カテゴリー「075その他の与力・同心」の記事

2009.10.03

京都奉行所・西組与力の名簿

膨大な随筆の集成『翁草 2』(吉川弘文館 1978.4.5)をくっていたら、京都町奉行所の与力衆の名簿に行きあたった。

筆者の神沢貞幹が東町奉行所の与力・神沢弥八郎の養子に入り、その娘を妻とし、養父の跡目を継いでいること、『翁草』が明和・安永・天明・寛政の初期にわたって書きつづけられたことをおもえば、とうぜん、備中守宣雄平蔵宣以に筆がおよんでいるかもしれないとおもうのは、人情であろう。

それで、全巻に目を通してみた。
が、長谷川平蔵宣以の名は、天明7年(1787)の江戸打ちこわしのときの鎮圧組に発令されたと出ているだけであった。

もっとも、神沢与兵衛 よへえ 貞幹)が与力を勤めたのは享保19年(1734 25歳)から宝暦3年(1753 44歳)の20年間であったらしい。

あとは病身を理由に公事方を退任、養子・弥十郎と入れ代わった与兵衛貞幹)は、渉猟・執筆の日常に専念したようである。

奉行所の与力の移動はかなりくわしく記されている。
ただし、西組与力に浦部源六郎の名はない。
浦部与力が池波さんの創作であることがはっきりしただけでも、鬼平ファンとしては満足である。

それと、も一つ、大きな発見があった。

先月、鳶魚翁[御所役人に働きかける女スパイ]をめぐってあれこれ考察した。
処刑された首犯一味の一人---賄頭の飯室(いいむろ)左衛門大尉(だいじょう)については、かなり書きこんだつもりである。

翁草』に、奉行所西組の与力の一人に、飯室十右衛門の名を目にしたとき、鳶魚翁が、京都の町奉行所の与力・同心の中には、御所役人と縁つづきの者もいようから、幕府は探索を秘密裡にすすめよと山村信濃守良旺(たかあきら 45歳 500石)に命じたわけが、判然とした。

享保(1716~35)の初めのころとある、奉行所西組の与力名と担当職務を掲げる。

深谷平左衛門  (公事方)
熊倉市太夫    (同)
真野八郎兵衛  (同 同心支配兼)
野村与一兵衛  (勘定方 同心支配兼)
下田忠八郎    (勘定方)
石橋嘉右衛門  (目付新家方)
才木喜六     (同)
中井孫助     (同)
本多文助     (証文方)
三浦儀右衛門  (同)
手島織右衛門  (加番方欠所方兼)
棚橋源右衛門  (同)
入江安右衛門  (御番方)
砂川金右衛門  (同)
鵜飼冶五右衛門 (同)
渡辺熊右衛門  (同)
飯室十右衛門  (同)
木村源右衛門  (同)
比良甚兵衛    (同)


次に西組が記録されているのは、享保10年(1725)である。

熊倉市太夫    (公事方)
真野八郎兵衛  (同 同心支配兼)
野村与一兵衛  (同)
下田忠八郎    (勘定方)
才木喜六     (同)
石橋嘉右衛門  (目付新家方)
中井孫助     (同)
砂川金左衛門  (同)
三浦儀右衛門  (証文方)
手島織右衛門  (加番方欠所方兼)
鵜飼冶五右衛門 (上同)
手島織右衛門  (欠所方兼)
棚橋源右衛門  (上同)
渡辺熊右衛門  (御番方)
飯室十右衛門  (上同)
木村源右衛門  (同)
比良甚兵衛    (同)
元木平次右衛門 (同)
桂元右衛門    (同)
八田新左衛門  (同)
深谷平左衛門  (同)

一気に安永3年(1774)飛ぶことにする。

中井孫助     (公事方 同心支配)
入江吉兵衛   (同支配)
不破伊左衛門  (同支配)
深谷平左衛門  (勘定方)
熊倉市太夫   (同)
手島郷右衛門  (同)
前田忠次郎   (目付方)
真野八郎兵衛  (同)
飯室嘉伝次   (同)
渡辺熊右衛門  (証文方)
上田権右衛門  (嘉伝次アト)
桂元右衛門   (欠所方)
棚橋源右衛門  (権右衛門アト塩津改)
長尾十郎助   (御番方)
砂川直右衛門  (同)
入江判次郎   (同)
鵜飼孫之進    (御番方)
野村彦三郎   (同)
三浦儀右衛門  (同)
本多高四郎   (同)
  (いずれも先任→後任の順)

注目すべきは、安永3年(1774)の名簿から、飯室(嘉伝次)の後任として上田権右衛門が就任し、その上田もすぐに棚橋勝右衛門に席をゆずっていること。

安永3年といえば、御所官人・飯室左衛門大尉らが死罪に処せられた年である。
飯室嘉伝次も、一族ということで遠ざけられたのであろうか。

飯室家は、享保(1716~35)の初めのころの名簿の十右衛門から、助左衛門文右衛門(2人が襲名したもよう)とつづき、明和5年(1776)以降に嘉伝次が勤めてきた西町奉行所の与力職であった。

ついでながら、嘉伝次は、明和3年(1774)10月に番方4番手で病身でもあった飯室文右衛門に代わって真野姓で跡役として抱えいれられ、同5年(1776)に飯室姓となっている。つまり、養子に入ったのであろう。


それはそれとして、飯室家が上記の結果となって終わった真相は、いまのところ不明。
記録のありどころを探し、究めてみたいことの一つである。


ちゅうすけからのお願い】上記の西町奉行所・与力の末裔・縁者の方々、お話をお聞きしたいので、ご連絡いただけれるとうれしい。

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2009.09.18

同心・加賀美千蔵(6)

「どうであったな、東町の同心衆は---?」
表の役所からさがってきた父・平蔵宣雄(のぶお 54歳)が訊いた。

加賀美どのの祖は、武田勝頼(かつより)公の側近であった跡部(あとべ)尾張守勝資(かつすけ 1547~1582)に愛想をつかして、京へひそんだ仁だそうです」
銕三郎(てつさぶろう 27歳)の受け売りに、宣雄は、
「銕(てつ)。ものごとを片側からからのみ見てはならぬ」

戦前に出た平凡社『日本人名大事典』は、『甲陽軍鑑』の記述を参考にしたか、跡部勝資について、

戦国時代の武人。大炊助と称し、武田信玄に仕へて、その侍大将となる。信玄の歿後その子勝頼Iに事へしも、長坂釣閑と共に専権の行あり。ために誠忠の士多く勝頼を離れたといふ。

徳川の陣営にはいった跡部姓は、『寛政譜』には7家が収録されている。

太田 亮著・丹羽基ニ編『新編姓氏家系辞書』(秋田書店)は、

阿刀部(アトベ)氏 信濃【清和源氏、小笠原伴野氏c族】又跡部とも書く。信濃阿刀部の後裔だが伴野時長の子長朝が阿刀武を称してから、系を小笠原に引くを常とする。
尊卑分脈に「小笠原長清-伴野時長-長朝(号阿刀部)-泰朝-時朝」と見える。
和名抄小県郡に跡部郷を載せているが、この氏は南佐久郡野沢町大字跡部を本拠とすると云う>

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跡部(アトベ)氏 信濃、甲斐【清和源氏、小笠原伴野氏族】前条の阿刀部氏の跡である。行忠より系がある。寛政譜に七家を載せる。家紋松皮菱(右図)。

また、近時は、『甲陽軍鑑』の呪縛から離れた評価が行われるようになってきている。、

参考】[跡部勝資]

おかしなことに(---といっても、おなじ小笠原流れなので、あたりまえかもしれないが---)加賀美一族の家紋も〔松皮菱〕である。

ふただび『太田 亮博士著・丹羽基ニ編『新編姓氏家系辞書』から---。

加賀美(カガミ)氏 甲斐【百済帰化族か】美濃各務勝の一族中巨摩郡に移住して各務という地名を生じ、後に加賀美と云った。
甲州で大いに栄えたが、遠光が武田氏より出て此の氏名を冒したので全族が源氏を称している。
寛政譜ではニ家を記載。家紋中太松皮菱。割菱、五七梧桐、王文字。

加賀美(カガミ)氏 甲斐【成和源氏 武田氏族】前条氏名を冒したもの。
尊卑分脈に「義清-清光-遠光(信濃守、加賀美二郎)-長清-(加賀美小二郎)-長経」とあり、また「長清の弟光清(加賀美二郎)」と見え、成和源氏図には、「猶遠光-経光、加賀美四郎」と見える。武田系図に「義清-遠光(加賀美次郎)とあるのは誤りであろう。

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五味文彦・本郷和人編『現代語訳 吾妻鑑』(吉川弘文館)は、足かけ5年がかり、全16巻、歴史学徒Iによる詳細な注が有用という壮大な企画で、これまでのところ第6巻まで刊行されている。

同シリーズを杜撰ながらあたってみたところ。加賀美長清小笠原二郎)の名が4ヶ所、遠光(とうみつ)が1回現れているが、事蹟の記述はない。

それでウェブをあたってみた

参考】[加賀美遠光
[加賀美遠光館跡] http://www.city.minami-alps.yamanashi.jp/site/page/info/bunkazai/shi/shiseki/kagami/
[鬼丸智彦さんのHP] http://www7b.biglobe.ne.jp/~onimaru/index.html
 


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2009.09.17

同心・加賀美千蔵(5)

「それにしても、半刻(はんとき 1時間)のあいだに消えうせるとは---」
同心・加賀美千蔵(せんぞう 3歳)がくやしがった。

「われわれが訪れたときには支度ができあがっていて、裏の賀茂川で丑三(うしぞう 40がらみ)が小舟をもやって待っていたのでしょう」
銕三郎のなぐさめに、巳之吉(みのきち 25歳)が、奉行所の小者らしく、口をはさんだ。
「河原町通りをあがっていったうちらに出会わへんかったんは、小舟のせえだったんどすな」

「いや、小舟は、さがったとばかりはいえない」
「えっ?」
加賀美同心が、聞きなおす。

「ふつうなら、川をくだると考えましょう。しかし、われわれがどこにいるかは、あの者たちにはわかっていません。そこで、うまく誤魔化すには、流れにさからって、川上で舟を捨てて潜むところを整えておいたかも知れませぬ」
「なるほど。そこでほとぼりがさめるのを待つ---賀茂川をさかのぼったか、高野川のほうをとったか--?」

加賀美どの。きょうのところは、あきらめましょう」
4人は、先刻の茶店へ引き返し、あらためて、銕三郎が〔荒神(こうじん)〕の助太郎(すけたろう 50すぎ)との因縁を語ってきかせた。

13年前の、小田原城下の松島神社と芦ノ湖畔での再会、そして三島宿までの道ずれ。

参照】2009年7月14日〔荒神(こうじん)〕の助太郎 (1) (2)

三島宿で本陣の主人・樋口伝左衛門の手引きで、14歳だった銕三郎が、お芙佐(ふさ)から、初体験をえたことは、さすがに、あたり前ではあるが、洩らさなかった。

参照】2007年7月16日~[仮(かりそめ)の母・芙佐(ふさ)]

4年後、養女で妹になる与詩(よし)を迎えに駿府へ出向いた小田原城下、薬種舗〔ういろう〕の前で顔をあわせたこと、さらに彼が盗賊であったことを推測したこと。

参照】2008年12月27日~[与詩を迎えに] (
[{荒神〕の助太郎] (4) (5) (6) (7)

風速(かざはや)〕の権七(ごんしち)夫婦が、奇妙なことを思い出したものだから、銕三郎は、〔中畑(なかばたけ)〕のお(りょう 29歳)・お(かつ 27歳)のカップルと親しくなった。
しかし、お・おのことも、加賀美同心への経緯(ゆくたて)語りからは省いた。

参照】2008年3月29日~[荒神の助太郎] (8) (9) (10

銕三郎がかかわった、駿府と掛川の事件は、加賀美同心の興味をいたく引いた。

参照】【参照】2009年1月8日~[銕三郎、三たびの駿府]()  () () () () () () () () (10)(11
12) (13
2009年1月21日~[銕三郎、掛川で] () () (

「賊としては、いろいろと知恵をはたらかせる方ですな」
「浅知恵ではありますがな。知恵よりも、実情を調べることには長(た)けています。それと、おんなをとろけさせる技(わざ)---」
「は---?」
「いや。なに---」


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2009.09.16

同心・加賀美千蔵(4)

松造(まつぞう 21歳)と小者が戻ってくるあいだ、焦慮をまぎらわせるためか、東町奉行所の同心・加賀美千蔵(せんぞう 30歳)は、いましなくてもいい話題を披露した。

町奉行所の与力と同心の俸禄と屋敷について、大坂のそれとくらべての愚痴であった。

俸禄が大坂並みに、与力が200石、同心が10石3人扶持にあがったのは、東が12代j前の松前伊豆守嘉広(よしひろ 56歳=転出時 1600石)、西は11代前にあたる小出淡路守守里(もりさと 48歳=致仕時 1600石)---つまり元禄のころ---70年前だという。
(まさに、役人の待遇の差別は恨み骨髄だな)

屋敷の広さも、大坂は与力が500坪なのに、京都は200坪、同心も大坂の200坪に対して京都は半分の100坪と嘆いた。

加賀美どの。むしろ、狭いのは、それだけ地価が高いと誇るべきではないでしようか。江戸の町奉行所の与力・同心衆も、屋敷の広さは京師とおなじと聞いております」
「大坂がうらやましい」
「転勤をお望みですか?」
「とんでもない」

(役人衆の、いつもの高望みの愚痴なのだ。しかし、なぜ、拙に---?)
銕三郎(てつさぶろう 27歳)が案じかけたところへ、松造が首をかしげながら戻ってきた。
「幼な子の声はしませんでした」

小者・巳之吉(みのきち 25歳)が顔色を変え、あたふたと駆けるようにして帰ってき、どもって、つまりつまり報告。
「み---店の、表戸が、し、しまっとりますねん。き、近所の衆は、た---たしかに、2つぐらいの、女の子ォが、いとるいうとりまねんけど」

加賀美さん。急いで!」
銕三郎が飛び出た。
松造がつづく。
加賀美千蔵同心は、お茶にむせ、息をととのえる分、おくれをとった。

表戸を蹴破って入ったが、もぬけのから。
昨夜から準備をしていたらしく、奥はきれいに片づいていた。
店内の商品も、よくみると、のこしているのは安物ばかり。

「しまった。拙が来たことで、奴らは警戒したのです」
丑三(うしぞう 40がらみ)に、あんじょう、騙されましたな」

竃の前に、童女のものとおもわれる、片袖がなくなっている人形が落ちていた。

「いえ。手前が、きんのう、予告したよって、消えたんです」

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2009.09.15

同心・加賀美千蔵(3)

賀茂川の手前に、いつかのとおり、その店はあった。
〔荒神屋〕と書いた看板もそのままである。

参照】2009年7月26日[〔千歳(せんざい)〕のお豊] (

刺し子をしていた店番の中年おんなも、まるで蝋人形のようにそのままの姿でいた。

ずいっと入っていった加賀美千蔵(せんぞう 30歳)同心が、
「亭主を呼べ」

おんなは、刺し子から目をはなさないで、
「きょうは、いてまへん」
「どこへ行った? 帰りは?」
「聞ィてェ、しまへん」

加賀美同心が、おんなの腕を打ち、
「こっちを見て、答えろ。きのうのうちに、きょう、来ることを報せておいたはずだ」
「そんなん、うち、聞ィてやおへん」
おんなは動じない。

「亭主が帰ってきたら、きょうのうちに、奉行所に出頭するように伝えろ。きっとだぞ」
「へェ」

加賀美同心は、銕三郎(てつさぶろう 27歳)を、丸太橋西詰の茶店に導き、茶をすすりながら、助太郎から〔荒神屋〕の屋号も店の品も居抜きで、買ったのが丑三(うしぞう)という中年男だと告げた。

20日ばかり前に会った中年の、大福餅のような丸顔で、人のよさそうな店主をおもいだしていた。
「いつ、店を買ったと言ってましたか?」
「所司代のご与力から、うちのお奉行に話がきてすぐだったから、7年前(明和2年 1765)の---」
加賀美同心は、初夏---4月の晦日近くだったようにおぼえていると。

参照】2008年3月23日[〔荒神(こうじん)〕の助太郎] (

(出仕をするということは、記憶を研ぎすますということらしいな)
加賀美千蔵からも、銕三郎は一つまなんだ。

(まてよ。お(りょう 31歳=当時)から〔盗人酒屋〕あてに文をもらったのは、2年前(明和7年=770) だった。名古屋で助太郎と身重の賀茂(かも 30すぎ)らしいのを見かけたと書いてあった。賀茂は、前の女の子を悪い風邪で亡くしているとも報じてあった。
賀茂がややを産み、育てるとしたら、1年ほどは旅はできないfず。どこかに定着して育てているに違いない)

参照】200年4月30日[お竜(りょう)からの手紙] () () (

加賀美どの。さきほど、〔荒神屋〕の奥で、子どもがぐずる声かしませぬでしたか?」
「さて、気がつきませなんだ」
松造。あの店の裏手へまわって、しばらく、耳をすませてこい」

加賀美同心についていた小者が、
「近所で、それとのう、訊きこんできまひょ」
出ていった。

ちゅうすけ注】〔荒神こうじん)〕のおが、長編[炎の色]に登場したときは25,6歳---とすると、安永元年(1772)の年11月のこの時期、2歳に育っていないと辻褄(つじつま)があわなくなる。


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2009.09.14

同心・加賀美千蔵(2)

「まず、近衛河原へご案内します」
役宅の通用門で待っていた同心・加賀美千蔵(せんぞう 30歳)は長身を折ってあいさつをすと、歩みはじめた。

(ずいぶんと、ぶっきらぼうな仁だな)
銕三郎(てつさぶろう 27歳)と若党・松造(まつぞう 21歳)は従うよりなかった。

昨夕、加賀美同心に会っている松造は、その人柄までは告げていない。

押小路を東へ向かう加賀美と並んだ銕三郎が、
「ご出身は、甲斐ですかな?」
加賀美同心が足をとめ、見下ろすように見詰め、
「巨摩郡(こまこおり)加賀美村ですが、それがなにか?」

ちゅうすけ注】現・山梨県南アルプス市加賀美

「いや、江戸にも、武田方から参られた加賀美姓の方がおられるので、ご縁のあるお家かと---」
千蔵は不審の眉を解き、頬をゆるめ、

加賀美一族---といっても数家が、跡部大炊助勝資(かつすけ)の同心衆に配されていたが、かの人の勝頼公への側近ぶりに離心し、わが祖は京へ逃げて処士(浪人)、のち東町奉行所で働かせていただくことになった---と述べた。

徳川軍団に組みこまれた跡部一族の衆とは、さようなかかわりがおありだったのですか」
「御所かかわり付(つき)ならともかく、東町奉行所にだけは、跡部さまがご赴任にならないことを願っております」
「これまでのところは---?」
「甲斐あってか、無事でした」
瞔(め)をあわせて笑いあった。

「わが長谷川は、今川方から徳川で、しかも、祖は三方ヶ原の戦いで武田方に討たれておるゆえ、おこころおきなく、おつきあいを---」
銕三郎の冗談めかした口調に、加賀美同心は好意をもったようであった。

加賀美どののご先祖のように、跡部方から京へ逃れた武田方の数は多かったのですかな?」
銕三郎は、歩きはじめながら、なんの気なしに訊いた。

「2,3家はわかっております。御所で賄方におつとめで、越後方からの武田勢入りされた飯室(いいむろ)一族の左衛門大尉さまもそのお一人です」

ちゅうすけ注】加賀美同心がなにげなく口にした飯室こそ、地下役人の不正事件の首犯の一人だったのだが、銕三郎は聞き流してしまった。
ミステリーだと、これは重大な伏線だから、ここで注などはいれない。

2人のうしろでは、加賀美つきの小者と松造が、たのしそうに何事か話し合っている。

銕三郎が借りている家のある、押小路の路地口にさしかかった。
横目で加賀美同心の表情をうかがったが、変わりはない。
(西町奉行所は、東のお町へは、どうやら、通じてはいないらしい)

加賀美どの。先刻、近衛河原と言われたように聞きとりましたが---?」
「失礼。このごろは、荒神河原と呼んでいるようです」
(それで納得。〔荒神(こうじん)} )の助太郎(すけたろう 50すぎ)の店が以前あった所へ向かっているのだ)

御所の東南角---寺町通りを左折した。
仙洞院御所脇の武家町門(寺町門)をすぎ、先日訪れた下(しも)の禁裏付・高力土佐守長昌(ながまさ 54歳 3000石)の役宅の北から川原町通りを横切って、銕三郎が思わず声をだした。
「あっ」

加賀美同心がふところの十手へ手をかけ、ふり向き、
「どうか、なさいましたか?」
「いや。仔細ありませぬ。河原町通りの名づけの理由(わけ)がわかっただけのこと」
「近衛河原で---?」
「さよう」

笑顔が交わされた。


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2009.09.13

同心・加賀美千蔵

(てつ)。東の酒井丹波 忠高 ただたか)どのから、言伝(ことづ)てがあった」
西町奉行として、奉行所の与力・同心たち全員との顔合わせもようやくにすませたらしい父・宣雄(のぶお 54歳)は、役宅へさがってくるなり、息・銕三郎(てつさぶろう 27歳)を書院へ呼びつけた。

「拙にでございますか?」
「うふ、ふふふ。釣り天狗どのは、よほどに、のことがお気に召したようじゃ。もの好きにもほどがある」

参照】2009年9月7日[備中守宣雄、着任] (

宣雄は、苦笑しながら、
「ほれ、〔荒神(こうじん)〕の---なんとやらいうたな、盗賊---」
助太郎(すけたろう)---です」
「そう。その助太郎のことを調べた同心に引きあわすから、暇なときに役宅へ参るようにとのことであった」
「は。では、お伺いしたよろしいのですね」
「別に、かまわぬ」
「西のお町の息が、東のご奉行のところへ参っても---」
「なにをとぼけたことを。なんぞ、西の奉行所の端くれにも入っておらぬわ---うふ、ふふふ」
よほどにご機嫌がいいらしい。
きょうの宣雄は、笑顔が絶えない。

下がろうとする銕三郎へ、
久栄(ひさえ 20歳)の手がすいていたら、肩をもんでくれと伝えてくれ」
「かしこまりました」

上洛の旅のあいだずっと、本陣へ落ち着くとすぐに、久栄に肩をもませていたらしい。
奥どうぜんの(たえ 47歳)が、この齢になって異国の水は飲みとうないと、夫とともに京へ上ることを承知しなかったせいもある。
「それでは、お舅どのが若い京女(おなご)をおつくりになります」
久栄がおどすように誘ったが、
「子種がのこっておりますものか」
「まだ、54歳のお若さです」
久栄どのの手でもにぎりましたかえ」
久栄が赤面するのを、うれしげに眺めていたという。

銕三郎は、若党・松蔵(まつぞう 21歳)を東町奉行・酒井丹波守忠高の役宅へ使いに出し、明五ッ半(午前9時)に参上してよろしいかと伺わせた。

松造が戻ってきたのは、半刻(はんとき 1時間)もたった夕刻であった。
「たかが3丁半(400m)ほどの往還に---」
言う前に、松造が言い訳をした。
「ご同心・加賀美(かがみ (30歳)さまの組屋敷をお訪ねしておりました」

松造が弁解したところによると、酒井町奉行は、そのことは加賀美千蔵同心が掛りだが、すでに帰宅しておるから、組屋敷へまわって時刻をじかに打ち合わせるように。加賀美同心は宿直あけの公休日やもしれぬゆえ---との示唆であったと。

「それで、上へあげられまして、かように遅くなりました」
「苦労であった。して、加賀美どののお返事は?」
「用向きのことはお奉行から指示があった。あすは公休ゆえ、五ッ半にこちらへお迎えに参られると---」
「迎え?」
「お目におかけしたいものがおありになるとか---」

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2009.08.15

与力・浦部源六郎(5)

「浦部さま。じつは今宵のお願いごとが、一つ、のこりました」
銕三郎(てつさぶろう 27歳)が姿勢を改めると、
「ほう。なんでございましょう」
浦部源六郎(げんろくろう 50歳がらみ)も形をあらためた。

「絵師の冬斎(とうさい)どのとお親しいとか---」
「ああ、戯(ざれ)絵師の北川冬斎なら、碁仇(がた)きのようなものです」

浦部与力の話によると、あまりに露骨な枕絵を描いて露店で売らせているので、奉行所へ呼んできつく叱ったことから縁ができたのだという。

「戯(ざれ)絵ですか?」
「いや、腕は西川祐信(すけのぶ)仕込みで、あることはあるのですが、なにしろ、おんな遊びがはげしくて、その金算段に困っての秘画描きなのです。で、冬斎にご用とは?」
「化粧絵をとおもいまして---」
「ああ、〔読みうり]の?」
「はい」
「そのような仕事でしたら、いつにてもお引きあわせいたします」
「では、明日にでも---」
「今宵、帰りに寄ってみましょう」


北川冬斎の住まいは、千本出水(せんぼんでみず)の華光(けこう)寺の裏長屋であった。

ちゅうすけ注】千本出水・七番町の華光寺は、翌安永2年(1773)に、平蔵宣雄(のぶお 享年55歳)の葬儀が挙げられた寺である。冬斎がその裏に住んでいたのも、なにかの因縁であろう。

冬斎、おるか?」
布団からこっちを見た男が、あわてて起きあがってきた。
下帯ひとつの裸にちかい、狸づらの40男であった。

「こら、与力はん。なにごとでおじゃります?」
「なんや、その姿は。お客さまをお連れしてんのに---」

浦部同心は、銕三郎を引きあわせると、
「あとはよろしゅうに---」
さっさと帰ってしまった。

銕三郎が化粧(けわい)指南の〔読みうり〕の案を話すと、
「ただでも、描かせてもらいまひょ」
冬斎は、島原をはじめとする色街の人気美女をモデルにした似顔絵と聞いて、妓女たちがモデルになりたくて売りこみにくる---つまり、ただで遊べたうえにもてる---とふんだらしい。

いまでいうと、テレビに出たがるタレントみたいなものか。

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2009.08.14

与力・浦部源六郎(4)

「つかぬことをお伺いして、よろしいでしょうか?」
新しくきた銚子で浦部源六郎(げんろくろう 50がらみ)に酌をしてから、銕三郎(てつさぶろう 27歳)が訊いた。
浦部も酌を返して、
「どのようなことでしょう?」

「東のご奉行の酒井丹波 たんばのかみ 忠高 ただたか 61歳 1000石)さまの世評といいますか、お人柄など---」
「こちらから、お尋ねしてよろしいでしょうか?」
「は--?」
酒井ご奉行は、京都においでになる前は、奈良のご奉行を4年ほどおやりになっておられます。その前の7年ほどは先手・鉄砲(つつ)のお頭をお勤めになり、その間に、火盗改メ・加役もなさっております。そのときのお勤めぶりはいかがでしたか?」

銕三郎は、言葉につまった。
酒井丹波守が助役(すけやく)とはいえ、火盗改メをやっていたことはしらなかった。

酒井さまが火盗改メをお勤めになりましたのは、いつごろのことでしょう?」
「宝暦11年(1761)の秋からと---」
(やはり、この与力はただものではない。この記憶力---)

(お芙佐(ふさ)に男にしてもらったのは、14歳であった)

参照】2007年11月16日[仮(かりそめ)の母・お芙佐(ふさ)]

「ご元服はおすみでしたな?」
「はい」
「お噂が、お耳にはいっておりませぬでしょうか?」
「助役だと、春には解任ですな。その秋からの助役の本多采女紀品 のりただ 49歳=当時 2000石)さまのお手伝いは、いささか---」

参照】2008年2月20日~[銕三郎、初手柄] (1) (2) (3) (4)

「そちらさまが、名おうての盗賊逮捕の手だれとの{噂が都まで聞こえており、奉行所の者たちは、おおいに期待しております」
「世評ほど、あてにならないものはありませぬ」
ごまかしたが、
(うまく、逃げられた)
浦部が、おもった以上にしたたかな能吏であることが、父のためによかったともおもった。

浦部与力に代わって、酒井丹波守忠高の個人譜を掲げておく。

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(酒井丹波守忠高の個人譜)

いささかの説明を付すと、忠高は、17歳で養子にはいった。
若くして未亡人になった義母は、さっさと再縁を求めて家を去った。
相手は、細井伝次右衛門勝為(かつため 33歳=再縁時 1200石)だが、この仁、その後、再後妻、再々後妻を娶っており、酒井家からの後妻が病死なのか、離縁なのかは記録がない。
丹波ま守忠高の妻は、上記の妹であった。

人柄は、温厚で、自分から発言することはほとんどなく、衆議にしたがうことが多かったという。
そんなことから、御所役人の不正も見逃されたのかもしれない。
留守宅の向柳原・新(あたら)シ橋新道の屋敷が行人坂の大火で全焼したことも、よけいに無気力に輪をかけたか。

独断を記すと、西町奉行・太田播磨守正房(まさふさ 59歳 400石)は、細かく気がまわるタイプで、挙措にそつがなく、上の受けも、公家(くげ)側の評判もよかった。

ちゅうすけ注】西町奉行・太田播磨守正房(まさふさ 59歳 400石)の[個人譜] ←クリック

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2009.08.13

与力・浦部源六郎(3)

浦部さまのご担当は?」
銕三郎(てつさぶろう 27歳)が、山女(やまめ)の焼き身を口にいれながら、訊いた。

長谷川/strong>さまは、江戸の町奉行所へは?」
「いえ、行ったことはございませぬ。訪ねたことがあるのは、駿府、掛川の町奉行所だけです」

参照】2008月15日~[与詩(よし)を迎えに] (16) (17) (18) (19) (20
20091年1月15日~[銕三郎、三たび駿府へ] () () () () () (10) (11) (12) (13
2009年1月21日~[銕三郎、掛川で] () () () (

浦部与力は、基本的なことから解説をはじめた。
江戸は、南、北。京都は、東、西。

京都は、西が二条城の南(現・中京区西ノ京北誓町---中京中学のあたり。総坪数3,887余坪。 東は二条城の南(現・西ノ京職司町東側あたりに4,426余坪)

江戸は、両町奉行とも役高3000石格、京都は、両町奉行とも、役高1500石格。
江戸は、与力各25騎、同心各125人、京都は、与力各20騎、同心各50人。
ただし、時代によって多少の増減があった。
与力・同心は、いずれも一代かぎりの契約だが、じっさいには世襲とかわらなかった。

与力の俸給は200石。同心は30俵2人扶持が基本。
西奉行所の与力・同心の屋敷は、現・中京区西ノ京職司西側あたり。その南に東のそれがあった。

京都町奉行は、所司代に属し、職務は、五畿内・近江・丹波・播磨の幕府直轄領・寺社・京都町方・山城国村方などの支配が主務(平凡社『郷土歴史大辞典 京都市』による)。

三田村鳶魚『幕府スパイ政治』(中公文庫・鳶魚江戸文庫8に収録)は、京都町奉行の職掌を以下のように記している。

禁裏御所々々の警固、所司代の御下知を以て勤む、所司代参府の時ば、是に替って相勤る義、御役の第一也。
抑所司代の御役義は、禁裡守護におよび、西国三十三ヶ国の藩鎮則探題の重役也、

此下に随ふ御役なれば、西国一締りの義に携り、万端米穀の豊凶等の儀迄も心を及す儀、御役の第二也。

所司代御参府(江戸行きのこと)の節は、御朱印を預り奉り、且御教書も護持奉り、洛中事あらば、諸大名を招き集めて、禁裡を守護す、是御役の所詮にて、御治世においては、禁裡御所方御賄等の義、平日町奉行の司る所にて、御物入の増減迄委敷扱ふ、是御役の第三なり。

五畿内の寺社御朱印を指揮す、尤寺社奉行兼帯し、諸宮門跡たり共、皆町奉行の下知を聞く、是当任とする所にて、御役の第四也。

山城、大和、近江、丹波の四ヶ国は、京都町奉行の支配にて、公家領、諸大名領、寺社領たり共、大となく小となく、皆当任の取捌く所にて、第五の御役也。

摂家、宮方、清華の御方、堂上方共、都て御行跡其外何によらず、所司代の御目に止めらるる事なれば、町奉行も平日其品を聞合せ、所司代へ申す、尤諸願ひ万事は伝奏を以て所司代へ申す、所司代より町奉行へ調べ仰付けらる、町奉行其品を糺し尋ねて、其善悪を所司代へ告る故、摂家たりとも町奉行をかろしむること能はず、おのづから威勢は遠国諸奉行の上にたつて、高位高官の人も恐れをなすの御役なれば、常に其身を慎しみ、政務の正路を専らすること肝要にして、則三十三ヶ国の手本なる義、御役の所にて、上方御代官を支配する事、御役の第七なり。

例によって、出典は記されていない。
第六も、第七に包括した文章になっている。

「お尋ねいただいた、それがしの役ですが---」
浦部与力は、奉行所の役屋敷の中には、公事方、勘定方、目付方、欠所方、証文方などをそれぞれに分担しており、浦部は、目付方を担当していると言った。

「〔読みうり〕のご担当は?}
「島原・風聞方です。なにか?」
「じつは、知人が、化粧(けわい)の手引きの〔読みうり〕を板行したいと申しておりまして---」
「それがしから、その役方与力へ話しておきましょう」
「算段が煮つまって、お願いにあがりました節は、よろしくお願いします」

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2009.08.12

与力・浦部源六郎(2)

「わざのお招き、恐縮でございました」
西町奉行所与力・浦部源六郎(げんろろう 50歳前後)は、折り目正しくあいさつを交わした。
大柄ではないが、齢にはみえないしまった躰躯で、鬚が濃いたちらしく、この時刻(暮れ六ッ)には、もう、うっすらと青みがさしている。

「不案内なもので、かようなところで、申しわけございませぬ。ご容赦を」
場所は、北野天満宮の表大鳥居前の〔敦賀屋〕伊助である。

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(〔敦賀屋〕伊助 『商人買物独案内』)

相談をうけた〔瀬戸川せとがわ)〕の源七(げんしち 56歳)が、銕三郎(てつさぶろう 27歳)の身分を考慮して、
「本来なれば、先方さまがご招待なさるのが筋です。しかし、ことがらがことがらだという長谷川さまのお気持ちもございましょう、質素なほうがよろこばれましょう」
選んでくれた。

参照】20097月20日~[〔千歳(せんざい)〕のお豊] () (
2009年8月1日[お竜(りょう)の葬儀] (

菜飯と田楽、それと川魚料理の店で、昼は参詣客で混んでいるが、夜はそうでもない。
なにより、奉行所与力屋敷から小半刻(こはんとき 30分)もかからず、距離にして15丁(1600m)ほどということも選択のもととなった。

「5日前に、太田播磨正房 まさふさ 59歳 400石)さま、小普請(こぶしん)奉行方への任命状がとどきました。それとともに、長谷川備中さま、ご就任の通達も---」
父・平蔵宣雄のことを〔備中守〕と呼ばれ、わがことのように晴れがましく、また、面はゆく感じたが、わざと表情を変えず、
「で、摂津さまのご離京は?」
備中さまへの引きつぎがすみましてから---」
「なるほと」

配膳をはこびおわった仲居たちをさくがらせてから、銕三郎浦部与力に酌をし、
「拙の上洛は、父の指図ではなく、拙からの申し出によったものです。父は、若いときに京や奈良で遊んだそうです。なれば、拙も父の着任前に遊ばせてももらおうと---」
浦部は、そのいい訳を、なにくわぬ顔で聞きながしたあと、
「押小路のお家は、いつまでお使いでございますか?」
「発覚(バレ)でおりましたか。はっ、ははは」
「はっ、ははは」
浦部は、それ以上、追求しなかった。

「手前の息・彦太郎(ひこたろう)は春には20歳になりますのに、朴念仁でお遊びのご案内役には向きませぬ。お許しください」
「なんの、なんの。不案内のほうが、おもいかけない掘り出しものもあろうかというもので---うっ、ふふふ」
銕三郎は一瞬、〔千歳(せんざい)〕のお(とよ 24歳)のきびきびと動く姿態をおもいだしていた。
浦部与力は、そんな銕三郎の思惑を見すかしていたが、
「お愉しみの掘り出しものがありましたら、お洩らしいただきたいもので---ま、この齢ですから、おなごのことは縁なしごとですが---」
微笑とともにうなずいた。

が、眸(め)が笑っていないことに気がついた銕三郎は、
(もしかすると、琵琶湖でのお(りゅう 享年33歳)の事故、その葬儀に在京の盗賊の首領たちが香華したことも探知しているのかも---〔狐火(きつねび)〕への出入りもやめなければ---)

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(太田播磨守正房 個人譜)


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2009.08.11

与力・浦部源六郎

銕三郎(てつさぶろう 27歳)の目論見(もくろみ)をすべて聞き終えた元締・〔左阿弥(さあみ)〕の円造(えんぞう 60歳がらみ)が、
長谷川はん。うちらのほうからのお詫びと、お願いがおますねん。お聞きとどけのこと、よろしゅうに---」
「はて、なんですかな?」

「先に、お詫びのほうから---」
音羽(おとわ)〕の重右衛門からの書状で、なにかの役目をいだいて、一足先に銕三郎が上洛するという報らせがあったので、なにかと世話になっている西町奉行所・与力の浦部源六郎(げんろくろう 50歳がらみ)にその旨を洩らした。
浦部与力からは、銕三郎と連絡(つなぎ)がとれしだい、報せてほしいといわれている。

「お願いというのんは、浦部与力はんにおとないをいれていただきたい、いうことでおます」
「わかりました。いまの宿を、明日には引きはらい、堺町押小路の陋屋に移ります。さいわい、西町奉行所とも近いのでおとないをいれますが、浦部どののほかには、内緒にお願いできましょうか?」
「さようにお伝えしておきまひょ」
眸(め)と眸(め)をあわせ、うなずきあった。

ちゅうすけ注】浦部源六郎は、『鬼平犯科帳』文庫巻3[艶婦の毒]で、〔千歳(せんざい)〕で、女盗(にょとう)ともしらずにおと痴戯のかぎりをつくしていた銕三郎を、ほかの者には気づかれないように父・町奉行のもとへみちびいた与力である。

「それにしても、押小路あたりに、ようも、お家が見つかりましたなぁ」
円造は、さすがにそれ以上はふみこんではこなかった。
うっかりすると、〔狐火(きつねび)〕のことに触れなければならなくなるところで、あらためて、身辺のことを松造(まつぞう 20歳)に口どめしておく必要におもいいたった。
もちろん、松造に、高級骨董屋〔風炉(ふろ)屋〕の存在を教えるつもりはなかったが---。

「[読みうり]は、絵入りといわはりましたが、絵師のこころあたりでも---?」
「ありませぬ」
浦部はんに相談なさっとぅみやす。碁仇(がた)きに、なんとやらいう絵師---西川祐信はんのお弟子はんやったと聞いてますのやが---角兵衛、ほれ、、知恩院さんの境内で由助(よしすけ)が絵ェ売っとる---齢どすなあ、とっさのことに、人さまの名ァがでてきよらんのどすわ」
冬斎
「そやった」

円造は、浦部はんにお会いなったら、冬斎はんのこと、お聞きになってみたらよろし。[読みうり]を出すのかて、奉行所の許しが要るでしょうし---」

ごくかんたんな午餐(ごひる)を馳走された帰りの道筋にあたる、茶店〔千歳(せんざい)〕をのぞいてみた。
客はいなくて、おは手もちぶさたらしく、いそいそと飯台に招じた。

銕三郎は、懐紙に、

 おんなだから、綺麗になれる
 おんなだから、美しくなれる
 おんなだから、美しくなりたい
 「おんななら、綺麗といわれたい
 美人の、化粧の秘密

道みち、頭の中でひねくりましていた惹句(キャッチ・フレーズ)をさらさらと書き、
「おは、どれに惹(ひ)かれる?」
「なんです、これ?」
「化粧(けわい)指南師のお披露目の引き札(ちらし)の惹句だよ」
「化粧指南師などというお人がいるのですか?」
「江戸から上ってきた」
「わあ、教わりたい。もっと綺麗になりたい」

銕三郎は、
 
 おんなだから、もっときれいになれる

と、「もっと」を書きたした。

「なれる」のほうが、「なりたい」とか「いわれたい」より、と努力を要しないで済む感じがあり、容(う)けるとおもったのである。
銕三郎もすみにおけない---現代なら、そこそこのコピーライターに「なれる」センスを持っている。


ちゅうすけのつぶやき】
ほかに類のない長谷川平蔵もの---とのご評価をいだき、ページ・ヴューも600~1000アクセス/日に上がってきました。年内には累計50万アクセス超え、平蔵ものでは短期間でダントツになる予定です。心を引き締めています。

この上は、もっと多く未知の鬼平ファンの方がコメントをお書き込みくださると、ごいっしょに深めてゆけます。

コメントがないと、o(*^▽^*)oおもしろがっていただいているのやら、
(*≧m≦*)つまらないとおもわれているのやら、
まるで見当がつかず、闇夜に羅針盤なしで航海しているようなわびしさ。

[コメント]をクリック→書き込み欄の上の顔絵文字をクリック→あらわれた、絵文字の中から選んでクリックしてつけてくださるだけでもいいのですが。


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2008.09.18

本多組の同心・加藤半之丞(2)

「盗賊が商人(あきんど)宿を買いとる? 何ゆえに?」
訊きかえしたのは、火盗改メ・本多組の書留(かきとめ)役同心・加藤半之丞(はんのじょう 30歳)である。

銕三郎(てつさぶろう 23歳 のちの鬼平)が、江戸の大店と取引きしたり、みずから単価の高い品物をかついできて府内で売りさばいている近江商人はもっぱら、東海道ではなく、中山道を往来していることを説明した。

「そういえば、箱根を往来する商人には、伊勢や松坂の衆は多かったが、近江の衆はほとんど見かけなかったようで。そんなような次第でございやしたか」
小田原在の育ちで、箱根山道の荷かつぎ雲助をしていた〔風速(かざはや)〕の権七(ごんしち)の声には、実感がこもっていた。

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(箱根宿と関所 『東海道名所図会』部分 塗り絵師:ちゅうすけ)

「商人たちが、旅籠でかわす世間話の中に、盗賊が襲うにはもってこいの冨家や商舗のきれっぱしがまざっているかもしれませぬ」
「なるほど。商人宿なら、人の出入りがはげしいのがあたり前だから、盗人宿として、一味の者が出入りしても目立たないということですな」
加藤同心もいちおう納得した。
「さすがに、お通じが早い」
すかさず、銕三郎はほめあげる。

「しかも、中山道とは---!」
権七が感心しきった声をあげた。
こちらへも、
「東海道・箱根山道の主(ぬし)だった権七どのも、気づかなかった---」
「ぬかっていやした」
「気づいていれば、信玄公の軍者だった山本勘助はだしです」
「みごとに、なりそこねやした。はっ、ははは」
講談師の講釈で知っている山本勘助に並べられて、権七は悪い気はしない。

長谷川さまは、どういうきっかけで、商人宿とお気づきになったのですか?」
加藤同心が不審を述べた。
(女賊・〔中畑(なかばたけ)〕のお(りょう 29歳)のことを打ち明けるのは、まだ早い)

「甲州で、信玄公の飛脚のろし台の遺跡を見ました。それで、高輪の牛舎の前の海で、舟から舟へ松明(たいまつ)の火で何やらの合図らしきものを交わした者があったということを思いだしました。あの盗賊一味は、諜報ということに長(た)けている向きから考えをつめたら、商人宿におもいいたったのです」

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(英泉[奈良井宿・名産之店之図] 『木曾海道六十九次』)

「目のつけどころが、さすが、でやす」
権七は簡単に納得したが、加藤同心はまだ、疑わしげな目で銕三郎を見つめている。

(この同心どのが本多采女紀品(のりただ 55歳)へ告げ、甲州勤番支配へおれの探索先を問いあわせたとしても、道案内をつとめた本多作四郎(さくしろう 37歳)うじは立ち会っていなかった。また、中畑郷の村長(むらおさ)・庄左衛門が、徳川方の役人に素直に報告するとはおもえない。おのことは、当分、秘しておけるだろう)
銕三郎は、こう、見切った。

(なに、バレたとしても、おが〔蓑火みのひ)〕一味の軍者であることは庄左衛門には打ち明けなかったから、〔蓑火〕のところまではたどれまい)

「盗賊だとて、齢(とし)は人並みにくいます。足腰が弱ったら、いま盗(ばたら)きはできなくなりましょう。そうしたときの引退(ひき)先として、旅籠をまかせるのも、いい考えだとおおもいになりませぬか?」
「なるほど。一挙三得ですな」
加藤同心は、とりあえず、うなずいた。

「襲う先のタネをひろう宝の山としては、この〔須賀〕のような酒場もあります。現に、かつて、女男(おんなおとこ)の口合人(くちあいにん)・〔雨女(あまめ)〕のお(とき 36歳=当時)もここで網にかかりました。しかし、中山道の宿々の数えきれない居酒屋を洗うことはできませぬ」

【参照】〔雨女〕のお時の事件は、[明和3年(1766)の銕三郎] (2) (3)

「それは、そうです」
加藤同心の関心は、どうやらそれたようだった。
酒客がだんだん入ってきたので、それからは雑談になり、加藤同心は杯を重ねた。

【参照】同心・加藤半之丞 2008年2月20日~[銕三郎(銕三郎)、初手柄] (1) (4)
2008年9月3日~[蓑火(みのひ)〕のお頭] (6) (7)

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2008.09.17

本多組の同心・加藤半之丞

加藤さま。その後、茶問屋〔岩附屋〕へ押し入った賊の手がかりは---?」
銕三郎(てつさぶろう 23歳 のちの鬼平)が、ささやくような声で訊いた相手は、先手・鉄砲(つつ)の16番手の本多組の同心・加藤半之丞(はんのじょう 30歳)である。

参照】[〔蓑火(みのひ)〕のお頭] (5) (6) (7)

本多組は、組頭(くみがしら)の本多采女紀品(のりただ 55歳 2000石)が、去年(明和4年(1767)8月9日)に、再度の火盗改メを命じられ、組下60名が任務についている。
すでに書いたが、先手組の同心は32組とも30名がきまりだが、鉄砲の1番手と本多組の16番手にかぎり、なぜか、50人配備されている。
ふつうは、火盗改メが発令されると、無役の小普請組から数名、助っ人を補充するが、本多組はそれをしないでもまかなえている。

加藤半之丞がきているのは、永代橋東詰の居酒屋〔須賀〕。
銕三郎が、呼び出した。

半之丞は、本多組では書留(かきとめ)役・同心だから、よほどのことがないかぎり、見廻りとか捕り物にでることはない。
火盗改メ方のあいだは、小日向の切支丹屋敷下の組屋敷と本多邸の表六番町を往復しているだけなので、たまに、深川へ出むけて、喜んでいる。

〔須賀〕の亭主は、元・箱根の荷運び雲助の頭株・〔風速(かざはや)の権七(ごんしち 36歳)で、店は女将(おかみ)のお須賀(すが 30歳)がとり仕切っている。

参照】[明和3年(1766)の銕三郎] (2)

加藤同心は、盃を銕三郎に返して、
「押し入った賊は13,4人のようですが、〔神田鍋町〕かいわいの見張りとか、高輪・牛舎の火牛の手配、江戸湾の松明での伝送、下谷新寺町の広徳寺の支院・徳雲院でのボヤ騒ぎ、北本所の如意輪寺門前の火事などが同じ時刻であったことから、一味は20人はいたのではないかと---」

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(下谷・広徳寺と支院 『江戸名所図会』 塗り絵師:ちゅうすけ)

「20人もですか?」
そう、言葉をはさんだのは権七であった。

「そう。20人がかりでないと、ああいう大仕事はできまい---というのが、大方が見たところですよ」
加藤さま。そう思わせるのが、賊の狙いかもしれません」
銕三郎の意見に、
長谷川どのには、別のお考えがおありのようですな」
「先んじて戦地に処(お)りて敵を待つ者は佚(いっ)す(先に戦いの場に陣を敷いていて、相手方の着到を待つ側は楽だ)---と、『孫子』も言っております。賊の中に『孫子』を学んでいる者がいるとは、考えられませぬか?」
「む?」

加藤さまのご一族で、文昭院殿(六代将軍・家宣 いえのぶ)さまの桜田の館(甲府藩公の上屋敷)で召された方がおられるのでは?」
「なぜ、それを---?」
「やはり---じつは、甲州へ行ってまいったのです。甲府城下で、加藤姓の勤番方にご縁のあるご仁と知り合いました。そこで、加藤姓の勤番士の祖が桜田の館に召されていたことを知ったのです。多分、その加藤うじは、武田信玄公の麾下におられた方の引きで召されたのだとおもいました」

参照】[本多作四郎玄刻]2008年6月30日[平蔵宣雄の後ろ楯] (15) (16)
2008年8月18日[〔橘屋〕のお仲] (5)

「甲府へ参られたのは、先日、ご依頼を受けた継飛脚(つぎひきゃく 幕府効用の飛脚便)にまぎれこませた書状にかかわりがありますか?」
「はい。あれは、大叔母の甥ごの仁で、甲府勤番支配をしておられる八木丹後守補道(みつみち 55歳 4000石)さまへの書状でした」
「ご用は達せられましたか---?」

「おおむね---」
「武田軍学ですか?」
「かの地に、いまなお、深くしみこんでいることがわかりました」
「そのことと、〔岩附屋〕へ押し入った賊とのかかわりあいは---?」
「それは、しかとはしませぬが、中山道の主だった宿場で、この10年のうちに、賊に襲われた事件をお調べになってみてはいかがかと---」

長谷川さま。なぜ、そのことを本多さまへじかにお話になりませぬ?」
「申しましたとおり、しかとは分かってはおりませぬゆえ、とりあえず、加藤さまと例繰方(れいくりかた 記録調べ役)の岡野与力さまでおこころあたり下調べをしていただいてから、と---」

「ほかにも、なにか、お考えがおありなのでは---?」
「〔岩附屋〕に押し入るにあたって、仮りに20人を動員したとして、獲物は800両となにがし。次の仕事(つとめ)仕込みに400両をのけると、分け前は、ならすと1人あたり20両(約300万円)にしかなりませぬ。配下たちは、とても納得できないでしょう」
「仕込みに400両も---?」
「それでも、少なすぎる見積もりです」
「少なすぎる---?」
「この賊の頭は、商人宿をつぎつぎと買い取っているのです」

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(〔中畑(なかばたけ)〕のお竜が頼りを寄越した高崎宿
広重 『木曾海道六拾九次』のうち)

参照】[〔中畑(なかばた)のお竜] (7) (8)

参照】同心・加藤半之丞 2008年2月20日~[銕三郎(銕三郎)、初手柄] (1) (4)
2008年9月3日~[蓑火(みのひ)〕のお頭] (6) (7)

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