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2008年5月の記事

2008.05.13

高杉銀平師(4)

_11鬼平左馬の、高杉銀平師ゆずりの一刀流の剣の妙技を、あますところなく活写しているのは、文庫巻11[土蜘蛛の金五郎]が第一とおもう。

月はあっても、犬の仔(こ)一匹見えぬ道であった。
江戸湾の汐の香が高い。駕籠が、会津屋敷の手前掘割りに架(か)かっている小さな橋をわたったときであった。
ふわりと---。
闇の幕を割ってあらわれた黒い人影が一つ。
(略)
提灯を切り落とされた山本医生を突き退(の)けるようにして、黒い影が駕籠の前に立ち、
「長谷川平蔵。出ろ」
(略)
「何者だ」
駕籠の垂(た)れをはねあげ、偽(にせ)の長谷川平蔵---すなわち、岸井左馬之助が、
「盗賊改方、長谷川平蔵と知ってのことか」
叱りつけるようにいって、悠然と、駕籠からでた。
「まいる」
本物が、ぴたりと正眼(せいがん)に構えた。
「む!」
ぱっと飛び下った偽者が、すかさず抜き合わせて。下段。
ともに、故高杉銀平(たかすぎぎんぺい)先生直伝(じきでん)の一刀流である。
「鋭(えい)!」
「応(おう)!」
本物と偽者の気合声(きあいごえ)が起ったと見る間に、幅(はば)二間(けん)の道で、猛烈な斬り合いがはじまった。

ここから先は、文庫p82 新装版p85 でつづきをお読みいただく。
いや、ファンなら、読むまでもなく、一部始終をありありと想起なさるはず。

この斬りあいのものすごさの結果には、後日譚(ごじつたん)がある。
例の、額から鉄片をこじりだすくだりである。
下をクリックしてお確かめいただこう。

参照】2007年4月1日[『堀部安兵衛』と岸井左馬之助

話は変わる。

高杉道場での稽古だが、テレビ版のVTRで見ると、どうも、竹刀でなく、木刀でやっているらしい気配である。
池波さんが「不滅の名著」と絶賛した山田次朗吉師著『日本剣道史』(1925刊 復刻版=再建社 1960.5.20)の、池波さんがその「通論(前文)」だけでも読んでほしい---と期待している文章から、関連箇所を現代風の文に改めて紹介してみる。

剣の教授法については、古くから木太刀(木刀)で稽古したのはもちろん、素面・素篭手(こて)であった。
そこへ、上泉信綱が柳生庄へ技を磨きにきたころ---戦国末期---袋撓(ふくろしない)の案出があり、うっかり勢いあまって木刀が身にあたって傷を負わせてしまう危険を避けるようになった。

その作り方は、今日のものとは異なっていて、三十から六十に裂いた竹を皮袋に包み、長さは3尺3寸(ほぼ1m)を定法とした。
柳生はこの上泉の発明を襲用して、その稽古はみな撓打(しないうち)として木太刀は使わない、
撓(しない)採用の弁ともとれる文が『本識三問答』にある。

他流には木太刀をもって剣術を教えている。木太刀は躰にあたる寸前で止めて、手には当てない。手の間際まで木太刀で詰めて、「はや、よく詰めたり」とほめておく。これでは、真の打ち込みの手ごたえを手がおぼえるはずがない。柳生流は「しなひ」で剣術をならう。撓だと、真剣の味わいが得られる。真剣はおしまずに打つ。撓もおしまずに打てるから、真剣とかわらない。(後略)

時代の趨勢は諸流とも次第に撓打ちに変わってきた。

というわけで、徳川200年を経ての高杉道場も、木太刀でなく竹刀を用い、素面・素篭手でなく、防具をつけていたと推察しているのだが。

もちろん、秘伝を伝える時には、真剣を使ったかもしれない。もっとも刃止めをほどこした太刀であったやもしれない。

【参照】2008年5月10日~[高杉銀平師] (1) (2) (3) (5) (6)

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2008.05.12

高杉銀平師(3)

池波さんが、山田次朗吉師著『日本剣道史』(1925刊 復刻=再建社版 1960.5.20)を「不滅の名著」と激賞していることは、すでに報じた。

同書に刺激をうけた池波さんが、[明治の剣聖-山田次朗吉](『歴史読本』1964.6月号 のち『霧に消えた影』PHP文庫に収録))をものにしたことも文末の【参照】(2)に紹介しておいた。

明治の剣聖-山田次朗吉]は、『鬼平『犯科帳』シリーズの連載に先立つこと、4年である。
同小篇を構想するにあたって池波さんが参考にした資料は、大西英隆著『剣聖山田次朗吉先生』ほかであった。

それらの中に、一橋剣友会が刊行した島田宏編『一徳斎山田次朗吉伝』もあったとおもわれる。
というのは、同書が振り棒修行にふれているからである。

山田師の)道場には榊原(健吉)先生時代より伝来の樫の棒がありました。長さ5尺(1,5m強)、末口3寸5分位(10.5cm強)、先太なる八角に削り手元1尺(約30cm)の部分だけ丸く握れるように造られたものでした。

この振り棒は、千葉県君津郡富岡下郡大鐘(おおがね)生まれで、22歳だった次朗吉青年が、師と見込んだ榊原健吉に入門をゆるされるくだりに登場している。

「およし。剣術なぞではおまんまが食えねえから---」
何度も、とめた。
しかし、次朗吉はきかない。
あまり強情なので、ついに、
「よし。それじゃあ、そこにある振棒を十回も振ってごらんな」
見ると、そこに長さ六尺に及ぶ鉄棒があった。目方は十六貫余もあったというが、こんなものを、とても次朗吉が振りまわせるものではない。

16貫といえば、64キロ弱である。16貫は池波さんのいつもの早とちりのような気がする。16キロ(4貫目)なら、まあ、納得できないこともない。4貫だって米1俵分の重さである。
(じつは、ひそかに、4キロ(1貫目)だったのではないかと推論しているのだが)。

いずれにしても、榊原健吉師は老年になってもこの振り棒を毎朝軽がると100回振っていたという。

入門時に振り棒を振らせたのが、『剣客商売』の秋山大治郎であることは、ファンの方なら即座に了解であろう。
鬼平犯科帳』文庫巻5[兇賊]でも、高杉道場にも鉄条入りの振り棒があったと書かれている。
狡知(こうち)に長(た)けた土地(ところ)の悪党・〔土壇場(どたんば)〕の勘兵衛一味の悪行に---、

二十一歳の平蔵が、ついにたまりかね、高杉道場の同門・岸井左馬之助と井関禄之助に助太刀をたのみ、勘兵衛がひきいる無頼どもに十余人を向うへまわし、柳島の本法寺裏で大喧嘩をやったのは、その年(明和3年 1766)の十二月十日である。
こつちは三人で刃物はつかわず、高杉道場で使用する鉄条入りの振棒(ふりぼいう)をもち出し、群(むら)がる無頼どもと闘(たたか)った。p206 新装版p216

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(横川東 緑〇=本法寺裏 赤○=高杉道場 橙=春慶寺 近江屋板)

兇賊]の初出は『オール讀物』1970年11月号、『剣客商売』の大治郎の道場に赤樫の振り棒があることが明かされたのは、[剣の誓約]が掲載された2年後の『小説新潮』1972年2月号だから、鬼平たちのほうが、一足先に使っている。

また、左馬や禄之助も携えて出動したらしいから、高杉道場には3本以上が備えられていたとわかる。
いっぽうの大治郎の道場は、開いたばかりだから、1本しかなかったろう。

こういう瑣末(ディテール)がどうして即座に比較できるか。じつをいうと、『鬼平犯科帳』も、『剣客商売』も、登場する全人物、町や村、橋や坂、神社仏閣、剣銘や武器、天候や花蝶風月、料理や菓子などを、膨大なデータベースに打ち込んでいて、あっというまに検索できるようにしているからである。
(このブログのアクセサーであるあなたも、第一ページ右欄の[検索]欄から「このプログ内で検索]を選択なされば、これまで入力ずみの1,278件から簡単に拾いだすことが可能)。

ついでだから、戦前刊の平凡社『日本人名事典』(193710.22)から、榊原健吉師の項を写しておく。
(同大事典には、なぜか、山田次朗吉師は収録が洩れている)

サカキバラケンキチ 榊原健吉(さかきばらけんきち) (1830-1894) 幕末の剣客。徳川氏累世の臣。天保元年十一月五日生る。友直の子。幼より剣術を好み、年十三にして男谷信友の門に入り直心影流を剣法を学ぶ。安政年間徳川幕府講武所を設くるや健吉に師範役を命じた。維新後静岡に移ったが明治十三年上京、下谷車坂に住し、専ら剣術の衰頽を憂ひ、六年撃剣会を創立して斯道の隆盛を図った。十一年八月上野公園に於て技を天覧に供し、ついで伏見宮の庭園に於て兜験の天覧を辱うするや、名声四方に聞え、内外入門するものが多かった。明治二十七年七月十一日歿、年六十五。(秋田)

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(榊原健吉撃剣会 『武芸流派大事典』新人物往来社より)

拙著『剣客商売101の謎』(新潮文庫 2003.3.2 絶版)に、池波さんは山田次朗吉師著『日本剣道史』のせめて通論だけでもと推しているその通論の一部を、当世流の言葉に置き換えて引用しているので、写してみよう。

「剣道が兵法と呼ばれた古(いにし)えより今日まで、幾多の変遷消長があったが、精細に事態をいうのはむずかしい。
けれども庶民が刀剣を腰に闊歩(かっぽ)する時代は、一消一長の屈伸はあっても撃剣の声はいたるところ絶えなかった。
足利氏が兵権をにぎったころから、この道の師範家はようやく定まり、流派も続出してきた。
刺撃(しげき)のみをこととした古風は一掃され、各派、剣理の考究に少なからず苦心した」

「すなわち、型と称するものが生まれ出たのである。
この型を平法と称する原則に基づいて、仕太刀、打太刀の順逆、利害を研究し、進んで敵手に打ち勝つ理法を案出した」

「この法式によっておのおの名称をつけ、家々の規矩準縄(きくじゅんじょう)とし、中には秘太刀と唱えてたやすく人には伝えないものを工夫して相伝と号した。
相伝を得た者はすでに師範の資格を備え、門戸を別に設けて一家をなすことができた。
これによって余技に達する者は、二、三の型を増減して、あえて名義を変えて一流を組織し、みずから流祖になる者が多い」

「だから詮ずるところ、流派を違えても実質は同じもの、流派は同じでも実質は異なるもの、あるいは同門から出ても個人の天賦(てんぷ)の特性によって技巧を異とするなど、一定一様ではない」

_100 秘太刀を授かることを免許皆伝ともいうが、これを主題とした池波さんの好短編が、[剣法一羽流](同題の講談社文庫の収録 1993.5.15)である。
初出は、『小説倶楽部』1962.11月号)。
同巧のオチが語られるのが『鬼平犯科帳』文庫巻12[高杉道場・三羽烏]。浪人盗賊・長沼又兵衛が、高杉銀平師のもとから伝書一巻を盗んで逃亡した。

_120 また、さまざまな流派名と秘剣をえがくのを得意とした作家が藤沢周平さんで、畏友の故・向井 敏くんが『海坂藩の侍たち -藤沢周平と時代小説-』(文藝春秋 1994.12.20)で勘定した剣技剣法は、「主人公側だけでも、驚くべし、五十に余」り、「これほど多くの剣技を扱った作家は他に例がない」らしい。
[邪剣竜尾返し]、[暗殺剣虎ノ眼]、[隠し剣鬼ノ爪]、[好色剣流水]などなど、題名を見ただけでも剣客ものファンは、手をださずにはいられない。

しかも、藤沢さんが書いた流派の直心流や無外流はいうよおよばず---無限流、雲弘流、空鈍流---なども、綿谷雪・山田忠夫編『武芸流派大事典』(新人物往来社 1969.5.15)に徴してみて、ほとんど実在していたと。

参照】2008年5月10日~[高杉銀平師] (1) (2) (4) (5) (6)


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2008.05.11

高杉銀平師(2)

年譜を見ると、池波さんは、1967年(昭和42)3月に、上州へ取材旅行をしている。
めぐった所は、前橋、上原、前川、伊勢守墓所となっている。

3_130その年の『週刊朝日』の剣豪シリーズで、[上泉伊勢守]を担当したための取材であった。
表題の小説は、同誌4月28日号を含めて3週連載され、翌年、『日本剣客伝 上』(朝日新聞社)に収録、刊行された。

池波さん41歳の時の作品である---というより、剣客ものが書ける作家として、シリーズの書き手に選ばれたことのほうに注目したい。

というのは、1967年の『オール讀物』12月号に、はからずも、[鬼平シリーズ]執筆の所以(ゆえん)となる、[浅草・御厩橋](文庫巻1収録)を発表、これがきっかけとなって、ファンならとっくにご存じ、高杉道場で磨いた剣技に冴えをみせる主人公・長谷川平蔵---いわゆる鬼平が誕生しているからである。

参照】2006年4月12日[佐嶋忠介の真の功績] に、鬼平シリーズ誕生の裏話を記した。
つづいて2006年6月28日[長生きさせられた波津]も併読をおすすめ。

2_200[上泉伊勢守]が『週刊朝日』こ載ったころ、ぼくは仕事柄、米国のDDBというクリエイティブな広告代理店に入れあげていて、年に春秋2回ずつニューヨークへ取材にでかけていて、この作品は読んでいなかった。
講談社から出た【定本池波正太郎大成 26 時代小説 短編3】(2000.8.20)で初めて接し、池波さんの読み手をうならせる達者な芸に、あらためて感服した。
鬼平犯科帳』に入れあげるようになって10年近くが経っていた。

[上泉伊勢守]につられて、【---大成 26 時代小説 短編2】(2000.7.20)に収められている[幕末随一の剣客・男谷精一郎](『歴史読本』1962.2月臨時増刊号)と[明治の剣聖-山田次朗吉](『歴史読本』1964.6月号 のち『霧に消えた影』PHP文庫に収録)のを読み、鬼平および秋山小兵衛の剣技が、幕末・明治のこの2人の剣客に負っているところが多いことを発見した。

ついでなので、戦前の『日本人名大事典』(平凡社 1937,.5.15)の男谷精一郎の項を抜粋する。

オタニセイイチロー 男谷精一郎(おたにせいいちろう)(1810-1864) 徳川末期の講武所奉行。剣道に達し、幕末の剣聖と称せらる。名は信友。文化七年元旦に生る。男谷忠之丞の長子。二十歳の時小十人頭男谷彦四郎
燕斎の養子となる。団野真帆斎の門に入り、剣法直心影流、槍術鎌宝蔵院流を修め、平山行蔵に平法を学び、文政中本所亀沢に道場を開いていた。文学を嗜み、また書画を能くし、蘭斎、静斎の号があった。天保二年に書院番となり、のち徒士頭となる。
のち、先手頭となり講武所奉行となった。講武所の設置は信友の建議によるといふ。
文久二年従五位に叙せられ、下総守に任ぜらる。元治元年歿、年五十五歳。人となり温厚寛大、かつて家人を叱したことがなかった。

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(本所・男谷家=緑○ 斜向いの本多寛司家前が五郎蔵・宗平の煙草店〔壷屋〕、二之橋北詰が〔五鉄〕)

池波さんが山田次朗吉師著『日本剣道史』(1925刊)を「不滅の名著」として激賞していることも知った。
さいわいにも、同著は再建社による復刻版(1960.5.20)を秘蔵していたので、どの記述を、池波さんがどう換骨奪胎しているかまで察することができた。

ついでに記すと、男谷精一郎は、幕末、先手の組頭から講武所奉行に任じられている。
執筆時に池波さんもたしかめたはずの、本所の切絵図には、その屋敷も載っている。

寛政修諸家譜』は、小野次郎右衛門家について、こんな前書きを付している。

寛永系図に云、本(もと)は御子神(みこがみ 今の呈譜に神子上)と称す。忠明がときに外家の称によりて小野にあらたむ。今の呈譜に橘氏にして大和の住人・十市兵部大輔遠忠が後なりといふ。

Photo

十市〕---なにやら、かすかな記憶がある。
司馬遼太郎さんが徳川家康を描いた『覇王の家』(新潮文庫)だ。
明智光秀による本能寺の変の時、家康は、信長の秘書役・長谷川秀一の案内で堺に遊覧していたことは周知の史実である。
本多忠勝の提言で大和・伊賀越えをして危機を脱する経緯は、下記に。

【参照】2007年6月13日~[本多平八郎忠勝の機転] (1) (2) (3) (4) (5) (6)

覇王の家』から引く。

もしこの家康の脱出に、
「竹」
というこの人物(長谷川秀一)の温和な才覚人がいなかったら、きわめて困難な状態になつていたかもしれない。
彼は、その顔を利用した。まず彼はかねて懇意の大和の豪族で十市(といち)常陸介(ひたちのすけ)という男に使者を送り、家康が一行の中にいることはいわず、
--自分は三河の徳川殿までこの変報を知らせにゆく。どうか、道々を保してもらいたい。
と頼んだ。十市、筒井、箸尾(はしお)などといった大和豪族は、他国とちがい、奈良の社寺領の俗務を請負っていていつのほどにか武家化した連中で、家系が古く、その姻戚(いんせき)は隣接地の山城国(京都府南部)や伊賀国(三重県伊賀地方)などにも多く、十市からの依頼があれば、十市の顔を立てて保護してくれる家が多い。

_130 池波さん絶賛の『日本剣道史』は、小野派一刀流について、こう記述する。

小野次郎右衛門忠明の第二子忠常が嗣ぐところ。家督を受て三代将軍に奉仕した。忠常性質父に似て傲岸の風があった。故に格別の加恩もなく食禄素の侭で、精勤に対する報が無かったゆえでもあるまいが、一方技芸の自負心増長して狂を発した。寛文五年(1665)五十有余で歿して了った。
三代目次郎右衛門忠於(ただを)。忠常の嫡子でもっとも精妙と称されいた。この人の時にようやく小野派の型が大成されて、金甌無欠となったのである。忠於は四代、五代、六代の将軍に歴事して声誉すこぶる高かった。
正徳二年(1712)七十三で歿した。
四代は助九郎忠一、岡部某の子で小野の養嗣子である。
五代は次郎右衛門忠方。これで小野氏は絶えて系統は中西氏に伝わった。

_100_3 長谷川平蔵と先手組で同僚だった次郎右衛門忠喜は、六代目にあたる。

ちゅうすけ注】『週刊朝日』の[上泉伊勢守]は、5年後[剣の天地]との新題名のもとに大幅に加筆され、『山陽新聞』ほか10数紙の地方紙に連載、のち新潮文庫となった。

参照】2008年5月10日~[高杉銀平師] (1) (3) (4) (5) (6)

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2008.05.10

高杉銀平師

池波さんは、長谷川銕三郎(てつさぶろう)宣以(のぶための)の高杉道場への入門を、19歳としている。
これは、史実的には、ちょっと無理がありそう。

というのは、銕三郎の19歳というと、明和元年(1764)で、2008年3月2日[南本所・三ッ目へ] (9)に掲出したように、この年の10月に、父・宣雄(のぶお)は懸案の三之橋通りの1238坪の土地を築地・鉄砲洲の屋敷と三角交換によって手に入れた。
家屋は、鉄砲洲の家を解体して移したしとても、竣工は翌年の初春とみる。

【参照】2008年2月23日~[南本所・三ッ目へ] (1) (2) (3) (4) (5) (6) (7) (8)

年が明けると、銕三郎は20歳になっている。

敷地がきまり、移転を見越して道場を変えるという考え方もできなくはないが、やはり、常識的には、転宅後に師を変えるとみるのがふつうではなかろうか。

ま、高杉道場への入門が、19歳であろうと20歳であろうと、読み手にすれば、大差はない。
気にかかるのは、高杉銀平師を、どういう経緯で選んだかである。

高杉道場は、一刀流である。
鉄砲洲時代も一刀流の道場で学んでいたと考えると、その道場主が高杉師を推薦したともいえる。
もうすこしドラマチックに想像して、そうとうの識者が高杉銀平を紹介したという見方もできる。
その識者とは---小野派一刀流の継承者・小野次郎右衛門忠喜(ただよし)である。

助九郎忠喜は、父・忠方(ただかた)の死によって、寛延2年(1749)に家督を相続している。18歳であった。
家禄は800石。うち、先々代からの知行地は、上総(かずさ)国武射郡(むしゃこおり)本須賀村の250石と、同国山辺郡(やまのべこおり)松之郷村の441余石。
察しのいい鬼平ファンなら、長谷川家の知行地のある郡といっしょ---とおもわれよう。
そのとおり。2村からの米の積み出しは、長谷川家もそうしていた九十九里浜の片貝(現・千葉県山武郡九十九里町片貝)の湊を使ったろう。そういう知り合いであったと想像する。

次郎右衛門を襲名した忠喜の出仕は、宝暦9年(1759)に小姓組番士として28歳の時。おそくなったのは、健康に問題があったから、としかおもえない。
その後は快癒したらしく、順調に推移している。
一刀流ということで、宣雄は、浜町蛎殻(かきがら)町の小野邸を訪れ、高杉銀平の名を教えられたのであろう。
宣雄のことだから、剣技もさることながら、人柄をとくに重んじて質したとおもう。

高杉道場は、文庫巻1の連載第2話[本所・桜屋敷]から、はやばやと登場している。

法恩寺の左側は、横川に沿った出村(でむら)町であるが、このあたりは町といっても藁(わら)ぶき屋根の民家が多く、本所が下総(しもうさ)国・葛飾(かつしか)郡であったころのおもかげを色濃くとどめている。
その一角へ、長谷川平蔵は歩み入った。
ひなびた茶店の裏道が、横川べりまでつづき、その川べりの右側に朽(く)ち果てかけた藁屋根の小さな門がある。門内の庭もも、かたく戸を閉ざしたままの母屋(おもや)にも荒廃が歴然としていた。人も住んではいないらしい。
平蔵の唇(くち)から、ふかいためいきがもれた。
この百姓家を改造した道場で、若き日の平蔵は剣術をまなんだものだ。
師匠は一刀流の高杉銀平といい、十九歳の平蔵が入門したころ、すでに五十をこえていたが、この人が亡くなったことを平蔵は京都で耳にしている。
同門の岸井左馬之助(さまのすけ)が知らせてくれたからだ。 
p52 新装版p55

元の高杉道場だった農家は、主を失って15年ほど経っている。

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(法恩寺 左下=出村町 『江戸名所図会』塗り絵師:ちゅうすけ)

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(上絵の部分 出村町)

文庫巻6[剣客]には、高杉師の没年は67歳とある。
遺骨は、岸井左馬之助によって、佐倉在臼井の寺に葬られた。

銕三郎が父・宣雄に随伴して京都の西奉行所の役宅に滞留していたのは、史実では、安永元年(1772)10月から翌年夏までのわずかに8ヶ月とちょっとであった。
父の没後、平蔵を襲名した銕三郎が27~8歳のあいだのことである。

それはそれとして、銕三郎は27歳まで江戸の南本所・三之橋通りの屋敷におり、23歳で将軍・家治にお見得(めみえ)したわけだが、何歳まで高杉道場に通ったか、池波さんは明らかにしていない。
もちろん、そんな史料があるわけもない。

ついでながら。
ずいぶんと先のことだが、長谷川平蔵宣以が天明6年(1786)年7月26日、41歳で先手・弓の2番手の組頭に抜擢された時、鉄砲(つつ)の17番手の組頭に小野次郎右衛門忠喜がいた。3年前に51歳でその任に就き、66歳までの足かけ16年つづけた。
ちなみに、平蔵より13歳年長であった。

【参照】2008年5月10日~[高杉銀平師] (2) (3) (4) (5) (6)

 

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2008.05.09

ちゅうすけのひとり言(12)

2008年3月14日分の[ちゅうすけのひとり言](10)は、先手組頭に登用された父・平蔵宣雄(のぶお)の同僚・古郡(ふるこおり)孫大夫年庸(としつね)の『寛政重修諸家譜』の記述の中から、

(享保)十五年(1730)十二月三日父年明(としあきら)致仕するのときにおさめられし新墾田十が一現米三百ニ十石余の地を年庸にたまひ、永く所務すべきむねおほせを蒙る。

を引用した。

代官が新田を開墾すると、その10分の1を与えられるという制度があったことを、初めて知ったと書いて、無知を告白したわけである。

静岡の〔鬼平クラス〕---SBS学苑パルシェ(JR静岡駅ビル7階で毎月第1日曜日午後1時から)で、ともに学んでいる安池欣一さんも、このコンテンツが頭のどこかにひっかかっていたらしい。

近世農政史料集 1 江戸幕府法令 上』(児玉幸多・大石慎三郎編 吉川弘文館 1966.9.10)から、以下をコピーした史料に添えて、古郡家の記述にも関係がありそう---と手紙をくださった。

_120_2史料は、『徳川禁令考』の2123(享和8年 (1723) 11月 )で、現代文に直すと、概要、次のようなものである。

「新田開発をした代官へ、新墾の内の10分の1を下される件について、勘定奉行へ申し上げる書付」
新田を開発した代官は、新墾の内の10分の1を下されると伺ったところ、先だって申しわたされたのは、それは当人一代にかぎって---ということであったが、小宮山杢之進支配の小金佐倉新田の内、当年からある程度収穫ができるようになってきたので、この出来高のうちの公納分の10分の1を、まず当年分としてくだされるへきだと存ずる---うんぬん(以下略)。
(注)代官見立新田による年貢10分の1を支給されたのは、この小宮山杢之進が最初である。

安池さんから送られた史料を手にして、ぼくは、自分の怠慢を責めた。
というのは、引用された『徳川禁令考 前集4』(創文社 1959.5.25)はもちろん、前集6冊、後集4冊を所有していたのに、購入後約50年間、書棚に飾ったまま、ほとんど目を通していなかったからである。

購入した30歳当時は、読破するつもりがあった。ところが、その後、興味の対象がニューヨークのある一派を代表する広告代理店研究へ向かい、その後、池波さんが鬼平像のモデルの一つにしたメグレ警視の生地や住まいの探索、さらには英王室御用達の制度へ移っていった。

関心が江戸時代へ戻ったのは、『鬼平犯科帳』を手にしてからである。
まあ、大きく遠回りをしたとはいえ、『徳川禁令考』全10冊がこうして、曲がりなりにも役に立つことができるようになったのは、『鬼平犯科帳』のお蔭といえる。感謝しなければ。もちろん、安池さんにも---。

代官への「10分の1」下賜は、『徳川禁令考』を読むかぎり、当人1代かぎり---のにように解される。
3月14日に引いた古郡家の場合は、父が新開指導したものを子・孫大夫が請願している。
これは特例であったらしいということも、改めて、安池さんが発見された史料から気がついた。

このところ、佐倉在生まれの〔(たずがね)〕の忠助(ちゅうすけ)にライトを当ててきた。
小金佐倉新田を『旧高旧領取調帳 関東編』(近藤出版社 1969.9.1)で探したら、下総(しもうさ)国葛飾郡向小金新田の137余石があった。印旛沼・佐倉からはかなり離れていた。

新田開発者へ10分の1を与えるというインセンティブ(動機づけ)について、思い当たったことがある。
新墾指揮は平蔵宣雄だったと推定しているのだが、長谷川家が知行地の上総(かずさ)・武射郡寺崎の220石を、新墾によってさらに100石ばかり増やした時、開墾に従事した知行地の農家たちへいくばくかの地を与えたという記録がのこっている。

その土地は、開墾した10分の1に相当するものであったかも知れない。


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2008.05.08

おまさ・少女時代(その3)

字を覚えたいといったおまさ(10歳)のために、銕三郎(てつさぶろう 20歳 のちの鬼平)は、裏庭の納屋へ入り、14年前---6歳の6月6日から手習いを始めたころに使った、安物の今戸焼の硯(すずり)と文鎮、半紙下敷きなどを取り出した。
おまさに与えようとおもった。
与詩は、もっと上品(じょうほん)のを与えられているなあ)
おまさがちょっと可哀相にもおもえた。
だから、擦り口が斜めにちびた墨は、新しいのを購うことにした。

受け取った硯を、おまさは、
「銕お兄(にい)さんのお下がりがいただけて、嬉しい。お兄さんのように上手になります」
素直によろこんで、海から丘にかけてを4本の指で、まるで銕三郎の掌を探っているように、しきりになでまわしたが---。

高杉道場の帰りに、一ッ目・相生町の〔竜雲堂・升屋〕四郎兵衛まで足を伸ばし、おまさの筆初(ふではじ)めの筆と墨、朱を入れる筆、朱墨を求めた。

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(筆・硯・墨の〔升屋〕四郎兵衛 『江戸買物独案内』 1824刊)

品選びをしていると、おまさが実の妹のように、親しく感じられた。

お家流の運筆の銕三郎の手筋は、父・宣雄から受けついでいて、悪くはない。素読が好きでないところは、父に似なかった。

おまさから頼まれたとりあえずの手本は、どこの手習い所でもするように、「いろはにほへと」の7文字としておいた。

〔盗人酒場〕の店内の飯台の一つが、店を開けるまでのおまさの文机となった。
おまさは昼前から、飯台をなんども水拭きして清めていた。

袖に墨がつかないように、おまさは襷(たすき)がけで臨んだ。
銕三郎は、うしろにまわって、背中に胸がつくほどに身を寄せ、筆を持っているおまさの手に竹刀だこで硬くなっている指をそえ、筆運びのコツをじかに教えた。
銕三郎の掌の硬い感触を微妙に感じたおまさの首筋が紅潮している。

「腕から力を抜いて、もっと軽く動かすのです」
そういわれても、おまさは、下腹が熱くなり、肩から腕へかけて緊張しきっている。
初めての習字だからとおもおうとしてみた。緊張は解けなかった。

躰の芯から湧いてきた熱気は、そえられていたお兄(にい)さんの手のせいだとおもいあたったのは、その晩、寝についてからだった。
右の手の甲に、左手をそえてみた。
あげまき結びの髪に、お兄さんの息を感じたことも、ここちよい記憶の一つだった。
それらは、むすめとして成熟していくための特効薬のようにもおもえた。

いろは四十七文字は、7日たらずで書けるようになった。

3日目から、銕三郎は手を添えなくなり、おまさは、うらめしかった。
「もう、コツはつかんだでしょうから、自分でやりなさい。いつまでも甘えていては、上達しませぬ」
上達よりも、おまさは接触していたかった。
 
最初に教えてほしいと頼んだ漢字は、
「鮑(あわび)」

「お父(と)っつぁんの得意料理だから---」
口ではそう言ったものの、こころのうちでおもっていたのは、〔あわびの片おもい〕という俗諺であった。
銕三郎は気がつかないふりをつづける。

つぎに望んだ漢字は、
「鶴(つる)」

父・忠助の綽名(あだな)だと言った。躰つきが鶴のようにひょろりと細くて高いからと、みんなは納得している。
「でも、ほんとうは違うんです。お父っつぁんは、鶴に似て、めつたに口を利きません。でも、歌はとっていい声なんです。だから、鶴と書いて〔たずがね〕と読むんです---鶴(たず)の音(ね)」

忠助からは、入れこむ気質は母親ゆずりだから、自分でほどほどに抑えるようにと、くどいほど言われているし、幕臣の嫡男さまと呑み屋のむすめでは身分が違いすぎるとも言いきかされているから、嫁とか側室とかを考えているのではない。
人柄に触れていればいい---と、自分に言い聞かせている。

おまさが書ける漢字があった。
「酒々井(しすい)」
「酒」は店名の〔盗人酒屋〕からおぼえたという。

「酒々井は、お父っつぁんとおっ母(か)さんの生まれた村なんです。下総(しもうさ 千葉県)の佐倉の城下のすぐ東と聞いてます。まさは行ったことはないのですが---。隣家同士で、おっ母さんは、本郷の紙とか茶葉とかを手びろくあつかっているお店に奉公していて、お父っつぁんとばったり再会して所帯をもったんですって。酒々井には、両方の家の伯父叔母や従兄弟やはとこもいるので、いちど行ってみようとおもっています。とりわけ、おっ母さんの血すじの家に---」

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(赤○=酒々井村 黄=佐倉城下町 明治20年刊)

しゃべってしまってから、
「あたしのおしゃべりは、おっ母さんゆずりだって、いつもお父っつぁんが言うんですよ」
肩をすくめて笑った目の艶っぽさは、一人前のむすめのそれだ---と、銕三郎はおもった。

やがて、銕三郎は、手本をわたすだけで、立ち会わなくなった。
ある晩、銕三郎は、〔盗人酒屋〕のまわり5丁四方の地図を切絵図から写しとった。
それには、おまさがふだん買い物の用足しに行ったり客との会話に出たりする町名はもとより、川や橋、寺院や亀戸天神社なども含まれていた。
おばさんの長屋のある清水裏町も入っている。

わたす時、銕三郎は言った。
「漢字で書かれている町や川などに、覚えたひらがなでふりがなをふりなさい。そうすれば、自然に漢字を覚えるでしょう」
さらに、漢字が偏(へん)と旁(つくり)でできていること、偏は木とかさんずいとか火とか土とか魚であるから、漢字が示しているもののおおよその種類がのみこめること、旁はそのものの意味を暗示しているとおもえばよい、と自習の仕方を教えた。

おまさは、うなづいたものの、銕お兄さんといっしょにいる時間がなくなることをおもうと、泣きだしたかった。
銕三郎に、お目見(めみえ)の予審の日がきていることは、おまさは知らなかったのである。
銕三郎も告げなかった。

【参照】[おまさ・少女時代] (1) (2)
2005年3月3日[テレビ化で生まれたおまさと密偵

参考】 酒々井町Wikipedia

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2008.05.07

おまさ・少女時代(その2)

2組、3組と新しい客がはいってきても、おまさ(10歳)は、注文を板場へ通しては銕三郎(てつさぶろう 20歳 のちの鬼平)の横へ戻ってすわることをやめない。

料理を配膳したおまさに、馴染みの客らしいのがなにか話しかけても、
「いま、手いっぱいなんです」
相手にならないで、銕三郎にぴったりである。

「あら、お酒がこんなに残って、冷えてます。暖かいのに取りかえてきましょう」
「もう、酔っています。お酒は充分です」
「それでは、お料理---今夜は、お豆腐の木の芽田楽があります」
おまさどの。店が混んできています。用事をしてください」
「いいんです。お兄さんのそばにいるのが楽しいんです」

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(清長 おまさのイメージ)
ちゅうすけ注】『鬼平犯科帳』文庫巻4[血闘]に、20余年ぶりに鬼平の前へあらわれた時---、
小肥(こぶと)りな少女だったおまさは、すっきりと〔年増痩(としまや)せしていたのである。p136 新装版p143
---とあるので、ふっくらとした少女の絵を探した。

その時、入江町の鐘楼の鐘が五ッ(午後8時)を報らせた。
店が立て混むわけだ。
もうそんな時間になっていようとは、おもっていなかった。
1刻(2時間)もおまさを独り占めしていたことになる。
(常連客たちに悪いことをした)

表まで送ってきたおまさが、
お兄さん。お願いがあります。手習いのお手本を書いてください」
「承知しました」
「げんまん」
小指と小指がまじわる。

その夜---。
店の灯を落としてから、忠助は、おまさを、銕三郎が使っていた飯台に座らせ、向き合って腰をすえる。
しばらくおまさを見つめてから、
「お美津(みつ)が生きていたら、今夜のおめえの振る舞(め)えを見て、なんと言ったろう---」
それきり、黙ってしまった。
おまさも口を利かない。
悪いことをしたとは、おもっていないのである。

「入れあげるのが、母親似だとしても、相手が悪い」
お兄(にい)さんは、いい方です」
「男としての、いい、わるい、ではない。あの人は、火盗改メのお頭(かしら)の甥ごだ」
「お父(と)っつぁん。それがどうだっていうんです?」

忠助は、また、黙りこんだ。
おまさ が、一気に述べたてる。
お兄さんは、〔樺崎(かばさき)〕の繁三さんおじさんや七五三吉(しめきち)兄(あに)さん、おみねちゃんとこの亡くなったお父(と)っつぁんの〔助戸(すけど)〕の葉造(ようぞう)おじさんが、盗人の一味だということもちゃんと知っていらっしゃいます。きょう、出会った〔法楽寺(ほうらくじ)〕のお頭(かしら)や、〔名草(なぐさ)〕の嘉平(かへい)爺(じい)さんの素性もお察しになっているでしょう。おおばさんの前身だって、推察なさっていましょう。

Photo
(足利近辺の〔法楽寺〕一味の出身地 )

だけど、お父っつぁんに義理立てして、火盗改メには黙っていらっしゃるのです。お父っつぁんには、あの方の度量の大きさが分かってないのです」

おまさ。いいきれるんだな?」
「はい。お父っつぁんも、目と胸を、もっと、しっかりひらいて、あの方を見てごらんなさい」

「おめえ、お美津が生き返ったようなむすめに、なってきた」
「おっ母さんの子ですもの。おっ母さんからは、いい言葉遣(づか)いを教わりました。5つでしたけど、しっかりと覚えています。これからは、お兄さんに、字を教わります。約束したんです。字も読み書きできないんでは、江戸では生きていけません」

手習い所へ通っているという、銕三郎の義妹の与詩(よし 8歳)への競争心もあった。

参照】[おまさ・少女時代] (1) (3)
2007年7月19日[女密偵おまさの手紙
2007年3月10日[男はもうこりごり、とおまさ

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2008.05.06

おまさ・少女時代

いちばん奥の左隅の飯台に、ちろりとあわびの大洗(だいせん)煮を運び盆に載せてきたおまさ(10歳)は、銕三郎(てつさぶろう 20歳)の横にぴたりとすわり、箸をそろえたり酌をしたりと、甲斐々々しく世話をやく。
(てつ)お兄(にい)さんとお呼びしていいですか?」
つぁんのほうが、拙らしい」
「そんな、もったいなくて」

「あわびの大洗煮、お口に合いますか?」
「大豆にも味がしみていて、おいしいです」
「よかった。このあいだの---おみねちゃんのお父(と)っつぁんが亡くなった宵(よい)、半分お残しになっていたでしょう?」
「あのごたごたで---食べそこなったのです」
「よかった---お嫌いかと思ってしまって---。お父っつぁんの、自慢料理の一つなんです。ほんとうは、おっ母(か)さんがお父っつぁんに教えたんですが---」

参照】 [〔盗人酒場〕の忠助] (1) (2) (3) (4) (5) (6) (7)

「お母上はお亡くなりになったんだってね」
「はい。あたしが五つのときに」
おみねどのの齢ごろだったんですね」
「はい。おみねちゃん、可愛いでしょ?」
「拙の義妹(いもうと)の与詩(よし)が、ちょうど、おみねどのの齢のときに、養女にきたんです」
「義妹(いもうと)さんがいらっしゃるのですね?」
「この子を受け取りに、駿府へ行った帰りに、さつた峠をくだったところの倉沢村で、海女のあわび採りを見たのですよ」
「この前、そうおっしゃってました」

参照】2008年1月12日[与詩を迎えに] (23)

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(北斎 海女たち)

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(歌麿 海女たち)

2人づれの客が入ってきた。
おまさは、すっと立っていって注文を板場の父へ通すと、すぐにまた、銕三郎にぴったり寄り添って、話のつづきをうながす。

「このお店は永いのですか?」
「あたしが三つの時ですから、かれこれ、7年になります。それより、与詩ちゃんのお話をつづけてください」
「あは、はは---当人が聞いたら怒るでしょうが、6歳(=当時)にもなっていたのに、お寝しょうぐせがなおらなかったのです」
「まあ---」
相づちの打ち方も、一丁前の女なみである。

板場から、忠助が呼ぶ。
「はい」
と返事して、できあがった酒と料理を客の飯台へ置くと、さっさと銕三郎の横へつく。

与詩ちゃん、いま幾つですか? お寝しょぐせはなおりましたか?」
「8歳です。手習い所へ通っています。お寝しょうのほうは直りました」
「よかった。訊いていいですか? 与詩ちゃんは、お兄さんのお嫁さんになる人ですか?」
「とんでもない。嫁に出す娘(こ)です。武家の家では、そうやって縁をひろげていくのです」
「よかった」

手習い所と言った時、おまさの瞳がちらっと曇ったのを、銕三郎は見逃していない。

ちゅうすけのひとり言】
おまさは、いつ、どうやって字をおぼえたろう? 手習(てなら)い所に通ったふしはない。
鬼平犯科帳』全篇で、おまさは2度、手紙を書く。
最初は、文庫巻4[血闘]で初登場し、下谷・坂本裏町の一間きりの与助(よすけ)長屋に独り住まいをしていてさらわれた時。

〔しぷ江村、西こう寺うらのぱけものやしき〕 p143 新装版p149

かなが主体だが、漢字もまじっている。
池波さんの気持ちとしては、ひらがなとこの程度の漢字なら、見よう見まねで覚えられるということであったろうか。

参照】2007年7月19日[女密偵おまさの手紙

いや、いつも気になっているのは、盗賊たちの識字率である。
連絡(つなぎ)は、口づたえでいいとして、文章で伝えなければならないこともあろう。双方の識字率が高くないと、どちらかが書けても伝わらない。
盗賊になるぐらいだから貧農の子が多かったろうと推察しては、いけないかも知れないが---。
まあ、首領になるほどの男なら、字をおぼえる訓練に耐えたろうか。

もう一度は、文庫巻22[炎の色]で、

おまさが〔笹や〕へ入って行き、
「お熊さん、たのみますよ」
いうや、お熊婆は万事心得て、奥の方を顎(あご)でしゃくった。
おまさは奥へ入り、簡単(かんたん)な手紙をしたためる。
やがて奥へ来たお熊は、その手紙を持ち、弥勒寺へおもむく。 p61 p60

届け先はいうまでもなく、役宅の鬼平
おまさは、天明8年(1788)に登場以来7年目のはずだが、その間に文字を習った気配はないから、この手紙の文章がどんなふうだったかは、おおよそ推測がつく。

ついでに書き添える。おまさがいつも背負って市中を巡回している箱に張りつけられている紙の文字〔まき紙・おしろい・元結(もとゆい)・せんこう〕([血闘]p139 新装版p146)の字は、誰が書いてやったのであろう。

参照】 [おまさ・少女時代] (2) (3) 
[おまさの年譜
[おまさが事件の発端

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2008.05.05

〔盗人酒屋〕の忠助(その7)

腰を折って、おまさ(10歳)の口へ近づけた銕三郎(てつさぶろう 20歳)の耳にささやかれたのは、
「明日も、お越しくださいますか?」
との問いかけであった。
銕三郎は、無意識のうちに、うなずいていた。
もちろん、この店の逸品料理である、あわびの大洗(だいせん)煮を明日は造る---と亭主・忠助(ちゅうすけ 40がらみ)が約したこともあったが、おまさの真剣な口ぶりに気おされたとぃったほうがあたっている。
10歳の少女とはおもえない、迫力であった。

店の前で〔風速(かざはや)〕の権七(ごんしち)と待っていた岸井左馬之助(さまのすけ 20歳)が、
「今宵は、ここで別かれよう。遅い帰りが多くて晩飯を欠かがちにしておるので、倉裡(くり)の大黒のご機嫌がよくないのだよ」

別れてからの銕三郎は、左馬の帰路をたしかめるのが怖くて、振り返らなかった。
左馬が右に押上(おしあげ)への道をとらないで、御旅(おたび)橋へ向かっているように思えたからである。
その先の清水裏町には、お(こん)たちの住む長屋がある。
先刻、〔盗人酒場〕で隣りあって小声で話していた時に打ち合わせができたかもしれない。

その胸の内を察したかのように、権七が、
岸井さまなら大丈夫です。長谷川さまが先ほどおっしゃった、『ふさ(18歳)どのに知れたら、嫌われるぞ』の一と突きがこたえていやすよ」
(そうだと、いいのだが---いや、そうであってほしい)

銕三郎は、14歳の時の芙沙(ふさ 25歳=当時)との一夜、18歳の時の阿記(あき 21歳=当時)との情事は棚にあげて、
左馬は、なにしろ、純情すぎるからな)
と、理にあわない、友情めかしたいいわけをこころの中でくりかえしていた。

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(歌麿『美人入浴』 お芙沙の入浴のイメージ)

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(英泉『玉の茎』部分 阿記との浴中イメージ)

若い時の激情は、友情をすら簡単に超えてしまうものなのに。
そう、若い男の激情に火をつけ、油をぶちかけるのが、女なのだ。

「あっしが心配(しんぺえ)しておりやすのは、岸井さまとお紺じゃねえんで---」
「ほかに、なにか?」
長谷川さまのことですよ」
「拙がなにか?」
「いえね。〔盗人酒場〕のおまさって娘(こ)が、長谷川さまにぞっこんのようなんで---」
「じ、冗談ではありませぬ。おまさどのは、まだ、10(とお)ですよ」
「女の10歳は、気持ちは、もう、りっぱに大人です。もっとも、惚れたとかはれたとかいうんじゃなく---慕わしく感じているってんでやしょうが---」
「いくらなんでも---」
「慕わしい、一刻でも長くそばにいてえ---ってえのが、いつしか惚れたに変わりやすんで。長谷川さまには、女にそう思わせるものがあるんでやすよ。ま、思い違いですめば、言うこたぁねえんですが---」

三ッ目之橋を南へわたると、長谷川邸はすぐであった。
「橋をわたってしまうと、旗本の屋敷ばかりで、あたりにはお茶を飲ませる店もないのですよ」
銕三郎が言うと、
「今夜は、これでお開きにしやしょう。じつをいうと、あっしもこのところ、お須賀(すが 27歳)の奴から嫌味をいわれておりやして。内緒(ないしょ)のを他につくったんじゃねえかって悋気(りんき)で---」
「それは、気の毒なことをしました。お須賀どのには、近く、改めて、お侘びします」
「いいんですよ。女の考えるこたあ、その程度の心配(しんぺえ)ですから---泰平楽ってもんでさあ」
「夜の〔盗人酒屋〕探索は、この先は、拙独りでなんとかなるでしょう。権七どのは、〔須賀〕の客の話にしばらく、耳を研(と)いでおいてください」

翌日---。

午前は、学而塾で竹中志斉(しさい)師の講義の最中に、居眠りをして叱責をうけた。

子曰く、憤(いきどお)らざれば啓せず、悱(ひ)せざれば発せず。一隅を挙げて、三隅を以って反(かえ)さざれば、復たせざるなり。
(情熱がないものは進歩しない。苦しんだあとでなければ上達がない。四隅の一つを数えたら、あとの三つを自分で試してみるくらいの人でなければ、教える値打ちのない人だ。 (宮崎市定『現代語訳 論語』(岩波現代文庫)より)

罰として、これを10回復唱させられた。
(剣術では、このとおりやっておる。捕盗も、そうだ)
銕三郎は、つくづく、自分は漢籍に向いていないとおもった。

午後は、高杉道場で、左馬之助と組太刀を10番こなした。
好きなものは、いくらやっても苦にならない。
もっとも、左馬之助のほうは、昨日の一と言がこたえたか、つねになく、執拗な剣を遣ってきた。

井戸端で汗を落としていると、左馬が、
ふささんが、横川べりの木陰で涼んでいる」

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(春信『水辺の涼み』)

「自分で、声をかけたら---」
銕三郎はそっけなく、とりあわない。

とりあえず自宅へ戻り、夕刻が待たれる。
権七のあんな言い分を聞いてしまった故(せい)だ。今日にかぎって、太陽がゆっくりと移っておる)

夕方が来た。
母に断って、家を出る。
〔盗人酒場〕までは、いまの時計だと、20分とはかからない距離である。
三ッ目之橋をわたっている時、入江町の鐘楼が暮れ六ッ(6時)を告げる。
四ッ目之橋へは10分で着く。

店へ入ってみると、一つ飯台で、3人の男たちが額を寄せ合って話しあっていた。
忠助と、同じような年配だが細身の忠助とは反対にやや太りかけの男、それにもうすこし年配の男である。
こっちをじろりと見た太りかけは、眉の薄い、小鼻の張った男だった。

忠助が、とってつけたように、男たちを紹介した。
太りがはじまっている男は、足利城下から、亡くなった葉造さんのことで見えた、直兵衛と。
50がらみの白髪も少なくなっているほうは、嘉平と。
(それにしては、おどのがいないではないか)

長谷川銕三郎です」
長谷川? いま、火盗改メをなさっている長谷川さまは?」
「本家の大伯父です」
長谷川太郎兵衛正直(まさなお)のことを隠しておいて、あとで露見(バレ)るより、このほうが信用されよう)
とっさに、そう感じた。
その場では、直兵衛が〔法楽寺(ほうらくじ)〕の直右衛門(なおえもん)の変名、そしても嘉平が〔名草(なぐさ)〕の嘉平とは思いもしなかった。

参照】〔法楽寺(ほうらくじ)〕の直右衛門

長谷川さま。ごゆっくり」
男たちは出て行った。入れ替わりに、買いものを言いつかっていたらしいおまさが帰ってきて、銕三郎を見ると、ただでさえ黒々と大きい瞳をさらに大きく見開き、受け唇から、
長谷川さま。いらっしゃいました」
鼻のあたまに小さな汗が浮いている。急いで帰ってきたのであろう。

【参考】 [〔盗人酒場〕の忠助] (1) (2) (3) (4) (5) (6)


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2008.05.04

〔盗人酒屋〕の忠助(その6)

(こん 27歳)も、岸井左馬之助(さまのすけ 20歳)の隣にすわりこんで、さしつさされつ、小声でひそひそとつづけている。

銕三郎(てつさぶろう 20歳 のちの鬼平)は、〔風速(かざはや)〕の権七(ごんしち)に酌をしながら、おがいわゆる、女賊(おんなぞく)なのかそうではないのかを、推量していた。

これまで、男の盗賊には、小田原で会った〔荒神(こうじん)〕の助太郎(すけたろう 45歳?)と娘婿と称していた彦次(ひこじ 25,6歳)がいる。

参照】2007年7月14日~[〔荒神〕の助太郎] (1) (2) (3) (4) (5) (7) 
2007年12月28日[与詩を迎えに] (8)

それと、江ノ島で言葉を交わした〔窮奇(かまいたち)〕の弥兵衛

参照】2008年2月2日[与詩を迎えに] (39)

3人に共通するものを見つけるとすれば、人なつっこさと、話し上手だろうか。

〔盗人酒場〕を仲介にして出会ったのは、目の前にいるおの亭主で、言葉を交わすこともなく卒中で逝ってしまった〔助戸(すけど)〕の葉造(ようぞう 35歳)と、夜道をほんの6丁ほどをいっしょに歩いた〔樺崎(かばさき 35,6歳)〕の繁三(しげぞう)と、その下働きらしい七五三吉(しめきち)とかいう20歳前とおぼしいの、それと、おまさの父親の忠助(ちゅうすけ 40がらみ)---〔荒神〕や〔窮奇〕とF
とは反対に、そろって口が重い。
---ということは、盗賊だからといって共通点はなく、人それぞれということなんであろう。

(まあ、深く立ち入ってみれば、盗みの道へ入った動機や経緯には似たところがあるかもしれないが---)

おまさは、いくつもない飯台をととのえたり、表の看板行灯に灯をいれたりと、せわしなく働いている。
ひとり、放っておかれていたおすみが、お手玉にも飽きたらしく、ぐずり始めた。
が、左馬之助に断り、銕三郎へもあいさつをし、手をつないで帰って行く。

っつぁん。お紺さんが、ご亭主の骨を、足利(あしかが)在へ埋めに行くらしい」
左馬さんもいっしょに行くのか?」
「考えておく、と言っておいたんだが---」
「桜屋敷のふさ(18歳)どのに知れたら、嫌われるぞ」

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(春信 ふさのイメージ)

「おふささんて、岸井さまのいい女(ひと)なんですか?」
おまさが、耳ざとく、ませた口をはさんできた。
「いまはまだ、片思いですがね。いずれ、そうなるでしょう」
銕三郎が冷やかすと、左馬がまごまごして、
「いまは、剣の道をみがくのに精いっぱいで---」
岸井さま。足利は遠いですよ。江戸から20里。おみねさん連れだと、1日5里と見ても、行きに4泊---雨でも降った日にゃあ、5泊6泊になるかも」
権七もからかう。
「変な話。いやらしいったらありゃしない」
おまさが、いっぱしのむすめのような口調で言い、つんとして調理場へ消える。

忠助が、燗のできたちろりを黙って飯台に置いた。
そのまま横に立って目を伏せていたが、やがて、すぅーと板場へ引っこんだ。
銕三郎は、それで、あの晩、おの台詞(せりふ)を思いだした。

(「甘いものに、まるで敵(かたき)みたいに目がない亭主(ひと)だった---そのうえに、お酒もきりがなくって---躰に毒だったいくら言っても聞くものですか---小水にまで蟻(あり)がむらがるようになってきていて、躰もがたがた、亭主としての役(えき)もできなくなっていたのに---いつかは、こんなことになると、恐れていたんだ、わたし---」 ということは、寝間でもかまってもらえなかったということか? 忠助どのが言おうとして言わなかったのは、亭主じゃない男(の)と---噂がないわけではないということ?)

左馬さん。帰ろうか」
銕三郎は、河岸を変えて---と思った。
権七も呑みこんだ感じだった。

勘定を受けとったおまさが、釣りをわたしぎわに、背伸びして口を寄せてきたので、銕三郎は腰をかかがめた。
その耳へ、おまさがささやく。

【参考】 [〔盗人酒場〕の忠助] (1) (2) (3) (4) (5) (7)

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2008.05.03

〔盗人酒屋〕の忠助(その5)

6日後の夕刻---。

3人が、〔盗人酒場〕にあらわれた。
もちろん、銕三郎(てつさぶろう 20歳 のちの鬼平)、岸井左馬之助(さまのすけ 20歳)と〔風速(かざはや)〕の権七(ごんしち 33歳)である。

先に紺麻地の暖簾を割って銕三郎が顔を見せると、おまさが、すぐ、気づいて、
「いらっしゃいました」
浮き浮きした声で、迎えた。

ちゅうきゅう注】「いらっしゃいませ」でなく、「いらっしゃいました」という迎えのあいさつは、東京でも歴史の古い山の手の旅館の老女将が、戦後10年ばかり経った当時も使っていたので、おまさに言わせてみた。おまさの亡母・お美津(みつ)は、忠助と同郷の下総(しもうさ)・佐倉在---酒々井(しすい 現・千葉県印旛郡酒々井(しゅすい)町酒々井)の出身だが、本郷あたりの老舗で仕込まれた女(ひと)ということを暗示したくて。
【参考】 酒々井町Wikipedia

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(下総(しもうさ)国印旛郡酒々井=赤○ 佐倉=黄〇)

いつものとは違ったおまさの張りのある声の感じに、板場にいた亭主・忠助も店のほうをのぞき、3人を認めると出てきて、先日の礼を述べる。
「その場にいた者なら、しなければならないことをしたまでです。ご放念ください」
銕三郎の武家らしくない謙遜した言葉が、忠助をさらに恐縮させた。

おまさ。おさんに、お武家さんたちが見えたと、伝えておいで。いや、なに、おさんが、ぜひにも、お礼を申しあげたいって、ね」
おまさが、いそいそと飛び出す。

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(北斎[川岸の突風]部分 おまさのイメージ)

「亭主どの。いいむすめごですね。母ごはいらっしゃらないようだが?」
「お分かりになりますか? おまさが5歳の時に病死しまして---。以来、あれが嬶(かかぁ)の代わりみたいなもので。あの齢で、繕いものもやってくれるので、ついつい、後添えをもらう気もうせちまって---」
「おいくつです?」
おまさですか? 10歳になります。縫いものを、いま、おさんに習っております」

(こん 26歳)がおみね(6歳)とともにやってきた。
礼とおくやみの応酬がひととおりすんだあと、銕三郎がさりげなく訊く。
「物井(ものい)のお生まれとおみねどのから聞きましたが、下総国印旛郡(いんばこおり 現・四街道(よつかいどう)市物井)の? だったら、左馬さんの臼井に近い---」

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(下総・物井=緑○ 佐倉=黄〇 臼井=赤○ 明治20年刊)

「いいえ。下野(しもつけ)の物井(現・栃木県芳賀郡二宮町物井)でございます」
「ほう。下野にも物井村がありましたか」

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(下野・物井=緑○ 真岡=黄色〇 明治20年刊)
Wikipedia 物井

助戸(すけど)〕の葉三(ようぞう 35歳)が〔盗人酒場〕の店の中で卒中で歿した翌日、銕三郎は、火盗改メ方の次席与力・高遠(たかとう 41歳)から、物井村は、下総と下野の2国にあることを聞いていた。

「助戸」と、「名草(なぐさ)」、「樺崎(かばさき)」、「法楽寺(ほうらくじ)」の名は、伏せた。
理由は、もうすこし探索してからということもあるが、忠助おまさをかばうためのような気がして、自分でも割り切れていない。
もちろん、それらが足利藩内の村落名であることは、父・平蔵宣雄から教えられている。

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(足利城下の法楽寺とその近辺 明治20年刊の地図)

「おさむらい(侍)のにい(兄)ちゃん。おっかぁ(母)は、ものい(物井)にはかえ(帰)らないよ」
「それでは、おみねどのが母上の頼りになるように、しないといけないね」
「うん」
おまさ が言いなおしをさせる。
おみねちゃん。そうします---でしょ」
おみねどのは---そうちます」
「えらい!」
大声をあげたのは左馬之助であった。
が、半泣きの顔を伏せる。

おまさが手際よく、燗をしたちろりと大盃を配膳する。
「おさん。慈眼寺の住職が、過分のお布施をいただいたと、春慶寺へきて申しておりましたぞ。手前の顔も立ちました」
左馬之助が、恥ずかしそうな口調でだが、めずらしく世慣れた文句を言った。
あの夜、慈眼寺からの暗い夜道を帰りながら、こころが通じるものがあったのかも知れない。
世慣れている権七が、おに盃を持たせ、酌をするよう左馬之助をせかした。

調理場から忠助が、あわびの酒蒸しをもって出てきた。
「あわびの大洗(だいせん)煮は、明日ってことにしておりますので、明日もおいでください」
まさが、銕三郎に盃を持たせ、酌をする。
忠助が横目でそれをみて、かすかにぎょっしたようだ。
おまさ が客に酌をするのを、初めてみたからである。
平仮名のちゅうすけには、権七がかすかにうなずいたようにも見えたのだが---。

おまさに注がれた大盃だが、この時期の銕三郎はまだ酒に強くないので、そっと飯台にもどす。
「お酒がすすみませんね」
おまさが、心配げに訊く。
「家では、父上がたしなまれないのです」
「お酔いになったら、おまさが介抱してさしあげます」
(どこかでも、そう、いわれたな。そうだ、2年前、箱根の芦ノ湯の湯治宿〔めうが屋〕の離れで、だった。言ったのは、阿記(あき 21歳=当時)だったか、女中頭の都茂(とも 42歳=当時)だったか)

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(国芳『江戸錦吾妻文庫』 都茂のイメージ)

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(国芳『江戸錦吾妻文庫』 阿記のイメージ)

【参考】 [〔盗人酒場〕の忠助] (1) (2) (3) (4) (6) (7)

ちゅうすけ注】 下総国の物井は、関東・物部(もののべ)によるとも、千葉孝胤の三男の物井殿に由来しするともいわれている。
下野(しもつけ)国の物井も、関東・物部によるとの説がある。二宮町の町名は、荒れ田復興を指導した二宮尊徳にちなんだものか。


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2008.05.02

〔盗人酒屋〕の忠助(その4)

銕三郎(てつさぶろう 20歳 のちの鬼平)が〔盗人酒屋〕へ戻りついてみると、店の常連客らしい数人が、戸板に骸(むくろ)となった〔助戸(すけど)}の葉造(ようぞう 35歳)を載せているところだった。

入っていった〔樺崎(かばさき)〕の繁三は、
「〔助戸〕の---」
と言っただけで、手をあわせ、傍らについているお(こん 27歳)に深く頭をさげ、調理場の入り口に立っていた忠助へ、
「〔名草〕(なぐさ)のには---」
といいかけた。
と、忠助が調理場へ首をかたむけ、繁三をうながして、先に消えた。

ぼんやりとつっ立っている岸井左馬之助(さまのすけ 20歳)に、
「慈眼寺のほうはうまく運んだのかな?」
「ああ。仏を、快く預かってくれることになった」

が寄ってきて、
「いろいろとお世話になり、ありがとうございました」
頭を下げる。
おみねどのから聞きました。仏は、呉服の反物を手びろく行商なさっていたそうで---」
「はい。ご注文をいただくと、わたしが仕立てておりました」
「これからが、たいへんです。お疲れのでませぬように---」
おみねと、2人で、なんとか---」
「お気をしっかりと。おみねどののためにも---」

左馬さん、拙たちはもう用ずみだ。おまさ(10歳)どの。取りこみ中のようなので、お父上にはあいさつをしないで失礼をば。落ち着いたころ、また、手料理をいただきにまいると、お伝えください」
おまさに、こころづけを足した飲食代をわたし、〔風速(かざはや)〕の権七(ごんしち 33歳)に目で合図して店を出ると、表までおまさが提灯を持って送ってきて、
「お客さま方。なにかとお力をお貸しいただき、ありがとうございました。お気をつけてお帰りください。提灯は、またのまお越しの時で結構ですから、お使いください」
まるで、女将(おかみ)のように口上をのべる。

左馬之助などは、どぎまぎと、言葉にならないことを口ごもっている。
「では、拝借させていただく。今夜は、いろいろ、不躾もあったが、お許しいただきたい」
そう言う銕三郎に、おまさは初めて受け唇から白い歯をみせて微笑んだ。10歳の小むすめとはおもえないほどの艶やかな微笑みであった。

竪川ぞいに歩きながら、銕三郎が、
左馬さんは、呑みなおしをしたかろう。この時刻です。権七どの、〔古都部喜楼〕にしますか、それとも、二ッ目まで足をのばして、〔五鉄〕に?」
「〔古都舞喜楼〕では足ばかりか、目玉まででやすよ。〔五鉄〕にしやしょう。それとも〔笹や〕のお婆ぁさんをたたきお起しますか?」
権七どの。冗談がすぎます」
「あは、ははは」
「ふふ、ふふふ」

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(竪川ぞい 〔古都舞喜(ことぶき)楼 〔五鉄〕)

参考】 [〔盗人酒場〕の忠助] (1) (2) (3) (5) (6) (7)

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2008.05.01

〔盗人酒屋〕の忠助(その3)

忠助(40がらみ)の〔盗人酒屋〕を出た5人は、竪川(たてかわ)に架かる四ッ目の橋をわたり、本所から深川へ入っていた。
田んぼの畔(くろ)につくられた南にまっすぐにのびている道である。
昼間なら左手に広い猿江御材木蔵の樹林がのぞめるのだろうが、星明かりでは冥(くら)い気配でしかない。

行く提灯は2個。 
一つはおまさ(10歳)が銕三郎(てつさぶろう 20歳 のちの鬼平)の足元にさしかけている。

もう一つは、岸井左馬之助(さまのすけ 20歳)が、お母子を導いている。

(26,7歳)は、左馬に語りかけるというより、自分に愚痴っているのだ。何か言っていないと落ち着かないのであろう。
「甘いものに、まるで敵(かたき)みたいに目がない亭主(ひと)だった---そのうえに、お酒もきりがなくって---躰に毒だっていくら言っても聞くものですか---小水にまで蟻(あり)がむらがるようになってきていて、躰もがたがた、亭主としての役(えき)もできなくなっていたのに---いつかは、こんなことになると、恐れていたんだ、わたし---」

御材木蔵の南はずれをすぎた三叉路で、銕三郎おまさ