カテゴリー「123三重県 」の記事

2006.10.04

伊三次

宇江佐真理さんの[髪結い伊三次捕物余話]シリーズの5冊目『黒く塗れ』(文春文庫)が出た。

『鬼平犯科帳』とどう関係があるのだ---なんて、荒立てはいわない。
これまでの捕物帳とは一と味違って、人物造形がよくできているんだから。

いや、取り上げたのは、推薦の気分ももちろんあるが、宇江佐真理さんは、本シリーズを書く前に、『鬼平犯科帳』を読み込んだな---とおもえるから。

150_2シリーズの一冊目は、『幻の声』(文春文庫)。

このとき、伊三次は、茅場町に住んでいて、北町奉行所の定町廻り同心・不破友之進の手先をつとめている25歳の廻り髪結い。

この、廻り髪結いは、『鬼平犯科帳』の[ふたり五郎蔵]で、もう一人の五郎蔵の職業だった。

そういえば、伊三次は、鬼平から命じられたことをやる以外の時間は何をしていたろう?
[6-7 のっそり医者]では水売りの姿で宗順医師の家のまわりを警備していたことはあるが、これ以外に職らしい職についた風にも見えない。
おまさは小間物行商、粂八は船宿〔鶴や〕の主人が表の職業だったが。
〔舟形〕の宗平はタバコ屋だが、彦十は?

その伊三次は、伊勢の関宿で捨て子され、宿場女郎衆に育てられ、やがて盗みの世界に入り、〔四ッ屋〕の島五郎一味にいたときに長谷川組に捕縛されて密偵となった。

Ueza_bunko200髪結いの伊三次は、12のときにi父親が不審現場の高いところから落ちて死に、後を追うように母も病死。姉の嫁ぎ先の髪結い床の世話になつたが、20歳のときに飛び出し、不破同心の手配で廻り髪結いをつづけている。

恋人は深川芸者の文吉。男名を粋とする深川芸者に粂八を名乗るの、第1話[幻の声]に出てくる。密偵で船宿〔鶴や〕をまかされているのが〔小房〕の粂八である。

園という名の女性も登場する。
鬼平の亡母も園だし、亡父の隠し子もお園だ。

そういう些事をとりあげるよりも、宇江佐さんが池波さんを見習っているのは、「小説はおもしろくなければ存在価値がない」という信条だ。
こちらの伊三次の生き方もなかなかだよ。
読めば、納得だから

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2006.07.25

盛り立て役---伊三次

密偵 伊三次 が、いまは中央通りと呼ばれる下谷(したや)御成道(おなりみち)、鳥居丹波守(下野国壬生藩。3万石)の藩邸前(台東区上野3丁目)で刺される痛恨の物語が[五月闇]

Toriitanba
伊三次が刺された鳥居丹波守上屋敷前(尾張屋板・人文社)

刺したのは〔強矢(すねや)〕の伊佐蔵

連載がはじまって8年と5か月目、鬼平ファミリーにすっかりなじんでいた読み手の中には、伊三次の通夜をした仁もいたという。

 細身の引きしまった躰がきびきびとうごき、ちかごろは密偵
 として一分(いちぶ)の隙もなくなり、することなすことが
 いちいち長谷川平蔵の「腑(ふ)に落ちる……」ようになっ
 てきていた。

  密偵の翳(かげ)りがいささかもない。役目を遂行する火
 改方の人びとの緊張をときほぐし、笑いをさそうのは、同心
 ・木村忠吾と密偵・伊三次の、たくまぬ諧謔(かいぎゃく)
 であるといえよう。

  困難な探索が重苦しくつづけられているときでも、伊三次
 は双眸をかがやかせて、
 「なあに、もう一息だ。いま少しでござんす」
 かえって同心たちをはげますのである。

同心・木村忠吾とならべられているが、忠吾がさそいだすのは笑い手が優越感をこめた笑声だ。
伊三次のは、提灯店(ちょうちんだな)の娼妓とのやりとりを話して笑わせるときでも人生の重みを思いださせる。やはり、生得の人柄だろう。

ふんい気をもり立て、乗せてやる気にさせるのはリーダーの大切な役目でもあるが、アシスタントに伊三次のような男がいると助かる。伊三次もそのことをわきまえて平蔵を補っている。

リーダーが応援団出身の部下を重宝するのも似た理由からだ。

伊三次の初顔見せ……というと、[猫じゃらしの女]との答えが返ってこよう。捨て子されての〔丹後屋〕の宿場女郎衆に10歳まで育てられたという過去が肉づけされるのは、たしかに[猫じゃらしの女]だ。寛政2年(1790)1月末の事件だった。

Chochindana
伊三次のなじみ、〔みよしや〕のあった提灯店は赤○(近江屋板)

が、その2年前の[あばたの新助]、同じ年の夏のおみね徳次郎 、秋の[夜鷹殺し]の3篇でも 〔小房〕の粂八 とともにちらっと名前がでている。

もっとも、上記の3篇とも伊三次をまったく肉づけしないから、通りすがりの人物なみの印象でしかない。

鬼平ファミリーの一員として認められるのは、ひとつの話の主役になってから……ということで、正式のファミリー入りはやはり[猫じゃらしの女]ということか。

念をいれておくと、[猫じゃらし…]のときの伊三次31歳>[五月闇]37歳……というと、若い女性読者は「もっと若いと思っていたのにぃ」と叫ぶ。ひそかに恋人代わりの位置を与えていたのだろう。

そうそう、葬られた目黒の黄檗派・威得寺は明治20年に廃寺となり、瑞聖寺(港区白金台3丁目)へ合祀されたが、伊三次の墓がどうなったかは不明。

つぶやき:
岡場所〔みよしや〕のあった提灯店(ちょうちんだな)の俗称のゆらいは、「生池院(しょうちいん)店」がなまったものというから、寺の持ち地だったのであろう。
現在は台東区東上野2丁目。

すぐ上の切絵図---不忍池のに突き出た中島、弁財天の横に生池院が鎮座。

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2006.03.05

〔名草(なぐさ)〕の与八

『鬼平犯科帳』文庫巻18に収録の[一寸の虫]で、血なまぐさい盗めをする盗人〔鹿谷(しかだに)〕の伴助(中年)は、自分が盗人の掟を破ったために、本格派のかつてのお頭〔船影(ふなかげ)〕の忠兵衛(50がらみ)からうけた仕置きへの恨みを忘れていなかった。
(参照: 〔鹿谷〕の伴助の項)
(参照: 〔船影(ふなかげ)〕の忠兵衛 の項)
密偵・仁三郎は、一本うどんの〔豊島屋〕でかつて同僚だった伴助に声をかけられ、行状をさぐるために仕返しの犯行に加わることを承知、一味の〔名草(やぐさ)〕の与八らに引きあわされた。
仕返し犯行とは、忠兵衛の娘おみの(24歳)が嫁いでいる本銀町の菓子舗〔橘屋〕を襲うこと。六造という男を引き込みに入れてもいた。

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年齢・容姿:中年。容姿の記述はない。
生国:伊勢(いせ)国三重郡(みえこおり)名草村(三重県三重郡楠町北五味塚)。
現在は北五味塚に併合されていると推察しているが、もしかしたら吉崎かも知れない。地元の鬼平ファンの方のご教示を俟つ。

探索の発端:本銀町の菓子舗〔橘屋〕をそれとなく伺っている初老の男に気づいた鬼平が、同心・松永弥四郎に尾行(つ)けさせ、湯島天神下の菓子舗〔柳屋〕へ入ったのをつきとめた。〔橘屋〕の内儀おみのの実家である。そこから、〔船影〕の忠兵衛がわりだされ、〔橘屋〕が見張られることになった。

結末:〔船影〕の忠兵衛を売ることはできないと、仁三郎は押し入りの場で伴助を刺殺ののち、自裁して果て、〔名草〕の与八は、そのときに捕まった。
[船影〕の忠兵衛は、一味が押し入ろうとして南茅場町の水油問屋〔岡田屋〕で23名が逮捕された。

つぶやき:上から同じように叱られても、それを根に持つ男と、逆に叱正をありがたがって人生の軌道修正の資とする男の違いを描く。
その違いは、天生の素質の違いなのか、それとも、人生体験の差からくるものなのか。ぼくには、後者のようにおもえるのだが。
人生体験の差---謙虚ということを学んだ男と、学びそこなった者の差ともいえようか。

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2005.12.11

〔桑名(くわな)〕の新兵衛

『鬼平犯科帳』文庫巻3の所載の[兇剣]で、〔高津(こうづ)〕の玄丹が〔白子屋(しらこや)〕菊右衛門へまわしてよこした、〔牛滝(うしたき)〕の紋次の依頼---鬼平暗殺の400両は受けとっておいて、菊右衛門は紋次の始末を右腕の〔桑名(くわな)〕の新兵衛へいいつけた。
(参照: 〔高津〕の玄丹の項)
(参照: 〔白子〕の菊右衛門の項)
(参照: 〔牛滝〕の紋次の項)

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年齢・容姿:どちらも記述がない。
生国:伊勢(いせ)国桑名郡(くわなこおり)桑名(現・三重県桑名市桑名)。

探索の発端と結末:〔高津〕の玄丹一味が、大和・大泉の大庄屋・渡辺家への押し入りに失敗して逃亡したとの噂を耳にした〔白子屋〕菊右衛門は、〔桑名〕の新兵衛を相手に、
「今夜あたり、ちょと締めて、土の中へ入れたらええわい」
「あの、四百両は?」
「貰て、おこうかい」
これらの会話は、鬼平が聞いていいないところでおこなわれた。

つぶやき:シリーズ第19話目にあたるこの篇で、次篇あたりで連載を打ち止めにでもするかのように、池波さんは、悪という悪をすべて披露するかのように、どっと吐きだしている。

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2005.10.30

座頭(ざとう)・徳の市

『鬼平犯科帳』文庫巻22は、当シリーズの長篇第3作目 [迷路]である。盗賊方の重鎮は〔猫間(ねこま)〕の重兵衛で、サブが別の一味の首領〔法妙寺〕の九十郎。
(参考: 〔猫間〕の重兵衛の項)
(参考: 〔法妙寺〕の九十郎の項)
密偵では、〔大滝(おおたき)〕の五郎蔵と〔玉村(たまむら)〕の弥吉のかつやくがいちじるしい。
(参照: 〔大滝〕の五郎蔵の項)
(参照: 〔玉村〕の弥吉の項)
その〔玉村〕の弥吉が、〔法妙寺〕の九十郎からえお盗めを助(す)けるように頼まれた。盗め先は、鉄砲洲の薬種屋〔笹田屋〕といわれて、明石橋の向こうをそれとなく見張っていると、座頭の徳の市が〔笹田屋〕から出てくるのを見かけた。徳の市は、按摩をしながら引きこみと〔甞役(なめやく)〕を兼ねていたのである。
徳の市は盲人をよそおって、南小田原町の中2階のある家へ女房と住んでいる。
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明石橋(別名・寒橋)徳の市の家は西本願寺の手前
(〔『江戸名所図会』より 塗り絵師:西尾 忠久)

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年齢・容姿:50前後。盲人をよそおっている。
生国:〔赤堀(あかぼり)〕の嘉兵衛との地縁から、伊勢国のどこかと推察。
(参照: 〔赤堀〕の嘉兵衛の項)

探索の発端:先に記したように、鉄砲洲の薬種屋〔笹田屋〕からと徳の市が出てくるところを屋吉が見かけた。
徳の市とは、〔赤堀〕の嘉兵衛の一味にいたときに、彼が目明きで、按摩に入った家の間取りから金蔵の場所や錠前の形まで読みとることを知っていた。
一方、〔小房〕の粂八が、尾行(つ)けていた女賊お松(27,8)が、徳の市の家へ入るのをつきとめた。

結末:〔猫間〕、〔法妙寺〕一味とも、全員捕縛。徳の市も同然。死罪であろう。

つぶやき:ストーリーの展開は、例によってあざやかなものである。同心・細川峯太郎の博打と浮気から幕があき、終わりは鬼平と〔猫間〕の十兵衛との対決となる。その間に、かつて逮捕した〔池尻〕の辰五郎がからむといったにぎやかさ。
こういう作家を、〔ページターナー〕---息もつかせずにページをめくらせる作品と呼ぶ。

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2005.09.17

〔白子屋(しらこや)〕菊右衛門

『鬼平犯科帳』文庫巻3の所載の[麻布ねずみ坂]で、指圧医師・中村宗仙(62歳)に、500両で愛妾・お八重(29歳)をゆずると約束した、大坂の香具師の元締〔白子屋(しらこや)〕菊右衛門。
3年前、お八重は京・東寺の境内茶屋〔丹後や〕の経営をまかされており、宗仙の指圧の妙技に、つい、割りない仲となってしまったが、菊右衛門の知られて、けっきょく、売られるような形となった。
江戸へ出てきた宗仙は、富裕な患者専門に高額の施療料をとっては500両に達する金を、取立てにきた浪人・石島某へわたしたが、〔白子屋〕はお八重をよこす代わりに、刺客を送ってきた。

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年齢・容姿:50男。容姿はこの篇には記されていないので『殺しの四人』(講談社文庫)の[秋風二人旅]から引く。50男。でっぷりした体格--ただし、[麻布ねずみ坂]は寛政4年(1792)の事件、[秋風二人旅]の舞台は、7年後の同11年(1799)。
生国:屋号の〔白子屋〕を(しらこ)でなく(しろこ)と読むと、伊勢(いせ)国:奄芸郡(あんきこうり)白子(しろこ)町(現・三重県鈴鹿市白子)。
池波さんのルビどおり(しらこ)だと、山形県西置賜郡小国町白子沢、福島県岩瀬郡天栄町白子、千葉県安房郡丸山町白子、同千倉町白子と、大坂とは縁遠くなる。
40歳代で大坂の香具師の元締にまでのぼりつめるには、きわめて若い時分から大坂の暗黒街の水に染まっていなければ、とかんがえると、伊勢国の白子(しろこ)と見たい。とりわけ、池波さんは鈴鹿あたりになじみがふかい。

探索の端緒:中村宗仙の指圧治療を受けた鬼平が、高額の施療料に疑問をもち、同心・山田市太郎に見張らせたところ、浪人・石島某が本所・両国一帯を牛耳っている香具師の元締・〔羽沢(はねざわ)〕の嘉兵衛のもとに出入りしていることが分明。
(参照: 浪人・石島精之進の項)
(参照: 〔羽沢〕の嘉兵衛の項)

結末:〔白子屋〕菊右衛門が派遣した浪人・石島某は、取り立てた金をネコばばして、上州・高崎に念流の剣術道場を構えていた。送金が途絶えたのでお八重は殺された。
〔白子屋〕が派遣した刺客を捕えた鬼平は、石島某の悪事を告げ、〔白子屋〕のもとへ返すと、菊右衛門は500両を宗仙へ送ってよこした。
宗仙は、その半金で麻布・永坂の光照寺(昭和40年に八王寺市絹ヶ岡3丁目へ移転)に、お八重の墓を建てた。

つぶやき:〔白子屋〕菊右衛門は、『仕掛人・藤枝梅安』の準主役の一人でもある。梅安は、菊右衛門に仕掛人として仕こまれ、最後には菊右衛門と壮絶な対決をすることになる。その経緯は同シリーズで。
付記すると、藤枝梅安は寛政11年に35歳だから明和元年(1764)の生れで、延享3年(1746)生れの長谷川平蔵より18歳若い。

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2005.09.01

〔鈴鹿(すずか)〕の又兵衛

『鬼平犯科帳』文庫巻2に収められている[お雪の乳房]で、同心・木村忠吾と割りない仲になってしまったお雪(18歳)の父親・〔鈴鹿(すずか)〕の又兵衛は、余生の一時期を、お雪といっしょに暮らしたいと望み、盗っ人稼業からの引退を考えていた。
その矢先に、お雪を預かっていてくれた亡妻の弟で、浅草・田原町1丁目で足袋屋〔つちや〕を開いている善四郎(40男。じつは元盗っ人の〔鴨田(かもだ)〕の善吉)から、彼女が惚れた相手が、選りによって火盗改メの同心と知らされて大あわて。
(参照: 〔鴨田〕の善吉の項)

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年齢・容姿:60歳。顔も躰つきも〔いたち科〕の「川獺(かわうそ)」そっくり。渋紙色でしわの多いちんまりとしてた老顔。細身の小男。
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池波さんの「川獺」のイメージは、鳥山石燕『画図百鬼夜行』(安永5年 1776)に拠ったものだろう

生国:伊勢(いせ)国鈴鹿郡(すずかこうり)伊船(ふな)村(現・三重県鈴鹿市伊船町)
「通り名(呼び名ともいう)」の「鈴鹿」を鈴鹿山脈と捉えると、広範囲にわたることになる。『旧高旧領』から「伊船」村を拾って、現在の鈴鹿市出身とした。

探索の発端:〔小房〕の粂八が、偶然に〔鴨田(かもだ)〕の善吉)を見かけたことから、見張りがはじまり、芝・横新町で煙草屋〔しころや〕を装っている〔鈴鹿〕の又兵衛へまで、糸がたぐられた。
(参照: 〔小房〕の粂八の項)

結末:芝・松本町の明樽問屋〔大黒屋〕へ押し込んだ〔鈴鹿〕の又兵衛一味は、待ち伏せていた鬼平たちに逮捕された。
木村同心との仲を裂くべく、お雪を連れた〔鴨田〕の善吉は、つつがなく京へ逃避できたよもう。

つぶやき:〔鈴鹿〕の又兵衛が営んでいる煙草屋の屋号〔しころや〕の「錣(しころ)」は、兜(かぶと)の鉢から左右や後部に垂れている首の保護材の呼称。
鈴鹿山脈の中に「錣峰」と呼ばれる山でもあるのだろうか。それれとも、鈴鹿郡にそういう武具職人のいる村でもあったか。
〔鈴鹿〕の又兵衛一味が盗み装束でそろいの「錣頭巾(しころずきん)」をかぶって押し入ったわけではあるまい。

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2005.08.31

〔長嶋(ながしま)〕の久五郎

『鬼平犯科帳』文庫巻7に収められている[盗賊婚礼]で、2代目〔鳴海(なるみ)〕の繁蔵の使いで、江戸の盗賊の首領〔傘山(かさやま)〕の弥太郎の番頭格の〔瓢箪屋(ひょうたんや)〕勘助のもとへやってきた〔長嶋(ながしま)〕の久五郎を見て、勘助は「広野の中の一本杉のような男(やつ)」と好印象をもつ。届けられた手紙の主旨は、、親同士の約束だからと、自分の妹(じつは情婦)を花嫁として押しつけようとするものであった。
(参照: 〔鳴海〕の繁蔵 ・2代目の項)
(参照: 〔瓢箪屋〕勘助の項)

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年齢・容姿:年齢の記述はないが、〔傘山(かさやま)〕の先代に恩を受けているというから、40台前半か。めったなことでは表情を変えない。
生国:紀伊(きい)国桑名郡(くわなこうり)長島(現・三重県桑名市長島町)
「長嶋」は『旧高旧領』にないので「長島」で検索した。美濃国本巣郡長島村も信濃国小県郡長島村 も〔鳴海〕に地縁がないとはいえないが、池波さんは、織田信長の長島攻めで覚えた地名であろうと推量して、三重の「長島」を採った。

探索の発端:生母の実家、巣鴨村の三沢家を訪ねた鬼平は、従兄弟の仙右衛門と、駒込片町の円通寺(文京区本駒込3丁目)への墓参りをすませ、岩ぶち街道に面した小料理屋〔瓢箪屋〕で午餐をとり、その料理のよさに満足した。
それから半月後。
5,000石の大身旗本で旧知の林内蔵助の駒込・動坂の下屋敷で、岸井左馬之助ともどもにご馳走になり、巣鴨村の三沢家に泊まるつもりで〔瓢箪屋〕の裏手にさしかかったとき、屋内で起きている騒ぎに気づいた。
2人で打ちこんでみると、〔傘山〕の弥太郎と〔鳴海〕の繁蔵の妹お糸(じつは繁蔵の情婦お梅)との婚礼中、繁蔵の配下の〔長嶋〕の久五郎が、偽の花嫁の正体を暴露したための混乱であった。

結末:かつて、先代〔傘山〕の弥兵衛に大きな恩をうけていた〔長嶋〕の久五郎は、偽りの婚儀の次第をぶちまけるとともに、〔鳴海〕の繁蔵を刺し、自らは用心棒の土山浪人に斬られた。

つぶやき:「恩は着せるものではなく、着るもの」は、池波さんが長谷川伸師からゆずられた処世訓である。久五郎は受けたのがどんなであったかはは、死にぎわにもあえて語らない。それが物語りにより深みを添えている。

2005年10月17日(火) 取材リポート

「広野の中の一本杉のような男(やつ)」と、勘助に好印象を与えた〔長嶋〕の久五郎を育んだ風土はどんなところなのか、この目で確かめたかった。
近鉄名古屋線が桑名駅を出るとすぐ、揖斐(いび)川と長良川をわたり、長島駅。
1121b

永禄10年(1567)と元亀元年(1570)の2度、長島攻めに失敗した織田信長は、3度目の正直とばかりに天正2年(1574)、川からと陸からの数方向から攻めたて、一揆側を餓死寸前にまで追いこみ、男女2万近くを殺した。
司馬さんの『国盗り物語』(新潮文庫)はこの合戦を割愛している。門徒の末裔である司馬さんが、書くに耐えなかったとはおもいたくはないのだが。
ともかく、〔長嶋〕の久五郎のすがすがしさには、門徒の心情がひそんでいるようにおもえてならなかった。

駅前のタクシードライヴァー氏に、「一揆の遺跡へ見たい」と頼んだ。
「一揆が立てこもった願証寺はいまは長良川の川底に沈んでいます。再建された願証寺に、一揆の記念の石碑があります」
それでいい、と出発。
島中には温泉があったりして、けっこう、財政は豊かだったらしい。それに目をつけた桑名市が合併をのぞみ、この春、実現した、とは、長島育ちのドライヴァー氏の弁である。

新生願証寺は、水田の中に見えた。
1122b

史実によると、元の願証寺が河川改修工事で川底へ沈んだのは明治27年(1894)とのこと。新しく建てられたのは、そのあとであろう。
〔長嶋〕の久五郎が生まれたのは、一揆後200年ほど経ってからだ。が、一揆についての話はずっと聞いて育ったろう。
境内に、一揆の記念碑があった。
1123bb

空は、いまにも雨を落としそうに、雨雲がうねっていた。

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2005.07.17

〔朝熊(あさくま)〕の宗次

『鬼平犯科帳』文庫巻22は、長篇[迷路]である。〔猫間(ねこま)〕の重兵衛と鬼平との壮絶な対決の本筋に、脇役が何十人もからむ。その1人が、同心・細川峯太郎に博打の元手を貸す浅草・福井町の香具師(やし)の元締めの〔鎌屋(かまや)〕富蔵がそうで、乾分の〔朝熊(あさくま)〕の宗次が口をそえた。
(参照: 〔鎌屋(かまや)〕富蔵の項)

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年齢・容姿:どちらの記述もない。
生国:伊勢(いせ)国度会郡(わたらいごうり)朝熊(あさぐま)村(現・三重県伊勢市朝熊町)。
「朝熊」の村名は、空海が山中で修行していたとき、「朝熊獣出で、夕に虚空現ぜり」ゆえに名づけたと吉田東伍博士『大日本地名辞書』は記している。
町内の朝熊神社は、内宮摂二十四社の一とも。
『鬼平犯科帳』では、濁らないで(あさくま)とルビがふられている。

探索の発端:細川同心が博打をやめたので、探索されずにすんだ。

結末:上記に同じ。

つぶやき:この〔朝熊(あさくま)〕と濁らない「通り名(呼び名)〕は、密偵の伊三次が文庫巻9[泥亀(すっぽん)]で一度だけ使用したことがある。
(参照: 朝熊の伊三次の項)
再び登場したのは、池波さんが忘却したのか、あるいは、伊三次が使ったのは、推定どおり、〔泥亀〕の七蔵を安心させるためだったか。
朝熊神社の地図---
http://map.livedoor.com/map/?MAP=E136.45.20.0N34.29.1.2&ZM=8&SZ=850%2C600&OPT=e0000011&KN=1&COL=1&x=433&y=299

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2005.07.09

〔田辺(たなべ)〕の十松

『鬼平犯科帳』文庫巻10の巻頭におかれている[犬神の権三]は、〔雨引(あまびき)〕の文五郎と、〔犬神(いぬがみ)〕の権三郎との、命をかけた怨念の勝負である。
(参照: 〔雨引〕の文五郎の項)
(参照: 〔犬神〕の権三郎の項〕
〔落針(おちばり)〕の彦蔵をある因縁から殺害した文五郎は、いまは火盗改メの密偵になって、尻尾をつかみにくく凶悪な〔独りばたらき〕の盗賊を、見つけては指している。そのうちの1人が〔田辺(たなべ)〕の十松であった。
(参照: 〔落針〕の彦蔵の項)

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年齢・容姿:どちらも記述されていない。
生国:「田辺」という地名も、少なくはない。田が拓かれていれば、辺はつきものだ。京にも大坂にもある。
伊勢(いせ)国員弁郡(いなべごうり)田辺村(現・三重県員弁郡北勢町田辺)を採ったのは、かつて〔雨引〕の文五郎が属していたお頭〔西尾〕の長兵衛の本拠が伊勢だったから、とうぜん、組織はことなっていても、顔見知りか、あるいは手を借りたこともあったろうと推測したから。盗人集団同士での助っ人の貸し借りはないことではない。

探索の発端::記述はないが、だいたいの想像はつく。伊勢から名古屋へかけてが盗め場所の〔田辺(たなべ)〕の十松が、〔尾羽根(おばね)〕の留吉と連れ立って、骨休めに江戸へやってきて、深川の富岡八幡宮から洲崎の弁財天へまわり、門前の茶店の縁台にすわって素顔をさらしていて、宿をつきとめられたのであろう。

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洲崎弁財天(『江戸名所図会』より 塗り絵師:西尾 忠久)

結末:江戸を出ようと、朝発ちしたそのときに逮捕。死罪。

つぶやき:凶悪な心根の〔田辺(たなべ)〕の十松といえども、神域にいるというだけで、さして信じてもいないのに功徳を求めたりしたくなるときもあるのだろう。十松と留吉があげた賽銭は1分(約2万5000円)。人間のこころは、自分で信じているほど強靭ではない。

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2005.05.02

〔印代(いしろ)〕の庄助

『鬼平犯科帳』文庫巻1に収められている[老盗の夢]は、本格派の盗賊が滅びゆく時代を象徴しているかのように、〔蓑火(みのひ)〕の喜之助が畜生ばたらきの盗人たちに殺されてしまう物語。〔野槌(のづち)〕の弥平一味の残党の一人で、没義道(もぎどう)な臨時ばたらきの盗人。
(参照: 〔蓑火〕の喜之助の項)
(参照: 〔野槌〕の弥平の項)

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年齢・容姿:屈強な30男。
生国:伊賀(いが)国阿拝郡(あえこうり)印代(いじろ)村(現・三重県上野市印代)
『旧高旧領』『角川地名大辞典』のルビは(いじろ)。『大日本地名辞書』(冨山房)は(いしろ)。
池波さんは、荒木又右衛門の取材で上野市を取材したはずだが、同市の北部のここまで足をのばしたろうか。

探索の発端:この盗人仲間同士の決闘物語には、火盗改メは直接にはからんでいない。
引退先の京都郊外の山端(やまはな)の飯屋の座敷で給仕をしている大女おとよの躰に、久しぶりに男性としてのきさぜしが蘇った〔蓑火〕の喜之助は、おとよとの生活資金をつくるぺく江戸へ下り、〔夜兎(ようさぎ)〕の書く右衛門の盗人宿の番人〔前砂(まいすな)〕の捨蔵に、臨時の助っ人の世話を頼んだ。
(参照: 〔夜兎〕の角右衛門の項)
(参照: 〔前砂〕の捨蔵の項)
その口ききでやってきたのが、すでに逮捕・処刑された〔野槌〕一味で生き残りの、
〔印代(いしろ)〕の庄助
〔火前坊(かぜんぼう)〕権七
(参照: 〔火前坊〕の権七の項)
〔岩坂(いわさか)〕の茂太郎
(参照: 〔岩坂〕の茂太郎の項)
表面は〔蓑火〕のいいつけを聞いているふうを装いながら、いざ決行という段になると、〔蓑火〕の喜之助を縛り上げて、計画の横取りをもくろんだ。

結末:〔縄抜け〕の異名をもつ喜之助は、うまく縄から抜け出て、九段下の屋台にいた3人を襲い、2人を刺殺、あとの1人と相打ちの形で斃れた。

つぶやき:最初に記したように、これは、正統派の盗賊への挽歌である。
と同時に、男がもっている業(ごう)の賛歌である。賛歌(?)、そう、喜之助は、何年ぶりかで男性を蘇らてくれた女性のために命を落としたのだから、畳の上での往生でなくても満足であったろう。

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2005.04.25

〔常念寺(じょうねんじ)〕の久兵衛

『鬼平犯科帳』文庫巻16に入っている[霜夜]で、〔須の浦(すのうら)〕の徳松一味として、鬼平のかつての同門の池田又四郎を脅す僧形の盗人。
(参照: 〔須の浦〕の徳松の項)

216

年齢・容姿:40がらみ。僧形(そうぎょう)。
生国:伊勢(いせ)国飯南郡(はんなんこおり)松坂・常念寺小路(現・三重県松坂市中町)
池波さんが訪れたこともある山形県山形市三日町の常念寺も考えたが、〔須の浦〕一味のテリトリーが上方から北陸道へかけて、とあるので、松坂をとった。荒木又右衛門のことで取材した地でもある。

探索の発端:京橋・大根河岸の兎料理が名代の〔万七〕で、高杉道場でのかつての弟弟子・池田又四郎を見かけた鬼平は、南飯田町の船宿〔なだや〕まで後をつけた。
又四郎は、この船宿で、〔常念寺(じょうねんじ)〕の久兵衛と〔栗原(くりはら)〕の重吉から、義妹のお吉に引きこみをさせるようにせかされた。お吉は〔須の浦〕一味を勝手に抜け、本湊町の薬種問屋〔大和屋〕で女中をとして信頼を得ていたのである。又四郎の妻お米は、夫が妹のお吉とも通じていることを気に病みながら女賊として病死していた。
同じ夜、池田又四郎が役宅へ、「明日の午後2時に、砂村の元八幡の境内へ、一人で来てほしい」と置手紙していた。

575
砂村元八幡宮(『江戸名所図会』より 塗り絵師:西尾 忠久)

結末:池田又四郎は、きのうまで同類だった〔須の浦〕一味の者8名を斬り殺したが、自分も瀕死の重傷を負い、鬼平の手の中でこときれた。
江戸での盗めのために設けられた〔須の浦〕一味の盗人宿は、又四郎が打ち明けたので、残っていた者はことごとく逮捕。死罪であろう。

つぶやき:高杉道場から池田又四郎が消えたのは、銕三郎(長谷川平蔵の家督前の名)に冷たくされたからだという。又四郎は銕三郎の色子になりたかったのだ。ストレート派の銕三郎は、そのことに気づかない。
『鬼平犯科帳』にも『剣客商売』にもそのほかの短篇にも、池波作品には衆道をあつかった物語が意外な頻度で登場するのは、なぜなんだろう。それだけの比率で世に存在しているということの反映なのか。
又四郎は妻帯、さらに義妹とも関係したのは、衆道から立ち戻ったのか、それとも二刀流?

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2005.03.28

〔鹿間(しかま)〕の定八

『鬼平犯科帳』文庫巻21に入っている[討ち入り市兵衛]で、元のお頭〔蓮沼(はすぬま)〕の市兵衛の本格派の盗めぶりに飽き足らず、畜生ばたらきの〔壁川(かべかわ)〕の源内一味につき、〔蓮沼〕一味との交渉役を買ってでた盗賊。
2年前から深川・三好町で釣具屋を構えて、〔壁川〕一味の江戸での初仕事に備えている。

221

年齢・容姿:どちらも記述されていない。
生国:伊勢(いせ)国鈴鹿郡(すずかこおり)鹿間村(現・三重県四日市市鹿間町)
別に、飛騨(ひだ)国吉城(よしきごおり)郡鹿間村(現・岐阜県吉城郡神岡町鹿間)の線も捨てがたかったが、3つの理由で前者を採った。
1.神岡町の鹿間は、江戸期、戸数9、人数64の辺鄙な郷であった。こういう土地で育った仁が、目先の利益にとらわれることはすくなかろう。
2.〔蓮沼〕一味のテリトリーはほとんど江戸。対する〔壁川〕一味の本拠は上方から中国筋。このように盗みのテリトリーが異なる一味のあいだを器用に渡れるのは、東海道筋育ちの世慣れた仁でなくてはできまい。ましてや、〔鹿間〕の定八がやったのは、〔壁川〕の源内に代わっての〔蓮沼〕の市兵衛やその右腕〔松戸(まつど)〕の繁蔵との交渉役であった。
3.池波さんは、忍者ものの取材で、伊賀や鈴鹿辺を丹念にしらべてい、土地勘がある。

探索の発端:本所・二ッ目、弥勒寺門前の茶店〔笹や〕の女主人お熊が、隣の〔植半〕の裏庭で倒れていた重傷の男を見つけ、自分の家へ運んだ。
密偵・彦十がその男は、20年も前に知り合っていた〔松戸〕の繁蔵と証言し、〔大滝(おおたき)〕の五郎蔵が、いまは神格化されている盗賊の頭領〔蓮沼(はすぬま)〕の市兵衛の右腕だといった。
〔松戸〕の繁蔵の頼みで、彦十が〔蓮沼(はすぬま)〕の市兵衛に事情を説明すると、市兵衛はさっそくに仇討ちを決めた。

結末:旧暦2月初めの朝5時近く。灰色の筒袖の上着に股引、紺の手甲・脚絆、鉢巻に足袋跣(たびはだし)の〔蓮沼〕一味6名に、木村忠右衛門に化けた鬼平が、深川・三好町の釣具屋に討ち入った。
首魁の〔壁川〕の源内は、鬼平に捕まり、市兵衛の短刀で刺殺されたが、〔蓮沼〕側も市兵衛のほか3人が討ち死に。
しかし、〔壁川〕側の4名の死者、3名の逃亡者の中に、なぜか、〔鹿間〕の定七の名は記されていない。

つぶやき:本格派の〔蓮沼〕一味対畜生ばたらき派〔壁川〕一味の対決は、どちらも首領を失っているから、勝ち負けなしなのだが、読み手は、〔蓮沼〕一味の勝ちとおもいたがる。池波さんの筆力の妙である。

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2005.03.14

絵師・石田竹仙(ちくせん)

『鬼平犯科帳』文庫巻6の[盗賊人相書]に初登場。前身は旅絵師として諸方の分限者の肖像画を描きながら甞役を兼ねていたが4年前に足を洗い、この篇で火盗改メ・長谷川組と関係ができた。巻10[消えた男]p240(新装版p252)、巻17[鬼火]p32,236(新装版p34,244)でも火盗改メのために人相書を描く。

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年齢・容姿:寛政3年(1791)盛夏の事件である[盗賊人相書き]のとき34,5歳。馬面で、頭を剃りあげ、おちょぼ口の下に山羊ひげ。
生国:伊勢(いせ)国飯高郡松阪(現・三重県松坂市)

探索の発端:飯田町の蕎麦屋〔東玉庵〕の深川・熊井町支店に賊が押し入り、夫婦と奉公人3人が殺害され、金を奪われた。そのとき、小女のおよしは腹をこわして厠へ入っていたために難をのがれ、盗人の首領とおぼしき男の顔を見た。
同心・酒井祐助・竹内孫四郎・木村忠吾らに頼まれて、およしが覚えていた盗人の人相書を描いた石田竹仙の緊張ぶりを聞いた鬼平が疑念を抱き、本所・弥勒寺橋の架かる五間堀のたもとの住居の監視を手配。

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弥勒寺と五間堀に架かる弥勒寺橋(『江戸名所図会 塗り絵師:西尾 忠久)

結末:竹仙が描いたのは、かつての盗人仲間だった遠州無宿の熊治郎だったが、彼が、盗め先で女は犯すは、殺傷はするはに愛憎をつかせた竹仙は、たもとをわかっていた。
京橋・竹河岸の居酒屋にひそんでいた熊治郎に、絵火盗改メのために人相書を渡したことを告げて逃亡をすすめたが、逆に絞殺されそうになったところを、飛び込んだ〔大滝〕の五郎蔵が竹仙を助けた。
熊治郎は屋根から路地へ飛び下りたが、待っていた鬼平に捕縛された。
竹仙はおかまいなし。

つぶやき:竹仙は家庭を持っていた。女房は本所・松井町の菓子舗〔井筒屋〕のゆき遅れだった三女で、腹には子がやどっている。竹仙が恐れたのは、熊治郎の線から自分の過去が暴露され、家庭が崩壊することだった。
熊治郎は、竹仙の線から、自分の身性が割れることを恐れた。
どちらも、おもいめぐらすのは、わが身のことだけ。

旅絵師が甞役とは、池波さんも考えたものだ。

徳川幕府の[御定書(刑法)]第81条に、「人相書を以って御尋ねになるべき者の事」という条があり、

(寛保2年 1742 極)
1.公儀へ対し候重き謀計。
1.主殺し。
1.親殺し。
1.関所破り。
(同)
1.人相書をもって御尋ねの者を存じながら囲い置き、または召仕等致し、訴え出ざる者、獄門。
(寛保2年 同3年極)
但し、存じながら請けに立ち候者、同罪。吟味のうえ存ぜざるに決し候とも、主人、請け人ともに過料。

ここでいう「人相書を以って御尋」とは、人相書を掲示などに公開することであろう。『鬼平犯科帳』に書かれている人相書は、火盗改メ組内での配布とかんがえておく。

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2005.03.09

〔落針(おちはり)〕の彦蔵

『鬼平犯科帳』文庫巻9に収録されている[雨引の文五郎]で、文五郎を狙う盗人。
(参照: 〔雨引〕の文五郎の項)

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年齢・容姿:中年とのみ。大きく張りだした額の下に金壺眼(きんつぼまなこ)。
生国:伊勢(いせ)国鈴鹿郡(すずかごおり)落針村(現・三重県亀山市布気町のうち)
学習院生涯学習センター〔鬼平〕クラスでともに学んだ堀眞治郎さんからの寄稿。「東海道に面していたかつての落針村は、明治8年(1875)に野尻村と合併して布気(ふけ)村となり、昭和29年(1954)10月1日、亀山市布気町となる」
落針という地名の由来は、平家の落武者が住んだ地---落逃村が変化したものと伝えられているとか。
池波さんは(おちはり)とにごらないルビを付しているが、歴博のデータペース『旧高旧両取調帳』は(おちばり)としている。

探索の発端:二ツ目通りの弥勒寺門前茶店〔笹や〕で、人相書きどおりの〔雨引〕の文五郎を見かけた鬼平が尾行。鬼平の前を歩いていた男が、宜雲寺(江東区白川2丁目)裏で、文五郎に匕首をつきつけた。
「盗賊改メの長谷川平蔵である。両人とも神妙にいたせ」と鬼平が叱咤すると、男は鬼平に短刀を向けてきた。
捕らえて密偵〔舟形(ふながた)〕の宗平に見せ、甲信2州から美濃へかけてが縄張りの〔西尾(にしお)〕の長兵衛一味にいた〔落針〕の彦蔵とわかった。
(参照: 〔舟形〕の宗平の項)
(参照: 〔西尾〕の長兵衛の項)

結末:〔舟形〕の宗平に破牢させてもらったが、本所・御蔵橋上で〔雨引〕の文五郎に刺殺される。


つぶやき:〔雨引〕の文五郎と〔落針〕の彦蔵の争いを、〔舟形〕の宗平fは、〔西尾〕の長兵衛の跡目争いによる怨念とみたが、真相は、長兵衛のもとから去った彦蔵があまりに血なまぐさい盗めをするのに憤慨した文五郎が、大坂・心斎橋の足袋屋〔形名屋〕へ押し入ろうとしていることを手紙で知らせた妨害を根にもっての私闘だった。
池波さんは、〔雨引〕の文五郎の盗人としての正義感を示したかったのかもしれないが、それで命を狙われたのだから、ちょっと出すぎた行為といえないこともない。

本所・御蔵橋は、10年ほど前に埋められて、いまはない。
御蔵橋に行きつく前に〔落針〕の彦蔵たちが渡った橋が「駒留橋」とあるのは、正しくは「石原橋」だが、これも駒留橋ともども、いまはなくなってしまっている。

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2005.03.05

〔赤堀(あかほり)〕の嘉兵衛

『鬼平犯科帳』文庫巻22は、長篇[迷路]。そのp212(右の新装版はp202)にちらっと記述されている盗賊の首領。

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もっとも、本旨は、密偵〔玉村〕の弥吉が、かつて現役(いまばたらき)の盗人だったころ、座頭〔徳の市〕と知りあった経緯を説明するために言及したものだった。が、そのようなときにも池波さんは、押し入り先の店名や業種まできちんと指定する律儀さを見てほしかったので、ライトをあてた。
(参照: 〔玉村〕の弥吉の項)

年齢・容姿:いずれも記述されていない。
生国:伊勢(いせ)国三重郡(みえごおり)赤堀村(現・三重県四日市赤堀)

探索の発端:火盗改メによって探索されたのは、〔法妙寺〕の九十郎一味につながる座頭〔徳の市〕である。彼が築地・鉄砲洲の薬種店〔笹田屋〕から出てきたのを、〔玉村〕の弥吉が見かけたのである。
上記したように、弥吉と座頭〔徳の市〕は、〔赤堀〕の嘉兵衛が名古屋城下の小間物問屋〔丸屋〕清助方へ押し込んだときに一味の中にいたのである。
そして、薬種店〔笹田屋〕には、その年の春に押し入ろうとした〔池尻〕の辰五郎一味が、長谷川組によって逮捕され、首魁の辰五郎は自害して果てていたという因縁があった。
(参照: 〔猫間〕の重兵衛の項)
(参照:〔法妙寺〕の九十郎の項
(参照:座頭・徳の市 の項
参照:〔池尻〕の辰五郎の項

結末:〔赤堀〕の嘉兵衛の逮捕については、記述がない。
先代〔池尻〕の辰五郎のむすめと夫婦になったのが猫間〕の重兵衛で、2代目〔池尻〕の辰五郎は義弟にあたる。
参考:〔猫間〕の重兵衛の項
先述のように、薬種店〔笹田屋〕方を襲おうとした2代目〔池尻〕の辰五郎は自害して果て、一味は火盗改メの手で捕縛され、死罪。

つぶやき:池波さんがつねに座右に置いて、盗人の〔通り名(呼び名)〕づけをするとき参照していた吉田東伍博士編『大日本地名辞書』(冨山房 明治33年-)には、「赤堀」は、伊勢・三重郡のほかにもう1カ所、上野国(こうずけのくに)佐波郡(さわごおり)の、こちらは「ぼり」とにごる「赤堀(あかぼり)村」をあげている。国定忠次の生まれた村の北にある。

「〔赤堀〕の嘉兵衛一味は名古屋城下の小間物問屋〔丸屋〕清助方へ押しこんだ」とある。池波さんが開いた『大日本知名辞書』のページは、伊勢国のほうだった---と、これで決めた。

「赤堀」というからには、堤の土が赤っぽいのだろうか。両所とも、現場をふんでいないので確かではない。
が、その土の色からフランスのコート・ダ・ジュールのカンヌ周辺を連想した。鉄分を含んだ赤土だった。
焼き物でいえば、万古焼(ばんこやき)である。万古焼は伊勢の桑名から興きたが、大陸・江蘇省の宜興窯(ぎこうよう)を模したことで知られている。そちらの土地の陶土もまだ見たことがない。

つぶやき2:2005日10月18日、近鉄線・四日市市から内部線で1駅の「赤堀」を取材に行った。
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「赤堀」はホームも短い無人駅だった。無頼庵さんのコメントにあるとおりの、四日市市の中心地へ間近い閑静な住宅地で、赤い土は見えなかった。というより、赤堀氏の城館跡かともおもえる堀川が目についた。
たったこれだけのことを納得しただけの訪問になった。

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2005.02.11

〔藤坂(ふじさか)〕の重兵衛

『鬼平犯科帳』文庫巻14に収録の[尻毛の長右衛門]に、〔尻毛〕一味の最高幹部役としてちらっと登場。4か所に設けられている江戸の盗人宿のうち、浅草の宿を束ねている。

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(参照: 〔尻毛〕の長右衛門の項)

引きこみのおすみのほうから誘いに、つい、できてしまった〔布目〕の半太郎が、お頭の長右衛門にそのことを報告・許しをえようとしかけた。が、長右衛門のほうから、年齢が30余も若い「おすみを嫁にしたいのだが---」と打ち明けられ、半太郎は切羽つまった。
そのとき、重兵衛が部屋へ入ってきたので、半太郎は救われるように引き下がることができた。[〔布目(ぬのめ)の半太郎]の項も照されたし)

年齢・容姿:中年。あとは記載されていない。
生国:三重県度会(とあらい)郡南島(なんとう)町の北、藤坂峠のあたりの出か?

探索の発端:本所・吉田町2丁目(現・石原4丁目)の薬種屋〔橋本屋〕へ引きこみとして入っていたおすみを見かけた女密偵おまさが、顔や体つきがおすみの母親お新とそっくりなのに疑念を抱き、鬼平へ伝えた。
〔橋本屋〕とおすみに見張りがつけられた。

結末:〔布目〕の半太郎が失踪し、代わりに〔橋本屋〕へのお盗めが中止になつたから急いで脱けだすようにと、おすみに告げにきた重兵衛が尾行され、浅草の盗人宿が急襲され、重兵衛ほかが捕まった。
(参照: 〔布目(ぬのめ)〕の半太郎 の項)

つぶやき:どちにしても結果は同じとおもうが、おすみにつなぎをつけるために、〔尻毛〕の長右衛門の右腕である〔藤坂〕の重兵衛がわざわざ出かけるというのも、いかにも軽々しいとおもう。

あるいは、おすみと一緒になることを望んでいた〔尻毛〕の長右衛門のこと、押し込みは中止、すぐに抜けだしてこい---という大事なつなぎだから、じかに重兵衛にいいつけたのかもしれない。

おすみの躰には泥鰌が100匹棲んでいるという。母ゆずりの躰ということもあろう。お新をものにしていた長右衛門だから、そのことを想像して、年齢差もなんのその、一緒になることをのぞんだのかも。
いや、池波さんもとんだ読者サービスを仕込んだものだ。安来の男でないものまでが、つられて、泥鰌すくいを試みることになるではないか。

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2005.01.21

伊三次が発端

◎伊三次が見かけたのが事件の発端

[6-2 猫じゃらしの女] 〔伊勢野(いせの)〕の甚右衛門
                    p69 新p74
[9-3 泥亀]      〔関沢(せきざわ)〕の乙吉
                    p95 新p100
[10-4五月雨坊主]   〔羽黒(はぐろ)〕の九兵衛
                    p162 新p170
[12-3見張りの見張り] 〔長久保(ながくぼ)〕の佐吉
                    p115 新装p121
[14-5五月闇]
     〔強矢(すねや)〕の伊佐蔵
                    p195 新装p201

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〔朝熊(あさくま)〕の伊三次

『鬼平犯科帳』文庫巻14の[五月闇]で刺殺されるまで、巻4[あばたの新助]で鬼平直属の密偵として初登場して以後、34篇で活躍。歿後も6篇に名前が出、その働きがしのばれている。
代表的な篇は、巻6[猫じゃらしの女]、巻9[泥亀]、巻12[見張りの見張り]同じく[密偵たちの宴]と、殺される[五月闇]

206
214

年齢・容姿:初めて顔見せした[あばたの新助]のときが寛政元年(1789)で30歳、それから7年後の[五月闇]は37歳。きびきびしたいなせな立ち居ふるまい。
生国:不明。2歳のときに東海道・関宿で捨て子されており、女郎屋で女郎衆に育てられた。

探索の発端:〔四ッ屋〕の島五郎の配下だった29歳のときに捕縛されて、密偵に。〔四ッ屋〕一味の逮捕の経緯は記されていないため不明。
(参照: 〔四ッ屋〕の島五郎の項)

密偵となってからは、清水門外の火盗改メの役宅の長屋で起居。

結末:密偵として働いていたとき、過去の女がらみのことで、〔強矢(すねや)〕の伊佐蔵に刺殺された。気があった同心・木村忠吾が、菩提寺・威徳寺の自家の墓域の隣に葬ってやった。
(参照: 〔強矢〕の伊佐蔵の項)

つぶやき:出生地を三重県としたのは、捨て子以前のことはまったくわからず、発見されたのが関の宿(しゅく)だったから。

「とおり名(呼び名)」を付したのは、これまでの盗人たちのタイトル例を踏襲しただけ。
かんがえられるのは、捨て子された関の宿をとって「〔関〕の伊三次」とするのがふつうと。。

が、あえて〔朝熊〕とつけたのは、文庫巻9[泥亀]で、金をとどけてやった初対面の相手〔泥亀〕の七蔵を安心させるために、「おれも、お前さんや〔関沢〕の乙吉どんと同じお盗(つと)め仲間でござんすよ」とおもわせるために、咄嗟に名乗ったにちがいないと推量したから(注・[〔泥亀(すっぽん)〕の七蔵]を参照されたい)。このあたりが、伊三次の機転がきくところ。
(参照: 〔泥亀〕の七蔵の項)
ちなみに、伊三次が〔朝熊〕を名乗ったのは、文庫巻9p111 新装p116 の1回こっきりである。

朝熊神社は、かつては度会(わたらい)郡朝熊郷の氏神だったが、いまは伊勢市に合併され、同市朝熊町に鎮座。

関宿の女郎屋〔丹後屋〕の女将に拾われ、宿場女郎衆にそだてられた伊三次は、10歳のとき岡崎の油屋へ出されたが、いつのまにやら盗人の世界に入っていた。

28歳のとき〔強矢〕伊佐蔵の女房と駆け落ちし、けっきょく、その女を殺してしまい、伊佐蔵に命を狙われることになった。

鬼平にいわせると、密偵として、することなすことにそつがなく、鬼平の意のあるところを遺漏なく察し、探索が壁にぶちあたって困憊していると、「いま、すこしでござんす」と声をかけてみんなをふるいたたせたほど、チームにとってかけがえのない男であったと。享年37歳。

ちなみに、伊三次の墓標のあった威徳寺は、明治20年に廃寺となり、瑞聖寺(港区白金台3丁目)へ合祀された。
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威徳寺を合祀している瑞聖寺(『江戸名所図会』 塗り絵師:西尾忠久)

瑞聖寺は禅宗でも黄檗派だが、威徳寺は、権之助坂にあった浄覚寺ともにその支院だったようだ。
瑞聖寺の住職・古市師によると、黄檗派はもともと檀家をもたないので、明治の排仏毀釈のときに経済的に行き詰まるところが多く、仏具なども売り払い、合祀のときにはほとんど何もなかった例が少なくなかったと。

司馬遼太郎さんの、徳川家康と三河衆の気質を書いた『覇王の家』(新潮文庫 連載は『小説新潮』1970.01-71.09)p537に、家康が於阿茶局が産んだ第6子・忠輝を追放した先が、伊勢朝熊(あさま)だった、とある。
[泥亀(すっぽん)]は、『オール讀物』1972年11月号に掲載された。

発表の時期が近いから、池波さんも連載中の『覇王の家』を読み、「朝熊」という三重県の地名に興味を覚えたのだろう。吉田東伍博士『大日本地名辞書』には、村名「朝熊(あさくま)」も「朝熊(あさぐま)神社」も載っていることだし。
村名がいつから「朝熊(あさま)」と縮まったかは不明。


東海道・関宿の探索リポート(2005.09.19)

密偵・伊三次がいう。
「おれは、むかし、勢州(三重県)関の宿場で捨子にされてねえ」
「二つのときだ。そのおれを、関の丹後屋という店の宿場女郎のみなさんが拾ってくれてね、それから十(とう)になるまで、おらあ、そこの女郎衆に育ててもらったのさ」  (文庫巻6[猫じゃらしの女])

そういうことだと、関宿(せきじゅく)へ行って、伊三次が育てられた置屋を見たくなるではないか。

長い間の懸案だった。
池波さんも、現地を踏んだにちがいない。思い切って出かけた。
1251
1320
JR関駅

かつての東海道筋。櫺子(れんじ)窓の家並みが保存されている。
1325
宿場の真ん中あたりから亀山方面を望む
1252
関宿の石標

配達途中の酒屋のご主人に聞いた。
「江戸時代に、女郎屋があったのはどのあたりでしょう?」
「あの、塩の軒下看板が出ている家の、向う隣ですよ」
塩の軒下看板の家は八百屋だった。
八百屋の前から逆T字に関神社(写真)への参道がのびている。
b
その隣(江戸側)の家に、教育委員会の銘板があった。
b
「かつての置屋。隣の家(写真)には飯盛女がいた」と。
0134
伊三次を育てた女郎衆は、この家で旅人に色を売っていたのだ。
伊三次が捨子されていたのは、関神社の鳥居の下だったのかも。置屋へも泣き声が届く、百歩の距離だ。


朝熊神社の探索リポート(2005.09.20)

こんどの取材旅行の目的の一つに、密偵・伊三次が、文庫巻9[泥亀(すっぽん)]で、痔病みの七蔵へ、鬼平のいいつけで大金を届けてやるとき、なぜ、 〔朝熊(あさくま)〕という「通り名(呼び名)」を名乗ったかの謎を探ることもあった。

日本中で朝熊と書く地名は、三重県伊勢市朝熊(あさま)しかない。そこの鎮守が朝熊(あさま)神社である。
近鉄山田線に「朝熊」無人駅があり、有料・伊勢二見鳥羽ラインに「朝熊IC」がある。
無人駅「朝熊」にはタクシーは客待ちしていないらしい。
一つ手前の「五十鈴川」駅下車。初老のタクシー・ドライヴァーに行く先の〔朝熊神社〕を告げると、無線で本社へ問い合わせる。
1300B
あれこれのやり取りの末、80歳・運転歴60年の大ヴェテランから道案内が伝えられてき、発車。
「私も20年運転しているが、朝熊神社へ行くのは今日が始めてですわ」とタクシー・ドライヴァー。
舗装道路を左にそれると、車1台がやっとの農道のような未舗装の、丘の麓づたいに曲がりくねった道へ入る。木の枝葉や草が容赦なく車体をかする。
徐行3分。消えかかっていて字の読めない標識と石段があった。
石段を登る。左に皇大神宮摂社の朝熊御前(あさくまみまえ)神社、右手奥に同・朝熊神社。まったく瓜二つの社殿。
1320B
朝熊神社

1329
朝熊御前神社
それはいいとして、地元では「朝熊(あさま)」と呼ぶのに、池波さんは、〔朝熊(あさくま)〕の伊三次とした。
池波さんが常用していた吉田東伍博士の労作『大日本地名辞書』(明治33--)は「朝熊(あさぐま)神社」と濁っている。地名のほうには「朝熊(あさくま)」のルビ。

「僧空海求聞持法を山中に修めし時、朝に熊獣出で、夕に虚空蔵現ぜしよりてかく名づけたりと。又、旧籍聞書には熊野は朝隈なり---うんぬん」

伊三次が名乗るとしたら、揺籃の地名をとって〔関(せき)〕の伊三次のはず。
池波さんがそうさせなかったのは、生誕地が不明であること、「呼び名」は〔泥亀〕の七蔵を安心させるために同業らしく一時的に〔朝熊〕を借りたこと、そのとき、池波さんの脳中には吉田博士の辞書の記述があったのであろう。

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伊三次(いさじ)の年譜

〔朝熊(あさくま)〕の伊三次の年譜
(三重県伊勢市の東部にある山。ふもとに朝熊神社

宝暦10年(1760)生
宝暦11年(1761)  関の宿場で捨子
( 2歳)      〔丹後屋〕のおかみに拾われ、宿場女郎衆
          育てられる。
           [6-2 猫じゃらしの女]p52 新p55

宝暦19年(1761)  岡崎の油屋へ奉公。
(10歳)       [6-2 猫じゃらしの女]p74 新p79

天明6年(1786)頃 名古屋で〔強矢(すねや)〕の伊佐蔵と
(27歳)      もめごと
             [14-5 五月闇]p196新p206
天明7年(1787)  盗賊〔笹子(ささこ)〕の新右衛門配下
(28歳)           [9-3 泥亀]p96 新p100
天明8年(1788)  〔四ッ屋)(よつや)〕の島五郎の下で
(29歳)      急ぎばたらきをしていて捕まる。
             [14-5 五月闇]p196新p
寛政元年(1789)春 すでに密偵になっている。
(30歳)       [4-5 あばたの新助]p179 新p188
〃       夏  [4-6 おみね徳次郎]p220 新p231

寛政3年(1791)
(32歳)       [6-2 猫じゃらしの女]

寛政7年(1795)春  [12-4密偵たちの宴]
(36歳)
寛政8年(1796)  〔強矢(すねや)〕の伊佐蔵が刺殺
(37歳)                [14-5 五月闇]

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2005.01.17

〔名越(なごし)〕の松右衛門

『鬼平犯科帳』文庫巻17、長編[鬼火]の終末にチラッと語られる、3カ条の掟てを守りぬき、[鬼火]の中心人物で、身をよせたことのある元、600石の旗本・永井弥一郎(のめんどうを、14,5年間もみつづけた。

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年齢・容姿:書かれていないため、不明。
生国:伊勢国のどこか。

年齢・容貌:上富士の富士浅間神社の近くの〔権兵衛酒屋〕へ鬼平が立ち寄った晩、そこの夫婦が何者かに襲われた。

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駒込の富士浅間神社(『江戸名所図会』より 塗り絵師:西尾忠久)

亭主の弥市は逃げおうせ、鬼平は女房のお浜を牢役宅にとどめたが、見張りの島田同心が油断したすきに自害して果てた。
長い長い物語はこうしてはじまり、かつての表御番医・吉野道伯や6,000石の大身旗本・渡辺丹波守直義などもからんで進展する。

結末:〔名越〕の松右衛門については、亡妻の墓前に現れて捕まった弥市の口から語られる。
浪人くずれの凶暴な盗賊団の首魁である滝口金五郎ほか14名が逮捕されて一件落着ののちのことである。
吉原の花魁と駆け落ちした旗本・永井弥一郎は、表御番医・吉野道伯とつながりがあった〔名越〕の松右衛門の下で盗人稼業を手伝うが、ほかに男をつくった女は、殺した。
(参照: 元旗本・永井弥一郎の項)
弥一郎がは、〔名越〕の松右衛門一味にいた14,5年のあいだに上方で二度、江戸で二度お盗メをし、江戸での最後の仕事---小網町の線香問屋〔熊野屋〕作兵衛方へ押し入ったとき、手代と小僧あわせて4人に重傷をおわせてしまった。
これを嘆いた〔名越〕の松右衛門は、盗金3,000余両をすべて配下へ分配し、飄然と故郷の伊勢の国へ姿を消した。

そのときに、松右衛門、
「お前さまの、たよりになる婆(ばば)じゃ。共に暮しなされ」
こういって、お浜を弥一郎に引き合わせたのである。p320 新装p331

永井弥一郎(弥市)は、死罪。
〔名越〕の松右衛門は、不明。

つぶやき:CD-ROM版『郵便番号』で「名越」を検索すると、
 岐阜県各務原市鵜沼真名越町
 滋賀県長浜市名越町
 京都府八幡市下奈良名越
 熊本県下益城郡砥用町名越谷
が現れ、伊勢をふくむ三重県はない。

念のため、長浜市の「名越」を問い合わせた。
長浜市役所市史編さん室学芸員 橋本さんからメール。

1.名越(なごし)の地名は、同地に創建された名超(なこし)寺とここに祀られた名超(越)童子に由来するとされています。
江戸時代中期の書物『近江輿地誌略』には、名超寺について「寺記に曰く人皇40代天武天皇白鳳年中の草創、三朱沙門の開基、名超童子久條練行の臨跡、故に名超寺と號す」との記述が見えます。
また、名越町には後鳥羽上皇行幸の伝承があり、明治12年に名超寺境内に後鳥羽神社が創建されました。この付近は古代に鳥羽上庄と呼ばれる荘園が置かれたあたりとされ、後鳥羽上皇の侍臣藤原能茂の子孫に預所職があてがわれています。
なお、名越が村として単立したことが史料上確認されるのは、幕藩体制下の彦根藩支配においてで、正保・元禄・天保の各郷帳では、その石高は常に約 507石と報告されています。
ちなみに元禄8年の「大洞弁天寄進帳」には、当時の人口は男126、女126、寺方の男7、同女5と見えます(ただし、郷帳などの書き出しには高持ちではない人びとは記載されません。念のため)。

2.合併時の名越村の人口と戸数、および主たる産業
合併時の様相ですが、名越村はいわゆる行政村ではありません。明治維新の後、明治22年(1889)の町村制施行によって西黒田村の大字となり、その後昭和18年(1943)には、西黒田村ほか6地区が合併して現在の長浜市域となりました。
明治13年前後に刊行された『滋賀県物産誌』によると、名越村の人口は平民のみで 210人、戸数は63とあり、全戸が農業に従事し、その約半数が養蚕を営んでいます。米以外の主な作物としては、大麦、大豆、菜種、桑葉、そして葉煙草とあり、周辺他村と際だった違いはありません。
ちなみに、平成14年8月時点での名越村の世帯数は71、人口は男女共134名となっています。

池波さんは、姉川の戦いのことを調べるために、いくども近江を訪れている。そのときに長浜市の名越を知ったのではないかともおもった。

明治20年ごろに陸軍参謀本部測量部が作成した地図で、愛知県南設楽郡に「名越」を見つけた。
その問い合わせに対する、南設楽郡鳳来町教育委員会史跡文化財係 谷川さんからのメール。