カテゴリー「114山梨県 」の記事

2008.04.09

〔初鹿野(はじかの)〕の音松(9)

横川に架かる法恩寺橋の北側の土手に腰をおろした2人の若者が話しあっている。
長谷川銕三郎(てつさぶろう 20歳 のちの鬼平)と岸井左馬之助(さまのすけ 20歳)であった。
うしろは、桜屋敷と呼ばれている草分(くさわけ)名主・田坂直右衛門の敷地だ。

銕三郎は、〔初鹿野(はじかの)〕の音松(おとまつ 35歳)と〔軍者(ぐんしゃ)〕(47歳)を、しゃも鍋〔五鉄〕で見かけた晩、音松は深川森下町あたりに隠れているとおもいながら、長慶寺の参道前を疑いもしないで通りぎたことを悔やんでいた。

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(〔五鉄〕からの帰り道、伊予橋の手前左手が長慶寺への参道。
池波さんがつねに愛用していた近江屋板切絵図)

「大伯父---いや、火盗改メのお頭(かしら)をはじめ、与力・同心衆も、〔初鹿野〕の音松が、まさか、墓守小屋にひそんでいたとはおもいもよらなかったらしい」
「寺は、寺社奉行の支配だからな」
「左馬さん。火盗改メは、僧侶神職であろうと、幕臣であろうと、引っくくっていいことになっている。それなのに、見逃した」
「墓守の---なんと言った?」
徳造(とくぞう 42歳)」
「その徳造が消えたことを、長慶寺が寺社方(じしゃかた)にとどけでてはじめて、音松という首領が徳造の小屋で寝起きしていたことがわかったということなんだ」

「それは、すんだことだから、いまさら言っても仕方がない」
銕三郎が気にしているのは、〔初鹿野〕の一味が押し入った料亭〔古都舞喜(ことぶき)楼〕での獲物が300両とちょっとだったことである。
押し入ったのは、掛取りの集金日のその晩で、料亭側が納入先への支払いをすませていないところを狙った。
手わけして掛取りにまわった店の者たちは、「ご苦労さん」酒に、いい気分で熟睡中だつたという。

「8人で押し入って、300両では、あやつらにしては無駄働き同然だろう」
っあん。1人35両の収穫だよ。1家が3年は暮らしてゆける」
左馬さん。ちがうんだよ。300両の3分の1---100両は次の仕事の仕掛け金として初手(はな)から除かれる。さらに、首領の音松がまず、50両は取ろう。〔軍者〕が30両。あとを1人10両平均---」
「120両を6人で割ると---」
「押し入ったのは8人でも、見張りや舟方もいようし、徳造のような陰の者もいるから10人で分けてみる。10両そこそこでは、長屋の亭主のかせぎと変わらない」
っあんは、まるで、盗賊の首領みたいに考えている---」
「そうでないと、あやつらの考え方についていけない。こんどの仕事の分け前がすくないといって不平がでると、一味の結束が弱まる。そこで、とりあえずの解散前に、もう一と仕事やるだろう」

料亭側の板場や女中で犯行のあとに辞めていったものはないから、内部で手引きをしたと思える者がいなかったことは、錠前あけの名手が一味の中にいることを暗示している。武田くずれの草の根(忍者)の末裔とおもわれる。ということは、次の仕事は、さしたる仕込みをしていなくてもやれるところを狙うとみていい。

「どこらだとおもう?」
「〔軍者〕次第だな」
「小男のことか?」
「侮れないよ。外見は非力そうだが、まさかの時には、2人や3人は殺してでもやりぬく肝っ玉をそなえている」
「で、その〔軍者〕の狙いを銕っあんはどう読んだ---?」
「うん---」
銕三郎がなにか言おうとした時、
「あら、お2人、ここにいらっしゃったのですね。いま道場へ草餅をお持ちしたんですよ。これ、余りものなんです、召しあがれ」
玉をころがすような若い声の主は、田坂名主の孫むすめ・ふさであった。

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(春信 ふさのイメージ)

左馬が、たちまち、かしこまった。

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ちゅうすけ注】ふさのイメージに、春信をあてたのは、時代的にみて、ふさわしいとおもうからである。春信が初めて多色刷りの錦絵美人画を発表したのは明和2年(1765)。ということは、銕三郎が20歳の時の美人は、史実をふんでいうと春信風でなければならない。
歌麿北斎も、銕三郎平蔵宣以を称してから以降である。まあ、小説が史実ばかりでないように、浮世絵も史実をふむ必要はないのかもしれないが。

【参照】[〔初鹿野(はじかの)〕の音松] (1)  (2) (3) (4) (5) (6) (7) (8)


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2008.04.08

〔初鹿野(はじかの)〕の音松(8)

3日ほどおいて、六間堀と五間堀に面した深川の町々---北森下町、森下町、六間堀町、元町、三間町などの大家(おおや)たちが、時刻差をつけて、こっそりと大番屋(おおばんや 深川では蛸番屋といわれた)へ呼ばれた。

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(緑○=大家たちが大番屋へ呼ばれた深川の町々 黄〇=長慶寺)

一つには、この5年間に代替わりした店(たな)を書き出さすため。
も一つは、それらの店舗に、身の丈6尺(1m80cm)前後、30歳から40歳とおぼしい男が寄宿していおる様子はないか---を言上させるためであった。

呼びつけた役人は、火盗改メ・本役に任じている先手・弓の7番手組の与力・門田紋三郎(35歳)と同心・大林源吾(51歳)と名乗った。
聞き役となったのは大林同心で、役人らしからず、おだやかな笑顔を絶やさないで応対した。

弥勒寺橋南詰の大家・庄兵衛(60歳)が、自分が長年差配してきている表店(おもてだな)のうち、3年前に、履物屋から小間物やへ代替わりしたのがあるけれど、
「お話のあった大男が寄留しているかどうかまでは知りません。うちのばあさんは町内でも地獄耳といわれております。帰ってたしかめて---」
「あいや、庄兵衛。はじめに申したごとく、これはごくごく内密のお調べであるゆえ、帰宅してからも、漏らしてもらっては困るのである---というよりか、困るのはお身たちでな。火盗改メ方が探しているぐらいだから、凶悪な悪党ということでないでもない。お身たちの中のだれかが差(さ)したとその者どもが知れば、一家みな殺しの報復にでるやも知れぬ。くれぐれも他言は無用である」

庄兵衛はもとより、同席していた大家たちがふるえあがって口をとざしたのを見渡した大林同心は、
「繰り返す。口にしっかりと戸締りを、な」
と引きさがらせ、次の組を呼びこむ手配をした。

そうやって、3軒の代替わりの店が報告された。
代替わりが少なかったのは、この5年間、六間堀町や五軒堀ぞいの町々に大火がなかったせいもある。深川あたりの小商いの店は、火事にでもあうと、もう立ち上がれない店が多かった。

大家たちが報告した3軒は、火盗改メの手でひそかに見張られたが、大男が寄宿している気配はなかったので、早々と監視の手配が解かれた。

そのあとすぐに、竪川ぞい、〔五鉄〕から2丁ほど東の緑町2丁目の料亭〔古都舞喜(ことぶき)楼〕が灰色の装束に身をつつんだ盗賊の一団に押し入られた。
首領は、大男であった。小男もしたがっていた。

火盗改メ方のその後の調べで、深川東森下町の曹洞宗・長慶寺(切絵図の黄〇)に2年前から住み込んでいた寺男・徳造(とくぞう 42歳)が、犯罪後に行方知れずになったことが寺社方に届けられていることがわかかった。
寺側の申し立てによると、1ヶ月ほど前から、身長6尺たっぷりの従弟と称する30男が、徳造に与えられていた墓場の南隅の寺男小屋にとまっていたという。
徳造を紹介したのは、同じ曹洞宗で入谷(いりや)の正洞院の寺侍であったらしいが、火盗改メが行った時には、この男も姿を消していた。

ちゅうすけ注】深川森下町の長慶寺を、尾張屋板の切絵図は〔長桂寺〕としている。そのわけを解説しているのが平岩弓枝さんの『御宿かわせみ』(文春文庫)巻17『雨月』収録の[雨月]である。

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(青〇=長桂寺と弥勒寺 尾張屋板切絵図)

【参照】[〔初鹿野(はじかの)〕の音松] (1)  (2) (3) (4) (5) (6) (7)

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2008.04.07

〔初鹿野(はじかの)〕の音松(7)

(それにしても、凄い迫力であった)
人通りがまったく絶えている北森下町を東へ、自宅のある三ッ目通りのほうへあゆみながら、銕三郎(てつさぶろう 20歳 のちの鬼平)はあらためて、〔軍者(ぐんしゃ)と呼ばれている小男のことをおもっていた。

先刻の〔五鉄〕でのことである。
先に帰る大男の〔初鹿野(はじかの)〕の音松(おとまつ)を見送ってから戻ってきて、調理場へ、
「雪隠をお借りしますぜ」
じろりと入れ込みを見回してから、奥へ抜けた。
その時の5尺(1m50cm)そこそこの小男が、とつぜん、6尺(1m80cm)にも見えたのである。

道場主の高杉銀平師が、真剣勝負で怖がると、相手が巨大に見えてくる---だから、技(わざ)以上に肝(きも)を鍛えよ、と言うわけが、今日こそ、のみこめたと銕三郎はおもった。
銕三郎は、北国なまりのあるその小男の〔軍者〕が、20数年後に、密偵となってくれた〔舟形(たながた)〕の宗平だとは、まったく予想もしていない
もっとも、銕三郎が火盗改メに任じられた時、〔舟形〕の宗平は70歳を越していて、人柄も練れつくし、殺気など胸の中に閉じこめて外には見せないようになっていたが。

(あの迫力は、生きるか死ぬかの修羅場を、いくどもくぐってきた者だけが会得できるのであろう)
これから修行をつむ励みができた、と銕三郎はおもった。

そして、 〔軍者〕が経てきた人生を想像してみる。
北の国---というけれど、どのあたりであろう?
通り名が〔舟形〕と知っていれば、そういう地名を、あとで、父・宣雄か、火盗改メの高遠(たかとう 41歳)次席与力にでも訊くことができるのだが。

貧しい寒村の貧農の育ちであろう。
生きて産まれたことのほうが不思議と言ってもよいような境遇だったろう。
あの小男ぶりでは、幼いころから、ろくろくに食べさせてもらえなかったと見る。
吉宗が将軍になってから、財政立て直しをはかっての天領と呼ばれる幕府直轄地の年貢(ねんぐ)の取立てがきびしくなった。捨田離農も禁止された。
次男・三男は、そのかぎりではなかったから、気の利いたのは、悪の道に走った。
そうした連中の中で、〔軍者〕と呼ばれるまでにのしあがるには、人一倍ものの本を読み、人間観察を積み、知恵もめぐらせたろう。
とりわけ、あのとおりの小ぶりの躰なんだから。

(あの男、オオカミの牙と、キツネの知恵をもっているのだろうな。知恵くらべの相手として不足はない)

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(〔五鉄〕から長谷川邸(切絵図は遠山左衛門尉) 途中、五間堀に架かる弥勒寺橋、伊予橋。池波さん愛用の近江屋板)

銕三郎は、五間堀にかかっている伊予橋をわたったことにも気づかないほど、小男に感情を移入しかかっている自分に、ぎょっとした。

(さて、どう仕掛けたものか---)

【参照】[〔初鹿野(はじかの)〕の音松] (1)  (2) (3) (4) (5) (6)

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2008.04.06

〔初鹿野(はじかの)〕の音松(6)

(さぶ)どの。気疲れたであろうが、よくやってくれて、ありがとうよ」
「〔軍者(ぐんしゃ)〕の帰っていった方角を見そこないました」
「いや。拙たちでさえ、身動きができなかった。まだ若いどのには、無理であたりまえですよ」
銕三郎(てつさぶろう)は、板場へ入ってゆき、しゃもをさばいている〔五鉄〕の亭主・伝兵衛(でんべえ 40歳)に気をつかいながら、その息子・三次郎(さんじろう 15歳)と話している。

長谷川さま。先ほどのお勘定の、おつりです」
「先刻も申したとおり、それは、火盗改メの職をいただいている番町の大伯父からの、どのへのご褒美だから、遠慮はいらぬ。とっておきなさい。ご亭主。よろしいでしょう?」
亭主・伝兵衛の返事はそっけなかった。
「このたびかぎりにしておいくだせえ。三次は店のでえじな跡継ぎなんでね。岡っ引きの下働きをしている暇に、しゃものさばき方の手をあげてもらいてえんでね」
苦笑した銕三郎は、首をすくめている三次郎と顔を見合わせた。

(親父(おやじ)どのというのは、どの家でも、息子はあぶなっつかしいものときめている)

「〔初鹿野(はじかの)〕の音松は、この二ッ目之橋をわたって弥勒(みろく)寺のほうへ行ったということでやしたが、江戸での寝ぐらを、長谷川さまは、どこらあたりと推しおはかりで?」
〔五鉄〕を、三次郎に見送られてですぐ左、竪川(たてかわ)に架かる二ッ目之橋をわたりながら、〔風速(かざはや)〕の権七(ごんしち 33歳)が問いかけた。

竪川の水面(みずも)に浮いた月がゆれている。

小田原宿から箱根山道へのとば口、須雲川に架かる箱根石橋の川下の村---風速で生まれ育った権七は、村名を通り名にしている。
持ち前の度胸と知恵で、箱根山路の荷運び雲助の頭格にまでなっていたが、〔荒神(こうじん)〕の助太郎一味3名に大金で口説かれて関所抜けをさせた。
そのために箱根へいられなくなり、情婦(いろ)の須賀とともに2ヶ月前に江戸へきて、須賀に永代橋東詰で呑み屋をやらせているが、府内の地理にはまだ不案内である。

「〔軍者が従って行かなかったところからすると、そう遠くはなさそう---弥勒寺橋をわたった北森下町---というと、拙の学而塾の近くということになるが---そのすしこし先の南六間堀町あたりか。小名木(おなぎ)川向こうではあるまい。そこまで遠くだと、〔軍者〕が供をして行く」
「六間堀の北の八名川町とかは?」
「六間堀とか五間堀のような舟の便がある町とおもっておいたほうがいいようにおもうが---」

「〔軍者〕も一つところでやしょうか?」
「そうはおもえないのですよ。一つところに起居していれば、なにも〔五鉄〕へきてまで、打ちあわせることはない」
「そうしやすと、〔軍者〕は〔軍者〕で、〔初鹿野〕のとは別のところへひそんでいるとみてかかったほうが---」
「そうです。連絡がとりやすいということから考えると、竪川ぞいの相生町とか緑町かなあ。それはそれとして、日をおかずに2度も〔五鉄〕の2階で決めごとをしたということは、仕事の日が近いと見ておいて、間違いない」
「それまでに、きやつらの寝くらを見つけられるといいんでやすが---」
「なに。これから先は、火盗改メがする仕事ということですよ」

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(二之橋北詰の赤○=〔五鉄〕 右緑○=五間堀の弥勒寺橋 
上緑○=六間堀に架かる北ノ橋 下緑○=五間堀の伊予橋
切絵図は上が西、下が東。左が南、右が北)

2人は、弥勒寺橋を渡って先の辻で別れた。
銕三郎は左へ、まっすぐに東行き、横川を目指してあゆむ。
権七は右への道をとり、六間堀に架かる北ノ橋をわたって堀ぞいに小名木川。そこから大川へ。
十三夜の月の光が道を白々と照らし、〔五鉄〕が借りた提灯の灯はなくてもよさそうな夜であった。


【参照】[〔初鹿野(初鹿野)〕の音松] (1)  (2) (3) (4) (5)

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2008.04.04

〔初鹿野(はじかの)〕の音松(5)

「三(さぶ)どの。これは、このあいだの勘定、それと、きょうの分。つりはとっときなさい」
とっさに、三次郎(さんじろう 15歳)が、指を唇に、つづいて、2階に向けた。
1両を懐紙につつんでさしだした銕三郎(てつさぶろう 20歳 のちの鬼平)も、その意味を察して、うなづく。
〔風速(かざはや)〕の権七(ごんしち 33歳)も、〔初鹿野(はじかの)〕の音松と〔軍者(ぐんしゃ)〕と呼ばれている小男が〔五鉄〕にあらわれるようになっていることは知っているから、事態をすぐに悟り、緊張した。

2階に、さっきまで話のたねにしていた2人の盗賊が来ているというのである。
銕三郎が声をひそめて、権七へささやく。
「権七どの。ふだんのとおりに振る舞うこと。あの者らが降りてきても見ない。きょう、尾行(つ)けるのはよしましょう。バレると、この店に迷惑がかかります」
合点とうなづく。

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(〔五鉄のパース 絵師:建築家・知久秀章 拡大図←クリック)

2人は、わざと、芦の湯村小町だったころの阿記の評判を話しあうようにしたが、会話はとぎれがちであった。

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(国芳『江戸錦吾妻文庫』[おぼこ娘])

(いかぬ。こういう時にそなえて、肝をきたえておくことだ)

【ちゅうすけ注】権七は、阿記の芦ノ湯小町時代を、箱根山道の荷運び雲助として実際に見ているので、その姿はたちまちよみがえる。が、銕三郎のほうは、そうはいかない。阿記の実家である〔めうが屋〕の離れの浴槽に入ってき、そのあと、いっしょに臥せった赤襦袢姿が、先におもいうかぶ。

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(国芳『江戸錦吾妻文庫』[恍惚])

(あ、なんと---袴の奥が熱くなっている)

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(国芳『華古与見』[あられもなく])

(ますますもって---!)

その時である、2階から2人が降りてきた。
三次郎が、
「毎度、ご贔屓さまです」
と、つり銭を渡したらしい。
入れ込みの2人も緊張したが、動きにはそれをだない。

大男と小男が出ていった。
三次郎が戸口の外まで見送ってでた。

入れ込みの2人は、肩で大きく息をする。

もどってきた三次郎が、
「尾行(つ)けなくてよろしかったのです」
とだけ言い、すっと調理場へ消えた。

と、あいたままになっていた戸障子から、小男が戻ってき、調理場へ、
「雪隠をお借りしますぜ」
じろりと入れ込みを見回してから、奥へ抜けた。
銕三郎の目に、5尺(1m50cm)の小男の背丈1尺(30cm)も伸びたように感じられた。
権七は、首筋をひやりとしたものが触れたようにな気分だったと、あとになって告白した。

小男が出て行ってからも、2人はしばらく口をきかなかった。いや、きけなかった。
(あやつとの知恵比べになるのだ)

やってきた三次郎が、卓を片付けるふりでつぶやくように、
「いけません、いけません。外まで見送りにでたはいいけれど、大男が二之橋を弥勒寺のほうへわたりきるまで、後ろ姿に小男が目くばりをしていて、その上もどってきて、雪隠をお借りしますぜ---でしょう。とてもじゃないけど、油断がなりません」

戸口に向いて座っていた銕三郎は、入れ込みの客の中に動く者がいないか、確かめるだけの、こころのゆとりをとり戻していた。
(あやつが、〔軍者(ぐんしゃ)〕か)
銕三郎は、なぜだか、
(負ける気がしない)
気づかれもしていない自信もあった。

袴の内側は、すっかり平静さを取りもどしていた。

しかし、ハッと気づいた。
武家姿の自分と軽子(ちから仕事人)風の権七のとりあわせが異様なことに---。

【参照】[〔初鹿野(初鹿野)〕の音松] (1)  (2) (3) (4)

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2008.04.03

〔初鹿野(はじかの)〕の音松(4)

「どうも、気にくわねえ」
半蔵濠(ぼり)へさしかかった時、〔風速(かざはや)〕の権七(ごんしち 33歳)か独りごちたのを、銕三郎(てつさぶろう 20歳 のちの鬼平)が聞きとがめた。
左は半蔵濠、右手は新宿、八王子へと通じている甲州路(こうしゅうじ)がなまった町名となったといわれている麹町の通りである。
「なにが気にくわぬのですか?」
銕三郎が訊く。

「〔初鹿野(はじかの)〕の音松って盗人でさあ。仕事を終えて甲州へ帰るのに、わざと甲州路を避けて、箱根越えをして三島宿から北へたどるってえのが気にくわねえのですよ。甲州道中を避けるだけなら、道はいろいろあります。そのうちの一つを言いやすと、長谷川さまもお会いになった〔馬入(ばにゅう)〕の勘兵衛の馬入川(別名・相模川)をさかのぼったっていいわけでやす。それをわざわざ、関所を通って三島宿を経るってえなぁ、〔荒神(こうじん)〕の助太郎と同じで---」
「おんな---か?」
「さいで」

足は、桜田濠のほとりへさしかかっている。
長谷川さま。もしかして、わっちたちは、〔初鹿野〕って通り名にこだわりすぎているのかもしれやせん」
「というと?」
「〔初鹿野〕とくるから甲州---に結びつけてしめえます。監察の目をそうさせるために、わざわざつけたってことはありやせんですかね?」
「ふむ」
「その、身の丈5尺(1m50cm)の〔軍者(ぐんしゃ)って奴の考えそうな詐術(さじゆつ)かも---」
「---?」
「三島宿から北行きって考える逆をついて、南に囲っているのかも---」
「えらいッ!」

「南だけじゃなく、西もありやす。南なら、長伏(ながぶせ)って地名がぴったり」
「そんな名の村があるのですか?」
「ありやす(現・三島市長伏)。三島宿の問屋場から30丁(約3km)そこそこ。北なら徳倉(とくら 現・三島市徳倉)あたり。西なら沼津の手前とみて八幡(やはた 現・沼津市八幡町)か黄瀬川(きせがわ 現・沼津市大岡)。ですが、留守がちの〔初鹿野〕の音松が、情婦(おんな)に退屈しのぎの小さな店でもやらせているとすると、三島宿の内でやすな」

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(赤○=三島宿 緑○=上から、徳倉、八幡・黄瀬川、長伏 
明治20年(1887) 参謀本部陸地測量部 東海道線未敷設で江戸後期にもっとも近い地図)

「その推量の基(もと)は?」
「〔初鹿野〕は、男客が店へ近寄らない商売を選ぶはずでやしょう。子どもの手遊び(玩具)屋か雛人形屋、あとはお六櫛(おろくぐし)屋あたり---しかし、そういうものを商う店は、宿場町の内でねえと、おかしい」
「冴えてますな」
「売れは期待していなくとも、隣近所の手前、きちんと毎日、店を開けてないと疑われる」

「ほかに、男客が来ない商いというと---?」
「女髪結いと甘いもの屋だが、これはないでやしょう」
「ふくろもの屋は?」
「流行(はやり)りすたりが早えから、仕入れがたいへんだぁ」

「手遊び屋と人形屋、お六櫛屋で、それらしい店があるか、本陣・〔樋口〕のお芙沙どのに問いあわせの文をやります」
長谷川さま。芙沙女将とあんまり親しくなさっちゃあ、芦の湯のほうに悪うかねえですかい?」

銕三郎の頭を、2年前の芙沙の顔がさっと横切った。

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(国貞『正写相生源氏』 2年前のお芙沙のイージ)

(できることなら、6年前のあの夜の湯殿姿のお芙沙がいい)

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(歌麿『入浴美人』 お芙沙の湯殿でのイメージ)

ちゅうすけのひとり言】困った銕三郎どのだなあ。いま、お母上は、阿記さんに会っているんですよ。阿記さんとの睦みごとをおもいだすべきでしょうが---。

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(英泉『絵本玉の茎』[水中流泳)

長谷川さま。冗談がすぎやした。許してやってくだせえ」
権七は、自分の頭をごつんと叩いた。
道行く人が笑いながら通りすぎる。

「権七どの。しゃも鍋をつきあいませんか。その前に、〔須賀〕へ寄って断り、拙の家にも断りを言ってからくりこみましょう」
長谷川さま。〔五鉄〕へしゃも鍋をつつきに行くのに、くりこむはありませんぜ。それは、吉原(なか)へ行く時の台詞(せりふ)でやしょう」
権七どのは、吉原へくりこんだことがありますか?」
「とんでもねえ。いまのところは、お須賀だけで手いっぺえです」
2人は、笑いあった。

【参照】[〔初鹿野(初鹿野)〕の音松] (1)  (2) (3)

 


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2008.04.02

〔初鹿野(はじかの)〕の音松(3)

「お頭(かしら)。北のお奉行・依田(よだ)和泉守政次(まさつぐ 63歳 600石)さまのご三男・又八信興(のぶおき 20歳)どのが養子にお入りになった初鹿野家(1200石)と、盗賊の〔初鹿野(はじかの)〕の音松とは?」
高遠(たかとう)次席与力が与力衆の勤め部屋へ引きさがったあと、自分と同じ延享3年(1746)生まれということもあって、信興に関心があるらしい銕三郎(てつさぶろう 20歳 のちの鬼平)が、大伯父の長谷川太郎兵衛正直(まさなお 57歳 先手・弓の7番手組頭 火盗改メ・本役)に訊いた。

「これ。盗人と町奉行どのの縁家とを、いっしょにするか。外に聞こえたらどうする。それにしても、依田どののことをよく存じているな」
本多侯のつながりです」
本多侯とは、駿州・田中藩の前のご藩主だった伯耆守さまか?」
「はい。今川時代に、わが長谷川家のご先祖がお守りになっていたところ、武田方に攻略され落とされた田中城のご城主でした。勝頼公の自刃(じじん)で、守っておられた依田どのはついに降伏なされたということもあり、伯耆守正珍(まさよし)侯が田中城をしのぶ会を催そうとお考えになったのですが、なぜか、沙汰止みになりました。実現していれば、いの一番に大伯父上にお声がかかったはずです。残念でした」

銕三郎は、大伯父をいい気にさせることも怠らない。権七が笑いをかみしめている。

参照】田中城と依田家については、2007年6月1日[田中城の攻防] (1) (2)

もし、これが平蔵宣雄(のぶお 47歳 先手・弓の8番手組頭)だったら、田沼意次(おきつぐ)がお側の身分で、飛騨・郡上八幡藩の農民一揆の処置の評定に着席したとき、北町奉行として評定所の出座していた和泉守政次をおもい浮かべたろう。

参照】北町奉行として評定にかかわった依田和泉守政次のことは、2007年8月12日~ [徳川将軍政治権力の研究] (1) (2) (3) (4) (5) (6) (7) (8) (9) (10) (11)

「盗人の〔初鹿野〕の音松は、出生が甲斐国山梨郡(やまなしこおり)初鹿野村あたりということで、そう称しているのであろうが、博徒はともかく、盗人が出生村を通り名にするというのも、おかしなものよのう。火盗改メは、監察の初手を、通り名の村からはじめよう。わざわざ、調べてくださいと言っているようなものよ」

ちゅうすけ注】太郎兵衛どの。それは、池波さんへ言ってくれ。盗賊たちに地名を冠したのは池波さんなんだから。そりゃあ、〔蓑火みのひ〕)の喜之助(文庫巻1[老盗の夢])とか、〔墓火はかび)〕の秀五郎(文庫巻2[谷中・いろは茶屋])のように、鳥山石燕(せきえん)『画図百鬼夜行』からとった名をつけたり、〔血頭ちがしら)〕の丹兵衛(文庫巻1。題名)とか、〔夜兎ようさぎ)〕の角右衛門(文庫巻5[山吹屋お勝])などのように、1篇1篇で造語していたのではたまったものではない。地名ならご愛用の吉田東伍博士『大日本地名辞書』(冨山房 明治33~)で無限といえるほど拾える。それでちゅうすけは、盗賊の出生地リストを作成して、当ブログにあげた)

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「初鹿野和泉守どのの姓は、その姓が絶えるのを惜しんだ武田信玄公からたまわったものらしい。もっとも、武田の家臣であった初鹿野家は、山梨郡に土地を給されてはいたらしいが、初鹿野村ではなかったと聞いた」
「由緒ある姓を、盗賊につかわれたのでは、たまったものではない」

ちゆうすけ注】これ、銕三郎どのまで、勇み足をするぅ! 『鬼平犯科帳』の盗賊の通り名は、池波さんの手になるものがほとんどで、実在したのは〔葵小僧〕だけですよ。
そんなことより。銕三郎と同年輩の初鹿野河内守信興は、のちに北町奉行時代に、平蔵宣以に銭相場の件で利用され、それを苦にしたのか、その年の暮れに48歳で病死した史実を読んでほしい。
2006年7月4日[北町奉行 初鹿野河内守]

銕三郎は、権七にちょっと待つように言い、同心部屋から顔見知りの高井半蔵から紙と筆を借りて、三島宿の本陣・〔樋口〕のお芙沙あての用件を、さらさらと認めた。
権七が、感心したように、筆運びを眺めている。
仙次の盗人宿の見張りを解いて金1両を渡すこと、用立ててもらった金子の返済分ともどもで3両同封したこと、盗人宿を訪れる者があったかどうかは、近所の人に頼んで気をつけてもらうこと---書き終わると小判を包んで密封し、高井同心に、公用の行嚢(こうのう)に入れる手配を頼んだ。

辞去しようとした時、太郎兵衛正直が入ってきて、
銕三郎。ご苦労であった。これは、わしからのお礼だ。少ないが受け取ってくれ。それから、高遠与力が言ったことは、、組下の者たちに倹約を言いわたしている手前の表向きの話だから、気にしないで、いろいろ探ってみてくれ。報告は、じかにわしに頼む」

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(依田家からは、幾人も初鹿野家に養子がはいっている 『寛政譜』)

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(依田政次の三男で初鹿野家に養子に入った信興の人生における不幸・不運については、項をあらためて見てみたい。とりあえず、嫡男の自死に注目を)

【参照】[マイナーな武将---初鹿野伝左衛門]

【参照】[〔初鹿野(初鹿野)〕の音松] (1)  (2) 

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2008.04.01

〔初鹿野(はじかの)〕の音松(2)

「大伯父上---もとい、お頭(かしら)。〔初鹿野〕という怪しい者に、お心あたりがございますか?」
銕三郎(てつさぶろう 20歳 のちの鬼平)は、〔風速(かざはや)〕の権七(ごんしち 33歳)とともに、火盗改メの頭・長谷川太郎兵衛正直(まさなお 57歳 1450石余)の番町の屋敷へきている。

高杉銀平道場の帰り、ちょっとまわり道して、本所を東西に割っている竪川(たてかわ)に架かる二ッ目之橋北詰のしゃも鍋屋〔五鉄〕に立ち寄り、店主・伝兵衛(でんべえ)の長男・三次郎(さんじろう 15歳)から耳打ちされた、「〔初鹿野〕の」と呼ばれた男と、〔軍者(ぐんしゃ)〕という男のことを、報告にきたのである。
その通り道なので、永代橋東詰の呑み屋〔須賀〕で、権七に声をかけていっしょに参上したというわけである。
権七も、銕三郎の密偵もどきに付きあっている。
元・箱根山道の荷運び雲助だった権七とすれば、1450石の幕臣の屋敷の書院へ通されるなど、まったくもって望外のことと言ってよい。

高遠(たかとう)。そこもとは、いま銕三郎が申した者のこと、存じおるかの?」
太郎兵衛正直が、先手・弓の7番手・次席与力の高遠弥大夫(やたゆう 41歳 200石)をかえりみた。
「はい。甲州・山梨郡初鹿野村生まれの盗賊です。先役・本多讃岐守昌忠(まさただ 54歳 500石)さまの組から、本職を引き継ぎました時、留意の盗賊とあった10人のうちの1人です」

讃岐守昌忠は、この年---明和2年(1764)4月1日付で、先手・弓の8番手の組頭から小普請奉行(役高2000石)へ栄進し、火盗改メの職務を、弓の7番手の太郎兵衛正直へ渡した。
ついでにいうと、讃岐守が就いていた先手・弓の8番手の組頭の席は、銕三郎の父・平蔵宣雄(のぶお 47歳)が小十人頭(役高1000石)から栄進して埋めた。

ちゅうすけ注】本多讃岐守昌忠については、2008年3月8日[明和2年の銕三郎](その5)を参照。

「〔初鹿野〕と申す盗賊は、盗みの仕様に、その者と分かる特徴でもあるのかな?」
太郎兵衛正直お頭の問いかけに、高遠与力がこう、答えた。

一味の頭領を〔初鹿野〕の音松といい、人相や入墨、衣類の柄が手がかりにならないように、面も衣類も、揃いの灰色の頭巾、上衣、手脚絆、軽袗(かるさん)、足袋で蔽っていること。その衣装も侵入直前に装い、仕事を終えると脱ぐらしく、辻番所では見つけられない。
店の者を一と部屋へ集めてしばるが、殺傷はしない。
武田ながれの草の者(忍者)の家系が配下にいるらしく、厳重な錠前でもかるがるとあけて、小判を奪って逃げるという。
去る時に、とじこめた部屋の前の廊下や畳に、棘が八方に突きでている鉄製の菱茨(ひしいばら)と呼ばれるものを、無数、打ちこむので、縄をほどいても、容易に助けを求めに走れない。
身の丈6尺と2寸(1m85cm)の大男が首領の〔初鹿野〕の音松らしく、そのそばに、5尺(1m50cm)の小男がついていて、ほとんどの指示は、この男が大男に耳打ちしている。

ざっと、こんなことが知られていると。

「お頭。その首領株らしい2人組が、素顔で本所にあらわれました。しかし、その家の者が差(さ)したと分かると、その店にも店の者にも危険がせまりますゆえ、その名は明かせません。それより、こちらの極七どのの話をお聞きください」
「申しあげやす。その2人組は、甲州へ帰るのに、甲州路ではなく、遠回りして三島からの道を使うらこともあるらしく、時々、箱根の関所を通っておりやす。関所へ網を張れば、召し捕りもたやすいかとおもわれやすです」

ついでに、銕三郎は、〔荒神(こうじん)〕の助太郎の盗人宿の一つが三島にあるらしいので、見張らせているため、その手当てを3両頂戴したい。なお、三島の本陣・〔樋口伝左衛門方に仮の本拠を置いたので、今後の連絡には、幕府公用の飛脚便を使わせてほしい。これまで、町の飛脚をつかったが、とても拙の小遣いでは飛脚便代がまかなえない、と訴えた。

太郎兵衛は苦笑しながら、高遠与力に、
「聞いたとおりだ。勘定方の同心に言って、銕三郎に5両、渡すように---」
銕三郎は、内心で舌をだし、3両は文につけて三島宿の〔樋口〕のお芙沙へ公用行李で送り、2両は返却分、1両は見張りの仙次の日当、1両は権次、残りは〔五鉄〕への支払いと(さぶ)へのお礼---と腹づもりした。

勘定方のいる同心部屋から戻ってきた高遠与力が、包んだ金子を銕三郎の前におきながら、権七のほうを見て、
権七とやら。われわれの組は、この4月朔日から当役の本役をつとめることになってな。その前は1昨年----宝暦13年(1763)10月から半年ばかり、助役(すけやく)を拝命したものの、組としては、それが60年ぶりのお役であったので、火盗改メの職をじっさいに経験した組下が一人もおらず、いろいろとまごついたものだ。まごつきは、いまだにつづいておってな。お主のすすめてくれた箱根関所へ同心を張りつかせる案な、いつあらわれるか見込みもつかない者を待つ---そのようなゆとりなど、ありそうもない。どうであろう、箱根関所の小田原藩の衆で、その2人組を捕らえることはできそうかな?」
「さあ。あっしは捕り方の経験はまったくありやせんので、なんとも、お返事いたしかねやすです」
「そうであろうな。では、関所へ、連絡だけはしておこう」

「それから、長谷川銕三郎どの。三島宿の盗人宿の見張りでござるが、見張り人の費用は、これから先はでないとお考えおきくだされ。いま組は、ご府内の検察だけで手一杯、勝手(予算)のほうもぎりぎりでしてな」
太郎兵衛正直の前で、ぬけぬけと言ったものである。

(また、お役人の言いわけが始まった。番方(ばんかた 武官系)が役方(行政・事務方系)のような言いわけをするようになっては、世も末だわ)
銕三郎は、かしこまったふりをして話題を変えるしかなかった。

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2008.03.31

〔初鹿野(はじかの)〕の音松

長谷川銕三郎(てつさぶろう)宣以(のぶため 20歳)が、〔風速(かざはや)〕の権七(ごんしち 33歳)とともに、時の火盗改メ・本役で、長谷川一族の本家の当主・太郎兵衛正直(まさなお 57歳 1450石余)の密偵もどきをつとることになったのは、明和2年(1764)初夏である。

鬼平犯科帳』は、それから22年後、家督して平蔵を襲名した銕三郎は、最初は火盗改メ・助役(すけやく)、そして翌天明8年(1788)年初冬に本役(ほんやく 定役 じょうやくとも言う)についてからの物語である。

犯科帳』に登場してくる盗賊のうち、年齢的にみて、銕三郎の密偵もどき時代には、すでに一家をなしていた者をおもいだしてみた。
犯科帳』時代の年齢から23,4歳を差し引いてみる。さらに、江戸で活躍(?)したかどうかを推察する。
つまり、〔荒神こうじん)〕の助太郎篇の、2匹目の泥鰌(どじょう)すくいをやってみようというわけである。

たちまち、2人(正確には4人)をおもいついた。
舟形ふながた)〕の宗平と、そのお頭(かしら)だった〔初鹿野はじかの)〕の音松
蓑火( みのひ )〕の喜之助と、その配下だった〔大滝おおたき)〕の五郎蔵

それぞれにリンクを張っておいたから、クリックして、彼らの Who's Who の概要をお読みいただくと幸い。

先頭は、〔初鹿野〕の音松---この頭領については、池波さんはほとんど記述していないから、ヘッポコ書き手としては、手をつけやすい。
出身は、甲斐国山梨郡(やまなしこおり)初鹿野村。石高325.67余。
昭和10年(1935)の記録では、全戸228が本農業および自作農家で、半数が養蚕をやっていたというから、音松の生家もそんな中の貧農だったと推定する。次男か三男で、田畑は分けてもらえないから、江戸へ出稼ぎにきて、裏の道へ踏み込んだが、生来の明晰、器量によって盗賊一家のお頭(かしら)にのしあがった。

配下の〔舟形〕の宗平は、寛政元年(1789)に70歳を超えて、音松一味の盗人宿(ぬすっとやど)の一つ---目黒のそれを預かっていたというから、享保のはじめごろの出生とみて、音松は宗平よりも12,3歳若いとすると、享保30年前後の生まれで、明和2年には35歳の脂ののりはじめ。もちろん、この道の経験豊富な羽州出身の宗平が軍師格で指南していたのであろう。

銕三郎権七が〔初鹿野〕一味の探索にかかわるきっかけは、2008年3月25日[盟友・岸井左馬之助](2)にある。

鋭い読み手の方なら、あの日、銕三郎が、〔五鉄〕の息子・三次郎(さんじろう 15歳)にささやいたのを覚えておいでであろう。
(さぶ)どの。あとで手がすいたら、話があります」

銕三郎は、火盗改メの大伯父を助けて、密偵もどきをすることになったから、あやしい挙動の客がいたら、それとなく気をつけておいてほしい---と頼んておいたのである。

高杉銀平道場からの帰り道、銕三郎が〔五鉄〕をのぞくと、三次郎が裏の猫道へみちびき、〔ぐんしゃ〕という47,8の北の国のなまりのある男と、「〔初鹿野」と呼ばれている30代半ばの男ことを話した。
「〔初鹿野」には、甲州なまりがのこっているのが耳についた。店の板場にいる、甲州・石和(いさわ)出の男の話し方に似ている。

2人は、5日ほど前にしゃも鍋を注文し、いざ勘定という段に、「〔初鹿野」のが、小粒を3個、三次郎へ渡して、
「つりは取っときな」
といったのに、すかざず〔ぐんしゃ〕が、
「おっと、もったいねえ。きちんとつりをくれ」
といいなおし、渡したつりから文銭を数枚、あらためてくれたという。

翌日も食べにきて、2階が借りられるかと聞くから、案内すると、
「料理を---と言うまで、鍋は運ぶな。酒とつまみだけでいい」
小半刻(こはんとき 30分)ほどしてから、呼ばれたので鍋と火桶を持ってあがると、
広げていた図面をそそくさとしまったという。

銕三郎が言った。
どの。このお店では、そこまででよろしい。これ以上、ことをすすめると、〔五鉄〕と三どのに迷惑がかかるかも知れない。あとは、一つだけ---店を出た2人がどっちの方角へ立ち去ったかだけみとどけておいてほしい」

長谷川さま。〔ぐんしゃ〕って、なんでしょう?」
「軍(いくさ)の軍(ぐん)に、者で、軍師のことでしょう」

〔五鉄〕の2階は3部屋あり、『鬼平犯科帳』で、東に面している奥の小部屋におまさが寄留していたことになっているが、このころは三次郎が起居しており、西側の2部屋は、来店客が希望すれば、使わせていた。

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(〔五鉄〕の2階見取り図 絵師:建築家・知久秀章)

【ちゅうすけ注】〔五鉄〕の1階の見取り図は、2008年3月25日[盟友・岸井左馬之助] (2)


 

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2006.01.21

〔相川(あいかわ)〕の虎次郎

『鬼平犯科帳』文庫巻24には、未完の長篇[誘拐]が収録されている。その最初の章[相川の虎次郎]に描かれているのが、きょう探索されるながれ盗めの盗賊〔相川(あいかわ)〕の虎次郎、その者である。
ただ、将軍さまのお膝元を汚してはいけないと、江戸では一度も仕事をしていない。その虎次郎がなんのために江戸へあらわれたか。
虎次郎を見つけ、同心・松永弥四郎へ教えたのは、現役時代に虎次郎を何度がつかったことがあった芝・西久保の京扇舗〔平野屋〕の番頭---じつは元盗賊〔馬伏(まぶせ)〕の茂兵衛であった。
(参考: 〔馬伏〕の茂兵衛の項 )

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年齢・容姿:40がらみ。実直な商人風。
生国:甲斐(かい)国山梨郡(やまなしこおり)古府中・相川村(山梨県甲府市古府中町)。
「相川」という地名は全国にいくつもあるが、密偵・おまさの「あの男は、甲斐の相川で生まれたということになっておりますが、江戸育ちだそうでございますよ」で、古府中を採った。ただし、『旧高旧領』には採集されていない。
(参考: 女密偵おまさの項)
吉田東伍博士『大日本地名辞書』(冨山房)では、甲斐の「相川」は「古府中」の項に収録され「いま相川村と改む、甲府の北なる高地にして、岡巒三面に環り、相川、濁川の二溪この間に発す」と。

探索の発端:〔平野屋〕でお茶を飲んでいるとき、茂兵衛の教えられた松永同心は、すぐに尾行したが、天徳寺のあたりから右へ入ったあたりで捕縄。
ところが、どのような拷問にも江戸へ来た目的を吐かない。

結末:類推だが、〔荒神〕のお夏からいいつかって、おまさに連絡(つなぎ)をつけにきているとおもうのだが。

つぶやき:この篇が未完であることを、ほとんどの鬼平ファンは残念がっているが、23巻まで『鬼平犯科帳』を熟読してくれば、池波さんの作劇術もおおよそ見当がつこう。
その伝で、この未完の長篇のゆくたては、細部の起伏はべつとして、おうよそ、読めてくるはず。

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2006.01.18

〔八町山(はっちょうやま)〕の清五郎

『鬼平犯科帳』文庫巻8に収録の[あきれた奴]で、堅気になって数珠師をしている〔鹿留(しかどめ)〕の又八(42歳)に、、〔八町山(はっちょうやま)〕の清五郎は甥の〔雨畑(あまばた)〕の紋三郎(30がらみ)を引きあわせた。
(参照: 〔鹿留〕の又八の項)
(参照: 〔雨畑〕の紋三郎の項)
又八が〔蓑火(みのひ)〕の喜之助の下で、盗めの3ヶ条をきっちりと仕込まれてひとりばたらきになったのを、助(す)け合ったのが、これも本格派の〔夜兎(ようさぎ)〕の角右衛門の下からひとりだちした〔八町山〕の清五郎だ。いまは足をあらい、品川台町で小さな煙草屋をやっている。
(参照: 〔蓑火〕の喜之助の項)
(参照: 〔夜兎〕の角右衛門の項)
又八と紋三郎は、谷中の正林寺へ押し入り、紋三郎が寺僧2人を刺殺、158両を奪っての逃走時、同心・小柳安五郎に又八が捕まった。

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年齢・容姿:60すぎ。小男。しわがれた声。
生国:甲斐(かい)国南巨摩郡(みなみこまこおり)鰍沢(かじかざわ)村(現・山梨県南巨摩郡鰍沢町十谷)。
「八町山」は、巨摩山地のほぼ中央部、鰍沢町と増穂町の境にある標高1,521mの山。

探索の発端:又八の女房は、大川へ身投げしようとしているところを、小柳安五郎に止められた。又八は小柳同心に捕縛されたが、牢をだされ、紋三郎をつかまえようと御油の宿場を見張った。
清五郎も自分なりに紋三郎を追ったのだが---。

結末:紋三郎の生地は南巨摩郡の雨畑村(現・早川町雨畑)である。清五郎はまずそこへ行き、帰ってきていないとわかると、老いの躰であちこち訪ねあるき、又八の推測では「どこかの旅の空で行き倒れ」たろうと。

つぶやき:八町山に行きあたるのに、ずいぶんと時間がかかってしまった。
又八は南都留郡鹿留村(現・都留市鹿留)だし、甥の紋三郎も甲斐国生まれなのだから、まず、山梨県をあたるべきなのに、下記を探しまくっていたのである。
武蔵国賀美郡八町河原(現・埼玉県児玉郡上里町八町)
岩代国大沼郡八町村(現・福島県大沼郡金山町八町)
常陸国真壁郡八町村(現・茨城県結城郡八千代町八町)
三河郡額田郡八町]村(現・愛知県豊橋市八町通)
信濃国高井郡八町村(現・長野県須坂市下八町、上八町))

で、八町山というくらいだから山の多いところで、(須坂市の観光課からはかつてリポートをいただいているから---)などと、あやうく電話をいれる寸前に甲斐国に気づき、赤面をのがれることができた。

鰍沢町は、『剣客商売』の秋山小兵衛の生地・甲南町から南西にわずか2キロの地。秋山村(現・南アルプス市秋山)を取材に訪れた池波さんが、鰍沢という風流な地名を目にとめ、聳える山姿が印象に残ったのであろうか。

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2005.12.01

〔雲霧(くもきり)〕仁左衛門

『雲霧仁左衛門』(文庫 前・後編)の主人公。
吉宗が将軍だった享保(1716-35)のころ、小頭(こがしら)の〔木鼠(きねずみ)〕の吉五郎(40歳前後)、〔七化(ななば)けのお千代(26,7歳)、〔三坪(みつぼ)〕の伝次郎、〔因果小僧〕七之助、〔洲走(すばし)り〕の熊五郎、〔山猫(やまねこ)〕の三次といった手だれのほか、数十人(伝説では600人)の配下を自在に動かして大仕事をしてのける巨盗。

対する捕り方は、火盗改メのお頭が安部式部信旨(のぶむね 1000石 先手筒の第16組組頭)、与力・山田藤兵衛、同心・高瀬俵太郎らが立ち向かう。

仁左衛門は、冤罪から盗みの世界へ入ったことになっていて、沈着果断、深慮遠謀、部下の才を巧みに引き出し、配下からは深く崇拝されている。
とりわけ〔七化け〕のお千代は、仁左衛門を敬愛すること妻君以上で、物語に色味を添えている。

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年齢・容姿:45,6歳。中肉中背。隆(たか)い鼻すじ、切長の両眼。細く長い眉。
生国:甲斐(かい)国巨摩郡(こまこおり)樋口村(現・山梨県韮崎市清哲町樋口)
「韮崎」としたのは、『大岡政談』(東洋文庫 巻2)に拠る。

データ:原作は『週刊新潮』の、1972年8月26日号から2年後の4月4日号まで連載された。火盗改メvs.盗賊の形でいうと『鬼平犯科帳』連載開始の4年半後である。

仁左衛門の存在は、『大岡政談』の中に[雲切仁左衛門]として記録されているほか、嘉永5年(1852)に市村座上演の[名誉仁政録]に浄慶国師じつは雲切仁左衛門として登場のほか、文久元年(1861)桜田治助と河竹黙阿弥合作[竜三升高根雲霧(りゅうとみますたかねのくもぎり)]が、仁左衛門より因果小僧を主役に上演されたと、『大岡政談』(東洋文庫 1,2巻)の辻達也さんの解説にある。

池波さんは、両戯曲も参考にはしたろうが、雲霧仁左衛門を最初に見つけたのは、三田村鳶魚(えんぎょ)『江戸の白浪』(早稲田大学出版部 1931 のち中公文庫 1997)だと推定する。
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この労作の末尾近くに、
[雲霧仁左衛門]
[偽役人の化けの皮]
[六之助殺し]
[洲走と山猫]
[事実は何程ある]
の項があり、池波「雲霧」に登場する江州生れの〔木鼠〕の吉五郎、羽州生れの〔おさらば〕伝次、越後生れで山猫を退治したことから〔山猫(やまねこ)〕三次、門徒坊主で背中に石塔2基刺青(ほりもの)をしている掏摸(すり)上がりの〔因果小僧〕六之助、〔洲走り〕熊五郎の名前があげられているからである。
池波さんは、これらの「通り名(呼び名)〕を想像の手がかりにして、一人ひとりの個性を創造していったのであろう。

ただ、〔七化け〕のお千代は池波さんのまったくの創作だが、映画「雪之丞七変化」あたりがヒントになっているかもしれない。

安部式部だが、火盗改メの任期は『柳営備任(ぶにん)』によると、
宝永5年(1708)正月15日御目付より (40歳)
           4月 5日火付改加役
   6年(1709)2月20日御免
享保2年(1717)正月28日加役     (49歳)
   9年(1724) 2月24日卒       (56歳)

したがって、池波さんは、仁左衛門と式部の主対決を、享保7年から8年に設定した。

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2005.10.16

〔三沢(みさわ)〕の磯七

『鬼平犯科帳』文庫巻14に収められている[浮世の顔]に登場する流れづとめの温和な盗賊の〔三沢(みさわ)〕の磯七だが、ひょんな成り行きで、〔神取(じんとり)〕の為右衛門(50男)に雇われていた〔藪塚(やぶづか)〕の権太郎(30男)を刺殺してしまう。
(参照: 〔神取〕の為右衛門の項)
(参照: 〔藪塚〕の権太郎の項)
と、いうのも、権太郎が、気絶している若い村娘(17,8歳)をレイプしようとするのを止めようとして争いになったからである。場所は巣鴨に近い滝野川の雑木林の中だった。

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年齢・容姿:45,6歳か。小肥り。
生国:甲斐(かい)国八代郡(やつしろこうり)三沢村(現・山梨県西八代郡下部町三沢)。
.〔神取〕の為右衛門一味の千住、品川とある盗人宿の中でも、中仙道ぞい板橋の旅籠〔上州屋〕を割り当てられているところから、上記の「三沢村」と信濃国諏訪郡の「三沢村」と見た。甲斐国出身の為右衛門との地縁からいって下部町の三沢を採った。
多摩郡の三沢(現・日野市)では、一味を抜けて帰ってくれば、噂が立とう。
磐城国刈田郡の三沢だと、千住宿の盗人宿・搗米屋へ泊められたろうし、遠江国周知郡の三沢からだと品川に設けてある古着屋を割り当てられたはずだ。

探索の発端と結末:権太郎の悲鳴に、村人が駆けつけて、2つの死体を発見した。もう1つは権太郎たちが撲殺した敵討ちの旅をしていた佐々木典十郎(27歳)だった。かつての剣友でいまは鳥羽3万石の家中からの鬼平あての手紙を懐中に持っていたので、事件は火盗改メ扱いとなった。
しかし、〔三沢〕の磯七の行方はついにわからなかった。

つぶやき:「男が下帯をはずすときといえば、厠に用があるときと、女を、な」と断じて、岸井左馬之助を感心させる鬼平だが、このあたりも、左馬之助の純なところを暗示している。

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2005.08.14

〔神取(じんとり)〕の為右衛門

『鬼平犯科帳』文庫巻14に収められている[浮世の顔]で、兇盗の首魁として顔を見せるのが[神取(じんとり)〕の為右衛門である。本拠は上州・高崎に置いている。
この篇では、口合人の〔鷹田(たかんだ)〕の平十の手をとおして、流れづとめの〔藪塚(やぶづか)〕の権太郎(30がらみ)と〔三沢(みさわ)〕の磯七(40すぎ)を一味に加えたために、火盗改メが動くことになった。
(参照: 〔鷹田〕の平十の項)
(参照: 〔藪塚〕の権太郎の項 )

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年齢・容姿:年齢の記述はない。見るからにふいぶてしい容貌。
生国:甲斐(かい)国巨摩郡(こまこうり)上神取(かみじんとり)村(現・山梨県北巨摩郡明野村上神取)
陸前(りくぜん)国桃生郡(ものうこうり)神取村もあるが、こちらは(かみとり)と読む。池波さんは(じんとり)とルビをふっている。

探索の発端:江戸の西北はずれの滝野川で、武士と商人風の死体が見つかった。うち、商人風の男が血をみることもいとわない急ぎばたらきの〔藪塚〕の権太郎であることを、〔大滝(おおたき)〕の五郎蔵が気づいた。
(参照: 〔大滝〕の五郎蔵の項)
権太郎の人相書を、いまは亡き〔鷹田(たかんだ)〕の平十の古女房に見せると、権十郎の雇い主とつなぎをつけるために出かけた平十が、陽が暮れてから帰宅したことを思いだしたので、探索は滝野川と土地つづきの板橋宿にしぼられた。

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板橋の駅(『江戸名所図会』 塗り絵師:西尾 忠久)

石神井川(しゃくじいがわ)にかかる板橋をわたったたもとの茶店で休んでいた五郎蔵が、通りかかった盗人〔牛久保(うしくぼ)〕の甚蔵(50すぎ)を見かけ、尾行(つ)けていくと、小さな旅籠〔上州屋〕へ入った。
〔上州屋〕を見張り、ほかの2軒の盗人宿も知れた。

結末:[神取(じんとり)〕の為右衛門一味18名が、深川の上大島町の釘鉄銅物問屋〔釜屋〕へ押し入ろうとしたところを、40人を動員して網をはっていた火盗改メが捕らえた。うち、抵抗した5名は斬殺。

つぶやき:石神井川ぞいの旅籠〔上州屋〕が盗人宿であることは、5年前に代替わりしたことと、牛久保の甚蔵が宿泊していることでわかったが、その持ち主が[神取(じんとり)〕の為右衛門であることは、どうやって探索できたのだろう?
捕縛後に判明したのなら、納得がいくが---。

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2005.07.23

〔鶍(かけす)〕の喜右衛門

『鬼平犯科帳』文庫巻1に、シリーズ中の1篇とみなされての収められている〔浅草・御厩河岸]のサイド・ストーリーとして、堀帯刀組に捉えられる、甲州・石和(いさわ)に本拠を置いて甲州一帯を稼ぎ場所にしていた首領。

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年齢・容姿:どちらの記載もない。
生国:甲斐(かい)国八代郡(やつしろこうり)河内村(山梨県東八代郡石和町河内)

探索の発端:配下の頭株の〔真泥(まどろ)〕の伊之松が、単独で江戸へ出てきて盗みを働いて捕まって拷問にかけられ、〔鶍(かけす)〕一味の本拠を白状した。
(参照: 〔真泥〕の伊之松の項)

結末:堀組の佐嶋与力以下、同心5名、小者10名が石和に急行、甲府勤番の手も借りて、〔鶍〕の喜右衛門をふくむ一味12人を捕縛。
余談だが、その中に、のちに密偵となった、越中・伏木生まれの岩五郎と、その父で中風で伏せっていた宇三郎も入っていた。
(参照: 〔豆岩〕の岩五郎の項)

つぶやき:この篇は、『オール讀物』1967年12月号に、独立短篇として発表された。登場した長谷川平蔵を主人公にした連鎖短篇の企画が急に決まり、翌新年号からシリーズがはじまった。
その後、この篇に顔を見せた長谷川平蔵と筆頭与力・佐嶋忠介はレギュラー、剣友・岸井左馬之助は準レギュラーとなった。

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2005.05.14

〔花輪(はなわ)〕の万蔵

『鬼平犯科帳』文庫巻9の[白い粉]で、本郷の湯島天満宮・門前の料理屋〔丸竹〕の2階座敷で相談している3人の盗賊の首領たちの1人。
ほかは、武州・上州から信州へかけてをテリトリーとしている、〔駒羽(こまばね)〕の七之助と、「江戸の他では盗めはしねえ」と自慢している〔霰(あられ)〕の小助。
組織(しくみ)はいずれも小規模である。
(参照: 〔駒羽〕の七之助の項)
(参照: 〔霰)〕の小助の項)

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湯島天満宮(『江戸名所図会』より 塗り絵師:西尾 忠久 )

年齢・容姿:35歳で駒羽〕の七之助と同じ。容姿の記述はない。
生国:甲斐(かい)国巨摩郡(こまこおり)東花輪村か西花輪村(現・山梨県中巨摩郡田富(たとみ)町東花輪か西花輪)。
『大日本地名辞書』には、ほかに、栃木県勢多郡東(あずま)村の花輪と、秋田県鹿角(かづの)市花輪、岩手県宮古市花輪があげられているが、テリトリーに信州が入っているので、山梨県を採った。
甲府盆地中央東部にある東・西を冠した花輪村の東側を笛吹川が南流れている。同川が山にあたって曲折している姿から、江戸期以前には「鼻輪」と呼ばれていたと。

事件の発端と結末:駒羽(こまばね)〕の七之助の項に同じ。

つぶやき:中小組織の盗賊たちが、盗めの規模に応じて人手の貸し借りをするのも、芝居での俳優や裏方の貸し借りをヒントにした、池波さんの考案だろう。
芝居は、俳優にとどまらず、いろんな職種の裏方を必要とする。それが盗賊一味の盗めでの分担に擬せられている。

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2005.04.19

〔牧原(まきはら)〕の富治

『鬼平犯科帳』文庫巻4に収録されている[敵(かたき)]の〔大滝(おおたき)〕の五郎蔵が片腕と頼りにしている男。

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(参照: 〔大滝〕の五郎蔵の項)

年齢・容姿:どちらも記述がない。
生国:甲斐(かい)国巨摩郡(こまこおり)牧原村(現・山梨県北巨摩郡武川村牧原)。
「牧原」なんて地名はどこにでもころがっていそうなものだが、データベース「旧高旧領」を検索すると、江戸期には上記の甲斐と豊後国大野郡牧原(まきばる)村の2カ所しかなかった。豊後は遠すぎるし、読み方も異なるから甲斐を採った。

探索の発端:鬼平の剣友の岸井左馬之助が三国峠をとおりかかると、2人の男が斬り合いをしてい、若い方が殺され、残ったほう(五郎蔵)のあとをつけたことから、その盗人宿、一味の存在、そして富治の存在が知れた。

結末:〔小妻(こづま)〕の伝八にそそのかされた〔大滝〕一味の者たちは、五郎蔵の計画と資金を盗んだ上で、五郎蔵の殺害をしようとしたが、鬼平と岸井左馬之助にさまたげられ、捕縛された。死刑であろう。
(参照: 〔小妻〕の伝八の項)

つぶやき:〔大滝(おおたき)〕の五郎蔵ほどの男でも、配下の裏切りが読めない。欲がからむと、どんなことでもやってのける。金銭欲だけにかぎらない、名声欲、自己保身欲、愛欲---この世に裏切りのタネはつきない。

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2005.04.09

〔高萩(たかはぎ)〕の捨五郎

『鬼平犯科帳』文庫巻20に収められている[高萩の捨五郎]のタイトルにもなっている、一人ばたらきの盗人〔高萩(たかはぎ)〕の捨五郎。

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年齢・容姿:54,5歳。へちまのように長い顔。長身。背筋ものびている。
生国: 甲斐(かい)国八代郡(やつしろごおり)高萩村(現・山梨県西八代郡三珠町高萩)。
高萩という地名は、武蔵国(埼玉県日高市)、下総国(千葉県香取郡)、常陸国(茨城県高萩市)、下野国(栃木県佐野市)などにもある。高い萩がしげっていた土地だ。
当初、高萩市高萩に目をつけて市役所へ問い合わせてみたが、盗人にまつわる話には乗れないと考えたか、忙しすぎたかして、返事が来なかった。
聖典を読み返した。17歳の時に気が触れた実の兄を殺して故郷を捨てた(捨五郎という名のゆえん?)。
けっきょく、盗人で身すぎをすることになった。3カ条は守っているが、畏れおおいといって江戸ではお盗めをしていない。とすると、絹市などでうるおっている高崎、結城、館林などが仕事場だったろう。近い甲斐国を採った。

探索の発端:向島の秋葉大権現の近くで鯉料理を摂った鬼平と彦十は、寺島村で、子どもとその父親の百姓を斬ろうとした侍に体当たりの抗議、で、脚を切斬られた捨て五郎を介抱することになった。

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秋葉大権現の秋(『江戸名所図会』より 塗り絵師:西尾 忠久)

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秋葉社門前(庵崎いおざき)。生簀をしつらえた鯉料理店。(同上)

捨五郎は、畜生ばたらきが専門の〔籠滝(かごたき)〕の太次郎からの助(す)けの依頼を断る手紙を、彦十に託した。

結末:それで〔籠滝〕一味の盗人宿が知れ、筆頭与力・佐嶋忠介の指揮で全員逮捕。死罪だろう。
火盗改メの役宅の一と間で養生し、鬼平手づからのびわの木の杖を贈られた〔高萩〕の捨五郎は、密偵に。

つぶやき:〔高萩〕の捨五郎という、30年間も本格派のお盗めをしてきた盗人と、鬼平とのあいだには、気脈の通じるものがある。不埒な行為は、身をは張ってでもゆるさない、という純粋さだろうか。

当初、捨五郎の前に生まれていた兄・姉が病気か事故で早くに逝ったので、「この子は捨てますから、病魔、厄魔の神々、ともに見すごしてくだされ」と逆張りした名かとおもったが、狂って周囲に迷惑をかけていた実兄を17歳のときに殺したとあったので、この説を捨てた。

〔相模〕の彦十がかつての仕事仲間の〔高萩〕の捨五郎を見かけた、秋葉大権現・千代世稲荷の境内はずれの鯉料理茶屋〔万常〕を、池波さんが創作したのは、掲示した、境内につらなる「庵崎」の絵からだ。
「庵崎」の料理茶屋は、いずこも生簀を構えて鯉を泳がせていたとある。
同じく生簀を構えていたのは、亀戸天神社の表門、裏門の料亭群と、『江戸名所図会』は記す。こちらは、天神表門脇の席亭『玉屋』として聖典に登場するが、広重の『江戸高名会亭尽』には〔玉屋〕は「裏門前」とある。