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2007年10月の記事

2007.10.31

多可が来た(4)

翌朝、銕三郎(てつさぶろう 14歳 のちの平蔵宣以 のぶため)の目覚めは、昨夜の寝つきの悪さにもかかわらず、思ったより早いかった。
といっても、初夏の七ッ半(5時)だから、裏庭の樹々もすっかり明るくなっている。
井戸端で顔を洗っていると、箒(ほうき)を手にした太作(たさく 50過ぎ)が挨拶にきた。
「若さま。おはようございます。昨夕は、私どもまでお祝いものをいただき、ありがとうございました」
「お祝いもの---?」
多可(たか 14歳)さまのお家入りの赤飯とご酒で---」
「酒好きの太作が満足するほどもあったかな?」
「もう、齢(とし)ですから、それほどには飲めません。若い六助などはすっかり酔っておりました」

「それはそうと---」
耳へ口を寄せた太作が、声をひそめた。
「あの多可さまというお嬢さまは、よくできたお方でございますな」
「なにか---」
「もう半刻(はんとき 1時間)も前に洗面をおすませになり、飯炊きのしげ婆(ばあ)に、手伝うことはないかとおっしゃって、あの口やかまし婆を、恐れ入らせてしまわれました」
「はっははは。この銕(てつ)をすら平気でやりこめる、しげ婆を、か。はっははは。これは快、快」
「しげ婆が恐縮すると、そのまま、大川の満ち潮を見に---」
「育ちが矢の倉の中屋敷だと言っていたから、大川はなじみの水なのであろうよ」

「ところで、太作。美濃の加納と、上野(こうずけ)の高崎と、どっちが遠い?」
「加納と高崎でございますか。木曽路(中山道)なら、高崎までが4日、それから信濃、木曾の山道を6日でしょうか。東海道ですと、藤枝から名古屋まで3日、それから2,3日かと。それで、加納がどうかいたしましたか?」
多可のお父御(ててご)が、美濃・加納藩の江戸屋敷にお勤めということでな。加納城も見てみたくなった」
「若さま!」
「わかっておる。三島宿でのことは、もう、あきらめておる」

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(広重『木曾海道』 加納宿)

「じつは---」
あたりを見まわしてから、太作がまた口を寄せてきた。
「三島の本陣・樋口伝左衛門どのから、殿さまあてのお礼の干物にそえられて、手前への書状がありました」
芙沙の行方が知れたのか?」
「いえ。そのことには触れておりませんで、若さまはつつがなくお過ごしかと---」
「そんなつまらないことを訊くために、わざわざ書状をか」
「若。人の情けを軽くお思いなってはなりませぬ」
「そうであった。太作からくれぐれもお礼を述べておいてもらいたい。ついでに---」
「ついでに---?」
「いや---いい」
太作は、主人の依頼だったとはいえ、銕三郎にお芙沙を引き合わせてよかったのか、決断がつかないまま、銕三郎から目をそらして言った。
「若。ご覧ください。朝焼けのちぎれ雲が、あんなに美しゅうございます」


【参照】
芙沙とのある夜の出来事2007年7月16日[仮(かりそめ)の母・お芙沙(ふさ)]
2007年7月24日[仮(かりそめ)の母・お芙沙(2)]

木曾海道での江戸から加納宿までの旅の行程は、
(1)
(2)
(3)

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2007.10.30

多可が来た(3)

その夜、銕三郎(てつさぶろう 14歳 のちの平蔵宣以 のぶため)は、なかなか寝つかれなかった。

多可(たか 14歳 この日から長谷川家の養女)には、ついに、手鏡の用い道は告げなかった。いや、告げなくて助かった。

多可は、手鏡は持参しておろうな」
「はい。母の形見のものを」
「うん。やがて、化粧もおぼえようほどに、な」
銕三郎がそういってごまかした時、母・(たえ)の呼び声に救われた。
「いつまで、もたもたしているのです。殿さまがお帰りになりましたよ」

銕三郎は、寝床にいて、兄妹の間柄について夢想した。
多可も14歳である。実の兄妹なら、同じ年に生まれたことになる。年子(としご)より間隔がつまっている。町方(まちかた)の長屋の子にはそのような例もないことはないが、武家の場合はほとんど、脇腹の子との兄妹になる。
もっとも、その場合でも、一つ屋根の下で育つことも珍しくない。
そうした場合---と、銕三郎は考える。
幼い時は、風呂あがりなどで、互いに裸を見合っていよう。
(まあ、14歳にもなれば、いささか照れくさかろうから、躰を見合うこともすまいが---)
(ましてや、真の兄妹でも、「お前、下の芝生は生えそろったか」などと訊くことはあるまい)

(しかし、なんだな。一線をはさんで、左右になびくように生えているいる乙女のほうが、風情はまさるな---などと、井上立泉(りゅうせん)先生も余計な暗示をお与えくだされたものだ。立泉先生は、患者の躰をごらんになったり、おさわりになるのが商売だからいいが、こちらはそんな機会がないから---)
そこまできて、銕三郎は、
(それにしても、多可の躰は、柳の小枝ほどに細い。ひきかえ、芙沙の豊かで張りのあった太もも。薬指を導かれた秘部の茂り。割れ目の湿り---)
想い出すと、銕三郎のものは、たちまち、熱く息づいた。
(仮の母御と言って、芙沙は、これをやさしく愛撫してくれたなあ---)
いつのまにか、お芙沙が、芙沙になっている。そのほうが、いかにも自分だけのものに思えるのだ。

 年々歳々 花相(あい)似たり
 歳々年々 人同じからず

呟いてみたが、芙沙は消えなかった。ますます鮮明によみがえってきた。

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(歌麿『若後家の睦』部分 芸術新潮2003年1月号)

---と、芙沙の姿態が、塾に誰かがもちこんだ秘画に置き換わった。

(いかぬ。芙沙に申しわけない)
理にあわぬ理を、少年らしくつけた銕三郎は、行灯の灯を消し、無理に目をつむって、妄想をふり払おうとした。

【参照】
芙沙とのある夜の出来事2007年7月16日[仮(かりそめ)の母・お芙沙(ふさ)]
2007年7月24日[仮(かりそめ)の母・お芙沙(2)]


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2007.10.29

多可が来た(2)

多可には、兄者はいないのか?」
正座し、一人前に三つ指をついて見上げている多可(たか 14歳 この日から長谷川家の養女)と、視線をあわせるためにかがみこんだ銕三郎(てつさぶろう 14歳 のちの平蔵宣以 のぶため)が訊く。
「はい。弟と妹が一人ずつ、藩邸・中屋敷の長屋で父上の帰りを待っております」
「そうか。それでは、今日からは拙が兄となってやろう。ほんとうの兄だぞ、義理兄ではなく---」
「かたじけのうございます」
「ほんとうの兄ゆえ、どんな時にも、妹の多可をかばってやる」
「心強いことです」
「その代わり、多可も、兄の言うことにはさからわないな」
「さからいませぬ」
「うむ---」
「なにか?」
「いや。いまはその多可の心根だけ、確かめておけばよい」

じつは、銕三郎は、新銭座に住む井上立泉(りゅうせん)に言われたことを、多可で試してみようと思ったのだった。
表番医の立泉は、父・平蔵宣雄(のぶお 41歳)の親友である。宣雄の義兄の修理宣尹(のぶただ)が病床にあったとき、宣雄が頼み込んで看立ててもらつて以来の、深い付き合いとなっていた。

先日の銕三郎の駿州・田中城への旅立ちのときにも、道中薬と餞別をとどけてよこした。
餞別返しに、小田原土産の〔ういろう〕を持参した。
その銕三郎の下腹部を、それとなく、診察した。
宿場の飯盛女から悪い病気をもらっていないか、父・宣雄がひそかに検診を依頼したのである。

その時、首、肩、胸、腹---と触診。
「ふむ。大人への兆しの、股間の芝生も、なかなかに生えそろってきましたな。しかし、なんだな。一線をはさんで、左右になびくように生えているいる乙女のほうが、風情はまさるな。男の子のは、勝手気ままな生えぶりだからの」
と呟いた、
(一線をはさんで、左右になびくように生えているいる乙女の---)
が、強烈に銕三郎の耳に残ったのであった。
三島で初体験させてくれたお芙沙は、一線を指でやさしくなぞらせただけで、しかと見せてくれたわけではなく、性体験も積んだ若後家でもあった。

その乙女がやってきた。
多可は、兄になったばかりの銕三郎のいいつけには、さからわないといっている。
多可は、柳の小枝のように細い体つきとはいえ、14歳だ。茂みもそれなりに芽をだしていよう。いや、そよぐほどに育っいるかも。
(一線をはさんで、左右になびいているいるか、確かめたい)。
最近のように、ギャルの素っ裸の写真が雑誌に載る時代ではなかった。

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(歌麿 『歌まくら』部分 芸術新潮2003年1月号より)

いや、いかになんでも、銕三郎が己れの目で乙女の秘部を覗くのははばかられる---見るだけでは納まらなくなるとも限らない。
どっちにしても、そのことが両親へ知れたら、それこそ、この家にはいられない。
だから、多可の口を厳重に封じてから、多可自身にたしかめさせるのだ。
多可だって、未通の乙女だ。乳房のふくらみが遅いことは気にしても、自分の割れ目の周囲を仔細に観察したことはあるまい。
いや、割れ目ではない。
それをはさんで左右にそよいでいる芝生だ。
多可にいいつけて、手鏡で確かめさせ、耳打ちさせるのだ。

多可は、手鏡は持参しておろうな」
「はい。母の形見のものを」
「うん。やがて、化粧もおぼえようほどに、な」

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2007.10.28

多可が来た

養女・多可が来る日。
銕三郎(てつさぶろう のちの平蔵宣以)は、朝から落ち着かなかい。
(自分にはなんのかかわりもないのだ。猫が一匹、やってきたと思えばいい)
そうは思っても、三島大社の裏の路地の家で交わしたお芙沙(ふさ)との愛の睦みが、昨日のことのように思い出されて、平静ではいられなかったのだ。

塾の黄鶴(こうかく)は、劉廷芝(りゅうていし)の詩を講じていた。

 洛陽城東(らくようじょうとう) 桃李(とうり)の花
 飛び来(き)たり飛び去って誰(た)が家に落つる
 洛陽の女児(じょじ) 顔色(がんしょく)好(よ)し
 行く落花落ちて逢(お)うて長嘆息(たんそく)す
 今年(こんねん)花落ちて顔色改まり
 明年(みょうねん)花開くも復(ま)た誰(だれ)か在(あ)る

 年々歳々 花相(あい)似たり
 歳々年々 人同じからず

長谷川。人同じからず---とは、なにを謳っているのか」
突然、黄鶴師に指名された銕三郎はあわてた。
「はい。きのうはなにごとも許してくれたのに、きょうはすべてを拒む女心---ということかと---」
「なにを考えておるのだ、長谷川。顔を洗って、頭を冷やしてこい。昼間から寝ぼけるでない」
(田中城下からの帰りの、お芙沙の無言の拒否は、人同じからず---だったが)
銕三郎は、塾の裏の井戸へゆきながらつぶやいていた。

夕刻、三木忠大夫忠任(ただとう 飛騨・加納の江戸詰の家士?)が、娘・多可を伴って現れた。
平蔵宣雄(のぶお)は、まだ、下城してきていなかった。城中でなにか差しさわりでも起きたのかもしれないが、供の若侍・桑島友之助も言伝(ことづて)を持ちかえってこない。

部屋へ通された多可は、14歳の少女とはおもえぬほど、柳の小枝のように細い躰を緊張でより固くしている。
銕三郎の実母・(たえ)が言葉をかけた。
多可さん。あなたさまのお部屋をご覧なさいますか」
「あ、奥方さま。多可は、ただいまからはそちらさまの娘。そのようにお扱いくだされ」
忠大夫忠任が恐縮した。40歳にはまだ間があるようだが、横鬢(びん)にはすでに白いものが混じっている。
「それでは。銕三郎多可を案内しておやりなさい」
の声がいつもより高ぶっている。やはり、気がはっているらしい。

多可の部屋になるのは、母の隣だった。
銕三郎が訊いた。
「お前、どこで育った?」
「中屋敷です」
「その中屋敷というのが、どこにのあるかと訊いておる」
(若葉(じゃくよう)の女児(じょじ) 顔色(がんしょく)好(よ)からず---ではないか)
「薬研堀・矢の倉」
「母者もか?」
「母は逝きました」
「いつ?」
「2年前」
多可は、突然、涙ぐんだ。
「なんだ、これしきのことで---」
しかし、銕三郎は戸惑った。
ところが、目じりをぬぐった多可は、ぴたりとすわって指をつき、銕三郎を見上げ、
「お兄上。これからもきびしくお叱りくださいますよう」
「む」
(これが妹という女か)
銕三郎は、ますます戸惑った。

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(赤○=両国橋西詰薬研堀・矢の倉の加納藩中屋敷 近江屋板部分)


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2007.10.27

田中城しのぶ草(25)

「そうか。来てくれると返事があったのは、一人だけであったか」
「手前の口上が至らなかったせいと存じます」
「そうではあるまい。君子、危うき近寄らず---」
「殿さま---」
「よい、よい」

芝二葉の田中藩の中屋敷の書院の間である。
報告しているのは、長谷川平蔵宣雄(のぶお 41歳 小十人頭 400石 役高1000石)、受けているのは前藩主・本多伯耆守正珍(まさよし 50歳 駿州・田中藩4万石)。
宝暦9年(1759)年2月13日に逼塞(ひっそく)の沙汰が解けたので、中秋の名月を、かつて田中城にゆかりのあった者の子孫を招き、ともに月見の宴を、ということになり、平蔵宣雄が息・銕三郎(てつさぶろう 14歳 のちの平蔵宣以)を使ってそのリストをつくり、誘いをかけてみたものの、応じたのは酒井宇右衛門正稙(まさたね 38歳 大番 廩米250俵)ただひとりという結果に終わった。

その酒井正稙は、風流の宴にはふさわしくない魂胆を秘めているらしいので、この催しはお辞めになってしかるべきかと---とは、書状で進言しておいた。
本多伯耆守侯のところへ伺うといえば、銕三郎が同行をせがむに違いない。
銕三郎は、田中城代の面々の氏名探索のために、東海道を上下したのだから、とうぜん、同行を申しでていいと思いこんでいる。
酒井宇左衛門正稙の心根を、銕三郎には聞かせたくなかった。
そのことは、書状を読んだ本多正珍侯も察していて、先刻の会話以上の追求はしなかった。

銕三郎は、田中の城下をどう観た?」
「お城は立派でした。しかし、城下町とは申せないかと---」
「ほう---」
「あのお城は、戦闘用に造築されたものと拝察いたしました。周りに人家などがあっては、かえって防御の邪魔かと---」
「なかなかに鋭いの」
「東海道の宿場々々にあるお城は、天下から戦いがなくなったいまは、商いの場の要(かなめ)となっておりましたが、田中のお城はそうではございませぬ。農民の安全に睨みをきかせるためのお城と拝察いたしました」
長谷川どの。ご子息は末たのもしい。軍学を究めさせたいほどよ」
宣雄は、手を振って言った。
「殿。つけあがります。おだては、ほどほどにお願いいたします」
「いや。おだてではない。なかなかに筋が通っておる」
「道中に、いろいろと勉強することがあったのでございましょう」
銕三郎の顔に、一瞬、朱がさしたのを、本多侯は見逃さなかった。
銕三郎。元服の前祝じゃ。この短刀をつかわそう。道中はご苦労であった」
「いえ---はい、かたじけのうございます」


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2007.10.26

田中城しのぶ草(24)

「それで、酒井の先代どの、逝かれた父ごどのが、なにか?」
話の先をうながすように、長谷川平蔵宣雄(のぶお 41歳 小十人頭 400石 役高1000石)が聞きかけると、中根伝左衛門正雅(まさちか 71歳 書物奉行 廩米300俵)は、口にしかけた盃をそのまま膳へもどして言った。

「他言はご無用にお願いできますか?」
「無論です」
「かような他人さまの些事は墓場へ持っていくつもりでしたが---」
伝左衛門正雅は、こんなことを話した。

伝左衛門が大番の番士として柳営にあがったのは享和3年(1718 その時30歳)春であった。番頭(ばんがしら)はすでに13年も務めていた本多因幡守忠能(ただよし その時47歳 9000石)。鷹揚な人で、万事を与頭(くみがしら)3人にまかせきっていた。
その与頭の中でも先任の小尾(おび)庄左衛門武元(たけもと その時56歳 廩米450俵)は、上にも下にも受けのいい仁で、伝左衛門正雅の面倒もよくみてくれた。それというのも、小尾家は先祖が武田の庶流で、横須賀城の攻防では、伝左衛門の生家の本家筋の祖と、敵味方として槍をあわせた仲ということだった。そのように、ものごとをいいほうへ解する習癖のある陽気な徳の持ち主であった。

その庄左衛門武元が、3番組の番士・酒井兵左衛門正賀(まさよし その時39歳 廩米250俵)が言っていることは、いささか忌避にふれるから、聞いても聞き流すようにと耳打ちしてくれた。
酒井は、祖・茂兵衛正次(まさつぐ)が駿河城勤番の38歳の時、大納言(忠長 ただなが)卿をお諌(いさ)めしてお手討ちになったのに、お上は正次の忠心を、いっかな、お認めくださらないと、埒(らち)もない不服を言っているのだよ」

そのことは、伝左衛門が西丸の新番に就いたとき、同役となった酒井正賀の父・宇右衛門正恒(まさつね その時64歳)からも聞かされた。

「書物奉行となってから記録を調べてみると、酒井正次どのが38歳で卒したのは、忠長卿が駿河大納言として駿州50余万石を領される前の勤番時代とわかりました」
「なんのために、お手討ちなどと大仰なことを---」
「さ、そのことです。たぶん、里見北条以来の家柄なのに、扶持が少ないということを、遠まわしに言っていたのでしょう」
「すると---」
「そうです、本多伯耆守さまへも、訴えてみるつもりでしょうかな」
本多侯は、すでにご老中をお退きになった身---」
「もちろん、訴えたからといってどうなるものでもないことは百も承知の上で、愚痴をこぼしてみたいのでは---」
「本多侯としても、ご迷惑な話---」

宣雄は、長谷川久三郎(4000余石)の広大な屋敷へ向かうために逢坂をのぼりながら、71歳になりながら、まだ養子を取らないでいる、中根伝左衛門の、継嗣に先立たれた深い悲しみを思いやり、夜道よりも暗い気分になっていた。

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2007.10.25

田中城しのぶ草(23)

四谷裏大番町の酒井家を辞去した長谷川平蔵宣雄(のぶお 41歳 小十人頭 400石 役高1000石)は、思いついて、従っていた六助を、市ヶ谷船河原町・逢坂上横町の中根伝左衛門正雅(まさちか 71歳 書物奉行 廩米300俵)の屋敷へ先行させた。返事をもたらすための道筋を打ち合わせた六助は、灯の入った提灯を宣雄に渡した。

これから訪ねていいかを伺わせるのである。
この日訪ねた酒井宇右衛門正稙(まさたね 38歳 大番 廩米250俵)の『寛永譜』の写しをくれたのも、伝左衛門正雅であった。
正雅は、享保3年(1718)から11年(1726)に西城の新番へ移るまで---ということは、30歳から8年間、本丸の大番をつとめていた。
酒井正稙が大番組へ出仕したのは、中根正雅が新番組へ思ったが、先夜のお礼ね兼ねて、と思ったのである。

四谷裏大番町から逢坂上横町へまわると、築地・鉄砲洲への自宅へはいささか遠まわりになるが、いざとなったら、先夜、銕三郎(てつさぶろう 14歳 のちの平蔵宣以)にそうさせたように、御納戸町の同族・正脩(まさなり 長谷川久三郎 4070石)のところに造作をかければいい。
いい季節で、暮れた夜道の微風が心地よかった。

六助とは市ヶ谷門外で出会えた。
中根さまは、お待ちしていると申されました」
「またまた足労だが、御納戸町の長谷川へ行って、今夜遅くに泊まりたいと告げ、それから築地へ帰って、奥へそう伝えてくれい」
「かしこまりました。随分とお足元にお心づかいを---」
そういって、六助は腰の包みから蝋燭をだして、提灯の灯を替えた。
中根伝左衛門が気をきかせて持たしたらしい。

中根伝左衛門は、門扉を開き、高張り提灯2基に灯をいれて待っていてくれた。
「まるで花嫁でもお迎えになるようで、ご近隣衆がなにごとかとお驚きでしょう」
「なに、そう思わせておけば、華やぐというもの」

中根家は、間口は6間とさほどでもないが、奥がその10倍も深かった。
「奥方どのは?」
廊下を案内されながら、宣雄が訊いた。
「10年も前から、鰥夫(やもめ)でござって---」
「存じぜぬこととはいえ、失礼をば---」
「なになに、うじにお気をおつけなされよ」

下(しも)の者にいいつけたらしく、酒が用意されていた。
「ご高配をたまわった酒井宇右衛門どののことですが---」
酒井どのがどうかしましたか?」
「本多侯のお招きを、あまりにあっさりとお受けくださったので、はて---と」
「うーむ。やはり、な」
「なにか、お心あたりでも?」
「いや---」
「お差支えなければ---」
「その、お尋ねの宇右衛門正稙どのことは、じかには存じませぬ。なれど、父ごの兵左衛門正賀(まさよし)どのとは大番時代に、あちらは3番組、こちらは4番組でした。
「それはご奇縁」
「奇縁はも一つありましてな。先代・宇右衛門正恒(まさつね)どのとは、そのあと、西丸の新番でごいっしょになりまして---」
「先代といわれましたか?」
「これは失礼。父ごの正賀どのは、先に逝かれましてな」
「すると、正稙どのは、正恒どののお孫?」
「さよう、さよう。お渡しした酒井どのの『寛永譜』の写しを眺めているうちに、あれこれ思い出しました」
宣雄に酌をし、自分の盃も満たしたあと、遠くを見つめるような目に微笑をうかべた。
「西丸では、高井飛騨守さまの組にあちらも---」


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2007.10.24

田中城しのぶ草(22)

「いや、お招きいただくのであれば、よろこんで参上いたします」
酒井宇右衛門正稙(まさたね 38歳 大番 廩米250俵)は、答えた。
あまりに、いさぎよい返答に、主旨を伝えた長谷川平蔵宣雄(のぶお 41歳 小十人頭 400石)のほうが意外に思ったが、顔にはださない。

場所は、四谷裏大番町の組屋敷---いまの新宿区内藤町。切絵図を間違いなく読みとっていれば、多摩のほうへ引っ越される以前の、故・斉藤茂太さんの病院があったあたりである(もっとも、そこに酒井又三郎という仁の家があったからで、250俵だと、大番組の縄手---組屋敷住まいだったのかもしれない)。
Photo
(四谷大番町組屋敷と酒井家=赤○)

「それで、お集まりの方々は---?」
「お誘いいたしたお一方は、 こちらのご先祖である茂兵衛正次(まさつぐ)さまとごいっしょに駿河勤番をなさっていた大久保甚左衛門忠直(ただなお)さまの---」
「わが祖の正次の先任ご城代であった---」
「さようです。そのご当代・荒之助忠与(ただとも 48歳 目付 1200石)さま---」
「なんと返事を---」
「公務多端につきと---」
「ご出世なさる仁は、心得てござる」
「------」
「長谷川どの。そちらは、今川の出でありましたな」
「はい。祖は、今川では、義元(よしもと)公亡きあと、田中城をお預かりしておりました」
「ああ、そのご縁で、伯耆守正珍(まちよし)侯のお手伝いをされておられますのか」
「それもありますが、侯がご老中のときに、お引き立てをいただきましたゆえ」
「おもしろいお方じゃ。年少のこちらが申してはなんですが、ご気概、感服いたしました」

宇右衛門正稙がいいたかったことは、宣雄にはよくわかっている。
わざわざ今川の名をだしたのは、自分のところの酒井は、徳川の大身の酒井家とは無縁で、上総国の里見家の重臣で、鴻の台(千葉県)の北条家との合戦に参加し、かえって敵方の北条氏康にその武勇を認められて引きぬかれた家柄なのに、たかが大番の番士で廩米250俵と自嘲したかったのであろう。

その愚痴がでる前に、宣雄は辞去した。

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2007.10.23

養女のすすめ(10)

三木忠大夫忠任(ただとう)の娘・多可(たか 14歳)が、 長谷川平蔵宣雄(のぶお 41歳 小十人頭)の養女になったのは、宝暦9年(1759)と仮定して、推理・考察をすすめている。

2007年10月22日[養女のすすめ](9)では、関係のありそうな人脈の年表を掲示した。
しかし、徒労気味に終わった。

それで、最初に戻って、平蔵宣と三木忠任との出会いはどこだったか、手引きしたのは誰だったかを推理する資料として、その年表の前半部に、とりあえず宣雄大橋惣兵衛親英(ちかひで のち、宣以の義父)の職歴を付け加えてみた。幕臣の場合、職場でのむすびつきがかなり強いとおもうからである。

享保17(1732) 永井三郎右衛門(15)婚
          三木忠位が娘(17)

享保18(1733) 永井亀次郎

元文2(1737) 水原善次郎(16)お目見
          大橋与惣兵衛(24)西丸納戸

元文3(1738) 永井三郎右衛門(21)西丸小姓組

寛保3(1743) 水原善次郎(22)家督

延享3(1746) 水原善次郎(24)小普請組頭

延享4(1747) 永井三郎右衛門(30)卒
          亀次郎安清(15)家督

寛延元(1748) 長谷川宣雄(30)家督
          西丸書院番士
    
宝暦8(1758) 長谷川宣雄(40) 小十人頭

宝暦9(1759) 多可(14?)養女      銕三郎(14)
          三木忠大夫が娘

西丸が匂う---ここは本城の半分以下と規模も小さく、勤務している幕臣の数も少ない。職務をこえて、たいてい顔見知りであろうし、儀式ばることもさほどではあるまいし、頭(かしら)になっていない若いもの同士なら、気軽に声もかけあうだろう。

で、でてきたのは、大橋親英と永井保明(やすあきら)の線である。しかし、永井保明は、平蔵宣雄が西丸へあがる前に卒している。

もうすこし、視点を変えてみることも必要なようだ。
 
参照】
永井近江守保明
水原三郎右衛門安静

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2007.10.22

養女のすすめ(9)

『寛政譜』によってこれまでに分かった、三木久大夫忠位(ただたか)、忠大夫忠任(ただとう)と、それぞれ養女に出した娘たちを年表にしてみた。

不自然なところが、いくつもある。

享保17(1732) 永井三郎右衛門(15)婚
          三木忠位が娘(17)

享保18(1733) 永井亀次郎

元文2(1737) 水原善次郎(16)お目見

寛保3(1743) 水原善次郎(22)家督

延享4(1747) 永井三郎右衛門(30)卒
          亀次郎安清(15)家督

宝暦9(1759) 多可(14?)養女      銕三郎(14)
          三木忠大夫が娘

宝暦13(1763) 多可(17?)、水原近江守(42)の後妻
          水原源之助
          母は多可         銕三郎(17)        

明和6(1767) 水原源之助(4?)お目見 宣以(22)

天明8(1788) 水原源之助(25?)遠島  宣以(43)

寛政4(1792) 水原近江守(71)卒    宣以(47)

寛政8(1796) 辰蔵(25)婚
          嫁は亀次郎安清養女(18?)

永井三郎右衛門の結婚年齢についての疑問は、息・亀次郎のお目見年齢からはじいたものだが、そもそも、亀次郎のその年齢がサバを読んでのものと見えないこともない。そういうゲタばき年齢はいくらもあったらしいからである。

亀次郎という男、信用がおけないのは、 『寛政譜』のための「先祖書」を彼が提出しているはずだが、妻女の記述がないこと。それでいて、子どもが6人と養女が記されている。 『寛政譜』の編纂方は疑問に思わなかったのであろうか。

似た疑念は、水原源之助にもある。お目見の時の年齢が届けられていない。
しかしこれは、当人が遠島になっているおり、縁者が提出しているから、そのあたりはあいまいでも仕方がないか。とはいえ、「母は宣雄が女」---すなわち多可だが、彼女は病死したかして、彼女の夫・近江守保明(やすあきら)は、さらに後添えを貰っている。

ま、ここまで年表の素案ができたのだから、これをもとに、これから、いろいろと想像をめぐらせてみよう。

参照】
永井近江守保明
水原三郎右衛門安静

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2007.10.21

養女のすすめ(8)

いやあ、赤面、平身低頭、叩頭陳謝---とはいえ、疑問、ほぼ、半氷解(?)。

この20年間、銕三郎(てつさぶろう)の妹として養女にきた多可(たか)---その父親の三木忠大夫忠任(ただとう)を、『寛政譜』の記載を信じて、松平大学頭の家臣・高崎藩士としてきた。多可が高崎からとった仮の名であるのはいうまでもないこと。

ところが、2007年10月20日[養女のすすめ(7)]に、永井三郎右衛門安静(やすちか 西丸・小姓番 廩米400俵)の譜を掲げた。そこに、
 
 妻は松平大学頭家臣三木久大夫忠位(ただたか?)が女

と明記されていた。
一方、長谷川平蔵宣雄(のぶお 400石 小十人頭---1000石格)が養女にした件は、

 松平大学従三木忠大夫忠任が女

始めは、『寛政譜』の編纂陣が、「忠任」を「忠位」と誤記したのかと考えた。理由は成人名に「位(たか)」を使っている幕臣は皆無に近く、「任」と「位」は、くずすと似てくると思ったからである。

しかし、「忠大夫」を「久大夫」と誤記するだろうか。

それで、これは親子かなにかとふんで、三郎右衛門安静の譜を再読した。

 享保20年(1735)12月22日家督。18歳。
 延享4年1月18日卒。30歳。

3ヶ月後に家を継いだ継嗣・亀太郎安清(やすきよ)は、その時、15歳。
つまり、亀太郎は、三郎右衛門安静が15歳のときの子ということになる。若くして嫁を迎えたのは、実兄が23歳で逝ったからである。

亀太郎の誕生は、享保18年(1733)。銕三郎より15歳年長。
そう分かってみると、「久大夫」と「忠大夫」は親子か兄弟、あるいは従兄弟とも思える。
そして、どちらも松平大学の家臣---ということで、永井26家を再見してみる必要があるように思えた。

やってみた。

と、永井本家3代目・信濃守尚政(なおまさ)が3男・大学尚庸(なおつね)に2万石(河内国4郡のうち)を割譲され、のちに大名(下野烏山藩)になっているではないか(のち、1万石加増)。
この永井家は、さらに、播磨国赤穂藩(3万3000石 浅野家のあと)、信州・飯山藩(同)と移封をつづけて、濃州・加納藩で明治を迎えている。

いや、そのことよりも、大学を幼名にした藩主が信濃守尚庸のほかにも2人---うち、7代目・大学尚旧(なおひさ)が年代的にもっとも可能性が高い。
もちろん、その場合、「松平姓」は解決しない。

しかし、三木家は、播州・赤穂あたりで家臣に加わったということもありうる。そうだ、いつか、浅野家三木姓の遺臣をあたってみよう。

ということで、加納藩の重役で三木姓を、例の『三百藩家臣人名事典』 (新人物往来社 1988)で調べたが、やはり見あたらなかった。
しかし、加納藩はいま、岐阜市に編入されている。教育委員会なり郷土史家の教えを乞うてみよう。

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(青○の3人の藩主が幼名=大学)

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(年代的に最も可能性が高い7代目藩主・尚旧)


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2007.10.20

養女のすすめ(7)

銕三郎(てつさぶろう 14歳 のちの平蔵宣以=小説の鬼平)の父・平蔵宣雄(のぶお 41歳 小十人組頭)が養女に迎えるといった女性と、その父・三木忠大夫忠任(ただとう 高崎藩士?)のことを考察している。

話は飛ぶが、平蔵宣以(のぶため)の継嗣・宣義(のぶのり 家督前の名=辰蔵)である。
その『寛政譜』を掲げる。この『寛政譜』のために「先祖書」を幕府に上呈したのが、家督した平蔵宣義であることは、再々、記した。

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(長谷川宣義(幼名=辰蔵)の譜)

宣義の母親が、宣以の正妻・久栄(ひさえ 大橋家からの嫁入り)であることは、冒頭に書かれている。
譜の末尾に、

 妻は永井亀次郎安清(やすきよ)が養女

とある。
いつだったか、永井亀次郎安清『寛政譜』をのぞいて、驚いたことがあった。

永井家は譜代で、祖は、高崎城を守る大浜の城主であった。徳川の水軍に近い存在らしかった。
家康が、命からがら伊賀越えて伊勢の白子(しらこ)から海を三河・大浜に向かったとき、船で出迎えたのが永井平右衛門重元(しげもと)であった。
伊賀越えの側近には、その嫡男・弥八郎直勝(なおかつ)がしたがっていたというから、因縁は深い。想像するに、白子から、弥八郎の従者が大浜へ急走でもしたのであろうか。

直勝は、その後、家康に重用され、淀城をまかされたりもしている。
『寛政譜』によると、永井一門は26家に増え、うち4家が大名。
もっとも、永井亀次郎安清は末の末、26家のどんじり近くに記されているが、それでも400石、両番の家格である。

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永井26家の家譜をまとめた最後の10枚目)

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永井亀次郎安清の譜---子どもたちのところの女子に、
 
 女子 実は橋場神明の神職・鈴木大領知庸が女、
     安清にやしなはれて、長谷川平蔵宣義に嫁す。

とある。
橋場神明は、現在の石浜神社(荒川区南千住3-28-27)である。社務所に確かめたら、明治前の神職は鈴木家であったと。宮司家が代わっているし、史料も焼失とのことで、それ以上は不明とのこと。

永井安清の父・三郎右衛門安静(やすちか)の譜の末尾をみてほしい。

 妻は松平大学頭家臣三木久大夫忠位(ただたか?)が女

三木家を媒介として、奇妙なところで、永井家長谷川家がつながった。
そして、謎は、いよいよ、深まった。

 

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2007.10.19

養女のすすめ(6)

平蔵宣雄(のぶお 41歳 小十人組頭)が養女に迎えるといった女の子の父親・三木忠大夫忠任(ただとう)の主は、どうやら、前の高崎藩主・松平右京大夫輝規(てるのり)らしい---というところまでは、『寛政譜』をくって推定した。

で、高崎教育委員会に三木忠任なる藩士を問い合わせたが、「該当者が見当たらない」との返事。松平家は享保2年(1717)から明治までずっと高崎の藩主だったから、ここの教育委員会以外に尋ねるところはない。
藩士名簿はどのクラスまで残っているのか、確認しなかったのが、手落ちといえば手落ち。

『三百藩家臣人名事典』(新人物往来社 1988)の高崎藩も見たが、三木姓の高級藩士は載ってなかった。
つまり、さほど家格の高くない藩士で、江戸の藩邸にずっと詰めており、引き続き前藩主に従っていたとすると、小納戸組で、家禄は100石前後か。

この武士と宣雄がどこで知り合ったかは、改めて推理するとして、きょうのところは、養女に来た女の子---仮に名を多可(たか)としておこう---多可は何歳であったろろうか。
推理の史料として、嫁に行った水原(みはら)近江守保明(やすあきら)の『寛政譜』を開いてみよう。
後妻とある。

しかも、継嗣・善次郎---のちの保興(やすおき)を産んでいる。
保興のお目見は明和6年(1769)6月28日とある。
長谷川家に養女に来たのを宝暦(ほいうりゃく)9年(1759)と仮定すると、10年後である。
多可長谷川家での序列は銕三郎(てつさぶろう 14歳 のちの平蔵宣以)の妹となっている。
とすると、もっともゆとりをみて、銕三郎と同年とし、17歳で水原近江守保明(その時、40歳)の後妻にはいったとすると、善次郎のお目見は5歳前後ということになる。
なんだか、変だ。裏がありそうな気がしてならない。

ところで、善次郎改め保興だが、『寛政譜』によると、博奕(ばくち)もやり、それにかかわる小者を屋敷に居住させたというので、遠島になっているが、男子を2人ももうけており、上の子は父親の罪をせいで追放。
成人してない---つまり15歳になっていないの処分は、その年齢に達するまで猶予されるように記憶している。

保興の処罰は、天明8年(1788)8月9日。宝暦9年から29年後。その年の晩秋、平蔵宣以が火盗改メ・本役につき、小説では鬼平として大活躍をはじめている。
多可は生きていれば、43歳か。
しかし、夫の保明は、三人目の妻を迎えているから、保興を産んでまもなく没したとも推理できる。

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2007.10.18

養女のすすめ(5)

この[養女のすすめ]、じつは、史料は、『寛政譜』の記述一つきりなのである。

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(銕三郎の妹3人=緑○。うち2人は宣雄の養女)

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(養女と実妹を拡大) 

平蔵宣義(のぶのり 幼名・辰蔵)が、 『寛政譜』のために、平蔵宣以の死後に、幕府に上呈した「先祖書」には、

 宣雄妻    長谷川伊兵衛宣安女(小説の波津)
 宣雄養女  小普請戸田弥十郎支配組頭之節、縁組
         願之通被仰付
         水原善次郎保明妻
    実 松平大学頭 従 三木忠大夫忠任女

 宣雄養女
    実 駿府町奉行 朝倉仁左衛門景頭女
    始小普請組堀三十八郎支配三宅半左衛門徳屋エ
    嫁候処 不縁ニ離別 厄介ニテ罷在 卒

 宣雄女  西丸御書院番
    水谷伊勢守組之節 大久保勝次郎忠居妻
                当時 平左衛門   

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(「先祖書」原本・部分 長谷川本家の末裔・雅敏氏の採集による)

それで、松平大学頭(だいがくのかみ)を探した。
平蔵宣以の時代までに、大学頭を称した松平は6人いた。
うち、形原松平の2人は、銕三郎(てつさぶろう のちの平蔵宣以)が14歳のころの100年も前に卒している。
久松松平大学は、頭がついていないが、50年も前に卒。
大給松平大学頭も100年ほど前の故人。
元久松松平大学は、榊原へ養子に行入って改姓。

のこったのが、先代の高崎藩主・右京大夫輝規(てるのり)侯。
もちろん、数年前に隠居しているが、何人かの家臣はついているはず。
で、三木忠大夫忠任(ただとう)もその中の一人と、強引に推定した。

むろん、無理は承知のうえである。
あと、考えるのは、宣雄忠任はどこで知りあい、肝胆あい照らす仲(?)になったかである。

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2007.10.17

養女のすすめ(4)

今夕は、銕三郎(てつさぶろう)も膳をともにするように言われた。

長谷川家では、書院でとる平蔵宣雄の給仕が終わって、さがってきた妻女と銕三郎が別の部屋で食事をする。
宣雄はよほどのことがなかぎり、晩酌はしない。嫌いなほうではないが、ふだんは倹約を心がけている。

妻女の多江からの飯椀を受けとりながら、宣雄が訊いた。
「中根どのは、無事にお帰りになったか?」
「父上のお心づかいに、重々のお礼を述べておられました」
「うむ。あの仁をどう思った?」
「お齢(とし)にも似合わず、お足の速いのには驚きました」
「お人柄のことだ」
「お若い時のお苦しみを、すべて胸におさめてきていらっしゃったようですが、それにしてもご子息に先立れたことが、よほどにおつらいようにお見受けしました。私の名前を、何度も、逝くなられた銕之助さまとお間違えになりました」
給仕についていた多江が口をはさんだ。
「世間では、親に先立った子の墓は早くには建てるな、と申します。不幸の最たるものと思われております」

「そうそう。養女のこと、くれぐれもお考えのことと申されました」
「そのことよ。じつは、かねてから、ある仁から、娘を養女に---と、頼まれていた。この機会だから、両人の存念を確かめておきたいと思った」
「あるご仁とは?」
「三木どのといってな。いや。直臣ではない。高崎藩(8万2000石)の江戸詰めの仁だ」
多江がまず返答をした。
「私は、とっくに三十路(みそじ)を越しました。子宝には、もう、縁がないものとあきらめております。いいお話しであれば、どうぞ、殿さまのお考えどおりにお決めくださいませ」
「銕三郎はどうかの」

「高崎藩士といわれました。昨年、若くしてご老中におなりになった松平右京大夫輝高(てるたか 35歳)さまのご家臣ということですね」
「そうだ。陪臣の娘では、不服か?」
「伺っておきます。私の許婚ということではございませんでしょう?」
「あたりまえだ。そのような存念は露ほどもない。それとご老中ともなんのかかわりもない」
「閨閥づくりにもかかわりがないと---」
「中根どのが仰せじゃなかったか。銕三郎に妹をあてがって、おなごの考え方、感じ方を学ばせよと」
「私めのためですか---」
「いや。それも一つの理由ではあるが」
「ほかには---?」
「奥の故郷でもあり、わが家の知行地でもある上総(かずさ)のほかに、北の上野(こうずけ)国あたりに親類ができるのも、またおもしろいとおもわぬか」
「それは考えてもみませぬでした。旅ができますね」
「ふふふ」

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(木曾海道六拾九次之内 高崎・広重)

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2007.10.16

養女のすすめ(3)

水戸家上屋敷の塀がつきたあたりだった。
銕三郎(てつさぶろう のちの宣以)は、中根伝左衛門正雅(まさちか 71歳 300俵 書物奉行)にことわってから、かがみこんで、提灯の蝋燭を取り替えた。
伝左衛門も足をとめて待っている。

水戸家自慢の庭園・後楽園の大ぶりの楠が、夜目にも黒ぐろと枝をひろげていた。
その鬼気にさそわれたように、伝左衛門が語る。

中根家の当主で義父・昌長(まさなが)が大坂城の衛士として詰めていながら卒したので、実母の縁から、11歳だった手前が末期養子の形で中根へ入ったことが、そもそも間違いだったことは、15歳になる前に悟りました。20台で寡婦となった義母は、養子ではなく婿を迎えるべきだったのです」

若い義母は、孤閨に耐えつつも、月のうちの何日かは、ことさらに、大助(だいすけ いまの伝左衛門)につらくあたっていた。たまりかねて、実母の生家・中根家(700石)の当主で、従兄の次郎左衛門正音(まさおと 書院番士)に訴えたときに、こういわれた。
「大番には、駿府城や大坂城の番士勤めがまわってくる。その留守をつつがなく守るが、妻女さるものの覚悟である。しかし、由紀(養母の名)は家付き娘ゆえ、その覚悟のないまま、金五郎(昌長)どのを養子に迎えたのであろう」
正音は亡兄と同年で、40歳に近かった。

いわれて、大助には思いあたることがあった。
大助は、天野伝左衛門重政(しげまさ)55歳の子である。母は22歳で後妻に入り、3年後に大助を産んだ。寡婦になったのが30歳。
その母が月に何日か、幼なかった大助を自分の床へ入れて抱きしめ、ため息をついていたのを思いだしたのである。その何日かは、風呂へもいっしょに入り、糠袋でお互いに洗いあった。

伝左衛門は、年少の銕三郎によしもないことを話したと思ったのであろうか、突然、話題をそらした。
「おわかりかな、銕之助どの。女が、よその家の暮らし向きや着物のことを話題にした時は、もっと働いて役について役料をふやせと、暗にせかしているのですぞ。そういうことは、本心を洩らしてくれる女友だちから学ぶものです」
まだ、銕三郎を早世した息子の名で呼んでいる。

大助は、義母がその時期になると、義理の妹2人をつれて次郎左衛門正音の家へ、数日間、泊まりがけで出かけるようになった。
大助たちが屋敷へ帰ってきたのを迎える、義母の晴れ晴れとした顔といったらなかったが、そこまでは銕三郎には話すわけにはいかない。
子どもたちの留守中、義母も家を空けて外泊していたのだ。相手はときどき変わっていたようだが、不思議に面倒はおきなかった。
そのときの義母の姿態を、大助は空想したものであった。

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(歌麿 「ねがいの糸ぐち」 『芸術新潮』2003年新年号)

「ここが拙宅です。過分のお気づかい、くれぐれもお父上へお伝えください」

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2007.10.15

養女のすすめ(2)

酒食が終わると、6ッ半(午後7時)をまわりかけており、夕闇が濃さをましていた。
よほど気分がよかったのか、中根伝左衛門正雅(まさちか 71歳 300俵 書物奉行)は、60歳の山をこえてからはひかえめにしていたいつもの酒量を、いささかすごしていた。

銕三郎(てつさぶろう)。中根どのを、牛込逢坂(おうさか)上のお屋敷までお送りしなさい」
「いや、小者の要助も供しておりますれば---」
「途々(みちちみ)に、中根どののお話をお聞きする機会などはめったにあるものではありませぬゆえ---」
宣雄(のぶお 41歳 小十人頭)にそういわれると、わるい気はしなかった。
「では、お言葉に甘えて、寸時、ご子息を拝借させていただきます」

銕三郎。今夜は、御納戸町の正脩(まさなり 長谷川久三郎 4070石)どののところへ泊まればよい。先に太助をつかわして、頼んでおく」

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(牛込・市ヶ谷御門外図の部分。赤○=中根家 緑○=長谷川久三郎家 池波さん愛用の近江屋板)

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(市ヶ谷船河原町の逢坂上横町の中根家。次郎右衛門は継嗣)

中根家の小者の要助銕三郎の2つの提灯の足元を照らされてはいるが、それでも伝左衛門は、齢(とし)には見えないしっかりした足取りである。ともすれば、銕三郎のほうが小走り気味になることもあった。伝左衛門は、毎朝、鉄筋を入れた木刀の500回素ぶりを欠かしていないといった。
京橋川に架かる中ノ橋を北へわたり、まだ家々から灯火もれている八丁堀の町方与力・同心の屋敷をつっきり、神田川ぞい・柳原堤へ向かう道を歩いた。

「御納戸町の長谷川の屋敷からほんの少し南の中根坂に、中根さまの大きな屋敷がありますが、ご本家でしょうか?」
銕三郎は老人を遇する術(すべ)を心得ている。
「いや。中根には2流ありましてな。どちらも三河国額田(ぬかた)の箱柳の出で、岡崎城に伺候して広忠さまにお仕えしましたが、あちら---日向守正均(まさただ 6000石)どのは、道根と呼ばれて、手前どものほうはそのまま箱柳の中根を自称---」

神田川に架かる筋違橋(すじかいばし)をすぎたあたりで、伝左衛門が、突然、問いかけた。
銕三郎どのには、ご縁者の家に、年頃の同じような娘ごがおられますかな」
「は---?」
「いや、気軽に口がきける娘ごであれば、ご縁者にかぎったことではないが---」
「今夜、泊まることになっております、御納戸町の長谷川に、ひとり---」
「よく、話しあいますか」
「いえ。わが家は400石、先方は10倍以上の4040石を鼻にかけておりますので、対等には、とても話しあえませぬ」
「お父上は小十人頭で1000石格だが、家禄ではないから、やはり、な」

しばらく黙って歩いていたが、さいかち坂をくだりきって、水道橋の南詰で、要助になにやら用をいいつけて先に行かせた。要助の提灯の明かりが闇に溶けたのを見すますと、伝左衛門銕三郎をうながして橋を北へわたり、水戸家の屋敷の塀ぞいに神田川をさかのぼりつつ、独り言のように話し始めた。
「じつは手前、実家の天野では、兄・伝之助(のち重供(しげとも)が早くに卒しましてな。9歳から1歳下の兄の息と兄弟のようにして育ちましてな」
11歳で中根家へ養子に入ったのは、大坂城の守衛に詰めていた義父・昌長(まさなが)が28歳で急逝したためであった。生母は後妻で、大助と兄とは24歳のへだたりがあった。

中根へ入ってみると、亡くなった義父も、同じ中根ではあるが道根系の仁左衛門正造(まさつぐ 500石 大番の家系)から19歳で末期養子として、次女の婿となった人であった。
この次女---つまり、20台で後家になった手前の義母には、10歳と8歳の娘がいた。
10歳の娘のほうが、のちに手前の妻女となるわけだが、女ばかり3人の中で、大助(だいすけ のちの正雅)少年は、いじめられっぱなしであった。
とりわけ、若後家の義母の、なにかにつけて養子を見下す、ねっちりとしたもの言いがひどかった。それで伝左衛門は、義父の若死の遠因のひとつが、義母の態度にあったらしいと推測した。義父へのいじめの矛先を、大助少年が肩がわしたも同然だった。
とにかく、触らぬ神にたたりなし---大助は、心を閉ざして、自分の精神世界に遊ぶ術を自習することにした。

「幼少のときから、女というものに、付き合う術(すべ)を身につけておかないと、人生、とんだことになります。それで、今宵、ご両親に、養女をすすめておき申した。銕之助どのからもお願いさなれ」
若後家ということばに、お芙沙の甘美な姿態を思い浮かべて、股間を熱くしていた銕三郎は、いきなり銕之助と呼びかけられて、現実へもどった。

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(歌麿 「若後家の睦み」部分 『芸術新潮」2003年1月号)

いつのまにか、銕三郎が亡息の銕之助になっているのに、伝左衛門は気づかないふうであった。

【参照】
芙沙とのある夜の出来事2007年7月16日[仮(かりそめ)の母・お芙沙(ふさ)]
2007年7月24日[仮(かりそめ)の母・お芙沙(2)]

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2007.10.14

養女のすすめ

酒肴の支度を待っている時、外から帰ってきた銕三郎(てつさぶろう)が自室へ行くために、中庭に面した書院の廊下を通りかかり、客の中根伝左衛門正雅(まさちか 71歳 300俵 書物奉行)に気がついて、足をとめた。

「おお、ちょうどよかった。銕三郎中根どのへご挨拶をしなさい」
「かしこまりました」

中根どの、嫡男の銕三郎めです」
「お初にお目にかかります。銕三郎と申します。銕は金偏に夷と書きます」
「うっ。いや、これは、ご挨拶。中根伝左衛門です。たくましい若者にお育ちじゃが、お幾つかな?」
「14歳にあいなりました」
「お目見(みえ)はおすみで?」
「研修中の未熟者にございますゆえ---」
「ふむ。お父上もまだお若いから、お急ぎになることもありますまい」

長谷川平蔵宣雄(のぶお 41歳 小十人頭)は目で銕三郎を引き下がるように伝えた。
 
銕三郎が書院から辞去するのを見計らった伝左衛門が訊いた。
「ご子息は銕三郎とののほかにか?」
「あれ、ひとりです」
「ご息女は?」
「いません。不甲斐ないかぎりで---」

「それは危うい」
「は?」
「ご子息おひとりというのは、あやううござる。いや、手前ごとでお耳をけがしますが---」

伝左衛門は、先年、継嗣・銕之助を、突然に病死させた。
銕之助の銕は、ご子息と同じ、金偏に夷でした。いや、不吉なことを申して恐縮だが、他意は毛頭なきゆえ、お許しを」
「ほかに、ご子息は?」
「娘にも、恵まれまれず、銕之助ひとりきりでした。ただ、手前は養子に入って、中根の長女を妻にしましたゆえ、外に子をつくることもはばかられましてな」
養子といっても、伝左衛門の場合は、本家筋の女性が中野家(両番の格 1110石)へ嫁いて産んだ次男だった。その縁で、中根へ婿養子として入った。

膳が運ばれて、銕三郎の実母が挨拶にきた。
銕三郎の母親で、妻女同様に家事を取り仕切っている者です」

挨拶をすました彼女は、すぐに出ていこうとした。

「奥方どの。いましばらく、ごいっしょにお聞きいただきとう---」
彼女が座ると、伝左衛門が、継嗣を亡くして、養子が決まるまで、老齢にもかかわらず、勤めをやめられないでいること、家付きの妻女がむずかしかったので、養子がなかなかにきまらなかったこと、婿を迎える娘もいないこと---などを打ち明けてから、
「ご子息は健やかでけっこうですが、娘もいたほうがなにかと縁がつながるというもの。養女もお考えなっておいてはいかが---いや、初めてお伺いしたにもかかわらず、出すぎた分は、わが身の愚痴と、齢(とし)に免じてお許しいただきましょう」

【ちゅうすけのつぶやき】
宣雄の妻女、銕三郎 の実母については、このブログの初期画面・左のカテゴリー枠の[長谷川平蔵の実母と義母]をご参照を。

中根の別家系の家譜と正雅の譜。

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2007.10.13

田中城しのぶ草(21)

昨夕だった。
長谷川平蔵宣雄(のぶお 41歳 小十人組頭)を、書物奉行所の中根伝左衛門正雅(まさちか 300俵)が、鉄砲洲の屋敷までわざわざ訪ねてきた。
伝左衛門は、当年71歳の高齢であり、その屋敷は牛込逢坂(おうさか)上横町だから、ずいぶんと遠回りである。

玄関まで出迎えた宣雄は、恐縮しきっていた。
「これは、これは---。お使いをいただけば、参上いたしましたものを---」
「なに、城内でたしかめたら、長谷川どのは非番で、ご登城なさっていないということでしたのでな」
「明日は登城いたしましたのに---」
「いや、明日は、手前の方が非番で---」

玄関先ですみそうもない話らしいと伝左衛門の表情から察した宣雄は、とにかく書院へ通した。
「ご依頼のあった松下大膳亮忠重が判明いたしましてな」
「それは、それは---」
「それが、代わりの者に届けさせるわけには参らぬ方と知れましたゆえ、自身で参りました次第」

伝左衛門は、懐から袱紗の袋をだし、眼鏡を抜いて紐を耳にかけてとめた。
もうこの頃には、鉄枠にギヤマンを磨いた半玉を入れた眼鏡が作られていた。
「これなしでは、手前のような老骨には、書物奉行所は勤まりませぬ。いや、まさに書物奉行助役(すけやく)とでも名づけてやりたいほどの重宝もので」
伝左衛門は苦笑まじりにそういい、つづいて、宣雄が前に預けた田中城代の名書きの写しを出して広げる。

慶長14年(1609)12月- 頼宣領
元和5年(1520)7月-  幕領 
           城代 大久保忠直・忠当、酒井正次どの
寛永元年(1624)8月-  忠長領 
           城代 三枝伊豆守守昌、興津河内守直正どの
寛永8年(1631)6月   幕領 
           城代 松下大膳亮忠重、北条出羽守氏重どの

「先日、書き間違いではないかと申しあげたこの松下大膳亮忠重どのですが、あの時、城主になられた松平(藤井)伊賀守忠晴(ただはる 2万5000石)侯の線もあるやに推量しました」
「そのように承りました---」
「その松下松平の筆間違いという思いつきがきっかけとなり、権現さま(家康)さま時代の松平家をあたってみましたら、なんと---」
「いらっしゃいましたか」
「いらっしゃいました、桜井松平大膳亮忠重(ただしげ)侯」
「桜井松平---」
「さようです。長親(ながちか)君の庶子で内膳正を名乗られて、三河の桜井の地を賜っておられた松平信定(のぶさだ)侯を祖とされた桜井松平家、その7代目の忠重侯でした」
「ほう---」
「ただ、忠重侯は城代はいっときのことで、のち、上総・佐貫藩1万5000石の藩主となられ、寛永10年に田中城主・2万5000石で帰ってこられました」
「城代もお勤めになられたが、むしろ、ご藩主のほうが長かったと---」
「2年のちには掛川城主にご転封りになっていますが---いや、お目にかかってお話し申したかったのは、このことではありません。ご当主が遠江守忠名(たたあきら)侯---」
「宝暦元年(1751)に33歳だかで摂津4万石・尼崎藩主をお継ぎになった---」
「さようです。徳川ご一族でもあり、尼崎侯であられるお方の家譜は、許可を得ずして人目に触れさせることは好ましくないご定法になっていることはご存じのはず---」

その定法のことは、宣雄も承知していた。
その松平(桜井)大膳亮忠重のことを、目的はどうあれ、中根伝左衛門に依頼したということが洩れると、目付の下役などに痛くもない腹をさぐられかねない。
それで、伝左衛門は口どめをするために、自ら訪ねてはきてくれたわけだ。

宣雄は、酒肴の用意をいいつけて、中根伝左衛門の好意に報いることにした。

【ちゅうすけ注:】
『寛政譜』から桜井松平の家譜と、大膳亮忠重遠江守忠名の譜を参考までに掲げる。
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2007.10.12

田中城しのぶ草(20)

息・銕三郎が藤枝宿の青山八幡宮からもらってきた、徳川幕府初期の田中城代の名書きを前にして、長谷川平蔵宣雄(のぶお 41歳 小十人組頭)は、先刻より、当惑していた。

慶長14年(1609)12月- 頼宣領
元和5年(1520)7月-  幕領 
           城代 大久保忠直・忠当、酒井正次どの
寛永元年(1624)8月-  忠長領 
           城代 三枝伊豆守守昌、興津河内守直正どの
寛永8年(1631)6月   幕領 
           城代 松下大膳亮忠重、北条出羽守氏重どの

じつは、銕三郎から受け取った翌日、江戸城内の紅葉山にある書物奉行所を訪ねて、中根伝左衛門に名書きの写しを渡して用途を告げ、この仁たちの『寛永譜』の写しとその末裔を教えてほしいと頼んだ。
もちろん、先に貰ってっていた大久保忠直(ただなお)・忠当(ただまさ)とその末である荒之助忠与(ただとも 48歳 目付 1200石)は除けることは言いそえた。

2日ほどして、小十人組頭の控えの間へ中根伝左衛門からの使いが、すぐに書物奉行所へくるようにとのことづけをもつてきた。

「この、松下大膳忠重どのですが---」
書き間違いではなかろうかと、伝左衛門が言った。
松下家には、「忠」のつく名の者はいないし、『寛永譜』をあたっても、田中城の城代をした仁が当たらないというのである。

寛永8年(1631)6月の名書きの下にある北条出羽守氏重(うじしげ)さまは、正保元年(1644)に2万5000石の大名として田中城に赴任している。
参照:2007年6月21日[田中城しのぶ草](3)
2007年6月30日[田中城しのぶ草](12)
その前の城主は、松平(藤井)伊賀守忠晴(ただはる 2万5000石)さまに、「松」と「忠」がかさなるが---。

「いや。探しているのは大名家ではなく、幕臣なのです。しかし、中根どのがお調べくださった見当たらぬものは、存在しなかったと考えるべきでしょう」
宣雄は、そういって、松下大膳亮忠重は、藤枝の青山八幡宮の筆のあやまりでなければ、寛永のころに断家したのではないかと推察した。

しかし、このことは、銕三郎には言わなかった。役目をまつとうしていない、と思いこませてはいけないと思ったからである。

【ちゅうすけ注:】
『柳営補任』の駿府城代の項を見ると、寛永の初期に、松平(能見)丹後守重忠(しげただ)の名が見える。たぶん、この仁の誤記かとも思ったが、寛永3年(1626)7月11日卒しており、年代は符合しない。
『寛政譜』には「元和7年(1621)遺領をたまひ、父に継いで駿府の城代たり」とある。
田中城を駿府城の支城とみなして兼任していたとしては、史実の歪曲にあたろうか。

書き添えると、宣雄の時代には『柳営補任』『寛政譜』もまだできていなかった。

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2007.10.11

田中城しのぶ草(19)

長谷川平蔵宣雄(のぶお 41歳 小十人組頭)は、先刻より、息子の銕三郎が藤枝宿の青山八幡宮からもらってきた、徳川幕府初期の田中城代の名書きを見つめている。

慶長14年(1609)12月- 頼宣領
元和5年(1520)7月-  幕領 
           城代 大久保忠直・忠当、酒井正次どの
寛永元年(1624)8月-  忠長領 
           城代 三枝伊豆守守昌、興津河内守直正どの
寛永8年(1631)6月   幕領 
           城代 松下大膳亮忠重、北条出羽守氏重どの

いまは芝双葉町の下屋敷に逼塞している、つい先年まで田中藩の当主だった本多伯耆守正珍(まさよし)侯の発案で、田中城代の末裔たちが寄って、一夕、月見の宴を設けることになった。
その呼びかけ先と、参加の意志の有無の確認を、宣雄が確かめることになっていたのである。

伯耆守正珍侯は、郡上八幡藩の農民一揆の処置を手ぬかって、老中を罷免させられ、藩主を引退・逼塞の身の上であった。

名書きにある一家---大久保忠直(ただなお)・忠当(ただまさ)の末、荒之助忠与(ただとも 48