カテゴリー「076その他の幕臣」の記事

2009.12.14

小普請支配・長田越中守元鋪(もとのぶ)(3)

「それがしは、齢で、もはや酒をうけつけぬ躰となりましてな。息・元著(もとあきら 政之丞 36歳 小姓組番士)にお相手させますこと、お許しを---」
長田越中守元鋪(もとのぶ 74歳 980石 小普請9の組支配)が断ったのには、かえって銕三郎(てつさぶろう 28歳)が恐縮してしまった。
政之丞元著は、父に似て長身痩身だが立ち居は、小姓組番士として練られてい、折り目正しく、しかも柔らかかった。

「遠慮もかないませず、ずうずうしく、ご馳走にあいなります」
「お相伴、あいつとめます」
ものなれた手つきで盃をとらせ、注ぐ。
(なるほど、桜田の館(六代・家宣)ご新規召しかかえの長田家のご栄達は、このそつのなさだな)

受けた銕三郎が、訊く。
「どなたさまの組にお勤めでございましょう?」
「西丸の中坊讃岐守秀亨 ひでみち 57歳 4000石)さまの組に---」

「1の組でございましょうか?」
「さようですが、なにか?」
中坊秀亨が駿府の町奉行をしていたときに、〔荒神(こうじん)〕の助五郎(すけごろう 55歳)一味の盗(つと)めを吟味したことがあると言おうとおもったが、自慢話にとられてもつまらないとおもいなおして、やめた)
中坊讃岐守は、あれから持筒頭を経て、小姓組番頭になっていた。

参照】2009年1月12日[銕三郎、三たび駿府へ] (

替わりに、
柴田日向守康闊 やすひろ 2000石)さまが小普請お支配のころに、父がそのお組に入っておりました」
柴田さまなら、てまえが本丸から西丸お小姓組へ移ったのと同日に本丸4のお組頭から組替えで転じてこられ、その組下iなりました」
半分居眠りらしていたような元鋪がことばを挟んだ。
「奇縁じゃの」

参照】2008年6月28日[平蔵宣雄の後ろ楯] (

同日づけで柴田日向守と政之丞元著が西丸へ移ったことが奇縁なのか、宣雄日向守支配の組にいたことがあったことを指しているのか、銕三郎は判じかねたが、うなずいておいた。
(父上は、目立たないようにしていたらしい)
「西丸のお小姓組に、初見(はつおめみえ)仲間の、長野佐左衛門孝祖(たかのり 28歳 600石)がおります」
「ここ、本郷元町に屋敷をお持ちの長野うじなら、3の組です」
「そのように、申しておりました」

参照】2009年6月17日~[銕三郎の盟友・浅野大学長貞] () (

また、元鋪が口をはさんだ。
「地下官人(じげかんじん)の中でも、高屋遠江守fはすこぶるつきの悪(わる)じゃ」

参照】2009年9月22日[御所役人に働きかける女スパイ] (
2009年9月23日[ 『幕末の宮廷』因幡薬師 ]

元著か゜苦笑まじりに躰を銕三郎のほうへかたむけ、
「どこも悪くはないのですが、耳が遠くなりましてな」
「上つ方のほうで、余人をもっては替えられぬとお考えなのでしょう」
{忘れられているのですよ」
「まさか」
「聞こえておるぞ、悪口は---」
元著が肩をすくめた。

銕三郎の勘ぐりは、
(余計な暗示を与えたかな---)


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2009.12.13

小普請支配・長田越中守元鋪(もとのぶ)(2)

「公家(くげ)方がお放しにならなかったのでございましょう」

銕三郎(てつさぶろう 28歳)のお世辞ともとられかねない言葉に、なんと、小普請・9の組支配・長田元鋪(もとのぶ 74歳 980石)は、老顔を莞爾とほころばせ、
「父(三右衛門元隣 もとちか 50歳=享保12年当時)が京都東町奉行として赴任したときは、それがしは28歳でしたがの、有徳院殿吉宗)さまの小姓組から小納戸に転じており、随行をお許しいただけませなんだ」

父の越中守の授称とともに、三右衛門を継承していた元鋪の、抜群の強矢(すねや)のためであったらしい。
狩を好んでいた吉宗にしたがっての猟場で、猪や鹿を射止める実績がかさなっていたために、吉宗が手放さなかったのである。

「しかし、父が在職5年が歳月のあいだに、それとなく結んでおいてくだされた公家衆との縁(えにし)が、20年後に禁裏付として着任いたすと、父・越中の嫡子ということで、たちまちに、よみがえりましての。京の歳月の進みは、江府の5倍も10倍もゆるやかですな」

「で、禁裏付をまる16年も---?」
「なじむと、京の水もおいしゅうござる。あ、長谷川うじは、なじむまもなく---?」
「いえ。いささかは---」
「ほう。お若いということは、なににもまして、甘いものに聡(さと)うござるな。それがしの禁裏付の発令は、人生の晩秋の51歳がおりで、しかも、妻同伴の身ゆえ、そちらのほうの楽しみは厳しい冬の晩ばかりでの---ふ、ふふふ」
「とても、まともにはお受けいたしかねますが---」
「それはさておき---」
とつぜん、越中守元鋪が口ごもった。

が、気分ほ変えたような口調で、
「お訪ねになった向きは、京の水の甘い、辛いの話ではござりますまい。本題は?」
「禁裏に働く、地下(じげ)の官人(かんじん)衆の印象を、お聞かせいただきたく---」
「なにゆえの、お尋ねかな?」

銕三郎は、お(かつ 32歳)という女化粧(けわい)指南師と、おのれの小遣いかせぎのために、お披露目(ひろめ 広告)入りの〔化粧読みうり〕を板行したが、禁裏の地下官人の女房やむすめたちが客としてこなかったので、そのものたちを惹(ひ)きつける企ての足しにと、お教えを乞うている、と告げた。

越中守元鋪はさすがである、銕三郎の眸(め)の奥までとどくような鋭さで瞶(みつめ)たが、すぐに光りをゆるめ、
「その化粧指南師は、どの商舗の?」

参照】2009年8月24日~[化粧(けわい)指南師お勝] () () () () () () () () (

堺町四条上ルの〔延吉屋半兵衛〕という白粉卸だと答えると、
「その店、たしか、禁裏御用の指定をうけているはずじゃが---?」
つぶやくように言い、すぐに察しをつけたか、
「長谷川うじ、まもなく夕餉(ゆうげ)の刻(こく)です。粗餐なれど、ご伴餐くださるまいか?」
「よろこんで---」

        ★     ★     ★


_180旧知の重金敦之さんから新著『小説仕掛人 池波正太郎』(朝日新聞 2009.12.30)が送られてきた。
ご念がいったことに、「謹呈」の献辞しおりとは別に、ハガキ大のごあいさつが挟まれていた。


「ご無沙汰しておりますが、お変わりございませんか。
早くも来年は池波正太郎没後二十年となります。
朝日ビジュアルシリーズで、「週刊 池波正太郎の世界」の刊行も始まりました。
小生も書き下ろしの「池波正太郎は捕手型作家だった」を中心に、『仕事人・池波正太郎』を上梓することができました。今まであまり知られていなかった一面を描出できたのではないかと、自負しております。
ご笑覧願えれば幸いでございます。
これからは、寒さもますます厳しくなのます。風邪には充分ご注意ください。
 十二月十日                                    署名


重金さんは、『週刊朝日』の編集者として、『食卓の情景』の連載を依頼、食通---というより、独特の酒食のエッセイを池波さんに書かせた人であり、9年にもおよぶ大河小説『真田太平記』の執筆によりそった編集者として名高い。
「保守型作家」という着目は、野村克也監督のことばを牽きながら、読み手をして肯首させずにはおかない発見であり、卓見である。
書店にならぶのは、いつだろうか? 池波ファンは、店頭で手にとり、第一章 池波さんは「捕手型作家」だった だけでも立ち読みし、挿架を決心なさることをおすすめしておく。

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2009.12.12

小普請支配・長田越中守元鋪(もとのぶ)

長田(おさだ)越中どのが8月19日の逢対日の八ッ半であれば、お待ちしている---とのお返事がいただけたということでございました」
納戸町の親戚・長谷川久三郎正脩(まさひろ 61歳 4070石 小普請8の組支配)のところの小者が伝えてきた、

長田越中(守)とは、先日、叔父・久三郎正脩に引き合わせを頼んでおいた、小普請9の組支配・長田元鋪(もとのぶ 74歳 980石)である。
4年前から、9の組の支配をつとめている。

役があてがわれていず、出仕していないお目見(みえ)以上、3000石以下の旗本を束ねているのが小普請支配である。
員数は時代によって増減があったが、この時期は12名。
役高は3000石---したがって、980石の長田元鋪には、2020石の足高(たしだか)が支給されている。もっとも、役高2000石の普請奉行からの栄転だら、足高だけでいうと、1000石(1000両相当)の増収ともいえる。

ついでにいうと、仲にたった長谷川忠脩が家禄し4070石なので役高の3000石を超えており、足高なしの持高(もちだか)勤めである。

指定された日の八ッ半よりすこし早めに、本郷水道橋の建部(たけべ)坂上近くの東側の長田邸を訪問した。

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(青○::建部坂上の長田越中守の屋敷)

余談だが、建部坂の坂名の由来は、坂下に旗本・建部邸(1400石 現・文京区元町公園)があったからである。
別名、春日坂とも呼ばれていた所以(ゆえん)は、幕臣宅が建つj以前、あたりは春日の藪だったからと。

ちゅうすけ注】ちゅうすけの住まいに近いので、さんぽコースの一つにしている、女子進学高校として高名な桜蔭校の裏手の道ぞいに下る坂である。

供の松造(まつぞう 22歳)が訪(おとな)いを乞うと、ちゃんと通じていたらしく、すぐさま、逢対の部屋とはちがう、書院へ通された。

待つほどもなく、痩身の越前守元鋪が、逢対のままであろう、きちんと袴をつけてあらわれた。
「お疲れのところ、申しわけございませぬ」
恐縮の体(てい)の銕三郎(てつさぶろう 28歳)に、
「お楽になされよ。8の組頭どのからは、ご用の筋はうけたまわってはおらぬが、京洛からお戻りになったばかりとか---」
気軽に話しかけてきた。

京都で、父・宣雄(のぶお 享年55歳)の葬儀を、千本出水の華香寺で執りおこなったとき、住職からこちらさまもあの寺をお使いになったと聞いたときりだすと、
「家族同伴で赴任したのじゃが、むすめが歿しましてな。わが家の菩提寺は、谷中・東寺町の法華宗・正運寺なのじゃが、葬儀はとりあえず華光寺であげたのござる」

ちゅうすけ注】正運寺の所在は、史書によっては三崎町と記しているものもあるが、場所は同じである。しかし、その後いずこかへ移転したらしく、現在は台東区内にはない。

禁裏付は、いろいろな理由から、妻子同伴の赴任がしきたりになっていた。
長田元鋪夫妻は、3人のむすめをえたが、2人は上洛前に病没しており、同伴した末のむすめも京でみまかった。

「拙のところの旦那寺は、四谷・須賀町の戒行寺で、同じく法華宗でございます」
寺の話から、気ごころが通じてしまった。

「で、長谷川うじ、ご用件は?」
「よしなきことで時をついやし、失礼つかまつりました。越中さまは、何年ほど、禁裏付をお勤めでございましたか?」
「そう---まる16年---異例の長きにわたり申した」
「摂家(せっけ)公家(くげ)衆がお放しにならなかったのでございましょう」


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2009.12.06

小普請支配(3)

「その長田(おさだ)越中守元鋪(もとのぶ 74歳 980石)どのですが、正脩(まさひろ 63歳)叔父ごのすぐ上の姉上がお嫁(とつ)ぎになった長田家とは?」
銕三郎(てつさぶろう 28歳)は、元服のあとあたりだったか、長谷川一族の系譜について、父・宣雄から聞かされたことがあった。

寛政譜』に記されている元祖は、三方ヶ原で家康の馬前で討ち死した、紀伊守(きのかみ 享年37歳)正長である。

ちゅうすけ注】『鬼平犯科帳』文庫巻3[あとがきにかえて]で、長篠の戦争---とあるのは誤記。

三方ヶ原の戦いの4年前、駿河・今川方の田中城(現・藤沢市)を守っていた紀伊守正長には4子がいた。
永禄11年(1568)、武田信玄軍の猛攻にあった正長は、一族郎党と城をで、浜松の徳川の麾下へ入った。
息子3人も従い、乳児だった男子は、駿府の東北の瀬名へ隠れ、長谷川家の本拠・小川(こがわ)の「川」と田中城の「中」をとって中川を姓として残った。

参照】2008年10月4日[ちゅうすけのひとり言] (25

浜松へ移った3児は、それぞれ、
藤九郎正成(まさなり 1750石)、
伊兵衛宣次(のぶつぐ 400石)、
久三郎正吉(まさよし 4070石)
として徳川の家臣にとりたてられた。

銕三郎宣以(のぶため)の家は次男の系統であり、正脩は3男の系統である。

もっとも、3男の家は、3代目・正相(まさすけ)の次々弟・久太夫正栄(まさよし)が稟米500俵を分与されて分家を立てた。

正脩は、じつはこの分家の
2代目の3男で、本家の養子に入った仁である。
正脩のすぐの姉もおなじく養女として育てられ、長田十右衛門守乾(もりなり 650石)に嫁(か)した。
長田家の本家(700石)は、知多の大浜を領したころ以来の世良田松平から改姓)広忠に与(くみ)していた家柄である。

正脩の姉は、嫁ぎ先で実子を産むことなく病死、継妻が入ったこと、13年前に守乾か64歳で歿し、継嗣が養子であったことなどで、
「交際は耐えていた」
「その大浜の長田一族と、小普請支配の長田越中守どとのかかわりは?」
平氏・良兼流ということでは、遠い祖先でのつながりはあったろうが、いまでは別流のようなものであろう。いやに、長田どのにこだわるな。出世の早馬といったのが気にいったか?」
「おからかいになってはなりませぬ。銕三郎をさような軽い男をおおもいでございましか?」
「ざれがすぎた。許せ」

銕三郎は、しばらく記憶をあらためていたが、
「もしかして、越中守どのは、京で禁裏付をなさっていたお方では?」

参照】2009年9月4日[備中守宣雄、着任] (

「御普請奉行から小普請支配におなりになったが、その前は、たしか都にお勤めであったような---」

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「お訪ねして、お伺いしてみたいことがあります。お引きあわせください」
「妙な頼みごとをするのではあるまいな?」
銕三郎をお見そこなわないでください」
「分かった、数日のうちに手配しよう。用が片付いたら、夕餉(ゆうげ)前に、養母(はは)がちょっと顔を見せてたもれ---とおっしゃっていたが」
「ご機嫌をうかがいましょう」


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2009.12.05

小普請支配(2)

「おととい、城中で朝比奈織部昌章 まさとし 54歳 500石)うじに話しかけられての---」
小普請支配を勤めている長谷川久三郎正脩(まさひろ 63 4070石)の、納戸町のひろい内庭に面した書院である。
「ほう」

参照】2008年6月29日[平蔵宣雄の後ろ楯] (14

銕三郎(てつさぶろう 28歳)は、40代の昌章しか知らない。
父にいいつかった季節の届け物を持参すると、在宅しているときには着流しで応対にあらわれ、父・宣雄(のぶお)の出世に、おしむことなく賀辞をつらねてくれた。
自分が、名流・朝比奈一族の末であることなど、意に介していないふうであった。
あとで父にそのことを告げると、織部どのは土屋家(2500石)からの養子だが、そういうことをまったく気になさっていないところができぶつなのだと教えられた。

「それで、朝比奈さまは、いまだに与頭(くみがしら)をお勤めなのですか?」
「なにをいうか。与頭の大練達で、すべての組の与頭が頼りにしておる。なにせ、もう、25年近くも与頭---という仁なのじゃ」
「それは、それは---」
「その朝比奈うじがな、平蔵どののご嫡子・銕三郎どのが跡目を継いで小普請入りなされるようだが---と、奥歯になにかはさまったような風情でな。あれは、奥祐筆に手をまわして、朝比奈うじの組---長田(おさだ)越中守)組へ入れるつもりのように見たがの」

「長田越中守さまと申しますと---」
「さきほど、手控え帳の名簿を見たであろうが」

9の組
長田越中守元鋪(もとのぶ 74歳 980石)
明和6年(1769)1月28日 70歳 普請奉行ヨリ
安永4年(1775)7月2日 76歳 辞

「最長老の---」
「不満か? そうではないぞ。小普請組中から役にふさわしい士を推薦するときに、もっとも発言力が強いのが長老で、しかも与頭が、同列の中での生き字引とあがめられておる朝比奈うじときておる。(てつ)どのは出世の早馬に乗っも同然じゃぞ」
「そういう仕組みでございますか」
備中(宣雄 のぶお 享年55歳)どのの出世が早かったのも、ご本人の実力もさることながら、朝比奈うじ、それに当時の柴田ご支配の引きたてが大きくものをいっておる---」

参照】2008年6月26日[平蔵宣雄の後ろ楯] (12

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(昌章・個人譜)


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2009.12.04

小普請支配

「こういうことも、書き記しておくと、ときには意外に役に立つ。これからは、書きものの時代じゃて」
長谷川久三郎正脩(まさひろ 63歳 4070石 小普請支配)は、別の手控え帳をもちだしてきた。

(たしかに、心覚えを書き留めておくことが、有能とみなされる時代なのかもしれないな。じつは、新しい着想が貴重とされなければなにも変わらないのだが---)
銕三郎(てつさぶろう 28歳)は、あえて沈黙を守り、帳面をのぞきこんだ。

小普請支配は、役務についていない3000石以下の幕臣を統括・通達・小普請金の集金を行う。
もちろん、3000石から5000石級の大身旗本が任じられるから、本人たちがその実務を行うわけではない。
実務は、各組に1名ずつつけられている組頭や世話役が担当している。

支配は、毎月の6日、19日、24日に逢対日に組下の訪問を受け、就きたい役職の希望や特技、家庭の事情など面問しておく。

銕三郎も、遺跡を継いだら、その日から役務を任命されるまで、小普請入りすることになっている。
ひょっとして、叔父の長谷川久三郎正脩の組に入れたら重宝だなとおもわないでもないが、幕府がそういう安易を許さないとは覚悟していた。

12組の支配のリストを掲げる(内の年齢=安永2年)

1の組
有馬采女則雄(のりお 62歳 3000石)
宝暦12年(1762)6月1日 51歳 新番ヨリ
安永3年(1774)10月24日 63歳 仙洞付

2の組
久世平九郎広民(ひろたみ 42歳 3500石)
明和9年(1772)7月12日 41歳 使番ヨリ
安永3年(1774)2月8日 43歳 浦賀奉行

3の組
渡辺図書貞綱(さだつな 57歳 3100石)
明和8(1771)11月1日 55歳 使番ヨリ
安永4年4月12日 59歳 甲府勤番支配  

4の組
奥田美濃守高甫(たかよし 42歳 3300石)
明和5年(1768)12月7日 39歳 新番組ヨリ
安永8年(1779)8月5日卒 48歳

5の組
牧野伝蔵成如(なりゆき 48歳 3000石)
明和9年(1771)10月26日 47歳 新番組頭ヨリ
安永5年(1776)11月29日卒 52歳

6の組
市橋大膳長能(ながよし 70歳 2500石)
宝暦12年(1762) 12月7日 59歳 使番ヨリ
安永3年(1774)9月24日 71歳 西丸留守居

7の組
岡野外記知暁(ともさと 54歳 3000石)
明和8年(1770)11月1日 50歳 使番ヨリ
安永5年(1776)10月15日 57歳 小姓組番頭

8の組
長谷川久三郎正脩(まさひろ 63歳 4070石)
明和8年(1771)9月28日 61歳 新番組頭ヨリ
安永3年(1774)4月21日 64歳 辞

9の組
長田越中守元鋪(もとのぶ 74歳 980石)
明和6年(1769)1月28日 70歳 普請奉行ヨリ
安永4年(1775)7月2日 76歳 辞

10の組
堀 三六郎直昌(なおまさ 55歳 2000石)
明和元年(1764)7月10日 46歳 使番ヨリ
安永3年(1774)10月24日 56歳 仙洞付

11の組
神尾若狭守春由(はるよし 54歳 1500石)
明和3年(1766)4月23日 47歳 日光奉行ヨリ 
安永7年(1778)12月1日 59歳 西丸留守居

12の組
青山喜太郎忠義(ただよし 51歳 3000石)
明和8年(1770)6月15日 49歳 使番ヨリ
安永4年(1775)2月4日 54歳 断家

もちろん、正脩の手控え帳には、安永2年(1773)の7月までしか記されていず、退任・転任の記録は、ちゅうすけが別の史料から補った。

ちゅうすけの手控えファイルである。
『寛政譜』をコピーして一覧性を高めるためにA3に貼りなおし、二つ折りにしてA4サイズにそろえ、さらに半分を折り返ししている。
メモなどを貼りとめ、データを補強してもいる。

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(ちゅうすけ作:安永2年在職の小普請支配12家の『寛政譜』綴り
色変わりの見出しラベルが9の組の長田家。引きだしたのは青山家)

名簿に目を通し終えた銕三郎に、
(てつ)どのは、いまは亡き備中守宣雄 享年55歳)が初めて小普請入りしたときのことを聞いておるかの?」
「幼少でございましたから、その後、なにかのおりに、柴田七左衛門康闊(やすひろ 50歳=当時 2000石)さま組であったと聞きました」

4年前の明和6年(1769)夏、麹町の栖岸院での柴田日向守康闊)の葬儀に、宣雄が参列したことは、はっきりとおぼえている。

「その柴田どのの与頭(くみがしら)に朝比奈織部昌章(まさとし 54歳=安永2年 500石)と申す仁がいてな---」
「お待ちください。その朝比奈どのの屋敷は、小日向(こひなた)の服部坂(はっとりさか)の上---」
「よく、覚えていたな。その仁が、引きつづき、9の組の長田(おさだ)越中どのの与頭をしておってな---」
「お懐かしい。父からいわれて、小日向のお屋敷へ季節のごあいさつをとどけたものです」
「さすが、備中どの。ご念がいってござったな」

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(長谷川久三郎正脩の個人譜)


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2008.09.30

書物奉行・長谷川主馬安卿(やすあきら)(2)

銕三郎どの。そのことは、評定所の書留(かきとめ)で、書物奉行の書庫にあるかどうか---」
長谷川主馬安卿(やすあきら 50歳 150俵)は言いわけをした。

銕三郎(てつさぶろう 23歳 のちの鬼平)の頼みごとは、老叔母・於紀乃(きの 69歳)の5年前に亡じた夫・長谷川讃岐守正誠(まさざね 享年69歳)が、延享4年(1747)から4年間、甲府勤番支配として赴任させられた因がなんだったかを知りたい---という、突拍子もない案件であった。

延享4年といえば、銕三郎が誕生して2年目である。もちろん、記憶があろうはずはない。
また、父・平蔵宣雄(のぶお 50歳 先手頭)からも、本家の主・太郎兵衛正直(まさなお 55歳 1070石余)からも一度も聞いたこともないし、尋ねたこともない。

また、当事者の讃岐守正誠は52歳、於紀乃が47歳のときの人事である。

「無理にとは申しませぬ。お分かりになるかぎりでよろしゅうでございます。ひらにお願い申します」
「一つだけ、お聞かせくだされ。何ゆえのお調べですか?」

銕三郎は、しばらく主馬安卿の顔を見つめていたが、
「甲府の軒猿(のきざる)にかかわりがあったかと疑念いたしまして---」
「軒猿とは---忍びの?」
「はい。ご内密にお願いいたしますが、ある女盗(にょとう)にかかわっておりまして、そのことにつながりがあるかとおもいついたものですから---」

銕三郎どのは、『孫子』の[用間(ようかん)第13]をお読みになったことはおありかな?」
「いいえ。第6の[虚実篇]は筆写いたしましたが---」
久栄(ひさえ 16歳)に写本させておいて、いかにも自分がしたように口ぶりで答えたものである。

長谷川主馬安卿は、そこは気にとめず、
武田信玄公が愛読していたという[用間第13]がわが奉行所の書庫にありましてな。傍書きがそれはそれはたっぷり---」
信玄公のものであれば、拝見いたしたいものですが、そもそも[用間」とは---?」
「間者(かんじゃ)の用い方を説いたものです」
「あっ---」


ちゅうすけのつぶやき】長谷川銕三郎の成長の過程で、かかわりのあったさのざまな幕臣の周囲を仔細に見ているのは、そうすることにより、幕閣のような実権をもった人たちではなく、光があたることは少ない下の層も示すことで、江戸時代の一端に触れられるとおもうからである。
ぜひ、ごいっしょに散策していただければ、うれしい。

コメントをお書き込みいただけると、とりわけ、嬉しい。

コメントがないと、o(*^▽^*)oおもしろがっていただいているのやら、
(*≧m≦*)つまらないとおもわれているのやら、
まるで見当がつかず、闇夜に羅針盤なしで航海しているようなわびしさ。

[コメント]をクリックし、窓の上の笑顔マークをクリックし、表情絵柄を選んでクリックして、つけてくださるだけでもいいのですが。
 

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2008.09.29

書物奉行・長谷川主馬安卿(やすあきら)

使いにだした老僕・太作(60歳)が、本所・石原町(現・墨田区石原2丁目)に屋敷がある長谷川主馬安卿(やすあきら 50歳 150俵)の返事をもらってきた。
「明後日は非番なので、お待ちしている」
とのことであった。

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(青〇=本所石原町・長谷川安卿屋敷 左斜め上=徳山五兵衛屋敷
=『おとこの秘図』)

長谷川安卿とは同姓ながら、縁戚ではない。
_100家紋も、銕三郎(てつさぶろう 23歳 のちの鬼平)の家紋は、左藤巴だが、主馬安卿のは、注連三枝松という変わった図柄である。
注連三枝松をつかっている長谷川家は、お目見(みえ)以上の幕臣では、安卿のところと、その本家にすぎない。

もっとも、本家といっても家禄は100俵10人扶持で、分家よりも低い。
祖は稲葉家の家臣であったというから、美濃系であろうか。
信長の死とともに、庶士となっていたのかもしれない。
綱吉が5代将軍となるときに、家臣団を充実させるために、神田の館に137人の土豪・庶士・不明者が雇われて幕臣化したという。(深井雅海さん『江戸城』 中公新書 2008.4.25)。
2家の長谷川は、その137人のうちであった。

2_360
(上=本家 下=主馬安卿の長谷川家)

主馬安卿は、書物奉行・中根伝左衛門正雅(まさちか 300俵 享年79歳)の後任である。
書物奉行の定員は4人。

参照】中根伝左衛門正雅  (A) (B) (C)   (D) (E)

中根正雅は、銕三郎をとくに気に入っていてくれ、なにかと世話を焼いてくれた。
自分が老齢(?)を理由に役を辞したとき、後任の長谷川主馬安卿を紹介してくれた。
「姓が同じゆえ、くれぐれも、よしなに頼みますぞ」

主馬も、
「同姓というのも、前世の因縁かもしれませぬ。それに、それがしの旧姓は、田中です。銕三郎どののご先祖は、駿州・田中城の城主でござったでしょう」
と、言ってくれた。

_360_3
(主馬安卿の実家・田中休愚右衛門喜古(よしひさ)の個人譜)

そのとき---明和2年(1765)---主馬安卿は47歳で、初めての出仕であった。
田中家から長谷川家へ婿養子にはいったのは28歳のときであった。
長谷川家のむすめばかり4人の、長女の婿となったのである。

_360_2
(長谷川主馬安卿の個人譜)

初目見は翌年。29歳。

家督は42歳とずいぶん遅かった
養父・甚兵衛安貞(やすさだ)が富士見宝蔵番(3番組)組頭としての400石の役高にこだわって、享年74歳で果てるまでこの役にとどまっていたからである。

銕三郎が訪ねると、嫡男・弥太郎(17歳)を引きあわせ、
「明年には初目見を考えております。こんごともよろしく、うしろ楯となってやってくださいますよう」
父親に似て、顔の四角な少年であった。

「拙の初目見は遅れており、今年あたりはもう逃がれられません」
銕三郎が自嘲すると、弥太郎少年が
長谷川さまは、どうして、遅くおなりなのですか?」
と、踏みこんできた。
銕三郎が釈明をする前に、主馬安卿がたしなめた。
「これ。はしたないことを申すでない。わしの初目見は29歳であった。長谷川どのにお詫びを申しなさい」
「まあまあ---拙は、遊びすぎたのです」
銕三郎が笑ってとりなすと、弥太郎は引き下がっていった。

銕三郎の頼みごとに、主馬安卿はちょっとむつかしい表情をしたが、
「10日ほど、日をいただいてもよろしいか?」
「別にいそぎませぬ。いつにてもよろしゅうございます」

返りぎわに、手みやげの〔塩瀬〕の落雁を差し出した。
銕三郎の頼みごととは---。

ちゅうすけのつぶやき】長谷川銕三郎の成長の過程で、かかわりのあったさのざまな幕臣の周囲を仔細に見ているのは、そうすることにより、幕閣のような実権をもった人たちではなく、光があたることの少ない下の層も示すことで、江戸時代の一端に触れられるとおもうからである。
ぜひ、ごいっしょに散策していただければ、うれしい。

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まるで見当がつかず、闇夜に羅針盤なしで航海しているようなわびしさ。

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