『鬼平犯科帳』文庫巻8で[明神の次郎吉]と、タイトルにまでなっている、〔櫛山〕の武兵衛一味でも腕っこきの盗人。下の諏訪の諏訪明神からとった「通り名(呼び名)」とか。

年齢・容姿:30男。狸のような顔。小肥り。
生国:信濃(しなの)国諏訪郡(すわごおり)下の諏訪(現・長野県諏訪郡下諏訪町)

木曾海道六十九次の内・下諏訪(広重)
(もっとも、諏訪社を社号とする神社は多く、南佐久郡小海町豊里、同郡八千代村、諏訪郡富士見町落合などにも鎮座。地元の鬼平ファンの方のご教示を待ちたい)。
5年前に病死した父親の〔諏訪(すわ)〕の文蔵も、〔櫛山〕の武兵衛一味にいた。
(参照: 〔諏訪〕の文蔵の項)
探索の発端:、〔櫛山〕の武兵衛の呼びだしに応じて、中仙道を江戸へ下る途路、小田井宿をすぎて前田原へさしかかった〔明神〕の次郎吉は、心の臓の発作で苦しんでいる旅僧から、江戸の春慶寺へ寄宿している岸井左馬之助への短刀をことずかった。
旅僧の遺骸は、小田井宿はずれの妙音寺へ背負って行き、とむらいを頼んだ。お盗めをしていないときには善いことをしてきた次郎吉だったのである。

左・岩村田、塩名田、芦田、和田経由で下の諏訪へ
前田原村 小田井宿 右・江戸へ
(幕府道中奉行制作『中山道分間延絵図』部分)

木曾海道六十九次の内・小田井(広重)
宿場の西はずれの「かないか原」の風景。勧進僧と遍路。
旧知の宗円坊の遺品を届けられた左馬之助は、次郎吉を荷車に乗せて二ツ目北詰の〔五鉄〕へ連れこんでの酒盛り。その帰り姿の次郎吉を、かつて〔櫛山〕の武兵衛を助(す)けたことのある密偵おまさが覚えていた。
結末:いさぎよく縛についた〔櫛山〕の武兵衛一味に鬼平は、一同、死罪をまぬがれて島送りですむようにと、南町奉行の池田筑後守へ頼んだ。とりわけ、次郎吉の刑は軽くとも。
つぶやき:幕府の道中奉行制作の『中山道分間延絵図』で小田井宿をあたってみたが、妙音寺らしい寺はなかった。池波さんが創作した寺かもしれない。
〔明神〕の次郎吉の、5年前に病死した父親〔諏訪〕の文蔵も、〔櫛山〕の武兵衛の配下だった。
〔明神〕の次郎吉の「諏訪の旅籠屋の亀五郎」との自己紹介を信じきっている岸井左馬之助に、鬼平は〔櫛山〕一味の逮捕を告げない。
そして、「人間(ひと)とは、妙な生きものよ」「悪いことをしながら善いことをし、善いことをしながら悪をはたらく。心をゆるし合うた友をだまして、その心を傷つけまいとする---」の池波人生哲学をつぶやく。
2005年06月06日、下諏訪町の諏訪大社下社2座に参詣した。
春宮は大門に、秋宮は甲州道中に面して東町にあるが、〔明神(みょうじん)〕の次郎吉の家は、どたらの宮に近かったのであろう。
そうおもいながら、春宮から秋宮までの中山道1キロほどを歩いてみた。

諏訪大社春宮。前は中山道

秋宮。前は甲州道中

秋宮。神楽殿の脇から拝殿をのぞむ

秋宮。一の御柱
上に掲げた『中山道分間延絵図』を検分していて、池波さんの錯覚を発見した。
[明神の次郎吉]の冒頭の部分である。文庫p90 新装版p96
つぎの宿場は信州・追分で、そこまで一里半ほどある。
西空の果てに、血のような夕焼けの色がわずかに残っていたけれど、これが夜の闇に変わるは間もなくだった。
その暗くなった道を、旅の男は前田原をぬけて行くことになる。
(略)
「私は、笠取峠に住む古狸ゆえ、怖いものなんかありぁしないのだ」

明治20年製作の20万分の1。
赤○:左から岩村田宿、小田井宿、追分宿、沓掛宿
『分間延絵図」 を見ると、左手(下諏訪側)から来て前田原村、小井田宿(つまり、前田原は小田井宿よりも下諏訪寄り)に入っている。

赤○:左下から下諏訪宿、和田宿、長久保宿・(笠取峠)・芦田宿

木曾海道六十九次の内・あし田(広重) 笠取峠の松並木
ところで、司馬遼太郎さんは『覇王の家』(新潮文庫)で、織田信長が甲州攻めで武田勝頼の生母の実家の諏訪氏の諏訪神社をことごとく焼いたと書く。手元の史料にはそのことが記されていない。これも、地元の鬼平ファンの方のご教示を得たい。