カテゴリー「001長谷川平蔵 」の記事

2008.03.08

明和2年(1765)の銕三郎(その5)

徳川の正史ともいうべき『徳川実紀』の明和2(1765)年4月11日の項に、こう記されている。

小十人頭長谷川平蔵宣雄。西城徒頭浅井小右衛門元武は先手頭となり。書物奉行深見新兵衛は西城裏門番の頭となり、小納戸中野監物清方は小十人頭となる。

長谷川宣雄(のぶお 47歳)は、弓の8番手。
浅井元武(もとたけ 56歳 540石余)は、鉄砲(つつ)の21番手---というより、西丸の4組の中の1番手といったほうがあたっている。西丸の4組の先手はすべて鉄砲組である。

平蔵宣雄が数日前に、先手頭への昇進の予告を受けたのは、8番手の前任の組頭・本多讃岐守昌忠(まさただ 53歳 500石)が旬日前に小普請奉行へ栄転していたからである。

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(先手弓の14番手組頭 本多讃岐守と長谷川宣雄)

ちゅうすけ注】本多讃岐守昌忠については、2008年2月12日[本多采女紀品](4)を参照。

長谷川家では、その夜、赤飯で祝った。それだけの価値はあった。
小十人頭の役高は1000石、先手の組頭のそれは1500石。家禄の400石を越える増収だからである。

ちゅうすけ注】家禄1石は、年収1両にあたると見ておけばいい。役高1500石は、それがまるまる貰えるわけではなく、宣雄の場合は、1500石からか家禄400石を差し引いた差額の1100石の足高(たしだか)を支給される。知行の1石は廩米1俵に相当するから足高は、玄米で1100俵がくだされるとみておいてよかろうか。
1俵も1両とみなす。
1両は、2008年3月8日現在の諸物価の状態で、10万円とみなすのが素直である。

つまり、宣雄は、小十人頭(役高1000石)から先手組頭(同1500石)へ栄進して、年収が500両ふえたのと同じである。
しかも、先手組頭は、俗に「番方のじじいの捨てどころ」といわれるように、下手をしても、ほとんど一生の役職である。

長谷川家が用意したのは、赤飯だけではなかった。酒肴も整えた。
祝い客を応接するためである。

真っ先にあらわれたのは、宣雄がきのうまで任じられていた小十人・5番手の組衆20人を代表して祝いの鰹節3本を持参した、与頭(くみがしら)・幸田善太郎精義(まさよし 46歳。廩米150俵)であった。幸田は、式台から上へは上がらないで、早々に引きあげた。

ちゅうすけ注】幸田善太郎については、2007年12月6日[多加の嫁入り](4) 同12月7日 (5)

居間まで案内されて、「めでたい、めでたい」といいながら、腰をおちつけたのは、本家の太郎兵衛正直(まさなお 56歳 1450石余)であった。
正直とすれば、明日からの上(うえ)つかたがたへのお礼参りの人選と作法を教えるつもりなのである。
大きな声で銕三郎(てつさぶろう 20歳 のちの小説の鬼平)を呼びつけた。
よ。この分家から初めての先手組頭の誕生だ。の時代まで、この幸運を引き継がねばならぬ。ここへいて先手のお頭に任じられたときの作法を、覚えておくように---」

そういう、本家だって、七代目当主・太郎兵衛の一昨年夏の弓・7番手組頭が、初めての先手組頭昇進であったのだが---。

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2008.03.07

明和2年(1765)の銕三郎(その4)

「下谷(したや)新黒門町、庄平店(だな) 無職・勝次
高井同心が読みあげる。
白洲に引きすえられている勝次が、「へえ」と頭をさげる。
火盗改メ・役宅の白洲は、幅1間半(2m70cm)、奥行き2間半(4m50cm)と小さい。5人も並ぶとはみ出そうなほど。

「同じく新黒門町 新助店 講釈師・貞鵬(ていほう)こと貞五郎
「へい」

あと、3人の附紙賭博の犯人の名が確認された。

当番与力・徳田力兵衛(りきべえ 43歳)が訊問にとりかかる。
勝次。その方、屋標(やひょう)附紙(つけがみ)賭博(とぱく)を思いつき、糸問屋30店から屋標(店紋)の掲出料を強要したに相違ないな」

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(糸問屋屋標 左・さかえや 右・朝鮮屋『江戸買物独案内』1824刊)

勝次(かつじ 30歳)は不敵ともいえる目つきで徳田与力を見返し、
「お役人さまへ申しあげます。ただいま、掲出料を強要と申されましたが、強要などをしたおぽえはございません。
『江戸でいま評判の糸屋---』の仲間入りができるということで、先方からすすんで掲出を申しこんでまいりました。お武家さまはご存じないでしょうが、われら下(しも)つかたでは、これを商取引と申しております」
いささか、腹をたてた徳田与力が、声をやや荒立て気味に、
「これ、勝次。掲出料をあつめたことを咎めてはおらぬ。余計な講釈をするな。以後は、問いかけたことのみに返答いたせ」
「それは、お役人さまの強弁と申すものでございましょう。先刻、あなたさまは、『掲出料を強要したに相違ないな』とお問いかけになりましたから、そうはしていないとお返事しただけでございます」
「その言い分が、余計だと言っておるのだ。さらに言い立てるのであれば、拷問部屋で再吟味いたすぞ」
「へい、恐れいりましてございます」
勝次は一向に恐れ入ったふうではない。場馴れしているのである。

座敷の中央から白洲を見下ろしていた火盗改メ・組頭の長谷川太郎兵衛正直(まさなお 56歳 1450石余が、おもむろに訊いた。
「勝次とやら。30もの屋標の版木を彫らせるのはたいへんであったろう。彫師(ほりし)はどこのなんと申す職人かの?」
「は---?」
「いや。附紙の版木を彫った彫師の名をきいておる」
「お頭(かしら)さまにお伺いたします。彫師も罪になるのでございますか?」
「なに、そうは申しておらぬ。あれだけの屋標を寸分間違いなく彫るのは、さぞかし、苦労であったろうとおもい、名を訊いてみただけじゃ」
「浅草田町2丁目の裏店(うらだな)の宇吉(うきち)でございます」
「彫り賃は、いくら払ったかの?」
「3分(1両=10万円換算の4分の3=約7万5000円)でした」
「何日かかったかの?」
「なぜに、そのような---」
「さきほど、そのほうが、武家は下つかたに通じておらぬと申したゆえ、下つかたのくさぐさを学んでおるのじゃ」
「さすがは、お頭さまでございます」

「それで、ものはついでじゃが、その彫師・宇吉は、附紙を何枚もとめたかの?」
「買うはずはありません」
「ほう、なぜじゃ?」
「本あたりなどを引きあてることなど、水に映った月をすくうよりもむつかしいことを知っておりますゆえ、です」
「本あたりがでない---ことをか?」
「あッ!」
徳田与力。この者の罪状に、詐欺(かたり)が加わわらないか、再吟味いたせ」

居間へ戻って裃(かみしも)を脱いでいる太郎兵衛正直へ、銕三郎(てつさぶろう 20歳)が感に堪えた面もちで言った。
「大伯父上さま。誘い水の技(わざ)、学ばせていただきました。かたじけのうございました」
「彫師で引っかからなかったら、刷師、売り弘め人と、罠(わな)を仕かけてみるのつもりであったのじゃが---」

  

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2008.03.06

明和2年(1765)の銕三郎(その3)

太郎兵衛大伯父上さま。わざわざのお誘い、ありがとうございました」
銕三郎(てつさぶろう 20歳)は、奥の書院で、判決申しわたしのために裃(かみしも)をつけている、伯父・長谷川太郎兵衛正直(まさなお 53歳 先手・弓の7番手組頭 火盗改メ・本役)へ挨拶した。

「おう。、来たか。きょうは、しっかりと見届けるように、な」
「はい。しかし、大伯父さま。火盗改メというから、盗賊と火付けの監察が任務と思っておりました。きょうの裁きは、屋標(やひょう)附紙(つけがみ)賭博(とばく)とか---」
「そうだが、それがなにか?」
「博徒の監察も、火盗改メの役目ですか?」

「むしろ、泥棒を捕まえるより、賭博者、それに場所を貸した者を裁くほうが多いな」
「賭博は、町方(町奉行所)の所轄(しょかつ)と思っておりました」
「いや、早い時期---そうだな、天和(てんな 1681~83)・貞享(1684~87)のころから賭博の取り締まりは火盗改メの仕事となった。お上では、賭博は泥棒の始まり---と観じているようでな」

歴代の火盗改メの長官(かしら)にも、賭博の取り締まりには疑問をもっていた人もいて、夜の巡行のとき、ある家の2階でお金が動いている音がしているのを聞きつけて、その家へ入り、「銭勘定も大切だが、その音で近隣が迷惑する。銭勘定は昼間になるように---」と注意しただけですました仁もいたらしい。

「しかしな、銕。見よ、奴たちの悪賢さを---」
そう言って、太郎兵衛正直は、一枚の紙---屋標附紙を銕三郎に示した。

それには、「江戸でいま評判の糸屋選び」と題して、屋標(商標)と町名、それに屋号が30ほど刷られていた。

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(糸屋屋標附紙に載っている屋標(マーク)の一部)

「役者紋附賭博は、役者の紋に棒線をつけるだけだ。ところが、この屋標附紙は、お披露目(ひろめ 広告)を兼ねておる。『江戸でいま評判の糸屋』に入るために、それぞれの糸屋は、いくらのお披露目料を出しているとおもうかね?」
「1店舗、2朱(8分の1両=約10万円として、1万2500円)あたりですか?」
「なかなか---」
「1分(ぶ =2万5000円)?」
「いやいや---その4倍」
「えっ! 1両も---」
「30の屋標がならんでいる」
「さ---30両ッ(=300万円)!」
「これ。はしたない声をだすでない。だから、この一味は悪賢いといっているのじゃ」

江戸も中期、安永(17672~80)ともなると、商業が一段と栄えていた。本町(ほんちょう)や大伝馬町、京橋あたりの表店(おもてだな)ともなれば、体面のためにも、1両のお披露目料を惜しんではいられない。
賭け屋は、そこに目をつけた。

「糸屋のこれを見逃すと、つぎは太物屋(ふとものや 木綿地の着物店)、売薬屋、菓子屋---とやられる」
「それで、屋標附紙賭博の賞金はいかほどなのでございますか?」
「本あたり10両(約100万円)。花あたりといって一つでもひっかかっていたら附紙代の購入代金の10文を返す」
「籤(くじ)の附紙は何枚刷っているのですか?」
「糸屋の場合は、1000枚だと」
「1枚10文で、売り上げ1万文=2両2分。なのに、本あたり10両とは豪儀だ」
「ほかの籤とは比べものにならない本あたりの賞金だから、人気もいちだんと湧いたのだよ。お披露目料あつめの意味が分かったか、?」

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2008.03.05

明和2年(1765)の銕三郎(その2)

「お白洲でお裁きがありますから、お立会いくだされ、と殿からの伝言でございます」
長谷川の本家---一番町新道の屋敷を火盗改メ・本役の役宅としてしている、大伯父・太郎兵衛正直(まさなお)のところの下僕が、使いに来て、そう言った。

「ほう。なんという名の盗賊一味かな?」
銕三郎(てつさぶろう)。
「申しわけございません。そのことは伺っておりませぬ。ただ、申しつかったのは、お越しくださいとのことだけでして---」
「承知いたしました、と火盗改メ・ご本役どのへお伝えを---」

指定された時刻の小半刻(30分)も前に到着すると、同心部屋へあてられている中玄関横に、顔見知りの高井半蔵が居合わせたので、
「なんという名の盗賊一味ですかな?」
同じ問いかけをしてみた。
「盗賊?」
「いや、火付けでしたか?」
「そんな大物ではございません。屋標(やひょう)附紙(つけがみ)賭博(とばく)の犯人ですよ」
「何です? 屋なんとやら賭博というのは---」
「屋標附紙賭博」
「そう、その屋標附紙賭博というのは?」
銕三郎どのは、先ごろ禁令が出された、役者紋附紙賭博はご存じでご存じでしょう?」
「存じませぬ」

歌舞伎役者の紋どころを20ばかり印刷した紙の両端に、爪楊枝の半分くらいの長さの小片を1本ずつ貼りつけておいたものを、4文とか5文で売り出し、買った者は、小片をこれと推量した役者紋の上に貼りなおして会所(売り場)へ届けておく。
受け取った書役(しょやく)は、その紙に所・氏名を書きこんで、開票の日まで保管する。
正解は、勧進元(胴元)が秘匿しており、開票日に、会所に公示、正解者には1貫文(1000文=約1万2500円)---ただし、正解者が複数のばあいは、1貫文をその人数で割って渡すという賭博である。
これだと、字の書けない者、読めない者でも賭けられるから、盛んに行われた。
たびたび、禁止令もでた。

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(役者紋の一例 畏友・大枝史郎さん『家紋の文化史』講談社より)

屋標附紙賭博は、その役者紋附紙賭博をもじった、新手(あらて)の附紙だという。
高井さま。もうすこし詳しくお教え願いませぬか?」
「白洲にお立会いになれば、たちまち、お分かりになりますよ。それまでのお楽しみということに---」

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2008.03.04

明和2年(1765)の銕三郎(てつさぶろう)

明和2年(1765)、銕三郎(てつさぶろう)宣以(のぶため)は20歳であった。

昨年(1764)末、長谷川家は、南本所・三之橋通りの1236坪の敷地に、引っ越した---といっても、新築ではない。
その前に住んでいた、鉄砲洲・湊町の家を解体・運搬・組み立てたのである。
だから、敷地がほとんど3倍になったといっても、とりあえずの間取りは前の家と同じであった。
裏庭が広くなった分、実母・(たえ 38歳)と養女・与詩(8歳)が喜んだだけであった。

は、太作(たさく 65歳)などの下僕を指揮して、畑作に精を出しはじめた。
もともと、長谷川家の知行地、上総(かずさ)国千葉県)武射郡(むしゃこうり)寺崎村の育ちだけに、空地をみると畑作にしたがる気味があった。
与詩は、遊び場が広くなった分、いろんな遊びを考えだしては、日がな、遊んでいる。
そろそろ、手習い所へ通わそうと宣雄(のぶお 47歳)が言っても、一日のばしにしている。
あまりきつく言うと、お寝しょが再発するおそれがあるので、いまのところは放任されている。

『鬼平犯科帳』では、このころ、銕三郎は、継母・波津(はつ)とのおりあいが悪く、入江町の家を出て、放蕩のかぎりをつくしていたことになっている。
しかし、史実では、波津銕三郎が5歳の時に歿している。化けてでも出てこないかぎり、継子(ままこ)いじめのしよがない。
まあ、小説と史実の違いは、読み手がいってみてもはじまらない。
小説のままのほううがいいとおもう人は、そう思って、こっちを作りごとと観じながらおつきあいいただきたい。

銕三郎は、放蕩のやりようがなかった。
というのは、本家の長谷川太郎兵衛正直(まさなお 56歳 先手・弓の7番手組頭 1450石余)が、4月1日に火盗改メ・本役を命じられたのである。

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(『柳営補任』先手・弓の7番手組頭の一部)

正直の火盗改メは再任だが、前回の宝暦13年(1763)10月3日から足かけ7ヶ月間勤めたのは、助役であった。
このたびは、本役である。

太郎兵衛正直は、本家の威厳で、分家の宣雄とその継嗣・銕三郎を、一番町新道の火盗改メの役宅でもある屋敷へ呼びつけた。

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(長谷川本家・太郎兵衛正直の一番町新道の屋敷)

「どうであろうか、(のぶ 身内での宣雄の愛称)どの。(てつ)めを貸してはくれまいか?」
じつは、先年に助役を命じられた時にも、太郎兵衛は同じことを宣雄に打診し、断られている。
学問と武芸が未熟なので---というのが、断りの理由だった。

しかし、今回の太郎兵衛は、本役拝命である。少なくとも1年は勤めなければならない。
「武芸の鍛錬にさしさわりのない程度であれば、ほかならぬ本家のことですから---」
宣雄が承知したのである。
銕三郎は、内心、してやったり---と舌をだしていた。
じつは、銕三郎のほうから、大伯父の正直へ、父に内緒で申し出ていたのである。

しかし、正直宣雄も、翌日、城中で、先手・弓の8番手組頭の内示があるとは、予想もしていなかった。

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2008.02.22

銕三郎(てつさぶろう) 初手柄(4)

_120_3幕府が大名屋敷や幕臣に通達している辻番所についての注意事項を見ると、昼夜ともに表戸を開けておくようにとのきまりのほかに、番人は4人から6人を詰めさせておくこととか、不寝番をかならず立てろとか、番人は60歳以下20歳以上の男性であることとか、番所に女や病人を入れてはならないとか、いろいろと細かく定めている。
現代の交番に近いのではなかろうか。(もっとも、犯罪人が警官に採用されることはないだろうが---)

銕三郎(てつさぶろう 18歳 家督後の平蔵宣以 のぶため)は、舟蔵の南端向いの辻番所で見かけた不審な番人のことを、こちらの行動がもうその男からは見えなくなったとおもわれる一ッ目の橋の南詰まで来てから、本多采女(うねめ)紀品(のりただ 49歳 火盗改メ助役 すけやく)へ話した。
「お頭(かしら)」
それまでの「本多さま」から、組下の者のように呼びかけた。気分が高揚してきたのだ。

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(本多組の巡視順路 南本所 池波さん愛用の近江屋板)

「今夕、お屋敷でお話しした、江ノ島の旅籠で見かけた不審な男によく似た者が、先刻の辻番所にいました」
「表戸を開けた辻番人のことかな?」
「左様です」
「ふむ」
「生憎と、顔が陰になっていたので、しかとは確かめられませんでしたが---」
「名はなんといいましたかな?」
弥兵衛と---本名かどうかは定かではありませんが、あの時は、そう、名乗りました」

弥兵衛---とな」
それきり、本多紀品は口をきかなかった。
大手柄を立てたと勢いこんでいた銕三郎は、ちょっとがっかりであった。

【参考】舟蔵の東に沿ったこの道は、『鬼平犯科帳』文庫巻7[寒月六間堀]で、市口瀬兵衛の息子の敵(かたき)の山下藤九郎の駕籠が、御蔵前片町の料亭から一ッ目の橋を渡って籾蔵(もみぐら)の横道へ行った路筋である。

夜風がまだ冷たい両国橋を渡ると、
銕三郎どの。ご大儀でした。加藤同心に、お屋敷まで送らせます。羽織は、それまで着ていたほうが、辻番所や自身番所を通りやすいでしょう。加藤、頼んだぞ」
そういうと、さっさと一統を従えて西へ去った。

銕三郎は馬を下りて、同心・加藤半之丞と並んで歩きながら、弥兵衛に似た男のことを話してみた。
30代なかばとおもえる加藤同心は、えらのはった顔で、いちいちうなずきながら聞いてくれたが、
「お頭がすべてご存じなのですから、このあとのことは、お頭にまかせて、お忘れになることですな」
と、あっさり、かわされた。

2日後、下城してきた父・宣雄が、弥兵衛の件、本多どのの組の方々がお調べになったが、あの者は弥兵衛ではなく、ほかの辻番人の者たちの中にも疑わしい者はいなかった---と話した。

銕三郎は、その夜は大いにがっかりで、はやばやと寝についた。

事実は、そうではなかったのである。
あの者は、銕三郎が不審と思ったとおり、武蔵国多摩郡八王子在の鑓水(やりみず)村生まれの盗賊・〔窮奇(かまいたち)〕の弥兵衛で、あの辻番所に3人の配下ともぐりこんでいたのである。

【参考】〔窮奇(かまいたち)〕の弥兵衛との出会いは[与詩(よし)を迎えに](39)

辻番人の昼夜の務めはきついので、なり手が少ない。そこが賊たちのつけ目となっていた。

真相を告げなかったのは、ただでさえ捕り物に素質がありそうな銕三郎が、これに味をしめて、一層、このことにのめりこんでは、前途のある身を誤ると、本多紀品も父・宣雄も考えた末でのことであった。
火盗改メは、番方(ばんかた 武官系)の幕臣が一時的に任命される職務ではあるとしても、町方与力・同心のように一代かぎりが原則の身分のものがやる仕事に近いから、それを本業にしてはいけないし、仲間たちからも高くは評価されない---というのが、父親たちの結論であった。
銕三郎は、そのことは知らない。 

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2008.02.21

銕三郎(てつさぶろう) 初手柄(3)

万年橋の南詰の右手に、霊雲院という曹洞宗の名刹がある。将軍・吉宗による開基を得たという。。
『鬼平犯科帳』巻15長編[雲竜剣]で、この寺の前あたりで、うなぎ売りの屋台を出していたのが忠八。そのことを〔笹や〕のお鬼平に告げて、重要な手がかりとなった)。
もっとも、この時の銕三郎(てつさぶろう 18歳 のちの平蔵宣以)から30数年ものちの話だから、銕三郎は霊雲院の閉ざした山門を見てもなんの感慨もおぼえない。

【ちゅうすけ注】霊運院はいまはこの地にはない。戦災で東村山へ引っ越し、寺号を霊運院としたが、庵主が亡くなって、無住のようだ。ホームページ[『鬼平犯科帳』と彩色『江戸名所図会』]〔週間掲示板〕2005年1月1日をご覧ください。
なお、万年橋の北詰には正木稲荷が『剣客商売』の時代にもあった。秋山小兵衛は、おはるに漕がせた小舟を、この稲荷の前の茶店に預けるのがいつものやり方であった。

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(本多組の巡視順路 新大橋付近 近江屋板)

万年橋を渡り、幕府の籾蔵(もみぐら)の前から大川に架かっているのが新大橋。その北はずっと旗本の屋敷がつづく。
馬を並べている本多采女(うねめ)紀品(のりただ 49歳 2000石)が話しかけた。
銕三郎どの。今夜はあと、なにごとも起きそうにない。遅くなっては母ごが案じられよう。新大橋からお帰りになってはいかが?」
「えっ? あ、お願いでございます。両国橋までお供させていただくわけには参りませぬか?」
「当方は、一向にかまわぬ」
「若侍の桑島も従っております。母上はなにも心配してはおりませぬ」
「けなげなことよ、のう。銕三郎どのの意のままになされい」

事件は、その先の、舟蔵南端の向いの辻番所で起きた。
いや、起きたと言っては言いすぎかもしれない。
しかし、銕三郎が新大橋から帰っていたら、起きなかったはずである。

その辻番所は、舟蔵前の幕臣数軒が話し合って設けているものだが、火盗改メが巡行しているというのに、表の戸を閉め切っていたのだ。
本多組の小者が戸を叩いて、
「火盗改メ・加役(かやく 助役 すけやくの別称)・本多さまのご巡察である。戸をあけられよ」
中から、しぶしぶ、戸があけられた。
本多紀品が馬上から睨みつける。
40がらみの辻番人は、ようやく頭をさげた。

銕三郎は、本多組頭の左手にいたので、辻番人のほうは見ていなかったが、口取をしていた藤六(とうろく 45歳)が銕三郎の袴を引いて、声をださないで口を開閉した。
腰を折って近づけると、かすかな声で、
「若。辻番人をご覧なさいませ。江ノ島の宿で見かけた男に似ております」
「む。弥兵衛にか---」
藤六がうなずく。
銕三郎は、紀品の肩ごしにそっと見たが、辻番人は、番所の中の灯火を背にしているので、顔は暗くてよくわからない。
江ノ島では、本多紀品の名を公けにしているから、こちらの顔を見せてはいけないとおもったために、よけいに確かめられない。
(ま、確かめる手立てはいくらもあろう。ここは、そ知らぬ体(てい)でいたほうがよかろう)
藤六にも、そのように伝えた。

一行は、そのまま、一ッ目の橋へ向かう。

_120【ちゅうすけ注】武家屋敷の辻番所は、昼夜を問わず表の戸をあけておくこと、という触書(ふれがき)は、宝暦13年(1763)のこの時よりも100年も前の寛文10年(1670)から出ているし、その後もしばしば触れられている。もっとも近いのは4年後の明和4年(1767)の触れ。いくら禁止されても寒い季節には、深夜はやはり、表戸を立てたいのが人情というもの。
また、辻番人として無宿悪党がもぐりこんでいることがままあるから---という触れも出ている。手元にあるのは、安永7年(1778)の禁止令。
長谷川平蔵にからんだこの種の史実としては、2006年5月20日[過去は問わない]に公開している。

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銕三郎(てつさぶろう) 初手柄(2)

夜廻りの一行が千鳥橋を北へ渡ると、堀川町の自身番屋の町(ちょう)役人が、
「組頭(くみがしら)さま、はじめ、ご一統の皆さま。冷えます中のお見廻り、ご足労に存じます。お口よごしを用意いたしております。どうぞ、お休みになってくださいまし」
燗をした白酒の湯呑みをみんなに配った。

「これは、甘露」
「おお。躰が温まる」
「もう一杯、所望してもいいかな?」
同心も小者も、口々に礼をいっては、賞味している。

火盗改メ・助役(すけやく)のお頭・本多采女(うねめ)紀品(のりただ 49歳)も、下馬して湯呑みを手にした。
銕三郎(てつさぶろう 18歳)も、ならった。

本多さま。お訊きしてもよろしゅうございますか?」
「む?」
「火盗改メの本(定)役と、助役の巡廻区分は、どのようにきまっているのでしょう?」
「そのことか。はっきりした区分けは、まだ、決まってはおらぬ。本役・讃岐守どのの組の筆頭与力と、わが組の筆頭与力が合議して、おおまかに内定しているだけで、な」

【ちゅうきゅう注】松平太郎さん『江戸時代制度の研究』 (1) にある---



日本橋以北・以南に分けて巡邏地域の分担を定めた。

以北---神田、浜町、矢の倉、浅草、下谷、本郷、駒込、巣鴨、大塚、雑司ヶ谷、大久保とその近辺は本役の組の担当。

以南---通町筋、八丁堀、鉄砲洲、築地、芝、三田、目黒、麻布、赤坂、青山、渋谷、麹町、深川、本所、番町とその近辺は助役の組の担当。

神田橋外、一ツ橋外、昌平橋外、上野、桜田用屋敷、書替所、御厩2カ所と溜池などの定火消屋敷のあるところは定火消にまかせることとなった。


---は、この夜の巡回から2年後の安永2年11月。火盗改メの本役・横田越前守忠晶(ただあきら 37歳 先手・弓の2番手組頭 1400石)と、助役・庄田小左衛門安久(やすひさ 41歳 先手・弓の3番手組頭 2600石)が検討の上の結論を公儀へ上申、了解を取り付けたものである。

ちなみに、横田忠晶の先手・弓の第2組は、その15年後に、長谷川平蔵宣以=小説の鬼平が組頭に着任、あしかけ8年、火盗改メとして功績をあげた組である。

「さて、人ごこちがついたところで、あと一ト奮張りだ」
与力が声をかけた。

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(本多組の深川巡行の順路は点々。池波さん愛用の近江屋板)

一行は、横油堀にそった岸道を、西永代町、今川町と過ぎ、仙台堀に突きあたり、向こう岸に黒々と静まっている仙台藩の蔵屋敷を見ながら左折した。
堀の水面(みずも)に、中天の半欠けの月が映ってゆれている。

【ちゅうきゅう注】『鬼平犯科帳』巻1[唖の十蔵]で、小野十蔵が生まれて初めてこころと躰を通じあわせたおんな---おふさが〔野槌(のづち)〕の弥平一味に殺され、浮かんでいたのがこの堀である。

西行する。仙台堀の川口が大川へつながったところに架かっているのが、上(かみ)ノ橋。

【ちゅうすけ注】『鬼平犯科帳』巻6[のっそり医者]の萩原宗順が、襲われて、この橋の欄干を越えて大川へ逃(のが)れた。

上ノ橋を過ぎ、仙台藩の蔵屋敷の黒門を右にみながらさらに北へ行くと、清住町。ここに店を構えている藍玉問屋・〔大坂屋新助方の借家を借りていて病み、試合敵(がたき)の剣客・石坂(いしざか)太四郎に斬殺されたのが、同心・沢田小平次の剣の師・松尾喜兵衛先生であることを、この夜の巡視に供をした銕三郎は、予想していたかどうか。

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2008.02.20

銕三郎(てつさぶろう)、初手柄

出かける銕三郎(てつさぶろう 18歳 家督後の平蔵宣以 のぶため)と若侍・桑島友之助(とものすけ 30歳)に、母の(たえ 38歳)が、
「まだまだ、夜が更(ふ)けると寒さがきびしくなろうほどに---」
と、綿を薄く入れて刺し子をした袖なし半纏(はんてん)のようなものを着物の下にまとわせた。

銕三郎は左藤巴の家紋をつけた陣笠をかぶり、野袴すがたで乗馬した。口取りは、下僕・藤六(とうろく 45歳)である。

指定された永代橋東詰までは、築地の長谷川邸から8丁ばかりで、小半刻(30分)の半分もかからない。

橋の東詰・佐賀町には、本多組の羽織を着た同心と小者が待っていて、挨拶した。
加藤半之丞(はんのじょう)です。ご足労です」
「長谷川銕三郎です。これは、わが家の若侍・桑島です。よろしくお引きまわしのほど、お願い申します」

組頭が火盗改メに任命されると、組頭は組下全員に揃い柄を染めたの羽織を支給する。
今夜のような公式の巡回には、それを着るしきたりになっている。
ふだんの密行のばあいは、着流しである。

_100待つ間もなく、本多采女(うねめ)紀品(のりただ 49歳 火盗改メ助役 2000石)が、与力(騎乗)1騎、徒歩の同心5名と、それぞれに丸の内左離立葵(ひだりばなれ・たちあおい)の本多家の家紋を描いた高張提灯を持った小者数人を従えて現われた。
(テレビの『鬼平犯科帳』で「火盗」と書いているのは、テレビ用である。史実は、組頭の表の家紋を描いている)。
_100_3本多一門の家紋は、右離立葵(みぎばなれ・たちあおい)で、茎の右側が縦に割れているのだが、本多紀品のところだけが異をとなえ、縦線は左側に入っている。

銕三郎どの。やはり、参られましたな。お待たせしたかな?」
「いいえ。お誘い、ありがとうございました。しっかり見習わせていただきます」
「だれか、本多組の羽織を長谷川どのに---」

「では、巡廻に出発いたすとしようか」
2騎は、並んで、佐賀町を大川ぞいに北行、油堀川に架かる下(しも)ノ橋の手前を右折、千鳥橋へ向かう。

_360
深川・北本所の見回りコース(1)

『鬼平犯科帳』巻5[深川・千鳥橋]で、三代目〔鈴鹿(すずか〕の弥平次に騙されてあやうく殺されそうになった〔間取り(まどり)〕の万蔵を、〔大滝(おおたき)〕の五郎蔵との約束を守って、鬼平が放免し、五郎蔵が号泣して鬼平に信服するのが、この橋ぎわであることは、ファンなら百もご承知)。

四ッ(午後10時)近いにもかかわらず、火盗改メから事前にお頭の巡行が告げられているのであろう、それぞれの町ごとの自身番所では、町名を記した腰高障子の前で、町(ちょう)役人と書役(しょやく)が迎えて、ふかぶかとお辞儀をする。
「ご苦労」
本多紀品が声をかけ、同心のひとりが、
「変わりはないな」
「はい。変わりはございません」

どこの自身番所でも、儀式のように繰り返される。
(これでは、見廻りもなにもあったものではないな)
銕三郎は、張り詰めていた気合いが薄らぐ思いであった。

それを察したかのように、本多紀品が言う。
「馬鹿々々しい儀式とお思いであろうが、こうすることで、町役人たちの気が引き締まるとともに、町内の自警の気構えも違ってくるのですよ」

与力が、躰を傾けた紀品へ耳打ちする。
「このあたりは、商家の倉が多いゆえ、盗賊たちが狙うのだと。ほかにも、堀の名にもなっているように、舟行きを便利している油問屋が多く、裕福でもある」
「油も狙われるのですか?」
「毎日の生活(たつき)に欠かせない品だが、米ほど重くはなくて、いい値で換金できるために、舟でしかけてくる」
「なるほど。盗賊たちの猟場というわけですね」
銕三郎は、いちいち、納得がいった。
(これは、仕置(しおき 政事 まつりごと)の勉強にもなる)


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2007.08.04

銕三郎、脱皮(2)

翌日も、江戸は、からりと晴れた。
そういえば、銕三郎(てつさぶろう のちの平蔵宣以 のぶため)が東海道を往復した10日間も、曇り日こそあったが、雨は降らなかった。

銕三郎は、帰着の報告にことよせて、餞別返しに、土産の妙薬「ういろう」を配ってあるくことにした。
供は、太助である。

銕三郎は、
(きのうは、父上(平蔵宣雄)にあまりにもそっけなくしすぎたかな)
いささか反省していた。ありていにいうと、三島でのお芙沙とのことがあって、父の目を見ていられなかったのだ。

「父上から、何か仰せがあったか?」
「何か---とおっしゃいますと?」
「その---三島、でのことだ」
「若さま」
太助が、はたと、足をとめた。
場所は、これから訪れる長谷川家の本家・小膳正直(ただなお)の番町の家に近い、城の西・千鳥ヶ渕の傍(はた)で、人通りが絶えている。
「----」
「殿さまは、こうおっしゃいました。そのことは、父子といえども、あからさまにしてはならぬ男の子の秘事であろう、と---」
「ふむ」
「さらに、奥方さまには内緒にしておくように、と」
「おお。ありがたい」
「したがいまして、太助は、すべてを忘れることにいたしました。若さまも、お忘れなさりませ」
「忘れがたい。忘れたくない。したが、太助の申すとおりにする」
「男と男の約束でございますぞ。すべては夢の中のこと」
「夢なら、覚めたくはないがの」
「若さまッ!」
「愚痴であった。許せ、太助

一番町新道(現・千代田区三番町6あたり)にあった長谷川小膳正直(1350余石)の本家から餞別のお礼に廻ることになったのは、
「餞別をいちばん多くはずんでくれた、納戸町の長谷川久三郎正脩(ただむろ 4070余石)どのから廻ろう」
という銕三郎の提案を、太助がぴしゃりと退け、
「家禄は違っても、ご本家はご本家でございます。いかなるときも、順をおまちがえなすってはなりませぬ」
ここでも、銕三郎は、大人への脱皮をさせられ、九段坂下から千鳥ヶ渕へやってきたのである。

西丸小十人頭の小膳は城詰中で、夫人のが土産を受け取り、
「しばらくお目にかからぬうちに、銕三郎どのは、なにやら、すっかり、大人びてまいられましたな」
お世辞とも、本音ともつかぬ口ぶりでいった。
分家の子といえども、家督する長男に対しては、おといえども礼をつくす。
銕三郎は、玄関の式台だけで、早々に引き上げた。

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2007.08.03

銕三郎、脱皮

銕三郎(てつさぶろう のちの鬼平こと平蔵宣以 のぶため)に、なにか起きたのかな?」
父親らしい気の遣い方で、宣雄(のぶお)が太作に訊いた。

銕三郎は、田中藩領内への旅から帰着し、調べてきた歴代の田中城代の名簿を父親に差しだすと、
「城代家老の遠藤百右衛門さまが、父上に、くれぐれもよろしゅう、とのことでございました」
そういったきり、疲れているので、小川(こがわ)湊の報告は日を改めて---といい、自分の部屋へ引きこもってしまったのである。

「殿さま。銕三郎さまは、さなぎから成虫におなりになりました」
「ほう。それはめでたい。もろもろの手くばり、ご苦労をかけた。して、いずこで?」
「三島でございます。本陣の---」
「待て、太作。このことは、父子といえども、あからさまにしてはならぬ男の子の秘事であろう。少年の殻から無事に脱皮したということだけわかれば、それでよい」
「はい」
「相手方に懐妊などということが明らかになった時にのみ、父親として責任をとればよかろう」
「そのようなことは、起きはいたしませぬが---」
「このこと、奥には内緒にな」
「承知いたしました」
「女親というのは、男の子を、いつまでも子どものままでおきたがる」
「はい」
二人は、目を見合わせて笑った。主従としてというより、男同士として。
「これは、お預かりしていた費(つい)えの残りでございます」
「それは、そちへの謝礼金としておいてくれ」
「いえ、それは---。せっかくお志でございますれば、ありがたく頂戴しておきます」

銕三郎は、自分の部屋に戻って、ひっくり返った。
やはり、わが家はいい。
身のまわりに、餞別をくれた親類への土産をころがしている。荷がかさばらないようにと、小田原の「ういろう」にしておいた。

三島宿からの帰りの道中ずっと、銕三郎は躰の奥深いところで、変化が起こりつつあるのを感じていた。
二度目の合歓をお芙沙が避けたわけを類推しているうちに、もしかしたら、あれは、これからの武家生活に訪れる蹉跌と、それに耐えなければならないことを悟らせてくれる、お芙沙の、文字どおりの母心だったのかもしれないと、考えられるようになってきていた。
(お芙沙は、仮(かりそめ)の母親と、幾度も念を押していたなあ)
そう思うと、お芙沙の嫋嫋(じょうじょう)とした姿態のなかに感じられた、彼女の悲しみにも同情できた。
(一人前の男になるということは、こういうことなのだな)
銕三郎は、一気に大人の仲間入りができたように思えた。
(よし。明日から、また、道場で稽古だ)

どうやら、こんどの旅は、宣雄が、銕三郎にそれとなく脱皮をさせるためのものであったようだ。

[参考:お芙沙との経緯]
 仮(かりそめ)の母・お芙沙(ふさ)
 〔荒神(こうじん)の助太郎(3)
 仮(かりそめ)の母・お芙沙(2)

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2007.04.17

寛政重修諸家譜(13)

_120_3辰蔵宣義(のぶのり)が上呈した「先祖書」に記入されていて、『寛政譜』には採用されていない数行がある。

編輯方で不要とみなしたのか、それとも、ほかの理由があったのか、判断に迷う。

活字化すると、

  安永八己亥年(1779)ニ月廿四日
 孝恭院様(家基)薧御ニ付同年四月十五日
  被為召
  只今之通可相勤之旨 於菊之間松防州

  
  天明元辛丑年(1781)閏五月十八日
 公方様え被為附候旨 松右京太夫伝候段
  水谷伊勢守於宅 達之間勤人組節

『徳川実紀』の安永八年二月廿日を読んでみる。

大納言新井宿(大田区山王あたり)のほとりに鷹狩したまひ、東海寺にいこはせらる。にわかに御不豫の御けしきにていそぎ還らせ給ふ。

360_56
東海寺・牛頭天王社(『江戸名所図会』部分 塗り絵師:ちゅうすけ)

この鷹狩に、書院番士の長谷川平蔵も扈従していたのであろうか。
家基18歳平蔵34歳

4日後の24日家基不帰の人となった。死因は咳気---悪性の風邪であった。

2ヶ月後、1日違いの4月16日の『実紀』に、継嗣はいなくなったが、西丸勤務をつづけるようにとの命を、書院番組頭・水谷(みずのや)伊勢守勝久ほかの面々が受けたことが記されている。
蔵たちは、菊之間で、伊勢守勝久からつたえられたのであろう。
長谷川家は、これを文書で残していたから「先祖書」に写したものとおもえる。

天明元年5月18日の『実紀』

(一橋)民部卿治済(はるさだ)卿。嫡子 豊千代君(10歳)をともなひて出仕あり。
(将軍・家治)御座所に召して拝謁せらる。
ときにこたび 豊千代君を養はせ給ひ、御代つぎに定めらるるよし仰せくだされ、豊千代君に長光の御刀、来国光の御差そえさづけ給ひ、御手づから熨斗鮑まいらせらる。

書院番頭の水谷伊勢守以下、長谷川平蔵も、新しい西丸の主に仕えることになった。

案ずるに、このような公事は、平(ひら)番士の平蔵には関係ないと判断されて、『寛政譜』から除外されたのであろうか。

【つぶやき】[先祖書]にある[松右京太夫]は、高崎藩主(8万3000石)の老中(1758~81)・松平(大河内)右京太夫輝高(てるたか)。
松平信綱の5男がたてた大名家。
享保10年(1726)生まれ。天明元年(1781)9月1日、病床に伏し、26日卒。享年57歳。葬地は野火止の平林寺

360_58
360_57
平林寺内の、松平(大河内)一門の墓域

老中に在職中、職権をもって絹物品質改め会所新設のたくらみに乗り、一揆を起こされて廃案したことがある。高崎城へ寄せた一揆勢は1万人近かったとも。

もう一人の、[松防州]は、やはりの老中・松平(松井)周防守康福(やすよし 石見国浜田藩 4万石)。田沼意次の盟友ともいえ、次女が田沼意知内室
享保4年(1719)生まれ。老中の在任は宝暦12年(1762)から天明8年(1788)まで26年間。享年71歳。墓地は西久保の天徳寺

もう1件。
水谷(みずのや)伊勢守屋敷とある。
嘉永2年(1849)の近江屋板でみたら、三田寺町に水谷水生邸があった。

Photo_337
寺に囲まれた、水谷家の屋敷。

史料によると、3500石の水谷家の屋敷は三田寺町にあるだけだから、ここだろう。
町名どおり、周囲は寺だらけ。したがって、3500石にふさわしく、1500坪前後の宅地だろうに、妙に小さく見える。寺院が土地を広くとっていすぎるのだ。
水谷伊勢守勝久は、長谷川平蔵番頭だから、そこは気配りのたしかな平蔵のこと、幾度もこの水谷邸を訪れたことだろう。急な坂道が多いから、文句の一つも吐いたか。
いや、勝久が番頭だったのは平蔵が41歳まで。
坂道をぼやいたのは、60歳を越えて毎日登城・帰宅の往復していた勝久のほうだったかも。

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2007.04.16

寛政重修諸家譜(12)

長谷川平蔵宣以(のぶため)の『寛政譜』を眺めていると、いくつかの疑問が生じてくる。

360_55

__5その1は、最初の行の「母は某氏」である。
これについては、2006年7月24日[実母の影響 ]に書いた以上のことは、いまのところ進展してはいない。
かいつまんでいうと、知行地の一つ---上総国武射郡寺崎村(千葉県山武市寺崎 222石余)の庄屋のむすめ説があるが、確認がとれない。

小説では、武州巣鴨村の富裕な農家・三沢家の次女・園が奉公にあがっていて銕三郎をもうけたが、夫の宣雄が長谷川家の当主の養女と結婚して家督したので、幼児を抱いて実家へ帰り、病死。

菩提寺・戒行寺の霊位簿でみるかぎり、実母は長谷川家に同居し、平蔵宣以が病死する4日前まで生存、戒名宣雄の正妻同様のあつかいを受けている。

__4その2は、将軍・家治(いえはる)へのお目見(おめみえ)の年齢が23歳というのは、遅くはないか---という論者がいること。
池波さんも、放蕩説をとっている。

長谷川平蔵が勘当(かんどう)を許され、屋敷へもどって、十代将軍・家治に拝謁(はいえつ)したのは、明和五年(1768)十二月五日のことで、ときに平蔵は二十三歳であった。([11-密告] p190 新装p198)

『徳川実紀』によると、この日にお目見したのは30名で、姓名が明記されている17名の平均年齢20.9歳
平蔵の23歳は、決して早いとはいえないが、28歳の最年長者もいることを考えると遅すぎとはいえない。

遅れぎみだった理由を、放蕩とするのは、根拠がない。
平蔵と同時代の記録『よしの冊子(ぞうし)は、視点が低いので信憑度はそれほど高くはないが、寛政2年(1790)12月の項に、「長谷川平蔵は、かつては手のつけられない大どらものだったので、人の気をよく呑みこみ、とりわけ下々の者の扱いが行きとどいて上手のよし」とある。

「どら」とは、「どら息子」というときの「どら」である。「金使いかあらい」とか「女遊びがすぎる」息子のことを指すが、多くのばあい、大げさに言っている。
いや、別に銕三郎(平蔵の幼名)を擁護しているわけではない。
2007年4月8日の『寛政譜(4)』で報告したように、銕三郎が遊びたいざかりの18,9歳のとき、本家の伯父火盗改メだった。
その配下のような顔をして情報をとるために盛り場に出入りしたのではないかと推測しているだけである。 (この項、つづく)

【つぶやき】亡父・宣雄にふさわしい戒名とは、

従五位下、備中守であった宣雄のそれは、
  泰雲院殿夏山日晴大居士
実母は、
  興徳院殿妙雲日省大姉

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2006.10.03

十合(そごう)九郎兵衛

きのう、『鬼平犯科帳』連載の2年前---1967年に、池波さんが『『週刊朝日』の4月28日号から6月16日号に、[上泉伊勢守]を連載したことを、報告した。

『鬼平犯科帳』との関連でいうと、十合高種の、剣聖・上泉伊勢守日秀綱(のち、武田信玄から一字もらって、信綱)への挑戦ぶりと結末を、長谷川平蔵を襲った数々の剣客たちに重ねることができようか。

こんど新潮文庫に収録された[上泉伊勢守]は、これまで朝日文庫『日本剣客伝 上』(1968.3.25)iとして刊行されたほかには、文庫となっていなかったらしい。
10月1日の朝日新聞の新潮文庫の広告のリード文に、そんな意味のことが書かれていた。

さて、新潮文庫の解説を書いた文芸評論家の末国善己さんは「池波は、上泉秀綱がお気に入りだったらしく、後にその人生を長篇小説『剣の天地』にまとめている。『剣の天地』には、[上泉伊勢守]と共通するエピソードも多いので、本作を読んで秀綱に興味を持たれた方は、一読をお勧めしたい」。

21150手元の文庫本から『剣の天地』を探したが、あったはずのものがない。しかたがないから『完本 池波正太郎 大成』巻21で再読した。

『剣の天地』は、山陽新聞をはじめとする14の地方紙に、1973年から317回にわたって連載された。大筋は中篇[上泉伊勢守]と大差ないが、隠し味のはずの十合九郎兵衛高種が冒頭から登場する---ということは、敵を倒した剣客は運命的なものを背負って生きなければならないという、長谷川平蔵、秋山小兵衛にも通じる宿命を、池波さんは『剣の天地』の上泉伊勢守に、より強く与えている。

[上泉伊勢守]、あるいは『剣の天地』でもいい、そこのところを再確認しながらお読みになると、鬼平にふりかかる危機が、理解できる。

もうひとつ。
池波さんは、[江戸怪盗記]という短篇を、4年後に、さらに倍以上の紙数にふくらませて[妖盗葵小僧]のタイトルで『鬼平犯科帳』の1篇としている。
池波さんの、アイデアのふくらませ方を知るにも、[上泉伊勢守]から『剣の天地』へと読みすすむと興がさらにひろがる。

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2006.10.01

小説と史実のはざま

---[むかしの男]の上演に寄せて---

『鬼平犯科帳 ―むかしの男―』長谷川平蔵増役(ましやく)について足かけ6年目、寛政5年(1793)初夏の物語である。

火盗改メは、先手組頭(くみがしら)が臨時に命じられる兼務の役なので、増役あるいは加役(かやく)と呼ばれた。

寛政5年(1793)は、史実上の平蔵にとっては特別に意味のある年であった。

平蔵48歳、7歳下とされる久栄41歳、夫婦となって23年経ち、嫡男・辰蔵をはじめとして2男2女(史実では2男3女)をもうけている、といった家庭内のこと以上に――

保守派政治家・松平越中守定信の依願退職をよそおった老中筆頭罷免がそれ。
理由は時の天皇の実父へ太上(だじょう)天皇の尊号おくることを拒絶し、公家たちとのあいだにあつれきを生じさせたとか、将軍・家斉の父・一橋公を大御所として迎えることに反対したから、ともいわれるが、要するに定信の潔癖すぎる原則政治が飽きられていたのだ。

平蔵流の慈悲心あふれる人あしらいを山師、姦物といって嫌悪していた定信の失脚で、平蔵の抜群の実績に陽があたってしかるべきであった。

「むかしの男」は、この定信退陣の2、3か月前、火盗改メを解任されたのを機に平蔵が、京都西町奉行在職中に歿した亡父の墓参を20年ぶりにはたすべく、京へのぼっていた留守中の事件――ということに、小説ではなっている。
Photo_212
亡父・宣雄の京都西町奉行所はここから3丁ほど西に

亡父は千本出水の華光寺(けこうじ)に眠っていると小説にあるが、史実では、かの地で荼毘(だび)にふしたあと、遺骨を江戸へ持ちかえり、四谷の菩提寺の戒行寺へ葬った。
葬儀は華光寺でいとなんだが墓は建てはいない
Photo_214
亡父・宣雄の葬儀がとり行われた華光寺本堂

平蔵の解任も史実にはない。なのに池波さんはなぜ平蔵を京都へ行かせたか?

池波さんはちょうど京都近辺が舞台の新聞連載『火の国の城』の取材でしげしげと訪れていた。
鬼平がこの京都へ旅するとしたらどんな物語になるか、と考えたのであろう。

結果は、池波さんって盗みの経験が? と疑いたくもなる[盗法秘伝]、青年時代の鬼平の艶聞をほうふつとさせる[艶婦の毒]、鬼平の愛刀が粟田口国綱、と銘がはじめてあかされる[兇剣]、友情の貴重さを描いた[駿州・宇津谷峠]、そしてこの[むかしの男]の佳作の誕生――となって結実した。

とりわけ久栄に、
「申しあげまする」
「何じゃ?」
「女は、男しだいにござります」
といわせて女性ファンの心をぎゅっとつかんでしまった心にくい描写には感心するほかない。

小説では、本所・入江町の時鐘堂の前の長谷川家の左どなりが久栄の実家の大橋家、さらにその隣家が久栄の処女(*おとめ)のあかしを奪って捨てた旗本・近藤勘四郎の住まい、という設定になっている。

史実での大橋家は本所から20丁も離れた下谷の和泉橋通りだつた、とばらしても、結婚初夜に平蔵が久栄のえりもとから手を差しこみ、ふくよかな乳房をふわりと押さえ、

「久栄」
「はい……」
「お前は、いい女だ」
「ま……」
「前から、そう思っていたのさ」
「あれ……ああ……」

このシーンの魅力は変わるはずもない。
(松竹が[むかしの男]を上演したときの小冊子の寄稿した文章に若干手をいれて)。

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2006.09.30

小説の鬼平 史実の長谷川平蔵

(よし。鬼平のホームページを開設しよう)
思い立ったのは、都営地下鉄・五反田駅の無料展示コーナーへ『鬼平犯科帳』の絵解きを掲出していたとき。

通りがかりの中年の男性が立ち止まり、塗り絵した『江戸名所図会(ずえ)』の絵を指して、
「これらの元の絵は売っていますか? 売っていたら、わたしも鬼平ファンなもので、買って塗ってみたい」

聖典『鬼平犯科帳』は文庫版だけでも5年前のそのころ、1,800万部以上も刷られていた(現在は2,400万部前後)。
五反田駅の通行客のようなファンは日本中……いや、ニューヨークやロンドンに駐在中の人の中にもいるにちがいない。

池波さんも執筆にあたって熟視した長谷川雪旦の原画をこの人たちへとどけるには、インターネットで配信、ダウンロードしてもらうにしくはない、とかんがえた。

『鬼平犯科帳』に登場する『名所図会』の元の絵と塗り絵とをセットにしたホームページが、ブログ[『大人の塗絵…『江戸名所図会』]に昇格したのは、この2月である。
塗り絵には、各地の生涯学習センターの受講者たちにも腕をふるってもらっている。

鬼平ファンには、部下のほめ方や叱り方、命令の出し方や報告の受け方などを小説から学ぶという中高年が多く、この人たちはまだパソコンが得意じゃなかろうに、7か月間に3万5,000を超えるアクセスをえた。

そう、鬼平こと長谷川平蔵は、幕臣としての家禄は400石だから、それほど高いほうではない。

しかし40歳そこそこで1,500石格の先手弓組の組頭に栄進、さらに火付盗賊改メを兼務したものだから、同輩たちのねたみがきつかった。

平蔵任命時の先手組頭33人の平均年齢は62歳強――いかに平蔵が大抜擢だったか、この一事でも推察がつく。

その上、着任した組は火盗改メの経験がずば抜けて豊富な弓の2番手だったから、まさに期待の人事だった。

同輩たちとのあつれきの詳細は、このもう一つのホームページ[『鬼平犯科帳』の彩色『江戸名所図会』]の[現代語訳 よしの册子(ぞうし)]で明らかにしている。

長谷川平蔵の蔭にあたる部分に、身につまされる中間管理職も多いとみえ、こちらは6年間で57万アクセスを超えている。

史実の長谷川平蔵と小説の鬼平とのあいだには、それほど大きな差はない。差異があるとすると中村吉右衛門さんが演じているテレビの鬼平版のほうだろう。

テレビでは、強情な盗賊の自白をえるために拷問部屋で痛めつける場面が少なくない。
が、史実の平蔵は「おれは町奉行所のように拷問なんかしない。そんなことをしなくても犯人はすらすらと白状してくる」と豪語している。

また、組下の者たちへ「十手は太刀とおなじだからむやみにふりまわしてはならない」と厳命してもいる。
だから、テレビのラストシーンで手向かう盗賊団を与力・同心たちが十手でびしびし打ちすえるのも史実と異なる。

上記の『鬼平犯科帳』のホームページには、右のような挿話も入れているし、地方読者にも地理がのみこめるように江戸の切絵図を掲げてロケーションを明示している。というのも池波さんが切絵図の道順どおりに人物をうごかしていることを知ってもらいたいからだ。

もっとも、池波さんが愛蔵していた切絵図(近江屋板)は鬼平の時代よりも40年もあとの版だから、たとえば[寒月六間堀]で、南本所の幕臣・小浜某の屋敷の塀に平蔵が身をひそませるが、小浜家が同所へ居をかまえたのは平蔵の死後20年あと……といった矛盾も出たりする。
Photo_211
南本所の〔二ッ目の橋] と二ツ目の通り(池波さん愛用の近江屋板)。
赤○=小浜邸(史実)
緑○=お熊の茶店〔笹や〕 青○=しゃも鍋〔五鉄〕(小説)

そんな揚げ足とりをしてたのしむのも熱烈ファンだからこそ。

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2006.09.29

通勤時にマーケット調査

「通勤に片道1刻(2時間)かかるがその間、市中の見廻りをしていると思えば、ご奉公の励みにもなる」

火盗改メの助役(すけやく)に任じられた長谷川平蔵が、弓の2番手与力・同心にクギをさした。

先手34組の職務は江戸城内の5つの門警備
長谷川組の組屋敷の目白台(日本女子大の近辺)から江戸城へは4キロ弱(四谷坂町の組屋敷は小説でのこと)。片道小1時間。
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目白台には3つの弓組の組屋敷があった。うち、第2番手
(長谷川組=赤○)はもっとも東寄り。

火盗改メの組の者は組頭の屋敷へ詰めるきまりなので、南本所・菊川(墨田区)の長谷川邸へ通う。
片道8キロ(清水門外の役宅も作家の創作)。

電車による今の通勤と違い、往復は自分の足。もっとも、すし詰め地獄はなかった。
弓の2番手には、遠距離通勤の前例があった。
平蔵の前の火盗改メ・横田源太郎の屋敷は築地の門跡裏。隅田川をわたるわたらないの違いこそあれ距離的にはどっこいどっこい。

追い討ちをかけるように平蔵がいった。

「広く町の噂を聞きとるように、永代橋をわたる班、新大橋の班、両国橋の班にわけよう。各班とも行き帰りに違った道をとるようにすれば、いっそう効果があがるな」

通勤の往還マーケット・リサーチにつかえと命じたわけだ。
今ならこういうかも。
片道2時間の通勤車内で新聞や本なんかを読んでないで、居眠りをしているふりして通勤客の会話に耳を澄ませろ。
身動きできないほど混んでいても目は動くはず。
着ているものや持ち物を観察して商品化のヒントを捜せ。
本より世間のほうに大衆の隠れた欲求がころがっている、と。

「火盗改メとして頂戴する役務手当ては、通勤の時間に対して支払われていると断じること」
 火盗改メ手当ては、与力が20人扶持(米価に換算して1日約4万円。月六両弱)、同心は3口(月約7万円)。

「多い? なんたって中央官庁の役人だ、そのへんの中小企業――じゃ、なかった、小藩の藩士なんかとは所遇がちがう。
先手組の与力の年俸は200俵(換算すると約200両。1両=20万円)。
同心はふつうは30俵3人扶持(40両弱)。蔵宿(札差し)に引かれる手数料や前借り分は見ていない。

『鬼平犯科帳』に10両で一家が1年暮らせるとあるのは、裏長屋の話。

与力だと小者に女中、飯炊き女や下男など5,6人は雇っている。同心だって小者と飯炊き女は置いているから家計に余裕があるとはいえなかった。
雇い人の賃金はたいした額ではなくても、米を経済の基本に据えており、その米が高かった。今の約3倍。

通勤距離が長ければ供の小者もそれだけ長く歩き、腹も減る。

一同の心中を見抜いたことを微笑でごまかしながら平蔵がいった。
五ツ(朝八時)までに出勤した者には、握り飯一個とみそ汁をふるまう」
長谷川家が切る自腹と知っている同心や小者たちは感激した。
会社につけをまわす奢りには、部下は心からの感謝はしない。


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2006.09.23

平蔵の町奉行ねらい

老中首座・松平定信……というより学問友だちで腹心の水野左内為長が、主人のために「よかれ」と諸方へはなった隠密――職制下の徒目付(かちめつけ)とか小人目付(こびとめつけ)とその手先たちの質がさほどよくはなかった一証左。

Photo_208寛政元年(1789)9月7日、池田筑後守長恵( 900石)が、在任2年で京都町奉行から呼びもどされ南町奉行に任じられた。
炎上した御所の再建を議するべく京へのぼった定信を支えた、適切なその仕事ぶりを認められた人事だった。
雄藩の岡山藩(31万5千石)池田家の支族の出であることももちろん、選考のときに考慮された。長谷川平蔵よりも1歳年長だった。

平蔵町奉行を待望していたのに、筑後どのになられて、がっくり、と友人にもらしている」

こう、水野為長注進した隠密がいた。
おいおい、といいたくなるような報告だ。

寛政元年9月といえば、先手組頭の平蔵火盗改メ・本役を兼帯してまだ1年しかたっていない時期。どうやったって先手組頭からいきなり町奉行へ行けるはずはない。遠国奉行が関の山だ。能吏といわれた平蔵の父・宣雄ですら、火盗改メから京都西町奉行への栄転だった。

「ちかごろの町奉行のやり方は見ていて歯がゆい」と平蔵がだれかにもらしたことがあるのを、池田筑後にからませて平蔵発言として捏造(ねつぞう)した者がいたにちがいない。
ウラもとらないで老中への報告書にそのまま書きあげたのは軽率にすぎる。

いったいに水野為長の隠密は人物評を書きすぎる。人物論は書き手の器量次第でふくらみもするし縮みもするものだ。小人目付の手先ごときに平蔵のようなスケールの大きな男の心の中がのぞけるはずがない。

そうはいっても、組織の中にだって小人目付の手先みたいに目線の低い隠密もいるし爪をといでいる捏造屋もいる。要注意。誤解をうけかねないような発言をうかつにしないことだ。

厳につつしむべきは、社内の人間の人物論。あなたが口にした人物評は渓流のヤマメよりも早く社内を走り、思わぬ波紋をひろげていく。

もっともその後、平蔵が町奉行を熱望するようになったことも否定できない。

だいたい、火盗改メの本役は1,2年でお役ご免になるのがふつうだ。それを7年もやった理由の一つは、長期間やれば、その苦労に報いるために「従五位下なんとかの守」の授爵があり、町奉行への道も夢ではない、と平蔵が甘く観測していたようでもある。

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2006.09.19

平蔵の練達の人あしらい

(どこへ寄稿したものか、メモしていないが、とりあえず)。

平蔵の練達の人あしらい

火付盗賊改メ・長谷川平蔵のことは文庫『鬼平犯科帳』や中村吉右衛門丈演じるところのテレビで多くの人に知られている。

平蔵は実在した人物だから、その練達の人あしらいぶり、透徹した眼力なども若干ながら伝わっている。

その1。火盗改メに任命されるや、逮捕者は夜中でも役宅へ連行してきてよろしいと町々へ触れた。平蔵の役宅には盗賊用の堅牢をもうけられている。自身番に止めおくと町(ちょう)役人の不寝(ねず)の番とか犯人の食事などで費用がかさんでいたため、町方は大助かりだとよろこんだ。

じっさいに役宅へ連れて行くと、早速に同心が応対に出てきて受けとり、煙草や茶をふるまって休息してゆくようにいい、遠路歩いて腹もすいたであろうと蕎麦の出前をとってくれる。これを報告した松平定信側の隠密はこう書いている。

「冷や飯にお茶漬けを出されてもうれしがらないが、さっと蕎麦屋人をやり出前をとってくれると、町人はご馳走になった気になり、恐れ入りもし、ありがたがる。平蔵の人の気の呑みこみぐあいには舌をまく」

天明期の天災(長雨や浅間山噴火の火山灰による農作物の被害)、定信の緊縮令から発した不景気で、盗賊も横行していた。あまりにも多く捕まえすぎた平蔵の役宅では、入牢中の犯人たちに食わせるために大釜で飯を炊くしまつだった。

その2。平蔵は「十手は腰のものと同じとかんがえ、みだりに抜かないように」と組の者へ申しつけてもいた。テレビで盗賊どもをバッシバッシと打ちすえているのは史実無視の視聴率かせぎとみていい。火盗改メの特技ともいえる拷問もほとんどやらなかった。

同心が召し捕った重罪の盗賊をあやまって逃がし、1か月の内に再逮捕できなかったら辞職ものだと噂されていた。ところが20日ほどのちに、
「逃げまわっていても町奉行所の者の手にかかるやもしれない。どうせ捕まるなら慈悲深い長谷川さまの手にかかりたい。逃げるときに縛られていた縄をなくさないように大切にあつかい、こうして持参しました」
こういってその盗賊が自首してきた。

その3。関東一円を荒らしまわっていた巨盗・神稲(しんとう)小僧を武州・大宮宿で捕縛したときも「その形(なり)で牢へ入ったのでは、神稲小僧とまで呼ばれたおぬしのプライドが保てまい」と平蔵は自腹を切って3両(いまの60万円に相当)もする派手な衣装を買いあたえた。

「長谷川平蔵どのは勤役中、賞罰正しく、慈悲心深く、頓知の捌(さば)き多く……」と書いているものの本もある。平蔵の深い慈悲心はひろく知れわたっていた。いや、平蔵が知れわたらせていたのだ。

新聞もテレビもなかった時代のことゆえ、情報は口づてが中心。そこで平蔵は、定信側の隠密を逆利用したり自分の手の密偵たちにいいつけて、神稲小僧への温情や自首した盗賊、十手の使用制限の件が悪人たちの耳へとどくように計り、役宅での出前蕎麦のふるまいなどのことが町役人の口から広まるように仕組んだ。

なんのために? 賊の中に平蔵の慈悲心に心をうたれて動揺する者をだすため。平蔵は10人の賊のうち半分は根っからの悪人だが、あとの五人は改心する見込みがあると信じていた。

噂で盗賊が自首してくれば、これほど手間がはぶけ費用も節約できることはない。長谷川組の検挙率が平蔵の前後の火盗改メよりも抜群に高かったのをみても、平蔵の目論見はけっこう成功していたといっていい。

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2006.07.22

長谷川平蔵の手ぬかり

とてつもない史料を目にした。

丸山雍成博士『近世宿駅の基礎的研究』がそれ。
B_2蕨(わらび)宿(埼玉県蕨市)の子細の研究書だが、中に長谷川平蔵に触れた部分があるのだ。

寛政4年(1792)4月上旬、長谷川組に捕らえられた盗賊の自白により、蕨宿の若者4人が土地の岡っ引きの案内で縛られ、江戸の平蔵の屋敷への引きたてられた。

幸七というのがとりわけきびしく責められて二度三度と気絶するのを見た、と同道した五人組の者が帰村して報告した。

幸七はのちに遠島となっているから、共犯者に間ちがいなかったのだろう。
が、平蔵自身は平生、「おれは拷問はしない」と広言している。まあ、平蔵はやらなくても吟味方与力や同心が拷問することはあったかも。

が、推理していくと、報告に誇張があったフシがある。というのは報告者は、幸七が気絶するところを腰掛(こしかけ。待合所)で見ていたといっている。
白洲での尋問なら腰掛からうかがえても、拷問部屋までは見えまい。
見てきたようななんとか…の例ではなかろうか。

ついでに記すと、幸七とともに引きたてられた甘酒屋のせがれ・熊五郎は打ち首になっているから、彼らが盗みに荷担したか、首謀したことははっきりしているのだ。

ところが、幸七らが処刑されたことを逆うらみした村人が、2年後の寛政6年に事件をおこした。
酒に酔った湯上がりの男が、茶屋で休んでいた代官・野田文蔵の小者2人にからんだために、
「無礼なり、長谷川平蔵、野田文蔵」
といってなぐりかかったというのだ。

通りがかりの住職が詫びているすきにからんだ男は逃げた。脇差を抜いて追いかけようとする小者を、若者たちが梯子(はしご)で抜身をたたきおとして縛り、宿役人へ引きわたした。結果は村方が2人へ薬代の名目で3両渡してケリ。

丸山博士