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2008年1月の記事

2008.01.31

与詩(よし)を迎えに(37)

大磯宿から平塚宿は、27丁(ほぼ3km)。
宿はずれの馬入村で、銕三郎(てつさぶろう 18歳 のちの平蔵宣以 のぶため)は、土地(ところ)の顔役である〔馬入(ばにゅう)〕の勘兵衛(かんべえ 35歳)と対面することになっている。

阿記(あき 21歳)が、姑(しゅうとめ)の嫁いびりがはげしいのに耐えかね、嫁家先---平塚宿・西中町で太物商いをしている〔越中屋〕との縁を切りたいと、箱根六湯の一つ---芦の湯村の実家へ逃げるようにして帰った。
その後を追って、夫・幸兵衛(こうべえ 25歳)が、脅し役の勘兵衛を雇って、阿記の実家・〔めうが屋〕へ乗り込んできた。
折りよく、駆けつけてきた、箱根山道の荷運び雲助の頭格の〔風速(かざはや)の権七(ごんしち 31歳)が仲に入り、阿記には、江戸の旗本の嫡男・長谷川銕三郎宣以という庇護者ができた---この仁は将来の大器だから、勘兵衛も辞を通じておいて損はない---いや、大いに得をもらえるはずだと口説いて、ことを納めた。

銕三郎の一行は、大磯宿の旅籠〔鴫立(しぎたつ)屋〕を六ッ半(7時)に発(た)った。
馬上の阿記は、昨夜、銕三郎に見せた熊野比丘尼の黒頭巾の下に半髪をかくしてその上から深めの網代笠をかぶり、同じような網代笠を頭にのせている与詩(よし 6歳)を、前に抱いている。

ここからが平塚宿---という西はずれの(古)花水川に架かった43間(77M余)の板橋をわたるころ、阿記は躰をこわばらせていたが、見上げる銕三郎のやさしげな目に、うなずくだけの余裕を、まだ保っていた。
橋のたもとに、勘兵衛の身内の者と一ト目でわかる若いのが立っていた。
それから1丁(109m)おきくらいに、こういう任務に馴れていないらしく、妙に肩をいからせたのが見張っている。

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(平塚宿 『東海道分間延絵図』部分 道中奉行製作
 左端が古花水川。家々の真ん中を東海道が東西に)

〔越中屋〕も、店はあけていたが、幸兵衛は店頭には出ていない。
今朝、阿記の一行が通ることを、〔馬入〕の勘兵衛は、さすがに漏らしてはいなかったとみえる。
一行は、店の前を、ふつうの旅人のような物腰で、通りすぎた。

八幡宮の大鳥居の前もすぎた。
この宮は、平塚新宿・八幡・馬入の3村の鎮守と、ものの本にある。

宮前から5丁ほどで、馬入川の渡舟場である。
銕三郎は、藤六(とうろく)をつけて、次の宿場の藤沢の本陣・〔蒔田屋〕源左衛門方で休んでいるようにと、阿記与詩の馬を先に行かせた。
藤六は、連夜、褥(しとね)をともにしてきた都茂(とも 〔めうが屋〕の女中頭)のお相手から解放された一夜をすごして、晴ればれしい顔をしている。

馬入川から藤沢宿までは3里12丁(14km)たらずである。

馬入渡舟場の手前の蓮光寺の西隣が、勘兵衛が妾にやらせている料理屋---会見場所の〔榎(えのき)屋〕である。
銕三郎権七は、阿記たちが向こう岸へ着いたのをみさだめてから、〔榎屋〕の入り口をくぐった。
朝なので、料理屋はしんとしている。
若いのが出てきて、奥へ案内した。部屋々々からは、しみついている酒の匂いが廊下までただよってくる。あまり呑まない銕三郎の鼻は鋭い。

部屋へ入ると、さすがである、勘兵衛は下座にいて、丁寧に頭をさげた。
権七が仲をとりもって、あいさつの交換がすむと、勘兵衛は、配下が捧げている徳利をとって、
「朝っぱらから、お近づきの盃というのもなんでごぜえますが---」
と冷酒を注いだ。
形だけ唇を湿らせた銕三郎は、盃洗をくぐらせた盃を返した。

儀式が終わると、
「ときに、〔榎屋〕のご亭主どの。使用人の中で、この数日のうちに、金遣いが大きくなった仁はいませぬか?」
勘兵衛が不審げな顔をすると、
小田原の〔ういろう〕の盗難のことを話して、遠国(おんごく)の盗賊の仕業(しわざ)と観じているが、すべての手兵を連れてきたとはおもえない。見張りの2、3人は、土地勘のある土地(ところ)の者に口をかけているかもしれない。
「おこころあたりは、ございませぬか?」
「さて、うちの者は、手なぐさみはしても、盗みの手先までにはならねえとおもいますが」
「ごもっとも。いかがでしょう? もし、ご亭主どののお耳に、いま申した、金遣いのあらくなった者の噂が入りしたら、江戸の火盗改メのお頭(かしら)・本多采女紀品(のりかず)どのの相談役---この長谷川銕三郎宣以の代理と申されて、代官所へお届けくださらないでしょうか?」
一瞬、沈黙した勘兵衛は、膝を打って、
「きっと、承知いたしやした」

銕三郎が立ち去ってから、勘兵衛が、残った権七に、しみじみとした声で言った。
「えれえ若者がいたもんだなあ。この俺さまを、〔榎屋〕のご亭主どの---と決めつけて、煙ったい代官所へさっと結びつけた知恵もすごいが、江戸の火盗改メのお頭・本多采女紀品(のりかず)どのの相談役---長谷川銕三郎宣以の代理と申されよ---にゃあ、この勘兵衛も恐れ入ったわ。いや、金では買えねえ、みごとな手裁きよ」
「な、言ったとおりの、でかブツだったろうが---惚れねえ女もいねえだろうが、男のほうがもっと惚れるぜ」

【参考】本多采女紀品の個人譜は、2008年1月23日[与詩(よし)を迎えに](33)

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2008.01.30

与詩(よし)を迎えに(36)

小田原宿から大磯宿までは、4里(16km)。
さしたる山道もなく、馬上の阿記(あき 21歳)と与詩(よし 6歳)は、母子のようにも見えるほど、打ち解けた、他愛もない会話をつづけている。
(おんなというのは、与詩のような幼い齢ごろから、もう、おしゃべりが止まらないんだ)
馬の横を後になり先になりしてあゆんでいる銕三郎(てつさぶろう 18歳)の発見である。

「長谷川さま。大磯の旅籠は、どうなさいます?」
小いそ村(鴫立沢 しぎたちさわ)で、〔風速(かぜはや)〕の権七(ごんしち 31歳)が訊いてきた。

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(鴫立沢 鴫立庵『東海道名所図会』 塗り絵師:ちゅうすけ)

阿記どのを伴っての本陣・〔尾上市左衛門方というわけにもいかないでしょうな」
「あっしの顔見知りの、〔鴫立(しぎたつ)利助ではいかがです? 本陣や脇本陣とは格式も風格もどっと落ちますが、落ち着くことは落ち着けます。本街道から一本、山側の道路に面しておりやすが---」
銕三郎はうなずいて、
「阿記どの。権六どのが、〔鴫立屋〕という旅籠をおすすめだが、いかがです?」

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(秋暮鴫立沢 『東海道名所図会』 塗り絵師:ちゅうすけ)

「心なき 身にもあわれはしられけり 鴫(しぎ)立つ沢の秋の夕ぐれ
旅籠の名前も気に入りました。泊めていただきましょう」
阿記どのは、学があるんだなあ」
「とんでもございません。鴫立沢(しぎたつさわ)は、嫁(とつ)いだ平塚宿にも近いし、『新古今集』に選ばれている西行上人さまの名歌ですから、覚えていただけです」

さっそくに与詩が教えてくれと頼んだ。
「このあたりの秋の景を詠んだのですよ」
「あきって、あき(阿記)あねうえ(姉上)のことですか?」

「こころなき みにも あばれば---」
与詩さま。あわれは---です」
「でも、あき(阿記)あねうえ(姉上)は、あにうえ(兄上)のことがだいす(大好)きだから。あわ(哀)れではありましぇん---せん」
阿記が顔を真っ赤にしている。躰中がほてったらしい。
銕三郎は苦笑し、権七藤六は笑っている。

大磯宿の入り口で、追っかけてきた、20歳前の仙次(せんじ)という若いのが、
「お頭(かしら)。〔ういろう〕の猫道の汲み取り戸のことがわかりました」
という。
「これ、仙次。場所がらってものを心得ろ、こんなところで、バカでかい声でしゃべるんじゃねえ。〔鴫立屋〕で、ゆっくり、長谷川さまに、お話し申しあげろ」
仙次どの。遠路、ご苦労でした。旅籠で気つけを一杯おやりになってから、承ります」
銕三郎の応対に、権七がしきりに頭をふって感じいっている。
「仙次どの」と奉られた当の本人も、すっかり気をよくして得意顔になっている。

藤六は、〔尾上市左衛門あての銕三郎の請(こ)い状をもって、本陣へ向かった。父・宣雄が前もって送っておいた宿泊代から、取り消し手数料を差し引いた分を受けとりにまわった。

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(大磯宿(部分) 『東海道分間延絵図』 道中奉行制作)

鴫立屋〕では、権七に割り当てられた部屋で、仙次が湯呑みの冷酒をすすりながら調べたことを報告している。
小田原の薬舗〔ういろう〕の東の猫道の閉まりっぱなしの戸は、厠の汲み取り口へ通じているもので、毎月1回、月始めに、城下に接している一色村の百姓・八蔵がきたときだけに開け閉めするのだという。
この月も、八蔵は月初めにきて、汲んでいった。
そりからこっち、賊が侵入した夜まで、落し桟を動かした者はいない。戸の下の厚い木枠の穴へ落ちて錠がわりの働きをしている縦の落ち桟は、盗賊たちが立ち去ったあと、しっかりと下の穴にはまっていた。
それで、調べにきた町奉行所の同心へも告げなかったのだが、仙次に訊かれて改めて検分してみたら、縦におちる桟を、上げた時に横から留める留め木口と、落とした時の桟を錠がわりに留める木口に、巧妙な仕掛けがほどこされていることがわかった。
両方の木口の中に四角い鉄の塊が入っているのが見つかったのは、ほかの雨戸の木口とくらべると、動かす時の手ごたえが重いように感じられると、下僕が気づいたたからである。
仕掛けた者は、木口のすべりをよくするために、溝に蝋を薄く塗っていたという。
つまり、外から、戸の板ごしに、強い磁石で木口を動かすことができたわけだ。

「〔ほうらい〕が、何かの普請で、大工を入れたのは何時だって言ってましたか?」
「4年前の春だそうです」
(あのとき、〔荒神屋〕の助太郎に小田原宿の松原神社で会った)
「細工をした者は、多分、流れ大工でしょう。その仕掛けを、磁石ともども、盗賊の頭に売ったのです。普請に入った棟梁に、その流れ大工のことを訊くのはいいが、棟梁に疑いをかけてはならないと、〔ほうらい〕藤右衛門どのに、江戸の火盗改メ・本多紀品(のりただ)どのの相談役の長谷川宣以(のぶため)が、しかと念を入れていたと、ご苦労ですが、申しつけてください」
急につくった威厳に、同年輩の仙次は恐れ入り、権七はたのもしげに銕三郎を見やった。

(しかし、〔荒神屋〕助太郎の仕業とすると、盗賊の頭分としての助太郎は、さして、大物ともおもわれないな。逃げ口があの狭い猫道一つだと、まさかのおりに、一人ずつ躰を横にしないと通れまいから、ほとんどの配下が捕縛されてしまう。そういう危険をともなった儲け口を買うようでは、な)

仙次をねぎらうために、食事は、権七の部屋で、藤六も呼んで、とった。
与詩は、阿記の部屋で、ぼろぼろこぼしなから食べている。

部屋へ帰り、与詩が寝息を立てているのを確かめてから、寝着をもち、離れた突きあたりの阿記の部屋へ行って着替えた。
臥(ふ)せていた阿記が寝着1枚で起きて、銕三郎の衣服を畳む。
「髪を切ったのか?」
「はい。明日は、平塚を通ります。あさってには、鎌倉ですべて剃りおとします。切って黒頭巾でまとめたほうが、明日の朝、結う手間もはぶけますから」

手荷物の中から、いつだったか、〔めうがや〕に湯治にきた熊野の比丘尼衆の一人が置いていった黒頭巾を出して、阿記はかぶってみせた。

Photo
(熊野比丘尼の黒頭巾 『近世風俗志』(岩波文庫))

「もちろん、あす、〔越中屋〕の前を通りましても、さまと権七さんがごいっしょですから、恐れることはなにもないとはおもいますが---」
そういって、銕三郎をいざなった。

銕三郎の手を乳房に導いて、
与詩さまと湯へ入りましたら、しげしげと下の茂みをごらんになって、『たけ( 府中城内での乳母)のよりこ(濃)いね』ですって」
「そうか」
「ご覧になりますか?」
「いや。そういう趣味はない」
「それからね。乳を吸わせてほしいって。母上が産後、すぐにお亡くなりになったのだそうですね」
「拙も吸いたい」
「まあ」

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(国芳『葉奈伊嘉多』)

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2008.01.29

ちゅうすけのひとり言(2)

これは、まったくの独り言である。

史実の長谷川平蔵宣以(のぶため)と、小説の鬼平を調べていて、ふと生じた疑問や、こうではないか---と思いついたことを、だれにいうともなく、呟いている、そのメモみたいなものと言っておく。
だから、無責任な発言である。ちゅうすけ自身だけが興味をもったことに、すぎない。
いつ書き留めるという計画も、ない。折りにふれて、呟く。

鬼平が愛用している煙管(きせる)についてのメモである。

鬼平の悪癖は、寝煙草だという。
亡父・宣雄の遺品で、携帯用にやや小ぶりにつくられた銀煙管を用いる。
_60_2宣雄が京都西町奉行として赴任していた時、新竹屋町寺町西入ルに住む煙管師・後藤兵左衛門に特注したもので、裏家紋である〔釘貫(くぎぬき)〕を浮き彫りにさせた。15両支払った。(〔文庫巻6[大川の隠居]p1836 新装版p192)

ちゅうすけ注:】 [大川の隠居]を執筆時の池波さんの1両の換算額は5万円前後だったから、15両だと75万円から80万円相当。裏長屋の5人家族が7年はゆうに暮らせるほどの値段だったといえる。
〔釘貫〕の文様は、鎌倉期の釘抜きからきていると。

煙管師の後藤兵左衛門だが---。

その前に、池波さんが『鬼平犯科帳』を連載する自信をもったのは、西山松之助編『江戸町人の研究』(吉川弘文館 1973年から順次刊行)の第3巻に『江戸買物独案内』の全図版が収録されていたからであろうと、つい最近までおもっていた。

盗賊が押し入る店の所在、屋号などが参考になる。たとえば、藍玉問屋は本八丁堀、船松町、本船町、三十間堀、深川佐賀町といった、船の便のいいところへ集中していた---といった地理的なこともわかるからである。

鬼平愛用の煙管が、 [大川の隠居]でやっとあかされた事情は、こうであろう。
故・花咲一男さんという、江戸の風俗研究家がいらっしゃって、『江戸買物独案内』の復刻につづいて、1969年ごろ、京都版である『商人買物独案内』を会員制で頒布された。

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(花咲一男さんが復刻頒布した『商人買物独案内』)

池波さんは、これを入手した(つまり、会員になった---ということ。江戸版のときはまだ会員ではなかったから、あとで、相当な出費で出物を求めた。それまでは西山先生編『江戸町人の研究』第3巻所載分ですましていたのだろ)。

『商人買物独案内』の〔煙管〕のページは、つぎの図版のとおりである。

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19枠の煙管問屋の名刺広告の中に、ただ1枠、煙管師・後藤兵左衛門が出ている。つまり、有料広告をしている。
各問屋には、それぞれつくった製品を納める煙管師が数多くいるのだが、彼らは、京の職人として顔をかくしているのに、後藤兵左衛門は、しゃしゃり出た感じである。
いや、言葉が悪かった。宣伝ということの重要さを、細工師でありながら心得ていた、近代的な精神をもった煙管師であった。

池波さんが、京の煙管師の名前を小説に採りこむとすると、彼しか実名がわからない。
だから、 『剣客商売』でも、秋山小兵衛も、兵左衛門の煙管を愛用していたが、新妻・おはるの父が所望したので泣く泣くゆずり、自分は、名工・兵左衛門のところで修行して江戸で細工をしている、下谷・坂本3丁目の裏に住む友五郎作ので間に合わせる(文庫巻4[突発]p268 新装版292)。

愛煙家の池波さんとすれば、兵左衛門は名工であってほしい。
しかし、なぜ、京都の煙管師でなければならないのか。先日、言及した〔下(くだ)りもの〕崇拝ということもあるが、ここは、池波さんの京都好き---ということにしておきたい。

『江戸買物独案内』(1824刊)には、煙管問屋と肩を並べて、数多くの近代的PR志をもった煙管師たち(緑○)がいたのだが。

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(『江戸買物独案内』の煙管問屋の部 緑○=煙管師)

いや、呟きたいのは、後藤兵左衛門のことではない。
このことは池波さんの好みの問題だから、読み手がとやかくいうことではない。

このブログの2008年1月1日[与詩(よし)を迎えに](11)で、銕三郎(てつさぶろう)に、

「家では、父上が(酒を)召し上がらないので、ほとんどたしなまいのだが---」

といわせた。要するに、宣雄は倹約家なのである。明和元年(1764 銕三郎19歳)に、築地の500坪前後の屋敷を、南本所・三ッ目の1238坪と交換するために1000両近い差額を支払っている。ふだん、質素にしていないと貯まる金額ではない。

煙草もたしなまなかった---というのが、ぼくの推量である。ヘビー・スモーカーの池波さんにとっては、にがにがしいだろうが。

したがって、後藤兵左衛門に15両も払って、銀煙管をつくらせるはずがない---などと、野暮をいうのではない。

_120古泉弘さん『江戸を掘る』(柏書房)に、発掘でもっとも多く出たのは、煙管の雁首だったともあるから、喫煙が江戸の庶民のたのしみであったことはわかる。

しかし、火の用心のきびしかった江戸城内でも、喫煙が許されたのであろうか。大たぶを結った大奥の女たちも、新吉原の花魁たちのように煙管を手にしていたのだろうか。

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(歌麿『歌撰恋之部』[深く忍ぶ恋]手に煙管の町女房)

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(歌麿『娘日時計』[未の刻---午後2時])

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(歌麿『婦女人相十品』[煙管持てる女])

このあたりのことを明記したものがあったら、読んでみたい。

【参考】
歌麿の浮世絵は、 『江戸の女』[歌麿・「歌撰恋之部」ほか

【ちゅうすけのひとり言】 その(1) 2008年1月17日


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2008.01.28

与詩(よし)を迎えに(35)

畑宿(はたしゅく)村の長(おさ)・めうがや畑右衛門の屋敷には、阿記(あき)と、芦の湯の湯治旅籠〔めうが屋〕次右衛門夫妻が待っていた。

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(緑=箱根宿 赤=芦の湯村---阿記の実家 青=畑宿村
明治19年刊 陸地測量部製。道=旧東海道)

畑右衛門も出てきて、荷運び雲助・〔風速(かざはや)〕の権七(ごんしち)に、先日、〔馬入(ばにゅう)〕の勘兵衛をうまく引き取らせた礼を述べた。
実家へ逃げ帰った阿記をつれ戻しにきた夫・幸兵衛が、父の次右衛門をおどすために、勘兵衛を伴って、芦の湯村へやってきたのだった。
権七は、銕三郎(てつさぶろう)のほうを見て、柄にもなく、照れている。
「先を急いでおります。発(た)たせていただいてよろしいでしようか」
銕三郎の言葉で、しばしの別れの愁嘆場はきりがついた。

阿記どの。馬に乗り、与詩(よし)が落っこちないように、しっかり支えてやってください」
裾の乱れを気にしている阿記の腰を、銕三郎が押し上げる。巻いた白い脚絆がもろに露出する。それも押し上げた。そのさまを、次右衛門夫妻が目をほそめて見ている。むすめを、もう、すっかりまかせきった感じだ。
阿記の荷は小さかった。
尼寺へ入れば法衣なのだし、髪もおといから、髪飾りも化粧品も不要である。

小田原まで3里10丁ばかり。
ほとんど下り坂なので、与詩は、赤いしごきで阿記とむすばれている。
「あき(阿記)おばちゃまは、あにうえ(兄上)のことが、す(好)きなのでしゅか---すか?」
「あ---はい。大好きです。与詩さまは、阿記のこと、お好きですか?」
「まだ、きめて、いません」
「早く、決めてください」
「そんなに、はやくは、きめられましぇん---ません」
「あら、どうして?」
「あとで、いじわる、されると、きらいになるから」
「意地悪はしません」
「よしが、あにうえと、いっしょに(寝)ても、でしゅか---すか?」
与詩さまは、あ兄上と寝たいのですか?」
「おね(寝)しょ、しないように、おこしてもらうのです」
「替わりに、阿記が起こしてさしあげます」
「それなら、すきに、なる---なります」

小田原には、九ッ(正午)ごろ、着いた。
東海道に面している薬舗〔ういろう〕に近い休みどころで昼食をとった。
銕三郎が、権七をうながして、薬舗〔ういろう〕の前へ立つ。
店構えの両側の猫道に、それとなく目を向けているのに、権七は気づいていた。
「この猫道に沿ったどこかに、ふだんは使っていない通用口があるはず」
「あとで、確かめさせます」
「それの、落し桟(おとしさん)の仕組みを調べてみてください」
「大磯の旅籠に知らせにこさせます」

茶店へ戻ると、阿記与詩も深めの網代(あじろ)笠をかむっていた。
阿記のを見て、与詩も欲しがり、藤六(とうろく)が子ども用を求めてきたらしい。
「明日、平塚を過ぎるときに役立ちますな」
銕三郎が笑った。
荷は、継ぎ馬に移されている。

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(広重 小田原の東の酒匂川 『東海道五十三次』
 銕三郎の一行は向こう岸から手前に渡った。
 右の山の下に小田原城が描かれている。)
【参照】大きく見るには、 [東海道五十三次](1)のNo.10の場面までスロー・ダウン。

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2008.01.27

〔荒神(こうじん)〕の助太郎(7)

長谷川さま。遠国(おんごく)の盗賊というのは、みごとな推しはかりと感心しましたが、ああ、簡単に教えちまって、よろしいんですかい?」
箱根関所の番頭(ばんがしら)の副役(そえやく)・伊谷彦右衛門が引きあげると、権七(ごんしち)が不服げに言う。
「あの調子じゃあ、己れが考えたみてえに、町奉行所へ伝えますぜ」
「それはかまわないのです。だれの発起(ほっき)であれ、盗賊が捕まりさえすれば、それがお上(かみ)へのご奉公だし、城下の人たちも安心できるのですから」
と一応、なだめておいて、銕三郎(てつさぶろう)は、
権七どの。拙は2度、〔ういろう〕店で、〔透頂香(とうちんこう)を買っております。このたびの旅と、4年前、藤枝宿に近い田中城下へ行った帰りと、です」

銕三郎によると、2度とも、売り婦(こ)の応対に上方(かみがた)なまりがあった。もちろん、4年前とこのたびとでは、人は異なっている。それで、〔ういろう〕は、先祖が京・西洞院(にしのとういん)錦小路の出ということを匂わせるために、京言葉を話す売り子を、わざわざ、上方から連れてきているのではないかとおもったのだと。

ちゅうすけ注:】
呉服や小間物、扇(文庫巻11で、引退した〔帯川(おびかわ)〕の源助が神谷町にだした京扇の店〔平野屋〕をみても分かりますね)は、京からの下(くだ)りものが上等なのである。酒は灘や伏見からの下りものが喜ばれた。だから、江戸近郊でできたものは「下(くだ)らない」ものと。
【参考】2005年2月5日〔帯川(おびかわ)〕の源助  [11-3 穴]p96 新p100
2004年12月21日〔馬伏(まぶせ)〕の茂兵衛  [11-3 穴]p97 新p102

「そういえば、ほとんどの売り子は、裏で製剤をしている職人と所帯を持たされるとか、聞いたような気もします」
「その、秘伝の薬剤を調合している職人たちも、上方の男ではないのでしょうか?」
「いえ、それはないようにおもいます。あっしが生まれた風早(かざはや)からも、知り合いの若いのが1人、薬草刻み職として働いておりやすから」
「その人は、風早からの通いですか?」
「とんでもねえこって。〔ういろう〕の店の裏の作業場の2階の薬くさい部屋で、独り者の職人たちといっしょに寝泊りしているとか。そのことがなにか?」

「いや、そのことではなく、盗人側のことを考えているのです。侵入してきた盗賊たちは、ひと言も声をださなかったということでしたね」
「そのことで、江戸の火盗改メに記録を問い合わせてみろ---とおっしゃいましたが---」
「それもありますが---戦(いくさ)の場では、軍団のかかり・進退・展開は、太鼓やほら貝で知らせます。その盗賊一味は、なんの合図で動いたのでしょうね?」
「はあ---」
「持ち場持ち場へつき、割り当てられた仕事にとりかかる---といった合図が、きっと、きまっていたはずです。ということは、よほどに場数をふんで手なれた連中だったということです」
「12,3人ですからねえ」
「侵入した者たちのほかにも、見張り役が3,4人はいたはず」
「なるほど。冗談を言わせていただきますと、長谷川さまは、まるで、盗みの軍師をなさっていたみたいですな。ははは」

女中頭が預けておいた与詩(よし 6歳)を連れてきて、食事のことを告げた。
「申しわけないが、1人分、追加です。まず、酒を呑(や)っていますから、そのあいだにでも、みつくろって運んでください。この子の分は、酒といっしょにお願いします」
すばやく、紙に包んだこころ付けをたもとへ入れる。
「まあまあ。ありがとうございます」

盃を満たしてやりながら、
権七どの。この子の前では、〔ういろう〕の話はおひかえください」
「合点です」
「あにうえ。わたし、しっています。おばさんたち、はな(話)しておりました。おとし(落し)、あげたもの(者)が、いるって」
「ほう。与詩も、そうおもいますか?」
「おとし、わかりましぇん---せん」

「戸締まりのことです。でも、与詩は、そのことよりも、ご飯をこぼさないで食べることです」
「おふさ(芙沙)ははうえ(母上)からいただいた、さじ(匙)がありまちゅ---ます」
権七が、なにか言おうとして、やめた。
(三島宿の本陣〔川田〕のお芙沙のことだな)
察したが、銕三郎も見て見ぬふりをした。

権七の盃を満たしながら、
権七どの。今夜は、どこへお泊まりになりますか?」
「荷運び雲助たちの定宿が、三島町にあるんでさあ」
「この夜道を三島までお帰りですか?それじゃあ---」
「いえ。箱根宿の三島町です。ここからほんの半丁です。三島町の東側が小田原町。小田原町の旅籠は小田原藩の支配で、三島町の旅籠は伊豆代官所の所轄というきまりになっていおりますんで。そうそう、ゆっくりはしておれません。では、明朝五ッ(8時)に、馬でお迎えに。ご馳走さまでした」

関所の大門は暮れ六ッ(午後6時)には閉めるが、宿場は関所の西側にあるので、権七が定宿へ行くには、通用門に声をかけてを開けてもらうまでもない。ついでにいうと、通用門は、権七のような顔見知りの者なら五ッ半(9時)までは通してくれる。

〔めうが屋〕の女中頭・都茂(とも)と別の旅籠に今夜の部屋をとり、食事をすませた藤六(とうろく)が、あがってきた。
銕三郎は、酒をもう1本、追加した。

_200_2「骨を折らせて、すまぬ」
「いえ。しかし、食傷していないわけではありませぬ」
2人は、すでに寝息をもらしている与詩のほうを見やりながら、声をころして笑った。
(都茂とすれば、今宵が藤六との最後の夜となると、おちおち眠ってはいられまい)

_300_3
(国芳『葉奈伊嘉多』部分)

銕三郎は、45歳の藤六の躰をいたわったが、どうなるものでもない。
「ま、明日は、五ッ発(だ)ちだ。そのことをいいきかせてやるんだな」
「はい」

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2008.01.26

〔荒神(こうじん)〕の助太郎(6)

「お関所の、副役(そえやく)さまが、お見えになりました」
本陣・〔川田角左衛門方の番頭が、案内してきた。

【参照】よみがえる箱根関所

銕三郎(てつさぶろう)は下座へさがって迎える。
(腹の中では、何用?)と案じている。
従ってきたのは、足軽小頭(こがしら)・打田内記であった。
「おくつろぎのところ、突然に参上し、申しわけござらんが、藩の正木ご用人さまから、お困りのことはないか、お尋ねするようにとのことでありましてな」
箱根関所の総責任者・番頭(ばんがしら 伴頭とも書く)の副役・伊谷彦右衛門と名乗った。小田原藩には、伊谷某という用人がいるから、その一族の末流であろう。しかし、銕三郎はそのことは知らない。

風速(かざはや)〕の権七(ごんしち)が、恐縮して、失礼するというのを、銕三郎打田小頭と目を見合わせ、
「いや、そのまま同席していてください。権七どのも耳に入れておいたほうがよろしいお話もでるやもしれませんゆえ」
と制して、
「申し分なく、くつろがせていただいております。それに、打田小頭さまに、ひとかたならぬお世話をいただきまして、ありがたく存じおります」
「それなら、けっこう---」
伊谷さま。ちょっと失礼して、この娘(こ)を、帳場に預けて参ります」

与詩(よし)を女中頭に渡して部屋へ戻り、
田沼(意次 おきつぐ)侯には、父が入魂(じっこん)にしていただいております。拙は、一度だけ、田中藩のご老公・本多正珍(まさよし)侯のところでお目にかかったことがございます。器量の大きな、法にきびしいお方と拝察いたしました」
「じつは身どもなども、田沼侯が相良領に封された4年前(1759)のちょうどいまごろ、領内ご検分のために箱根をお通りになり、その時にお顔を拝したきりでござる。
お帰りは、相良湊から船だったために、拝顔できませぬでな。ははは。
いや。ご用人・三浦庄ニさまは、ご領内へちょくよちょくお出でになるので、親しくお言葉をいただいており申す。
じつは、そのことでござる。番頭が、この箱根細工を、三浦さまへお届けいただきたいと申しておりましての」
「お預かりいたします」

【参考】
2007年7月20日[田沼主殿頭意次(おきつぐ)] (続) 
2007年11月24日[田沼意次の虚実] (1) (2) (3) (4)
2007年8月12日[徳川将軍政治権力の研究] (1) (3) (4) (5) (6) (7) (8) (9) (10) (11) 

「ところで、3日前に、城下の薬舗〔ほうらい〕に賊が入ったことはご存じかな?」
「はい、これなる権七どのから、聞きましたが---」
「賊が、関所を通るやも知れぬから、警戒を厳重に---との町奉行からの指示ですが、顔に盗賊と書いて通るのであればともかく、ふつうの顔で通られては、関所としても、手のつけようがござらぬ」
「西へ上るとの見込みがございますのですか?」
「いやいや、皆目、見当もついていないようなありさまでして---」
「お役目、ご苦労さまでございます。江戸の火盗改メ・助役(すけやく)をしておられる本多采女紀品(のりただ)さまとは面識がありますから、なにか、お伝えすることでもありますれば、お伝えいたしますが---。もっとも、帰りに江ノ島詣でをいたしますので、ふつうよりも、3,4日、遅くに江戸へ戻ることになりますが---」

「ひとつ、お訊きしてよろしいでしょうか?」
「なんでござる?」
「この半年のあいだに、大きな前金を払ってご城下に借家をした者を、お調べになったのでしょうか」
「そのようなこと---どうだ、打田、耳にしているか?」
「いえ。いっこうに---」
長谷川どの。借家の件と、賊とのあいだに、なにかかかわりでもあるのでござるかな?」
「賊は、言葉をひとことも発しなかったと聞きました。ということは、なまりの強い連中とおもわれます」
「まさに---」
「とすれば、土地(ところ)の者ではなく、遠国(おんごく)から来た者たちやもしれませぬ」
「ふむふむ。ありえますな」
「揃いの黒装束だったとも---」
「さよう、さよう」
「旅籠で着替えて出たのでは、宿の者が気がつくはず。としますと、一軒家を借りていたのではないかと---」
「うーむ。理が通っておりますな。明朝にでもさっそく、奉行所へ早便を立てて、知らせてやりましょう」
伊谷さま。その時は、くれぐれも、拙の名は秘してくださいますよう。明夜は大磯泊まりにな.るため、小田原での足留めは困るのです」
「あい、わかり申した。関所の意見として申しおくりますですよ」


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2008.01.25

〔荒神〕の助太郎(5)

「芦の湯へ、なにごともなく、お送り申してめえりました」
さすが、箱根の荷運び雲助の主のような〔風(かざはや)〕の権七(ごんしち 31歳)である。1刻(いっとき 2時間)もかけないで戻ってきた。
箱根宿(はこねしゅく)から芦の湯村落まではほぼ1里(4km)---往路は阿記(あき 21歳)づれだから、半刻(1時間)以上を要したろう。帰路は小半刻(30分少々)でこなしている。

「駕籠衆や尾行(つけ)の若い衆への酒手は、十分に渡りましたか?」
銕三郎(てつさぶろう 18歳)が確かめた。
「多すぎるほどの、心づけでごぜえました」
「では、権七どの。もし、あとの仕事にさしつかえがなければ、ちょっと、呑(や)って行きませんか? 小田原宿の薬舗〔ういろう〕に入った賊のことも、もう少しお聞きいたしたいのですが---」

_365
(小田原・薬舗〔ういろう〕 『東海道名所図会』)

城下町・小田原宿を東西に貫通している東海道に面して繁盛している薬舗〔ういろう〕を、『東海道名所図会(ずえ)』は、以下のごとくに紹介している。

小田原・北条氏綱(うじつな)の時、京都西洞院(にしのとういん)錦小路外良(ういろう)という者この地に下り、家方透頂香(とうちんこう)を製して氏綱に献ず。その由緒は、鎌倉・建長寺の開山・大覚禅師、来朝の時供奉(ぐぶ)し、日本へ渡り、家方を弘(ひろ)む。氏綱はこれを霊薬とし、小田原に八棟(やつむね)の居宅を賜り、名物として世に聞ゆ。

その〔ういろう〕に、3日前に盗賊が入り、当主・藤右衛門を抜き身でおどして金蔵を開けさせ、800両余の金を持ち去ったという。(このころの1両は、当今の10万円にあたろう)。

_300
宝永(1704~10)小判

【ちゅうきゅう注:】 池波さんは、『鬼平犯科帳』の連載をはじめた1968年ごろ、1両を4万円ほどと換算していたが、連載が終わる1990年前後には20万に引き上げていた。バブルのものすごさも類推できるが、大家となった池波さんの金銭感覚もこれでうかがえる)。

とにかく、8000万円から1億円近い盗難である。
小田原藩の町奉行所は、あげて探索にあたったが、なんの手がかりもつかめていないという。というのも、すべての戸締りはしっかり錠がかかったままで、どれも開けられた気配がないので、12~3人もの者が、どこから、どうやって侵入したかもわかない。
また、黒装束の上に覆面した賊たちは、ひとことも口をきかず、当主への指示はすべて、あらかじめ紙に書いて用意していたもので伝えたという。

権七の説明を聞いて、銕三郎は、
「無言のわけは、言葉ぐせから出生地を割らさないためでしょう。しかし、そのことも有力な手がかりですね。それほど用心深い盗賊の前例が報告されているかどうか、江戸の火盗改メに速便(はやびん)で問い合わせたのでしょうね」
「さあ。そこまでは聞いていませんがね。うっかり聞き耳を立てると、こっちが疑われかねませんからね。雲助稼業はつらい立場です」
「しかし、権六どのには証(あか)しあるのでしょう?」
「もちろんでさぁ。あの晩は、たまたま、三島のお須賀の店にいて、何人もの常連客が見ていてくれていますから---」
「それは重畳でした。錠前の謎は、今晩じっくりと考えてみますが、〔ういろう〕では、店や奥の使用人は、いまでもやはり、京都から採っているのでしょうか」
「さあ、どうなんでしょう」
銕三郎の頭からは、京の荒神口で太物商いをやっているという〔荒神屋〕助太郎の姿が浮かんでは消えている。

【参考】2007年7月14日~[〔荒神〕の助太郎] (1) (2) (3) (4)
2007年12月28日[与詩(よし)を迎えに](8)

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2008.01.24

与詩(よし)を迎えに(34)

箱根の関所は、三島宿から登っていくと、箱根宿の先---東側にある。

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(小田原側からの箱根駅と関所 『東海道名所図会 塗り絵師:ちゅうきゅう 右上に宿とその手前に関所と江戸口門 左下は芦の湖)

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(上図部分拡大)

三島からだと京口の冠木門から入り、江戸口と呼ばれている門から出る。

【参照】よみがえる箱根関所

とりあえず、手まわりの荷と与詩(よし)を本陣の〔川田角左衛門方へ預け、銕三郎(てつさぶろう)と〔風速(かざはや)〕の権七(こんしち)は、関所へあいさつにおもむく。

京口の番人に、 権七がなにやら囁くと、一人が足軽番所へ走った。
そこから、40がらみのやや太めの男が出てきて、権七に合図をする。こちらも会釈した。
「小頭(こがしら)の打田内記さまです」
羽織の襟を正して丁寧に腰をかがめ、
長谷川銕三郎です。このたびは、小頭さまのお手を、私用でいたくわずらわせて、恐縮でした」
「いやあ、手前どもこそ、恐縮しておりますぞ。お側御用取次ぎ・田沼意次 おきつぐ)侯のご用人・三浦庄ニなるお方が、わが小田原藩のご用人・正木さまへ、わざわざ書簡をくだされたことで、関所・番頭(ばんがしら)どのがたいそう面目をほどこされましてな。それにしても、なんですな、長谷川どのは、けっこうな繋がりをお持ちですな」
「三浦さまのご配慮のこと、初めて耳にいたしました」
「本陣の〔川田角左衛門方にも伝えてありますから、粗略にはあつかいますまい」

関所から引き返しながら、権七が感にたえたような声で、
長谷川さま。小頭さんもかつて見たことがないほどの喜びようでしたな。権七の株も何倍かあがりましてございます」
権七どの。じつは、それで困っております」
「えっ?」
「1日での箱根越えは、幼い与詩(よし)には辛かろうゆえ、本陣・〔川田〕で1泊するようにと、父上から言われております。で、せんかたなく、〔川田〕で阿記どのと落ち逢うこと、しめし合わせました。しかし、関所からのお声がかかっていると、本陣のご女中衆の目が、拙ども、ひいては阿記どのへ集まります」
「なるほど」
「別の旅籠で逢い引きしても、かつて、芦の湯小町と囃(はや)された婦(ひと)ゆえ、どこでも目立ちましょう」
「そうですとも」
「ついては、あの婦(ひと)を、そのまま芦の湯まで、権七どのに送っていただけないかと---」
「おっと合点。宿場の西はずれで待ちかまえますぜ」

【参考】2007年12月30日[与詩(よし)を迎えに(10)]

「女中頭どののほうは、もう一晩、堪能させたいので、この箱根宿のそれにふさわしい旅籠へ案内してやってくださいませぬか。おっつけ、そこへ藤六(とうろく)をさしむけますゆえ」
「妙案でごぜえますな」

_360_3
(箱根宿と芦ノ湖。『東海道分間延絵図』 幕府道中奉行製作)

しばらくして、権七が本陣〔川田〕へ戻ってきて、万事、指示どおりに手配したことを告げ、
「芦の湯村へ行き、すぐに引き返してめえります」
入れ替りに、なんとも奇妙にまじめくさった表情を浮かべた藤六が、出て行く。親の仇でも討ちにゆくように、肩をいからせている。
その背に、権七が、
「明日は、五ッ(午前8時)発(た)ちでごぜえますよ」

本陣・〔川田〕には、大風呂があった。
芦の湖のむこうに、富士山が、4分ばかり、白い頂(いただき)を見せているのが浴槽から望めた。
昼間なので、風殿には客はいない。
与詩といっしょに湯につかる。
抱かれたまま、湯舟で銕三郎の顔に湯を飛ばし、
「きゃっ、きゃっ」
と、与詩は大満足であった。
(父上がここに一泊することをお命じなったのは、こういうことをして兄妹の絆(きずな)を堅めよ---ということだったのだ)
「与詩。泳いでみるか」
与詩の胸と腹にを支えて湯舟のなかを動いた。
「両腕を前に伸ばし、脚を互いちがいに、ばしゃばしゃする」
そう教えながら、
(父上は、知行地の片貝(180石)に近い九十九里浜で、あわび採りを身ににつけられたのかも知れない。母上は、同じ上総(かずさの)国でも、山側の武射郡(むしゃこおり)のほうの知行地・寺崎(220石)の村長(むらおさ)の家のむすめだが、片貝にも、父上にあわび採りを教え、そして情を交わした婦(おんな)がいるはず。あれで、けっこう、艶福家だっんだ)

_300
(歌麿『歌まくら』[あわび採りの海女])

その海女の姿態が、湯舟での阿記の躰とかさなって、股間のものが目をさましそうになり、銕三郎はあわてた。

【参照】
2007年7月28日[実母の影響]
2008年1月12日[与詩(よし)を迎えに(23)]

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2008.01.23

与詩(よし)を迎えに(33)

ちゅうすけ注:】与詩(よし)が乗った山駕籠について、喜多川守貞 『近世風俗志』(岩波文庫)から図を引いておく。箱根山専用の駕籠で、底が円形で広いため、長く担いでいても足を痛めないと。屋根は網代。『近世風俗志』『守貞漫稿』の書名で知られている。

_360

三島宿の本陣・〔樋口伝左衛門方から東海道を東へ1丁半で三島大社の大鳥居の前に達する。

広重の絵は、深い靄が立ち込めている社前を、駕籠と宿場馬が箱根道へ向かっている図である。

12_360
広重  『東海道五十三次』 [三島 朝霧]
大きな画面は、↑をクリックでNo.12)

駕籠の乗り手を与詩(よし)と入れ替えると、まさに銕三郎(てつさぶろう)一行だ。

靄で霞んでいた大鳥居の柱の脇から、のそりと〔風速(かざはや)〕の権七(ごんしち)が現れた。
「お待ちしておりやした」
歩みをとめないで、銕三郎が供の藤六(とうろく)を引き合わせた。 

権七が、靄をすかして、あたりを見まわし、駕籠と藤六をすこし先へやってから、
長谷川さま。〔めうが屋〕のお嬢さんはどうなさいました?」
「ひと足、遅れてくるようにしました」
「なして?」
権七どのに、三島にいっしょに泊まっていたことを断ってなかったですから---」
「じょ、冗談じゃありません。こっちは、わかりきったことだから、ゆうべは黙っていただけです」
権七どのはお含みくださっても、駕籠の人たちの口から噂が立つと、阿記(あき)どののこの先の人甲斐(ひとがい)に染(し)みがつくことを怖れています」
「なるほど。ありえますな」
「それで、ともに歩くのは、畑宿村からの下り---畑宿から小田原まで、権七どのの配下で、口の堅い馬方を2頭、手くばり願えないかと。1頭は、打田内記(ないき)どの気付の書状に書きましたとおり、箱根宿から乗りますが---」

三島大社前から、最初の登りが愛宕坂である。

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(箱根街道(西坂道)=茶色 白色=国道1号
青○=三島大社 赤○=富士見平 三島観光協会バンフ)

_260
(富士見平からの富士山 霧しぐれ富士を見ぬ日ぞ面白き 芭蕉
三島観光協会バンフより部分)

富士見平でひと息入れた。
「あにうえ。ここのおやま(山)も、おおきいでしゅ---です。おかし(菓子)みたい」
「お砂糖がたっぷりかかったお菓子です。藤六与詩を茶店の厠へ。ついでに、食べるものをなにか求めてやってくれるか」
_200銕三郎は、気になるのか、坂下のほうを見やる。阿記都茂(とも)の姿は見えなかった。支度によほど刻(とき)がかかったらしい。
藤六め。あれだけ言っておいたのに、けっきょく、都茂の粘っこい求めに屈したな)
口には出さなかった。藤六も、都茂の口封じになればと、励んでくれたのであろう。

_300
(栄泉『古能手佳史話』[強い誘い]部分)

長谷川さま。〔めうが屋〕の2人づれがご心配ですか。大丈夫でごぜえます。あっしの手下(てか)の若いのを、こっそり、尾行(つ)けさせておりますから」
「いつの間に?」
〔甲州屋〕を見張らせておりました」
「どうして、〔甲州屋〕と---?」
「蛇(じゃ)の道は蛇---っていいましてね」
権七どのには、隠しごとはできませんな。ははは」
「ふふふ」
「火盗改メの密偵さながらですな」
「なんでごぜえます、その火盗改メの密偵というのは?」
「ま、登りながらお話ししましょう」

銕三郎の父・平蔵宣雄(のぶお)が小十人・5番手の頭(かしら)に任じられた時、6番手の頭・本多采女(うねめ)紀品(のりただ 49歳 2000石)と親しくなり、銕三郎も面識がある。
幕臣のあいだで、大久保99家、本多100家といわれるほど一族が多いので、引きもある代わりに、不始末のとばっちりで譴責をくらう率も高いとの自嘲も、本人の口から聞いたこともあったが、前年の宝暦12年(1762)11月7日付でめでたく先手・鉄砲(つつ)の16番手の組頭(くみがしら)に発令された。
本人はいつもの軽口もどきに、「家禄2000石の身が、引下(ひきさげ)勤めよ」と苦笑していたが、鉄砲の16番手というのは、別称〔駿河組〕といって、家康公以来の伝統のある組なので、ほんとうは満更でもないらしかった。出世ポストの一つなのである。
引下(ひきさげ)勤めとは、先記したように、本多家の家禄は2000石、先手組頭の役高はそれよりも低い1500石だから、足(たし)高が補填されない役についたことをいう。

_360_2

本多采女紀品、先手・鉄砲の頭から火盗改メに)

しかし、本多紀品は、その年の12月16日から、火盗改メの助役(すけやく)に就いた。
助役とは、年間を通して火盗改メを勤めている本役に対して、火事の多い冬場から春先に併勤する火盗改メのことを指す(『鬼平犯科帳』では、読み手の混乱を防ぐためであろう、助役には触れられていない)。
火盗改メの役料は、40人扶持。1人扶持は1日玄米5合。40人分が支給されるが、屋敷内に白洲や仮牢も新たに設けなければならないから、それっぽっちの手当てではまかないきれなかったとも、史料にある。

ま、それはともかく、父・宣雄ついて、番町の屋敷へお祝いに行ったとき、本多紀品が、
銕三郎よ。躰が空いているときには、密偵でもやってくれないか」
と親しげに言い、火盗改メの密偵としての仕事の内容を話してくれた。
もちろん、父は反対で、密偵仕事よりも、番方(武官系)の家柄の嫡子として、四書五経の勉学や剣術や乗馬、弓や水練などの武術の修行に励め---ときつく言われた。

参考
2007年5月30日[本多紀品と曲渕景漸]2007年5月31日[本多紀品と曲渕景漸](2)のほか、 [本多家]の各項を。


「そうですかい、現役の火盗改メとお親しいのでは、〔馬入(ばにゅう)〕の勘兵衛なんざあ、ますます、恐れ入谷(いりや)の鬼子母神(きしもじん)でごぜえますよ。ところで、火盗改メといえば、3日ほど前に、小田原の有名な店---〔ういろう〕に不思議な盗賊が入ったんでございますよ」
「え! あの、〔ういろう〕に---〕
盗賊と聞いて、銕三郎の頭に浮かんだのは、なぜか、京の天神口で太物商いの店〔天神屋〕をやっているいると言っていた助太郎の顔であった。

参考
2007年7月14日~[〔荒神〕の助太郎] (1) (2) (3) (4)
2007年12月28日[与詩(よし)を迎えに(8)]


ちゅうすけからのお薦め
このところ、当ブログは、アクセス約400/日をいただき、感謝しております。
立ち上げて3年ほどになりますが、この6ヶ月ほど前からアクセスしてくださっている方は、今日、【参考】にあげた本多采女紀品の2日分、クリックして、お読みいただいておくと、これからのストーリーの展開がラクに執筆できます。

薄すうすお気づきとおもいますが、当ブログは、長谷川家を中心において、当時の幕臣の生き方や庶民の生活ぶりを、史実を踏み台にして書きすすめております。

究極の狙いは、未完の『誘拐』を補筆して、おまさを救出することですが、さて、それまで、筆者の体力が保ちますかどうか。

ご愛読、感謝するとともに、お知り合いの鬼平ファンの方にもおすすめいただけると嬉しいです。

このブログを、本にする意思はまったくありません(DVDなら考えますが)。このブログのままでも十分とおもっております。


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2008.01.22

与詩(よし)を迎えに(32)

「箱根御関所の足軽小頭(こがしら)・打田内記(ないき)どのにも、お世話になったが、謝礼はどうしたものでしょう?」
銕三郎(てつさぶろう)が、雲助の頭(かしら)格・〔風速(かざはや)〕の権七(ごんしち 31歳)に訊く。昨日、由井の問屋場から彼あての書簡を、打田小頭気付で早便に託した。
心得た打田が、きちんと権七へ渡してくれたから、こうして権七が三島に泊まりにきている。
長谷川さま。それは要りませぬ。打田の旦那とあっしとは、兄弟分の間柄なのです。お礼だなぞ、水くさいことはなし、なし」
「それでは、このことは、権七どのの言葉にしたがっておきましよう」
長谷川さま。その、権七どのの、〔どの〕も、ただいまかぎりで、なし、ということにいたしてくださいませぬか。〔どの〕をつけられると、背中がむずがゆくなります」
「〔どの〕がいけないとなると、権七うじかな」
権七---で、よろしいのですよ」
「それは、いけませぬ。人と人との付きついですから」
「参ったな。じゃ、2人きりの時は、権七どのもあり、ということで。みんなの前では、権七でお願いします」

「では、明朝六ッ半(午前七時)に、〔樋口〕に山駕籠をつけてください」
「かしこまりました。しかし、あっしは、先ほども申しましたように、〔樋口〕は鬼門なので、山駕籠の者だけがお迎えに行きます。あっしは、(三島)大社さんの大鳥居の前でお待ちしております」
「よろしく、お願いします」

〔甲州屋〕へ帰りつくと、気配で察した供の藤六(とうろく)が、きちんと着物のままで、部屋から出てきた。
「どうした? 都茂(とも)どのが、よく、辛抱しているな」
「若。冷やかさないでくださいませ。で、〔馬入(ばにゅう)〕の勘兵衛の件はいかがなりました?」
権七が、うまく、話をつけてくれていて、平塚宿の先の馬入村の勘兵衛の家で会うことになった」
「大丈夫でございますか?」
権七が付き添ってくれる」
「小田原宿から、代官所へ使いをだしましょうか?」
「いや、それは無用のようだ。安心していてよろしい」
「それでは、お休みなさいませ」
口を寄せた銕三郎がにやりとして、
都茂にな。箱根宿でもう一泊するから、今夜は軽くですますように言ってやれ」
藤六がぼんのくぼを掻く。

部屋では、阿記(あき)が、寝着のままで起き上がってきた。
「寒いから、床に入っていなさい。話は、その中でできる」

羽織・袴を脱いで寝着に着替えた銕三郎が床へ横たわると、早速に阿記がもぐりこんでくる。
権七には、阿記とこうなったこと、言いそびれた。明後日、箱根宿から畑宿村への山道で言うつもりだ」
「それでは、明日、私どもは?」
「後ろからつけてくれ。箱根宿の本陣・〔川田角右衛門方で落ち合おう」
「はい」
「〔川田〕方から、阿記は芦の湯村へ帰って東慶寺へ入門する支度を整え、明後日の四ッ(午前10時)に畑宿村の長(おさ)・めうがや畑右衛門どのの屋敷で落ちあおう。あとは鎌倉までいっしょだ」
「まあ、うれしい」
阿記が東慶寺へ入ってしまえば、噂が広がることもあるまい」
「いろいろと、ありがとうございました」
阿記銕三郎の寝着の腰紐をほどく。自分の前はすでに開いている。
「明日は、六ッ(6時)起きだ」
「はい」

朝靄(もや)が濃い朝であった。
七ッ前に〔樋口屋〕の門の前で、山駕籠が待っていた。

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(〔樋口〕伝左衛門方の門を移した円明寺の山門
 三島観光協会パンフレットより)

ちゅうすけ注:】本陣・〔樋口〕伝左衛門方の門構えは、現在は旅籠〔甲州屋〕の北隣の円明寺に移築されて健在である。

藤六が先に入って行って、与詩(よし)の荷物を取ってき、駕籠にしばりつける。
芙沙(ふさ)と手をつないで、与詩があられた。2日間だけでかなり大人びたように見える。
「うちの子が、与詩ちゃんになついてしまって、お別れがつらいようで、手間どりました」
与詩。お芙沙母上にお別れのご挨拶をしなさい」
「ふさ(芙沙)ははうえ(母上)、また、おあ(逢)いちまちょう」
「ええ。また、お泊りにいらっしゃい」
「あにうえ(兄上)。こんどこそ、ふさははうえのおいえ(家)で、ね(寝)まちゅね---すね」
「その節は、お芙沙どの、よろしく」
「お阿記さんを大切にしてあげてください」
3人の会話を、亭主の伝左衛門が、帳場から不機嫌な目で見ている。

与詩の躰をすがり綱につないだ赤いしごきは、お芙沙のものだった。2人の仲をつないだ細帯のようにも見える。山道で駕籠が傾いても、これで与詩がこぼれ落ちることはない。

「では」
「つつがないお旅を」
「また、お逢いできましょう」
「お待ちしています」

銕三郎とお芙沙が、また逢うことになったのは、それから9年後---父・宣雄が京都西町奉行として赴任のために東海道をのぼった時であった。

与詩のお寝しょうの報告はなかった。

参考三島観光協会

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2008.01.21

与詩(よし)を迎えに(31)

ちゅうすけの言い訳】 銕三郎(てつさぶろう)が江戸を発(た)って、途中、芦の湯へ寄り道したが駿府まで6日、帰路はまだ2泊しかしていないのに、道中記のほうが30回を越えてしまった。まったく旅馴れない筆者のせいと、お許し願いたい。

銕三郎は、午後、まだ陽の高いうちに、阿記(あき)を伴って三島大社へ詣でた。
大鳥居前の路地を入ったあたりに店があるという、居酒屋〔お須賀〕を見つけておくためであった。
阿記は、若妻気分にでもなったか、浮き浮きした足どりで並んだ。

大鳥居をくぐったすぐの神池では、足音を聞きつけた真鯉や錦鯉が群をなして寄ってきた。
「錦鯉を恋魚(こいぎょ)とも言うんですって」
「初耳だけど、そんな風情に見えなくもないな」

_260
(三島大社鳥居前と神池 『東海道名所図会』
 塗り絵師:ちゅうすけ)

あと数日で尼寺へ入るという阿記は、大社の拝殿でずいぶん長いあいだ手をあわせていたが、何を祈願したか、銕三郎はあえて問わなかった。

_360
(三島神社 『東海道名所図会』 塗り絵師:ちゆうすけ)

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(三島神社 中門 奥は神楽殿 拝殿はその奥)

_360_3
(三島神社 拝殿)

この季節の日没は早い。七ッ半(午後5時)には行灯(あんどん)に灯(ひ)を入れないと部屋が暗くなる。
さま。湯で躰の匂いをよく洗い流してから、お出かけになってください」
言われたとおりに、湯につかった。昼間、お芙沙(ふさ)にも匂いのことでからかわれたからである。
午後も、八ッ半(3時)のおやつを阿記に、ねだられていた。

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(寛永の頃から時を告げた鐘 三ッ石神社
 三島観光協会パンフレットより)

時の鐘が六ッ半(7時)を知らせた。
銕三郎は一人だけで〔甲州屋〕を出た。
熟考の末、今夜のところは、阿記とのことは、権七(ごんしち)には伏せておこうということになったのである。

〔お須賀〕には、数人の客があった。武家姿の銕三郎に、一斉に怪訝な目(まなこ)を向けたが、すぐにそれぞれの盃にもどる。
風速(かざはや)〕の権七の姿は、その中にはなかった。
須賀らしい年増が、せまい調理場で、ちろりを燗していた。
権七どのにお目にかかりたいのですが---」
雰囲気にそぐわない丁寧な言葉づかいに、客たちが、こんどは驚いたような目で、銕三郎を見た。
長谷川さまですね?」
うなずくと、すぐ奥の部屋へ、
「お見えだよ、あんた」

「いやあ、こちらから、〔樋口屋〕へともおもいましたが、わけありで、敷居が高うございましてね」
須賀どののことですね。本陣のご新造から、ここのことも聞きました。それはそうと、先日は、妙薬〔足速(あしばや)膏薬〕、かたじけなく。さすがに、よく効きます」
「ほう。お使いくださりましたか。おーい。酒と肴を早くしいてくれい!」

権七の盃を満たしながら、銕三郎は芦の湯の〔めうが屋〕での、〔馬入(ばにゅう)〕の勘兵衛との話し合いはどう決着がついたのかと訊いた。
「そのことで、長谷川さまに謝らないとなりません。じつは、長谷川さまのお名前をだしちまいまして---」

勘兵衛を脇へ引きこんで、
「おめえさんも、藤沢一帯でいい顔になろうってお人だ。こんな脅し、いくらの手間賃でやってるのか知らねえが、もっと先を読んだらどうだ。おれが、お頭と決めた長谷川の若さまは、とてつもなく大きな将来株だ。この若さまに引きあわすから、〔めうが屋〕のむすめの件は忘れろ---とまあ、こう言ってやったんでさあ」
「ひゃあ---部屋住みの拙が将来株とは、虚言がすぎます」
「いいえ、そうではありませんよ、長谷川さま。あなたさまは、自身では気がついていらっしゃらねえが、たいへんな器量をお持ちでござんす。あっしには、ようく見えております。先行き、10年もしたら、一軍の将になっていらっしゃいます」
権七どの。おだても、ほどほどにしておいてください」
「おだてなんかではごぜえません。こう見えても、〔風速〕の権七、男の器量を見る目はたしかです。あなたさまは、おんなも惚れるでしょうが、それ以上に、男が惚れきる器量をお持ちなんですぜ」

「それで、勘兵衛どのは納得されたのですか」
「叩けば、躰中から、埃がぱっ、ぱっと、箱根の山々に湧く霧よりも濃いのが出る野郎です。先々、長谷川さまが盗賊博打改メにでもおなりになってみろ、お目こぼしもあろうってもんだ---とも言ってやりました」
「火盗改メですか。あれを拝命できるのは、先手の組頭ですからね。わが長谷川家には、これまで、先手の組頭まで出世した者がいないんですよ」
「何をおっしゃいますか、長谷川さま。お上だって、目のないお方たちばかりではありませんでしょう?」

この話しあいで、銕三郎は、
(雲助と呼ばれている者の中にだって、権七どののように、知恵ある人材もいるんだ)
(人というのは、神仏祈願とおなじで、今がことより、先の自分に人生を賭けてみたがる生きものなんだな)
(自分のことを、自分で持ち上げたのでは、人---世間---は信用してくれないが、権七どののような披露(ひろ)め屋さんの口から出れば、信用される)
といった人生の要諦(ようてい)を学んだ。

父・宣雄が、いまの小十人の頭(かしら)から、先手・弓の組頭に抜擢されることは予見していなかった。
この時は、権七のほうが人を見る目があったということであろう。

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2008.01.20

与詩(よし)を迎えに(30)

「預けた与詩(よし 6歳)の様子を見に、本陣の〔樋口屋〕へ行くが、阿記(あき 21歳)はどうする?」
「お芙沙(ふさ)さんにお会いするのが照れくさいから、遠慮しておきます」
「なにも、照れることはあるまい」
「昨夜(ゆうべ)のことなら、女同士、どうってこともございません。しかし、この昼間のこととなりますと、いくらなんでも、色狂いの度がすぎるとあきれられましょう」
「結った髷(まげ)もきれいなままだし、わかるはずはないとおもうが---」
「そのほうについての、おんなの勘は鋭いのです。匂いでばれてしまいます。湯につかっても消えないのですから。ましてや、この昼間はそのままですから---」
「むつかしいものよのう。どうだ、拙の躰からも匂うか?」
「当の本人たちには嗅ぎわけはできませぬ。自分たちの匂いに鼻がなじんでしまっておりますゆえ」
「自分たちの---なあ。それでは、ばれるな」
「ばれようとも、男の方にとっては、手柄首ですから、なんのことはございません」

4年前、先代の〔樋口〕伝左衛門(でんえもん)の手くばりで、銕三郎は後家になったばかりのお芙沙と夜をともにしたことがあった。14歳の初体験で、思い出もよかったので、阿記を識(し)るまで、お芙沙は、少年・銕三郎の天女にもひとしかった。

【参照】2007年7月16日[仮(かりそめ)の母・お芙沙]

阿記が、その大いなる幻影を、消してくれた。銕三郎は、また一歩、大人の男の世界へすすんだのである。

【参照】2008年1月日[与詩(よし)を迎えに(13)]

(それにしても、手柄首とは、うまいことをいう。あれは、組み討ちの果てに得るものだというからなあ)
つまらないことに感心していると、もう、東海道だ。右へ折れると〔樋口屋〕である。

「あにうえ。よし(与詩)は、しなかったよ---しませんでした」
銕三郎の声を聞きつけ、三和土(たたき)の通路の奥から飛び出してきた与詩が自慢する。
「そうか。えらい、えらい」
(この子にとって、お寝しょうの粗相をしなかったことが、今朝の手柄首なんだ)
長谷川さま。お早うございます。与詩ちゃんは、お利口でした」
「そのようですな。いま、与詩が自慢してくれました。」
「お着物もご自分でお召しになることができました」
「それは重畳。自慢できることを、一つずつ増やしてやることが、拙の勤めです」
「お膳が、いま、ひとつ、でございます」
「うーん。それは、この齢では、一朝一夕にはまいりませぬな」
「ちょうど、お昼どき---ごいっしょにいかがでございますか?」

箱膳の上の湯のみには、酒が入っていた。
「匂い消しでございますよ」
「えっ? 匂いましたか?」
「おほほほ。うそ」

芙沙が、昨夜のことを話してくれた。
一つ布団に、左にお芙沙の2歳になる子、右に与詩を寝かせたという。
「それは、伝左衛門どのに申しわけないことでした」
「いいえ。お勤(つと)めからおおっぴらに解きはなたれて、かえって喜んでいたことでしょう。女中部屋へでも夜這いをかけるほどの甲斐性があればよろしいのですが---おほほほ」
驚いたことに、夜中に2度、与詩がお芙沙の幼女を起こして、厠へ連れていったというのである。

与詩は、腹違いのすぐ下、1歳違いの妹・智津(ちづ)にもそういうことをしたであろうか。いや、していまい。智津は、姉の与詩にむかって「お寝しょっ子と言う」と怒っていたからな)
銕三郎は、となりで食事をしている与詩を見た。
首から膝へかけて大きな前かけをあててもらい、お芙沙が与えた黒漆の木匙(こさじ)で黙々と、そして、ぱらぱらとこぼしながら食べている。

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(柄と外側が黒漆、皿部が朱漆塗りの木製の匙。いたって軽い)

与詩。箸と匙と、どちらが好きですか?」
「さじ(匙)でしゅ---です」
「そうか。では、お芙沙おばさまにおねだりして、その匙を江戸までいただいてゆくことにしようか」
「おばちゃまではありませぬ。おふさ(芙沙)ははうえ(母上)でしゅ---です」
(よくも手なづたものだ)
「そうでした。母上でした」

芙沙は、手にしていた湯のみをおいて、
「お匙がお気に召しているようですね。同じものは、紀州侯さま、尾州侯さまがとじものをお召しあがりになる時にお用いいただくために作らせたものです。差し上げますが、〔樋口屋〕で手に入れたことは、決してお漏らしになりませんように。紀州さま、尾州さまにご無礼とおもわれかねませぬゆえ」
「あい分かりました。出所は誓って口外しませぬが、宿々での使用は---」
「塗りのない木肌の小匙もさしあげます。漆塗りのほうは、先々の本陣ではお使いにならないでいただきたいのです」
「造作(ぞうさ)をおかけします」

「あにうえ。あにうえは、まだ、よそでおやすみでしゅか---ですか」
「いろいろと用もあってな。今夜だけ---」
「こんやだけ、では、ありましぇぬ。きのうもでした」
「許せ」

_180 「おふさ(芙沙)ははうえ(母上)が、よる、さびしがっていた---おられました」
与詩ちゃんは、まあ、なんということを---」
芙沙があわてて与詩の頭をおさえ、赤くなった。
(右:栄泉『春情妓談水揚帳』より[新造])
湯のみの中のもののせいだけではなかった。 
_180_2(おんなは、幼い時から、なんとも恐ろしく勘が鋭い。それにつけても、阿記どのがいなくて助かった)
そうおもった途端に、銕三郎の顔に血がのぽってきた。
(左:栄泉『指人形秘戯物語』部分)

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2008.01.19

与詩(よし)を迎えに(29)