« 2007年8月 | トップページ | 2007年10月 »

2007年9月の記事

2007.09.30

10月8日(月・祝)は鬼平の日

『時代劇専門チャンネル・ガイド』10月号が届きました。

_360

表紙には[鬼平犯科帳祭り]とあります。

ひらくと、10月8日(月・祝)は朝5時から翌早暁まで、鬼平番組ばかりがぴっしり。
右ページは、それぞれの配役さんが選んだ篇とエピソード。
0710_360

左ページにはスペシャルや劇場映画の鬼平のオン・エアーも。
07103_360

時代劇専門チャネル

| | コメント (0)

2007.09.29

『よしの冊子(ぞうし)』(28)

よしの冊子(寛政3年(1791)4月21日つづき)より

一 長谷川組の手の者が、赤坂火消屋敷所属のがえん3人、駿河台で2人、小川町で2人、お茶の水で2人を召し捕らえたよし。いずれもがえん。
  【ちゅうすけ注:】
_360
(『風俗画報』179号 [江戸の花]より)
  がえんは、定火消し屋敷に雇われている火消し人夫。仕事が荒
  っぽい分、人柄はよくないのが多かったようだ。がえん部屋に寝
  起きしていて、いざ、火事! となると、がえんたちが枕にして寝
  ていた丸太の端を槌で打つ。 

赤坂の3人のうちで〔早飛〕の彦というのは大盗賊の頭目だったとか。隠れていた吉原から板橋へ立ちわったが、隠密廻りが廻ってくると聞き、駕籠で立ち去ろうとしたところを召し捕らえられたのだと。
手下が150人ほどもいて、町方の諸々へ押し入っていたよし。
ほかのがえんたちも50、60人ずつ手下を従えていたそうな。
_360_2
(赤○=赤坂の定火消し屋敷 近江屋板)

_360_3
(赤○=お茶の水の定火消し屋敷 近江屋板)

〔早飛〕の彦が吟味にあったとき、「手下どもはお構いくださるな、みな手前が、今夜は四谷へ行け、お前は浅草へ行け、と指図していたもので、連中はろくな奴らではありませぬ。こうして私めが召し捕らえられたからには、たかが酒屋で酒代をふみ倒すていどのことしかできますまい。うっちゃってお置きなさい」と大言を吐いたそうな。

一 長谷川の屋敷では、連日、大盗賊が召し捕られてくるので、毎日大釜で炊き出しをしなければならないほどで、たいそうな物入りだとか。
長谷川は盗賊どももことのほかよく扱い、衣類なども与えている様子。そういうことは前々からとのこと。
牢内へも自分のところの中間を忍びこませて様子を見聞きさせているので、このごろは牢内の食事の質もあがり、湯水も不足なく配られているとか。
先達ってまでは食事の質も悪く、夏などは行水の湯もほんの申しわけていどに渡され、ほとんどは牢屋掛の者が行水に使っていたとか。
飯もはなはだ粗末なものだったらしい。長谷川が牢内へ中間を入れてからは、すべてが改善された模様。
  【ちゅうすけ注:】
  火盗改メの役宅は、 『鬼平犯科帳』の清水門外にはなく、組頭
  の屋敷に白洲や仮牢がもうけられていた。
  火盗改メの組頭の役料は40人扶持。これから与力・同心の旅費
  や事務用品、牢番の手当ての見た。
  入牢者の食費もそう。
  ここに書かれている牢は、仮牢と小伝馬町の牢の二つが混記され
  ているようだ。

| | コメント (0)

2007.09.28

『よしの冊子(ぞうし)』(27)

よしの冊子(寛政3年(1791)4月21日)より

一 佐野豊前守 (政親 まさちか 60歳 1100石 先手・鉄砲の16番手組頭)が加役を命じられた節(寛政2年11月)、岡っ引きで神田の勘太という者を召し捕らえたよし。
この勘太は年来岡っ引きをし、金子を儲け、米屋株を拵え、自分は裏へ引っ込んで御門番所、見附々々の中間などを口入れしていたところ、その中間のなかの1人が(2月ごろに)豊前守に召し捕られ、勘太が偽の名主や大屋を拵え、豊前方へ訴訟へ行くところ、偽の名主や大屋のことが露見して入牢してしまった。
ところがこの節、勘太が免され、ところどころさし口(密告)するので、見附々々の中間どもが大勢召し捕られたとのうわさ。
  【ちゅうすけ注:】
   『夕刊フジ』の連載コラムに、佐野豊前守の深慮遠謀ぶりを
  谷川平蔵
が買っているさまを2度、[ともに尊敬しあい][美
  質だけを見る]
として登場させた。
  上記の順番に再録。

「いや、長谷川どのはわれらがもつことがかなわぬ体験をへておられる。うらやましいかぎり」
火盗改メの冬場の助役(すけやく)に任じられた先手鉄砲組16番手の組頭・佐野豊前守(1100石)が、平蔵のところへあいさつにきた、寛政2年(1790)10月ののことだ。

この仁(じん)人は51歳で大阪町奉行に就いたほどで出来ぶつのうわさが高い。
助役発令の際にも、
「このごろの先手組頭で加役(助役)を仰せつけるとすれば、佐野おいてほかにいない」
と殿中で噂されていた。

そんな豊前守政親の真意をはかりかねたかのように、平蔵は、
「なんの、なんの」
とことばを濁した。

「お若いころの遊蕩のことですよ。人なみに遊びたいと思ってても、上への聞こえをおそれるわれらは、よう遊びませなんだ。
8年間つとめた大阪の町奉行を病いをえて辞し、3年間療養にしていてハタと悟りましてな。
人生には無用の用というものがあり、それを体した者が大器になりえると」
「遊蕩が資すると---?」
「いかにも。人にもよりましょうが---」

旗本として出仕前の若いころの遊蕩の価値を、15歳も年長の先達に認められたのだから平蔵も悪い気はしない。両人の親交はこうしてはじまった。

なにかにつけて「長谷川どのは先任者…」を豊前守は口にしては、火盗改メのしきたりについて教えを乞う。平も「豊前どのこそ人生の先輩」と立てた。
ことごとに対立した松平左金吾のあとだけに、豊前守のソフトな対応はよけいにうれしかった。

菊川(墨田区)の長谷川邸へ招いたり、永田馬場南横寺町の豊前守の屋敷へ招かれたりして情報を教えあい、盃をかわした。年齢差を超えての交際となった。

早くに父を失った佐野豊前守は、祖父から家督した11歳以来、家名の重みがずっとその肩にあった。相手の長所だけを見ることを課した自律の半生ともいえた。
だから平蔵のような天性をまるまる発揮してなお魅力を失わず、部下からも慕われる器量の持ち主を友にできたことに感謝した。平蔵も、豊前守から謙虚さを学んだ。もちろん自分には身につかない美徳とあきらめはしたが。

たとえば助役になると、与力や同心たちが捕物のときに着るそろいの羽織に、組頭を示す模様をつけ、町々へふれさせるのが従来のしきたりだが、豊前守は、
「助役の模様なんかは知られないほうがなにかと都合がよろしい」
と秘した。
なるほど助役の任期は火事の多い晩秋から晩春へかけての半年ばかりだから、識別模様が徹底するころにはお役ご免になっているケースのほうが多かった。

が、平蔵の受けとめ方は違った。世間に対しても本役を立ててくれていると感じた。
さらに豊前守は、大阪町奉行の前歴を生かしているかのように、組の与力同心をてきぱきと指揮して捕らえた者の裁きをすすめ、幕府の最高裁ともいえる評定所へ伺うことはなかった。
  【ちゅうすけ注:】
  この項、2007年9月19日『よしの冊子(ぞうし)』(18)
  2007年8月5日[佐野豊前守政親]を参照
             ------------------------------

『夕刊フジ』のコラムに登場させた幕臣で、長谷川平蔵に次いで愛着を感じているのは、平蔵の同僚で、鉄砲組16番手組頭・佐野豊前守政親(1100石)だ。

経歴は堺町奉行や大坂町奉行を経ており平蔵の先達、15歳年長なのに助役(すけやく)という立場を忘れず謙虚に教えを乞う姿勢をとった。 
欧米流パフォーマンスとかで、「おれが、おれが…」と自分を売りこむのが今日風と思われている。平蔵にもその嫌いがあった。だから同僚たちが敬遠しもした。

この国には、「能あるタカは爪を隠す」といって佐野豊前式のひかえ目を美徳とする暗黙の評価基準がある。
人望は、どちらかといえば平蔵流より豊前守式のほうへあつまる。

平蔵豊前守は性格がまるで対照的なのにもかかわらず、互いに敬意をもって親交をつづけえたのは、人を見るときは美質だけ、との豊前守の信条によるところが大きい。
 
豊前守の組の者が神田の岡っ引きの勘太を捕らえた。
長谷川組の同心たちが所轄ちがいの所業といきまくのを、平蔵は、
豊前どののやりようを学ぶよい機会(おり)だわ」
とりあわない。
所轄ちがい---火盗改メ・本役の所轄は日本橋から北、助役は日本橋の南を担当、と決まっており、神田は本役の管轄内。

長年岡っ引きをやっていた勘太は、商店をむしった金で米屋株を買ったり、素行の悪い男たちを中間として番所や見付へ入れるなどの悪評が立っていた。平蔵もいずれ引っ捕らえるつもりだった。
 
佐野組はまず、中間の1人を博奕の現行犯で捕らえ、その身元引受人というふれこみで勘太が偽の名主や大家をこしらえて出頭してきたところを入牢させてしまった。

「あれで終わらせるような豊前どのではあるまい」
平蔵が与力同心たちへいった旬日とたたないうちに、佐野組勘太を放免した。

(うちの長官も焼きがまわったか)
組下たちがささやいたとき、佐野組は中間に化けて見付見付もぐりこんでいる盗賊たちを引きたてはじめた。
勘太の密告(さし)だった。

「かの仁の悪(わる)の使いようは、おれ以上よ」
と笑う平蔵から、長谷川組配下の者たちは敬意のささげ方をおぼえた。

ここで佐野豊前守のもう一つの顔を紹介しておきたい。
天明4年(1784)春、殿中で若年寄・田沼山城守意知(おきとも)に斬りつけた佐野善左衛門(500石)は、切腹を申しつけられて家は断絶。
人びとは彼を「世なおし善左衛門」とほめそやして浅草・徳本寺(東本願寺塔頭)墓前は紫煙がたえなかったという(殺人者をたたえるとは!)。
本家すじの豊前守は大伯父にあたる。

善左衛門のことをほとんど話題にしない豊前守だったが、平蔵には洩らした。
「あの者は、とり柄の正義感が強すぎたがために扇動に乗りやす質(たち)で、父親が50をすぎてからの子なので諸事甘く育てられました。産んだのは美人自慢の、自分が中心になりたがる芸者---それを継いでいたのを反田沼さま派にたくみに利用され……」

| | コメント (0)

2007.09.27

『よしの冊子(ぞうし)』(26)

『よしの冊子』(寛政3年 1782年と見込む つづき)より

一、外濠外での押し込みはしばしばあったが、外濠内の武家屋敷への押し込みはまずなかったのに、このごろ始まったのははなはだ遺憾なこと。
家の者男女10名ほどのところへ10余人も抜き身で乱入されては防ぎようもない。
その上、目の前で婦女を犯すのだからたまったものではない。
嫁入り前の娘を持っている者は夜な夜な心配し、婦女はぶるぶる震えて、お上の無策を恨んでいるとのこと。
その噂はぱっと広まったよし。
元昌へはたびたび盗賊が入っているらしい。
  【ちゅうすけ注:】
  『よしの冊子]の盗難で武家方のリポートが多いのは、町奉行
  所の御用聞きなどのそれではなく、老中首座・松平定信の腹心
  ・水野為長が手配している、もともと、幕臣を探索するのが仕事
  の徒(かち)目付や小人目付とその下働きも者たちの報告のせ
  いといえる。
  
一、強盗は富家のみを狙って入るものと世間で思っていたのに、このごろは貧家へも見境なく乱入しているので、わが家は貧乏だからといって安心してはいられない、といい交わされている。

一、盗賊を切り捨てたり召し捕らえた者へはご褒美をくださると仰せ出されてはいるので、召し捕る者もないではないが、現状では、押し込みを防ぐだけで精一杯、切り捨てとか召し捕りまでは思いもよらないと、もっぱらの噂。
2、3日前、上野の山下原へ70~80人寄合い、いずれも大小を差して徒党を組んでいた。
そのあたりの町家では、妻子をみな外へ避難させたらしい。

赤城若宮町の芸者2人が、加賀屋敷ヶ原(現:市ヶ谷自衛隊駐屯地北側)で犯されたそうな。

一、昨夜、赤坂檜の木坂下の町家まきやへ、押し込みが入ったよし。大勢で声をたて、拍子木を打ったので逃げ去ったと。

一、先日、京極備前守高久(若年寄 峰山藩主 63歳 1万1000余石)殿より、この節、御徒方の勤務ぶりがよろしいとお褒めをいただいたばかりなのに、前記のように御徒の内から盗賊が出たのだから、御徒方でも困ったものだと笑っているよし。
もっとも、御徒1組30人のうちには、いずれの組にも腕を撫して、どうでも盗賊を切るか捕らえるかしないとなるまいといっている者も3、4人ずつはいるようだ。

一、一昨年(寛政元年 1789)、神田鍋町と蝋燭町のあたり、6、7人ずつ連れだった盗賊が横行したよし。
もっとも大勢で拍子木、割り竹などで囃したために、人家には入らなかったものの、その盗賊どもを捕らえるまでにはいたらなかったよし。
ただ騒いで向こうの町へ行かせただけだったよし。いずれの町でも乱入されないように用心をしているよし。

一、神田で白昼、3、4人乱入したよし。
そのほかも生薬屋で番頭の計略で3人召し捕ったよし。
いずれ少々は実説もあるとのこと。
官人はとかく忌み嫌ってよきようにいっているよし。
お触れ後がお触れ前よりもかえって強い、と下ではいっているそうだが、官人はお触れ後は薄くなったと、とかく世直しをいっているよしのさた。

  【ちゅうすけ注:】
  こう、盗賊がはびこっては、火盗改メも席が暖まる暇もなかろうと
  いうものだが、武家方が襲われた時も、管轄は長谷川組なのだ
  ろうか。
  それとも、武家方は、若年寄支配の目付なんかの管轄なんだろ
  うか。 

| | コメント (0)

2007.09.26

『よしの冊子(ぞうし)』(25)

『よしの冊子』(寛政3年(1791)と見込む つづき)より

一、芝の牛小屋(東海道筋・牛町の牛舎)で、左金吾殿が盗賊を召し捕られたよし。しかし7、8人が抜き身でいたので、左金吾殿もはじめは大てこずり されたよし。

088
(高輪牛町 『江戸名所図会』)

280
(広重 高輪うしまち 『江戸名所百景』)

一、下谷の三味線堀で、長谷川組の与力:吉岡左市という与力が、どぶへほおりこまれたよし。
  【ちゅうすけ注:】
  長谷川組(先手・弓の2番手)の与力の姓がこれで判明したの
  で、目白台にある3組の各戸割りになって姓名が記されてい
  る組屋敷の最右端のブロックがそれと判明。

355
(目白台の弓の3組の組屋敷。赤○ブロックが長谷川組)

麹町8丁目の日雇取りが番町で襲われたとき、下帯だけはゆるしてくれ、といったが、それも聞いてはくれず、古い下帯と取り替えられたよし。ところがその下帯に3分(約15万円)結びつけてあったので日雇取りは大悦び。さっそくに木綿屋の吉水屋で袷をあつらえたよし。はぎ取られた品は全部あわせても3分には達しなかったもよう。

穴八幡の先の閻魔堂のある寺へ、押し込みが入って金子を取られたよし。「寺社奉行から参った」といって開門させたよし。

一、番頭の大久保備前守(不明)の屋敷へも4、5日前に大勢入り、おびただしく盗まれたよし。これは屋敷内の家来には分かりかね、門の出入りを止めているいるよし。

日夜、小盗人はところどころに働いているが、町方などでは、そういう小さな事件は訴え出ても盗まれた品は出てきっこないから、そのまま泣き寝入りをしているよし。そういう小さな事件はいたるところで起きているよし。

浅草観音のご開帳の朝参り、籠り、また夜参りなど、これまでにないほど警戒が厳重とのこと。当節は舟遊山もされなくなった。下賤の売女や辻の売女などの姿もまったく見かけず、難儀至極のよし。
町々は日が暮れると人通りもなくなってさびしく、四ツ(午後10時)には拍子木と鉄棒の音だけが聞こえるのみのよし。

昨14日、市岡丹後守房仲 ふさなか 1000石 先手鉄砲組頭 この年、54歳)の屋敷へ押し込み、大騒ぎになったよし。

一、先手の非番組が巡回して、先日、一夜に39人召し捕り、六ツ(午前6時)ごろに宅へ帰ってきたところ、自分の屋敷の門前で中間を一人召し捕らえて顔を見たら当家の家来だったので、同心が「許しますか?」と聞いたところ、「自分のところの家来であっても出てはいけない時に出たのだから召し捕れ」と、縄をかけて加役へ引き渡したよし。で、しめて40人の召し捕りとなった。

一、同じご仁が夜中に若い男を召し捕ったところ、自分の息子であった。遊所へでも行く途中だったのだろう、が、時が悪いと、縛り、これまた加役へ引き渡したよし。
どうもあまりにできすぎた話だ、しかし、安藤又兵衛正長 まさなが 331俵 先手鉄砲頭。この年、64歳。同年、罪を得て小普請入り)ならやりそうなことだと噂されている。

一、長谷川のところの中間が廻りから帰り、暮れ方に湯へ行き、帰りがけに近所で売女を買い、五ツ半(午後9時)に戻ってきたところを先手が召し捕って吟味したところ、長谷川の中間と分かった。
しきりに詫びるが、「長谷川の家来ならば勤めがら不埒である、と縄をかけ、ただちに長谷川へ引き渡したよし。長谷川でもただちに門前払いにして本金(すでに渡してある給金を返還)させたよし。

一、赤坂で盗賊6人を召し捕ったところ、3人は赤坂御門の下番、3人は駕籠かきだったよし。
盗賊者を駕籠へ入れ、提灯を点し、□□台へ持ち回るところを召し捕ったのだと。葬礼用の棺の中へ盗品を入れ、上下あみ笠などで盗賊どもも葬礼用の出で立ちで供について歩いていたよし。これは先年、前田半右衛門玄昌 はるまさ 1900石 この年、61歳 先手・弓の2番手組頭として長谷川平蔵の前任者)が火盗方をしたときに途中で見咎めて召し捕ったことがあった。今回もまた似たようなことがあったと。

一 沼間(ぬま)頼母隆峯たかみね  800石 西城御徒 この年、59歳)隊下の河野権之助は剣術もよほどにできたが、このほど組頭と頼母へ暇を願い出たので、組頭がなにゆえと困惑、沼間は「吟味するとことのほかむずかしいことになりそうだから暇を願い出させました。
どうしても、ということであれば調べますが……」といったので、組頭も早々に承知して謹慎させておいたよし。この者、ふだん親しく出入りしている小普請の宅へ先夜泥棒に入り、風呂敷包み、三味線などを盗み、その三味線を故買屋へ売り払ったが、被害者がその三味線を見つけて故買屋を責め、権之助から買ったことを聞き出し、中へ悪党を入れて権之助を詰問、白状させた。こういう次第だから、ほかへも夜盗に入ってもいよう。組頭はそのことを一向に知らずにいたところ、頼母は承知していたらしくて、はやばやと暇を願い出させたよし。
  【ちゃうすけ注:】
  この事件の後日談が『寛政譜』に記されている。
  隠密のこの報告書によって水野為永が辞職した河野権之助
  監視をつけたらしく、つぎの犯行で重刑に処された。
  沼間頼母については、権之助が組下にあったときすでによから
  ぬ行状をかさねていたことを知っていながら病気退職をすすめた
  のは不届きであると同年11月20日に小普請におとされ、出仕
  を2ヶ月間とめられた。

一、 長谷川の管理する無宿島から逃げた無宿人は10人や20人ではない、もっと多いはず。
このところの盗難事件は逃げた無宿人の所業に相違ないと噂されている。
  【ちゅうすけ注:】
  無責任なリポートである。
  長谷川平蔵は、参考にした深川・茂森町の無宿人養育所の失敗
  例にかんがみて、逃亡者は死刑、ときびしい規則を決定めて、逃
  亡を防いでいる。

| | コメント (0)

2007.09.25

『よしの冊子(ぞうし)』(24)

『よしの冊子』(ここより寛政3年(1791)と見込む つづき)

一、河野勘右衛門通秀 みちよし1000石 西城留守居 この年、52歳)、本所の大島重四郎(『寛政譜』に記載されていない)へも乱入したが、2ヶ所とも秘しているよし。

萩寺(龍眼寺 江東区3丁目34)へも押し込んだらしい。

601
(萩寺=竜眼寺 『江戸名所図会』より)

本所に住む玄意という医者が、患家からの依頼があったので疑うこともしないで出向いたところ、御竹蔵(現在の国技館あたり)に大勢待っていて、丸裸に追剥ぎされたとか。

一、神田のうなぎ屋へ乱入、妻と娘をさんざん犯して疵つけたよし。

一、市ヶ谷田町へ入って銭を盗み、その上、赤ん坊を抱いているのを見て、「子をおろせ」という。「おろすと泣く」とわびると、そのまま帰って行ったよし。

同所の男伊達のところへ1人で抜き身をもって入ってきたのに、頭が「おれのところと知らずに入ったのか」といい、組の者たちが、泥棒を剥いで酒代にしよう、と気勢をあげたら、詫びごとをいって逃げたよし。

巣鴨あたりへ入った泥棒の一人を縛ってみたところ、近所の旗本の次男坊だったので、あきれてしまい、突き出すわけにもいかず、わざと縄をゆるめて逃がしたと。

市ヶ谷(田町2丁目裏通り)の小林伊織正智 まさとも 500石 大番 この年、33歳)という小普請へ盗みに入って衣類などかなり盗んだよし。これは事実の話。

一、板橋で長谷川組善奴という者と、大松五郎という大盗賊を召し捕ったよし。
  【ちゅうすけ注:】
  善奴についての詳細は不明。
  100大松は、松平定信『宇下人言』(岩波文庫)にも記載がある。
  「そのうちに大松五郎といふを長谷川何が
  し
とらへぬ。このもの一人して一夜に二三
  ヶ所ほどづつ入て盗みぬ。
  一二ヶ月の間に五十何ヶ所と入りて、或は
  人をころし、町はおびやかしてとりゑし也。
  (重き刑にあへり)。
  このもの一人にてありけれども、風声鶴唳
  にも驚ききしは、実に義気のおとろへしけ
  れば、かくてはなげかわしとて、さまざま評論ありて義気発すべき
  御手だては、とりはからひ在りし也」

本所の妙見の寺(墨田区本所4丁目6 元・能勢家下屋敷内)へも押し入ったよし。

_350
(本所・北辰妙見堂)

駿河台の太田姫稲荷(千代田区神田駿河台1丁目2)の近くで追いおとし(路上で強奪)が出たとのこと。

大屋:甚左衛門方へ入ったというのは間違いで、彼の地所を借りている木村玄妓という医者のところへ押し込みに入ったが、件の医者が起きていて誰何したので、逃げ去ったよし。

小日向あたりの小普請組頭:多田善八郎頼右 500石。この年、32歳)方へも、先日、表の塀をやぶって入ろうとしたところ、中間が機転がきく者で、鎗持ちの力で塀越しに突いたところ盗人に傷を負わすことができ、賊は逃走したよし。

鉄砲洲へんとも八丁堀あたりともいうが、まあ、どっちにしても白河様(老中・松平越中守定信)のお屋敷の近くに医者ていの者がいた。この医者ていの者ははなはだあやしい男で、深夜に何用があるのか往来しているよし。この春、この医者の家へ下女として住みこんだ者が、その様子を見て安心できず、親の病気をいいわけにして暇をとったよし。この医者は盗賊の頭ではないかと噂されている。

一、麹町1丁目のよねという芸者が追剥ぎにあい、その上、一丁ヶ原でおかされたよし。このころ病気で本復もできまいといわれている。

| | コメント (1)

2007.09.24

『よしの冊子(ぞうし)』(23)

『よしの冊子』(ここより寛政3年(1791)と見込む)

一 神楽坂の橋本元昌(『寛政譜』に収録されていない)方へは5、6人の盗賊が入ったらしいが、元昌はそうはいっていない様子。

飯田町の黐(もちの)木坂の代官:稲垣藤四郎(豊強 とよかつ 250俵。この年、49歳)、小川町の金岩左京(『寛政譜』に収録されていない)方へも押し入ったところ、家内で騒ぎ立てたら、桑原伊予守(盛員 もりかず 505石5口。長崎奉行から作事奉行。この年、71歳)方の屋根伝いに4人逃げたよし。
同所、津田某へも入ったよし。
同所、赤井弥十郎(直盈…みつ。500石。小姓組。この年、42歳)へも入ったよし。

下谷御徒町の松浦市左衛門(信安 のぶやす 1300石。西城の納戸組。この年、36歳)などの屋敷がある一町には、御徒が14、5五軒も軒をつらねているが、たいていの屋敷がやられているよし。
当節はみなみな不寝の番をしているよし。

4、5日前、水戸様の表門通り(水道橋通 現・白山し通)で白昼、女の懐へ手を入れて懐中物を盗み、さらに裸にしようとしたが、女が大声で泣きわめいたので、水戸様の辻番が聞きつけてこの盗賊を召し捕り、柱へ縛つりけたよし。白昼にとんだことだといいあっている。

加賀っ原(昌平橋北詰)では、暮れごろに小間物屋が追剥ぎにあったよし。
御書付が出た夜、白銀町で3人が押し込んできたが、家人があまりに多かったので逃げたと。
その夜、人形町では押し込んだ3人が捕らえられたよし。

一、本多中務殿屋敷の向かいの松平主殿頭(忠恕…ただひろ 天草2万3200石。この年、65歳)の屋敷で、窓から手を入れて衣類を盗んでいる様子なので、中からその手をつかまえ、早く外へ出て捕らえろと声を立てたら、泥棒は自分の手を切って逃げ去ったとのこと。

ある屋敷では表から門の錠をこじあけたので、中からその手をつかまえて門を開けてみたら首がなかったよし。これは2、3人でやってきた盗賊のうち、1人がそのように捕まったので仲間が首を切って立ち去ったのだろうとうわさされている。

一、無宿島の人足の100人ほどを、長谷川平蔵宣以 のぶため)が更生じゅうぶんとみて、金子1分(約5万円)ずつ遣わし、「もはやその方たちはまともな人間になったのだから、これから先は自分で稼げ」と放したところ、どいつもこいつも元の盗賊へ立ちかえり、この節、あちこちに押し込んでいるのだと。
  【ちゅうすけ注:】
  この聞き込みはおかしい。この時期、石川島の人足寄場に収容さ
  れているのは、いわゆる人別帳に載っていない無宿者であって、
  犯罪予備軍ではあって、犯罪者ではない。
  とうぜん、盗みなどのはっきりした犯罪歴があれば、これは伝馬
  町送りのはず。
  石川島の人足寄場に恵犯罪者も収容されるようになったのは、
  長谷川平蔵が寄場取扱を免ぜられて、後任責任者に村田鉄太
  郎昌敷(まさのぶ)が寄場奉行になつて以後である。
  このリポートによっても、『よしの冊子』に全面的な信頼を寄せるこ
  との危険性がうかがえよう。 

一、町々へ、盗人は打ち殺せとの書付が出ているので、町人どももすこしは力を得て、このごろは町方もすこしは威勢がよくなっている様子。
先日などはなかなか恐れ入って盗賊に一本を取られたよし。
この節も4、5人で抜き身をもって町を歩き、
「おれたちは抜き身をさげているが、泥棒ではない。用心にこうしているのだ。なに、縛りたければ縛れ。こうだぞ」と刀を振りまわしたので、道をあけ通したと。
しかしながら、叩き殺せとのお触れが出たから、少々心強くなったと町人たちは悦んでいる様子。

一、長崎も江戸のように町々へ押し入りがあり、あちこち物騒。
長崎奉行(永井伊織直廉? なおかど 1000石 使番から長崎奉行 この年、53歳 『寛政譜』では寛政4年閏2月6日没と)も叩き殺されたとか。
井上図書正賢 まさよし ならば 1500石 小姓組番士から進物掛 この年、33歳 長崎からの帰路に没)はその検分に行くのだ、などと沙汰されているよし。
  【ちゅうすけ注:】
  井上図書の長崎行きは寛政3年4月---ということは、このリポー
  トは同年2月か3月のものか。

一、この節、世間一般に物騒な話のみで、このご時節にどうしたことだか、これはどうやら御防方がありそうなものだ。打ち捨てとのお触れが出ても、どうすればそれが実行できるのだ。請け合ってこっちが勝つとはいいきれまい。
やり損じたときは大馬鹿扱いだ。それだったら黙っているがいい。
そのような馬鹿者にかかずらわって傷でも受けたらそれこそ不忠というもの。
2~3000石もの屋敷へは入らない。
小身で金のありそうなところへ入る。

または勤番留守、あるいは当番の留守を見込んで入るのだから、切り捨てることもできない、不人情な仰せ出だ。

米屋騒ぎでさえ10組の手先組を動員して静かになったではないか。米屋騒ぎは狙われたのが米屋ばかりだったのに10人の先手組頭に出動を命じたではないか。
こんどの騒ぎは世間全般、一度に起きているのだから、左金吾殿一人ではどうやっても手がまわるはずがない。
どうもこれではご時節がら、余りにも不釣合、お上の御不徳というもの。困ったものだともっぱらの噂。
  【ちゅうすけ注:】
  先手の長谷川組をはじめ10組が騒擾鎮圧に出動したのは、
  天明7年(1786)5月23日からのこと。
  松平左金吾定寅が火盗改メに再任されたのは、寛政3年4月
  7日から。発令の理由は葵小僧の蠢動によると推定。葵小僧は
  長谷川組がを捕らえたので、翌年5月11日に解任。

| | コメント (0)

2007.09.23

佐野市からの、うさぎ饅頭

久しぶりに、うさ忠こと同心・木村忠吾の変身---うさぎ饅頭が届いた。
届けてくださったのは、有賀M恵さん。
誕生の地は、佐野市大橋町3220-1 (有)メープルさん
かわいい化粧箱に5個入っていた。

_240

_360_2

材料は、小麦粉、小豆、砂糖、水飴、加糖、つくね芋、手亡豆、植物油(菜種、大豆由來)、膨張材、寒天、グルタミン酸、着色料(赤102)

価格:不明

| | コメント (1)

『よしの冊子(ぞうし)』(22)

『よしの冊子』(寛政2年(1790)12月1日 つづき)より

一、四谷大番町に悪党が1人いた。
赤坂・薬研坂(港区赤坂5丁目と7丁目の間の坂)上の与力も悪党で、このたび捕らえられた赤坂見附の足軽と同類のよし。
天野山城守(康幸 やすゆき 1000石廩米300俵 小普請組支配ののち寄合 この年、69歳)の孫(仙橘か熊之丞、あるいは末吉)、新庄能登守(直宥…なおずみ 700石 作事奉行を経て一橋家老 この年、すでにいない)の倅(直清? なおきよ 小姓組。前年に31歳で致仕)の評判もよろしくない。これは一橋の家老を勤めたあとのよし。
本所の多田薬師の別当は諸道具から畳まで残らず舟2艘に積み、盗んで行かれたよし。この2艘は両国にもやっているが、1艘の船主は竪川通りの者らしいが、もう1艘の持ち主は一向にわからないよし。

一、佐橋長門守(佳如…よしゆき 1000石 日光奉行 この年、51歳)の屋敷へも入り、妻女をしばり、そのほか家来も残らずしばり、諸道具一切を奪い取ったよし。表長屋まわりにもそれぞれに抜き身を持たせ、長屋を囲って中からは1人も出てこられないように見張り、帰りがけには大門を開いて高張り提灯で引きあげて行ったよし。

一、青山六道辻の同心の家へ入った押し込みは3人だったよし。同心は宿直で留守だったので、家にいたのは妻と下女だけ。
この2人を犯した上、あったものすべてを奪って行ったと。梶川庄左衛門(秀澄 ひですみ 400俵。御先手弓組頭)の組子のよし。

一、伝通院前の大工のところへ入った賊は、妻ばかり犯して道具は何も盗らず、「蝋燭はあるか」と聞き、「ない」と答えると、「そんならよい。また来る」といって帰っていったよし。

一、水道町の両替屋へ入った賊は、ただ鳥目20貫(4両弱=80万円)ださせ、「それ以上は要らない」といって帰って行ったよし。
本所で老夫婦だけの貧しい家へ入った賊は、何も盗んでいくものがなかった上に、金子1分(約5万円)を置いて行ったよし。
麻布・日ヶ窪の女医師の家へ入った賊は、大勢で妻(嫁?)を犯して引上げて行ったよし。
  【ちゅうすけ注:】
  葵小僧のような悪党は、けつこういたわけで、これでは、長谷川
  組だけでは手がまわりかねた。
  レイプを受けた家で、届けていない被害者も多かろう。
  先手組で番についていない組が夜回りを命じられたのも当然。
  

| | コメント (0)

2007.09.22

『よしの冊子(ぞうし)』(21)

『よしの冊子(寛政2年(1790)12月1日つづき)より

一、当節、あちこちはなはだ物騒で、夜盗、押し込み、小盗人が流行っているよし。
春のあいだは牛込、小日向のあたりのみだったが、このごろは小川町、番町、麹町あたりまでが物騒になり、追い込み(押し入って奪う)や追い落とし(路上での強奪)事件が頻発している。
もっとも旗本の屋敷にはただ入り、町方へは「上意」などといって入りこむらしい。
山の手あたり、下谷あたり、青山あたりなどへも入っているとか。
これはぜひ越中(老中首座・松平定信)様のお耳にいれたいものだ。
田沼意次 おきつぐ)の治下でさえ丸の内では追い落しはなかったのに、ご政道、ご政道といっているがなにがご政道なものか。
長谷川(平蔵)のこのごろはそんな犯罪には目もくれず、諸物価引き下げにばかりかかっていて、いったい、本職はどうなっているのだといいたい。
こんなに諸方が物騒では、長谷川組だけでは間に合いそうもないといわれている。
小川町雉子橋外の蓮光院さまのご用人:高橋大兵衛方へ入ったのは禅僧だったよし。

一、当節、盗賊が横行し、町方はいうに及ばず、武家へも4、5人ずつ一団となって抜き身で乱入してくるので、追い込みに入られた武家方としては体面上「入られた」とは口にだしがたく、秘密にしているよし。
最近では「侵入してきた盗賊は斬り捨ててよろしい」という書付が出ているよし。
しかし、1000石以上で家来の数も揃っていれば盗賊団に対応もできようが、そういう屋敷は襲わない。
小身だが暮らし向きはけっこうやっている家が狙われ、抜き身の4、5人にも乱入されると、家中には足弱(老弱)の者もいようし、わずか2,3三人では防ぐすべもない。
で、斬り捨て、といわれてもそうはいかず、なかなかに迷惑しているよし。
かつまた、旗本は隣家との申しわせもうまくできておらず、たとえ隣家へ盗賊が乱入していることがわかっても、しらんぷりをされてしまって応援にかけつけてきてはくれないので、小身の家では防ぐ手当てもできないようだ。
もっとも、番町あたり、小川町あたり、駿河台あたりも盗賊が横行しており、番町では大坊主があちこちへ乱入し、此奴を捕らえようとして怪我をして取り逃がした家もあるそうな。
駿河台では人の長屋を借りている者のところへ乱入して反せんを奪いとったよし。右の坊主は長袖を着ているので、なんともおそろおそろしく、震えているばかりとか。
万事取締りといわれても、丸の内がこんな有様ではどうしようもない。上の方々は町方の盗難はご存じでも、武家も乱入されていることはお耳に入っていないかして、一向に手配されないのはそれこそ手ぬかりというもの。それと同時に御不仁なことだと噂されているとよし。もっとも、町方には白昼乱入されている家もあるやに聞く。せめて御先手十組に命じて夜廻りを厳重になさって下さるといいのだが。
しかも、その盗賊の多くは御家人ときている、などとの声もあるほどだ。
当節、小身者は、はなはだ不安心なことだ、といいあっているよし。

一、本所あたりでもあちこちやられているので、夜が明けたらまず、「ゆうべは無難でよかったね」との悦びの挨拶を交わしているよし。本町あたりでは11人ずつ一団となって抜き身をもって夜中横行しているよし。
下谷あたりでは、与力、代官、浪人、儒者などの所へも4、5日前に押し入ったよし。
赤坂では10人ほどが番太郎をつかまえ「お前が夜まわりをしているのは、火の用心のためか盗人用心か」と聞き、怖くなった番太郎は「火の用心のためです」と答えると、「泥棒のためといったら、ひねり殺すところだったぞ」と、許してくれたよし。
御廓内へ押し込みを乱入させないようにできないのでは越中(老中首・松平定信)様もいたって不徳だ、と大いに嘆息喧言しているよしのさた。
千駄ヶ谷の寂光寺へ入った五、六人の押し込みは、残らず奪い取っていったよし。
寺側は、わざと寝込んでいるふりをして取らせたあと、押し込みを尾行していったところ、四谷新屋敷の旗本の屋敷へ入って行ったよし。
翌日、使僧を遣り「昨夜、持って行った諸道具衣類、難儀しているのでをお返しいただきたい」といわせたところ、旗本側は「一向に知らないこと」と追い返した。
ふたたび使僧を遣し、「このお屋敷であることは、昨夜、ご門へ印をつけておいたので間違え用がないこと。今日、お返しいただければ一切なかったことにしてこのお家の名前も出さない。もし、知らないというならば、公儀へ訴え出るまで」と挨拶させたよし。
その後の経緯はわからない。
  【ちゅうすけ注:】
  寂光院の盗難事件を『夕刊フジ』の連載コラムに[ただ、立って
  いよ]
のタイトルで発表してみた。

長谷川平蔵は信仰心の篤い人だった。宗派にこだわることなく、いくつかの寺の住職と親しくしており、火盗改メとして死罪にした罪人の供養もたのんだ。
幕府焔硝倉(えんしょうぐら)が千駄ヶ谷にあったが、その南の、遊女の松で有名な天台宗の寂光院もそうだ。

293
(寂光院 『江戸名所図会』部分。中央;遊女の松)

遠くからの目じるしとなっていた大きな松樹は、もとは霞の松とよばれていた。改称したのは放鷹(ほうよう)に来た三代将軍・家光が、いっとき鷹の姿を見失ったが、霞の松に止まっていたので、呼んで家光の腕へ帰らせた。その鷹の名が遊女

白昼、行きちがいざまに顔をなぐられて立ちすくんでいる女性から、カンザシや風呂敷包みを奪いとる常習犯の中間を死罪にした。その供養を頼みがてら寂光院を訪ねた平蔵へ住職がいった。

「ホトケをお召しかかえになっていたご書院番・稲葉喜太郎さまにはおとがめなしということで…」
「さよう。ご一族のご奏者番・淀侯稲葉丹後守 10万2000石)が諸方へ手をおまわしになった」
奏者番は幕府の煩瑣なものになっている典礼を執行、諸大名から一目おかれている要職で、つぎには大坂城代とか京都所司代の要職が待っている。

「娑婆にあったときのホトケに往来で狼藉されたおなご衆の悲鳴に、助けに駆けつける者はおらんだのですか」
「ご坊にもご記憶おきねがいたいのは、無法者にはさからわず、人相を見とどけ、できうれば尾行して寝ぐらをつきとめることです」

平蔵のこの忠告が役に立った。
旬日をでずして寂光院へ抜き身を手にした5、6人の賊が侵入してきたのだ。住職のいいつけどおりに全員がタヌキ寝入りきめこんで根こそぎ盗ませておき、後をつけて四谷の旗本屋敷へ入るのを見とどけた。

翌日、平蔵がさし向けた長谷川組の同心とともに使僧が旗本・山崎某の家へ。
「難儀しているので、昨夜持ち去った諸道具と衣類をお返しねがいたい」
「一向に知らぬこと…」
「尾行してご門に印をつけておいたゆえ、このお屋敷であることにまちがいなし。すんなりお返しくださるなら昨夜のことはなかったことにしてお屋敷の名もだしません。が、知らないといいはるなら、ご一緒していただいている火盗改メのお役人さまへ、いまここで訴えるまでのこと」

老中首座・松平定信によるの借金棒引きの義捐令(きえんれい)にもかかわらず、この時期、困窮する幕臣があとをたたず、寛政前までは考えられなかった盗賊まがいの悪業に走る者も。わずかばかりの減税ぐらいでは暮らし向きが一向にラクにならない今のサラリーマンに似ていなくもない。

旗本の監督は若年寄と目付の仕事と考えている平蔵は、寂光院の住職の訴えに、同心には「ただ、立っているだけでよろしい」との策をさずけて同行させた。実話だ。

| | コメント (0)

2007.09.21

『よしの冊子(ぞうし)』(20)

『よしの冊子』(寛政2年(1790)12月1日つづき)より

長谷川平蔵は,かつて手のつけられない大どら(放蕩)ものだったので、人の気をよく呑みこみ、とりわけ下々の扱いが暖かく行きとどいていて上手のよし。
役向きで質屋などへ申し渡すときにも、こっちなどもまえまえ質に曲げたことがたびたびあったが、質屋にはなんとも合点がいかない。
腰のものを例にとると、こしらえの値ばかりふみ、太刀の生命である刀身についてはいっこうに評価しない、などと冗談混じりに痛いところをつくので、質屋も笑い出す始末。
吟味も相談するような調子ですすめるので、町奉行と違い、ものも言いよく、恐れずに申し出られると行き届く様子。町奉行はとかく大げさにになり、刑罰も重く言い渡されるので、盗賊をつかまえてもめったには渡さない様子。
  【ちゅうすけ注:】
  この『よしの冊子』のもとである隠密たちのリポートは、松平定信
  の家に厳秘に付されて伝えられてきた。
  「老中職になった者以外は除くこと厳禁」といった意味のことが、
  定信の手で書かれていたという。
  それが、世に現れたのは、桑名藩の老職・田内親輔月堂)が、
  ひそかに抄本をつくって『よしの冊子』と命名し、同藩の篤学
  の士・駒井忠兵衛乗邨に託して、副本を作らしめた。
  乗邨は自分の写本叢書『鶯宿雑記』中に収録した。
  これが昭和7年になって森銑三氏が『本道楽』に4回にわたって
  分載、初めての陽の目を見た。
  が、その中には、長谷川平蔵についての記載はない。
  とすると、長谷川平蔵が若い自分に「大どら」であったということ
  を、池波さんはどうして知ったのか。
  収録した中央公論社『随筆百花苑』刊行は、第8巻(1980.12)
  第9巻(1981,01)。
  『鬼平犯科帳』シリーズの第1話[唖の重蔵]の『オール讀物』発
  表は1968年新年号。

  7年前の『夕刊フジ』の連載コラムに「よしの冊子」この質屋の
  話をふくらませて[老人力の活用]とした。

「かねがね、機会をみてお手前がたに教えてもらいたいと考えていたことがござってな。いや、はや、はずかしながら、身どもが大どら(放蕩)だった若き日には、お手前がたの店へたびたびお世話になったものだ」

江戸には2000軒と定められている質屋の、当番の世話役---月行事(がちぎょうじ)の20人ほどを、三ッ目(墨田区南部)の自邸へ呼んだときにも、長谷川平蔵はいつものくだけた口調ではじめた。
「厳父の目をかすめて持ちこんだ伝来の腰のものを、お手前がたは刀装…こしらえばかり値ぶみして、刀剣の生命である刀身はいっかな評価しないのは、どういった次第からかな」

「申しあげます」と切りだしたのは南鍋町2丁目裏(中央区銀座6丁目)の〔近江屋質店〕の当主。この業種に特有の青白い顔をしている。

「お武家さまが腰のものを質入れなされたら…」と解説した。刀剣は柄(つか)の先端の縁頭の細工と材質、目貫(めぬき)の形、柄糸(つかいと)の色、、鍔(つば)元の止め金のはばきと中央の切羽(せっぱ)の材質、鞘(さや)と下緒(さげを)の色模様を書きひかえるが、刀身は寸法のみで銘は見ないきまりになっているのだ、と。

「武士の魂もお手前がたにかかっては算盤の玉のひとつでしかないということか」
平蔵の皮肉を冗談につつんだいいようを、代表たちは笑声でうけとめた。

「ところで足労させたは、刀剣を質入れするためではない。賊どもの跳梁(ちょうりょう)は承知のとおりだ。奴らが頼りにしているのが故買屋とお手前がた…」

で、その齢でもないのに隠居している仁は、火盗改メにしばらく手を貸してほしい。20人ばかりでいい、なに、公儀のご用といっても、組の同心と連れだって質商をまわり、不審な入質品の有無を聞いてまわるだけだ。

「のう、〔近江屋〕。その方のおやじどのも隠居の身と聞く。お天道(てんとう)さまの陽の下を歩けば、これまでの日陰での半生も日焼けで帳消しになるだろうよ」

隠居した〔近江屋〕彦兵衛が盗品をひそかに買い入れていたことを皮肉ってもいる。

平蔵はこうもいった。
「武士の身上が胆力なら、質屋のそれは眼力であろう。ご隠居どのたちは長年、その眼力を鍛えぬいている。それを借りたい」

一同に異論はないばかりか平蔵の柔らかな人あしらいぶりが、あっという間に江戸中の質商へ伝わり、緻密な情報網となった。

また、眼力を認めているといわれた隠居たちは、もうひと花咲かせる気になり、すすんで日焼けした。

当節は、今日の市場の売れ筋をPOSで吸いあげているが、1か月先、半年先の、まだ顕在化していないマーケットの動向は、第一線で販売に従事している生身の目と勘でなければとらえられまい。平蔵の狙いもそれだった。

  【ちゅうすけ注:】
  本文に、「盗賊をつかまえても(町奉行所には)めったには渡さな
  い様子」とあるのは、町方の者が捕まえても、町奉行所に連行す
  るのではなく、役宅としても使っている長谷川邸へ連れてくる---
  という意味。

| | コメント (0)

2007.09.20

『よしの冊子(ぞうし)』(19)

『よしの冊子』(寛政2年(1781)12月1日)より

一. 番町の新番頭:横地太郎兵衛(政武 まさたけ 廩米 400俵。この年、42歳)方へ入った賊も坊主だったとか。
太郎兵衛の組の者が止めようとしたところ、懐剣を出して手に切りつけてきたので、放したすきに逃げてしまったよし。
小普請組頭:蜂屋左兵衛(可護 よしもり  300俵 この年、48歳)方の縁の下に伏せていたのも坊主で、中間が見つけて捕らえようとしたところ、これまた懐剣で手を切られ、そのすきに塀を乗り越えて逃げたよし。
永井某方へ入ったのも坊主だったよし。
雉子橋:高橋大兵衛方に同居している弟の所へ入ったのも坊主だったと。稲葉小僧同様の坊主姿だと噂のよし。右の4軒、雉子橋をのぞくと3軒は番町。
この坊主姿の盗人、番町あたりをあちこち襲っている模様で、4年前(天明6年)の米屋騒動のときのような成り行きで騒ぎが大きくなっているそうな。

一. 安藤又兵衛(正長 まさなが 廩米 331俵)は、気性がはなはだむづかしい男のよし。いったいに公事をさばくことが好きなので、公事方勘定奉行の役所へ出、さばいてみたいとつねづね願い出ているそうな。
さて、このたび養子の御番入りを願い金子 200疋を堀田摂津守(正敦 まさあつ 若年寄)の用人へ贈ったよし。
この金子はただちに用人から返され、その受取書を用人から堀田摂津守へご覧に入れたところ、堀摂侯は登城の節ご持参になって、ご同席方やご老中へもご覧に入れたので、早速に小普請入りを命じられたが、だいたい又兵衛には旧悪もある模様。
  【ちゅうすけ注:】
  若年寄・堀田摂津守正敦(近江・堅田藩 主 1万石 この年、32
  歳)実は、松平陸奥守宗村が8男。母は坂氏。老中首座:松平
  定信の盟友。

嫡孫をぶって失明させたとか。養子も3人目とやらで、養子が患ったときも食物や薬も一切与えなかったとか。先年、和田八郎(現在は小笠原仁右衛門の手代)が又兵衛方へ勤めたとき、養子が気分が悪いといっているときにも、湯水も与えないので、八郎が目を盗んで看病したとか。
召使いの使い方もひどいもので、病気で引き込んでいても湯水も与えず、暇をとると給金を本金どおりに立て替えさせ、もし本金がとどこうると、荷物を押さえて渡さないとのこと。
女の古いつづらが 24,5個も二階に重ねて置いてあるそうな。だから世間では安藤又兵衛とはいわないで、本金又兵衛と呼んでいる。奉公人も一向に居つかず、用人もいないまま。
当番のたびに用人を雇っている始末。このたび小普請入りを申しつけられたので、組員一統が悦んでいるとか。

一 安藤又兵衛にお尋ねの節、(久松松平)左金吾(定寅 さだとら)殿、安部平吉(信富 のぶとみ 鉄砲の7番手組頭  1,000石 61歳)の両人が尋ねて行くと、又兵衛がいうことには、前々、拙者方へ軽い身分の御家人が来て、これがいうには、摂津守の用人の岡田百助は賄賂を取るのが好きだから、なるべく多く贈られるのがよろしかろう、と勧められたが、ただいままで贈りものなどしたことがない。
摂津守殿のご対客の時間に、拙者が参上したところ、百助が出迎えて手厚く世話していた。
ところがこのあいだは拙者に見向きもしないしものもいわなかったとかと御家人へ報告したところ、「それご覧なさい、それだから贈物をしないと」と勧められたので、 200疋贈ったのだ、と左金吾平吉へ話したとのこと。
なお両人が詰問したところ、その御家人もこのごろは来ない、などといって取りつく島もない始末で、あきれかえったよし。
又兵衛ははじめ 200疋贈ったが、返されてきたので 500疋にするかと考えたと。 2
00疋を返されたので又兵衛は大いに立腹し、こっちも御役を勤めているのに届けものを返してよこすとは不届き千万。理由をしたためた手紙を遣ったので、用人もぜひなく主人へ見せたのだろう。
京極殿(備前守高久 若年寄 丹後・峰山藩主この年、62歳 1万1000余石)が又兵衛へ、摂津守の用人どもにかぎって贈物をしたのか、またはほかの同役どもの用人へも贈ったのか、つつみ隠さずにいってみよ、後日になって判明してはためになるまいと聞かれたので、他へは決してやっていないと答えたよし。
  【ちゅうすけ注:】
  堀田摂津守正睦は、松平定信の盟友で信頼も篤い。その用人が
  賄賂(わいろ)好きとの噂があるところがなんともおかしい。

一. 先だって、代田橋で駕籠から又兵衛が降ろされたのは、六尺(駕籠かき)への弁当代をやっておらず、駕籠かきたちが申しあわせて降ろしたよし。それゆえ駕籠かきどもは入牢し、この月の2日、牢死したもよう。
その思いばかりでもただではすみそうもないとの噂だ。
安藤又兵衛の倅は三度目の養子で、芸術も人物もいたってよろしく、選にもあたり申すべきほどの様子のところ、又兵衛の大ばかのためにあのとおりの結果になったので、養子は嘆息し途方に暮れたよし。
25日の夜、安藤又兵衛の倅は井戸へ身を投げて死んだよし。
又兵衛が小普請入りを命じられた日から、お前のためにおれはこうなってしまったとたびたびいい聞かされたので、倅の身としては気の毒で辛抱たまらず投身自殺したもよう。
本金又兵衛と呼ばれる男は本所に一人、浅草にも一人いるが、この三又兵衛のうちの一人がしくじったので、今後は二又兵衛となると噂されているよし。
又兵衛の倅は、竹中惣蔵のところへ弓の稽古へ通っていたところへ自宅から人がきて、父の又兵衛があすお城へ召されたといったので、父の立身か自分の番入りかと帰ったところ、小普請入りとのことで、倅も大きく気落ちしたよし。
倅は武芸がいたってよく出来、腕前は御番衆や小普請の中にもくらべられる者もいないほどとのこと。安又の倅が井戸へ入ったのは、養母を殺したことを申しわけなく思ったからだ、ともいわれている。
井戸へ入ったので地上ではたいへんにうろたえ、さげた釣瓶につかまれ、引きあげるからといったが、縄が切れて釣瓶が頭を直撃したので即死したらしい。又兵衛が謹慎の処分中なので小普請組頭はくやみに行くこともできず、世話役を遣って検分したとか。
倅の里方でも、又兵衛のふだんのやり方に不満があり、かねてから養子縁組を解消して取り返したいと考えていたが、御番入りの話もちらほらしていたので我慢していたものの、又兵衛が小普請入りを命じられたのでその謹慎が明け次第に取り返すつもりであったという。それで里方ではこんどの事件で又兵衛の責任を追及するつもりらしい。又兵衛も謹慎ですめばいいが、どうもそうではなさそうな雲行きとの噂がささやかれている。
  【ちゅうすけ注:】
  井戸へ入った養子:満吉正武は27歳。里方:内藤主税信就
  ( 1,000石 小姓組の家筋)の4男(ただし兄2人は早逝)。

一. 当節、あちこちはなはだ物騒で、夜盗、押し込み、小盗人が流行っているよし。
春のあいだは牛込、小日向のあたりのみだったが、このごろは小川町、番町、麹町あたりまでが物騒になり、追い込み(押し入って奪う)や追い落とし(路上での強奪)事件が頻発している。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007.09.19

『よしの冊子(ぞうし)』(18)

『よしの冊子』(寛政2年(1790)12月1日)より 

一. 銭相場が引きつづき急騰しているのはどういうわけか、豊島屋へ銭を売るなと仰せつけられたので、引き上げても、銭を買い上げになっても、いろいろと噂しているよし。
米は安く、銭が高いので、武家は一向に引き合わないと小言がでている。
しかし諸物価を引き下げのためにいろんな策が講じられているが、以前と同じことで物価は少しも下がらないのは、まず銭を高くしておいて、その上で物価を引き下げる計画なんだろう、とのもっぱらの声。
  【ちゅうすけ注:】
  1両= 4,000文に定められていた銅銭との交換レートが、実勢で
  1両= 6,200文前後と、銭の値打ちはさがっていた。
  それが、銭がじわじわと高値(5,300文近く)になってき、逆に、
  米価は下がり気味だったから、米で給料をもらっていた武家はた
  まったものではない。

一. 銭が高値になったのは、長谷川平蔵の処置だとの噂もでている。
無宿島(注:人足寄場)で10万両ほど銭を買い上げたせいで銭が高値になったのだと。
いずれは諸物価を引きさ下げるための処置なんだろうが、物価は急には下がるまい、物価が下がったところで武家にとっては朝三暮四じゃといっているよし。
諸物価を下値にとのお触れが出ているので、酒、油、豆腐類などの金本位で値づけされている物は引き下がっているよし。
銭で値づけされているものはいまのところ下がってはいない。
この節、銭が高値になっているので、両替や質屋、呉服屋などは大いに利を得、毎日過分の利を得ているので、どうでもよいものはよい、どっちにしても利をとりにくいやつだと噂している模様。
諸物価がおいおいに下がりさえすれば、銭が高値でもいいとの評判も聞かれるよし。
町方でもこのたびの仰せ渡されはごもっとも、至極ありがいことじゃ、是非下げねばならぬ、と、互いに心掛け、銀匁のものは銀匁を安くし、煎餅などは品を大きくするとか厚くするとかするらしい。
ただし野菜や魚類、また日雇い代などは一向に下がらない気配。なにとぞ奉公人の給金も昔のように安くなればよいのだが、と噂しているよし。
  【ちゅうすけ注:】
  銭のレートを上げるため……というより、人足寄場経営も2年目に
  入り、初年度に 500両つけてくれた運営費を、幕府は 300両に減
  らした。
  これではやっていけないので、長谷川平蔵は諸物価安定との理
  由をつけて幕府から 3,000両借り出して銭を買い、月番の
  北町奉行の初鹿野(はじかの)河内守信興(のぶおき 1,200石
  47歳 武田系)同席のもとに呼びつけた両替商たちに「銭の値を
  あげよ」と命じた。
  1両= 6,200文前後だったレートは1両= 5,300文前後まで銭が
  上がった。
  平蔵はただちに買い置いた銭を売り払い、差益を400両ばかり取
  得、寄場の運営資金の足しにするとともに、元金 3,000両を幕府
  の金蔵へ返済した。
  この行為を、「武士たる者がゼニに手を染めた」と保守派幕臣た
  ちが非難した。
  その代表が、寄場への予算をケチった老中首座・松平定信で、
  自伝『宇下人言』に「長谷川なにがしは姦物」と記した。
  『よしの冊子』全編を通じて、「姦物」と書かれているのは、賄賂
  (わいろ)を激しく得ている人物である。
  平蔵にこの言葉が冠されたのは、この銭相場でえた利得を私(わ
  たくし)したとの判断によるようである。
  事実は、人足寄場の経費の補填に使ったのだから、「姦物」よば
  わりは不当・不見識といわなければなるまい。

一. このあいだ、初鹿野(北町奉行)のお役宅で、初鹿野と長谷川平蔵の両人が列座して、江戸中の名主と大屋を呼んで、このたび銭相場が高値になったので、諸物価は値下がりするだろう。

_360_3

_360

いかように銭が下値になっても、(1両=) 5,200文より下値にはなるまいから、不安がらないで右の心得で諸物価を引き下げるように申し渡したとのこと。
初鹿野は名門の出(注:武田系の依田(よだ)から初鹿野へ養子)、長谷川は御先手から町奉行役所へ出て町人へ申し渡したのはいい度胸だと噂されている様子。
いずれ町々の町役人一同は長谷川を町奉行にと願っているとのこと。
いたって慈悲心のある方と悦んでいるよし。
柳生(主膳正久通 ひさみち 46歳 600石 勘定奉行は3000石高)が大目付になると、長谷川柳生のあと勘定奉行になるだろうとのうわさ。
一説に、長谷川の職はいままでどおりで、むしろご加増があり、掛り役を仰せつけられるとの噂もある。
  【ちゅうすけ注:】
  加増も勘定奉行もなかった。

_360

_360_2

一. 佐野豊前守政親 まさちか 59歳 1,100石 鉄砲の16番手組頭。この年10月7日から助役))は長谷川を師匠と頼み、万事問いあわせて勤めて、はなはだ仲がよろしいよし。
役向きでも昼夜張りつめている模様。
町人どもが召し捕った者を連れてまいっても手間をとらせずに済ませているそうな。
役羽織の紋どころを町々へ触れさせるのがしきたりだが、佐野は助役の紋どころは知られぬほうがいいといって、紋どころの書付をまわしていないらしい。
  【ちゅうすけ注:】
  火盗改メの組下は、火事などの出動の時に揃いの羽織を着る。
  その袖に組頭ごとにそれぞれの柄をつる。
  佐野豊前守は、冬場だけの助役だから、無駄遣いと判断。

佐野はつねづね、自分は落ち度をしでかしたおぼえはない、評定になれば申し開きができるから、評定にしたいものだといっていたところなので、このたびのお役を間違いなくありがたがっているよし。
これは松平石見守(貴強? たかます  1,100石)が百日目付へつかれたとき、目付違いを上申する落ち度があったよし。
このごろの評判では、松平(石見守?)が御先手に任命され、佐野がまた大坂町奉行に戻る、と噂されているよし。
  【ちゅうすけ注:】
  佐野政親は、天明元年(1781) 5月26日から足かけ7年間、大
  坂町奉行。病免して寄合。回復後、先手組頭。
参考:佐野豊前守政親

一. 長谷川平蔵は、 3,000両ほどずつ銭を買ったらしい。
この節、銭値が日々に上下しているので、両替屋どもの中にはこの機に乗じて大きく利を得ている者もいるよし。坂部十郎右衛門(広高 ひろたか 廩米 300俵。目付、のち町奉行)も、 3,000両のうち 100ほど買っておき、配下の者へ触れをまわして希望者へは買ったときの安相場での買値で分けたという噂がもっぱらだ。

一. 佐野豊前守(政親)は、10月から3月までの御加役中に 400両借金ができてしまったよし。
加役(火盗改メの冬場の助役)でさえこうだから、長谷川は長い本役づとめをしているのだから、さぞ物入りであろう。
長谷川は慈悲もほどこし、先だって新刀(注:神道、新稲、新藤とも)小僧を召しとったときには、「新刀小僧ともいわれるほどのお前が、そんななりで入牢しては格好がつくまい」と3両だして衣服をこしらえて牢へやったそうな。これはほんの一例にすぎず、とにかくなにやかやと物入りが多く、よくまあ続くことよ、あれではさぞや借金が増えることだろう、と噂されているよし。
  【ちゅうすけ注:】
  新刀小僧は配下 700人ともいい、関東一円から信州、奥州にか
  けて盗みをはたらいていた大盗賊の首領。
  3両だして新刀にふさわしい衣服を与えたエピソードは、
  2007年9月8日『よしの冊子(ぞうし)』(7)を参照

| | コメント (0)

2007.09.18

『よしの冊子(ぞうし)』(17)

『よしの冊子』(寛政2年(1790)3月21日)より 

一. 水戸治保 はるもり 40歳)様が上野(寛永寺)へ御参詣になったときの供侍のうち、合羽箱持ちどもが博奕を始めたところを平蔵組の同心が召し捕ったよし。
平蔵がちょうど廻ってきてことの次第を聞き、さっそくに水戸へ掛けあったところ、ご三家方の身内の者には手を下さないという規則だが、博奕の現行犯だから組の者も逮捕したのだろう。
しかし、この者どもは町日雇いと見える者で、その口入れ屋へ渡す所存。口入れ屋へ不届きの赴きをいい渡したあとで、お引き渡しになるのがよろしかろう。軽い者たちゆえ、いま召し捕って、ご行列から外し、口入れへ渡しましょう、と引き立てた。
翌日、水戸侯の上屋敷(水道橋)へ出向き、「昨日は組の同心がご行列の人数のうちを、お許しも得ないで召し捕り、はなはだ恐縮しております。もし、なにかのご沙汰がおありなら、よろしくお頼み申します」と挨拶したので、水戸側は大いに感服し、「なるほど、この節に火盗改メに任命されたほど人ゆえ、丁寧な取り計らいだ」と褒めちぎっているよし。

一. 松平(久松)左金吾 (定寅 さだとら 47歳 先手・鉄砲の8番手組頭 2000石)が同役に話すときには、なにかにつけて「越中、越中」で、同役たちへも、「役向きのことでいいたいことがあったら越中へ内々に伝えよう」と、いちいちご老中:定信侯を笠に着られるので、同役たちは恐れるとともに困ってもいるよし。
他組では当番を助けに行ってもその組の与力が、「横柄(おうへい)じゃ」と叱られるので与力たちも悦んではいないよし。
先日、ご老中方がお上りになったとき、与力どもが薄縁の上へつま立っているのは見苦しく失礼でもあると申しきかせるがいい、といったので、同役が、「これは先規をとくと読み返した上のことだから」と抗弁し、与力たちも、「出てきた、先規を改めた書付には、ご三家の方のほかは土下座はしなくていい規定になっている。そんなことも弁えないで、ご老中:定信侯を笠に着てあれこれ口をきかれるのは、あまり知恵のある人ではないな」と噂しているよし。

一. 佐野豊前守政親 まさちか 59歳 1,100石。鉄砲の16番手組頭。この年10月7日から助役)への役の仰せつけは、ごもっともなこととみんな評判にしているよし。
このごろ、先手(の組頭)のうちで、加役を仰せつけられるような人材は、さしづめ佐野だけ、と噂していたよし。ご選定は大当り、とあちこちでいっている模様。
 参考:佐野豊前守政親
一. 佐野豊前守長谷川を師匠と頼み、万事問いあわせて勤めて、はなはだ仲がよろしいよし。
役向きでも昼夜張りつめている模様。町人どもが召し捕った者を連れてまいっても手間をとらせずに済ませているそうな。
役羽織の紋どころを町々へ触れさせるのがしきたりだが、佐野は助役(火盗改メ・助役)の紋どころは知られぬほうがいいといって、紋どころの書付をまわしていないらしい。
佐野はつねづね、自分は落ち度をしでかしたおぼえはない、評定になれば申し開きができるから、評定にしたいものだといっていたところなので、このたびのお役を間違いなくありがたがっているよし。
これは松平石見守貴強? 1,100石)が百日目付へつかれたとき、目付違いを上申する落ち度があったよし。
このごろの評判では、松平(石見守?)が御先手に任命され、佐野がまた大坂町奉行に戻る、と噂されているよし。

一. 長谷川平蔵は、無宿島(寄場)ではこのごろ至極困り果てているよし。
無宿人どもがなかなか思いどおりに手にのってくれないので、最初の見込みどおりにはいかない模様。
それは分かりきったことだ。上の方でもあの案をお取りあげになったのは軽率であったと噂されている。
土を運ばせても、おれたちは公儀の人足さまだといって百姓をいじめているよし。
紙を漉かせても思うようにできず、内々、江戸の町人の素人に頼んで漉かせているよし。

一. 寄場人足が竹橋内の空き地へきて、勘定所が出した反古紙を切って寄場へ持ち帰ったよし。
同心が一人、監督をしていたよし。
反古を切っているときにそばで聞いていると、いろいろ小言をいい、人足たちのいうには、どんなことをしてもせいぜい首が落ちるだけのことだ。首が落ちるのをこわがっていてはどうしょうもない、などと大きな口をたたいて傍若無人の振るまいだったよし。
なるほど、あれでは長谷川も手にあまろう、が、まあ、ああした者どもだろうともいわれているよし。
監督の同心も困ったいたよし。寄場に行っている平蔵組の同心は、いずれも遠方からなので塩味噌まで持参して2、3日も泊まっているよし。4日に一度、5日に一度家へ帰り、また翌朝には詰めているので、用事がいっこうにはかどらず、難儀している。その上、役料は火盗改メ分だけで、余分には出ないので、火盗改メ分としての2人扶持だけでは島通いは続けられない、と愚痴をこぼしているよし。
2、3日も泊まると、島で銭を多く遣ってしまうといっているよし。

一. 先手勤め方、その他の組与力同心の勤め方のあれこれの規定をつくろうと、松平左金吾安部平吉信富 のぶとみ 鉄砲K7番手組頭  1,000石 61歳)が、筆頭:浅井小右衛門(元武 もちたけ  540石 81歳 56歳から組頭で25年間、鉄砲の11番手組頭)、次老:村上内記正儀 まさのり  1,550石 74歳 59歳から組頭で15年間、鉄砲の14番手組頭)、三老:松(杉)浦長門守(勝興 かつおき 620石 70歳 55歳から15年間、鉄砲の3番手組頭)へ話を持ちかけたが、いずれも老衰で、相談相手になってはくれず、貴殿たちでどうにでもいいように頼む、というだけだったよし。
先手が担当している御門は総じて出入が多く、持ち物も勝手にもあいなるようだ。
御先手から御鎗持へ転役になっても出入り場の役にはつくわけだ。
倉橋三左衛門久雄 ひさたけ 1,000石 この年の8月に御筒持へ転任)が御持になったけれど出入場は、担当しているよし。
この際、土方宇源太勝芳 かつよし 1,560余石 47歳 鉄砲の10番手組頭)を御鎗奉行にして、右の出入り場を持ちながら勤めたいとところどころ拵えているよし(意味不明。土方勝芳が翌寛政3年5月に転役したのは普請奉行)。
宇源太はまだ50そこそこの男らしい。あの若い男が御鎗へ行くのはつまりは出入り場を持って行きたいというばかりで御鎗を願うのだそうな。
御先手なども人物さえよければ筆頭から順に抜けさせていくのが公儀としても本意であろうに、下のほうから栄転してはみんな気受けが悪くって人びとのおさまりもわるいことだと、左金吾が腹を立てて、人に話しているよし。先記の三老はいずれも老衰で相談をかけても埒があかないから、このごろは安部平吉あたりがおもに世話をやいているよし。
このたび御番入りの順でいくと、村上松(杉)浦安部中山(下野守直彰。 500石。75歳)、酒依(清左衛門信道。 900石。73歳)ということになるが、安部ばかりが抜きんでているのはどういうことかといわれているよし。70歳以上ということではあるけれども、70歳以上ならば御番入りこれあるべき者を、と評判しているとのこと。
  【ちゅうすけ注:】
  *浅井元武は、この年の12月に卒。
  *村上正儀は、この年11月に卒。
  *杉浦勝興は、6年後の寛政8年2月に卒。
  筆頭、次老、三老……は、34人いた先手組頭の長老格の面々
  で、同役たちの取締りと意見の取りまとめ役のはずが、この時代
  には老齢化がすすんでおり、耄碌3役ともいえた。
  それでも、先手組頭は番方(武官。制服組)の終着駅といえる地
  位だから、しがみついていて容易に辞めない。

一. 御先手の一色源二郎直次 なおつぐ  1,000石 弓の4番手組頭)の倅(作十郎直美 34歳)は、馬術が巧みで、上覧にもまかり出、その上お好みで両度上覧も仰いでいるとのこと。
しかも源二郎は今年72歳になるので、先日、御番入りした節、これは辞めそうなものだ噂されていたが、倅への沙汰はなかったよし。
小倉忠左衛門(正員 まさかず 1,200石 75歳 弓の7番手組頭)は365日引き込んでいるところ、このたび倅(永次郎正方 28歳)が御番入りしたが、その倅はようやく12歳(先記のように年齢に誤記がある)で、先日のご吟味のときも両度とも急病を理由にお断りを願ったそうな。
このたび御番入りした挨拶のために御頭の家へ行けば泣きだすので、お頭も、早々にしてお帰りなさいといい、お礼参りも同役の世話でやっとのことで勤めたらしい。
なるほど、ご吟味にも出さないわけだ。あれではご吟味に出ると御番入りはさせてもらえない。だからご吟味のたびに急病ということにしたのだ。
これは京極(備前守高久 若年寄。丹後・峰山藩藩主 1万1,000余石 『鬼平犯科帳』では、鬼平の後見役)がよくない。ご時節でも得手勝手をすると、京極のことを悪くいっているそうな。

一. 長谷川平蔵が口をきいた奉公人を雇った場合は、給金は1両2分(約30万円とも、15万円とも)とあちこちへいって様子。
ただし給金は奉公人へは渡さないで、長谷川方へ預け、3月の季がわりに、長谷川から利息を添えて渡してやるとのこと。
長谷川が雇い主たちへいうことには、使いなどに出すときは金子を1両より多く持たせないことだ、もし持ち逃げしても1両以下だから長谷川が補填すると。しかしこれは大部屋などではいいが、中間の2、3人も使うところでは嫌なものだ。そうはすまいといいあっているよし。

| | コメント (0)

2007.09.17

『よしの冊子(ぞうし)』(16)