南本所・三ッ目へ(7)
「平賀さま。発明というのは、どのようにして成るものでありましょう? われわれ凡人には、とうてい及びもつきませぬが---」
銕三郎(てつさぶろう 20歳 家督後の平蔵宣以 のぶため)が、平賀源内(げんない 39歳)が示した火浣布(かかんぷ)から、視線を当人へ移して、おめずに訊いた。
田沼主殿頭意次(おきつぐ 46歳)の木挽町の中屋敷である。
銕三郎どのも共に参られよ---と意次に言われて、父・平蔵宣雄(のぶお 46歳 小十人組頭)は恐縮しながら、連れてきている。
ほかには、本多采女(うねめ)紀品(のりただ 50歳 先手・鉄砲の16番手組頭 2000石)と佐野与八郎政親(まさちか 33歳 使番 1100石)である。政親は、西丸の小姓組から、去年の年初に使番に栄進している。
意次は、この3人が、前(さき)に老中を罷免された本多伯耆守正珍(まさよし 53歳 駿州・田中藩の元藩主 4万石)のところへ出入りしているのを知っていて、彼らの才幹をかって、目をかけている。
「発明ですか。そう、最初にどういいうものをつくりたいのか、想いえがくのです」
「火浣布のばあいは、どういうことを想いえがかれましたか?」
「ここの殿の思惑を---ですな」
「おいおい、紙鳶堂(しえんどう 源内の別称)。純真な若者に、妙なことを吹きこむでない」
それまでにこにこして源内の自慢話を聞いていた田沼意次が、盃を置いて、口をはさんだ。
「いえ。ほんとうのことを話しているのです。殿はつねづね、長崎の貿易の、出るをふやして、入るを減じたいと、愚痴(ぐち)をこぼしておられましょう。入るものの中に、天竺(てんじく インド)からの鹿の皮があります。銕三郎どの。鹿の皮をなにに使っているかご存じかな?」
「いえ---」
「火消しの法被(はっぴ)です。日本中の藩が定火消(じょうひけし)に着せているから、その量は莫大なものです。薬効の高い朝鮮人参も、出費の大きい貿易品です。だから、ここの殿は、それをこの国での栽培をお進めになった。この源内も、殿の世話になってばかりではこころ苦しい。鹿の皮に代わるものを発明すれば、いささかなりと、殿の悩みが薄らごうかと---」

(町火消の重衣装・部分 『風俗画報』明治31年12月25日号)
「紙鳶堂(しえんどう。そのように恩着せがせましく言わずとも、酒はふるまうぞ」
意次が、新しい酒を召使に催促した。
「源内さま。火気をふせぐ鹿の皮を想い描いた、その次は?」
「そうであった、発明でしたな。想い描いたら、それにかかわりのありそうな文書をさがします」
「火浣布のばあいは?」
「かの国の、『述異記』という文書に記述がありましての。まあ、その内容は置くとして、そういったものを参考にしながら、いろいろと試していくのだが、もっとも肝心なのは、試したことをすべてこころ覚えに書き残すことです」
「こころ覚えを、書き残す?」
「そう。書き残していくことで、試しごとの順序が立つものです。やみくもに試していっても、万に一つはあたることもありましょうが、九千九百九十九はむだ弾です。人間、九千度(たび)試したところで寿命がつきるやも知れない」
「そうですか。発明の成る人と成らぬ人との違いは、試したことのこころ覚えを書き残すかどうかですか。きっと、こころに留め置きます」
「銕三郎どの。火浣布の試作はできました。なれど、困難は、これからです。これを実際につくるのには、手当て金も要(い)りますし、大量に安く織るための織機も考案しないとなりませぬ」
「そう、安くじゃぞ、紙鳶堂。鹿の皮の半値でできないと、長崎での出金(しゅっきん)も減らぬし、国中にも弘まらぬ」


(定火消役など提灯合印 『風俗画報』明治32年2月25日号)
しばらくして、意次が宣雄に言った。
「長谷川どの。何か、思案のつかぬことでもおありかな。この主殿(とのも)でできることかな?」
「恐れいります」
「遠慮は無用じゃ。言ってごらんなされ」
「じつは、阿波守さまのご用人どのとのご縁を探しております」
「松平阿波どの?」
「手前どもの鉄砲洲の拝領屋敷は、阿波守さまの南八丁堀のお中屋敷と接しております。それで、阿波守さまのいずれかのお下屋敷と相対で換えられないかとおもっておりまして、手ずるをと---」
「造作もないこと。在府の用人どのは、たしか、五島どのとか申された。よろしい、うちの用人・三浦庄司(しょうじ)に口をきかせましょう」
「かじけないことでございます」













幕府が大名屋敷や幕臣に通達している辻番所についての注意事項を見ると、昼夜ともに表戸を開けておくようにとのきまりのほかに、番人は4人から6人を詰めさせておくこととか、不寝番をかならず立てろとか、番人は60歳以下20歳以上の男性であることとか、番所に女や病人を入れてはならないとか、いろいろと細かく定めている。

【ちゅうすけ注】武家屋敷の辻番所は、昼夜を問わず表の戸をあけておくこと、という触書(ふれがき)は、宝暦13年(1763)のこの時よりも100年も前の寛文10年(1670)から出ているし、その後もしばしば触れられている。もっとも近いのは4年後の明和4年(1767)の触れ。いくら禁止されても寒い季節には、深夜はやはり、表戸を立てたいのが人情というもの。
待つ間もなく、本多采女(うねめ)紀品(のりただ 49歳 火盗改メ助役 2000石)が、与力(騎乗)1騎、徒歩の同心5名と、それぞれに丸の内左離立葵(ひだりばなれ・たちあおい)の本多家の家紋を描いた高張提灯を持った小者数人を従えて現われた。
本多一門の家紋は、右離立葵(みぎばなれ・たちあおい)で、茎の右側が縦に割れているのだが、本多紀品のところだけが異をとなえ、縦線は左側に入っている。





