カテゴリー「032火盗改メ」の記事

2009.12.11

赤井越前守忠晶(ただあきら)(2)

内庭への通用口まで出て待っていた次席与力・脇屋清吉(きよよし 45歳)が、控えの間に招じ、
「いつでしたか、目白台へお越しの節は、お城の勤務についておりまして、お目にかかれませんでした」
「4年前になります。その節は、伊織 たち いおり 52歳=当時)筆頭与力さまに、いこう、お世話になりました」

参照】2009年2月8日[高畑(たかばたけ)〕の勘助](

銕三郎(てつさぶろう 28歳)は、目白台の組屋敷でうけた好意のかずかずをおもいだした。
あの日は、よく晴れて日陽ざしがまぶしく、目白坂を登るのに、武家屋敷の塀から差し出た枝がつくる日陰をえらんで歩いたことまでよみがえった。

「で、ご用の向きは---?」
「こちらに、〔乙畑おつはた)〕の源八(げんぱち)と申す盗人一味の書留めがあれば、拝見させてただきたいとおもいまして---」
「4年前にお手伝いした元・例繰り方同心の息・白石恭太郎(きょうたろう 31歳)と申す者が、統(の)べております。明朝、出てまいったら、早速に調べさせますが、お届けはいづこへ?」

「昼までに、松造(まつぞう 22歳)と申す若党をさしむけますゆえ、その者にお持たせいただければありがたく---」

脇屋与力は、身の丈が5尺8寸(175cm)はあり、当時としては大柄といえる体型で、顔の造作も大振りであったが、声がやさしかった。

「〔乙畑〕の〔呼び名(通り名ともいう)〕をもっているところからみると、下野(しもつけ 栃木県)の生まれのようですな」
脇屋次席与力にいわれて、銕三郎は、途端におもいだした。

脇屋次席さまは、もしやして、上野(こうずけ)・新田郡(にったこおり)脇屋村(現・群馬県太田市脇屋町)のご出身では---?」
「よくおわかりで。遠祖が由良成繁)氏に従っていたようですが、北条方に攻められたとき(天正12年 1584)に牢人をしたのを、その後、あのあたりを知行された榊原康政公のお引きで、こちらにご奉公しました。それにしましても、脇屋が村名だと、よく、お気づきになりましたな?」

銕三郎は、京都からの帰りには、中山道を選び、高崎城下で宿泊した旅籠が〔脇屋〕であったので、亭主に店名の由来を訊くと脇屋村の赤城社の近くの出と聞かされことを、明かした。

脇屋の姓の出自にふれたことで、次席与力は一挙にうち解けた。
人は、自分のことに関心をもってくれた者にこころをひらきやすい。

安永2年(1773)正月11日に、小十人頭から組頭として着任した赤井越前守忠晶(ただあきら 47歳 1400石)が、すぐさま火盗改メを命じられたので、前任の安部兵部信盈(のぶみつ 50歳 2000石 先手・鉄砲の8番手組頭)組から引きついだが、安部組もほんの9ヶ月ばかり任に就いていただけのことなので、さしたる実績はあげていなかったようである。

弓の2番手の赤井組の面々としても、ほんの2ヶ月前に16年ぶりに火盗改メを命じられたので、致致・引退している古老から若い者が知恵をまなんでいるところである。

とはいえ、3代j前の組頭・小笠原兵庫信用(のぶもち 53歳=当時)が火盗改メの役に就いた宝暦6年(1756)から9ヶ月のあいだに与力だった者が3名、同心だったのが11名、さいわいにものこっているので、組下のほうは、まずまず、とどこおりはない。

「手前は、菅沼攝津守虎常 59i歳 現・小普請支配 700石)さまが火盗改メをなさっていた、先手・弓の4番手の筆頭与力の村越増次郎 ますじろう 52歳)どのと懇意にしておりまして、長谷川さまの盗賊召し取りのお手柄のほどはずいぶんとうかがっております。わが組のためにもお力をお貸しいただきますよう、組頭どのに申してみようと考えております」

参照】2009年3月19日~[菅沼摂津守虎常] () () () (

「かたじけないお言葉ですが、近々に、跡目のお許しが下りると、両番の家柄でありますゆえ、小姓組か書院番のどちらかへ出仕となり、暇がとれなくなりましょう。それまでの小普請入りのあいだであれば、いつにてもご用命ください」

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2009.12.10

赤井越前守忠晶(ただあきら)

「伯父上。先手・弓の2番手のお頭・赤井越前さまをお引きあわせいただけませぬか?」
銕三郎(てつさぶろう 28歳)が、本家の長谷川太郎兵衛正直(まさなお 63歳 1450石)の下城を待ちかまえて頼んだ。
正直の屋敷は、前々から一番町裏丁通りに800坪ほどを拝領している。

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(長谷川本家・太郎兵衛正直邸 1番町裏丁通り)

太郎兵衛正直は、もう10年間も先手・弓の7番手の組頭をつづけてきた---といっても、このまま終わる気はしていない。
その間に、火盗改メを2度勤めた。

いまの火盗改メの本役は、赤井越前守忠晶(ただあきら 47歳 1400石)であった。
先手・弓の2番手のお頭に、この安永2年(1773)の正月に小十人組頭から出頭し、同年7月9日からは火盗改メを役(えき)している。

「父が健在でありますれば、かようなことで、いちいち伯父上をわずらわすことはないのですが---」
「それはそうだな。宣雄(のぶお 享年55歳)どのの帰館のときに一言頼めば、翌日には手はずがかなっていたろう。(てつ)は人使いが荒いと、宣雄どのはこぼしておられたぞ」
「ご冗談を---。しかし、親に頼みごとをするのも孝行のうちでございますれば---」
「孝行したいときには親はなし---であろうが」
「まったく---」

正直は、用人の磯辺(いそべ 48歳)を呼び、裏六番町の赤井邸ヘ伺いに行かせた。
赤井越前の屋敷は、善国寺坂通り---このあいだまで日本テレビ通りと呼ばれていた、その日本テレビの社屋のあたりにあった。
同じ番町内の長谷川本家からは、小半刻(こはんとき 30分)もかからない。

「宿直(とのい)の次席与力・脇屋(清吉 きよよし 45歳)どのがお会いくださるそうでございます」
磯辺用人が戻ってきて告げた。

ちゅうすけ注】先手・弓の2番手の次席与力は天野甚造ではなかったのか? とおもうファンも多かろうが、あれは小説での登場人物。史実では脇屋与力である。
そういえば2009年2月8日[高畑(たかばたけ)〕の勘助]()に登場した筆頭与力・(たち)伊蔵(いぞう)も史実の人物である。

銕三郎は、供の松造(まつぞう 22歳)をせかし、暮れなずむ御厩谷を西へ横切り 赤井邸に至った。

火盗改メが組頭の自邸を役宅にすることは、いまではファンのあいだでも常識であろう。

赤井越前守忠晶の屋敷は、1000坪近くあるので、仮牢や白洲を敷地の一画にしつらえるのもさして苦でなかったことは、2000石の本多采女紀品(のりただ 60歳=安永2年 2000石 表六番町)のところでも記した。2008年2月16日~[本多采女紀品]() () () (

松造が門番に、訪門者の名と脇屋次席与力に予約がとってある旨を伝えた。
門番は、供が一人きりなのを見て軽々しくあつかい、のそのそと与力部屋へ向かったが、あたふたと戻ってき、丁重に銕三郎を案内した。

脇屋与力は、筆頭から4年前に銕三郎のことを耳にしてい、門番を叱ったらしい。

ちゅうすけ注】ついでだから補記しておくと、2年後、赤井越前守が着任した先手・弓の2番手の組頭に、長谷川太郎兵衛正直が組替えで転じ、その縁で、さらに12年後に銕三郎(そのときは平蔵宣以)が組頭として就いた。
もちろん、そのときには筆頭も脇屋次席も隠居しており、その息子たちが役をこなしていたのだが。

もう一つ加えると、赤井越前守は、翌安永3年(1774)3月には、病没した京都東町奉行・酒井丹波守中忠高(ただたか 享年63歳 1000石)の後任として転出している。

参照】2009年11月22日[京都町奉行・備中守宣雄の死](

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2009.06.07

火盗改メ・中野監物清方(きよかた)(5)

役宅へ帰る同心・田口耕三(こうぞう 30歳)とは、日本橋南詰で別かれた。
田口同心は、〔野田屋〕が、奥さまへといって持たせた白粉〔千代の雪〕の包みをふりふり、一石橋のほうへ去った。

銕三郎(てつさぶろう 26歳)は、日本橋をわたり、先日、茶問屋〔万屋〕の主人・源右衛門といっしょにきた、浮世小路の蒲焼〔大坂屋〕の2階にあがった。
昼どきはとっくにすぎ、夕どきまで1刻(2時間)ほど間があり、店には客がいなかったが、銕三郎の顔をおぼえていた亭主が、こころえて小部屋をあてがってくれた。

「3丁目御箔町の白粉問屋〔野田屋〕の、化粧(けわい)指南のお(みや)という女性(にょしょう)に、この結び文をとどけてもらいたいのだが---」
銕三郎が差し出すと、亭主はそういう客の頼みごとには馴れたもので、にやりともしないで、下へ降りていった。

文には、
「手がすいていたら、うきよこうじ、かばやきの〔おおさか屋〕にいる。はせ川」
と書いた。
(じつはお かつ 30歳)が、どのていど字が読めるのか知らなかったからである。

4半刻(30分)も待たさないで、おがやってきた。
「きっと、お声がかかるとおもっておりました」
「店のほうは、いいのか?」
「そんなに長くはいられません。もし、お話が長びくようなら、あらためて、店が閉まってからでも---」
「いや。長くはかからない。蒲焼でも食べるか?」
「わたしは、お昼が遅かったので、遠慮しておきます。長谷川さまは、どうぞ」

下へ注文を通してから、
「どういうことなんだ?」
「どういうことといわれますと?」
「お前は、〔野田屋〕へ引き込みに入っていたんだろう?」
「そう、見えますか?」
「見え見えだ」
「どうしてですか?」

掛川城下の高級料理〔花鳥(かちょう)〕で〔野田屋〕由兵衛に口説かれたが、返事をその場でしないで、半月か1ヶ月もかけたのは、お(りょう 32歳)や〔狐火きつねび)〕の勇五郎(ゆうごろう 初代 50がらみ)の指図待ちをしていたのであろ、と指摘すると、こっくりうなずいた。

「仕事が終わったのに、逃げないのは、どういう了見だ?」
「ちがうんです。〔野田屋〕のお盗(つとめ)は、〔〕一味ではないのです」
「では、誰の?」
「それを調べるために、居座っているんですよ」
が、声をひそめて言った。

銕三郎が納得がいかないという眸(め)でおを見据えると、
「ほんとうなんです。おおねさんも、そのことであれこれ、調べているんです」
「おどのは、いま、江戸か?」
はまたもこっくりうなずき、
長谷川さまが、お上におおねさんを売るのでなければ、3日がうちにあわせてさしあげます」
「それは、会って委細をきいてからのことだ」

「そういうことだと、こちらも、おおねえさんの気持ち次第です。どこへ連絡(つなぎ)をつければいいですか?」
「そうだな。御厩河岸の茶店の〔小波〕では?」
「あそこは、おおねえさんが嫌がります」
「なぜだ? 小波(こなみ 30歳)も〔狐火〕のうさぎ人(にん)だろうに」

【参照】2008年10月23日~[うさぎ人(にん)・小浪] (1) (2) (3) (4) (5) (6) (7)

「一味のことではないんです。おおねえさん自身のこと---」
「なんだ、それ?」
「お分かりになっているくせに---」

「それでは、本所・二ノ橋北詰の軍鶏なべ〔五鉄〕の三次郎(さんじろう 22歳)なら、おどのもしっているはず」
「では、3日後の暮れ六ッ(午後6時)に---」
「分かった」


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2009.06.06

火盗改メ・中野監物清方(きよかた)(4)

白粉問屋〔野田屋〕は、日本橋通りの三丁目・箔屋町の南角を曲がった1軒目で、間口6間(約11m)の大店(おおだな)であった。

裾に分銅をつけた日除け大暖簾(のれん)を幾枚も張り、表から店内が見えないようにしているが、1箇所だけは、出入りをかね、〔野田屋〕で買っていることを見せびらかしたいおんな客のためにあけてある。
容貌に自信のある女客ほど、その、見えるところで試し化粧(けわい)をしてもらいたがるらしい。

田口耕三(こうぞう 30歳)同心と銕三郎(てつさぶろう 26歳)が大暖簾が切れたところから店内にはいると、ちょうど、お(じつはお 30歳)が、町むすめの顔をつくっているところであった。
男の気をそそるような香気が店いっぱいに満ちている。

は、何度かの訊き取りで顔なじみになっている田口同心によっと頭をさげたが、銕三郎のほうは無視した。
そのそぶりが、銕三郎には、わざと知らぬふりをよそおったとしかおもえなかった。

田口同心を認めた番頭がかけよってき、脇の通路から奥座敷へ案内する。
店の奥の部屋のすみずみにまで、香気が染(し)みていた。
(雑司ヶ谷の(ぞうしがや)の鬼子母神堂脇の料理茶屋〔橘屋)の離れの客間にも、このような香気がただよっていたのをおもいだした銕三郎は、つい、苦笑した。
(人間、匂いや色とか音を忘れないものだな。ことに、肌をあわせたおんながからんでいたとなると、よけい---)

参照】2008年8月15日~[〔橘屋〕のお仲] () () () () () () () (

「番頭さん。ご当主の由兵衛(よしべえ 38歳)さんを呼んでもらおうか。きょうは、盗賊考察の巧者・長谷川うじもいっしょと伝えるように---」
(ははあ、この男が主人の供をして京へのぼった一番番頭・常平(つねへい 45がらみ)だな)
番頭は、中庭をへだてた奥の別棟へ、渡り廊下をわたっていく。

待つ間もなく、太りぎみの中年男がすり足でやってきた。
田口同心に、
「ご苦労さまにございます。お茶でよろしゅうございますか? それとも---」
「ううーん。お茶を所望いたそう。〔野田屋〕のお茶は、とりわけ美味だからな」
とってつけたような返事をすると、番頭が、また奥へ消えた。

お互いの紹介がすんだところで、銕三郎が、
「化粧指南という考案は、おを見る前からのものですか、それとも、おに会っておもいついた?」
「かねがね、考えておりましが、ふさわしい人に出会いませんで。それらしい女性もあったことはあったのでごさいますが、うちの者の気にいらなくて---」
「しかし、おは、ご新造に会わないで決めたように聞いておるが---」
「はい。掛川城下で話を切りだしましたおり、男にはまったく気がなくて、おんな男の相方がいると言われたので、これなら、うちの者の悋気(りんき)の心配もないということで---」
「本人の口から、男ぎらいと申したのですな」

「はい。はっきりと---で、なんでございますか、おが、盗賊を招きよせたとでも---」
「いや、そうでないことは、事件のあとも、そのまま店にのこっていることで、はっきりしておる。お客さま化粧指南という仕事がおもしろいとおもったので、つい。」
「いや、もう、絵に描いてようにぴったりの仕事ぶりで、うちの者ともども、よろこんでおります」

銕三郎は、おにこだわりすぎたことにちょっと気がひけ、話題を切り替えた。
「賊たちは、どのようにして侵入してきたのかな?」
番頭の常平が答えた。
おんな客相手の白粉問屋に長くつとめてきた者らしく、声がなめらかである。
しかも控えめで、男を感じさせないように、馴らした口調も自然のようだ。

店側の建屋の2階のそれぞれの間で寝ていた者たちが、異様な気配に目を覚ましたときには、賊は枕元にいて、抜き身でそれぞれをおどし、しばりあげてたという。
もちろん、一番番頭の常平は通いで、五丁目の南鞘町の路地裏の一軒家に所帯をかまえているから、当夜のことは、店で寝起きしている若手の番頭や手代、小僧たちから聞いてまとめたものである。

「化粧指南のおは、どこで寝起きしておるのかな」
「奥の建屋の2階でございます。あの人は、そこでしばられていました」
「なるほど。で、賊はどこから侵入したのかな」

引き上げるときに、小僧の一人が表の大戸のくぐり口の戸締りをあけさせられたから、表からはいってきたのではないという。
猫道ぞいの横手の戸も破られてはいない。
とすると、勝手口の戸締まりをあけた者がいるか、庭の塀をのりこえたか。

「賊たちが押し入った翌(あく)る朝、姿を消した者がいたそうだが---」
「飯炊きのお(すぎ)婆(ばあ)さんですが、あの人も縛らました」

翌朝、40がらみの男が会いにき、それきり、持ち物一つもたないで、ふっといなくなったのだという。

「請け人はだれです?」
「おさんです」
「お?」
前の飯炊きが3ヶ月前に、嫁に出したむすめが子を産んだからその世話をするといって暇をとった翌日、おが、4丁目の上槙町の於万(おまん)稲荷の鳥居のところで倒れていたと、連れてきたのを雇うことにしたという。

「それでは、ろくな持ちものもなかったであろう」
「それでも、冬物の着物やこまごましたものを持っておりました」
「それをすべて置いて消えたと?」
「はい」


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2009.06.05

火盗改メ・中野監物清方(きよかた)(3)

被害店の白粉問屋〔白粉問屋〔野田屋〕由兵衛方の訊き書きに、店がこの1年のうちにの新しく雇った店の者3人の、名前が記されていた。
その中の1人---

お客さまの化粧(けわい)指南がかり
 お 30歳 生国・甲州八代郡(やつしろこおり)中畑村

(たしか、お(かつ)は、掛川城下の高級料亭〔花鳥(かちょう)〕の座敷女中をしていたとき、おと名乗っていたが---)

参照】2009年1月23日~[掛川城下で] () (

中畑(なかばたけ)〕のお(りょう 32歳)の誘いで、〔狐火きつねび)〕が向島に構えていた寮に泊まったときのおの寝姿をふっとおもいだして苦笑した。
(あれで、お客さまの化粧指南がかりとは、な)

参照】2008年11月27日[諏訪左源太頼珍(よりよし)] (

銕三郎(てつさぶろう 26歳)は、訊き書きの先へ目をはしらせた。

今春、〔野田屋〕の主人由兵衛(よしべえ 38歳)と一番番頭・常平(つねへい  45がらみ)が、仕入れ先の京の御幸町三条下ル東側の白粉問屋〔雁金屋〕権吉方と、四条通麩屋町東入ルの口紅問屋〔紅屋〕平兵衛方へ年賀をかねて注文をしての帰り、掛川城下に一泊し、〔花鳥〕で食事をしたとき、給仕に出たおを見たとたん、由兵衛がお客さま化粧指南というあたらしい職種をおもいついたらしい。
いまのことばでいうと、メイクアップ・デモンストレイター---美容部員である。

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(京の白粉問屋〔雁金屋〕 『商人買物独案内』)
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(同じく口紅問屋〔紅屋〕平兵衛 同上)

話をかけてから、1ヶ月後に、お(じつは、お)が江戸へくだってき、〔野田屋〕に住み込み、指南がかりをはじめた。
根が美形のうえ、客あしらに卆がなので、たちまち、看板むすめならぬ、看板年増---いや、化粧指南師となった。

しかし、賊が押し入った夜も、みんなといっしょに縛られていた。
不審なところはないと書かれている。

銕三郎は、あえて、この件の掛かりの同心・田口耕三(こうぞう 30歳)に質問したりはしないかった。
「だいたいのところは、分かりました。もし、お差し支えがなければ、いちど、〔野田屋〕をあたってみたいとおもいますが--」
「手前が案内します」
田口同心が申しでた。
「こちらのお役宅から、さほどもないので、これから、ご一緒いただけましょうか?」

2人は、日本橋3丁目御箔屋町の〔野田屋〕へ向かった。
道中、田口同心が、
「飯炊き婆ぁが、押しこみの翌日から姿を消しました。あれが一味とおもわれます」
「そうかもしれませぬな」
銕三郎は、生返事をしながら、それとなく、この事件を最初に手がけた前任の石野藤七郎唯義(ただよし 65歳 500俵)組の担当与力と同心の名を聞きだした。

石野組の組屋敷は鍋弦町にあった。

参照】2008年10月12日~[お勝という女] () () () (

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2009.06.04

火盗改メ・中野監物清方(きよかた)(2)

神田橋ご門外の中野監物清方(きよかた 49歳 300俵)の役宅へ行ってみると、家禄300俵にしては、かなり広い屋敷地であった。
もちろん、神田橋門外という江戸城に至近という地の利のいい拝領地にしては---ということだが。
銕三郎(てつさぶろう 26歳)の目分量で、
(ざっと、600坪というところか)
600坪といえば、600石から800石の幕臣が拝領する広さである。

長屋門もどっしりとしている。
(600石級の旗本の家だったのではなかろうか)
銕三郎は、大奥の力を目のあたりにした気分であった。
絶家した600石級の家屋敷をそのまま引きついだのであろう。

いまさらいうまでもなく、火盗改メの役宅は、『鬼平犯科帳』に書かれている清水門外ではなく、組頭の屋敷がそのまま使われるのが史実。

銕三郎は、与力部屋へ通された。
待つまもなく、筆頭与力・村越増次郎(ますじろう 50歳)があらわれた。
2年ぶりの対面であったが、鬢の白いものが目立つほどふえてる。

「この前のときのお勤めは冬場の助役(すけやく)でしたが、今回は本役(ほんやく)なので、いささか気がはっております」
「お役目、ご苦労さまでございます。その節は、 〔墓火(はかび)〕の秀五郎(初代)の妾・お(すえ 45前後=当時)にご寛大なお取りはからいをいただき、面目をほどこしました」
銕三郎は恐縮した口ぶりである。

2009年3月23日~[〔墓火(はかび)〕の秀五郎・初代] (1) () () () () (

「いろいろとご出精のおもむき、あちこちから耳にはいってきておりますぞ」
「お恥ずかしいかぎりです」
「ついては、また、ご助力をいただきたいとおもいましてな、お頭(かしら)に言上したところ、ぜひ、お目にかかりたいとのことで、お越しを乞うた次第です
村越筆頭の言葉が終わらないうちに、若い同心に先導された中野監物清方がはいってきた。
長谷川どののご子息だそうで。役柄で、ご指導を仰いでおります。監物でござる」
背丈はあり、鼻すじのとおった面高の顔だちであるが、痩せており、顔色が冴えない。
臓腑のどこかを病んでいる風情である。

ちゅうすけ注】いささが先走るが、中野監物は、翌年3月に病死。その5ヶ月前(明和8年10月)から火盗改メの助役(すけやく)についていた平蔵宣雄が、監物の死とともに本役へ横滑りし、目黒行人坂の放火犯を逮捕、その褒賞として京都町奉行へ栄転したことは、このあと、機をみて記す。

銕三郎宣以(のぶため)でございます。父・平蔵宣雄(のぶお)から、くれぐれも失礼のないようにと言いつかって参じました」
「いや、堅苦しいことは抜きにして、村越与力を助(す)けてもらいたい」
「できますかぎり---」

監物組頭は、若い同心に合図した。
「失礼だが、当座の足代に---」
前に置かれた紙づつみを、頭をさげて受けた。

「頼みごとは、村越与力からお聞きくだされ」
監物組頭は、そう言って座を立った。

足音が消えてから、
村越筆頭どの。立ち入って申しわけありませんが、殿はどこかお悪いのですか?」
「腎の臓がいささかよくないとおっしゃられております」
「いけませぬな」

村越筆頭与力は銕三郎がすでに顔なじみである、田口耕三(こうぞう 30歳)同心を呼び、いま探索している件を説明させた。

事件は、前任の石野藤七郎唯義(ただよし 65歳 500俵)組から引きついだもので、5月末、梅雨があけた早々に起きた盗難であった。
日本橋3丁目箔屋町の白粉問屋〔野田屋〕由兵衛(よしべえ 38歳)方に賊が押し入り、260l両(約4160万円)を奪いさられた。

仔細を聞くうちに、銕三郎の眉間が寄った。


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2009.06.03

火盗改メ・中野監物清方(きよかた)

その年---明和8年(1771)7月29日、火盗改メの本役が交替した。

先手・鉄砲(つつ)の10番手の組頭であった石野藤七郎唯義(ただよし 65歳 500俵)が、1年ちょっとで無事に任免となり、弓の4番手を統率していた中野監物清方(きよかた 49歳 300俵)が、同日づけで引き継いだ。

銕三郎(てつさぶろう 26歳)の父で、6年ごしに先手・弓の8番手の組頭をつとめている平蔵宣雄(のぶお 53歳)と、鉄砲の10番手とのかかわりでいうと、組屋敷が隣りあっていたことぐらいであろうか。
弓の8番手組は市ヶ谷本村町だが、石野の10番手組は、市ヶ谷本村のあとに鍋弦町がついた。

たしか、石野家の曾孫にあたる鹿之助唯善(ただよし)が、『寛政重修l諸家譜』のために幕府に呈上した「先祖書」に、唯義が火盗改メをやったことを落としていたと、当ブログに書き留めておいたような気がするのだが、ぬかっていたかもしれない。

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B_360
(石野藤七郎の[個人譜})

書いているとすると、浅草田原町の質商〔鳩屋〕の盗難事件を記した、

【参】2009年4月7日[先手・弓の2番手] () () () () (

だとおもうのだが---。
浅草あたりは本役の石野組の持ち場だから、とうぜん、出張っているはすなので。

さて、『徳川実紀』は、明和7年(1770)6月27日の項に、

先手頭松田彦兵衛貞居盗賊考察をゆるされ、石野藤七郎唯義是にかはる。

また、翌8年(1771)7月29日のところに、

先手頭石野藤七郎唯義是捕盗の事をゆるされ、中野監物清方これにかはり命ぜらる。

とにかく、石野組のために、銕三郎が知恵と力を貸したことはなかった。

ところが、中野組が盗賊考察を命じられた10日もしないうちに、筆頭与力・村越増次郎(ますじろう 50歳)から招きの使いがやってきた。

そうそう、書き忘れていたが、中野組の直前の組頭は、菅沼摂津守寅常(とらつね 57歳 700石)であったと書けば、ああ、御徒町とおりに屋敷があった---と思いだしていただけようか。

参照】2009年3月19日~[菅沼攝津守寅常] () () () (
2009年3月23日~[〔墓火(はかび)〕の秀五郎・初代] (1) () () () () (

村越どののお招きとあれば、行かざるをえないな)

下城してきた父・宣雄に、中野組の与力・村越筆頭から招かれたことを告げると、
〔昨秋、ご宿老(田沼意次 おきつく 53歳)の下屋敷で、あのお方がお尋ねになったことを覚えておるか?」
「はい。よく覚えております」

参照】2009年5月6日[相良城・曲輪内堀の石垣] (

有徳院殿(将軍・吉宗)さまにつきそって城内へおはいりなった紀州勢の方々が、いまにいたっても優遇されすぎていると、古くからの幕臣たちに妬(ねた)まれてはいないか、とのお尋ねでした」
「こんど、火盗改メを拝命された、中野監物うじもそのお一人なのだ」
「と、申しますと---」

50年ほど前の享保元年(1712)に、はからずも江戸城入りをした吉宗の警護として、赤坂藩邸から二の丸へ入った紀州藩士の名簿が『南紀徳川史 第一冊』に載っていることは、いつかも報じた。
その130人ほどの紀州藩士の中に、奥小姓・中野喜三郎(200石)の名がある。

寛政譜』にある中野清房(きよふさ)の名は喜太郎である。
喜三郎喜太郎が同一人物である確率は、かなり高いとおもえる。
紀州藩士時代に200石の家禄の者が、幕臣となって300俵というのは、いかにも少ない。
代わりに、清房には出羽守の称呼がゆるされたとあるが、『寛政譜』はそれを記さず、次男・定之助清備(きよとも 300俵)が称している。

寛政譜』の清房の項は、

喜太郎 竹右衛門
紀伊家にをいて有徳院殿につかへたてまつり、小姓をつとめ、享保元年本城へ入らせたまふのとき従ひたてまつり、御家人に列し、六月二十五日廩米三百俵をたまひ、御小姓となる。(以下略)

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(清房・清方の[個人譜])

清房どのは、お小姓というお傍近い職にありながら、300俵のまま、据え置かれてなさった」
宣雄がつづける。
「嫡男・清方どのの代になっても家禄はそのままであった。6年前にやっと小十人頭に登られて、役料1000石がついた。そして、今春、役料1500石の先手の頭にあがられた。お齢は49歳と聞いておる。ご本人も、どうしてこんなに遅かったのだと、ご自身を恨んでおられよう」
「どうして遅かったのですか?」
「人事のことは、傍目とは違う。ただ、弟の清備うじがお小姓に登用され、300俵を給されているから、あわせると600俵にはなる。中野うじの役宅へお伺いするときには、このあたりのことをこころしておくように」

「そうそう、も一つ。清方清備うじのお妹が大奥へ召され、老女職から竹千代君(家基 10歳=当年)のお乳人(めのと)に登られている」
「ほう---美男美女系ですか」


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2009.05.20

火盗改メ・永井采女直該(2)

火盗改メのお頭(おかしら)・永井采女直該(なおかね 52歳 2000石 鉄砲(つつ)組の4番手組頭)は、最後まで顔を見せなかった。

そのことを銕三郎(てつさぶろう 26歳)が、父・平蔵宣雄(のぶお 53歳 先手・弓の8番手組頭)へ告げると、
「とぼけたことを言うでない。先方は2000石の幕臣だぞ。しかも、泣く子もだまる火盗改メのお頭でもある。部屋住みの(てつ)など、眼中にあるものか」
「しかし、捕り物を頼んだのでございすよ」
「名前が同じ采女で、家禄も2000石同士でも、本多采女紀品(のりただ 58歳 大番組頭)どのは、別なのだ」
「火盗改メといえば、町方(まちかた)や在方(ざいかた)以下の盗賊相手の職務。高くとまっていては、職務がつとまりまらないと存じますが---」
が火盗改メの頭になったら、気さくにふるまえばよろしい」
「はい。そういたします」

離れへ引きさがってきた銕三郎に、辰蔵(たつぞう 2歳)を抱かせなから久栄(ひさえ 19歳)が、
「しっかりとお顔を覚えさせておきなれませ。10日もお顔を見ないと、忘れるやもしれませぬ」
「おどかすな。長い一生のうちの、ほんの10日のことだ」
「一日千秋、と申します」
「それは、久栄の気持ちであろう。拙とて、一日万春だ」
「ほんとうでございますか?」
「ほかに、そういうおもいをするおなごでもいるとおもうのか」
「いまのお言葉、うれしゅうございます」

銕三郎は、浅野大学長貞(ながさだ 25歳)が路銀のたしにとよこした5両のうちから3両を、
辰蔵の着るものでも買うてやってくれ」
久栄は押し返し、
辰蔵は、大橋の母にとっても初孫でございます。着るものには不自由させませぬ」
「それは、拙の母ごで、その方の姑(しゅうとめ)どのにも初孫だ。だが、父親は拙である。着るものの一枚ぐらいは買うてやりたい」
「おろかでございました。頂戴いたします」

機嫌がなおった久栄は、さっさと床をのべた。
「もうか?」
「一夜千秋、万春を満喫いたしましょう」

「ほら、千秋がこのように張りきって---」
「まんも、常に倍して濡れに濡れ、ながれるほどだぞ」

「今宵あたり、(たつ)の妹ができそう」
「さようか。では、しっかり受けとめて、放すなよ」
「はい。ああ、きています、き、ま、し、た」


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2009.05.19

火盗改メ・永井采女直該

「楠の大樹から北へ4軒目と聞いたぞ」
弓町へ入るまえの壱岐坂下から梢はおろか、樹高の半分から上の茂り葉が、屋根ごしに見えていた。

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(本郷・(元)弓町の楠の巨樹は現存。樹齢700年ほど。幹囲8.5m)

それを目安に、左手へおれたとき、銕三郎(てつさぶろう 26歳)が、下僕見習・松造(まつぞう 20歳)に言う。

「いえ。昨日、書状をとどけたときは、3軒目でやした」
「これ。やしたではないぞ。3軒目でございました、だ」
言葉づかいを直されるのも道理、下僕見習は、〔からす山〕の寅松(とらまつ)であった。

昨年暮れに烏山(東京都世田谷区北烏ー山)から出てきて、
「掏摸(すり)の足をきっぱり洗いやしたから、飯炊きなりなんなりに雇ってくだせえ。若のおそばで修行させていいだきやす」

父・宣雄(のぶお 53歳)が、銕三郎の勤仕も近かろうから、専属の下僕の一人もいておかしくないと、認めてくれた。
もちろん、久栄(ひさえ 19歳)の口ぞえもきいた。
何かにつけて、宣雄久栄に甘い。

参照】2008年9月7日~[〔中畑(なかばたけ)〕のお竜〕 (1) (2) (3) (4) (5)  (6) (7) (
2008年9月22日[大橋家の息女・久栄]  (

寅松は武家の下僕に似つかわしくないと、松造と変えた。
日が浅いので、伝琺な言葉のほうがなかなか直らない。
それでも、銕三郎は気にしないで、松造を使いにだす。
(習うより、慣れろ、だ)
そう割り切っており、昨日も訪(おとな)い状を、火盗改メ・永井組の与力筆頭・佐貫(さぬき)徹次郎(てつじろう 45歳)あてに持たせておいた。

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(永井采女直該の[個人譜])

「やっぱ、若のおっしゃるとおり、4軒目でやした---でございました。あいだの1軒があんまり小さいので見逃しておりました」
「これ、。声(鯉)が高い」
「鮒が安い」
池波さんなら、ここで、こう、駄洒落を返させるだろうが、ちゅうすけには、その気はない。

さすが家禄2000石の永井家の敷地は本郷台地の弓町に2000坪はあり、その役宅の与力部屋で佐貫筆頭与力のわきに、駿府、掛川へ探索に出張(でば)った与力・佐山惣右衛門(そうえもん 38歳)も待っていた。
説明は、もっぱら、佐山与力がおこなった。

出張る同心は、気ごころのしれた有田祐介(ゆうすけ 31歳)であること。
与力は手いっぱいゆえ、出張れないこと。
(なにをいっておるか。賊を捕まえるのが仕事のくせに---)
組の掛かり金が少ないゆえ、旅籠代別で1日2朱(2万円)、10日分1両1分(約20万円)きり下せないこと。
木更津と江見村、真浦(もうら)村での食事と泊まりは村持ちであるから、掛かりは足りようと。

佐山さま。供の掛かりはどうなりましょう?」
「ほう。駿府、掛川のときには、供の者はお連れではなかったが---」
「あのときは初見前の部屋住みの身分でしたから---」
「なるほど。理ですな」

佐山
与力は、佐貫筆頭の丸顔に目をやって指示をあおぐ。
筆頭は、渋い顔をさらにしかめながらうなずいた。
「では、2人分ということにいたします」
(これで、に小遣いをやれる)

有田祐介同心が呼ばれた。
「公用手形、木更津への船手形は、この有田同心が持って、明後日五ッ(午前8時)、木更津河岸(江戸橋南)からでる木更津通いの船で待っている」

「では、有田さま、明後日、木更津河岸にて---」


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2009.05.03

火盗改メ・平岡与右衛門正敬

2009年4月29日の当ブログ[先手・弓の組頭の交替]に、天野伝四郎富房(とみふさ 700石)が、凡庸ながら勤勉につとめあげ、67歳にしてようやく、弓の1番手の組頭の席を射止めたものの、着任2ヶ月で病死してしまったことを告げておいた。
後任には、天野富房とおなじく小姓組の与頭(くみがしら 組頭とも記す)を15年間にわたって勤めていた平岡与右衛門正敬(まさよし 69歳 800俵)が、明和7年(1770)9月1日に発令された。

前にも書いたが、小姓組の与頭は1000石格、先手組頭は1500石格であるから、800俵の平岡正敬には700石の足(たし)高が給される。
足高で、1500石にふさわしい供ぞろえなどを補充せよ---というのが表向きの沙汰だが、たいていは、旧のままですましてしまう。

長谷川平蔵宣雄(のぶお 52歳 400石)のように、先手の組頭に任じられると、火盗改メの加役を下命されることを予想し、仮牢や拷問部屋、武具庫のために1200余坪もの敷地を手配した例は、きわめてまれである。

さて、弓の1番組という由緒のある先手の組頭となった平岡正敬に、待っていたかのように2ヶ月もおかずして、火盗改メ・助役(すけやく)が発令された。

平岡家は拝領屋敷として、湯島聖堂の西にあって江戸城にも近い、本郷桜ノ馬場(現・東京医科歯科大付属病院)の角を賜っており、よほどに裕福とみられたのかもしれない。

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(赤○=桜ノ馬場 緑○=平岡邸 近江屋板)

余右衛門正敬に火盗改メの下命が達したのは、明和7年10月21日で、1番手の与力・同心たちとすると、冬場の助役(すけやく)とはいえ、宝暦3年(1753)年以来、17年ぶりの火盗改メというので、先輩たちは若手を鍛えるいい機会とばかりに張り切った。

ところが、平岡組頭がいっこう沙汰をくださないばかりか、桜ノ馬場の屋敷に白洲や仮牢を設ける気配もない。
同心たちが不審におもっていると、余右衛門正敬が病気につき加役ご免の申請をしているらしいとのうわさが流れてきた。
筆頭与力・三宅喜之輔(きのすけ 53歳)が余右衛門に質(ただ)すと、腰痛と膝痛がひどいために乗馬もかなわぬゆえ、火盗改メ・辞退願いを上程していると打ちあけられ、与力たちは唖然とした。
それなら、先手組頭への昇進の諮問があったときに釈明して断るべきだ、というのが誇り高い1番手の与力・同心たちの総意であった。

それなのに、先手の組頭の役料1500石がほしいばっかりに、同職だけは受けたというこころねがいやしいと、聞こえよがしにいきまく同心もいた。

幕府が辞退願いを受理、病免あつかいにして平岡家の体面をかばってやりながら、火盗改メの代役には高齢の組頭に懲りたか、とってつけたように51歳の永井采女直該(なおかね 2000石)を11月23日付で発令した。

平岡政敬の火盗改メの期間は1ヶ月と1日であった。

永井直該は、鉄砲(つつ)の4番手の組頭であり、家禄2000石なので、1500石格の先手組頭は、いわゆる持ち高勤めであり、あまりありがたがられないところへもってきて、もの要(い)りな火盗改メは、いかに冬場の助役とはいえ、不本意であったろう。

先例がないわけではない。
本多采女紀品(のりただ 49歳=就任時 2000石)もその一人である。
本多紀品は、先手組の中でも同心が50名と多い、それだけに格も高い鉄砲の16番手の組頭であった、
さらに、火盗改メを2度こなした。
上から有能と見られていたのである。

参照】2008年2月9日~[本多采女紀品] (1) () () () () () () (
2008年2月20日~[銕三郎、初手柄] () () () (

次の栄転を暗示され、引き受けた気配がある。
永井一門も、本多家同様に名家が多く、引きも強い。

ま、そういった永井直該のその後のことは、向後に託し、これきりでこのブログからは消えるはずの平岡与右衛門正敬の個人譜を掲示しておく。

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(平岡与右衛門正敬の個人譜)

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