カテゴリー「111千葉県 」の記事

2008.05.05

〔盗人酒屋〕の忠助(その7)

腰を折って、おまさ(10歳)の口へ近づけた銕三郎(てつさぶろう 20歳)の耳にささやかれたのは、
「明日も、お越しくださいますか?」
との問いかけであった。
銕三郎は、無意識のうちに、うなずいていた。
もちろん、この店の逸品料理である、あわびの大洗(だいせん)煮を明日は造る---と亭主・忠助(ちゅうすけ 40がらみ)が約したこともあったが、おまさの真剣な口ぶりに気おされたとぃったほうがあたっている。
10歳の少女とはおもえない、迫力であった。

店の前で〔風速(かざはや)〕の権七(ごんしち)と待っていた岸井左馬之助(さまのすけ 20歳)が、
「今宵は、ここで別かれよう。遅い帰りが多くて晩飯を欠かがちにしておるので、倉裡(くり)の大黒のご機嫌がよくないのだよ」

別れてからの銕三郎は、左馬の帰路をたしかめるのが怖くて、振り返らなかった。
左馬が右に押上(おしあげ)への道をとらないで、御旅(おたび)橋へ向かっているように思えたからである。
その先の清水裏町には、お(こん)たちの住む長屋がある。
先刻、〔盗人酒場〕で隣りあって小声で話していた時に打ち合わせができたかもしれない。

その胸の内を察したかのように、権七が、
岸井さまなら大丈夫です。長谷川さまが先ほどおっしゃった、『ふさ(18歳)どのに知れたら、嫌われるぞ』の一と突きがこたえていやすよ」
(そうだと、いいのだが---いや、そうであってほしい)

銕三郎は、14歳の時の芙沙(ふさ 25歳=当時)との一夜、18歳の時の阿記(あき 21歳=当時)との情事は棚にあげて、
左馬は、なにしろ、純情すぎるからな)
と、理にあわない、友情めかしたいいわけをこころの中でくりかえしていた。

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(歌麿『美人入浴』 お芙沙の入浴のイメージ)

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(英泉『玉の茎』部分 阿記との浴中イメージ)

若い時の激情は、友情をすら簡単に超えてしまうものなのに。
そう、若い男の激情に火をつけ、油をぶちかけるのが、女なのだ。

「あっしが心配(しんぺえ)しておりやすのは、岸井さまとお紺じゃねえんで---」
「ほかに、なにか?」
長谷川さまのことですよ」
「拙がなにか?」
「いえね。〔盗人酒場〕のおまさって娘(こ)が、長谷川さまにぞっこんのようなんで---」
「じ、冗談ではありませぬ。おまさどのは、まだ、10(とお)ですよ」
「女の10歳は、気持ちは、もう、りっぱに大人です。もっとも、惚れたとかはれたとかいうんじゃなく---慕わしく感じているってんでやしょうが---」
「いくらなんでも---」
「慕わしい、一刻でも長くそばにいてえ---ってえのが、いつしか惚れたに変わりやすんで。長谷川さまには、女にそう思わせるものがあるんでやすよ。ま、思い違いですめば、言うこたぁねえんですが---」

三ッ目之橋を南へわたると、長谷川邸はすぐであった。
「橋をわたってしまうと、旗本の屋敷ばかりで、あたりにはお茶を飲ませる店もないのですよ」
銕三郎が言うと、
「今夜は、これでお開きにしやしょう。じつをいうと、あっしもこのところ、お須賀(すが 27歳)の奴から嫌味をいわれておりやして。内緒(ないしょ)のを他につくったんじゃねえかって悋気(りんき)で---」
「それは、気の毒なことをしました。お須賀どのには、近く、改めて、お侘びします」
「いいんですよ。女の考えるこたあ、その程度の心配(しんぺえ)ですから---泰平楽ってもんでさあ」
「夜の〔盗人酒屋〕探索は、この先は、拙独りでなんとかなるでしょう。権七どのは、〔須賀〕の客の話にしばらく、耳を研(と)いでおいてください」

翌日---。

午前は、学而塾で竹中志斉(しさい)師の講義の最中に、居眠りをして叱責をうけた。

子曰く、憤(いきどお)らざれば啓せず、悱(ひ)せざれば発せず。一隅を挙げて、三隅を以って反(かえ)さざれば、復たせざるなり。
(情熱がないものは進歩しない。苦しんだあとでなければ上達がない。四隅の一つを数えたら、あとの三つを自分で試してみるくらいの人でなければ、教える値打ちのない人だ。 (宮崎市定『現代語訳 論語』(岩波現代文庫)より)

罰として、これを10回復唱させられた。
(剣術では、このとおりやっておる。捕盗も、そうだ)
銕三郎は、つくづく、自分は漢籍に向いていないとおもった。

午後は、高杉道場で、左馬之助と組太刀を10番こなした。
好きなものは、いくらやっても苦にならない。
もっとも、左馬之助のほうは、昨日の一と言がこたえたか、つねになく、執拗な剣を遣ってきた。

井戸端で汗を落としていると、左馬が、
ふささんが、横川べりの木陰で涼んでいる」

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(春信『水辺の涼み』)

「自分で、声をかけたら---」
銕三郎はそっけなく、とりあわない。

とりあえず自宅へ戻り、夕刻が待たれる。
権七のあんな言い分を聞いてしまった故(せい)だ。今日にかぎって、太陽がゆっくりと移っておる)

夕方が来た。
母に断って、家を出る。
〔盗人酒場〕までは、いまの時計だと、20分とはかからない距離である。
三ッ目之橋をわたっている時、入江町の鐘楼が暮れ六ッ(6時)を告げる。
四ッ目之橋へは10分で着く。

店へ入ってみると、一つ飯台で、3人の男たちが額を寄せ合って話しあっていた。
忠助と、同じような年配だが細身の忠助とは反対にやや太りかけの男、それにもうすこし年配の男である。
こっちをじろりと見た太りかけは、眉の薄い、小鼻の張った男だった。

忠助が、とってつけたように、男たちを紹介した。
太りがはじまっている男は、足利城下から、亡くなった葉造さんのことで見えた、直兵衛と。
50がらみの白髪も少なくなっているほうは、嘉平と。
(それにしては、おどのがいないではないか)

長谷川銕三郎です」
長谷川? いま、火盗改メをなさっている長谷川さまは?」
「本家の大伯父です」
長谷川太郎兵衛正直(まさなお)のことを隠しておいて、あとで露見(バレ)るより、このほうが信用されよう)
とっさに、そう感じた。
その場では、直兵衛が〔法楽寺(ほうらくじ)〕の直右衛門(なおえもん)の変名、そしても嘉平が〔名草(なぐさ)〕の嘉平とは思いもしなかった。

参照】〔法楽寺(ほうらくじ)〕の直右衛門

長谷川さま。ごゆっくり」
男たちは出て行った。入れ替わりに、買いものを言いつかっていたらしいおまさが帰ってきて、銕三郎を見ると、ただでさえ黒々と大きい瞳をさらに大きく見開き、受け唇から、
長谷川さま。いらっしゃいました」
鼻のあたまに小さな汗が浮いている。急いで帰ってきたのであろう。

【参考】 [〔盗人酒場〕の忠助] (1) (2) (3) (4) (5) (6)


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2008.05.04

〔盗人酒屋〕の忠助(その6)

(こん 27歳)も、岸井左馬之助(さまのすけ 20歳)の隣にすわりこんで、さしつさされつ、小声でひそひそとつづけている。

銕三郎(てつさぶろう 20歳 のちの鬼平)は、〔風速(かざはや)〕の権七(ごんしち)に酌をしながら、おがいわゆる、女賊(おんなぞく)なのかそうではないのかを、推量していた。

これまで、男の盗賊には、小田原で会った〔荒神(こうじん)〕の助太郎(すけたろう 45歳?)と娘婿と称していた彦次(ひこじ 25,6歳)がいる。

参照】2007年7月14日~[〔荒神〕の助太郎] (1) (2) (3) (4) (5) (7) 
2007年12月28日[与詩を迎えに] (8)

それと、江ノ島で言葉を交わした〔窮奇(かまいたち)〕の弥兵衛

参照】2008年2月2日[与詩を迎えに] (39)

3人に共通するものを見つけるとすれば、人なつっこさと、話し上手だろうか。

〔盗人酒場〕を仲介にして出会ったのは、目の前にいるおの亭主で、言葉を交わすこともなく卒中で逝ってしまった〔助戸(すけど)〕の葉造(ようぞう 35歳)と、夜道をほんの6丁ほどをいっしょに歩いた〔樺崎(かばさき 35,6歳)〕の繁三(しげぞう)と、その下働きらしい七五三吉(しめきち)とかいう20歳前とおぼしいの、それと、おまさの父親の忠助(ちゅうすけ 40がらみ)---〔荒神〕や〔窮奇〕とF
とは反対に、そろって口が重い。
---ということは、盗賊だからといって共通点はなく、人それぞれということなんであろう。

(まあ、深く立ち入ってみれば、盗みの道へ入った動機や経緯には似たところがあるかもしれないが---)

おまさは、いくつもない飯台をととのえたり、表の看板行灯に灯をいれたりと、せわしなく働いている。
ひとり、放っておかれていたおすみが、お手玉にも飽きたらしく、ぐずり始めた。
が、左馬之助に断り、銕三郎へもあいさつをし、手をつないで帰って行く。

っつぁん。お紺さんが、ご亭主の骨を、足利(あしかが)在へ埋めに行くらしい」
左馬さんもいっしょに行くのか?」
「考えておく、と言っておいたんだが---」
「桜屋敷のふさ(18歳)どのに知れたら、嫌われるぞ」

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(春信 ふさのイメージ)

「おふささんて、岸井さまのいい女(ひと)なんですか?」
おまさが、耳ざとく、ませた口をはさんできた。
「いまはまだ、片思いですがね。いずれ、そうなるでしょう」
銕三郎が冷やかすと、左馬がまごまごして、
「いまは、剣の道をみがくのに精いっぱいで---」
岸井さま。足利は遠いですよ。江戸から20里。おみねさん連れだと、1日5里と見ても、行きに4泊---雨でも降った日にゃあ、5泊6泊になるかも」
権七もからかう。
「変な話。いやらしいったらありゃしない」
おまさが、いっぱしのむすめのような口調で言い、つんとして調理場へ消える。

忠助が、燗のできたちろりを黙って飯台に置いた。
そのまま横に立って目を伏せていたが、やがて、すぅーと板場へ引っこんだ。
銕三郎は、それで、あの晩、おの台詞(せりふ)を思いだした。

(「甘いものに、まるで敵(かたき)みたいに目がない亭主(ひと)だった---そのうえに、お酒もきりがなくって---躰に毒だったいくら言っても聞くものですか---小水にまで蟻(あり)がむらがるようになってきていて、躰もがたがた、亭主としての役(えき)もできなくなっていたのに---いつかは、こんなことになると、恐れていたんだ、わたし---」 ということは、寝間でもかまってもらえなかったということか? 忠助どのが言おうとして言わなかったのは、亭主じゃない男(の)と---噂がないわけではないということ?)

左馬さん。帰ろうか」
銕三郎は、河岸を変えて---と思った。
権七も呑みこんだ感じだった。

勘定を受けとったおまさが、釣りをわたしぎわに、背伸びして口を寄せてきたので、銕三郎は腰をかかがめた。
その耳へ、おまさがささやく。

【参考】 [〔盗人酒場〕の忠助] (1) (2) (3) (4) (5) (7)

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2008.05.03

〔盗人酒屋〕の忠助(その5)

6日後の夕刻---。

3人が、〔盗人酒場〕にあらわれた。
もちろん、銕三郎(てつさぶろう 20歳 のちの鬼平)、岸井左馬之助(さまのすけ 20歳)と〔風速(かざはや)〕の権七(ごんしち 33歳)である。

先に紺麻地の暖簾を割って銕三郎が顔を見せると、おまさが、すぐ、気づいて、
「いらっしゃいました」
浮き浮きした声で、迎えた。

ちゅうきゅう注】「いらっしゃいませ」でなく、「いらっしゃいました」という迎えのあいさつは、東京でも歴史の古い山の手の旅館の老女将が、戦後10年ばかり経った当時も使っていたので、おまさに言わせてみた。おまさの亡母・お美津(みつ)は、忠助と同郷の下総(しもうさ)・佐倉在---酒々井(しすい 現・千葉県印旛郡酒々井(しゅすい)町酒々井)の出身だが、本郷あたりの老舗で仕込まれた女(ひと)ということを暗示したくて。
【参考】 酒々井町Wikipedia

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(下総(しもうさ)国印旛郡酒々井=赤○ 佐倉=黄〇)

いつものとは違ったおまさの張りのある声の感じに、板場にいた亭主・忠助も店のほうをのぞき、3人を認めると出てきて、先日の礼を述べる。
「その場にいた者なら、しなければならないことをしたまでです。ご放念ください」
銕三郎の武家らしくない謙遜した言葉が、忠助をさらに恐縮させた。

おまさ。おさんに、お武家さんたちが見えたと、伝えておいで。いや、なに、おさんが、ぜひにも、お礼を申しあげたいって、ね」
おまさが、いそいそと飛び出す。

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(北斎[川岸の突風]部分 おまさのイメージ)

「亭主どの。いいむすめごですね。母ごはいらっしゃらないようだが?」
「お分かりになりますか? おまさが5歳の時に病死しまして---。以来、あれが嬶(かかぁ)の代わりみたいなもので。あの齢で、繕いものもやってくれるので、ついつい、後添えをもらう気もうせちまって---」
「おいくつです?」
おまさですか? 10歳になります。縫いものを、いま、おさんに習っております」

(こん 26歳)がおみね(6歳)とともにやってきた。
礼とおくやみの応酬がひととおりすんだあと、銕三郎がさりげなく訊く。
「物井(ものい)のお生まれとおみねどのから聞きましたが、下総国印旛郡(いんばこおり 現・四街道(よつかいどう)市物井)の? だったら、左馬さんの臼井に近い---」

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(下総・物井=緑○ 佐倉=黄〇 臼井=赤○ 明治20年刊)

「いいえ。下野(しもつけ)の物井(現・栃木県芳賀郡二宮町物井)でございます」
「ほう。下野にも物井村がありましたか」

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(下野・物井=緑○ 真岡=黄色〇 明治20年刊)
Wikipedia 物井

助戸(すけど)〕の葉三(ようぞう 35歳)が〔盗人酒場〕の店の中で卒中で歿した翌日、銕三郎は、火盗改メ方の次席与力・高遠(たかとう 41歳)から、物井村は、下総と下野の2国にあることを聞いていた。

「助戸」と、「名草(なぐさ)」、「樺崎(かばさき)」、「法楽寺(ほうらくじ)」の名は、伏せた。
理由は、もうすこし探索してからということもあるが、忠助おまさをかばうためのような気がして、自分でも割り切れていない。
もちろん、それらが足利藩内の村落名であることは、父・平蔵宣雄から教えられている。

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(足利城下の法楽寺とその近辺 明治20年刊の地図)

「おさむらい(侍)のにい(兄)ちゃん。おっかぁ(母)は、ものい(物井)にはかえ(帰)らないよ」
「それでは、おみねどのが母上の頼りになるように、しないといけないね」
「うん」
おまさ が言いなおしをさせる。
おみねちゃん。そうします---でしょ」
おみねどのは---そうちます」
「えらい!」
大声をあげたのは左馬之助であった。
が、半泣きの顔を伏せる。

おまさが手際よく、燗をしたちろりと大盃を配膳する。
「おさん。慈眼寺の住職が、過分のお布施をいただいたと、春慶寺へきて申しておりましたぞ。手前の顔も立ちました」
左馬之助が、恥ずかしそうな口調でだが、めずらしく世慣れた文句を言った。
あの夜、慈眼寺からの暗い夜道を帰りながら、こころが通じるものがあったのかも知れない。
世慣れている権七が、おに盃を持たせ、酌をするよう左馬之助をせかした。

調理場から忠助が、あわびの酒蒸しをもって出てきた。
「あわびの大洗(だいせん)煮は、明日ってことにしておりますので、明日もおいでください」
まさが、銕三郎に盃を持たせ、酌をする。
忠助が横目でそれをみて、かすかにぎょっしたようだ。
おまさ が客に酌をするのを、初めてみたからである。
平仮名のちゅうすけには、権七がかすかにうなずいたようにも見えたのだが---。

おまさに注がれた大盃だが、この時期の銕三郎はまだ酒に強くないので、そっと飯台にもどす。
「お酒がすすみませんね」
おまさが、心配げに訊く。
「家では、父上がたしなまれないのです」
「お酔いになったら、おまさが介抱してさしあげます」
(どこかでも、そう、いわれたな。そうだ、2年前、箱根の芦ノ湯の湯治宿〔めうが屋〕の離れで、だった。言ったのは、阿記(あき 21歳=当時)だったか、女中頭の都茂(とも 42歳=当時)だったか)

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(国芳『江戸錦吾妻文庫』 都茂のイメージ)

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(国芳『江戸錦吾妻文庫』 阿記のイメージ)

【参考】 [〔盗人酒場〕の忠助] (1) (2) (3) (4) (6) (7)

ちゅうすけ注】 下総国の物井は、関東・物部(もののべ)によるとも、千葉孝胤の三男の物井殿に由来しするともいわれている。
下野(しもつけ)国の物井も、関東・物部によるとの説がある。二宮町の町名は、荒れ田復興を指導した二宮尊徳にちなんだものか。


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2008.05.02

〔盗人酒屋〕の忠助(その4)

銕三郎(てつさぶろう 20歳 のちの鬼平)が〔盗人酒屋〕へ戻りついてみると、店の常連客らしい数人が、戸板に骸(むくろ)となった〔助戸(すけど)}の葉造(ようぞう 35歳)を載せているところだった。

入っていった〔樺崎(かばさき)〕の繁三は、
「〔助戸〕の---」
と言っただけで、手をあわせ、傍らについているお(こん 27歳)に深く頭をさげ、調理場の入り口に立っていた忠助へ、
「〔名草〕(なぐさ)のには---」
といいかけた。
と、忠助が調理場へ首をかたむけ、繁三をうながして、先に消えた。

ぼんやりとつっ立っている岸井左馬之助(さまのすけ 20歳)に、
「慈眼寺のほうはうまく運んだのかな?」
「ああ。仏を、快く預かってくれることになった」

が寄ってきて、
「いろいろとお世話になり、ありがとうございました」
頭を下げる。
おみねどのから聞きました。仏は、呉服の反物を手びろく行商なさっていたそうで---」
「はい。ご注文をいただくと、わたしが仕立てておりました」
「これからが、たいへんです。お疲れのでませぬように---」
おみねと、2人で、なんとか---」
「お気をしっかりと。おみねどののためにも---」

左馬さん、拙たちはもう用ずみだ。おまさ(10歳)どの。取りこみ中のようなので、お父上にはあいさつをしないで失礼をば。落ち着いたころ、また、手料理をいただきにまいると、お伝えください」
おまさに、こころづけを足した飲食代をわたし、〔風速(かざはや)〕の権七(ごんしち 33歳)に目で合図して店を出ると、表までおまさが提灯を持って送ってきて、
「お客さま方。なにかとお力をお貸しいただき、ありがとうございました。お気をつけてお帰りください。提灯は、またのまお越しの時で結構ですから、お使いください」
まるで、女将(おかみ)のように口上をのべる。

左馬之助などは、どぎまぎと、言葉にならないことを口ごもっている。
「では、拝借させていただく。今夜は、いろいろ、不躾もあったが、お許しいただきたい」
そう言う銕三郎に、おまさは初めて受け唇から白い歯をみせて微笑んだ。10歳の小むすめとはおもえないほどの艶やかな微笑みであった。

竪川ぞいに歩きながら、銕三郎が、
左馬さんは、呑みなおしをしたかろう。この時刻です。権七どの、〔古都部喜楼〕にしますか、それとも、二ッ目まで足をのばして、〔五鉄〕に?」
「〔古都舞喜楼〕では足ばかりか、目玉まででやすよ。〔五鉄〕にしやしょう。それとも〔笹や〕のお婆ぁさんをたたきお起しますか?」
権七どの。冗談がすぎます」
「あは、ははは」
「ふふ、ふふふ」

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(竪川ぞい 〔古都舞喜(ことぶき)楼 〔五鉄〕)

参考】 [〔盗人酒場〕の忠助] (1) (2) (3) (5) (6) (7)

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2008.05.01

〔盗人酒屋〕の忠助(その3)

忠助(40がらみ)の〔盗人酒屋〕を出た5人は、竪川(たてかわ)に架かる四ッ目の橋をわたり、本所から深川へ入っていた。
田んぼの畔(くろ)につくられた南にまっすぐにのびている道である。
昼間なら左手に広い猿江御材木蔵の樹林がのぞめるのだろうが、星明かりでは冥(くら)い気配でしかない。

行く提灯は2個。 
一つはおまさ(10歳)が銕三郎(てつさぶろう 20歳 のちの鬼平)の足元にさしかけている。

もう一つは、岸井左馬之助(さまのすけ 20歳)が、お母子を導いている。

(26,7歳)は、左馬に語りかけるというより、自分に愚痴っているのだ。何か言っていないと落ち着かないのであろう。
「甘いものに、まるで敵(かたき)みたいに目がない亭主(ひと)だった---そのうえに、お酒もきりがなくって---躰に毒だっていくら言っても聞くものですか---小水にまで蟻(あり)がむらがるようになってきていて、躰もがたがた、亭主としての役(えき)もできなくなっていたのに---いつかは、こんなことになると、恐れていたんだ、わたし---」

御材木蔵の南はずれをすぎた三叉路で、銕三郎おまさの組はそのまま直進して小名木川(おなぎがわ)土手を右に折れる。
母子と左馬之助の組は三叉路を左へとって、慈眼寺の山門へ行く。

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(慈眼寺 小名木川 横川 猿江橋 新高橋 扇橋 尾張屋板)

その三叉路で、それまで、一と言も口をきかなかったおみね(6歳)が、
「わたち、まさねえちゃんといっしょに、行きたい」
の気持ちが動揺しているのに、幼いながらに、耐えられなくなったのだ。
母親も、うわの空で、
「そう、おし」

銕三郎・おまさ・おみねは、左手に曲がったお左馬之助を見送ってから、扇橋へ向かう。

銕三郎が、
おみねどのは、父上の親御どのの家のある助戸(すけど)へ行ったことがありますか?」
「ううん」
おみねちゃん。ありません、でしょう?」
おまさが齢上らしく教える。
「---ありましぇん」

「お父上の名は?」
「〔ようぞう---ようは、おかいこ(蚕)さんがすきなくわ(桑)のは(葉)っぱだって」
(そういえば、おも、〔助戸〕は村落名だと言っていた。仲間内の、いわゆる、通り名なのだ)
「そうか。葉造さんか。足利(あしかが)では、絹糸をつくっていたんだ」
「ちがう。父(と)っちゃんは、べべ(呉服)をう(売)った」
「売っておりました、でしょう?」
「---おりましゅた」
与詩とやった道中の再現だな)

「売っていたのは、ご府内で?」
「ちがう。あちこち。だから、いないこと、ばっかし」

小名木川の北堤へ出る。
左に折れると、名高い五本松に行き着く。
銕三郎たちは逆に右へあゆむ。

小名木川の音もなくゆっくりと動いているいる流れは、いまの時刻は、大川の方へだろうか、中川口へだろうか。目をすましても見えない。
舟行灯をつけた西行きの舟と並ぶように、銕三郎たちも小名木川が横川と交差する猿江橋へ。
おみねは、おまさの手をしっかり握っている。

おまさどの。扇橋の繁三というのは?」
「おみねちゃんのお父っつぁんのお友だちです」
「すると、呉服のほうの?」
「それは知りません。うちの店で、よく、いっしょに呑んでいました」
「じゃ、呑み友だちなんだね」

とつぜん、おみねが口をはさむ。
「仕事仲間でしゅ」
「ほう、仕事仲間---?」
おみねちゃん。たしかじゃないことを、よその人に言ってはいけません」
「たしかでしゅ」
それきり、おまさは口をつぐんでしまった。

(深入りしすぎて、警戒されたかな。それほども深入りしたとはおもえないが---)

小名木川を横ぎっているのが横川である。
西のかなたにある江戸城に対して、横(南北)に流れているようにつくられた。

こちら側から小名木川の対岸へ行くには、猿江橋、新高橋と¬(かぎ)の字にわたり、さらに扇橋へという手間をとる。
3橋のとっかかりの橋行灯が、ぼんやりと所在を教えている。

猿江橋の手前で、おまさが、
「お客さん、提灯をお持ちになって、ここで、おみねちゃんとともに待っていてください。これは、点(とも)し替えの代わりの蝋燭です」
たもとからの蝋燭を一本よこすと、さっさと猿江橋をわたって行った。
銕三郎に有無をいうすきを与えないほどに、水際だった行動であった。

待つあいだに、銕三郎は、おみねに話しかけてみた。
おみねどのの母上も、助戸の生まれかな?」
「ちがう---ちがいます」
「ほう。どこかな?」
「ものい、でしゅ」
「ものい?」
「うん---そうでしゅ」

(ものい---とは、どんな字なのだろう。「もの」は「物」として、「い」は「井」でいいのかな? それとも「物言(ものいい)」をおみねが言いちがえたか?)

おまさと男2人があらわれた。
提灯の明かりがとどくようになると、35,6歳にみえるほうに、おみねが呼びかけた。
「かばちゃき〔樺崎〕のおじちゃん」
男は銕三郎に目礼をしただけで、無言のまま先に立って歩きはじめたので、みんなしたがった。

銕三郎は、
(死んだ男が〔助戸(すけど)〕の葉造(ようぞう)、それと関係のあるのが〔法楽寺(ほうらくじ)〕、この男は〔樺崎(かばさき)〕の繁三(しげぞう)---それと、〔名草(なぐさ)〕のなんとやら---明日にでも、高遠(たかとう 41歳)〕次席与力にたしかめてみよう}
反芻しながら、先を行く〔樺崎〕の幅のひろい背をみている。


【参考】 [〔盗人酒場〕の忠助] (1) (2) (4) (5) (6) (7)

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2008.04.30

〔盗人酒屋〕の忠助(その2)

「あっ、〔助戸(すけど)〕の---)
板場から忠助(ちゅうすけ)が、倒れた男にすばやく駆け寄り、おまさに命じた。
「お(こん)さんに、報らせに行け!」
おまさが飛び出して行く。

【参照】 〔鶴(たずがね)〕の忠助

三和土(たたき)に、仰向けに倒れている、〔助戸〕のと呼ばれた太めの男は、かすかにいびきをかいているが身動きもしない。
頭の近くに、落ちて割れた深盃が散っている。

「ご亭主。動かしてはいけねえ。卒中のようだ」
風速(かざはや}の権六(ごんろく)が、抱きおこそうとした忠助をたしなめ、まげたままの右足を、そっとのばしてやった。
「箱根の荷運び雲助で、このように呑み屋で倒れたのを何人も見ておりやす。そっとしておいて、医者を待ちやしょう」
権七に、忠助がうなずいた。

「ご亭主。近まに本道(ほんどう 内科)の医者は?」
岸井左馬之助(さまのすけ 20歳)が訊く。
「すぐそこの、柳原6丁目の田中稲荷の西隣に、了庵先生がおられます」
「あい分かった。連れてくる」
左馬之助も店を出た。

「ご亭主どの。この〔助戸〕どのの家は、ここから---?」
「前の道を竪川(たてかわ)沿いに3丁ばかり東へ行って、御旅(おたび)橋をわたった左手、清水町の裏長屋で---」
「むすめごは、おまさどのと言いましたな。迎えに行ってこよう」

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(田中稲荷西隣の了庵医師 御旅橋、清水町 尾張屋板)

銕三郎(てつさぶろう 20歳 のちの鬼平)が2丁も行かないうちに、向こうから提灯も持たないで駆けてくるおまさと、女房風と5,6歳の女の子に出会った。
おまさどの」
「あ、お客さん。おおばさんと、おみねちゃんです」

参照】 [女賊おみね]

「急いで。いま、左馬了庵先生を迎えに行っております」
銕三郎は、息をきらしているおまさの手を引っぱるようにして、〔盗人酒屋〕へとって返す。

〔盗人酒屋〕の行灯の下で見ると、細面の お紺は27,8歳らしかった。こころを乱してはいるが、場所柄はきちんと心得ている。
母親に手をにぎられているおみねは、勝気そうな表情で父親を見下ろしている。

医師の了庵が、左馬之助に導かれて入ってきた。

おまさ が、〔助戸〕の顔のまわりに散っていた深盃の破片をつまんで調理場へ持ち去り、代わりに新しい行灯に灯(ひ)をいれて、〔助戸〕の顔の近くに置く。
(齢端(としは)もゆかないのに、よく、気のまわる子だな)
銕三郎は、さっき、握って走った掌(てのひら)にのこっている、おまさの小さな指の感触を思い出しながら、
(こんな時に、不謹慎な---)
と自戒する。

みんなが見守るなか、了庵は〔助戸〕の鼻に掌をかざし、さらに左首の脈をたしかめ、首をふった。
「お前さんッ!」
が悲鳴のような声をあげた。しかし、泣かない。くいしばって悲しみに耐えている。
おみねは、母親にしがみついて、亡骸(むくろ)となった父親から目をはなさない。
忠助を見習って、銕三郎なども仏になったばかりの遺体に合掌する。

「おさん。突然、気の毒なことになった。まあ、うちで仏になったのがせめてもの慰めだ。〔法楽寺(ほうらくじ)〕のほうへは、〔名草(なぐさ)〕のから報らせてもらおう」

参照】 〔法楽寺(ほうらくじ)〕の直右衛門

さらに、おまさに、
「深川・扇町の繁三さんのところは知っているな。夜道ですまないが、このことを告げて、手配を頼むと、わしが言っていたと伝えてきてくれ」
おまさ は、殊勝に、こっくりうなずいた。

「亭主どの。夜道には堀川もあって危ない。拙がつき添っていこう」
銕三郎が申し出た。
「初めて来ていただいたお武家さまに、そのようなご迷惑ごとは---」
「かまわぬ。このあたりの地勢には通じておる」
「では、お言葉に甘えさせて貰います。行っておいで、おまさ

っつぁん、ちょっと待ってくれ」
左馬之助が声をあげ、忠助に、
「ご亭主。いま、法楽寺とか耳にしたが、仏の菩提寺かな?」
「いえ。仏は、下野(しもつけ)国足利郡(あしかがこおり)の助戸村の出です。その隣村が法楽寺と聞いております。そうだったな、おさん?」
が意志のない人形のようにぎこちなくうなずいた。

「客商売のここへ、仏をこのまま置いておくわけにはいくまい。内儀。荼毘(だび)に付すまで、内儀のところへ移すか、それとも寺へ預けるか?」
「さすがに、寺へ寄宿している左馬さんらしい気の利(き)きようです」
「うちには無理です。しかし、お寺さんといわれても、ご府内には知り合いはございませんし---」
が眉を寄せた。

「ご亭主は---?」
「生憎と、この近所には、お寺さんがなくて---」

「それでは、どうであろう。手前が寄宿している寺は日蓮宗だが、そのつながりで、深川・猿江のご公儀の材木蔵の先の慈眼寺の住持を存じておる。よろしければ、扇町への道すがらなので、これから、内儀も、っつぁんといっしょに、そちらへ参ろうではないか」

ちゅうきゅう注】慈眼寺は、明治45年(1912)に谷中・妙伝寺と合併して、豊島区西巣鴨4の8へ移転。寺号は未詳。

【参照】 [〔盗人酒屋〕の忠助] (1) (3) (4)  (5) (6) (7)

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2008.04.29

〔盗人酒屋〕の忠助

本所・四ッ目の〔盗人酒屋〕を探ってみよ---と、火盗改メのお頭(かしら)・長谷川太郎兵衛正直(まさなお 57歳 1450石余)からじきじきに言われた銕三郎(てつさぶろう 20歳)は、その諸掛かり費として3両わたされた。

いうまでもないが、太郎兵衛正直は、長谷川一門の本家・当主であり、銕三郎には大伯父にあたる。
正直は、銕三郎が身につけている捜査への目のつけどころと、なみなみでない熱意をみとめて、職制外の要員に登用したのである。

参照】長谷川太郎兵衛正直 [〔荒神〕の助太郎] (10)
[明和2年の銕三郎] (1)
[十如是](3) (4)

3両は、いま(物価暴騰寸前の2008年4月下旬)の価値に換算すると、30万円前後とおもっていい。
もっとも、流行作家になって以後の池波さんの換算率は、これよりもかなり甘い。

篇名(巻数-順)    初出年   1両換算
[1―5 老盗の夢]   1968    4~5万円
[3―3 艶婦の毒]   1969    6万円
[9―2 鯉肝のお里]  1972    7~10万円
[19―1 霧の朝]     1978    10万円
江戸切絵図散歩]   1987    20万円

このところの学会は、池波さんの直感よりもうんとしわく、1両を10万円前後にみているので、今回の換算はそれにしたがっておいた。最近の物価上昇で、いずれ、訂正せずばなるまいが。

銕三郎は、3両のうちの2両を〔風速(かざはや)〕の権七(ごんしち)の掌(てのひら)へのせて、
「あまったら、お須賀(すが)どのと、芝居へでも行くたしにしてください」
「こんなにいただいちまっちゃあ、申しわけありやせん。せめてこれで、於嘉根(かね 2歳)さまへ髪かざりでも---」
返そうとする1両を、さえぎって、
「そちらは、母上がこころがけてくださっているから---」

〔盗人酒屋〕と親しくなる手はずを、あれこれ案じてみた銕三郎は、権七にひと役買ってもらうのがもっとも自然にいけるとの結論に達したのである。

が、権七の住まい兼呑み屋である〔須賀〕から、四ッ目の〔盗人酒屋〕へは、20丁(2kmほど)はある。
ちょっと気に入ったから立ち寄ってみた---という口実は使えない。

それで、腹をこわして寝ている銕三郎から、押上の春慶寺へ寄宿している岸井左馬之助(さまのすけ 20歳)への届けものをした帰り道に、行灯看板が目にとまったので入ってみて、気にいったという筋書きにした。

参照】[岸井左馬之助] (1) (2)[岸井左馬之助とふさ]

もちろん、その口実は、〔盗人酒屋〕の主(あるじ)のほうから訊いてくるまで、言いだすものではない。

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(北本所の図 尾張屋板)

最初の夕刻は、2合の酒と、あわびの大洗(だいせん)煮をとり、小半刻(こはんとき)で引きあげた。
2日おいて、また、酒2合と、あわびの大洗煮を注文したら、10歳ほどの、目のぱっちりした小女から、
「きょうは、大洗煮はありません」
と言われた。
「それゃあ残念。おすすめは---?」
「おすすめというのではなく、あるのは、あわびのわたの煮込みと、胡瓜もみだけです」
「わたの煮込みでいこう。ここのむすめさんかい?」
まさです。板場にいるのが、お父(と)っつぁんです」

参照】 [女密偵おまさ]
 [おまさの年譜]
[おまさが事件の発端]
 [テレビ化で生まれたおまさ]

忠助と名のった40がらみの主(あるじ)は、5尺8寸(1m75cm)はありそうな、鶴をおもわせる長身の男であった。

参照】  [〔鶴(たずがね)〕の忠助] 

「わたの煮込みに、味醂がほどよく効いている」
権七のお世辞にも、ちらっとうなずいただけであった。

3日おいて、こんどは、店に入る前に麻地暖簾を割って、
おまささん。きょうは、あわびの大洗煮はあるかな?」
先に声をかけてみた。
おまさが首を横にふったので、
「あすは?」
忠助がうなずいた。
「では、あす」
そのまま、帰った。

翌日、権七は、銕三郎左馬之助を伴ってあらわれた。2人とも浪人風に着流しである。

「あわびの大洗煮を、ぜひ、この2人に味あわせたくてね」
忠助がはじめて笑顔を見せた。
出されたあわびを箸でつまんだ銕三郎が訊いた。
「どこのあわびですか?」
「浦安の浜です」
「浦安にも海女が?」
「はい。お武家さまは、どこで海女をご覧になりましたか?」
「東海道の倉沢でした」

参照】2008年1月12日[与詩を迎えに] (23)

「ああ。あのあたりは海女が名物です」
「ご存じで?」
「はい。若いころに、上り下りしたもので」

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(北斎「倉沢の海女」)

権七左馬之助は、話にくわわらないで、もっぱら、呑み、かつ、食べている。
おまさが、父親と銕三郎の会話を、目をかがやかせて聞いている。

----と、瀬戸物が割れる音ととともに、人が転んだ。

【参照】 [〔盗人酒場〕の忠助] (2) (3) (4) (5) (6) (7)


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2006.03.12

釣具〔利根(とね)屋〕八蔵

『鬼平犯科帳』文庫巻14に収められ、[尻毛の長右衛門]と、この篇のタイトルにもなっている首領の〔尻毛(しりげ)〕の長右衛門は、もともとは美濃国(岐阜市)の尻毛(しっけ)の出身である。
(参考: 〔尻毛〕の長右衛門の項)
江戸でのお盗めのときの宿泊は、3つある〔盗人宿のうちの、小名木川が大川にそそぎこむ川口、そこに架かっている万年橋の南詰の釣具屋、〔利根(とね)屋〕八蔵方としている。
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左端が万年橋(。南詰は橋の右手
(『江戸名所図会 霊雲院』より 塗り絵師:西尾 忠久)

つまり、〔利根屋〕八蔵は〔尻毛〕の長右衛門の配下の一人ということ。

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年齢・容姿:60がらみ。矍鑠として諸事をこなす。
生国:下総(しもうさ)国望陀郡(まくたぜのこおり)利根(とね)村(現・千葉県君津市利根)。
10年前にいまのところで店を開き、土地の評判もよく、釣り舟も一艘持っており、客を乗せて川や海へも出るのは、若いころに利根で船頭をしていたからである。

探索の発端:長右衛門が、妾だったお新のむすめ・おすみ(19歳)を、本所・吉田町2丁目の薬種問屋〔橋本屋〕へ引き込みに入れていたのを、お新そっくりなのに、密偵おまさが目をつけた。
(参照: 引き込み女おすみの項)
(参照: 女賊お新の項)
(参照: 密偵おまさの項)

結末:八蔵の舟でずらかろうとした長右衛門は捕縛。八蔵も同然。
(参照: 女賊お新の項)。

つぶやき:八蔵の生国を房総の利根にして、操船もできるとしたところにも、池波さんの細心の配慮が及んでいる。

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2005.11.10

〔押切(おしきり)〕の定七

『鬼平犯科帳』文庫巻9に収まっている[浅草・鳥越橋]で、〔傘山(かさやま)〕の瀬兵衛(50がらみ)の配下で、浅草・瓦町の蝋燭問屋〔越後屋〕へ引き込みに入っている〔風穴(かざあな)〕(35歳)の仁助の耳へ、女房のおひろ(30前後)がお頭の瀬兵衛と乳繰りあっていると、悪魔の声を吹きこんだのが、連絡(つなぎ)役の〔押切(おしきり)〕の定七だった。
(参照: 〔傘山〕の瀬兵衛の項)
(参照: 女賊おひろの項)

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年齢・容姿:35歳。頬骨の張り出した浅黒い顔。
生国:下総(しもうさ)国葛飾郡(かつしかこおり)押切村(現・千葉県市川市押切)
「押切」という村名は、北は山形県の尾花沢市から静岡県藤枝市まで、10指にあまるほどある。その中で、市川市を選んだのは、定七が〔傘山〕の瀬兵衛を裏切って〔白駒(しろこま)〕の幸吉と手を組むことになったのは、分け前のこともあろうが、その前に地縁が2人を結びつけるきっかけとなったと見たからである。
〔白駒〕の幸吉は、上総(かずさ)の望陀郡(もうたごおりl)白駒郷(現・千葉県君津市)の出身。
(参照: 〔白駒〕の幸吉の項)

探索の発端:大横川ぞいの石島町、〔小房〕の粂八にまかされている船宿で、客として現れた〔白駒(しろこま)〕の幸吉と〔押切〕の定七が、〔傘山〕一味の仕掛けを横からかっさらうために〔風穴〕の仁助を裏切らせたことを話しあったために、粂八に疑われ、尾行(つ)けられ、それぞれの住いが判明し、見張られた。
(参照: 〔小房〕の粂八の項)

結末:〔傘山〕の瀬兵衛は、浅草・鳥越橋上で、たまたま行きあった〔風穴〕の仁助の嫉妬の刃で刺殺。仁助はその場で同心・沢田小平次に捕縛された。
押し込み当夜、全員が集まった〔白駒〕の幸吉の盗人宿へ、火盗改メが打ち込むのは時間の問題。

つぶやき:『オセロ』の矮小版である。とりわけ、〔風穴〕の仁助は女房のおひろの躰を無上のものとおもいきわめていたから、定七の告げ口はこたえた。
嫉妬心に火をつけるのは、古今、もっとも有効で、そして、卑劣なテである。嫉妬心につけられて火は、時間とともにひとりでに燃えさかる。

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2005.11.04

〔尾君子(びくんし)小僧〕徳太郎

『鬼平犯科帳』文庫巻1の[座頭と猿]で、お頭の〔夜兎(ようさぎ)〕の角右衛門から、〔蛇(くちなわ)〕平十郎(40がらみ)のお盗(つと)めを助(す)けるようにいわれているが、その平十郎一味の引き込み役の座頭・彦の市(50男)の妾・おその(20歳)とできてしまったのが、〔尾君子(びくんし)小僧〕の異名をもつ徳太郎であった。
(参照: 〔夜兎〕の角右衛門の項)
(参照: 〔蛇〕平十郎の項)
(参照: 座頭・彦の市の項)
ふだん、おそのは、新宿・麹屋横丁で彦の市と暮らしているが、病父を見舞うといって北新網の裏長屋へくると、隣家の小間物の行商を装っている徳太郎と逢引きをする。
徳太郎がおそのの裸躰のあちこちにつけた唇の斑点や歯の跡を、目明きの徳の市は嫉妬のまなこで見ては、いつか徳太郎を殺してやろうとおもっている。

201

年齢・容姿:25歳。色白。ふっくらとした手。身が軽い。〔尾君子〕は猿の異名。
生国:上総(かずさ)の生まれとのみある。が、父親じこみの軽業らしいから、上総も千葉に近いところと推察。夷隅郡(いすみこうり)深谷村あたりとみておこう。(現・千葉県夷隅郡夷隅町深谷)。

探索の発端と結末:彦の市を殺しに麹屋横丁へ行った徳太郎だが、帰ってきた彦の市のほうが一瞬早く、徳太郎を刺殺してしまう。彦の市はそのまま逐電。奉行所に調べられたおそのだが、徳太郎が〔夜兎〕の一味とは知らない。

つぶやき:座頭をお盗めの一味に加えたのは、池波さんが最初?
子母沢寛随筆集『ふところ手帖』に収められていた短編をテレビ化した座頭市シリーズのほうが先か。
いま、googleで〔座頭市〕を検索すると、まず、北野武さんの映画についての記載がならぶ。ぼくたちは勝新太郎さんの〔座頭市〕の映像が意識にのこっているのだが。
もっと起源をたどると、若山富三郎さんの〔座頭市]もある。このあたりが池波さんにヒントを与えていないだろうか。

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2005.08.20

〔稲荷(とうが)〕の百蔵

『鬼平犯科帳』文庫巻11に収められている[雨隠れの鶴吉]で、鶴吉の実家---日本橋・室町2丁目の茶問屋〔万屋〕源右衛門方に狙いをつけた盗賊の首魁〔稲荷(とうが)〕の百蔵は、配下の〔貝月(かいづき)〕の音五郎を飯炊き男として引き込みに入れた。
(参照: 〔雨隠れ〕の鶴吉の項)
(参照: 〔貝月〕の音五郎の項)

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年齢・容姿:どちらも記述がない。
生国:下総(しもうさ)国香取郡(かとりこうり)稲荷山(とうかやま)村(現・千葉県香取郡大栄町稲荷山)。
ちゃんとした稲荷社だけでも全国に約12万社あるといわれている。だから、〔稲荷〕なんて「通り名(呼び名)」は、「追分(おいわけ)」と同じで、生国隠しに使われる。しかし、百蔵のばあいは、(とうが)とルビがふられているので、(いなり)を除けた。もっとも、あったのは(とうかやま)である。
テリトリーが上州と武州とあるから、香取郡の稲荷山村に落ちつけた。
ここの稲荷はかつて久井崎城内にあったので 、多古町東松崎と佐原市佐原字岩ヶ崎の稲荷神社とあわせて香取郡三崎稲荷と親しまれたという。
江戸の小網町の裏の稲荷堀は(とうかんぼり)と読む。小網町は池波さんが丁稚として勤めた兜町に近い。

探索の発端:鶴吉の年上女房・お民が〔野槌(のづち)〕の弥平の下にいたとき、〔貝月〕の音五郎もいっしょだった。それで見つけて鶴吉に話し、鶴吉少年時代に可愛がってくれた井関録之助へ打ち明け、録之助から鬼平へ話が通じ、火盗改メの監視がはじまった。
(参照: 女賊お民の項)
(参照: 〔野槌〕の弥平の項)
音五郎を尾行(つ)けて、2軒の盗人宿もつきとめられた。

結末:一味24名が〔万屋〕へ押しこんできたところを全員逮捕。

つぶやき:日本橋・室町2丁目の茶問屋〔万屋〕源右衛門だが、いまでも室町のあのあたりには茶問屋の老舗がのこっている。江戸時代、茶問屋は呉服・太物問屋、薬種問屋についで格式が高かったようだ。

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2005.08.02

〔飯富(いいとみ)〕の勘八

『鬼平犯科帳』文庫巻6には、全篇中のベスト5にランクされる[大川の隠居]が収録されている。
そう、いまは船宿〔加賀や〕の船頭としてはたらいている、かつての盗人〔浜崎(はまざき)〕の友蔵(友五郎)が戻り盗めをする一篇である。友蔵は〔飯富(いいとみ)〕の勘八の右腕だった。
そのころ、押し込み先の女に手を出して〔血頭〕の丹兵衛のところを追いだされた、20歳になったばかりの〔小房(こぶさ)〕の粂八も、〔飯富〕一味にいた。
(参照: 〔浜崎〕の友蔵の項 )
(参照: 〔血頭〕の丹兵衛の項)
(参照: 〔小房〕の粂八の項)

206

年齢・容姿:武州・川越のわが家の畳の上で、女房と子どもたちに看取られてれてみまかったときが62歳。容姿の記述はない。
生国:上総(かずさ)国望陀郡(ぼうだこうり)飯富村(現・千葉県袖ヶ浦市飯富)。
甲斐国巨摩郡の飯富村もかんがえたが、テリトリーが上総、下総と江戸とあるので、上総の飯富村を採った。自宅が川越なのは、女房がそっちの出なのかも。

探索の発端:3ヶ条を守り抜いた上での病死なので、一度も捕縛されていない。

結末:前記のごとく、畳の上で、家族に看取られて大往生。

つぶやき:千葉の袖ヶ浦と埼玉の川越が、最初はどうしても結びつかなかったが、〔浜崎(はまざき)〕の友蔵の前身が、新河岸川ぞいの「浜崎村」生まれの川越船頭ということにおもいいたった。とすれば、〔飯富(いいとみ)〕の勘八に川越の家を世話したのも、女房となった女性に引きあわせたのも、右腕だった友蔵だったろうと。
すっきりおさまった。
池波さんが川越に取材に行った記録がのこっているのは1971年10月で、[大川の隠居]はこの年の5月号の『オール讀物』に発表されているから、これは事後の取材ということになる。その前に記録にのこしていない取材があったはずだ。

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2005.07.25

〔岩坂(いわさか)〕の茂太郎

『鬼平犯科帳』文庫巻1に入っている、シリーズ初期の秀作の一つ[老盗の夢]で、あと一トばたらきと願う元大盗〔蓑火(みのひ)〕の喜之助へ、〔前砂(まいすな)〕の捨蔵が紹介した、〔野槌(のづち)〕の弥平の配下だった3人の30男の1人。
(参照: 〔蓑火〕の喜之助の項)
(参照: 〔前砂〕の捨蔵 の項)
(参照: 〔野槌〕の弥平の項 )

201

年齢・容姿:30男。容姿の記述はないが、緊張すると顔色が青ざめ、眼の光りが異様になる。
生国:上総(かずさ)国天羽郡(あまはこうり)岩坂村(現・千葉県君津市岩坂)
滋賀県甲賀市水口町岩坂も、池波さんのなじみの地だが、江戸に住みなれていることから、君津市を採った。

探索の発端:というより、〔蓑火〕の喜之助を裏切り、〔小房〕の粂八を殺(や)りに鎌倉河岸へ出かける途中に立ち寄った九段先下の一杯飲み屋の屋台で、まず〔印代(いしろ)〕の庄助と〔火前坊(かぜんぼう)〕の権七が喜之助に刺される。
(参照: 〔小房〕の粂八の項)
(参照: 〔印代〕の庄助の項)
(参照: 〔火前坊〕の権七の項)
そのあと、喜之助と茂太郎が相討ち。

結末:相討ちで死ぬ。

つぶやき:本格派の巨盗で、帰り盗めを計画した〔蓑火〕の喜之助が、畳の上臨終が迎えられるはずなのに、大女の色香に迷った果てに、無慙な最後を遂げたのは、本格派の終焉ら暗示している。
と同時に、時代が鬼平の出番をうながしていることも告げている。
悪が強ければ強いほど、相手方・鬼平の強さも際立つ。


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2005.07.19

〔臼井(うすい)〕の鎌太郎

『鬼平犯科帳』文庫巻3に所載の[駿州・宇津谷峠]は、墓参した京都からの帰路の浜松で、剣友・岸井左馬之助tが別路をとって秋葉大権現社へ参拝、袋井宿へ下りて旅籠へ入った。
泊まりあわせていたのが、幼なじみの鎌太郎であった。30年ぶりの再会である。が、鎌太郎はそそくさと出立してしまった。

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年齢・容姿:48歳。眼があるかないのかわからないほど小さい。
生国:下総(しもうさ)国印旛郡(いんばのこおり)臼井村(現・千葉県佐倉市臼井)。
臼井宿は印旛沼南岸の港として繁盛していた。岸井家は郷士で庄屋でもあったが、鎌太郎は百姓のせがれだった。

探索の発端:腹を下していた木村忠吾が、島田を出て阿知ヶ谷の林で尻をまくっていて、〔臼井(うすい)の鎌太郎が女をしめ殺す気配を察した。
その前の会話で、〔二股(ふたまた)〕の音二郎と、〔稲荷(いなり)〕の徳治は、盗賊の首領〔空骨(からほね)〕の六兵衛と妾おもんを殺し、盗人宿に隠してある金を、〔臼井〕の鎌太郎と3人で横取りしようということだったらしい。もっとも、鎌太郎はその〔二股〕の音二郎をも殺害していた。
鬼平が藤枝の〔本陣〕で女の死体を見せると、小間物屋・久蔵の女房と知れた。

結末:岡部の旅籠で、忠吾が鎌太郎の声を耳にし、出ていった2人を尾行すると、岡部川をわたり、朝比奈川を遡る。とある小屋で〔藤枝(ふじえだ)〕の久蔵たち3人が待ち伏せていて、〔稲荷〕の徳治と〔臼井〕の鎌太郎を切り殺したところを、鬼平が捕縛。
このことを鬼平は岸井左馬之助には話さず、肩を借りながら宇津谷峠を下るのだった。

つぶやき:岸井左馬之助が浜松から向かったという秋葉大権現社へ参拝してみた。
麓の別社は、昭和18年だかに建立されたものだから、左馬が詣でたものではない。
台風の翌日で、木の小枝などが散らかっている山道を死ぬほどのおもいで登ったが、あとで、自動車道路ができているときき、がつくり。
しかし、岸井左馬之助(すなわち池波さん)が山道の樹間からの見たと同じ眺めはいまだに忘れられない。
秋葉登山の記録は当サイトの[週刊掲示板]2003年06月03日を。

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2005.06.27

〔青田(あおた)〕の文四郎

『鬼平犯科帳』文庫巻11に収まっている[密告]は、娘時代に恩義をうけた〔珊瑚玉(さんごだま)〕のお百(41歳)が、わが子ながら畜生ばたらきをやめない〔伏屋(ふせや)〕の紋蔵(25歳)の一味が、「今夜、深川・仙台掘の足袋股引問屋〔鎌倉屋〕を襲う」と密告。
(参照: 〔珊瑚玉〕のお百の項)
(参照: 〔伏屋〕の紋蔵の項)
浅草・今戸の盗人宿に残っているお百の監視役をつとめたのが〔青田(あおた)〕の文四郎である。

211

年齢・容姿:どちらもの記述はないが、20代であろう。
生国:下総(しもうさ)国葛飾郡(かつしかごうり)小金牧野付村牧野(現・千葉県流山市青田)
〔伏屋〕の紋蔵の義父〔笹子(ささご)〕の長兵衛も下総の笹子の出であったから、紋蔵も下総出身者で一味を固めたろう。
下総にはもう1村、青田という地名がある。新治郡(にいはりごおり)のいまは八郷(やさと)町に組みこまれている(あおだ)である。が、池波さんは(あおた)と濁らないでルビをふっているので、流山市の北東端の青田をとった。

探索の発端:〔珊瑚玉〕のお百の密告で捕縛された紋蔵は、鬼平から「お前の実の父親はおれだ」といわれて態度を一変、お百の隠れ場所を白状し、捕縛をのがれた〔青田〕の文四郎の弟の半助がお袋の命を狙っていると訴えた。

結末:盗人宿である今戸・長昌寺門前の茶店へ鬼平と彦十たちが駆けつけてみると、文四郎は、お百に毒殺されており、半助とお百は刺し違えて2人とも息絶えていた。

563
浅草・今戸 長昌寺(『江戸名所図会』 塗り絵師:西尾 忠久)

つぶやき:この篇も、ぐれてはいても芯は人情味が厚かった、銕三郎の若きころの姿をフラッシュ・バックしてみせる。
こうした一つひとつのエピソードが積み重なって、鬼平という壮大な人間像になっていく。
エピソードを創作する池波さんはたいへんだろうが、読み手は旧知の仁のようにさらになじんでいく。

話変わって。『図会』で示した長昌寺だが、ここの開基・日寂(にちじゃく)上人は、元は浅草寺の僧。下総国中山妙法華寺の日常上人と法論をたたかわし、浅草寺を出て身延山へあがって日蓮上人の弟子となり、草庵を結ぶ。
659
中山妙法華寺(『江戸名所図会 塗り絵師:西尾 忠久)

浅草寺を出るとき、寸余の聖観音像を持ちだしたとの説も。現在地(台東区今戸 2-32-16)の同寺には、宗論の芝生と観音堂も設けられている。

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2005.06.05

〔神崎(こうざき)〕の弥兵衛

『鬼平犯科帳』文庫巻4に収録されている[あばたの新助]は、兇盗〔網切(あみきり)〕の甚五郎の妾で甘酒屋の茶汲みをしている女賊の豊満な色香にまよった同心・佐々木新助の物語だが、ストーリーが展開する中に、こんな1行が挿入された。
(参照: 〔網切〕の甚五郎の項)
「この間、長谷川平蔵は別の事件を追って、武州・越ヶ谷(こしがや)へ出張り、目指す盗賊・神崎(こうざき)の弥兵衛一味を捕らえている」
これっきりで、ある。

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年齢・容姿:上記でご覧のとおり、記述がない。
生国:下総(しもうさ)国香取郡(かとりこうり)神崎本宿(こうざきほんしゅく)(現・千葉県香取郡神崎町神崎本宿)
神社に近いあたりを「神崎」と名づけていいるところは多い。その「神崎」を、(かんざき)と読むところと、(こうざき)と読む土地がある。この篇では(こうざき)とルビがふられていし、埼玉県の越谷へもさほど離れていない千葉県の「神崎」を取った。

探索の発端:記載されていない。

結末:追捕されたのだから、全員、死刑は間違いない。

つぶやき:この篇では、越谷(埼玉県。郵便番号簿の表記による)まで、長谷川平蔵が出張っているが、火盗改メの守備範囲はどのあたりまでかというと、池波さんも座右に置いていた松平太郎著『江戸時代制度の研究』(1919)の第14章第6節[火附盗賊改]によると、江戸市中の巡邏が主ではあるが、「広く関八州を巡行」とも書いている。
蕨宿の村役人や九十九里村の者を召還した史料も目にしたことがある。

吉田東伍博士『大日本地名辞書』(冨山房 明治33年-)、に『江戸慶長見聞集』から引いたおもしろい記述があった。「下総の国向崎といふ在所のかたわらに甚内といふ大盗賊有りしが、訴人に出て申けるは、関東に頭をなす大盗賊十人もニ十人も候べし、是皆いにしへ名を得しいたづらもの、風間が一類、らっぱの子孫其他、此者共の有所、のこりなく某好知たり、案内申すべし、盗人がりし給ふべしと云々」

乱波(らっぱ)者といえば、忍者だ。池波さんは、この記述を読んで、〔神崎〕の弥兵衛を創造したのかも。


長谷川伸師に、昭和初期に書かれた[頼まれ多九蔵]に、〔羽斗(はばかり)〕の紋次郎という旅人が登場する。
下総国香取郡羽斗村の生まれで、近くの神崎(こうざき)村の網師で彫ものの上手---宗八に、殺された恋人おみねの姿を背中に葬い彫りしてもらう。その紋次郎と約束した多九蔵が神埼を訪ねるが、紋次郎は着いていなくて、代わりにおみねの亡霊が渡し場に現れるという佳品。

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2005.05.06

〔珊瑚(さんご)玉〕のお百

『鬼平犯科帳』文庫巻11に収められている[密告]の女賊。深川・陽岳寺門前の丸太橋ぎわの茶店〔車屋〕で店員をしていた16歳のとき、百俵取りのご家人の長男・横山小平次の子を身ごもった。小平次は石段の上から突き落として流させようと、お百を聖天宮へ連れていった。が、腹の子は流れず、お百は左脚を骨折。
事情を聞いた銕三郎(鬼平の家督前の名)は、小平次にかけあって23両を出させ、自分の餞別の5両を添えて、赤子を抱いて下総(しもうさ)・周淮郡飯野の笠屋の後妻になっていくお百へ、珊瑚玉の簪とともに持たした。
その後お百は、息子・紋蔵をつれ、下総・木更津(きさらづ)が本拠の盗賊〔笹子(ささご)〕の長兵衛の女房に。

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年齢・容姿:41歳。色白、細おもて。左足をひきづる。
生国:下総国市原郡(いちはらこおり)姉ヶ崎(あねさき)村(現・千葉県市原市姉崎)

探索の発端:火盗改メの役宅の近く、九段坂下で葭簀張りの居酒屋の亭主・久兵衛(55,6歳)が、女から預かったという手紙を届けてきた。

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飯田町九段坂(『江戸名所図会』より 塗り絵師:西尾 忠久)

今夜、深川・仙台堀の足袋問屋〔鎌倉屋〕を15人の賊が襲う、とあった。

結末:賊は、〔伏屋(ふせや)〕の紋蔵一味で、逃げた見張り1名のほかは全員逮捕。死罪。
(参照: 〔伏屋〕の紋蔵の項)
逃げた見張りは、浅草・今戸のはずれ長昌寺わ