明和2年(1765)の銕三郎(その5)
徳川の正史ともいうべき『徳川実紀』の明和2(1765)年4月11日の項に、こう記されている。
小十人頭長谷川平蔵宣雄。西城徒頭浅井小右衛門元武は先手頭となり。書物奉行深見新兵衛は西城裏門番の頭となり、小納戸中野監物清方は小十人頭となる。
長谷川宣雄(のぶお 47歳)は、弓の8番手。
浅井元武(もとたけ 56歳 540石余)は、鉄砲(つつ)の21番手---というより、西丸の4組の中の1番手といったほうがあたっている。西丸の4組の先手はすべて鉄砲組である。
平蔵宣雄が数日前に、先手頭への昇進の予告を受けたのは、8番手の前任の組頭・本多讃岐守昌忠(まさただ 53歳 500石)が旬日前に小普請奉行へ栄転していたからである。

(先手弓の14番手組頭 本多讃岐守と長谷川宣雄)
【ちゅうすけ注】本多讃岐守昌忠については、2008年2月12日[本多采女紀品](4)を参照。
長谷川家では、その夜、赤飯で祝った。それだけの価値はあった。
小十人頭の役高は1000石、先手の組頭のそれは1500石。家禄の400石を越える増収だからである。
【ちゅうすけ注】家禄1石は、年収1両にあたると見ておけばいい。役高1500石は、それがまるまる貰えるわけではなく、宣雄の場合は、1500石からか家禄400石を差し引いた差額の1100石の足高(たしだか)を支給される。知行の1石は廩米1俵に相当するから足高は、玄米で1100俵がくだされるとみておいてよかろうか。
1俵も1両とみなす。
1両は、2008年3月8日現在の諸物価の状態で、10万円とみなすのが素直である。
つまり、宣雄は、小十人頭(役高1000石)から先手組頭(同1500石)へ栄進して、年収が500両ふえたのと同じである。
しかも、先手組頭は、俗に「番方のじじいの捨てどころ」といわれるように、下手をしても、ほとんど一生の役職である。
長谷川家が用意したのは、赤飯だけではなかった。酒肴も整えた。
祝い客を応接するためである。
真っ先にあらわれたのは、宣雄がきのうまで任じられていた小十人・5番手の組衆20人を代表して祝いの鰹節3本を持参した、与頭(くみがしら)・幸田善太郎精義(まさよし 46歳。廩米150俵)であった。幸田は、式台から上へは上がらないで、早々に引きあげた。
【ちゅうすけ注】幸田善太郎については、2007年12月6日[多加の嫁入り](4) 同12月7日 (5)
居間まで案内されて、「めでたい、めでたい」といいながら、腰をおちつけたのは、本家の太郎兵衛正直(まさなお 56歳 1450石余)であった。
正直とすれば、明日からの上(うえ)つかたがたへのお礼参りの人選と作法を教えるつもりなのである。
大きな声で銕三郎(てつさぶろう 20歳 のちの小説の鬼平)を呼びつけた。
「銕よ。この分家から初めての先手組頭の誕生だ。銕の時代まで、この幸運を引き継がねばならぬ。ここへいて先手のお頭に任じられたときの作法を、覚えておくように---」
そういう、本家だって、七代目当主・太郎兵衛の一昨年夏の弓・7番手組頭が、初めての先手組頭昇進であったのだが---。





幕府が大名屋敷や幕臣に通達している辻番所についての注意事項を見ると、昼夜ともに表戸を開けておくようにとのきまりのほかに、番人は4人から6人を詰めさせておくこととか、不寝番をかならず立てろとか、番人は60歳以下20歳以上の男性であることとか、番所に女や病人を入れてはならないとか、いろいろと細かく定めている。

【ちゅうすけ注】武家屋敷の辻番所は、昼夜を問わず表の戸をあけておくこと、という触書(ふれがき)は、宝暦13年(1763)のこの時よりも100年も前の寛文10年(1670)から出ているし、その後もしばしば触れられている。もっとも近いのは4年後の明和4年(1767)の触れ。いくら禁止されても寒い季節には、深夜はやはり、表戸を立てたいのが人情というもの。
待つ間もなく、本多采女(うねめ)紀品(のりただ 49歳 火盗改メ助役 2000石)が、与力(騎乗)1騎、徒歩の同心5名と、それぞれに丸の内左離立葵(ひだりばなれ・たちあおい)の本多家の家紋を描いた高張提灯を持った小者数人を従えて現われた。
本多一門の家紋は、右離立葵(みぎばなれ・たちあおい)で、茎の右側が縦に割れているのだが、本多紀品のところだけが異をとなえ、縦線は左側に入っている。
辰蔵宣義(のぶのり)が上呈した「先祖書」に記入されていて、『寛政譜』には採用されていない数行がある。




その1は、最初の行の「母は某氏」である。
その2は、将軍・家治(いえはる)へのお目見(おめみえ)の年齢が23歳というのは、遅くはないか---という論者がいること。
手元の文庫本から『剣の天地』を探したが、あったはずのものがない。しかたがないから『完本 池波正太郎 大成』巻21で再読した。



寛政元年(1789)9月7日、池田筑後守長恵( 900石)が、在任2年で京都町奉行から呼びもどされ南町奉行に任じられた。
蕨(わらび)宿(埼玉県蕨市)の子細の研究書だが、中に長谷川平蔵に触れた部分があるのだ。