カテゴリー「096一橋治済」の記事

2007.12.02

一橋治済(4)

故・後藤一朗さん『田沼意次 ゆがめられた経世の政治家』 (センチュリー・ブックス 1971.9.20)が、在野の研究家らしく、田沼意次(おきつぐ)を追い落とした張本人は一橋治済(はるさだ)と決めて、その陰謀の一つとして、次のような縁組リストを掲載している。

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え? 男子17人、女子7人!
と驚いた。
いったい、何人の側女に産ませたの---と、急いで『徳川家諸家系譜 巻3』を取り出して、気がついた。

なにも、治済が産ませた子とはかぎるまい、孫もいるだろうと。
それで、内室と子を産んだ側女を数えてみた。

『徳川家諸家系譜』治済の項には、「治済九子有り」と。
つまり、『系譜』には、男子のみで、女子は記されていない。このことがわかっただけでも、『系譜』を開いてみた甲斐があった。
男子は3人の側女が産んでいる。岩本氏、丸山氏、中村氏。
次男斉国(なりくに)の内室は左大臣藤原治孝の娘・隆子は、嫁いで2年で薨じている。享年18歳。斉朝は実子かどうか不明。父親の斉国も19歳で卒。

後藤さんは女子のことをなにで調べたのだろう。独学なのだから、すごい探索力だ。

9人の男子のうち、3人は夭折、あとの4人も18歳から20歳で卒している。
すなわち、9男児のうち、生存したのは3人。一覧リストのうち、将軍となった家斉(いえなり)、斉匡(なりまさ)、斉敦(なりあつ)。

子がいれば、継嗣以外は養子にし、嫁にやるわけだから、治済だけが特記すべきとは思えないのだが。

後藤さんの推測は---、

ほとんどの親藩大名家へ養嗣子としてはいる余地があったということにも疑問が生じる。ひそかに黒い魔手が廻ってあらかじめ工作され、養子相続のやむをえない状態に作為されたともおもえる。(略)

そういう推理なら、20歳前に死んだ治済の男子6人にも、魔手がおよんだといわないと、片手落ちではあるまいか。

ということで、リストはメモとしての記録ということに。

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2007.11.29

一橋治済(3)

住まいの近くの区図書館に、静岡県・相良の郷土史家・故後藤一朗さん『田沼意次◎その虚実』(清水新書 1984.10.10)を、他区の館から取り寄せるサーヴィスを依頼しておいた。
手元の同書は、SBS学苑〔鬼平クラス〕の安池欣一さんが、静岡市立図書館から借り出し、わざわざ、托送便で送ってくださったもので、来月2日のクラス日には返却することになっている。

区図書館から、北区赤羽北図書館から借りられたとの連絡があった。
_150手にしてみると、写真のように、表題・装丁が『田沼意次◎その虚実』とは異なる。
表題は『田沼意次 ゆがめられた経世の政治家』(清水書院 センチュリー・ブックス 人と歴史シリーズ 日本21 1971.9.20)。
安池さんからのメールでは、両書、内容は同一とのこと。
ということは、『---◎その虚実』に先立つ13年前、『今日の相良史話』(相良町教育委員会 1975 9.20)の4年前に、多分、大石慎三郎さんの口添えで刊行されたものと推定。
おそらく、71歳の時の後藤さんの田沼関連の最初の著書ではあるまいか。田沼にこだわってから11年目--人間、一つことに集中すれば、熱意と執念と幸運にもよろうが、10年で一応の成果を手にできるという言い伝えの例証でもある。

さて、『---◎その虚実』でも『---ゆがめられた』でも同じことだが、後藤さんは、こう書いている。

一七八六年(天明六)八月、家治が病のために床についた。御典医大八木伝庵が病床にはしべっていたが、病状はかばかしくないと聞いた田沼は、オランダ医の若林敬順・日向陶庵を推挙して立ち会わせた。二人は以前から田沼の家に出入りしていた新進の医師であった。
当時江戸の医療界は、人数の多い旧来の漢方医と、数は少ないがはりきっている新進蘭方医との間に学論が
対立し、事ごとに衝突していた。一波乱なしではおぬ険悪な空気のなかで、漢方医師と蘭方医師が立会い診察をした。診察後の会議の状態は知るよしもないが、結果は、蘭方医師の主張する薬が調進された。ところがその翌日、家治の病状がにわかに変わり、ほどなく絶命した。時を移さず大奥の中で、
 将軍の死は毒殺だ。蘭方医が一服盛ったらしい。黒幕は田沼にちがいない。
といううわさを作って、奥女中らの間にふれ廻る者がいた。
将軍家治の死が、うわさのように毒殺であったとしたら、直接毒薬を飲ませた者はたれか、抜擢されーて始めて昇殿し、将軍の脈をみた二人の新進医師か、それとも、自分のなわ張りをあらされ、対面を傷つけられた老典医か。その確認はつかめず、うやむやのうちに、葬られた。また、黒幕についても深く追求した形跡はない。(略)

たれが黒幕にしろ、和蘭両医の家治の病名の診立てはどうだったのか、どこかに記録はないものなのか。それによってどんな薬が勧められたかもわかるのでは。
まあ、家治の毒殺説は、これから先も、ミステリー的興味から、とかく論じられるであろうが、家治死後の政変の事実は変わらない。

後藤さんはさらに筆をすすめて、一橋治済(はるさだ)は---、

まず家斉(いえなり)の第四子家慶(いえよし)を次の将軍に決めておき、第七子敦之助(あつのすけ)を清水家に入れて同家を乗っ取り、一三子峰姫を三家水戸斉修(なりなが)の室となし、一五斉順(なりなが)を紀州治宝(はるとみ)の養嗣子に入れて同家を継がせた。さらに次男治国(はるくに)の子斉朝(なりとも)を尾張家宗睦(むねむつ)の後嗣に入れた。そして斉朝に男子がないというと今度は家斉の四六子斉温(なりはる)に嗣(つ)がせ、斉温が死ぬと、つぎは、第三○子斉荘(なりたか)がその後を襲った。彼はその時すでに田安家を継いでいたのだったが横滑りして尾張家を継いだのである。(略)

一連のことが、治済にどう利益をもたらしたかが書かれていないから、まあ、見方にもよろうが、徳川一門にとってはあたりまえの婚姻・嗣子のようにも思えないこともない。

いささか勇み足かとも思えるのは、田沼政権で老中だった2人の死にも、治済の影があるような文章であろう。

一七八八年七月二四日意次没した後、わずか半年、一七八九年二月に、田沼時代に老中首座だった松平康福(やすよし)と、大老井伊直幸(なおひで)が死去している。すなわち田沼時代の政界三巨頭が、わずか半年の間に三人も没したのである。(略)

『寛政譜』によると、
寛政元年(1789)2月8日、松平(松井)周防守康福歿、享年71歳。
寛政元年2月28日 井伊掃部頭直幸歿 享年61歳。

井伊直幸には死の1週間前から2回も、また松平康福にも1回、将軍の代理が見舞っている。突然の死ではない。もっとも、疑えば、ゆっくりの毒殺だってないことはないが。

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2007.11.28

一橋治済(2)

相良の郷土史家・故・後藤一朗さんの『今日の相良史話』(相良町教育委員会 1975 9.20)から、[一橋幕府説]にまつわる主張を引用している。

八代将軍・吉宗(よらむね)は、将軍家に世嗣が絶えた場合のことをおもんぱかって---との理由づけをして、自分の子たちで、田安一橋家、さらには清水家を立てたが、城地なしの10万石、家臣もなしで幕臣の出向という形をとったと、史書はいう。
建前はそのとおりだったろうし、ほとんどの家臣は出向者だったろうが、どんな場合にも例外はある。
一橋の家老を勤めていた田沼意次の実弟・能登守意誠(おきのぶ)の卒後、その長子・意致(おきむね)も家老になったのは、もちろん、意次の意向があってのことだろう。

岩本内膳正(ないぜんのしょう)正利(まさとし)の場合は、もっとこみいっている。
岩本家の祖は、甲斐国巨摩郡(こまこおり)岩下村に住したので岩本を称したが、武田が滅んでから徳川につき、紀伊大納言頼宣に仕えた。三代目・正房(まさふさ)が吉宗に従って江戸入りして幕臣となり、先手・鉄砲の組頭にまでなった(廩米300俵)。

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(赤○=大奥づとめ。下段赤○=於富の方、家斉の生母)

正房の養女は大奥に入り、末弟・正信(まさのぶ)が一橋宗尹(むねただ 第四子 1721~1749)に長く仕えたと『寛政譜』にある。

大奥に入った養女の縁からであろう、早逝した兄・正久(まさひさ)に替わって家督した正利(まさとし)は、大奥の老女・梅田(うめだ)の養女・を娶り、むすめ・富子が一橋中納言治済(はるさだ)の長子・豊千代(とよちよ)、のちの家斉(いえなり)をもうけた。

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豊千代こと家斉が江戸城・西丸に入るとともに、とうぜん、於富の父・正利は栄進していく。廩米300俵は2000石にまで加増され、老中首座・松平定信が罷免され、治済が大御所然として西丸に入った寛政5年(1793)には西丸の留守居になっている。

『田沼意次◎その虚実』(清水新書 1984.10.10)は、岩本家にはまったく触れないが、治済が握った権力については、つぎのように話す。

(寛政の改革と呼ばれている保守志向の)改革政治は、松平定信を起用し彼を老中首座の名で表面に立たしめ、治済自身はどこまでも蔭で糸をあやつるからくり師であったのです。(略)

家治の死ぬと、田沼の失脚によって、一橋治済には、わが世の春が来た。治済は家治の葬送直後、一四歳の長男家斉(実は第四子で母は於富の方)を新将軍とし、自らは、陰の大御所の座にすわり、国政の実権利をにぎって、権力をほしいままにした。彼はこのようにして徳川宗家を乗っ取ったほか、(注:天明8年に)三男(注:じつは五男)斉匡(なりまさ)を田安家に養子にやって同家をその手に収め、自家は四男(注:じつは六男)斉敦(なりあつ)に継がせた。(l略)

それらのことよりも、治済の勝手気ままをいうなら、
・安永8年(1779)12月25日 毎歳賜金3000両
・天明4年(1784)6月2日   毎歳賜金1万両
・文化2年(1805)1月18日  毎歳加賜金7000両、通前1万5000両
と幕府から金をむしりとっていることである。
とくにも天明4年といえば浅間山の噴火や飢饉で、多くの人びとが苦しんでいたのにである。不思議な神経の持ち主というべきであろう。
別にあたえられていた10万石は、10万両に換算できる。  

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2007.11.27

一橋治済

後藤一朗さんに『今日の相良史話』(相良町教育委員会 1975.9.20)がある。
南榛原農協のバックアップで、有線放送で流した地元史を、活字化したもの。刊行は1984年刊『田沼意次◎その虚実』(清水新書)に先立ち、、田沼まわりのデータの採集に励んでいた時期のものといえる。

当書に2月20日の項は、「一橋治済(はるさだ)」にあてられている。治済の命日と、『徳川諸家系譜』には、たしかに、文政10年(1827)のこの日、77歳薧とある。法謚最樹院。

(ちゅうすけ注:)将軍の実父というだけで、『徳川諸家系譜』は「薧」の字をふっているが、いささか疑念のあるところ。

のちに唱えた「一橋幕府説」のあらすじが平易に話されているので、要点を引用してみたい。
治済は11代将軍・家斉(いえなり)の実父であり、宝暦元年(1751)の生まれで、長谷川平蔵宣以(のぶため)より5歳年少の陰の実力者だから、どこかでからんだかもしれないではないか。

相良の町が最も反映した時代から、田沼藩の解体と相良城の解体と破却を命じ、この地を混乱疲弊のドン底に陥入れた陰の大物が、一橋治済であることはあまり知られていません。そればかりか、旧田沼の所領地をそのまま約三十年間、おのれの手に握り、波津に一橋陣屋を作り、厳しい取立てによって民心の離反は甚だしく、一揆騒動の頻発した政治不信時代を作ったのも彼の時のことです。その命日が、文政10年(1827)の今日です。

(ちゅうすけ注:)一橋家は、始祖・宗尹(むねただ 第四子 1721~1749 44歳)の寛保元年(1741)に、播磨・泉・甲斐・下総・下野に10万石相当の地を授かっていた。その甲斐の痩地に変えて、肥沃な相良を治済が欲したということらしい。これに、後藤さんは陰謀めいたものを察知したのであろう。

この一橋家というのは八代将軍吉宗(よしむね)が、長子家重を九代将軍と定めたあと、妾腹の宗武(むねたけ)と宗尹に、田安家と共に立てさせた新家です。この家々は御三卿といい、御三家とは違って一国一城の主ではなく、単に将軍家に世嗣が絶えた場合、優先して後継者の出せる特権だけを持っていました。従ってそれなき限り、一生涯飼い殺しで終わる家柄です。大層な野心家だった一橋家の当主治済が狙いをつけたものはそれは何だったでしょうか。

田沼意次が失脚したのは68歳の天明6年(1786)---治済が36歳の壮年。将軍家へ送りこんだ家斉は14歳。
この年、意次の支持していた10代将軍・家治(いえはる)が薧じ、政変が一気に加速する。
が、『今日の相良史話』は、10年ほど、記述を遡行させる。

安永8年(1779)のこと、十代将軍の一人息子、当時十八歳の家基(いえもと)のむなぞの死をみましたが、その翌年、一橋治済は、長男家斉をその跡へ養子に入れました。(略)

(ちゅうすけ注:)この、養子選定は、意次が中心になって選んだことはよく知られているところ。この時の治済意次の関係を明確にしないと、上の文章は誤解をまねきかねまい。しかし、治済憎しの念の強い後藤さんは、そのあたりを気にもとめない。
記述は、突然、天明6年の将軍・家治の病死へ飛ぶ。「これは何人かの毒殺とうわさされました」とうわさを引用する。

治済は幼君の後楯---私設の大御所となって政治の実権を握りました。
ここに於いて一橋治済は、田沼意次をはじめ、田沼の息のかかった吏僚を罷免し、それまでの進歩的な田沼政治を否定する、超保守的な封建政策を指向した寛政改革に突入するのです。(未完)

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