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2007年12月の記事

2007.12.31

与詩(よし)を迎えに(11)

長谷川さま。お部屋へお導きいたします」
荷運びの雲助・〔風速(かざはや)〕権七(ごんしち)を見送った銕三郎(てつさぶろう)が引き返すと、上がりがまちに、女中の衣装に着替えた都茂(とも)が待っていた。
「おや。都茂どのは、女中もなさるのかな」
銕三郎が問いかけた。
「あら。わたしはもともと、〔めうが屋〕の女中でございますよ。たまたま、お嬢さまのお迎えに平塚まで出向いただけなんです」
都茂さんが女中頭とは、これは、好運というもの」
「なんの運でございます?」
「小田原宿で供の藤六(とおろく)を先発させてしまったので、いささか、こころ細くおもっていたところなのです」
長谷川さまがこころ細いだなんて、信じられません。なんでしたら、その藤六さんとやらの代わりに、わたしが府中までお供をしてもよろしゅうございますよ」
「そんな冗談を言うと、ここのご亭主に叱られますぞ」
「いいえ。本気です」
なにが可笑しいのか、都茂は笑いころげた。

そこへ、むすめ風に着替えて奥から現れた阿記(あき)が、
都茂さん。長谷川さまがお困りじゃありませんか。ムダ口をいってないで、早く、ご案内をおし」
都茂は、阿記に見えないようにちろりと舌をだしてから、改まった口調で、
「いい塩梅(あんばい)に、離れのお客さまが、朝、お発ちになっておりましたので、そちらを、長谷川さまに---との主人の申しつけでございます」
「それはかたじけない」

ほとんどの湯治の客たちは、表の2階に逗留している。
離れは、母屋から半丁ほど離れたしもた家風につくってあり、表の雑音がほとんど達しない。
「忍びあいに向いていますな」
「今夜、わたしが忍んで参ってもよろしゅうございますよ」
「いや。母上に叱られます」
「冗談なのに、長谷川さまは正気なんだから。湯舟は、この戸の向こうです。誰も参りませんから、お独りでごゆっくり、お疲れをおほころばせくださいませ。なんでしたら、わたしが背中をおこすりしてもよろしゅうございます」
「いや。ありがたいが---」
「こんなおばあちゃんだと、お母上に叱られます、ですか」
都茂は、また、笑いころげながら、いささかうらめしげな光がこもった目を伏せた。

母屋へ引き返す都茂に、銕三郎がやさしく言った。
「ご女中頭どの。拙が湯浴(ゆあ)みを終えたころあいに、ご亭主どのへ、ここへ顔をお見せくださいと頼んでおいてくだされませぬか」
「承知いたしましてございます」
背を向けたまま、都茂が応じた。

硫黄(いおう)の臭いの強い、黄色い色合いの湯が湯舟にあふれている。
真水のあがり湯で流してもながしても、肌についたつるつるが落ちない。
部屋へ戻ると、炬燵(こたつ)に炭火が入っていた。
高地なので、冷気が、まだきつい季節だ。

〔めうが屋〕の亭主・次右衛門がやってきた。
「ご亭主どのは、この地にお永いのでしょうか?」
「畑宿(はたしゅく)村から婿に入って、30年になります」
「それは、それは。ところで、ご同業の三島宿本陣・樋口伝左衛門どののことですが---」
「去年、お亡りになりました先代のほうですか、それとも、襲名なさったいまの伝左衛門どの---」
「えっ?、伝左衛門どのがお亡くなりになった---存じませぬでした」
「去年のいまごろ、脳卒中とうかがっております」
「で、襲名なさったのは、ご子息?」
「いえ---お嬢さまに、府中の脇本陣・〔大万屋〕さんから婿ををお迎えになって---」
「お嬢さまって---4年前に泊まったときには、いなかったようだが---」
「先代は艶福な方らしく、脇におつくりになっていて、お嫁にお出しになったのに、数年で後家におなりになり、幸いといっては失礼にあたりますが、先代のご内儀が3年前に歿されたので、家へ入れになったのだそうでございます。それはお美しくお上品な、芯のしっかりなさったご新造さんだそうで---お名は、なんでも、お芙美(ふみ)さんとか、お芙沙(ふさ)さんとか---」
「あの芙沙---さん」
「はい。同業の仲間内では、あの方がお継ぎになったから、〔樋口屋〕はご安泰、と評判です」
「ほう。いちど、お目どおりを願いたいものですな」
「ご紹介状をしたためましょうか」
「いや---じつは、こたびも、三島での宿は〔樋口屋〕がとってあるのです」

次右衛門が引きさがったあと、銕三郎は掌の汗をぬぐっていた。
(おれが宿泊したら、お芙沙はどんな顔をするだろう。歓待してくれるか。4年前の夜のことはなかったこととして黙殺するか。宿賃を前払いしているのだから、おれが行くことは存じていることになった)

炬燵に足をいれて横になっているうちに、うとうと、まどろんだらしい。
長谷川さま」
声にあけた目のまん前に、女の顔が---。

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「あっ」
凝視。

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「なんだ、阿記どのか」
「なんだ、阿記どのか--とは、どういう意味でございますか?」

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(国芳『江戸錦吾妻文庫』[扉絵])

銕三郎が起きあがると、阿記は差し向かいの形で、炬燵の反対側に足を入れた。

長谷川さま。お気にさわったら、いつでも、そのようにおっしゃってください」
阿記は、そう、前置きしておいて、父・次右衛門から、銕三郎が、〔樋口屋〕のお芙沙と面識があるのではないかと聞いたが、
長谷川さま。4年前のお旅で、後家になられたばかりのお芙沙さんと、わけありにおなりになったのではございませんか?」
阿記どのは、客商売の老舗育ち、さすがに鋭い---なれど、4年前といえば拙は、まだ、14歳ですぞ」
「なにが、まだ---なものですか。大人のおんなからみれば、14歳は、りっぱな男性でございます」
「ほう---」
「ごまかさないでくださいませ。大人のおんな、と申し上げました。つまり、結婚とかなにかを考えなくてもいいおんなということです」
「なるほど---」
「まだ、しらっぱくれていらっしゃいますね。観念して、白状なさいませ。なにがあったのでございますか? 4年前にお芙沙さんと---」

銕三郎のあたまの中には、いつもの絵が浮かんでいた。

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(歌麿『歌まくら』[後家の睦]部分)
【参照】2007年7月16日[仮(かりそめ)の母・芙沙(ふさ)]
2007年7月24日[仮(かりそめ)の母・お芙沙(2)]

阿記どの。拙からの問いにお答えくださったら、拙も正直にお話しします。阿記どののこんどの里帰りは、ただの里帰りですかな。それとも---」
「はい。縁切りのつもりの里帰りです。もう、平塚へは戻りません。旬日で、鎌倉の松ヶ浦の尼寺・東慶寺へ足かけ3年(実際は丸2年)、お世話になるつもりでおります。父母も承知でございます。
はい、わたしは告白しました。こんどは、長谷川さまの側でございます。さあ、さあ---さあ、さあ」
「なぜ、拙とお芙沙さんのことに、おこだわりになるのですか?」
「また、ずるい。でも、申しあげます。〔樋口屋〕さんに、お泊りなってはなりません。お芙沙さんにとっても、長谷川さまにとっても、よい結果にはなりません」
「拙も、そのつもりになってきております。これで、阿記どのご推察どおりの返答になりましたね」
「許してさしあげます」
2人は、はればれと笑った。
銕三郎は、成人期の関門の一つを無事に越えたつもりになった。


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2007.12.30

与詩(よし)を迎えに(10)

「む? この匂いは---」
双子山の北はずれ---芦の湯村の近くで、銕三郎(てつさぶろう)は、ものが腐っているような異臭を感じた。
「芦の湯の売りものの、硫黄(いおう)の匂いでございます」
阿記(あき)の声がころころと嬉しげにはずんでいる。生まれ故郷の香りが誇らしげだ。

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(箱根七湯 『東海道名所図会』)

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(上掲絵の部分拡大)

村のとば口で立ち止まった阿記は、銕三郎に寄りそい、小声で、
「長谷川さま。お願いがございます」
硫黄の匂いに、阿記の髪の香油の香りがまじる。
「なんでしょうかな?」
「村人の口がうるそうございます。わたしと都茂(とも)は、ここから先に参り、家へ戻ります。長谷川さまは一と息遅れて〔めうが屋〕へお入りくださいませ」
「あいわかりました。都茂さん。権七(ごんしち)どのと昼を摂りたいゆえ、2人前の食事を頼んでおいてください。飲み物のほうも忘れずにな」

権七が驚いたような声をだした。
長谷川さま。あっしに奢ってくださるんで?」
「そのつもりだが---嫌ですか?」
「滅相もない。こいつぁ、豪儀だ」

芦の湯村には20軒ほどの湯治旅籠があるが、〔めうが屋〕は、畑宿(はたしゅく)村の実力者・茗荷屋畑右衛門の一族というだけあって、店がまえも広く、中でももっとも大きい旅籠で、村の入り口近くにあった。

「湯は昼飯のあと」と断った銕三郎が、権七の盃へ酒を注いでいると、宿の主人・次右衛門があいさつに現れた。宿泊の礼をきまり文句で述べたあと、
「先刻は、むすめたちをお助けいただいたそうで、かたじけなく存じます」
「いや、ご亭主どの。礼は、権七どのへ申されよ。権七どのが気やすく応じてくださったればこそ、です」
権七が酒にむせる。
権七さん。ご配慮、ありがとうよ」

次右衛門が去ると、権七が言った。
長谷川さま。あなたというご武家さまは、齢に似合わず、人たらしの名人でごぜえますな」
「たらしてなど、してない」
長谷川さまのような人あしらいをされちまうと、この権七めにかぎりません、どんな荒くれでも、長谷川さまのためなら---と心にきめますぜ」
「そうであって、ほしい」
「そうでありますとも」
「ま、飲(や)ってください」

食事を終えた権七が、
長谷川さま。お帰りの節、かならずお手伝いをさせてくだせえよ」
「日時を、箱根の関所へ、きっと、伝えておくゆえ、頼みましたぞ」
「そうそう。いわでものことですが---。あの、阿記とかいうご新造さんも、大年増の都茂さんも、長谷川さまにぞっこんの気配ですだ。くれぐれもご要心を---」
「なにを愚かな---」
「いやぁ、この〔風速(かざはや)〕の権七、女を観る目はたしかでさあ」
「一泊だけの客です。気をまわしてはなりません」
「ま、湯蛸(ゆだこ)になって食われてしまわねえよう---せいぜい、気をおつけなすって。では、お帰りをお待ちしとります」

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2007.12.29

与詩(よし)を迎えに(9)

小田原から3里(12キロ)、七曲り八折れしながら登り坂を歩いてきた。早春だというのに、汗がとまらない。
畑宿(はたしゅく)村が近い。

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(箱根道・畑宿村付近 左・箱根駅 右・小田原宿から
『東海道分間延絵図』)

銕三郎(てつさぶろう)は、その村の茶店で一休みするつもりで、坂を上っていると、饅頭形の菅笠がころがってきた。
受けとめ.る。紫色の緒がついていた。
坂の上の2人の女性に、雲助が因縁をつけている声が聞こえてきた。

「笠は、こなたの方のものですかな?」
銕三郎が割ってはいって、女性に声をかけた。
若い新造風と大年増が、
「ありがとうございます」
すがりつくような目で、礼をいいう。
銕三郎は事態を察した。小田原から荷を背負ってきた雲助が酒代をせびり、応じなかった侍女の菅笠を、放りなげてすごんだのだ。

「笠を拾ったのもなにかのご縁。どうだろう。ご両所に代わって、拙がお手前の言い分を聞こうではないか。いや。申しおくれた、拙は、府中奉行の朝倉どのの身内で、長谷川宣以(のぶため)といいます」
府中奉行の名前をだしたのが効いたらしい。
「ご武家さまが話を聞いてくださるなら、それでもいい」
「では、あらちで、聞かせていただく」
銕三郎は先に立って、女たちから離れた。

「どういうことかな?」
「小田原での取り決めは、畑宿まで、坂登りできまりの400文、酒手を別に100文だった」
「それで?」
「湯本の茶屋で休んだときに、大年増のほうが、自分の荷もわしへ渡した。それで、別口の400文を請求しただが、湯元からだから半分の200文にしてくれとぬかしやがった」
「それは、お手前の言い分がまっとうだな。あいわかった。これで話がついたことにしてくれないか」
銕三郎が小粒を2個、雲助に握らせると、とたんに態度が軟化した。
「ところで、こちらは名乗った。して、お手前の名は?」
「名なんか、どうでもいいではねえか」
「いや、失礼した。じつは、府中奉行のむすめごを、江戸へ連れに行くところで、そのときの荷物運びに、お手前を指名したいとおもったのでな」
「そういうことなら---権七(ごんしち)と呼んでくだせえ」
「あいわかった。権七どの、帰りの日時は、前もって箱根関所へ通じておくから、よしなに頼みますぞ」
「若いのに、まあ、話の通じるご武家さまだ。おらぁ、たまげたよ」

2人連れの女性の行く先は、芦の湯とのこと。
「じつは、手前も、芦の湯で脚休めをするところです」
「よろしければ、ごいっしょ、お願いできましょうか?」
権七どの。そういうことだ。荷運びは芦の湯までだが、向こうに着いたら、畑宿村から芦の湯までの荷運び賃は別にはらう」
「がってんでさぁ」

道々、聞いたところによると、若い新造風は阿記(あき)といい、眉は落としていないが、平塚の太物商い〔越中屋〕の内儀で、実家へ里帰りするところだという。実家は芦の湯の旅籠〔めうが屋〕とのこと。侍女はお都茂(とも)と。
「じつは、芦の湯の宿を決めていないです」
「それなら、どうぞ、わたしの実家へお泊りください。先刻のお返しもいたしたいし」
「これは重畳。お言葉に甘えてご厄介になります。ところで、差しつかえなければ、小田原から権七どのに、畑宿村まで、と頼まれたわけは?」
「畑宿の名主・茗荷屋畑右衛門が一族なので、荷物を預かってもらい、あとで実家の者を引き取りに行かせるつもりでした」
阿記のいいわけである。

芦の湯は、畑宿村はずれを右に折れて小1里(約3キロ)。

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(上掲図の畑宿村はずれの拡大 道を横切っている左端細尾石橋の
先から右へ折れる小道が芦の湯へ28丁)

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(赤○=芦の湯  赤細線=山道 青○=畑宿 緑○=箱根駅
明治19年製版の地図)


 

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2007.12.28

与詩(よし)を迎えに(8)

(はて。あの男、〔荒神屋(こうじんや)〕の助太郎(すけたろう)ではないのか。京師の東のはずれの荒神口に太物(ふともの 木綿の着物)の店をだしているとかいっていたが、また、下ってきたのか?)

銕三郎(てつさぶろうが)が不審におもった男は、万能薬と評判の〔透頂香(とうちんこう)〕を商っている〔ういろう〕店の向いで、帳面になにやら書き込んでいる2人づれである。

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ういろう屋 (『東海道名所図会』)

4年前に駿州・田中城や志太郡(したこおり)の小川(こがわ)への旅の途次、箱根の芦ノ湖畔で話しかけられ、沼津で別れた。
【参照】2007年7月14日~[〔荒神〕の助太郎] (1) (2) (3) (4)

その時の助次郎は一人旅だったが、こんどは、25,6歳の精悍な男づれである。
助次郎のほうは相変わらず、細身をたもっているが、そろそろ、40の代の半ばのはず。

あのとき、いっしょだった老僕の太作(たさく)は、絵図面師かも---と見たが、当人は妻女と太物屋をやっているとはいっていた。余裕ができると、ほうぼうの風景を写生してまわるのと、大店の表がまえを写し描くのを趣味にしているとも、本人の口から聞いた。

声をかけるかどうか一瞬、迷ったが、〔ういろう〕店に出入する姿は認められるにきまっている。
こころを決めて、声をかけた。
「〔荒神屋〕の助太郎どのではありませぬか」

呼びかけられた助太郎は、瞬時、びくっとしたが、銕三郎を確認すると、たちまち、細い目を柔和な笑みに変えて、
「おや---長谷川さまでは---こんなところで---。ごりっぱな若衆におなりになっているので、咄嗟に、わが目を疑いました。お久しぶりでございます」
「京ではなかったのですか?」
長谷川さまこそ、どうして小田原へ?」
「府中(静岡市)への途次です。助太郎どのはいずれへ?」
「これの母親の病気が重いということで---下総へ」
と連れの男を目で指し、
「あ、娘婿の彦次でございます。これ、ごあいさつしないか。お旗本の長谷川さまの若さまだ」
彦次と申します。お初にお目にかかります」

助太郎どのの四方山(よもやま)話しもお聞きしたいのですが、この店で〔透頂香(とうちんこう)〕を求めたら箱根越えです。先を急ぎますので---」
銕三郎はそういって、彦次の母親の分の〔透頂香(とうちんこう)〕も小さな包にしてもらって店の外へ出てみると、2人は消えていた。
東海道の大磯のほうを見やったが、その姿はなかった。
(相変わらずの速脚だなあ)

あきらめた銕三郎が、箱根口のほうへ去ると、〔ういろう〕店の向いの家の脇の猫道に潜んでいた2人がぬっと現れた。
「危ないところであった。彦次がうまく口うらを合わせてくれたので助かった」
長谷川とかいいましたか、あの若侍さん?」
「そうだ。父ごは、小十人組の頭(かしら)といっていたから、のちのちには先手の組頭、そして、火盗改メだ」
「くわばら、くわばら」

荒神〕の助太郎は、まさか、銕三郎の父・平蔵宣雄(のぶお)が、火盗改メから京都・西町奉行として赴任してくることも、そのあと、銕三郎が火盗改メとなった〔鬼平〕に、娘の二代目〔荒神〕のお(なつ)が追われることになろうとは、このときは予想もしていない。

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2007.12.27

与詩(よし)を迎えに(7)

藤六(とうろく)。おぬし、一足先に駿府へ参り、 おれの到着が一日か二日遅れると、朝倉ご奉行の役宅へ通じておいてくれぬか」

小田原の脇本陣〔小清水伊兵衛〕方を発つ朝、銕三郎(てつさぶろう)は、供の藤六(45歳)に命じた。
「若、お疲れですか?」
「うん。久しぶりの遠出で、いささかくたびれておる。それで、箱根の湯に、一日、二日か、浸(つ)かって行きたい。これは、駿府で、おれを待っているあいだの、夜の軍資金だ」
「これは、どうも---。それでは、お言葉のとおりにさせていただきます」
「うん。おれはこれから、、〔ういろう〕へ立ち寄って、朝倉ご奉行への見舞いの〔透頂香(とうちんこう)を求めてくる。おぬしは、先をいそげ」
「はい。駿府でお待ちしております」

箱根道へ急ぐ藤六の背中へ、声にはださず、銕三郎は胸の奥でつぶやいた。
(してやったり。三島での一日がこれで得られた)
三島へは昼に着き、大社の裏のお芙沙(ふさ)の消息を近所で聞いてみるつもりなのだ。

さて---。
このアーカイブの書き手は、ずっと、思案しつづけてきた。というより、探しつづけてきた。
なにを? 銕三郎がお芙沙に再会できたとして、その様子を伝える絵を、である。
4年前の初めての出会いの姿は、なんども引いたように、歌麿『歌まくら』[若後家の睦(むつみ)]に象徴させてきた。

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偶然に出会ったこの絵、着衣とはいえ、銕三郎がお芙沙に抱いているイメージに、あまりにもぴったりしすぎていることに、あとで気がついた。

で、4年後---銕三郎は18歳、お芙沙は30歳になるかならぬか。その2人の出会いにふさわしい絵をさがしまくったのだが、出会わない。
芙沙は後家か人妻だから、眉を落としていなければならない。

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(北斎『ついの雛形』[豪的なおんな]部分)

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(北斎『させもが露』[好色女の独言]部分)

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さすが、北斎。法悦の境地をただようこの面もち---とくに、見るでもなく、閉じるでもない双瞳には瞠目(?)。

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(北斎『させもが露』[好色女の独言]部分)

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(北斎『させもが露』[夫婦の戯れ]部分)
裸は品格がもう一つ。やはり、着衣の柄や色合いも色気の一つですねえ。

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(北斎『させもが露』[若後家の好色]部分)

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(北斎『多満佳津良』[男髪結と女房]部分)

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(北斎『多満佳津良』[養母の色道指南]部分)

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(歌麿『絵本笑上戸』[後家]部分)

歌麿も『歌まくら』の時期がいいのかも、なあ。手をつくしてどうでも、『歌まくら』を見つけないとなあ・

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(国貞『艶紫娯拾余話』[杉生]部分)

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(国貞『艶紫娯拾余話』[水原]部分)

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(英泉『春情指人形』[どうもどうも]部分)

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(英泉『春情指人形』[夏の夜の営み]部分)

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(国芳『江戸錦吾妻文庫』[後家の介抱]部分)

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(国芳『江戸錦吾妻文庫』[舐乳]部分)

どうも、どれも、銕三郎が描いているイメージではなさそうだ。歌麿の若後家の、匂うように上品で、それていて秘めた色気がほしいのだ。

これでは、銕三郎をお芙沙にあわせるわけにはいかなくなってきてしまう。

それでも、読み手の方々が、だれそれの絵でいいのでは---とおっしゃるのであれば、ご支持にしたがうのにやぶさかではない。


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2007.12.26

与詩(よし)を迎えに(6)

銕三郎。これは、道中の小遣いである。なんになと、使うがよい。旅籠の支払いは、前のときと同じで、すでにとどけてある」
あすは駿府へ旅立つ前の日の夕餉(ゆうげ)のとき、父・平蔵宣雄(のぶお)がかなり重い金袋を渡してくれた。

「かたじけのう。遠慮なく頂戴いたします」
「こんどは、親類中から餞別を集めていないらしいゆえ、それぐらいは必要であろう」
「はっ。どうも。あの節は、見苦しいことをいたして申し訳こざいませぬでいた」
「もう、よい。すんだことをくよくよと悩むでない」

4年前に銕三郎は、あることを調べるために駿州・藤枝宿はずれの田中城まで、旅をした。初めての旅という口実を使って、親類中をまわり、餞別をたっぷり集めたのだ。

その旅には、銕三郎にとって、思いがけない人生体験が待っていた。女躰に初めて接したのである。
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【参照】2007年7月16日[仮(かりそめ)の母・芙沙(ふさ)]
2007年7月24日[仮(かりそめ)の母・お芙沙(2)]

夫を亡くしたばかりのお芙沙に出会い、男になった。豊饒な体験であった。お芙沙のやわらかな女躰が発した、山百合のそれのように濃密な香りが、いまでも鼻あたりで匂うよう気がすることがときどきある。
(4年も前のことなのに。以来、女躰には触れていない。塾の悪童たちからしきりに誘われるが、お芙沙を裏切るようで、そういう場所の女は、抱きたくない)

(お芙沙に会うことがかなうやもしれない)
そう思っただけで、股間が固くなってくる。そういう年齢なのだ。股間もお芙沙を求めてうずく。
自分でも怖いほどに再会を熱望している。
(元服名・宣以 のぶため となったと告げたら、お芙沙は「やはり、わたしには、(てつ)さまです」というだろうか)
とめどもない。

銕三郎は、妄想をふりはらって、書物奉行筆頭の中根伝左衛門正雅(まさちか 75歳 書物奉行筆頭 廩米300俵)のところの小者がとどけてくれた、駿府町奉行・朝倉仁左衛門景増(かげます 61歳 300石)の経歴書に、しばし専念することにした。

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駿府奉行は1000石高だが、役料が別に500俵。奉行所には与力8騎、同心60人。
(身内でいうと、本家の主膳正直(まさなお 54歳 徒(かち)の頭 1450石)伯父とおもって対すればいいか)。

銕三郎は、自分の意見を気はることも気おくれもしないで坦々というが、年長者の言うことも最後までうなずきながら聞くので、彼らからは不思議と可愛いがられるほうだ。
朝倉のじいさんは病床にあるときいている。小田原で〔ういろう〕でも買って行こう)。

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2007.12.25

与詩(よし)を迎えに(5)

中根さま。朝倉ご奉行の最初の奥方に嫁がれた、大木(400石)さまのことをお伺いしてよろしゅうございますしょうか?」
「先代の孫八郎親次(ちかつぐ 82歳卒)どのですかな、それとも、当代の喜兵衛親祇(ちかまさ 53歳 新番の2番手組頭)どののほうですかな」

銕三郎(てつさぶろう)は、そこまでは意識していなかった。嫁いだ人はも、朝倉仁左衛門景増(かげます 61歳 300石)が駿府の町奉行(1000石高 役料500俵)として赴任する前に、江戸ですでに亡じている。
中根伝左衛門正雅(まさちか 75歳 書物奉行筆頭 廩米300俵)は、温和な目に、興味深げな色をうかべて、銕三郎の問いかけを待っていた。

「いえ、大木さまの菩提寺が、わが家とおなじ、四谷・須賀町の戒行寺なものですから、どのようなお家柄かと---」
「そのことでしたか。大木家は、武田勢の流れです。長谷川どのは法華宗でしたな。推察ですが、大木どのは身延(みのぶ)のご縁やもしれませぬな。屋敷はたしか、三番町。ご当代は、新番・2番手のお組頭が長いようです」
「あの、お逝きになった方には、お子は?」
「あったとしても、江戸の屋敷にお住まいでしょうが、もう、相当のお齢ゆえ、男子なら養子に、女子なら嫁がれていると考えたほうがよろしいでしよう。お子がなにか?」
「駿府に迎えに行きます養女がj6歳なので、いじめにでもあっていたら案じましたが、なるほど、朝倉ご奉行のお齢をからしますと---これは、杞憂でした」

「それで、いつ、お発ちかな?」
「あと、3日のうちでございます」
「それまでに、朝倉ご奉行のご経歴をお届けいたしましょう」
「あ、お手数をおかけして、恐縮に存じます」
「なんの、なんの。銕三郎どのに妹ごができる慶事のお役にたてば、老骨の喜びでもありますわい」

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2007.12.24

与詩(よし)を迎えに(4)

「駿府の朝倉ご奉行(仁左衛門景増 かげます 61歳 300石)の2番目の奥方は離縁---また、何ゆえでございましょう?」
銕三郎(てつさぶろう)は、うっかり質(き)いて、恥じた。
他家の内緒(ないしょ)ごとに立ち入ってはならぬと、父・宣雄(のぶお)から、きつく言われている。

中根伝左衛門正雅(まさちか 76歳 書物奉行筆頭 廩米300俵)が応えた。
「さあ。そこまでは、届け書には記してありませんが、女子の出生届けと、奥方の離縁届けが同じ日になっているところをみると、その女子の誕生にかかわることかもしれませんな」
「その、女子の誕生は?」
「宝歴8年だったような---」
「と、すると、いま6歳---」
「そうなりますかな」
「冗談ではない。与詩(よし)だ」
「いま、なんといわれました?」
「いえ。なんでもありません」
「そうですか。それで、同じ年に3番目の奥方をお迎えになり申したが、なんでも、20歳のお若い女性(にょしょう)だったようです」
志乃(しの)どのです」
「ほう---」
「わが家に養女にきた多可の、従姉(いとこ)です」
「すると、飛騨・加納藩(3万2000石)の江戸詰の三木---忠大夫(ちゅうだゆう)と申されたかな。そのご仁の---」
「兄の子と聞いています」
銕三郎どの---」
「はい」
長谷川どのには内緒にしてくだされますかな」
「なんでございましょう?」
「その、2番目の奥方のことじゃ」
「つまり、6歳の与詩の実母---」
「そのお方は、駿州の天領地のご代官・平岡彦兵衛良寛(よしひろ 51歳 200俵)の妹ごとなっており、朝倉どのが駿府のご奉行に赴任されときに、身辺のお世話をしていて、奥方になられたようで---」
「------」
「それが、平岡どのの実の妹ではなく、養女---」
「養女?」
滝川家ゆかりの女性(にょしよう)らしく---」
滝川といわれますと、織田右府信長)さまの重職だった?」
「はい。しかし、その女性(にょしょう)の父親・滝川無久(むきゅう)なるご仁は、徳川の家臣にはおりません。平岡良寛どのの亡父・良久(よしひさ)どのが山城の代官時代にでも知りあった、滝川一族の中の浪人でしょう。いや、出自はともかく---」
中根伝左衛門は、駿府定番から帰任した大番の番士から聞いたところによると---平岡家の養女を、赴任してきた朝倉ご奉行の身辺のお世話をするように持ちかけたのが、平岡代官だったとか。そのときも、その女性(にょしょう)は20歳をすぎているように見えたと。
朝倉奉行は53歳だったから、女性(にょしょう)の年齢は気にならなかったろうと、彼女が妊娠して2番目の奥方になおったときの、番士たちの無責任なうわさだった。

宝暦8年(1758)---すなわち、与詩が生まれた年、加納藩(3万2000石)の江戸詰・三木久大夫が、藩主・直陳(なおのぶ)の帰国で駿府に停泊したとき、直陳がとつぜん、体調をくずして旬日の滞在となった。久太夫は何度か町奉行の朝倉景増と打ちあわせで会っているうちに、亡妻とのあいだにできていた娘・志乃を江戸から呼んで、懐妊中の2番目の奥方に代わって、身辺の世話がかりにする話がついた。
そして、奉行はこの20歳の志乃にも手をつけ、たちまち懐妊。そのことが2番目の奥方の耳に入るや、重い気欝になり、やがて、離縁ということにまでなった。

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2007.12.23

与詩(よし)を迎えに(3)

「お取りこみご多用のところ、私ごとの些事をお願いいたし、恐縮に存じます」
「なんの、なんの。銕三郎(てつさぶろう)どのは、親戚も同然ゆえ。しかも、養女のことは手前がおすすめしたことでもありますから---」
中根根伝左衛門正雅 まさちか 76歳 廩米300俵)邸である。
3年前よりもさらに歯が抜けてしまっているので、伝左衛門の言葉は、聞きとりにくい。

老僕の太作が書箋をとどけた2日後が伝左衛門の非番で、依頼した調べはすませいくれていた。

取り込み---銕三郎が言ったのは、伝左衛門が2年前に迎えた養子---花井惣右衛門貞辰(さだとき 当時67歳 甲府勤番 260俵)のニ男・忠三郎正庸(まさつね 28歳 無役)に、最初の女子が生まれたばかりであることを指している。

3年前、築地の長谷川邸を訪れた伝左衛門を、銕三郎が付きそって牛込逢坂まで送ったときには、忠三郎正庸の養子の件は決まっていなかった。
当主が50歳を過ぎてからの継嗣養子は手続きがいろいろと面倒なこともあるが、伝左衛門の場合は、実の息子への愛着が強かったのと、自分が職に執着して家督を遅らせた自責の念もあり、このまま家名を絶ってもとひそかに考えもし、養子縁組を後(おく)らせていた。

そんなこともあって、伝左衛門は、亡息・銕之助(てつのすけ)と同じ「」の字を名にもつ銕三郎に特別の親しみを感じたらしく、自分が11歳で天野家から中根家へ養子に入ったときの生ぐさい話しを打ち明けてくれた。
というのは、若くて後家になった家付きむすめの義母の情事についてのことだった。養子だった28歳の夫が、大坂定番で赴任中に病死したのである。帰任まではと張り詰めていた決意がくずれたか、孤閨がまもれなくなり、養子の大助(のちの伝左衛門)につらくあたった。
寡婦の生理に気づいた大助は、その期間の夜は、義妹2人を連れて親類の家へ泊まりこんで難を避けることにした。

そのときの詳細は、2007年10月15日[養女のすすめ](2)
2007年10月16日[養女のすすめろ](3)

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(中根伝左衛門。緑○=継母と亡妻。黄○=養子の正庸)

「お2人目の養女をお迎えになるとか」
「はい。両親がそのように決めました。で、妹になる子を、手前が駿府へ受け取りにまいります」
「それは、重畳。先に養女になられた---」
多可です」
「そう。その多可どのは、まことにご不憫でしたな」
「こんどの養女は、多可の継姉に縁があるようです」
「そのようですな。じつは、ご依頼があったので、駿府のご奉行・朝倉朝倉仁左衛門景増(かげます 61歳 300石)どののご内室との婚儀届けをあらめてみました。後妻どのがおもうけになったおんなのお子のようですな」
「さあ。そこまでは存じませぬでしたが---」

多可どのの実父は、美濃・加納藩の松平侯のご家中でしたな」
三木忠大夫どの」
「さよう、さよう。齢なもので、遠いお方の姓名は咄嗟に出なくなりまして、失礼つかまつった---朝倉ご奉行の三度目のご内室も、その三木どののむすめごでござった」
「そのように聞いております」
「2人目のご内室が、離縁されていることも?」
「存じませんでした」

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2007.12.22

与詩(よし)を迎えに(2)

翌日。
銕三郎(てつさぶろう 諱(いみな)は宣以 のぶため)は、老僕・太作(たさく 57歳)を呼んだ。
「牛込ご門まで、使いをしてくれぬか」
「牛込ご門といいますと---」
「ご書物奉行の中根伝左衛門正雅 まさちか 76歳 廩米300俵)さまのところだ。いつだったかの夜、拙がお送りした。逢坂横町あたりだ」
「昼間ですから、あたりの店屋か自身番所で訊けば、たやすくわかるとおもいます」
「書状をとどけ、家僕にいちばん近い非番の日を教えてもらってきてくれ」
銕三郎は、昨夜のうちにしたためた書状を手渡した。

「若---」
「む。なにか、分からぬことでも---」
「さようではありませぬ。このたびの駿府行きにお供がかないませず、申しわけありませぬ」
「なんだ、もう、太作たちのあいだにまで知れているのか」
「このたびのお供は、殿さまから藤六(とうろく 45歳)が申しつかっております。あれはまだ若いし、しっかり者ですから、お供は大丈夫、勤まりましょう」
「そうか、藤六か」

太作は、にじりよって声をひそめた。
「若。三島宿で、大社の裏へいらっしゃってはなりませぬ」
「なにを申すかと思えば---」
「いいえ。若は、大社の裏をお訪ねになろうとお考えのはずです。しかし、それだけは、なさってはなりませぬ」
「なにゆえ、だ?」
「若。あれから、5年近く経っております」
「うむ---」
「女性(にしょう)にとって、20代の5年は、ふつうの齢の倍にも3倍にもあたるほど、変化がございます」
「3倍も、な」
「はい。その女性(にょしょう)の方は、いま、若さまと顔をあわせたら、ひどくお困りになるやもしれませぬ」
「そうときまったものでもなかろうが?」
「いえ。女性(にょしょう)の過去に立ち入るようなことはしないのが、まことの男というものでございます」
太作の忠告、しかと分かったから、安心していてよい」
「男と男の約束でこざいますぞ」
「うむ。男同士の約定だ」

しかし、銕三郎のこころのうちは、太作の言葉で逆に火がついていた。
(5年か。お芙沙(ふさ)も30歳近い。どんなおんなになっていることか)。

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(歌麿『後家の睦』部分 芸術新潮2003年1月号)

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(歌麿『歌撰恋之部 物思恋』

(お芙沙は、ときどきは、おれのことを思いだしていてはくれないのだろうか)。
(おなごは、処女(むすめ)のしるしをささげた男と、初穂を食わせてくれた男は忘れぬ---ものと、黄鶴塾の大久保が言っていたがなあ。お芙沙はおれの初穂を食った)。

【参照】2007年7月16日[仮(かりそめ)の母・芙沙(ふさ)]
2007年7月24日[仮(かりそめ)の母・お芙沙(2)]

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2007.12.21

与詩(よし)を迎えに

夕食に、母・妙(たえ)が同席した---といっても、膳はない。

(てつさぶろう)に、駿府へ行ってもらわねばならぬ」
父・平蔵宣雄(のぶお 45歳)が改まって切りだした。
「あの、駿府でございますか?」
「そうじゃ。じつは、こなたの母者とも相談の上のことだが、養女を迎えることにした」
「また、養女でこざいますか?」
「また---とは、なんという言い草じゃ}
「申しわけございませぬ。して、どちらからでございますか?」

「駿府の町奉行(1000石高 役料500俵)・朝倉仁左衛門景増(かげます 61歳 300石)どのの娘ごでの」
先手の組頭(1500石高)からの転任だから、ふつうの1000石高の遠国(おんごく)奉行では格下げになるということで、駿府になったのであろう。宝暦5年(1754)からだから、足かけ8年在任している。

が口をはさんだ。
「じつは、多可に従姉(いとこ)がいたことは知っておいででしょう?」
「はい。多可がわが家へ養女にまいるまえに嫁いでいたとか、聞きました」
「その、多可の従姉の嫁ぎ先が、朝倉さまなのです」
「え? 駿府町ご奉行の朝倉さまは、たしか、かなりのお齢とお聞きしておりますが---」
「この春、61歳におなりじゃ」
「すると---多可の従姉は---?」
妙が笑みをうかべて言う。
「20歳のときに嫁いだそうです」
「何年前のことでございますか?」
「5年前とか」
朝倉さまは56歳!」
「これ、頓狂な声をだすでない。駿府町奉行ともなれば、奥方なしでは職務がうまく運ばぬ」
宣雄が制した。
妙が言葉をたした。
「3人目の奥方としてなのです」

「というと、養女にしますのは、まだ赤子?」
「そうではない。2人目の奥方のお子じゃ。齢は6歳。名前は、与詩(よし)」
「6歳の与詩でございますか」
朝倉どのが正月から病い伏されていての。奥方の志乃(しの)どの---多可の従姉のお名だが、志乃どのから、多可との縁が薄れないうちに、できるだけ早くと申されてきた。そこで、銕三郎、そなたに、迎えにいってもらいたいのじゃ。東海道は初めてではないからの」

「わたくしも、多可がいなくなってから、こころ寂しゅうて---」
母のが、さも、こころ細げにい言ったが、銕三郎のほうは、それどころではなかった。
(もしか---もしかして、三島宿で、お芙沙(ふさ)に再会できるかもしれない。お芙沙は、あの家にいるだろうか)
一晩だけ交わったお芙沙の、大胆にうごきながらもはにかむような姿態が、よみがえってきた。

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(歌麿『若後家の睦』部分 芸術新潮2003.1月号より)
【参照】2007年7月16日[仮(かりそめ)の母・芙沙(ふさ)]
2007年7月24日[仮(かりそめ)の母・お芙沙(2)]

そんな銕三郎の心の動きを読んでいるだろうに、宣雄は無表情を装い、18歳---男子としては一人前の、わが子を眺めているのだった。

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2007.12.20

平蔵の五分(ごぶ)目紙(3)

「そういえば、源内(げんない 平賀)は、こんなことも申していたな」
側衆・田沼主殿頭意次(おきつぐ 43歳 相良藩主 1万石)は、場所が自分の下屋敷であること、集まっているのが気のゆるせる者たちであるせいだろう、いつもの酒量よりすごしたかして、口がなめらかだ。

「機略(きりゃく 発明)は、無から生まれるものではない---すでにあるものの新しい組みあわせによって、別の新しい器用(きよう 働き)が生まれるのだと」
「殿のいまのお言葉を、長谷川どのの〔五番手の碁盤目紙〕にあてはめますと、紙裁(だ)ち用の目安(めやす)紙と、清(しん)国渡りの書箋(しょせん)を新しく組み合わせた、ということでしょうか」
横田和泉守準松(のりまつ 29歳 西丸小姓 5500石)が、わかりきったなぞりをしてみせる。北京の文房四宝の有名店・栄宝斎の朱色罫入りの書箋を築地の屋敷に備えていることを匂わせたかったのだ。

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長谷川どのの〔平蔵の五分(ごぶ)目紙は、いまご覧になったものとは別に、もう一つございます」
ここぞとばかりに、本多采女紀品(のりただ 48歳 小十人組の頭 2000石)が同僚の平蔵宣雄の売り込みをはかる。

「ほう---どのような?」
勘定奉行(3000石高)の石谷(いしがや)淡路守清昌(きよまさ 48歳 500石)が鷹揚に受けた。

宣雄は、仕方なく、懐から取り出した手控え帳から小ぶりの碁盤目紙を引き抜いて、石谷淡路守に渡した。
その手控え帳は、30枚ほどの和紙を二つ折りにし、合わさった側を表紙ともども和書ふうに綴じたもので、大きさは紙入れほど、厚みは1分(いちぶ 3mm)なかった。
〔碁盤目紙〕は、二つ折りにした紙の間に入っていた。

長谷川どの。そちらの手控え帳は?」
淡路守が、渡された〔碁盤目紙〕を手に、宣雄の手控え帳に視線を向けた。
「はい。手前のはとりとめもないこころ覚えですが、組衆たちは、それぞれが己れの好みの主題を書きとめております」
「己れの好みといいますと---?」
「ある者は、その日の天候と風向きに寒暑。ある者は、毎日のお菜。またある者は、お城の下馬門脇の樹木のときどきの姿などなど---」
「なんのためでござるかな」
そう訊いたのは意次だった。
「なんのためと申しますより、組衆の気くばりが伸びればと存じまして」
「代わって申し上げます」
本多紀品が口をはさんだ。

「10組ある小十人組は、交替で営中の桧の間へ詰めておりますが、お上(将軍)はもとより、お供をすることもある重職方のご霊廟へのご代参の外出も、そうたびたびはありませぬ。そんなわけで、組の者たちはともすればお勤めがなおざりになりかねませぬ。 
それをおもんぱかった長谷川どのの、気分引き締めの観察養いで、効果は十分以上にあがっております。ゆえに手前の6番手でも、望む者には配ろうかと考えております」

意次が口元をほころばせながら言った。
本多どの。それならば、お急ぎあれ。お勤め変わりがあってからでは、手後れになりましょうぞ」
本多紀品は、はっと気がつき、頭を下げた。

本多采女紀品の、先手・鉄砲(つつ)の16番手組頭(くみがしら)への移動は、それから1ヶ月も経ない、その年の11月7日であった。


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2007.12.19

平蔵の五分(ごぶ)目紙(2)

「〔五番手の碁盤目紙〕を、いつ、どのように、思いつかれましたかな」
勘定奉行(3000石高)の石谷淡路守清昌(きよまさ 48歳 500石)がうながした。

佐渡奉行(1000石高)だった彼の、勘定奉行への大抜擢は、2年前の宝暦9年(1759)10月4日で、平蔵宣雄(のぶお 小十人頭 400石)や本多采女紀品(のりただ 小十人頭 2000石)がはじめて田沼意次(おきつぐ)の下屋敷に招かれた年のことであった。

いまでは前任者のうち、一色周防守政沆(まさひろ 72歳 600石 勝手(財務)をのぞき、前任者がすべて辞めたり転任して、石谷清昌は政策を立案しやすくなっている。
strong>意次の手まわしである。
高齢の一色周防守は、柔らかな性格で、ほとんど同僚や下役に異を唱えない。

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(4人の奉行の2人は公事(裁判)方がきまり)

宣雄が答えたことをかいつまんで記すと、30歳になるまで、当主で5歳年長の従兄(いとこ)・権十楼宣尹(のぶただ)の厄介(いそうろう)だった彼は、身の上だけは比較的自由であった。知行地の新田開拓の監督に行かないときには、知行地の名主・戸村五左衛門から次の村の名主へと申し送るように紹介状を書いてもらい、上総(かずさ)、下総(しもうさ)、安房(あわ)などの村々を旅していることが少なくなかった。
訪れた村むらの中に、田づくりよりも紙づくりに精をそそいでいる小村があった。そこの村長(むらおさ)の家で、漉きあげた100枚近い紙を、規格の寸法に裁つのに、線が刷ってある基(もと)紙をあて、それに乗せた分厚い定規板紙裁ち包丁を沿わせて切っていくのを見て感心し、心にとめた。
小十人組の五番手の頭(かしら)を仰せつかったとき、組下のものが記録している『御勤日録』の文字の大きさが、人によってさまざまなので、もっと読みやすくできないものかと考えているうちに、かの山村での裁断の当て紙のことを思いだし、ついでに、文字の大きさもそろえようと考えてつくったら、用紙が7割方減ることになったと。

つまり、いまの原稿用紙に似たものである。

「すると、用紙の節約は、結果でございますか?」
訊いたのは、川井次郎兵衛久敬(ひさたか 37歳 小普請組頭)。
「さようです。紙を使う量を減らすことは、初手には考えつきませぬでした。ただただ、揃った字の日録にするには---との思いだけがありました」
「いや。長谷川どがいわれたこと、じつにうがったお話しです。組衆に、紙を節約するための〔碁盤目紙〕だといえば、不服をとなえる偏屈者も出てまいりましょう。それを、字をそろえて読みやすく---といえば、誰も傷つかず、みんな気をそろえてとりくみましょう。その結果は、いわずしての用紙の節約---税もそのようにいきたいもの」
すぐに気がまわるところが、いかにも石谷淡路守らしい。

それに、田沼意次がつけたした。
「かの奇才・平賀国倫(くにとも 源内のこと)も申していたが、機略(きりゃく 発明)というものには、そのことをつきつめていってことがなったものと、別のことを狙ってつくったはずなのに、思いもよらない新しい働きが生まれたものとの2通りがあるとな」


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2007.12.18

平蔵の五分(ごぶ)目紙

長谷川どの。いま営中で評判の、〔平蔵の目紙〕というものを、ご披露ねがえませぬかな?」
席へ落ち着くなり、勘定奉行(3000石高)の石谷(いしがや)淡路守清昌(きよまさ 48歳 500石)がきりだした。
平蔵宣雄(のぶお 44歳 小十人組の頭)が石谷清昌と私ごとでこう間近で向きあうのは、3年前の宝暦9年(1959)の秋に、田沼意次の下屋敷で会って以来であった。
【参考】2007年7月25~28日[田沼邸] (1) (2) (3) (4)     2007年7月29~ [石谷備後守清昌] (1) (2) (3)    

「これは、恐れ入ります。そのようなことが、淡路(あわじ)さまのお耳にまで達していましょうとは---」
「いや、拙も耳にしているぞ」
笑顔で言ったのは、この屋敷の主・側衆の田沼主殿頭(とのものかみ)意次(おきつぐ 43歳 相良藩主 1万石)。

じつは、この年---宝暦11年6月にの薨じた家重の喪事と、将軍職の継承の諸事もほとんど片付いたので、久しぶりに浜町(蛎殻町)の下屋敷で、くつろいだ食事をしたいからと、宣雄本多采女紀品(のりただ 48歳 小十人組の頭 2000石)、佐野与八郎政親(まさちか 31歳 西丸小姓組)が招かれた。

田沼の息がかりは、石谷清昌のほかに、横田和泉守準松(のりまつ 29歳 西丸小姓 5500石)、川井次郎兵衛久敬(ひさたか 38歳 小普請組頭 530石)がはべっている。
横田家の祖は武田方からの幕臣入り、川井家の祖は遠江の出で今川方の徳川家への奉仕---よほど意次に目をかけられているのだろう。

酒と肴が出る前に、平蔵宣雄は、
「せっかくのお声がかりなので、不本意ながら---」
そう謙遜の辞をのべ、懐から厚めの美濃紙をとりだして、淡路守清昌の前に差し出した。
清昌がそれを、意次へ渡す。
意次から和泉守準松へ、そして、川井久敬へ。

それは、美濃紙に碁盤の目のような桝目を刷らせたものであった。

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久敬が訊く。
長谷川どのは、この〔平蔵の目紙〕---失礼、世間の呼び名に従いましただけです、これを組衆全員にお配りとか---」
「はい。幸いにも、手前の5番手組には、目が弱った者がおりませんので---」
「拝見しましたところ、この桝目は1寸(いっすん 約3センチ)の半分、5分(ごぶ 1.5センチ)ごとの目のようですな---」
「ゆえに、〔五番手の碁盤目紙〕とか、〔平蔵の五分目紙〕と呼ばれておるようでございます」
宣雄が赤面した。

「〔五番手の碁盤目紙〕とは、いいえておるのお。はっははは」
意次が細い目をさらに糸のように細めて笑った。
宣雄は恐縮の体(てい)で、首を縮める。
そこへ、井上寛司が指揮して、酒と肴が運ばれてきた。

「おお、わが屋敷の名用人どのよ。ちょうどよりおりじゃ。長谷川どのの公費の節約ぶりを勉強させていただくがよい。とくと拝見なさい」
意次は、〔平蔵の五分目紙〕を筆頭用人の井上寛司へ渡す。
突然のことで、井上用人は、首をかしげている。

意次は、みなに酒をすすめながら、
「それはな、井上。半紙の下において、その桝目の中に納まるように字をしたためるのじゃ。そうすると、字が小さくなる。その分だけ、用紙が少なくてすむし、文も曲がらない。なんとも、名案ではないか」
「なるほど---」
「どうじゃの、井上。わが田沼家は、家が新しいゆえ、老いて目がかすんでいる者もいない。長谷川どのに伺って、〔五分目紙〕の板木(はんぎ)を彫った彫り師と刷り師のところへ参り、わが家分を刷ってもらってこい」
「いや、井上どの。勘定奉行所であつえたものをおすそ分けいたします」
石谷清昌が横から、井上寛司を助けた。
と、すかさず、
淡路どの。そのように、公けでつくったものを横流しして、勘定奉行がつとまりましょうや?」
意次が軽く応じた。

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2007.12.17

宣雄、小十人頭の同僚(8)

小十人組の頭(かしら)から、次のポストに進むのに、吉宗家重のころから、先手組頭と目付が増えているように思えるので、その実証をしている。

これまで、長谷川平蔵宣雄(のぶお 400石)と同期ともいえる中で、宣雄の5番手、そして宣雄とかかわりが濃かった本多采女紀品(のりただ 2000石)の6番手を、 『柳営補任』からすでに引いた。

もう一組、宣雄が小十人の頭になったときに、閥づくりの講への誘いをかけておきながら、翌年---宝暦9年(1759)11月に、さっさと新番頭(2000石高)へ栄転していった神尾(かんお)五郎三郎春由(はるよし 40歳 1500石)のいた7番手を掲げよう。
【参考】 講への誘いは、2007年5月27日[宣雄、小十人組頭を招待]

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15人の頭のうち、享保10年以降3人---神尾春由の後任の能勢(のせ)助十郎頼寿(よりひさ 廩米300俵)も、宣雄在任中ということで加えると、15人中4人が先手組頭に進んでいる。

別件だが、安永5年(1776)閏9月、将軍・家治は、日光参詣をした。幕臣たちはそれに供奉(ぐぶ)したこと誇らしげに「家譜」にしたためて提出している。能勢家もそうしている。時に、頼寿は74歳であった。
喜寿に近い老武士が、江戸から日光まで、まあ、先手の組頭だから騎馬だろうが、それでも姿勢を正して供をしている姿を想像すると、なんともおかしい。
---というか、74歳になっても先手・弓の頭を引退しない執念には唸るほかない。

小十人の3組だけだが、吉宗家重の時代に、小十人組の頭たちが、次のポストとして、できればと、一つには先手組頭を望んだらしいことは、だいたい推察できた。

これは、吉宗の人材登用りの方針にしたがって、享保8年に、各職位の役料が引き上げられたり、きちんと定められたことによるようだ。

『柳営補任』は、先手組頭の役料について、次のように記している。

一 元御役料五百俵、天和二年四月廿一日御役料地方直御加増、その後千五百高三百俵御役料被下、享保八卯六月十八日ヨリ千五百石高定ル

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2007.12.16

宣雄、小十人頭の同僚(7)

鬼平こと長谷川平蔵宣以(のぶため)の父・平蔵宣雄(のぶお)は、小十人組の頭(かしら 1000石高)から、番方(ばんかた 武官系)の栄達の最終ポストに近い先手・弓の8番手の組頭へ、明和2年に移った。47歳であった。
この、小十人組の頭から先手・組頭のコースは、吉宗家重の時代にはよくあったケースかどうかを、検索している。

宣雄の5番手の『柳営補任』はすでに見た。2007年12月15日[宣雄、小十人頭の同僚(6)]

たびたび顔を見せてきて、宝暦12年12月28日に発令になった本多采女紀品(のりただ 48歳 2000席)の組---6番手を調べてみる。

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この組の頭は、本多紀品(緑○)まで20人、うち4人が先手組頭へ栄進。
本多紀品の前は2人つづいている。両人ともりっぱな譜代の一門。

榊原大膳久明(ひさあきら 42歳 1000石)。その後、西丸の持弓の頭になり、致仕後は、養老米300俵を9年間賜った。

安藤弾正少弼惟要(これとし 39歳 300石 のち加増され800石)は、先手組頭を足かけ3年で終えて作事奉行(2000石高)、勘定奉行(3000石高)、大目付(3000石高)などの行政職へ転じ、養老米300俵を3年間賜る。
そうそう、この仁は、本多紀品といっしょで、先手組頭の時代に火盗改メも勤めている。

こうして見てみると、人によっては、先手組頭は、決して番方のふきだまりとはいいきれない。

あと、もう一組、検索してみれば、宣雄のころの趨勢がつかめるだろう。


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2007.12.15

宣雄、小十人頭の同僚(6)

小十人組の頭(かしら 1000石格)に就任することは、中流以下・お目見(おめみえ)以上の幕臣にとって、幹部候補生として、スタートを切ったことになる。

つぎに目指すのは、番方(ばんかた 武官系)なら先手の組頭(1500石格)、役方(やくかた 行政官)なら目付(めつけ 1000石格)。目付は1000石格だが、家禄が500石以上の家の者には、町奉行(3000石格)がころがりこんでこないともかぎらない。江戸の町奉行でなくても、京都町奉行なら1500石格である。

小十人組の頭が、いつごろから出世の経過コースになったか、長谷川平蔵宣雄(のぶお)が任命された5番手の最初の仁から、宣雄までの『柳営補任』をあたってみた。

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宣雄を含めて15人。
うち、宣雄ともで5人が先手組頭へ栄転している。
上段・左端、先手組頭へ最初に任じられた細井金五郎勝則『寛政譜』勝行 かつゆき 49歳 1800石)の延宝といえば、四代将軍・家綱の時代である。幕府の職制がほぼかたまったころというえよう。
しかし、その後の3人は目付。
先手組頭へ復したのは、享保のころからだから、八代・吉宗の時代。これとそのころの番方の幕臣たちのこころがまえと、なにか関係があるのであろうか。たとえば、先手組頭なら、ほとんど老衰するまで1500石をもらいつづけられるとか。
中段の黄○・曽我七兵衛助賢(すけかた 46歳 800石)がその仁だが、5年後に新番頭(2000石高)へ移っている。
中段・左端の岩本内膳正正房(まさふさ 46歳 廩米300俵)は、吉宗の江戸城入りで紀伊から召された仁である。吉宗は、譜代の重臣たちに配慮して、紀伊から呼んで幕臣とした200余名には、大きな禄を与えなかったというが、職位についていた役料で報いたとみておきたい。もちろん、結論を出すには、200余名を検索してみなければならないが。
なお、岩本正房は61歳で歿するまで15年間、その職にあった。

芝山小兵衛正武(まさたけ)については、2007年12月7日[多可の嫁入り](5)を参照。

前の3人の先手組頭への昇進を知っている宣雄も、とうぜん、それを目標にして手を打ったと考えてもおかしくはあるまい。
伊兵衛名を受け継いで名乗っていた長谷川家の代々の面々は、一人も就くことができなかった番方の役職に、宣雄は初めてついたのであるから、子孫のために、さらに高のぞみをしたろう。

こういう、歴史にも残らない中流以下の幕臣の記録をあたって類推を重ねる作業は、きわめて困難で、想像の手がかりもまた少ない。

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2007.12.14

宣雄、小十人頭の同僚(5)

以下は、つぶやきである。

長谷川平蔵宣雄(のぶお)の小十人組の頭(かしら)時代を検証していて、彼のころには、組が10組あったことは、分かった。(『文化武鑑l』では7組に減っている)。

頭は1000石高だが、いってみれば通過ポストで、7,8年で次のより役料の高い職席へ栄進するのが筋道、ということも推察できた。

1組に20人いる組衆の家禄は、100俵10人扶持で、桧の間席ということも、分かった。
2勤1直1休(昼の勤務を2日したら1晩宿直、翌日は休み)だろう。

組衆の中の一人---家禄が150俵とやや高い者が、与(組)頭(くみがしら)となって内務をとりしきっていることも、分かった。2007年12月7日[多可の嫁入り](5)『文化武鑑l』では1組に2人)。

わからないのは、小十人組のすべてを統括しているのが誰かということ。手元の参考書などでは若年寄の支配となっているが、譜代の大名である彼らが、徒(かち)組などまで、直接に統括しているとは思えない。

さらに、10人の頭の中に、代表がいるにちがいない、と推測してみた。先任順だろうか、家禄によるのだろうか、それとも年齢?

宣雄が頭に選任された時点---宝暦8年(17589) 9月に在職していた10人を検証。
まず、先任順。年齢は頭席へ着任時。

堀甚五兵衛信明(のぶあきら) 宝暦2年(1752) 43歳
仙石監物政啓(まさひろ)    宝暦3年(1753) 50歳
本多采女紀品(のりただ)     宝暦3年(1753) 39歳
佐野大学為成(ためなり)     宝暦4年(1754) 51歳
神尾五郎三郎春由(はるよし) 宝暦4年(1754) 35歳
山本弥五左衛門正以(まさつぐ)宝暦5年(1755) 54歳
荒井十大夫高国(たかくに)   宝暦6年(1756) 45歳
曲渕勝次郎景漸(かげつぐ)   宝暦7年(1757) 38歳
長崎半左衛門元亨(もととお)  宝暦8年(1758) 45歳
長谷川平蔵宣雄          宝暦8年(1758) 41歳
同年の場合は、発令が1日でも早いほうが上位に就くのがきまり。

宣雄の着任時の年齢で並べると、

山本弥五左衛門     57歳
仙石監物政啓       55歳
佐野大学為成        55歳
堀甚五兵衛信明     49歳
山本弥五左衛門正以  57歳
荒井十大夫高国     47歳
長崎半左衛門元亨    45歳
本多采女紀品       44歳
長谷川平蔵宣雄     41歳
神尾五郎三郎春由    39歳
曲渕勝次郎景漸     39歳
神尾春由と曲渕景漸が特別の存在であることが、うかがえる。

家禄で見ると、

仙石監物政啓    2700石
本多采女紀品    2000石
長崎半左衛門元亨 1800石
曲渕勝次郎景漸   1650石
神尾五郎三郎春由 1500石
堀甚五兵衛信明   1000石
佐野大学為成      540石
長谷川平蔵宣雄    400石
山本弥五左衛門    300俵
荒井十大夫高国    250俵

年齢的には山本弥五左衛門正以が長老、仙石監物政啓が次老---といっても、先手組の長老、次老、三老とは20歳以上の開きがある。

けっきょく、仙石監物政啓あたりが表向きの代表となり、荒井十大夫高国が雑務を引き受けていたかも。
荒井高国は、宣雄が慣れたころに、若返りをいいたてて交替を申し出たろう。
このほかに交替で月番---といっても1ヶ月で交替するのではなく、半年ぐらいは勤めたか。

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2007.12.13

宣雄、小十人頭の同僚(4)

宝暦12年(1762)11月7日付の辞令で、宣雄(のぶお)の同僚、小十人組の頭(かしら)の本多采女(うねめ)紀品(のりただ 48歳 2000石)が、先手・鉄砲(つつ)の16番手の組頭に就いたことは、この項の最初に書いておいた。

先手組頭は、1500石高だから、家禄が低い番方(武官系)の幕臣にとっては、のぼりつめた職位といえる。
(本多紀品の家は2000石だから、役料に足(た)りない家禄を補填する足高(たしだか)はなく、まあ、無役でいるより外見がいい---という程度と、本人は言っているが)。

のぼりつめた---そう、先手組頭は、番方の爺(じじい)の捨てどころ、とは言われていた。それほど、老齢化していたともいえる。

長谷川平蔵宣雄が、小十人頭(1000石高)に抜擢されたのは、宝暦8年(1758)9月15日、40歳の年であった。
それから足かけ8年後の、明和2年(1765)、47歳のときに先手・弓の8番手の組頭に栄転している。
家柄がきわめてよく、一門も多い本多紀品が先手組頭に転じたのは48歳、宣は47歳。

息子の鬼平こと平蔵宣以(のぶため)は41歳で先手組頭に選抜されている。
平蔵宣以の才幹が群を抜いてすぐれていたといもいえるし、閣僚たちが、先手組頭の若返りを図っての抜擢だったともいえる。

(じじつ、平蔵宣以が組頭に就任した天明6年の、平蔵をのぞく33人の組頭の平均年齢は61歳を超えていた。戦闘集団としての組頭に、1丁も走ると息があがるほどの老齢の仁がいることは理にあわない。しかし、70代はおろか、80歳をすぎた組頭もいたのである)。

平蔵宣雄の時代に戻って---。

宣雄が小十人頭に抜擢された宝暦8年の時点で同組頭だった者のうち、先手組頭に転じたのは、宣雄を含めて6人と、すでに報告してある。

その発令時の年齢が高かった順に並べてみる。
佐野大学為成   頭拝命時年齢 60歳(2年目に卒)
仙石監物政啓             59歳(7年後、持筒頭)
荒井十大夫高国           55歳(9年後卒)◎
堀甚五兵衛信明           51歳(13年後、致仕)
本多采女紀品             48歳(6年後、新番頭) ◎
長谷川平蔵宣雄           47歳(7年後、京都町奉行)◎
(◎=火盗改メ拝命)

宣雄以前の長谷川家は両番とはいえ、それ以上の役職に就くことがかなった者はいなかった。
両番とは、小