カテゴリー「079銕三郎とおんなたち」の記事

2009.10.28

貞妙尼(じょみょうに)の還俗(げんぞく)(10)

左阿弥(さあみ)〕父子がいるのを認めた与力・浦部源六朗(げんろくろう 51歳)が、
「元締は、どうしてここに?」

円造(えんぞう 60すぎ)が、貞妙尼(じょみょうに 25歳)の夫が病死前に祇園社の境内で蝦蟇(がま)の油売りをしていたこと、その死後に仏道へはいったお(てい 25歳)の後ろ盾になっていたことを手短に話した。

納得した浦部与力が、銕三郎(てつさぶろう 28歳)や奉行に対しては使わない京言葉で、
「〔左阿弥〕やのうて、〔めんどう見〕の円造・元締いうて呼ばれてはるわけが、よう、わかりました」
円造は、照れもせず、きつい顔で、
浦部はん。手ェをくだしよった悪党らに、早う天罰をくだしてやっくとくれやす」

「元締はん、法度(はっと 法律)は法度どす。けっして私怨をはらすような真似はせえへんことや」
浦部与力が念をおすと、元締は不満顔ながらうなづいたが、眸(め)で銕三郎をちらりと見た。

小者の一人に、中之町の本道(内科)の町医・玄泉先生を呼んでくるようにいいつけ、別の小者には、今熊野の先の本山へこのことを知らせてこいと命じた。

玄泉がきて、遺体をていねいにあらため、緊張のあまりに心の臓が突然に止まってしまったのだが、そういう衝撃を与えた者がいたとすると、犯罪がおこなわれたと見てよいと診(み)たてた。
和田 貢(みつぐ 23歳)同心がそれを書き取っている。

浦部与力は、寺男に坐棺を求めてくるようにいい、小者をつけていかせるとき、帰りにご用聞き・〔大文字町(だいもんじまち)〕の藤次(とうじ)に声をかけてこい、といい添えた。

玄泉医師が引きとったあと、銕三郎貞妙尼の右手の爪を示した。
「爪のあいだに灰がついています」
「それがなにか---?」

須弥壇の裏の房への通路に浦部与力を案内した。
なぜ、そんな通路を知っているのかといったことは、訊かない。
銕三郎貞妙尼の関係を察していたのである。

茶室の風炉(ふろ)を示し、懐から灰がついている紙入れと紙片をわたした。
読みおえて和田同心へまわす。
和田は、おどろいた目を銕三郎へ向けたが、なにも訊かないで、与力へ返した。

「与力どの。尼は、襲撃者たちが房の表戸を叩いたとき、部屋は家捜しされるとすぐに察し、これだけを灰の中に隠したのです。拙なら、きっとも、灰の中に気づくとおもったのでしょう。尼は、このほかに、〔左阿弥〕からの10両(160万円)もこの房のどこかに仕舞っていたはずですが、奴らが持ちさったにちがいありませぬ」

小者が〔大文字町藤次(50歳前後)が来たことと、坐棺が届いたと告げた。
通路へ戻るとき、銕三郎は、三衣筥(さんねばこ)から投げだされていた緋色の湯文字をすくいあげ、坐棺におさまる貞妙尼の腰にまき、内股を隠してやった。

棺の貞妙尼の肩を引いて、脊もおこした。
躰は固まりかけていたので、手をはなすと元のようにしゃがもうとする。
彦十(ひこじゅう)に、房から布団をとってこさせ、躰の前につめた。

人目がなければ、顔に頬ずりし、乳房が暖まるで、掌で覆ってやりたかった。

本山から小者が帰ってきて、尼からは還俗の届けがでており、本山も門派とも無縁の女性(にょしょう)につき、奉行所でどのようにお扱いになろうと口だしはしない---といわれたと。

「それが、仏の教えを説く比丘(びく 男僧)のいい草かい」
左阿弥」の元締が吐いて捨てた。

遺体はとりあえず、新居になるはずであった錦小路通り・室町通り上ルの家へ移すことになった。
棺桶は幕で覆って分別がつかないようにし、小者たちが尾行者を見張りって運び込んだ。

襲撃者たちが証拠隠滅のために寺男を襲うこともおもんぱかり、1ヶ月ほど、移り住むように銕三郎がすすめた。

参照】[貞妙尼(じょみょうに)の還俗(げんぞく) () () () () () () () () (
 

参照】2009年10月12日[誠心院(じょうしんいん)の貞妙尼(じょみょうに))] () () () ()() () (


お断り】あくまでも架空の色模様で、貞妙尼も実在の誠心院、泉涌寺および同派の寺院もかかわりがないことをお含みの上、お楽しみのほどを。

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2009.10.27

貞妙尼(じょみょうに)の還俗(げんぞく)(9)

http://onihei.cocolog-nifty.com/edo/2009/10/11-7016.html(てっ)つぁん、っつぁんはいるかえ---」
内庭先で呼んでいるのは〔〔相模(さがみ)〕の彦十(ひこじゅう 38歳)であった。
一度訪ねただけで、もう、わが家のように自在に振舞うのが特技である。

その声に、銕三郎(てつさぶろう 28歳)と久栄(ひさえ 21歳)が顔をだすと、
「奥方にはかかわりがねえんで---」
銕三郎の袖を引いて、表と役宅をしきっているくぐり戸の外へ連れだし、
「早く助けねえいと、っつぁんのびっくりの人、あぶない---って、子鹿が、今朝方から、しきりにわめくんでさぁ。それで報らせにきやしたが---}
「びっくりの人---?」
「なにしろ、まだ世間知らずなもんで、口跡(こうぜき)がはっきりしねえんで---」

「比丘尼だ。貞尼(ていあま)だ!」

部屋へとってかえし、袴をつけ、大小を腰に、
彦十どん。いそぐんだ。仲筋町だ」
「仲筋といわれても---」
「ついてくればいい。待て---」
若党・松造(まつぞう 22歳)にも支度をいいつけ、さらに表役所から小者を一人借りて、誠心院(じょうしんいん)へ向かった。

道々、彦十に庵主(あんじゅ)・貞妙尼(じょみょうに 25歳)が近く還俗(げんぞく)することになっていることを告げた。
「還俗するのに、あぶねえってことでもありやすんで?」
「還俗をさせないで、破戒にしたがる輩が懲戒(ちょうかい)の集まりを開いているかもしれない」


誠心院の本堂前て、60がらみの寺男がうろうろしながらぶつぶつつぶやいていた。
銕三郎たちが駆けつけた姿をみると、奉行所の小者に、本堂の中を指さして、
「ご庵主はんが---」

雪駄のままかけあがると、白い法衣のあちこちがやぶれ、白い肌もみえている貞妙尼が須弥壇(しゅみだん)の前で正座したままうつぶせていた。
長い黒髪が頭の前方にすだれのようにひろがっていた。

法衣の背中には、紅で卍がえかがれいている。
銕三郎が油小路・二条上ルの2軒家でわたした口紅を、大切に房へ持ち帰っていたのを見つけた犯人たちが描いたらしい。
貝殻が割れて床に散っている。

そっと抱きあげたが、すでに息をしていない。

(まつ)。〔左阿弥(さあみ)の元締に報らせろ。お前は奉行所へ戻って浦部与力を呼んでこい。どん。寺男を押さえて、つれてくるんだ」

寺男が、おどろおどろに言ったことをまとめると、昨夜、数人の僧たちがやってきて、房で寝ていた貞妙尼を本堂へ引きだし、みんなでとりかこんで責めはじめたという。

寺男は、口ぎたない怒号しか聞いていない。
「淫行の相手をいえ」
「邪淫女め」
「淫戒の罪で地獄へ行け」
「淫女(いんにょ)ともお前のことや」
「淫法(いんほう 性交)の味をいうてみ」
「淫欲臭い」
合間々々に肌を撃つ音、蹴ったりの音がしたとも。
明け方には、
「それでも相手の名をいわんか」
布がやぶれる音がし、まもなく、僧たちは引きあけた。
ふせた庵主は、ぴくりとも動かなかった。

「僧たちのなかにも、見知ったのは?」
寺男は、しばらく黙っていたが、消えいるような声で、
「西迎寺の暁達(ぎょうたつ)はんらしいお人が---」

「房をあらためる。立ちあえ」
房内は、暗い中で何かをさがしたらしく、荒らされていた。
銕三郎は、庵室の三衣筥(さんねばこ)の法衣も乱れていたが、白い大衣をえらび、彦十に、
「躰に触らないようにして、覆ってくれ」

房中をぐるりと観察し、風炉に目を留めた。
掌でならした跡があった。

灰を掘ると、紺色の紙入れがでてきた。
2両ちょっとと紙切れがあった。

---どのにお返しする分

浦部与力たちが来るまえに、寺男に命じた。
「父が町奉行だ。暁達の名は、証人調べのときにはいうな」

左阿弥〕の円造(えんぞう 60すぎ)と2代目の角兵衛(かくへえ 42歳)が息をきらして駆けつけたき、本堂の貞妙尼を見るなり、
「誰が---」
と絶句した。

つづいて与力・浦部源六郎が和田貢(みつぐ 24歳)同心を伴ってやってきた。


参照】[貞妙尼(じょみょうに)の還俗(げんぞく) () () () () () () () () (10
 

参照】2009年10月12日[誠心院(じょうしんいん)の貞妙尼(じょみょうに))] () () () ()() () (


お断り】あくまでも架空の色模様で、貞妙尼も実在の誠心院、泉涌寺および同派の寺院もかかわりがないことをお含みの上、お楽しみのほどを。

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2009.10.26

貞妙尼(じょみょうに)の還俗(げんぞく)(8)

「さようか。〔狐火きつねび)〕のお頭のところの〔瀬戸川(せとがわ)〕の源七(げんしち 57歳)爺(とっ)つぁんのところに泊めてもらっているのか」
役宅からは4丁ばかりの二条城の北東角、竹田町橋のたもとの一杯呑み屋である。

相模(さがみの)〕彦十(ひこじゅう 38歳)は、銕三郎(てつさぶろう 28歳)が京へのぼるちょっと前に、名古屋の〔万馬まんば)〕の八兵衛(はちべえ 40歳前後)の盗(つと)めを助けたあと、難波へくだって〔生駒いこま)〕の仙右衛門(せんえもん 40歳すぎ)のところで英気をやしなわせてもらってくるとかいい、姿を消していた。

参照】2009年7月14日[彦十、名古屋へ出稼ぎ] 

銕三郎の父・備中守宣雄(のぶお 55歳)が京都町奉行に大栄転をしているとの噂を大坂で聞きこみ、もしやして銕三郎も付随してきているのではないかと、淀川を遡ってきたというわけである。

_160(てっ)つぁんが都にいるというのに、大坂でぼやぼやしてるわけにゃ、いかねえ---で、がしょう」
盃を満たしてやりながら、
「ダチの大鹿はどうした?」
「それがねえ、雌エゾジカを嫁(めと)って帰(け)えってきたところまではご存じやんしょう? その雌がかわいい子鹿を産んだと思いなせえ。そしたら、ダチのやつ、ずるして、子鹿をよこしやがるんでさあ」

参照】2008年5月21日~[相模(さがみ)〕の彦十] () () (
2009年3月5日[雌エゾジカ
2009年3月6日[蝦夷への想い

適当に飲ませ、当座の小遣いとして2分(8万円)わたし、
「いま、ちょっとした物入りがあって手元不如意でな。足りなくなったら、源七爺つぁんに立てかえてもらっておくがいい」

そのうち、つなぎ(連絡)をつけたら。手を貸してくれ---というと、
「その気で大坂からのぼってきやしたんで---」
酒の勢いもあって景気がいい。

暗くなったので、彦十を送りがてら、押小路通りのお勝の住まいまでいき、路地の入口で別れた。

_100は、お乃舞(のぶ 14歳)とその妹(11歳)と夕餉(ゆうげ)をとっているところであった。
姉妹が家を出るにあたっては、与力・浦部源六郎(げんろくろう 51歳)の配下同心・長山彦太郎(ひこたろう 30歳)が介添えしたため、父親もしぶしぶ同意した。
島原へでも売るぐらいのことは継妻と話しあって雰囲気であったという。(歌麿『寛政美人』 お勝のイメージ)

姉妹はそろって頭をさげて、銕三郎の手配にきちんと礼をいった。
11や14で、島原へ売られることの意味を知っているのだ。
もさすがに、姉妹の前では、躰の関係がある様子はみじんもみせないが、お乃舞のほうは、なんとなく察している目つきである。

(てつ)さま。おかげさまで、むくの木の皮を煎(せん)じたのを混ぜた髪仕上の〔平岡油〕の売れ行きがたいへんなんです」

3回分が50文(2000円)で、おの取り分は8分2分の8分たから、1ヶにつき40文(1600円)の手取り---買っていく客が日に10人をくだらないという。
10人で400文1万6000円かと銕三郎がつぶやくと、
「いいえ。1人の客が、親類や近所の分といって3ヶも5ヶも買っていくのもいるから、この7日のあいだに、
「240ヶも売れました」
「9600文---といえば、2両をこえているではないか」

売り出し元の祇園町の〔平岡屋〕のほうは、日に500ヶではきかないから、毎日6両をかるく超える売り上げだから、
「近いうちに、役宅のほうへお礼にあがるといっいました」
「拙への礼はいいから、表の役所k与力が20人、同心50人、それだけにわたる現物をもってくるように伝えておいてくれ。なに、いちど使えば、あとは店に行くから、何倍もになって帰ってくるとな」

さまは、あいかわらず欲がない。それでは、私の儲けの半分をさしあげます」
は3(48万円)を手早く包んだ。

_150「ありがたく頂戴しておく。〔瀬戸川〕ののところで世話になっている〔相模〕の彦十に小遣いがわたせる。ところで、〔紅屋〕の濃い紫色の口紅のほうはどうだ?」
「あちらは、私の発案ということで、手取りは5分5分ですが、売れゆきは日に5ヶというところです」

「1ヶ、幾らなんだ?」
「80文(3200円)」
「明日から、弟子の若いむすめたちにつけさせるんだな」
「わぁ、いいこと教わりました。ところで、お宝がいる、尼僧さんのほうは?」
乃舞を気にしながら訊いた。
「そのことで寄ったんのだ。錦小路通り・室町通りに格好の家がかりられた」
「では、私たちは当分ここで---?」
銕三郎がゆっくりうなずいた。(英泉〔小町紅〕の濃い紫の口紅の女)


参照】[貞妙尼(じょみょうに)の還俗(げんぞく) () () () () () () () () (10
 

参照】2009年10月12日[誠心院(じょうしんいん)の貞妙尼(じょみょうに))] () () () ()() () (


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2009.10.25

貞妙尼(じょみょうに)の還俗(げんぞく)(7)

「元締が、脇門の外でお待ちどす」
いつも金子を届けてくれる〔左阿弥(さあみ)〕のところの若い者(の)が、役宅の下僕とすっかり顔なじみになったらしく、内庭へはいってき、銕三郎(てつさぶろう 28歳)に告げた。

読んでいた書物『十八史略』を伏せ、袴を着して門の外に出ると、円造(えんぞう 60歳すぎ)元締が、
「錦通り・室町通りに、ええ家が見つかりましてな。ご見分いただこうおもいまして---」

誠心院の貞妙尼(じょみょうに 25歳)が還俗(げんぞく)して住まう家を頼んでおいたのである。
しもうた家という条件で探してもらった。
円造は顔がひろいから、その道の周旋人にも知り合いが多かった。
「元締じきじきにお運びいただき、恐縮です」
「なにをいわはる。庵主(あんじゅ)はんは、孫むすめやおもうてますねん」

_120その家へ着いてみると、2代目・角兵衛(かくべえ 42歳)が庵主を伴なって、さきに見分していた。
室町通りから路地をはいったつきあたりの二階家であった。
「どうですか?」
墨染めの大衣の貞妙尼は、淡い比丘尼頭巾で長髪をかくしていたが、顔は上気しており、頬の赤みがいつもより濃かった。
「お(てい)に戻って住むには、もったいないほどのお家どす」

「母ごもいっしょに住めるような家をと、元締にお願いしておいたのです」
「すんまへん。母(たあ)は、近所の知り合いと別れとうないさかい、いまのところを離れられへんいうて、駄々こねてます」

「ま、母・むすめで、ゆっくり話しおうたらよろし。この家さえあったら、いつかて越してきてもらえるんやさかい」
角兵衛・2代目がとりなし、周旋人に目くばせした。

貞妙尼が好みの什器をあの部屋、この納戸に配る空想にふけっているのを、元締は満足そうに眺めている。
銕三郎は、貞妙尼に5両(80万円)の紙づつみを手わたし、
「これで、なんやかや、買い整えなさい。還俗をすませ、越してきた日にとどけるようにいいつけておけばいい」

元締と角兵衛に礼をいい、銕三郎はひと足に役宅へ戻った。

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(春信『髪洗い』 久栄のイメージ)

先日の貞妙尼の髪洗い姿が、ちらっと横ぎったので、
「雇い人の目のとどかないところで洗ったらどうかね」

久栄(ひさえ 21歳)は、右腕ごしに眸(め)を投げかけ、
「旦那どのは、長い髪をさげた女性(にょしょう)がお好みとおもったので、やっているんですよ」
声にトゲがあった。

「なんの話だ」
「お分かりになっているくせに---」
「分からぬ」
「お分かりにならなければ、それまでのことでございます。ただ、部屋ずみの身で、側室をおもちになるのは、いかがかと思います」

「側室? 誰のことだ?」
久栄は問いかけをはずし、お舅(しゅうと)どの・備中守宣雄(のぶお 55歳)は、1500石格に加えて西町奉行としての玄米600石の役手当てをおもらいになっているのに、
「側室にでもと雇いいれた左久(さく 17歳)に手もお触れになりませぬ」
(ははーん。父上にあてがうために佐久を座敷女中にしたのに---と、不満のはけ口を、おれにむけたな。カマをかけただけのことか---)
「38は、齢が離れすぎとはおもわぬか?」
「世間には、いくらも例がございます」
「父上は、面倒と、おおもいかも---」

浴衣に袖をとおして居室にはいった久栄を追い、障子の陰で、押したおそうとした。
「なりませぬ。辰蔵(たつぞう 4歳)がきます」

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(歌麿『ねがいの糸口』 久栄のイメージ)

「若。彦十さんが見えています」
内庭から松造(まつぞう 22歳)の声がかかった。

参照】[貞妙尼(じょみょうに)の還俗(げんぞく) () () () () () () (8) () (10
   

参照】2009年10月12日[誠心院(じょうしんいん)の貞妙尼(じょみょうに))] () () () ()() () (


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2009.10.24

貞妙尼(じょみょうに)の還俗(げんぞく)(6)

「すぐ、すませますよって、お待ちになっておくれやす」
双肌ぬぎで長髪を洗っていた貞妙尼(じょみょうに 25歳)が、左手で髪を束ねもち、顔だけを向け、声を送ってきた。

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(歌麿『婦人相学十躰 洗髪』 貞妙尼のイメージ)

透(す)きとおるほどの白肌が、銕三郎(てつさぶろう 27歳)には、まぶしい。
子にふくまさせたことのない乳頭は、25歳におんなにしては小さく桃色のままである。
もっとも、銕三郎は吸っているが、亡夫もなぶったであろう---。
小豆ほどの乳首にもかかわらす、張った乳房は銕三郎の掌にあまる。

(符合ということは、ほんとうにあるのだな)
きょう、油小路・二条上ルの鞘師・三右衛門の裏の、いつもの2軒長屋へやってきたのは〔化粧(けわい)読みうり〕の名代(みょうだい)料をわたすためでもあった。

符合というのは、その〔化粧読みうり〕の客寄せの記事が、[髪を洗う伝(でん)]であったからである。

陽気がよくなり、15丁ほどもいそぎ足であるくと、汗ばむ日がつづいている。
道が乾いて、土ぼこりが舞うことも多くなった。

_360
(速水春暁斎・絵 『都風俗化粧法』東洋文庫)

〔ふのり〕〔とうどんのこ〕に〔むくの木の皮〕を刻んで煎(せん)じた湯をくわえたもので洗うと光沢(つや)もでるし、黒い髪がより美しくなる---といったことを絵に添えた。

すすぎを終えた貞妙尼が上半身裸のまま、後片づけをしながら、
「きょうはお会いできるのやとおもうたら、お経をあげてたかて、気がはいらしまへんよって、早めにきて、洗ってましてん。そしたら、銕'(てつ)はんも早(は)よきィはって---」
髪を乾かすために、まだ、束ねていない。

_200
(歌麿『歌まくら あわび採り』 貞妙尼のイメージ)

「拙も、考えごとに身がはいらなくてな。さいわい、〔左阿弥(さあみ)〕のところの若い者(の)が昼すぎに届けてくれたので---」

貞妙尼は、還俗したときの住まいのあれこれについて空想していると、すぐに日が経ってしまって---と笑った。
「新世帯をととのえるみたいに、浮きうきしてくるんどす。おかしおますやろ」
「おかしくはない。お貞(てい)の新しい門出だ。ついでに、名もあたらしくととのえたらどうかな。町名主のほうへは、奉行所がなんとかしてくれよう」
「ひゃあ。新しい名を考えるだけで、3日はかかりますやろ。なんや、楽しゅうなってきました」

櫛けずろうと腕をあげたときの黒い脇毛を目にし、たまらず、抱きよせ、口を吸う。

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櫛の手をやめないので、唇がついたり離れたり---それがおかしいと、2人とも噴きだした。

「名どすけど、貞妙尼の「」を「たえ」と読んだらどないでしょう」
「待った。それだけは駄目だ」
「奥方の名やったんなら、寝言でいわはったかてたかて、よろしやおまへんか」
「違う。母上の名なんだよ」
「そら、親子どんぶりになってしまいますなあ」
また、噴きだした。

他愛もない冗談が、先の見通しが明るいために、屈託なく笑えた。

「うち、ほんまに淫らになったかもしれしまへん。ゆうべ、嫁にいくとき、母(たあ)が行李の底へしのばせてくれはった、絵ェの夢をみてしもたんどす」

_685
(北斎 『嘉能之故真通』部分)

「雄蛸と子蛸がからんできて、唇やら乳首やら下腹やらを吸いよりますねん」

夢の中の刺激をおもいだしたらしく、貞妙尼の双眸(りょうめ)が潤んできた。
相づちに窮した銕三郎は、懐の、刷りあがったばかりの〔化粧読みうり〕を、わたした。

下のお披露目枠に目をとめ、
「ぎょうさんの小町紅どすなあ。小町紅の大名行列やおへんか---」


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(『商人買物独案内』より)

祇園町の〔平岡油〕は、〔むくの木の皮〕を煎じて混ぜた、化粧法の書いておいた髪洗い油である。
銕三郎の入れ知恵でつくらせた。
左阿弥〕の2代目・角兵衛(かくべえ 42歳)は、お披露目枠にそのことを載せたらといったが、銕三郎が反論した。
混じた油はどこで売っているかと、〔化粧読みうり〕を売っている祇園社境内の仮床の店へ客が訊いときに教えたほうが、真実味とありがた味が高まるのだと教えた。
もちろん、〔延吉屋〕でお(かつ 32歳)に化粧指南をうけているむすめが訊いたら、即、売りつける。
8:2で、おの取り分は8分だと。

_150「忘れていた。女化粧指南師のおが、〔紅屋〕のために、あたらしい色に口紅を考案したんだ。橙色と濃い紫色のと桃色とかいっていた」
「濃い紫?」
「貞尼(ていあま)のように武家風のおんなには向かないが、跳ねっかえりのむすめは、その筋のおなごたちがしているから飛びつくだろう」

いつの時代にも、奇をよろこぶ若いむすめがいることを、お勝は店で毎日見ているのである。
そこから想をえた製品開発だけに、強い。
〔紅屋〕も、おのところで日に3人のむすめが濃い紫の口紅を買えば、10日後には洛中に3,000人のむすめたちが黒っぽい下唇をして街をあるき、1ヶ月後には1万人がそうしている---とふんだ。
(左の絵は、英泉『艶本婦慈之雪 洛陽之売色』)

苦笑を消した銕三郎が、貝殻(かいがら)を取りだし、まともな紅だから、還俗したつもりで、ためしに刷(は)いてみないかとすすめた。

筆にほんのすこしつけて、母親の手鏡でたしかめ、笑みをこぼした。

22y__360
(歌麿『北国五色墨』)

銕三郎が筆をもぎとり、
「こっちを向いて」
浴衣の前を押しあけ、乳頭に紅をさす。
「くすぐったぁい!」
躰をよじりながらも、胸をつきだす。
それに、銕三郎が口でうけとめた。

_300_2
(歌麿『ねがいの糸口』部部分 貞妙尼のイメージ)

軒先では、雀が藁を1茎ずつ運んでは、巣づくりにはげんでいる。


参照】[貞妙尼(じょみょうに)の還俗(げんぞく) () () () () () () () () (10


参照】2009年10月12日[誠心院(じょうしんいん)の貞妙尼(じょみょうに))] () () () ()() () (


お断り】あくまでも架空の色模様で、貞妙尼も実在の誠心院、泉涌寺および同派の寺院もかかわりがないことをお含みの上、お楽しみのほどを。

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2009.10.23

貞妙尼(じょみょうに)の還俗(げんぞく)(5)

「やっぱり、そないにならはりましたんか。いや、けっこうどす、ちょっぴり、うらやましゅうはおますけど---」
銕三郎(てつさぶろう 28歳)が、貞妙尼(じょみょうに 25歳)とできてしまったことを告げると、〔左阿弥(さあみ)〕の円造(えんぞう 60すぎ)元締は、楽しそうな笑い顔になり、かたわらの2代目・角兵衛(かくべえ 42歳)に、
(かく)も、ええ話や、おもうやろ。25後家が男断ちでいはったら、躰のためにようない---」
自分で大きくうなずいた。

参照】2009年10月12日~[誠心院(じょうしんいん)の貞妙尼(じょみょうに))] 
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[貞妙尼(じょみょうに)の還俗(げんぞく)] () () () () () () () () (10

還俗の段になったとき、角兵衛が口をはさんだ。
〔縁起(えんぎ)読みうり〕を案じていたのだという。
貞妙尼に、月々の仏道の縁起を書いてもらい、それを 引き札として配布するつもりであったというのである。
お披露目(ひろめ)枠(広告枠)の買い手も小あたりして、すでに10店舗ほど予約をうけているらしい。

絵師・冬斎(とうさい 41歳)も大乗り気で、貞妙尼の似顔を描いているとも。


「これは、まったくの引き札やよって、祇園はんの境内の、うちが支配してる仮店だけで配りますさかい、〔化粧((けわい)読みうり〕とは競いまへん」
つまり、角兵衛が板元(はんもと)とお披露目枠の扱いも取り仕切るということである。

「もちろん、誠心院(じょうしんいん)はんには、1板につき2両(32万円)ずつ、寄進させてもらお、おもうてます」
貞妙尼どのが還俗してもよろしいのですか?」

元締がのりだしてきた。
「そこどすねん。還俗の話をきく前の案どすよってな。どないでしゃろ、祇園はんのわきに、小じんまりした、無宗派の庵室を一つ結んで、貞妙尼はんには、そこで読経してもらういうのんは? 姿かたちだけの比丘尼はんでよろしのや」

たしかに、祇園社の境内であれば、〔左阿弥〕の目が光っているから、貞妙尼に危害はおよぶまい。
しかし、大衆が簡単にだまされるだろうか。
数ヶ月はだませたとしても、京都中のお寺は真相を檀家も者たちにささやくと、たちまち、偽装がばれよう。
そうなると、〔化粧((けわい)読みうり〕にまで影響がおよぶ。
表向きは貞妙尼が板元(はんもと)ということになっているから、讒言はそっちにもおよぶだろう。
とりわけ、銕三郎が破戒の主とわかれば---。

そのことをいうと、角兵衛も考えこんでしまった。
やはり、貞妙尼が誠心院にいてこそ、なりたつ案であろう。

代案として、元締が取り仕切っている縁で、祇園社か知恩院の住持の説文にしては、と提案してみた。
「あきまへん。少々の名義借り料で承知なさるようにお方や、おへん。それに、尼僧はんの説文やからありがたいのんどす。僧の説文を、婆さんやったらともかく、若いむすめたちが読むはずがおへん」

ありがたい尼寺---たとえば御寺(おてら)御所と呼ばれている烏丸上立売の大聖寺のご庵主(あんじゅ)さんとか---。
「伝手(つで)が---」
しぶる角兵衛に、禁裏付から公家方の武家伝奏(てんそう)を打診してみるテなら---といった銕三郎に、元締が、
「公家はんたちへの口きき料いうたら、世間相場の10層倍ではききまへん」

けっきょく、銕三郎が身を引いて貞妙尼は口をとざしていまのまま庵主をつづけるか、〔縁起読みうり〕の案を延期するかだが、貞妙尼は還俗をあきらめないだろうということに落ち着いた。

「長谷川の若ぼんも、罪つくりなお人どすなあ」
元締がしみじもといい、談義を3人で笑ってすませた。

お断り】あくまでも架空の色模様で、貞妙尼も実在の誠心院、泉涌寺および同派の寺院もかかわりがないことをお含みの上、お楽しみのほどを。

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2009.10.22

貞妙尼(じょみょうに)の還俗(げんぞく)(4)

「愛(いと)しい娘(こ)・お乃舞(のぶ 14歳)とは、その後、うまくやっているか?」
銕三郎(てつさぶろう 28歳)としては、おんな同士の出事(でごと 性愛)のことを、冗談めかして訊いたつもりであったのに、お(かつ 32歳)は、そうはとらなかった。

参照】2009年9月24日~[お勝の恋人] () () (

_100「お店でも、甘えてくるので、ほかの弟子2人が焼餅で、ちょっと困っているんですよ」
「それは、よくないな。床の中で、きちんと躾(しつけ)るんだな」(歌麿『寛政3美人』 お勝のイメージ)

甘えられる大人ができて、おもいっきり、そうしているので、無碍(むげ)に叱るのはかわいそうなんだという。
7年前の3人目のお産が難産で、母親とともに嬰児](えいじ)も死んでしまった。
やってきた継母が、自分の子ができると、お乃舞と妹を邪魔ものとしてあつかうようになったのだという。
父親も継女房にかまけ、姉妹の生母をしだいに忘れていく様子も悲しい。

「情に飢えていたのと、父親と継母との痴態にやりきれなくなっていたんです」
「よくある話だな」
「で、お乃舞と妹をここへ引きとり、いっしょに暮らそうかと---」
「妹というのは、幾つなのだ?」

「3つ下だから11歳ですか」
「いっしょに住んでいて、お勝たちの睦みごとが隠せるのか?」
「妹のほうは、まだねんねですから---」

(「十三と十六はただの年でなし」と、姉妹をもっている儒塾の悪友から聞いたぞ、といいかけ、やめた。
お勝もおんなだからこころえていよう)

ちゅうすけ注】「十三と十六はただの年でなし」は、銕三郎の時代の古川柳で、数えの13歳で月のものが始まり、16歳で芝生が生えてくる---を詠んでいる。

「家のことをやるのは、馴れているようですから、弟子をやめさせて---」

それで、おのほうから、銕三郎に相談があったところだと言った。
奉行所のだれかに、わからず屋の父親らしいとの話しあいに立ちあってもらえないかと---。

浦部という与力に頼んでみよう。小者が打ち合わせに〔延吉屋〕へ行ってもいいのか?」
「近くのうどん屋でなら話せます」

引きうけて、銕三郎が切り出した。
「日に2分(8万円)は稼ぐとのことであったが---」
「お宝ですか? 幾らお入り用ですか?」
「いや。いますぐではない。頼んだ時のことだが---」

「おなごですか、お相手は?」
「おんなでは、嫌か?」
「嫌とは申しませんが、どんなおなご衆かと---」

「齢は、25歳」
「そんなときもありいました」
「名は、貞妙尼(じょみょうに)---」
「え? いま、なんと?」
「じょみょうに---」
「に---って、比丘尼(びくに)さまの、に---ですか?」
「そうだ」
「その比丘尼さまがお堂でもお建てになるから、(てつ)さまが、壇越(だんえつ)にでも?」
「そうではない。還俗(げんぞく)をすすめている」

そうなってしまった経緯(いきさつ)をかいつまんで話した。

参照】2009年10月12日[誠心院(じょうしんいん)の貞妙尼(じょみょうに))] () () (

貞妙尼のほうから誘ったということで、お勝は納得した。
「わたしだって、お竜(りょう 享年33歳)お姉さんだって、銕(てつ)さまには、ころりといってしまったのですから、その比丘尼さんも、そうだったのでしょう」

そう言ってから、
「お宝はなんのために?」
「自活させなければならない。とりあえずは、寺をでて住むところを借りなければならない」

しばらく考えていたお勝が、
「わたし、この家をでます。さいわい、これまで稼いだものが10両(160万)ほど、お吉(きち 37歳)姉さんに預けてありますから---お竜お姉さんがのこしてくれた12両(192万円)も手つかずです。これをさまへさしあげます」
「おの遺産金(かたみがね)なら、拙も20両(320万円)もらっていた」

参照】2009年8月22日[〔左阿弥(さあみ)〕の角兵衛] (


参照】[貞妙尼(じょみょうに)の還俗(げんぞく) () () () () () () () () (10


参照】2009年10月12日[誠心院(じょうしんいん)の貞妙尼(じょみょうに))] () () () () () () (


お断り】あくまでも架空の色模様で、貞妙尼も実在の誠心院、泉涌寺および同派の寺院もかかわりがないことをお含みの上、お楽しみのほどを。

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2009.10.21

貞妙尼(じょみょうに)の還俗(げんぞく)(3)

おんな化粧(けわい)指南師・お(かつ 32歳)との連絡(つなぎ)をつけた若党・松造(まつぞう 22歳)が、六ッ半(午後7時)までには、押小路裏の家に帰っているとの返事をもってきた。

「出かけてくる」
夕餉(ゆうげ)のあと、そういった銕三郎(てつさぶろう 28歳)に、久栄(ひさえ 21歳)が、不満を押し殺して見送った。
「ずいぶんと、お忙しいご様子でございますこと」

武家の夕餉は、七ッ半(午後5時)には箸をとる。
六ッ半には1刻(2時間)ほどあった。
この時分は日没がおそくなってきており、六ッ(午後6時)でもまだ夕闇がこない。

(---というのは、現今のいい方で、江戸時代は日の出が明け六ッ、日の入りが暮れ六ッ。月はもちろん陰暦である)。

足が自然に三条通りを東へ、右に折れて中筋通りに入る。
桝目につくられている京の道の名も、だいぶ覚えた。

誠心院(じょうしんいん)の門前でちょっと思案したが、おもいきって境内に踏み入れる。
本堂の灯は消えていた。

房(ぼう)の木鐸(もくたく)を打つと、誰何(すいか)する声がとがめた。
長谷川です」
わざと、まわりに聞こえるように名乗った。

表口の戸があき、木綿の普段着の直綴(じきとつ)をあわててはおったらしい貞妙尼(じょみょうに 25歳)が立っていた。
洗い髪を広げ、そのまま背中にたらしているのが艶っぽい。

「おあがりになりますか?」
「ここで、帰ります。あの話がどうなったか、伺うために参上いたしましただけです」
誰の耳にはいってもいいように庵主(あんじゅ)に対している態(てい)で、丁寧に問いかけた。

ことばづかいとは裏腹に、笑みをたたえた眸(め)が、お(てい)のくつろいだ姿態をなめまわしている。
後ろからの灯で、ころもが透けて裸躰の見えるように錯覚した。
その視線にこたえた貞妙尼が、腰をくねらせ、
「はい。おすすめのように、決めました」
「それは、よろしゅうございました。では、失礼いたします」

銕三郎が、ばか丁寧にあいさつのあと、口をひそめて、貞妙尼にだけ聞こえるように、
「一目、会ういたかった」
「うちかて----」

訪問者が門前の小さな中川に架かる橋をわたりおえるところまで見とどけた庵主は、深いため息をもらして戸をしめた。

誠心院を出た銕三郎は、押小路の一筋南の御池通りで見かけた呑み屋へ入り、
「六ッ半の鐘を聞いたら教えてほしい」
冷や酒と、あぶった小魚を注文した。

(還俗(げんぞく)したおが〔化粧(けわい)読みうり〕を仕切るとなると、〔左阿弥(さあね)〕の家から離れすぎるのも考えものだ。
といって、千本の役宅から遠すぎても不便だ。
押小路の借家は、おにゆずってしまったし---)


参照】[貞妙尼(じょみょうに)の還俗(げんぞく) () () () () () () () () (10


参照】2009年10月12日[誠心院(じょうしんいん)の貞妙尼(じょみょうに))] () () () ()() () () 


お断り】あくまでも架空の色模様で、貞妙尼も実在の誠心院、泉湧寺および同派の寺院もかかわりがないことをお含みの上、お楽しみのほどを。


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2009.10.20

貞妙尼(じょみょうに)の還俗(げんぞく)(2)

「言わはった還俗(げんぞく)どすねんけど---」
貞妙尼(じょみょうに 25歳)も全裸のままふとんから出て、茶碗酒をすすった。

「おいしおすなあ。葷酒(くんしゅ)や魚、油ものまで禁じとぉるのんは、精がついたら、淫欲にはしる---いうことや、おもいます。
そやそや。みだらいう字ィは、ふつうはサンズイどすやろ。それが仏道では、わざわざ、女偏の「婬」いう字をつこうとりますんよ。聖欲はおんなだけあるもんやおへん」
投げるようにいって、また、すすった。

「還俗から、話がそれたよ」
銕三郎(てつさぶろう 28歳)が腕を肩にまわした。
すりよってきて、乳房を脇の下に押しつけた。
「銕(てつ)はんと、こないなってから、乳房が肥えたみたいどす」
「ややができたんではあるまいな」
「できてたら、どないしはります?」
「うむ。側室に---といいたいが、まだ、部屋住みだから、どう、思案したものか」

「月の障りが、おととい、終わったとこどす」
「おどかすなよ」

銕三郎の前へまわり、
「銕はんの精をいただいて、肌の艶(つや)がふえたみたいどす」
全裸の肌を、目の前にさらした。

久栄(ひさえ 21歳)は、ふとんの中でなにも身につけないことはあるが、床の外では、さすがに武家の妻らしく、下腹は覆っている。
貞妙尼は、最初(はな)のときからこだわらなかった。亡夫の好みだったのであろうか)

(お(りょう 享年33歳)はどうであったかな。とっかかりは湯殿だったな。双方、裸だった。蚊帳の中で浴衣をつけていたような。こういうことって、相手まかせにしているから、覚えていないものだな)

参照】2008年11月17日[宣雄の同僚・先手組頭] (

「たしかに---。町娘なら、白粉ののりがよくなったとよろこぶところだな」
手をのばし、乳首をもてあそぶ。


障子にうつる南天の影が消えかかっていた。

「こない、なんども、極楽へのぼるの、はじめてどす。こんなん、ほかのおなご衆も、そうなんやろか」
半分、正気がもどり、しみじみともらした。
「躰が熟(う)れる齢(とし)ごろになったのだよ」
「いいえ。銕はんのみちびきのせいどす」

還俗の話にもどった。
「1ヶ月前には、本山へいうとかな、あきまへんやろな。あとにきはる比丘尼はんの手あてもあることやし---」
「その気になったようだな。髪が伸びるのを待たなくてもいいから、町住まいはその日からそのままだ」
「住むところもなんとかせな---」
「ここには帰らないのか?」
「ご近所に、みっとものうおす」
「家は、なんとか考える」

貞妙尼は暗算し、
「いただいてたお布施が、本山にないしょで、10両(160万円)ほどたまってますよって、当座のお宝はなんとか---」
「近所の衆と顔をあわせないですみ、役宅からさほど遠くないところというと---」

参照】[貞妙尼(じょみょうに)の還俗(げんぞく) () () () () () () () () (10

参照】2009年10月12日[誠心院(じょうしんいん)の貞妙尼(じょみょうに))] () () () () () () (


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2009.10.19

貞妙尼(じょみょうに)の還俗(げんぞく)

「波羅夷(はらい)の汚名をきせらる前に、還俗(:げんぞく)してしまう考え方はないかな?」

参照波羅夷罪

布団から裸形のまま這いでて、膳にのっていた飯茶碗の冷酒でしめらせた口で問いかけた。
おんなは、空を浮遊しているような余韻にふけっていた。

雨戸があけてあり、午後の西陽が障子ごしに貞妙尼(じょみょうに 25歳)の透きとおるほどに白い裸体を浮き上がらせている。

先(せん)にここで会ってから10日がすぎたので、街中の花はすっかり散り、みずみずしい若葉が一斉にふくらみはじめている季節になっている。

二条油小路上ルの鞘師・三右衛門の店の裏の2軒長屋---貞妙尼の実家である。

母親(47歳)は、きょうも親類へ泊りがけででかけ、顔をあわせるのを避けた。

役宅でも江戸の家でも裸のままということは、武士の子としては、許されない。
いつ、不時の事件で人前に出ることになるやもしれないからである。

もっとも、布団の中で久栄(ひさえ 21歳)を抱くときは別であった。

「うちが波羅夷の犯戒の罰をうけるのんを、こころ待ちにしてはる比丘(びく 男僧)衆がぎょうさんいてはる---」
「みんな、貞尼(ていあま)にさそいをかけた僧たちだな」

「じょみょうに」ではいかにも睦言らしくないと、布団の中では、そう呼びかけることにしたのである。
そのくだけた呼び名を耳元でささゆかれると、貞妙尼は昂(たかぶ)りがますようであった。

「破犯裁きで、その僧たちの名をバラしてやればいい」
「証拠のないいいがりをいうてると、反対に破戒の罪状がかさみますやろ」
「言いよりの文はのこしていないのか?」
「そんな、あとにのこるようなことはしィはらしまへん」

「やはり、その前に還俗することだな」
「せやけど、まだ、バレてぇしまへんえ」

破戒裁きの波羅夷のことは、寝床にはいる前に、<貞妙尼が話した。
「比丘尼が懲罰をうける破戒は、男の比丘の4行為に、さらに4行為がくわえられていると。

くわえられているのは、
一、 摩触戒(ましょくかい) 好きこごろを示している男の腋(わき)から下に触れること。
一、 八事成重戒(はちじじょうじゅうかい) 尼のほうが好きごころを抱いており、むこうも憎からずおもっている男の手をにぎったり、着ているものをどうこうしたり、隠れた場所でともに坐り、、話しあい、いっしょに歩いたり、寄り添ったりすること。
一、 覆蔵(ふぞう) 比丘の破戒所業を秘していわないこと。
一、 随挙(ずいきょ) 破戒所業をした比丘に殉ずること

【参照真言宗泉湧寺派の戒の構成

銕三郎は、噴きだしてしまい、しばらくとまらなかった。
「このあいだ、貞尼が難じた意味が、ようわかった---」

貞妙尼をなぐさめてから、蘭学をかじっている人(平賀源内)から聞いたことだが、向こうのキリシタンの坊主たちにもきびしい戒があるようだが、それが不自然だといって、妻帯する坊主の派を新教徒と呼んでいるらしい。
長崎にきているオランダ国もその宗派だから、公儀がゆるしているだそうだ。
もっとも、新教徒の尼僧が夫をもっているかどうかは聞きもらした。

貞尼も、真言新宗を唱えるといいかもな。おんなを罪が深い生きものとみるなといってな」
「そんなんしたら、お寺さんの多いこの京では、生きてはいけまへん。それより、秘して、こうして聖欲を愉しんでいるほうが、賢おすよって---」

銕三郎が還俗を問うたのは、ゆっくりと刻(とき)をかけた房事が終わってからであった。


参照】[貞妙尼(じょみょうに)の還俗(げんぞく) () () () () () () () () (10


参照】2009年10月12日[誠心院(じょうしんいん)の貞妙尼(じょみょうに))] () () () ()() () (


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2009.10.17

誠心院(せいしんいん)の貞妙尼(じょみょうに)(7)

貞妙尼(じょみょうに 25歳)が瞼(まぶた)をひらいた。
部屋は、ほとんど暗く沈んでいる。

それなのに、横の銕三郎(てつさぶろう 28歳)をまぶしげに瞶(みつ)め、
「うち、どないかなったんやろか、躰が空に浮いてます」
「極楽から帰ってきたのだよ」
「ほんま。まだ、芯がしびれてますえ」

銕三郎が、背中を何度もゆっくりとなぜてやり、尻の丸みを掌 で覆い、中指でと谷間をとんとんと打ってやる。
その快さを笑顔で楽しみながら、
「淫欲たら、肉欲たら、情欲たら、色欲たら、性欲たら、いいますけど、字が違うとります。好きな人となら、聖欲、正欲、清欲、こころのこもった精欲どす。 色欲(しきよく)やなしに、分別したうえでの識欲。情欲やおへんで清らかな浄欲。仏典は間違ごうてます」
「拙にとっては、勢欲だったかも---」
「銕(てつ)はんのんは、若さの徴(しるし)やよって、うれしゅおす---」

それから、躰がまだほてっているらしく、裸のまま立っていき、行灯を点し、桜紙をとって内股をぬぐい、
はんからの贈り物が多すぎたらしゅう、流れてきよりました。もったいない」
艶(なまめ)かしい仕草であった。

すぐに布団に入って語る。

仏道では、5欲として、財欲、色欲、飲食欲、名(みょう)欲、睡眠欲をあげていること、このうち財欲、名欲は少ないほうがよいが、飲食欲はよほどの美食をもとめなければ、生きものならみんな持っているあたりまえの欲だと言った。
魚、獣、鳥を食することを禁じているが、米や芋だって生命を持っているはず---。
理に筋が通っていない。
「色欲は、いまいうた聖欲どす」

月のものがなくなっても、男に抱かれたい気持ちは消えないというし、歯がすっかり抜けて歯茎だけの老婆も誘われればよろこんでしたがうと、母から聞いた、ともいった。

「母上は、お幾つ?」
「47歳にならはりました。父が逝ったのは10年前---うちが15、母(たあ)は37。夜、うちの布団にはいってきて、抱きしめ、太ももにすりつけて耐えてはりました」

そのうち、抱かれるだけの男ができたことは、打ちあけない。

銕三郎のそれを指先でいとしげになぶりながら、幼なかったときの寺子屋の壁に貼ってあった、やったら居残りという注意書きも話した。
「おんな組の壁だけどした。男の子の組には違ったんが貼ってあったんたどす」

一、顔のよしあし
一、着ているもののよしあし
一、家のくらしのよしあし
一、わがままなふるまい
一、男の子のうわさ
一、たんき
一、中ぐち(そしり口)
一、つげぐち
一、むだぐち
一、耳こすり(ないしょ話)

「男の子のうわさ---か。きびしいな」
「6歳から12歳ごろのおんなの子ゥの男の子のうわさたかて、性欲の形が幼ないだけですやろ。それより、おんなの子にとってきついのんは、顔のよしあしと、着ているもののよしあし---どすけど」

銕三郎のものが硬くなったので、
「もう一遍、極楽を感じさせてほしおす---」
「10日後の愉しみにとっておきなされ」
「10日後も、ここで---いまから、待ちどうし」
初めてのときは、ねだった銕三郎を姉ようにたしなめた貞妙尼が、いまは、妹にでもなつたように甘えきっている。

「庵までお送りしようか」
「今夜はここで寝て、ひとりで、なごりをたどります」


参照】2009年10月12日~[誠心院(じょうしんいん)の貞妙尼(じょみょうに))] 
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お断り】あくまでも架空の物語で、貞妙尼も実在の誠心院、泉涌く寺および同派の寺院もかかわりがないことをお含みの上、お楽しみのほどを。

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2009.10.16

誠心院(せいしんいん)の貞妙尼(じょみょうに)(6)

http://onihei.cocolog-nifty.com/edo/2009/10/post-1293.html板壁1枚の長屋なので、貞妙尼(じょみょうに 25歳)は必死に声を殺していたが、房(ぼう)のときよりも姿態は大胆であった。
身もこころも、町女房になりきっていたのであろう、戒を捨ててかかっていた。

起きあがり、母親のものらしい丹前だけをはおり、勝手知った流しの上の棚の酒徳利から飯茶碗に酒を注ぎ、水屋から魚の煮こごりなどをのせた膳を枕元にしつらえた。

「尼午前どのに魚は似合わないが---」
銕三郎(てつさぶろう 28歳)がからかう。
「いまは、町女房どす」
茶碗酒に口をつけた。

「いける口だったのだ。なんなら、このあたりの居酒屋へでも行こうか」
(てつ)はん。お高祖頭巾をかぶってたら、お酒は呑めしまへん。頭巾とったら、墨鏝(すみごて)に、みんながひっくりかえりますやろ」
「そうだった。墨を洗い流して、素顔になったら?」
「このへんの人は、みんな、うちの顔も受戒した経緯(いきさつ)も、知ってはります」
「薬屋町小町だったのだ」

雨戸の隙間から見える外は、暮れかかっているらしい。
銕三郎が飯茶碗を返すと、膳を遠ざけ、丹前を脱ぎ、横にはいった。

はん。墨を塗った貞妙尼を抱いたときと、素顔のうちと睦んだ感じは?」
「墨を縫った貞妙尼へは、すまないという気持ちが強くて、より昂(たかま)ったようだ」
「罪の意識どすか?」
「お(てい)は、初めてのときに痛がゆい---とかいったな。きりきりと締めつけられながら、喜悦を深めているというか---、いけないことをしているという気持ちはあるのだが、それをわざとしていることからとめどなく湧いてくる愉悦というか---」

「うち、はんとこないなってみて、よう、わかりましたんえ。おんなは、このことの愉悦から逃げられられへん---いうことが。躰の仕組みがそないなってるんやと。そんなんでないと、苦労してややを産むはず、おへん。愉悦の結果やさかい、産むんどすえ」

「産んだことがなくて、そういう考えにきめていいのか?」
「愉悦は、こころを許したいとしい男---亡夫やはんだから、躰の芯まで甘美にとろけるのんどす。受戒したからいうて、そうすることを禁じるのは、戒が間違うてます。ほかの人に迷惑かけんと、2人だけで生きてることを喜びあってるいうのんに、仏が口をはさまはるのは出しゃばりいうもんと違いますやろか。うちは学問はおへんけど、躰が感じていることのほうが正しいのんや、おもいます」

声をひそめての、貞妙尼の宗門への疑念であった。

銕三郎は、反論する代わに裸身を抱きよせ、口を吸ってやり、秘所にやさしく触れ、考えていた。

(そういえば、芦ノ湯の湯舟で、まだ縁切りができていない人妻の阿記(あき 22歳=当時)も、似たような自分流のことを言ったなあ)

参照】2008年1月2日[与詩(よし)を迎に] (13

貞妙尼の息づかいが切迫してきた。

はん。好きで好きでしかたがない男の人と交接して、下腹も骨の髄(ずい)も痺(しび)れ、頭の芯を真っ白にさせてもろたら、明日、死んだかてかめへん---それがおんなの極楽行や、おもうのんが、ほんまやおへんやろか」
「髄までしびれてみるがいい」

極楽で果てたまま貞妙尼は、後始末もできないほどであった。

銕三郎も、これまでにない愉悦を究(きわめ)たようにおもえた。

禁じられていることを破るときの恍惚感は、盗人もそうなんではないか。
子どもが、叱られると分かっていて、泥んこ遊びがやめられないのに似ていないか。


参照】2009年10月12日[誠心院(じょうしんいん)の貞妙尼(じょみょうに))] () () () () () (


お断り】あくまでも架空の色模様で、貞妙尼も実在の誠心院、泉涌く寺および同派の寺院もかかわりがないことをお含みの上、お楽しみのほどを。


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2009.10.15

誠心院(じょうしんいん)の貞妙尼(じょみょうに)(5)

「こちらは、誠心寺(じょうしんじ)のご庵主(あんじゅ)はんからの文どす」
左阿弥(さあみ)〕の元締のところの若い衆が、9板目のお披露目(ひろめ)枠のあがり6両(96万円)をとどけにきて、告げた。

金包みのほかに結び文がそえられていた。

〔化粧(けわい)読みうり〕のお披露目料は1両単位だから、商舗からの支払いはすべて1両小判でわたされるが、あとの諸方への払いをおもんぱかる〔左阿弥〕の角兵衛(かくべえ 42歳)は、3両ほどを2朱銀に両替してくれている。
3両は2朱銀が24枚である。

_250明和5匁銀(1万3000円)を半裁にした懐紙にくるみ、
「いつも、ご苦労である。2代目どのに、たしかに---と伝えてくれ」
遣いの若いのは、ほくほくして帰っていった。
いつものことなので、役宅の脇門のことはこころえている。

貞妙尼(じょみょうに 25歳)からの結び文には、

二条油小路の角の茶店。八ッ半(午後3時)。

短かった。
左阿弥〕の若い者(の)を、あまり待たしては怪しまれると気づかいしたのであろう。

最初の交接から7回目の名代料---お布施をお清めする日であった。
(旧暦)2月の中旬で、久栄(ひさえ 21歳)と御室(おむろ)の看桜をあさってに約束していた。

貞妙尼へわたす1両2分(24万円)を包み、2両3分1朱(45万)をいつものように彫り師、刷り職などへ配るように若党・松造(まつぞう 22歳)にいいつけた。
それぞれへ支払う金額は、たびたびのことなので、松造が承知している。

(まつ)。おぬし、彫り師からいくら駄賃をもらっているのだ?」
おもいついて、銕三郎(てつさぶろう 28歳)が訊くと、
「ほんの150文(6000円)ばかり」
虚をつかれた松蔵は、つい、本音を漏らしてしまった。

「駄賃の2重取りはよくない。きょうは、おれからのは、なしだ」
「へえ」
「いままでの分を返せとはいわないから、安心しろ」
咄嗟に恩を着せた。

ありこまっちの8両(128万円)なにがしは、高杉銀平師(ぎんぺい 没年58歳)の墓石代のたしにと、剣友・岸井左馬之助(さまのすけ 28歳)の上総(かずさ)国印旛郡(いんばこおり)臼井へ送金してしまったが、それから3両(48万円)ばかり、手元にたまってきていた。

参照】2009年10月4日[高杉銀平師の死

(そろそろ、久栄の春衣も買ってやらないと---)

C_170二条油小路の角の茶店には、お高祖頭巾(こそずきん)の町女房がいるだけであった。
(早すぎたかな)

町女房から離れた床机に腰をおろそうとしたら、お高祖頭巾がこちらを向いて手まねきした。
目鼻だちから、貞妙尼とわかった。
隣りにかけて、
「どうしたのだ?」
「房(ぼう)では、噂がたちます。寺男の目もあります」
「その衣裳は?」
「娑婆(しゃば)にいたころのものを、あるところに秘しておきました」

茶店の爺ぃが茶をはこんできたので、しばらく、眸(め)と眸をみあわせるだけにした。
貞妙尼の眸は、もう、うるんで、抱いてほしがっている。

老爺がひっこんだので、
「その姿(なり)で庵を出たら目立つだろうに?」
「着替えました」
「どこで?」
「すぐそこ。これからご案内します」

その2軒長屋は、二条城の東---油小路二条上ルの鞘師・三右衛門の看板がでている店の裏にあった。
「うちが、亡夫といっしょになる前に住んでた家どす」
あがってみると、いまも誰かが暮らしているらしく、さっぱりと片づいていて、塵ひとつ見あたらない。

「誰が?」
「母どす」
縫い物で生活(たつき)をたてているのか、裁縫台や物さしが部屋の隅にあった。

「母ご?」
「花園の親戚の家へ泊りがけででかけました」
「悪い娘ごだ」
「いいえ。母も(てつ)はんとのこと、祝福してますんえ」
「添えもしないのに?」
「一人前のおんなが、男けなしの夜ばっかりやと、血の道の通じにもさわりがでるいうて---」

(てつ)はん。見て---」
貞妙尼がお高祖頭巾をとった。
「あっ---」
双頬にかけて、墨を塗っていた。
「焼き鏝(こて)の代わりどす。こうして、み仏に謝りをいれてますねん」
「お(てい)---」
呼びかけを待っていたように、腕の中にとびこんだ。


参照】2009年10月12日[誠心院(じょうしんいん)の貞妙尼(じょみょうに))] () () () () () (


お断り】あくまでも架空の色模様で、貞妙尼も実在の誠心院、泉涌寺および同派の寺院もかかわりがないことをお含みの上、お楽しみのほどを。


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2009.10.14

誠心院(じょうしんいん)の貞妙尼(じょみょうに)(4)

「もう、お戻りにならはらんと---」
貞妙尼(じょみょうに 25歳)は、銕三郎(てつさぶろう 28歳)の乳頭を吸うと立ちあがり、脱ぎすておいた中宿衣(ちゅうしゅくね 襦袢)だけをはおり、隣室の風炉(ふろ)の鉄瓶から湯をみたした手桶に、手拭いをひたした。

みじかい中宿衣のままで紐も結んでいないため、膝をついた中腰になると、薄暗いなかにも豊かな白い尻が露わに出、前のほうは乳房も黒い茂みも銕三郎の側から丸見えであった。

「弁天さまのこの上ないお目見(めみえ)---まさに眼福」
銕三郎の戯(ざ)れ口にも、そういうことが交わせるあいたがらになれたことを喜ぶように、
「さ、尼僧を殺した妖刀を、ここでぬぐいまひょ」

半しぼりにしての手拭いで、銕三郎の下腹から太股の内側まで入念にぬぐい、つづいて堅絞りにしたので水気をき除いた。
貞妙尼のしなやかな指の感覚に銕三郎のものが勃起しはじめると、
「今宵は、いい子して、もう、寝んね。つぎの再会は、10夜の先---」
かがんで、先端をぺろり舐めた。

そのあと、その手拭を半しぼりにして、両股を大きくひらき、内股を拭く。
凝視している銕三郎に嫣然(えんぜん)と、
「亡夫の生前、貧しゅうて、桜紙がもったいのうて、こないして、始末してましたの。亡夫は、見てるうちに催してきはって、せっかくの湯ゥ拭きを無駄にしてはりましたんどす」

「ありがたいご開帳、拙は初めて拝観。そそられ申す」
「ほな---。いえ、あきまへん。10日の宵までお預け---。うちは、み仏にお仕えしている身ィどすよって、白粉はつけてまへん。そやよって、その匂いは移ってぇしまへん」

けっきょく、銕三郎が房(ぼう)をあとにしたのは、五ッ(午後8時)をまわっていた。

もうすぐ(陰暦)2月(きさらぎ)となり、北野天神社などの梅花が見ごろというのに、京洛は、陽がおちるととたんに底冷えがきつくなる。

どこかで、犬が遠吼えをしていた。

情事で躰の芯がほてっていた銕三郎だが、この寒気にくしゃみひとつして、貞妙尼とのなりゆきをおもい返しながら、暗い街をいそぐ。

これまでに、何人かのおんなと肌をあわせたが、今宵のこれは、申しひらきのできないような所業であった。
尼は、「戒(かい)をやぶるんやったら、あとはどうなったかて、かめしまへん。身ィの肉が腐って、こころが痛がゆうなって---ふるえがくるほどに昂(たかぶ)ります」
それは、銕三郎もおなじく自分の中で、自制と戦ってはみたが、どうすることもできないで、踏みだしてしまった。

禁断のおんなを抱いてということでは、〔狐火(きつねび)〕が囲ったお(しず 18歳)とのことがあった。

参照】2008年6月2日 [お静という女] (
2008年6月7日[明和4年(1766)の銕三郎] (

ひょんな拍子でできてしまったが、さいわい、〔狐火〕は、たしなめただけで許してくれた。
もっとも、あれは、銕三郎と〔狐火]の、2人だけのあいだの事件であった。

貞妙尼の破戒に手(?)を貸したということは、全寺院、全信徒---世間を裏切った行いであったことに間違いない。
(それだけに、悪と知りつつはまっていった2人の気分の昂りも、尋常ではなかった)

比丘尼には、具足戒(ぐそくかい)と呼ばれる348ものまもるべき戒(かい いましめ)がある。
とりわけ、淫戒に対してはきびしい。
淫欲は、人間ならだれでも持っているものだからである。

夫が死んだために、その後の身を清く保とうとして誠心院(じょうしんいん)にこもったのに、銕三郎という若者をしったために、2年で破法を犯した。
(23歳で若後家になったおに、淫戒を犯すなというほうが無理なのかもしれない)
銕三郎は、勝手な言い訳をしてみたが、そんなことでは、貞妙尼の悩みはおさまるまい。

10日後に会えば、また、おなじ渕に沈むことは目にみえている。
(さて、おれはどうすべきか)

暗闇が言ったような空耳がした。
(だれも助けにはこないぞ)


参照】2009年10月12日[誠心院(じょうしんいん)の貞妙尼(じょみょうに))] () () () () () (

お断り】あくまでも架空の色模様で、貞妙尼も実在の誠心院、泉湧寺および同派の寺院もかかわりがないことをお含みの上、お楽しみのほどを。


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2009.10.13

誠心院(じょうしんいん)の貞妙尼(じょみょうに)(3)

もたれかかった貞妙尼(じょみょうに 25歳)を支えようとして、背に右腕をまわした銕三郎(てつさぶろう 28歳)は、たっぷりとした乳房が胸を押してくる感触に酔いかけた。

と、脇差の柄頭を避けて躰をあずけていた貞丈尼が、
「お待ちになっとくれやすか」
身をはなした。

「先刻、頼まれた家でお経をあげてきましたよって、白絹の大衣(おおね)のままどす。白やさかい、汚れがついたらわやどす」
大衣をもどかしげに脱ぎ、風炉(ふろ)を仕切った茶室の隣部屋で、箔押しで外側を飾った三衣筥(さんねばこ)の一番上に、きちんと畳んで納めた。

Photo
(三衣筥 『仏教大辞典』 富山房)

身にまとっているのは中価衣(なかげね)というのであろうか、白襦袢 じゅばん)と緋の湯文字だけになった。

「おんなは、そのときになっても、べべのことが気にりなりましてなあ。おかしおすやろ」
目も顔もくずしながら、あらためて、もたれかかる。
「ほんまは、緋は着てはなりまへんのどす。緋衣(ひえ)は高僧はんだけのもんでおます。赤なら許されてますねんけど---でも、湯文字は見せへんよって---」

そのあいだに銕三郎は、正気にもどりかけていたので、両手で貞妙尼の肩を押しもどし、
「仏にお仕えの庵主(あんじゅ)どのを抱くことは、拙にはできませぬ」

「このままでは、わてが寒(さむ)おす。ふとんはいって話しまひょ」

貞妙尼は、さっき僧衣を納めた部屋に、ふとんをのべはじめた。
あわててその手をとめた銕三郎が、
「庵主どのに破戒の罪を冒(おか)さすわけには参りませぬ。さきほどの拙の振るまい、お詫びいたします」

それをやさしく払った貞妙尼は、
「火ィつけたんは、お(てい)のほうからどす。消しはるのは、(てつ)はんのほう」

受戒(じゅかい)前の名がおらしい。

「困った---」
さんと戒(かい)を破るんやったら、あとはどうなったかて、かめしまへん。身ィの肉が腐って、こころが痛がゆうなって---ふるえがくるほどに昂(たかぶ)りますやろ」

銕三郎の袴の結びをぱっとほどき、下へ引きおろしたとき、脇差が尼の腕に落ちた。
「痛ッ!」
「お怪我は?」

かがみこんだ銕三郎に飛びついた貞妙尼は形相は鬼女---そのままふとんに押し倒して、上から口を吸う。
銕三郎も、あきらめて舌をはわせた。

ことが終わり、天井をみあげながら互いのものに手でふれあっていて、
「こうなること、〔左阿弥(さあみ)〕の元締から、お布施のこと、持ちこまれたときから、わかってましたんえ」
「なぜに?」
「慾のない人が好きどすねん。逝った夫も慾のないお人どした」
「拙は、慾がないのと違います。〔化粧(けわい)読みうり〕の板元の名代(みょうだい)料としてお払いしているのです」
「あない、ぎょうさんどすか?」
「ぎようさんかどうかは、考え方のちがいだけのことです」

「お武家はんでないと好きになられしまへん。父も亡夫も処士どしたが、武家の志は捨ててはおりまへなんだ」
「拙はたしかに、お目見(めみえ)をすませた幕臣ですが、部屋住みの身分です」
「せやけど、いずれは出仕しはります」
「それはそうです」

「自分から誘いはるお人は好きになれへんのどす」
「そういえば---」
「なんどす?」
「いえ---」
「おから誘ったんどす」

「仏に申しわけない」
貞妙尼の指がうごく。
「どないもおへん。あの人、かえって喜んでますやろ。ええ人に抱かれて満足やったやろいうて---」

「しかし、拙には、妻子がおる---」
「いうて、よろしか? おこりまへんか?」
「なにを---?」

「〔千歳(せんざい)のお(とよ 25歳)はんとのこと」
「どうして、それを?」
「壁には耳がおます、襖(ふすま)には目がついてます。ふっ、ふふ。〔左阿弥〕の元締はんどす。はんが悪いおなごにつかまってはるって---」
「悪いおなご?」
「知りはらへんのどすか、あの女(ひと)は、怖ぁーいのんのお妾どすえ」
「怖いのん?」
「大盗人(おおねずみ)とか---」
「まさか?」

そういったものの、あれだけのいい場所に店を構えるからには、それ相応の金主がいるとは、銕三郎もおもってはいた。

【参照】2009年7月27日~[千歳(せんざい)のお豊] () () (10) (11


土地(ところ)を仕切っている〔左阿弥〕の元締がいうことだから、まず、まちがいはあるまい。
(いずれ、発覚(バレ)たら、騒動だな)
覚悟はしていたものの、
(〔円造(えんぞう 60すぎ)元締は、なぜ、そのことを、貞妙尼にいわせようとしたのか?)

(そうか。〔化粧(けわい)読みうり〕の名代人に、貞妙尼を推したときからの道筋だったのか)

銕三郎は、貞妙尼に腕をまわし、上から耳元にささやく。
「地獄へ、いっしょに落ちよう」
「いえ。極楽へ、どすやろ。うれしゅおす」
襦袢も湯文字も、すでに脇へほうり投げてある。
銕三郎も裸になっていた。
貞妙尼は束ねていた布もとっているので、長い髪が枕の先にまでひろがり、生きもののように波うちはじめた。

参照】[貞妙尼(じょみょうに)の還俗(げんぞく) () () () () () () () (10


参照】2009年10月12日[誠心院(じょうしんいん)の貞妙尼(じょみょうに))] () () () () () (


お断り】あくまでも架空の色模様で、貞妙尼も実在の誠心院、泉涌寺および同派の寺院もかかわりがないことをお含みの上、お楽しみのほどを。

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2009.10.12

誠心院(じょうしんいん)の貞妙尼(じょみょうに)(2)

絵師・北川冬斎(とうさい 40がらみ)のところへ2板分の画料として2分(8万円)、彫り師に1両3分(28万円)、刷り職に3分(12万円)、紙屋へ1分1朱(5万円)、誠心院の貞妙尼(じょみょうに 25歳)に約束の1両2分(24万円)を配ってきた若党・松造(まつぞう 22歳)に、駄賃として1朱(1万円)わたした。
(多すぎたかな。ま、京は物の値も高いからな)

参照】2009年8月26日[化粧(けわい)指南師・お勝] () 

銕三郎(てつさぶろう 28歳)の手元には、1両(16万円)ぽっきりしかのこらなかった。
しかし、貞妙尼へ利益の半分---1両2分板を重ねるごとに奉納することになってから、京極一帯を取り仕切っている〔左阿弥(さあみ)〕の力の入れようが、一段と強まった。
月に3板ではものたりない気分のようである。

参照】2009年10月1日~[姫始め] () (

「若。誠心院さんがご不満のようでした」
松造が、あたりを気にくばりながら告げた。
「きっちり、1両2分、包んだはずだが---」
「そのことじゃ、ねえんで---」
松造には、探索のこともあるから、武家ことばは、京では使わなくてもいいと申しわたしてある。

「なにが不満なんだ?」
「初回(はな)にお布施をお持ちにならはったきり、お見えにならへんよって、お礼のこころがとどきまへん---と、こういうてやした」
「お礼なら、(まつ)からきっちり聞いておる」
「気がおさまらないんでしょうや。なにしろ、大金でやすから---」

「わかった。しかし、あの能面づらは、鬼門なのだ」
「能面づら---?」
「にこりともしない」
「そんなことはありやせん。あっしがお布施をお渡しすると、もう、顔中の笑顔でお受けになりやす」
「顔中の笑顔---信じられぬ」
「次に、若がご自身でご持参になれば、あっしが嘘をいってねえってことが証明されやす」

銕三郎は、半信半疑でいたが、気分がすっきりしないため、七ッ(午後4時)すぎに誠心院へ足を向けた。
西の嵐山の上の雲が夕焼けしている。

夕べの勤行らしく、経があげられていた。
謡うような抑揚の、美しい誦経(じょきょう)である。
仏頂面から発している声とは、とてもおもえない。

しばらく聞きほれていたが、意を決めておとないを乞うた。

読経がやみ、
「どなたはんどす?」
振りかえり、銕三郎を認めると、満面に笑みをうかべ、
「おこしやす」
立って本堂の上がり口へでてきた。


きょうは白の僧衣をまとってい、薄暗い本堂にもかかわらず、白い顔が透(すきとお)て見えた。
(表情がうごくと、能面どころか、きわめて美形だ)

「使いの者から聞きましたゆえ、参じました」
「お待ちしとりましたんえ。房(ぼう)のほうでお話ししまひょ」

横の裏戸が房へつながっているから、履物をもってあがれといい、手ぎわよく須弥壇(しゅみだん)まわりを片つ゜けていった。

堂の戸締りをし、房への通路へ手をとるようにして導いた。

「先(せん)は、表の玄関からでしたが---」
そういった銕三郎に、
「男封じの、秘密の逃げ道どす」
いたずらっ子のように、肩をすくめ小舌を見せて笑った。

「突然、うかがいまして---」
謝ると、これがこの前の能面づらと同じおんなかと目を疑うほどに表情をくずし、
「いつも、ぎょうさんなご寄進をしてくれてはるのに、なんの遠慮もいりまへん。いつかて、大喜びでお迎えしますえ」
薄ぐらい部屋で双眸(りょうめ)が生き生きと輝き、艶っぽい笑みを絶やさない。

行灯に灯(ひ)がはいり、気をゆるした顔は、銕三郎が思っていたよりふっくらとしており、、るかに美人であった。

「先日、〔差阿弥〕の元締とうかがったときには---」
「不満顔は、男除(よ)けどす。そのために仏道にはいりましたんやさかい---」

夫が病死したとき、葬儀もすんでいないのに、妾話がしつこく持ちこまれたということであった。
難のがれのつもりで得度したが、こんどは、僧たちが入れかわり立ちかわりで口説きにきているのだと笑った。
「うちにはその気ィはみじんもおまへんのに、名ァのある名刹の高僧はんかて、誘いにきやはるのどす、大仰なことどす」

あまりにうっとうしいので、本山の門跡・泉湧寺(せんゆうじ)へでもはいろうかとおもったこともないではなかった。

C_360
(誠心院の本山・泉湧寺 『都名所図会』 塗り絵師:ちゅうすけ)

「でも、あそこへはいってしもたら、不自由やろと---」
「不自由---?」
「都のはずれどすし、戒もきびしゅうて、こないして、銕三郎はんとおおっぴらで会うこともでけしまへんやろ?」
艶(なまめ)かしい眸(ひとみ)で見上げる。

泉湧寺は、下京区今熊野に現存している。

寺名を聞き、銕三郎は、雑司ヶ谷の料理茶屋〔橘屋〕忠兵衛から聞いた、近くの下落合・泰雲寺の故事をおもいだした。

泉湧寺門前の骨董舗〔くずやま〕のむすめが、夫に死なれ、高僧智識・白翁和尚に入門を願ったが断られた。
美貌すぎる---が理由であった。
おんなは、焼きごてで顔を焦がし、ついに、許されたという。
授戒ののちの法名を、了然尼といった。

378
(泰雲寺故事 『江戸名所図会』 塗り絵師:ちゅうすけ)

いける世にすててやく身やうからまじ
 終(つい)の薪とおもわざりせば  了然 


故事を貞妙尼に話すと、
(てつ)はん、うちが顔を焼きごて傷つけていても、きてくれはりましたか?」
もとの能面づらをしてみせた。

能面づらのまま、つづけて、
「先だっては、元締はんがいやはりましたんで、わざとそっけのうしときましたんどす。気ィ悪うしはったんやったら、かんにんどす」
銕三郎がなにか言おうした途端、その唇を指でふさぎ、さらに左右になぞる。

感じてきた銕三郎は、衝動的に指をくわえこみ、舌でまさぐり、軽く噛み、吸った。
「うれしおす」
貞妙尼が、躰をあわせてきた。


参照】2009年10月12日[誠心院(じょうしんいん)の貞妙尼(じょみょうに))] () () () () () (


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2009.10.11

誠心院(じょうしんいん)の貞妙尼(じょみょうに)

(おや、さげ尼どのか---)
貞妙尼(じょみょうに 25歳)が深ぶかと頭をさげたとき、黒縮緬(ちりめん)の頭巾の後ろから、同じ布地で束ねた長い黒髪に目にとめた銕三郎(てつさぶろう 28歳)は、胸のうちでひとりごちた。

さげ尼とは、有髪の比丘尼をいう。
銕三郎の時代には、増えていた。

_360
(誠心院 『都名所図会』部分)

顔をあげ、表情で察した貞妙尼は、仏に仕える尼はみんなこうか---とおもわすような動きのほとんどない双眸(ひとみ)を真っすぐに銕三郎にそそぎ、
「さげ尼やいうんで、おどろかはりましたやろ。亡夫が、この髪が好きやいうてくれてましたよって、おもいきれまへんのどす。往生ぎわの悪いことでおます」
「美しいお髪(ぐし)と感嘆したところです」
「おじょうずいわはります」
ぴくりとも微笑まずにいう。

眸や眉の動きはあいかわらず止まったままだが、やわらかな京弁が、なんとなくちぐはぐな感じを添えた。
能面と話している気分とでもいおうか。
もっとも、銕三郎は能面と話したことはないのだが。

(面高で、色白で、美しい女(ひと)なのだが、成熟したおなごの艶(つや)がない。〔左阿弥(さあみ)〕の元締は、色ごころ抜きの後ろ楯といったが、これなら、わかるような気がする)

横の円造(えんぞう 60すぎ)が、ふところからだした袱紗(ふくさ)をひらき、2ヶの金包みを銕三郎の前に押し、
「最初(はな)から、別(わ)けさせてもらいました。長谷川はんから、小さいほうの包みを、庵主(あんじゅ)はんにお清めねがっておくれやすか」

大きい金包みは、〔化粧(けわい)読みうり〕のお披露目枠の売り上げ8両(128万円)から、角兵衛(かくべえ)との取り決めができている仲介手間料の2両(32万円)を差し引き、さらに誠心院(じょうしんいん)へのお布施の1両2分(24万円)を小包みにした、のこりの4両2分(72万円)と、承知している。

参照】2009年8月26日[化粧(けわい)指南師・お勝] () 

そこから、絵師・北川冬斎(とうさい 40がらみ)、さらには彫り師や刷り職、紙の代金などをはらうと、銕三郎のとり分は1両ちょっとになる。

「お清め、お願い申しあげます」
銕三郎が差し出した包みを受けとるとき、貞妙尼の指が触れた。
と、躰中に稲妻がはしった。
淫情ではなかった。
撃たれたような衝撃であった。
たとえていうと、高杉道場で、銀平師が振りおろした木刀が眉間の半寸(1.5cm)のところでぴしゃりと止まったときに覚えるような衝撃といっておこう。

そのとき銕三郎は、貞妙尼がわざと触れたとはおもわなかった。
尼は無表情である。
(躰が動くところをみると、血は通っているらしい)

立ち直って、
「じつのところは、絵師や彫り師への支払い分も、すべて庵主どのの手からお支払い願おうかと存じましたが、それではあまりに恐れ多いので、拙のほうで仕切らせていただくことにしました」
「造作、おへんのに---」
「いや---」
銕三郎は、次の言葉がでない。

「粗茶を進じますよって、隣りの房(ぼう)のほうへお直りを---」
紙包みを仏壇へ載せ、さっと念仏を唱えてから、ふところへ移し、
「ねずみに盗(ひ)かれてはなりまへんよってに---」
冗談とも本気ともつかない口調でいい、眸(め)を銕三郎にそそぎ、
「房へは、ほんまは、男はんは入れしまへんのどす---けど、きょうは別どす」

房とは、尼の住まいをいう。

戸口は鍵が3ヶ所もかかる、厳重な仕掛けになっていた。
一つひとつを解きながら、
「み仏にお仕えしてる身ィやのに、誘わはる男衆はんがたえへんのどす」

貞妙尼が夜を怖がったので、屋根に隠し鐘楼をもうけ、房の綱を引くと鳴りひびく仕掛けをしたと、円造が口をそえた。
綱は、房のあちこちにさがっている。
「み仏が護ってくれはってるせいか、綱牽(ひ)くような、ひどいことには、まだ、なってェしまへんけど」

貞妙尼は、比丘尼の作務衣にあたる黄色の直裰(じきとつ)の裾をさばいて亭主の座についた。

直裰とは法衣である。
腰のあたりからの下の裳(も)に襞(ひだ)がよせられている着物とおもえばいい。

房の茶室ふうの小部屋では、風炉(ふろ)の灰をほじると、赤くなっていた炭が身があらわれ、貞妙尼の眸(め)に点のような赤い灯を映した。
銕三郎には鬼女が尼がに化けたかとおもえ、さっき貞妙尼の指が触れた手首を、気づかれないように、あらためたが、:気配はなにものこってはいなかった。

それを、茶筅をあやつっている尼が目じりとらえ、かすかに微笑んだのを、銕三郎ほどの剣の上手も見逃してしまった。
動かない表情は、演技であったのだ。

湯はすでにたぎっている。

作法どおりに茶をたて、まず、円造にすすめながら、
「こないになんども、かまわれるんやったら、いっそ、比丘尼御所へてもはいってしもたら、おもいますねんやけど、不自由やろと、二の足ふんでます」
「町奉行に言いつけて、夜廻りをきびしくさせましょう」
「おおきに。銕三郎はんの父(とう)はん、お奉行はんどしたなあ」
貞妙尼が、苗字でなく、名を口にしていることの意味あいも、銕三郎は気づかなかった。
気があがっていたのである。

「お寺さんの公事(くじ)をあつかう、西組です」
「そない、元締はんからうかがいました。ええお方とご縁がむすばれて、ほんま、うれしゅおす」

銕三郎の前に茶碗を進め、
銕三郎はん。これからもよろしゅうにお願い申します」
「こちらこそ---」
茶碗を持つ手がほんのわずかだが、ふるえていた。
礼法どうりにゆすることでごまかしたつもりだが、比丘尼は見とっていた。


ちゅうすけ注】
_360
誠心院(中京区中筋町)が面している心新京極はアーケードの商店街としてにぎわっている。寺が通り側の地所を貸しているのであろうか。
誠願寺の塔頭であったか。真言宗泉湧寺派。

_360_3

_360_5
(前段部を拡大)

案内板の〔誠心院〕につけられてふりがなは「せいしんいん」となっているが『都名所図会』も平凡社『日本歴史地名大系 京都市』も「じょうしんいん」なので、銕三郎時代にかんがみ、「じょうしんいん」をとった。


参照】2009年10月12日[誠心院(じょうしんいん)の貞妙尼(じょみょうに))] () () () () () (


お断り】あくまでも架空の物語で、貞妙尼も実在の誠心院、泉涌寺および同派の寺院もかかわりがないことをお含みの上、お楽しみのほどを。

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2008.12.12

初お目見が済んで(1b)

よく気のつく人なら、前回のタイトルにくっついている(1a)を目ざとくみつけて、「いったい、なんなんだ?」とおおもいになったかもしれない。

いや、遊びがすぎると言われてしまうとそれまでなんだが、史実ふうでもあり、読み手の独断ふうでもあり、小説めかしてもおり、ルポふうでもあるこのブログ---つまり、なんでもありってこと。

で、小説ふうなら、虚構の世界だから、あれくらい、すっ飛んでもいいかな---と。

しかし、史実はおさえいていることは、おさえている。

初お目見えとか、家督相続とか、昇進とかの吉事の申し渡しのための召し状がくると、親類中に奉状をくばり、当主たちが麻裃で下城してくる当事者を式台で迎える習俗があったってことは、『徳川盛世録』(東洋文庫 1989.1.23)に書かれている。
書き手の市川正一さんは、幕府に仕えていた仁で、明治政府では民法編纂局の主要な吏員であったらしい。

さて、前回の、長谷川銕三郎(てつさぶろう 23歳)の初見を内祝いする席に、綾小路(あやのこうじ)静麻呂(しずまろ)卿の使者に扮して〔中畑(なかばたけ〕のお(りょう 29歳)とお(かつ 27歳)があらわれる突飛な趣向は、池波さん『雲霧仁左衛門』(新潮文庫)の七化けお千代から借りた。

いや、ちゅうすけ自身も、いささか酔狂がすぎたか---とは、自省していないこともない。
でも、ジェットコースター・ストーリー作家なら、あの程度の飛躍はふつうなんだが。

綾小路というお公卿(くぎょう)家も、じっさいにあった。
知行は200石。まあ、貧乏公卿。
その後裔と会話をかわしたこともある。

が、もすこしまともな線を、(1b)としてみた。
(a)がいいか、こちらの(b)のほうがお好みか、アクセスなさっているあなたのをご感想をコメント欄にいただけたら、望外のよろこび。

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明和5年(1768)12月5日、江戸城・山吹の間の椽頬(えんがわ)での、将軍家治による初見(しょけん)を無事におえた銕三郎(てつさぶろう 23歳)は、願い人の父・平蔵宣雄(のぶお 50歳 先手・弓の8番手組頭)、供侍・桑島友之助(とものすけ 35歳)などの供ぞろえたちと屋敷へ帰ってきて、驚いた。

宣雄が手配した奉札(ほうさつ 公儀からの吉事の召し状---銕三郎の初お目見---を知らせる廻状)を配られた親戚の当主たちが、麻裃姿でずらりと式台に並んで迎えてくれていた。

宣雄たちがあがると、口々に、
「ご祝着(しゅうちゃく)、ご祝着---」

と称えてくれたのはいいが、いちばん奥にひかえていたむすめが、
「ご祝事にございます」
と、顔をあげた。
久栄(ひさえ 16歳)ではないか。
さすれば、その横の初老の武士は父親・大橋与惣兵衛親英(ちかふさ 55歳 200俵 西丸・新番与頭(くみがしら))であろう。

参照】2008年9月27日~[大橋与惣兵衛親英] (1) (2)

用人・松浦与助(よすけ 52歳 先代)が、したり顔で、
大橋の与頭さまのお席は、殿の隣に、久栄さまを銕三郎さまとならべておきました。よろしゅうございましょうか?」
宣雄は、
(それでいい)
というように、うなずく。

会食の膳がしつらえてある客間へ一同を案内してから、銕三郎が父・宣雄を廊下の隅へいざない、
「どういうことでございますか?」
(たえ 43歳)と相談して決めたことだ。いつまでも独り身でいては、世間体が悪い。痛くもない腹をさぐられもする。幸い、久栄どのは、の意にもかなっておる」
「しかし、拙の気持ちもお聞きにならないで---」
久栄どのが嫌いなのか?」
「いえ。それは---」
「武家の嫁とりは、好いた、惚れた---ではすまぬ。それは、草双紙の世界の話じゃ」

銕三郎には、久栄への気持ちを、父と母はどこで見抜いたのであろう、と推量してみたが、どうにも訳がわからなかった。
まさか、〔五鉄〕の三次郎が告げ口したともおもえない。
(そうか、おまさ(13歳)とお(14歳)か)

ちゅうすけ注】父・宣雄が、老僕・太作(たさく 62歳)にひそかに言いつけて、〔盗人酒屋〕の忠助(ちゅうすけ 40代半ばすぎ)とおまさ、それに永代橋ぎわの居酒屋〔須賀〕の亭主・〔風速(かざはや)〕の権七(ごんしち 36歳)から、銕三郎のあれこれを聞きとっていることを、銕三郎は知らなかった。忠助権七も、銕三郎が人の道をふみはずさないようにという宣雄の親ごころを年配者らしく汲みとり、久栄のことを善意からもらしていたのである。

参照】2008年3月19日[於嘉根という女の子] (1)

宴会の席へ入ると、銕三郎久栄に軽く目くばせして隣に座った。
主座・本家の長谷川太郎兵衛正直(まさなお 59歳 1450石 先手・弓の7番手組頭)になにごとか耳打ちしてから、宣雄は一同に酌をしてまわり、下座へ正座するや、横に銕三郎を呼んで座らせた。
きょうの初見が格別のこともなくに推移したこと、ご来駕に感謝していることを述べたあと、あらたまって、
(てつ)の嫁ごに、大橋家の三女・久栄どのを申しうけることとなったので、あわせてご披露いたす次第---」
と報じた。

納戸町の大伯母・於紀乃(きの 69歳)の養子で、分家でもっとも家禄が高い久三郎正脩(まさひろ 58歳 4070石持筒頭)が訊いた。
「どのようなご縁かの?」

宣雄にうながされて、銕三郎は、久栄のほうを見ないようにしながら、
「納戸町の於紀乃・大叔母さまのお言いつけで、甲府へ行く途中、深大寺へ参詣したときにお会いしたのです」
「ほう。すると、わが家の於紀乃・母者が縁結びの神というわけかの?」
久三郎正脩が大きくうなずいたとき、久栄がすっくと立ち、銕三郎の横へぴたりと座って言いはなった。

参照】2008年9月7日~[〔中畑(なかばたけ)〕のお竜〕 (2) (3)

銕三郎さまは、大切なことをおぼかしです。深大寺で、ただ、お会いしただけではございませぬ」
久栄の頬に赤みがさしていた。
「供の者が財布を掏(す)られました。それで、姉の希望の深大寺蕎麦が求められなくて困っていたとき、銕三郎さまがおあしをお貸しくださいました。いいえ、それだけなら、嫁入りしようとまでおもいませぬ。その掏摸(すり)---〔からす山〕の寅松(とらまつ 17歳)が銕三郎さまにすっかり心服して、財布を返しに、からす山くんだりからから、わざわざ、出てまいったのです。掏摸まで心服させておしまいになるほどのお方だから、私の一生を託すのはこの方と、きめたのでございます。長谷川一門のみなさま、どうぞ、これからもよろしゅうお導きくださいますよう、お願い申しおきます」

参照】2008年9月19日~[大橋家の息女・久栄(ひさえ)] (1) (2) (3) (4) (5) (6) (7) (8)

「なるほど。銕三郎は、むすめごのこころまで掏りとったか」
久三郎が、下手なしゃれをつぶやいた。
久栄が、久三郎をきっと見据え、
「納戸町の久三郎叔父さまでございますね。銕三郎さまがお掏りとりになったのではございませぬ。久栄のほうから乙女ごころをさしあげたのでございます」
「失言々々。取り消しますぞ。いやあ、わが家の於紀乃婆(ばば)さまよりしっかりしたむすめごだわ」

本家の太郎兵衛正直がとりなした。
長谷川一門が今日(こんにち)あるのは、おなご衆がみなしっかりしているためでありますぞ。これで、平蔵どのもひと安心というもの。めでたやな、めでたやな」
その声を合図に、一同は裃をはずし袴(はかま)も脱いでそれぞれの供の者へわたし、くつろいで呑みはじめた。
ここからが、ほんとうの内祝いである。


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2008.12.11

初お目見が済んで(1a)

明和5年(1768)12月5日、江戸城・山吹の間の椽頬(えんがわ)での、将軍家治による初見(しょけん)が無事をおえた銕三郎(てつさぶろう 23歳)は、願い人の父・平蔵宣雄(のぶお 50歳 先手・弓の8番手組頭)、供侍・桑島友之助(とものすけ 35歳)などの供ぞろえたちと屋敷へ帰ってきて、驚いた。

宣雄が手配した奉札(ほうさつ 公儀からの吉事の召し状---銕三郎の初お目見---を知らせる廻状)を配られた親戚の当主たちが、麻裃姿でずらりと式台に並んで迎えてくれていた。

宣雄たちがあがると、口々に、
「ご祝着(しゅうちゃく)、ご祝着---」
と称えてくれたのはいいが、いちばん奥にひかえていた﨟(ろう)たけた女官ふうの2人が、
「ご祝儀にございます」
と、顔をあげた。

なんと、女官と侍女に化けていたのは、〔中畑(なかばたけ)〕のお(りょう 29歳)とお(かつ 27歳)ではないか。

参照】[〔中畑(なかばたけ)〕のお竜〕 (1)  (2) (3) (4) (5)  (6) (7)  (8)
2008年11月1日~[甲陽軍鑑] (1) (2) (3)
2008年11月16日~[宣雄の同僚・先手組頭] (7) (8) (9)
2008年11月23日[〔五鉄〕のしゃもの肝の甘醤油煮
2008年11月24日[〔蓑火(みのひ)〕一味の分け前
2008年11月25日[屋根船
2008年11月27日[諏訪左源太頼珍(よりよし) (3) 

用人・松浦与助(よすけ 52歳 先代)が、気もそぞろに、
「なんですか、中納言・綾小路(あやのこうじ)静麻呂(しずまろ)卿が、わざわざ、都(みやこ)からご祝儀のご使者をおつかわしくださいまして---」

会食の膳がしつらえてある客間へ一同を案内してから、宣雄銕三郎を廊下の隅へ引きよせ、
「どういうことだ?」
「先年、箱根宿の本陣〔川田〕角左衛門方へ宿泊したとき、たまたま、綾小路卿と同宿になりまして---」
「それだけのご縁で、わざわざ、お祝いの女官をお寄こしくだされたのか。恐れおおい---」

銕三郎には、綾小路は、すなわち、〔狐火(きつねび)〕の狐の化けぶりを、おが演じているとわかってはいたが、まさか、両人の正体をあかすわけにはいかない。

ちゅうすけ注】このときから4年後に、宣雄が京都西町奉行として赴任、綾小路という公家には静麻呂などという仁は存在していないことが発覚(ばれ)るとは、銕三郎もおも予想もしていなかった。

宴会の席へ入ると、おとおは、主座・本家の長谷川太郎兵衛正直(まさなお 59歳 1450石 先手・弓の7番手組頭)の左隣に座らされて話しこんでいて、銕三郎は脇の下に冷や汗をにじませた。
太郎兵衛の右隣は、銕三郎のいう納戸町の大叔母・於紀乃(きの 69歳)の養子で、分家でもっとも家禄が高い久三郎正脩(まさひろ 58歳 4070石持筒頭)で、おたちをしきりに気にしている。

宣雄が、初見がとどこおりなくすんだこと、内祝いにお運びいただいたことの礼をのべ、酌をしてまわると、それぞれが綾小路卿とのつながりを聞きたがった。

宣雄にうながされた銕三郎が、おのほうを見ないようにしながら、箱根宿での邂逅のことを説明しおえると、おが居ずまいを正し、鈴がころがるような声で、
「わらわは、竜子局(りゅうしのつぼね)と申しまする。いま、銕三郎公子(きんだち)がのたもうた静麻呂卿との箱根のこと、卿は、銕三郎公子のご器量にいたく御感(ぎょかん)をおほしめし、公子がご当家のご継嗣(けいし)であらねば、照姫(てるひめ)の婿どのにともお考えにもなられたと洩れうけたまわっておじゃりまする。おめでたいお席に、いたらぬことをお告げいたしたこと、ひとえに、お許したも、銕三郎公子」

もう、やんやの拍手であったが、銕三郎は、脇の下はおろか、躰中に冷や汗を感じいた。
そのさまを、おがにんまりと眺めている。

さすがに宣雄は、
(おかしい)
と悟ったようだが、内祝いの席でもあるから、おに最後まで芝居をさせておく気になっていた。
め。どこまで、おんな運をひろっているのか)

それぞれがおに酌をしようとたちかけたとき、用人・松浦が、
「お局さま。お迎えのお駕籠がまいっております」

とおは、あくまでもしとやかに、しずしずと去っていった。

本家の太郎兵衛正直が、感に耐えたような口ぶりで、
銕三郎。この齢になって、初めてお公卿(くぎょう)に働く女官と言葉を交わしたが、なんともいえぬ気品よのう」
久三郎も齢甲斐もなく頬をそめ、
「それにしても匂いたつような美形だったな。いや、けっこうな眼福であった。銕三郎、礼を言うぞ」

(これで、親類中から嫉妬される)
銕三郎は、ますます、ちぢみあがっていた。
(それにしても、おめ、大胆不敵! なにが綾小路だ。竜子局と申しまするだ。静麻呂とは聞いてあきれたわ)

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2008.08.21

〔橘屋〕のお仲(8)

「叔母上。申し送った件についての、甲府勤番から調べ書が参りました」
納戸町の於紀乃(きの 68歳)の許(もと)へ、銕三郎(てつさぶろう 22歳 のちの鬼平)が報告にきている。

_360_2
(市ヶ谷・納戸町の長谷川久三郎(隠居・於紀乃)邸)

於紀乃の甥で、9年越し、勤番支配という要職を勤めている八木丹後守補道(みつみち 54歳 4000石)への添え状を乞うたとき、
銕三郎どの。探索の実(みの)りは、かならず、報らせてたもれ。面白うて、久しぶりに、なんだか、わくわくくしてきたぞえ」
念を入れられた。

参照】2008年8月18日[〔橘屋〕のお仲] (5)

伝太郎は、きちんとやってくれたかや?」
伝太郎とは、丹後守補道の、元服前の幼名である。

従五位下の爵位をもつ甥を、幼名で呼び捨てにできるのは、もっとも縁近い叔母なればこそ。
いま54歳の甥・丹後守補道も、於紀乃の中では、自分が長谷川久三郎正誠(まさざね 享年=69歳 4070石)に嫁(とつ)いできた49年前の、5,6歳のあどけない姿が、まず、おもいうかぶのだ。

「さすが、叔母上の一筆がものを言いました。古府中(甲府城下)あるすべての印伝革の細工所をくまなくお調べくださいました」
「勤番支配として、そんなことは、あたりまえのことじゃて。して、盗賊どもは捕縛できたのかや?」
「いえ。このたびの調べは、前に申しあげましたごとく、盗人が用いた印伝革の細工所を見つけるためで---」
「見つけたのであろう?」
「はい。穴切(あなきり)社の参道ぞいに店をかまえている〔穴切屋〕惣右衛門という店が注文を受けておりました」

於紀乃は、膝をのりだして、顔をしかめた。
動くと、膝痛がおきるのであった。
痛みが鎮(しず)まるまで待ち、
「その店は、注文者のところと名を手控えていたであろうが---」
「偽(いつわ)りの村と、名でした」

「なんという、間の抜けたことを。考えてもみやれ、銕三郎どの。その注文者が、注文をだしたきり、引きとりにこなかったらどうするつもりだったのじゃ。前金でもとっておいたのかえ?」
「いいえ。さいわい、注文者は、引き取りにあらわれて、すんなり支払いました」

歯のない口での言葉だけに、なかなかに聞きとりにくいが、銕三郎は、要領よく意味を汲みとっている。
ただ、力むたびにつ唾(つばき)が飛ぶので、すこしずつ引いている。
その分、於紀乃が膝を気にしながらにじみでる。

「ええい、じれったい。つまり、まんまと、取り逃がしてしまったのかや?」
「伯母上。5年前のことです」
「5年前? 伝太郎が勤番支配として古府中へ行かしゃったのは、9年も前でありましたぞい」

「盗人のことが分かったのは、つい、先だってのことで---」
「ほんに、そうじゃった。銕三郎どのは、これから、どう、手をお打ちなさるお積もりじゃ? まさか、これで幕引きにするつもりではなかりましょ?」

「もう一度、八木丹後さまへ、添え状をいただけましょうや?」
「おうおう、いくたびでも書きましょうとも---」
「このところの、人の出入りを調べていただこうとおもいます」

銕三郎は、於紀乃には打ちあけなかったが、甲州路の関所---勝沼から1里(4km)ほど江戸寄り---靍瀬(つるせ)の女改めの関所に注目している。
女賊・おが江戸から呼び戻されたとして、この関所を通りぬけないためには、駒飼(こまかい)か笹子峠の手前の阿弥陀宿あたりの盗人宿にひそんでいるとみたのである。

_360_3
(甲州路 勝沼--(靍瀬関所)--駒飼・阿弥陀
岸井良衛『五街道細見』青蛙房の付録地図より)

そのあたりを、八木丹後守の配下に調べてもらいたかった。

ちゅうすけ注】パラすと、銕三郎のねらいは外れていた。〔初鹿野(はじかの)〕一味がもうけていた盗人宿は、なんと、富士川ぞいの身延に近い角打(かどうち)であった。このころ、盗賊たちとの知恵くらべには、銕三郎も、まだ、およばないところもあったのである。

銕三郎どの。こうしてはどうかの。銕三郎どの自らが甲府に出張られては? この結末を見るためなら10両(ほぼ150万円)でも、20両(300万円)でも、惜しょうはない。冥土へは持っていけない金じゃもの。わらわが払いますぞえ」

銕三郎
の頭に、肉(しし)置きのよくなってきたおの躰がうかんだ。
(いま、5の日ごとの師範を中断するわけにはいかない)

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(国芳『江戸錦吾妻文庫』部分 お仲のイメージ)

「すぐには、かないませぬ。いずれ、お願いにあがります」
お仲が消えると、代理として行けそうな〔相模(さがみ)〕の彦十(ひこじゅう 32歳)と〔風速(かざはや)〕の権七(ごんしち)の、どちらが適役か、思案をはじめていた。

参照】[〔橘屋〕のお仲] (1) (2) (3) (4) (5) (6)  (7)

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2008.08.20

〔橘屋〕のお仲(7)

「お父上には、感動いたしました」
(なか 33歳)がいつもの部屋で、早くも帯を解きながら、団扇で風を入れている銕三郎(てつさぶろう 22歳)に言った。

膳がさげられ、水菓子(くだもの)の冷やした真桑瓜(まくわうり)が終わったころあいに、〔橘屋〕忠兵衛(ちゅうべえ 50がらみ)が女中頭・お(えい 35歳)を伴ってあらわれたときのことである。

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(雑司ヶ谷 鬼子母神脇の料理茶屋〔橘屋〕忠兵衛
『江戸買物独案内』第3編 飲酒の部 文政7年刊 1824)

どの。今宵は、久しぶりに、舌にはこの上なき贅沢、胃の腑には常にないほどの苦役を課させていただいた。厚くお礼を申し上げる」

参照】長谷川平蔵宣雄と〔〔橘屋〕忠兵衛のなれそめは、2008年8月4日[〔梅川〕の仲居・お松] (4)
忠兵衛が手をふってそれをさえぎりながら、おに、平蔵宣雄(のぶお 49歳 先手頭)の馬、内妻・(たえ 42歳)の駕籠の手配を言いつけた。

そのときである、宣雄が、おに向かって言葉をかけたのは---。

「おどの。実(じつ)の入ったご給仕、かたじけのうござった。奥ともども、礼を言わせていただく。は、もちろん、残しておきます。ついては、の父として、ひと言、つけ加えさせていただきたい」

もだが、銕三郎も緊張した。

「奥のを見る目ももっともなれど、わしは、いささか、異なった見方をしており申す。この機会だから、聞いてくだされ。のこれまでの乏しいおなご歴を仄聞するに、のほうから口説いた例はござらぬげな---。いずれも、おなごの側から持ちかけてきていたと、察しております。これは、わしにはなかった、の、徳でござる。男がおなごを口説けば、それだけ、弱みを見せもし、握られもするわけで、失脚のタネもそこからはじまることが多いようiにも---。おどのとすれば、に、ほかのおなごが言い寄ってはと---心配でもあろうが、そのような浮わついた男には育てなかったと、父は信じており申すゆえ、安心して、よろしゅうに師範してやってくだされ」

これで、忠兵衛には、銕三郎とおが公認となり、銕三郎には、釘を一本さしたも同然であった。
結果、こうして、あの部屋が、早やばやとあけられもした。

もっとも、銕三郎は、14歳のときの三島宿の本陣・〔樋口〕伝左衛門のみちびきでお芙沙と出会えたのも、父の気くばりと納得できたのだが---。

参照】2007年7月16日[仮(かりそめ)の母・お芙沙(ふさ

ちゅうすけは考えるのだが、もし、平蔵宣雄ときわめて親しい仁が、
「どうして、あのような科白(せりふ)を---?」
と問いつめたら、たぶん、宣雄はこう、答えたろう。
「嫁取り寸前の若者は、ふつう(常識人)なら、30おんなには手をださない。切れるときに苦労するからな。しかし、は、切れるときのことはおもんぱかることなく、おんなというものを究(きわ)めておこうと、夢のようなことに賭けたのであろうよ。究(きわ)めても究(きわ)めても、究(きわ)めつくせるはずのないものを---。しかも、困ったことに、気性だとて躰だとて、一人ひとり、千差万別だしね」

銕三郎が、父・宣雄のおもうとおりに存念してのことであったかは、思案の外であるが---。
ま、おを有頂天にさせたことだけはたしかである。

寝着をまとったおは、栄泉をひらいて、銕三郎に微笑みかけている。
「さあ、こんどは、さんが感じさせてくださる番ですよ」

_360_2
(栄泉『艶本 ふじのゆき』中扉 部分)

銕三郎横山時蔵(ときぞう 31歳 火盗改メ・遠藤組同心)は、ニ之橋をわたったいつものお(くま 44歳)の茶店〔笹や〕の縁台ではなく、橋の手前、東詰の軍鶏(しゃも)なべ屋〔五鉄〕の入れこみに落ちついている。

甲府勤番支配の八木丹後守(たんごのかみ)の署名入りの探索覚え書がとどいたが、他聞をはばかるため、〔笹や〕ではまずいと銕三郎が、ひるどきがおわって客がいない〔五鉄〕へ案内したのである。
三次郎(さんじろう 17歳)が気をきかせて、冷酒(ひや)と軍鶏の肝の砂糖醤油煮を2人の前にはこんできた。
銕三郎が、横山同心に酌をする。

長谷川どのは、お顔が広いですな」
「〔初鹿野はじかの)〕の音松(おとまつ)つながりで、馴染みになりました」

参照】2008年4月18日[十如是(じゅうにょぜ)] (3)

「その〔初鹿野〕ですが---」

甲府からの探索次第を概略すると、八木丹後守の命をうけた町奉行所の同心たちが、城下の印伝商12軒をのこらずあたってわかつたのは、5年前に、〔穴切屋〕惣右衛門方が受けたあつらえ仕事が、それと判明した。
注文が変わっていたので、店主も番頭も職人も、よくおぼえていた。

まず、印伝袋。大きさは烏帽子(えぼし)ほど。ただし、うるしを塗る前の鹿革の内張りに、くさり帷子を網目をずらして二重に縫いつけ、それを印伝革で蔽い、口を組紐で閉めるようにしてくれと。

使い道を訊くと、採掘した水晶を入れる袋なので、水晶の根の角が袋の革を裂かないためのくさり帷子の内張り
だと、川窪村の山師・松吉と名乗った小男が説明。

「水晶の入れものに、印伝はもったいない」と言うと、「ほかの山師の品より上質に見せて売値を高めるのだ」と笑った。

小男は、背丈5尺1.2寸(1m55cm前後)、小顔でこれという特徴なし。礼齢のころ40がらみ。
くさめが癖らしく、注文にきたときも、縫いあがった品を受け取りにきたときも、淡黄紅色の手ぬぐいを、あわてて鼻にあてたのがおかしかった。

_100指つき手袋ともで4両2分の仕立て賃は、すべてを、いまどき珍しい元禄2朱金で支払った。(図版は弘文堂『江戸学事典』より)

奉行所は、さっそくに、甲府から北へ2里(8km)ばかりの川窪村へ人をやったが、そのような人物が住んだ気配はなかった。

(適当なつくりごとでごまかすことの多い役人の覚え書にしては、事実をかなりつかんでいる。八木丹後守さまの朱筆がなんども入って、贅肉がとれたな)
銕三郎の感想だが、口にはしなかった。
いえば、横山同心も役人の一人だから。

横山さま。小男は、〔初鹿野〕の軍者・〔舟形ふながた)〕の宗平(そうへい)に間違いありませぬ」
「手前も、火盗改メのご本役・細井さま組のお役宅で、引継ぎの覚え書を読ませていただき、そうおもいました」
「咄嗟の嘘には、逆を言うのが「〔舟形〕の癖の一つのようです。住まいを訊かれて、甲府の北の川窪村と答えたのは、逆の南---富士川ぞいか、鎌倉街道ぞいのどこかに、盗人宿があるからでしょう」
「ほう。役宅へ戻ったら、甲州の絵図をたしかめて、勤番支配どのへ、再度の探索を申しこんでみます。この軍鶏の肝の煮つけし絶品ですな」
「江戸側での調べは、元禄二朱金に両替した店でしょうか」

参照】[〔橘屋〕のお仲] (1) (2) (3) (4) (5) (6)  (8)

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2008.08.19

〔橘屋〕のお仲(6)

_360
(弘化期近郊図・部分 青〇下=長谷川邸 上=鬼子母神)

「奥方さま、ようこそ、お運びくださいました」
〔橘屋〕忠兵衛(ちゅうべえ 50歳がらみ)が、迎えの辞を述べた。

_300
(料理茶屋〔〔橘屋〕忠兵衛 『江戸買物独案内』)

案内されたのは、銕三郎(てつさぶろう 22歳)と、ここの女中・お(なか 33歳)が睦みあっているほうの離れの部屋であった。

(父上と忠兵衛どのとは、しめしあわせておるのであろうか)
銕三郎は、忸怩(じくじ)たるおもいだったが、顔にはださなかった。
宣雄も忠兵衛もそしらぬふりをしている。
(役者は、むこうのほうが上だからな)

茶菓を運んできたのは、女中頭・お(えい 35歳)であった。
忠兵衛が、お宣雄(のぶお 49歳)と内妻・(たえ 42歳)に顔つなぎした。
長谷川さま。おは、ここへ来て、もう、13年になります。それがお初にお目にかかるということは、それだけおわたりにならなかったわけですぞ」
「参った。公務多忙でな」
「はやく、銕三郎さまに室をお迎えになり、家督を譲り、忙しさから解きはなたれれば、しばしば、おわたりになれますものを---。 銕三郎さまも、もう、お一人前でしょう。いっそ、雑司ヶ谷あたりに別屋でもお設けになれば、奥方さまも、駕籠ではなく、歩いておわたりいただけます」
忠兵衛どのの申されることよ。わしもそうしたいが、お上の勤め、なかなかに手ばなれできかねて---のう」
「人間、おもいきりが肝心ですぞ。おたがい、50の坂にさしかかっております。命の財布にのこっておるのは、わずかな小銭ばかり---」
「ごもっとも---」

そこへ、おとお(ゆき 22歳)が酒肴と膳を運んできた。
長谷川さま。奥方さま。こちらが、お引きあわせいただいたおです。若いほうはお。以後、ご入魂(じっこん)に---」
どの。その節は、ご厄介をおかけし、申しわけなかった。世間の狭いわしのこと、頼るところは、どのしかなくての」
「よくぞ、この忠兵衛をおもいだしてくだされた。うれしゅうございましたぞ」
「おどのと、おどのと申されたか。銕三郎めがえろう世話になっておるようで、かたじけない。奥。その方からも、お礼を---」

(さすが、父上。ここでは先任のおの名を先にお呼びになった)

銕三郎の母です。不束者(ふつつかもの)ゆえ、こんごとも、よろしゅうに、導いてやってくだされませ」

忠兵衛が、おと目でしめしあわせて、
「手前は、所要がごさいますので、のちほど、またうかがいます。ひとまず、失礼を。おがお給仕させていただきます」
出ていった。
もつづく。
女中は、おだけがのこった。
軽い笑顔をたやしてはいないが、おの内心は、緊張しきっていた。

宣雄に酌をしていると、が、
゛おどの。なんにも用意ができませなんだので、失礼ながら、わたくしが20代の終わりごろに仕立てた、いまの季節のものですが、よろしければ、普段着になと、お召しくだされ」
風呂敷に包んだままのものをさしだす。
の念のいったこころづかいに、おは緊張から安堵(あんど)に気分を切り替え、お礼を述べるべきであったが、一瞬、絶句していた。
おもいもかけなかった事態だったからである。
座敷での客のあれこれには、臨機応変、すばやくあわせてきていたのに、あまりにも、嬉しすぎた。
言葉よりも、嬉し涙のほうが先に応じた。

「もったいないことでございます。おこころづかいにお応えする、お礼の言葉も存じません。ただ、もう、嬉しゅうございます」
は、こぼれる涙を手巾でおさえるのに精一杯。

「母上。拙からもお礼を申します」
銕三郎が、代わりに、深ぶかと頭を下げた。
「なにを申すのですか、銕三郎。そなたが不甲斐なくて、おどのに浴衣の一枚も買ってさしあげられないから、母が、代わりに---」
「しかし、母上。拙はまだ部屋住みの身でございますれば---」
「バカをお言いでない。両番筋(すじ)には、父子そろってお役におつきになっているお家もあります。銕三郎がもっとしっかりしていれば---」
宣雄がたしなめる。
「これ。奥。せっかくのご馳走を前にして、に発破(はっぱ)をかけては、おどのも給仕がしにくかろう。それぐいらでおいて、箸をつかいなさい」

も、平静にもどり、鮎の塩焼きに箸をつけかけると、おが、
「奥方さま。骨抜きをいたします」
新しい箸で身をほぐし、尾から骨をするりと抜く。
宣雄の分もそうして、橙(だいだい)をしぼる。

「ついでに、も、骨抜きに---いや。それは困るぞ。おどの」
銕三郎が苦笑し、座がくつろいだ。

「このお部屋へ入りましたとき、香が炷(た)かれているのに気づきました。先日、銕三郎の着物から匂ったのと同じような香気と、いま、合点しました。伽羅(きゃら)とは異なり、清涼な感じがふくらんでいるやにおもいます。おどの、なんという香木でしょう?」
の問いかけに、おは、密会の現場を見られたかのように、赤らんだ。

「寸間多羅(すまたら)とかいいまして、ずっとずっと南の海にあるスマトラとかいうジャガタラ国の島の香木だそうでございます。オランダの船で長崎へ運ばれたものと聞きました」
「なんだか、食がすすむ感じの香りですね」
「こちらは、屋号が〔橘屋〕なので、香りも酸っぱさ基調に、選んでいるのでございましょう」

「おどの。むすめごの---おさんでしたか。もし、よろしければ、長谷川の屋敷へおあげになって、作法などを身につけさせる気持ちがおありでしたら、そう、おっしゃってください」
「あの---」
「あと、5年も経てば、お嫁入りの年齢でしょう。長谷川のところで行儀作法を仕込まれたとなれば、商家でも迎えてくれましょう」
「おこころづかい、重ねがさね、たとえよえもないほど、うれしゅうごさいます。このこと、本人とも相談の上、お願いにあがることにもなろうかと---」
「そのときの身請け人は〔橘屋〕さんに---」
「はい。そのように---」
まるで、きまったように笑顔のお

「おどの。長谷川のような直参は、町方から嫁を迎えることはかないませぬ。わたくしも村方(むらかた)の出ゆえ、いまだに婚姻がみとめられませぬ。さいわい、銕三郎だけは、嫡子として書留められましたが---。町方のおんなが産んだ子は、ふつう、嫡子には認められがたいのです。武家方への養子には行けます。お含みおき、くださいますよう」
は、一瞬、虚脱したような目で、を見つめた。
銕三郎さまのお子を産んでもいい、ということ? それとも、妾として認める、ということ?)

「それから、母の口から言うのもなんですが、銕三郎は下の人には慕われるのですが、齢上のおんなの人は別にして、上から目をかけられる術(すべ)が得意ではないようなのです。おどの。時折は、そのほうの師範もしてやってくださいませ」
銕三郎は、おと見合って、まばたきをくりかえした。
姉がやんちゃな弟を見るような目で、おは微笑んでいた。
困った、といった表情になったのは、宣雄だった。

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(青〇=スマトラ島 鬼平のころに江戸で刷られた万国全図の部分 山下和正さん『地図で読む江戸時代』 柏書房 1998.10.15)

参照】[〔橘屋〕のお仲] (1)  (2) (3) (4) (5) (7) (8) 

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2008.08.18

〔橘屋〕のお仲(5)

今夜も、〔橘屋〕の離れの部屋には、香が炷(た)かれていた。
銕三郎(てつさぶろう 22歳)と、この料理茶屋の女中・お(なか 33歳)が話しあっている。
の躰に月のものが訪れているので、裸にはなっていない。

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(『栄泉あぶな絵』[青すだれ])

裸になっていない分、5日前に見た春本の姿態になっている。

「今宵は、出事(でごと 性交)の匂いはのこるまいに---」
「いいえ。男とおんながひとつ部屋へこもっているだけで、そのことをしなくても、その匂いが畳や座布団に忍びこんでしまうから、鋭いお客さまはおわかりになる、とお(えい 35歳 女中頭)さんがおっしゃるのです」

「印伝(いんでん)の手がかりが、実(み)をむすぶとよろしいのに---」
は、自分が観察したことが、自分を殺(あや)めようとしていた賊の逮捕にひと役買いそうなので、きょうの出会いが交合抜きでも、気分がこころもち高ぶっている。

「あれ抜きだと、おのお脳(つむ)は、とりわけ冴えるようだから、これからも、抜きで逢うかな」
「そんなの、いやです。でも、いまの言い方だと、あたしが、まるで、色きちがいみたいじゃないですか」
「わたしは色ごと好きじゃないなどと、自分で言うおんなは、大うそつき者さ。おが、色ごとが大好きなので、拙は、学びのすすみが速いと、喜んでおる」
「よかった。あのことで、わたしの躰が芯まで悦(よろこ)ぶからこそ、お脳も冴えるのです。おんなは、子宮とお脳がじかにつながっているんです」

「塾の師匠がいつものたまう。青春の期間だけでも、あのことをかんがえさせない薬ができたら、学問はいまの100倍もすすむだろうって」
「それは、男の人にかぎりません。おんなも、そう。でも、そんな薬ができたら、世の中が100倍、つまらなくなります」

の、他愛もないたわ言を聞きながしながら、銕三郎は、父・平蔵宣雄(のぶお 49歳)が、20年近く前に家督相続をいっしょに許された16人の中に、本多なんとやらという仁が、甲府勤番で、まだ、あちらに勤めているように父から聞いたのをおもいだしていた。

あくる日の夕刻、晩飯のあと、
「父上。いつだったかお聞きした、〔初卯の集い〕とやらは、まだ、つづけておられますか?」
〔初卯の集い〕とは、幕府から遺跡継承の許しを申しわたされた4月3日のその年(1748)、9日後に寛延と改元され、その年がたまたま卯年にあたっていたので、験(げん)をかついで命名したもの。

参照】2008年6月30日~[平蔵宣雄の後ろ楯] (15) (16)

「わしを含めて10人のうち、倉林どのと田村どのが亡くなられ、いちばん若い米津どのもずっと伏せっておいででな。それに、甲府勤番の本多どのが、今年は都合がつかなかった。あの仁がみえないと、会が陽気にならなくて---」

ちゅうすけ注】
倉林五郎助房利(ふさとし) 宝暦4年(1754)6月20日卒 34歳
田村長九郎長賢(ながかた) 宝暦6年(1756)12月26日卒 28歳
米津昌九郎永胤(ながたね) 明和4年(1767)11月24日卒 36歳

「その本多さまに頼みごとがあ.るのですが---」
銕三郎が、盗賊一味が鉄菱を入れていた印伝の袋と指つき手袋のことで、甲府の印伝をあつかっている店々を探索する願いをごとを、本多作四郎玄刻(はるとき)に頼みたいのだと告げると、
「なにを、たわけたことを---」
宣雄が笑った。
「は---?」

「納戸町の於紀乃(きの 68歳)伯母がおられるではないか」
於紀乃伯母ご?」
「しっかりせい。伯母ごの実家は小川町一ッ橋道の八木家じゃ」

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(小川町一ッ橋道(現・白山通ぞい神田神保町あたりの八木邸))

「あッ。甲府勤番支配の八木丹後(守)さま---」
「そうじゃ。本多どのには、勤番支配さまから命じていただけば、公務になろう」

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(八木十三郎補道の寛政譜 叔母が長谷川久三郎正誠に嫁す)

於紀乃は、八木十三郎補道(みつみち 盈道とも 54歳 4000石)の父の妹、すなわち叔母で、納戸町の大身・長谷川讃岐守正誠(まさざね 3年前に享年69歳 4070石)に嫁(か)し、2男1女をもうけ、なお健在であった。

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(紀伊守正長の三男が立てた長谷川家六代目・正誠『寛政譜』)

つまり、於紀乃から甥・補道へ一筆添えてもらえ、ということである。

銕三郎は、さっそく、納戸町の広大な屋敷に於紀乃を訪(おとな)い、頼んだ。
於紀乃は、68歳にもかかわらず、膝痛のほかはしっかりしており、甥・補道あての達筆の添え状をたちまちのうちに、したためてくれた。
銕三郎どの。探索の実(みの)りは、かならず、報らせてたもれ。面白うて、久しぶりに、なんだか、わくわくくしてきたぞえ」
歯がほとんどないふわふわ声で、つばきを飛ばしながら言った。
銕三郎は、ここでも、退屈老人を喜ばす術(て)を心得ている父・宣雄の配慮に学んだ。

ちゅうすけ注】のち、平蔵宣以が質屋の隠居たちの老人力を活用したのも、この日の教えを生かしたともいえようか。2007年9月21日[よしの冊子(ぞうし)] (20)

銕三郎は、自分の依頼状に於紀乃叔母の添え状をつつみこみ、火盗改メ・横山同心へわたした。
盗賊探索の手だてのひとつ---という形をとり、継(つなぎ)飛脚(幕府の公用飛脚)に託すように手配してもらったのである。


その月の最初の5の日も、泊まりのおのところへ出かけるつもりでいたところ、前日の朝、父・宣雄に言いつかった。
「明日の夕食は、雑司ヶ谷の〔橘屋〕で摂るから、そのつもりでいるように。母もいっしょだぞ。忠兵衛どのにはすでに、通じてある」
「母上も---でございますか?」
「なんじゃ、その言い方は---のほうがお添えものなのじゃ」

一日、銕三郎は落ち着かなかった。
を、父母に観察され、もし、
(あのおんなと、今後、一切、かかわってはならぬ)
と命じられたら、困ったことになる---と悩んだ。
からは、まだ、手ほどきを受けはじめたばかりある。
剣術でいえば、竹刀のあげおろしを教わったぱかり。
これまでは荒っぽい我流にすぎず、文字どおりの独りよがりであったことを、おもいしりはじめたところなのに。

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(国芳『江戸錦吾妻文庫』部分 お仲のイメージ) 

免許皆伝とまではいかなくても、せめて、序二段目あたりまではすすみたい。
しかし---。
とくに、母・(たえ 42歳)の目が怖い。
阿記あき 逝年25歳)に会い、その気性を認め、2人のあいだに産まれた於嘉根(かね 3歳)の、これからの身のふり方にかかわっているだけに、気になる。

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(歌麿『針仕事』部分 阿記のイメージ)

阿記は、芦ノ湯村でも筆頭の湯治宿のむすめで、おっとり・しっかりと育っていたが、おは、出羽の貧しい農家の子で、10代から働きづめできている---しかも、11歳も齢上ときている---の目にどう映るか?)

その日が来た。

参照】[〔橘屋〕のお仲] (1) (2) (3) (4) (6) (7) (8) 

【参考】久三郎系統の長谷川家についての既稿分。
2006年5月22日[平蔵の次男・正以の養子先
2006年5月23日[正以の養父
2006年5月24日[正以の養家
2007年6月1日[田中城の攻防] 
2007年8月8日[銕三郎、脱皮] (4)
2007年10月11日[田中城しのぶ草] (19)
2007年10月25日[田中城しのぶ草] (23)
2008年2月28日[南本所・三ッ目へ] (6)
2008年7月4日[ちゃうすけのひとり言] (18)
2008年7月9日[宣雄に片目が入った] (5)

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2008.08.17

〔橘屋〕のお仲(4)

「紅花の手ぬぐいの小男が、印伝(いんでん)革でつくった指つきの手袋をはめた手で、おなじく印伝革製の大ぶりの袋から鉄菱(てつびし)をつかみだしては、間合いをはかりながら廊下板に置くと、手下のひとりが金鎚で軽く打っていたのです」
恐怖にふるえながらも、お(なか そのときはお とめ 32歳=当時)は、しっかりと目にとめていたのである。

〔えらい! よくも見据えていてくれた。で、印伝革と、なぜ、わかったのかな?」
銕三郎(てつさぶろう 22歳 のちの鬼平)は、おの観察眼をほめて、いい気にさせた。
ほめられたほうは、口が軽くなって、ついでに、いろんなことをおもいだす。
「あれって、鹿皮からつくるのですよね? でも、甲州でつくった細工ものだけが印伝と呼んでいいことになっているんですってね」

が口をとがらせるようにして話したところによると、おだったおが19のときまで育った出羽(でわ)国村山郡(むらやまこおり)成生(なりう)あたりでも、鹿皮をなめしを売るのを生業(なりわい)としていた家々があったが、「しし皮」と呼んで、「印伝」とは呼べなかった。

「甲州の鹿皮細工師たちが、甲府勤番支配をつうじてお上(かみ)に働きかけて、地場特産品としていたのかもしれないな。勤番支配だった叔父が、2年前、逝ったので、裏の経緯(いきさつ)が訊けない」
銕三郎は、おにいいわけをした。
このあたりの按配が、ますます冴えてきている。

「叔父さまが勤番のお頭だったなんて、すばらしい。あたしなんかには、もったいないような若さまなのですね」
「親類は親類でしかない。おだって、わが家の親類と寝ているつもりではあるまい? 拙との出事(でごと セックス)を堪能しているんだろう?」
「わかりきったことを聞かされると、お仲は悲しゅうなります。命の恩人である若よりほかに、寝るはずがないではございませんか」

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(栄泉『古能手佳史話』部分 イメージ)

ところで、このブログは、小説でもなければ、エッセイでもない。
鬼平犯科帳』への理解を深め、より面白く読むための手引きをめざし、終着は何年先になるか知れないが、未完の巻24『誘拐』を補筆して、おまさ(39歳?)を救出する予定にしている。

_120だから、そのためなら、何をぶちこんでもいいとおもっている。
28年前---1980年10月号から68回---つまり5年8ヶ月、ある月刊誌に『日本の老舗』を連載した。1回1店で68店。雑誌の経営母体が変わって、連載は中断となった。
68店のうち、東京に現在する15店は『江戸の老舗』(誠文堂新光社 1982.6.9)として刊行した。刊行日がたまたま満52歳の誕生日で、52冊目の自著となった。

閑話休題。

連載の中に、甲府市の〔印伝屋〕を取材したものがあるので、抜粋・引用したい。
火盗改メに関係なとはいえない江戸のある制度に触れている。

『大菩薩峠』と甲府
少年の頃の、ヒリヒリと胸が焦げるような読書の快感を、いままた、楽しんでいます。

50歳前後の男性の方なら、宿題や試験を気にしながら『怪傑黒頭巾』や『神州天馬峡』を読みふけった少年時代の体験をお持ちでしょう。

いま、私を30数年前に連れ戻したのは、富士見書房が『時代小説文庫』と銘うって刊行を始めた中里介山の未完の大作『大菩薩峠』(全20冊)です。
幼なかった頃には、第4巻あたり(同文庫の1冊目)までしか読んでいませんでしたので、この機会にと思い立ちました。

さすがに、宿題や試験はありませんが、大人にはヤボ用という邪魔ものがあります。心ならずもそれを無視しながら読みつづけるわけですから、胸のヒリヒリがよみがえるわけです。

改めてこの大作を読んでみると、少年時代には洞察がとどかなかった部分があまりにも多くて、いまさらながら驚いています。

桑原武夫さんが『大菩薩峠』(文庫)2冊目の解説に述べている、日本人意識の3層---ーつまり、最表層の西洋文化の影響を受けてか近代化した部分(作中では駒井能登守に代表される)、次の儒教的な日本文化の層(机竜之助に試合に負けて死ぬ八王子同心---宇津木文之丞のおと弟、兵馬に代表される)と、その下のドロドロとよどんだ土俗的な層、といった見解にも興味がありますが、登場してくる諸人物の描き方にも感心している始末なのです。

『大菩薩峠』そのものにこだわっていると、今回の老舗---印伝屋にいつまでたっても到達しませんから、適当に切りあげましょう。

しかし、『大菩薩峠』の第8巻から第15巻あたりまでは、甲府が舞台になっています。
〔印伝屋〕も甲府でつづいてきた老舗です。

甲府について、第14巻(同文庫では10冊目)に---

甲斐国(かいのくに)甲府(こうふ)の土地は太古(おおむかし)は一面の湖水であったということです。

---湖では人間がすめまいと、稲積地蔵(いなづみじぞう)尊が2人の神様と相談して、山の一角を蹴破って水を富士川へ落とし、瀬立不動(せだてふどう)様が川の瀬を均(なら)して水がて滞(とどこお)らないようにしたというのです。

2人の神様とは、蹴作(けさく)明神と穴切明神です。
そういう名の神仏がいまも残って祀(まつ)られているのですから、甲府の湖底説はほんとうのことなのかもしれません。

ちゅうすけ注】穴切大神社
蹴作はgoogleで検索できない。ご存じの方はご教示を。

太宰治は作家らしい直感で---

甲府は盆地である。四邊、皆、山である(略)。大きい大きい沼を、掻乾(かいぼし)して、その沼の底に、畑作り家を建てると、それが盆地だ。もっとも甲府盆地くらゐの大きい盆地を創るには、周囲五。六十里もあるひろい湖水を掻乾しなければならぬ。(『新樹の言葉』)

---と、その形容をかつての湖底と表現しています。
つづいて、「派手に、小さくも、活気のある」「ハイカラな文化の、しみとほってゐる」町と、ほめあげてもいます。

さて、先に名前をだした駒井能登守は甲府勤番支配です。
徳川家康は甲府を直轄領として、小普請(こぶしん)組から五百石以下、ニ百石以上の旗本をニ百人。勤番として送りこみました。
別に与力が二十騎と同心が百人。彼らの上に立ったのが勤番支配で『大菩薩峠』に---、

ニ千石高の芙蓉間詰(ふようのまづめ)であります(中略)。御役地(おやくち)は千石で本邸は江戸にあって住居は甲府に置く(第十一巻『駒井能登守の巻』)

ちゅうすけ注】甲府勤番の士として、長谷川平蔵宣雄(のぶお 30歳=当時)といっしょに遺跡相続をゆるされた中の一人が、本多作四郎玄刻(はるとき 21歳 200石)を2008年6月30日~[平蔵宣雄の後ろ楯] (15) (16)

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(甲府勤番・本多作四郎玄刻の個人譜)

柳営補任』は、勤番支配とはせず、勤番頭の呼称をつかっている。玄刻のときの頭は、長谷川讃岐守正誠(まささね 53歳=当時 4070石 長谷川宣雄の従兄)

〔印伝屋〕の小冊子には、「四百年の伝統を誇る由緒ある袋物」とあります。
四百年といえば、武田信玄(1521~73)の時代です。
そういえば、信玄袋というのもあります。もっとも、信玄袋は明治中期から流行したもので、信玄弁当を入れたための命名です。
三つ重ねの信玄弁当も『嬉遊笑覧(文政13年刊)によると、「もと甲州より出たる雑話の説によれば、信玄の作りし物にあらず」だそうです

江戸の火事羽織を加工
明治維新と大震災と大空襲で、家伝の史料をほとんど失っている東京の老舗の取材に苦労してきた私は、十三代つづいている地方都市の老舗というので大いに期待して中央本線に乗り込みました。

ところが、甲府市中央三丁目---旧甲州街道沿い八日町の〔印伝屋〕の上原勇七ご当主に会って最初にいわれたのが、
「昭和二十年七月六日の空襲で家も店も蔵もみんな焼けて、史料がないのです」

唯一の手がかりは、上原家が天文十一年(1542)Kの信玄の諏訪攻めにより、信濃の永明(えいめい)村上原(現・茅野市)から甲府へ移ったということ。

初代上原勇七が印伝を家業としたのは江戸中期からということですが、その前から鹿革細工(主として、甲冑の吹返 ふきかえし、冠板 かんむりいた、胸板 むないたなど)に従っていたとするとうなずけます。

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(甲冑の鹿革を用いた部位)

延喜(えんぎ)五年(905)---古今和歌集ができた年に「信濃国から緋革(あけかわ)五張、上野(こうずけ)国からは緋の革十五張」が朝廷に献上されています」(井戸文人『日本嚢物(ふくろもの)史)』大正5年刊)

もっとも、当時、日本で革といえば鹿のそれを指し、延喜式には鹿の皮の産地として、伊賀、尾張、遠江(とおとうみ)、伊豆、甲斐、相模(さがみ)、武蔵、上総(かずさ)、常陸(ひたち)、信濃、陸奥(むつ)、出羽、能登、因幡(いなば)、出雲(いずも)、美作(みまさか)、備前、備中、安芸(あき)、阿波、伊予の二十一ヶ国があけられていますから、鹿革加工が信濃の特産だったとはいいきれません。

また、〔印伝屋〕につながる印伝革は、『三田村鳶魚(えんぎょ)・江戸生活事典』(青蛙房)の「印伝の皮財布」の項に---

印伝皮(注:正しくは革の字をあてる)は、甲州の名産です。甲州から江戸へ出したものです。
今も甲州には印伝屋が軒を並べてあります。
江戸の火事羽織は皮の羽織です。火消屋敷或は外大名の皮羽織があります。それの古いのが皆甲州へ年々沢山行っております。彼方で印伝の法を伝えるというのが甲州にあります。
それは皮羽織は多年着ているから皮が柔らかくして、いつまで経っても皮がきれなくて、財布や何かに極くよろしいのです。

明治二十五年から約一年四ヶ月、『朝野新聞』に連載された『徳川制度』は、『江戸町方の制度』と改題されて新人物往来社から出版されています。これによりますと、当時の消防の組織は、

消防  定火消
    方角火消
    町火消
    諸大名自家自衛の火消
の四種類゛ありのました。

定火消は、宝暦元年(1751)に八組に減じられた旗本による消防隊です。
半蔵御門外(弓)
溜池霊南坂上(鉄砲)
御茶の水(弓)
八代洲河岸(鉄砲)
市ヶ谷左内坂上(弓)
飯田町九段坂上(鉄砲)
赤坂御門外(弓)
駿河台(鉄砲)
と、江戸城をめぐる要所要所に常駐し、役宅を構え、頭(かしら)一人に与力六騎、同心三十人が任命されていました。

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(定火消の革羽織の組別の文様)

頭は四千石以上の大身旗本です。同心以下は平常は弓箭(ゆみや)や鉄砲の術を習ったのです。
彼らに、革羽織、革股引、革頭巾が支給されました。
革頭巾や革羽織には、それぞれの組の印が染め抜かれていました。

さて、たびたび大火に逢って消火に従事し、水を浴び、火に焙(あぶ)られると、羽織も股引もたちまち破損し退色します。
そうしますと、頭から。引き換えといって新品が支給されますが、古いほうを返却するわけではないのです。で、古顔にもなってくると、枚数もたまります。新旧二枚を残して、あとは売りとばして金に替えたものです。これを革替えといって、余禄としたものです(『江戸町方制度』)

---なぜ新旧二枚ずつ残したかといえば、炎の加減を見て、
「今日は水をかぶりそうだぞ」
と判断したら古い羽織をひっかけて出動し、遠くで観戦の日には新しい羽織ででかけるためです。

天保年間(1830~43)で革衣装一式は約五両(注:1両=15万円換算)だったといいますから、頭の出費はたいへんだったでしょう。

方角火消も消防夫は茶色の革羽織を着ました。
いろは四十八組の町火消も革羽織を用いたと『守貞漫稿』にあります。

そうしますと、古革羽織の量は相当のものだったのではないでしょうか。
(後略)

「お。早速に、古府中(甲府)の印伝屋をあたらせてみるよ。なにか、手がかりが得られそるかもな」

ちゅうすけ注】江戸で印伝を扱っていた袋物問屋は『江戸買物独案内』(文政7年刊 1824)では、上段左の〔伊勢屋〕がそのことを記す。下段左の〔舛屋〕は、火事羽織などの受注を謳っている。

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(上段左=〔伊勢屋〕印伝 右=〔菱屋〕 下段左〔舛屋〕火消羽折
『江戸買物独案内』 文政7年刊 1824)

池波さんは、上段右の〔菱屋〕を『鬼平犯科帳』巻19[引き込み女]に借用。p270 新装版p279 おまさの旧友の女賊・おが引き込みに入り、養子で当代の彦兵衛に駆け落ちをもちかけられる悲恋ものに仕上げている。

鬼平犯科帳』で袋物問屋が登場する話は、巻2[妖盗葵小僧]で、弟を婿にやった先の若嫁が葵小僧(あおいこぞう)に犯されて腰の動きを合わせたことを恥じて心中されてしまう、実家の兄〔吉野屋〕治兵衛p121 新装版p134 を初めとして10篇ほどある。

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(国芳『枕辺深閨梅』口絵 部分 葵小僧のイメージ)

巻21[男の隠れ家]---芝・宇田川町の〔吉野家〕の当代に成り上がったものの、家付き女房に頭があがらないために、偽侍姿で街を歩いてうっぷんばらしをしている清兵衛と盗賊〔玉村たまむら)〕の弥吉の友情話が、現代の若い男たちを風刺しているようで、ぼくは気に入っている。

参照】[〔橘屋〕のお仲] (1) (2) (3) (5) (6) (7) (8) 
  

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2008.08.16

〔橘屋〕のお仲(3)

「ご亭主。〔初鹿野はじかの)〕一味の動きは、まだつかめませぬか?」
銕三郎(てつさぶろう 22歳 のちの鬼平)が問うと、〔たずがね)〕の忠助(ちゅうすけ 45歳前後)は、頭(こうべ)をふって、
「ぴくりとも網にかかってこないのですよ。〔名草なぐさ)〕の嘉平(かへい 50男)爺(と)っつあんも、〔樺崎(かばさき)〕の繁三(しげぞう 35歳がらみ)どんも、あちこち手くばりはしているんですがね」

参照】〔名草〕の嘉平。〔樺崎〕の繁三 2008年8月11日[〔梅川〕の仲居・お松] (10)

逆に、
長谷川さま。〔初鹿野〕一味がここから上手(かみて)の緑町にあった料亭〔古都舞喜(ことぶき)〕楼を襲って引きあげるときに、廊下に鉄菱(てつびし)を撒いたとおっしゃいました。あれから、江戸なり近隣で、鉄菱をまいた盗賊に襲われたところはないか、火盗改メの、ほら、お親しい同心さん---」
「横山(時蔵 31歳)どの」
「そう、その同心さんに訊いてごらんになってくださいませんか」
と言ったものである。
(これは、1本、取られた。さすがは、〔法楽寺ほうらくじ)〕の直右衛門(なおえもん 40がらみ)の名軍者(ぐんしゃ)だっただけのことはある)

参照】2008年4月18日[十如是(じゅうにょぜ)] (3)

銕三郎は、本所・相生町4丁目の大身旗本・本多備後守忠弘(たたびろ 40歳 書院番第5組々頭 7000石)の辻番所であった。
そこで、火盗改メ・遠藤組横山同心を待った。

参照】2008年8月12日[〔梅川〕の仲居・お松] (11)

ほどなく、見廻り中の横山同心が、汗をふきふきあらわれた。
2人そろって、いつものように、弥勒寺(みろくじ)前で後家のお(くま 44歳)が一人でやっている茶店〔笹や〕の縁台に座った。

茶と手製の串団子を給仕したおが、
長谷川の若よ。お(とめ 33歳)さんに飽いたら、いつでも言っとくれ」
「気長に、静かに、待っていてください」
「きっとだよ。ところで、横山の旦那は、お酒(ささ)のほうがよかったんでは? 呑めない長谷川の若につきあうことたぁないんだよ」
「まだ、見廻りがのこっているんでね。渋茶でけっこう。それより、おしぼりをくれないか。汗がひどいのだ」
「なんなら、裏で行水をするかね? 背中をながしてやるよ」
「いや。けっこう。女房一人をもてあましておるんでね」
「その若さでかい? 精を分けてあげてもいいんだよ」

がひっこんだところで、鉄菱を撒く一味のことを切りだした。
見込みどおりの返答が返ってきた。
半年前に、中仙道の深谷宿の芸妓の置屋が月末に料亭から集金したばかりの800両余を持っていかれたとの届けが、八州取締出役(しゅつやく)からだされていた。
さらに、3ヶ月前にも、甲州路の都留郡(つるこおり)大月村の庄屋・駒橋善兵衛方が襲われ、金納分の323両
奪われたと、石和(いさわ)支配所から古府中の甲府勤番所へ届けがあがっていた。
どちらも、閉じ込められた部屋の前の廊下に鉄菱が撒かれ、報らせが遅れたのだと。

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(青小〇 上=中仙道の深谷宿 下=甲州路の大月村)

横山どの。鉄菱などというものは、どこの鍛冶屋もほとんど造ってはいないでしょう。近隣の鍛冶屋をあたらせれば、注文主が割れるのでは?」
「そのとおりです。触れをだしたが、手がかりはでてきませんでした」
「すると、どこで大量につくっているのでしょう?」
「たぶん、かかりきりの鍛冶屋が、一味の中にいるのでしょうよ」

横山同心と別れてから、銕三郎は、深谷と大月のかかわりをかんがえてみたが、結論は一つしかでなかった。
初鹿野〕一味が、甲州へ潜もうとしていると。

月末の新月の晩、銕三郎は〔橘屋〕の離れにいた。
昼間の熱気が部屋にのこってい、庭の夾竹桃のいまがさかりの花の匂いが、香の香気にまざって部屋まで流れていた。
今夜は、お仲の躰にさわりがあるため、話をかわすだけなのに、香は控えめに炷(た)かれていた。
蚊やりも煙を立てている。

〔古都舞喜〕楼での賊たちの鉄菱の撒き方の手順をおもいだすように頼んだ。
「あっ。そう言われますと---」
が、なにかをおもいだしたふうであった。

参照】[〔橘屋〕のお仲] (1) (2) (4) (5) (6) (7) (8) 


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2008.08.15

〔橘屋〕のお仲(2)

「お(きぬ 12歳)と離れて、鬼子母神(きしもじん)さんのそばで、こうして、安心して働けていることが、ふしぎにおもえるんですよ」

雑司ヶ谷の料理茶屋〔橘屋〕に4つある離れ座敷の一つで、香を炷(た)きこめ、蚊やりの煙をたなびかせながら、銕三郎(てつさぶろう 22歳 のちの鬼平)と同衾しているお(なか 33歳)が、しんみりした声でうちあけた。

宿直(とのい)の当番の夜である。

女中頭・お(えい 35歳)が、お銕三郎のあいだがらを心得ていて、嫁を迎える前の若い男に、おんなのからだのツボの悦(よろこ)ばせ方を会得(えとく)させるのが、30代後家たる者のつとめだと、春本まで貸して、けしかけたのである。

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(国芳『江戸錦吾妻文庫』[夏の夜] イメージ)

たっぷりと念をこめた行為を終えて、躰の熱気をさましていると、母性が帰ってくるのは、すぐそばの、鬼子母神の女神・訶梨帝(かりてい)の功徳であろうか。

ものの本にこうある(抜粋)。

きしもじん鬼子母神】 「きしぼじん」とも読む。インドに由来する女神で、サンスクリット語では、「ハーリティ」。
もとは暴悪で、他人の子を奪い取って食らう悪鬼であったが、のちに仏の教えを聞いて懺悔し、仏弟子となり、子授け・安産・子育ての善神となった。左手に児を抱き、右手に吉祥果(きちじょうか)と呼ばれる果実(いっぱんにザクロ)を持つ天女形。とくに日蓮宗で盛んに信仰される。

雑司ヶ谷の鬼子母神は、『鬼」という字の最上部の「ノ」を除いている。仏に帰依したから、鬼の角が取れたのだと。

_150「おどのの父親は---?」
「死にました」
「立ち入って悪いけど、いつごろ?」
「おが2歳のとき---」
「おは21だったのだね」
「はい」

「それから、ずっと、おは、働いてきた?」
「あの子をあずけて---おんなが一人で子育てするのって、たいへんなんです」
「そうだろうと、おもう」
「どうしても、男の人がかかわってくるんです。でも、どの人も、ご自分が楽しむことが、まず、先に立って---」
「------」
「あなたは別」
「拙のような、羽織の1枚も買ってやれない部屋住みの男で、すまないとおもっている」
「ふしぎなんですが、銕三郎さまとは、齢が11も離れているのに、なんの思惑(おもわく)も先ばしらせることなく、安心して、睦み合えるんです」
「姉はいなかった拙だが、姉をかばいながら甘えるって、きっと、こういう気分なんだろうな---とおもえてきている」
「ほんと、なんの気がねもなく、生(き)のままで---」

「さ、丁をめくりました」
(丁とは本のページの2ページ分のこと)
「ここを、こう、持ちあげて、そこへあなたが、こう、入り、こう、抱いて---」

「剣術と似ている。剣も、相手の仕掛けに、こちらも息と躰(たい)をあわせ、ここぞというときに撃つ---」
「あ、撃って、そこ、撃って---もっと---」

400_270_2キャプション 昔高田四ツ家町に住せし久米といへる者、一人の母に孝あり。家元より貧しく孝養心のままならぬをなげき、つねに当所の鬼子母神へ詣し、深くこのことを祈りしに、寛延二年の夏思いつきて、麦藁をもて手遊びの角兵衛獅子の形を造り、当所にて商いしに寛延ニ年(1749)の夏、ふと思いつきて、麦藁もて手遊びの角兵衛獅子の形を造り、これを当所にて商いひしに、その頃はことに参詣多かりしかば、求むる人夥しく、つひにこの獅子のために身栄え、心やすく母を養ひたりとぞ。至孝の徳、尊神の冥慮にかんひしものなるべし)

「お頼みしてよろしいでしょうか」
「なに?」
「これ---鬼子母神さんの境内の店屋で売っている、すすきでつくったみみずくなんです。それと、名物の飴。おにとどけてやってくださいませんか?」
「雑司ヶ谷ということがバレるから、拙の参詣みやげということにしていいかな」
「そうでしたね---」

ちゅうすけ注】『鬼平犯科帳』文庫巻23 長篇[炎の色]p98 新装版p97に、この「木莵(みみずく)の玩具(おもちゃ)」が登場していることは、鬼平ファンならとっくにご存じ。

「幸い、お(まつ 30歳前)が江戸を離れたことは、〔相模(さがみ)〕の彦十(ひこじゅう 32歳)どのが新宿まで尾行(つ)けて、甲州路をのぼって行ったことは、たしかめてある。しかし、〔初鹿野(はじかの)〕一味の主だった者たちが江戸を去ったかどうかは、まだ、はっきりしないのだ」
「いつになったら---」
「もう、しばらくの辛抱だとおもうよ。いま、盗賊仲間のうわさを、〔盗人酒屋〕の忠助(ちゅうすけ 45歳前後)どのが集めておるから」
銕三郎の指を口にふくみ、舌でちょろちょろ舐(な)めながら聞いている。
座敷客の応接で鍛えられ、2つのことが同時にきちんとできるようになっている。
(剣術遣いなら、二刀流の遣い手だな)

「月末も来ていただきたいのですが、あたしの躰のつごうが生憎(あいにく)なんです。お逢いしてお話しするだけで、よろしければ---」
「たぶん、参れるとおもう。そうするように、つとめよう」
「うれしい」
「覚えておくよ。新月のころなんだね」
「月初めの5の日には、お迎えできます」

参照】[〔橘屋〕のお仲] (1) (3) (4) (5) (6) (7) (8) 

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2008.08.14

〔橘屋〕のお仲

 とのい(宿直)の日がきまりました。
 女中がしらのおえい)さんが気をきかせてくださって、はなれば
 かり、
 5の日をあててくださいました。
 こんどの25日、夜、五ッ半(午後9時)に、一ノ鳥居でおまちしてい
 ます。
 いさいは、そのときに。

〔橘屋〕の女中となったお(なか 33歳)からの町飛脚便をもらった銕三郎(てつさぶろう 22歳 のちの平蔵)は、母・(たえ 42歳)に、当日は外泊になると告げておいた。

ちゅうすけ注】町飛脚とは、江戸府内を配達区域としている飛脚便。もちろん、京、大坂にもあった。

夫・平蔵宣雄(のぷお 49歳 先手・弓組の組頭)から、阿記(あき 25歳=享年)を失った痛手もあろうから、しばらくは大目にみてやるように言われていたは、どこに泊まるのかだけ訊いた。

「〔橘屋〕になるとおもいます」
「雑司ヶ谷の?」
「さようです」
「それでは、着るものを改めないといけませんね」
「店が閉まってからですから---」
「朝、帰るときの人目があります。いいえ、銕三郎のためではありません。貧相な客を泊めたとおもわれては、〔橘屋〕さんの品格にさしさわります」

母と、そういうやりとりがあったことを、宿直の部屋にあてられた離れの1室で、おに話すと、
「いいお母上ですこと。じつは、あたしのほうでも---」
女中頭・お(えい 35歳)の言葉を再現した。

長谷川さまの若となら、わたしたちの寮でより、離れ部屋でのほうが、悦(よろこ)び声も漏らせるでしょう。でも、出事(でごと 性交)の匂いをのこさないこと。お客さま用の離れですからね。蚊やりとあわせて、香を炷(た)きこめなさい」

(それで、香の匂いがつよいのか。そういえば、芙沙(ふさ 25歳=当時)の家でも香が匂っていた。おんなを高ぶらせるのも、この香りなのかな)

参照】2007年7月17日[仮(かりそめ)の母・お芙沙(ふさ)]

「男を堪能したことのある30代のおんなが、10日も出事を欠くと、気分の揺れがお客さまのあつかいにでがちだから、うちでは、情人(いろ)とのことは大目にみているのです。つぎに逢う瀬まで、こめかみに梅干を貼らなくてもいいように、たっぷり、悦(よろこ)ばせていただいてきなさい、って」

「なんだ、バレていたのだな」
「最初の日。ほら、お(ゆき 22歳)さんという若い女中(こ)が、『お客さまが情人(いろ)になってしまえば、いいってこと---』とかなんとか言ったでしょう。あのとき、あたしがあなたのほうをちらっと見たので、おさんは合点したんですって」
「おんな同士の勘は、そういうふうに働くのか」

酒と肴が用意されていた。
肴は、蕨(わらび)の煮付け。
銕三郎に盃をもたせてすすめ、自分も受ける。
「む。これは---」
うなる。
「あく抜きしておいて、鯵(あじ)を煮た汁(つゆ)で煮ているのです。お味がよく滲みていますでしょ?」
「これほど美味しい蕨は初めてだ」

「板長さんが、夜は長いからって、特別に手くばりしてくださいました。蕨は、このあたりで採れたものですが。働いているおんなの気持ちを、こんなに察してくださるお店は初めて。〔中村屋〕さんへは、もう戻りたくありません」
「お(きぬ 12歳)どのこともあるな」
「今夜は、おのことは忘れさせて」

「おって名にも慣れたかな?」
(とめ)って名が捨てられて、ホッとしています。貧しい羽前(うぜん)の5人目の子でしたから、もう、留まれってことで、つけられたんです。まあ、(すて)でなかっただけ、助かりました」

名を変えただけで、変身といえるほどではないが、これまでの自分との縁が切れ、新しい自分になれたとおもえるのも快感のようでもあった。

「そうだったのか。富(とめ)ではあまりに欲どおしいから、留の字をあてたのかとおもっていた」
「お幸せなお方」

風呂敷から絵草子をとりだし、銕三郎の横にぴたり寄りそい、開く。
春本であった。

「おさんが貸してくださったのです。しっかり、睦んできなさいって---」

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(『栄泉あぶな絵・青すだれ』)

「着物の下、どんなふうになっているのでしょうね?」
「想像もつかない」
「女中頭のおさん、こんなことも言ってくれました。長谷川さまの若は、まもなくお嫁をお迎えになるころだ。おんなのからだのツボというツボと、その耕し方を伝授してあげるのが、まだ汁っけたっぷりの30代後家のつとめなんだから---師範しながら、自分の悦(えつ)も深めなさい、って」
「手ほどき、よろしゅうに---」
「嫁取りは、いつですか?」
「来年秋あたりの、初目見(おめみえ)後かなあ」
「じゃあ、師範は1年かけて---」

ちゅうすけ注】銕三郎の初目見は、明和5年(1768)12月5日で、久栄(小説の名)との婚儀はその前の中秋。

本を変える。

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(北斎『多満佳津羅』)

「2人きりなのだから、着たままでなくてもいい」
「着ているから、それをめくったり、ひん剥(む)いたりで、高まるのでしょ?」
「そうかもな。本は、ゆっくり愉しむとして、拙の願いごとを先に聞いてほしい」
「はい。あたしのお願いごとは、そのあとで---」

「ここは紀州さまのご本陣だから、紀州藩の方々のほか、吉宗(よしむね)公にしたがって柳営に入り、直臣に取りたてられた方々も見えるであろうが、その中でも主だった方たちの名を手びかえおいてくれまいか。これは、べつに、とくにというのではないが---」
「お客さまのことは、外に洩らしてはならない決まりなんですよ」
「だから、密かに、それも、できたら---でいい」
「あなたのお役に立つのなら、こころがけます」

参照】2008年8月4日[〔梅川〕の女中・お松] (4)

「大事なのは、これから頼むほう。盗賊一味がくることはあるまいが、まさかに、それらしいのがきたら、人相、風
体(ふうてい)を覚えておいてほしい」
「それは、あたしたち親子の敵でもありますから、かならず---。では、こんどは、あたしのお願いごとの番です」

春本を開いて、
「この絵のようになさってみてくださいな」

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(北斎『させもが露』[好色の後家])

「この本、なん丁あるのかね」(丁は2ページ)
「型は、おもて48手、その裏---」
「ひゃぁ、一刀流の組み太刀の型より多い---」
「この道は、それだけ多岐で、奥が深いってことです。覚悟して、師範をお受けなさいませ。ほっ、ほほほ」

参照】[〔橘屋〕のお仲] (2) (3) (4) (5) (6) (7) (8)

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2008.08.09

〔菊川〕の仲居・お松(8)

音羽町8丁目の料理茶店〔長崎屋〕の風呂場である。

「ごいっしょにいかがですか?」
(とめ 33歳)も誘(いざな)われ、銕三郎(てつさぶろう 22歳 のちの鬼平)は共湯(ともゆ)をした。

町の銭湯の混浴が禁じられたのは、このときから20数年後である。
ただ、武家方には内湯があり、銭湯へは行かない。

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(司馬江漢 町の混浴図 左の男がむすめにセクハラを)

(おれという男は、おんなといっしょに風呂へ入ることになる定めのようだ)

_16014歳のときには、三島で訪れたお芙沙(ふさ 25歳前後=当時)が、そこの内湯で背中を流してくれた。
初めての体験であったが、あれ以来、風呂とおんなが、ひと揃いになったようだ。
(いや、悪い組みあわせではなく、学而塾の悪友たちに告げたら、背中をどやされるだろうが、そういう仕掛けになってきている---ということだ) (歌麿『入浴美女』)

参照】2007年7月16日[仮(かりそめ)の母・お芙沙(ふさ

18歳のときには、芦ノ湯村は、離れ屋のひろびろとした湯船で、阿記(あき 21歳=当時)が背中をあずけてきた。
阿記は、夫との縁切りをするために、実家へ帰ってきたのであった。
あの湯治宿〔みょうがや〕の湯舟に比べると、ここのは、湯殿もせまく、おと2人だと、身動きもままならない。
この店を利用するおんなづれの客なら、この狭さをよろこぶのだろうか。

参照】2008年1月1日~[与詩(よし)を迎えに] (12) (13)

21歳のときには、お(しず 18歳=当時)と、夕立で濡れた着物を浴室で脱ぎ、下帯と湯文字姿のお互いを笑いあって、けっきょく、なるようになってしまった。
と2人きりの風呂場であった。

参照】2008年6月2日[お静という女] (1)

ここでは、女中に案内されたので、これまでの風呂づかいとは感じが異なった。
微妙にこだわりがある。
のほうは町方暮らしで、他人に見られての混浴も馴れっこだった。

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(栄泉『ひごずいき』部分 お留のイメージ)

だからおは、豊かになりはじめている肉(しし)置きを平気で見せつけて、躰を拭いてでていった。

見るともなく見ていた銕三郎は、
(30おんなの肉置きに、捕囚(とりこ)になりそうだな)
予感を下腹に感じ、おが浴衣をはおってでていくまで、湯桶から出られなかった。

が京都へ去ってから1年ぶりに人差し指と中指を立てた分をこなした後なのに、もう、きざしていたのである。
手桶で水を汲んで、浴びせてが、2,3杯では、効かない。
水をふくんだ手ぬぐいを掛けて、治(おさ)める。

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蚊帳の中からおが、
「あなた。ここ、このまま、泊まることもできるそうですよ。晩の食事が要るのなら、早めに言えって---」
これまでの[長谷川]さまが、[あなた]に変わっている。
「なんどきだろう?」
「七ッ(午後4時)すぎでしょ」
「いまから雑司ヶ谷へ行くと、七ッ半(午後5時)だな。ちょうど、客どきで忙しくなる---」
「泊まって、明日の四ッ(午前10時)ごろに伺うのは?」

(都合で、明日に延びた)と認(したた)めた〔橘屋〕忠兵衛あての手紙を、店の老僕に託した。

「おどの」
「もう、おどのはおやめください。おって言ってください」
「では、お。拙は五ッ半(午後9時)まではいっしょにいられるが、泊まるわけにはまいらぬ。明日、また、迎えにくる」
「そんな。夜中に殺し屋がきたらどうしてくれます?」
「その心配もあったな。では、屋敷への使いも頼もう」
「ついでに、早めの夕食を言ってきます」
は、いそいそと、降りて行った。

夕食のあと、
「おの生まれとか、癖(くせ)とか、信心とか---なんでもいいから、覚えていることを話してください---くれないかな」
銕三郎に躰をあずけたまま、おがぽつりぽつりと語ったのをまとめると、中山道・熊谷在の農家の次女にうまれ、伝手(つで)があって亀戸(かめいど)の蕎麦屋の小女をふりだしに、あのあく抜けた面立ちなので、世話する男たちが絶えず、料亭〔越前屋〕などを経て、〔古都舞喜〕楼へ---といった経路を話していたが、どこまでが真実かわからない。

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(亀戸の料理舗〔越前屋〕 『江戸買物独案内』 1824刊)

ちゅうすけ注】上掲・左の〔玉屋〕は、『鬼平犯科帳』巻2[妖盗葵小僧]でこの賊に凌辱された料亭〔高砂屋〕の若女房おきさ(27歳)の実家である。p159 新装版p168 なお、おきさは離縁ののち巻18[蛇苺]p80 新装版p83 なお、聖典では池波さんはぼかすために亀戸天神前としているが、史料によると裏門脇。生簀からあげた鯉料理が有名だったが、現存していない。

どこで〔舟形ふながた)〕の一味へ加わったかも想像がつかない。

【参照】2008年4月19日~[十如是(じゅうにょぜ)] (3) (4)

黄粉(きなこ)おはぎに目がなかったことは、はっきりしている。
「深川・佐賀町の有名菓子舗〔船橋屋織江〕は、羊羹が名代だけど、あたしは黄粉おはぎが絶品だとおもうな」
そういって、しばしば通っていたと。

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(菓子舗〔船橋屋織江〕  『江戸買物独案内』 1824刊)

ちゅうすけ注】『鬼平犯科帳』巻8[白と黒]p206 新装版p217 に登場する〔船橋屋〕伊織はこれがモデル。
巻10[犬神の権三]p27 新装版p28 でおまさとおしげが入る北大門の〔船橋屋〕は支店。川柳に「船橋をわたってきたと杜氏(とうじ)いい---杜氏(菓子職人)が船橋屋で修行しましたと、自分を売り込んでいる句。
蛇足ながら、いま葛餅で有名な亀戸〔船橋屋〕はつながらない。地下鉄新宿線[木場]北側の〔船橋屋〕は縁者。

それから、便秘で困っていたとも。

「黄粉おはぎが大好物とな」

あいまをみて、銕三郎は、〔橘屋〕忠兵衛が提案していたことを、おに告げた。
それは、人別にかかわることであった。

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(中仙道 沓掛宿のあたり 『五街道細見』より)

ちゅうすけ注】『鬼平犯科帳』巻8[明神の次郎吉]で、〔明神(みょうじん)〕の次郎吉が心臓発作の宗円坊を看取るのは、沓掛から諏訪寄りの小田井宿-追分宿間の前田原。次郎吉が歌う♪エエ、笠取のォ、鴉がカアと鳴くゥときは---の笠取峠は、さらに諏訪寄りの、長久保-芦田間の峠。

生まれた土地を、羽前(うぜん)国村山郡(むらやまこおり)成生(なりう)から、仮に、信濃(しなの)国佐久郡(さくこおり)沓掛(くつがけ)村とすること。
名を、軽井沢から「お軽(かる)」「お沢(さわ)」、中仙道・追分宿(おいわけしゅく)と軽井沢宿(かるいさわしゅく)の中間だから「お仲(なか)」---あたりから選ぶか、自分でつけたい名があったらそれを決めておくこと。

「こうして睦(むつ)みあっているときに、どの名でお呼びになりたいですか?」
「お、かな」
「それ、あてつけ?」
「そう、とるのか。では、お
「あたしも、あなたのこのたくましいのが、いつも中へ入ってくださっているつもりで、おに---」

6ッ半(午後7時)をすぎると、さすがに、隣や向いの部屋にも2人連れ客が入り、薄壁らしく、隣部屋の気配は、ほとんど察しがつく。
銕三郎とおは、かすかな闇の中で声をひそめ、くっつきあっている汗ばんだ肌と肌で、お互いのこころをたしかめている。

2人に、夜は、甘く、長かった。

_360_2
(国芳『江戸錦吾妻文庫』部分 お留のイメージ)

【参照】2008年8月1日~[〔梅川〕の仲居・お松〕 (1) (2) (3) (4) (5) (6) (7) (9) (10)  (11) 


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2008.08.07

〔梅川〕の仲居・お松(7)

「ご気分がお悪いようなら、横になってお休みになるように、床をとりましょう」
2階の小部屋へ案内した女中は、心得顔に、さっさと床を延べ、
「このあたりは、蚊が多くて、しつこいんです」
片側がはずしてあった蚊帳の吊り手も、すっかりかけた。

座り場所が狭くなった銕三郎(てつさぶろう 22歳)とお(とめ 33歳)は、壁にくっつく。
腕と腕が触れあったが、そのまま、どちらも動かない。
「陽があると、目も休まりのせんから---」
女中は雨戸もほとんど引いてしまった。

急に薄暗くなった部屋で2人は顔を見合わせた。
「すぐに、お茶をお持ちしますから---蚊帳に入ってお待ちくださいな」
こういう昼間の2人づれには馴れているといった感じで、女中は無表情で下りてゆき、すぐに、わざと大きな足音たててお茶と土瓶をこんできた。
「あら、まだ、お入りになってなかったんですか。お呼びがあるまでは、もう、まいりませんから、ごゆっくり、どうぞ。きょうは、ほかの部屋にはお客はいらっしゃっていません---」

「あの、気分が落ちついたら、汗を流せますか?」
とりようによっては、どうにでもとれる訊き方で、おが訊く。
「半刻(はんとき 1時間)後に、お使いになれるようにたてておきます」
女中は、わざと、おのほうをみないで答えて、降りた。

江戸川橋の舟着きで降り、舟(ふな)酔いしたらしいので、治(おさ)jるまでどこかで休みたい、とおが訴えたので、近くの木戸番にそういう店を尋ねて、〔長崎屋〕を教えられた。

「〔長崎屋〕って、西の果ての長崎の人でしょうか?」
「いや。この先の、板橋宿の手前にそういう名の郷(さと)があるのです」
「いつかもお話ししましたように、あたしって、羽前の成生(なりう)村(現・山形県天童市成生)からでてきて、本所、深川から外で暮らしたことがないものですから---」
「それでは、雑司ヶ谷などは、この世の果てかな」
「いいえ。鬼子母神さんには、おを身ごもったときにお参りしました。こんどのことも、鬼子母神さんのお引き合わせと喜んでおります」
話しながら、〔長崎屋〕にあがったのであった。

「失礼して、横にならせていただきます。こんなときに、舟酔いなどして、申し訳ありませんでした」
は、蚊帳へ入って帯を解く。
横になるには、帯が邪魔だ。
ついでに、着物も脱ぎ、
「襦袢も汗っぽくて---」
短い裾まわし一枚で横たわった。
上掛も使わない。
長谷川さま。お昼をお召しになるのでしたら、どうぞ。胃のぐあいがおかしいので、あたしはひかえます」

蚊帳ごしに、おの半裸の寝姿に見入っていると、頬を蚊が刺した。
ぴしゃりと平手打ちした掌に、血をいっぱいに吸った蚊がつぶれていた。
(こんなに吸われるほどに、おに見とれいたのか。剣術遣いとしては失格だな)
その仕草を見てていたかのように、
長谷川さま。そこでは蚊に襲われます。お袴をとって、中へお入りください」

銕三郎は、袴だけ脱ぎ、おに背を向けて横になった。
蝉しぐれに気づく。
「音羽のあたりだと、蝉も多いようですな」
「遠慮なさらないで、こちらをお向きください」
そうした。
目の前に、微笑んでいるおの顔と、豊満な乳房があった。

「お(くま 44歳)さんに叱られますね。でも、舟酔いでは仕方がありませんもの」
「おどのとは、用心棒とその雇い主だったということだけです」
「いいえ。ゆうべ、おさんに、すっかり聞かされました」
「あの人の妄想ですよ。あの晩、おどのは酔いつぶれいたのだから---」
「いいではございませんか。おんなから強請(ねだ)られるのは、男冥利というものでしょう?」

_
(国芳『逢悦弥誠』 お熊の酔いつぶれての妄想)

「いや、困る。おどのとは、天地神明に誓って---」
「あたしがおねだりしたら、どうなさいます?」
「おどのは、舟(ふな)酔いでは---?」
「それも生(なま)酔いと申しあげたら---鮒(ふな)酔いではなくて、鯉(恋)酔いだったら?」

ちゅうすけのつぶやき】『鬼平犯科帳』巻11[]p99 新装版p104 での、池波さんの駄じゃれ---
 「はい、なにしろ、お頭------」
 「叱っ。声(こい)が高い」
 「鮒(ふな)が安い」
 「うふ、ふふ------」
巻16[見張りの糸]p225 新装版p233 でも使われている。

参照】2008年4月23日][〔笹や〕のお熊 (4) (5) (6)

は、銕三郎の掌をとって、自分の乳房へあてさせた。
「赤子がさわっているように、やわらかく、もんでください---」
「いいのかな?」

「いっそ吸って---」
銕三郎がおおいかぶさって吸い始めると、背にまわした手で、たくみに帯の結び目をほどいて引きぬく。

吸いあったまま、いつのまにか、下帯だけにされていた。

裾まわしをとり、男の下帯も、もどかしげな指先がはずす。
男のものは、すでに巨砲だ。
仰角いっぱいに、反り返って---。

おんなの手がやさしく導き入れる。
おんなのものも、湧き、あふれ、燃えている。
双脚をあげて男の背で交差させる。
「あちらより、こちらは、11歳も若いのです」
「そちらより、拙は、11歳も若いのです」
「剣の腕も、こちらも、たのもしくて---」

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(栄泉『好色 夢多満佳話』 お留のイメージ)

寝転んで、話しあっていても、指は、お互いの芝生をもてあそんでいる。
おんなの芝生は、なお、湿っている。

「新しい敵をつくってしまった」
「なぜですか? 〔盗人酒屋〕の忠助さんに言われたように、これまでとは、すっぱりと縁切りです」
「そちらがその気でも、むこうが承知するか、どうか?」
「居所を知らないのですよ」
「捜すだろうな」
いちど躰があってしまうと、男の言葉づかいがいささかぞんざいになったことで、おんなは垣根が除かれたとおもう。
「〔橘屋〕に、逢いにきてくださいますか?」
「今日、〔橘屋〕の仕組みを見て、どうすれば密かに逢えるか、くふうしよう」
「きっとですよ」

芝生をつまんだり、引っぱったりしているうちに、その気が満ちてきた。
「舟の中で、舟饅頭は食べたことがないとおっしゃいましたが---」
「夜の辻君とも親しくなったことはない」
「丹精のし甲斐(がい)がありそう。まず、こう、いらっしゃいませ」
銕三郎が予想していたより、はるかに手錬(てだれ)であった。

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(栄泉『好色 夢多満佳話』 お留のイメージ)

参照】2008年8月1日~[〔梅川〕の仲居・お松〕 (1) (2) (3) (4) (5) (6) (8) (9) (10) (11)

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2008.08.05

〔梅川〕の仲居・お松(5)

南本所・二ッ目通りの弥勒寺(みろくじ)の山門前で、お(くま 44歳)がやっている茶店〔笹や〕に、身を隠したお(とめ 33歳)母子(ははこ)の着替えや身のまわりの品をつつんだ大風呂敷をはこびこんだ銕三郎(てつさぶろう 22歳)と岸井左馬之助(さまのすけ 22歳)は、お(きぬ 12歳)とその荷を伴って、四ッ目通りの〔盗人酒屋〕へ向かった。

を連れだすとき、おが毒づいた。
「なんだい、なんだい。熟(う)れおんな2人だけがのこされるんじゃないか」
「生憎(あいにく)と、若いむすめが好みなんですよ」
「青い実は、渋いだけだよう。引きかえ、熟れおんなの甘美さときたら---」
「熟柿は鴉(からす)の宝もの」

〔盗人酒屋〕は、いつもより看板を早め、板戸を閉めて、3人を待っていた。
飯台に置かれた冷酒(ひやざけ)とこんにゃくの炒り煮を、彦十(ひこじゅう 32歳)が、もう、つまんでいる。

雑司ヶ谷の料亭〔橘屋〕忠兵衛方でおを雇ってくれることになったと、銕三郎は〔(たずがね)〕の忠助(ちゅうすけ)だけに、目で知らせた。
知っている者が少ないほど、秘密が洩れにくいとおもったのだ。

気ばしをきかせて、おおまさ(11歳)が2階へ連れあがる。

さんから聞きました。松坂町の吾平長屋の差配には、話がとおったそうですね。明朝六ッ半(午前7時)にでも、差配に立会ってもらい、主だった荷をはこびだし、竪川にもやっている七五三吉(しめきち 24歳)の小舟にのっけて大川へ出ちまいます。大川へ出れば往来している舟にまぎれこめるから、めったに行方がわかるものじゃ、ありません」
「大川からは?」
「小名木(おなぎ)川へ入り、六間堀を横につっきって竪川へ戻る。そのまま四ッ目之橋下の舟着きへ、って寸法です」
「知恵も、そこまでまわると、たいしたものだ」
真正直な左馬が感心している。

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(南本所・深川 赤○=松坂町の 吾平長屋 青点々=舟のコース。上=大川 右=竪川 左=小名木川 横=六間堀 四ッ目の橋は下(東)枠のさらに下)

「その七五三吉どのは、信用できますか?」
銕三郎が訊く。
「もとは、あっしの子分みたいな男でして---小網町の奥川筋船積問屋〔利根川屋〕の船頭あがりです」

参照】七五三吉は、『鬼平犯科帳』巻4[おみね徳次郎]p213 新装版p223
女賊おみね 徳次郎

「それは重畳。荷運びが終わったら、拙に貸していただけませぬか?」
「どうぞ」
「では、四ッ(午前10時)に、五間堀の弥勒寺橋のたもとでもやっているように言ってください」
「どうするのだ?」
左馬
「〔笹や〕からおさんを、前の弥勒寺の境内へ入れ、塔頭(たっちゅう)・竜光院側の脇門から五間堀の舟へ、というわけ」
「その先は?」
「大川」
「それはわかっている」
「あとは、舟の舳先(へさき)に訊いてくれ」

日本橋川から江戸川へ入り、護国寺あたりまで行くつもりだな、と忠助は察した。

「ご亭主。柳橋の〔梅川〕のおのほうはどうしたものでしょう? 父上に、いまの火盗改メのうち、遠藤源五郎常住(つねすむ 51歳 1000石)さまにつないでいただこうかとも、おもっているのですが---」
遠藤源五郎常住は、千葉党から織田豊臣を経て徳川についた。その分、家柄を誇っている向きがある。とはいえ、遠藤一門の末のほうではあるのだが。

「火盗改メ方になにをお頼みになるのですか?」
「それは、遠藤お頭(かしら)と相談して---」
「いま少し、お控えになってください。おさんの身が落ちついてからでも遅くはありません。ところで、火盗改メのお頭はもうお一方(ひとかた)のほうが先任では?」
「よくご存じで---。細井金右衛門元利(もととし 60歳 廩米200俵)さまですが、このお方は、頼りにできませぬ」

参照】細井金右衛門元利は、2008年6月11日[明和3年(1766)の銕三郎] (5)
2008年6月12日[ちゅうすけのひとり言] (13)

【参照】2008年8月1日~[〔梅川〕の仲居・お松〕 (1) (2) (3) (4) (6) (7) (8) (9) (10) (11)

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2008.08.04

〔梅川〕の仲居・お松(4)

雑司ヶ谷の鬼子母神(きしもじん)への道をとりながら、銕三郎(てつさぶろう 22歳 のちの鬼平)は、昨夜の忠助ちゅうすけ 45歳前後)の気くばりをおもい返していた。

じつにあざやかなものであった。

「中村屋〕へは、これっぽっちの手がかりも、もちこんではなりませんぜ。このまま黙って、消えること。これを守らないと、命はないものとおもいなされ。とりわけ、〔中村屋〕へおさんのことで口をきいたお方---どういうお方かは存じませんが、今夜かぎり、ご縁をお切りになること」

(なるほど。お(とめ 33歳)ほどのおんなを、男が放っておくはずがない。〔中村屋〕へ世話をしたのも、松坂町の家を手当てしてやったのも、その男なんだろう。さすがに忠助どのは目のつけどころが鋭い。苦労人とは、ああいう人を言うのだな)

しきりに感心しながら、〔(たずがね)〕の忠助が盗賊〔法楽寺ほうらくじ)〕の直右衛門(なおえもん 40がらみ)の軍者(ぐんしゃ)だったということも、かんたんに納得した。

(〔初鹿野はじかの)〕の音松(おとまつ 37歳あたり)の軍者・〔舟形ふながた)〕の宗平(そうへえ 49歳あたり)と、〔法楽寺(ほうらくじ)〕の元軍者・忠助の機略・謀略合戦だ。
これは観戦するに値(あた)いする。
が、難儀なのは、おれがその渦中にまきこまれてしまっていることだ。
ま、なにごとも経験---)

考えごとにふけってばかりいたわけではない。
尾行のありなしをたしかめるために、なんども横道へはいったり、通りぬけかけから別の道へ出たりした。
疑わしい者は尾行(つ)けてはいなかった。
まだ、昨夜の今日なので、〔中村屋〕へは、まだ、手がまわっていないようだった。

けやき並木の長い参道のはずれを左に折れたところにある、料亭〔橘屋〕は静かなたたずまいであった。
まだ、五ッ(午前8時)だというのに、門から玄関までの石畳には、もう、水が撒(ま)かれている。

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鬼子母神 法明寺 『江戸名所図会』 塗り絵師:ちゅうすけ)

おとないをつげると、すぐに座敷へ通され、しとやかな所作(ものごし)の若い女中が茶をすすめて、下がった。
待つほどもなく、50歳がらみで、見るからに貫禄のある主人・忠兵衛(ちゅうべえ)が現われた。
長谷川さまの若と、ひと目でわかりました。お若いころの平蔵(宣雄 のぶお)さまにそっくりでございますからな」
宣雄からの書簡を差しだすと、その場で開封して読んだが、表情はいささかも変えない。
「お申し越しの儀、承知いたしました」
よろしく---と頭をげた。

「つかぬことを伺わせていただきますが、このおなご衆と若とのおかかわりは?」
銕三郎は、火盗改メをしていた大伯父のかかわりで、盗賊に入られた北本所の料亭〔古都舞喜(ことぶき)〕楼の聞き込みから、賊の1人が紅花染めの手ぬぐいを持っていたことI、女中頭・おが気づいたこと。
そのことが『読みうり』に載って賊に知れ、いまは両国橋東詰、尾上町(現・墨田区両国1丁目)の〔中村屋〕へつとめ替えをしているおが賊に命をねらわれているのだと、手短に話した。

忠兵衛は、上得意をもつ高級料亭の主人らしく、わかりが早かった。
「そのおなご衆は、賊の一人とおなじ、羽前・棚倉藩、小笠原佐渡守長恭 ながゆき 28歳 6万石)さまのご領内の出身ということでございますな。では、当家へきてもらう前に、別の人別のあれこれを創らぬとなりませんな」

参照】小笠原長恭と大盗・日本左衛門の関係は、2008年7月6日[宣雄に片目が入った] (1)

「そういうものですか?」
「わたしのところのような商いのおなご衆は、座敷でお愛想口が多くなりがちでございます。どんなはずみで、羽前生まれということ洩れるやもしれません。
そうだ、当家の女中頭・お(えい 35歳)は、信州・北佐久郡(きたさくこおり)沓掛村の生まれです。そこはずっと天領で、御影(みかげ)のご代官所のお支配ですから、ご藩主のご交替年などに気をくばることもございません。
の従妹ということにして、信州言葉は、おいおい、習うこととにすればよろしいでしょう」

「どうして、沓掛のようにところのことにお詳しいのですか?」
長谷川さまのご当代がまだ、家をおつぎになる前で---若はお幾つでございますか?」
「22歳になります」
「それでは、若がお生まれになる前ですな。手前も、まだ、ここを継いでおらぬ身軽な時分で、世間を学ぶためと称して中仙道を道中しておって、ひょんなことから、沓掛宿で騒動にまきこまれたのを、長谷川さまに助けていただいたのでございます」

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(広重『木曾街道 沓掛駅』)

「父からは、聞いておりませぬが、そういうこともあったのですか」
「ほかに---なにか?」
「東海道の倉沢で海女(あま)に見染められたとか---」

参照】宣雄の倉沢での艶聞は、2008年1月12日[与詩(よし)を迎えに] (24)

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(歌麿『歌まくら』 海女のイメージ)

「存じませんが、あの気風(きっぷ)と剣さぱきでは、お若いころは、おなご衆が放ってはおかなかったでしょう。ふっ、ふふふ」
「まだ、なにか、ご存じですか?」
「いやいや。若いときの恥は、だれにもあることで、墓場へ入ってから、一人で冷や汗を拭(ぬぐ)っておればよろしいのです」

の家が見張られているようなので、衣類があまり持ち出せないのだと言うと、忠兵衛は、座敷着は四季にお仕着せがあるから、おしゃれを気どらなければ、当座の私服があれば間にあおうと。
「とは言っても、おなご衆は、着るものがなぐさみみたいなものですから、つらいでしょうがね」

長谷川家が赤坂から越してから---ということは、足かけ18年にもなるのだが---、
平蔵さまは、とんとお越しくださらないのです。若から、つよく、おすすめおきください」
つたえます、と言って辞去した。

の身のふり方がきまったことよりも、父・宣雄の隠されたいた別の顔を知って、帰りの足は軽かった。

途中、二ッ目の橋(二之橋ともいう)の通りの弥勒寺前の茶店〔笹や〕へ寄り、女将のお(くま 44歳)に、今夜ひと晩、お母子を泊めてほしいと頼むと、
「かまわねえけど、用心棒も泊まるのかね?」

参照】2008年4月22日~[〔笹や〕のお熊] (1) (2) (3) (4) (5) (6)  

「泊まったら、おどのとできてしまうのですよ」
「あたしの方が先口たよ」
「先陣あらそいは、軍法に違(たが)います」
「ばか、こけ。へっ、へへへ」

〔五鉄〕の裏口から入り、板場にいた三次郎(さんじろう 17歳)と目があうと、指が上を示した。
裏の階段から2階の奥の部屋へ行くと、岸井左馬之助(さまのすけ 22歳)もいて、夕餉を終えたところであった。
「奴ら、出てこないんで、拍子抜けしたよ」
「真昼の決闘があるは、ハリウッドだよ」
(まさか---)
「やはり、向こうも、昼間は遠慮しているのかな」

暗くなってから、〔五鉄〕の裏の猫道をつたって三ッ目の橋(三之橋とも)まで遠回りし、対岸の林町(現・墨田区立川1~4a)4丁目)を二ッ目の通りへ引き返して〔笹や〕の戸をたたいた。
戸口をくぐると、銕三郎左馬は、こんどは、二ッ目の橋をわたって〔五鉄〕へ戻り、お母子の大きな荷物2つを、二ッ目之橋を堂々と南へわたって、〔笹や〕へとどける。

が、銕三郎を脇へ引っぱって、
「あっちを岸井さんにまわすと、先陣あらそいをしなくてすむんだがねえ」
「お(きぬ 12歳)どのをどうします?」
「男が一人たりないね」
「まだ、12歳ですよ」
「今夜はあきらめて、果報を寝て待ってるよ」

【参照】2008年8月1日~[〔梅川〕の仲居・お松〕 (1) (2) (3) (5) (6) (7) (8) (9) (10) (11) 

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2008.08.03

〔梅川〕の仲居・お松(3)

「一ト晩もおけないほど、切羽つまっておりますのでございますか?」
(とめ 32歳)が、〔中村屋〕へ迎えにきた銕三郎(てつさぶろう 22歳 のちの長谷川平蔵)に、うらみがましい声で訊いた。

少し、酒が入っているようだった。
この仕事では、客からすすめられれば、受けないわけにはいくまい。

松坂町の吾平長屋へ、着替えを取りに寄りたいと言ったのを、
「そのようなことは、明日の昼間にしなされい。刺客が部屋で待ち伏せしているかもしれないのですぞ」
しかし、お母娘(ははこ)には、命を狙われているという危うさが、どうしてもぴんとこないのである。
それは仕方がない。
これまで、平穏に暮らしてきたのだから。

「男とおんなのあいだのごたごたなら、笑ってすまされます。しかし、相手は、命を張って盗みをはたらいている者どもです」
「でも、〔古都舞喜(ことぶき)楼のときから、もう、1年も経っています」

参照】2008年4月19日[十如是(じゅうにょぜ)] (3)
2008年4月24日~[〔笹や〕のお熊] (5)

「しっ」
松坂町の吾平長屋の木戸口の近くである。

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(竪川ぞい 〔紙屋]のあたりが松坂町)

とお(12歳)を大戸をおろして暗くなっている店屋の天水桶の陰へ押しこんでから、銕三郎は鯉口をきった。
じっと、待つ。

月から雲が離れ、青暗らい向こう、黒い影が2つ---。
と見るまもなく、右が匕首(あいくち)ごと突っこんできた。
刃を返して、棟(むね)で腕を払い、のめる腰を打ちするや、転瞬、左へ飛んで胴へ一撃。

2人とも、痛手で立ち上れそうもない。
尾行(つ)けられないように、それぞれの肩を棟打ちし、地面をのたうちまわらせる。
殺したのでは、あとがうるさい。

立ちすくんでいるおの手をとって、急いでその場をは離れた。
も、裾をみだしながら黙ってしたがう。
だれも声を立てなかったのが幸いして、木戸番も気づかなかったようだ。

初めてやった抜き身による闘いが、おもった以上にうまくいったことに、銕三郎も興奮しており、おの手をにぎりっぱなしにしていたことに気がついたのは、二之橋(二ッ目の橋)東詰の〔五鉄〕の灯を見たときであった。
さすがに右手は、無意識のうちにも、空(あ)かしている。
照れて、放(はな)そうとしたら、握りかえしてきて、
「このまま、つないでいてください。足のふるえがとまらないのです」
の量感のある胸が銕三郎の腕におしつけられ、さらに力をこめてにぎってきた。
単衣(ひとえ)の季節だから、直(じか)同然に柔らかみのある弾力が伝わってくる。

「おどのが笑っていますよ」
「おは、見なれているから、いいんです」

四之橋(四ッ目の橋)のたもとに人影が立っていた。
手をはなして、背に2人をかばい、みすえると、その人影がうごいてきた。
鯉口をきる。と---
っつぁんだろう?」
岸井左馬之助(さまのすけ 22歳)であった。
「なんだ、左馬さんか。どうした?」
{どうした---はないだろう。助っ人にきたんだ。彦十さんが知らせてくれてな」
その声を聞いたおは、つと寄り、また、銕三郎の手をにぎる。

忠助は、気をきかして、戸口は板戸もしめ、灯が外にもれないようにしていた。
裏口へまわる。
飯台には、〔風速(かざはや)〕の権七(ごんしち)、彦十(ひこじゅう)、それにおまさも顔をそろえていた。
銕三郎が、松坂町の吾平長屋の木戸口近くでの修羅場の顛末を話すと、
「やっぱり、そこまで、手がのびてきていましたか」
ため息まじりに忠助

左馬は、けろりとして、
「居あわせたかったなあ。本身が使える好機だった。っつぁんは、うまいことやったものだ」

銕三郎にぴったりとくっついているのを、さきほどから気にしていたおまさは、おを手招きして、さっさと2階に消えた。

左馬さん。明朝、おさんたちが手まわりの品を取りに帰るとき、つきそってくれないか。拙は、ちと、遠出をしなければならないのでな」
「遠出って?」
「秘密の所でな---」

忠助が、
「冷やですが---」
徳利ごと飯台に載せた。
まっさきに手をだしたのは、彦十ではなく、なんと、おであった。
「躰のふるえがとまらないのです」
一気にあふる。

さん。ほどほどにな。明日の朝は、岸井さまといっしょに吾平長屋へ行って、見張りをしなきゃならないんだからね」
「わかってやすって」

忠助が目で板場へ誘った。
「父上が、雑司ヶ谷のほうの店に口をきいてくださいます」
「〔舟形(ふながた)〕一味も、そのあたりまでは気がまわらないでしょう。ところで、おのほうはどうします?」
「火盗改メにひっとらえさせるには、証拠(あかし)がないことには---」
「連絡(つなぎ)が現われるとしても、ここしばらくは、控えるでしょう」
「さっきの2人のうち、どっちか、追いはぎということで捕えるんでしたね。でも、おんな連れでしたからね」
「ご無事がなによりです」

飯台へ戻ると、権七が、
「あっしの聞きこみがまずかったばっかりに---申しわけねえことで---」
「いいえ。あたしが紅花の手ぬぐいのことを、火盗改メにしゃぺったのがいけないのです」
「まあまあ、自分を責めあうのはほどほどにして、左馬さん。明日は、お2人が手回りのものを持ち出したら、夕刻まで、〔五鉄〕でかくまってもらうように、三次郎(さんじろう 17歳)を通して伝兵衛(でんべえ 42歳)親仁(おやじ)に頼んでみてくれ。夕刻には拙が引き取りにゆく」

「手はずがきまったところで、今夜のところは、おひらきに---。長谷川さまは、もう少しお残りください」
左馬は多不満げに、彦十は呑みたらなげに、権七はすまなそうな顔で、それぞれ、〔盗人酒屋〕を出た。
銕三郎は、左馬が旅所橋のほうへ行くので声をかけようとして、忠助に肩をたたかれ、声をのみこんだ。
長谷川さま。清水町の長屋には、もう、おさんはいませんよ」
「そうでした」

3人に、尾行(つ)けている気配がないのをたしかめてから、店の中へ戻った。
銕三郎の手を取って、
長谷川さま。今夜は、あぶないところを、お助けいただいたご恩は、一生忘れません」
「いや、お手柄は、忠助どのです。お礼をいうなら、忠助どのの勘ばたらきにおっしゃってください」
そっと手をはずそうとしたが、おは放さないばかりか、二の腕にまで手をのぱしてきた。

忠助は、苦笑いをおさえて、板場へ消える。
「おどの。真面目な話ですから、聞いてください」
「いつだって、真面目ですよ、あたしは、田舎育ちですから。だから、騙されてばっかり」
「呑みすぎましたね」
「いいえ。これっぽっちでは、酔いません」
「それでは、明日、決まってからお話しようとおもったのですが---」

雑司ヶ谷の鬼子母神の境内にあって、紀州家のご用達でもある料亭の〔橘屋〕忠兵衛方へ、父の推薦で、座敷女中として使ってもらうように頼みに行くことを打ち明けた。

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(江戸近郊大地図 赤○=長谷川邸 青〇=江戸城 緑○=雑司ヶ谷)

「うれしい。そんなにまであたしたちのことをおもっていてくださったのですね」
抱きついたとき、階段をおが降りてきた。
「ご不浄---」
母親の媚態にはなれっこの感じである。

「おどの。ただし、おさんといっしょは無理かもしれません」
「おさんなら、うちで働いてもらいます。おまさのちょうどいい話相手です」
板場から、手洗いの場所をおに教えにでてきた忠助が言った。

「おさんもいっしょに聞いて。襲撃に失敗した一味は、明日から、もてる力をあげて、おさんの探索にのりだすことは目にみえている。いっち、危ないのが〔中村屋〕だ。これっぽっちの手がかりも、もちこんではなりませんぜ。このまま黙って、消えること。これを守らないと、命はないものとおもいなされ。とりわけ、〔中村屋〕へおさんのことで口をきいたお方---どういうお方かは存じませんが、今夜かぎり、ご縁をお切りになること。〔中村屋〕そのものは、長谷川さまのお父上のはからいで、火盗改メが面子にかけて守りきるでしょうがね」

「それから、長谷川さま。お小さいお妹ごがいらっしゃいましたね?」
与詩(よし)です。10歳です」
「しばらくは、外出をお控えになりますように。人質にとられかねません。若さまがおさんたちを迎えに行った今夜のことは、〔中村屋〕のだれかがしゃべるでしようからね」
「一味があきらめるのは?」
「それより、火盗改メにおをどうさせるか、です」

【参照】2008年8月1日~[〔梅川〕の仲居・お松〕 (1) (2) (4) (5) (6) (7) (8) (9) (10) (11)



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2008.07.31

明和4年(1767)の銕三郎(14) 

「母上は、於嘉根(おかね 3歳)が可哀そうとお思いにならないのですか?」

箱根・芦ノ湯村から帰った銕三郎(てつさぶろう 22歳)が、母・(たえ 42歳)に迫った。
於嘉根の母親・阿記(あき 享年25歳)がみまかった。
於嘉根の父親は、銕三郎である。
4年前に、縁切りの東慶寺へ入る決心をして婚家を出た阿記と、偶然に知り合い、そういうことになった。

【参照】2007年12月29日~[与詩(よし)を迎えに] (9) (10) (11) (12) (13) (14) (15) (27) (28) (29) (31) (36) (37) (38) (39) (40) (41)


「それは、阿記どのがお亡くなりなったのですから、可哀そうは、可哀そうです」
「そのようなことを、言っているのではありませぬ」
「それでは訊きますが、すわいそうな場面にでも立ちあったのですか?」
「じかに、立ちあってはおりませぬ。しかし、於嘉根には伯父にあたる、阿記の兄・次太郎(じたろう 28歳)が、まもなく家業を継ぎます。その次太郎の嫁・お露(つゆ 20歳)どのは、臨月近いのです。その子が産まれますと、於嘉根の立場はぐんと弱くなりましょう」
「去年、わたくしが於嘉根さんを、わたくしの子としてお上にとどけ、長谷川のむすめとして育ててもいいと申しあげたとき、阿記どのはお断りになったのですよ」

【参照】2008年3月19日~[お嘉根という女の子] (1) (2) (3) (4)
2008年4月11日~[妙の見た阿記] (1) (2) (3) (4) (5)

阿記が生きていればともかく、あのときといまでは、事情がちがいます」
銕三郎の心配を、今宵、殿に申しあげてみます。それでよろしいですね?」
「はい」

銕三郎は、湯治宿〔めうがや〕の女中頭を長年勤めてきた都茂(とも 47歳)が、次太郎の次右衛門襲名とともに、〔めうがや〕を辞めてほかへ移るつもりだと言ったこと、次太郎の采配と推察したのだが、阿記の葬儀のあいだ、於嘉根を本家・茗荷屋畑右衛門(はたえもん 60歳がらみ)へあずけて、銕三郎のことを無視したことから、彼の悪意を察したのである。

夕食のときには、父・平蔵宣雄(のぶお 49歳)は、何も言わなかった。
膳が下げられると、茶をすすりながら、
銕三郎於嘉根のことだがな、去年までなら、齢を偽ることもできた。しかし、3歳にもなっていては、ごまかしようがない」
武家でないところからの養女は認められないから、そのあたりを偽装したとして、発覚すると、まず、役は召しあげられ、よくて謹慎、悪くすると、閉門・小普請入りになる。

庶民の手本であるべき武士(官僚)は、偽りごとを言ったりしてはならない、という法度の根本なのである。

とくに宣雄の場合は、両番(小姓組と書院番士)の家柄ではあっても、先代までは役料のつく地位にはのぼっていないだけに、その出世ぶりは嫉妬され、役を待っている幕臣たちが鵜の目鷹の目で落ち度がさがしている。

「わが家が置かれている実情は、そういうことだから、武家への養女はあきらめよ」
「ということは、町方へ、ということでございましょうか?」

「奥の考えでは、実家の妹に子ができないのがいる---そこの養女になら、話のもっていきようがありそうだとのことだ」

宣雄の内妻、銕三郎にとっては産みの母---の実家は、上総(かずさ)国武射郡(むしゃこおり)寺崎村の庄屋・戸村五左衛門方である。

「寺崎村でございますか?」
「それも、先方の意向をたしかめた上でのことになる」
「〔めうがや〕が、素直に、於嘉根を渡してくれましょうか?」
「そちは、どう、おもう?」
「いまのご当主の次右衛門どのはともかく、阿記の兄・次太郎がどういう難題をもちだしますことやら---」

「そのことなら、術(て)はないこともない」
「------」
田沼さまのお力にすがる」
田沼さま?」
「芦ノ湯村は、小田原藩のご領内だ」
「あ。田沼(主殿頭意次 おきつぐ 48歳 側用人 相良藩主)さまのご用人・三浦さまから、大久保(小田原藩主)さまのご用人へ---」
「湯治宿〔めうがや〕の本家は、畑宿の名主・茗荷屋畑右衛門と申さなんだか?」
「さようでございます」
「上のほうの地位を得ている者ほど、その地位を失うことを恐れるがために、権威に弱いものじゃ。言葉が悪かった---なじみたがる、とでも、言いなおしておこう」

参照】2008年1月26日[〔荒神(こうじん)〕の助太郎] (6)


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2008.07.29

明和4年(1767)の銕三郎(13) 

芦ノ湯村の入り口からは、走らんばかりの急ぎ足になった。
しかし、仙次(せんじ 22歳)のほうが、箱根の雲助として鍛えているだけに、さすがに、速かった。

「忌中」の張り紙がでている〔めうがや〕の戸口に飛びこみ、、次右衛門夫妻に弔意をのべている男の頭ごしに、どなった。
長谷川さまがお着きです」

その声に驚いた弔問客への断りもそこそこに、次右衛門(50歳代)は、ころがるように戸口へ走る。
姿をあらわした銕三郎(てつさぶろう 22歳)をかかえんばかりにして、
「遅うございました。長谷川さま。哀れでございました」
ささやくような小声が、たちまち涙声に変じた。
抑えていたものが、銕三郎の顔を見て、一挙に堰がきれたのだ。

聞きつけて、黒っぽい着物姿の藤六(とうろく 49歳)と女房で女中頭・都茂(とも 47歳)もとびだしてきた。
藤六は、都茂にすすぎの水をいいつけるとともに、次右衛門の躰をささえながら、やはり耳元で、
「若。よう来てくださいました。若が一昨日、お発(た)ちになることは、お殿さまから、3日前に速飛脚(はやびきゃく)便でいただいておりました。お嬢さまも、お待ちになっておりましたが---」
それきり、言葉をのんでしまった。
来たことが、なにか不都合なのかも知れないと察して、銕三郎も小声で、
藤六。報らせてくれたこと、礼をいうぞ。あと、仙次どのの世話を頼む」

次右衛門夫妻に阿記の部屋へ導かれた。
午後には出棺ということで、阿記は棺桶の中に、両膝を前で折って、納まっていた。
蓋があけられ、目をとじ、合掌した手に数珠をかけた、死出の白装束の阿記と対面した。

昨夜、夢で会った阿記よりさらに細っていたが、死化粧の顔は、芦ノ湯小町の面影をのこしている。
その頬をそっとなぜ、
阿記。許せ。しかし、昨夜、話しあえてよかったな」

次右衛門の女房・お(みつ 48歳)のほうが、落ち着いていて、
「昨夜とは、どういうことでございますか?」
「小田原の宿で、夢で会ったのです。そのとき、ずいぶんとはげまし、力づけてやったのですが---」
まさか、同衾したと、言うわけにはいかなかった。

「いえ。お殿さまからのお報らせで、若さまがおいでくださると教えてましたら、お会いするまで、逝くわけにはいかない---と気張っておりましたが、かえって安心したのか、その翌朝、急にいけなくなりまして---」
死因は、風をこじらせ、肺の臓にわるい虫が入り、高熱がつづいて、衰弱したのだという。

「若さまに、福をいただいたことを、くれぐれもお礼を申しておいてくれ---と、うわごとみたいにつぶやきまして---」

蓋に釘が打たれるまえに、銕三郎は、4袋のお守を阿記の懐に入れてやった。夢で触れた乳房のように、小さく固まっているのが悲しみを大きくし、おもわず、涙をこぼれた。

父が渡してくれてた舞い金に、道場の高杉銀平(ぎんぺい)師のそれと、〔馬入(ばにゅう)〕の勘兵衛(かんべえ)がとどけてよこした包みを表書きが「お見舞い」となっているのもかまわず、仏前においた。

都茂が、ちょっとと誘い、
「若さま。おつらいとはおもいますが、葬列にはお加わりにならないでくださいませ。於嘉根ちゃんの父親は、謎のままにしておいたほうがよろしいように、うちのとも話しあったのです。お嬢さまが、悲しみをこらえて、長谷川さまに報らせないでとおっしゃったのも、於嘉根ちゃんの将来をおもんぱかったからと、わたしたち夫婦は、推察いたしました」
「わかった。仰せにしたがおう。で、於嘉根は?」
「ご主人が、お会わせしないほうがよかろうと、畑宿(はたしゅく)の茗荷屋さんにお預けになりました」
「うーむ」

銕三郎は、出棺まで、4年前に宿泊し、阿記と最初の交わりをした離れで、刻(とき)をつぶすことになった。
仙次が帰るというので、もう一度、きつく問いつめたことを謝った。
仙次も、隠していたことを詫び、権七(ごんしち)親方によろしく伝えてほしい、と言って頭をさげた。

ひとりになると、阿記がもういなくなったことが、しみじみと胸にこたえてきた。
湯屋で、ぽちゃぼちゃと音をたたてて湯桶へ注いでいる温泉湯にも、阿記が裸で入ってきたときのことが、まるで昨日のことのようにおもいだされた。
食事は都茂が運んできた。
そして、跡継ぎの次太郎(じたろう 28歳)夫婦が、まもなく、あいさつにくることを伝えた。

次太郎は、阿記に似た面高(おもだか)の美顔だった。
修行に行っていた湯本の旅宿から実家へもどり、嫁・お(つゆ 20歳)を迎え、実務を引きつぐ準備をしているとのことであった。
の腹は、いまにもはじけそうなほど、ふくらんでいた。
阿記が、江戸で暮らしたいといえば、仕送りはきちんとしてやるつもりでおりました。なぜ、そうしないのか、手前どもには、納得できませんでした」
阿記どのは、於嘉根さんを、ご自身が育った山の空気のなかで育てたかったのではないのでしょうか」
「それだけではないとおもいますが---」
「と申されると---?」
「いや。本人が口にしたことがないので、兄として、申し上げることもないと存じます」
次太郎は口をとざしたが、銕三郎は、自分が非難されているとおもった。
幕臣の体面などにこだわらないで、側室とすればよかったのに、と言いたいのであろう。
しかし、それでは、阿記の純情と誇りを傷つけることになる。

次太郎夫妻が去り、都茂が茶菓を運んできた。
都茂さんは、葬列には加わらないのですか?」
「お嬢さんが土に埋められるところなど、見たくもありません」

「それより、次太郎さんを、どう、思います?」
「どう、って---?」
「口先上手ばかり、覚えてきてしまって---」
都茂どの。やがて主人になるお方ですよ」
「あの人が次右衛門を名継したら、わたしたちはお勤め先を変えるつもりです」
「なんてことを---」
次太郎夫婦に子ができることは、(阿記の悩みの一つであったのかもしれない。もっと察してやるべきだった)

しきたりにしたがって、白装束姿の村の者たちが棺桶をかつぎ、つづいて遺族と親類、その前後を白と赤の紙をひらひらと貼った細棹をもった子どもたちが、村はずれの丘の上の墓地まで葬列をつくって行くのを、銕三郎は、かくれて手をあわせ、見送った。

(今日のうちにも、箱根町の宿へ移ろう)

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2008.07.28

明和4年(1767)の銕三郎(12) 

明け方にかけて、さすがに、うとうとっときたらしい。

「お客さま。洋次(ようじ)とおっしゃる方がお見えでございますよ」
女中の声に起こされた。
「うむ。いま、何刻(なんどき)かな?」
「七ッ半(午前5時)でございます」
「いかん。寝過ごした」

門口には、〔馬入(ばにゅう)〕の勘兵衛(かんべえ)のところの、洋次(20歳)が、きのう同様、汗をふきながら待っていた。
平塚から小田原は4里(16km)---よほど、急いで歩いたにちがいない。

「今朝も、早発(だ)ちしたのでしょう。ご苦労さまです。して、何か?」
「親分から、これをお渡しするようにと、ことづかりました」

奉書に包んだ表には、[お見舞い]とだけ書かれていた。

こころづけを渡して洋次を帰してから、中を改めると、3両(いまなら50万円近い)---大金である。
これだけの金をはずんだわけを、推量してみた。

婚家先から実家へ逃げ帰った阿記(あき 21歳=当時)を、前夫・平塚の呉服店〔越中屋〕幸兵衛(こうべえ 25歳=当時)とともに、おどしたことの詫び料にしては、4年も遅れている。

参照】〔馬入〕の勘兵衛阿記をおどしにきた件は、2008年1月16日[与詩(よし)を迎えに] (27)

病気見舞いなら、直接、阿記の実家・芦ノ湯の湯治宿〔めうがや〕へとどければいい。
すると、阿記の病気見舞いにことよせた、銕三郎へのこころづけともとれる。
(こうしなければならないような、事件を起こしたのかな。それなら、昨日会ったときに、なにか言うはずだが---)

問屋場へ行くと、箱根道の荷物運び雲助・仙次(せんじ 22歳)が、
長谷川さま。お久しぶりです。〔風速(かざはや)〕の親方がたいそうお世話になっているそうで、ありがとうございます」
仙次どの。また、お目にかかれて、喜んでおります。いろいろ教えられているのは、拙のほうです」
「早速ですが、出かけますか?」
「よろしく、お願いします」
そう、応じて、荷をわたしたが、こころなしか、仙次に、目を会わさないようにしている感じに見えて仕方がない。
仙次という、さっぱりした気性の若者に、奥歯にものがはさまったような仕草は似合わない)

ちゅうすけ注】ここで、しなくてもいい説明をくわえると、雲助という呼称は、箱根道の荷運び人足にかぎって使う用語である。したがって、悪意のある呼称ではなく、逆に尊称の意味がこめられている。だから、旅人は「雲助どの」とか「雲助どん」とも呼んだと文献にある。

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懐中道中図 湯本←小田原)

で、山道に入ってから声をかけてみた。
仙次どの。〔めうがや〕の阿記どのの容態を、耳にしておられませぬか?」
「いえ。一向に---」
この答え方も、尋常ではない。
しかも、それきり、黙ってしまった。

(昨夜から今朝がたへかけてみた夢では、阿記は、おれを待ってくれたが---)

湯本を過ぎたあたりで、言ってみた。
仙次どの。最近、〔めうがや〕への湯治客の荷を運びましたか?」
「いえ。とんと---」
(ますます、あやしい)

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(江戸時代の旅人用の懐中道中図 箱根関所←湯本)

「途中、〔めうがや〕のご本家の、畑宿(はたしゅく)の畑右衛門どののところへ寄って、ごあいさつをしてゆきたいのですが---」
「さいでやすか」
(とりつく島がない---とは、まさに、このことだ)

参照】箱根山道の畑宿・茗荷屋畑右衛門は、2008年1月28日[与詩(よし)を迎えに] (35)

不安が高まってきて、おさえきれなくなり、ついに銕三郎は、立ち止まって訊いた。
仙次どのは、拙に秘め事をお持ちのように思えてなりませぬ。どうか、隠さずに教えてください」
「秘め事など、ありゃあしません」
「いいえ。そうではありますまい。ぜひ、お明かしください」
長谷川さま。それほど、あっしのことが信じられねえんなら、今日の仕事から下ろさせてくだせえ」
と、荷を銕三郎に渡そうとした。

「いや。拙が悪うござった。荷を自分で運ぶのは苦でもないが、友を失うのは、なによりつらい」
銕三郎がさげた頭をじっとみていた仙次が、意を決したように、
長谷川さま。頭を、おあげくだせえ。あっしが悪うごぜえやした。でも、これを長谷川さまにお告げするのは、あっしの役目ではねえと固くきめておりやしたもんで---。許しておくんなせえ」
「で、拙に告げることとは---?」
゛じつは---」
「じつは---? まさか---」
「はい、そのまさかでごぜえやす」
阿記が---」
「一昨日、お亡くなりになっちめえました」
「あっ」

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参照】銕三郎と阿記との出会い 2007年12月29日[与詩(よし)を迎えに] (9) (10) (11) (12) (13) (14) (15) (26) (27) (28) (29)  (30) (31) (32) (34) (35) (36) (37) (38) (39) (40)  


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2008.07.26

明和4年(1767)の銕三郎(10) 

「お客さま。お迎えがまいっております」

朝食を摂っている銕三郎(てつさぶろう 22歳 のちの小説の鬼平)に、旅籠〔小尾(おび)屋〕の女中が告げた。
朝六ッ半(午前7時)である。
やはり、昨日は無理がすぎたか、目覚めが、すこしおくれた。

「お迎え? 拙にか?」
こころあたりがない。
「江戸の長谷川さまでございましょう?」
「そうだが?」
「平塚の〔榎(えのき)屋〕さんから---とおっしゃっています」
馬入(ばにゅう)〕の勘兵衛(かんべえ 39歳)のところからだ。
勘兵衛は、妾に料亭〔榎屋〕をやらしている。

昨日の夕方、今朝の四ッ(午前10時)ごろ、馬入の渡しにかかると早飛脚(はやびきゃく)便を出しておいたのだが---。

門口へ出てみると、たくましい躰つきの20歳前後に見える若者だった。
洋次と申しやす。〔馬入〕の親分のところの若いもんでやす。お迎けえにあがりやした」
「お迎えって---洋次どのとやらは、夜っぴいておいでなさったのですか?」
馬入川西側から藤沢までは3里(12km)ちょっと。
「いえ。飛脚便が昨夜の五ッ(午後8時)に届きやして、親分が、おめえの足なら今朝七ッ(4時)に馬入を發(た)てば間にあうだろうって。これでも、身内衆のなかでは、一番の足速で---」
「それにしても、七ッに、よくまあ、渡し舟がありましたね」
「親分のお顔は、ひろうござんから---」
「それは、ご面倒をおかけした。では、食事を終えますから、お茶でもあがさってお待ちください」
風速(かざはや)〕の権七(ごんしち 35歳)の手配の結果である。

洋次どのは、〔馬入〕の勘兵衛どののお身内衆になって、何年になりますか?」
歩きながら、銕三郎が訊いた。
荷物はすべて、洋次が担いている。
軽いからいいと断っても、担ぐと言って、きかなかった。
銕三郎は手ぶらである。
「3年めえ、17のときに、入れていただきやした」
「親ごどののお仕事は?」
「北馬入の水呑み百姓でやす」
保々(ほぼ)どのの知行地のほうですか。それとも、代官所の?」
保々さまをご存じで?」
「4年前におなくなりになられた左門貞為(さだため)さまは存じておりますが、お世継ぎの貞丈(さだたけ)どのには20歳におなりだが、拙同様、まだ、ご出仕はないので---」
ほんとうは、面識はないのだが、かつて長谷川家の下僕をしていて、いまは芦ノ湯の湯治宿〔めうがや〕の女中頭・都茂(とも 47歳)と夫婦になっている藤六(とうろく 49歳)から仕入れた知識である。

参照】200年1月19日[与詩(よし)を迎えに] (29)

「へえ。お役人さまというのは、そんな細かいことまで覚えるんですかい? いったい、公方さまのお役人さまはどれほどおられますんで?」
「初目見(おめみえ)といって、将軍家に拝謁できるのが、ざっと5000家。そのうち、役をいただいているのが4000人でしょうか。役をいただいているというのは、仕事をあてがわれているという意味ですが---」
「その全部の顔と、家の中のあれこれをおぼえるんでやすかい?」
「そうありたいが、まあ、拙など、いまのところ、半分に通じるのがやっと---」
「半分だって、2000でやしょう? ひえっー」

つまらない話だとおもいながら、阿記(あき 25歳)の病気の加減を案じているより、こういう他愛もない話をしているほうが気がまぎれる。
それと、あとで勘兵衛は、銕三郎が話したことを、洋次から根掘りり葉掘り訊くにちがいない。そのためには、話しをふくらませておけば、保々家のためにもなろうというもの。

「いえ。うちは、保々さまの知行地のほうじゃなく、代官所支配のほうでやすが---」
「それはよかった。天(幕府)領のほうが取り立てがゆるやかですからね」
「それでも、おっ父(とう)の言い分では、代官所の手代なぞへの袖の下がたいへんだと」
洋次どののところのお父ごは、村役人かなにかを?」
「とんでもねえこってす。さっきも申しました、水呑み百姓でやすが、村の寄合からけえると、いつもこぼしておりやして---」

平塚宿の手前(東側)を流れている馬入川は、いまでは相模川呼ばれている。
相模国を代表する川だからである。

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(馬入村と馬入川 青小〇=馬入側←→中島村側の渡舟
鬼平の寛政年間に道中奉行制作の『東海道分間延絵図』
河原巾80間(144m 川巾46間(84m)とある)

渡しは、中島村の舟着きと、対岸の平塚郷馬入村の桟橋のあいだを往復している。
渡し賃は16文。
ただし、武家は払わなくていい。
武士姿の銕三郎につづいて、洋次も、払わないで乗舟した。
舟頭は、なにもいわなかった。
勘兵衛の勢力が、中島側にもおよんでいることがわかった。

〔榎屋〕では、勘兵衛が待っていて、戸口からの洋次の、
「親分ッ」
という声に、いそいそと現われた。

長谷川さま。お久しゅう」
勘兵衛どの。わざわざのお迎えのお手配、痛みいりました」
「なんの、なんの---。さ、お上がりくだせえ」
「いや。ご好意を無にするようですが、先を急いでおりますので---」
「そうでごぜえましょうが、お茶だけでも---」
「では、ほんの暫時」

「お父上がお先手の組頭にご出世だそうで---。おめでとうございます」
「もう、2年になります」
「火盗改メのお役も、まじかでございましょう」
「まだまだでしょう」
「お先手のお頭(かしら)ですと、先(せん)に火盗改メをなさっていやした、本多采女紀品 のりただ 53歳 2000石)さまと、ご同役ということに---」
本多さまのことを、よく覚えておられましたね」
「代官所出先の手代・鮫島(さめじま)さんに、本多さまや長谷川さまのお名をだすと、恐縮しますのでね。はっ、ははは」

参照】2008年1月31日[与詩(よし)を迎えに] (37)
2008年2月20日~[銕三郎(てつさぶろう)、初手柄] (1) (2) (3) (4)
2008年2月9日~[本多采女紀品(Kのりただ)] (1) (2) (3) (4) (5) (6)  (7) (8)

「ところで、〔馬入〕の親分どの。芦ノ湯の阿記どのの病状について、なにか、お聞きおよびではありませぬか」
勘兵衛は、一瞬、視線を宙にそらしてから、真顔になり、
「いいえ。一向に---」
銕三郎は、瞬時に悟った。
「先を急ぎます。失礼します。洋次どのは、いい若者ですね」

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(江戸時代・旅人携行の『東海道道しるべ』小田原←町や村)

その夜、銕三郎は、小田原の旅籠〔小清水屋〕で、まんじりともせず、夜中でも、箱根道を登りたいほどであった。


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2008.07.25

明和4年(1767)の銕三郎(てつさぶろう)(9) 

銕三郎(てつさぶろう 22歳)が、六郷(ろくごう)の渡しへついたのは、五ッ(午前8時)をまわっていた。
南本所を発(た)ってから、ほとんど速足(はやあし)の歩きづめである。
今夜の宿を、江戸・日本橋から12里12丁(約50km)、藤沢宿を予定していたための急ぎ足であった。

その藤沢宿は、いまの時期は、参勤交代の下り・上りが多いから、暮れないうちについて、泊まれる旅籠をさがさなければならない。
そうおもいながら、渡し舟が岸を離れるのを、じりじりしながら待っていた。

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六郷の渡し場 『江戸名所図会』 塗り絵師]:ちゅうすけ)

その姿がよほどの目立ったのか、45,6歳にみえる小柄で温和そうな男が、、
「お若いお武家さま。いま、向こう岸の舟着きで客をおろしている渡舟が、新しい客を乗せて岸を離れないと、この舟は出ません。お急ぎのご様子ですが---」
「見苦しいところがお目にとまったようで、相すみませぬ」
すなおに頭をさげると、
「手前のほうこそ、余計な口出しをして、お許しを---」

小柄な中年男は、供の若者になにかいいつけた。
供は、げじげじ眉で、もみあげからあごにかけて剃りあとも青あおと濃い若い男で、荷の中から煙草をとりだし、
「お頭から、一服差し上げろとのことです」
差しだした手首も、毛むじゃらけ。
指の表側にまで長い毛が生えているところをみると、体毛はおしてしるべしだ。
「ご親切、痛み入りますが、不調法で---」
「ほう。いまどきのお若い方にしては珍しい」
お頭と呼ばれた40男が、さも、感心したふうに首をふる。
「柳営は禁煙ゆえ、煙草ぐせのある者は、出仕したときに苦しむと申して、父が許してくれません」
「ご直参の武家方でございましたか。これは、とんだご無礼を---」
「なに、失礼は拙のほうで---」
(供も連れない一人旅の武士、何とおもわれたことか)

舟が岸を離れた。
長助どん。わしも、舟中では煙草はひかえておこう」
「へい」
長助(23歳=当時)と呼ばれた毛むじゃらけは、煙草をしまった。

長助にお頭とうやまわれている40男が、銕三郎をさとすでもなく、ひとりごとのように言った。
「しかし、煙草というのは便利なものですな。いままで存じあげてもいなかった、お逢いしたばかりのお武家さまへ、煙草をおすすめしただけで、こうして話の糸口がほぐれます。あなたさまが煙管におつめになるのは、1文するかしない量です」
「なるほど。拙のように、不調法な者でも、それなりに会話の糸口にはなりますね」
「泰平の世が100年より、もっとつづきましたから、人びとには、こうして、遠出や旅をたのしむ機会(とき)がふえました。見知らぬご仁とのおつきあいもふえるというものです。その中には、おのれの生き方を変えてしまうような妙案が、ふくまれていることもありましょう」

参照】煙管について---2008年1月29日[ちゅうすけのひとり言] (2)

銕三郎には、この男のものの見方が、天啓の一つとなった。
長谷川家はそうではないが、なるほど、男はもとより、むすめも母親の多くが煙草をたしなむ世の中になっている。それだけ、気をかるくする煙草の効用がみとめられているのだ。おのれは吸わなくても、煙草を携えて、一服すすめ、つきあいの糸口とするのも悪くない)

ちゅうすけ注】このときの〔蓑火〕の喜之助の言葉がよほど銕三郎の記憶にこびりついたのであろう、史書によると、長谷川平蔵=鬼平が江戸の町民から絶大な支持をうけたのは、町の番所が捉えた犯人は、番所にとどめては町会のものいりになるから、時刻かまわず、火盗改メの屋敷へ連行してくるようにと触れた。実際に連行していくと、当直の同心が、「遠路、ご苦労であった」と、蕎麦の出前をとり、煙草盆をすすめたという。
2007年9月2日[よしの冊子(ぞうし)](隠密はびこる)の最後尾。

対岸の久根崎(現・川崎市川崎区旭町)の舟着きで、会釈をして別かれた2人づれの、品のいい小柄なほうが信州・上田生まれの大盗・〔蓑火(みのひ)〕の喜之助(きのすけ 45歳=当時)、供の若者は美濃国方県郡(かたがたこおり)の尻毛(しっけ 現・岐阜市尻毛)生まれで、のちに独立をゆるされて〔尻毛(しりげ)〕の長右衛門(ちょうえもん)と名乗った男とは、銕三郎は知るよしもなかった。

参照】〔蓑火(みのひ)〕の喜之助
〔尻毛(しりげ)〕の長右衛門

もちろん、〔蓑火〕も〔尻毛〕も、若い武家が、20年後に、火盗改メのお頭となって自分たちに深くかかわった長谷川平蔵宣以(のぶため)とは想像もしなかった。

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(青〇=左:久根崎舟着き 右:六郷舟着き 赤〇=大師河原道印石
道中奉行製作 東海道分間絵図 川崎宿 寛政年間)

舟着きをあがると、すぐ左手へ入る細い道のとっかかりに、親指をつき立てたような大きな自然石に、
〔大師河原道印石(だいしがわら みちしるし いし〕)
と刻んだ柱石が立っている(上の絵図の赤〇)。
厄除(やくよけ)大師堂への参道道である。

銕三郎は、田圃(たんぼ)の中をくねくねとのびているその道へ入った。
前も後ろも参詣人だが、腰痛・膝の関節痛の治癒を願うのであろうか、杖にすがって歩いている男女が目だった。
阿記(あき 25歳)の病名を、藤六(とうろく 49歳)は書いてよこさなかったが、どこを病んでいるのだろう)

参照】[明和4年(1767)の銕三郎] (6)

祈祷のときに尋ねられたら困るな---とおもいつつ、1里(4km)ほど行くと、こんもりとした木立の中に、平間寺(へいげんじ)の屋根が見えてきた。
同寺が別当をしているのが大師堂である。

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(赤○=右:大師河原道印石 左:厄除大師堂への山門
道中奉行作成 東海道分間絵図 川崎宿 寛政年間)

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大師河原 大師堂 『江戸名所図会』 塗り絵師:ちゅうすけ)

参照】縁起は、2008年7月23日[明和4年(1767)の銕三郎 (7)

境内は、ひろびろとしている。
五ッ半(午前9時)前だというのに、参詣人が引きもきらない。 
納所(なっしょ)で、「病気平癒」祈願の護摩(ごま)紙に阿記の名を書き、祈願料をそえて差し出すと、受付の役僧は、形だけの合掌をし、その紙をさっさと三宝に載せた。
三宝にはすでに、数多くの名前札が積まれていた。

_150ちょっとがっかりしながら本堂に詣で、身代(みがわり)お守を一つ求め、携えてきたお守袋へいっしょに入れたが、なぜだか、拍子抜けした気分だった。
(それにしても、真言の宗徒でもない衆が、遠路、これほどに集まるのだから、この世は厄のタネにはこと欠かないということか。浜の真砂と盗人、厄災は尽きまじ---弘めの効用---紋次の仕事だ)

参照】2008年4月26日~[耳より紋次] (1) (2)

物売りの店の者に、往路を引きかえすのではなく、東海道の上り道へ出られる道筋を訊いて、1里の寄り道を取り戻そうとした。

神奈川宿(かながわしゅく)で早めの茶飯をとると、さすがに疲れをおぼえた。

陽がのびている季節でよかった。

長い道場坂(遊行寺坂ともいう)を下るとき、一遍上人の遊行寺へ阿記と詣でたことをおもいだした。
(あのとき、阿記はなにを祈願したのであろう)

参照】2008年2月1日[与詩(よし)を迎えに] (38)
この坂は、巻5[おしゃべり源八]p137  新装版p143ほか。巻15[雲流剣]p188 新装版p194 などに登場。

諏訪明神の前で、右に折れ、遊行寺の黒い山門の前を左にとると境川に架かる遊行寺橋。
これをわたると藤沢宿である。

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(遊行寺=赤○ 青小〇=諏訪明神 境川をわたると藤沢宿
左緑〇=本陣・蒔田源左衛門 右同=脇本陣・長尾屋長右衛門
橙〇=問屋場)

4年前に阿記たちと待ち合わせに使った本陣・蒔田(まいた)源左衛門方には、三河国吉田藩・松平(大河内家)伊豆守信復(のぶなお 49歳 7万石)の国帰りの一行が陣取っていた。
脇本陣の〔長尾屋〕も満杯だった。

蒔田の番頭の口ききで、〔小尾(おび)屋〕利右衛門方がとれた。
晩飯の前に問屋場へ行き、平塚・馬入(ばにゅう)の料理屋〔榎(えのき)屋〕気付で、〔馬入〕の勘兵衛(かんべえ 39歳)あてに、馬入川の渡しにつくのは四ッ(午前10時)前だろうと、速便(はやびん)を托した。
宛名を見て、問屋場の書役(しょやく)が目を丸くしたから、勘兵衛の威勢は、ますますあがっているようだ。

参照】〔馬入(ばにゅう)〕の勘兵衛は、2008年1月31日[与詩(よし)を迎えに] (37)

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2008.07.24

明和4年(1767)の銕三郎(てつさぶろう)(8) 

暁闇(ぎょうあん)の七ッ(午前4時)に、南本所三ッ目通りの屋敷を出た。
母・(たえ 42歳)と養女・与詩(よし 10歳)、女中・有羽(ゆう 32歳)、それに下僕・吾平(ごへえ 47歳)たちに、かぶき門の外まで見送られた。

参照】2008年3月28日~[於嘉根(かね)という女の子] (5)

与詩が小さなものを差し出した。
阿記(あき)姉上に、於嘉根(おかね 3歳)ちゃんにって、差し上げてください」
自分が縫ってつくったお手玉が2つだった。
与詩は、もう、自分で針がもてるようになっている。

阿記どのに、与詩は、もう、おむつは使っていないと、伝えておく」
「兄上の、意地悪」

参照】2008年1月28日~[与詩(よし)を迎えに] (35) (36)

気がついてみると、4人とも、阿記(25歳)を見知っている。
うち、3人は、母親となっていた24歳(=当時)の阿記だ。

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(歌麿『針仕事』 阿記と於嘉根のイメージ)

ひきかえ、銕三郎(てつさぶろう 22歳 のちの小説の鬼平)のなかの阿記は、若妻と娘のあいだを行ったりきたりする、芦ノ湯小町を面影とどめた、21歳のおんなのである。
(おもいでのなかのおんなは、どうしてもそうなる。おもいだしたときのお芙沙は、14歳のおれから見た、あの夜の熟しかかった25歳のお芙沙だし、おは18歳のお---いや、おはまだ19歳だから、いま会ってもそれほど変わってはいまいが---)

【参照】2008年1月2日~[与詩(よし)を迎えに] (13) (14) (15)
2008年6月2日~゜お静という女] (1) (2) (3) (4) (5)

短い道中でのあれこれの場面も---21歳のままの阿記だった。
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(歌麿『遊覧』 鎌倉への阿記の道中イメージ)

しかし、昼間の阿記よりも、夜の阿記とのほうをおもいだすことが多い。
そのたびに、股間が熱くなるので困る。
まあ、今日は旅用の野袴だから、そうなっても目立たないが---。

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(国芳『江戸錦吾妻文庫』 阿記のイメージ)

小名木川の河口に架かる万年橋を南へわたるころには、もう、明るくなってきていた。
早朝の涼しい風は、乾いていて、肌にこころよい。

わたる人影もない永代橋の東詰に、〔風速(かざはや)〕の権七(ごんしち 35歳)が待っていた。
「お気をつけて、行ってなせえまし。平塚の〔馬入(ばにゅう)の勘兵衛(かんべえ 39歳)どんには、荷物持ちの若(わけ)えのを出しとくように、小田原側の宿場問屋場へは、仙次(せんじ 22歳)の奴に、お待ち申しあげろと伝えてありやす」
仙次は、権七が箱根の荷運び雲助をしていたときの子分格の若い男である。

参照】〔馬入(ばにゅう)〕の勘兵衛は、2008年1月31日[与詩(よし)を迎えに] (37)
箱根の荷運び雲助の仙次は、2008年4月1日[初鹿野(はじかの)〕の音松] (2)

仙次どのも、そろそろ、兄貴分らしくなっていることであろう。ああいう仕事をしている人は、いまどきの旗本の若者とちがって、一人前になるのが早いからな)

「なにかと、恐縮」
阿記さまの具合がてえしたことがねえように、祈っておりやす。こいつぁ、例の足薬でやす。お使いくだせえ」
「かたじけない。この秘薬〔足速(あしはや)〕があるとは、こころ強い」

参照】足の凝りほぐしに効く妙薬〔足速(あしはや)〕は、2008年1月4日[与詩(よし)を迎えに] (15)

3年前まで棲んでいた鉄砲洲築地の屋敷へ通じる、稲荷橋をわたるころには、東の空に陽がのぼりはじめていた。
大川に、金色の帯が走る。
橋は、京橋川のほうにに架かっている。
右へ、陽を背に、京橋川ぞいに東海道へ。

品川から1里(4km)の大森は六ッ半(午前七時)すぎ。
名物の麦わら細工屋がならんでいる。

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(大森の麦藁細工の店 『江戸名所図会』
塗り絵師:ちゅうすけ)

いのししが目にとまった。

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(麦藁細工の亥、虎、熊)

(そういえば、阿記は、寛保3年(1746)生まれの亥(い)だったなあ。今年も2まわりめの亥年(いどし)だ。縁起ものだから、荷になるけど、一つ、買って行ってやるかな)
「干支(えと)を覚えていてくださいましたのね。うれしい」
そう言って喜ぶ、阿記の顔がうかぶ。

値段をきくと、5匁銀1枚だという。
5匁銀は、幕府が去年から鋳造をはじめ、12枚で1両と定めた。
銭(ぜに)は、いま相場がさがり、1両5000文前後だから、5匁銀1枚は420文ちょっと。

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(明和5匁銀)

いのししを手にとってはあったところへ戻し、また手にしている銕三郎に、店の亭主は、
「かさはありますが、軽いので、さして荷にはなりません。なんでしたら、お帰りのときまでお預かりしておきますが---」
「帰りでは、用がたりないのでな」

420文はちょっとした旅籠1泊2食・酒つきの値段である。
(これから先、どういうことが起きるかしれない。4年前の旅では、先々に父上が金を預けておいてくださったが、こんどは、わけがちがう。無駄づかいはひかえよう)

銕三郎がさらに思案していると、
「お武家さまですから、特別に1割お引きして、370文では?」
「いや---」
「350文がぎりぎりでございます」
「うむ。損をさせても悪いから、またのことにする」

銕三郎は、いささかこころ残りだったが、おもいきって、店をあとにした。

参照】文庫巻7[泥鰌の和助始末]で、〔泥鰌(どじょう)〕の和助(わすけ)が市ヶ谷田町の〔不破(ふわ)〕の惣七(そうしち)を松岡(まつおか)先生のお引きあわせといって訪ねたときに、身分証明の代わりに示したのが、大森村の名産・麦わら細工の鳩。p162 新装版p170
巻11[穴]で、〔平野屋〕の主人で元・〔帯川(おびかわ)〕の源助が、隣家〔壷屋〕の金蔵へ、かじりかけの甘藷(さつまいも)とともに置いてくる麦わらのねずみ3匹も大森村の細工もの。p122 新装版p128

(そういえば、阿記には、亥年らしく、おもい立ったら、つきすすむことしか考えないところがあったなあ。夜の床でも---。寅(とら)の拙は、阿記の狂おしいほどの熱情に、つい、あわせて、情けをそそぎこんだものだ。だからこそ、よいおもいでになっている)

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(国芳『江戸錦吾妻文庫』 阿記の事後のイメージ)

(それにしても、なにかというと、睦みあっているときの場面が、まず、うかぶのは、若さのせいかな。それとも、おからこっち、遠ざかってるからかな。われながら---)
「情けない。だらしない」
おもわず口にでてしまい、行きかった中年男の旅人が、不審顔で銕三郎を見て行った。

照れて、おもわず見上げた空に、鳶がゆうゆうと大きな輪を描いていた。
初夏も終わろうとしている。


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2008.07.23

明和4年(1767)の銕三郎(てつさぶろう)(7) 

「母上。東海道を上る途中、河崎大師(かわさきだいし)村の厄除(やくよけ)大師に祈祷を頼み、霊札でもいただいて行こうかと、思っているのですが---」

厄除大師は、『東海道名所図会(ずえ)』にこう、記されている。

大師河原平間寺 武州橘樹郡(たちばなこほり)川崎郷大師河原村にあり。真言宗新義。別当を金剛山金成(こんじょう)院といふ。
本尊弘法大師像。長(みのたけ)五寸(約15cm)。(略)
当寺の尊像は厄除大師といふ。寺説に云(いわ)く。

現代文に書き直してみる。

その昔---大治(だいじ)年中(1126~1130)、この浦に平間氏(ひらまうじ)という漁夫がいた。尾張国(名古屋あたり)から下ってきて、この浦で漁をなりわいとしていたものの、正直者のつねで、きわめて貧しかった。それでも仏を篤く信仰していたところ、42歳の厄年のある夜、夢に高僧が現われて告げた。
「わたしは、むかし、唐の国で自分の像を彫って、日本の有縁の地へ流れつけと海へ投げた。長年、海底に沈んでいたが、さいわいにも、この浦へ流れついた。おまえが網で曳(ひ)いて安置すれば、厄難を除滅し、長く富貴になるであろう。像がある場所は、毎夜、光明で知らせるから、そこへ網を投げよ」
高僧が告げて消えると、漁師は夢からさめた。
翌夜、光明を目じるしにして網を投じると、貝などが付着した大師の尊像がかかった。伝え聞いた衆が、厄を除いていただこうと、これを拝みに集まるようになった。
そこで、漁師はお堂を建て、平間寺と号し、村の名はだれいうともなく、大師河原となった。

母・(たえ 42歳)は、
銕三郎(てつさぶろう)。妙案とおもいます。だが、阿記(あき 25歳)さまの家が真言宗とはかぎりませぬ。もちろん、弘法大師さまが、功徳を、信徒とそうでない者とを区別なさるとはおもいませぬ。とはいえ、信仰のことゆえ、阿記さまがどうお受け取りになるかは、別です。ちょっとお待ち---」
自分の部屋から、2個のお守(まもり)をもってき、銕三郎(22歳 のちの小説の鬼平)の手に載せた。

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(左;熊野坐大宮 右;熊野速玉大宮)

一つは、熊野本宮大社---熊野坐(くまのにます)神社(現・和歌山県東牟婁(ひがしむろ)郡新宮町1100)。
もう一つは、新宮---熊野権現速玉(はやたま)大社(現・同県新宮市新宮1番地)。

「殿さまがお若くて、あちこちを旅してご見聞を深めていらっしゃったころに詣でて、お受けになってきたお守です。長谷川のご先祖に、駿州・小川(こがわ)から熊野へ逃れて、のちに熊野権現を勧請なさったお方がいらっしゃったそうですね。そのご縁で、熊野三山のうち、この本宮と新宮にお詣でになったと聞きました。神社なら、宗派ということもなく、また、長谷川家が勧請し、守護神ともいえる神さまとお知りになれば、阿記さまもお喜びになるのでは?」
「ありがたく、お預かりいたします。拙も、小川へ参ったとき、熊野神社に詣でました。阿記も、長谷川家から認められたと、喜びましょう」

司馬遼太郎さん『箱根の坂』の主人公・伊勢新九郎こと北条早雲(そううん)が庇護した今川家竜王丸(のちの氏親(うじちか))に、竜王丸・早雲派を援護した小川の実力者・豊栄(ほうえい 死後・法永)長者が描かれていることは、すでに紹介している。

参照】2006年5月23日[長谷川正以の養父]
2007年8月8日[銕三郎、脱皮] (4)

静岡のSBS学園パルシェで、ともに学んでいる中林さんが『林臾院五百年史』や『今川記』などでお調べになったところによると、天文5年(1536)---いわゆる「天文の乱」に、今川義元(よしもと)が氏親の次男・恵探(けいたん)を破って家督を継ぐが、そのとき、長谷川の本拠だった小川の城も焼かれ、城主・長谷川元長(もとなが)は大和へ逃避、のち、戻って義元へ仕えた。そのときに、熊野三山を小川郷へ勧請。それが現存する焼津市小川地区の熊野神社の縁起であると。

お守は、もう一つ、増えた。
明朝出立という夕刻、〔盗人酒屋〕のむすめ・おまさ長谷川家を訪れた。
_100「とっつぁんから聞きました。(てつ)兄さん、箱根の元恋人のお見舞いにいらっしゃるんだそうですね。(てつ)兄さんの恋人なら、まさの姉さんです。早い回復を、亀戸(かめいど)天神さんにお祈りして、お守をいただいてきました。お守なら、荷物にもならないでしょ。姉さんにあげてください」

(亀戸天神は、学問と手習いの神様だがなあ)
銕三郎は、そうは思ったが、おまさにそんな区別がつくはずはない。
神仏に祈れば、平癒すると信じているのである。
鼻の奥がじんと熱くなったが、さりげなく、
「ありがとう。阿記どのに、妹分・おまさどののことをきちんと話しておきます」

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2008.07.22

明和4年(1767)の銕三郎(てつさぶろう)(6) 

「父上。お願いがございます」
夕食の前に、銕三郎(てつさぶろう 22歳 のちの小説の鬼平)が、父・平蔵宣雄(のぶお 49歳 先手・弓の8番手組頭)へ頭をさげ、封書を差しだした。

「きょう、届きましてございます」
差出人を見た宣雄が、
「ほう。あの藤六(とうろく)からではないか」
「はい」
「大事なく、勤めているか?」
「それが---」

藤六は、4年前、45歳になるまで、長谷川家の下僕をしていた。
銕三郎が駿府へ、朝倉家からの養女・与詩(よし 6歳=当時)を迎えに行くときに、供をした。
そのときに知り合った箱根・芦ノ湯村旅籠〔めうがや〕の女中頭・都茂(とも 43歳=当時)と意気と躰があい、暇をとって夫婦になった。

【参照】2008年1月16日~[与詩(よし)を迎えに](27) (29) (32) (33) (34)
2008年3月28日[於嘉根という名の女の子] (5)

〔めうがや〕で下働きをしているその藤六が、速飛脚(はやびきゃく)便をよこしたのである。

文面は、阿記(あき 25歳)お嬢さまの躰の具合がよろしくない。お嬢さまは、あちこちに気をつかってか、知らせないでと都茂にはおっしゃっているが、銕三郎若さまに来ていただきたいのがご本心のようにおもわれるので、なんとか都合をつけて、お越しねがいたいというのが、手前ども夫婦のお願いで---一日でも早いほうがよろしいかと---。

宣雄は、手紙を内妻・(たえ 42歳)へわたし、読み終えるのを待って、
「どうしたものかの?」
「申しあげるまでもございませぬ。さっそくに発(た)たせましょう」
「そうじゃな」

銕三郎。支度のできしだい、旅発つように---」
「承知いたしました。母上、かたじけのうございます」
銕三郎。言っておくが、お前も知ってのとおり、先手の組頭に任じられてより、1500石にふさわしい供ぞろえを求られておる。しかし、おいそれと家従をふやすわけにはまいらぬ。したがって、このたびの旅には、供をつけてやるわけにはまいらぬ。なにごとも、そち一人でまかなういように---」
「心得ました。父上、3日のうちに発たせていただきます。とりあえず、このこと、速便で藤六へ報せます」

しばらく稽古を休まねばならなくなったことを師に告げると、わけを聞きとった高杉銀平(ぎんぺい 60歳すぎ)が、
「些少だが、於嘉根(かね 3歳)とやらという長谷川の和子への土産のたしに---」
紙につつんでわたしてくれた。

師の前を下がると、さっそくに岸井左馬之助(さまのすけ 22歳)が道場の外へ連れ出し、
「おふさどのの婚礼の日取りがきまった。5日後だ」
「なにをとぼけたことを言っておる。左馬さん、おどのをどう気なのだ?」

半月前、左馬は、隣屋敷の田坂直右衛門(70余歳)の孫むすめ・おふさ(19歳)が、本町の呉服商〔近江屋〕へ嫁に行くといって泥酔し、寡婦のおの家へ泊まったのである。
その夜のことは、おんなには縁の薄かった左馬にとっては、極楽で刻(とき)をすごしたほどの愉悦であったらしい。

参照】2008年7月19日[明和4年(1767)の銕三郎] (3)

そのことを、ぬけぬけと銕三郎に報告したものである。

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(国芳『葉奈伊嘉多』 あの夜の左馬とお紺のイメージ)

「そのようなことは、たとえ親友へも、話さないのが、相手に対するおもいやりというものだ」
「しかしな、銕っつぁん。あれが、女躰というものなんだな。精妙で、柔軟で、いたるところが淫らで、満ちて、底なしに欲しがって---」
「もう、よせ」
「いや、話したい---」
「勝手にしろ」

「そのあとも、会ったり、寝たりしているのか?」
「うん。毎晩でも抱きたい」
「ばか」

「おさんを、どうするのかってことだが、おさんは、いまのままでいいって言っているぞ」
「だから、左馬はお人よしっていわれるんだよ。あの人には、後ろに怖い男がついているのがわからないのか?」
「だれだ?」
「1年で、おどのを床(とこ)上手に仕込んだ男だよ」
「うん?」
「もう、会うな。火傷(やけど)する前に手を引け」
「だれが、床上手に?」
「亡くなったご亭主は、甘いものと酒気が躰中にまわっており、夜は役に立たなくなっていたって言ったろう」
「あっ」

「極楽へ、そうそう、たやすく行けたら、坊主どもがみんな職を失ってしまうわ」
「うーん」

旅支度に、ただでさえいそがしいのに、むりやり暇をつくり、〔盗人酒屋〕の忠助(40代)を呼び出し、事情をつつみかくさずに打ち明け、策を頼んだ。
しばらく考えていた忠助は、
「ようも、打ち明けてくださった。なんとか、手を打ちますから、安心して、箱根へいらっしゃってください」

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2008.06.06

お静という女(5)

屋敷を出がけに、母親・(たえ 41歳)に呼び止められた。

「殿さまからのお言いつけを伝えます。若いのだから夜遊びもいいけれど、お目見(めみえ)前のことゆえ、くれぐれも深入りをしないようにとのことでした。とりわけ、女の人を助けようなどとうぬぼれるでないと、釘をさしておけと、それは、きつく、おっしゃいました」
「心得ました」

屋敷から1丁の菊川橋のたもとの船宿〔あけぼの〕は、父・平蔵宣雄(のぶお 48歳 先手・弓の8番手・組頭)がたまに使っている。
「高橋(たかばし)で買い物をするあいだ、待ち舟をしてもらい、橋場でも待ち舟し、木母寺(もくぼじ)の舟着きまで、いかほどかな?」
〔あけぼの〕の女将は、銕三郎の顔をおぼえていて、
長谷川の若さまのことですから、200文(6400円)ぽっきりにおまけしておきましょう。待ち舟賃は、舟頭へのおこころづけいうことにいたしまして---」

高橋で降りて、常盤町3丁目の呉服太物の〔槌屋〕で、ことしの柄の浴衣をみているうちに、男女対(つい)の色ちがいの柄が目にとまった。
(大人げないな)
おもったが、おが憂い顔をくずして喜びそうだと、つい、求めてしまった。

万年橋をくぐり、橋場へ向かう舟の中で、
(あまいぞ、銕三郎
自分につぶやく。

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(手前=大川 左下=万年橋・小名木川 「霊雲院」の部分
『江戸名所図会』 塗り絵師:ちゅうすけ)

(癒(いや)し屋)
という言葉が、口からこぼれた。

そういえば、銕三郎が14歳の時に、三島宿で初穂をもいだお芙沙(ふさ 25歳前後=当時)は、後家になったばかりだったが、亡夫がかなり年長だったので、初めてという少年との出会いを望んでいた。

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(歌麿「歌満くら・後家の睦」 芙沙とのイメージ)

18歳の銕三郎の子を宿した阿記(あき 21歳=当時)は、婚家の姑にいじめられたこともあるが、自らが選んだ男との出来合いに満足していた。

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(国芳「江戸錦吾妻文庫」 阿記とのイメージ)

もきのう、最初の交わりが終わった時、歎声をもらした。
「お金のやりとりなしで、自分の気持ちにしたがった時って、こんなに高まるのですね。ふつうのむすめが好きな男の人とする時の自然な感じは、きっとこうなんでしょう、初めて知りました」

梅雨前の大川の、川面(かわも)すれすれに、燕が反転して飛び去った。

(そういう廻(めぐ)りあわせの男なのかもしれぬ。要するに果報者なのだ、おれは---)
自嘲ではなく、ほのぼのとしたものが胸に満ちた。

「若。橋場です」
船頭が声をかける。
「しばらく、待っていてほしい」
銕三郎は、砂尾不動院前の料亭〔不二楼〕で、ありあわせのものを折箱につめてもらった。

木母寺への舟着きにつけた。
梅若塚のあるこの寺号は、「梅」の字を「木」と「母」にひらいたものと聞いている。
境内に、〔武蔵屋〕と、植木屋半右衛門が料理屋に転じた〔植半〕という有名店があるので、舟でやってくる上客のために桟橋が設けられている。

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(木母寺 『江戸名所図会』部分 塗り絵師:ちゅうすけ)

の妾宅は、木母寺の南、水神宮と並んでいる。

50歳をすぎている船頭には、4文銭5枚に15文をそえてわたした。
きのう、お静から用心棒代としてもらった2分(半両)は、元禄二朱金が1枚に減っていた。

「用心棒、参りました」
大声で言うと、
「裏です」
と返ってきた。
裏へまわると、手ぬぐいを姉さんかぶりにしたおが洗たくをしている。
ゆうべ、銕三郎が寝着に使った浴衣を洗っているらしい。

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(歌麿 「洗たく」 お静のイメージ)

(そうなんだ、おは、母親が病没してからは、魚師の父親のために家事を引き受けていたのだ)
の家事のこなしぶりを見るのは、昨夕の食事づくりとともに、すがすがしく、快(こころよ)い。
銕三郎の肌に触れたものということで、小女・おに触れさせないで、おが自分の手で洗っているこころ根も感じとれた。

参照】 [お静という女](1) (2) (3) (4)

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2008.06.05

お静という女(4)

朝七ッ半(午前5時)すぎ。
さすがのお(しず 18歳)も、きのうの夕刻前から夜半までの睦みごとの疲れがでたか、唇をぽっちりとあけて眠りこけている。

銕三郎(てつさぶろう 21歳)は、衣紋架けから着物と袴をおろして、きのうの夕立でできた小皺を、手のひらで軽くととのえ、脇差だけを腰に、家を出た。
隅田(すだ)村から大川ぞいに南へ2丁で法泉寺。
その北側に点在する農家の一軒で、前庭の鶏にえさをまいている老婆に、ゆうべ、物置に投げこんでおいた仙吉長次郎のことを訊くと、
「あの悪がきどもが、また、なにかしでかしょりましかい?」
抜けた歯のあいだから、はじきだすようにつぶやく。
(たしかに、この辺の若者だな)

「いや、なに---たいしたことではありません」
しかし、老婆は耳をかさない。
「あの悪がきども、うちの鶏を2羽も盗みおってからに---のお、お侍さん」
銕三郎は、そうそうに引き上げた。

蚊帳の中から太刀をとって腰へ落とし、物置をあけて2人の足のいましめを小柄(こづか)で切ってやる。
「お主(ぬし)ら、婆さんの飼っている鶏を盗んだんだってな。火盗改メに注進すると、50叩きだな。そうされたくなかったら、鶏の代金を婆さんに払うことだ」
「あのぅ糞婆ぁ」
「なにか言ったか?」
「いえ。こっちのことで---」
「それから、ゆうべのことは、お頭(かしら)には内緒にしておいてやる。もし、お主(ぬし)らの密告で、火盗改メがこの家を探りにきたら、お主らの命はないものとおもえ。〔狐火〕一味は30人からいるのだ」
「おねげえがごぜえます。〔狐火(きつねび)〕とかのお頭へ、おれたちを配下にと、口をそえてくだせえ」
「ばかッ! お主らみてえなドジが、一味にはいれるものか。掟はきびしいのだ。女には手をださない。殺傷はしない。盗(と)られて困る者からは盗らない---この三ヶ条のうち、すでにお主らは二つも破っておる。婆ぁさんは鶏を盗られてこまっていたぞ。ま、身をつつしんで、三つの掟が守れるように修行しておけ」
「へえ」
2人は、ぺこぺこと頭をさげて帰っていった。
(これで、逆うらみはしないだろうが---)

井戸で水を汲んで、台所の水甕(みずかめ)を満たしていると、おがあらわれた。
「早くから、すみません。おの仕事がなくなってしまいます」
「そのおとやらの小むすめは、何刻(なんどき)にくるのかな?」
「七ッ(午前8時)です」
「それまでに、消えておかないと---」
「では、いそいで朝の支度をしますから、蚊帳の中で待っていてください」
「蚊帳?」
「蚊がひどいんです」
「分かりました」

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(歌麿「蚊帳の内と外」部分 お静のイメージ)

「だいじょうぶです。もう、中へははいりません。はいって、お目ざのウマウマをいただきたいのはやまやまですが、おがきてしまいますから」
蚊帳からでると、ゆうべののこりの飯を白粥にしたものと、梅干、きゅうりの糠漬けが膳にのっかっていた。
「どうして、白粥を?」
おまさちゃんに聞いていたんです。長谷川さまの朝は白粥と梅干だって---」
「そんなことまで、話題になっているのか?」
「だって、2人とも、手習い子ですもの。会えば、先生の話です」

「ゆうべの賊だが、ここから近い寺島村の若者でね。もうこないとはおもうが、〔狐火(きつめび)〕が戻ってくるまで、おまさどののところへでも避難しておく?」
「それより、(てつ)さま。今夜、用心棒に雇われてくださいませんか?」
「用心棒? 高いですよ」
「前金でお払いします」
は、用意していた紙包みを手渡した。

「いつもお帰りの時にお使いになっている船宿〔桜木屋〕の舟は、お使いにならないで---橋場の渡しで向こう岸の船宿か舟駕籠(舟ハイヤーのようなもの)の舟をつかってください。きょういらっしゃる舟も、いつもの〔秋本〕じゃない舟宿の舟できていただけますか?」
「わかった。そのようにしましよう。〔瀬戸川(せとがわ)〕の源七(げんしち)は勘がするどいから、船頭や船宿に手をまわしていないでもないからね」

【参照】[〔瀬戸川(せとがわ)〕の源七の項
2008年5月28日~[瀬戸川(せとがわ)〕の源七] (1) (2) (3) (4)

それぞれの船宿には、手習い出張師範用として、あらかじめ、源七が半年分の賃銀をわたしている。手習い師範代よりも舟賃のほうがはるかに高い。

寺島村の渡し場から対岸の橋場までの大川のわたし賃の6文は、銕三郎は武士なので払わなくてもいい。
橋場では、〔水鶏(くひな)屋〕という店名がおもしろかったから、この船宿の舟をたのんだ。
季節の野鳥の水鶏は、橋場の名物で、〔水鶏屋〕は、鳥が好む池をつくっているのだと、船頭が教えてくれた。この鳥の鳴き声はかわっていて、戸をたたくような、コツコツと鳴く。銕三郎はまだ、聞いたことがない。

がくれた用心棒代の紙包みを開いて、〔水鶏屋〕へ用舟賃を前払いした。
元禄二朱金が4枚(2分=半両)と、寛永通宝4文銭が20枚入っていた。明和南鐐2朱銀が鋳造されたのは6年後のことだ。4文銭も入れてくれるとは、細かいこころづかいである。

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(実物大 弘文堂『江戸学事典』より)

南本所の菊川橋まで、2朱金(約2万円)わたして、釣りを360文(1文=約32円)もらった。
船頭へのこころづけには、この中から50文に4文銭を2枚も足してやれば十分すぎるほどである。
ずいぶん、物の値段があがった。

夕方持参する寝着の浴衣を買っても、だいぶのこる。
最初は、家で使っている寝着をもっていこうと考えたが、やはり、真新しいので睦みあったほうが礼にかなっているようにおもった。なにが礼だか---。

(そうだ。橋場の料亭で、酒の肴をあつらえて、おみやげにしよう)
もともとはおの金なのに、気が大きくなっているのが、自分でもおかしかった。

参照】 [お静という女](1) (2) (3) (5)

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2008.06.04

お静という女(3)

「お召しになる湯あがり衣ですが、旦那のでよろしいですか?」
風呂から先にでたお(しず 18歳)が訊く。

「いや。3日したら〔狐火(きつねび)〕(45,6歳 京の盗賊・勇五郎)がやってくるのでしたね? その時、きちんと糊がきいた浴衣がないと不審がられましょう。きょうのことは、いつか発覚するとしても、なるべく遅いほうがよろしい」
「わたし、覚悟はできています」
「拙も、こころはできていますが、ことはできるだけ、穏便にすませるほうがいいのです」
「いいえ。このことで、さまにはご迷惑はおかけしません」
「それは、あとで話しあうとして、の浴衣があまっていたら、それをお貸しほしい」

女ものの浴衣を着た短い裾から、銕三郎の足首が2本、にゅうっとはみ出ている姿がおかしいと言って、おが笑った。
笑うと、憂い顔の目じりが下がって、少女の泣きべそのようになる。
いつも憂い顔をくずさないおとしては、愛宕下の水茶屋の茶汲み女になって以来、はじめて、躰の芯からあふれでた笑いだった。

「晩のご飯ですが、お酒はありますが、お菜が、鯵(あじ)の干物と卵しかありません。木母寺(もくぼじ)境内の〔植半〕か〔武蔵屋〕へでも食べに行きますか?」
「この浴衣で?」
「あ。わたしとしたことが---長谷川さまを見た人が、驚いて腰を抜かしたりして---」
は、また、笑いころげる。

1824
(木母寺境内の料理屋 『江戸買物独案内』1824刊)

「〔武蔵屋〕から料理を取り寄せたとしても、人の記憶にのこります。人目につくことは、できるだけひかえましょう」
「鯵の干物を焼きます。卵は茹でます」

2人は、火をおこして飯を炊いたり、魚をやいたり、まるで新婚夫婦のように、騒ぐ。
あれを取って---とか、水が足りないから汲んできます---といったことまでが、楽しくて仕方がないみたいに、おは、ずっと笑顔をたやさなかった。

酒は、おのほうが強かった。
「お父(と)っつぁんが元気な時は、相手をしていましたから」
酌をし、酌をされる---幼な子のままごとにも似ている。
このところ、酒もすこしはいけるようになっていた銕三郎は、ふだんよりは4,5杯多く、すごしたらしい。
いい酔いが自覚できた。

「こうして、おと呑んでいると、ふしぎに、酒がするすると、喉に落ちてゆく」
「うれしいことを、おっしゃってくださいます。あすも、ごいっしょに呑めればいいのに---」

「やかましい家なのです」
「そうでしょうね。お旗本のお家柄ですもの。でも、長谷川さまは、ちっともお気どりがなくて---」
「生まれが生まれなものだから---」
「あら?」
「父上がまだ家督なさっていない時に、知行地の名主のむすめに手をつけて、生まれたのが拙なのだよ。もっとも父上には、強運がついてまわっているというのか、おもってもみなかった家督を相続なされ---。だから、拙には農民の血が半分---」
「おっ母(か)さんは?」
「いまの母上。正式の内室ではないが、父上とずっといっしょに---」
「女としてはなによりのこと。うらやましい」

かすかな物音に、銕三郎は目覚めた。
箱枕にそわせて、おに手枕をさせていた左腕をそっと抜く。
下布団の右に横たえておいた太刀を引き寄せ、耳をすます。
カリカリという音---。
はっと気づいて、蚊帳を出、戸口へ。
太刀を抜く。
板戸のつっかい棒をはずす。
外の犯人は、戸締りの横栓と落しを、表から小刀かなにかで切りとろうとしているようだ。
そっと横栓を引き、落しをあげて、一気に戸をあけ、太刀で戸口をふさぎながら、躰を入れ替えて、外を見た。

2人だ。
すばやく、戸口から表へ出る。
賊は、口をぽかんとあけて、女ものの浴衣姿の銕三郎を見つめている。
「お主(ぬし)ら、こっちへこい」

2人は、銕三郎の指示のままに、家から離れた。
「斬リ殺して、大川へ投げこんでもいいのだが、同業のよしみで、見逃してやる。いいか、よく聞け。この家は、〔狐火〕とおっしゃる大泥棒さまの別宅だ。きょうは、遠国盗(おんごくづと)めに出ていらっしゃるが、あさってにはおもどりだ。おれは、用心棒。お主らの首ぐらい、一刀のもとに落すだけの修行をしている。それと、知恵がねえようだから教えてやる。同じ盗人でも、戸締りや錠をやぶって押し入ったら重罪だ。女を手ごめにしても獄門」
2人はふるえあがった。
「さっき使っていた小刀をこっちへ寄こせ」
すなおに差し出す。
「ばかッ!柄のほうをこっちへ向けてだすのだ」
それを、大川めがけて投げた。
かすかに水音がした。
舟行灯をつけて往来していた舟の船頭が驚いたろう。

切っ先を相手の胸に突きつけて、
「お主の名は?」
仙吉です」
「齢は?」
「23です」
「住まいは?」
「寺島村です」
「寺島は広い。寺島のどこだ?」
「諏訪明神の裏手です」
「よし。夜が明けたら、うそかどうか、確かめてやる」
「あ、間違えました。法泉寺の北脇です」
「よし。そっちの名は?」
長次郎ってんで」
「齢は?」
「19」
「住まいは?」
仙吉兄(あに)いの隣」り
仙吉。この家のことを誰から聞いた?」
「法泉寺の墓守の捨次から、若い女の一人ぐらしだと」
「よし。捨次は、明日の夜、斬りすてにゆく。仙吉長次郎の手足を縛れ」
それから、仙吉をしばった銕三郎は、ふたりを物置にころがして、
「明日、お前らの言葉に嘘がないとわかったら、縄を解いてやる。それまでここで寝ていろ。蚊ぐらいは辛抱するんだな」

_360_3
(向島・大川沿岸 隅田村、寺島村など)

気配に、起きてきていたおに、
「戸口を傷つけられたら、〔狐火〕が不審におもいます。幸い、わずかだから、真新しい傷口は、あすの朝にでも泥でも塗りこんでおけば気づかれないすみましょう。また、あの者たちを傷つけると、村役人へ届けなければならなくなります。それは困る。だから、あす、あの者たちの言ったことの裏をとったら、おどして放してやります。あの者たちをそそのかした法泉寺の墓守は、風をくらって消えるでしょう」

くぐって蚊帳へ入ったおが、燈芯を明るくし、立ったまま、
「長谷川さま。ほら、見て」
寝着の前をまくって、太ももをさらした。
内股に、一条の筋がたれている。
長谷川さまのお宝---」
「早く、拭きとりなさい」

時刻は、夢うつつに渕崎村の弘福寺の四ッの鐘を聞いた気がしたから、四ッ半(午後11時)をすぎたばかりとおもえる。

七ッ(午前4時)をまわると空が白む季節だから、
「もう、ひと眠りできます」
「いえ、眠れそうにもありません」
向きあっていたおが、左足を銕三郎の股へ入れて、
「お眠(ねむ)のお薬をくださいな」

参照】[お静という女] (1) (2) (4) (5)


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2008.06.03

お静という女(2)

横のお(しず 18歳)の横顔をながめながら、銕三郎(てつさぶろう 21歳)は、ある感慨にふけっている。

_300
(国芳『江戸錦吾妻文庫』部分 お静のイメージ)

女躰と情熱を共にしたのは、3年ぶりだった。
3年前は、芦ノ湯の湯治宿のむすめ・阿記(あき 21歳=当時)と、思いがけなくむすばれ、三島から鎌倉まで、4日ほど、いっしょに旅をした。
嫁に行って3年、子宝にめぐまれなかった阿記が、その4日のあいだ---というより、阿記のいい分だと、最後の夜、於嘉根(かね)をみごもって、縁切り寺で産んだ。

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(国芳『葉奈伊嘉多』部分 阿紀とのイメージ)

まだ一度も会ったことのないわが子の於嘉根は、阿記とともに実家にいる。
3歳である。

それなのに、こうして、おとできてしまった。
この女(こ)を嫌いではない。
むしろ、17歳という若さで、家のためとはいえ、45,6歳の中年男、しかも盗賊の頭(かしら)の囲われ者になったことに同情はしている。
だが、人の運命はいろいろである。
(きょうの雷鳴の中でのことが、おの人生を狂わせなければいいが---。身ごもっていたら?)

(いかん!)

どの。起きなさい」
「いい気持ち。もうすこし寝させていてくださいな」
「そうもしておれないのです。風呂場へ行こう」
「あら、どうして? 湯は沸いていませんよ」
「もし、孕んていたらどうします?」
「だ、い、じょ、う、ぶ」
「どうして、そう、きっぱりと言えるのですか?」
「女には、わかるのです。でも、どうして、沸いてもいない湯へ?」
「洗うのです。水で洗い流すのです」
「そんな---長谷川さま、3日後に、旦那がいらっしゃいます。仮に、ややができていたとしても、旦那の種と言いはれます」

「おどの---」
「お願いですから、2人だけのときは、おとだけ、呼んでください」
「では、拙のことも、銕三郎と---」
さま、にします」

たよりなげな憂(うれ)い顔で、自分の考えをいうより、男の言いなりになっているようなおの、別の一面を見たおもいだった。
(女は強い。いや、相手まかせのふりをして、ちゃんと、自分なりの生き方をするすべを身につけている)
そうおもいいたると、阿記於嘉根長谷川家にわたさなかったことも、なんとなくわかったような気がする。

初夏の明るい陽ざしが、蚊帳の細かい網目の影を、おの白い肌に投げかけている。
雷雲はすっかり去ているらしい。

さま。お力はもどりましたか?」
「えっ?」
「ここ---」
は、銕三郎のものを、やさしくつかんで、力(りき)ませる。

「好きあっている若い者同士が、自然にすることを、もう一度---」

終わって、しばらく恍惚としていたおが、蚊帳からするりとでて、薄物をまとった。
「風呂を焚きつけてきます。おがいるとやらせられるんだけど、いればいたで、こうは、おおっぴらに抱き合えないし---」

_360_2
(歌麿 蚊帳から出た女 お静のイメージ)

着物をまとうと、1,2歳若くなり、齢相応に見える。
狐火(きつねび)〕の勇五郎がきている時の、夜の気づかいの結果が裸躰にあらわれているようだ。
その気配は、湯屋で、おの裸躰を、見るともなく見たときに、より強くなった。
まだ、日没までたっぷり間があるので、風呂場が明るいせいかも知れないが、18歳のむすめらしい張りが、肌から消えている。
午後の遅い陽をうけた、腕のうぶ毛が金色に光っているのが、いたいたしい。

狐火〕の勇五郎は、よほどに風呂好きか、あるいは湯殿での情事が好みとみえて、妾宅の少ない部屋数の割には、不釣合いなほど広い風呂場に改築させ、外の明かりもしっかりとりこむようにしていたのである。

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(国芳『野光の玉』部分 お静のイメージ)

三島での風呂で見た芙沙(ふさ)は、25歳の後家だったが、それでも、いまのおよりもつやのある肌をしていたようにおもう。

_160_2乳房のふくらみも量感があったかも。
もっとも、14歳の時の、銕三郎としては初体験といえる女躰だし、7年間、おもいだすたびごとに美化しているはず。(右絵:歌麿『美人入浴図」 お芙沙のイメージ)

参照】2007年7月16日[仮(かりそめ)の母・お芙沙(ふさ)

そうなんだ、接した女の躰のどの部分であっても比較しては、男として、抱く資格がない。
いま抱いている人を、これこそ最高の女躰とおもいきわめて睦む。

(そうでないと、おれに抱かれて、せっかく、18歳のむすめのこころにもどろうとしているおに失礼だぞ)
自分に言いきかせる。

長谷川さま。若いむすめと若い男は、湯殿では睦みませんか?」
そこにあった糠袋で躰を洗っている銕三郎に、おがしなだれかかった。
どの。どうせ、夜になっても着物と袴が乾いていませぬ。どこかの暇な年寄りにでもお使い賃をわたし、拙の屋敷へ、今夜は帰らないと告げにいってもらいます。だから、そのときに、ゆっくり---」
「お泊りくださるのですね。一晩中、いっしょなんですね。うれしい」
は、銕三郎の小さな乳首をちゅっと吸ってから、湯桶に躰を沈めた。

ちゅうすけのつぶやき】
長谷川家のような400石取りの旗本の嫡男が外出する時は、ふつうなら、家僕が付き添う。
しかし、おの手習い師範のように、行き先と用件がはっきりしている場合は、省略することがある。
省略した時にきょうのような突発的な不都合(?)ができると、連絡手段にあわてる。

参照】[お静という女] (1) (3) (4) (5)


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2008.06.02

お静という女

どうして、こういう仕儀(しぎ)になってしまったのか、銕三郎(てつさぶろう 21歳)は、まだ、納得がいっていない。
蚊帳の中では、銕三郎の隣りに臥(ふせ)っているお(しず 18歳)も、すっかり安心しきって、全裸の腰のあたりに浴衣をかけいるだけだ。
腕は、銕三郎の下腹にあてたまま。

は、〔狐火きつねび)〕の勇五郎(ゆうごろう 45歳前後)という盗賊が、1年前から、隅田(すだ)村のこの家に囲っている女(こ)である。
大川ぞい左岸の隅田村は、梅若塚のある木母寺(もくぼじ)に近い。

狐火〕は、愛宕下の水茶屋の茶汲み女として働きに出たばかりの、すれていないおがいたく気にいり、相応の支度金を水茶屋にわたして引きとり、ここに囲った。
水茶屋への交渉も、法泉寺の納所の前の頭(かしら)の妾宅だったこの家を買う手つづきも、おの病気の父親への手当ても、〔狐火〕から頼まれた〔たずがね)〕の忠助(ちゅうすけ)が、中にはいってすすめた。

は、深川・平井新田のそばで漁師をやっていた金兵衛(きんべえ)のひとりむすめだが、母親の病死につづいて金兵衛も倒れたので、若い女がてっとりばやく金をつかめる芝の水茶屋へ出た。

_360
(木場の東の埋立地・平井新田は数十万坪、黄〇=大名の下屋敷。
緑○=町屋、漁師・金兵衛の家はその堀っぷちにあったろう)

憂い顔というのか、お本人はべつに意識はしていないのだが、たおやげなその風情を見かけた男性に、なんとか支えてやりたいという気持ちを起こさせてしまうらしい。
40歳も半ば、京都には本妻と8歳の実子、小田原宿にも妾・お(きち 31歳)を囲って男の子をもうけている〔狐火〕が、おにころりとまいったのは、女の子をほしがっていて得られなかった代償だったのかもしれない。
その証拠に、囲ってからのこの1年というもの、着せ替え人形もどきに、おに髪型や衣装をとっかえひっかえさせて、変容を楽しんでいた。

そうはいっても〔狐火〕は、京の河原町に上品で小じんまりした高級骨董屋も構えているし、お盗(つと)の地盤は京坂と近江、越前、飛騨、美濃、三河、遠江、駿府である。
江戸へ出てくるのは1年のうちに2,3度、大仕事のあとの骨休めだから、ひと月もは滞在しない。
小田原宿に置いていた妾・お(きち)は、本妻・お(せい 没年26歳)が病死したのを機に、3歳の又太郎ともども京・川原町の高級骨董店へ呼び寄せ、本妻が産んだ文吉も育てさせていた。
そのとき、小田原の家は、老僕夫婦にあずけままにしてあり、江戸への往還に宿泊していた。
は、又太郎文吉が16歳の年に病没した。行年38。

銕三郎が、〔狐火〕の勇五郎と右腕の〔瀬戸川(せとがわ)〕の源七(げんしち 50歳近く)を盗賊と見やぶったのは早かったが、火盗改メのお頭(かしら)の大伯父---長谷川太郎兵衛正直(まさなお 58歳 1450石余)には告げなかった。
狐火〕一味が、江戸と近郊ではお盗(つと)めをしていないことがわかったからである。

勇五郎源七を引きあわせたのは、〔盗人酒屋〕の主(あるじ)・忠助である。
まだ、居酒屋が店をあけない昼間で、銕三郎おまさの手習いに朱墨をいれいているところに来合わせた。
もちろん、京の骨董店の主人と一番番頭というふれこみであった。
銕三郎のほうは、旗本の次男として。

銕三郎忠助のひとりむすめ・おまさに手習いを教えているとわかると、〔狐火〕は、
「うちのおの面倒も見てもらえないですか。わたしは、ほとんど京都の店のほうにおります。おとともにすごせるのは年のうち、2,3ヶ月あるかなしです。この齢になって、おの手による恋文がもらえたら、これほどの幸せはありません」

そういうことで、銕三郎は、月に3回ずつほど、隅田村のおが暮らしている妾宅へ出向いた。かならず、〔相模(さがみ)〕の(ひこ)がつきそった。
彦十もおとおなじ手本を銕三郎からもらい、朱墨の手直しをうけた。
おまさとちがい、2人は、漢字からはじめた。
いうまでもないが、彦十の手習いのあゆみは、おの半歩にもおよばない。
彦十は、監視役としての手当てを、〔狐火〕から過分にもらっていた気配があった。

明和3年(1766)4月(旧暦)下旬---入梅前の蒸すこの日にかぎって、彦十が呑みすぎで供につかなかった。
高杉道場の稽古を終え、法恩寺橋ぎわの船宿〔秋本〕から、横川、源森川、大川とたどり、橋場の渡しの向島側の舟着きについたころから、空を真っ黒い雲が蔽い、下流の月島のほうで雷が鳴った。

妾宅に着き、
「雨がきそうだから、洗たくものを取り入れたほうが---」
と告げた瞬間、ザッーときた。
「おがきょうはきてくれていなくて---」
2人で取りこんでいるうち、ズブ濡れになった。
(さと 15歳)は、隣り村の関屋ノ里から通っている小女である。

座敷へ上がるまえに、2人とも着物を脱いで水をしぼる。
銕三郎は下帯一つ、おは湯文字だけ---顔を見合わせて笑った。
着物を衣紋架けにつるし、下帯も湯文字もとって、風呂場で躰をふく。

寝室になっている部屋には、蚊帳が半分吊ってある。
沼が多いので、4月になると、蚊がひどいのだ。
用がないときは、蚊遣りを焚くか、蚊帳の中にいる。

眼もくらむほどの雷光とともに家をふるわせるほどの大きさで雷が鳴った。
が耳をおさえながら、はずしてあった蚊帳の片側の吊り手をかけ、銕三郎の手を引っ張って蚊帳に入れた。
「雷の時は、蚊帳っていいますから---」

さっきより強い雷光につづき、ドカンと近くに落ちたような雷音に、おが悲鳴をあげ、銕三郎に抱きつく。
銕三郎も、おもわず、おの背中に手をまわした。

_360
(栄泉『艶本ふじのゆき』 お静と銕三郎のイメージ)

じっと待つ。
また、雷光と耳がやぶれそうな雷音。

の乳頭が銕三郎の胸で動いた。
顔をあげた。
憂いをふくんだといわれている瞳が、銕三郎を睜(みつめ)る。
形のいい唇がふるえた瞬間、光と雷鳴。
「えっ?」
聞きなおす銕三郎の口を、おの唇がふさぎ、銕三郎に抱きついたまま、自分から仰向けに倒れる。

曲げた膝で、上の銕三郎の両脇腹をしっかりとしめつける。
腰が小きざみにうねりはじめた。
「あ、止まらないのです。どうして?」
「こわがらないで---」
また雷光と爆音。

銕三郎をつかんで、導き入れた。
どちらも、熱いほどに熟しきっている。

終わって、おがつぶやいた。
「お金のやりとりなしで、自分の気持ちにしたがった時って、こんなに高まるのですね。ふつうのむすめが好きな男の人とする時の自然な感じは、きっとこうなんでしょう、初めて知りました」

雷鳴は遠ざかっていた。
どちらからともなく、ふたたび抱きあい、むさぼった。

いま、おは、くずれた髪をほどいて、横たわっている。

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(向島・大川ぞい 隅田村も鐘ヶ渕も切絵図下(北)部
尾張屋板)

ちゅうすけのつぶやき
剣客商売』の主人公の一人---秋山小兵衛おはるの隠宅は、綾瀬川が大川にそそぎこむ鐘ヶ渕である。池波さんが隠宅をここにロケーションを決めたのと、『鬼平犯科帳』文庫巻6[狐火]で、先代・勇五郎がおを隅田(すだ)村の妾宅に囲ったのと、どっちが早かったのだろうと、疑問が湧いた。

剣客商売』の第1話[女武芸者]は、『小説新潮』1972年(昭和47)新年号に掲載。
狐火]は『オール讀物』1971年(昭和46)4月号に掲載。

単純に比較すると、勇五郎のほうがさきに妾宅を構えたともいえる。
しかし、『鬼平犯科帳』の連載がきわめてあわただしく始まったのに対し、『剣客商売』のほうはかなり早くからノートがつくられ、隠宅の間取りなども設計されている。

ということで、決めがたいのだが、まあ、常識的に判断すると、おが先に住みついたと見たい。

参照】[お静という女 (2) (3) (4) (5)
[瀬戸川)(せとがわ)〕の源七 (1) (2) (3) (4)
[相模(さがみ)〕の彦十] (1) (2) (3) (4) (5) (6) (7) (8) (9) (10) (11) (12)


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2008.04.15

妙の見た阿記(その5)

「殿さまが阿記(あき 23歳)さまにお会いになるのは、なにも心配することはないのです。むしろ、祖父として、於嘉根(かね 2歳)を抱いてやっていただきたいと、阿記さまも願わしゅうおもっておいででしょう。こんな立派な祖父さまですもの」
「わしもできれば、そうしてやりたいが---」
(たえ 40歳)は、すこし眉根を寄せて、夫・宣雄(のぶお 47歳)に言う。

「気がかりは、銕三郎(てつさぶろう 20歳 のちの鬼平)のほうでございます。いまは、ご本家のご当主・太郎兵衛(57歳 火盗改メ・本役)さまのお手伝いに余念がないようですが、いつ、気が変わって、阿記さまとよりが戻るかと---」
「江戸と箱根では、よりを戻したくても、手がとどくまい」
「いえ、阿記さまは、銕三郎が声をかければ、すぐにも、箱根から於嘉根ともども、上府なさるおつもりのように見受けました」
「それほどに慕われて、銕三郎も幸せ者よのう。ふっ、ふふ」
「殿さまらしくもない---笑いことではございませぬでしょう。大権現(家康)さま以来のお旗本の長谷川家に、跡継ぎの男子を産む嫁がきてくれるかどうかの、重大事でございます」
も、大げさな。嫁の来手がなければ、その阿記とやらに、もう一人、つぎは男の子を産ませれば解決しないでもない」

「殿さまはやはり、殿方らしいお考えをなさいます。嫡子と庶子では、お上(おみ)の扱いが異なりましょう? 庶子を産まされる阿記さまのお気持ちもお察しになってくださいませ」

幕臣の場合、早く生まれた男の庶子がいても、家督の権利は、嫡男に優先権があることを、が言っている。

「待て待て。なにも、阿記鉄三郎の男の庶子のを孕んでいるというわけではあるまい。そういうこともあろう---と言ってみただけのことではないか」
「仮のお話でも、そうなった時の阿記さまの気持ちをおもうと---」
「これ、。まだ、どうもなっていないことを想像して、そなたが涙ぐむというのも、おかしいぞ」
阿記さまと、私とは、実の母子のように、こころが結ばれたのでございます」
「困った---妙なことになりおった。お、ここは、笑えぬ」

は、宣雄がまだ厄介者であったのに、婚儀もあげないで、銕三郎を孕んでしまった時の20年前の自分に、阿記を重ねているつもりであろうが、じつは、銕三郎をいつまでも「わが子」という母親の目でかばっていることには気づいていない。
この感情は、自然のもので、もつれると解きようがない。 

自室で切絵図を広げている銕三郎は、宣雄・妙の父母のあいだで、自分と阿記・於嘉根をめぐっての会話が交わされていようとは、つゆ、おもっていない。

ひろげているのは、北と南の本所、深川、そして下谷(したや)と入谷(いりや)・三ノ輪(みのわ)の彩色切絵図である。
当時の価格で1枚1分をこしていた。1両は4分、そして1両は学者たちによって10万円に換算されている(2008年4月現在)。
銕三郎の目は、とりわけ、深川・北森下町の長慶寺、本所の〔五鉄〕と緑町2丁目の料亭〔古都舞喜(ことぶき)〕、入谷の正洞院に目をとめては、その道筋を念入りにたどる。

〔五鉄〕から竪川ぞいに元町をぬけて右に折れて両国橋をわたる。
それから、神田川ぞいに柳原堤を和泉橋までたどる。
(しかし、ここで橋をわたったのでは、ほとんど武家屋敷と寺だ)

武家屋敷には、要所々々に辻番所が置かれており、盗賊一味が通りぬけるのはむずかしい。

_360_3
(神田川北側から下谷一帯の武家の辻番所=青〇)

(筋違(すじかい)門まで足をのばしてわたり、お成道を上野へ向かうとどうなる?)
やはり、辻番所を避けて入谷へ達することはできない。
(ということは、両国橋西詰か内神田---うん?)

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2008.04.14

妙の見た阿記(その4)

いうまでもなく、平蔵宣雄(のぶお 47歳 家禄400石 先手・弓の8番手組頭)は、妻女同様の(たえ 40歳)に感謝していることをかくさない。

そもそも、長谷川家の四代目・伊兵衛宣就(のぶなり)の三男として生まれた平蔵宣雄の父・藤八郎宣有(のぶあり)は、生来病弱で養子にも出されないで、宣就の厄介者のままで、宝暦13年(1763)に一生を終えた。享年は推定ではあるが70歳をはるかに超えていた。

210
(四代目・宣就から八代平蔵宣以など。 参考=本家・正直)

その宣有が30歳のころ、看護にきていたむすめとねんごろになった。牟弥(むね)というむすめは、平蔵(のちの宣雄)を産んだ。
牟弥の父は、備中・松山藩の浪人・三原七郎右衛門であった。
浪人する羽目になったのは、藩主に家督相続の手つづきの手落ちがあり、取りつぶされたからである。
浪人とはいえ、元は100石の馬廻役という主要な藩士であったから、牟礼はしっかりした教育を受けており、平蔵をみっちり仕込んだ。

参照】2007年5月21日~[平蔵宣雄が受けた図形学習] (1) (2)
2007年5月22日~[平蔵宣雄が受けた『論語』学習] (1)  (2) 2007年5月25日[平蔵と権太郎の分際(ぶんざい)]

牟祢もよくできた武家育ちのおんなであり、宣雄は受けた教育をありがたいといまでも感謝している。もっとも。史実には、その後の牟礼の行方をたしかめる手がかりはない。浪人のむすめとして市井にうもれていったのであろうか。それとも、長谷川家の厄介者の看護者であり、さらなるや厄介者(---平蔵宣雄)の母親として、長谷川家の片隅で一生を終えたのであろうか。

いっぽうのは、知行地の山家(やまが)育ちのむすめとはいえ、銕三郎の実母であり、のちにはstrong>長谷川家の主婦代理として献身的につとめた。
老いた病人の宣有ばかりでなく、臥せていることのほうが多かった六代当主・権十郎宣尹(のぶただ)、さらには夫の平蔵宣雄の正妻であり家つきだが、歿するまでの10数年間、起きあがりえたことのない波津の下(しも)の世話まで、時にはこなしたのである。

宣雄が、に頭があがらないのは当然だし、もっと感心するのは、歴代当主たちは女ぐせがいいとはいえなかった長谷川家で、銕三郎を産んで以後、その悪癖をぴたりと止めたのである。
(もっとも、銕三郎のお芙沙阿記のことは、例外である。まあ、家系なんだから、しばらくは修(おさ)るまいとおもうが)

_300_2
(英泉『浮世風俗美女競』部分 阿記のイメージ)

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(英泉『美麗仙女香』部分 お芙沙のイメージ)

これは、他人が類推することではないが、は、躰によほどの自信をもっていたのであろう。

「そなたは、阿記という女性(にょしょう)は、武家の奥には美形すぎると申したが、それほどの美人なれば、いちど、会ってみたいものよのう」
「殿さま。お齢(とし)をお考えさないませ」
「まだ、側室を持ってもおかしくはない齢だぞ」
「お持ちになりますか?」
「冗談だ。言ってみただけよ」
「よろしいのでございますよ、お持ちになっても---」

「なに、一はやらず、二はやめずという。持ったとしても、そちらまで、気がまわらぬであろうから、宝の持ちぐされになろう」
「宝のようなおなごが、おりましようか?」
「おるぞ。目の前に、一人な」
「お世辞も、ほどほどになさいませぬと、効きが薄れます」
「は、ははは」
「ほ、ほほほ」

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2008.04.13

妙の見た阿記(その3)

与詩(よし 8歳 養女)が、於嘉根(かね 2歳)がきたら、自分が使っていたおむつを、あててやるなどと申しているのでございますよ」
「は、ははは。女の子だの」
夕餉(ゆうげ)をすませ、銕三郎(てつさぶろう 20歳 のちの鬼平)が自分の部屋へ戻ったあと、(たえ 40歳)は、平蔵宣雄(のぶお 47歳)に茶を注ぎながら告げた。

銕三郎の子を産んだ、なんといったかな、その---」
阿記(あき)さまです」
「そうであったな。このごろ、新しく知った人の名が、どうも、覚えきれぬ---齢(とし)だな」
「なにを仰せられます、殿さま。50歳には、まだ数年ございます」
「いや、役目の上でのお人なら、覚えるべく努めるから、まあ、不覚はとらないのだが、そうでないお人の名が、どうもいかぬ。あ、このこと、他言するでないぞ」

「その阿記さまでございますが、いかがいたしましょう? 銕三郎は、急に未練たっぷりになってきたようでございますが---」
「女性(にょしょう)との縁が、このところ、薄いようだから、過ぎた日の女性が恋しくなっているのであろうよ」
阿記さまは、武家の奥には、美しすぎます。最初のお嫁入り先は、平塚の太物(木綿衣類)屋の看板むすめとして望まれたらしゅうございます」
長谷川家の容貌(みめ)改良になったやも、しれなかったかな」
「まあ、殿さま。そのことに資(し)さないで、悪うございましたこと」
「許せ。つい、口がすべったわ」
「よけいに、傷つきました」
「は、ははは」
「ほ、ほほほ」

「そうか。銕三郎は、付きあう女性の容貌(みめ)にこだわる年齢を、まだ、抜けておらぬか?」
「殿方は、いくつになっても---」
「いや、そうではないぞ。見た目よりも、賢さ、やさしさぞ」

ちゅうすけ注】宣雄は口にこそしなかったが、いまなら、「テレビの時代劇の女性たちがそろいもそろってそれなりに美人なのは、江戸の実情を反映しておらぬ」と言ったかもしれない。
まあ、あれは虚構の世界のことだが。

「その、なんといった---そうそう、阿記であったな。うん、阿記於嘉根という子とともに実家をでて、江戸か近在ででも独り暮らしをするようにでもなったら、再婚先が見つかるまで、当家としても放ってはおけまい。何がしかの手当てをせねば、な」
「そうなさっていただけると、阿記さまも安心でございましょう」
「ただし、(てつ)には内緒にな」
「心得ております」

「美形というほかに、見てとったことは?」
「親馬鹿とおっしゃられるかもしれませんが、一と目で銕三郎の器量を見抜いた女性でございます、それはもう、若いに似合わず、しっかりなさっていて---」
「そこは、そなたと同じだな。冷や飯食らいのわしの器量を見抜いて、銕三郎を身ごもった---」
「あら。帯に手をおかけになったのは、殿さまのほうだったではございませぬか」
「たしかに指は触れた、が、解いたのは、が自分の手で---」
「20年も昔のことになりました。もう、忘れてしまいました」
「とぼけるでない。こまかなところまで覚えているくせに---」
「ほ、ほほほ」
「は、ははは」

は、『寛政譜』などでは、正妻としては記録されていない。側室という立場でもない。
宣雄が30歳、23歳、銕三郎3歳の寛延元年(1748)正月10日、かねて病床にあった六代目・権十郎宣尹(のぶただ)が34歳で歿した。
親類一統の手配で、急遽、宣尹の妹の養女願いが伺われ、認可されるや、つづいて宣雄との養子縁組が申請された。
それらの手続きがすべて終わり、公けに宣尹喪が発されたのは2月8日であった
もっとも、『寛政譜』のための「先祖書」の呈出は、半世紀後の寛政11年(1799)であったから、宣尹の入寂月日は菩提寺・戒行寺の霊位簿にしたがって申告された。

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(四谷・戒行寺 『江戸名所図会』部分 塗り絵師:ちゅうすけ)

戒行寺の霊位簿をいうと、宣雄が入り婿養子となった、『鬼平犯科帳』の鬼平の義母---波津(はつ)は、これまで幾度も記してきたように、婚儀の2年後の寛延3年(1750)7月15日に亡くなったことになっている。銕三郎5歳の年である。

それで想像しているのだが、波津は、20歳のころから病床にあって30歳をすぎてもふつうの嫁入りができず、宣雄との婚儀後も、いちども起き上がることはなかったであろうと。
だから、実際に家政を取り仕切っていたのは、であったろう。

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(戒行寺 長谷川平蔵供養碑)

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2008.04.12

妙の見た阿記(その2)

「母上。明日、左馬(さまのすけ 20歳)が、印旛沼の蓮根(れんこん)持参で、食事にまいります。馳走してやってください」
銕三郎(てつさぶろう)は、都合が悪いことは、すぐに、そうやってごまかします」
(たえ 40歳)は、いつものことと、あきらめたように苦笑した。
笑うと、目じりの皺(しわ)が深まり、目立つ。
(母上も、お齢をおとりになったのに、こんどの箱根行きでは、ご苦労をかけてしまった)

にしてみれば、気苦労どころか、初孫・於嘉根(かね 2歳)を抱いたり、阿記(あき 23歳)という一生の話相手ができたりで、若やいだ気分でいることを、銕三郎は見ぬけない。

岸井さまのご実家は、臼井で積荷船問屋も兼ねていらっしゃるのでしたね?」
「そのように聞いております」
「それゆえ、郷士のご身分なのに、商人のようにお気がまわるのです。ところの採れものの蓮根を江戸へ届けておけば、左馬さまが世話になっている家々へ配ることができると」
「言ってやりました。道場隣の、ふさどのの桜屋敷へも、蓮根を届けておくようにと」
阿記さまが、早く江戸へお住みになれば、蓮根を煮た時などには、持っていってあげられるのに。於嘉根は、もう、歯がはえてきているから、柔らかく煮れば、あの子も食べられる」
「抱いてやりたいな」
「なりませぬ。嫁にきてくださるお人のお許しがなければ、近寄ってはなりませぬ」
「心得ました」

阿記さまに似て、それは、それは、器量よしの女の子なのですよ」
「拙に似なくてよかった、とおっしゃっておられるようにも、受け取れますが---。ま、母上だけがお会いになって、拙も父上もまだ、顔も見ておりませぬ」

そこへ、与詩(よし 8歳 養女)が女手習所(おんな・てならいどころ)から戻ってきた。

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(春信『歳旦の錦絵』与詩のイメージ)

長谷川邸のある三ッ目通りをはさんた東西両側は旗本の屋敷ばかりだから、与詩が通っている菊川橋西詰の手習所は、師匠も女性なら、手習い子もすべて女の子。
つまり、武士の子は、男女7歳にして席を同じゅうせず---を生真面目に守っているのである。
「母上。ただいま、もどりました。きょうも、きちんと、お習字ができました。かね(嘉根ちゃんは、きました---まいられましたか?」
於嘉根が来ると、誰から聞きましたか?」

「きのう、母上が、父上に、もうしておられました。かねをひきとれたらと---。かねちゃんがきたら---まいられたら、わたくし、おむつをかえてあげます。わたくしのおむつ、のこしてありますね?」
「それは殊勝なおこころがけです。おむつは大切に仕舞ってありますよ。与詩のお嫁入りの荷物の中に入れてあげるつもりです。6歳までお寝しょのくせがあったと、お婿さまにお教えするために---」
「いやでございます---うそでしょう?」
「はい。うそ、うそ。でも、於嘉根は、ここへまいりませんよ」
「どこにゆけばあえますか? かねちゃんは、与詩のいもうとでしょう? そうですね? 兄上?」

「む。そういうことになるのかな---いや、そうでもあり、そうでなくもあり---」
銕三郎は言葉につまった。
正確にいうと、与詩には姪にあたる。

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2008.04.11

妙の見た阿記

阿記(あき)さまは、銕三郎(てつさぶろう)などより、よほど、大人です」
箱根から帰ってきた(たえ 40歳)が、ことあるごとに、そういってはばからないのに、銕三郎(20歳 のちの鬼平)は閉口した。

阿記(23歳)は、箱根・芦ノ湯村の湯治宿〔めうが屋次右衛門のむすめである。
嫁入り前は〔芦ノ湯小町〕とはやされていたが、18歳のむすめざかりの時、親類の実力者・茗荷屋畑右衛門夫妻の口ききで、平塚の太物舗〔越中屋〕幸兵衛(こうべえ 22歳=結婚時)に嫁いだが、姑とのおりあいが悪く、夫は姑の言いなりで、しかも嫁(か)して3年子ができなかったので、縁切りのつもりで里帰りの途中、銕三郎(18歳=当時)と出会い、実家の離れでしぜんに躰をあわせた。

参照】2008年1月1日~[与詩を迎えに]  (12) (13) (14) (15)

鎌倉の尼寺・東慶寺に駆けこみ、み仏のお情けで嫁家との縁が切れるのを待っているうちに、女児を産んだ。銕三郎の子である。

参照】2008年2月1日[与詩を迎えに] (38)
2008年3月20日[於嘉根(おかね)という名の女の子] (1) (2) (3) (4) (5) (6) (7)

銕三郎は、箱根からの旅籠賃を、阿記さまに払わせなかったそうですね」
「そのう、まあ、分けるもの水くさいとおもいましたので---」
「藤沢宿から江ノ島、鎌倉は、阿記さまの都合で遠まわりしていただいたのだから、せめて、この分だけでもと、2年間包んでおいて、時がくれば---と、お待ちになっていたのです。さすがに商家育ちのお人、お金のけじめをきちんおつけになる」
「はあ---?」
「人と人が付きあっていくおり、金銭はきちんとしないと、長つづきしません。私は、農家といっても山持ちの家育ちですが、山の木は、育つのに何十年もかかります。気が遠くなるほどの長い目でやらないないと、やっていけません。人との付きあいも2代、3代と長くつづく場合のことを考えて仕切ります」
「------}
「お武家は、金銭のことは避けておくほうが潔いと考えていらっしゃいます。そのくせ、役についた時のご挨拶のご招待のお料理がどうとか、お土産の菓子舗の格がどうとか---金銭というものへの考え方が、どこか平衡を欠いておられます」
「------」
「そなたのお父上は、私の父のところに滞在なされて、新田開墾にもお立会いになり、山の植林も体験なさって、諸掛かり費用と実り成果ということをたえず勘案なさっておられました。ふつうのお侍のようではありませんでした。これは、損得勘定に似ていますが、まったく違ったこころ根です。私は、そなたのお父上のそういうお考え方を、尊敬申しあげてきました」
「------」
阿記さまにも、そなたのお父上と同じような考えのところがありました。お金のことを考えることを避けてとおらないし、お金を汚いものともおもわない---お父上が阿記どのにお会いなると、一と目でお気に入りになるとおもいます」
「さようですか」

「でも、阿記さまは、於嘉根を独りで育てるとお決めになっております。ほんとうに、こころ根のすわった、しっかりしたお人です」
「母上もお気に入ってくださいましたか」
「話そうとしているのは、そういうことではありませぬ。銕三郎は、将軍家へのお目見(みえ)がすむと、嫁迎えが待っております。その時、妻となるお人に、於嘉根のことを打ち明け、のちのちまで、長谷川家で面倒を