにはかかわりはございません」

「まあまあ、番頭どの。顔をおあげくだされ。ここは白洲ではありませぬ。拙としても、お2人の企(たくら)みを暴露(あば)くために、お呼びしたのではありませぬ」

儀兵衛の顔に血の気が戻ってきた。
「江戸のお役人さま。企みましたのは、吉蔵どんではありません。わたくしめが手くばりいたしましてございます」
決心したように言う。

「ご両人。声が高い。もそっと、小さな声で話しあいましょうぞ。外に洩れては、〔五条屋〕さんの生業(なりわい)がたちゆかなくなりましょう」
「いかがいたしますれば---?」
さすがに老練な番頭である、早くも、銕三郎が許してくれそうな感触を察して、のりだしてきた。

「番頭どの。それでは、ありのまま、お答えください。200両は戻ってきましたね?」
「いえ、戻ってきたのではございません。最初(はな)から、助太郎さんたちが持ち去ったのは200両だけだったのでございます」
「それが、〔荒神(こうじん)〕の助太郎(すけたろう 50すぎ)との取り決めだったのですね?」
「はい。お礼のつもりでした」
「お礼といいますと---?」
「泥棒に入ってもらうお礼でございます。お店(たな)から失せた400両のつじつまをあわせるための---」

「ということは、盗難そのものが芝居だったと---?」
「はい。もっとも、助太郎さん一味は、ほんとうに勝手口の板戸を切って押し入り、旦那さまはじめ、店の者たちも気絶させて、こちらが用意した200両を、錠前を金鋸(かなのこ)で斬って持ち去りました」

「失せたという400両は、儀兵衛どのの外のご新造代わりのところへ---」
「お見通しのとおりでございます」
「そちらにも、お子が---?」
「はい。まことの旦那さまのお子がいらっしゃいます」
「すると、おどのが生んだお子は、先代の---?」
「そこまで、お調べでございましたか---」

儀兵衛が〔荒神〕の助太郎と知りあったのは、去年の秋、仕入れに上った京からの帰りに、大井川の手前、金谷(かなや)宿のとば口の菊川であったという。

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(菊川村→金谷宿 『東海道分間延絵図』部分 道中奉行製作)

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(大井川 『東海道名所図会』 塗り絵師:ちゅうすけ)

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(大井川 『東海道分間延絵図』部分)

突然の驟雨(はしりあめ)に、近くの軒に雨宿りしたところ、中で〔五条屋〕がどうとかこうとかの話し声がした。
呼ばれたと勘ちがいして、儀兵衛はおとないを乞い、
「手前が〔五条屋〕でございます」
と言うと、招じいれられた。

中には、3人の男と、ややを抱いたおんなが一人いた。

「男たちが、助太郎彦次(ひこじ 31歳)ともう一人、おんなは賀茂(かも 30すぎ)---」
「はい。もう一人の男は、半七(はんひち 25歳ほど)でございました。しかし、どうしてそれを---まるで、神業としかおもえませんが」
「拙のことは、どうでもよろしいでしょう。それで?」


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2009.01.30

駿府町奉行所で (2)

宴は、六ッ半(午後7時)に終わった。

一人になった銕三郎(てつさぶろう 24歳)は、自分にあてられている裏庭の離れの部屋へ戻り、名前を書き留めた懐紙をじっと見据える。

〔五条屋〕の内儀・お(せい 40歳)

横に、店主・儀兵衛(ぎへえ 45歳)
    囲いおんな(京都)
    番頭・吉蔵(よしぞう 58歳) 
    飯炊きおんな・お(すぎ 61歳)
    先代・儀兵衛(5年前に病没 享年62歳?) 

    辞めさされた小僧 春吉(しゅんきち 15歳=当時)
               丈太(じょうた 14歳=当時)   
    嫁に行った台所女中 お(さだ 21歳=当時)

父親が手をつけた召使い・おを、息子の嫁に?
それを知っていて内儀にしたのは、なぜ?
逆らえなかった理由(わけ)は---?
すでに、おんなができていたからでは---?

その女は、いまは? いまでも?
(すると、京都のおんなというのは虚言?)

父親とおは、ずっとつづいていた?

銕三郎は、疑念を打ち消そうとしたが、老舗の中には、外からは想像もおよばぬ濁った血が渦巻いているかもしれない---というおもいのほうが強かった。

いつだったか、〔盗人酒屋〕の忠助(ちゅうすけ 50前)が、〔法楽寺ほうらくじ)〕の直右衛門(なおえもん 40すぎ)に躰のすみずみまで開花されつくしたお(こん 28歳=当時)が、剣友・岸井左馬之助(さまのすけ 22歳=当時)とできてしまったとき、
「老練な男に仕込まれてしまったおんなは、その道からのがれることはできゃあしませんのさ」
と言ったことがあった。

参照】2008年8月27日~[物井(ものい)の紺] (1) (2)

の場合もそうではなかったか?
若い儀兵衛の女房になったものの、ものたりなくて、先代とつづたということはないか?
先代も、それを望んでいたのでは?

先代が5年前に歿した。
すると、おは、手代に手をつけはじめる。
初心(うぶ)な男を開眼させていく愉悦。
旅籠〔柚(ゆのき)木〕の女中頭が耳にしていた、安倍川べりの出合茶屋〔梅ヶ枝〕通いしているおの放縦な性の充足は、そのことと関係があるのでは?

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(北斎『ついの雛形』 お勢のイメージ)

銕三郎は、番頭を呼んで、〔五条屋〕に使いをだしてもらった。

儀兵衛吉蔵があたふたとやってきた。
「夜分、あいすみません。あす、お奉行にお目にかかる前に、どうしてもたしかめておきたいことがありまして---」

2人が不安げな目で銕三郎を見る
「ご当主どの。盗まれた金は---400両ではありませぬな?」
「えっ---それは---」
「200両は、戻ってきたのでしょう?」

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2009.01.29

駿府町奉行所で

駿府町奉行所へは、やっとのことで七ッ(午後4時)に着いた。
役人たちの退(ひ)き刻(どき)までに、ぎりぎりで間にあった。

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(駿府・町奉行所 笠間良彦『江戸幕府役職集成』より)

矢野弥四郎(やしろう 35歳)同心と竹中功一朗(こういちろう 22歳)見習いが待ちかねていた。
藤枝宿・伝馬町の問屋場から、七ッにはお会いできるとの文を、早飛脚に伝(こと)づけておいたのである。

「お宿はご指示のとおり、旅籠〔柚木(ゆのき)屋〕を避けて、〔大万屋〕清右衛門方にしておきました」
「かたじけのうございます。そこは6年前に世話になったことがあります」

参照】2008年1月5日~[与詩(よし)を迎えに] (16) (17) (18) (19)

「今夜は、中坊(なかのぼう)ご奉行のおこころづくしで、夕餉の宴をしつらえてあります。われらはいちど組屋敷へ帰って着替え、半刻(はんとき 1時間)ほどのちに伺いますから、それまでに湯でほこりをお落としおおきください」
矢野同心の言葉づかいが、こころなしか丁寧になっている。
田沼意次の名がでたために、中坊奉行が、よほどにきつく注意したにちがいない。
「お奉行は、明朝五ッ半(午前9時)に、なにはさておいても、長谷川どのをお待ちもうしているとのことでございます」

〔大万屋〕では、亭主の清右衛門と番頭が待ちかまえていた。

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(駿府城下 伝馬町(部分) 赤〇=大万屋  水色枠=本陣・旅籠)

奉行所から手がまわっているのだ。
番頭が6年前の銕三郎と気がついた。
「あ、あのときの鶯宿梅の---」
「その節は、いこう、お世話になり申した」

番頭が清右衛門になにごとか耳うちする。
おそらく、今宵の酒の銘柄のことであろう。
清右衛門がうなずく。

「それにしても長谷川さま。ご立派におなりで---」
番頭が感慨ぶかげに、銕三郎の上から下まで目をはしらせる。
この職業の老練者らしく、客5,000人の顔と名前を覚えているのである。

矢野同心と竹中見習いのほかに、河原頼母(たのも 53歳)筆頭与力もいっしょであった。
奥の〔三保松原〕の部屋には、膳が4つ、しつらえられていた。

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(広重 『東海道五十三次』 江尻 三保松原遠望)

銕三郎が、河原筆頭を首座に着かせる。

鶯宿梅を見て、河原筆頭は大満足の様子で、清左衛門としきりに話しこんでいる。
銕三郎などはどうでもよく、酒が飲めることがうれしいらしい。

竹中見習いが銕三郎の前に座をうつし、懐から6日前に渡した紙片をだして、説明をしようとすると、
功一朗。仕事の話は、あす、役所でやれ。この場は、相良築城のすすみ加減でもうかがえ」
「いや。お差し支えなければ、いま、簡単におうかがいいたしておきとうございます」
銕三郎の救いの言葉に。
「ざっと、だぞ」
矢野同心の頷首(がんしゅ)は、、不承ぶしょうであった。

銕三郎竹中見習いに渡して紙片には、こう書かれていた。
一、〔五条屋〕の内儀・お(せい 40歳)の実家と婚儀の経緯(ゆくたて)。ごくごく内密に。
一、〔五条屋〕へくる肥え汲みの百姓と、師走に牛車や汲み取り権を貸した相手、その経緯。
一、この3年間に〔五条屋〕を辞めた者と<そのわけ。番頭・吉蔵(よしぞう 58歳)に内緒で訊くこと。
一、この3ヶ月のあいだに夫婦と幼な子で道中手形をとった者。
一、寺にとどけている人別で、この3ヶ月のあいだに夫婦と幼な子で人別をよその地へ移した者。

竹中功一朗見習いはすでに、掛川から帰任した矢野弥四郎同心へ告げていることなので、要領翌話した。
かいつまんで書くと、
一、京小間物の〔五条屋〕の内儀は、奉公にあがっていた召使いだが、先代に気にいられて、儀兵衛の女房におさまった。生家は鷹匠の小者。先代のお手つきとうわさする者もいる。
一、〔五条屋〕の肥え汲みの権利をもっているのは、清水の馬走(まばせ)の百姓・吾平(ごへえ 40歳)。息子・三平(20歳)が賭場で金を借りた男にいいつかって、牛車と肥え桶を貸した。貸した肥え桶は、きちんと返された。
奉行所は、三平を仮牢に入れている。
一、この3年間に〔五条屋〕から暇をとった者は3人。嫁に行った台所女中・お(さだ 21歳)、小僧の2人は春吉(しゅんきち 15歳)と丈太(じょうた 14歳)。暇を出された理由(わけ)は、なんど言っても夜中の買い食い癖がなおらないこと。2人とも出は沓谷(くつのや)村の小作人のせがれ。いまは畑仕事を手伝っている。
一、この3年間に、人別を移した子持ちの夫婦はみあたらなかった。

銕三郎は、人名だけを懐紙に書きとめ、あとは、料理に専念した。


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2009.01.24

銕三郎、掛川で(4)

駿府へ帰る同心・矢野弥四郎(やしろう 35歳)と供の2人の小者を、東海道口まで見送りにきた銕三郎(てつさぶろう 24歳)に、
「ほんとうに、1人、おつけしなくて、よろしいのでしょうか?」
「おこころづかいだけで十分です。じつは、山越えして、相良へまわろうとおもってもおりますゆえ---」
「相良へ?」
「せっかくですから、田沼侯のご城下も拝見しておけば、なにかのときにお話があいましょうから---」

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(広重 『東海道五十三次』 掛川宿 秋葉山遠望)

相良侯とおっしゃいましたが、さきごろ、ご老中格になられた主殿頭(とのものかみ)さまの、田沼さまですか?」
相良侯は、田沼さまと決まっておりましょう」
「ご存じなので?」
「父とともに、お招きをいただいております」
「これはしたり。存ぜぬこととはいえ、失礼のかずかず、お許しください」
「ご老中格なのは田沼さまで、拙ではありませぬ---」
「お帰りの節、かならず奉行所へお立ち寄りを。中坊(なかのぼう 左近秀亨 ひでもち 53歳 4000石)お奉行にも、このこと、言上しておきますれば---」
「あいわかりました。道中、お気をおつけになって---」
矢野同心は、きのう、〔京屋〕がくれた飾り櫛を、内儀へわたすときの空想で、半分うわのそらである。

_130_3矢野たちの姿が街道の松並木に消えるまで立ちつくし、宿の〔ねぢ金や〕治郎右衛門方へ戻ってみると、年増のたおやかな美人が待っていた。
(りゅう 30歳)である。
銕三郎とつれ立って歩くつもりで、武家の新造ふうに、淡い色の揚げ帽子をつけている。
それがよく似合っていて、銕三郎はおもわず見とれた。
視線を感じたおも、嫣然と微笑む。(歌麿 お竜のイメージ)

銕三郎の股間が熱をおびはじめる。

〔ねぢ金や〕を出て、
「どこに住んでおる?」
「駄目。お(かつ 28歳)がいます。ついていらしてください」

橋のたもとの瀟洒なしもた屋で、案内を乞うた。
川が見渡せる2階の部屋には、炬燵(こたつ)が置かれ、屏風のむこうに床がのべられている。
女中が引きさがると、銕三郎が脇ざしをぬく間も待たずに、立ったままむしゃぶりついて、口を吸った。
香ばしい髪脂と白粉の匂いで、銕三郎も興奮し、抱きしめた。
女中はこころえたもので、そっと茶菓の盆を押しこんで去る。

口を離して、袴をとるようにすすめ、自分も揚げ帽子をはずした。
銕三郎の膝にまたがって、また、口を吸う。
腰をうかせ、
「脚をのばしてください」
裾をはぎ、自分の裾もひろげ、太腿に乗り、秘部を接する。
「わたしの裾が、孔雀の尾羽のようにひろがっていますか」
「うん」
「小袖ででは、裾のひろがりが小さくて口惜しい。裾を引くのを着てくればよかった。まさか、こうなるとはおもわなかったんです」
「夢を見ているようだ」
「これが、孔雀です」
「孔雀は毒蛇でも平気でたべるそうな」
「諏訪さまのご神体はお蛇さまともいわれているんですよ。いま、孔雀が食べているのは、毒蛇ではありません。おいしいお蛇さま。ほら、ぴくびく---」

はげしかった息づかいがおさまり、炬燵に並んではいってからも、鎌首をにぎっている。
「明日は、江戸へお発ちですか?」
「山越えして、相良へまわろうかと---」
「相良になにか---?」
「お城づくりがすすんでいるはず。もっとも、いまのところは、堀の石垣の石組み普請だろうが---」
「お供、しようかしら。相良まで、どれほど?」
「峠を入れて、5里(20km)ほどかな」
「決めました。お供します。ご迷惑?」
「いや。拙はうれしいが、〔狐火(きつねび)〕のほうはいいのか?」
「おが、まだ、実(じつ)をとっていないのです」
(なんだ、狙いは〔花鳥(かちょう)〕なのか)
口まで出かかったが、呑みこんだ。

勘よく察したしおが、
(てつ)さま。おつとめの話は、なし。このことに熱中しましょ。諏訪さまが逢わせてくださったのですもの」
銕三郎は、
(どうして、躰がこんなに求めあうのか)
不思議な気分を味わっていた。
(なか 34歳=当時)と、お(しず 18歳=当時)とのときにはむさぼるようなところがあったが、おとのは、ゆったりとした春のような気持ちよさであった。
にも、同じような気分が湧いていた。
(躰があうということは、こういうことなのかもしれない。これまでの、おとのことはなんだったのだろう)

だからといって、この関係がつづくものでないことは、2人とも十分にわきまえいる。
そこが、浮世のむずかしさであろう。

肌と肌をもっと接したい。
たまらず、先に、おが脱いだ。
乳首を、銕三郎の舌がまさぐる。


ちゅうすけの与太ばなし】このときの駿府町奉行・中坊(なかのぼう 左近秀亨 ひでもち 53歳 4000石)は、[平成の鬼平]との異称をたてまつられた中坊公平(こうへい)氏の先祖筋にあたるのではないかとかと推察している。そう、バブルの産物処理の住宅金融債権管理機構の債権回収で辣腕をふるい、のち責任をとって弁護士を廃業した人。

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2009.01.23

銕三郎、掛川で(3)

長谷川どの。〔京(みやこ)屋〕で、まっすぐに勝手口へ行かれたのには、なにか手がかりでもあったためですかな?」
訊いたのは、駿府町奉行所探索方の同心・矢野弥四郎(やしろう 35歳)である。
銕三郎(てつさぶろう 24歳)が、〔荒神(こうじん)〕の助太郎(すけたろう 55歳前後)一味と思われる賊に襲われた、掛川城下・中町の小間物の〔京屋〕を改めたいと望んだので、駿府から同行して、旅籠〔ねぢ金や〕治郎右衛門方で、迎えを待っている。

今夕は、掛川藩の町奉行所の与力・町井彦左衛門(ひこざえもん 45歳)が2人を肴(さかな)町の料亭〔花鳥(かちょう)〕でもてなしてくれることになっているのである。

「手がかりと申しましても、荒神松しかございませぬ。荒神松は、炊きどころの竈(かまど)の上に祀る縁起もの。盗賊が〔荒神〕の助太郎一味であれば、勝手口の戸から---とかんがえてみただけでございます」
「それだけの手がかりで、あの穴のからくりをお見破りになったのですか?」
「駿府の〔五条屋〕は、切りひらかれておりました。〔京屋〕は、そう申しませぬでした。それで、からくりを考えてみたのです」
「感服つかまつりました」
矢野同心がそう言ったとき、町井与力が来たと、女中が告げた。
与力は、武光某(31歳)という探索方の同心を伴っていた。
町井彦左衛門が、掛川藩の重役につながった一族であることは、〔ねぢ金や〕治郎右衛門から、すでに耳にいれている。
料亭〔花鳥〕も、町井一族とつながりがあるらしい。
武光同心も、掛川藩では古い家柄の一族の末らしかった。

座敷は、さすがに高級料亭らしく、調度品も凝っている。
2人は、上座をすすめられた。
いちおうは辞退してから、2人は座についた。
いってみれば、銕三郎長谷川家も、駿府在勤の矢野同心も直参(じきさん)の身分だから、はばかることはないのである。

武光同心が、主客と町井与力に酌をしてまわり、銕三郎に、
「店(たな)の者たちの疑いが晴れたと、〔京屋〕がたいそう、喜んでおりました。さすがは江戸の火盗改メ方と、もっぱらの評判でございます」
「駿府からの道々、矢野どののご指導があったればこそ、です」
銕三郎は、矢野同心に華をもたせる。

_100そのとき、新しい座敷女中が3人、銚子を捧げてはいってきた。
中の一人は、とびぬけての美形であった。
(かつ 28歳)である。(歌麿 お勝のイメージ)

は、銕三郎の向かって左隣りの町井与力の前について酌をする。
銕三郎は、あえて無視し、係りになった女中にだけ話しかけた。

しばらくして、女中たちが座を変えた。
は、銕三郎をとばして、右隣りの矢野同心の前へ移った。

銕三郎も、おを無視した。

やがて、お銕三郎の前に着く。
「お(みや)と申します」
「ほう。おどのですか。長谷川です」

銕三郎が立った。
「厠(かわや)をお借りしたい」
「こちらでございます」
がみちびく。

廊下を渡ったところで、
「駿府の両替町ではなかったのか?」
「ご存じでしたか? 〔松坂屋〕には、いられない事情ができまして---」
「お(りょう 30歳)どのもいっしょか?」
がうなずく。
「会いたいと伝えてくれないか。〔ねぢ金や〕に宿泊している。こんやは、駿府町奉行所同心の矢野どのがいっしょだが、明日には矢野どのは駿府へ発(た)ち、拙はのこる」
「わかりました」

座敷へ戻ると、お(みや じつは、お)は、またも町井与力の前に座り、もう、動かなかった。


参照】2008年9月13日[中畑(なかばたけ)〕のお竜] (7)
2008年10月12日~[〔お勝(かつ)〕というおんな] (1) (2) (3) (4)
2008年11月25日[屋根船
2008年11月27日[諏訪左源太頼珍(よりよし)] (3)
2009年1月1日~[明和6年(1769)の銕三郎] (1) (2) (3) (4) (5)

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2009.01.22

銕三郎、掛川で(2)

長谷川どの。すっかり戸締りしていた〔京(みやこ)屋〕へ、賊はどうやって入ったのですか? 二階の格子をすりぬけたとか---」
矢野弥四郎(やしろう 35歳 駿府町奉行所同心)が銕三郎に話しかけている。
中町に店がある小間物の〔京屋〕は、奉行所からものの2丁と離れてはいない。

「戸締りを確かめてみないと、なんとも---」
「ごもっとも、ごもっとも」
矢野同心は、口ではそう言ったものの、内心では、銕三郎が密室の謎をどう解くか、興味津々(しんしん)である。
自分が町奉行所の捕り方の同心であることを忘れているようであった。

〔京屋〕へ着くと、先に帰されていた店主・新兵衛(しんべえ 52歳)と番頭・卯蔵(うぞう 46歳)が店先まで迎えに出てきた。
新兵衛が、
「粗茶でも---」
と言うのを、のちほど、と謝した銕三郎が、
「番頭どの。勝手口へ通じている猫道がありましょう? ご案内ください」

卯蔵の導きで、躰をななめにしがら通りぬけて、勝手口の板戸の前でじっとみつめていた銕三郎が、左隅のある箇所を指でこそげた。
土の粉が落ちたあとに、小蟻が通れるほどの小穴が見えた。
「これは?」
銕三郎が、番頭に訊いた。
「さあ、はじめて目にしました。いつできたものか---」
「厠(はばかり)を借りた男があけたのですよ」
「えっ? なんのために?」
「内側の落とし桟をあげるためです」
「こんな小さな穴で?」

銕三郎が説明した。
穴から糸を通した針を内側にむけて落とす。
針が落ちたところは、落とし桟木が落ちる凹になっている。
針をとりあげ、糸を切ると2本の糸が外と内をむすぶ。
内がわの2本の糸を開きぎみにして、凹の側面に続飯(そくい)でとめる。
桟木が落ちても、外の糸をひけば桟木はあげられる。
ふつうは、落ちた桟木に横から三角桟木をかませて固定するのだが、この家のは、そこまで用心していない。

「いや、〔京屋〕さんの手落ちではありませぬ。三角桟木がかませてあったら、賊は、板戸を切りあけて桟木をはずしたでしょう。駿府の〔五条屋〕でやったように---」
銕三郎は、矢野同心の顔をみた。
矢野同心がうなずいたので、番頭の卯蔵は、救われたといった表情になって緊張を解き、
「お役人さま。いまのお言葉を、主人とご新造にも聞かせていただけませんか」
真顔になって頼んだ。

奥の部屋へ案内されながら、銕三郎矢野同心へそっとささやく。
「桟木やぶりの仕掛けは、矢野どのからご説明くださいませぬか」

帰りぎわに、番頭が奉書につつんだものを、矢野銕三郎に、それぞれ手渡した。
「ありがとうございました。これで、お店(たな)の中には、賊に内応した者がいなかったことが分明いたしました。これまで、疑心暗鬼(ぎしんあんき)で、鬱陶しゅうなっておりましたのが、いっきに晴れわたりましてございます。ほんのお礼の気持ちで---」

宿で改めると、鼈甲に象嵌細工をほどこした高価な飾り櫛であった。
(はて。久栄どのへの土産はこれでできたが、母上へのほうはなんとしたものか)

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2009.01.21

銕三郎、掛川で

金谷(かなや)では、旅籠〔松屋〕忠兵衛方で草鞋(わらじ)を脱いだ。
ここでも、銕三郎(てつさぶろう 24歳)は、夕餉(ゆうげ)の前に、50すぎの顔色の黒い、細身の男と、つれそっている2歳ほどの幼な子をつれた痩せたおんなのことを訊いたが、亭主は頭をかしげるばかりであった。
「もうすこし、手がかりがごいませんと、なんとも雲をつかむようなお話で---」

翌朝は、五ッ(午前8時)に発(た)った。
あいかわらずの晴天つづきであった。
金谷から掛川は、3里11丁(約13km)。

小夜(さよ)の中山を越えて、夜啼松(よなきのまつ)があった跡へさしかかったとき、同心・矢野弥四郎(やしろう 35歳)が松に刺激を受けたか、昨日の金谷への道中に洩らしたのと同じことを、また口にした。
長谷川どの。小職(しょうしょく)には、〔荒神(こうじん)〕の助太郎(すけたろう)が、自分の身元が知れるのに、なにゆえに、わざわざ、荒神松を置いていったのか、どうしても合点がゆかないのですよ」
助太郎を捕えてじかに訊問しても、本心を述べるとはかぎりませぬ。人のこころの本音(ほんね)など、つまるところは、推察するしかないのです」
銕三郎の返事も、昨日と同じであった。

ちゅうすけ注】夜啼松は、樹皮を煎じた湯が赤子の夜泣きに効くと、諸人が削り取ったため、銕三郎のころには、わずかに根だけが残っていたという。銕三郎の答えは、「本根(ほんね)」を「本音」にかけたのだが、矢野同心につうじたかどうか。

むしろ、2人の供をしている奉行所の小者がわかったとみえて、顔をみあわせ、こっそりうなずきあっていた。

新坂(につさか)のみ茶店でひと休みし、四ッ半に掛川城の下にある町奉行所へ着いた。

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(掛川城下 『東海道分間延絵図』 道中奉行制作)

小者が門番に刺を通すと、奉行自らが出迎えにあらわれ、用部屋へ案内した。

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(掛川城・天守閣)

あいさつが終わりったところで、控えていた例繰方(れいくりかた)に、銕三郎が訊く。
「掛川城下の町屋では、火除け(ひよけ)のお守りに、荒神松を使いますか?」
「秋葉さんの神札を掲げております。荒神松というのは、聞いたことがありませぬな」

吟味所には、一昨年被害にあった小間物屋〔京(みやこ)屋〕新兵衛(しんべえ 52歳)と番頭・卯蔵(うぞう 46歳)、それに町名主が呼び出されていた。

一件の留書帳を手に、矢野弥四郎が聞き取りをはじめ、掛川藩の書役(しょやく)が口述を書き取ってゆく。
「賊は、九ッ半(午前1時)に、侵入してき、店と家の者9人の急所を突いて気絶させて縛り上げたことに相違ないな」
「相違ございません」
「全員、気絶しいていたゆえ、賊の員数はわからなかったことに相違ないな」
「相違ございません」
「戸締りはきちんとしていたゆえ、どこから、どうやって侵入してきたかわからないとな?」
「はい」
「いまもって?」
「はい」

「賊は、鉄鋸(かねのこ)で金蔵の錠を切りあけたのに相違ないな」
「お留め書きいただいているとおりにございます」
「相違ないのだな」
「相違ございません」
「賊に奪われた額は、530両に相違ないな」
「相違ございません」
「賊は、表戸のくぐり戸から去っていった?」
「そこの戸じまりだけが解けておりましたゆえ、そのようにおもいました」
「ふむ。長谷川どの。なにか?」

「では---。ご当主、京屋という屋号はいつからですか?」
「先代からでございます」
「先代からというと、何年前からですか?」
「ええ、お待ちねがいます---」
予期していなかった問いかけに、新兵衛が指を折って勘定し、番頭に耳打ちして、
「23年にあいなります」
「23年前といえば、ご藩主は、太田侯でしたか」
「あ、丁度、館林からお国替えでお移りにおなりになった年でございます」

「番頭どの。この3年のうちに、いまの屋号のことで、話しかけてきた者はなかったですか?」
「ございませなんだとおもい---いや、お一人ございました」
「どんな者でしたか?」
「はい。50がらみの、色の黒い、小体(こてい)な---」
「男ですな?」
「はい」
「京なまりがあった?}
「話しているうちに、すっかり京ことばになりました」
(なんと、無用心な---)

「厠(かわや)を貸しませんでしたか?」
「あ、貸しました」
「大きいほう? 小さいほう?」
「大きいほうだったとおもいます。少しくかかりましたから。なんでも、痔を患っていてと---申しわけございません、尾篭(びろう)なことを口にしました」

「賊が押し入ったときから、どれほど前のことでしたかな?」
「---前の日でございました」

「これだけです」
銕三郎は、書役に合図をするように、頭をさげた。

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2009.01.20

銕三郎、三たびの駿府(13)

竹中さま。矢野さまと拙は、明朝六ッ(午前6時)に掛川へ向かいます。その留守中に、以下のことをお調べおきくださいましょうか?」
銕三郎(てつさぶろう 24歳)が、駿府町奉行所の見習い同心・竹中功一朗(こういちろう 22歳)に紙片をわたす。
伝馬町でも南のはずれにある旅籠〔柚木(ゆのき)屋〕の奥の間である。

一、〔五条屋〕の内儀・お(せい 40歳)の実家と婚儀の経緯(ゆくたて)。ごくごく内密に。
一、〔五条屋〕へくる肥え汲みの百姓と、師走に牛車や汲み取り権を貸した相手、その経緯。
一、この3年間に〔五条屋〕を辞めた者と<そのわけ。番頭・吉蔵(よしぞう 58歳)に内緒で訊くこと。
一、この3ヶ月のあいだに夫婦と幼な子で道中手形をとった者。
一、寺にとどけている人別で、この3ヶ月のあいだに夫婦と幼な子で人別をよその地へ移した者。

「しかと、承りました」
一読して功一朗が、ふところへ納めた。
「わしたちは、3日もしないで戻ってくる。それまでにすませておけ。言っておくが、小者にまかせたり、手先に言いつけてやらせるんじゃないぞ」
矢野弥四郎(やしろう 35歳)同心が、先輩らしく念を入れた。
「はい。肝に銘じまして---」
「いまの若いのは、返事だけは格好をつけているがな---はっ、ははは」
矢野さま。拙もまだ、若い者のうちに入っておりますが」
銕三郎が、功一朗をかばって軽く抗議する。
「これは失礼つかまつった」

食事がすむと、2人ははやばやと帰っていった。
膳をさげにきた女中に頼んだ、
「女中頭どのに、手がすいたら、来てもらいたい」

半刻(はんとき 1時間ばかり)して、40がらみの女中がやってきた、
「お(はん)と申します。なにか、ご用でございましょうか」
銕三郎は江戸の火盗改メのゆかりの者と身分をあかし、
「これから訊くことを、誰にも口外しないでくださるか?」
念をおす。
がけげんな表情でうなずいた。

「おどのは、ここへ住みつきですか? 通い?」
「住みつきですが、自分の家はこの近くにあります。むすめが髪結いをやっております」
「それで、お髪(ぐし)がみごとに結(ゆいあがっているのですな」
「お上手ばっかり。でも、むすめの腕をおほめいただいて、うれしゅうございます」
「ご息女のところへは、何日おきに??」
「3日ごとでございます。お昼すぎの手すきのときに」

「ご息女のところには、いろんな話が集まっていましょうな」
「おんな客のたのしみは、噂話の交換ですから---」
(うさぎ人(にん)にぴったりの職業---)

「呉服町の小間物屋〔五条屋〕で買いものをしたことがありますか?」
「とんでもございません。私どもには手の出ないような上等のお品ばかりのお店です」
「あそこのご内儀のことを、ご息女のところで、なにか耳にしていませぬか?」

_260_2「なにか---とおっしゃいますと?」
「色ごとのような---」
「ご存じでございましょう? 店の手代とそういう店へ行っていることは---」
「その店の名が知りたかったのですよ」
「安倍川べりの弥勒(みろく)にある〔梅ヶ枝(うめがえ)屋〕だそうですよ」
「そうそう、〔梅ヶ枝屋〕〔梅ヶ枝〕。さすがに〔柚木屋〕いちばんのおどのだ」(北斎『万福和合神』 お勢のイメージ)

「おだてても、こんなおばあちゃんだから、夜伽はいたしませんよ」
「それは残念。はっ、ははは」
「うふっ、ふふふ。本気にしますよ」
「いや。明朝、早いのでな。ところで、もう一つ訊いていいかな」
「いよいよもって、ひとり寝はできませんよ」

「このごろ、江戸から流れてきた年増のいいおんなで、雇い主が口説いたがなびかなかったって、艶消しの話を耳にしていませぬか?」
「あら、両替町の〔松坂屋〕五兵衛さんのことが、もう、江戸までとどいているんですか?」
「〔松坂屋〕といえば、両替商の?」
「いやですよ、このお武家さん、鎌をかけていらっしゃる---」

「すまないが、番頭さんを呼んできてくださらぬか。その前に、おどの。いい話をいろいろとありがとう。ほんの寸志だが、おさめてくだされ。その、添い寝は、戻りの泊まりの夜までお預けということに、な」


参照】2009年1月8日~[銕三郎、三たびの駿府]()  () () () () () () () () (10) (11) (12

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2009.01.19

銕三郎、三たびの駿府(12)

「こちらは、竹中功一朗(こういちろう 22歳)同心見習いです」
矢野弥四郎(やしろう 29歳)同心が紹介した。
駿府町奉行所には与力が6人、同心は40人いるが、清水港の船手組や水主(かこ)などの管理も兼ねているので、手一杯で、臨時仕事ともいえる盗賊探索には、なかなか手がさけない。
銕三郎(てつさぶろう 24歳)の要請に、やっと、見習いを用立てたといったところであるらしい。
見習いのほとんどは、親が同心勤めをしている家の子がおおく、無給に近い。

ところは、伝馬町の西のはずれの旅籠〔柚木(ゆのき)屋〕で、規模はきのうまでの本陣〔小倉〕からみれば格段に落ちる。畳もけばだっているし、へりの当て布もところどころ光っている。
しかし、銕三郎の指定であった。

お互いのあいさつのやりとりが終わると、銕三郎がまず、〔五条屋〕の板戸の落とし桟が破られた件について説明した。

落とし桟の仕組みと位置を、あらかじめ下見した者がいる。
〔五条屋〕の勝手口の板戸の落とし桟は、ふつうと違い、下方にしかけられており、桟は板戸がすべる敷居に落ちる仕掛けになっているから、下見をしないでは、それがわからない。
賊は、落とし桟をあける部位だけを正確に切りあけているのだから、内通者がいたとは断じがたい。
下見をした者といえば、押し入りの3日前に肥(こ)え汲みがきている。
いつもの百姓家の者が風邪で寝込んでいるので代わりにきたといって、謝礼の大根を竃の横へ運んだという。
そのときに内側から戸締りの落とし桟の仕組みと位置をたしかめ、出るときにその部位をしめす印を、板戸の表側に木炭かなにかつけたらしい。
「そのことは、板戸を修理した出入りの大善の留吉(とめきち 21歳)が証言しています」

矢野同心は、いまさらのように銕三郎の探索の手ぎわのよさにおどろいている。
銕三郎の推理に初めて接した竹中見習いは、興奮をかくさない。

「肥え汲みは、手ぬぐいで頬かむりをしており、台所方のおんな衆も、50すぎの、色の黒い、魅力の薄い男だったということしか覚えておりませぬ。それはそうでしょう。肥え汲みなどに興味を持つ町のおんななど、いるはずがありませぬ」
佐野竹中も、もっとも---と合点した。

「しかし、その男が〔荒神(こうじん)〕の助太郎(すけたろう 50歳すぎ)当人となると、話は別です」
改めて、2人がすわり直し、冷えてしまっている猪口の酒をながしこんだ。

銕三郎は、説明をつづけた。
一味の頭(かしら)ともいえる助太郎自身が肥え汲みに化けて板戸のからくりを調べたということは、一味の人手が少なかったとみる。
もちろん、助太郎は、自分の目と勘にたよりがちな頭ではある。
襲った賊は8人ほどか。
表には見張りが2人。

〔五条屋〕が奪われた金子(きんす)は600両なにがし---ここでも銕三郎は、〔五条屋〕が金額をふくらませたことは打ちあけない。

分け前を一人50両ずつくばると、頭の手に残るのは100両になってしまう。これでは、次の盗(つと)めの支度金にもならない。
そこで、こう考えてみた。
荒神〕の助太郎の手のものは、2人ぐらいかと。

1人は、6年前に小田原で見かけた、小頭格の彦次(ひこじ 31,2歳)であったろう。

参照】2007年12月28日[与詩(よし)を迎えに] (
ちゅうすけのつぶやき】もう1人の助太郎の子飼いの配下は、『鬼平犯科帳』巻22[炎の色]に登場する〔袖巻(そでまき)〕の半七(はんしち)か、〔夜鴉(よがらす)〕の仙之助(せんのすけ)だったかもしれない。まあ、〔五条屋〕のおなご衆が犯されていなかつたところをみると、〔夜鴉〕の一味入りはこのずっとあとかも。
いずれにしても、2人の年齢が書かれていないので、判断不能でせある。

あとは、流れづとめを7人。
流れづとめなら、分け前が30両でも、拘束されるのが押し入り前後の10日ばかりだから、文句は出まい。
次ぎの一味を手伝いに行って、また10日で2,30両が手に入る。
もちろん、それには、仕事を紹介してくれる口合人(くちあいにん)への謝礼が2両は入り用であろう。

口合人は、助太郎からも、助っ人1人につき3両はとっていよう。
両方からの分を合わせると1人5両の7人だから35両(1両はいまの金に換算して、すくなくとも15万円に相当する)。

その口合人だが、掛川の件と〔五条屋〕の件をあわせて考察してみると、清水か焼津(やいづ)にいるようにおもえてしかかたがない。
つまり、この口合人は、船で盗(つと)め人くばりをしているようだ。
「これは、いそぐことはない。矢野さまと竹中さまがじっくりと探索なさればいいでしょう」

さて、〔荒神〕一味ですが、〔五条屋〕での600両のうち、33両の7人分の231両は、ながれづとめ人と口合人に消えた。
残りの369両のうち、一味の2人に40両ずつとして80両。
というのは、〔荒神〕一味の仕事は、年に1件と控えめだから、一味の者は、40両で1年暮さなけならない。

助太郎は、残った280両を、次ぎの仕込みにあてるのだが---」
ここまで言って、銕三郎は口をつぐんだ、
280両と計算をしてみせたが、じつは200両は偽りの金額である。
助太郎の手元に残っているのは、80両にすぎない。
これで、1年、持ちこたえられるか?
助太郎は、一仕事終えるごとに、賀茂(かも 30歳すぎ)と2歳ほどの子を連れて居を移している。その費(つい)えも馬鹿にならないはずだ。


参照】2009年1月8日~[銕三郎、三たびの駿府]()  () () () () () () () () (10) (11) (13

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2009.01.18

銕三郎、三たびの駿府(11)

河原筆頭与力さま。宿をお替えいただけませぬか?」
江戸の火盗改メ・長山組の与力・佐山惣右衛門(そうえもん 36歳)と同心・有田祐介(29歳)が引きあげるのを、駿府町奉行所の前で見送った銕三郎(てつさぶろう 24歳)が、筆頭与力・河原頼母(たのも 53歳)に頼んだ。

「本陣・〔小倉〕平左衛門で、なにか不調法でも---?」
「そのようなことは、なに一つございません。食事よし、風呂は湯加減よし、番頭・女中もそつなし---。下世話な肌合が恋しくなりましただけで---」
「わかり申した。矢野、もそっと西寄りの旅籠を、夕刻までに手配するように---」
河原筆頭が、横の矢野弥四郎(やしろう 35歳)同心に言いつけた。

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(駿府の旅籠通りの伝馬町 赤○=〔小倉〕 西寄りの旅籠は(

矢野同心は、掛川藩の重役から返書が来しだい、銕三郎と東海道をのぼることになっている。
昨日、駿府町奉行・中坊左近秀亨(ひでもち 53歳 4000石)の名で、掛川藩の城代・太田外記資隣(もとちか 62歳)へ急便で、一昨年の師走に城下でおきた小間物屋の盗難について、聞き取りの同心ほかを伺わせたいから、諸事よろしく、との公式な書状を送った。

駿府と掛川は約12里(48km)だから、公用の早飛脚だと半日もしないでとどく。
藩主・太田備後守資愛(すけよし 31歳 5万石)は、在府中である。
城代・外記資隣は藩主の親戚にあたる。

ちゅうすけ注】太田一族で幕臣となった資武の末・運八郎資同(すけあつ)は、平蔵宣以(のぶため)が火盗改メの任についていた寛政4年(1792)8月、先手・鉄砲の11番手---平蔵の弓の2番手に次いで火盗改メの経験の多い組の組頭に着任(30歳 3000石)。翌月火盗改メ・助役(すけやく)を拝命し、平蔵に「いろいろご教授を」と頼み、「そっちの組子に聞いたら」と言われ、大むくれして若年寄に平蔵の非を訴えた。詳細は[よしの冊子(ぞうし)]↓ 
その息・運八郎資統(すけのぶ)は、松平太郎『江戸時代制度の研究』に、平蔵中山勘解由とともに3名火盗改メにあげられているが、その業績は未詳。
2007年10月5日[よしの冊子(ぞうし)] (33
2006年10月16日~[現代語訳『江戸時代制度の研究・火盗改メの項] () () (


矢野同心は、銕三郎を詮議部屋へ導いて、言われていた呉服町の〔五条屋〕の下女・おばばについて、調べた結果を告げた。

は、駿河国庵原郡(いはらこおり)押切原村小作農家の生まれ。14歳のときに、奉公にあがっていた大久保某(幕臣大身 6000石 とくに名を秘す)の3男に性的暴行をうけ、知行主のはからいで、仙洞御所付となった大久保一郎右衛門忠義(ただよし 50歳=当時 1200石)に預けられて京へのぼって役宅の下女として6年間働いた。
そのときに、上方風の荒神松を見おぼえたと。
「仙洞御所といえば、荒神社に近いですからね」
銕三郎は、なに気なしに口にした。

「補任(ぶにん)をたしかめたところ、大久保忠義どのは、享保8年(1723)にたしかに仙洞御所付として赴任されておりました」
「享保8年といえば、46年も前のことですな」
(〔荒神(こうじん)〕の助太郎(すけたろう)は、まだ、5,6歳の子どもだ)

大久保忠義の帰任とともにおは駿河へ戻り、忠義から城代へおの身柄が預けられ、口をきく者があって〔五条屋〕の飯炊きとして雇われ、今日(こんにち)いたっているとも。
亭主と名のつくほどの者はおらず、そのあたりは適当にこなしていたらしいが、悪いうわさはなかった。
明けて61歳だから、いまは男よりもと、寝酒に親しんでいるらしい。

「なるほど。疑う余地はなさそうですな」
銕三郎はつっこまない。

「新しい宿がきまりましたら、きちんと封をして、本陣・〔小倉〕の帳場へ預けておいてください。ちょっとした用たしがすんだら、伝馬町へ荷をとりに帰りますから。今夜、その新しい宿で夕餉(ゆうげ)をごいっしょいたしましょう」
そう言いおいて、銕三郎は町奉行所を辞去した。

〔五条屋〕の近くの蕎麦屋で、店の小女に番頭・吉蔵(よしぞう 58歳)への伝言を持たせて、待つ。
やってきた吉蔵に、賊が切りあけた落とし桟の切り口をふさいだ大工の名前と住まいを聞いた。
「七軒町の棟梁・大善こと、善兵衛(ぜんべえ 50歳)のところの為吉(ためきち 21歳)って若い者(の)でした」
と応えると、棟梁への紹介状を書かせ、七軒町への道順を教わる。
七軒町は、2丁とない近間であった。

銕三郎が大善を訪ねると、3丁先の本通りの太物〔和泉屋〕の隠居所の建て増しに行っていると、女房が西を指さした。

〔和泉屋〕で善兵衛に紹介状を見せて、為吉を庭の片隅へ呼んで訊いた。
「切りあけられた板戸の、表側のそこのあたりに、印のようなものはついていなかったかな」
「そう言われますと、あれがそうかな」
「なにか?」
「落とし桟から3寸(10cm)ほど右手に、木炭でつけたようなかすかな汚れがありました」

銕三郎は、為吉と棟梁に口止めし、そこを去った。
(店の中に手引きした者がいるのか、それとも、賊の一味の誰かが下見をしてつけた印か?)


参照】2009年1月8日~[銕三郎、三たびの駿府]()  () () () () () () () () (10) (12) (13

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2_360_2
(京都御所・仙洞付となった大久保一郎右衛門忠義の個人譜)

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2009.01.17

銕三郎、三たびの駿府(10)

佐山さま。〔五条屋〕は、店主・儀兵衛、番頭・吉蔵とも、ほどほどに恐れいらせておきましたから、江戸の火盗改メの面目は立ったとおもいます」
本陣・〔小倉〕平左衛門方で待っていた与力・佐山惣右衛門(そうえもん 36歳)へ、銕三郎(てつさぶろう)が口頭すると、同心・有田祐介(ゆうすけ 29歳)が、いかにも、自分の手柄のように言葉をそえた。
「いや、儀兵衛などは、熱をだして寝込んでしまっておりましてな。番頭も真っ青でした。はっははは」

「では、明日あたり、江戸へ戻れるかな」
佐山与力の胸のうちは、
(こんな田舎の町奉行所などにつきあっていられるか)
であった。

「町年寄に言いつけて、ちかごろ、引越しをした50すぎの男と30すぎの子持ちの夫婦ものの行方を追ったところで、いまごろは遠江か三河、あるいは諏訪谷あたりへ隠れこんでいましょう。町奉行・中坊(なかのぼう)さまへは、そのように助言なされるとよろしいかと---」
火盗改メの出役(しゅつやく)を要請したのは、中坊左近秀亨 ひでもち 53歳 4000石)である。
そちらが納得すれば、いちおうの役目は果たしたことになる。
いまごろは、〔五条屋〕から、町奉行の内与力(うちよりき)のところと、筆頭与力・河原頼母(たのも 53歳)のところへこころづけがの金子(きんす)がとどき、これ以上の詮議はご無用にと申し入れていよう。
火盗改メがつっこめば、もっとくさいものが暴(あば)かれる。

A_150「ところで、長谷川うじ。上方と東国の荒神松の違いをどうしてご存じでしたか?」
そこはさすがに与力の貫禄である。
こんどの出役調べの勘どころとなった荒神松の知識を問うた。(江戸の荒神松売り 喜多川守貞『近世風俗誌』)
そのくせ、「長谷川どの」でなく、あいかわらず、「長谷川うじ」と、軽くみている。

「さ、そのことです。拙がまだ幼かったころ---さよう、7歳か8歳でしたろうか」
銕三郎が荒神松にまつわる思い出を話した。

父・母、下僕や小間使いたちと南品川へ潮干狩りに、そのころ屋敷のあった築地から舟で行き、潮が満ちて料理屋らしいところで休んだときのことである。

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(品川潮干狩 『江戸名所図会』 塗り絵師:ちゅうすけ)

「父は、一人っ子の拙の健康と知識のために、そういうところへ、よく、連れだしてくれたのです。父も一人っ子でしたから、一人っ子の淋しさをよくわかってくれておりました」

せっかく南品川まできたのであるから、千躰荒神堂へお参りしてこようということで、参詣した。

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(南品川・海雲寺境内の千躰荒神堂 『江戸名所図会』
塗り絵師:ちゅうすけ)

そこで母・(たえ 27歳=当時)が、境内の仮店で売っていた荒神松を求めた。
それは、江戸風の、短い一枝きりの松であった。

そのとき、父・宣雄(のぶお 34歳)が、20代のころに遊んだ京阪の荒神松の話をしてくれた。

佐山さまも有田さまもお覚えでございましょう。先日、さつた峠のしば口の倉沢村の〔休み茶店・柏や〕の亭主が父のことを話に出しました。あれは、父が家督前の自由な身柄のとき、見聞をひろめようと、上方へのぼった往還で立ち寄ったためでございます」
「しかし、よほど、印象にのこるようなことがないと---」
「さあ。それは、亭主から聞いてはおりませぬ。それよりも、荒神松でございます」
「おお、それそれ---」

父・宣雄が話してくれたのは、京阪の荒神松の大きさであった。
黒松の去年のびて三本枝になっている先端が本旨から、どうしても3尺近くになる。
それに榊の小枝をそえて売っていたと。
もっとも、温暖な上方では松の成長が順当なせいもあったろう。
「だから、江戸の荒神松の3倍もの丈のもの商うことになるのだ絵解きしてくださいました」

A_260
(京坂の荒神松売り 喜多川守貞『近世風俗誌』)

「ご立派なお父上ですな」
「子ども扱いでなく、いつも、一人前の男とみなして扱ってくださいました」

「それにしても、よくも覚えておられましたな」
有田同心が感心した声をあげた。
「一人前扱いされていると、子どもごころにもわかると、真剣に聞くものでございます。ところで、佐山さま。拙はいますこし残って、掛川城下まで、念を入れてみようかと考えておりますが、いかがでございましょう?」
「わかり申した。明日、河原筆頭与力どのに申し入れて、旅費や滞在費を持たせよう」


参照】2009年1月8日~[銕三郎、三たびの駿府]()  () () () () () () () () (11) (12) (13

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2009.01.16

銕三郎、三たびの駿府(9)

長谷川どの。〔五条屋〕が、奪われた金子(きんす)を水増ししていると、どうしてお気づきになりましたか?」
先に駿府町奉行所の脇門からでて、追手(おうて)橋の向こうで何食わぬげに待っていた有田祐介(ゆうすけ 29歳)が、間を置いて現われて合流した銕三郎(てつさぶろう 24歳)に質(ただ)した。

つづいて辞去してくるはずの佐山惣右衛門(そうえもん 36歳)与力を待つことなく、とりあえず2人で、呉服町が人宿(ひとやど)通りと交差する角店の小間物屋〔五条屋〕を、実地検分に訪れる手はずになっている。

南の呉服町のほうへ歩きながら、銕三郎が推理の源(もと)を披露した。
本多采女(うねめ)紀品(のりただ 56歳 2000石)が、新番々頭に昇進する前---2度目の火盗改メ・お頭(かしら)の任に就いていたとき(明和4年8月10日~同5年4月28日)---掛川城下で、盗賊に押し入られた小間物商の竈(かまど)の上に、荒神松が打ちつけられていた事件が報告された。
その事件を聞いた銕三郎は、主犯は〔荒神(こうじん)〕の助太郎とおもわれると、本多紀品へ申しつたえ、留書帳を改めさせてもらった。
その店の京での仕入れ先が〔小間物屋〕久兵衛方であったことも、頭の隅にとまっていた。
あつかっているものをそのまま屋号にしている奇抜さが、印象にのこったのである。
その犯行の仔細を、〔五条屋〕の番頭・吉蔵(よしぞう 58歳)は、同業・姉妹店ということで聞きおよんでいるはずである。
それなのに、荒神松を見て、〔荒神〕一味の犯行であるらしいことを、町奉行所へは知らなかったふりをした。

「つまり、〔荒神〕一味が逮捕されるのを、なるべく引きのばそうとしたのです。奪われた金額が嘘だったことが発覚(ばれ)ないように考えたすえと、拙は見ました」
「恐れ入った推察。なるほど、謎解きをしていただくと、もっともな---」
本多さまが、拙を信用して、留書帳をお見せくださったのが源(みなもと)です。いまごろは、吉蔵から仔細を聞かされた儀兵衛が、真っ青になっておりましょう」

2人が〔五条屋〕へ入ると、番頭・吉蔵がすっとんできて、店主・儀兵衛が突然に発熱し、寝こんでしまっていると告げた。
銕三郎が、店のほかの者たちに聞こえぬように、ささやく。
「安堵されよ。金子(きんす)のことは、訊かないことにしたし、忘れもした」

奥の部屋に通されると、儀兵衛の内儀・お勢(せい 40歳)があいさつにでてきた。
なるほど、儀兵衛が京におんなをつくりそうな、柄が大きいだけで、まだ40歳というのに、性的な魅力に欠けた女性(にょしょう)であった。
「肝心のときにお役に立ちませず、申しわけもございません」
抑揚のない声で、とおりいっぺんに述べると、あとは吉蔵にまかせて引き退がってしまった。
儀兵衛は入り婿ではなさそうだから、どこかの老舗から嫁(とつ)いできたのであろうが---)

「番頭どの。師走には、何日ごろから集金にまわりましたか?」
「10日ごろからでございます」
「京への送金は?」
「27日に〆て、28日に為替を組む予定にしておりましたが、ああいうことでございましたから、半期、待っていただくように申し入れましてございます」
「奪われた金額すべてが、支払い分だったのではないでしょう?」
「お察しのとおりでございます」
「送金するのは、いくらだったのです?」
「〔小間物屋〕さんと、京扇の〔近江屋〕さんをあわせて200両ちょっと---」
「では、100両余は、〔五条屋〕さんの貯め金(がね)?」
「お恥ずかしいことでございます。5年で、やっと---」
(げにも、おんなというのは、金食い虫よ。2,3年でこの店の10年分の稼ぎを食ってしまっている)
おもったが、銕三郎は口にはださなかった。

「荒神松はのこしてありますかな?」
「験(げん)が悪いといって、旦那さまがお捨てになりました」
「2尺(60cm)を越す枝だったとか?」
「はい。もう少しで3尺はあろうかと---」
「番頭どのは、京で見たことがおありでありましょう」
吉蔵は、ちょっとためらってから、うなずいた。

「そのように長い荒神松は、駿府城下では売っておりませぬな」
「見かけたことはございません」
「まあ、黒松は東海道の並木もそうだし、駿河の海岸には防風のためにどこにでも植わっておるから---」
「しかし、お役人さま。荒神松にできるような若枝ぶりと長い松葉のものは、そうそうは見かけませんが---」
「そう、若枝は梢(こずえ)のほうに多いから。番頭さん。賊はどこで手にいれたとおもいますかな、2年前に、掛川城下のご同業の店に残された荒神松もふくめて---」
吉蔵は、またも肩をふるわせ、顔面蒼白となった。
(もう、この方には、嘘はとおらない)
観念したふうであった。


参照】2009年1月8日~[銕三郎、三たびの駿府]()  () () () () () () () (10) (11) (12) (13

ちゅうすけアナウンス】駿府城下の旅籠街、本陣〔小倉〕の所在図を、上の() に追加しました。

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2009.01.15

銕三郎、三たびの駿府(8)

「拙の、ここでの聞き取りは、これだけです。ご店主と番頭どのに、くれぐれもこころがけていただきたいのは、いま、お話しくださったことは、ここを出たら、いっさい、お洩らしにならないように。まずくすると、お命にかかわりましょう。と申すのは、賊どもは、口封じをやりかねません」
銕三郎(てつさぶろう 24歳)がそう言うと、〔五条屋〕の店主・儀兵衛(ぎへえ 45歳)と番頭・吉蔵(よしぞう 58歳)がふるえあがったのはとうぜんとして、駿府町奉行所の同心・矢野弥四郎(やしろう 35歳)までが眉根をよせた。

佐山惣右衛門(そうえもん 36歳)与力と有田祐介(ゆうすけ 29歳)同心も、もっともな注意---とでもいうように、大きくうなずいた。
2人は、江戸の火盗改メ・本役の長山組から出役(しゅつやく)してきている与力と同心である。

佐山さま。なにか?」
銕三郎の問いかけに、
「いや、ない」
佐山与力が応え、有田同心も頭(こうべ)をふった。

矢野さま。お2人を、奉行所の表門でなく、私用の脇口からそっと、お帰しください。ご両人、こころえておいでであろうが、すこし、遠回りしながら、尾行(つ)けている者がいないか、確かめつつお帰りなされ。われわれは、昼前に、客を装って参るゆえ、台所の使用人たちの目にもふれないように、奥の部屋へご案内くだされ。よろしいな。すべては平常どおりの顔でやることです」
儀兵衛吉蔵は、平(へい)つくばって礼を述べた。

と、銕三郎がとってつけたように、
「2人そろって帰っては、目立ちすぎましょう。まず、ご店主から---」

儀兵衛矢野同心に導かれて出ていくと、
「番頭どの。儀兵衛どのにも、奉行所にも言わないから、ほんとうのことを答えていただきたい。盗まれた金子(きんす)は、600両余に間違いないのかな?」
吉蔵が急所を衝かれたように、びくっと肩をふるわせ、しばらく思案している。
銕三郎は、凝視したまま、黙って待った。

耐えきれなくなった吉蔵が、打ちあけた。
盗まれたのは400両に欠けるが、帳簿に200両余の穴があいていたので、盗難をいいことに、被害金額をふくらませたと。
しかも、200両余の遣いこみをしたのは店主・儀兵衛で、上方へ仕入れに一人で行くようになってから、京におんなができ、それへの手当て金だったと。

「3年分?」
「さようでございます。申しわけございません」
「謝ることはありませぬ。いまの言葉は、番頭どのの忠義心に免じて、われわれ3人、聞かなかったことにします。ところで吉蔵どの。もう一つ、打ちあけてはくれますまいか」
「なんでございましょう?」
「番頭どのは、儀兵衛どのが一人で京へ仕入れに行くようになる前は、先代といっしょに20年近くも京へ上っていましたね?」
「はい」
「京の荒神松のことも、見聞きしていましたね?」
またも、吉蔵が肩をびくつかせた。

「賊が竈(かまど)の上に打ちつけた荒神松を見て、〔荒神(こうじん)〕の助太郎(すけたろう)一味と察しながら、しらぬふりをしたのは、助太郎が捕まると、200両余の上乗せが発覚(ばれ)るとおもったからですね?」
「まったくもって、申しわけがございませんでした」
吉蔵がひれ伏す。

矢野同心が戻ってみえます。面(おもて)をあげて、ふだんどおりになされ」
躰を直した吉蔵を、開いた板戸から矢野がうながした。

吉蔵が部屋をでていくと、銕三郎が、
「さて、儀兵衛が、黒い顔の男をおもいだすかどうかが、探索の別れ道です」
銕三郎のつぶやきに、有田同心が訊く。
「もし、出逢っていなかったら?」

「〔荒神(こうじん)〕の助太郎が駿府より東---さしあたって、江尻、興津、蒲原あたりの盗人宿かしもた屋にひそんでいたか、あるいは、この城下に住んでいたか---」
「なぜ、そうおかんがえに?」
「〔五条屋〕の戸締り、間取り、金蔵のことなどをさぐりだすには、近間でないと---」
「配下の者が調べたとも---」
「そうもいえますが、〔荒神〕の助太郎という盗賊は、自分の目と勘を大切にする男なのです」
銕三郎の頭の中では、10年前、箱根の芦ノ湖の風景を写し描いていた助太郎の姿がうかんでいた。
(あの男は、〔ういろう〕でも、おのれの目で確かめていた)

参照】2007年7月14日[〔荒神〕の助太郎] (1)
2007年12月28日[与詩(よし)を迎えに] (8)

長谷川どの。吉蔵が奪われた金子を隠していると、どうして推察がついたのですかな?」
佐山与力が訊いたとき、矢野同心が戻ってくる足音を聞きつけた銕三郎は頭をふって、答えるのをひかえた。


参照】2009年1月8日~[銕三郎、三たびの駿府]()  () () () () () () () (10) (11) (12) (13

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2009.01.14

銕三郎、三たびの駿府(7)

「ほかに、なにか?」
河原頼母(たのも 53歳)筆頭与力が、あとは矢野弥四郎(やしろう 35歳)同心へまかしたいらしく、熱意のない口調で訊いた。
駿府町奉行所の用部屋である。

江戸から出役(しゅつやく)してきている、火盗改メ・本役の長山組(先手・鉄砲(つつ)の4番手)の与力・佐山惣右衛門(そうえもん 36歳)が、有田祐介(ゆうすけ 29歳)の顔をうかがい、つづいて銕三郎(てつさぶろう 24歳)の目をとらえた。

「いま、有田さまがお手になさっている取調べ留書帳の写しをおつくりいただけましょうや。江戸ほ立ち帰りますときには、お戻しいたします」
銕三郎の言葉を引き取った有田同心が、
「いや。われわれの出張(でば)り記録帳に添付しなければならぬため、返戻はできませぬな。さよう、おこころえおきいただきたい」

席を詮議部屋へ移し、腰掛(こしかけ)所で待たされていた〔五条屋〕の店主・儀兵衛(ぎへえ 45歳)と番頭・吉蔵(よしぞう 58歳)が呼びこまれた。
儀兵衛は、胃でも患っているのか、痩せぎすで冴えない顔色をしていた。
反対に、吉蔵はでっぷりと肥えて二重あごであった。

「承知のとおり、お3方は、江戸の火盗改メのお役人衆である。お尋ねには、つつみかくさずお応えするように」
矢野同心が、紋切り口調で言う。
2人は、平伏して承知した。

まず、有田同心が訊く。
「留書帳に、賊は、九ッ(午後12時)に侵入してきたとあるが、店内の火の見廻りは、なんどきの決まりになっておるかな?」
江戸ではたいていの大店(おおだな)は、就寝前の小僧たちが〔火の用心〕といいなから、戸締りや勝手口とか部屋の灯の安全を確かめてまわる。
「さしてひろくもない店でございますから、屋内の〔火の用心}まわりは、やっておりませぬ」
儀兵衛の答えを、すばやく吉蔵がおぎなった。
「店の者たちは、八ッ(午後10時)には寝床に入るようにしつけてございます」

「ということは、九ッは寝入りばなということか?」
「さようでございます」
吉蔵が答えた。

「手代や小僧たちは2階に寝ていたと記されているが、番頭どのの寝所は?」
銕三郎が訊く。
「帳場の奥の三畳の間でございます」
「竈(かまど)の勝手口からいちばん遠いということですか?」
「さようでございます」
「女中たちは?」
「竈のある板の間の次ぎの部屋でございます」
「女中たちが賊に襲われている音がきこえませなんだか?」
「齢とともに、耳も遠くなっておりますのと、寝酒のせいで---申しわけございません」
「いや、そうでしたろう」

銕三郎は、質問を変えた。
「京扇は、番頭どのが---?」
答えたのは、儀兵衛であった。
「それは、手前の代になりましてから、新たに加えましてございます」
「何年前からですか?」
「先代が歿しました、5年前からでございます」
「利幅が大きい?」
「いえ。小間物の仕入れ先の〔小間物屋〕久兵衛さんからすすめられましたもので---」

「その問屋は?」
「先々代から---」
「いや、店の場所を訊いております」
「麩屋町蛸蛸薬師通下ルにございます」
「どのあたりですか?」
「三条大橋と四条大橋のあいだで、鴨川の西岸から3丁ばかり西へはいります」

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(赤○=『小間物屋〕久兵衛 『京都買物独案内』)

「それなのにも屋号が〔五条屋〕というのは?」
「恐れいります。判官さんと弁慶で有名な橋ゆえ、お客さまに仕入れ先を京都とおもっていただくには、四条屋よりも〔五条屋〕と、先々代がかんがえたようでございます」
「〔小間物屋〕久兵衛方から荒神口は?」
「荒神口は、三条大橋よりもさらに北で、仙洞御所の近くと伺っておりますが、行ったことはございません」

「そうそう、ご当主に扇をすすめられた理由(わけ)は?」
「〔小間物屋〕さんのお嬢が、扇子問屋〔近江屋〕佐兵衛さんへ嫁入りなさり、そのご縁ですすめられたのでございます」

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(赤〇=扇子問屋〔近江屋〕佐兵衛 『京都買物独案内』)

「すると、店の改造費を、〔近江屋〕がいくらか持った?」
「お見通しのとおりで---半分、持っていただきました」
「そのときに、改造を請け負った大工の棟梁は?」
「これは、ずっと、うちに出入りしております〔大善〕さんでございます」

銕三郎が、矢野同心にだけ見えるように横を向いて目くばせした。
すぐに向きなおって、
「仕入れもご当主どのが自ら?」
「はい。当初は、見習いがてら、番頭・吉蔵さんといっしょにのぼっておりましたが、番頭さんも60歳に近くなりましたので、ここ3年は、手前ひとりで上っております」

「上り下りは、もちろん、東海道ですね?」
「はい」
「京都の宿は?」
「東海道につながっております三条大橋をわたったところの、〔いけだ屋〕惣兵衛方にきめております」

ちゅうすけ注】三条大橋の江戸より、白川にかかる橋を西へ入ったところにあるのが『鬼平犯科帳』文庫巻3[艶婦の毒]で鬼平が逗留した、父・宣雄ゆかりの旅籠〔津国屋〕。

「東海道の旅籠で、50から55歳くらいで、黒い顔色でやや小柄、言葉にかすかに京なまりがあり、画帳をもった男から、親しく話しかけられたことはありませぬか? もしかしたら、痩せぎすの30前後のおんなといっしょだったかも。いや、おんなは赤子づれだったかな」
「はて?」
「いま、ここで思いださなくても、2,3日考えておもいだしたら、どこの宿場であったか、あるいは道中の茶店であったか、教えていただきたい」
銕三郎の、役人の口調とはとてもおもえない、やわらかな問いかけに、儀兵衛吉蔵も、すっかりこころをひらいていた。


参照】2009年1月8日~[銕三郎、三たびの駿府]()  () () () () () () () (10) (11) (12) (13


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2009.01.13

銕三郎、三たびの駿府(6)

「なにしろ、与力が6騎しかいないので---」
わざわざの出役(しゅつやく)の礼を述べたあと、言いわけをした駿府町奉行の中坊(なかのぼう)左近秀亨(ひでもち 53歳 4000石)は、あとを、筆頭与力・河原頼母(たのも 53歳 80俵)へふってしまった。

すっかり禿げあがったて光っている頭に、もうしわけのような小さな髷(まげ)を、ちょこんとのせている。汗もでていないのに懐紙で額をぬぐうのと、扇子を2,3骨開いてはまた閉じるのが、町奉行の癖のようである。

矢野同心が聞き取りました覚え書きは、ここに。〔五条屋〕の店主・儀兵衛(ぎへえ 45歳)と番頭・吉蔵(よしぞう 58歳)は、腰掛(こしかけ)所へ呼びだしてありますゆえ、のちほど、お聞き取りなさってください」
河原与力がそう言ったとき、中坊町奉行が、
「あとは、よしなに」
席を立って、出て行った。
(おれの素性も確かめもしないで。あれではやる気があるのかどうだか---)
銕三郎(てつさぶろう 24歳)は、駿府町奉行が高級役人のひとつの通過職席であることを、見せつけられたおもいであった。

「なにか、ご質疑は?」
河原与力の言葉を待っていたように、町奉行所方の調書をぱらぱらと眺めていた有田祐介(ゆうすけ 29歳)が、火盗改メの同心の威厳を示すのはこのときとばかり、
「使用人が11名とありますが、犯行後に辞めていった者はありましたか?」
(引きこみのことを訊いているな。むだだ。賊は、竈(かまど)の土間につながる板戸を切って侵入しておる。引きこみが落とし桟をあけたのではない)
銕三郎は断じたが、黙っていた。

「奪われたのは、640両余とあるが、金種は訊きだされましたかな?」
「それは---」

「賊が引きあげたとおもわれる道筋の辻番所は、怪しい者たちを見ては---?」
「この府内には、辻番所はありませぬ」
「なんと?」
「お大名屋敷がございませぬ。武家といったら、勤番衆と町奉行所の者だけなのです」
「そうでありましたな」

銕三郎が、ゆったりと訊いた。
「ご城下に、荒神さまを祇(まつ)っている寺院か神社がございますか?」
「城下にですか? 存じませんなあ。火伏(ひぶせ)のお札は、伊豆・韮山の竈社のものを配っております。それと、遠江の秋葉さんのお札---」

「賊が竈の上に打ち付けていった荒神松ですが、大きさはどのていどのものでございましたか?」
河原筆頭与力も、矢野同心も、銕三郎の顔を見つめたまま、絶句した。

控えていた別の同心が腰掛所へ走った。
帰ってきて、
「3尺(90cm)ほとであったそうです」
「お手数をわずらわせますが、その松の小枝を、荒神松と申し立てたのは誰か、もう一度、儀兵衛とやらに確かめていただけませぬか?」

「飯炊きのおばばあだったとか」
矢野さま。おの身請け人を調べておいていただけますか? 生まれそだった土地、働いたことのある土地、連れそった男のこと---」
「承知つかまつった」

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(中坊左近秀亨の個人譜)


参照】2009年無1月8日[銕三郎、三たびの駿府]() () () () () () () () (10) (11) (12) (13


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2009.01.12

銕三郎、三たびの駿府(5)

5日目の七ッ(午後4時)前に、駿府城下の町奉行所へたどりついた。
筆頭与力・河原頼母(たのも 53歳)が待っていた。
「ご足労でありました。お奉行へのお目どおりは明日(みょうにち)ということにして、今夕はゆるりとお疲れをお癒しなさいますよう」
矢野弥四郎(やしろう 35歳)同心が、それほど遠くない伝馬町の本陣・〔小倉〕平左衛門方へ案内した。
ここでの宿は、駿府町奉行所持ちとのとりきめになっている。

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(駿府城下・伝馬町の西側 赤○=本陣〔小蔵〕 水色=旅籠)

さすがに駿府の本陣である。規模からして、6年前に銕三郎(てつさぶろう 24歳)が養女・与詩(よし 6歳=当時)を迎えにきたときに泊まった〔大万屋〕とは、だいぶにちがう。

参照】2008年1月5日[与詩(よし)を迎えに] (16) (17) (18) (19) (20)

夕餉(ゆうげ)にでた酒も、地元で一番の銘酒・鴬宿梅(おうしゅくばい)であった。
有田さま。この酒は、なみなかでは手にはいりませぬ銘酒です」
「しからばば、賞味を---」
有田同心は、口にふくんでしばらくころがしてから嚥下し、
「うむ。さすがに駿府一---のどへの流れがちがいますな。鼻へ抜ける馨りに白梅の蕾(つぼみ)がかくれています」

相伴していた矢野同心が、
長谷川どのは、以前にも府中へ?」
「6年前に、朝倉仁左衛門景増(かげます 61歳=当時 300石 1000石高・役料500石)さまのニ女・与詩(よし 6歳=当時)をわが家の養女に迎えるために---」
「覚えております。あのときの---。内与力(ないよりき)のどのが、ことのほかよくできた若者とほめちぎっておられたのは、そちらでございましたか。奇縁です。荒神松盗人事件の掛りは、手前でございます」
「ほう」
有田同心がのりだしてきた。
有田どの。ここは酒の席です。仕事のことは明日、役所にて---」
矢野同心に佐山与力が相槌をうつ。
「さよう。明日、々々」

朝倉さまは、拙が与詩を引き取った2ヶ月たたないうちにお亡くなりになったとか」
銕三郎の言葉に、矢野
「手前の次男が生まれた日ですから、しかと覚えております。宝暦13年の5月5日でした。江戸への届けなどで、公式には17日となっておりますが---」
「それでは、拙がお訪ねしてから、1ヶ月にも欠けます」
「長く伏せっておられましたから、すべては筆頭与力さまが取り仕切っておられました」
言ってしまってから、酒のはずみで余計なことまでをしゃべりすぎたと思ったのであろう、矢野同心は、明朝五ッf半(午前9時)にお迎えにあがると約して帰っていった。

手酌で呑んでいる有田同心を残して、佐山与力と銕三郎はそれぞれの部屋へ引き上げた。

銕三郎は、主人の平左衛門(55歳)と一番番頭・恭助(きょうすけ 62歳)に部屋へきてもらい、あれこれ訊いた。
駿府に住んでいる人の数、人別の厳緩、戸数、木戸番小屋の数、盗賊に入られた〔五条屋〕の評判などなど。
とりわけ、念入りに確かめたのが、貸家を持っている家主たちの家業と、彼らを束ねている町年寄の人柄であった。


参照】2009年無1月8日[銕三郎、三たびの駿府]() () () () () () () () (10) (11) (12) (13

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2009.01.11

銕三郎、三たびの駿府(4)

4泊目の泊まりは、蒲原(かんばら)の〔木瓜(もっこう)屋〕忠兵衛方であった。

夕餉(ゆうげ)の膳に、1本ずつ徳利がのっておるので不思議がっていると、主人の忠兵衛があいさつに現われ、その 祝意とわかった。
忠兵衛は、与力・佐山惣右衛門(そうえもん 36歳)、同心・有田祐介(ゆうすけ 29歳)の順をまちがえることなく酌をしてから銕三郎(てつさぶろう 24歳)の前にぴたりと止まり、
長谷川さま。朝倉の於姫(ひー)さまのおむつは、もう、とれましてございましょう」
と笑った。

_120ちゅうすけ注】市岡正一『徳川盛世碌』(東洋文庫 1989.1.20)に、寄合級のむすめは「於姫」と書いて「ひー」と呼ばしたとある。それ以下は「於嬢」。

与詩(よし)も明けて12歳の生意気ざかりですから---その節は、お手数をわずらわせました」

参照】20081月13日[与詩(よし)を迎えに] (24)

2人の、気のおけないやりとりを佐山与力は、なにごともにもったいをつけたがる自分の組頭・長山百助直幡(なおはた 58歳 1350石)とくらべて、大違いだとおもっている。
(20年後にでも、銕三郎どのが組頭となってきてくれれば、組の雰囲気もかわるのだが---)

先手・鉄砲(つつ)の4番手は変則で、ほかの組にはだいてい10人いる与力が、5人しかいない。
それだけに、すべてにもったいをつけたがる長山直幡のような組頭だと、手不足の与力はたまったものではない。
このたびの駿府行きにしても、佐々木筆頭与力は、同心2人にして、佐山与力は出役させないように計っていたが、直幡が組の威厳を示すため、強引に佐山の派遣をきめたのである。

忠兵衛が引き下がると、待っていたかのように、佐山与力が自分の膳の徳利をもって銕三郎の前へ坐りこみ、
「長谷川うじのお顔のひろいのには、ほとほと感じいり申した。本多組の筆頭与力どのが、長谷川うじを強くご推薦くださった理由(わけ)が、よっく呑みこめ申した。駿府でもよろしくお願い申しますぞ」

つられたように、有田同心も座を立ってき、こちらは銕三郎からの酌をうけながら、
「なにしろ、わが鉄砲の4番手が火盗改メの任についたのは72年ぶりです。盗賊の探索方など、ひとりも存じてはおりませぬ。ご指導のほど、お願いいたします」
そういいなから、また受けている。

翌日、さつた峠の手前の倉沢村で、〔休み陣屋・柏や〕でお茶にすると、亭主・幸七(こうしち 65歳)がまがった腰をのばしのばし、
長谷川さま。お久しゅう。お父上は、お達者で?」
あいさつに出てきた。
「先手・弓の8番手の頭(かしら)をつとめております」
「まあ、夢で鉢巻を---それは重畳(ちょうじょう)」
6年ぶりなのに、耳がすっかり遠くなってしまって、すべてがとんちんかんな受けをする。

「おも、ばばあになりましてのう---あわび採りは、もう、やれません」
とか、
「だから、股ぐらのも、すっかり、干しあわびですよ、ふぁ、ふぁ、ふぁ」
ふぁ、ふぁ、ふぁは、歯抜けの笑い声であった。

参照】2008年1月12日[与詩(よし)を迎えに] (24)

さつた峠を越えながら、有田同心が、
長谷川さま。おとは、何者です? 〔柏屋〕の女房どので?」
「さあて、拙にも合点がまいらぬのです。何者でしょうか」
銕三郎は、すっとぼけた。
(そんな詮索よりも、盗賊の詮索に専念したら---)
そう言ってやりたかった。

2人とも、銕三郎に、すっかり、おんぶにだっこの形になりつつあった。
(府中では、しっかり明察しないとな)
銕三郎は、難所をこなしながら、自分をいましめている。

もっとも、さつた峠では、佐山与力も有田同心も、音(ね)をあげないで登っている。
佐山さま。きつくはありませぬか?」
「なに。長山組頭の、坂の多い赤坂中ノ町の屋敷への行きかえりで、すっかり鍛えられての」
有田同心も言った。
「火盗改メのお役についてから、毎日の市中見廻りで、芝や三田の坂をこなして、すっかり健脚になりました」

鉄砲(つつ)の4番手は、長山組頭の前の雨宮権左衛門正方(まさかた 享年58歳 1505石)の時代が足かけ12年つづいた。
雨宮組頭の屋敷は表猿楽町だから坂に面していた。しかし、火盗改メには任じられなかったから、組下が屋敷を訪ねるのは節季のあいさつだけで年のt6度ほど。足ぞなえにはならなかった。

ことのついでに記しておくと、雨宮武田系の姓である。


参照】2009年無1月8日[銕三郎、三たびの駿府]() () () () () () () () (10) (11) (12) (13

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2009.01.10

銕三郎、三たびの駿府(3)

「お芙沙どの。人の目については、〔樋口屋〕の人気(じんき)にさわりましょう」
銕三郎(てつさぶろう)が、でっぷりと肉のついたお芙沙(ふさ 35歳)の肩を押して、躰を離す。
多恵(たえ 7歳)どののお顔を見るのではなかったのですか?」
「今夜は、乳母の家へ泊りに行かせてあります」

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(赤○=-本陣〔樋口〕、青〇=第2本陣〔世古〕 前は東海道
三島市観光協会のバフンレットより)

2人は、暗い道を、さらに北へたどった。
「世古本陣方の女中を辞め、加茂社の近くに住んでいたおんなおとこ---賀茂(かも 32歳)とかいいましたか、あれたちが消えた経緯(いきさつ)をお話しくださいませんか」
銕三(てっさ)さま。道行きをしながらでは話しずらいのです。この先に落ち着いて休める家があります。そこでなら---」

茶房ふうのその亭は、男女に逢引きの場を供するのを商いとしているようであった。
品のいい老女がこちらに視線を止めないで案内した離れの、部屋の屏風の向こうには、すでに床がのべられてい.る。
「おささ(酒)と、なにか箸休めを---」
うなずいた老女が去っても、お芙沙は頭巾をとらなかった。

「このようなところを、よくご存じですね」
「本陣とはいえ、宿屋です。いろんなお客さまの要求をかなえるのが、わたしの才覚でございます。でも、来たのは初めて---」

「三島大社の裏の家はどうなりました?」
と訊こうとしてあやうく、銕三郎は言葉をのんだ。
それを口にした瞬間、10年前の2人に戻ってしまう。
(お芙沙は、いまは人妻で、母でもあるのだ)

【参照】2007年7月16日~[仮(かりそめ)の母・芙沙(ふさ)] () (

賀茂さんたちのことですが---」
銕三郎の手をとったまま、ひそめた声で語ったお芙沙によると---。

仙次(せんじ 20歳=当時)たちの張りこみに気づいた〔荒神こうじん)〕の助太郎(すけたろう)と賀茂は、たいしてなかった所帯道具をそのままにして、ふっと姿を消したという。
(やはり、素人の張りこみは無理だ)
銕三郎は、この失敗から学ぶとともに、その後、父・宣雄(のぶお 51歳)が火盗改メの任についたときまでに、どうすれば熟練した張りこみができるかを考察しつづけた。
尾行にしても、久栄(ひさえ 17歳)にやらせて失敗している。これも銕三郎の研究課題であった。

参照】2008年10月8日[〔尻毛(しりげ)〕の長右衛門] (1)

仙次の報せに、芙沙がかけつけて改めたら、赤子用のものは一つものこっていなかったが、押入れの隅に、でんでん太鼓が忘れられていた。
「産み月まで、まだ、あと、2ヶ月はあったんですよ。よほど、待ちこがれていたんでしょうね、賀茂さん」
「あと、2ヶ月---ということは、6月---の、夏生まれの子」

老女が、襖のむこうから徳利と小皿の乗った盆を押し入れたとき、お芙沙が声をかけた。
「お湯桶はたっていますか?」
襖の向こうから老女が、
「いますぐになさいますか? それとも、後刻?」
「のちほど」
「そのときは、そこにある鈴を振ってお報らせくださいませ」
老女は、下駄の音をわざとたてて去っていった。

頭巾をぬいだお芙沙が酒をすすめ、自分も杯をさしだし、ひといきに呑みほす。
さらに、催促した。
「以前は、呑みませんでしたね」
「主人が、中風で寝こんでから、飲まないでは眠れなくなったのですよ」
「丈夫そうに見たが---」
「なにが丈夫なものですか。気も頭も躰もあのほうも弱くて、強いのはやきもちばかり---」

参照】2008年1月15日[与詩(よし)を迎えに] (26)

なおも手酌で杯を干しつづけるお芙沙に、
「思い出は、そっと、大切に、のこしておきましょう」
「いやです。単彩だけで描き終わったあの夜の危な絵に、今夜はたっぷれりと色を盛るのです。思い出を、さらに、さらに濃くするのです」
「いけませぬ。亭主どののためにも、多恵どのためにも、なりませぬ」

芙沙は、銕三郎の膝に泣き伏す。
その背中を、銕三郎は、幼な子をあやすように、いつまでもさすったいた。 

_300
(国貞『春情肉婦寿満』部分 芙沙のイメージ)

気持ちも股間も、平静さをたもっていられるのが銕三郎には、われながら不思議におもえた。
(いちだんと、大人になったということかな?)

参照】2009年無1月8日[銕三郎、三たびの駿府]() () () () () () () () (10) (11) (12) (13

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2009.01.09

銕三郎、三たびの駿府(2)

「いえ、小田原宿までお供をいたしやす」
洋次(ようじ 22歳)は言い張った。
梅沢の村はずれの押切橋の東詰である。
銕三郎は(てつさぶろう 24歳)は、むりやりこころづけをつかませ、荷をうけとった。

勘兵衛(かんべえ 41歳)お頭にくれぐれも、よしなに---」
洋次は、何回も振り返ってはお辞儀をして引き返して行った。

ちゅうすけ注】東海道・押切川の東側、梅沢村の茶店は、『鬼平犯科帳』文庫巻7[雨乞い庄右衛門]で、庄右衛門しょうえもん)を殺しに梅ヶ嶋へ行く配下の定七さだひち)と市之助いちのすけ)を、それとしらない庄右衛門ががよもやま話でかなりのときをすごす。p21 新装版p22

長谷川さま。その荷をわたくしがお持ちしましょう」
長山組の準小者頭・吾平が申し出たが、銕三郎は断る。
「ご親切はありがたい。しかし、この橋の向こうに、箱根荷運び雲助の仙次(せんじ 24歳)が来ています。荷はその者が持ちます」
それが、またまた、佐山惣右衛門(そうえもん 36歳)与力と有田祐介(ゆうすけ 29歳)を感服させてしまった。

小田原では脇本陣の〔小清水屋〕伊兵衛方に草鞋をぬいだ。
参勤交代のすくない時期なので、本陣〔保田〕利左衛門方もすいているが、先手組の出役(しゅつやく)の身分では与力や同心は泊まれない。
銕三郎が14歳のとき、本多伯耆守正珍(まさよし 駿河・田中前藩主 4万石)の用件での旅で宿泊できたのは、父・平蔵宣雄(のぶお 51歳)の手配がきいていたからである。

参照】2007年7月14日[〔荒神(こうじん)〕の助太郎] (1)
2007年12月17日[与詩(よし)を迎えに] (7)

夕飯の席に、銕三郎仙次を呼んで、酒好きの有田同心の相手をさせた。
佐山与力も銕三郎も、明朝の箱根越えをおもんぱかって、ほとんど控えたからである。

適当なころあいに切りあげた仙次へ、
「誰かに、明朝、われらよりも先に、この手紙を関所の足軽小頭・内田内記(ないき)どのと、三島宿の本陣・〔樋口〕の女主人へとどけてもらいたい」
2通の書状を託した。

翌朝---。

箱根山道は、裏庭の階段の上り下りの鍛錬の成果がはやくもあらわれたように、これまででいちばん楽に感じられた。
いや、〔風速(かぜはや)〕の権七(ごんしち 36歳)の教え---上りは、なるべく踵(かかと)をつけないように---を守ったのがよかったのかも。

参照】2008年12月25日[銕三郎、一番勝負] (5r)

銕三郎の山道のこなし方に目をとめた仙次が、うれしそうに言った。
「〔風速〕のお頭ゆずりでやすな]

畑村宿のめうが屋仙右衛門の屋敷の前を通りすぎるとき、芦ノ湯村の阿記(あき 没年=25歳)とのことがおもいだされた。

Up_270
(国芳『江戸錦吾妻文庫』 阿記のイメージ)

参照】2007年12月30日~[与詩(よし)を迎えに] (9) (10) (11) (12) (13) (14) (15)

仙次も気をつかって、話しかけるのを控えている。

関所の江戸口の門番一人が、仙次の姿を認めるや、番所へ走った。
副役(そえやく)・伊谷彦右衛門と、足軽小頭・打田内記が出迎えに、いそいで出てきた。

佐山与力が恐縮してあいさつを述べた。
銕三郎は、用意していた舟橋屋織エの羊羹を小田原藩の2人へ渡すと、一行は番屋で茶菓子をふるまわれた。
あと、箱根宿の脇本陣〔川田屋〕角右衛門方で、昼食まで馳走になった。

相伴していた打田小頭が、銕三郎に訊く。
権七めは、達者にしておりましょうか?」
「はい」
長谷川太郎兵衛(たろうべい 60歳)さま---あ、長谷川どのの叔父ごさまでございましたな---あのとき、火盗改メのお頭であった長谷川さまのお手くばりで、権七は箱根へ戻ってもよくなりましたのに、江戸の水が性(しょう)にあいましたのか、あしかけ5年、向こうへ居座ったまま---」
嘆息する打田内記
打田さま。こんどの駿府行きは、権七どのかかわりで---」
「そのように、ご書状でうかがいました」

横から、有田同心が口をはさむ。
権七かかわりと申しますと?」
「〔荒神(こうじん)〕の助太郎(すけたろう)の人相をしっているのが、いま、話にでました権七どのと、拙でして---」
銕三郎内田小頭も、権七が〔荒神〕の助太郎の関所抜けに手を貸したことは、あえて言わなかった。

「それは奇特---」
権七どのが店から手がぬけられれば、いっしょにとおもって声をかけてみましたが、2月ならば---と断られまして---」

参照】2008年3月2日[〔荒神〕の助太郎] (8) (10)

銕三郎の口ぶりから事情を察した打田小頭が、話題を変えてくれたので、権七の関所ぬけのことにまでは話題がおよばないですんだ。

三島宿でも、脇本陣・〔世古〕郷四郎方へ、向かいの本陣・〔樋口屋〕伝左衛門方から、でっぷりと貫禄のついた女将・お芙沙(ふさ 35歳)が、番頭に小さな角樽(つのだる)をもたせてやってき、佐田与力たちを、またも驚かせた。
芙沙は、
長谷川さまだけでも、うちへお泊まりねがいたいのですが、お役目なら、いたし方がございません。せめて、与詩(よし 6歳=当時)ちゃんといっしょ寝した、うちの多恵(たえ 7歳)にもお顔をお見せくださって、与詩ちゃんのお話でも聞かせてやってくださいませ」

参照】2007年7月16日[仮(かりそめ)の母・芙沙(ふさ)]
2008年1月20日[与詩(よし)を迎えに] (30)

芙沙の言葉に、佐山与力がすすめる。
長谷川どの。女将の望みをかなえてさしあげなされ」

番頭を先に帰しておいた芙沙は、表の東海道へ出ると、向かいが自分の家なのに、左手の暗がりへ銕三郎を引きこみ、
「しばらく、歩きましょう」
手をつないだまま、暗い道を山手のほうへ導く。

本陣の女主人・お芙沙としては、宵の口とはいえ、亭主や宿泊客でもない銕三郎と歩いているところが土地の者の目にふれると、噂になりかねない。
ぬかりなく、用意をしていた頭巾をで、顔を隠した。
阿記さまがお亡くなりになったこと、風の頼りにお聞きしました。ご愁傷さまでございました」
「運命でしょう」
「お子さまがおありだったとか---」
「拙の母方の田舎へ、養女にやりました」
「わたしも、銕三(てっさ)さまのお子がほしかった」
意識したようにに10年前の、高まったときの呼び名を口にしている。

「その節は、ありがとうございました。夢ごこちでした」
「思い出してくださっているんですね」
「一生、わすれないでしょう」
「うれしい」
芙沙が、躰をあずけてきた。
おもった以上に豊満なのが、厚く着こんだ着物の上からでも分かった。

【参】() () () () () () () () (10) (11) (12) (13

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2009.01.08

銕三郎、三たびの駿府

長谷川さま。お久しぶりでごぜえます」
馬入川の西・平塚側の舟着きで、銕三郎(てつさぶろう 24歳)の一行を出迎えたのは、ところの顔役・〔馬入(ばにゅう)〕の勘兵衛(かんべえ 41歳)であった。

参照】2008年1月31日[与詩(よし)を迎えに] (37)

銕三郎は昨日の朝、江戸を発(た)ち、今朝、戸塚宿を早く出た。
先手・鉄砲(つつ)4番手の長山組の与力・佐山惣右衛門(そうえもん 36歳)、同心・有田祐介(ゆうすけ 29歳)それに供の小者3名がいっしょである。

銕三郎から、それぞれを引きあわされた勘兵衛は、江戸の火盗改メの与力・同心と口がきけたというので、もう、得意になって、
「それはそれは。火盗改メのお役人衆でごぜえましたか。すぐそこの鄙(ひな)びた料理屋の〔榎(えのき)屋〕で、お茶を用意させておりやす。一服なさっていってくだせえ」
周囲の耳にちゃんと入るように馬鹿でかい声で招じて、先に立った。

長谷川うじ。えらい男をご存じですな」
さすがの佐山与力も、筆頭与力・佐々木与右衛門(よえもん 52歳)から言いふくめられてはいたが、銕三郎の顔の広さを目(ま)のあたりに見て、感にたえたようにつぶやく。

「いえ。ちょっとした行きがかりで---」
と照れたとき、
長谷川さま。お荷物をお持ちしやす」
「お、洋次(ようじ)どの。いやま、小頭格におのぼりですかな?」
「へえ。おかげさんで---」

参照】2008年7月25日[明和4年(1767)の銕三郎] (10) (12)

藤沢宿の問屋場(といやば)から、〔馬入〕の勘兵衛あてと、小田原の荷運び雲助・仙次(せんじ 24歳)あて、早便を仕立てておいたのである。

〔榎屋〕では、勘兵衛の妾・お(まん 32歳)も、きちんと化粧をし、女中たちをしたがえて待っていた。
ここでも勘兵衛は、一行を大声でお---というより、女中たちと別室にひかえている子分たちへ聞こえるように、
「こちらが、江戸の火盗改メでご与力をお勤めの佐山さま、こちらは、ご同心の有田さま---」
と披露(ひろう)したものである。
これで、勘兵衛の地元での株が、いちだんとあがろうというもの。

茶菓子のほかに、酒も整えられており、おの強いすすめを断りきれず、左党の有田同心がうけている。

そもそも、銕三郎が一行に加わることになった経緯(ゆすたて)は、こういうことであった。

師走も大晦日に近い夜、駿府・呉服町の京下(くだ)りの小間物を商っている老舗〔五条屋〕へ賊が押し入り、800余両を奪った。
退散ぎわに、竈(かまど)の上の壁に、新しい荒神松を打ちつけて行った。

参照】2009年1月4日[明和6年(1969)の銕三郎] (

半年前に着任したばかりの駿府町奉行・中坊(なかのぼう)左内秀亨(ひでもち) 53歳 4000石 役料500石)から、そのような習癖をもった賊の問いあわせをかねて、捜査の出役(しゅつやく)を請うた書状が、火盗改メ・本役の長山組へ送られてきた。

じつは、長山組も、元禄8年(1696)以来70数年間、火盗改メの経験が絶えていた。
依頼をうけた佐々木
筆頭与力は頭をかかえ、前任・本多組の筆頭与力・小林参次郎(さんじろう 53歳)へ相談をもちかけたところ、
(賊は〔荒神(こうじん)〕の助五郎(すけごろう )一味のようにおもえるが、その賊のことは、長谷川銕三郎どのが偶然に面識があるらしいので、出役の中にお加えになってはいかが---)
との本多紀品の助言がそえられた回答があった。

佐々木筆頭与力が、旅費・謝礼を駿府町奉行所側が負担するのであれば、銕三郎に要請してみてもいいと言ってやったところ、駿府側が持つ---との返事がきた。

_100(お竜(りょう 30歳)は、なぜ、〔五条屋〕の盗難をしっていたのか)
推察していて、〔狐火きつねび)〕一味のうさぎ人(にん 情報屋)が駿府にいるのでは---)
銕三郎は、おもいいたった。(歌麿 お竜のイメージ)

だから、出役の中に加わる話がきたときには渡りに舟と、一も二もなく引きうけた。
(もしかしたら、おが潜んだのは、駿府かもしれないではないか)
逢ってどうこうではなく、おの軍学を習(さら)えたい---銕三郎は、駿府行きをそう、正当化していた。


参照】2009年1月8日~[銕三郎、三たびの駿府] () () () () () () () () (10) (11) (12) (13


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2009.01.07

明和6年(1769)の銕三郎(7)

「そのことは、せっかくだが、洩らしてはならないことになっておる」
本多伯耆守正珍(まさよし 60歳 田中藩・前藩主 4万石)が、にべもなく断った。

長谷川平蔵宣雄(のぶお 51歳 先手・弓の組頭)と同道していたのは、坂本美濃守直富(なおとみ 36歳 1700石)である。
六郷家(600石 両番筋)の次男で、18歳で坂本家(1700石 寄合格)へ養子にはいった。
もっとも、家を継いだのは養父が歿した54歳のときだから、本多正珍侯を訪れたときは、役なしの寄合であった。

直富本多侯を訪れた用向きは、宝暦5年(1755)9月18日に、西丸・新番頭に準じられていた実家の父・六郷下野守政豊(まさとよ 50歳=当時)と、兄・紀伊守政寿(まさひさ 22歳=当時)が任を解かれた件の理由(わけ)を、当時の月番老中であった正珍侯に洩らしてもらえるかもと、かすかに望みをかけていたのであった。
その望みは、あっさり絶たれた。

「手前が実家を出ましたのは18歳のときで、解任はその5年後のことでございました。父も兄も、坂本の者となっているからには、かかわりのないこと---と、すげなく言われて参りましたので、もしや、ご老公から洩れ承れますれば、と浅はかに考えました。浅慮の段、平にひらに、お許しくださいますよう---」
美濃どのとやら。実父どのや賢兄どのが口を閉ざしていることに、容喙(ようかい)など、おこがましいとおもわっしゃれ。これは、予も、実父どのも実兄どのも、墓場までこのままも持っていくまでの事件である。そこもとは、さっぱりと、忘れっしゃい」
「は、そのように---」
長谷川どのも、聞かなかったことに、な」
「承りました」
宣雄も、平伏した。

美濃どの。これだけは申しておこう。実父どのや実兄どのの科(とが)ごとではない。実父どのが支配されていた新番組配下の者にかかわることであった。ただ、お上のお怒りが深うての」
「かたじけないお言葉、肝に銘じましてございます」
直富は、さらに平伏した。

ちゅうすけが下司(げす)のかんぐりをするに、六郷下野守とともに、先任の準番頭格・山本豊前守正胤(まさたね 46才=当時 300石)も同時に処分されているのは、両組にかかわることであったろう。
しかも、両者は番頭ではなく、準であり、その上には番頭がおり、下には与頭(くみがしら 組頭とも記す)がいる。にもかかわらず、いずれも処分をうけていない。
つまり、山本六郷は、トカケのシッポ切りであったのかもしれない。
で、その事件が、将軍世継ぎの家治室の五十宮が産んだ千代姫懐妊にまつわる風評を、組下の者が話しあっているのが徒(かち)目付の耳にでもはいったのかも。

ちゅうすけ注】後学の士のためにメモをのこしておく。
『徳川実紀』宝暦5年9月18日 西城奥勤新番頭格山本豊前守正胤、六郷下野守政寿。職うばはれ寄合となり、拝謁とどめらる。その故さだかならず。
また、このときの西丸の新番の番頭は、1番組は高井飛騨守奈直碁熙(なおひろ 47歳 2000石)。2番組頭は柳生播磨守久寿(ひさとし 55歳 500石)であった。久寿は、家治の世継ぎ・家基の剣術指南役も兼ねていた。

_120ついでに、前出・市岡正一『徳川盛世碌』(東洋文庫 1989.1.23)から引く。

旗本の家格は武役(ぶやく)の階級によりてこれを分かち、その家柄に種々の別ありしといえども、大約両番席(小姓組・書院番組)の者をもって一等となす。両番はー持高(もちだか)二千ハ百石より廩米(りんまい)三百俵までなり。そのつぎを大番席(おおばんせき)となす。持高ニ千石未満、廩米ニ百俵までなり。その次を小十人(こじゅうにん)とす。およそニ百俵以下、百五十俵までなり。

とあって、新番組が脱落している。
新番頭の役高は2000石。大番頭は5000石格、小十人頭は1000石格だから、その中間におこう。

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2009.01.06

明和6年(1769)の銕三郎(6)

(てつ)、書物奉行の長谷川主馬安卿(やすあきら)どのの居宅へ、年始がてらに参上して、伺ってきてほしいことがある」

田中藩・前藩主であった本多伯耆守忠珍(ただよし まさよし 60歳 4万石)への年始をすました夕餉の席で、父・平蔵宣雄(のぶお 51歳)から命じられていた銕三郎(てつさぶろう 24歳)は、本所・石原町(現・墨田区石原2丁目)の長谷川家の客間にいる。

安卿は51歳 150俵。もっとも、書物奉行の役料は400俵だから、250俵の足(たし)高を得ている。

参照】2008年9月29日[書物奉行・長谷川主馬安卿(やすあきら

安卿が非番の日---と指定してきたのは、明和6年1月11日、すなわち、今日であった。
用件は、、前もって書状にしたためて、下僕・太作(たさく 62歳)が5日も前にとどけている。

「お尋ねの、14年ほど前、宝暦5年(1755)9月18日、西城の奥勤め新番頭格・山本豊前守正胤(まさたね) 46歳=当時 300石)どのと小姓組番士であったご子息・出羽守正虎(まさとら 23歳=当時)どの、同職格・六郷下野守政豊(まさとよ 50歳=当時 600石)とともにそのご子息・紀伊守政寿(まさひさ 22歳=当時)も職を免じられて拝謁をとめられた件の原因(もと)ですが、どの記録にも記載されておりませぬ。お役に立てず、こころ苦しいかぎりです」
「ご奉行としての、ご推量はかないませぬか?」
長谷川組頭どのこそ、正しいご推察をなさるでしょう」

銕三郎が報告すると、宣雄は、
「そうか。むつかしいことになってしまったの。16日のご馳走が喉をとおらぬわ」
考えこんでしまった。

山本、六郷両家の出仕停止は、2ヶ月におよんでいたことは、長谷川主馬安卿が推量の手がかりにと、つけ加えてくれたが、銕三郎には見当もつかなかった。

当時の西丸の主は家治で、20歳であった。
前年末、閑院宮直仁親王のむすめ五十宮を正室に迎えていたが、新番頭格であった2人の咎(とが)と、この西丸の大奥の慶事とは関係はあるまい。
五十宮の女官として随伴してきた阿品局(おしなのつぼね)に手をつけて、男子・貞次郎を産ませたのは、むしろ家治であった。

あるいは、4日前の9月14日に家事不行き届きの科(とが)で西城側申次を罷免になった戸田土佐守忠胤(ただたね 47歳 7000石)にかかわりがあるのではなかろうか。

もっとも、山本豊前、六郷下野の分別ざかりの年齢---46歳、50歳と、出仕遠慮2ヶ月をあわせて考えると、宣雄の推理---戸田邸での下僕たちの賭博が原因かもしれない。

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(DNAは、正胤が養子にきたことで変じているはずだが、隔世遺伝か、それとも、女性のほうがDNAを伝える確立が高いのか)

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(一門の者賭博が明らかかになると、出仕停止ではすまない。流島である。下僕のそれだとこの程度かも。しかし、新番頭に準ずる者2家というのが、どうにものみこめない。番士の賭博の不正であろうか)

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2009.01.03

明和6年(1769)の銕三郎(3)

裏の小じんまりした庭に植えられたいる南天の赤い実にも、夕闇がかぶさりかかっている。
七ッ(午後4時)すぎであろう。

「お(りょう)どの。先刻のお先手組頭の名前ぞろえだが、明細の末に、小さな〇やら△、×の印がついていたのは?」
「ちょっとしたこころ覚えですから、お気になさらないで---」
_150
(30歳)は、薄い肌着を羽織り、ちろりを燗するために立ちながら、銕三郎(てつさぶろう 24歳)の問いかけをはぐらかそうとした。
「そう言われても、気にかかるものは気にかかる」(清長 お竜のイメージ)

名前書きした紙を引き寄せ、坐りなおした銕三郎は、真剣に眺めいっている。
「そんな怖い顔をなさらないで。お風邪を引きます。掻巻(かいまき)を---」
「うむ」

「燗がつきました。お受けになって---」
自分も掻巻に腕を通したおが、すすめるが、銕三郎は杯も手にとらず、注視している紙から目を放さない。

「では、お教えしますが、伝授料をお払いくださいますか?」
「拙が払えるほどの高ならば---」
(てつ)さまなら、お払いになれます」
「では、払います」

明和6年(1769)初春現在の、弓組の組頭。
番手(居屋敷)
(氏名 年齢 禄高 この年までの在職あしかけ年数)

弓組
1番手(小石川七軒町) 
 松平源五郎乗通のりみち)  75歳  300俵 17年め
2番手(神田元誠願寺)
 奥田山城守忠祇(ただまさ)  61歳  300俵  7年め
3番手(芝愛宕下三斉小路)
 堀 甚五兵衛信明(のぶあき) 60歳 1500石 10年め
4番手(下谷御徒町)
 菅沼主膳正虎常(とらつね)  55歳  700石  4年め
5番手(木挽町築地門跡後)
 能勢助十郎頼寿(よりひさ)  68歳  300俵  3年め
6番手(市ヶ谷加賀屋敷)
 遠山源兵衛景俊(かげとし)  62歳  400石  7年め
7番手(一番町新道)
 長谷川太郎兵衛正直まさなお>)60歳1470石  9年め
8番手(南本所三ッ目通)
 長谷川平蔵宣雄(のぶお)   51歳  400石  5年め
9番手(田安二合半坂下)   
 橋本河内守忠正(ただまさ)   59歳  500俵  3年め
10番手(市ヶ谷清泰院殿上地)
 石原惣左衛門広通(ひろみち) 77歳  475石  4年め

明和6年(1769)初春現在の、鉄砲組の組頭---。
番手(居屋敷)
(氏名 年齢 禄高 この年までの在職あしかけ年数)

1番手(小川町火消屋敷通り) 
 寺嶋又四郎猶包(なおかね)  81歳  300俵 12年め
2番手(南本所菊川町)
 松田彦兵衛貞居さだすえ)   62歳 1150石  3年め
3番手(小石川門内)
 井出助次郎正興(まさおき)   71歳  300俵 10年め
4番手(赤坂築地中ノ町)
 長山百助直幡なおはた)     58歳 1350石  5年め     
5番手(一番町堀端)
 永井内膳尚尹(なおただ)     72歳  500石  9年め
6番手(四谷刈豆店)
 鈴木市左衛門之房(ゆきふさ)  74歳  450石 16年め
7番手(本郷弓町)
 諏訪左源太頼珍よりよし)    63歳 2000石  6年め
8番手(本所南割下水)
 有馬一馬純意(すみもと)     71歳 1000石 10年め
9番手(麻布竜土下)
 遠藤源五郎尚住なおずみ)    53歳 1000石  4年め
10番手(駿河台下)
 石野藤七郎唯義ただよし)     61歳  500俵  2年め
11番手(下谷池端七軒町)
 浅井小右衛門元武>(さだあきら)   60歳  540石  5年め
12番手(石原片町)
 徳山小左衛門貞明(さだあきら)  54歳  500石  3年め
13番手(小石川白山鶴ヶ声久保裏通)
 曲渕隼人景忠かげただ)      64歳  400石 10年め
14番手(高田牧野備後守上地)
 荒井十大夫高国たかくに)     61歳  250俵  4年め
15番手(愛宕下神保小路)
 仁賀保兵庫誠之のぶざね)     58歳 1200石  3年め
16番手(牛込山伏町)
 石尾七兵衛氏紀(うじのり)      60歳 2200石  2年め
17番手(小川町裏猿楽町)
 松前主馬一広かずひろ)      47歳 1500石 17年め
18番手(裏六番町方眼坂)
 市岡左衛門正軌(まさのり)     76歳  500石 14年め
19番手(本所林町4丁目)
 仙石監物政啓(まさひろ)       76歳 2700石 17年め
20番手(四谷伝馬町3丁目裏通)
 福王忠左衛門信近(のぶちか)    77歳  200石 16年め

「早く、絵解きしてほしい」
「ま、おささ(酒)でもお召しあがって---」

は、じらすように、酒をすすめる。
銕三郎が、杯も手にとらないで、書付を注視しているので、あきらめたか、
「お組頭衆のお勝手向きです」
「なに?」
「お内証のお具合---」
「どうして、そんなことが分かるかな?」

(てつ)さまは、師走のお初お目見(みえ)に、お役つきのどなたとどなたへお礼廻りをなさいました?」
「ご老職(老中)、ご少老(若年寄)衆と、月番のご奏者番であった久世(くぜ)出雲侯---」
「それだけでございましたか?」
「いや。奥祐筆の組頭のお2人にも---」
2人の組頭とは、臼井藤右衛門房臧ふさよし 58歳 150俵)と橋本喜平次敬惟ゆきのぶ 48歳 150俵)である。

参照】2008年12月17日[「久栄の躰にお徴(しるし)を---」] (2)

「お礼の品は、どなたにお渡しになりましたか?」
「用人どのへ---」
「これで、お分かりでございましょう?」
「えっ?」
「先手組のお頭衆の役高は1500石---といいましても、お内証の具合はさまざま。奥のご祐筆さまへのお届けもののお値打ちもそれぞれ」

「なんと、用人どのに手をまわした?」
「いいえ。その下の者でも、音物(いんもつ 贈り物)手控え帖をのぞけます」
「〇は?」
「算用にかなり長(た)けたといいましょうか、見得よりもお内証にいつわりのないお家。長谷川さまはお〇」

が打あけたのは、ほぼ10年分の節季々々の音物の質量が、豊年と不作の年にあわせて増減させている家が〇なのだと。
家禄以上に見得を張ったものを、知行地の成りものの出来いかんにかかわらず贈ってくる家が×。
頼みごとのあるときだけ持参する家は△。

ちゅうすけのことわり書き】現存していらっしゃるお家も多いはず。さしさわりがあろうかと、〇、△、× 印を削りました。

「あきれた、軍者(ぐんしゃ)どのだ」
「ほ、ほほほ。さ、おささ(酒)を召して、伝授料をしっかりおはらいくださいませ」
掻巻を脱ぎすてたおが、床に横たわった。

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2009.01.02

明和6年(1769)の銕三郎(2)

「火種がどこかにあるはずですが---」
火鉢をつついたが見つからなかったか、お(りょう 30歳)は掘炬燵から火種を七輪へ移し、消し壷からおき炭をのせ、炭箱から備長を器用に組んで、薬缶をかけた。

手提げからだした紙片を、銕三郎(てつさぶろう 24歳)の前にひろげる。
30人の先手組頭の、明和6年(1769)現在の年齢、家碌、在任年数が書きこまれていた。

ちゅうすけ注】組頭は、西丸の4人を加えると総勢で34人だが、西丸はこんどのことにはかかわりがない。

「どうやってこれを?」
銕三郎が問いかけると、ついと肩を寄せ、
さまは、が軍者(ぐんしゃ)だってことをお忘れでございますか?」
「忘れてはいないが、あまりにみごとな手際(てぎわ)ゆえ---」
「須原屋(版元)の武鑑(ぶかん)は、だれでも求められます」
「それはそうだが、居屋敷は、武鑑には載っていない」
「裏の手はいくらもございます」
「うーむ」
本多采女紀品(のりただ 56歳 2000石)の後を引き継いだ石尾七兵衛氏紀(うじのり)の名もきちんとあげてある。

明和6年(1769)初春現在の、弓組の組頭から、まず---。
番手(居屋敷)
(氏名 年齢 禄高 この年までの在職あしかけ年数)

弓組
1番手(小石川七軒町) 
 松平源五郎乗通のりみち)  75歳  300俵 17年め
2番手(神田元誠願寺)
 奥田山城守忠祇(ただまさ)  61歳  300俵  7年め
3番手(芝愛宕下三斉小路)
 堀 甚五兵衛信明(のぶあき) 60歳 1500石 10年め
4番手(下谷御徒町)
 (菅沼主膳正虎常 とらつね)  55歳  700石  4年め
5番手(木挽町築地門跡後)
 能勢助十郎頼寿(よりひさ)  68歳  300俵  3年め
6番手(市ヶ谷加賀屋敷)
 遠山源兵衛景俊(かげとし)  62歳  400石  7年め
7番手(一番町新道)
 長谷川太郎兵衛正直まさなお>)60歳1470石  9年め
8番手(南本所三ッ目通)
 長谷川平蔵宣雄(のぶお)   51歳  400石  5年め
9番手(田安二合半坂下)   
 橋本河内守忠正(ただまさ)   59歳  500俵  3年め
10番手(市ヶ谷清泰院殿上地)
 石原惣左衛門広通(ひろみち) 77歳  475石  4年め

明和6年(1769)初春現在の、鉄砲組の組頭---。
番手(居屋敷)
(氏名 年齢 禄高 この年までの在職あしかけ年数)

1番手(小川町火消屋敷通り) 
 寺嶋又四郎猶包(なおかね)  81歳  300俵 12年め
2番手(南本所菊川町)
 松田彦兵衛貞居さだすえ)   62歳 1150石  3年め
3番手(小石川門内)
 井出助次郎正興(まさおき)   71歳  300俵 10年め
4番手(赤坂築地中ノ町)
 長山百助直幡なおはた)     58歳 1350石  5年め     
5番手(一番町堀端)
 永井内膳尚尹(なおただ)     72歳  500石  9年め
6番手(四谷刈豆店)
 鈴木市左衛門之房(ゆきふさ)  74歳  450石 16年め
7番手(本郷弓町)
 諏訪左源太頼珍(よりよし)    63歳 2000石  6年め
8番手(本所南割下水)
 有馬一馬純意(すみもと)     71歳 1000石 10年め
9番手(麻布竜土下)
 遠藤源五郎尚住なおずみ)    53歳 1000石  4年め
10番手(駿河台下)
 石野藤七郎唯義ただよし)     61歳  500俵  2年め
11番手(下谷池端七軒町)
 浅井小右衛門元武(もとたけ)   60歳  540石  5年め
12番手(石原片町)
 徳山小左衛門貞明 13番手(小石川白山鶴ヶ声久保裏通)>(さだあきら
 曲渕隼人景忠かげただ)      64歳  400石 10年め
14番手(高田牧野備後守上地)
 荒井十大夫高国たかくに)     61歳  250俵  4年め
15番手(愛宕下神保小路)
 仁賀保兵庫誠之のぶざね)     58歳 1200石  3年め
16番手(牛込山伏町)
 石尾七兵衛氏紀(うじのり)      60歳 2200石  2年め
17番手(小川町裏猿楽町)
 松前主馬一広かずひろ)      47歳 1500石 17年め
18番手(裏六番町方眼坂)
 市岡左衛門正軌(まさのり)     76歳  500石 14年め
19番手(本所林町4丁目)
 仙石監物政啓(まさひろ)       76歳 2700石 17年め
20番手(四谷伝馬町3丁目裏通)
 福王忠左衛門信近(のぶちか)    77歳  200石 16年め

ちゅうすけのおすすめ】諱(いみな)のオレンジ色の[ひらな]をクリックで「寛政譜」があらわれる。

銕三郎さま。お父上を陥(おと)しいれようと、徒(かち)目付に依頼した疑いの筆頭の諏訪(左源太頼珍)さまですが、去年の夏ごろから、咳こみがはげしくなって、勤仕もままならないご様子にございます。引きこみに入れております者の言い分では、弓組への昇格をたくらむこともおぼつかない容態のようで---」
「ふーむ。諏訪どのの線もきえたとなると---徒押(かちおし)が動いているというのは---」
「そのことでございます。推察いたしましたが、幻(まぼろし)のような---」
佐野与八郎(政親 まさちか 38歳 西丸・目付)兄上どのが嘘(いつわり)を申されるはずはないのだが---」
「どなたかが、さまの身辺をきれいになされようと---」
「父上が? まさか---」

「いまの、このありさまも、まさかにあたりませんか?」
「おどのとのことまで? 父上はご存じないとおもうが---」
「じっさいにはご存じでなくても、大橋さまとのご婚儀のさしさわりになることを、すべて断ちきるお考えだったのではございませんか?」
銕三郎は、雑司ヶ谷の料理茶屋〔橘屋〕の座敷女中・お(なか 35歳)の不自然な消え方におもいあたった。

「ありうる」
「でございましよう? つまりは、徒押などはまぼろしなのでございます。だれも、わたしたちの後ろを尾行(つ)けてはいなかったのです」

沸いた湯で、おが茶を淹(い)れた。
「お茶より、邪気ばらいに、酒(ささ)になさいますか?」
「うん」
薬缶にちろりが入れられた。

大橋のお嬢さまとのご婚儀、おめでとうございます」
「祝ってくれますか?」
「あたりまえでございます。しかし、そのことと、このことは別---」
「なに?」
の右手がそろりと銕三郎の胸へはいり、左腕が首にまわった。

銕三郎は、またも、父・平蔵宣雄の深慮遠謀を教えられた。
教訓は、「おのれが言うよりも、他の人間の口から出た言葉のほうを、人は信じやすい」であった。

300

新河岸川の葦の中での屋根船のときのように、おは、揚げ帽子をつけたままで銕三郎をいざなった。(歌麿『歌まくら』部分 お竜のイメージ)
武家の奥方になっている気分にひたれるらしい。
もっとも、船の中でより、安定した姿態がとれた。

が、高まりはじめると、揚げ帽子はおろか、着物まではいでいた。

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2009.01.01

明和6年(1769)の銕三郎

長谷川先輩。使いの者が参っております」
寒稽古中の銕三郎(てつさぶろう 明けて24歳)へ取りついだのは、弟のように面倒をみてやっている滝口丈助(じょうすけ 15歳)であった。

ちゅうすけ注】滝口丈助という高杉道場の同門者は、『鬼平犯科帳』巻18[おれの弟]に登場する。
30俵2人扶持の貧しい御家人の次男に生まれ、家督することはできないので、将来は剣客として生きていくか、どこかへ養子に入るしかない。
14歳の夏に入門して、剣客の道を選んだ。
長谷川銕三郎との年齢差は、原作に書かれたとおりだと、10数歳ほども離れていないと辻褄があわない---というのは、史実の平蔵宣以(のぶため)は、寛政7年(1795)年に50歳で病没している。
したがって、明和6年には24歳。
ファンの夢をこわすようなバラしだが、平蔵が病没した寛政7年の初夏の物語は、文庫巻12[密偵たちの宴]なのである。
それ以降の物語では、鬼平は齢をとるわけにはいかない。つねに50歳。
おれの弟]に、丈助は40歳に近い---とある。
その差を11~12歳とすると、明和6年の丈助は、12歳ほどにしなければ平仄(ひょうそく)があわなくなるが、えいっと、目をつぶって15歳に加齢させた。

この厳寒の中、汗を拭きふき出てみると、浅草の元締・〔木賊(とくさ)〕の林造(りんぞう 60歳)のところの顔見知りの若い者・才蔵(さいぞう 18歳)であった。
井関録之助(ろくのすけ 20歳)に振り棒の遣い方を習っている。
「なにごとかな?」
_100
小浪姐ごから言(こと)づけでやす」
小浪(こなみ 30歳)は、お厩河岸の渡舟場の前で茶店をやっている、〔木賊〕の林造元締の囲いおんなである。(歌麿 小浪のイメージ)

「ほう?」
「お手がすいたら、お越しいただきてぇと---」
小浪どのが?」
「いえ---」
今助?」
_100_2
「そうじゃあねえんで。おりょう)ってすかした年増(すけ)から発した言(こと)づけなんでやす」
「ご苦労であった。あと、2,3合、手合わせをすませたら参ると伝えておいてもらいたい」

(おどの、なに用であろう?)
自身が現われては、道場での銕三郎の立場がおかしくになるとおもんぱかってのことではあろうが---。(歌麿 お竜のイメージ)

ちゅうすけ手控え】高杉道場の同門者
[1-2 本所・桜屋敷]    岸井左馬之助  谷五郎七
[3-6 むかしの男]      大橋与兵衛(久栄の父親)。
[5-2 乞食坊主]       井関録之助
                 菅野伊助
[7-5 泥鰌の和助始末]   松岡重兵衛(剣客。道場の食客。50歳前後)。
[8-3 明神の次郎吉]    春慶寺の和尚=宗円
[8-6 あきらめきれずに]   小野田治平(多摩郡布田の郷士の三男。
                 不伝流の居合術)
[12-2高杉道場三羽烏]   長沼又兵衛 盗賊の首領。
[14-1 あごひげの三十両]  先輩:野崎勘兵衛。
[14-4 浮世の顔]       小野田武吉(鳥羽3万石の家臣)
                 御家人:八木勘左衛門(50石取り。麻布・狸穴に住む)
[15-1 赤い空]p37      堀本伯道(師:高杉銀平の試合相手)
[15-2 剣客医者]         〃
[16-6 霜夜]         池田又四郎(兄は 200石の旗本)。行方知れずに
[18-5 おれの弟]p171     滝口丈助
[20-3 顔]           井上惣助
[20-6 助太刀]p222      横川甚助(上総・関宿の浪人)

裏庭の井戸で、双肌(もろはだ)ぬぎなになって躰を拭いた。
に逢うのに、汗くさい匂いは、なぜか、憚(はばか)られた。
わざと、ゆっくり、入念に汗をぬぐう。
井戸水が暖かく感じられ、寒気の中、肌にこころよい。

大川をを横切るお厩河岸の渡しの、本所川の舟着きは、入り堀に架かっている石原橋北詰である。
舟がでるぎりぎりまで、何気ないそぶりで尾行(つ)けている者がいるかどうか、影をさがす。
跳び乗る。
ぐらりときた舟のゆれに悲鳴もあがったが、武家姿の銕三郎に、文句をつける乗客はいなかった。

(そういえば、屋根舟からこっち、おどのにはごぶさたであったな)
ずいぶん長く逢っていないようにおもえた。
久栄との婚儀の話がすすんでいて、つい、忘れていたともいえる。
久栄との婚前の旅の企ては、小浪から筒抜けになっていることであろうな)

_120中畑(なかばたけ)〕のおは、茶店〔小浪〕に、ひとりきりで待っていた。
連れ立って歩くこともかんがえて、武家の内儀ふうに、揚げ帽子をかぶっている。

茶を運んできた小浪が、
「内密のお話なんでしょう? 家の鍵をお貸しします」
目で笑いながら、鍵をおに渡す。

が先に立って蔵前通りをわたり、框(かや)寺(現・台東区蔵前3丁目22)の裏手の仕舞(しもう)た屋の錠をあけた。

519_360
(左:石清水八幡宮 右:正覚寺--通称・榧寺
『江戸名所図会』 塗り絵師:ちゅうすけ)

ふり返り、銕三郎をうながした。
は意識していないだろうが、銕三郎には、その料(しな)がぞくっとするほど艶(いろ)っぽくおもえた。

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2008.12.25

銕三郎、一番勝負(5)

「拙が生まれました赤坂築地中ノ町のような台地の端と違って、このあたり---本所、深川には、坂がございませぬ。脚力を鍛えるには、坂の上り下りにしくはないと聞いております。それで、庭の奥に坂にかわる階段を設けて、毎朝、上り下りをするつもりなのです」

銕三郎(てつさぶろう 23歳)が、腕の筋肉を鍛えるために、高杉銀平師の教えにしたがい、毎朝、振り棒をふっていることは、すでに記した。

参照】振り棒については、2008年6月12日[高杉銀平師] (3)
2008年8月25日[若き日の井関録之助] (4)

「妙案かもしれぬな。坂の上り下りのコツは、(てつ)の奇妙な盟友---〔風速(かざはや)〕とか申したな---」
権七(ごんしち 36歳)でございます」
「箱根の荷運びであったな」
「さようでございます」
「坂のこなし方も心得ていよう。人には、得手(えて)、不得手がある。得手のことを訊かれると、だれでも嬉しくおもうものだ。一生、忘れない」
父・平蔵宣雄(のぶお 50歳)の的を衝(つ)いたこころ遣いは、銕三郎にとっては、なにものにも替えがたい教訓である。
反発する年齢は、とうに過ぎている。

板づくりの階段は、3日とおかずに完成した。
宣雄の発案で、片側には頑丈な手すりがつけられた。
「人間、齢は足から取っていく。われも(たえ 43歳)も、暇をみて上ることにした。そのための手すりじゃ」

銕三郎は、さっそくに権七にきてもらい、箱根の荷運び流の坂こなし術を、手をとって---いや、脚をとるようにして教わった。
権七によると、なるべくかかとをつけないようにするのがのは上るときの心得。
下るときは逆に、かかとから踏みだしていく。

また、足元を見ないで、目線の高さの前方を見るようにして上ると疲労が少なくてすむとも。

権七に教わっている銕三郎を、老下僕・太作(たさく 62歳)が目をほそめて見守っていたが、
「どれ、一つ、太作めにもやらせてくださりししたませ」
しっかりした足取りで、10回ものぼりおりしたろうか、突然、腰を手でかばって、へたってしまった。
「大丈夫か、太作?」
「若。もう、いけません。齢はとりたくないもの」

権七が、太作の腰のどこかをどんどんと三つ四つたたくと、しゃんと背がのび、
「ああ、楽になりました」

「荷運び雲助流のあんま術です。長谷川さまも、上り下りで腰がつかれたら、ここをどんどんとおやりください」
腰のあたりの背骨の位置を教えた。

そして、言った。
「長谷川さま。のぼりおりしていて、ふくらはぎが痛くならなかったころあいが、箱根の荷運び雲助としての、一人前です」

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2008.12.24

銕三郎、一番勝負(4)

「父上。お願いがございます」
下城してきた父・平蔵宣雄(のぶお 50歳 先手・弓の8番手組頭)へ、銕三郎(てつさぶろう 23歳)があらたまって切りだした。
「火盗改メから、なにか、おとがめでもあったのか?」
「いえ、逆に褒賞をいただきました」

きょう、火盗改メ・仁賀保(にかほ)内記(のち兵庫誠之(のぶゆき 59歳 1200石 先手・鉄砲(つつ)の15番手組頭)組の与力・津山作之進(さくのしん 52歳)から差紙(さしがみ 呼び出し状 )が銕三郎あてにきた。

参照】2008年11月20日[仁賀保兵庫誠之(のぶゆき)]

千田恭四郎(きょうしろう 38歳)の件で確かめたいことがあるから、愛宕下神保小路の役宅まで出向くように、というのである。
千田某とは、先夜、銕三郎に斬りかかった浪人らしい。

出向いてみると、斬りあいのことを告げてやった木戸番が、横川端の牧野遠江守康満(やすみつ 信濃・小諸藩主 1万5000石)の下屋敷前の辻番へ通告し、まだ倒れていた千田某を逮捕した辻番人たちは、翌朝、仁賀保誠之の役宅へ連行したものとわかった。

仁賀保組が火盗改メを拝命してからまだ2ヶ月も経っていない。
その上、この組がこの前に火盗改メの任についていたのは40年以上も前---それも半年たらず---であったから、当時の経験者は一人も残っていない。
だから、町方が捉えた容疑者は、本役の長山百助直幡(なおはた 57歳 1350石 先手・鉄砲の4番手)組へ連れて行くようにと言った。
もっとも、本所は火盗改メ・助役(すけやく)の管轄だから、辻番人がやったことは正しい。
が、彼らは、そういう管轄の区分を心得ていて連行したわけではなかった。
辻番の前の横川から舟に乗せ、大川へ出て、浜御殿の北側から中ノ門前の入り堀の先、源助町で揚げれば、神保小路はすぐ---ということから、仁賀保屋敷を選んだにすぎない。

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(愛宕下 仁賀保内記(兵庫)誠之の役宅)

本役・長山直幡の屋敷は、赤坂築地中ノ町なので、虎ノ門から坂道をえんえんと歩かないとたどりつけない。

参照】2008年11月4日~[長山百助直幡] (1) (2)

愛宕下の組の役宅では、村山丈助(じょうすけ 36歳)同心が応対した。
事件の発端から棟(むね)撃ちで倒すまでの、ほんの1分間ほどのことをくどくどと訊かれた。

「で、相手は何者でした?」
「いや。その儀は、取調べ中につき---」
「ほう---では、田沼侯から少老へ下問していただきます」
「なに? 田沼侯とご面識がおありとな?」 
「父や、お目付の佐野与八郎政親(まさちか 37歳 1100)どのと、しばしば、およばれを---」
「いや。それでは内密にお教え申そう。遠州・相良の浪人・千田恭四郎と自称しておるが---」
「相良藩といいますと、西城・少老時代にお役ご免となられた本多長門守忠央(ただなか 51歳=当時 1万石)侯?」
「さよう。いまの相良のご藩主は田沼侯だが---」

参照】本多長門守忠央が罷免・封地召し上げの原因となった飛騨・郡上八幡事件は、2007年8月12日~[徳川将軍政治権力の研究] (1) (2) (3) (4) (5) (6) (7) (8) (9) (10) (11)

「それが、でござる---」
村山同心が口を寄せてささやくように言った。
かすかに、煙草が臭った。
「宝暦8年(1758)に碌を離れてから、天野大蔵だいぞう)とか申す浪人盗賊の配下となって悪事を働いていたが、頭の天野の病没によって連中が解散してからは食いつめ、闇討ち盗賊に成りはてたらしい」

ちゅうすけ注】天野大蔵といえば、『鬼平犯科帳』文庫巻2[蛇(くちなわ)の眼]の盗賊・蛇の平十郎へいじゅうろう)を20歳のときから盗みの道を鍛えてやった盗賊ではないか!

話を本筋へ戻して---。

銕三郎が、父・宣雄に願ったのは、なんと、屋敷の裏庭の隅に、13段の階段を設けたいということであった。
「なに、13段の階段? (てつ)、まさか首を吊るつもりではなかろうな?」

ちゅうすけの断り言】宣雄の科白は、ちゅうすけの冗談。13段は、明治以後に渡来したものだから、鬼平のころには、そういう忌みの考え方はなかった。設けたのは10段か12段のものであったろう。12段なら12支から12守神将に通じる。

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2008.12.23

銕三郎、一番勝負(3)

長谷川先輩、どうなさったのですか? 羽織の袂(たもと)---」
入ってきた銕三郎(てつさぶろう 23歳 のちの鬼平)を認めるなり、井関録之助(ろくのりすけ 19歳)が問いかけた。
「む。かわしそこねてな」
「かわしそこねたって---どこで?」
法恩寺橋での襲撃の顛末を手短く話し、
「おどのに、用があって参った」

(もと 32歳)は、北本所・中ノ郷瓦町の瓦焼き職人のむすめで、父と同じ瓦師に嫁(とつ)いだ。

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(中ノ郷の瓦師 『江戸名所図会』 塗り絵師:ちゅうすけ)

嫁いで3年もたたないときの瓦焼き小屋の火事で、消火にあたっていた夫が、くずれ落ちた屋根の下敷きとなり、その大火傷がもとで死んだ。
は精神的な衝撃で流産し、赤子だった鶴吉(つるきち 7歳=現在)の乳母となった。
鶴吉は、日本橋・室町の茶問屋〔万屋〕の主人・源右衛門(げんえもん 40歳=当時)が女中・おみつ(19歳=当時)に産ませた子である。
源右衛門は、手代からの入り婿で、家つきのお(さい 35歳=当時)に頭があがらない。
みつは、小梅村のこの寮で怪死した。

の情夫(まぶ)のような、鶴吉の用心棒のような形で、録之助が同居している。

「え? 嫁いだ初夜のことですか? なにしろ、11年も前のことですから---」
は、ちらりと録之助を見た。
鶴吉は、別の部屋で手習いのおさらいをしている。

「おれはかまわない---というより、聞いてみたいよ」
さまがそういうことでしたら---」

職人の家同士なので、挙式もなにもあったものではなかった。
花婿(ということばもふさわしくない)の家へ、同じ仕事場の瓦師たちが集まり、祝いの酒宴をひらいてくれた。
宴がはてたあと、酒器やら皿らを流しに運んでいるお元に、赤い顔をして寝床へ転がっていた段平(だんぺえ)が、
「ほうっておいて、さっさと来い」
寝衣に着替えて横に入ると、いきさなりはがされた。
「うれしいよ」
といいざま、上むきされ、乗られ、股がおしひらかれ、あっというまに熱いものが---。

「証(あかし)の血は出ませんでしたが、いきなりだったから、むこうが動かすたびに、ひりひりと痛いことは痛かった」
「ほう---」
録之助のため息。
さまとのように、手間をかけてからじゃ、なかったんですよ」
途端に、録之助がてれる。

「証(あかし)のものがなかったので、それからずっと、たびごとに、責められました。生むすめじゃなかったなって---。でも、母親に訊いたら、母親もそうだったって。幼いころから、瓦運びやら薪運びやらで、気張って重いものを運んでいる瓦師の家のむすめは、たいてい、証(あかし)が出ないらしいのです」
「そんなものを、ありがたがる男のほうがどうかしている」
録之助がいたわった。

(ここも、手本にはならない)
あきらめたところに、
長谷川先輩、抜き身の斬りあいの感じはどうだったですか?」
「考えるまなど、ありはしない。躰が、稽古のとおりに反応するだけだ。振り棒で鍛えているおかげて、腕の力はついている。敵の太刀をはねかえすのは造作もなかったが、足の鍛え方が足りなかった」
「あれ? 先輩は足は鍛えているほうじゃなかったですか?」
「む?」
「ほら、お(なか 34歳)さんとやらと---」
「馬鹿ッ。とはちがう。たちは蓮夜だろう」

さま。冗談がすぎましたですよ」
さすがに年配、おが赤くなりながらもたしなめた。

参照】2008年8月22日[若き日の井関録之助] (1)

は、銕三郎に言われた、自分たちの甘美な夜を思い出していたのである。

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(湖竜斎『柳の風』部分 録之助とお元の甘美な夜のイメージ)


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2008.12.22

銕三郎、一番勝負(2)

刃を感じた瞬間、右へ飛んで法恩寺橋の川下側の欄干へ向かって走っていた。
羽織の袂(たもと)が斬りさかれていたことには、あとで気づいた。

欄干へ躰をぶつけるようにして停まるや、すばやく抜いて構え、
高杉道場の者と承知の上でのことかッ」

星明りをすかして、斬り手の面体をたしかめるが、よくはわからない。
咄嗟に高杉道場の名を出したのは、道場がすぐそこであったことと、高杉銀平師から、つねづね、
「剣客という者は、殺してしまうまで、負かした相手につけ狙われると観念しておいたほうがよい」
と聞かされていたからである。

銕三郎(てつさぶろう 23歳)は、これまで、道場の外で試合をしたのは一度きりである。
つい先ごろ、初見(しょけん)を控えての予見で武芸を腕を試されたときの、それである。
負けはしなかったが、勝ちもしなかった。
3,4合、竹刀をぶつけあって、それで合格した。
幕府は、武芸を重くは見てはいない。

あとは、〔初鹿野はじかの)〕一味の刺客を打ちのめしたのと、〔木賊(とくさ)〕の林造(りんぞう 59歳)のところの若い者(の)たちをちょっと痛めただけである。

参照】2008年8月2日 〔梅川〕の仲居・お松] (2) (3)

初鹿野〕一味は江戸から去ったはずだし、〔木賊〕の元締とは、いまではいい仲になっている。

銕三郎のかんがえは、戦う前に威圧してしまってこそ兵法---これである。

斬り手は、黙ったまま、じりじりと間合いつめてきた。
1間半。
(物盗りか?、怨恨の闇討ちか? どちらにしても、ここで斬っては、ことが面倒になる)
不思議に、斬られる気はしなかった。

間合い、1間。
相手の顔が見えてきた。
月代(さかやき)を伸ばしている。
(浪人だな)

瞬間---突いてきた。
棟ではねあげる。
と、そのまま打ち下ろしてくる。
棟で受けておいて、そのまま、躰をぶつけ、退(ひ)きぎわに胴を撃った。
相手が二つの折れて倒れた。

橋の東詰の木戸番に、
「そこで物盗りの浪人を倒した。斬ってはおらぬ。近くの辻番所へ頼んで、捉えてもらいなさい。拙は、出村町の高杉道場の門弟です。お問い合わせは道場へ。ちと、急いでいるので、ごめん」
番太が、氏名を訊く前に、そう言って、出村町のほうへ去った。

道場の前を素通りしながら、いまの斬りあいを反趨してみた。
師の教えどおりに、刀の棟で受け、棟で撃った。
銕三郎、一番勝負。
、あっけなく、勝てり。
それにしても、小浪のことをかんがえていて、羽織を斬られた。
だらしなし)

銕三郎が向かっていたのは、高杉道場からすぐ先、小梅村の大法寺隣り、茶問屋〔万屋〕の寮であった。
そこには、同門の井関録之助(ろくのすけ 19歳)と鶴吉つるきち 7歳)と乳母・お(もと 32歳)が暮らしている。

ちゅうすけ注】鶴吉とは、20数年後に、『鬼平犯科帳』巻11の[雨隠れの鶴吉]となって戻ってくる盗賊である。

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2008.12.21

銕三郎、一番勝負

今助はん、あの若さで、どこで身つけはったんか、あのとき、ほらもう、ゆっくりやさしゅうて、つい、燃えてしまいますねん---あないに、頭んなかをまっ白にしてくれはる男衆、初めてどすえ」
帰りぎわにそう言った小浪(こなみ 29歳)の言葉を反趨しながら、銕三郎(てつさぶろう) 23歳は、石原町の舟着き場から法恩寺橋へ向かって歩いている。

師走も中旬。暮れ六ッ(午後6時)をまわっており、少碌のご家人の家々がつづく道は、ほとんど闇にちかい。
提灯の準備をしていないので、かすかな星明かりが頼りである。

(あの今助がなあ。色男ふうでもないのに、海千山千の小浪を篭絡しきっておるとは---)
今助(いますけ 21歳)は、浅草一帯をとりしきる香具師(やし)の元締・〔木賊(とくさ)〕の林造(りんぞう 59歳)の身内の若い者頭である。
大胆にも、林造の囲いおんなの小浪と、人目をしのぶ仲になっていた。

小浪にいわせると、
「元締はんは、年に幾たびもはできはらしまへん。うちを飼うてるいうだけで貫禄をつけてはるのんどす。いまがおんな盛りのうちは、そんなん、しんぼうできしまへん」
となる。

木賊〕の元締も、おそらくはうすうす感づいていようが、小浪は〔狐火きつねび)〕の勇五郎(ゆうごろう 48歳)一味の者と承知しているから、処置を逡巡しているのであろう。

参照】2008年10月23~[うさぎ人(にん)・小浪] (1) (2)

小浪にしてみれば、死をかたわらにおいての情事(いろごと)だから、心理的なおびえが、情感をよけいにゆさぶらせているのかもしれない。

10代後半から20代前半にかけての小浪は、盗賊・〔sp堂ヶ原(どうがはら〕の忠兵衛(ちゅうべえ 40がらみ)、そして〔帯川(おびかわ)〕の源助一味として、さまざまな土地でいろんな店や寺へ引きこみに入った。
際立った美貌が、行く先ざきの男たちの目を魅(ひ)きつけ、その者たちの欲望をかきて、躰をむさぼられた。
小浪の言葉でいうと、
(男まみれ)
であった。

が、男たちは、小浪のその美形に、すぐに飽いた。
色事の相手としてのおもみしろ味が、まるで感じられないのである。
木製の等身大の人形を抱いているのと変わりがなかったからである。
小浪の美貌に手形をつけることもできなかった。

(それなのに、今助がなあ)
今助は20歳そこそこで、あばれるときの命しらずの凶暴さが認められて、〔木賊〕一家の小頭の地位についている。
(小浪の頭の中をまっ白にさせている)

銕三郎も、おにいろいろと手ほどきをされ、おが肉置(ししお)きのいい躰を痙攣(けいれん)させたことは幾度があった。
が---、
(頭の中がまっ白になった)
そう、告白されたことはなかった。

もしかしたら、おを後妻に迎えた男は、それができたのかもしれない。
若いだけに、銕三郎の連想は、そのことから離れない。
いや、負けたくなかったのかも---。

横川に架かる法恩寺橋へさしかかかった。
と、左手から、星あかりをうけて光った刀身が斬りかかってきた。

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2008.07.27

明和4年(1767)の銕三郎(11) 

銕三郎(てつさぶろう)の思惑(おもわく)では、箱根道4里(16km)、箱根関所の手前の村・畑宿から芦ノ湯村までほぼ1里(4km弱)---昼前には湯治宿「めうがや」で臥せっている阿紀(あき 25歳)を見舞える算段であった。

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空想は、一気に、阿紀の病床へ飛んでいる。

阿紀は、嫁入り前---芦ノ湯小町ととわれていたむすめ時代に居室にしていた1階の裏庭に面した左側の部屋に寝ていた。
小さな違い棚には、人形やら扇がかざられ、部屋の主がむすめであることを主張している。

ふしぎに、子・於嘉根(かね 3歳)の存在をおもわせるものはなかった。 (左:栄泉『吾妻錦文庫』 芦ノ湯小町のころの阿記のイメージ)

銕三郎は、母親・お(みつ 48歳)に案内されて入っていく。
初夏だというのに、裏庭側の障子がしめられており、部屋には薬湯のにおいがこもっている。

母親は、気をきかせたのか、茶菓でも運ぶつもりなのか、すぐに出ていった。

「やあ。きたよ」
枕もとに座った。

薄い布団の下から、細くなった腕をだして、銕三郎の手をさがした。
両手で受けとめる。

「病気になってしまって、ごめんなさい」
「すぐ、よくなるよ」
「そうだと、嬉しいんですけど---」
無理につくった笑顔が痛々しい。

銕三郎は、ふところから、お守を4つ出し、1つずつ、阿記の手に載せてやりながら、説明した。

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(左から熊野本宮、新宮、亀戸天神、川崎大師)

「これは父上から---というよりも、母上からだな。熊野三山のうちの本宮と新宮の2社のだ。長谷川家のずっとむかしの先祖が、熊野神社を一族の本拠地の駿州・小川(こがわ)湊に勧請したという史実をたどって、父上がまだ家督しない前に、熊野へ参詣したときのものでね」

参照】[井戸掘り人のレポート]「藤枝宿の探索]中林正隆
2008年7月23日[明和4年(1767)の銕三郎] (7)

「そんな家宝のようなお守りを---」
「母上が、阿記が全快したら、2人でお返しに行けばいいって---」
「2人じゃなく、於嘉根も連れた、3人旅ですね」

「これは、いまの屋敷から近い亀戸天神のだけど、手習いを見てやっている、おまさって子が、兄さんの恋人なら、わたしには姉さんだからって、授かってきてくれた」
おまさちゃん、おいくつですか?」
「11歳」
与詩(よし)ちゃんの、一つ上のお姉ちゃんですね、於嘉根のお姉ちゃんでもあり---」
「その与詩だけど、もうおしめはいらないから於嘉根ちゃんにっていったんで、荷物になるって断ったら、こんなものをつくって於嘉根にと---」
赤と紺の端布(はぎれ)を縫ったお手玉を渡すと、支えきれなかったのか、ぽとりと落し、ついでに涙も流した。

お手玉を試す力も失せているのが、銕三郎にもわかった。
於嘉根は、いつ、お手玉ができるようになるんでしょう? 早く、それであそべるようになってほしい---」
「子どもの成長は早いから---もう、すぐだよ。そのためにも、本復してやらないとね」
「はい」

「こちらは、川崎の厄除(やくよけ)身代(みがわ)りのお守。ここへの途中、ちょっと回り道して、祈祷もしてもらってきた。厄をすべて弘法大師が身代りに引き受けてくださるんだ。母上は、こちらの宗旨を気になさっていたが---」
「うちは浄土真宗ですが、かまいません。さまの身代りとして肌身につけて養生します」

於嘉根も、お父(とう)さまから手習いが習えるといいのですが---」
ぼつんと言ったきり言葉をとぎらせ、目を閉じている阿記の顔には、生気がなかった。
小鼻の肉もおちて、障子ごしに入ってきている向こう側の光が透けてみえるほどだ。

母親が茶と茶うけを運んできた。
「母(かあ)さん。2人きりにして。だれも入れないで---」

母親が出ていくと、
さま。お嫌でなかったら、しばらく、いっしょに寝てくださいませんか。お召しものをおとりになって---」

銕三郎が横に添い寝した。
上をむいたままである。
阿記の躰は熱っぽかった。

阿記の指が、銕三郎のものにさわった。
やさしく、つまんでいる。
別の手の指が、銕三郎の指を自分のに導いた。
薬指の腹をあてて、じっとうごかさないように---。
芝生が掌(たなごころ)をここちよくふれるために、
つい、指がうごく。

4年前、鴫立沢(しぎたつさわ)の宿で、交わした会話をおもいだした。

与詩さまと湯へ入りましたら、しげしげと下の茂みをごらんになって、『たけ( 府中城内での乳母)のよりこ(濃)いね』ですって」
「そうか」
「ご覧になりますか?」
「いや。そういう趣味はない」

参照】2008年1月30日[与詩(よしを迎えに] (36)

(いまは、見て、芝生の艶をたしかめたい)

「4年ぶりね」
「そうだね」
「お変わりなく?」
「忘れた日はなかった」
「ほかのおんなの人の中に入っても?」
「入ってないもの」
(おが、ちらっと、浮かんで消えたが、これだけはほんとうのことを言うわけには、いかない)

参照】2008年6月2日~ [お静という女] (1) (2) (3) (4) (5)

「信じましょう。いまは、こうして、わたしの手の中なんだから」

阿記は、どうして再婚しなかったのかな?」
「意地の悪い問いかけ---だって、どの男の人も、さまより以下にしかおもえなくなったんですもの。そうしてしまったのは、あなたよ」
「ごめん」
「あやまることはありませんけど」
とつぜん、阿記が、和歌を口すさんだ。

 さくらさへ ちりぬる後(のち)の春深み しげき青葉の梅の木のさと 

梅を、於嘉根を産むにかけていることは、わかった。
返えし歌がすぐに出ない、自分がくやしかった。

鴫立沢(しぎたつさわ)でも、すらすらと、
 心なき 身にもあわれはしられけり 鴫(しぎ)立つ沢の秋の夕ぐれ
と詠んだ。

参照】2008年1月31日[与詩(よし)を迎えに] (37)

江戸へ戻ってから、

 さくら山 花咲き匂ふかいありて 旅行く人も立ちとまるなり

これを返して、喜ばすべきだったと、後知恵がくやしかった。

右手を阿記の乳房に置くと、ふくらみがきえかかっていた。
はっとして、阿記の顔を覗き見たときに、正気づいた。
うつらうつらしながら、夢をみていたのだった。
 
しかし、どうして於嘉根が出てこなかったのだろう。
会ったことがないために、イメージを結ばないのか。
父親としての覚悟がまだ薄いのか。

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2008.07.20

明和4年(1767)の銕三郎(てつさぶろう)(4) 

権七どの、ご免」

赤子の泣き声がしている戸口から、銕三郎(てつさぶろう 23歳 のちの鬼平)が声をかけた。
深川の正源寺(浄土宗 現・江東区永代1丁目)の南横手、諸(もろ)町のしもた屋である。
去年の秋から、出産にそなえて、〔風速(かざはや)〕の権七(ごんしち 35歳)・お須賀(すが 29歳)夫婦が住まっている。

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(南本所 正源寺 権七・お須賀の住まい 近江屋板)

ちゅうすけ注】 正源寺は、『鬼平犯科帳』巻3[麻布ねずみ坂]p15 新装版p15 巻4[あばたの新助]p173 新装版p187 に登場する。いずれも、寺そのものではなく、その裏手の家が舞台。後者は、同心・佐々木新助(29歳)が、大盗〔網切あみきり)〕の甚五郎の情婦・おさい)の色香にはまる初手の情事の場なので、かなり色っぽい。
ついでに---いや、よそう。小説は小説、史実は史実なんだから。佐々木新助の父親が属していた先手組のことなのだが。

須賀は、去年の10月、女の子を産んだ。
銕三郎は、その赤子の名前を頼まれたが、柄でもないと、いくつかの案を出して、夫妻に選ばせた。
けっきょく、お須賀のふるさと・三島からとった「お(しま)」がえらばれた。
いま、元気のいい泣き声で乳をねだっているのは、そのおである。

「変わりばえのしねえ所帯臭さで、申しわけございやせん」
権七は、口では済まながっているが、初めての父親気分は、まんざらでもなさそうである。

銕三郎は、〔古都舞喜〕楼の女中頭で、いまは本所・東両国尾上町の高級料亭〔中村屋〕で女中頭心得のお(とめ 33歳)から聞いた、おという、いわくのありげな女のことを告げた。
「するってえと、豊島町あたりをさぐってみりゃあ、よろしいんで---」
さすがに権七は察しが速い。

参照】文庫巻5[兇賊]p162 新装版p170で、〔鷺原さぎはら)〕の九平が、〔芋酒(いもざけ)・加賀や〕の店を出しているのが、神田川が大川へそそぎこむ、すこし手前の豊島町である。西両国の喧騒のはずれ。p

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(左=両国橋西詰から、右=和泉橋 赤○=〔芋酒・加賀や〕)

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(上図の豊島町1~3丁目拡大 赤○=〔芋酒・加賀や〕)

「火盗改メからの手当ての出ない話をもちこんで、拙もつらいのだが---なにしろ、大叔父が火盗改メを終えたもので---」
「なにをおっしゃいますか。〔古都舞喜〕楼や〔舟形ふながた)〕の宗平どんとは、くされ縁みてえなもんで---」

須賀が、抱いた赤子に胸元をひらいて乳をふくませながら、お茶をだしてきた。
「なんてえ、格好でえ。はしたもねえ」
「仕方がありませんよ。泣かせとくわけにはいきませんからね」
「どうぞ、おかまいなく。すぐに退散しますから---」
須賀のはちきれそうな乳房に、目のやりばに困った銕三郎は、とつぜん、阿記(あき 26歳)に、
「乳を吸いたい」
と甘えた夜のことをおもいだした。

参照】2008年1月30日[与詩をむかえに] (36)

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(国芳『葉奈伊嘉多』)

あれは、大磯の旅籠〔鴫立屋(しぎたつや)だった。
銕三郎(18歳=当時)をいざなった阿記(21歳=当時)が銕三郎の手を乳房に導き、
与詩(6歳=当時)さまと湯へ入りましたら、しげしげと下の茂みをごらんになって、『たけ(竹 府中城内での乳母)のよりこ(濃)いね』ですって」
「そうか」
「ご覧になりますか?」
「いや。そういう趣味はない」
「それからね。乳を吸わせてほしいって。母上が産後、すぐにお亡くなりになったのだそうですね」
「拙も吸いたい」
「まあ」

(そういえば、阿記も25歳のおんなざかり、わが子の於嘉根(かね)は、もう、4歳になる。ひと目でも会いたい)

その後、盗賊〔狐火(きつねび)〕の勇五郎の若い妾・お(18歳=当時)と情をかわしたが、阿記のしっとりとした育ちのよさは、おからは感じられなかった。

【参照】2008年6月2日~ [お静という女] (1) (2) (3) (4) (5)

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(栄泉『玉の茎』[水中流泳] 阿記が自分から言ったイメージ)

長谷川さま。おさんへの連絡(つなぎ)は、〔中村屋〕でよろしいんでやすかい?」
「そこでいいでしょう」
銕三郎は、なぜか、お母子の、松坂町の吾平長屋を打ち明けそびれた。
権七とのあいだにつくった、初めての秘めごとでもあった。
もしかしたら、おもいでの阿記が、なにか秘みつをもったほうがいい---とささやいたのかもしれない。

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2008.07.19

明和4年(1767)の銕三郎(てつさぶろう)(3) 

っつぁん。おふさどのが嫁入りするぞ」

高杉道場へ現われた銕三郎(てつさぶろう 22歳)に、いきなり、怒鳴るように言ったのは、剣友・岸井左馬之助(さまのすけ 22歳)だった。

ふさは、農家を改造した高杉道場の隣の屋敷の主・田坂直右衛門(70余歳)の、たった一人の孫むすめで、この年、19歳になったばかりである。
岸井左馬之助が、ひそかに恋ごころをいだいていた。

これまでも、垣根ごしにおふさの姿をかいま見ては、
お「ふさどのが髪をあらっている」
参照】2008年4月10日[岸井左馬之助とふさ]
だの、
お「ふさどのが、横川べりの木陰で涼んでいる」
参照】2008年5月5日[盗人酒屋〕の忠助] (その7)
などと、いちいち、報告におよんで、うるさかった。

左馬之助は、下総国(しもうさ)印旛郡(いんばこおり)臼井(うすい)で、手広く商売もやっている郷士のせがれで、5年前から単身出府、押上(おしあげ)の春慶寺に寄宿している。

参照春慶寺←クリック

だから、人恋しさも一倍なのであろう。
隣屋敷のおふさを、仮想恋人していた。
もちろん、おふさにしてみれば、左馬之助は、隣の貧乏道場の若者の一人にすぎなかったのだが---。

そのおふさが、嫁(とつ)ぐというので、左馬之助は、蒼白な顔色をしている。まるで、失恋したみたいだ。
「それで、どこへ嫁(とつ)ぐことになったのだ?」
「日本橋・本町の呉服商だ」
「なんという店なんだ?」
「〔近江屋〕なんとか兵衛」

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池波さんがモデルにした〔近江屋〕呉服店 『江戸買物独案内』)

「ま、田坂家としても、金のない剣術遣いより、豪商のほうを選ぶのは、とうぜんだからな」
「他人事みたいに言うな!」
「きょうは、徹底的に呑んで忘れるんだな。そうだ、亀戸のお(こん 28歳)さんが戻ってきたそうだ」
「よし、今夜は、〔盗人酒屋〕だ。っつぁんも、つきあえ」

いったん、三ッ目通り・菊川町の自宅で着替えてから、四ッ目の〔盗人酒屋〕へちょっと遅れてついてみると、左馬之助は、おと〔相模(さがみ)〕の彦十(ひこじゅう 32歳)を相手に、そうとう、過ごしていた。
大きめの体をおの肩にしなだれかかるようにして、
「やあ、頼もしきわが剣友・っっぁんのご入来だ。遅かったではないか」

おまさ(11歳)が寄ってきて、ささやくように、
(てつ)兄さん。岸井さん、どうなったんですか? ずいぶん前から、あの調子なんです。おふささんという人がどうしたの、こうしたのって、おおばさんも、もてあましているみたい」
「すまん。今夜だけは、見逃してやってほしい。左馬は苦しいんでいるんです」

飯台の左馬の正面に座った銕三郎が、おに、
「お久しぶりです。足利のほうでは、なにごともなく済みましたか?」
には、やつれがすこし顔にういている。もともと細面だったから、よけいに目立つ。
「おいおい、っつあん。おさんは、戻ってきなさったんだ。なにごともあるもんか」
彦十が、左馬之助をなだめにかかった。
「はい。お蔭さまで、とどこおりなく、納骨が済みまして---」
「今夜、みねちゃんは?」

おまさ が指で上を指し、
「食べるものを食べたら、くたびれて、上の部屋で寝んね」

左馬之助は、盃をあけては、じっとなにかを見すえている。
が、
「そろそろ、きりあげましょう」
すすめても、首をふるだけになった。

入江町の鐘が五ッ半(午後9時)を告げた。
看板の時間である。
銕三郎が支えて立たせても、左馬之助はおの肩のほうへ寄りかかってしまう。
弾力のある女の躰の触感とやさしい扱いに飢えてきていたのが、酒の勢いで一気にふきだしたみたいだった。
も察したとみえ、
「春慶寺までは、とても無理です。あたしのところで、酔いをさましていただきましょう」

おまさに、おみねをあずかってくれるように頼んで、左馬之助をかかえるようにして店を出、彦十が提灯でもつれている2人の足元を照らしてやりながら、横十間川に架かる旅所橋へ向かう。

月が細くなっている夜で、音もなく流れている横十間川は、黒い帯のようだ。

橋の手前までつきそった銕三郎彦十は、あとをおにまかせ、2人が清水町の裏長屋の木戸口に消える見送ると、引き返した。

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(〔盗人酒屋〕から下(東)へ行くと旅所橋。わたって左折すると清水町のお紺の長屋)

長谷川さまの旦那。あの2人、大丈夫でやすかねえ」
彦十どのは、何を心配しているのですか?」
「おさんも、後家を立ててはいるものの---」
「大人の男と女のあいだのことは、なるようにしかなりません」
「でも、おさんには、怖い後ろ楯tが---」
「〔法楽寺(ほうらくじ)の直右衛門ですか?」
「ご存じでやしたか?」

参照】〔法楽寺(ほうらくじ)〕の直右衛門

〔盗人酒屋〕の前でおまさが、看板行灯の灯をおとさないで待っていた。
(大丈夫)
とうなずいて、
「おやすみ」

おまさ が店へ入ったのを見さだめ、
「ご亭主どのの納骨へ、足利あたりへ行って、1年も足止めされたとなると---」
「ちげえねえ」
「それに、おみねちゃんの早寝のくせがついたのも---」

参照】女賊・おみね

「なるほど---あ、ちょいと、だち(とも)が来やしたんで---」
彦十が小名木川の土手で、しだれた小枝をゆらしている柳樹へ話しかけた。
「おい。しばらくだったね。なになに、左馬さんのことは、しんぺえねえ? 足利のほうが飽きてきたったんだろうって? うん、そういうことかもね。だったら、おさんも、まんざらじゃあ、ねえってことなんだ」

参照】〔相模(さがみ)〕の彦十

銕三郎は、彦十のような浅読みではすませなかった。
 〔法楽寺〕ほどの大物が、女の躰に飽きたから、などと理由でおを手放すわけがない。もっと、先を読んでのことに決まっている。左馬がその穴に落っこちたのでなければいいが---)


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2008.07.18

明和4年(1767)の銕三郎(てつさぶろう)(2) 

本所・四ッ目、北松代町1丁目にある〔盗人酒屋〕についたのは、七ッ(午後4時)前であった。
(とめ 33歳)・お(きぬ 12歳)母娘に、これほど時間をとられていたとは気づかなかった。
声がこもがちの天童なまりもすっかり消えているおのあく抜けた話しっぷりに、
(女の、ところ慣れはみごとだ)
おもわず聞きほれていたともいえる。

参照】2008年7月17日[明和4年(1767)の銕三郎] (1)

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(北本所 上部(西)に{〔紙屋〕 下部(東)に〔盗人酒場〕)

おまさ(11歳)は、羽目板や飯台を拭いていたが、銕三郎(てつさぶろう 22歳)の姿を認めると、それがくせの、黒くてぱっちりした双眸(りょうめ)を細めて、微笑(ほほえ)む。
そういうところは、とても11歳の女の子には見えない。一人前のむすめだ。

「手習いが上達しているごほうびです」
買ってきた手習い帖をわたすと、ぺろりと赤い舌をだして、
(てつ)お師匠(っしょ)さん。じつは、あまり、すすんでないんです。でも、うれしい。ありがとうございます」

おまさ。店の支度はいいから、お師匠さんに手筋帖を診ていただきな」
板場から手を拭きながら出てきた長躰の忠助(ちゅうすけ 40がらみ)がうながした。
この男は、〔(たずがね)〕のという「通り名(呼び名とも)」のとおりに、ひょろりと背が高い。
どちらかというと少女らしく小太りのおまさは、亡母似なのであろう。
店は、忠助おまさの父娘(おやこ)だけでやっている。

おまさが、裏2階から、手習い帖をもって降りてきた。
「おとっつぁんたら、将棋じゃあるまいし、手筋帖だなんて。いつまでも、手習い帖って覚えないんだから。いやんなっちゃう」
「父上に対して、そんな口をきいてはなりません」
「ほらみろ。お旗本の長谷川さまのおっしゃることは、いつも、まちがってない」
忠助も、いまでは、銕三郎のことをすっかり信用している。
「ご亭主。それ、皮肉ですか?」

躰を銕三郎にすり寄せていっしょに自分の手習い帖を見ていたおまさが、突然、言った。
兄さん。女の人と会ってきましたね? どちらの方ですか?」
おまさ。先生にむかって、なんてことを---」
「いや、ほんとうですから、いいんです。よく、わかりましたね」

「違う髪あぶらの匂いがしています。よっぽど、くっつきあったのですね」
「そうではありませぬ。その女(ひと)は、仕事がら、匂いの強い髪あぶらをつけているのでしょう」
「仕事がらって---?」
「料亭の女中頭なのです」
兄さんは、昼間っから、料亭なんぞで---」
「そうではありませぬ。紙屋で---」
「髪や?」
「この手習い帖を買った、屋号が〔紙屋〕という、紙屋です」

それから、〔古都舞喜(ことぶき)〕楼の一件を口にしたとき、〔〕の忠助がまばたきをはげしくしたのに、銕三郎は気がつかなかった。
初鹿野(はじかの)〕の音松や〔舟形(ふながた)〕の宗平の名には聞き覚えがあったのであろう。

「そうそう。お(こん 28歳)おばさんとおみね(7歳)ちゃんが、前のところへ戻ってきました。前の家はふさがっちゃっていて、その隣の家ですけど---」

Photo
(盗人酒場〕とお紺の長屋のある清水町)

「ずいぶん長い納骨でしたね。1年にもなります」
また、忠助がまばたきをした。

たちは、亡夫・万蔵(まんぞう 享年35歳)の納骨に、万蔵の故郷の、足利のはずれの助戸(すけど)へ行ったのであった。

Photo
(足利まわり)

あとになって銕三郎は 、おの出身は下野(しもつけ)の物井(現・栃木県芳賀郡二宮町物井)で、亡夫・万蔵とは江戸で結ばれ、助戸へは行ったことがない---と聞いたのをおもいだした。
(ご亭主の実家とはいえ、初めて会う嫁だから、仏になれば、縁が切れるみたいなものなのに、よくも1年間、食わしてやったものだ)
疑問がわいた。

ちゅうすけからのお願い】もし、足利近辺や、栃木の二宮町にお住まいの鬼平ファンの方が訪問してくださっていたら、それぞれのところの風景なり、鬼平のころの人情をコメント欄にお書き込みいただけると、交流がふかまります。

栃木県二宮町
二宮町大字物井には、二宮尊徳資料館があるんですね。池波さんにも初期の短編[尊徳雲がくれ](『谷中・首ふり坂』新潮文庫 1990.2.15)があります。この短編に、物井郷も登場していますが、お紺の故郷を物井に決めたのは、この短編に拠ってではありません。

助戸公民館

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2008.07.17

明和4年(1767)の銕三郎(てつさぶろう) 

明和4年(1767)の春---。

平蔵宣雄(のぶお)が西丸・書院番士として初出仕した寛延元年(1748)閏10月9日から、とりあえず、20年すすんで、銕三郎(てつさぶろう 22歳 家督後の平蔵宣以 のぶため)の青年時代。

参照】そのちょっと前の銕三郎の活躍の思い出しは、下記の日記で拾い読みを。
2008年4月20日~[〔笹や〕のお熊] (1) (2) (3) (4) (5) (6) 
2008年4月26日~[ 〔耳より〕の紋次]  (1) (2)
2008年4月29日~[〔盗人酒屋〕の忠助]  (1) (2) (3) (4) (6) (7)
2008年5月6日~ [おまさの少女時代] (1) (2) (3)
2008年5月10日~[高杉銀平師]  (1) (2) (3) (4) (5) (6)
2008年5月16日~[〔相模(さがみ)〕の彦十] (1) (2) (3) (4) (5) (6) (7) (8) (9) (10) (11) (12)
2008年5月28日~[〔瀬戸川(せとがわ)〕の源七] (1) (2) (3)  (4)
2008年6月1日   [名草(なぐさ)〕の嘉平]
2008年6月2日~ [お静という女] (1) (2) (3) (4) (5)
2008年6月7日~ [明和3年(1766)の銕三郎] (1) (2) (3) (4) (5) (6)

聖典『鬼平犯科帳』には登場しない、〔五鉄〕の並び---本所・緑町2丁目にある高級料亭〔古都舞喜(ことぶき)〕楼の女将・お(ふく 38歳=当時)、女中頭・お(とめ 32歳=当時)、通いの座敷女中・お(まつ 年齢未詳)とか、本所・五ッ目の〔盗人酒場〕の常連〔助戸(すけど)〕の万蔵(まんぞう 享年=35歳)の女房・お(こん 27歳)とむすめのおみね(6歳 のちに女賊として聖典に)など、ご記憶の方もあろう。

きょう、ぽっくり顔を見せるのは、おである。あれから1年たっているから、年齢は33歳---女の厄齢(やく)の一つではなかったかな。

本所・出村町の高杉道場からの帰り、久しぶりに〔盗人酒屋〕のむすめ・おまさ(11歳)の手習いのすすみぐあいをみてやるつもりで、銕三郎は、本所・回向院うら、松坂町の〔紙屋〕弥兵衛方へ、手習い帖を求めに立ち寄った。

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(本所西部 上部に〔紙屋〕、下部に高杉道場)

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(〔紙屋〕弥兵衛 『江戸買物独案内』 1824刊)

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ちゅうすけ注】『鬼平犯科帳』巻8[流星]で、船頭の友五郎ともごろう)を恐喝するために、かどわかされる〔飯富いいとみ)〕の勘八(かんぱち)の隠し子・庄太郎(しょうたろう)が手代をしていた本所・松坂町1丁目の紙問屋〔越前屋〕卯兵衛は、『江戸買物独案内』の次ページの2軒の問屋名の合成である。

「おや。お久しぶりでございます」
買い物をしていたあく抜けた年増が、声をかけた。
「おどの--でしたね。お子連れなので、見違えました」
そう受けた銕三郎に、お(とめ 33歳)は、恥じらうような笑顔で、かたわらの女の子(12歳くらい)を前に押し出し、
「わたしのむすめのお(きぬ)と申します。お見知りおきくださいませ」
は、背丈はおまさよりもすこし低めだが、顔立ちはおに似て整っている。
ぺこりと頭を下げると、すぐに母親の後ろへ下がった。
(もう3年もしないで、男の子たちがさわぎだすだろう)
「ほう。こんな大きなむすめごがおありだったのですね」

銕三郎がおに会ったのは、去年の春のおわりごろであった。
彼女が住み込みで女中頭をしていた料亭〔古都舞喜〕楼に賊が押し入った。
賊の中の一人が、淡いさくら色の手ぬぐいで鼻をかんだ。
それを、羽前(うぜん)・天童の近くの成生(なりう)村(現・山形県天童市成生)育ちのおが、紅花染めと見やぶり、賊は〔初鹿野(はじかの)〕の音松と〔舟形(ふながた)〕の宗平一味と知れた。もっとも、逮捕にまではいたらなかったが---。

参照】〔初鹿野(はじかの)〕の音松
〔舟形(ふながた)〕の宗平

銕三郎が買い物をすますのを待っていたように、
「お急ぎでなければ、そこらでお茶でも---」
は、このまま、別れがたい様子だった。
あのときの聞き込みの銕三郎の挙措が、役人らしくなかったのに、好感をいだいたらしい。

「いまは、すぐそこの、〔中村屋〕で女中をしております」
腰をおろすなり、おがきりだした。

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(料亭〔中村屋〕 『江戸買物独案内』 1824刊)

「ほう。〔中村屋〕といえば格も高く、拙ごとき、部屋住み身分の者には竜宮城みたいにおもえます」
「ご冗談を---」
「おどのは、〔古都舞喜〕で女中頭をしていたほどの人だから、単なる座敷女中ということもなかろうが---」
「恐れいります。心得をさせていただいております」
「女中頭心得---ですか?」
「身にあまるお扱いをいただきましたのも、口をおききくださいましたさるお方のご威光でございまして---」
(「さるお方---」は、いずれ、〔耳より〕の紋次どのに聞けばしれよう)

「〔古都舞喜〕は、やはり、むつかしくなりましたか?」
「あの、両国米沢町の〔加納屋〕さんのことは---?」
「ちら---と耳にしたような気もするが、武家方の屋敷に住んでいると、町方のことはうとくて---」
(〔加納屋〕善兵衛が、男としてのことがすすまなくなって、手切れしたと〔笹や〕のおさんから聞いたが---)
「わたしは、このおを亀沢町の知り合いに預けて、住み込みで働いておりましたが、〔中村屋〕さんでは、この子もしっかりしてきているのだからと、いっしょの部屋をご用意くださり、母子でお世話になっております」
「それは、重畳。嫁に出すまでは、母子いっしょが、いちばん」

「じつは、お足をおとめしましたのは、ほかでもございません。覚えていらっしゃるでしょうか?」
声をひそめたおは、〔古都舞喜〕楼でただ一人の通い座敷女中だったおの名をだした。
通いだったせいで、賊が押し入ってきた夜には、2度とも居あわさなかったので、火盗改メも聞き込みをしなかった。

「そのおさんですが、2度目の盗難があってから10日もしないで、ふいっと暇をとってしまったのです。
たまたま、人手が足りない日に、おさんが住んでいることになっていた北森下町の裏長屋へ手伝いを頼みに行った若い者(の)が、そういう人はいないといわれて、きつねにつままれたように顔で帰ってきたのでございます」
火盗改メの役人も、あれきり見えなくなったから、そのことの申告もしないですましてきたが、
長谷川さまのお顔を拝見して、ふと、おもしだしまして---」
「いいことを聞かせていただいた」

「ところが、五日ほど前になります。用があって両国橋をわたっておりましたら、西側からこちらへあるいてくるおさんに出会いました。それで、とぼけて、北森下町にいまでも住まっているのかと訊きましたら、豊島町の裏長屋だと---。これで、火盗改メ方への申請は終わったということにお願いできますか?」
「よろしい。ところで、おさん、いまのお住まいを訊いておいてよろしいですか?」
「昼間はこの子と、松坂町2丁目の吾平長屋におります。八ッ半(午後3時)からは〔中村屋〕です」

銕三郎は、お留のこの報らせを、火盗改メのいまのお頭・細井金右衛門正利(まさとし 63歳 廩米150俵)に告げる気はなかった。
(あの仁は、まったくの役人気質だ。お上から金子(きんす)が出ないと、何もしたがらない)
銕三郎は、とっくに見切りをつけていた。

参照】細井金右衛門正利についての銕三郎の認識は、上記したリンクとダブるが、
2008年6月11日[明和3年(1766)の銕三郎] (5)

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2008.06.14

明和3年(1766)の銕三郎(6)

(しず 18歳)が、〔狐火(きつねび)〕の勇五郎(ゆうごろう 45,6歳)によって、京都へ連れ去られたあとしばらく、銕三郎(てつさぶろう 21歳)は、胸の中に大きくて黒い空洞ができたようで、剣術の稽古にも身がはいらなかった。

狐火〕の、

「お前さんは、武家方のお子だ。人のもちものを盗(と)っちゃあいけねえ---人のもちものでも、金ならまだゆるせる。だがねえ、女はいけませんよ」(文庫巻6)[狐火]p160 新装版p168

この言葉もこたえたが、〔瀬戸川(せとがわ)〕の源七(げんしち)が、
長谷川の若さま。おさんは、〔狐火〕のお頭が、これまでで、いっち、大切にしていなさる女子(おなご)です。可愛いと感じるこころに、齢の数は関係ありません。あれぐれぇのお小言ですんでよかった。ほんとうなら、お命がなかったところです」
これで、勇五郎の痛みの大きさと、それを抑えるきびしさもわかったが、それ以上に、これからずっと〔狐火〕と暮らしていくおのこころにつけた傷の深さにも配慮がおよんだ。
(自分だけが苦しんでいるのではないのだ。でも、もう、どうしてやることもできない)
人生の無情をおもい知った。

岸井左馬之助(21歳)は、立会い稽古を中途でやめ、法恩寺の門前の蕎麦屋へ銕三郎をつれて行き、
っつぁん。高杉銀平先生が申されていた。長谷川は、いまがもっとも苦しい時期であろう。若い者には、剣よりも恋だからな。しかし、悩みの谷が深ければ深いほど、それをふっ切った時、剣はより鋭くなっている、と」
「師のお心は、温かい」

が京へ去ってから、おまさ(10歳)の手習いの筆の運びに、変化がでた。のびのびとしてきたのである。
口では、
「気をゆるしあった相談相手がいなくなって、寂しい」
とこぼしているが、胸のうちの嫉(や)きもちの炎は消えたように見えた。

銕三郎とすれば、手習いの師範に、おおまさを差別した気はなかったのだが、おまさは、敏感になにかを感じとっていたのであろう。
おのれのこころのうちを隠す修行を、自分に課した。
それは、真剣で立ち会った相手に、こちらの意図を隠す訓練にもなった。
高杉先生が、「それをふっ切った時、剣はより鋭くなっている」とおっしゃったのは、このことでもあったのであろう)
銕三郎は、手前勝手に解釈した。

夏の日ざしの中にも、秋がすぐそこまできている気配が感じられる日、おまさが、
(てつ)お兄さん。亀戸(かめいど)の竜眼寺が、こんどから〔萩寺(はぎでら)〕と名前を変えること、ご存じですか?」
「だって、あそこは、もともと、〔剥寺(はぎでら)〕だろう?」
「〔はぎ〕の字がちがうんです。お兄さんが言っている〔剥寺〕は、あのあたりで追い剥(は)ぎに、着ている着物を剥ぎとられるることが多かったからって、つけられた名前でしょ。それを苦にやんだ住職さんが、池のまわりに萩を植えこんで、花のほうの〔萩寺〕に変えるんですって」
「寺も、考えたものだ」
「萩の花見に連れてってくださいな」

そう、この明和3年(1766)から、〔剥寺〕は〔萩寺〕と呼び名を変えることになった。

おまさが起居している四ッ目の〔盗人酒屋〕から竜眼寺へは、東へ横十間川(天神川とも)に突き当たり、川沿いに北行、(亀戸)天神橋をわたってすぐ、である。片道全行程7丁(約800m)。

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(上=北 下の基点=〔盗人酒屋〕 終点=竜眼寺)

境内は人出が多く、離ればなれになってしまうおそれがあるとの口実のものとに、おまさ銕三郎と手をつないだ。
まあ、21歳の若侍と10歳のおまさだから、人目に照れるほどのコンビとはいえない。
おまさの思惑勝ちであった。
(手をつないでいるのがおさんじゃなくって、悪るうございましたね)
おまさが腹の中で小さな舌をだしていることに、銕三郎は気がつかなかった。

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(竜眼寺 萩見 『江戸名所図会』 塗り絵師:ちゅうすけ)

参照】『江戸名所図会』[竜眼寺 萩見

参照】2008年6月7日~[明和3年(1766)の銕三郎 (1) (2) (3) (4) (5)  (6)
2008年6月2日~[お静という女](1) (2) (3) (4) (5)

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2008.06.11

明和3年(1766)の銕三郎(5)

これまでの事件より遡ることになるが、とりあえず、明和3年3月15日の『徳川実紀』をひもといてみる。

先手頭細井金右衛門正利、盗賊考察を命ぜらる。この頃火災繁きにより、組子引きつれ昼夜街衢(がいく)を巡廻すべしとなり。

この時期の火盗改メは、銕三郎(てつさぶろう 21歳 のちの鬼平)の大伯父で、本家の長谷川太郎兵衛正直(まさなお 57歳 1450石余)であることは、たびたび、記してきた。

しかし、助役(すけやく)をぬかっていた。

浅井小右衛門元武(もとたけ 57歳 540石余 先手・鉄砲の11番手の頭)が、前年の明和2年(1765)9月22日から勤めていた。
江戸に火災の多い冬場の、いわゆる、加役(かやく)である。

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(浅井小右衛門元武の[個人譜])

助役は、春の終わり---4月には役を免ぜられるはずなのに、明和3年にかぎって、浅井元武はそのままとどめられ、重ねて細井金右衛門正利(まさとし 59歳 廩米200俵 先手・弓の5番手の頭)が増役(ましやく)として発令され、先手34組のうち、3組が火盗探索の職務にはげむこととなった。

ちゅうすけ注】この当時の先手組は、弓が10番手まで、鉄砲(つつ)が1番手から20番手までに、西丸に4番手の計34組が置かれていた。各組、与力が5名から10名、同心は30名(鉄砲の1番手と16番手のみ50名)いた。

3組も、というのは異例で、めったにあることではない。
(もっとも、『鬼平犯科帳』にも書かれている、葵小僧探索には、増役が発令されたが、これは先の話)。
小右衛門元武の火盗改メの加役は、夏もさかりの同年6月1日に免ぜられている。

それほど、冬場から春口にかけて、小さな火事が多かった。
もちろん、放火をし、騒ぎにじょうじて盗みを働く手合いが跋扈したのだとおもわれる。

_200火事の記録を『風俗画報 江戸の華 中編』(明治32年1月25日号 表紙=図版)から拾うと、

3月5日下槙(しもまき 京橋)町より出火、大風にて数町類焼す。

の1件が記されているにすぎない。

大火にはいたらないで鎮火した小火事が多発していたとみる。

浅井小右衛門元武の火盗改メ・助役の任期終了を、『実紀』は、同年の6月2日としている(ついでに補筆しておくと、元武はこの4年後に火盗改メの増加役を命ぜられている)。

柳営補任』は6月朔日(1日)と記しているが、『実記』は幕府の正規の記録だから、こちらを採る。
じつは、『柳営補任』は、長谷川太郎兵衛の火盗改メ解任日も、6月朔日としているが、『実紀』は6月18日。これも『実紀』にしたがっておいた。

大伯父・太郎兵衛正直の火盗改メの任期満了が近いとおもえる5月のある日、銕三郎は、役宅を兼ねている番町の長谷川邸を訪ね、正直の後任者に、探索手伝いを引き継いでおいてほしいとたのんでみた。
浅井どのは、ふつうであれば、とっくに任を解かれているべきなのだから、まさか、引き継ぎということはあるまい。細井どのはまったくの臨時の任ゆえ、のことを頼みおくのもどうかとおもわれる。困ったものよ」
銕三郎の探索上手の素質を見ぬいていた太郎兵衛正直も、当惑していた。

「奥祐筆の先任組頭・臼井どのにでも、さぐりをいれてみようかの」

奥祐筆の組頭は、幕臣の人事にとってきわめて影響が大きいようなので、臼井藤右衛門房臧(ふさとし 56歳 廩米150俵)のことは、稿をあらためて調べるつもりである。

実紀』をもうすこし先、明和3年6月18日までめくってみる。

先手組頭・長谷川太郎兵衛正直に盗賊考察をゆるされ。細井金右衛門正利代り命ぜらる。

なんと、火盗改メ・増役であった細井正利(60歳)の、本役への横すべりではないか。

寛政重修諸家譜』によると、姓は三河国幡豆郡(はずこおり)細井村に住んでいたためというから、土豪として徳川広忠に任えたものであろう。

本家は、1300石。家康に仕えた2代目の長男が別に家をかまえて500石。その2代目の5男が分家した廩米200俵の家を継いだのが正利である。

金右衛門正利は、小姓組、中奥の番士、西丸の徒頭(かちのかしら 37歳)と目付(49歳)を経て、先手・弓の5番手の組頭になったのが59歳の時。

徒頭と目付は1000石格、先手の組頭は1500石格だから、廩米200俵の細井家とすれば、破格の出世だし、本人の世故もふくめての有能ぶりがうかがえる。

火盗改メ・本役の引継ぎは59歳。
性格からいって、銕三郎のことは気軽に引きうけたろう。
が、じっさいに探索のことを頼んだとはおもえない。

というのは、1年後の翌4年(1767)6月20日に火盗改メの任を解かれたのは、3ヶ月後の9月に、在任中の不始末の不審が発覚したからとしかおもえない。
審議の結果は、放火犯の糾問を与力まかせにした職務怠慢ということで、先手の組頭・1500石格の職も召しあげられて小普請に貶(おと)されたうえ、逼塞を命じられているからである。
それだけではすまなかった。
嫡男・銕三郎正相(ただすけ)も家督前に召しだされていたのに、父の不始末の責めをおわされて、小納戸役を免じられた。

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(浅井金右衛門正利の個人譜)

このブログのヒーローのほうの銕三郎も、金右衛門正利の性格を、一度面接しただけで見抜いた。
「わが家の婿どのも銕三郎といいましてな。なかなかの出来ぶつでござるよ。銕三郎という名の仁は、どうやら、能才に恵まれているようですな。わが婿どのの銕三郎は38歳ゆえ、長谷川どのの指南役ということになりますがな。は、ははは」
先任者・太郎兵衛正直の前で、ぬけぬけと言ったものである。
(この仁は、人の言葉に異を唱えないことで、ここまで出世をなさっているが、そのような世渡りの術が、凶悪なで悪知恵をもった盗賊たちに通用するであろうか)

この例から感ずるのは、火盗改メという職は、おもった以上に厳しいということ。
よく考えればとうぜんのことで、法を扱い人の命を左右するのだから、念にも念を入れた詮議が必要で、与力にまかせきり---というのは、無責任すぎる。

もっとも、金右衛門正利にも言い分はあった。
この先手・弓の5番手という組は、宝暦3年(1753)10月から、金右衛門正利が任を解かれた明和4年6月までの14年間に、就任した組頭5名のうち4名までがなんらかの形で火盗改メを命じられおり、その通算は44ヶ月におよぶ。
この数字は、この期間中だけにかぎると、最長の組といえる。
つまり、与力も同心もこの職務の心得と経験が十分にあったのである。

Photo

新任の組頭・細井金右衛門正利(=緑○)としては、古参の与力たちを頼りにし、なにごともまかせたとおもう。
運が悪かったともいえないでもない。
まあ、悪運にしろ幸運にしろ、『寛政重修諸家譜』を拾い読みしていると、つきにくい人と、つきやすい人がいるようにおもえてくるから妙である。
運命論者ではないつもりなのだが---。

【参照】[明和3年(1766)の銕三郎] (1) (2) (4) (6)

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2008.06.10

明和3年(1766)の銕三郎(4)

新堀川に架かっている薬師橋西詰の旗本20数家が、諸掛費用をだしあって設けている辻番小屋にもく゛りこんでいた盗賊・〔窮奇(かまいたち)〕の弥兵衛(やへい 42,3歳)一味を、火盗改メに捕縛させたが、発見に一と役買った〔相模(さがみ)〕の(ひこ)(32歳)が、手柄を吹聴するので、銕三郎(てつさぶろう 21歳)は、
彦十どの。その話はほかではしていないでしょうね。もし、盗人仲間の耳に入ると、火盗改メの狗(いぬ)ということで、ただではすませてはくれませぬぞ。彦十どののだち(友)という雄鹿も、さすがに助けようがありますまい」
釘をさしておいて、両国広小路の「読みうり」屋に、ネタ集め人の〔耳より〕の紋次(もんじ 23歳)を訪ねた。

いつぞや、緑町2丁目の料亭〔古都舞喜(ことぶき)楼〕の盗難の件で、紋次に貸しをつくっておいた。

参照】2008年4月26日~[〔耳より〕の紋次] (1) (2)

「やあ、初瀬川(はつせがわ)さまの旦那」
紋次はおぼえていた。
人の顔と名前をおぼえるのと、相手を安心させる術が商売のコツといわれるネタ集め人である。
武士とちがい、ふつうの江戸町人は名刺を使わない。
まあ、武士だって、訪問先の玄関で差し出した名刺は、帰る前に引きとるのだが。

初瀬川と書いてわたしていた。
長谷川は、大和の初瀬川(はせがわ)のたもとの土豪だった先祖が、長谷寺にちなんで、いつか、書きあらためた姓である。

両国橋西詰の例の橋番小屋で、
「なにか、いいネタでも?」
「〔窮奇〕という盗賊一味が、火盗改メに捕まったのは知っているな」

細工の手のうちは、翌日売り出された「読みうり」の大要を引用する。

かまいたち〕の正体を暴露(あば)いてみると、
有りようは弁天小僧

神代のむかし、イザナギ神の男根(やり)の穂先のしずく、イザナミ神の陰門(ほこ)の湿りから、この国が産まれたと、もの本はいう。イザナミ神のこの世でのお姿が弁天であることは承知だが、陰門(ほこ)の神といってはあまりにもあからさまなので、銭(ぜに)洗い弁財天と書いて蓄財に、弁才天のほうは芸事・音楽・学問の神としている。

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(某分限者が購入したと伝えられる裸体の弁天像)

稲田に下田(げでん)、中田(ちゅうでん)、上田(じょうでん)があるように、人にも物にも位づけがなされるのも世の道理で、なににも、門口の広狭、湿りの潤乾、締めの強弱、毛並の濃淡によって下(げ)ノ品(ほん)、中(なか)ノ品(ほん)、上(じょう)ノ品(ほん)と分ける。

だから男どもは、見たがり、触りたがり、入れてたしかめたがる。

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(国芳「枕辺深閨梅」口絵 見たがる イメージ)
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(国芳 触りたがる イメージ)
弁天が上ノ品の持ち主であることは、宝船に6人の男神が群がっていることでもわかかろうというもの。

その弁天像をわが家に安置して朝晩拝み、萎えた一物の回春を願う長者もあまたいる。
そこに目をつけたのが〔かまいたち〕。弁天社のご本尊を盗みだして長者に高く売りつける。盗まれた寺社はご本尊がなくては信者もこないから、ひそかに代わりの弁天像を高値で購う。盗むも〔かまいたち〕なら売り手も〔かまいたち〕。ことは簡単。東海道筋の弁天社は軒並みに被害をこうむった。

ここに一人の火盗改メ・同心が登場(氏名はこんごの探索にさしさわりがあるので伏せる)。公務で江ノ島へ出張った際、あろうことか、江ノ島の弁天像を狙っている〔かまいたち〕の素顔を目にしたが、その時は、さすがの賊もこれはあきらめた。

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(江ノ嶋弁天 『東海道名所図会』 塗り絵師:ちゅうすけ)

江戸へ帰ってからのかの同心、洲崎弁天はもとより、浅草観音の塔頭---松寿院、寿命院、青流院などの弁天像に監視の目を向けていたところ、〔かまいたち〕がのこのこと現われた次第。

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(洲崎弁天社 『江戸名所図会』 塗り絵師:ちゅうすけ)

隠れ家は新堀川の薬師橋西詰の辻番小屋と知れ、火盗改メが一網打尽の大捕物に、さしもの〔かまいたち〕も化けの皮をはがれて弁天小僧に堕してしまったというお粗末。

この「読みもの」が命名した〔弁天小僧〕が、『白浪五人男』の一人に冠されたか(冗談)。

これにつづいて銕三郎は、〔雨女(あまめ)〕のおの逮捕の立役者も、先手・弓の七番手の長谷川組の同心の探索にすりかえて、〔風速(かざはや)〕の権七(ごんしち 34歳)とお須賀(すが 28歳)に復讐の手がおよばないように、紋次を使った。

ちょうすけのつぶやき斉藤月岑(げっしん)『武江年表』を東洋文庫(1978.11.15)で校訂した金子光晴さんは、寺の開帳が多くなったのを指摘。なかでも江ノ島の弁天の開帳は江戸人の人気が高かったと。たしかに、上ノ宮の弁天(宝暦5年4月)、岩屋弁天(同11年4月)、下ノ宮の弁天(明和4年4月)の開帳には、江戸からの参詣の男女が大勢押しかけたと、月岑がわざわざ付記している)。

【参照】[明和3年(1766)の銕三郎] (1) (2) (5) (6)


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2008.06.09

明和3年(1766)の銕三郎(3) 

口合人・〔雨女(あまめ)〕のお(とき 36歳)が網にかかったのと捕り物を賞して、火盗改メ本役のお頭(かしら)---長谷川太郎兵衛正直(まさなお 58歳 1450石余)が銕三郎(てつさぶろう 21歳)と〔風速(かざはや)〕の権七(ごんしち 34歳)にくれた紙包みには、3両と1両がつつまれていた。
もちろん、3両は銕三郎のほう。

権七どの。これは、お須賀(すが 28歳)どのに---」
3両のうちの2両を包みなおしたものを、銅壷(どうこ)の火をみているお須賀の前に置いた。
「とんでもございやせん、長谷川さま。お須賀は、ちゃんと商べえになっていたのでやすから---」
権七が包みを押し戻す。
「それとこれとは、別です。お須賀どの。産着(うぶぎ)の1枚にでも---」
「お言葉に甘えてそうさせていただきます」
須賀は、紙包みを押しいただいて、さっさと懐にしまった。
「ちぇっ。そんなもなあ、おれが揃えるのに---」
権七はがぼやくが、お須賀はすましたものである。

そのすべてを横で、うらやましそうに(ひこ)(32歳)が見ている。
彦十どのには、お願いがあります。どこかの賭場へ連れて行ってください。元金は、おのおの2分(ぶ 半両=約8万円)ずつ」
去年鋳造されたばかりの明和五匁銀を6枚、じゃらじゃらと手のひらにのせられた彦十は、
「ひゃあ、五匁銀だあ。生まれて初めて、手にのっけやしたぜ」
「そりゃあ、そうだ。暮れに月満ちて、銀座で生まれたばっかりだからねえ」
権七がまぜっかえして、大笑いとなった。

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(明和五匁銀 弘文堂『江戸学事典』より)

「月満ちて---といえば、お須賀どのの産み月は?」
銕三郎があらためて訊く。
「10月です」
「8月には休店ですね」
「いえ。叔母が三島在からきてくれて替わりを勤めてくれますから、店は休みません」
「では、権七どの。そろそろ、店と住まいを分けないと---」
「おこころづかい、ありがとうごぜえます、まもなく見つかる手はずでやす」

長谷川さまよ。賭場には、いつ、ご出陣なさいます?」
「昼間からやっている賭場は?」
「ごぜえます」
「では、きょうの八ッ半(午後3時)にでも---」
「あっしも、お供をいたしやす」
権七が言う。
「では、元金を---」
銕三郎は、五匁銀を3枚、押しつけた。
「お預かりいたしやす」

時刻までに、銕三郎権七の極細縞(めくら縞と称していたのだが)の単衣(ひとえ)に着替え、近くの床屋で町人まげに結った。
大小と着物・袴は、お須賀に預けた。

彦十が案内した賭場は、浅草・聖天宮(しょうでんぐう)の丘すそにあった。
いわゆる新鳥越町1丁目で、山谷堀(さんやぼり)側には間口1間半ほどの船宿がずらりと並んでいる。
丘側の、わら屋根の民家であった。
顔見知りの彦十の連れということで、すぐに筒(どう)ノ間へ通される。
筒板(どういた)のほかは、薄暗い。
彦十が、五匁銀を張り木札に替えてくる。手馴れたものである。

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(浅草・聖天宮下---新鳥越1丁目の賭場 近江屋板)

銕三郎は目がなれてから、筒板を囲んでいる十数人の客たちのそっと顔をあらためた。
42,3歳のでっぷりと肥えた男に気づいたが、そ知らぬふりで、筒板へ集中したふりをよそおった。
いたのは、〔窮奇(かまいたたち)〕の弥兵衛(やへえ)である。
3年前に江ノ島・片瀬村の旅籠〔三崎屋〕の大広間で出合った盗人だ。
与詩(よし 6歳=当時)が持っていた、紀州侯がお使いになる黒漆塗の木匙に目をつけられた。

参照】2008年2月2日[与詩(よし)を迎えに] (39)

つぎは、同じ年の初冬、本多采女紀品(のりただ 49歳=当時 火盗改メ・助役)の夜間の市中見回りに随伴した折り、新大橋北詰の辻番所の番人にもぐりこんでいた弥兵衛を見つけたが、うまく逃げられた。

参照】2008年2月21日[銕三郎(てつさぶろう) 初手柄] (3)

1刻もたたないで、彦十は元手のほとんどをすっていた。
権七は、箱根道の荷運び雲助時代からの修練で、賽(さい)の目の流れを読むのに長じており、元金を5倍に増やしていた。
銕三郎は、張らないで、弥兵衛の目にとまらないように、権七の後ろにひかえつづけた。

中休みになったので、彦十に精算するように言いつけ、権七には、会いたくない男がいるので退散したい、と耳うちした。

権七は、彦十がわたした1分2朱(6万円前後)のうちから、1朱(1万円)を賭場の若い者に華代としてわたして表へ出た。
そこで銕三郎は、木札に替えないままだった5匁銀の1枚を彦十へ手わたし、弥兵衛の特徴を伝え、賭場へ戻り、できたらでいいから、気づかれないように尾行(つ)けてみてくれ、と頼んだ。

山谷堀で権七が、日本橋川への帰り舟の船頭をみつけ、やりとりの末に、永代橋際までを40文で話をまとめた。こういう時の権七は手馴れていて、手ぎわがあざやかである。

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(浅草・聖天宮下山谷堀舟着き=緑○ 永代橋東詰の〔須賀〕=赤○
江戸大地図 天保期)

舟のなかで、権七は、
「お預かりしてた元金でやす」
そういって、2朱金2枚(4万円)を銕三郎に押しつけもした。
「江戸へ逃げてくる時、博打はもうしねえとお須賀とげんまんしたんでやす。きょうは、長谷川さまの後見ということで、認めてくれやしたんです」

窮奇〕の弥兵衛は、新堀川西岸、薬師橋近辺の旗本20数軒で設けている辻番屋に、仲間の盗賊3人でもぐりこんでいたところを、長谷川正直組に逮捕された。
20数軒で設営している辻番だから、番人の採用にもいい加減なところがあったのである。
弥兵衛たちにしてみれば、番人としての給金などは目ではなく、身の隠し場所でさえあればよかった。

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(緑〇=〔窮奇かまいたち)の弥兵衛がひそんでいた新堀川に架かる薬師橋西(上)詰の武家20数軒の辻番小屋 近江屋板 下は大川と御米蔵)

この逮捕で、一番鼻を高くしたのは、いうまでもなく、彦十である。
それから、尾行(つ)ける苦労話をしては、銕三郎からなにがしの小遣いをもらっていたが、
彦十どの。その話はほかではしていないでしょうね。もし、盗人仲間の耳に入ると、火盗改メの狗(いぬ)ということで、ただではすませてはくれませぬぞ。彦十どののだち(友)という雄鹿も、さすがに助けようがありますまい」

【参照】[明和3年(1766)の銕三郎] (1) (2) (4) (5) (6)

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2008.06.08

明和3年(1766)の銕三郎(2) 

銕三郎(てつさぶろう 21歳 のちの平蔵)が 井戸端で稽古着をぬいで汗をふいていると、〔風速(かざはや)〕の権七(ごんしち 34歳)も道場から出てきた。
権七は、箱根の荷運び雲助の頭株だったが、関所抜けにかかわって土地(ところ)にいられなくなり、情婦のお須賀(28歳)と江戸へ出てき、永代橋東詰で居酒屋をやらせている。

参照】2008年3月19日[於嘉根という女の子] (1) 
2008年3月23日[〔荒神(こうじん)〕の助太郎 (8)

朝、日本橋の魚河岸と神田多町(たちょう)での野菜類の仕入れがおわると、あとは夜まで暇をもてあましていたので、剣術でも習ってみたらと、銕三郎高杉銀平師へつないだ。
は、
「武士でもないものが剣術を習うというのはどうかとおもうが、道中差での喧嘩もあろう。斬られず、相手も斬らない極意を覚えるといい」
といって、ふつうの木刀の寸をつめて、指導にあたっておられる。

高杉師じきじきの、道中差での斬りあい---いや、ちがった、斬らずあいは、きわめて珍しい立会いなので、権七が稽古のときには、銕三郎岸井左馬之助( さまのすけ 21歳)、井関録之助(ろくのすけ 17歳)など、真剣に剣の奥儀をきわめようとこころがけている門弟は、自分の稽古をやめて、権七の対峙を目を凝らして拝観している。
学ぶべきところが多い、というのが、3人の述懐である。

高杉師によると、権七の足腰は長年、門弟のだれよりも鍛えられているので、腰がきまっており、相手の剣を避けるのも、おどしの突きをいれるのも、じつに、はしこい---とほめるので、権七はますますやる気になっている。

録之助がいみじくも言ったものだ。
「奥義はつまるところ、足腰だね。女を抱いて極楽へみちびく秘技と同じなんだ」
「ばか。女との地獄も、まだ知らないくせに---」
これは、左馬之助

が、それは、きょうの話題ではない。
井戸端で、権七が、
「お時間をいただけやすか?」
「法恩寺の門前の蕎麦屋〔ひしや〕ですむ話ですか。それとも、〔須賀〕へ同道したほうがいい話ですか?」

〔ひしや〕ですむということだったので、2人は着替えて、入れ込みの奥の卓についた。
長谷川さまは、口合人(くちあいにん)ってえ、裏の稼業(かぎょう)を耳になさったことがおありでやすか?」
「口合人? 聞いたことはありませぬ」
「手っとりぱやく言うと、盗人にかぎっての口入れ屋なんでやすがね」
「ほう。そういう仕組みもあるのですか。かんがえてみると、ふつうの口入れ屋では盗人の周旋はしないものな」
「それもありやすが、口合いには、保証つきで紹介するって意味もあるんで---」
「なるほど」

「それらしいのが、〔須賀〕にきたんです」
「どんな男でした?」
「いいえ、女でやす」
「女の盗人の口合人とは---」

権七によると、その口合人は〔雨女(あまめ)のおと名乗ったという。
ある晩、ふらりと入ってきて、銅壷(どうこ)の前で燗酒をみている女将(おかみ)・須賀(28歳)の前にぴたりとすわったきり動かない。
もちろん、酒と肴は注文するのだが、盃を口に運びながらも、お須賀から目をはずさない。
気づいた須賀が、
「顔に、墨でもついてますかえ」
と訊くと、にぃっと微笑み、
「いい女だねえ、女将さん」
「お客さんほどではござんせん」

齢のころは35,6に見えたその女が、銅壷ごしにお須賀の手にさわろうとしたので、板場から出た権七が、
「お客さん、須賀はいま仕事中なんでごぜえやす」
「あたしゃあねえ、男には興味がないのさ」
「おや。すると、女男(おんなおとこ)---須賀、お客さんは、あの賀茂(かも)と同類らしいぜ。そういやぁ、賀茂は、おめえなんかにゃ、鼻もひっかけなかったが---」
須賀に手をださせないようにと、権七が、からかうと、女は、
「ちょいと、伺いますが---」
とのってきた。

賀茂が三島宿の本陣〔世古〕の女中をしていたと知ると、
「ちきしょう、そんなところへ身を隠していたのか」
本気で腹を立てるから、
「お客さんは、賀茂さんとはどういう?」
「わたしの相方(あいかた)だったのよ」

参照賀茂は、〔荒神(こうじん)〕の助太郎 (10)

女は、権七にほだされて、〔雨女〕のお時(とき)と名を告げ、巽(たつみ)橋東詰の中島町に一軒家をかまえているといった。
巽橋は、〔須賀〕から南へ1丁ばかり行った、熊井町の名店〔翁蕎麦〕の先だ。

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(南深川 赤○=居酒屋〔須賀] 緑○=〔雨女〕のお時の家)

ちゅうすけ注】中島町のそこは、北原亜以子さんの、『深川澪通り木戸番小屋』のあるところ。

権七どの。そのおが、盗人の口合人とどうしてわかりました?」
「その後、何度か店へ呑みにきましたが、そのつど違う女を連れているので、商べえを訊いてみたのでやす。そうしたら、働き口をほうぼうへ世話しているのだといいやした。で、口入り屋の鑑札もなしにそんな世話をしてもいいのかった訊きやしたら、ふつうの口入れ屋ができねえ世話で、口合人というのだと」

がいうところによると、お賀茂もそのように幾度も世話してやった。
「盗人仲間では、飯炊きとか女中として送りここんで、内情を盗みとる役を、引き込みとかいうんだそうですが、お賀茂は、酒好きがたたり、どこでも長つづきしなかったのだと」

それで、おのうちで家政をやらされたのとともに、女男の道もしこまれた。
ところが3年前、京都の荒神口で太物屋をやっていると自称している〔荒神〕の助太郎というのに引き合わせたら、たちまち気にいられて、行方をくらませてしまったのだと。

荒神〕の助太郎の手はずで、三島宿の〔世故〕へ入れ、箱根抜けをする時期を待たせていたらしい。
「廻りあわせというのは、あるものなのですな」
銕三郎がため息をついた。

後日談だが、火盗改メ本役の大伯父・長谷川太郎兵衛正直(まさなお 58歳)の組の、高遠(たかとう)与力たちがおをとらえて、女たちの世話先も吐かせ、引き込みを5人ばかり逮捕した。あと3人は、おが捕まったとわかると、さっと消えたらしい。

太郎兵衛正直は、紙包みを銕三郎権七の前に置き、
や。おの通り名の〔雨女〕の由来を存じておるか?」
「なにかの遠出に、その女がいるとかならず雨が降るという迷信みたいな---」
「ばか。もっと勉強せい」

家で、父・平蔵宣雄(のぶお 48歳)に〔雨女〕のことを尋ねると、
「むかし、西隣りの大国の王が、夢で出会った美女と交合し、別れの時がくると、美女が、朝には雲となり夕べには雨となって、朝な夕なに巫山(ふざん)でお逢いしましょうといったそうな。それで、男女のひめやかな交情を朝雲暮雨という。銕三郎とおも、朝雲暮雨であったな」
「あ、ご存じでしたか?」
「命を惜しめよ」
「はい。ところで、雨女は?」
「ばか。美女が雨女なのじゃ」

参照】[明和3年(1766)の銕三郎] (1) (3) (4) (5) (6)

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2008.06.07

明和3年(1766)の銕三郎 

長谷川銕三郎(てつさぶろう)宣以(のぶため 21歳)にとっての明和3年で、特記すべきことの数件。

すでに記したが、〔狐火(きつねび)〕の勇五郎(ゆうごろう 45,6歳)が、1年前に妾にしたお(しず 18歳)と、躰の結びつきができてしまったことを、まず、あげておく。

は、
「お金のやりとりなしで、自分の気持ちにしたがった時って、こんなに高まるのですね。ふつうのむすめが好きな男の人とする時の自然な感じは、きっとこうなんでしょう、初めて知りました」
と感激して告白したが、ことはあっけなく勇次郎の知るところとなった。

参照】[お静という女](1) () (3) (4) (5)

勇五郎の老練な愛技をほどこされて恍惚となっていた時に、銕三郎の名を口ばしったのだという。
勇次郎は、さすがに巨盗のお頭らしく、おをとがめなかった。
自分が、駿府での大きな盗(おつと)めを差配するために、お静を一人にしておいたことによる不祥事---とあきらめたのである。
もっとも、若い時には男女とも、臍(へそ)から下には人格がない---ということも、苦労人らしく、心得ていた。

「お前さんは、武家方のお子だ。人のもちものを盗(と)っちゃあいけねえ。盗人のおれが、こんなことをいうのはおかしいようなものだが、お前さんだからいうのさ。人のもちものでも、金ならまだゆるせる。だがねえ、女はいけませんよ」(文庫巻6)[狐火]p160 新装版p168

銕三郎は一言もなかった。
勇五郎は、おを上方へ連れ去った。

それから2年後---明和5年(1768)の初夏、銕三郎は、再会した〔狐火〕から

「おが、可愛い女の子を生んでくれてねえ」(文庫巻6〔狐火〕p160 新装版p169)

相好をくずした言葉を聞いて、また、首をすくめたものだった。

物語の[狐火]は、寛政3年(1791)の夏---平蔵が火盗改メのお頭となって5年目、46歳の時だから、明和3年からすでに25年の歳月を経ている。
勇五郎は4年前に歿した。
享年は68。もちろん、畳の上での大往生。
は、勇五郎より6年早く、2人目のむすめ・お(ひさ 6歳=当時)をのこして歿している。享年34。

つぎの事件は、長谷川本家の大伯父・太郎兵衛正直(まさなお 57歳)が、この年の6月18日に火盗改メ本役をめでたく免じられたこと。
出費の多い火盗改メを1年もつづけると、先祖からの蓄えをほとんど費消しつくすといわれている。「費消しつくす」かは大げさとしても、私財が大幅に減ることはまちがいない。
太郎兵衛正直がお頭だから、銕三郎を助手としてあつかってくれ、なにくれと手当てもはずんでくれた。

しかし、この先は、探索が好きなら、費(ついえ)えは自分もちということになる。
銕三郎は、思案に暮れた。
が、それよりも、大伯父の在任中に銕三郎が立てた手柄を記しておかないと、無駄金をもらっていたことになってしまう。

銕三郎が、〔盗人酒屋〕の〔(たずがね)〕の忠助(ちゅうすけ)や、そのお頭だった足利に本拠をおく〔法楽寺(ほうらくじ)〕の直右衛門(なおえもん)一味のこと、さらには、〔狐火〕の勇五郎一味のことも、大伯父に告げなかったことは、すでに記した。

では、銕三郎が立てた手柄とは?

その前に、ご存じのファンも多いとおもうが、『鬼平犯科帳』の盗賊の「通り名(呼び名とも)」の出所について触れたい。

_120じつは、盗賊たちの「通り名」が、長谷川平蔵と同時代にいた絵師・鳥山燕石の絵筆になる『画図百鬼夜行』からも採られているのではないか---と気づいたのは、『剣客商売』文庫巻2[妖怪・小雨坊]の数行を読んだ時である。

「これはおもしろい」
買いもとめてきた絵本があった。
〔画図・百鬼夜行(ひゃっきやぎょう)〕と題したもので、出版元は元飯田町中坂の遠州屋弥七。絵師は鳥山石燕である。

だいたい、物語の篇名[妖怪・小雨坊(こさめぼう)]からして、『画図百鬼夜行』に描かれている百鬼の一匹なのである。
かつて講じていた[鬼平熱愛倶楽部]のメンバーの一人---I・Sさんからも、〔野槌(のづち)〕の弥平(文庫巻1[唖の十蔵]に登場)の〔野槌〕もその本に描かれていると指摘をいただいた。

で、図書館で全図復元の『画図百鬼夜行』(国書刊行会 1992.12.21)を借りてきて調べたら、なんと15人の「通り名」が借りられていた。
50音順に並べてみる。

〔青坊主(あおぼうず〕の弥市 [2-5 密偵]
〔網切(あみきり)〕の甚五郎 [5-5 兇賊]ほか
〔犬神(いぬがみ)〕の権三   [10-1 犬神の権三]
〔鎌鼬(かまいたち)〕の七兵衛 [24-1 女密偵女賊] 
〔川獺(かわうそ)〕の又平衛 [2-6 お雪の乳房]
〔火前坊(かぜんぼう)〕の権七 [1-5 老盗の夢]
〔狐火(きつねび)〕の勇五郎 [6-4 狐火]
〔蛇骨(〔じゃこつ)〕の半九郎 [10-6 消えた男]
〔土蜘蛛(つちぐも)〕の金五郎 [11-2土蜘蛛の金五郎]
〔野槌(のづち)〕の弥平   [1-1 唖の十蔵]
〔墓火(はかび)〕の秀五郎 [2-2 谷中・いろは茶屋]
〔火間虫(ひまむし)〕の虎次郎[14-3殿さま栄五郎]
〔蓑火(みのひ)〕の喜之助] [1-5 老盗の夢]
〔狢(むじな)〕の豊蔵    [16-5 見張りの見張り]
〔轆轤首(ろくろくび)〕の藤七 [14-6 さむらい松五郎]
推奨】呼び名の(ひらがな)がオレンジ色になっている盗賊は、(ひらがな)をクリックで銘々伝へリンクします。
        
もっとも子弟(?)の多い〔蓑火(みのひ)〕のお頭までが、そうだったのには、池波さんのなみなみでない言葉の感覚に驚嘆したものである。

_200ついでにもう一人つけ加える。というのは、『画図百鬼夜行』には漢字---幽谷響に、ふりがなが「やまびこ」とついていたことを、今回の再調査で発見したので。

〔山彦〕の徳次郎 [4-6 おみね徳次郎]
参照】〔山彦(やまびこ)〕の徳次郎

お断りも。
このプログで、『画図百鬼夜行』に〔窮奇〕とあったので、これは『鬼平犯科帳』で見た記憶がないと早合点して、〔窮奇(かまいたち)〕の弥兵衛という盗賊を新しく登場させたが、池波さんはちゃんと、〔鎌鼬〕の字をあてて文庫巻24[女密偵女賊]に命名ずみであった。

参照】〔窮奇(かまいたち)〕の弥兵衛

そうそう、400名からいる『鬼平犯科帳』の「通り名」を冠された盗賊のうち、16名は『画図百鬼夜行』によるもので、あとの360名は、明治後半に吉田東伍博士が独力で編んだ『大日本地名辞典』(冨山房)からとられている。

さて、本題。

鎌鼬〕と重複していた〔窮奇(かまいたち)〕の弥兵衛の「通り名」を変えようと、2年ぶりに図書館から『画図百鬼夜行』を借り出して、適当な名を探したら、池波さんが使っていなかった84の妖怪名のうち、盗賊にふさわしいのが一匹ものこされていなかったのには、唖然とした。

しいてあげると、

〔見越(みこし)〕---無髪で、身の丈(たけ)が高く、背後から頭越しに人の顔をのぞくという化け物。

〔枕反(まくらがえし)---寝ている者の枕を逆にするいたずらお化け。盗みに入って、主人の枕を蹴って起こし、金庫蔵へ案内させる盗賊がいてもいいかなあと。しかし、いちいち、ふりがなをつけないと、「反」を「かえし」とは読みにくい。

ということで、〔窮奇〕の弥兵衛はそのままの名で、銕三郎に捕まるストーリィを、次回に紹介しよう。

参照】[明和3年(1766)の銕三郎] (2) (3) (4) (5) (6)

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2008.03.08

明和2年(1765)の銕三郎(その5)

徳川の正史ともいうべき『徳川実紀』の明和2(1765)年4月11日の項に、こう記されている。

小十人頭長谷川平蔵宣雄。西城徒頭浅井小右衛門元武は先手頭となり。書物奉行深見新兵衛は西城裏門番の頭となり、小納戸中野監物清方は小十人頭となる。

長谷川宣雄(のぶお 47歳)は、弓の8番手。
浅井元武(もとたけ 56歳 540石余)は、鉄砲(つつ)の21番手---というより、西丸の4組の中の1番手といったほうがあたっている。西丸の4組の先手はすべて鉄砲組である。

平蔵宣雄が数日前に、先手頭への昇進の予告を受けたのは、8番手の前任の組頭・本多讃岐守昌忠(まさただ 53歳 500石)が旬日前に小普請奉行へ栄転していたからである。

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(先手弓の14番手組頭 本多讃岐守と長谷川宣雄)

ちゅうすけ注】本多讃岐守昌忠については、2008年2月12日[本多采女紀品](4)を参照。

長谷川家では、その夜、赤飯で祝った。それだけの価値はあった。
小十人頭の役高は1000石、先手の組頭のそれは1500石。家禄の400石を越える増収だからである。

ちゅうすけ注】家禄1石は、年収1両にあたると見ておけばいい。役高1500石は、それがまるまる貰えるわけではなく、宣雄の場合は、1500石からか家禄400石を差し引いた差額の1100石の足高(たしだか)を支給される。知行の1石は廩米1俵に相当するから足高は、玄米で1100俵がくだされるとみておいてよかろうか。
1俵も1両とみなす。
1両は、2008年3月8日現在の諸物価の状態で、10万円とみなすのが素直である。

つまり、宣雄は、小十人頭(役高1000石)から先手組頭(同1500石)へ栄進して、年収が500両ふえたのと同じである。
しかも、先手組頭は、俗に「番方のじじいの捨てどころ」といわれるように、下手をしても、ほとんど一生の役職である。

長谷川家が用意したのは、赤飯だけではなかった。酒肴も整えた。
祝い客を応接するためである。

真っ先にあらわれたのは、宣雄がきのうまで任じられていた小十人・5番手の組衆20人を代表して祝いの鰹節3本を持参した、与頭(くみがしら)・幸田善太郎精義(まさよし 46歳。廩米150俵)であった。幸田は、式台から上へは上がらないで、早々に引きあげた。

ちゅうすけ注】幸田善太郎については、2007年12月6日[多加の嫁入り](4) 同12月7日 (5)

居間まで案内されて、「めでたい、めでたい」といいながら、腰をおちつけたのは、本家の太郎兵衛正直(まさなお 56歳 1450石余)であった。
正直とすれば、明日からの上(うえ)つかたがたへのお礼参りの人選と作法を教えるつもりなのである。
大きな声で銕三郎(てつさぶろう 20歳 のちの小説の鬼平)を呼びつけた。
よ。この分家から初めての先手組頭の誕生だ。の時代まで、この幸運を引き継がねばならぬ。ここへいて先手のお頭に任じられたときの作法を、覚えておくように---」

そういう、本家だって、七代目当主・太郎兵衛の一昨年夏の弓・7番手組頭が、初めての先手組頭昇進であったのだが---。

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2008.03.07

明和2年(1765)の銕三郎(その4)

「下谷(したや)新黒門町、庄平店(だな) 無職・勝次
高井同心が読みあげる。
白洲に引きすえられている勝次が、「へえ」と頭をさげる。
火盗改メ・役宅の白洲は、幅1間半(2m70cm)、奥行き2間半(4m50cm)と小さい。5人も並ぶとはみ出そうなほど。

「同じく新黒門町 新助店 講釈師・貞鵬(ていほう)こと貞五郎
「へい」

あと、3人の附紙賭博の犯人の名が確認された。

当番与力・徳田力兵衛(りきべえ 43歳)が訊問にとりかかる。
勝次。その方、屋標(やひょう)附紙(つけがみ)賭博(とぱく)を思いつき、糸問屋30店から屋標(店紋)の掲出料を強要したに相違ないな」

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(糸問屋屋標 左・さかえや 右・朝鮮屋『江戸買物独案内』1824刊)

勝次(かつじ 30歳)は不敵ともいえる目つきで徳田与力を見返し、
「お役人さまへ申しあげます。ただいま、掲出料を強要と申されましたが、強要などをしたおぽえはございません。
『江戸でいま評判の糸屋---』の仲間入りができるということで、先方からすすんで掲出を申しこんでまいりました。お武家さまはご存じないでしょうが、われら下(しも)つかたでは、これを商取引と申しております」
いささか、腹をたてた徳田与力が、声をやや荒立て気味に、
「これ、勝次。掲出料をあつめたことを咎めてはおらぬ。余計な講釈をするな。以後は、問いかけたことのみに返答いたせ」
「それは、お役人さまの強弁と申すものでございましょう。先刻、あなたさまは、『掲出料を強要したに相違ないな』とお問いかけになりましたから、そうはしていないとお返事しただけでございます」
「その言い分が、余計だと言っておるのだ。さらに言い立てるのであれば、拷問部屋で再吟味いたすぞ」
「へい、恐れいりましてございます」
勝次は一向に恐れ入ったふうではない。場馴れしているのである。

座敷の中央から白洲を見下ろしていた火盗改メ・組頭の長谷川太郎兵衛正直(まさなお 56歳 1450石余が、おもむろに訊いた。
「勝次とやら。30もの屋標の版木を彫らせるのはたいへんであったろう。彫師(ほりし)はどこのなんと申す職人かの?」
「は---?」
「いや。附紙の版木を彫った彫師の名をきいておる」
「お頭(かしら)さまにお伺いたします。彫師も罪になるのでございますか?」
「なに、そうは申しておらぬ。あれだけの屋標を寸分間違いなく彫るのは、さぞかし、苦労であったろうとおもい、名を訊いてみただけじゃ」
「浅草田町2丁目の裏店(うらだな)の宇吉(うきち)でございます」
「彫り賃は、いくら払ったかの?」
「3分(1両=10万円換算の4分の3=約7万5000円)でした」
「何日かかったかの?」
「なぜに、そのような---」
「さきほど、そのほうが、武家は下つかたに通じておらぬと申したゆえ、下つかたのくさぐさを学んでおるのじゃ」
「さすがは、お頭さまでございます」

「それで、ものはついでじゃが、その彫師・宇吉は、附紙を何枚もとめたかの?」
「買うはずはありません」
「ほう、なぜじゃ?」
「本あたりなどを引きあてることなど、水に映った月をすくうよりもむつかしいことを知っておりますゆえ、です」
「本あたりがでない---ことをか?」
「あッ!」
徳田与力。この者の罪状に、詐欺(かたり)が加わわらないか、再吟味いたせ」

居間へ戻って裃(かみしも)を脱いでいる太郎兵衛正直へ、銕三郎(てつさぶろう 20歳)が感に堪えた面もちで言った。
「大伯父上さま。誘い水の技(わざ)、学ばせていただきました。かたじけのうございました」
「彫師で引っかからなかったら、刷師、売り弘め人と、罠(わな)を仕かけてみるのつもりであったのじゃが---」

  

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2008.03.06

明和2年(1765)の銕三郎(その3)

太郎兵衛大伯父上さま。わざわざのお誘い、ありがとうございました」
銕三郎(てつさぶろう 20歳)は、奥の書院で、判決申しわたしのために裃(かみしも)をつけている、伯父・長谷川太郎兵衛正直(まさなお 53歳 先手・弓の7番手組頭 火盗改メ・本役)へ挨拶した。

「おう。、来たか。きょうは、しっかりと見届けるように、な」
「はい。しかし、大伯父さま。火盗改メというから、盗賊と火付けの監察が任務と思っておりました。きょうの裁きは、屋標(やひょう)附紙(つけがみ)賭博(とばく)とか---」
「そうだが、それがなにか?」
「博徒の監察も、火盗改メの役目ですか?」

「むしろ、泥棒を捕まえるより、賭博者、それに場所を貸した者を裁くほうが多いな」
「賭博は、町方(町奉行所)の所轄(しょかつ)と思っておりました」
「いや、早い時期---そうだな、天和(てんな 1681~83)・貞享(1684~87)のころから賭博の取り締まりは火盗改メの仕事となった。お上では、賭博は泥棒の始まり---と観じているようでな」

歴代の火盗改メの長官(かしら)にも、賭博の取り締まりには疑問をもっていた人もいて、夜の巡行のとき、ある家の2階でお金が動いている音がしているのを聞きつけて、その家へ入り、「銭勘定も大切だが、その音で近隣が迷惑する。銭勘定は昼間になるように---」と注意しただけですました仁もいたらしい。

「しかしな、銕。見よ、奴たちの悪賢さを---」
そう言って、太郎兵衛正直は、一枚の紙---屋標附紙を銕三郎に示した。

それには、「江戸でいま評判の糸屋選び」と題して、屋標(商標)と町名、それに屋号が30ほど刷られていた。

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(糸屋屋標附紙に載っている屋標(マーク)の一部)

「役者紋附賭博は、役者の紋に棒線をつけるだけだ。ところが、この屋標附紙は、お披露目(ひろめ 広告)を兼ねておる。『江戸でいま評判の糸屋』に入るために、それぞれの糸屋は、いくらのお披露目料を出しているとおもうかね?」
「1店舗、2朱(8分の1両=約10万円として、1万2500円)あたりですか?」
「なかなか---」
「1分(ぶ =2万5000円)?」
「いやいや---その4倍」
「えっ! 1両も---」
「30の屋標がならんでいる」
「さ---30両ッ(=300万円)!」
「これ。はしたない声をだすでない。だから、この一味は悪賢いといっているのじゃ」

江戸も中期、安永(17672~80)ともなると、商業が一段と栄えていた。本町(ほんちょう)や大伝馬町、京橋あたりの表店(おもてだな)ともなれば、体面のためにも、1両のお披露目料を惜しんではいられない。
賭け屋は、そこに目をつけた。

「糸屋のこれを見逃すと、つぎは太物屋(ふとものや 木綿地の着物店)、売薬屋、菓子屋---とやられる」
「それで、屋標附紙賭博の賞金はいかほどなのでございますか?」
「本あたり10両(約100万円)。花あたりといって一つでもひっかかっていたら附紙代の購入代金の10文を返す」
「籤(くじ)の附紙は何枚刷っているのですか?」
「糸屋の場合は、1000枚だと」
「1枚10文で、売り上げ1万文=2両2分。なのに、本あたり10両とは豪儀だ」
「ほかの籤とは比べものにならない本あたりの賞金だから、人気もいちだんと湧いたのだよ。お披露目料あつめの意味が分かったか、?」

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2008.03.05

明和2年(1765)の銕三郎(その2)

「お白洲でお裁きがありますから、お立会いくだされ、と殿からの伝言でございます」
長谷川の本家---一番町新道の屋敷を火盗改メ・本役の役宅としてしている、大伯父・太郎兵衛正直(まさなお)のところの下僕が、使いに来て、そう言った。

「ほう。なんという名の盗賊一味かな?」
銕三郎(てつさぶろう)。
「申しわけございません。そのことは伺っておりませぬ。ただ、申しつかったのは、お越しくださいとのことだけでして---」
「承知いたしました、と火盗改メ・ご本役どのへお伝えを---」

指定された時刻の小半刻(30分)も前に到着すると、同心部屋へあてられている中玄関横に、顔見知りの高井半蔵が居合わせたので、
「なんという名の盗賊一味ですかな?」
同じ問いかけをしてみた。
「盗賊?」
「いや、火付けでしたか?」
「そんな大物ではございません。屋標(やひょう)附紙(つけがみ)賭博(とばく)の犯人ですよ」
「何です? 屋なんとやら賭博というのは---」
「屋標附紙賭博」
「そう、その屋標附紙賭博というのは?」
銕三郎どのは、先ごろ禁令が出された、役者紋附紙賭博はご存じでご存じでしょう?」
「存じませぬ」

歌舞伎役者の紋どころを20ばかり印刷した紙の両端に、爪楊枝の半分くらいの長さの小片を1本ずつ貼りつけておいたものを、4文とか5文で売り出し、買った者は、小片をこれと推量した役者紋の上に貼りなおして会所(売り場)へ届けておく。
受け取った書役(しょやく)は、その紙に所・氏名を書きこんで、開票の日まで保管する。
正解は、勧進元(胴元)が秘匿しており、開票日に、会所に公示、正解者には1貫文(1000文=約1万2500円)---ただし、正解者が複数のばあいは、1貫文をその人数で割って渡すという賭博である。
これだと、字の書けない者、読めない者でも賭けられるから、盛んに行われた。
たびたび、禁止令もでた。

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(役者紋の一例 畏友・大枝史郎さん『家紋の文化史』講談社より)

屋標附紙賭博は、その役者紋附紙賭博をもじった、新手(あらて)の附紙だという。
高井さま。もうすこし詳しくお教え願いませぬか?」
「白洲にお立会いになれば、たちまち、お分かりになりますよ。それまでのお楽しみということに---」

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2008.03.04

明和2年(1765)の銕三郎(てつさぶろう)

明和2年(1765)、銕三郎(てつさぶろう)宣以(のぶため)は20歳であった。

昨年(1764)末、長谷川家は、南本所・三之橋通りの1236坪の敷地に、引っ越した---といっても、新築ではない。
その前に住んでいた、鉄砲洲・湊町の家を解体・運搬・組み立てたのである。
だから、敷地がほとんど3倍になったといっても、とりあえずの間取りは前の家と同じであった。
裏庭が広くなった分、実母・(たえ 38歳)と養女・与詩(8歳)が喜んだだけであった。

は、太作(たさく 65歳)などの下僕を指揮して、畑作に精を出しはじめた。
もともと、長谷川家の知行地、上総(かずさ)国千葉県)武射郡(むしゃこうり)寺崎村の育ちだけに、空地をみると畑作にしたがる気味があった。
与詩は、遊び場が広くなった分、いろんな遊びを考えだしては、日がな、遊んでいる。
そろそろ、手習い所へ通わそうと宣雄(のぶお 47歳)が言っても、一日のばしにしている。
あまりきつく言うと、お寝しょが再発するおそれがあるので、いまのところは放任されている。

『鬼平犯科帳』では、このころ、銕三郎は、継母・波津(はつ)とのおりあいが悪く、入江町の家を出て、放蕩のかぎりをつくしていたことになっている。
しかし、史実では、波津銕三郎が5歳の時に歿している。化けてでも出てこないかぎり、継子(ままこ)いじめのしよがない。
まあ、小説と史実の違いは、読み手がいってみてもはじまらない。
小説のままのほううがいいとおもう人は、そう思って、こっちを作りごとと観じながらおつきあいいただきたい。

銕三郎は、放蕩のやりようがなかった。
というのは、本家の長谷川太郎兵衛正直(まさなお 56歳 先手・弓の7番手組頭 1450石余)が、4月1日に火盗改メ・本役を命じられたのである。

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(『柳営補任』先手・弓の7番手組頭の一部)

正直の火盗改メは再任だが、前回の宝暦13年(1763)10月3日から足かけ7ヶ月間勤めたのは、助役であった。
このたびは、本役である。

太郎兵衛正直は、本家の威厳で、分家の宣雄とその継嗣・銕三郎を、一番町新道の火盗改メの役宅でもある屋敷へ呼びつけた。

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(長谷川本家・太郎兵衛正直の一番町新道の屋敷)

「どうであろうか、(のぶ 身内での宣雄の愛称)どの。(てつ)めを貸してはくれまいか?」
じつは、先年に助役を命じられた時にも、太郎兵衛は同じことを宣雄に打診し、断られている。
学問と武芸が未熟なので---というのが、断りの理由だった。

しかし、今回の太郎兵衛は、本役拝命である。少なくとも1年は勤めなければならない。
「武芸の鍛錬にさしさわりのない程度であれば、ほかならぬ本家のことですから---」
宣雄が承知したのである。
銕三郎は、内心、してやったり---と舌をだしていた。
じつは、銕三郎のほうから、大伯父の正直へ、父に内緒で申し出ていたのである。

しかし、正直宣雄も、翌日、城中で、先手・弓の8番手組頭の内示があるとは、予想もしていなかった。

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2008.02.22

銕三郎(てつさぶろう) 初手柄(4)

_120_3幕府が大名屋敷や幕臣に通達している辻番所についての注意事項を見ると、昼夜ともに表戸を開けておくようにとのきまりのほかに、番人は4人から6人を詰めさせておくこととか、不寝番をかならず立てろとか、番人は60歳以下20歳以上の男性であることとか、番所に女や病人を入れてはならないとか、いろいろと細かく定めている。
現代の交番に近いのではなかろうか。(もっとも、犯罪人が警官に採用されることはないだろうが---)

銕三郎(てつさぶろう 18歳 家督後の平蔵宣以 のぶため)は、舟蔵の南端向いの辻番所で見かけた不審な番人のことを、こちらの行動がもうその男からは見えなくなったとおもわれる一ッ目の橋の南詰まで来てから、本多采女(うねめ)紀品(のりただ 49歳 火盗改メ助役 すけやく)へ話した。
「お頭(かしら)」
それまでの「本多さま」から、組下の者のように呼びかけた。気分が高揚してきたのだ。

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(本多組の巡視順路 南本所 池波さん愛用の近江屋板)

「今夕、お屋敷でお話しした、江ノ島の旅籠で見かけた不審な男によく似た者が、先刻の辻番所にいました」
「表戸を開けた辻番人のことかな?」
「左様です」
「ふむ」
「生憎と、顔が陰になっていたので、しかとは確かめられませんでしたが---」
「名はなんといいましたかな?」
弥兵衛と---本名かどうかは定かではありませんが、あの時は、そう、名乗りました」

弥兵衛---とな」
それきり、本多紀品は口をきかなかった。
大手柄を立てたと勢いこんでいた銕三郎は、ちょっとがっかりであった。

【参考】舟蔵の東に沿ったこの道は、『鬼平犯科帳』文庫巻7[寒月六間堀]で、市口瀬兵衛の息子の敵(かたき)の山下藤九郎の駕籠が、御蔵前片町の料亭から一ッ目の橋を渡って籾蔵(もみぐら)の横道へ行った路筋である。

夜風がまだ冷たい両国橋を渡ると、
銕三郎どの。ご大儀でした。加藤同心に、お屋敷まで送らせます。羽織は、それまで着ていたほうが、辻番所や自身番所を通りやすいでしょう。加藤、頼んだぞ」
そういうと、さっさと一統を従えて西へ去った。

銕三郎は馬を下りて、同心・加藤半之丞と並んで歩きながら、弥兵衛に似た男のことを話してみた。
30代なかばとおもえる加藤同心は、えらのはった顔で、いちいちうなずきながら聞いてくれたが、
「お頭がすべてご存じなのですから、このあとのことは、お頭にまかせて、お忘れになることですな」
と、あっさり、かわされた。

2日後、下城してきた父・宣雄が、弥兵衛の件、本多どのの組の方々がお調べになったが、あの者は弥兵衛ではなく、ほかの辻番人の者たちの中にも疑わしい者はいなかった---と話した。

銕三郎は、その夜は大いにがっかりで、はやばやと寝についた。

事実は、そうではなかったのである。
あの者は、銕三郎が不審と思ったとおり、武蔵国多摩郡八王子在の鑓水(やりみず)村生まれの盗賊・〔窮奇(かまいたち)〕の弥兵衛で、あの辻番所に3人の配下ともぐりこんでいたのである。

【参考】〔窮奇(かまいたち)〕の弥兵衛との出会いは[与詩(よし)を迎えに](39)

辻番人の昼夜の務めはきついので、なり手が少ない。そこが賊たちのつけ目となっていた。

真相を告げなかったのは、ただでさえ捕り物に素質がありそうな銕三郎が、これに味をしめて、一層、このことにのめりこんでは、前途のある身を誤ると、本多紀品も父・宣雄も考えた末でのことであった。
火盗改メは、番方(ばんかた 武官系)の幕臣が一時的に任命される職務ではあるとしても、町方与力・同心のように一代かぎりが原則の身分のものがやる仕事に近いから、それを本業にしてはいけないし、仲間たちからも高くは評価されない---というのが、父親たちの結論であった。
銕三郎は、そのことは知らない。 

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2008.02.21

銕三郎(てつさぶろう) 初手柄(3)

万年橋の南詰の右手に、霊雲院という曹洞宗の名刹がある。将軍・吉宗による開基を得たという。。
『鬼平犯科帳』巻15長編[雲竜剣]で、この寺の前あたりで、うなぎ売りの屋台を出し