カテゴリー「090田中城かかわり」の記事

2008.12.30

田中城ニノ丸(5)

この[田中城ニノ丸]()に、宮城谷昌光さん『新三河物語 中』(新潮社 2008.9.20)から、天正10年(1582)2月、家康が甲州鎮圧にむかったとき、大久保七郎右衛門忠世(ただよ 48歳)は駿河に残り、3月、田中城で篭城していた依田(よだ)右衛門佐信蕃(のぶしげ 35歳)の開城に立ち会った条を引用した。

ここでは、その前段を、いささか長めに引かせていただく。

大久保勢は、家康に随従して甲州へむかった忠隣(ただちか)に従った兵と留守した忠世に属(つ)いたものとにわかれた。平助(のちの彦左衛門忠教 ただのり 23歳)は忠世の近くにいたので、
「田中へゆく。ついてまいれ」
と、いわれ、あわてて腰をあげた。
すでに田中城の信蕃は穴山梅雪の親書をうけとっている。大井川を越えて田中の城を遠望した忠世は、
「のう、平助、この世には盛者必衰の理かあるとはいえ、いまや、遠江と駿河のなかで武田の城として遺っているのは、あの城のみぞ。恐ろしいことよ」
と、既嘆した。
「いつか、徳川の城も、遣るは二俣城のみ、と天竜川を渉る者にあわれまれる時がくることを危怖なさいますか」
「やや、平助の□は、われの想いより、なおさら恐ろしい。徳川家が滅ぶ時などは、夢にも想わぬ」
と、忠世はゆるやかに首をふった。
「唐土では、殷王の時代が六百年もつづき、周王の時代が八百年もつづきましたが、それでも滅びました。徳川家だけが、盛者必衰の理をまぬかれるのでしょうか」
と、嘆息をした忠世は、徳川の家もいつか衰亡するのであろうな、といった。
 「天下にとって、悪であり害であるがゆえに、滅ぶのです。そのとき天下万民の敵となる者の城が、難攻不落では、万民が難儀をするという考えかたがあります。あえていえば天下を主宰する者は、そういう城を築いてはならぬのです。田中城をごらんになるとよい。こういう事態になって、その城は、守る者と攻める者を同時に苦しめつづけている。この城を最初に築かせた信玄の失徳のあらわれです」
目をみはった忠世は、馬上で感じたおどろきを天にむかって吠笑にかえた。 「ぬかしたな、平助。だが、なんじのいう通りかもしれぬ。われは二俣城の修築をやめ、城下を富ますことにする」

田中城を補強するにあたって、武田方が、周辺の住民に重い苦役を課したことを、宮城谷さんは推察している。
信玄が愛読したといわれる『孫子』[作戦篇]に、智将は務(つと)めて敵を食(は)む」とある。
歴史書は書かないが、信玄も、そうしたろう。

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(本多家時代の田中城図 青〇=ニノ丸 藤枝市郷土博物館刊)

「人は城、人は石垣、人と濠(ほり)、情けは味方、讎(あだ)は敵---は、味方に益したろう。
支配地は、人で城、人で石垣、人で濠掘りでなかったか、と平助はおもっている。

しかし、正珍にそれを言っても甲斐なかろう。

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(本丸跡に建った益津小学校前庭の箱庭の田中城)

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2008.12.29

田中城ニノ丸(4)

田中城ニノ丸(4)
「あれから、もう、10年にもなるか。歳月の足は、いかにも、速い」
本多伯耆守正珍(まさよし 60歳 田中藩・前藩主 4万石)は、呟いたあと、なにごとかをおもいだいように、沈黙した。
英明と言われて、天下の仕置きにさっそうと腕ふるった老中現役のころでも反趨したのであろうか。

しばらくして、長谷川平蔵宣雄(のぶお 51歳 先手・弓の組頭)が言った。
「先刻、お目どおりをお許しいだきました寄合・坂本美濃守直富(なおとみ 37歳 1700石)どのは、六郷家からのご養子でございます」
「なに、六郷家? 出羽・本荘藩の故・六郷伊賀(守 政長 まさなが 2万石 享年49歳)侯とゆかりの?」
「支家とうかがっております」
「ふーむ」
正珍は鈴をふって召使いに、用人を呼ぶように言いつけた。

命じられた用人が、延享3年から5年にかけての手控えを持ってくると、ぱらぱらとめくり、
「あった。延享4年(1747)8月5日、六郷下野守政豊(まさとよ 600石)をはじめ14名の者に遺跡をつぐことを許すと、月番老中であった予が告げておる」
下野どののごニ男が、坂本家へご養子に迎えられた直富どのでございます」
「ますますもって因縁つながりであるな。まて、その翌くる日の8月6日、柴田家から坂本家へ養子にはいった小左衛門直鎮(なおやす)に家督の許しを申し渡しておるな」
「まさに、奇縁!」

要するに、柴田家から直鎮坂本家へ養子に入ったが、正妻に男子が得られなかったために、六郷家から直富を養子にむかえたら、脇腹に勝房が生まれたので、かれを柴田家へ送って家を継がせたということである。

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(柴田家から直鎮が坂本家へ養子に)

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(坂本直鎮に男子がなかったので六郷家から直富を養子に)

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(坂本直富の子・勝房が柴田家の養子に)

「奇縁の始まりは延享4年でございますか。拙が生まれた次の年でございますから、22年の昔---」
銕三郎(てつさぶろう 24歳)は、延享3年(1746)に誕生している。

ひとしきり懐古談があって、銕三郎が話題を変えた。
「上野・沼田から田中藩へお国替えがありましたのは、たしか、殿のご先代・正矩(まさのり)侯のときと記憶しておりますが---」
「そのとおり、享保15年(1730)、予が21歳のときであったが、大名の嫡子は江戸から離れられない。したがって、予に国入りのお許しが出、藩内の者たちに顔を見せることができたのは、父・正矩が薨じられて翌年の元文元年(1746)6月であった」
「初めて田中城をご覧になられたときのご印象は?」
「そうよな。27歳の青年の目には、武田信玄公の執念を目のあたりに見るおもいであったな」

それほど、濠は深く、土塁(どるい)は高く、ニノ丸・大手門前の馬出しの妙はみごとであったということであろう。

「望櫓にのぼってみて、信玄公の意図もしかとのみこめた。なんと、北東側は藤枝宿の端から端まで、また、南面の駿河の海は、沖の沖まで見はらせた。戦国の世では、まさに要塞を築くにふさわしい地であった」
「そうしますと、大権現さまが、武田の遺臣・坂本某にニノ丸の守備をお命じになったのもむべなるかなと---」
「さよう」

銕三郎は、武田勢の脅威にさらされていた今川氏真(うじざね)が、祖・紀伊(きの)守正長を城主に命じたわけを、正珍の言葉から汲みとっていた。

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2008.12.28

田中城ニノ丸(3)

この日の年始まわりは、まず、芝・三田寺町の水谷(みずのや)出羽守勝久(かつひさ 47歳 3500石)邸であった。
勝久は、こころづもりしていたとおり、登城していて留守で、去年の師走5日に銕三郎(てつさぶろう 24歳)といっしょに初見(しょけん)を終えた嗣養子・勝政(かつまさ 26歳)が年賀をうけた。

あとは、使いをだして都合をうかがっておいた、本多伯耆守正珍(まさよし 60歳 田中藩・前藩主 4万石)の隠居所を、芝・ニ葉町に訪問する手筈になっていた。
正珍からは、昼食を用意しておくから、ゆっくりしていくように---との返辞をうけていた。

賀辞と質素な午餐が終わったところで、
銕三郎くんは、ことしあたりは嫁取りかの?」
訊かれて、父・平蔵宣雄(のぶお 51歳 先手・弓の組頭)をちらりと見てから、
「そのようになろうかと、覚悟をしております」
「嫁を迎えるのに、覚悟をしなければならぬ、なにか面倒な事情でもあるのか?」
「いえ、ございませぬ」
銕三郎は、雑司ヶ谷の料理茶屋〔橘屋〕のお(なか 35歳)との、1年近い付きあいの夜をおもいだして、すこし赤くなった。

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(国貞『正写相生源氏』[堪能の余韻] お仲のイメージ)

「嫁取りまでに、始末をしおかねばならぬ事案を持たないような若者は、見込みがないわ。はっははは」
正珍は、宣雄に向かい、
「で、なにか、用件があったのじゃな?」
宣雄は、先祖が武田方から徳川の家臣となり、田中城のニノ丸の守備に就いた、寄合・坂本美濃守直富(なおとみ 37歳 1700石)が、
「大殿にお目どおりを願望しております。いかが、答えておきましょうや」
と告げた。
坂本---とな?」
栗原衆だったとか---」
「では、親類衆・武田刑部どのの一門じゃな。たしか、山梨郡(やまなしこおり)栗原の郷あたり---」
「おお。恐れいりましてございます」
「なに、わが藩にも、栗原衆の流れがいての。若名なんとか---代官をしておる」

銕三郎は、60歳の伯耆守正珍の記憶力がいささかも衰えていないことに、内心、舌をまいた。
30代という若さで老中職に就いた実力の片鱗を、見たおもいであった。

長谷川どの。ずっと先(せん)に、銕三郎くんをわずらわせて、国元まで足労をかけたにもかかわらず、残念にも流れた田中城をしのぶ集いな。あのときは、どうやら、人選びをあやまったようだな。坂本うじのような仁を、もっと、こころがけるべきであったような」
「申しわけもございませぬ」
「気にいたすな。坂本うじとやら、寄合ほどの身で、訪れてくれるとは、珍重(ちんちょう)々々」
「ありがたきおぼしめし---」

「ところで、銕三郎くん。藤枝宿や小川(こがわ)への旅したのは、幾つのときであったかの?」
「14歳でございました」
銕三郎は、三島宿で男になったことをおもいだした。
(あのとき、お芙沙(ふさ)は25歳とか、言っていた。初めて同衾したおんなの匂いに、むせかえるようであったな)

参照】2007年7月16日[仮(かりそめ)の母・お芙沙(ふさ

「いまは幾歳かの?」
「明けて、24歳になりました」
「あれから、もう、10年にもなるか。歳月の足は、いかにも、速い」

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2008.12.27

田中城ニノ丸(2)

駿州・田中城と長谷川家とのかかわりについては、すでに幾度も言及している。

しかし、あらためて、この記録は、再読ねがいたい。
5年つづいている静岡の[鬼平クラス](静岡新聞、同放送のSBS学苑。毎月第1日曜日午後1時~)の第1回からともに学んでいる中林さんのリポートと、その補記である。

藤枝宿の探索

参照】ついでに、[ちゅうすけのひとり言] (15) (14) も。

新しい情報として、宮城谷昌光さん『新三河物語 中』(新潮社 2008.9.20)から、多くを引かせていただくがその前に---。

今川陣営の主要な拠点でもあった田中城は、義元とともに桶狭間で戦死した由井美作守正信(jまさのぶ)に代わって、長谷川紀伊(きの)守正長(まさなが)が守将として小川(こがわ)城から入ったものの、元亀元年(1570)、多勢の武田軍に攻められ、正長は浜松へ走り、徳川の傘下へはいったことは、上記の記録でお確かめを。

武田信玄は、田中城が枢要な位置にあることを見取って、馬場美濃守信房(のぶふさ)に命じて三日月堀や土塁(どるい)などを修築、堅固・威容を誇る城塞につくりかえさせた。

天正7年(1579)2月。
徳川家康は田中城の攻略と、甲州への進攻を同時に行う。
田中城の守将は依田(よだ)右衛門佐信蕃(のぶしげ 35歳)であった。
3月にはいっても、田中城は落ちなかった。

が、勝頼はすでに自刃しており、穴山梅雪(ばいせつ)の親書が信藩のもとにとどいていた。
武田方が駿州に保持しているのは、田中城のみであった。
信蕃は、家康の使者・成瀬吉右衛門正一(まさかず 42歳)に言う。

「旧識のある大久保忠世がくれば、城をわたさぬでもない」
宮城谷さんの推察である。

このとき、大久保七郎右衛門忠世(ただよ 48歳)、信藩とは、二股城の明け渡しで信頼のきずなを結びあった仲であった。

_120忠世を待ちかねていた(山本)帯刀は、
「それがし、主命により、同行いたす」
と、いい、みずから副使となって城内にはいった。すずやかにふたりを迎えた信蕃は、
「また、雨になりそうです。霖雨(りんう)にならなければよいが---」
と、忠世にだけ意味ありげにいった。雨ふりには城を明け渡さないので、それがわかる忠世は幽かに苦笑した。
信蕃の左右には弟の善九郎と源八郎、それに副将の三枝土佐守虎吉(とらよし)が坐った。虎吉は老将で、この年に七十一歳である。かれの長男の勘解由(かげゆ)左衛門守友(もりとも)と次男の源左衛門守義(もりよし)は、設楽原合戦において五砦のひとつである姥(うば)ヶ懐(ふところ)を守っていて、討ち死にした。それゆえかれのうし後嗣は源八郎昌吉(まさよし)である。
「さて、右衛門佐どの、穴山さまよりお指図があったはず。すみやかに城の明け渡しをなさるべし」
忠世は個人的な感情をおさえていった。
「いかにも、うけたまわった。貴殿にお渡しする」
「証人は---」
「要(い)り申さず」
「では、明朝---」
何の問題もない。要するに信蕃は田中城を忠世以外のたれにも渡したくないために戦いつづけたようなものである。

宮城谷さんは、男と男の心情を描きたかったのであろう。

さて、家康からニノ丸の守りをまかされた坂本兵部丞貞次(さだつぐ 63歳)が信蕃の配下にいて篭城していたかどうかの確証はない。
いずれにしても、信長武田遺臣狩りが、その死によって解けるまで、貞次もひそんでいたとおもえるのだが。

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2008.12.26

田中城ニノ丸

「銕(てつ)は、先日の初見の衆のうちで、柴田岩五郎勝房かつふさ 17歳 3200石)どのを覚えておるか?」
夕飯のとき、父・平蔵宣雄(のぶお 50歳 先手・弓の組頭)が話しかけた。
杯を置いた銕三郎(てつさぶろう 23歳)が、
「はい。初々(ういうい)しい若者とおもいました」
初見以後、父の配慮で夕食に、銕三郎だけには1合きりだが、酒がつくようになった。

「後見役をなされていた坂本美濃どのはどうじゃ?」
「しかとは---」
勝房どのは、坂本家から柴田家への、末期養子であった」

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(柴田岩五郎勝房の個人譜)

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(勝房の実家・坂本家での系譜 緑○=勝房 黄〇=直富}

strong>柴田家は、織田右府信長)の重臣・柴田修理亮勝家(かついえ)の本筋の家柄である。
秀吉との後継者争いの戦いに敗れた勝家は、越前・北ノ庄で自害したが、幼少の孫・権六郎が落ち延びて、外祖父・日根高吉にかくまわれた。
家康が見出し、2000石を与えて臣下にした。
養子・岩五郎勝房は、勝家からかぞえて10代目にあたる。

「後見役をおつとめになっていた坂本美濃どのは、勝房どのの兄者にあたる。柴田家は、8代目、9代目が若くして逝かれたために、美濃どのが親代わりをなされたということだ」

坂本美濃守直富(なおとみ 36歳 1700石)は武田系だが、家重(いえしげ)つきであったので、その急死とともに任を解かれて寄合となっていた。
養父・小左衛門直鎮(やすしず 小姓組番士 51歳)は、このところ健康がすぐれなかった。

「じつは、美濃どのから、ともども、ご招待を受けた」
「それは、それは。いつでございますか?」
「松がとれた、16日---」
「年があけてからでございますか。して、お屋敷は---?」
「近い。林町5丁目じゃ」
「ああ、5丁目も、竪川(たてかわ)ぞいの東角のお屋敷です」
「存じておったか?」
「はい。父上のご登城の道からはずれております」
「うむ」

「しかし、なにゆえのご招待でございますか?」
「さあ、それじゃ」

宣雄の説明によると、武田の家臣であった坂本家は、勝頼公の歿後、東照宮さまに召され、駿州・田中城のニノ丸を守っていたという。

ちゅうすけ注】『寛政重修諸家譜』にも、そう記されている。

貞次(さだつぐ)
   兵部丞 豊前 母は某氏
信玄及び勝頼につかへ、駿河国田中城を守る。天正10年(1582) 武田家没落ののち、めされて東照宮に拝謁し、田中城の二の丸を守り、山西の御代官つとめ---(後略)

「それで、われが田中城の前のご城主・本多伯耆守正珍まさよし)侯のご隠居所へご機嫌伺いに参上していることをお耳にされたらしく、折りをみて、いっしょさせてくれとのご所望であった」
「やはり、なにかの下ごころがあってのお招きと推察しておりましが、そういうことでございましたか」
「とはいえ、本多侯は、ご老中を罷免され、隠居のおん身になられて10年の歳月を経ておる。柳営でのお力はもうなかろう」
「それでは、たんに懐かしいだけと---?」
「いや。人の気持ちは読めたようで読めない。ま、馳走になってみようではないか」

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(田中城とその周辺の模型 藤枝市郷土博物館「田中城と本多氏」より)

参照】2007年6月19日~[田中城しのぶ草] (1) (2) (3) (4) (5) (6) (7) (8) (9) (10) (11) (12) (13) (14) (15) (16) (17) (18) (19) (20) (21) (22) (23) (24) (25)


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2007.10.12

田中城しのぶ草(20)

息・銕三郎が藤枝宿の青山八幡宮からもらってきた、徳川幕府初期の田中城代の名書きを前にして、長谷川平蔵宣雄(のぶお 41歳 小十人組頭)は、先刻より、当惑していた。

慶長14年(1609)12月- 頼宣領
元和5年(1520)7月-  幕領 
           城代 大久保忠直・忠当、酒井正次どの
寛永元年(1624)8月-  忠長領 
           城代 三枝伊豆守守昌、興津河内守直正どの
寛永8年(1631)6月   幕領 
           城代 松下大膳亮忠重、北条出羽守氏重どの

じつは、銕三郎から受け取った翌日、江戸城内の紅葉山にある書物奉行所を訪ねて、中根伝左衛門に名書きの写しを渡して用途を告げ、この仁たちの『寛永譜』の写しとその末裔を教えてほしいと頼んだ。
もちろん、先に貰ってっていた大久保忠直(ただなお)・忠当(ただまさ)とその末である荒之助忠与(ただとも 48歳 目付 1200石)は除けることは言いそえた。

2日ほどして、小十人組頭の控えの間へ中根伝左衛門からの使いが、すぐに書物奉行所へくるようにとのことづけをもつてきた。

「この、松下大膳忠重どのですが---」
書き間違いではなかろうかと、伝左衛門が言った。
松下家には、「忠」のつく名の者はいないし、『寛永譜』をあたっても、田中城の城代をした仁が当たらないというのである。

寛永8年(1631)6月の名書きの下にある北条出羽守氏重(うじしげ)さまは、正保元年(1644)に2万5000石の大名として田中城に赴任している。
参照:2007年6月21日[田中城しのぶ草](3)
2007年6月30日[田中城しのぶ草](12)
その前の城主は、松平(藤井)伊賀守忠晴(ただはる 2万5000石)さまに、「松」と「忠」がかさなるが---。

「いや。探しているのは大名家ではなく、幕臣なのです。しかし、中根どのがお調べくださった見当たらぬものは、存在しなかったと考えるべきでしょう」
宣雄は、そういって、松下大膳亮忠重は、藤枝の青山八幡宮の筆のあやまりでなければ、寛永のころに断家したのではないかと推察した。

しかし、このことは、銕三郎には言わなかった。役目をまつとうしていない、と思いこませてはいけないと思ったからである。

【ちゅうすけ注:】
『柳営補任』の駿府城代の項を見ると、寛永の初期に、松平(能見)丹後守重忠(しげただ)の名が見える。たぶん、この仁の誤記かとも思ったが、寛永3年(1626)7月11日卒しており、年代は符合しない。
『寛政譜』には「元和7年(1621)遺領をたまひ、父に継いで駿府の城代たり」とある。
田中城を駿府城の支城とみなして兼任していたとしては、史実の歪曲にあたろうか。

書き添えると、宣雄の時代には『柳営補任』『寛政譜』もまだできていなかった。

参照】2007年6月19日~[田中城しのぶ草] (1) (2) (3) (4) (5) (6) (7) (8) (9) (10) (11) (12) (13) (14) (15) (16) (17) (18) (19) (21) (22) (23) (24) (25)

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2007.07.13

依田右衛門佐信蕃

察しのいい中根伝左衛門(書物奉行)は、三枝右衛門虎吉(とらよし)の将として田中城を守った武田方の蘆田右衛門佐信蕃(のぶしげ)「先祖書」も添えてくれていた。
もちろん信蕃は、家康の麾下に入ってから、信州の豪族たちを徳川方につけるために大いには働き、小諸岩尾城攻めのときに鉄砲玉2弾をうけて没している。36歳であった。

Photo_402家康は、信蕃の労を多として、一族ほかの面倒をよく見た。
たとえば、信蕃の弟・源八郎信幸(のぶゆき)の次男・依田(よだ)平左衛門信守(のぶもり 500石)が立てた家では、豊前守政次(まさつぐ 800石)が、この6年來、北町奉行を勤めている。宝暦9年(1759)で51歳。     (依田一門の家門=丸三蝶)

信蕃の「先祖書」に、こんな記述があった。
田中城を大久保七郎右衛門忠世(ただよ)に引き渡して一旦は春日城へ帰った。
そして、小諸城に武田方諸将の人質をとっていた織田方の森勝蔵長一(ながかつ)に会う。
長一は、織田方にしたがうことを提案。しかし、信蕃は、人質を捨てても家康との約束をまっとうしたいと告げて去った。
このこと聞いた信長は怒りくるい、信蕃を殺せと命ずる。
家康に、しばらく身を隠して時節を待つようにとさとされ、かつて守ったことのある遠江国二股城の川上の小川にひそんていると、本能寺の変がおきた。

家康一行が、本多平八郎忠勝(ただかつ)の知勇ーなどで、やっと伊賀越えをしたことは、2007年6月13日[本多平八郎忠勝の機転]に6日にわたって詳報した。このとき、家康は、苦難の道中にもかかわらず、伊賀者を信蕃の隠れ家へ先行させ、信長が歿したゆえ、もはや生命の心配はなく、岡崎城で会おうと伝言。

岡崎城で待っていた信蕃は、家康の意を受、すぐさま甲信の国境に旗をあげ、たちまちに3000余の人数を擁して、反抗する10数の城を陥した、と。

この挿話からも、長谷川平蔵宣雄(のぶお)は、信長家康の資質の差、人を信服させる徳の違いを読み取った。
このことも、息・銕三郎(てつさぶろ のちの平蔵宣以 のぶため)へ引き継ぐことにした。 

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2007.07.11

酒井日向守忠能(2)

2007年6月22日[田中城しのぶ草(4)]に、

いまは5000石の大身幕臣だが、田中城主だった先代・日向守忠能(ただよし)侯は、4万石の身代を棒にふった---というより、政敵(将軍・綱吉の側近たち)にはめられた、といえよう。

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寛文9年(1669)の武鑑 『大武鑑』(名著刊行会 965.5.10)

その忠能が4万石を棒にふらされた理由というのが、いま考えると、どうにも合点がいかない。陰謀としかいいようがない。あるいは、忠能の偏屈ぶりが、よほど周囲に煙ったがられていたか。

忠能には本家の甥にあたる忠挙(ただおき)が、承応2年(1653)から寛文6年(1666)の老中在任中の亡父・忠清(ただきよ)に落ち度があったということで、16年後の天和元年(1681)12月にとがめられた。

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寛文9年(1669)の武鑑 『大武鑑』(名著刊行会 965.5.10)

結果は、忠清はその年の5月に故人となっており、忠挙自身はあずかりしらなかったとていうことで、なんのことはない、一件落着。

ところが、とばっちりを忠能がかぶった。
本家の忠挙が吟味を受けているのに、忠能は参府して進退をうかがうべきなのに、のうのうと在国していたのは不謹慎でけしからぬ---と、田中藩を収公の上、井伊家に預けられた。その後ゆされたが、身分は5000石の幕臣。

福田千鶴さん『酒井忠清』(人物叢書 吉川弘文館 2000.9.20)も、延宝2年(1674)の越後・高田藩主の松平光長(みつなが)の嫡子・綱賢(つなかた)の死が発端となっておきた、いわゆる越後騒動が、綱吉が将軍となってから再審され、
忠清の弟酒井忠能は、(忠清の継嗣の)忠明(ただあきら のち忠挙)が逼塞を命じられた際に参府して出仕を憚るべきであるのに、在国のまま逼塞したのは不敬(ふけい)とされ、天和元年(1681)12月10日に駿河国田中城を没収され、井伊直興(近江彦根)に預けられた。しかし、酒井家側では忠能が逼塞の身で何も伺いせず参府したことが不敬とされたが、実は稲葉正則(ただのり)に頼んで老中の内意を得たうえでの参府であったと主張しており(「重明日記抜粋」)、真相は不明である」と。

越後騒動は、養子候補として、光長の甥・綱国(つなくに)、異母弟・永見大蔵長良(ながよし)、甥・掃部(かもん)大六(だいろく)の3人の候補の家臣団が争い、けっきょく、家老・小栗美作(みまさか)の推す綱国に決まったが、歿した嫡子・綱賢の家臣団が傍流に押しやられたことから不満が生じて、反美作派が形成されるという、おきまりのお家騒動に発展したものである。

福田千鶴さんの長年の越後騒動研究によると、松平結城系)一門である播磨・姫路藩主の松平直矩(なおのり)が当初、事を一門内で治めるべく調停役として奔走、その過程で大老・酒井忠清に依頼することがあったと。しかし、家臣団の対立がはげしく、けつきょく、将軍の採決をあおぐにいたった。

再審は、またも家臣団の上訴によったが、綱吉の決定は、関係者の切腹、流罪、預け、追放など。そして老藩主・光長と継子・綱国は預け、領地は収公というきびしいものであった。

それとともに、綱吉による人事一新のとばっちりが、酒井忠一族---とりわけ実弟・忠能へのいいがかりとなって現れたといえる。
権力者の交替時には、前の権力に近かった者は、よほどに警戒を要する。

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2007.07.10

酒井日向守忠能

2007年6月22日[田中城しのぶ草(4)]、同月23日[田中城しのぶ草(5)]に、田中城主のときに改易された酒井日向守忠能(ただよし)侯を紹介した。
この記述に関連して、〔みやこのお豊〕さんから、改易の原因を訊かれた。

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たまたま、福田千鶴さん『酒井忠清』(人物叢書 吉川弘文館 2000.9.20)を借り出すことができた。著者の福田さんは上梓当時、東京都立大人文学部助教授をしていらして、ずっと伊達騒動と越後騒動にかかわった譜代名門・酒井雅楽頭忠清(ただきよ)関連の史料をあつめておられた。

それも、同著[まえがきiに、
「近年の歴史研究では一次史料の発掘が進められ、幕末に編纂された二次的な文献資料である『徳川実紀』などによって組みたてられ、通説化した史実の見直し作業が進められている。「下馬将軍」に象徴される酒井忠清像、常に彼の専制政治の引き合いにされる伊達騒動、越後騒動、宮将軍擁立説など、酒井忠清にまつわる話は、ほとんど二次的な文献史料に基づいて描かれたものである。真っ正面から酒井忠清にむきあうにつれても彼ほど実証的な検討を経ぬまま、ステレオタイプな専制政治家として描かれた人物はいない」
とある。

いや、一次史料から再検討を要する近世史上の人物は、酒井忠清にかぎるまい。田沼意次の再評価ははじまったばかりだし、松平定信も大きく見直さなければなるまいが、学界は、各種の事情から、定説の変更をしぶるかもしれない。

とにかく、いい史料がみつかったと、酒井忠清の実弟である日向守忠能の改易の原因となりそうなページを探したが、見つからなかった。

こんなふうに『寛政譜』を書きくだしたような文章であった。

忠清の弟忠能は、寛永五年(1628)に生まれ、同九年十二月一日に将軍家光に五歳で初目見えをすませ、同十四年一月四日に父忠行(ただゆき)の遺領のうち上野国那波・佐位、武蔵国榛沢の三郡の内において二万二千五百石の分知をうけた。同十八年八月、家綱の誕生の時には、矢取の役をつとめ、十二月晦日に従五位下・日向守に叙任された。同二十年に家綱付きとなり、三の丸の奏者番つとめた。正保二年(1645)八月八日に家綱の名代として日光山へ赴き、十二月十三日にも日光山代参をおこなった。慶安二年(1649)年四月、家綱の日光社参では前駆(さきがけ)役をつとめた(略)。

延宝七年(1679) 九月六日に小諸を改め、駿河国田中城に移され、駿河国志太(しだ)・益津(ましづ)両郡、および遠江国榛原郡などの郡内に一万石を加増されて、都合四万石となった。天和元年(1681)十二月十日所領没収となり、井伊直興(なおおき 近江彦根)へ預けられた。元禄元年四月十九日に赦され、同年八月十五日に廩米二千俵を与えられ寄合に列し(以下略)

---と『寛政譜』に新味も感情も考察もなにも加えない記述がつづく。これでは、『寛政譜』をじかに読むのと大差ない。

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忠能の改易までには探索の手がおよばなかったということであろうか。

忠清の役儀罷免は延宝8年(1680)12月9日である。隠居願いは翌年2月19日、病死は5月19日。
その7ヶ月後の忠能の除封である。
忠清が失敗した越後騒動が関係していたのではなかろうか。 『酒井忠清』ではそのことへは筆が及んでいない。

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2007.07.04

田中城しのぶ草(15)

書物奉行・中根伝左衛門がとどけてくれた、家康・秀忠時代の旗下(はたもと)・大久保甚左衛門忠直(ただなお)と息・荒之助忠当(ただまさ)の『寛永諸家系図集』の写しには、大久保家の概略も添えられていた。

それによると、大久保99家といわれるほど根をはっている一門の祖は宇都宮と名乗ったというから、東国武士の出だったのだろうか。
いつのころからか、三河へ移り住んで宇津を称していたという。
松平信光に奇縁で召しかかえられた。
それから4代を経て、五郎右衛門忠俊(ただとし)が大久保と改め、清康、広忠に任えた。
この忠俊の6番目の男子が忠直で、家康の麾下の武将。
田中城の定番(じょうばん)をまかされたのは69歳の老齢だったから、息・荒之助が副定番の格で助(す)けた。

その譜を目にしながら、長谷川平蔵宣雄は、じっと考えこんだ。

田中城は、その名のごとくに、田の中に川に囲まれて、ぽつんとある平城である。
平蔵の祖・紀伊守正長(まさなが)が、今川方の武将として、同族21名と配下300人を率いて守りについたときには、それほど強固な備えではなかった。
戦国末期には珍しい平城だったから、2万をこえる武田勢の城攻めを支えきれず、城を抜けて浜松の家康を頼った。
軍事に長(た)けた武田信玄は、田中城の地の利を一瞥で見てとり、三日月形の防衛堀と土塁を四方に築かせた。そのため、徳川方の幾度もの攻撃を耐えることができた。

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この防御効果は、守将・蘆田(依田)右衛門佐(えもんのすけ)信蕃(のぶしげ)と三枝(さいぐさ)右衛門尉(えもんのじょう)虎吉(とらよし)の防戦ぶりにみうる。

信玄は、平城である田中城に、戦乱が終わったあとの城のあるべき姿を予見していたのかもしれない。
この国から戦(いく)さが熄(や)んですでに150年が経っていることを、宣雄は実感した。
終焉させたのは、もちろん、信玄ではない。
信玄軍には、祖先・紀伊守正長を三方ヶ原で討たれてもいる。

信玄が重くみた田中城に、家康歿後の徳川方は定番として、息を副えたとはいえ、69歳の老将をあてた。もはや、戦いはないとみたのであろう。

「うむ。上つ方のお許しがでたら、ぜひにも、この目で確かめたいものだ」
機会は、13年後の安永元年(1772)の晩秋に訪れた。
京都西町奉行として赴任する途次、東海道の藤枝から枝道して観察することができたのだが、これは先の先の話。本多伯耆守正珍(ただよし)侯は存命であった。

宣雄は、大久保甚左衛門忠直の後裔である荒之助忠与(ただとも)へ手紙をしたためて、下僕に持たせた。
大久保忠与(1200石)の屋敷は、鉄砲洲築地の長谷川家から、それほど離れてはいない浜町蛎殻町にあった。

参照】2007年6月19日~[田中城しのぶ草] (1) (2) (3) (4) (5) (6) (7) (8) (9) (10) (11) (12) (13) (14) (16) (17) (18) (19) (20) (21) (22) (23) (24) (25)

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2007.07.02

北条出羽守氏重

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(北条氏重画像 上厳寺所蔵 『掛川市史』より)

北条出羽守氏重は、正保元年(1644)3月18日、下総国関宿城から5,000石を加えられて田中城主(35,000石)となった。50歳であった。
54歳の慶安元年(1648)に、5000石加増されて掛川城に移った。

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(再建された掛川城の天守閣)

それから10年間、城主を勤め、万治元年(1658)年、64歳で歿した。継嗣の男子がいなかったので城地は収公、家は絶えた。

氏重は、徳川譜代の保科の出、しかも将軍・秀忠の庶子で保科家で養われた正之の叔父である。母の(久松)松平家の多却(ちか)姫は、家康の異父妹。
正之については、2007年7月1日[田中城しのぶ草(12)]

保科正直-正光-(養子)-正之
   多劫
       氏重(3男)

疑念は、64歳まで長生きしているのに、どうして養子を手当てしなかったかである。

室は杉原伯耆守長房(25,000石 常陸国新治郡小栗庄)の長女(彼女の甥の代に継嗣がいなくて絶えた)。娘は5人いて、すべて嫁がした。

長女=内藤出雲守忠清(5000石)の室
次女=土方杢助雄高(伊勢国菰野藩 15000石)の室
三女=近藤織部重信(4300石)の室
四女=大岡美濃守忠高(2700石)の室
五女=酒井和泉守忠時(7000石)の室

『掛川市史 中巻』(掛川市 1984.12.18)は、
氏重は万治元年11月朔日、66歳(?)で病死したと伝えられているが、一説には、正月の馬の初乗りで落馬したのが因であったといわれる。子供は男子がなく娘が5人あったが、娘に婿を取り嫡子として家ほ継がせることもねできたはずなのに総て他に嫁がせたのは幕府が一代限りと定めていたのであろうか、その辺は明らかでない(略)。
慶安4年(1651)12月幕府は末期養子の禁止を緩めて50歳以内の者に認めたが氏重は高齢のため適用されなかった。

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(大猷院(家光)霊屋 竜華院 『掛川市史』より)

氏重は明暦2年(1651)に城内長松山臨泉寺中に竜華院を建立、慶安4年(1651)薨去した三代将軍家光の霊牌の下賜を願って霊屋を設け」
るほど、徳川家に忠節ぶりを示したが、家名の断絶は避けられなかった。

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2007.07.01

田中城しのぶ草(13)

ようやく、日の出がはじまるらしい。
それまでの暁闇に黒ずんでいた大川(隅田川)の川面に、色がついてきた。
対岸の石川島の樹々も目覚たように、梢からそよぎはじめている。
用人や若党、家僕・家婢の幾人かが門の外まで見送りにでている。
長谷川平蔵宣雄(のぶお)と妻同然のお妙は、旅立つ銕三郎(てつさぶろう のちの平蔵宣以 のぷため)と老僕の太作に、鉄砲洲ぞいに明石橋(寒さ橋)までつき添った。

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明石橋(別名・寒さ橋 『江戸名所図会』 塗り絵師・ちゅうすけ)

「なに、田中城下まで48里(192km)じゃ。寺崎までを往還したとおもえばよい」
涙ぐみはじめているお妙にいいきかすように宣雄がいう。お妙は、上総(かずさ)国武射郡(むしゃこおり)寺崎郷の名主の娘である。太助も知行地・寺崎の農家から奉公に来て数十年になる。

宣雄はさらに、銕三郎を引き寄せて、そっとささやいた。
「太作はもう50をこえている。万事、太作のあゆみにあわせるようにな」
「ご安心ください、心得ております」

(銕三郎たちの旅程は、とりあえず、↓を参考にしていただこうか)。
東海道五十三次---広重&分間延絵図(1) 日本橋→江尻宿

書院へもどった宣雄は、きのう、銕三郎にいった駿河大納言(忠長)のことを考えた。

家康の次男・結城秀康(ひでやす)と忠直(ただなお)、第6子の上総介(かずさのすけ)忠輝(ただてる)、そして駿河大納言忠長(ただなが)などを指して、徳川氏の血液には、狂的要素が混入していたなどというのは、後世の研究家の指摘で、宣雄には関係ない。

忠輝にしても、忠長にしても、うまくすれば将軍になれたという不満が高じた狂気といえないこともない。

忠長は、甲府に幽閉されていたとき、金地院崇伝(すうでん)や南光坊天海を頼って、老職たちに俊悔の情を披瀝しているにもかかわらず、高崎で自裁に追いつめられた。
老職たち---酒井雅楽頭忠世(ただよ)、土井大炊頭利勝(としかつ)、青山大蔵大輔幸成(ゆきなり)たちは、家光を危険にさらす種は、どんなことがあっても除くという決意を変えなかった。
つまり、徳川の永続を期しているのだ。この方針は、いまの老中も変えていまい。
いってみれば、幕府の戦略である。

この戦略を心得た上で戦術を立てることが、長谷川家の安泰をはかることにつながる。

忠長公の駿府城時代の逸話で、こんなことが伝わっている。
忠直の実弟にあたる幸松丸は、秀忠が脇腹に生ませた子で、正室の怒りを恐れた秀忠は、譜代の下総・多胡の藩主・保科弾正忠正光に押しつけた。
信州・高遠(3万石)に転封になった翌寛永6年(1601)、19歳になっていた幸松丸は正之(まさゆき)として、秀忠に認知してもらうことを忠長に頼みにきた。
そのとき忠長は番士たちをすべて遠ざけて一人で会った。
ところが、正之が帰るときには、番士たち全員に見送らせた。
その処置を不思議がった近習が、忠長にわけを質(ただ)したところ、下総の田舎育ちゆえ不調法なところを家臣たちには見せたくなかったのだが、会ってみると、どうしてどうして、利発で礼にかなっていたので安堵し、皆に見送らせたのだと。

つまり、そこまで気くばりができる忠長が、狂気のふるまいをどのていど実際にやったのか、記録はすべて権力者側のものだ。疑念がわく。

ちなみにいうと、慶長13年(168)、保科正之は高遠から山形20万石へ移っている。

忠長の悲劇を頭からふりはらった宣雄は、登城の衣服に着替えはじめた。
陽はすっかり上っている。
銕三郎たちは、もう、品川宿を越えたろうか。

【参照】2007年6月19日~[田中城しのぶ草] (1) (2) (3) (4) (5) (6) (7) (8) (9) (10) (11) (12) (14) (15) (16) (17) (18) (19) (20) (21) (22) (23) (24) (25)

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2007.06.30

田中城しのぶ草(12)

明朝が駿州・田中城下への旅立ち---もう何回もすましているはずの携行品の調べを、銕三郎(てつさぶろう のちの平蔵宣以 のぶため)は、もう一度やっている。

_180矢立(筆記具セット)、扇子、糸針、懐中鏡、日禄手控え、櫛と鬢(びん)付け油、髪結い紐、房楊枝、手ぬぐい
ぶら提灯、ろうそく、火打ち道具、懐中付け木、麻綱
かぎ形金具(麻綱にひっかける鉄製フック)
肌着類、脚絆、足袋---

(右図は八隅蘆菴著『旅行用心集』八坂書房 1972.2.20より)

父・宣雄から呼ばれた。非番なので登城していなかった。

「言わずにおこうか、と何度もためらったが、そのほうも、もう14歳ゆえ、話しておくべきだと決めた。
駿河大納言さまのことだ」
「はい」
めずらしく宣雄の眉間に、2本の浅い皺ができている。

子どものころ、母者から聞いたこと---と、2007年5月25日[平蔵と権太郎の分際(ぶんざい)]の話を再現した。
「つまり、竹千代さまがのちの大猷院(だいゆういん 家光)さまで、2歳下の国千代さまが駿河大納言さま、すなわち忠長(ただなが)さまである」

「元和4年(1618)に14歳で元服なされた忠長さまは、従四位下左近衛権(さこんえごんの)少将に任じられて甲斐一国を賜りになった。
大権現家康)さまは、その2年前にお亡くなりであった。
6年(1620)、16歳で参議、その3年後(1623)には従三位(じゅさんみ)権中納言にのぼり、寛永元年(1624)荷は駿河・遠江(とおとうみ)の2国をくわえられて、20歳で55万石の太守となられた」

「これは、ご生母・浅井氏於江与(おえよ)の方の溺愛(できあい)の結果であったろう---が、
最大の庇護者であったそのご生母さまは、寛永3年(1626)9月15日に逝かれたこのことは、忠長公の不運の始まりでもあったろう。
ま、いまはそのことは置くとして、田中城は、忠長卿の領地にあった数年間があるのだ。
もちろん、城代が置かれたはず。

そなたが、慶長・元和・寛永---大権現さま、台徳院(秀忠 ひでただ)さま、大猷院さま3代におよぶ田中城の城代の聞き書きをはじめれば、かならず、忠長さまの驕慢だった人柄のことも耳にしよう。
このときの銕三郎の受けこたえによっては、本多伯耆守さまへ類がおよばないともかぎらない」
「はい」
「それゆえ、忠長さまのことはすべて聞き流せ。返事をしてもならぬ。ましてや問い返してもならぬ。どこの国の話かといった、そしらぬ表情をつくれ」
「かしこまりました。馬耳東風でいきます」
「ついには、忠長さまは、28歳でついに自裁に追い込まれた。徳川の公達(きんだち)で、信長公の高圧的ないいがかりによる岡崎三郎信康(のぶやす)公の切腹を別にすると、偏愛によって育った驕慢が屈折した奇行があったとはいえ、悲痛な結末で人生を中断なされたのは忠長公だけである。
忠直(ただなお)卿といえども、天寿をまっとうなされている。
そのために、忠長公に対するご公儀のなされようの見方には、両論がある。
銕三郎の年齢では、いずれに与(く)みしてもならぬ」

忠長が自裁したのは、高崎城のつくられた幽閉部屋においで、駿河・遠江はすでに収公されていたが、侍していた者の多くが追放された。それにまつわる不幸な噂もきっと出る、と宣雄は予想したのである。

「それからな、いつか話すとそのほうに約束した城代---北条出羽守氏重(うじしげ)侯のこと[田中城しのぶ草(3)] 、田中から帰ったら話してきかせよう」
「いまから、期待をふくらませております」
「今宵は早くやすむがよい。明日は六ッ(日の出どき)発ちであろう」

夕餉を終えて、宣雄の夜なべ仕事がはじまった。例の、田中城主だった人たちの子孫の名簿改めである。
今宵は、先刻、名前のでた北条出羽守氏重

松平大膳亮忠告(ただつぐ)侯 18歳 4万石
水野織部中忠任(ただとう)侯 26歳 唐津6万石
北条出羽守氏重(うじしげ)侯 断家 3万石
西尾隠岐守忠尚(ただなを)侯 71歳 横須賀3万5千石
酒井河内守忠佳(ただよし)侯 74歳 5000石
土屋能登守篤直(あつなお)侯 33歳 土浦4万5千石
太田摂津守資次(すけつぐ)侯  45歳 大坂城代3万2千石
内藤紀伊守信興(のぶおき)侯 40歳 棚倉5万石
土岐美濃守定経(さだつね)侯  22歳 沼田3万5千石

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(北条支流)

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参照】2007年6月19日~[田中城しのぶ草] (1) (2) (3) (4) (5) (6) (7) (8) (9) (10) (11) (13) (14) (15) (16) (17) (18) (19) (20) (21) (22) (23) (24) (25)

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2007.06.29

田中城しのぶ草(11)

あと2日ほとで銕三郎(てつさぶろう のちの平蔵宣以)が、駿州・田中城下へ旅立つという夕刻、父親・宣雄が書院へ銕三郎を呼んだ。

「きょう、営中で、一番町新道の小膳正直 まさなお。のちの太郎兵衛)どのから、そのほうが田中行きのあいさつに参ったときかされた」
「おうかがいいたしました。田中城は、ご本家の正直大伯父どのにとっても、ご先祖ゆかりの城ゆえ、お知らせしておくほうがよかろうと存じました」
ー番町新道に屋敷を賜っている長谷川小膳正直は、今川系長谷川一門の本家で、1450余石。2007年5月30日[本多紀品と曲渕景漸 ]をご参考に。

「一番町新道だけではあるまい。御納戸町の讃岐守正誠 まさざね)どののところへも参ったであろう」
ここは、長谷川一門中でもっとも家禄が高くて4000余石。そのことは、2007年6月1日[田中城の攻防]に紹介している。
「はい。過分なご餞別とともに、小川(こがわ)の信香院にある、祖・正長(まさなが)どのの墓への香華料もお預かりいたしました」
「ほかにどことどこを、回ったのじゃ」
「千駄ヶ谷の正珍(まさよし)叔父と、市ヶ谷御門内の正栄(まさよし)叔父---」
「なんだ、一族、すべてではないか」
長谷川熊之助正珍は、3代前が本家から500石を分与されて立った。住まいは千駄ヶ谷の塩硝蔵跡。
長谷川久大夫正栄は、先代が御納戸町から500石を分けられて別家となった。屋敷は市ヶ谷門の近く。

大久保甚太郎の例もございます。広く網を張ったほうが、魚がかかるとおもいました」
家康時代の田中城の城代だった幕臣たちの風聞が入るかも、というのだ。
風聞はいいわけで、本音は餞別集めにきまっている。
温厚な宣雄は苦笑するしかなかった。
「餞別への返礼は、帰路に箱根の細工ものでも手当てすることだな。施された額が多ければ、求める細工ものも大きくなる。手にあまるかもしれぬぞ」
銕三郎め、困ったといった顔をしたが、宣雄は見ぬふりをしていた。

その後、このたびのことは、田中藩の前藩主・本多伯耆守正珍(まさよし)侯の無聊をなぐさめるための遊びごとてあるから、あまり公けにしてはいけない。
また、遊びごとであるから、公務以上に礼儀正しく振舞わなければならない。
田中城へ登っても、城代家老・遠藤百右衛門はもちろん、藩士の面々、話をしてくれる名主のみなさんへも、きちんと礼をつくすようにさとした。

銕三郎をさがらせてから、宣雄はいつものように名簿を見つめている。今宵は、内藤紀伊守信興

松平大膳亮忠告(ただつぐ)侯 18歳 4万石
水野織部中忠任(ただとう)侯 26歳 唐津6万石
北条出羽守氏重(うじしげ)侯 断家 3万石
西尾隠岐守忠尚(ただなを)侯 71歳 横須賀3万5千石
酒井河内守忠佳(ただよし)侯 74歳 5000石
土屋能登守篤直(あつなお)侯 33歳 土浦4万5千石
太田摂津守資次(すけつぐ)侯  45歳 大坂城代3万2千石
内藤紀伊守信興(のぶおき)侯 40歳 棚倉5万石
土岐美濃守定経(さだつね)侯  22歳 沼田3万5千石

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【参照】2007年6月19日~[田中城しのぶ草] (1) (2) (3) (4) (5) (6) (7) (8) (9) (10) (12) (13) (14) (15) (16) (17) (18) (19) (20) (21) (22) (23) (24) (25)

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2007.06.28

田中城しのぶ草(10)

『旅行用心集』(八隅蘆菴著)は、文化7年(1810)刊だから、14歳の銕三郎(てつさぶろう のちの平蔵宣以 のぶため)が駿州・田中_130_1
城へ旅した宝暦9年(1759)3月の、半世紀ほどあとに書かれている。

しかし、その自序(まえがき)は、銕三郎の両親・長谷川平蔵宣雄(のぶお)夫妻の気持ちを代弁しているとおもわれるので、一部を現代語訳して掲げる(これは、15歳の大治郎を山城国愛宕郡(あたぎこおり)大原に隠棲している辻平右衛門のもとへ送りだした秋山小兵衛の覚悟にも通じるであろう)。

さて、旅をする人は、旅立ちのときから心すべきは、たとえ従者がいる人といえども、股引、草鞋(わらじ)などまで身支度は自分でととのえ、朝夕の食事が口にあわなくても辛抱して食べるのも、修行と心得ること。

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(『旅行用心集』の東海道旅程図より。駿河あたり。富士川から、興津川、安部川、大井川、天竜川が一つ図に)

さらに、泊まる先々、その土地、所の風俗によって、気にくわないような違いがあるもの。このことを承知していないと、とんでもないトラブルが起きかねない。

風雨にあう日もあろうし、または旅程の都合で早朝から霧の深い山を越えるとか、夜は薄っぺらい夜具で我慢しなければならないときもあろう。また、道連れの仲間と仲たがいしたり、足弱の人が遅れたり、さらには辺地の寒暖のせいで持病が出て難儀することもあろう。

長旅の艱難、千辛、万苦は覚悟しておかないとね。

こういう次第だから、若者にとって旅は何ものにも代えがたいいい体験となり、ことわざでも、可愛い子には旅をさせることだといっている。ほんと、貴賎ともに旅をしない人は、述べたような艱難をしらないから、人情にうとく、人にたいして思いやりがなく、蔭で人から笑われ、指さされるのである。

---と、わが子を我慢強く、人の考えもよく察する人間通に育てようとおもったら、旅をさせなさい、と。
(本文には、旅にまつわるくさぐさの心得61ヶ条中、13ヶ条を現代語にして、ブログ[わたし彩(いろ)の大人の塗り絵]の [中山道六十九次広重・栄泉&延絵図(その一)]の浦和宿での第1泊のあとに掲げているので、興味のある方はどうぞ)。

宣雄は、古書店で巻物『東海道中案内絵巻』を購った。使い古しでところどころ染みがでているが1回きりの旅だからこれでよい。

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(懐中用・東海道中案内絵巻の部分)
(注:実物は和紙でじつに軽い。旅行携帯用品は重さがキメテ。いまの旅行案内本はそこを考えていないように思う)。

夕食を終えた宣雄は今夕も、例の田中城主の末裔のリストをにらんだ。きょうは、土屋能登守篤直

松平大膳亮忠告(ただつぐ)侯 18歳 4万石
水野織部中忠任(ただとう)侯 26歳 唐津6万石
北条出羽守氏重(うじしげ)侯 断家 3万石
西尾隠岐守忠尚(ただなを)侯 71歳 横須賀3万5千石
酒井河内守忠佳(ただよし)侯 74歳 5000石
土屋能登守篤直(あつなお)侯 33歳 土浦4万5千石
太田摂津守資次(すけつぐ)侯  45歳 大坂城代3万2千石
内藤紀伊守信興(のぶおき)侯 40歳 棚倉5万石
土岐美濃守定経(さだつね)侯  22歳 沼田3万5千石

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【参照】2007年6月19日~[田中城しのぶ草] (1) (2) (3) (4) (5) (6) (7) (8) (9) (11) (12) (13) (14) (15) (16) (17) (18) (19) (20) (21) (22) (23) (24) (25)

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2007.06.27

田中城しのぶ草(9)

長谷川銕三郎(てつさぶろう)は、一刻(2時間)も前から、駿河国の益頭郡(ましづこおり)と志太郡(したこおり)の絵図を、飽くことなく眺めている。

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心が西駿州へ飛んでしまっている。
絵図は、田中藩江戸藩邸・用人の高瀬なにがしが、領内通行手形とともに、父・平蔵宣雄(のぶお)に渡してくれたものだ。前藩主・本多伯耆守正珍(まさよし)侯の手配はゆきとどいていた。

手渡したとき、宣雄は言った。
「田中城は、ここだ。城から、斜め下手(しもて)1寸(約3cm)のところ、川に面して小川(こがわ)という郷(さと)があろう」
「ございました」
「そこが、わが長谷川家が、大和の初瀬(はせ)から移り住み、今川どのの一武将として実力を蓄えていった土地である」
「訪ねてみます」
「うむ。地元の人たちに、法永長者といって尋ねてみるがよい。武士でありながら交易なども手びろく営んでおられた。長谷川を名乗る家も残っているはず。小川城の跡もあるやに聞いておる」

銕三郎さま。お母上が呼びでございます」
が部屋の外から声をかけた。銕三郎が少年からだんだんに男っぽくなり、声がわりもしてきているので、用心をしている。なにしろ、下女(しもめ)に手をつけたがる家風なのだ。
銕三郎の母・お(たえ 戒名から想定の名)も、上総(かずさ)国武射郡(むしゃこおり)寺崎村の名主の娘のときに、新田開発の監督に来ていた平蔵宣推に抱かれて、銕三郎を身ごもった。
お妙の父を、戸村五左衛門という。

野袴(のばかま)を縫っていたお妙は、手をとめて、
「申しておくことを思いついたので、お呼びしました。
わたしの父御(ててご)どのが、いつの入れ札(記名選挙)でも選ばれつづけている寺崎村の長(おさ)・戸村五左衛門どのであることは、日ごろから話していることなので、ご承知ですね。
名主として、村人たちから、たいそうな信頼と尊敬と親しさを受けているのは、ある口癖のせいなのです。
『ほう。おもしろそうな話だの』
これが、父御どのが、村人の言葉に身を乗りだしてお入れになる合いの手で、父御どのの口ぐせとわかっていても、つい乗せられて、村人はすっかり打ちあけてしまいます。
銕(てつ)どののこのたびの使命は、田中城のまわりの村長(むらおさ)から、100年も150年も昔(いにしえ)のことを聞きだすことと、7代(宣雄)さまからうかがいました。
私の父御どのは、そなたにとっては外祖父---受け継いでごらんなされ」
「きっと受け継ぎ、うんとおもしろがります」

その夜も宣雄は、名簿を見つめていた。目を注いでいるのは、水野織部中忠任であった。水野家も支流の多さでは、大久保家本多家にひけをとらない。

松平大膳亮忠告(ただつぐ)侯 18歳 4万石
水野織部中忠任(ただとう)侯 26歳 唐津6万石
北条出羽守氏重(うじしげ)侯 断家 3万石
西尾隠岐守忠尚(ただなを)侯 71歳 横須賀3万5千石
酒井河内守忠佳(ただよし)侯 74歳 5000石
土屋能登守篤直(あつなお)侯 33歳 土浦4万5千石
太田摂津守資次(すけつぐ)侯  45歳 大坂城代3万2千石
内藤紀伊守信興(のぶおき)侯 40歳 棚倉5万石
土岐美濃守定経(さだつね)侯  22歳 沼田3万5千石

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【つぶやき】
上の絵図で、藤枝の西を北から流れて海へ注いでいるのが瀬戸川。この川のほとりのどこかが、『鬼平犯科帳』文庫巻6[狐火]に登場する〔瀬戸川〕の源七爺っつぁんの出生地。
同じ藤枝宿の上あたりの五十海(いかるみ)という郷名が、文庫巻1〔座頭と猿〕に出てくる盗賊の凶悪な首領〔五十海〕の権平の故郷。
五十海郷の北の中ノ郷は、文庫巻7[雨乞いの庄右衛門]で、心の臓の病いを癒そうと、妾のお照とともに隠れ棲んだ山里。庄右衛門は安部川の源流・梅ヶ島へ湯治に行き、江戸へもどったお照は、一味の若い男と乳繰(ちちく)りあって---。

【参照】2007年6月19日~[田中城しのぶ草] (1) (2) (3) (4) (5) (6) (7) (8) (10) (11) (12) (13) (14) (15) (16) (17) (18) (19) (20) (21) (22) (23) (24) (25)

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2007.06.26

田中城しのぶ草(8)

本多伯耆守正珍(まさよし)侯へ、田中城代のことは、平蔵宣雄(のぷお)息・銕三郎が同窓の大久保甚太郎から聞いたように告げた。甚太郎の祖父・荒之助忠与(ただとも)は目付(めつけ)をしている。

じつをいうと、銕三郎に花をもたせたのである。
いや、甚太郎が話したことは事実である。
宣雄は、本多平八郎がからんだ[田中城攻防]件で、加賀屋敷(現・新宿区市谷加賀町1丁目あたり)に三枝(さいぐさ)備中守守緜(もりやす 6500石)を訪ねたとき、武田方として田中城を守っていた将の一人・三枝虎吉(とらよし)の孫で、幕臣になっていた勘解由(かげゆ)守昌(もりまさ)が城代に任じていた因縁話も聞かされていたのである。
そのことを正珍侯へ言わなかったのは、銕三郎のおぼえを一つでもよくしておきたいとの気くばりであった。

銕三郎の旅支度がせわしなくはじまった。
実母・(たえ 戒名から推測の名)は、旅用の野袴(のばかま)を縫ったり、肌着をそろえたりで寧日もない。

宣雄は、小者・六助を先発させた。宿舎々々に路用金を預けておくためである。
少年とあなどった浪人から無法をふっかけられて持ち金を奪われても、旅籠代に困らないですむ。
もちろん、銕三郎は家禄400石、父親は1000石高格の小十人組頭である、一人旅をさせるはずがない。
老僕の太作が付き添う。

宣雄は、道中地図をととのえたり、田中藩本多家の上屋敷から藩内の通行手形を受け取ったりと、息子の初旅にあれこれ気をまわしている。

しかも、夜には、例の田中藩主だった主と、いまの当主の名簿を穴があくほど眺めては、ひとりでうなずいたりしている。本多侯の案は手じまいされたとはいえ、銕三郎がここまで調べた名簿である。おろそかにはできない---というより、後ろ楯になってくれる藩主がこの中にかくれているかもしれないのだ。いや、自分はいい、銕三郎が家督したあとのときにだ。

松平大膳亮忠告(ただつぐ)侯 18歳 4万石
水野織部中忠任(ただとう)侯 26歳 唐津6万石
北条出羽守氏重(うじしげ)侯 断家 3万石
西尾隠岐守忠尚(ただなを)侯 71歳 横須賀3万5千石
酒井河内守忠佳(ただよし)侯 74歳 5000石
土屋能登守篤直(あつなお)侯 33歳 土浦4万5千石
大田摂津守資次(すけつぐ)侯  45歳 大坂城代3万2千石
内藤紀伊守信興(のぶおき)侯 40歳 棚倉5万石
土岐美濃守定経(さだつね)侯  22歳 沼田3万5千石

こんやは、大田摂津守資次侯に目を凝らしている。もちろん、宣雄は、30数年後に、銕三郎改め平蔵宣以(のぶため)が、侯の一族で火盗改メ助役(すけやく)となった太田運八郎資同(すけあつ)に讒訴されることになるなどとは、夢にもおもっていない。

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【参照】2007年6月19日~[田中城しのぶ草] (1) (2) (3) (4) (5) (6) (7) (9) (10) (11) (12) (13) (14) (15) (16) (17) (18) (19) (20) (21) (22) (23) (24) (25)

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2007.06.25

田中城しのぶ草(7)

「きょうは、ご子息・銕三郎どのはいかがなされた?」
聞いたのは、本多伯耆守正珍(まさよし)侯で、聞かれたのは長谷川平蔵宣雄(のぶお)。
場所は、芝二葉町の田中藩中屋敷の書院の間。

「はい。その銕三郎の儀でおうかがいたしました」
「なにかの? なかなかの利発にみたが---」

宣雄は、銕三郎が武鑑lから拾い上げてきた、田中城主だったことのある大名家の、現在の当主の名簿の写しを正珍侯の前にひろげた。

松平大膳亮忠告(ただつぐ)侯 18歳 4万石
水野織部中忠任(ただとう)侯 26歳 唐津6万石
北条出羽守氏重(うじしげ)侯 断家 3万石
西尾隠岐守忠尚(ただなを)侯 71歳 横須賀3万5千石
酒井河内守忠佳(ただよし)侯 74歳 5000石
土屋能登守篤直(あつなお)侯 33歳 土浦4万5千石
太田摂津守資次(すけつぐ)侯  45歳 大坂城代3万2千石
内藤紀伊守信興(のぶおき)侯 40歳 棚倉5万石
土岐美濃守定経(さだつね)侯  22歳 沼田3万5千石

銕三郎が「殿」という尊称をつけていたのを、宣雄が「侯」と改めている。

「ふーむ。これだけのものを、ようも、ご子息が---」
「恐れ入ります。じつは、お歴々の中で、田中城でお育ちになったのは、土岐美濃侯、ただお一人でございます」
「なんと---」
「殿のご生地はいずれでございましょう?」
「赤坂・江戸見坂の沼田藩上屋敷じゃが? あいわかった。ここに名をつらねておいでの諸侯も、江戸生まれじゃと申したいのじゃな」
「ご賢察」
「田中城しのびのつどいに誘っても無駄と---」
「いえ。そのようには決して---。さりながら、お話がはずめばよろしいのですが---」
「あの案、引き下げよう。ところで、先刻、ご子息の儀と申されたは?」

銕三郎が通っている儒学の塾で、目付役の大久保荒之助(のち、土佐守)忠与(ただとも)の孫・甚太郎が、祖先が田中城の城代であったことを、自慢したのだという。
田中城は家康直轄の時期があり、城代がおかれたから、大久保甚太郎の話も虚言ではない。
「城代は、幾人も任じられておりましょう。その者どもは、忠与どののことからもわかりますごとくに旗本なので、その子孫ならば、殿のお招きに喜んで応じるかと」
「うむ。妙案におもえる」
「ついては、銕三郎を田中へつかわし、ご領内の草分け名主どもに、田中城の城代だった代々の方々のお名前を聞き取らせたいと愚考いたしました」
「おお。やってくれるか。さっそくに、城代・遠藤百右衛門あての手紙を書こう」
「それと、用人どのに、ご領内の通行手形のご下賜を---」

ついでなので、田中城主から信州・小諸藩を経て遠州・横須賀城主となった西尾家『寛政譜』を掲げておく。
最下段の隠岐蚊守忠移(ただゆき)の室が田沼意次の3女だった。
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【参照】2007年6月19日~[田中城しのぶ草] (1) (2) (3) (4) (5) (6) (8) (9) (10) (11) (12) (13) (14) (15) (16) (17) (18) (19) (20) (21) (22) (23) (24) (25)

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2007.06.24

田中城しのぶ草(6)

その夜、長谷川平蔵宣雄(のぶお)は、息・鉄三郎が写してきた、田中城しのぶ講の招待予定者の名簿を眺めていた。
このところの毎夜の習慣のようになってしまっている。
記された人名を見すえていると、幕府の仕置き(政治)の歴史が透けてみえてくる。

松平大膳亮忠告(ただつぐ)殿 18歳 4万石
水野織部中忠(ただとう)殿 26歳 唐津6万石
北条出羽守氏重(うじしげ)殿 断家 3万石
西尾隠岐守忠尚(ただなを)殿 71歳 横須賀3万5千石
酒井河内守忠佳(ただよし)殿 74歳 5000石
土屋能登守篤直(あつなお)殿 33歳 土浦4万5千石
太田摂津守資次(すけつぐ)殿  45歳 大坂城代3万2千石
内藤紀伊守信興(のぶおき)殿 40歳 棚倉5万石
土岐美濃守定経(さだつね)殿  22歳 沼田3万5千石

田中城しのぶ講を思い立った本多伯耆守正珍(まさよし)侯にしたところで、前年、らちもない言いがかりをきっかけに老中職を棒にふり、いまは中屋敷に蟄居の身である。
ということは、幕府内においての口きき力はほとんど望めないということだ。

そんな立場の前高官にすり寄ってくる大名・大身がいるだろうか。
それと、も一つ、自分はなったことも夢にみたこともないが、大名という人たちは、いまの自国が大事で、はるかな昔(いにしえ)に先祖が一時的に領していた土地に郷愁を覚えるものだろうか。
出自の地ではなく、幕府のつごうでくるくると移転させられ、やどかりのようにいっとき領した土地である。

土岐美濃守定経侯---本多正珍どのが申しておられた---沼田藩と田中藩が入れ替わったと。
もしやすると、定経侯は、田中城でお生まれになったのかも。つまりは、本腹でなくご内室のお子ということになるが---正室に嫡子がいないばあい、国元のご内室がお生みになった男子でも家する例は少なくない。

宣雄は、自分が厄介(次男以下)のさらなる厄介(未婚の子)だったことを思い出して苦笑した。そういえば銕三郎も未婚の子だ。

宣雄は、だんだんに気が滅入ってくる。
(こんなことではいけない。本多侯はともかく、銕三郎がせっかく調べてきたものなのだから、それなりに結果をださないことには---あれが初めて責任を感じてやった仕事なのだ)

気をとりなおして、もう一度、名簿に目を戻した。

いまの田中城主・本多家のすぐ前の城主だった土岐家の家譜。
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土岐家譜2 緑○=田沼藩主・定経

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田中城主でもあった土岐伊予守頼殷(よりたか)

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おなじく頼殷の嫡子として田中城主だった丹後守頼稔(よりとし)

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(土岐家の当主・定経)

【参照】2007年6月19日~[田中城しのぶ草] (1) (2) (3) (4) (5) (7) (8) (9) (10) (11) (12) (13) (14) (15) (16) (17) (18) (19) (20) (21) (22) (23) (24) (25)

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2007.06.23

田中城しのぶ草(5)

本多どの。下城を共に---」
熟慮の末、長谷川平蔵宣雄(のぶお)は桧(ひのき)の間から下がりながら、本多采女紀品(のりただ 45歳。2000石 小十人組の6番組頭)に声をかけたのは、酒井河内守忠佳(ただよし 74歳。5000石)にこだわりはじめてから、数日後のことあった。

本多紀品の屋敷は、番町を東西に貫らぬいている表六番町(現・三番町7 九段小学校向かい)にある。
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(近江屋板 番町。赤○=表六番ぞい本多家)

幕臣の屋敷の塀ばかりが並んだ閑静な区域だが、下城の時刻には挟箱を小者にかつがせた裃(かみしも)姿が目につく。
宣雄は部屋を借りて、挟箱から出した羽織と仙台平袴の代わりに裃を入れ、小者に持たせて返した。

くつろいだところで、酒井日向守忠能(ただよし)侯の田中城収公のほんとうの理由をご存じであれば、お教えいただきたい、と切り出した。
長谷川どのは、酒井雅楽頭(うたのかみ)忠清(ただきよ 忠能の実父)大老が、厳有院殿家綱)さまの継嗣に京の有栖川(ありすがわ)宮家から親王をと唱え、常憲院殿綱吉)さまを推す堀田備中守(のち筑前守)正俊(まさとし)侯とあらそったという風評をご存じかな」
「いえ」
「単なる風評にすぎないが、その後の常憲院殿さまの忠清侯忌避のあしらいを見ると、まんざらでもないとおもえる。いや、事実は逆で、あしらいから生まれた風評だと存ずるが---」
「それと、忠能侯とは---」
忠清侯は、常憲院殿さまから大老を解職され、その5ヶ月後に卒せられた。在職中のよろしからざるくさぐさに司直の手がのびたと判断され、政敵の裁きを受けるのをこころよしと思われなかったのか---」
「まさか、自裁なされた---」
「その、まさか---だと、常憲院殿さまの派は疑い、いくども検屍を求めたが、酒井家は頑強にお拒みになった。その真っ先にお立ちになっていたのが、日向守忠能侯であったともいわれている」
「なんとも、お傷(いたわ)しいきわみ」
「取り潰しにあった諸侯と幕臣の数も多いが、理由は、規則に違反というのがほとんど。規則などというものは、解釈次第でどうにでもなるもの。それを言いだされたら人間全部が違反者でござろう」
「----」
「いまだからいえるが、常憲院殿さまのご気質には、なにか、偏執的なものをかんじないでもない」
「----」
「いや、口がすべり申した、お耳になされなかったことに」
「申されるまでもなく---」

「酒井河内守忠佳どのをしのぶ講からはずす件、承った」

宣雄は、帰りながら、暗い気持ちにひたっていた。

【参照】2007年6月19日~[田中城しのぶ草] (1) (2) (3) (4) (6) (7) (8) (9) (10) (11) (12) (13) (14) (15) (16) (17) (18) (19) (20) (21) (22) (23) (24) (25)

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2007.06.22

田中城しのぶ草(4)

夕餉(ゆうげ)の酒をほどほどにきりあげた長谷川平蔵宣雄(のぶお)は、書院へもどり、息・銕三郎(てつさぶろう のちの平蔵宣以 のぶため)が書き出してきた名簿を、ふたたび、披(ひら)いた。

喉にひっかかった魚の小骨のように、食事中から気にかかっていた酒井河内守忠佳(ただよし)に視線をくぎづけにしている。
74歳。5000石。享保12年(1724)からずっと大番頭。35年にもおよぶ。それも偏屈のせいと聞いている。そのせいで、小さな波風が周囲に絶えない。
(この仁は、本多侯のためにならない)
宣雄は、そうきめた。

いまは5000石の大身幕臣だが、田中城主だった先代・日向守忠能(ただよし)侯は、4万石の身代を棒にふった---というより、政敵(将軍・綱吉の側近たち)にはめられた、といえよう。

日向守忠能侯は、徳川の重臣である酒井本家雅楽頭(うたのかみ)忠世(ただよ)の孫である。父は阿波守忠行(ただゆき)。

池波正太郎さんの直木賞受賞作[錯乱(さくにらん)]で、真田藩に潜入した隠密の密書を受け取った酒井忠清(ただきよ)は、忠能の兄である。

その忠能が4万石を棒にふらされた理由というのが、いま考えると、どうにも合点がいかない。陰謀としかいいようがない。あるいは、忠能の偏屈ぶりが、よほど周囲に煙ったがられていたか。

忠能には本家の甥にあたる忠挙(ただおき)が、承応2年(1653)から寛文6年(1666)の老中在任中の亡父・忠清に落ち度があったということで、16年後の天和元年(1681)12月にとがめられた。
結果は、忠清はその年の5月に故人となっており、忠挙自身はあずかりしらなかったとていうことで、なんのことはない、一件落着。

ところが、とばっちりを忠能がかぶった。
本家の忠挙が吟味を受けているのに、忠能は参府して進退をうかがうべきなのに、のうのうと在国していたのは不謹慎でけしからぬ---と、田中藩を収公の上、井伊家に預けられた。その後ゆされたが、身分は5000石の幕臣。

そういうことから、酒井家は、田中城にいい思い出を持っていまい。
当主の日向守忠佳は、中奥の小姓にえらばれるほどの美少年であったが、気性がよろしからずということで、早々に表の小姓番組へまわされたとのうわさも、宣雄は耳にしている。
74歳のいまは、さすがの美貌も皺に覆われ、せっかくの面高顔が、かえって冷酷な印象を与えている。
とにかく、偏屈では、近寄らないほうが無難である。

酒井忠能家『寛政譜』を掲げる。
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忠能は、田中藩主時代に収公され、井伊家へ10年近くお預け。
その後、5000石の幕臣に。

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忠能の継嗣・忠佳の譜。

【参照】2007年6月19日~[田中城しのぶ草] (1) (2) (3) (5) (6) (7) (8) (9) (10) (11) (12) (13) (14) (15) (16) (17) (18) (19) (20) (21) (22) (23) (24) (25)

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2007.06.21

田中城しのぶ草(3)

下城して着替えた平蔵宣雄(のぶお)が書院で茶を喫していると、銕三郎(てつさぶろう 家督後、平蔵宣以 のぶため)が疲れきった顔でもどってきた。
きのうに引きつづき、麻布桜田の縁者・永倉家へ行き、武鑑を調べていたのだ。

「ただいま、もどりました。この調べ、一筋縄ではまいりません」
「苦労であった。が、また、そのような言葉を口にする」
「は?」
「一筋縄---じゃ。それは、その方が火付盗賊改メにでも任じられたとき、強情で白状しない盗賊に対して用いる言葉。きょう、その方がいたした、お歴々に対しては、失礼千万なもの言いになる」
「お教え、ありがとうございます」
「うむ」
宣雄の口は厳しいが、目は笑っている。なにしろ、銕三郎長谷川家のただ一人きりの嗣子である。

「父上。ただいま、火付盗賊改メと仰せられましたが、わが家にそのような役がふられましょうか?」
「本家の小膳(のちの太郎兵衛正直(まさなお)どのならともかく、小禄で、実績もないわが家には、まず、あるまいな」
「はあ---」
そのときの宣雄は、自分や銕三郎が火盗改メとして後世に名をのこすことになろうとは、露、思ってもいなかった。

「調べは、難儀であったらしいの」
「はい。申しわけございませんが、一日では終わりませんでした」
「そうであろう。明日も頼む」
「きょうは、ご一門が多い松平さま、酒井さま、内藤さま、水野さまをつめ、そのあとで、西尾さま、土屋さまへ向かいました。
明日にのこしましたのは、太田さま、さま、土岐さま、北条さまです」
「上乗、上乗」
「しかし、北条さまは断家なさったと、永倉の叔父上がおっしゃっていました」
「うむ。あれは、不思議な事件であったと聞きおよんでいる」
「どのような---?」
「いずれ、話して聞かすときがこよう。それまで待つことだ」

宣雄は、銕三郎が書き留めてきた奉書紙を受けとってから、いった。
「母者から教わったことがある。『論語』の、<慎んで其の余を言えば尤(とが)め寡(すく)なし>についての教訓であったがの。
男に、味方が100人いれば、敵も100人いると覚悟しておくことが肝要。しかし、その100人、味方にしないまでも、敵にまわさないことを考えるべきだ。それには、言葉を慎むこと。言葉が相手を傷つけること、太刀にもまさると。
先刻の<一筋縄ではいかない>も、聞きようによっては、太刀にまさるかもしれない」
「承りました」

宣雄は、銕三郎が去ってから、彼が書きとめてきた奉書紙を開いて、「よう、ここまで、やった」とつぶやき、微笑みをうかべた。

松平大膳亮忠告(ただつぐ)殿 18歳 4万石
酒井河内守忠佳(ただよし)殿 74歳 5000石
内藤紀伊守信興(のぶおき)殿 40歳 棚倉5万石
水野織部中忠任(ただとう)殿 26歳 唐津6万石
土屋能登守篤直(あつなお)殿 33歳 土浦4万5千石
西尾隠岐守忠尚(ただなを)殿 71歳 横須賀3万5千石
北条出羽守氏重(うじしげ)殿 断家 3万石

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松平(桜井)家譜の一部

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田中城主となった松平大膳亮忠重(ただしげ)

【参照】2007年6月19日~[田中城しのぶ草] (1) (2) (4) (5) (6) (7) (8) (9) (10) (11) (12) (13) (14) (15) (16) (17) (18) (19) (20) (21) (22) (23) (24) (25)

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2007.06.20

田中城しのぶ草(2)

「父上。上首尾でございました」
平蔵宣雄(のぶお)が下城してくると、待ち構えていた銕三郎が、奉書紙をさしだした。
「おお、ご苦労であった。されど、銕三郎。いま申した上首尾と申す言葉は、自らの仕事につけるものではない。父が見て、その上で与える褒辞である。以後、注意するように」

銕三郎に命じたのは、縁者の永倉家へ行って、武鑑を見せてもらい、駿州・田中藩主・本多伯耆守正珍(まさよし)の項に併記されている、歴代の田中藩主を書き写してくることであった。

・駿河大納言忠長卿         寛永2年(1625) 持ち
松平大膳亮忠重(ただしげ)    寛永8年(1631) 3万石
水野監物忠善(ただよし)      寛永12年(1635) 4万5000石
松平伊賀守忠晴(ただはる)    寛永19年(1642) 2万5000石
北条出羽守氏重(うじしげ)     正保 1年(1644) 2万5000石
西尾丹後守忠昭(ただあきら)   慶安2年(1649) 2万5000石
  〃 隠岐守忠成(ただなり)    (世襲)
酒井日向守忠能(ただよし)    延宝7年(1679) 4万石
土屋相模守政直(まさなお)    天和2年(1682) 4万5000石
太田摂津守資直(すけなお)   貞享1年(1684)  5万石
・ 〃 熊次郎             宝永2年(1705) 6万5000石
内藤豊前守弌信(かずのぶ)   宝永2年(1705) 3万5000石
土岐伊予守頼殷(よりたか)    正徳2年(1712) 3万5000石
・ 〃 丹後守頼稔(よりとし)    正徳3年(1713) (世襲)
・本多伯耆守正(まさのり)    享保15年(1730) 4万石
・ 〃  〃   正珍(まさよし)     (世襲)

「うむ。これまでは上首尾---であった。したが、銕三郎。ご苦労だが、あす、も一度、桜田百姓町へ行ってもらはねばならぬ」
「なにか、不首尾が?」
「そうさな。銕三郎は、きのう、本多伯耆守侯のところに同席していたな」
「はい。この上もなく名誉に感じておりました」
「では、その時の、伯耆守侯のお言葉は覚えておろう」
「はい」
「田中城しのぶ講---と仰せられたはず」
「さように心得ております」
「なれば、必要とされているのは、すでに物故されている方々ではなく、そのご子孫の現存の方々の名簿だな」
「あっ」
「明日、調べてまいれ」

宣雄は、この念押しを、わざとはずしておいたのである。
銕三郎が、どこまで先まわりをして、こなすかを試した---というか、実地に教えた。

もし、先読みして、しのぶ講の招待者の名簿まで調べて差しだしたら、こう諭(さと)したはず。
「主人の意図を先読みするのはよい。しかし、それを誇ってはならぬ。招待予定者の名簿は、つくっていても、主人から催促されたあとに、さようでございましたか---と謝って、翌日、差しだすほどでちょうどよい」

知恵誇りは、いつの世の、どんな上司も、好まない。

【参照】2007年6月19日~[田中城しのぶ草] (1) (3) (4) (5) (6) (7) (8) (9) (10) (11) (12) (13) (14) (15) (16) (17) (18) (19) (20) (21) (22) (23) (24) (25)

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2007.06.19

田中城しのぶ草

家康の伊賀越えのときの本多平八郎忠勝(ただかず)の機転と勇気をめぐる四方山を話し終わると、伯耆守正珍(まさよし)侯は、酒の用意をいいつけた。
「おお、銕三郎どのには、駿河国の銘茶を、な」
「お手数をわずらわせまする」
父親の平蔵宣雄(のぶお)が恐縮した。

「さてと。わが父・正矩(まさのり)が沼田から田中へ転封を命じられたのは、享保15年(1730)の7月で、予が21歳の、残暑のきびしい中の引越しであった。
わが藩と入れかわる形で、田中から沼田へ移られたのは土岐丹後守頼稔(よりとし 3万5000石)侯だが、いまの当主は田中生まれの息・美濃守定経(さだつね 32歳)侯じゃ。
侯の参府は12月じゃから、いまはご在府のはず。
先方のたしか寺田とか申した家老と、わが藩の家老・遠藤嘉兵衛が、転封のときにしばしばうちあわせておったゆえ、話が通じるのは早かろう」
「あ、亀(田中)城しのぶ講は、ほんとうにおすすめになられますか」
「とうぜんのこと。隠居蟄居の身にも、それぐらいの楽しみはあってしかるべきであろう」
「まさに」

「武田時代に守城なされておりました三枝(さいぐさ)右衛門尉(えもんのじょう)虎吉(とらよし)どののご子孫には、先日(2007年6月1日)ご面識をいただいておりますので、ご意向を伺います。
三枝どのから、守将であった依田右衛門佐(えもんのすけ)信蕃(のぶしげ)どののご子孫は、加藤とかに姓を変えて、どこやらの大家へお仕えとか聞いたような---。
これも、つぎまでに問い合わせておきます」

「うむ。こちらも、城代・遠藤百右衛門にいって、徳川の世になってからの、代々の城主を書き出してもらっておこう。
それはそれとして、長谷川どののご先祖が、小川(こがわ)城から徳一色(のち、田中と改称)城に入ることになったのは、織田右府どのの桶狭間急襲で、今川義元どのがお討たれになったとき、随陣していた徳一色城主・由井山城守どのもともに討たれたと承知しているが、そのご子孫は---」
「そこまでは、伝えきいてはおりませぬ。
したが、手前が西丸・書院番士を勤めておりました折り、別の組に由井治右衛門忠政(ただまさ 稟米300俵)と申される仁がおられました。お勤め中、若くて卒されましたが、相続なされたお方をさがしてみることにいたします」

銕三郎。明日、ふたたび、桜田百姓町の永倉の屋敷へ参り、武鑑lをたしかめて参れ」
茶で丸干しをかじっていた銕三郎は、あわてて丸干しを皿へ置き、隣の佐野与八郎政親(まさちか 27歳 西丸書院番士 1100石)へ向けて、かすかに笑った。

【参照】2007年6月19日~[田中城しのぶ草] (2) (3) (4) (5) (6) (7) (8) (9) (10) (11) (12) (13) (14) (15) (16) (17) (18) (19) (20) (21) (22) (23) (24) (25)

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