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2008年2月の記事

2008.02.29

南本所・三ッ目へ(7)

平賀さま。発明というのは、どのようにして成るものでありましょう? われわれ凡人には、とうてい及びもつきませぬが---」
銕三郎(てつさぶろう 20歳 家督後の平蔵宣以 のぶため)が、平賀源内(げんない 39歳)が示した火浣布(かかんぷ)から、視線を当人へ移して、おめずに訊いた。

田沼主殿頭意次(おきつぐ 46歳)の木挽町の中屋敷である。
銕三郎どのも共に参られよ---と意次に言われて、父・平蔵宣雄(のぶお 46歳 小十人組頭)は恐縮しながら、連れてきている。
ほかには、本多采女(うねめ)紀品(のりただ 50歳 先手・鉄砲の16番手組頭 2000石)と佐野与八郎政親(まさちか 33歳 使番 1100石)である。政親は、西丸の小姓組から、去年の年初に使番に栄進している。
意次は、この3人が、前(さき)に老中を罷免された本多伯耆守正珍(まさよし 53歳 駿州・田中藩の元藩主 4万石)のところへ出入りしているのを知っていて、彼らの才幹をかって、目をかけている。

「発明ですか。そう、最初にどういいうものをつくりたいのか、想いえがくのです」
「火浣布のばあいは、どういうことを想いえがかれましたか?」
「ここの殿の思惑を---ですな」
「おいおい、紙鳶堂(しえんどう 源内の別称)。純真な若者に、妙なことを吹きこむでない」
それまでにこにこして源内の自慢話を聞いていた田沼意次が、盃を置いて、口をはさんだ。
「いえ。ほんとうのことを話しているのです。殿はつねづね、長崎の貿易の、出るをふやして、入るを減じたいと、愚痴(ぐち)をこぼしておられましょう。入るものの中に、天竺(てんじく インド)からの鹿の皮があります。銕三郎どの。鹿の皮をなにに使っているかご存じかな?」
「いえ---」
「火消しの法被(はっぴ)です。日本中の藩が定火消(じょうひけし)に着せているから、その量は莫大なものです。薬効の高い朝鮮人参も、出費の大きい貿易品です。だから、ここの殿は、それをこの国での栽培をお進めになった。この源内も、殿の世話になってばかりではこころ苦しい。鹿の皮に代わるものを発明すれば、いささかなりと、殿の悩みが薄らごうかと---」

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(町火消の重衣装・部分 『風俗画報』明治31年12月25日号)

紙鳶堂(しえんどう。そのように恩着せがせましく言わずとも、酒はふるまうぞ」
意次が、新しい酒を召使に催促した。

源内さま。火気をふせぐ鹿の皮を想い描いた、その次は?」
「そうであった、発明でしたな。想い描いたら、それにかかわりのありそうな文書をさがします」
「火浣布のばあいは?」
「かの国の、『述異記』という文書に記述がありましての。まあ、その内容は置くとして、そういったものを参考にしながら、いろいろと試していくのだが、もっとも肝心なのは、試したことをすべてこころ覚えに書き残すことです」
「こころ覚えを、書き残す?」
「そう。書き残していくことで、試しごとの順序が立つものです。やみくもに試していっても、万に一つはあたることもありましょうが、九千九百九十九はむだ弾です。人間、九千度(たび)試したところで寿命がつきるやも知れない」
「そうですか。発明の成る人と成らぬ人との違いは、試したことのこころ覚えを書き残すかどうかですか。きっと、こころに留め置きます」

銕三郎どの。火浣布の試作はできました。なれど、困難は、これからです。これを実際につくるのには、手当て金も要(い)りますし、大量に安く織るための織機も考案しないとなりませぬ」
「そう、安くじゃぞ、紙鳶堂。鹿の皮の半値でできないと、長崎での出金(しゅっきん)も減らぬし、国中にも弘まらぬ」

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(定火消役など提灯合印 『風俗画報』明治32年2月25日号)

しばらくして、意次宣雄に言った。
長谷川どの。何か、思案のつかぬことでもおありかな。この主殿(とのも)でできることかな?」
「恐れいります」
「遠慮は無用じゃ。言ってごらんなされ」
「じつは、阿波守さまのご用人どのとのご縁を探しております」
松平阿波どの?」
「手前どもの鉄砲洲の拝領屋敷は、阿波守さまの南八丁堀のお中屋敷と接しております。それで、阿波守さまのいずれかのお下屋敷と相対で換えられないかとおもっておりまして、手ずるをと---」
「造作もないこと。在府の用人どのは、たしか、五島どのとか申された。よろしい、うちの用人・三浦庄司(しょうじ)に口をきかせましょう」
「かじけないことでございます」

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2008.02.28

南本所・三ッ目へ(6)

「南本所・三ッ目の下領地のお改めの件、私ごとにつき、お手やわらかにお願いいたします。本日は、咄嗟のお願いにもかかわらず、お聞きとどけいただき、かたじけのうございました」
平蔵宣雄(のぶお 46歳 小十人の5番手組頭 400石)は、神田橋門外で、目付・長崎半左衛門元亨(もととを 50歳 1800石)に挨拶をした。
長崎半左衛門は、自邸のある駿河台の方へ去っていった。
宣雄は、半左衛門の鶴のように細い長身の躰が見えなくなるまでその場に立ちつくして、見送った。
半左衛門は、自分の考えに沈みこんでいたのであろう、振り返らなかった。

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(神田橋門外から堀ぞいに竜閑橋へ 近江屋板)

(納戸町を訪ねてみるかな)
一瞬、その考えが浮かんだが、即座に、
(おれとしたことが、よほど、どうかしている---早まるでない)
打ち消した。
南本所・三ッ目の1200余坪の敷地が手に入ったとして、家が建つまでの仮住まいを、屋敷が広大な一門の叔父・長谷川讃岐守正誠(まさざね 69歳)に、前もって、頼み込こんでおこうとおもったのである。
そして、正誠が体調をくずして病床にあることを、つい、失念もしていた。

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(常盤橋門外から日本橋へ 近江屋板)

堀の北ぞいを、鎌倉河岸、竜閑橋(りゅうかんばし)、一石橋(いっこくばし)とすぎて、日本橋の手前で船宿をみつけたので、若侍・桑島友之助(とものすけ 30歳)に舟の手配をさせた。
めったにないことなので、供の挟み箱持ち繁造(しげぞう 38歳)が驚いた顔をした。
「お疲れになりましたか?」
「うむ。気疲れだな」

舟が日本橋川へ出ると、
桑島のおじじどのは、下野(しもつけ)・河内郡(かわちこおり)の桑島村の出とかいっていたな」
「はい。下桑島村と聞いております」
「村では、伯楽か馬医か、なにかだったかな?」
「いえ。畑百姓のニ男と聞いておりますが、それがなにか?」
「親戚に、牧場かなにかをやっていた家のことは、耳にしておらぬか?」
「一向に、存じませぬが---」
「そうか。それなら、それでいい」
(ふつうの島の字と、山のつく嶋との違いは、大きいのかもしれないな)

夕餉(ゆうげ)の時、銕三郎が報告をした。
「三ッ目から大手門まで、きょうのような曇りの日ですと、半刻(はんとき 1時間)ともう少々かかります」
「大儀であったな」
「父上。〔丸子(まりこ)彦兵衛は、信用してよろしいのでしょうか?」
「どういうことだ?」
「いえ。なんとなく---」
「なんとなく、で人を疑ってはならぬ。仮に疑わしいことがあっても、たしかな証(しる)しがあるまで、顔にも口にも出してはならぬ」
「はい。ただ、地券商売の場合、地券の持ち主ではない者と談合することがございましょうか?」
「そのような場を目にしたのか?」
「いえ」
「よいか。三ッ目の敷地のことは、以後、どこであっても、口にしてはならぬ。支障なく手に入るように、父が手をまわしている」


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2008.02.27

南本所・三ッ目へ(5)

父・平蔵宣雄(のぶお 46歳 小十人組頭)が、目付・長崎半左衛門元亨(もととを 50歳 1800石)に連絡(わたり)をつけた日、嫡男・銕三郎(てつさぶろう 19歳 家督後の平蔵宣以=小説の鬼平)は、黄鶴塾をおおっぴらに欠席して、南本所・三ッ目通りの1200余坪の土地を下見していた。

鉄砲洲・本湊町(現・中央区湊2-12)屋敷から掘割ぞいに北行、京橋川の河口に架かる稲荷橋をわたるとすぐに亀島川の高橋。
それから2万9000余坪もある松平越前守(福井藩 25万石)上屋敷にそって永代橋。
永代橋を渡って大川ぞいに佐賀町、新大橋、船蔵の南橋---〔窮奇(かまいたち)〕の弥兵衛によく似た辻番人のいた番所までの行程は、先夜、本多采女(うねめ)紀品(のりただ)組の火盗改メの巡察で歩いた道。

【ちゅうすけ推薦】本多組に従って銕三郎が夜廻りにでたのは、2008年2月[銕三郎、初手柄] (1) (2) (3) (4)
永代橋から小名木川に架かる万年橋までの道順。ただし、下(しも)ノ橋から右折しないで、大川ぞいにまつすぐ万年橋へ。

ただ、暗い夜道と違い、昼間の深川・本所は庶民の生活の匂い---米飯や味噌汁の煮炊き、洗い張りの糊やおしめの匂いがたちこめている。
(うまく三ッ目に移転できると、父上は毎日、この匂いの中を登城・下城なさるわけだ。いや、家督すれば、おれだって、そういうことだ)。
銕三郎は苦笑した。
はからずも、10年後には、そうなった。

辻番所脇から、すとんと東へ。六間堀に架かる北ノ橋、さらに五間堀までは、深川らしい町屋つづきだが、伊予橋をわたると、その先は武家屋敷の密集と寺社ばかり。
(六間堀に架かる北ノ橋から、一つ小名木川寄りが猿子橋。土地の古老は「エテ公橋と呼んだらしい。 『鬼平犯科帳』ファンなら、文庫巻7[寒月六間堀]で、息子の敵討ちを助ける鬼平が、この橋のたもとで山下藤四郎を待ち伏せて仕留めさせる。
六間堀は、いま埋められてない。埋め立ては進駐軍の指示で、空襲の残骸をこの堀へ放りこんで行われた)

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(銕三郎の南本所・三ッ目の通りへの順路)

件(くだん)の辻番所からは、かれこれ半里(2km)ほども歩くと三ッ目通りである。
1200坪の敷地は、その角にあった。
その敷地だけに、仮小屋の店屋がならんで、たつきの品々を商っている。

ふつう、武家の妻女は買い物に店屋へは行かない。ほとんどはご用聞きにいいつけ、品物は出前してもらう。
だから、1200余坪にならんでいる店々も、店先に置いている商品の数は少ない。ご用聞きの詰め所のような形である。
もっとも、幕臣が敷地の一部を貸すときは、武家(ろうにん)か医者のほかは禁じられている。商人に貸すなどはもってのほかである。

宣雄が目付・長崎半左衛門元亨に相談し、半左衛門が、お目見え以下のご家人を監視する配下の小人(こびと)目付を桑島家へ行かせようと言ったのも、そこに仕掛けがある。
小人目付が、1200余坪の貸し先を糺(ただ)すだけで、桑島元太郎はふるえあがってしまう。
軽くて蟄居・閉門、重ければ遠島である。

(これは、解決が早そうだ)
敷地のぐるりをまわりながら、銕三郎でさえ、おもった。
もちろん、銕三郎は、父・宣雄が目付・長崎半左衛門に手をまわしていることなど、まったく知らない。

(さて、ここからのお城までの時間だが---)
そうおもいながら、敷地の西北角を三ッ目通りで出ようとした途端、左手、西南角に地券(ちけん)屋〔丸子(まりこ)彦兵衛が誰かと話しているのが目に入った。
瞬間、銕三郎は身を引いて、彦兵衛に見つかるのを避けていた。
なぜそうしたかは、銕三郎自身にも説明ができない。
反射的にそうしたほうがいいとおもったのである。

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(都営地下鉄・菊川駅の新しい銘板)


長谷川平蔵・遠山金四郎住居跡
  住所 墨田区菊川三丁目十六番地二号

 長谷川平蔵宣以(のぶため)は、延享三年(一七四六)赤坂に生まれました。
平蔵十九歳の明和元年(一七六四)、父平蔵宣雄の屋敷替えによって築地からこの本所三の橋通り菊川の千二百三十八坪の邸に移りました。ここは屋敷地の北西側にあたります。長谷川家は、家禄四百石で旗本でしたが、天明六年(一七八六)、かつて父もその職にあった役高(やくたか)一五〇〇石の御先手弓頭(おさきてゆみがしら)に昇進し、火附盗賊改役も兼務しました。火附盗賊改役のことは池波正太郎の「鬼平犯科帳」等でも知られ、通例二、三年のところを没するまでの八年間もその職にありました。
 また、特記されるべきことは、時の老中松平定信に提案し実現した石川島の「人足寄場」です。当時の応報の惨刑を、近代的な博愛・人道主義による職業訓練をもって社会復帰を目的とする日本刑法史上独自の制度を創始したといえることです。
 寛政七年(一七九五)、病を得てこの地に没し、孫の代で屋敷替えとなり、替って入居したのは、遠山左衛門尉景元です。通称は金四郎、時代劇でおなじみの江戸町奉行です。 遠山家も家禄六千五百三十石の旗本で、勘定奉行などを歴任し、天保十一年(一八四〇)北町奉行に就任しました。この屋敷は下屋敷として使用されました。
 屋敷地の南東側にあたる所(菊川三丁目十六番十三号)にも住居跡碑が建っています。
 平成十九年三月
                     墨田区教育委員会



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2008.02.26

南本所・三ッ目へ(4)

「下城をごいっしょ、願えましょうか?」
長谷川平蔵宣雄(のぶお 46歳 400石)は、顔なじみの表同朋頭・玄珍(げんちん 40歳 廩米200俵)にことづけた。
相手は、小十人の4番手組頭(くみがしら)から、いまは目付に任じられている長崎半左衛門元亨(もととを 50歳 1800石)である。4年前からいまの職へ移っているので、同僚だった時期は1年たらずであったが、対人関係には公平な仁であったので、宣雄としては、気がねなく付き合った。

【参考】小十人組頭当時の同職の名簿 2007年12月14日[宣雄、小十人頭の同僚](5)
2007年12月10日[宣雄、小十人頭の同僚
2007年5月30日[本多紀品と曲渕景漸]2007年5月31日[本多紀品と曲渕景漸](2)

小十人組頭から目付という栄進コースへ転じた、役職上の先輩だったのにはもう一人---曲渕勝次郎景漸(かげつぐ 45歳 1650石)もいるが、才気走り、上には慇懃(いんぎん)・丁重、下には意識的に無愛想なところが、宣雄の肌に合いかねた。
これから長崎半左衛門に話すようなことを曲渕へ話したら、それこそ、どんなふうに曲げてうけとられるか、知れたものではないとおもう。

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(小十人組頭から目付へ転じた2人 黄=曲渕景漸 緑=長崎元亨 『柳営補任』より)

玄珍が持ち帰った返事は、七ッ(午後4時)に、徒歩番所の前で待っていると。

中根伝左衛門正親(まさちか 75歳 書物奉行筆頭 廩米300俵)から、始祖が南本所・三ッ目に1200余坪を拝領している小普請組の桑嶋元太郎持古(もちもと 49歳 廩米200俵)のことを耳打ちされた翌日である。
五月雨(さみだれ)には、もうすこし間があったが、蒸す日和がつづいていた。

長崎半左衛門の屋敷は、駿河台---現在の千代田区神田駿河台1丁目、日大歯科病院のあたりにあった。

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(駿河台の長崎半左衛門元亨屋敷。子孫名。隣家は町奉行・根岸肥前守鎮衛の子孫。池波さん愛用・近江屋板)

大手門を出て大手濠(おおてぼり)ぞいに小川町へ向かいながら宣雄は、鶴のように細く長身の長崎半左衛門に、嫡子・市之丞元隆(もとたか 16歳)の病状を訊き、見舞いを述べた。
「気候の変わり目がよくないようでして---」
半座右門元亨の声は暗かった。
市之丞は、去年の春、将軍・家治にお目見(みえ)をすまして家督の資格をえたにもかかわらず、この春から体調がすぐれず、寝たり起きたりとの風評を耳にしていたのである。
父の齢に比して、市之丞の年齢が若いのは、半左衛門元亨の家つきの先妻が女子ばかり産んで病死、後妻がもうけた嫡子だからである。
不幸なことに、3歳下のニ男・寅之助元周(もとちか)も長く臥せっている。

神田橋門を出て、神田川を渡ったところで、長崎半左衛門が、供の者たちから離れて言った。
長谷川どの。お話はここで承りましょう。拙宅には病人が2人もおり、お招きできる仕儀ではありませぬ」
宣雄は、桑島家が他人に貸している南本所の厩(うまや)の跡と、湊町のいまの拝領屋敷との交換を考えていることを、手短に、正直に打ち明けた。

「分かりました。桑島元太郎---でしたか、その者のところへ、小人(こびと)目付でもやって、事情を調べさせましょう。小人目付を行かせるのは、4,5日のうちでよろしいかな? それとも、もうすこし後のほうが、そこもとの手順がととのいますかな?」
「4,5日のうちで、よろしいかと---」

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(目付・長崎半左衛門の個人譜。『寛政重修諸家譜』より)


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2008.02.25

南本所・三ッ目へ(3)

「小普請組に、桑嶋元太郎持古(もちもと 49歳 廩米200俵)というご仁がおられます」
書物奉行筆頭・中根伝左衛門正雅(まさちか 75歳 廩米300俵)のささやきによると、先祖が馬医として召された桑島姓の家は3家あるとのこと。
しかし、子孫で馬医として奉公しているのは1家にすぎず、それが、平蔵宣雄(のぶお)が知っている桑島新五右衛門忠真(ただざね 43歳 廩米100俵)である。

あとの2家は、番方(ばんかた 武官系)へ転じてしまっており、しかも1家は、不始末でもあったか、甲府勤番にまわされている。

もう1家が、桑嶋元太郎持古である。なぜか、勤仕はしていない。本所林町5丁目横町に住んでいて、先祖が厩用に拝領していた南本所・三ッ目通りの1200坪余の敷地の地代でけっこうな暮らしぶりだという。

「いや。手前は、『寛永譜』をのぞいただけですが、始祖の左近宗勝(むねかつ)という方から三代目までは、きちんとお馬医だったようです」

ちゅうすけ注】 『寛政譜』の前序は、出源をこう記している。
この家、旧記を失して先祖の出るところ詳(つまびらか)ならずという。
今、庶流鎰太郎宗英が家伝を按ずるに、その先、田原又太郎忠綱(官本系図・足利又太郎忠綱につくる)が後裔にして、陸奥国宮崎の寨(とりで)に住するがゆえに宮崎を称し、左近宗重がとき外家の称を冒して桑島にあらため、馬医をもって業とす。宗勝はその男なり。

陸奥国(むつのくに)津軽郡(つがるこおり)桑島村(257石余)は、現在は青森県中津軽郡西目屋村杉ヶ沢大字宮崎である。

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(陸奥国桑島出自の桑島家が幕臣となってからの『寛政譜』。上段右端の宗勝から三代が馬医)

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(始祖・宗勝と五代目・持古の個人譜)

「それだけの仔細をお漏らしいただけば、十分でございます。かたじけのうございます」
「いや、頼まれ甲斐があったというものです。ところで、銕三郎どのに、たまには、老人の話相手にお越しくだされと、お伝えのほど、お願いいたします」
「承知いたしました」

その夕べ、宣雄が地券(ちけん)屋の〔丸子(まりこ)彦兵衛を呼んだことはいうまでもない。
用人・松浦銕三郎(てつさぶろう 19歳 家督後の平蔵宣以=小説の鬼平)を同席させたうえで、中根書物奉行から聞いた桑島家の三ッ目の土地が手に入らないか、探索するように命じた。

〔丸子屋〕彦兵衛が退去してから、宣雄銕三郎に言った。
中根どのの非番を日を調べて、お訪ねするように。そのときには、お礼を届けてもらいたいから、事前に日時を教えること。それから、なるべく早く、南本所三ッ目菊川町の桑島家持ち分の1200余坪を見てくるように。できれば、その敷地からお城までに要する時間を実測してもらいたい。晴、雨、雪の日と、勘案してな」


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2008.02.24

南本所・三ッ目へ(2)

相良侯が羽目の間へお越しを---との仰せでございます」
茶坊主が躑躅(つつじ)の間へ、伝言を持ってきた。
相良侯とは、御側(おそば)・田沼主殿頭(とのものかみ)意次(おきつぐ 46歳 相良藩主 1万5000石)のことである。
城中での呼び出しとはただごとでない。
長谷川平蔵宣雄(のぶお 46歳)は緊張した。
この年の6月、改元があって、宝暦(ほうりゃく)14年(1764)が、明和元年となった。

宣雄が羽目の間へ行くと、襖が開かれ、阿部伊予守正右(まさすけ 40歳 備後国福山藩主 10万石)が出てくるところであった。
京都所司代から西丸老中に任じられていた。

ちゅうすけ補足】阿部伊予守正右については、2008年2月16日[本多采女紀品(ただのり)](5)
この日の阿部正右へのリンクもお読みのほどを。

目礼して、控えていると、本多采女(うねめ)紀品(のりただ 50歳 先手・弓の16番手組頭 2000石)が茶坊主に先導されてやってきた。
茶坊主が揃ったことを室内へ通じると、呼び込まれた。

意次は笑顔で迎えて、
「なに。わざわざご足労いただくほどのことともなかったのだが、久しぶりに、お顔を見たくなりましてな」
言葉つきは相変わらず、柔らかくて、丁寧だ。
紙鳶堂(しえんどう 平賀源内 39歳)が、火浣布(かかんぶ)を発明したから披露したいといってきましてな。明後日の夕刻、木挽町(こびきちょう)の陋屋(ろうおく)のほうで、いっしょに、あやつめのうだを聞いてやるのはいかがかと---」
「参上させていただきます」

羽目の間を出たとき、書物奉行筆頭の中根伝左衛門正雅(まさちか 75歳 廩米300俵)が通りかかった。
「やあ、長谷川どの。ちょうど、よかった」
そういったので、本多紀品は、手で合図をして、詰めている躑躅の間へ戻っていった。

【ちゅうすけ付言】中根伝左衛門正親と長谷川家については、2007年10月16日[養女のすすめ](3) (4)

廊下の隅へ寄ると、中根正親は、
長谷川どのは、お馬医(うまい)のお家柄の桑嶋どのをご存じですか?」
「と申されると、桑嶋新五右衛門忠真(ただざね 43歳 廩米100俵)どののことでしょうか?」
「これは、失礼つかまつった」

中根書物奉行は改めて、清水門外(しみずもんそと)の野馬仕込み地をどう見るか、と訊いてきた。
「どう見るかとおっしゃられても---あっ」
「お察しになりましたか?」
「ようやくに---」

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(清水門外の野馬仕込み地と厩 板行・嘉永2年)

つまり、お馬方にかかわりのある旗本は、家禄が小さくても、広い敷地を下賜されている者がいるのではないかというのである。
もちろん、清水門外の野馬仕込み地や、その脇の厩(うまや)が手に入るわけではない。
考えどころのヒントである。

ちなみに、清水門外とくれば、『鬼平犯科帳』のファンは、すぐに火盗改メの役宅を連想するが、あれは小説での話で、池波さんも、火盗改メの役宅はお頭(かしら)の拝領屋敷ということは百も承知の上で、便宜上、清水門外の野馬仕込み地と厩のあいだの、幕府ご用地に仮設したのである。

参考に掲出したのは、池波さんがつねに開いては確かめていた近江屋板の清水門外である。「竹田伊豆守預かり」となっている。『柳営補任』によると、切絵図が板行された嘉永2年(1849)前後なら、竹田伊豆守忠吉(ただよし のち斯緩 本丸普請係 500石)だが、『寛政譜』記載の圏外なので確認できない。
ただ、野馬仕込み方は、馬術で仕えていた村松家の職掌であった。

「左様なのです。当初はお馬方、またはお馬医として召しかかえられたお家で、いまはその仕事をしていない旗本の中に、広い拝領屋敷を手放すことを考えている仁もいようということです」

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2008.02.23

南本所・三ッ目へ

「登城している留守に、地券(ちけん)屋の〔丸子(まりこ)彦兵衛が来たら、用人・松浦とともに、きちんと聞きおくように」
銕三郎(てつさぶろう 19歳 家督ののち平蔵宣以=小説の鬼平)が、父・宣雄(のぶお 46歳 小十人組頭)からこう申しつけられて5ヶ月経つが、宣雄が首を縦にふる話は、まだもたらされてきていない。
来たのは、帯に短し襷(たすき)に長し---の物件ばかりであった。

宣雄の条件は、敷地が1000坪以上で、江戸城まで徒歩半刻(はんとき 1時間)前後ですむところというのだから、〔丸子屋彦兵衛の、
「そんな美味しい話は、ご府内で10年に一つあれば、まさに、めっけものでございますよ。この商(あきな)いをはじめて、手前で七代目になりますが、これまで一度も手がけたことがございませんからねえ」
の言い分ではないが、たしかにむずかしい注文であった。
1000坪の敷地を持っている幕臣は、まず、家禄1500石以上3000石の家柄だから、お目見(めみえ)以上の旗本5200余家の中でも300家もない。

一方、彦兵衛が七代目と自慢しているのは、大権現・家康公の江戸入りを追っかけるように駿府から移って来て、地券屋として、幕臣の相対(あいたい)屋敷替えを主に手がけて200年近くを経ているためである。
幕臣の拝領屋敷で商売をつづけるには、駿府時代からの利権と、上層部への繋がりがものをいっている。
商いは、地価などない拝領地に町方だったらと仮の値段をつけ、交換する双方から5分(5パーセント)ずつの手数料をもらうこと成り立っている。

宣雄と〔丸子屋〕の先代との付き合いは14年前に、開府以来の赤坂築地の拝領屋敷(現・港区赤坂6-11)から、大川べりの築地のいまの屋敷へ移ったときから始まっている。

赤坂・氷川宮脇の陰気くさい屋敷を嫌ったのは、銕三郎を産んだ(たえ)で、銕三郎が5歳のとき、宣雄の正室・波津(はつ=小説の名)が病死した寛延3年(1750)に、移転を当主・宣雄に懇請。

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(赤○=赤坂築地時代のハセ川イ平邸 赤坂氷川宮の下)

田園育ちのの希望で、健康な潮風が吹く湊町・築地(現・中央区湊2^12)が選ばれた。

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(赤○=築地・湊町の長谷川邸 京橋から鉄砲洲にかけて)

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(上図の部分拡大 赤○=長谷川邸が松平阿波守の中屋敷にくいこんでいたので、蜂須賀家とすれば、その敷地を合わせる機会を狙っていた)。

宣雄が1000坪以上の敷地を断固として主張して、それ以下の物件に見向きもしないのは、小十人組頭時代の同僚で、いまは先手・弓の16番手の組頭として火盗改メの助役(すけやく)に任じられていた、本多采女(うねめ)紀品(のりただ 50歳 2000石)の屋敷を施設を見たからだった。

白洲、仮牢、捕り物道具小屋などを案内してくれた本多組の与力が、
「一番の難題は、拷問小屋です。家族の者には悲鳴は聞かせたくはないでしょうが、お上からは見せしめのために、なるべく屋敷の外までとどくように、と申し渡されているのです」
と言ったのが、頭から消えないのである。

武家育ちではない妻同様のに、悲鳴は聞かせられないと、心に決めていたのである。
そのためには、これまで倹約に倹約を重ねて蓄えてきた、すべての金銭をあててもいいとまで考えている。

【ちゅうすけ・おすすめ】正室・波津の推理 2007年4月22日[寛政重修諸家譜](18)
実母・妙の推理 2007年4月18日[寛政重修諸家譜](14)

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2008.02.22

銕三郎(てつさぶろう) 初手柄(4)

_120_3幕府が大名屋敷や幕臣に通達している辻番所についての注意事項を見ると、昼夜ともに表戸を開けておくようにとのきまりのほかに、番人は4人から6人を詰めさせておくこととか、不寝番をかならず立てろとか、番人は60歳以下20歳以上の男性であることとか、番所に女や病人を入れてはならないとか、いろいろと細かく定めている。
現代の交番に近いのではなかろうか。(もっとも、犯罪人が警官に採用されることはないだろうが---)

銕三郎(てつさぶろう 18歳 家督後の平蔵宣以 のぶため)は、舟蔵の南端向いの辻番所で見かけた不審な番人のことを、こちらの行動がもうその男からは見えなくなったとおもわれる一ッ目の橋の南詰まで来てから、本多采女(うねめ)紀品(のりただ 49歳 火盗改メ助役 すけやく)へ話した。
「お頭(かしら)」
それまでの「本多さま」から、組下の者のように呼びかけた。気分が高揚してきたのだ。

_360__4
(本多組の巡視順路 南本所 池波さん愛用の近江屋板)

「今夕、お屋敷でお話しした、江ノ島の旅籠で見かけた不審な男によく似た者が、先刻の辻番所にいました」
「表戸を開けた辻番人のことかな?」
「左様です」
「ふむ」
「生憎と、顔が陰になっていたので、しかとは確かめられませんでしたが---」
「名はなんといいましたかな?」
弥兵衛と---本名かどうかは定かではありませんが、あの時は、そう、名乗りました」

弥兵衛---とな」
それきり、本多紀品は口をきかなかった。
大手柄を立てたと勢いこんでいた銕三郎は、ちょっとがっかりであった。

【参考】舟蔵の東に沿ったこの道は、『鬼平犯科帳』文庫巻7[寒月六間堀]で、市口瀬兵衛の息子の敵(かたき)の山下藤九郎の駕籠が、御蔵前片町の料亭から一ッ目の橋を渡って籾蔵(もみぐら)の横道へ行った路筋である。

夜風がまだ冷たい両国橋を渡ると、
銕三郎どの。ご大儀でした。加藤同心に、お屋敷まで送らせます。羽織は、それまで着ていたほうが、辻番所や自身番所を通りやすいでしょう。加藤、頼んだぞ」
そういうと、さっさと一統を従えて西へ去った。

銕三郎は馬を下りて、同心・加藤半之丞と並んで歩きながら、弥兵衛に似た男のことを話してみた。
30代なかばとおもえる加藤同心は、えらのはった顔で、いちいちうなずきながら聞いてくれたが、
「お頭がすべてご存じなのですから、このあとのことは、お頭にまかせて、お忘れになることですな」
と、あっさり、かわされた。

2日後、下城してきた父・宣雄が、弥兵衛の件、本多どのの組の方々がお調べになったが、あの者は弥兵衛ではなく、ほかの辻番人の者たちの中にも疑わしい者はいなかった---と話した。

銕三郎は、その夜は大いにがっかりで、はやばやと寝についた。

事実は、そうではなかったのである。
あの者は、銕三郎が不審と思ったとおり、武蔵国多摩郡八王子在の鑓水(やりみず)村生まれの盗賊・〔窮奇(かまいたち)〕の弥兵衛で、あの辻番所に3人の配下ともぐりこんでいたのである。

【参考】〔窮奇(かまいたち)〕の弥兵衛との出会いは[与詩(よし)を迎えに](39)

辻番人の昼夜の務めはきついので、なり手が少ない。そこが賊たちのつけ目となっていた。

真相を告げなかったのは、ただでさえ捕り物に素質がありそうな銕三郎が、これに味をしめて、一層、このことにのめりこんでは、前途のある身を誤ると、本多紀品も父・宣雄も考えた末でのことであった。
火盗改メは、番方(ばんかた 武官系)の幕臣が一時的に任命される職務ではあるとしても、町方与力・同心のように一代かぎりが原則の身分のものがやる仕事に近いから、それを本業にしてはいけないし、仲間たちからも高くは評価されない---というのが、父親たちの結論であった。
銕三郎は、そのことは知らない。 

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2008.02.21

銕三郎(てつさぶろう) 初手柄(3)

万年橋の南詰の右手に、霊雲院という曹洞宗の名刹がある。将軍・吉宗による開基を得たという。。
『鬼平犯科帳』巻15長編[雲竜剣]で、この寺の前あたりで、うなぎ売りの屋台を出していたのが忠八。そのことを〔笹や〕のお鬼平に告げて、重要な手がかりとなった)。
もっとも、この時の銕三郎(てつさぶろう 18歳 のちの平蔵宣以)から30数年ものちの話だから、銕三郎は霊雲院の閉ざした山門を見てもなんの感慨もおぼえない。

【ちゅうすけ注】霊運院はいまはこの地にはない。戦災で東村山へ引っ越し、寺号を霊運院としたが、庵主が亡くなって、無住のようだ。ホームページ[『鬼平犯科帳』と彩色『江戸名所図会』]〔週間掲示板〕2005年1月1日をご覧ください。
なお、万年橋の北詰には正木稲荷が『剣客商売』の時代にもあった。秋山小兵衛は、おはるに漕がせた小舟を、この稲荷の前の茶店に預けるのがいつものやり方であった。

_360
(本多組の巡視順路 新大橋付近 近江屋板)

万年橋を渡り、幕府の籾蔵(もみぐら)の前から大川に架かっているのが新大橋。その北はずっと旗本の屋敷がつづく。
馬を並べている本多采女(うねめ)紀品(のりただ 49歳 2000石)が話しかけた。
銕三郎どの。今夜はあと、なにごとも起きそうにない。遅くなっては母ごが案じられよう。新大橋からお帰りになってはいかが?」
「えっ? あ、お願いでございます。両国橋までお供させていただくわけには参りませぬか?」
「当方は、一向にかまわぬ」
「若侍の桑島も従っております。母上はなにも心配してはおりませぬ」
「けなげなことよ、のう。銕三郎どのの意のままになされい」

事件は、その先の、舟蔵南端の向いの辻番所で起きた。
いや、起きたと言っては言いすぎかもしれない。
しかし、銕三郎が新大橋から帰っていたら、起きなかったはずである。

その辻番所は、舟蔵前の幕臣数軒が話し合って設けているものだが、火盗改メが巡行しているというのに、表の戸を閉め切っていたのだ。
本多組の小者が戸を叩いて、
「火盗改メ・加役(かやく 助役 すけやくの別称)・本多さまのご巡察である。戸をあけられよ」
中から、しぶしぶ、戸があけられた。
本多紀品が馬上から睨みつける。
40がらみの辻番人は、ようやく頭をさげた。

銕三郎は、本多組頭の左手にいたので、辻番人のほうは見ていなかったが、口取をしていた藤六(とうろく 45歳)が銕三郎の袴を引いて、声をださないで口を開閉した。
腰を折って近づけると、かすかな声で、
「若。辻番人をご覧なさいませ。江ノ島の宿で見かけた男に似ております」
「む。弥兵衛にか---」
藤六がうなずく。
銕三郎は、紀品の肩ごしにそっと見たが、辻番人は、番所の中の灯火を背にしているので、顔は暗くてよくわからない。
江ノ島では、本多紀品の名を公けにしているから、こちらの顔を見せてはいけないとおもったために、よけいに確かめられない。
(ま、確かめる手立てはいくらもあろう。ここは、そ知らぬ体(てい)でいたほうがよかろう)
藤六にも、そのように伝えた。

一行は、そのまま、一ッ目の橋へ向かう。

_120【ちゅうすけ注】武家屋敷の辻番所は、昼夜を問わず表の戸をあけておくこと、という触書(ふれがき)は、宝暦13年(1763)のこの時よりも100年も前の寛文10年(1670)から出ているし、その後もしばしば触れられている。もっとも近いのは4年後の明和4年(1767)の触れ。いくら禁止されても寒い季節には、深夜はやはり、表戸を立てたいのが人情というもの。
また、辻番人として無宿悪党がもぐりこんでいることがままあるから---という触れも出ている。手元にあるのは、安永7年(1778)の禁止令。
長谷川平蔵にからんだこの種の史実としては、2006年5月20日[過去は問わない]に公開している。

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銕三郎(てつさぶろう) 初手柄(2)

夜廻りの一行が千鳥橋を北へ渡ると、堀川町の自身番屋の町(ちょう)役人が、
「組頭(くみがしら)さま、はじめ、ご一統の皆さま。冷えます中のお見廻り、ご足労に存じます。お口よごしを用意いたしております。どうぞ、お休みになってくださいまし」
燗をした白酒の湯呑みをみんなに配った。

「これは、甘露」
「おお。躰が温まる」
「もう一杯、所望してもいいかな?」
同心も小者も、口々に礼をいっては、賞味している。

火盗改メ・助役(すけやく)のお頭・本多采女(うねめ)紀品(のりただ 49歳)も、下馬して湯呑みを手にした。
銕三郎(てつさぶろう 18歳)も、ならった。

本多さま。お訊きしてもよろしゅうございますか?」
「む?」
「火盗改メの本(定)役と、助役の巡廻区分は、どのようにきまっているのでしょう?」
「そのことか。はっきりした区分けは、まだ、決まってはおらぬ。本役・讃岐守どのの組の筆頭与力と、わが組の筆頭与力が合議して、おおまかに内定しているだけで、な」

【ちゅうきゅう注】松平太郎さん『江戸時代制度の研究』 (1) にある---



日本橋以北・以南に分けて巡邏地域の分担を定めた。

以北---神田、浜町、矢の倉、浅草、下谷、本郷、駒込、巣鴨、大塚、雑司ヶ谷、大久保とその近辺は本役の組の担当。

以南---通町筋、八丁堀、鉄砲洲、築地、芝、三田、目黒、麻布、赤坂、青山、渋谷、麹町、深川、本所、番町とその近辺は助役の組の担当。

神田橋外、一ツ橋外、昌平橋外、上野、桜田用屋敷、書替所、御厩2カ所と溜池などの定火消屋敷のあるところは定火消にまかせることとなった。


---は、この夜の巡回から2年後の安永2年11月。火盗改メの本役・横田越前守忠晶(ただあきら 37歳 先手・弓の2番手組頭 1400石)と、助役・庄田小左衛門安久(やすひさ 41歳 先手・弓の3番手組頭 2600石)が検討の上の結論を公儀へ上申、了解を取り付けたものである。

ちなみに、横田忠晶の先手・弓の第2組は、その15年後に、長谷川平蔵宣以=小説の鬼平が組頭に着任、あしかけ8年、火盗改メとして功績をあげた組である。

「さて、人ごこちがついたところで、あと一ト奮張りだ」
与力が声をかけた。

_360_2
(本多組の深川巡行の順路は点々。池波さん愛用の近江屋板)

一行は、横油堀にそった岸道を、西永代町、今川町と過ぎ、仙台堀に突きあたり、向こう岸に黒々と静まっている仙台藩の蔵屋敷を見ながら左折した。
堀の水面(みずも)に、中天の半欠けの月が映ってゆれている。

【ちゅうきゅう注】『鬼平犯科帳』巻1[唖の十蔵]で、小野十蔵が生まれて初めてこころと躰を通じあわせたおんな---おふさが〔野槌(のづち)〕の弥平一味に殺され、浮かんでいたのがこの堀である。

西行する。仙台堀の川口が大川へつながったところに架かっているのが、上(かみ)ノ橋。

【ちゅうすけ注】『鬼平犯科帳』巻6[のっそり医者]の萩原宗順が、襲われて、この橋の欄干を越えて大川へ逃(のが)れた。

上ノ橋を過ぎ、仙台藩の蔵屋敷の黒門を右にみながらさらに北へ行くと、清住町。ここに店を構えている藍玉問屋・〔大坂屋新助方の借家を借りていて病み、試合敵(がたき)の剣客・石坂(いしざか)太四郎に斬殺されたのが、同心・沢田小平次の剣の師・松尾喜兵衛先生であることを、この夜の巡視に供をした銕三郎は、予想していたかどうか。

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2008.02.20

銕三郎(てつさぶろう)、初手柄

出かける銕三郎(てつさぶろう 18歳 家督後の平蔵宣以 のぶため)と若侍・桑島友之助(とものすけ 30歳)に、母の(たえ 38歳)が、
「まだまだ、夜が更(ふ)けると寒さがきびしくなろうほどに---」
と、綿を薄く入れて刺し子をした袖なし半纏(はんてん)のようなものを着物の下にまとわせた。

銕三郎は左藤巴の家紋をつけた陣笠をかぶり、野袴すがたで乗馬した。口取りは、下僕・藤六(とうろく 45歳)である。

指定された永代橋東詰までは、築地の長谷川邸から8丁ばかりで、小半刻(30分)の半分もかからない。

橋の東詰・佐賀町には、本多組の羽織を着た同心と小者が待っていて、挨拶した。
加藤半之丞(はんのじょう)です。ご足労です」
「長谷川銕三郎です。これは、わが家の若侍・桑島です。よろしくお引きまわしのほど、お願い申します」

組頭が火盗改メに任命されると、組頭は組下全員に揃い柄を染めたの羽織を支給する。
今夜のような公式の巡回には、それを着るしきたりになっている。
ふだんの密行のばあいは、着流しである。

_100待つ間もなく、本多采女(うねめ)紀品(のりただ 49歳 火盗改メ助役 2000石)が、与力(騎乗)1騎、徒歩の同心5名と、それぞれに丸の内左離立葵(ひだりばなれ・たちあおい)の本多家の家紋を描いた高張提灯を持った小者数人を従えて現われた。
(テレビの『鬼平犯科帳』で「火盗」と書いているのは、テレビ用である。史実は、組頭の表の家紋を描いている)。
_100_3本多一門の家紋は、右離立葵(みぎばなれ・たちあおい)で、茎の右側が縦に割れているのだが、本多紀品のところだけが異をとなえ、縦線は左側に入っている。

銕三郎どの。やはり、参られましたな。お待たせしたかな?」
「いいえ。お誘い、ありがとうございました。しっかり見習わせていただきます」
「だれか、本多組の羽織を長谷川どのに---」

「では、巡廻に出発いたすとしようか」
2騎は、並んで、佐賀町を大川ぞいに北行、油堀川に架かる下(しも)ノ橋の手前を右折、千鳥橋へ向かう。

_360
深川・北本所の見回りコース(1)

『鬼平犯科帳』巻5[深川・千鳥橋]で、三代目〔鈴鹿(すずか〕の弥平次に騙されてあやうく殺されそうになった〔間取り(まどり)〕の万蔵を、〔大滝(おおたき)〕の五郎蔵との約束を守って、鬼平が放免し、五郎蔵が号泣して鬼平に信服するのが、この橋ぎわであることは、ファンなら百もご承知)。

四ッ(午後10時)近いにもかかわらず、火盗改メから事前にお頭の巡行が告げられているのであろう、それぞれの町ごとの自身番所では、町名を記した腰高障子の前で、町(ちょう)役人と書役(しょやく)が迎えて、ふかぶかとお辞儀をする。
「ご苦労」
本多紀品が声をかけ、同心のひとりが、
「変わりはないな」
「はい。変わりはございません」

どこの自身番所でも、儀式のように繰り返される。
(これでは、見廻りもなにもあったものではないな)
銕三郎は、張り詰めていた気合いが薄らぐ思いであった。

それを察したかのように、本多紀品が言う。
「馬鹿々々しい儀式とお思いであろうが、こうすることで、町役人たちの気が引き締まるとともに、町内の自警の気構えも違ってくるのですよ」

与力が、躰を傾けた紀品へ耳打ちする。
「このあたりは、商家の倉が多いゆえ、盗賊たちが狙うのだと。ほかにも、堀の名にもなっているように、舟行きを便利している油問屋が多く、裕福でもある」
「油も狙われるのですか?」
「毎日の生活(たつき)に欠かせない品だが、米ほど重くはなくて、いい値で換金できるために、舟でしかけてくる」
「なるほど。盗賊たちの猟場というわけですね」
銕三郎は、いちいち、納得がいった。
(これは、仕置(しおき 政事 まつりごと)の勉強にもなる)


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2008.02.19

本多采女紀品(のりただ)(8)

「いたく、心得になりました。ありがとうございました」
式台のところで、父・宣雄(のぶお 45歳)が謝辞を述べる。
屋敷の主・本多采女(うねめ)紀品(のりただ 49歳 2000石)は、
「それはともかく、近く、芝ニ葉町のご隠居を慰問しましょうぞ」
「けっこうですな」
ご隠居とは、駿州・益津(ますづ)郡田中藩の前藩主・本多伯耆(ほうき)守正珍(ただよし 55歳)のことである。4年前に老中を罷免され、そのまま隠居している。

銕三郎(てつさぶろう)どの。今宵の巡視は深川から北本所だが、見習いがてら相伴(しょうばん)してみないかな?」
父をうかがうと、かすかに肯首があった。
「はい。喜んでお供いたします」
「では、四ッ(午後10時)少々前に、永代橋の東詰で待たれよ。馬でよろしい」

帰り道、人気がまったく絶(た)えている桜田濠端(ほりばた)で、先導している若侍・桑島友之助(とものすけ 30歳)が言った。
「若。今夜の見廻り、友之助がお供いたします」
「父上。よろしいのですか?」
「明日も非番ゆえ、登城はない。心配無用」

「それにしても、本多さまのお屋敷は、番町の番方々の中でも、一段と広いですね。納戸町の正脩(まさなり)叔父の屋敷とどっちがどっちというほど---」
「これ、銕(てつ)。屋敷の広さのこと、家禄の高低のこと、刀剣の優劣のことは、こちらから先に口にしてはならぬ」
「しかし、父上。わが家に火盗改メのご下命がありました場合---」
「よせ。まだ、先手の組頭(くみがしら)も拝命しておらぬ。火盗考察の任は、先手の組頭に下される」
宣雄が先手組頭の栄進したのは、この時から2年後の、明和2年(1765)、47歳の時)。
納戸町の正脩とは、長谷川一門の中では、本家の1450余石を大きく上回る4070余石を給されている最も近い親戚筋、2家の一つである。

「本多紀品さまはご養子だそうですが、ご実家は、信州・飯山藩(2万5000石)のご家中とか」
桑島。どこから、そのようなことを---?」
「お待ち申しています間に、さき様の用人どのから、聞きました。用人どのは35年前に、ご実家から、当時14歳だった紀品さまについて本多家へお入りになり、先の用人に不祥事があったために昇格になったとか」
「これ、よそ様の内情を、めったなことで口にしてはならぬ」

これ以後、帰宅するまでも宣雄は、深い考えに没入してしまった。
屋敷の広さを思案していたのだろうか。

ところで、宣雄に口どめされてしまったのでは、話がすすまない。
代わって、ちゅうすけが記すよりほかなさそうだ。

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(本多采女紀品の個人譜)

本多采女紀品は、個人譜にあるとおり、信濃国飯山藩主・本多豊後守助盈(すけみつ)の家臣・本多弥五兵衛紀武(のりたけ)の子息である。
家臣といっても、藩主の一族で、江戸詰の重職---留守居役あたりであったことは、母の項を見るとわかる。
母なる女(ひと)は、石見国鹿足(かのあし)郡津和野藩主・亀井隠岐守矩貞(のりさだ 4万石)の家臣・阿曾沼五郎右衛門亮正(すけまさ)のむすめとある。
飯山藩士と津和野藩士が嫁のやりとりをするとなると、江戸詰か京詰の留守居役同士と考えるのが自然であろう。情報交換と称して、藩につけて、しばしば飲食を共にできる。
しかも、父・本多弥五兵衛紀武には、藩主の名に多い「」の字がふられている。一族か、それに近い家臣との想像がつく。

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(本多紀品から50年ほど後の『文化武鑑』の飯山藩主)

時代は違うが、手元の『文化武鑑』(柏書房 1981.9.25)で飯山藩の20人の要職のリストを改めると、うち8人が藩主と同じ本多姓である。こんな高比率の藩はきわめて稀である。

機会があったら、飯山市の教育委員会か郷土史家の方に問い合わせて、本多弥五兵衛紀武の藩での地位をご教示願おうと考えているのだが。
飯山市の鬼平ファンの方のご教示だと、もっと嬉しい。

【付記】区図書館に、『大武鑑l』があったので、もっとも近い享保3年(1718)を見た。この年、本多紀品は4歳。

飯山藩の重職に、本多弥五右衛門の名は、やっぱり、あった!

L_360
(飯山藩にいた本多弥五兵衛 『大武鑑l』享保3年分)

津和野藩の重職欄に、阿曾沼五郎右衛門の名はなかった。この人の江戸留守居については再考の余地がありそうである。

L_350
(津和野藩 『大武鑑l』享保3年分)

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2008.02.18

本多采女紀品(のりただ)(7)

「夜のご巡視を控えておられますのに、ご厚意に甘えて、とんだ長居をいたしました」
先手・鉄砲(つつ)の16番手の組頭(くみがしら)・本多采女(うねめ)紀品(のりただ 49歳)の書院で、長谷川平蔵宣雄(のぶお 45歳)が言った。
もちろん、小十人の組頭時代は先輩後輩の仲だし、気があった者同士だから、言葉ほどには恐縮してはいない。
季節は、宝暦(ほうりゃく)13年(1763)2月下旬。桜花もそろそろ終わるころあい。

「なに、夜廻りは五ッ半(午後9時)からでござる。それより、長谷川どのもいずれ、火盗改メを仰せつけられよう。この機会に、白洲や仮牢など、ご覧になっておかれますかな?」
先刻から、当直の与力・同心たちが、客を気にしいしい、打ち合わせのために、本多紀品のところへ出入りしているのを、宣雄の息・銕三郎(てつさぶろう)宣以(のぶため 18歳)が興味津々の体(てい)で見ているのを察して、すすめた。
案の条、父・宣雄よりも先に、銕三郎が応じる。
本多さま。ぜひぜひ---」

紀品は、そんな銕三郎を微笑みの目で見やりながら、与力の一人を呼んで、案内をするようにいいつけた。

「こちらがお白洲です」
内庭にしつらえられた、幅1間半(2m70cm)、長さ2間半(4m50cm)ほど、平らな三和土(たたき)になっている。
「白砂が撒かれているのかと思っておりました」
銕三郎
「三和土の時に混ぜる石灰が白いので、白洲というのでしょうか。火盗改メの白洲の大きさはこの程度ですが、町方(まちかた)の奉行所の白洲は、この3倍ほどもあります。われわれ火盗改メは、なにごとにつけても仮ですから---」
案内してくれている30がらみの背の高い与力の説明には、いささかも自嘲の口ぶりはない。
火盗改メの役宅の設備が、万事、小規模なところを、世間が称して、「町奉行は桧舞台、火盗はおででこ芝居」と揶揄(やゆ)していた。
「おででこ芝居」とは、神社などに仮がけの小屋をつくってやる旅廻りの芝居である。そう書いたのは、江戸の諸事に詳しかった三田村鳶魚(えんぎょ)翁である。
池波さんは『鬼平犯科帳』で、それを「町奉行は桧舞台、盗賊改メは乞食芝居」と改めた。このほうが、いまの読者には理解しやすいと判断したのだろう(文庫巻1[唖の十蔵]p13 新装版p13)。

(ぼくは、このことから、池波さんが三田村翁捕物の話』(早稲田大学出版部 昭和9年 のち中公文庫)から、長谷川平蔵を見つけたなと推察をつけた。
そうそう、『鬼平犯科帳』の、清水門外の役宅は、池波さんも、お頭の屋敷が役宅ということは承知の上でしつらえたもの)。

「白洲の向こうの塀の外に、証(あか)し人や町(ちょう)役人、身許引き受けの大家(おおや)などが控える腰掛が設けられています」

「これが仮牢です」
「2小間でたりるのでございますか?」
興味深々の銕三郎の問いである。
「ここには長くは置かないのです。2,3日で伝馬町の牢へ預けます。吟味の時に伝馬町からここへ連れてきます」
「伝馬町から、この番町まででございますか?」
「そうです。牢へ入れている者の食事の代(しろ)は、お上からは出ないで、お頭の懐から出るのです。ここへ永く入牢させておくと、それだけお頭の負担が増します。また、入牢者が多いと、牢番も増やさなければなりませぬ。牢番の手当てもお上はみてはくださらないのです」

「ここが、捕り物に使う刺股(さすまた)や分銅つきの投げ縄などを置いている武具小屋です」
「火盗改メのお役目が解かれたあと、これらの武具はどうなさるのでしょう?」
と、宣雄。
「次にお役におつきになる組へお譲りします。これらも前任の組から譲られたものです、仮牢も組み立て式になっているために移設が可能なのです。」
「順繰りにまわしていけるのはいいですな。で、一式、いかほどでしょう?」
「お人とお人の相対(あいたい)で決まるようです。手前は勘定方でないので立ち会ってはおりませぬすが、うちのお頭の場合は300両前後だったような、噂です」
「300両---」
「火盗改メしか使い道がないものなのに---です。このほか、白洲や内庭の塀、腰掛の仕切りなどは移転できませぬから、別に費用がかかります。さらに、うちのお頭のように、1300坪もの屋敷を拝領されていれば、どんな造作もこなせますが、500坪ほどの敷地のお方は、武具小屋などは、隣の屋敷の裏庭の一部をお借りになるようで、そのお礼もばかにならないと聞いております」
「500坪では---無理ですか」
いまは、500坪にちょっと足りない屋敷に住んでいる宣雄の溜息である。
「一番の難題は、拷問小屋です。家族の者には悲鳴は聞かせたくはないでしょうが、お上からは見せしめのために、なるべく屋敷の外までとどくように、と申し渡されているのです」

【参考】2006年6月12日[現代語訳・松平太郎著『江戸時代制度の研究』火附盗賊改 (1) (2) (3)

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2008.02.17

本多采女紀品(のりただ)(6)

「本多さま。じつは---」
と、銕三郎(てつさぶろう宣以(のぶため 家督後の平蔵=小説の鬼平)は、江ノ島の旅籠〔三崎屋〕の大部屋での朝飯のときに、すり寄ってきて、弥兵衛と名のった、一と癖もニた癖もありげな男のことを打ちあけた。

「齢は40がらみで、でっぷりと肥えて、脂ぎった赤らがお。鼻のあたまがとりわけ赤黒く、大きな黒い毛穴が目立ちました。左の眉毛の先が剃刀ででもそいだように切れておりました。声が齢の割りにしてはかん高いのが耳ざわりでした。背丈は5尺2寸(1m56cm)見当---といったところでしょうか」
「通り名かなにか、言わなかったかな?」
「申しわけございません。名のりかけたのを、拙が遮ってしまいました。聞くとかかわりができそうに思いましたもので---」

聞き取った本多采女(うねめ)紀品(のりただ 49歳)は、先手・鉄砲(つつ)の16番手組頭で、火盗改メの助役(すけやく)を拝命している。
銕三郎どののせっかくの人相こころ覚えだが、じつは、火盗改メが人相書をつくって残しておくのは、火付けの上に盗みをした盗賊ぐらいでな。もちろん、組にもよろうが---」
そういって本多紀品は、いま、火盗改メに任じられている3組の先手組の人員を明かしてくれた。

本役 本多讃岐守忠昌 屋敷・牛込山伏町
 先手・弓の8番手 与力10人・同心30人
    組屋敷 市ヶ谷本村町
【参考】個人譜は、2008年2月12日[本多采女紀品](4)

助役 本多采女正品 屋敷・表六番町  
 先手・鉄砲の16番手 与力10人・同心40人
    組屋敷 小日向切支丹屋敷
【参考】個人譜は、2008年1月23日[与詩を迎えに](33)

増役 篠山靱負佐忠省 屋敷・神田橋門外
 先手・弓の5番手 与力5人・同心30人
    組屋敷 四谷本村町
【参考】個人譜は、2008年2月11日[本多采女紀品](3)

_360_5
(四谷門外 先手・弓 緑○=5番手 青○=8番手組屋敷)

_360_6
(小日向 先手・鉄砲 赤○=16番手組屋敷 両地図とも尾張屋板)

先手組の構成員は、基本は与力10人、同心30人だが、組によって増減がある。
組頭は、小十人組の頭(かしら)、徒(かち)の頭、目付、使番、書院番や小姓組の与(組 くみ)頭などから指名される。
弓組10組。
鉄砲組20組。
西丸鉄砲組4組---幕府後半期の構成である。
この頭(かしら)の中から、火付盗賊考察---通称・火盗改メが選ばれる。
年間を通しての本(定)役の場合は、申請すれば同心の臨時補充もあるが、短期の助役(すけやく)や増役(ましやく)には、それはない。
助役は秋に任命され、晩春に解かれる。冬場に多い火事対策である。
増役は、適宜、

組の全員が火付けや盗賊の逮捕に当たるわけではない。、
若年寄への報告書や町奉行所への写しなどの書類仕事にほとんどの手をとられていて、捜査・逮捕に向けられる人員は、定員の3割ほど。
それでいて、24時間体制だから、とにかく忙しい。
人相こころ覚えなど、どの組もほとんどつくっていないのではなかろうか。

「ま、町奉行所へとどけた写しを、運がよければ、あちらで保管しているやもしれないが---」
本多紀品が気の毒そうにいうと、父・平蔵宣雄が引きとって、
「その、弥兵衛とやら---疑わしいだけで、盗賊という確かな証(あか)しがあるわけではないのだから、お忙しい本多さまのお手をわずらせしてはならない」
そう、銕三郎に釘をさした。

【ちゃうすけ注:】火盗改メは、頭(かしら)の自宅が役宅となる。それで、3人の頭の屋敷を書き添えておいた。
役宅に備えられる白洲、仮牢や捕物具の置き場所なとについては、また改めて。
 
     

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2008.02.16

本多采女紀品(のりただ)(5)

「そこでじゃ、銕三郎(てつさぶろう 家督後の平蔵宣以 のぶため=小説の鬼平)どのが先刻に話した、小田原城下の、薬舗---ほれ、なんとかいいましたな---」
「〔ういろう〕です。外郎とかいう、唐土の官職だそうで---」

先手・鉄砲(つつ)の16番手の頭(かしら)・本多采女(うねめ)紀品(のりただ 49歳 2000石)の、番町・表六番丁の屋敷である。
銕三郎は、父・平蔵宣雄(のぶお 45歳 小十人組の頭)に連れられて訪問している。

というのも、東海道・平塚の宿はずれ、馬入(ばにゅう)の顔役に、つい、火盗改メ・本多紀品の相談役と大見得をきってしまったので、その無断詐称(さしょう)の謝罪にうかがっているのである。

「その薬舗〔ういろう〕の盗難にかかわりがありそうな、京の---」
「〔荒神(こうじん)屋〕の助太郎です」
「そう、その者のこと、京都町奉行所へ連絡(つな)いで、更(あらた)めさせるとして、はて、荒神口は、東と西のどちらの支配か?」
京都町奉行所は、東と西の2ヶ所ある(このときから8年後に、宣雄が赴任するのは、西町奉行としてである)。

このとき(宝暦13年 1763)の東町奉行は、小林伊予守春郷(はるさと 67歳 在職10年 400石。ただし京都町奉行の役高=1500石)。
西町奉行は、松前隼人順広(としひろ 36歳 在職7年 1500石)。

本多紀品は、行ったこともない京都の地図を、なんとか描こうと考えこんでしまった。
「うーむ」

宣雄が助け船を出した。
本多どの。所司代へ申されて、どちらへ申しつけるか、お任せになっては?」
「よいところへお気がつかれた。いまの所司代は、阿部伊予守正右(まさすけ 39歳 備後・福山藩主 10万石)侯でしたな」
「はい。3年前から---」

【参考】阿部伊予守正右については、2007年8月12日[徳川将軍政治権力の研究] (1) (2) (3) (4) (5) (6) (7) (8) (9) (10)   (11)
(阿部伊予守正右の個人譜は、上の(5) )

京都所司代は、譜代の大名が、奏者番(そうじゃばん)、寺社奉行を経て就く、若年寄なり老中へ手がとどく要職である。
本多紀品とすれば、その所司代へ書簡を送ることにより、名前が覚えてもらえるという利点がある。

銕三郎は、自分の発見が、こうして本多紀品の出世の手がかりの一つと化していくのを、目(ま)のあたりにして、さきざきの勤仕の要諦をかいま見た思いにとらわれた。

「本多さま。それで、小田原藩のほうは、いかがなりましょう?」
「おお、それもあったな。どうであろう、小田原侯の大久保大蔵大輔忠興(ただおき 51歳 11万3000石)侯の町奉行へは、大久保よしみで、笹本靱負佐(かなえのすけ)忠省(ただみ)どのから連絡(つなぐ)ということにいたしては? この案でいかが? 長谷川どの?」
「よろしいでしょう。では、笹本どのへは、本多どのから---」
「いや。これは、銕三郎どのお手柄ゆえ、銕三郎どののところへ、笹本どのの組(先手・弓の5番手)の与力なり、同心筆頭がうかがうように、申しつたえます。よろしいな、銕三郎どの?」
「はい」

銕三郎は、また一つ、学んだ。手柄は、手柄を立てた者につけてやることを。
もっとも、一番おいしいところは、本多紀品が巧みにくわえてしまったが。

【参考】笹本靱負佐忠省の大久保家つながりの詳細は、200年2月11日[本多采女紀品(のりただ)](3)

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2008.02.15

ちゅうすけのひとり言(8)

紀伊藩主・吉宗(よしむね 33歳)が将軍職を継いだとき、従って江戸城へ入り、ご家人の身分を得、その後、しかるべき家禄を付された藩士たちの、あれこれを調べている。
というのも、田沼意次(おきつぐ)がらみであることは、2008年2月13日[ちゅうすけのひとり言]で述べた。

4歳で七代将軍職についた家継(いえつぐ 8歳)は、正徳6年(1716)の4月のなかばから病床にあった。

4年前の正徳2年(1712)10月、自分の死を悟った前将軍・家宣(いえのぶ 51歳)は、3家の当主---尾張の吉通(よしみち 24歳)、紀伊の吉宗(29歳)、水戸の綱条(つなえだ 57歳)に、家継の後見をくれぐれも頼んでいた。

正徳6年4月30日。吉宗が紀州藩の中屋敷(現・赤坂迎賓館)で弓を射ていると、江戸城から急ぎの呼び出しがかかった。
登城してほどなく、家継の喪がつげられ、天英院(落飾した家宣夫人・近衛家出)から、将軍職を継ぐようにとの要請を受けた。
吉宗は、家格からいえば尾張の現当主・継友(つぐとも 25歳 故・吉道の弟)、年配なら綱条(61歳)と再三辞退したと、『徳川実紀』の有徳院(吉宗)付録は記している。三顧の礼---逆にいうと、二度固辞してから受けるところがいかにも日本的といえる。
(三顧の礼をつくすとは、劉玄徳がその住まいに三度通って諸葛亮孔明を慫慂した故事による)
天英院は退(ひ)かず、「天下万民のため」と、口説いた。ついに吉宗は承諾したとある。
『実紀』はさらに言う。吉宗は、夕刻、そのまま、供奉(ぐぶ)の藩士たちとともにニの丸へ入り、ふたたび藩邸へ戻ることはなかったと。

そのことを記した『実記』の文章は、興味深い。

(家継が死去し)尾張・水戸の両殿は退出したのに、紀伊殿はとどまられると告げられ、控え室で待っていた供の者たちは拝伏して聞いたが、理由がわからない。おのおの、不審顔を見合わせるのみ。
やがて、また出てきた目付の者が「紀伊殿の乗り物、長刀、などすべての調度をこちらへお渡しあれ」と言ったが、紀州の藩士たちは、理由を説明されないので従わなかった。
そこへ、お供をしてきていた小姓・内藤一郎大夫が奥から出てきて、「殿の仰せである。速やかに本城の方々へ渡せ」と声高に言ったので、ようやくそれに従った。
そうしているうちに、日も暮れてきたので、灯火に導かれてみな本城へ上り、厨前をふるまわれた。
吉宗がニの丸へ入るというので、こんどは、輿を玄関へ乗りいれ、本城の役人たちの先導でニの丸へ向かった。
その夜は、供の者たち全員が吉宗を護衛して夜をあかした。
次の日になって、有章院(家継)殿が薨じられたので、公を上様と称し奉るようにと触れがでた。

深井雅海さん『江戸城御庭番』(中公新書 1992.4.25)は、こう書いている。
○正徳六年四月晦日----七代将軍家継死去。吉宗、家宣の遺命により、江戸城ニの丸に入る。紀州藩年寄小笠原主膳胤次(たねつぐ 60歳)・御用役兼番頭有馬四郎右衛門氏倫(うじのり 48歳)・同加納角兵衛久通(ひさみち 32歳)をはじめ紀州藩士九十六名が供奉する。

【参考】有馬四郎右衛門氏倫の個人譜 2007年8月18日[徳川将軍政治権力の研究](4)

上記の、氏名が記されていない93名の中に田沼意次(おきつぐ)の父・専右衛門意行(もとゆき)が入っていたかどうかは不明だが、『寛政譜』はこう書いている。

有徳院(吉宗)殿に仕へたてまつり、享保元年(正徳6年 1716 が改元)本城にいらせたまふのとき御供の列にありて御家人に加へられ---

どちらともとれる文章ではある。

この重役3人にしても、供奉した93人にしても、たまたま江戸詰だつたために幕臣になりえたともいえるが、子孫にとってみれば、幕臣になって江戸に根づき、故郷を失ったことがよかったかどうか。運なんてものは、長い目でみると、どうとも決着しかねる。
(長谷川平蔵の子孫の行方がいまだに不詳なのも、人生の不可思議な様相といえるかなぁ)。

吉宗の親衛隊ともなる紀州藩からのあとの選抜は、小笠原有馬加納の3重役で行われたと推量されている。
このほか、吉宗の長子・長福(のちの将軍・家重)が西丸へ入った8月4日に従った紀伊藩士42名もご家人となった。
享保3年(1718)5月1日。吉宗の生母・浄円院が和歌山から江戸城西丸へ移ったときに供奉してきた藩士23名も幕臣として遇されている(『江戸城御庭番』)。

小笠原有馬加納の3名は、吉宗の御側となるが、小笠原胤次は2年後に62歳で卒したので家禄は4500石どまり。有馬