2009.07.07

目黒・行人坂の大火と長谷川組(6)

長五郎真秀(しんしゅう 18歳)は、ずるがしこく、しぶとかった。
昨日の自供と、今日の告白が食いくちがっている点を指摘されると、
銕三郎さまに話す」
と、しらをきる。

そのたびに、銕三郎(てつさぶろう 27歳)が対面した。
「どうしたのだ? 正直に白状する約束ではなかったのか?」
「お役人は、おれがのっぴきならねえ悪(わる)のように、誘いこむだ」
「お前は、のっびきならない悪だ」
「んだども、江戸を焼きつくすほどの悪ではねうだど」
「だから、お前が、極楽へ行けるようにここの住持どのも、火付改メのお頭も導いておられる」
銕三郎さまは、どうだべ」
「拙は半々だな」
「半々?}
{いまのままでは、右足は極楽、左足は地獄」
「なしてだ?」
「お前が、正直でないからだ」

で、正直に自白すると約束をかわすのだが、すぐにまた、ごねた。
一日でも火刑を先にのばすための方便をつくしているとしかおもえない。

銕三郎は、18歳かそこらにも手におえない悪党がいることを悟った。
真秀は、934町が家を失い、14,700人が焼死したことに対して、まったく反省とか同情の念をみせなかったのである。
どこかが狂っているとしかおもえなかった。

父・平蔵宣雄(のぶお 54歳)は、彼が放火から、捕まるまでの行状を、ことこまかに記録し、火刑が妥当との量刑を上申した。

それを待ちかねていたように、老中首座・松平右近将監武元(たけちか 63歳 上野・館林藩主 6万石)は、町中引き廻しの上、小塚原の刑場で火あぶりの刑をいいつけた。
処刑は、6月21日であったという。

宣雄が放火犯を追っていた最中の3月4日に、火盗改メ・本役の中野監物清方(きよかた 50歳 300俵)の死がみとめられた。
私見だが、じつは、中野清方は、大火の直前に卒していたのではなかろうか。
火事騒ぎのごたごたで、先手・弓の4番手の退職願いの届けと認可が4日まで遅れたと見る。
大火の7日前の2月22日に卒したとしている資料もある。

徳川実紀』の安永元年(---じつは改元前の、まだ明和9年)3月6日の項に、

先手頭長谷川平蔵宣雄盗賊考察を命ぜらる。中山主馬信将をもこれにくわえらる。

つまり、宣雄は助役(すけやく)から本役(ほんやく)へよこすべりし、中山信将(のぶまさ 42歳 2100石)が宣雄のあとの助役にうめたといことである。、

中山信将は、家祖は水戸家の家老・中山備前守信吉(のぶよし)の二男・吉勝で、信将は四代目で、前年、先手・鉄砲(つつ)の19番手の組頭に任じられていた。
屋敷は、小川町裏猿楽町。
組屋敷は、市ヶ谷五段坂。
与力5名、同心30人。

泥棒がはびこる火災後の重責である。

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(中山主馬信将個人譜)

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2009.07.06

目黒・行人坂の大火と長谷川組(5)

「父上。所化(しょけ 修行中の僧)・長五郎真秀(しんしゅう 18歳)の捕縛をお伏せになりましたこと、まこと至極のご処置と、感服つかまつりました」
夕餉(ゆうげ)のあと、茶を喫しながら銕三郎(てつさぶろう 27歳)が言うと、
(てつ)。そちは、焼失させられた町方の衆の恨みによる私刑のことを言うておるのであろう?」
「はい」

「そのような浅慮では、火盗改メは勤まらぬぞ」
「は?」
細井金右衛門正利 まさとし 60歳=明和4年 200俵)どののことを覚えておるか?」
「あっ!」

細井正利は、下掲の【参照】に『寛政譜』をかかげているとおり、明和2年(1765)58歳に先手・弓の5番手の組頭となり、翌3年6月18日から火盗改メの増役(ましやく)を命じられた。
増役とは、臨時に増員された加役(かやく)で、事件が多く、本役(ほんやく)と助役(すけやく)の2組では手がまわりかねるときに発令される。

参照】2008年6月11日[明和3年(1767)の銕三郎] (

細井が役を免じられたのは明和4年(1767)6月20日だが、前年の閏9月16日に、捕らえていた放火犯を獄にくだすべく言上したのはいいが、それが与力まかせの誤認逮捕で冤罪であることがわかり、職務怠慢・職責粗略のうえに誤審を糊塗しようとしたとみなされ、職をうばわれ、小普請におとされ、逼塞を命じられた。

「放火犯の確定はむずかしい。よほどに証拠がためをしてかからないと、評定所でひっくりかえることがあるのだ」
「たしかに。長五郎が放火したところを、大円寺では誰もじかには見ておりませぬ」
「脇の証拠ばかりよ」

そういうことで、平蔵宣雄の取調べは詳細をきわめた。

南本所・三ッ目通り長谷川邸の仮牢から、縄付きの長五郎を目立たないように裏門から横川に待たせある、ぐるりに障子をたてまわした屋根舟にのせ、数人の同心と小者が警備にあたりながら、横川から大川、江戸湾を南行して品川浦へ。
そこから目黒川を遡行、行人坂下の石橋・太鼓橋で下船してからも長五郎には深編笠をかぶせて大円寺の焼け跡へ連行した。

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(目黒・行人坂下の目黒川に架かる石の太鼓橋
『江戸名所図会』 塗り絵師:ちゅうすけ)

大円寺の行人坂に面したところは目隠しの板塀が建てめぐらされ、通りからは証拠調べのぐあいが見とおせないように手くばりされていた。

長五郎は、ほんのボヤをおこして、その騒ぎのすきに金銭を盗んでにげるつもりだったようだが、烈風のために火勢が強められ、おもわぬ大火になってしまったと、悪びれることなく、放火の仔細を白状する。
しかし、宣雄は、それでは満足せず、さらに細かくつめていった。

放火現場の取調べは、3日おきに4日もおこなわれた。
(てつ)。なぜ、日をおくかわかるか? 口供の細部にくいちがいでるのを待っているのだ。そこを衝(つ)けば、真実がこぼれでる」

宣雄の遺漏のない検証は、幕府高官が讃嘆するところであった。

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2009.07.05

目黒・行人坂の大火と長谷川組(4)

「火つけ犯人らしい所化(しょけ 修行僧)を捕えたことは、一言も洩らしてはならぬ」
火盗改メ・助役(すけやく)の長谷川平蔵宣雄(のぶお 54歳 400石)が、組下の者はもとより、大手柄の〔愛宕下(あたごした)〕の伸蔵(しんぞう 42歳)元締、火元の大円寺の住持をはじめ、一同に厳命した。

「洩らした者は、ご公儀に対する反逆の噂を広めた科(かど)で、遠島ではすまさない」
こう言ったときの宣雄の目はつりあがっていた。

もちろん、銕三郎(てつさぶろう 27歳)には、父・宣雄の危惧は痛いほど通じていた。
家を焼かれた者たちが、放火犯が捕縛されていると知れば、徒党を組んで私刑をくわえに押しよせる。
火盗改メの長谷川組の与力5人、同心30名では、とても防ぎきれない。

それでも大事をとった宣雄は、〔愛宕下〕の伸蔵に言いつけ、浜松町の町会所の町(ちょう)役人や書役(しょやく)を監視させるとともに、あの僧は調べた結果、かかわりないとわかったので放免したという噂を、ひそひそとながさせた。
その一方で、銕三郎の下僕の松造(まつぞう 21歳)の頭を丸め、長五郎が着ていた高位の僧衣を着せ、網代笠(あじろがさ)をかぶらせて、別の町を4,5日徘徊させるという念のいれようであった。

ことの経緯は、この明和9年(1772)の1月から3万石に加増されて正式老中に昇格していた田沼主殿頭意次(おきつぐ 54歳)には、こっそりと報告してあった。
意次は、配慮を忘れなかった。
「月番若年寄・加納遠江守久堅(ひさかた 62歳 伊勢・八田藩主 1万石)侯からあがるようになされよ」

幕閣たちは、それどころではなかった。
1000家を越す幕臣の家が焼失したのである。
町方の商家や職人の困窮もなみではなかったが、幕臣のそれは、幕府の威厳にかかわることだから、金蔵を空にしてでも再建資金を貸しあたえないわけにはいかなかった。

風俗画報 臨時増刊 江戸の華 中編』(明治32年1月25日)にによると、このときの幕臣の拝借金は次のように定められた。

1000石以上  50両(800万円)
900~800石 45両(720万円)
700石     40両(640万円)
600~500石 30両(480万円)
400~300石 20両(320万円)
250石     17両(272万円)
200~100石 15両(240万円)
100~80俵   7両(112万円)
 70~50俵   5両( 80万円)
 40~30俵   3両( 48万円)
 20~15俵   2両( 32万円)
   14俵以下 1両( 16万円)
返済は10年年賦

木材や大工手間賃は高騰していたろうから、これしきの拝借金でどの程度の家が建てられたかは記されていない。
火災にあわなかった親類縁者から借財したとしても、災害前の生活水準ができるようになるまで何年かかったろう。

幸いに、長谷川家は本家・支家とも火災にあわなったからいいとして、銕三郎の嫁女・久栄(ひさえ 20歳)の実家は、たしか、このあと30年ほど和泉橋通りの屋敷にとどまったが、けっきょく、大塚へ移転している。
移転の詳細は、いまのところ、未詳。いずれ、暇ができたら、『東京史稿』でもあらためてみるつもりである。

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2009.07.04

目黒・行人坂の大火と長谷川組(3)

「不審な若造を捉えて、浜松町の町会所に監禁しています。もしやして、こんどの大火にかかわりがある者かもしれません」
愛宕下(あたごした)〕の伸蔵(しんぞう 42歳)元締の息・伸太郎(しんたろう 21歳)の言い分に、銕三郎(てつさぶろう 27歳)の胸は高なったが胆力でじっと抑えつけ、すぐさま、平蔵宣雄(のぶお 54歳)の部屋へ告げた。
宣雄は、与力部屋につめていた次席の内山左内(さない 47歳)を呼び、事情を訊くように命じた。

伸太郎によると、延焼をまぬがれた浜松町の家々の前に立ち、悪魔除けの読経をしてまわっている僧がいた。
火がこの家までとどかなかったのは、深い仏恩のゆえと、布施をせがむ。
身にまとっているのが高位の僧衣にもかかわらず、足は汚れており、かかとがひびわれていたので、
「怪しい」
不審とのつげ口があり、〔愛宕下〕一家の若い衆が、饅頭形の網代笠(あじろがさ)を脱がせてみると、まだ20歳にもならないのに、すさんだ顔相の男であった。
とてものことに、高僧の人品ではない。
法名を「新習(しんしゅう)」と名のったが、実名ではない気配でもある。

「お出張りの上、お改めをいただきたく---」

仔細を告げられた宣雄は、すぐさま、与力の一人に騎馬で目黒の安養院能仁寺に仮寓している火元・大円寺の僧を呼びにやった。
伴ってくる先は、いうまでもなく、芝・浜松町の町会所であるが、なるたけ隠密に---と念をおした。

浜松町へは、宣雄自らが、内山次席与力と同心2名、それに銕三郎をつれて出張ったが、近くで分かれて、それぞれ間をおいて入った。

長五郎真秀(しんしゅう)は、はじめは放火を否認していたが、
「まもなく、大円寺の住持どのがお着きになる。さすれば、当日のそこもとの行状、さらにはその法衣のことまであきらかになるわ」
訊問をわざとやめた。
放置された長五郎は、不安を嵩じらせはじめた。

その様子を見きわめた銕三郎が、そっと寄り、
「お主(ぬし)、熊谷宿の生まれと言っているが、石原村の出だな」
ぎょとした長五郎に、
「石原村生まれの女賊(おんなぞく)で、お(てい)をしっておるか? そうさな、齢のころは、いまは35,6の大年増だが---。そうだ、初鹿野はじかの)〕一味では、お松(まつ)と呼ばれていた---」

参照】2008年8月10日~[〔菊川〕の仲居・お松] () (10) (11

長五郎の目に懐疑の色が走った。
「お主の身元は、もう、割れているのだよ。火事のすぐあと、大円寺の者から聞いて、忍(おし)藩(10万石)の町奉行所へ同心どのが調べに行っておるのだ」

忍藩の藩主は、阿部豊後守正允(まさたか 57歳)で、政庁は忍(現・行田市)にあった。
中仙道の要衝---熊谷宿は忍藩の領内で、西に約1里(4km)の宿場を、町奉行が月に2回巡回しており、長五郎の10代前半の所業(放火歴)も忍の町奉行所に記録されていた。

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(栄泉 熊谷宿 八丁堤の景)

石原村は、次の深谷宿とのあいだの集落である。

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(栄泉 深谷之駅 芸者達が宿へ呼ばれた景)

「お主が石原村の実家から勘当され、無宿になったことも、調べがついている。無駄なあらがいはやめて、すんなり応えたほうが、火盗改メのお頭がいい感じをお持ちになり、お慈悲もいただけようというものだ」
「そんなつもりじゃなかっただに、江戸の半分が燃えてしまっただ」
「そうだろう。だれだって、江戸の半分も焼きはらおうなどの大それたことはかんがえぬ」
「騒ぎに、寺から金目のものを盗むつもりだっただ」
「ま、そのように、お頭へ、まっすぐに申しのべるがよい。拙が力になってやる」
「あなたさまは?」
銕三郎という者だ」

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2009.07.03

目黒・行人坂の大火と長谷川組(2)

久栄(ひさえ 20歳)は、臨月であった。
「父上をお助けしなければならぬ」
銕三郎(てつさぶろう 27歳)が、火元の目黒・行人坂の大円寺の納所の者たちから聞き取りをすので、泊り込みで出張るための着替えなどを整えている久栄に言った。

「ご案じくださいますな。2人目は軽いと聞いております。だって、昨夜まで、(てつ)さまが通り道をひろげておいてくださったのですもの、するっと生まれましょう。また、離れには母もおり、母屋には姑(しゅうとめ)どのもお控えでございます」
「用は、2日ほどですもう。それまでの、しんぼうだ」
「お帰りになったら、まだ残している、臨月の睦み、第4の手を---」
久栄か、意味深長な笑顔をつくって、口をさしだした。
隣家の松田彦兵衛貞居(さだすえ 65歳 1500石)は山田奉行に転じていたが、奥方の於千華(ちか 37歳)は付随しないで留守邸にのこり、無聊を久栄への色事話でまぎらせていた。

聞きとり組は、組頭・長谷川平蔵宣雄(のぶお 54歳)と次席与力・内山左内(さない 47歳)、同心3名に小者5名、下僕2名に飯炊き、銕三郎と供・松造(まつぞう 21歳)であった。
宿泊所は、天台宗・泰叡山滝泉寺(現・目黒区下目黒3丁目)---と書くより、目黒不動堂としたほうがわかりがはやかろう。
同寺の塔頭の一つがあてられた。

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(目黒不動堂 滝泉寺 『江戸名所図会』
塗り絵師:ちゅうすけ)

大円寺へは、10丁(1km)ばかり先の目黒川に架かる石の太鼓橋をわたり、行人坂を半分のぼればすむ。

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(夕日丘・行人坂 坂の中途の大円寺に慰霊の五百羅漢石像
同上)

もっとも、寺が焼失してしまっているので、住職たちは、石橋の手前の同宗の、寝釈迦像で有名な安養院能仁寺の離れに避難してきている。
雨がふらなければ、そこから焼け跡の現場までやってきて、訊問をうけた。

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(寝釈迦・安養院能仁寺 同じ上)

宣雄の訊問は、現場でも詳細をきわめた。
とくに、住職にうらみをいだいている者、懲罰を行った者の追究はくわしく訊きとられた。

その結果、大円寺の所化(しょけ)だった、武州・熊谷無宿の破門僧の長五郎(ちょうごろう 18歳)が、容疑者第1号としてあがってきた。

銕三郎は、父・宣雄が、寺の僧職の者や使用人などをやさしく問い、手がかりめいたものが語られると、思いだすまで細部を補いながら慎重に訊いてゆく手練から、多くを学んだ。

長五郎の人相書がつくられ、写しも何枚も描かれて、町廻りの同心たちはしっかり覚えた。

ちゅうすけ注】人相書は、ふつう、親・主殺し、放火犯しかつくらない。

しかし、長五郎は、どこに潜ったか、それらしい報告はあがってこなかった。
人びとは、避難生活と焼け跡の片づけに、それどころではなかった。
放火犯人は、ご公儀の仕事ともおもっていた。

そこへ、芝の香具師の元締・〔愛宕下(あたごした)〕の伸蔵(しんぞう 42歳)の息・伸太郎(しんたろう 21歳)が、銕三郎を訪ねてきた。
大火から丸20日目であった。

怪しい若者が芝のあたりを徘徊していたというのである。

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2009.07.02

目黒・行人坂の大火と長谷川組

「ゆうべの、空を飛んだ光ものはなんだ?」
「品川浦から亀有のほうへ流れるように走った」
明和9年2月29日の早朝から、南西の烈風が吹きまくるなか、井戸端での話題は、昨夜の不可思議な現象にあつまった。
その光ものは坤(ひつじさる 南々西)から、艮(うしとろ 北東)へ江戸の夜空を横ぎっていった。
「なにかの前兆でなければいいが---」
「今朝の、このお天道(てんとう)さまの翳(かげ)りとも、かかわりがあるのだろうか?」

この年の2月29日は、現行の4月1日にあたる。
暗いうちからの烈風は、土ぼこりを舞いあがらせて天をおおい、太陽をさえぎり、五ッ(午前8時)だというのに、江戸の町はうすぐらかった。

町人たちの予想はあたり、大不祥事が江戸の町を襲ったのである。

目黒・行人坂の大火がそれである。

火元は、行人坂の中腹の天台宗・大円寺(現・目黒区下目黒1丁目)であった。
正午前後に出火し、おりからの強風に炎が狂ったように走った。
その惨禍は、白金の町々から麻布一円、三田新網町辺、狸穴(まみあな)、飯倉市兵衛町なだれ、霊南坂、西久保、桜田、霞ヶ関、虎門、日比谷門、馬場先門、桜田門、和田倉門、伝奏屋敷、幕府評定所、常盤橋門、神田橋門を焼き落とした。
火炎はさらに、日本橋通り3、4丁目西側、元四日町、万(よろず)町の西河岸から南伝馬町の商家および牢獄、を軒なみ、
内外神田、神田明神社、聖堂、湯島天神とその周辺一帯、上野広小路、下谷、御徒町、入谷、金杉、三ノ輪、小塚原、吉原、千住となめた。

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(江戸の火事 『風俗画報』明治32年1月25日号より)

ものの本によると、焼失したのは、934町、大名屋敷169、橋170、寺院382、死者14,700人余、行方不明4,
600人余。幕臣の家屋の全焼も1000戸を軽くこしたろう。 

のち、江戸の3大火の一つに数えられた。

もちろん、本所、深川へは飛び火しなかったから、長谷川邸は焼けなかったが、出水には被害をこうむった。
長谷川組---先手・弓の8番手の組屋敷には、火炎はとどいていない。

長谷川一門の本家で表一番町新道の太郎兵衛正直(まさなお 63歳 1450石 先手・弓の7番手組頭)も類焼をまぬがれている。
納戸町の大身・久三郎正脩(まさひろ 4070石 小普請支配)もおなじく助かった。
銕三郎(てつさぶろう 27歳)かかわりでは、若奥・久栄(ひさえ 20歳)の実家が全焼したので、とりあえず、銕三郎たちの離れをあけて、仮普請ができるまで提供した。

火元の大円寺は、火盗改メ・助役(すけやく)の長谷川組の持分の区域にある。
鎮火とともに、長谷川平蔵宣雄(のぶお 54歳 400石)の出火原因の探索がはじまった。

幕府の期待が長谷川組にそそがれたのは、持ち分のためでも、屋敷が被災しなかったためばかりではなかった。
本役・中野監物清方(きよかた 50歳 300俵)の神田門外の役宅が焼失してしまい、臨時役宅は清水門外の幕府用地に仮設されたが、病臥中の清方をはじめ一家は、奥方の里---平岡弥平次正孝(まさのり 26歳 400俵)の四谷新宿屋敷大名小路に仮寓しており、用務は筆頭与力・村越増次郎(jますじろう 51歳)が執りしきっていたからでもある。
目白台の同組屋敷は焼けていない。

ちゅすけ注】銕三郎かかわりでいうと、深川・本所は延焼しなかったのであるから、とうぜん、高杉道場、岸井左馬之助(さまのすけ 27歳)が寄宿している春慶寺、〔風速(かざはや)〕の権七(ごんしち 40歳)の駕篭屋〔箱根屋〕も、本所の弁財天裏の〔相模(さがみ)〕の彦十(ひこじゅう 37歳)の裏長屋も、二ノ橋北詰の〔五鉄〕、弥勒寺門前のお(くま 49歳)の茶店〔笹や〕、四ッ目通りの〔盗人酒屋〕も無事であった。
そうそう、御厩(うまや)河岸・三好町のお(のぶ 31歳)の茶店〔小浪〕も、2筋西まで炎がきたのに、奇跡的に焼けなかった。

今助(いますけ 25歳)・小浪(こなみ 32歳)の〔銀波楼〕は焼けおちた。
浅田剛二郎(ごうじろう 34歳)が用心棒をしていた質商〔鳩屋〕は、東本願寺・浅草寺(本堂は残った)の塔頭などと運命をともにした。
ただし、〔鳩屋〕の質もの蔵は火炎に耐えた。
般若(〔はんにゃ)〕の猪兵衛(いへえ 24歳)の家も、髪結い・お(しな 23歳)も焼けた。おは、とりあえず、故郷の秩父の小鹿野(こがの)村へ帰って、江戸の町の再興を待つことにした。

音羽(おとわ)〕の重右衛門(じゅうえもん 41歳)元締のところも、芝の北新網町の〔愛宕下(あたごした)〕の伸蔵(しんぞう 42歳)元締のところもまぬがれたので、お救い屋の整理に組子たちを動員して、このときとばかりと奉行所や町役人の手助けにはげんでいた。

長谷川組の探索の結果、大円寺の出火は、ふだんは火のない物置き所への放火が原因らしいと推定され、放火犯人の割りだしがはじまった。

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2009.07.01

〔愛宕下(あたごした)〕の伸蔵・元締

長谷川の若さま。ご尊父は、火盗の助役(すけやく)をお勤めでございましたな」
土地(ところ)一帯の香具師の元締・〔音羽(おとわ)〕の重右衛門(じゅうえもん 40歳)が、母親・おくらゆずりの巨躰にちょこんと乗っている顔をかたむけて訊いた。

「さようです」
銕三郎(てつさぶろう 26歳)が応える。
「それならば、芝は、お助役のお持ち場。お引きあわせいたしたい仁がおります」
「元締のご推挙の仁とあれば、よろこんで---」
「では、近ぢか---」

重右衛門が推したのは、芝の飯倉神明宮や増上寺、愛宕山下などの一円を取りしきっている{愛宕下(あたごした)〕の伸蔵(しんぞう 41歳)元締であった。

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(飯倉神明宮 『江戸名所図会』 塗り絵師:ちゅうすけ)

参照】火盗改メの本役・助役の巡邏区分は、2008年2月28日[銕三郎(てつさぶろう) 初手柄] (

香具師の元締だから、闇の実情につうじている。
盗賊や博徒という裏で生きている輩が相手の火盗改メとしては、香具師の元締と知りあっておくことは、裏街道の地図の持ち主とこころ易くなったのにひとしい。

芝・増上寺の表門---通称・大門前で落ちあい、重右衛門に案内されて行くと、伸蔵は、北新網町の小じんまりとしたしもた屋に住んでいた。

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(赤○=北新網町 池波さん゜愛用の切絵図:近江屋板)

虚飾をはぶいた質素なその構えからして、人柄をしのばせたが、家の前にちゃんと水がうってあるのに、銕三郎は好感をもった。
もっとも、
(血なまぐさい出入りごとも取りしきる香具師の元締が、きれいごとだけですまされまいが---)
疑問もおぼえなかったというと、嘘になる。

裏庭が見渡せる部屋へ通された。
伸蔵は、庭での五蓋松(ごがいのまつ)の手入れをやめ、細身の躰を蛙が跳びでもしたように身軽に縁側へ跳びあがると、そこにぴたりと座り、
「お初にお目もじつかまつります。伸蔵と申します」
丁寧に仁義をきった。
銕三郎も、あわてて座布団をはずす。
「長谷川銕三郎です。いまだ、部屋住みの若造です。お見しりおきを---」

音羽〕の重右衛門が、
「そこからでは話が遠すぎます。こちらで、ご両人とも、おくつろぎを---」

「あの鉢の五蓋松は、樹齢150年といわれており、手前の4倍近い長寿です。老父をいたわるよりも手あつく、孫の代まで生きていてもらうように、照ったといえば日陰に寄せ、降ってきたらきたで軒下へ移して、護っております」
ふところの深さを感じさせる、ゆったりと愛情をこめた口ぶりに、銕三郎は、さらに印象を深めた。

「孫の代まで---と言われましたが、ご子息は?」
銕三郎に、伸蔵が、手を打って用意の膳を催促するとともに、
伸太郎をここへ---」

商人が好んで着るような濃紺地に細縞をきっちりとまとった、20歳前後らしい青年が、部屋の隅で正座し、客たちに向かって一礼してから
「父ご。なにかご用で---?」
「おう。いい機会(おり)だ。〔音羽〕の元締の隣りおいでなのが。長谷川の若さまだ。こんご、なにかとお教えをいただくように、ごあいさつをしなされ」

伸太郎でございます。お噂は、かねがね承っておりました。どうぞ、ご配下の衆同様にこき使ってくださいますよう---」
なかなかにできすぎたあいさつふりであった。
銕三郎も、
「部屋住みの銕三郎です。このあたり、父の巡視の供をすることもあります。ご助力ください」
「いつにても、お声のままに---」

銕三郎の頼みは、3ヶ月もたたないうちに実現した。


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2009.06.30

〔般若(はんにゃ)〕の捨吉(2)

御厩(おうまや)河岸の舟着きのところで逮捕された〔衣板(きぬた)〕の宇兵衛(うへえ 45歳)一味は、元締の宇兵衛はとぜんとして、小頭(こがしら)・〔思案(しあん)〕の為平(いへい 32歳)、二番小頭・〔菊名(きくな)〕の六郎(ろくろう)などの主だったところがごっそりであった。

残った幹部は、〔般若(はんにゃ)〕の捨吉(すてきち 24歳)だけで、ほかは20歳(はたち)にもならない、威勢だけはいいが思慮がもう一つといえる連中であった。
宇兵衛には、男の子がいなかった。
それで、女房のお(ひさ 40歳)は、かねてから捨吉に目をつけており、むすめ・お(そめ 18歳)と娶わせようしとしていたのを、この際、実をむすばせた。

捨吉は、
「元締が八丈島からお帰りになるまで、お預かりします」
殊勝なことを誓い、名も、猪兵衛(ゐへえ)と改めた。
いろはにほへと ちりぬるお---うゐのおんくやま けふこえて---
「宇 う」のつぎの「猪 ゐ」なんだと。
小頭・為平の「為 ゐ」は、さすがにはばかった。
は、〔般若〕の猪兵衛---強そうでいいねえ、とまんざらでもなさそうな笑顔であった。

「土地(ところ)をお預かりするについて、2つ、筋をとおさせてくだせえ」
猪兵衛は、さっそくに条件をだした。

一つは、披露の仮親は、〔音羽(おとわ)〕の重右衛門(じゅうえもん 40歳)元締に仮親を頼みたいこと。
二つ目は、同郷で髪結いをしているお(しな 23歳)を、女将(かみ)さんもおも妾としてきちんと認めること。ただしおには子をつくらせない。

二つ目には、おが不服を言ったが、無理に引きさいて首でもくくられたら世間体がわるいと、宇兵衛の妾でさんざ悋気をやいたおが、本妻のふところの広さのみせどころと、納得させた。
もちろん、いまとは夫婦の感触が大きくちがっていた当時だからとおったことである。

音羽〕の重右衛門は、
「もともといえば、〔衣板〕が慾にからんで、〔木賊〕の縄張り(しま)に手をだそうとして失敗(しくじ)ったことゆえ、新二代目が〔銀波楼〕の今助(いますけ 24歳)に遺恨をもたず、義兄弟のちぎりをむすぶなら、よろこんでひきうけさせてもらいますぜ」
であった。

義兄弟というのは、じつは、今助から重右衛門に引きあわされた銕三郎(てつさぶろう 26歳)が言い出した案であった。
宇兵衛は、桟がおとしてある戸を蹴破って押しこみました。いわゆる、重罪にあたる錠やぶりをしたのです。ほかにも博打場もひらいています。遠島はお慈悲です。父が押しこみはしたが、金にもおんなにもまだ手をつけていなかったと、温情を伺いました」
打ちとけて話す銕三郎に、重右衛門はいたく好感をもったようであった。

2人の友情は、このときに結ばれ、のちのちのおまさの誘拐の解決に、京の祇園の元締・〔左阿弥(さあみ〕の円造(えんぞう)三代目の力添えをうけられることになるが、それは、20数年も先のことである。

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2009.06.29

〔般若(はんにゃ)〕の捨吉

(てっ)つぁん。〔小浪〕で、お神酒を振舞われやした」
彦十(ひこじゅう 36歳)が注進してきた。
冬だというのに、袷1枚の姿である。

「ご苦労。飲まないで、古着の綿入れでも買うんだな」
銕三郎(てつさぶろう 26歳)は、懐紙に手ぱやく1分金(4万円)をつつんだ。
(これで、2番目の兆しだ)

1番目の兆候は、(浅草寺)奥山で蝦蟇(がま)の脂売りの口上をのべている浅田剛二郎(ごうじろう 33歳)の使いで、今助(いますけ 24歳)のところの若い衆が、昨日、かけこんできた。

上野山下から広小路へかけての盛り場を縄張り(しま)にしている香具師の元締・〔衣板(きぬた)〕の宇兵衛(うへえ 45歳)の配下の者とおもわれるのが3人、奥山の屋台店に因縁をつけた。

510_300
(浅草・奥山の〔卯の木屋)房楊枝の仮店。屋号は柳に由来。
『江戸名所図会』 塗り絵師:ちゅうすけ)

とりわけ、有名な楊枝の〔卯の木屋〕の仮店にねらいをつけ、台板をひっくり返して房楊枝を散乱させた。

浅田用心棒がかけつけると
「二代目・青二歳に伝えときな。いつでも相手になるとな」
〔卯の木や〕の売り子の若いむすめの顎に手をかけ、凄んで引きあげた。

彦十の報せでも、銕三郎は動かなかない。
だが、3番目の風音で、決心した。
(間違いない)

それは、小島町裏長屋で、小浪(こなみ 32歳)の髪を結い上げながら、お(しな 23歳)が、
「いつ、鬼怒川の湯からお帰りでした?」
はっと気づき、
「きのう」
「では、これからは、ずっと舟着きの茶店に?」
「ほかに行くところ、あらへん」
小浪の返事に、おがうなずいた。
おかしい、と猪牙(ちょき)舟をしたてた小浪自らが、高杉道場へやってきた。

小浪どの。すぐに手くばりしますから、このまま、茶店へ行って居てください」

稽古を切りあげ、屋敷へいそいで帰った銕三郎が、筆頭与力・村越増二郎(ますじろう 50歳)にことの次第を告げた。
急使が神田橋ご門外の中野組の役宅へ飛ぶ。

陽が落ち、渡しの終(しま)い舟が綱で桟橋の杭につながれたのをみすかし、茶店〔小浪〕の裏手に着いた2艘の小舟から数人が降り、横の避難口から入った。
入れ替わるように抜け出たおんな2人が乗りこむと、小舟は川上へ漕ぎ去っていった。

1刻(時間)ほどのち、闇のなかを小舟が御厩河岸の舟着きの隣りの桟橋---料亭〔片蔵屋〕専用のそれに着くと、数人が瀬戸口から中へ消えた。

五ッ(午後8時)、蔵前通りから河岸口の路地へ入ってきた数人が、〔小浪〕の潜り戸をたたいた。
待ちきれないで押すと、桟がおりて戸締りされている。
とみるや、足で数度蹴り、戸は音をたてて内側へはずれた。
龕灯提灯(がんとうぢょうちん)をつきつけるようにはいっていった先頭の男があげた、異様な声。
「げっ」
つづこうとした男は足をとめたが、引きずりこまれ、これも悲鳴。

異変と気づき、外に残っていた3人が引きかえそうとしたとき、〔小浪〕の向かいの料亭〔片蔵屋〕からあらわれた4人が長十手を構え、
「火盗改メだ。手むかいすると打ちすえる」
それでも、曲者たちは匕首(あいくち)をつきだしてつっかかっていったが、あっけなく倒されていた。

〔片蔵屋〕から出てきたのは、長谷川組の同心筆頭・内山左内(さない 46歳)と雨宮三次郎(26歳)ほか1名、それに銕三郎であった。

蔵前通りを固めていた小者たちが駆けより、たちまち縄をかける。
縛られた襲撃者の中に、〔衣板(きぬた)〕の宇兵衛(うへえ 45歳)もた。

小者たちは、別に、蔵前通りにいた見張りを2名捕らえていた。

〔小浪〕で待ち伏せていたのは中野組の同心たちで、侵入した2人は、十手でつよく首筋を強く打たれ、まだ朦朧としている。

「〔衣板〕の宇兵衛。戸じまりしてある戸をやぶったのはまずかった。死罪はまぬがれまい」
田口同心の脅しに、宇兵衛の顔色が失せている。

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2009.06.28

〔神崎(かんざき)〕の伊之松(4)

20年前、お(のぶ 20歳=当時)が、〔神崎(かんざき)〕の伊之松(いのまつ 40歳=当時)にひろわれたと言ったので、銕三郎(てつさぶろう 26歳)はなん気もなく、
「すぐにできたか?」
と訊いてくまった。

ところが、おは、
「いいえ。お頭は、そういうお人ではありませんでした」
即座に否定した。

(はて。聞いたような科白(せりふ)だが、だれからであったか?)
すぐに思い出した。
(〔盗人酒屋〕の亭主・〔たずがね)〕の忠助(ちゅうすけ)どんだった)

(あのとき、忠助どんはこう言った)
っつぁん。お頭の中には、ご存じの〔法楽寺ほうらくじ)の直右衛門(なおえもん 42歳)お頭のように、配下のおなごの躰を熟させて、おもうように操るお人も少なくはありません。しかし、〔狐火きつねび)〕のお頭と〔蓑火みのひ)〕のお頭、それに〔乙畑おつばた)のお頭は、それをなさらないということで、仲間内でとおっております」

参照】2008年10月28日[うさぎ人(にん)・小浪] (

(〔蓑火〕と〔狐火〕と〔乙畑〕の3人の首領に、〔神崎〕の伊之松も加えるか)

「〔神崎〕の教えで、いちばん、納得したことは?」
「世の中は盗人だらけだ。その中でも、もっとも大きい泥棒がお上だぁな。百姓から有無をいわせねえでふんだくっていきなさる。諸国の大名・小名さまもお上の真似ていなにさる。つぎに悪ィのか大商人(あきんど)だ。蔵にたんまり小判を貯めているのがなによりの証拠だぁな。まじめにはたらいていた日にゃあ、あんなに貯まりはしねえ。だから、おれたちがくすねて、平均(なら)しとるのよ。だがね、慾をかきすぎてはいけねえ。ほどほどに押さえておくのが長生きのコツってえものよ--でした」
「たいした道学者どのだな、伊之松って仁は---」
「いいえ。違います」
「ほう?」

それを、〔神崎〕のお頭のひがみからでたかんがえ方だと、この春の小梅村の足袋問屋〔加賀屋〕に押し入ったときのやり方でさとったと、おは断言した。

その半年前から女中として引きこみに入っていたおは、仙吉という小僧にしたわれていた。
仙吉は、砂村の小作人のせがれだが、母親を亡くし、口べらしのために〔加賀屋〕で働いていた。
陰日なたなく、こまごまとよく働いていた。
も、上総の不入斗(いりやまず)村の実家の末のおとうとに似た仙吉をかわいがった。

押しいりの日、おが連絡(つなぎ)で命じられたとおりに表の潜り戸の桟をはずし、一味を引きいれた。
それを起きぬけてきていた仙吉にみられた。

「姐(あね)さん。いけないよ」
仙吉がむしゃぶりついた。
と、伊之松仙吉を殴り倒し、刀で刺そうとしたので、
「お頭、やめてください」
「でも、お前が見られた」
「いいえ。この小子はしゃべりません」

さすがに、これまで、血を流したことのない〔神崎〕の伊之松は思いとどまってくれた。
が、それから、おは、伊之松の言い分を、盗人の三分の理と疑うようになり、泥棒は自分勝手な振るまいだときめつけることができたという。

「自首したのは、そのためだったのか」
「はい」

「おどのは、博徒をどうみる?」
喉まで出かかった言葉を、銕三郎は、あやうく胃袋に落としこんだ。
よけいな知恵をつけないほうが、おが自然にふるまえると思ったのである。


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2009.06.27

〔神崎(かんざき)〕の伊之松(3)

その夜---。

御厩(おうまや)河岸の渡しが途絶えた時刻に、銕三郎(てつさぶろう 26歳)は、茶店〔小浪〕の戸締りされている潜り戸をしめやかにたたいた。

すぐに戸があけられ、お(のぶ 30歳)は口をきかず、目で招じた。
(さすがに、鍛えられた女賊(おんなぞく)あがりだ)
銕三郎は、さぐるともなく、無駄のないおの身のこなしを採点している。

行灯が一つだけともっている飯台に、燗をしたちろりと板わさを運び、向かい合わせに坐った。
「仕舞い舟まで、お客がたてこんだもので、買い物にも行けませんで、なんにもありませんが---」
酌をしてから、自分の盃も満たした。

「おどの。内山(左内 さない 46歳)次席与力が、この茶店を購(あがなう)うにあたり、そなたの金をあてることをことわり、火盗改メがすべて支払った理由(わけ)を話したかな?」
「いいえ。この茶店は、火盗改メがずっと使いたいからとだけ---」
長谷川組は、冬場の助役(すけやく)だから、来春になれば役を解かれる。そうなると、この店の後ろ盾は、きょうの昼間に引きあわせた田口同心の組---本役の中野監物清方(きよかた 49歳 300俵)どのの組に引きつがれるはず。そうやって、代々の火盗改メがここを密偵の隠れ蓑として使っていくということです。もちろん、おどのが、女将ぐらしにはもう飽きたというまで、ここの女将でいられることは変わりはない」
「ありがたいことです」

「これからの話は、これとは別のことだが---」
「はい」
「客のなかに、前の女将はどうした? と訊くのがでてこよう。そのときに、いま、鬼怒川の湯につかりに行っているが、5日後には戻ってくるはずと答えてほしい。そう訊いた客がいたかどうかは、彦十(ひこじゅう 36歳)に、毎夕、閉店前に店をのぞきにこさせるから、そう訊いた客がきた日には、茶でなく、酒を注いだ茶碗をだしてやってほしい」
「こころえました」
は、訳も聞かなかないで、うなずいた。
(しっかりと鍛えられている)
銕三郎は、30歳にしては肌がすこし荒れぎみのおは、頼りになる密偵だと見てとり、ここまで鍛えた〔神崎(かんざき)〕伊之松(いのまつ)という首領に興味をそそられた。

「おどの。さらにこれからのことは、拙自身のひとり言とおもい、応えたくなかったら、応えなくていい」
が姿勢をただした。

「お信どのは、〔不入斗(いりやまず)〕という〔通り名(呼び名)ともいう)女盗(にょとう)であったそうな」
「はい」
「〔不入斗(いりやまず)〕というのは、生まれ育った村の名だそうな」
「はい」
「18の齢までその村で育ち、なぜ、村を出た?」
「------」

「男に捨てられたか?」
「村長(むらおさ)の3男でした」
「やはりな。そなたのその美形を、若い男ばかりか、女房持ちでもその気のある男たちはほおっておけまい」
「------」

「〔神崎〕の伊之松お頭には、どこで拾われた?」
「木更津で、飲み屋の酌とりをしておりしたときに---」
伊之松は幾つだった?」
「40がらみ」
「おどのは?」
「20(はたち)」
「すぐにできたか?」
「いいえ。お頭は、そういうお人ではありません」
(はて。聞いたような科白(せりふ)だが、だれからであったか?)


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2009.06.26

〔神崎(かんざき)〕の伊之松(2)

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「お(のぶ)どの。長谷川銕三郎(てつさぶろう)です」
(30歳)にしては、肌に疲れがにじんでいたが、顔立ちはよく、小浪(こなみ 32歳)よりも親しみやすい雰囲気をもっている。(国芳 お信のイメージ)
(これだと、さっそくにも、贔屓客がつくだろう)

「おと申します。このたびは、お頭(かしら)さまにたいそうになおこころづかいをいただきました」
「お引きあわせしておこう。こちらは、田口どの」
田口耕三(こうぞう 30歳)が、気持ち、会釈を返した。
銕三郎は、客の手前、田口の身分を「同心」とは明かさなかったが、おは、さすがに元女賊だけあって、とっさに察したようであった。

うながすと、奥の座敷口までついてきた。、
を奥へ立たせ、銕三郎が口の動きをかくすように客席へ背をむけ、ささやき声で、
「このあたりが持ち場の火盗改メは、中野組で、田口どのはそちらの組のご
同心。そのつもりでお付き合いなされ」
長谷川さまのお受け持ちは?」
〔冬場の助役(すけやく)だから、日本橋川から南です。しかし、困ったことがあったら、いつにても力になるから、使いを、南本所の役宅へよこすこと」
「そういたさせていただきますです」

「上総(かずさ)の不入斗(いりやまず)の生まれだそうですな」
「はい。18まで、村にいました」
「その話は、店がしまってから聞くことにして---仕事にもどりなされ---」

席料を2人分払い、店を出ると、田口同心が訊いた。
「あれで、30幾つですかな?」
「幾つと見ましたか?」
「33,4---いや、もう一つはいっているかな」

銕三郎が齢を告げると、
「けっ。若くつくるおんなは多いが、老けづくりするのは珍しい」

駒形堂まであるいて、蕎麦屋へはいった。
「じつは、村越増次郎 ますじろう 50歳)どのをとおして、中野(監物 けんもつ 59歳)組頭さまへお願いにあがらなければならないことがあるのです」
村越j益次郎は、中野組の筆頭与力である。

「どのようなことでござるかな?」
「さっきの茶店〔小浪〕のことです」
「おの?」
「いや。おの前の女将にかかわることで---」
蕎麦がきたので、しばらくは会話をやめてたぐることに専念した。

蕎麦湯を飲みながら、
「近く、うちの組の秋山善之進 ぜんんのしん 50歳)筆頭どのが、村越どのを訪ねて、お願いにあがるとお伝えください。それまでは、極秘の用件です」

その夜---。


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2009.06.25

〔神崎(かんざき)〕の伊之松

「〔不入斗(いりやまず)〕のお(のぶ 30歳)という女賊が、盗みがいやになったと自首してきたのです」
次席与力・内山左内(さない 40歳)の話したことを、かいつまんで書くとこうなる。

上総(かずさ)・下総(しもうさ)から武蔵へかけて、小ぎれいな盗(つとめ)をする神崎(かんざき)〕の伊之松(いのまつ 50歳)を首領とする小さな組織(しくみ)がある。

ちゅうすけ注】〔神崎〕の伊之松については、『鬼平犯科帳』巻10の[(かわず)の長助]の元のお頭(かしら)で、長助が引退するときにも、50両(90万円)を引退(ひき)祝いとしてくれたとある。p61 新装版p65

「通り名」からも察しがつくとおり、伊之松もおも上総国市原郡(いちはらこうり)の村の生まれである。
どちらの村も、千葉県市原市の町名として名をとどめている。
同じ郡の出ということで、おの引退の申し出を、伊之松は慰留しなかったばかりか、これらの生計(たつき)の元手にと、30両(約50万円)もくれたという。
火盗改メとしては、身の隠しどころとともに、生計がたつようにはかってやる義理が生じた。

「父上。長谷川組の受け持っている区域でないといけませんぬか?」
長谷川組---すなわち、先手・弓の8番手の火盗改メは、冬場の加役だから日本橋川から南---日本橋通り、銀座、芝、高輪、麹町などが持ち場である。

「密偵ばたらきをさせるには、わが持ち場でないところに網を張ったほうが、万事によいかもしれないな」
宣雄(のぶお 53歳)の応えiに、主席与力・秋山善之進(ぜんのしん 50歳)がうなずく。、

それなら、と---御厩河岸の舟着き前の茶店〔小浪〕なら、買えるかも---銕三郎(てつさぶろう 26歳)が説明した。

「いいお話ですな。さっそくにも、その女将の小浪(こなみ 32歳)とかけあいをはじめてみます」
内山次席が膝をのりだした。

「ただ一つ、障りがあります」

ある組織が、女将の小浪を攫(さら)うために夜討ちをけてくるやもしれません。その夜には、火盗改メが待ち伏せし、襲ってきた者たちの捕り物となります」
「その夜が、あらかじめ、分明するのか?」
「はい」
「面妖なことよのう。ま、その茶店を手に入れてからのことだ」

今助(いますけ 24歳)は、銕三郎が噛んでいる取引きなら、茶店は半値でいいと言った。

寝所を〔銀波楼〕へ移した小浪は、わざわざ、小島町裏長屋のお品(しな 23歳)のところへ髪結いにかよい、〔衣板(きぬた)〕の宇兵衛(うへえ 45歳)の動きをそれとなしに聞きだしている。

宇兵衛は、今助の〔木賊(とくさ)〕の襲名披露の宴会で、仮親をつとめた〔音羽(おとわ)〕の重右衛門(じゅうえもん 40歳)が親ゆずりの貫禄をきかせ、
「村方の博徒ではあるまいし、いまどき、将軍さまのお膝下で島あらそいの騒ぎおこしたりしないよう、香具師の元締衆がこうしてお集まりになったところで、誓いをたてやしょう」
しかし、〔衣板〕の宇兵衛だけは煙草をきせるにつめるふりをして下をむいていたという。

もちろん、小浪は、茶店をやっているように装い、帰りも、〔木賊〕組の若い者(の)に尾行されていないかどうかを、たしかめさせていた。

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2009.06.24

〔銀波楼〕の今助(5)

浅田どの。しばらく、(浅草寺)奥山での蝦蟇(がま)の脂売りに戻っていただけませぬか?」
銕三郎(てつさぶろう 26歳)の問いかけに、浅田剛二郎(ごうじろう 33歳)は、さすがに解りがはやい、
「承知しました。〔衣板(きぬた)〕一家の有象無象が、浅草寺境内でいやがらせをしないように、見張るのですな」

_120浅田の義兄(あに)ィまでまきこんで、申しわけねえ」
今助(いますけ 24歳)が謝った。
つられて、小浪(こなみ 32歳)も頭をさげる。
この茶店を売りにだして、〔銀波楼〕に今助といっしょに住むのが、よほどに気にいったらしい。

さん。鉄条いりの振り棒を、10本ばかり注文しておいてくれますか」
それまで、出番のなくて手持ち無沙汰だった井関録之助(ろくのすけ 22歳)は、
「いいとも。10本といわず、助っ人用に、もう10本、追加しておいてはどうですかね?」

参照】2008年5月12日[高杉銀平師] (

「いきなり出入引(でいりひき 喧嘩)へもっていっては困る。双方ともに、出入りを避けるのが、ほんとうの元締です」
(てつ)先輩。そんな悠長なことを言っていていいんですかい?」
「『孫子』に、およそ用兵の法は、戦わずして人の兵を屈するは、善の善なり---とあります。戦いは、最後の最後、しかも、勝てるとの方策がたってからしかけるものです」
「また、『孫子』だ。先輩は、このごろ、やけに『孫子』づいている---」
録之助がひとり言のようにつぶやいた。

【参照】2008年9月13日[中畑(なかばたけ)のお竜〕 (
2008年9月20日[大橋家の息女・久栄] (
2008年9月30日[書物奉行・長谷川主馬安卿(やすあきら)] (

(たしかに、〔中畑(なかばたけ)〕のお(りょう 32歳)をしってから、『孫子』を気をいれて読むようになった)
銕三郎は、胸のうちだけで、顔を赤らめる。
小浪が、それを見透かしたように、えくぼをつくった。

帰宅すると、父・平蔵宣雄(のぶお 53歳)が、筆頭与力・秋山善之進(ぜんのしん 50歳)、次席・内山左内(さない  40歳)と相談事をしているらしかった。
庭を通る気配を察したか、
銕三郎か。ちょっとここへ」
障子の内側から声がかかった。

書院は、いまでは宣雄のご用部屋となってしまった。
いったん離れへ上がってから、久栄(ひさえ 19歳)にことわり、廊下づたいに書院へ入り、
「ただいま、戻りました」
秋山筆頭と、内山次席が席をあける。
銕三郎。そちは下情(かじょう)に顔がひろい」
苦笑し、密偵が隠れ蓑にでき、人と噂が目と耳に入りやすい商売屋で、すぐに手にはいるところを知らないかと訊かれた。

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2009.06.23

〔銀波楼』の今助(4)

今助どの。千住宿の元締は?」
「〔花又(はなまた〕の茂三(しげぞう 58歳)元締のご新造は、うちの先代のお妹ごで、義兄弟の仲でやす」
銕三郎(てつさぶろう 26歳)がうなづき、
「両国広小路の元締は?」
「〔薬研堀(やげんぼり)の為左衛門(ためざえもん 50歳)といい、〔strong>衣板(きぬた)の元締めとは、犬猿の仲のはずでやす」
今助(いますけ24歳)が応じ、銕三郎は、〔木賊(とくさ)〕の縄張り(しま)の周辺の見取り図のおおよそを、頭の中に描くことができた。

「『孫子』の[用閒篇]---つまり、間諜(かんちょう)の活用篇--武田方では軒猿(のきざる)と呼ばれていたものです。そうそう、お(りょう 32歳)どの母ごは、軒猿の末裔とか、聞いたことがありました」

参照】2008年10月1日~[『孫子 用間篇』] () () (
2009年1月28日[〔蓑火(みのひ)〕と〔狐火(きつねび)} (

(32歳)の名が銕三郎の口からこぼれると、寄り合いの場となっている茶店の女将・小浪(こなみ 32歳)の目があやしくひかり、
長谷川の若はんは、甲斐にいかはりましたん?」
「3年前に、〔初鹿野はじかの)〕の音松(おとまつ)という、盗人(つとめにん)のことで---」
「あら、「初鹿野〕のお頭(かしら)の---」
小浪長谷川さまのお話の腰を折るでねえ」
今助(いますけ 23歳)が鋭く一喝した。
「かんにん」

「その[用閒篇]---篇]に、間諜には5種類あり、うまい術(て)は、内閒を使うことだとあるのです。内閒---すなわち、〔衣板(きぬた)〕の宇兵衛(うへえ 45歳)の一味の中に、こちらへの内通者をつくること。もっともいいのは、本人に内通しているとおもわないで仔細を話させてしまうことです」
今助も義兄・浅田剛二郎(ごうじろう 33歳)も井関録之助(ろくのすけ 22歳)も、腕を組んで考えこんでしまった。

その沈黙を破るように、小浪がぽんと手を打ち、
「いてます、いてます」

小浪の言うところでは、〔衣板〕一家の三番小頭の〔般若(はんにゃ)〕の捨吉(すてきち 24歳)がたまたま、〔小浪〕の客として一休みしていて、愚痴を話にきていたまわりの女髪結い・お品(しな 23歳)の秩父なまりに、
「姐(あね)さん、秩父かえ?」
「はい。秩父郡(ちちぶこうり)の小鹿野(こがの)村(現・埼玉県秩父郡小鹿野町小鹿野)ですが、兄さんは?」
「隣の般若村の生まれよ」

「〔般若〕などと、そらおそろしい呼び名だから、背中に般若の彫りものでもしていやがるのかとおもえば、生まれた里の名か」
今助が小さくひとりごちた。

の世話をしていたさる大店の旦那が中風で倒れ、男ひでりだったので、たちまち出来上がった。
このあたりにも髪結いの客先が数軒かあるので、その帰りに油を売りにきては、捨吉ののろけをぶちまけるのだという。

「2人の意気があったのは、いつごろ?」
「春先どした」
小浪どのと〔木賊(とくさ)のせんの元締どのとのことを気づいておるようですか?」
「興味はそそられていたかもしれへんけど、気ィはついてェへんおもいます」
「それでは、この店を売りにだしても、住まいは、いまのままのところということにしておいて---そこを知っていますか?」
「知ってェへんとおもいます」
「その、おでいこう」

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