2009.11.12

奉行・備中守の審処(しんしょ)(7)

役宅の庭の紫陽花(あじさい)が咲き、京都は梅雨iにはいっていた。

その庭へ勝手にはいってきた〔相模(さがみ)〕の彦十(ひこじゅう 38歳)が
(てっ)つぁん。そろそろ---」
久栄(ひさえ 21歳)の耳を気にした銕三郎(てつさぶろう 28歳)が、目くばせするのもかまわず、
「ゆんべ、ダチが久しぶりにやってきて、この雨は、ホトケが泣いてるんだって、せかしてやしたぜ」

あわてて傘ももたずに塀の外へ連れだし、
「いま、父上が詮議をすすめておられるから、もすこし、様子をみてからでも、遅くはない」

彦十は、山伏山町(錦小路通り・室町通り)の家で待っているといいおいて、尻からげした下帯にはねをあげなら引きとっていった。

銕組(てつぐみ)〕には、〔瀬戸川(せとがわ)〕の源七(げんしち 56歳)の手くばりによる新顔が加わっていた。
今働きの〔牝誑(めたらし)〕・〔梅津(うめづ)〕の由三(よしぞう 32歳)がそうであった。

源七に伴なわられてきた由三に会ったとき、この男が{狐火きつねび)〕や〔蓑火みのひ)〕といった名門盗賊が必要とするときに口をかけるすご腕の〔女誑〕とは、一瞬、信じられなかった。
色黒の丸顔で團子鼻、脊も5尺4r寸(1m62cm)あるかなしのずんぐりむっくりなのである。
世にいう優男(やさおとこ)とはほど遠かった。

ところが、あいさつされて、驚いた。
なんとも透明な響きで、こちらの腹の底へとどくような快い声なのである。
(男のおれが聞いてさえこれだから、おんなだと、下腹の芯がしびれる声とでもいうんだろうな)

源七が口をそえた。
由三どんの小唄で、帯をときたくならなかったらおんなじゃねえ、っていわれてます。65の婆ぁさんでも腰をもぞもぞしはじめるってぐえのもんで---」

「雌犬がよってきて困ったこともありやす」
彦十が大真面目に、
「鹿はどうかね?」

由三の役割は、富小路(とみのこうじ)五条のきせる問屋〔松坂屋〕の後家・お(さと 30歳)に近づき、このあいだまで肌身をあわせていた破戒僧・元賢(げんけん)について、しるかぎりのことを訊きだすことであった、それも短時日のうちに。

に近づくために、〔松坂屋〕へ後妻に入る前にはたらいていた五条橋下の料理茶屋〔ひしや〕で仲のよかったのがお常(つね 32歳)たということは、彦十がしらべずみであった。

さしあたっておのなじみ客になった由三が、おを誘いだそうというわけであった。

もう一人の老〔牝誑〕・〔千本(せんぼん)〕の世之介(よのすけ 60すぎ)は、東山・源泉院の門前の花屋に泊り込み、老躰にむちうって女主人・お(とき 57歳)の夜伽をつとめながら、寺の小坊主・賢念(けんねん 13歳)から、前の住職・元賢の生地やらなにやらを問いただしていた。

小坊主・賢念は山科・花山村の生まれ。
元賢も同村の出ということで、源泉寺へ修行にはいった。
元賢の母親は、村の取り上げ婆ぁで、父親は、本山の事務方らしいということしかしらなかった。
その事務方の引きで、源泉寺の住持になれたと、寺男・五平(ごへえ 59歳)から聞いたことがあると。

元賢は気まぐれなところのある性格で、何かに熱中したかとおもうと、いつのまにやらあきて、ほかのことしに熱中している。おんなのこともそうで、賢念が寺へきたときは、3日にあげずの感じでちょうちん問屋{鎰屋(ますや)〕の後家・お(こう 30歳=いま)を寺町五条上ルに呼びにいかされたが、半年ほど前、ふいと、きせる問屋〔松坂屋〕のお(さと 30歳=いま)に変わったこと暴露(ばら)した。

賢念は、おが水子をして、躰をこわしたことまではしらなかった。


参照】[銕三郎、膺懲(ようちょう)す] () () () () (5) () (7

2009年10月19日~[貞妙尼(じょみょうに)の還俗(げんぞく) () () () () () () () () () (10


| | コメント (2)

2009.11.11

奉行・備中守の審処(しんしょ)(6)

「わざわざ呼びだして、すなまない。一つだけ、訊かせてもらいたいもとがあっての」
西町奉行・備中守宣雄(のぶお 55歳)が、尋問部屋へ連れてこられた元賢(げんけん 43歳)に、にこやかに話しかけた。

法衣あつらえ司〔岡屋〕の後家・お(りく 34歳)が弘法寺の順慶(じゅんけい 30歳)和尚の子を産んだことを、に告げた翌日である。

東山のふもとの源泉院の住職であった元賢は、同宗派の僧・暁達(ぎょうたつ 36歳を刺殺した疑いで入牢しており、本山から滅擯(めっぴん)の罰をうけていた。
滅擯の罰とは、僧籍を剥奪されて宗門から追放される、もっとも重い処分である。
もちろん、奉行所の刑とは別の、仏門の戒である。

元賢が入れられている六角獄舎から西町奉行所までは6丁ばかりある。
縄をかけられて往還するのは、元賢にとっては屈辱的な6丁であるにちがいない。
思いやりということまだ知らない子どもたちが、伸びかけた坊主あたまの元賢に、
「乞食坊主!」
「やーい、盗人坊主」
罵声をあびせるのである。

「昨日の話した、山端(やまはな)の奥、一本松の弘法寺の順慶坊が、本山へ納める奉恩金(ほうおんがね)は、年にいかほどかの?」

どうして奉行がそんな宗門内のことを訊くのかと、一瞬にうかんだ怪訝な顔をかくすように、
「檀家が少ないあのような寺やと、年に3両(48万円)ほどかと---」
「ほう、檀家が50軒として、1軒割で、年に金子で1万円とは、きびしいものよの」
「お奉行。拙僧の---」
いいかけて、僧籍がなくなっていることに気づき、
「源泉院のように、檀家に商家をかかえとる寺やと、年に9両(144万円)もおさめななりまへん」

「それはことよのう。ては、五条通り毘沙門町の竜土寺では、いかほど?」
「あこも、うちと同格で、9両---」
答えてから、はっとおもいあたったらしく、顔色が青ざめた。

かまわず、宣雄が追い討ちをかける。
「延命寺は?」
元賢の目がつりあがり、うつぶせた、肩を小刻みにふるわせ、慟哭をはじめた。

その姿を冷ややかに見下ろした奉行は、
「大儀であった。退(さ)がって、ゆっくり休むがよい」
警備の小者に目で連れてゆけと指示した。

銕三郎(てつさぶろう 28歳)が、感嘆して、部屋をでていく奉行の父の後ろ姿に礼をした。
横で、浦部源六郎(げんろくろう 51歳)・与力が、たのもしげにその銕三郎をみていた。


参照】[銕三郎、膺懲(ようちょう)す] () () () () (5) () (7


2009年10月19日~[貞妙尼(じょみょうに)の還俗(げんぞく) () () () () () () () () () (10

| | コメント (0)

2009.11.10

奉行・備中守の審処(しんしょ)(5)

「食が口にあわぬとみえるな。しかし、獄舎の勝手方(経理)もやりくりに苦労しておってな---」
六角獄舎から西町奉行所の尋問部屋へ引きだされた犯戒僧・元賢(げんけん 43歳)に、長谷川備中守宣雄(のぶお 55歳)がいたわるように声をかけた。

最初の尋問があってから、5日後であった。

東山の源泉院での酒食ででっぷりと重みのあった元賢だが、半月ほどの入牢で、頬の肉がおちて口元に小皺ができ、目の下が黒ずんできていた。

「まわりの者のいびきが耳について、眠られしまへんのどす」
「だからというて、個牢というわけにもいくまい。あそこは、死罪ときまった者しかはいれない」

(あと、半月も雑居牢へいれておくと、へばるな)
脇にひかえていた銕三郎(てつさぶろう 28歳)がおもったとき、宣雄が書役(しょやく 記録掛)同心に、
「退(ひ)け刻(どき)までの採決はすべてすましてある。よしなしごとを話しあうだけゆえ、筆記はせずともよい」

宣雄が口にしたのは、元賢の情事の前の前の相手であった法衣問屋〔岡屋〕の後家・お(りく 34歳=いま)がややを産んだという世事であった。

お陸のことは銕三郎が耳にいれたのだが、ご用聞きの〔大文字町(だいもんじまち)の藤次(とうじ 50歳前)が聞きこみをしたものらしい。

「京にはめずらしく背筋がぴんとのびたおなごらしいが、おぬしは、なぜ、付きあうのをやめたのかな。ややの父親は、若狭街道に近い弘法寺の順慶(じゅんけい)とか申す僧らしいが、2番番頭を婿にいれて世間体をつくろったとか」
元賢の頬に皮肉な冷笑がはしった。

つづけて、子の父親の僧とは、3ヶ月とつづかなかったことも告げた。
「おぬしの情の細やかさというか、かゆいところに手がとどくような技(わざ)が忘れられなかったらしいぞ」
「ふ、ふ---」
元賢が、おもわず漏らした。

(いったい、父上はなんのために、このような閨房(ねや)ばなしを---?)
銕三郎は、耳をすました。

突然、宣雄が話題を変えた。
「弘法寺の順慶は、おぬしが推薦した住職の資格を、本山からもらえなかったらしい。今度の事件がかかわっておると、順慶は憤慨しておるとか---」
ことばをきって、じっと元賢に視線をそそいだ。
(ひとあし先に、父上の探索の手がのびていたか---さすが、父上)

元賢のこころに、宣雄が懊悩をタネを植えていることに気づいた。
そして、今宵あたり、おとの情事ばかりか、ちょうちんの〔鎰屋(ますや)のお(こう 30歳)とのぬれ場、きせる問屋の〔松坂屋〕のお里(さと 30歳)の白い裸躰の感触をおもいだして、眠れない一夜に呻吟(しんぎん)するさまをおもいえがいた。


参照】[銕三郎、膺懲(ようちょう)す] () () () () (5) () (


2009年10月19日~[貞妙尼(じょみょうに)の還俗(げんぞく) () () () () () () () () () (10

 

| | コメント (0)

2009.11.09

[鬼平クラス]リポート 11月7日編

静岡SBS学苑[鬼平クラス]の11月は、日曜日でなく第1土曜日の7日でした。
教室でなく、お江戸ウォーキング。
第一目標は、浅草寺の宝物館と本坊・伝法院の小堀遠州の庭園の拝観。

両所とも、同寺教化部の藤本先生の解説つきという、まさに豪華版(ぼくはただついているだけというラクちんの1日となりました)。

_360
(シャツ姿の方が藤本先生。宝物館には、戦災をまぬがれた名品のかずかずが---)

写真は、館の入口の部屋。巨額に関羽の絵が(館内は撮影禁止なんです)

_360_2
(大板碑を読んでくださる藤本先生)

どっちを向いても、国宝・重文級の芸術品・工芸品--。

_360_3

_360_4
(五代将軍・綱吉は玄人はだしの絵描きでもあった。白衣観音像)

撮影禁止では---? そうですよ。撮影はしていません。

『江戸名所図会』の挿絵でおなじみの長谷川雪旦の彩色「桜井駅の別れ」の正成・正行もありました。

宝物館から降りていくと伝法院の小堀遠州の庭園。

「浅草のど真ん中に、こんなに静寂で美しい場所が何百年もたもたれていたのか」と、くちぐちに。

_360_5

_360_6


庭園で心があらわれたあとは、池波さんがご贔屓のティールーム「アンヂェラス」(浅草・オレンジ通り)であわただしくお茶をのんで、
「池波正太郎記念文庫」で、鶴松顧問から親しく解説を。


_360_7

来年は、池波さん歿20年ということで、特集企画がどっさり---とお忙しいのに、最後までつきあってくださいました。鶴松先生、ありがとうございました。


_360_8

で、仕上げはは、これまた、池波さんご愛用の銀座・{煉瓦亭}で明治の洋食の味を賞味。
16時10分から、行列の一番先頭を占拠すること、30分。隣の店から苦情がきたほど。


| | コメント (6)

2009.11.08

奉行・備中守の審処(しんしょ)(4)

「あ、一人、おもいだしよりました」
銕三郎(てつさぶろう 28歳)から、一番槍の手柄---と持ち上げられた寺男・又平(またべえ 50すぎ)が、声をあげた。

「ほう。誰かな?」
銕三郎が如才なく水をむける。

「弘法寺の順慶(じゅんけい)はんでおます」
「弘法寺というと---?」
「山端(やまはな)の、小さな山寺はんどす」
「やまはな---?」

ちゅうすけ注】『鬼平犯科帳』ファンなら、文庫巻1[老盗の夢]で、引退した〔蓑火みのひ)〕の喜之助(きのすけ 67歳=小説に登場時)が瓜生に墓参にいった帰りに知りあい、男の兆しをよみがえらせた大女のおとよ---彼女が働いているのが愛宕郡(あたごこおり)、高野川ぞい、麦飯が売りものの〔杉野や〕をすぐにおもいうかべるはず。

参照】2006年6月19日[超ロングセラー、一つの条件
2007年2月24日[京・瓜生山

722
(山端の2軒の麦飯屋 『都名所図会』)

弘法寺は、〔杉野や〕の東、一本松よりにあった。

「よくおもいだしてくれました」
そうはいったものの、又平が隠していたことはわかっている。
(ついに、仲間意識がまさったようだ)

又平は、若狭街道の山端からもっと奥、三宅八幡宮のある村の出身であった。
八幡宮の別当が弘法寺であったために、きょうまで、順慶をかばってきた。

これで、啓太(けいた 20歳)が尾行してつきとめた、毘沙門町・竜土寺の照顕(しょうけん 39歳)と、照顕がつなぎ(連絡)をつけにいった延命寺の秀涌(しゅうゆう 32歳)がわかった。

殺された暁達(ぎょうたつ 享年36歳)をいれると、4人の身許が割れたことになる。

飲みすぎて真っ赤な顔をしている〔千本(せんぼん)〕の世之介(よのすけ 60すぎ)に、
「ご苦労だが、明日、万吉(まんきち 22歳)どのといっしょに、源泉院の門前の花屋へいき、賢念(けんねん 13歳)に、師の元賢(げんけん 43歳)のところへよくきていた僧たちの名を聞きだしてくれませぬか。そのあとは、お(とき 57歳)をかわいがってやってください」
先宵は、元賢の人殺しさわぎで、おを889本目にできなかった。

万吉どの。手みやげには、祇園新地の〔市山〕の牡丹餅を20ヶほど買っていってください」
「20ヶもどすか」

_360
(京極の〔市山〕の牡丹餅)

「そんなに食われしまへん」
悲の齢ご鳴をあげた世之介に、
賢念の男の子の胃の腑は底なしなのです。胃に入ればはいったほど、知っていることが頭からこぼれでるのです。おにはあまりすめないこと。おんなは、甘いもので胃がふくれると---」
「わかっとります、気がはいらしまへん」
真にせまった世之介のいい方に、みんな、また大笑いであった。

どの。そろそろ、ダチがあらわれるのでは?」

_360
(奈良公園の絵葉書)


参照】[銕三郎、膺懲(ようちょう)す] () () () () (5) () (


2009年10月19日~[貞妙尼(じょみょうに)の還俗(げんぞく) () () () () () () () () () (10

   

| | コメント (0)

2009.11.07

奉行・備中守の審処(しんしょ)(3)

「このたびの銕組(てつぐみ)の探索、奇得(きどく)であった。礼をいう」
西町奉行・備中守宣雄(のぶお 55歳)から誉められた銕三郎(てつさぶろう 28歳)は、
「父上。先刻の審問では、元賢(げんけん 43歳)が貞妙尼(じょみょうに 享年25歳)の宗門の名を借りた問責にかかわっていたかどうかは、糾明(きゅうめい)がかないませぬでしが---」

「そうかの。われは白状したとおもうたがの」
宣雄は、済まし顔で応えた。
「は?」
浦部与力に申したように、5,6日後には分明(ぶんみょう)しようぞ」
浦部源六郎(げんろくろう 51歳)は、目付与力として、こんどの事件を主査している。

宣雄は、1分(4万円)を懐紙につつみ、
「組下の者たちに酒でも、ふるまってやれ」
奉行の間へ消えた。

浦部
与力が、貞妙尼のものであった11両1朱(33万円)が入った錦の巾着を、
「母親のお(かね 47歳)へわたし、この受けとりに爪印をとっておいてください」

山伏山町(錦小路通り・室町通り上ル)の本拠では、その夕刻、彦十(ひこじゅう 38歳)、万吉(まんきち 22歳)、啓太(けいた 20歳)、世之介(よのすけ 60すぎ)、寺男・(50すぎ)、それに母親のおもくわわり、酒盛りをはじめた。

父・西町奉行からの礼金を、最初(はな)は4人に1朱(1万円)ずつ分けようかとおもったが、これからのこともある、それには腹をわった付きあいをしたほうがいいと判断したのである。

〔銕組〕への奉行からの礼金---というので、一同が歓声をあげた。
「お奉行が、〔銕組〕っていってくださった、てぇのがうれしいやね」
彦十のことばに、みんながうなずく。

「これからは、〔銕組〕を名乗らせてもらいまひょ」
すかさず、万吉が和した。

町奉行からの礼金で飲むなんて、そんな誇らしい仕事など、これまでやったことがない連中だけに、うれしさも大きい。

料理は、おが腕をふるった。

酒がまわってくると、それぞれが自分の手柄話を際限もなくしゃべった。

ひとしきり、それががはずんだところで、銕三郎が、
「みんなの働きには、お奉行も感謝しているし、よくやってくれたと拙も礼をいう。しかし、拙にいわせてくれ、こんどの一番槍は、西迎寺の暁達の顔をおぼえていた又平(またへえ 50すぎ)どのだ」
みんなが手をたたいて祝したので、それまで小さくなっていた又平が、顔をくしゃくしゃにして喜び、手拭いで目
拭いた。

「しかし、又平どのは、貞妙尼をなぶり殺した僧ども全員の顔をおぼえていたわけではない。あと、5人いる。この坊主たちのこらしめに、一層、手を貸してもらいたい」
頭をさげると、また、一同が腕をたたいて協力を誓った。


参照】[銕三郎、膺懲(ようちょう)す] () () () () (5) () (


2009年10月19日~[貞妙尼(じょみょうに)の還俗(げんぞく) () () () () () () () () () (10

| | コメント (2)

2009.11.06

奉行・備中守の審処(しんしょ)(2)

この夏、8月16日~21日の6日間、筆休みの夏休みのつもりで、30回以上にわたってアップしていた史料『よしの冊子』を、下の↓【参照】のごとくに連結しなおし、6日分にまとめた。

手間がはぶけて、するすると読めるようなったはず。
もっとも、その分、1回iに目を通す量はふえはしたが--(ブログは本来的には日記だから、長い文章は読み手に負担であるが、これは鬼平ファンには有用な史料だから、時間のあるときにじっくりと読んでいただきたい)。


参照】2009年8月15日~[よしの冊子 (まとめ篇)] () () () () () (

上の↑ (まとめ篇 ())の寛政元年9月9日の末尾近くに、

一. 長谷川平蔵は、なるほど盗賊を捕らえることにかけては名人のよし。長谷川父の平蔵が本役をしていた時も用人のような格好であちこち探索に廻っていたとのこと。
また父親が大坂町奉行(? 京都の勘違い)になった時も用人役を勤め、吟味などもして馴れているので、真相を探りだすことがはなはだ巧みで、おれほど上手はあるまいと自慢しているとも。

とあり、以下のような解説ょ加えている。

  【ちゅうすけ注:】
  父・宣雄が火盗改メの助役を命じられたのは、明和8年(1771)
  10月17日53歳のとき。
  本役の中野監物清方(きよかた 廩米300俵)が翌年の3月4
  日に病死(50歳)したので、後釜として助役の宣雄へただちに
  本役を発令。
  幕府のこうした緊急処置は、その6日前に江戸市中の半分近くが
  焼けてしまった〔行人坂の火事〕の放火犯を至急に逮捕する必要
  があったからだ。
  その放火犯を宣雄の組(先手弓の第8組)がめで
  たく逮捕し、その報償として、宣雄は京都西町奉
  行へ栄転した。
  『よしの册子』が大坂町奉行と報告しているのはまちがい。
  宣雄が火盗改メや京都町奉行をしているとき、平蔵は26歳か
  ら28歳で、立派に助手がつとまった。


上の【】によるまでもなく、進行中のストーリーでお分かりのように、リンチで貞妙尼(じょみょうに)を責めて死にいたらしめた事件でも、銕三郎個人(てつさぶろう 28歳)の私情はさておいて、探索の主たる狙いを、父・宣雄奉行の判断の資をあつめることに置いている。

しかも、町奉行所の与力・同心およびその下役のご用聞きの手がおよばない風評あつめに専心している。
いわゆる、傍証がためと、心象づくりである

宣雄町奉行も、そのことはきちんとわきまえており、職務権限をもっていない銕組(てつぐみ)には、過度の任務は課さないようにしながら、銕三郎(てつさぶろう 28歳)を教育している。

[銕三郎、膺懲(ようちょう)す]2009年10月29日~() () () () (5) () (

2009年10月19日~[貞妙尼(じょみょうに)の還俗(げんぞく) () () () () () () () () () (10

| | コメント (2)

2009.11.05

奉行・備中守の審処(しんしょ)

月がかわり、5月になった。
奇数月は、西組が月番で、西町の奉行は、備中守宣雄(のぶお 55歳)であった

元賢(げんけん 43歳)は、六角(ろっかく)獄舎に入れられたまま、取り調べをうけていなかった。

東の奉行・酒井丹波守忠高ただたか 62歳 1000石)へ、西の長谷川備中守宣雄(のぶお 55歳 400石)が親書で、息・銕三郎(てつさぶろう 28歳)に審理の手だてを教えたいので、この事件は西町奉行所のあつかいにしていただきたいと依頼したからである。

もちろん、備中守宣雄は、所司代・土井大炊頭利里としさと)の内諾を先にとっていた。
所司代としても、寺社かかわりの事件だけに、西組があつかうほうが、筋がとおっていると判断していた。

(てつ)。禁裏の不正探索のこともあるが、元賢の審問に立ちあってみないか?」
「ぜひ」
「おそらく、難儀な問答になるとおもうが、のちのちのためになろう」
銕三郎には、父の思惑(おもわく)はわかっていた。

貞妙尼(じょみょうに)への恋情はそれとして、法をあずかっている幕府方の者として公正に裁くとはどういうことかを見おぼえよ、といっているのである。

尋問部屋に引きだされても、元賢はふてぶてしい態度をくずさなかった。
5分(1.5cm)ほどにものびた頭髪と鬚のせいで、よけいに不遜に見えた。

自分は、殺してしはいない。
暁達(ぎょうたつ)が自分を非難しにき、激昂のはてに手をかけようとしたので、護身用にもってきた出刃で脅したしたところ、かまわずに飛びかかってき、自分から出刃に刺されて死んだのであるとの主張を変えなかった。

また、貞妙尼の破戒の審問の場には立ち会っていなかったから、その死にはまったく無縁であるといいぬけていた。

さらに、御用聞き・〔大文字町(だいもんじまち)〕〕の藤次(とうじ 50前)が庫裡に押しいってき、自分に縄をかけたのは違法ではないかと抗議までしていた。
たしかにご用聞きは、奉行所の与力・同心が立ちあっていないところで逮捕する権限はもっていない。

宣雄が、目付方与力・浦部源六郎(げんろくろう 51歳)と銕三郎をしたがえて、尋問部屋へあらわれた。

_200むしろに引きすえられている元賢の前で、宣雄たちが床机にかけた。
「あ、元賢どのに座布団をあてがうように---」
宣雄が小者にいいつけた。

小者は、かつてないことなので、逡巡している。
〔足が痛くては、答えも満足にいくまい。早う、持て」

元賢に語りかけるように、
「石抱きの拷問だと、むしろどころの痛さではすまぬ。向こうずねの骨がおれ、一生、歩くこともままならなくなる。なに、元賢どのを三角柱の上に正座させようというわけでは、いまのところは、ない」

元賢の顔色が変わり、ふてぶてしい態度が潮が退くに消えていった。(゜[石抱き]『風俗画報』)

「〔大文字町〕のが、元賢どのに縄をうったのは、これなる---」
銕三郎(てつさぶろ 28歳)をさし、
「われの内与力が命じたことで、違法ではない」

座布団があたえられた。
元賢は、奉行に一礼してあてがった、

「富小路・五条角のきせる問屋・〔松坂屋〕の若後家とは、いつごろからの知りあいかな?」
元賢が答えをしぶった。
浦部与力が、怒鳴った。
〔お奉行にお答えいたせ」

それを制した宣雄が、お(さと 30がらみ)が五条橋下の料亭〔ひしや〕で働いていたときに、〔松坂屋〕の主人がまだ元気だったころに、元賢どのとつれだって食事しているところを見たという者がおっての---」
「それは、4年前---
「後妻にとりもった?」
「そないなわけやおへんが---」
「おが〔松坂屋〕へはいる前から、ちょくちょく、食事にいっていた?」
「はい、2,3度」

「あそこは川魚料理がうまいといわれておるが---」
「------」
「食ろうたな」
「------」
「仏道の戒をやぶった。ついでにきくが、おと睦んだのは、〔松坂屋〕の主人が逝く前からであろう」
「------」
「淫戒もやぶった。しかも、後家になる前の人妻とじゃな」
「それは、奉行所にはかかわりのないことでございます」
「そうじゃな。〔松坂屋〕の亭主と本山が、成敗することじゃな」

うなだれきている元賢に、
「同じ宗派の誠心院(じょうしんいん)の庵主に言いよったのは、何回かな」
「それも、宗派内のことゆえ---」
「違うな。強要は犯罪である」
「人殺しに比すると---」
「いま、なんと申した? おぬしが人殺しなどとは、一度も申してしいない。それを自ら口にしたようたな」 

はっとたじろぐ元賢を尻目に、浦部与力に、
「きょうは、これまで---獄へ戻せ」
さっと立ち、尋問部屋をでていった。
浦部与力と銕三郎もつづいたが、廊下で、
「お奉行。恐れ入りましてございます」

浦部。不安になれば、人はおもわず、真をもらすものよ。4.,5日、ほおっておけ」

参照】[銕三郎、膺懲(ようちょう)す] () () () () (5) () (

2009年10月19日~[貞妙尼(じょみょうに)の還俗(げんぞく) () () () () () () () () () (10


| | コメント (2)

2009.11.04

銕三郎、膺懲(ようちょう)す(7)

暁達(ぎょうたつ 36歳)は、啓太(けいた 20歳)が予想したとおり、毘沙門町の竜土寺へはいっていった。

彦十(ひこじゅう 38歳)たちが前門の暗部でうかがっていると、暁達ともう一人の僧がでてき、暁達は五条通りをきた方角へ、この寺の住職らしい僧は西の桂川のほうへ別かれた。
当寺の住職のほうは、また、啓太が尾行(つけ)、行く先をたしかめることになった。

暁達は、彦十万吉が追う。
行き先は源泉寺とわかっている。
〔大文字町(だいもんじまち)の藤次もまようことなく、東行きのほうを選んだ。

千本(せんぽん)〕の世之介iに吹きこまれたとおりのことを源泉寺の元賢(げんけん)の耳にいれたお(とき 57歳)は、意気揚々と戻ってくるや、ふくみ笑いをしながら表戸をしめはじめた。
「お。戸を閉めるのんは、ちょっと待ちィ。夜は長いのんや、あせるでない」
「そやかて---もう、腰がうずいとるよ」
万吉はんがきよる。裸で出会うわけにもいかんやろ」
「なんで、今夜、きィはるの?」
科(しな)をつくっているつもりで腰をふり、鼻をならした。

「それより、元賢少僧正の様子をきかせてんか」
元賢は、おの耳打ちに、真っ赤になって、
「どこのど奴がいうてんねん」
あまりのどなり声に、おは、さっききた客の口からでた話だとごまかし、あわてて庫裡(くり)を飛びでてきたと打ちあけた。

が床を延べおわったとき、万吉が、
「〔千本〕の---〕
顔をだした。
は、鼻をしかめてお茶の用意に立った。
世之介に、世話女房らしいところを見せたかったのである。

万吉は、世之介を手招きし、耳元で、
暁達がワナにはまりよった。これから、庫裡で修羅場がはじまりよる。彦十の旦那も、長谷川はんも、向かいの寺にひそみはった」
世之介は、賢念(けんねん)小坊主が描いた見取り図をわたし、
長谷川の若はんに、早く、これを。わてもすぐにいきますよって」

聞きとがめたおが、
世之はんの舞台はこっちやでぇ---」
悲鳴に近い声であった。

ほんとうの悲鳴は、庫裡からあがった。
「ぎゃあッ」
どうすれば、人間にそんな声がだせるのかといえるほどの恐ろしげな悲鳴であった。

銕三郎(てつさぶろう 28歳が飛びこんだ。
つづいたのは、別のもの陰にいた藤次---。

元賢は、略衣の胸から裾にかけて返り血にそめ、うわごとのように、
「自分がへまをしといて、ひとをゆすりおって---阿呆が---金子になど、手をつけよってからに---」
繰り返していた。
その足元に、暁達が伏せたおれていた。

銕三郎がいった。
藤次どの。元賢のいい分、聞きましたね」


宗派は、さっそくに、殺人と姦淫の破戒により、元賢を破門に処dqしたと、西町奉行所にとどけてきた。

錦布の巾着にはいっていた貞妙尼(じょみょうに)の11両(176万円)は、そっくり西迎寺の庫裡の手文庫にあった。

奉行所から本山に、その11両は、〔化粧(けわい)読みうり〕の板元名代料として貞妙尼個人にわたされたものであって、誠心院への寄進ではないとの、〔左阿弥(さあみ)〕の円造(えんぞう 60すぎ)元締の言葉を伝えると、処分はそちらのおもうままに---との返事がかえってきた。

奉行・備中守宣雄(のぶお 55歳)が空咳をし、
(てつ)。そういうわけで、この11両、貞妙尼の母親へわたすが、異存あるまいな」
銕三郎は、深ぶかと頭をさげ、
「お気のままに---」

山伏山町の家に集まった彦十万吉啓太に、銕三郎がはっきりと告げた。
貞妙尼を責め殺した数人の僧たちへの膺懲(ようちょう)は、まだ終わっていない」
{おもろい。やってこませまひょ」
啓太が応じ、あとの2人もしっかりとうなずいた。

源泉寺門前の花屋では、連日、夜おそくまで表戸をしめないで、おがなんども五条坂のほうをすかしてみていたという。


参照】[銕三郎、膺懲(ようちょう)す] () () () () (5) (

2009年10月19日~[貞妙尼(じょみょうに)の還俗(げんぞく) () () () () () () () () () (10


お断り】あくまでも架空の色模様で、貞妙尼も実在の誠心院、泉湧寺および同派の寺院もかかわりがないことをお含みの上、お楽しみのほどを。

| | コメント (0)

2009.11.03

銕三郎、膺懲(ようちょう)す(6)

烏丸蛤ご門前の粽司(ちまきつかさ)〔川端道喜〕の10代目あての書状をしたため、朝早に松造(まつぞう 22歳)を7やり、求めさせた粽20本のうち半分を久栄(ひさえ 21歳)に、あとを携えて山伏山町(錦小路・室町上ル)の家へ寄った銕三郎(てつさぶろう 28歳)は、待っていたご用聞・〔大(文字町だいもんじまち)〕の藤次(とうじ 50前)と話した。

藤次は、東町奉行所の目付与力・浦部源六郎(けげんろくろう 51歳)から十手をあずかって20年近くにもなる、老練の者であった。
貞妙尼(じょみょうに 享年25歳)がいびり殺された現場も検分しており、犯人たちが寺僧との推測はついているものの、寺域にふみこむことははばかられたのと証拠がないので、手をこまねいていたところであった。

そこへ、銕三郎からの呼びだしがき、浦部与力に伺いをたてたところ、いわれたとおりに働けとの指示が返ってきていた。

誠心院(じょうしんいん)の寺男・又平(またへえ 50がらみ)が山伏山町の家にいたので、不審をつのらせはしたが、浦部与力の指示をおもんぱかって、訊くことはひかえた。

銕三郎の頼みは、油小路通二条通り上ルの、鞘師・三右衛門の店の裏手、2軒長屋のお銀(ぎん 60すぎ)婆(ばば)に、十手をちらつかせ、「貞妙尼が邪淫な破戒を隣の実家でやっていると、どこかの住職に、お前はんが告げ口したため、尼が責め殺されたと見て、奉行所は宗門裁きみたいなことに加わった全員を調べていると脅し、後ろをつけて、告げにいった先をたしかめてほしい---であった。

生前のお(りょう 享年33歳)が、なにかのときに、潜入している閒者を見つけるには、秘密めかしたことがらをさぐりとらせたふりをして、その後の動きでたしかめる法もある---といったあと、山本勘助どのの〔啄木鳥(きつつき)〕の戦法の変わり形---と笑ったのをおもいだしたのである。
は、商舗の金のかくし場所をさぐりだすための法として考えていたのかもしれない。

が駆けこんだ先は、やはり、筋屋町の西迎寺であった。

出かける暁達(そうだつ 36歳)を尾行(つけ)たのは彦十(ひこじゅう 38歳)と万吉(まんきち 22歳)と啓太(20歳)、〔千本(せんぼん)〕の世之助(よのすけ 60すぎ)だが、その後ろをさらに追っいる者がいるのを、4人は気づきもしなかった。

五条通りへでたところで、暁達は、左へ折れないで右に折れた。
啓太が、
「毘沙門町へいくきよるんやないか。おとといの僧の寺は、そこの竜土寺やった」

4人はちょっと相談をし、手に粽をもった世之助だけが左折した。
彦十万吉啓太は、まよわず、右に折れて暁達を追ったが、まん前のきせる問屋の〔松坂屋〕の店舗を指さした万吉が、
「この大店の年増の後家はんが、元賢(げんけん 43歳)から功徳を施こされとるんや」

4人を尾行していた藤次は、とりあえず〔松坂屋〕もおぼえておくことにしたものの、事件とどうかかわっているのかは見当もつきかね、首をひねった。

源泉院前の花屋では、お(とき 57歳)の誘いでやってきた小坊主・賢念(けんねん 13歳)が3本目の粽をほうばりながら、
「〔松坂屋〕のご内儀は、お(さと)いうて、若うは見えるけど、白粉と紅おとしたら、やっぱり、30は30で、ごまかしはきかへん」
「白粉おとすこともあんの?」
「泊まっていかはるとき、湯殿をのぞき見しとんのや」
「悪い小坊主や」
「うちだけやあらへん。寺男の五平(ごへえ 59歳)はんが板に穴、刳(く)りはってん」

は、粽よりも世之助で、引きよせた手を、着物の上から尻にみちびいていた。

「和尚はんは、おはんと、湯ゥもいっしょ?」
「そうどす」
「おもろい。湯殿から寝間までの図を書いてェみ」

賢念は筆を借り、手の米粉をはたき、間取り図を描いた。
「本堂へつながっとる廊下は?」

賢念が4本目にのばした手をぴしゃりと叩いいた世之助が、
「〔道喜〕の粽は、1本、なんぼするおもうてんねん。値段聞いたら、口がまがるでェ」

小坊主が満足して源泉院へ戻っていくと、おは、世之介にしなだれかかって口をさしだした。
ちょっと吸ってやってから、
「お---」
「あい」
呼び捨てにされ、もう、情婦気どりで甘えている。

「これからすぐに、向かいの寺の住持の---なんていうたかな---」
元賢少僧正はん」
「そや。その少僧正はんにな、誠心院はんで、庵主(あんじゅ)はんが殺されはったとき、11両(176万円)ほどが紛失しとるを、奉行所がみつけたらしと、わいがいうとったと、耳うちしてやってんか。10両盗んだもんは、死罪なんや」
「奉行所?」
「そや」
「すると、世之はんは、奉行所かかわり?」
「ちがう。奉行の息子はんと知り合いの、知り合いなんや」

「ほな、いてきますよって、帰らんと、待ってておくれやす」
「待ちなはれ。も一つあんのや。誠心院の須弥壇(しゅみだん)の陰から、殺された尼はんの手控えがでてきよってな、それには、言いよった坊(ぼん)さんの名ァと、口説きせりふがぜぇんぶ書きとめてあったらし、とささやいてきなはれ」

参照】[銕三郎、膺懲(ようちょう)す] () () () () () (

2009年10月19日~[貞妙尼(じょみょうに)の還俗(げんぞく) () () () () () () () () () (10


お断り】あくまでも架空の色模様で、貞妙尼も実在の誠心院、泉湧寺および同派の寺院もかかわりがないことをお含みの上、お楽しみのほどを。


| | コメント (0)

2009.11.02

銕三郎、膺懲(ようちょう)す(5)

瀬戸川(せとがわ)〕の源七(げんしち 56歳)に頼んだのは、なんと、〔牝誑(めたらし)の現役と古手(ふるて)であった。

「古手のほうは、今日明日にもほしい」
源七は、さすがである。
遣い道などは訊きもしないで、しばらく思いをめぐらせていたが、ぽんと手をうち、
「〔千本(せんぼん)}の世之介などというふざけた名を〔通り名〕にしていますが、なに、生まれが千本通りの北の端の浄興寺の住職が妾に産ませたって奴で。千本を目ざしたが寄る年波には勝てねえ、888本で撃ちどめだなんて、大ぼらをふいてます。1本はおなご衆1人だっていうからタチがわるい。まあ、面(つら)だけは〔牝誑〕を自称するたけあり、若いときはそれなりに見えたようですが---」

ちゅうすけ注】〔牝誑めたらし)鶉〕の福太郎(25歳)は、『鬼平犯科帳』文庫巻2[(くちなわ)の眼]p20  新装版p21に登場。
巻7[はさみ撃ち]で薬種屋〔万屋〕の30妻・おもんをたらしこんだ〔針ヶ谷(はりがや)〕の友蔵(31歳)は、〔女だまし〕専門と。p81 p85

万吉が中古の牝誑〔千本〕の世之介をともない、東山の源泉院の門前の花屋へあらわれたのは、翌日の午後おそくであった。

老婆・お(とき 57歳)は、一目で世之介が気にいったようで、お茶を淹れるは、饅頭をすすめるはして、歯が浮くようなお世辞に脂っけのぬけた躰をくねらせている。
このままいくと、臍くりをみつぐから、今夜、泊まっていけといいかねないかもしれない。

世之介にまかせた万吉は、店の奥から、源泉院の山門からあらわれる年増を待っている。

きょうあたりは庫裡(くり)へしけこむころだと、きのう、おから告げられていた。
花屋の奥で隠れて見張るために引っ張りだされた世之介だったのである。

おんなは、見込みどおりに庫裡から出てきた。

山門にも夕やみがしのびよっているので、遠目には25歳をすぎたかかどうかの齢ごろとふんだ。

着つけは乱れていないが、髪はいくらかほつれている。
家へ帰りつくころにはすっかり暮れているから、とおもいさだめているのであろう。

20間(300m)ほどの距離をおいて尾行(つけ)ていく。
さっきまでの情事をおもいかえしているのか、腰がひだるそうな歩きぶりである。
「ちきしょう。うまいことやりよって---」
坂の両側に表戸をおろした焼きものの小店が点在している五条坂で、おもわず、つぶやいた。

富小路五条の南角、〔きせる問屋 松坂屋〕の看板があがっている店の、くぐり戸に消えた。

C_360_5
(きせる問屋〔松坂屋〕 『商人買物独案内』)

その先の路地の呑み屋の灯が見えたので、障子戸をあけ、空き小樽に腰をすえ、
「おお、こわかった」
「どないしはりましたん?」
訊いたのは、燗したばかりの徳利を、黙って飯台(はんだい)に置いた店の親父である。
このごろは、こんな店までが、銅製の燗用ちろりから、陶器製の徳利になっていた。
冷めがおそくなるからである。

五条坂をくだっていたら、別嬪(べっぴん)の年増が清水焼の窯元の脇からあらわれて前をゆくので、ゆれてる腰からいつ尻尾がでるかとつけてきたら、表通りの〔松坂屋〕で消えてしまったと、万吉が即席のつくり話に、、
「〔松坂屋〕のご新造はんでしすやろ。後家にならはったばかりやで、おおかた、旦那寺からの帰りどしたんやろ」
亭主が笑い顔で、一夜漬けの小かぶを呈した。

「後家?---25,6の若年増にしかも見えへんかったが---」
「若うても、後妻なら、後家にならはります」
「後妻? あない別嬪で?」
「〔松坂屋〕はんほどの身代(しんだい)があったら---」
「どこから、きィはったんどす?」
「------」
しゃべりすぎたとおもったらしい親父は、聞こえないふりをして大徳利からちろりに酒を注ぐことで、問いをそせらせた。

向かいの相客に酒をすすめると、その中年男が飯茶碗で受け、小声で、
「五条橋下におます料理屋〔ひしや〕の座敷女中やったんが、〔松坂屋〕の55歳の旦那に見初められよって---」

C_360
(料亭〔ひしや〕 『商人買物独案内』)

源泉院の門前の花屋では、引きとめるお婆ァに、
「あすの夕刻まえに、手みやげに〔川端道喜〕の粽(ちまき)をさげてくるよって、向かいの寺の小坊主も呼んどいきなはれ」
銕三郎から口うつしの甘言をのこし、〔千本〕の世之介は、どうやら、889本目を数えられるとほくそ笑みながら、おぼつかない足どりで、五条坂をくだっていた。

参照】[銕三郎、膺懲(ようちょう)す] () () () () () (

2009年10月19日~[貞妙尼(じょみょうに)の還俗(げんぞく) () () () () () () () () () (10


お断り】あくまでも架空の色模様で、貞妙尼も実在の誠心院、泉湧寺および同派の寺院もかかわりがないことをお含みの上、お楽しみのほどを。


| | コメント (0)

2009.11.01

銕三郎、膺懲(ようちょう)す(4)

(お(りょう)だったら、どういう策でのぞむだろう?)
久しぶりに、お(享年33歳)のことが懐かしくおもえた。
この場にいて、知恵を貸してほしかった。

どんな奇策を立てるか。
あるいは、正攻法でのぞむか。

躰の触れあいも忘れがたい女性(にょしょう)であったが、おの頭脳の動きは、名将と閒者を一身に秘めていた。
(どんなことを言っていたか)

「必ず敵の閒者をさがし、これを利すべし」

そんなことを、笑いながらささやいたことがあった。
(そのときおれは、おの右の内股のつけ根にあった黒子(ほくろ)を、舌でなぶっていた。

〔利すべき敵の閒者---〕
いまのところ、2人いる。

その一人からの風音(ふういん)をもって、万吉(まんきち 22歳)が戻っているはずである。

〔炭屋〕の2階の部屋へはいったときであった。
彦十(ひこじゅう 38歳)が啓太(けいた 20歳)をまねき、西迎寺の山門から出てきた僧形の男を窓から見せ、
「帰る先と、身許をつきとめな」

すばやく降りていった。

部屋へあがる前に頼んでおいたきつねうどんの出前がとどいた。
万吉は、出ていった啓太のどんぶり鉢にも箸をつけながら、源泉院の門前の花屋の老婆の話を述べる。

いちばん新しい後家の身許はいずれわかるが、この前までは、寺町五条上ルのちょうちん傘屋〔鎰屋(ますや)〕の寡婦となった内儀・お(こう 30歳)がそうであった。
それが、ややができてしまい、水子にして躰をこわし、お呼びでなくなった。
「ぽってりした、ええおなごどしたけど---」

360
(ちょうちん問屋〔鎰屋〕 『商人買物独案内』)

「姐(ねえ)はんの若いときに似てましたんやろ」
万吉の大仰な冗談を真けた婆さんは、その前の寡婦を教えた。

六角堂高倉角の、主として真言宗の法衣を商っている〔岡屋〕の女将・お(りく 28歳=当時)は、背筋がすっきりとのびたいいおんなだったが、そのときの声が大きすぎて、隣の寺までとどくというので〔鎰屋〕の寡婦にとってかえられた。

C_360_4
(法衣〔岡屋〕 『商人買物独案内』)

さん。〔風炉(ふろ)屋〕の番頭さんに顔を貸してもらうように、使いをだしてくれと、ここの主人にいってきてくれないか」

参照】〔風炉屋〕の番頭とは、〔瀬戸川(せとがわ)〕の源七のことである。まわりの耳を気づかって、〔通り名〕で呼ばなかった。
2008年5月28日~[〔瀬戸川(せとがわ)〕の源七] () () () (
2009年7月20日~[千歳(せんざい)〕のお豊] () (

彦十がおりていくと、
万吉どの、その花屋の婆さんは、50幾つだといってましたか?」
「60までに3年とか---」

参照】[銕三郎、膺懲(ようちょう)す] () () () () () (

2009年10月19日~[貞妙尼(じょみょうに)の還俗(げんぞく) () () () () () () () () () (10


お断り】あくまでも架空の色模様で、貞妙尼も実在の誠心院、泉湧寺および同派の寺院もかかわりがないことをお含みの上、お楽しみのほどを。

| | コメント (2)

2009.10.31

銕三郎、膺懲(ようちょう)す(3)

「坊(ぼん)さんが一人、でてきよったぜ。背格好から、どうやら、暁達(ぎょうたつ)らしい---」
旅籠〔炭屋〕の2階の表部屋の窓から、はす向かいの西迎寺の山門を看視していた〔相模(さがみ)〕の彦十(ひこじゅう 38歳)が、助(すけ)っ人としてつめている万吉(まんきち 22歳)にささやいた。

万吉も、彦十の頭ごしに視線をとばした。
看視をはじめて2日目の午後であった。

きのうから神経の張りづめで、さすがの彦十も疲れていた。
横手の仏光寺通りも、まん前の富小路(とみのこうじ)も、〔炭屋〕の亭主・善三郎が示唆してくれたように、僧の往来が多い。
そのたびに緊張していたが、2日目からは、的を西迎寺の山門の出入りにしぼっていた。

すぐに身支度をととのえた万吉が、あとを尾行(つけ)た。
暁達(36歳)は、太めの躰のわりには速足で、富小路を南へ、五条通りで東へむかう。
大橋をわたり、東山のふもとの源泉院の山門をくぐった。

昼間なら、左のかなたに、清水寺(きよみずでら)の大屋根が見えるはずだと、万吉はおもった。

万吉の親は、清水寺の坂下でせんべえを商っている。

門前の花屋で50文(2000円)で供花を買い、店の老婆に、とぼけて住職の名をきいた。
銕三郎(てつさぶろう 28歳)からも〔左阿弥(さあみ)〕の2代目からも、探索に遣う金子を惜しむなといわれていた。

とぼけたふりで、源泉院の住職の名を訊いた。
元賢(げんけん)はんやおへんかいな。43やいうに、達者なご坊はんや。きょうもまた、新しい後家はんに功徳をほどこしはった」
「うらやましい。うちのおっかあと違うやろな」
「30歳ほどやったよって、違うてますやろ」
「うちのおっかあは、姐(あね)はんに似て、若うみられよるんや」
心得たもので、老婆の噂ばなしに調子をあわせている。
花屋は、50をとっくにすぎているのに、なんと、はにかんだ。

「こんど、昇進しはったとか耳にしたんやけど---」
カマをかけた。
「そんなことおへん、少僧正のまんまや。檀家の後家はんとのことが本山に知られてるよってに、階位はなかなかあげてもらわれへんねん」

長居がすぎるとあやしまれるから、山門をくく゜り、墓域のとっかかりの墓石の花立てに水もそえずに供花を挿しこみ、庫裏のほうをうかがったが、
「そら、あかん!」
元賢らしい声がもれたきり、話し声は聞こえてこなかった。
山門を出るときには、花屋の老婆は奥に引っこんでしまっていた、

翌日、〔炭屋〕をのぞきにきた銕三郎万吉が昨日の尾行の顛末を告げると、
「ご苦労だが、きょうは、花を倍ほど買って話を訊きだしてほしい。元賢とねんごろになった後家さんたちの名と住まいが知りたい。できたら、元賢の素性も---。それから、法泉院に出入りしている僧たちのことも---」

彦十の報告は、ゆうべ、暁達が西迎寺へ戻ってきたのは五ッ半(午後9時)まえだったが、酒を呑んでいたふうで、赤い顔をしているのが、月明かりでみとめられたと。
「破戒に加えることの、一だ」

山伏山町(錦小路通り・室町通り上ル)の本拠へ着いた銕三郎は、お(てい 享年25歳)の母・お(かね 47歳)に2つのことを訊いた。

旦那寺の山号、その所在、宗派、住持の法名と年齢。
もうひとつは---、
ここへ移るまえの住まい---油小路通り・二条通りの2件軒長屋の隣人。

旦那寺のことを訊いたとき、目じりと口まわりの皺はかくせないが、おどうようにととのった眉間に、影が走った。
寡婦になったとき、布団にはいってきて、おの太ももにすりつけて後家の欲を耐えていたというが、おが嫁したあとのことはわからない。
40歳にはなっていなかったろう。

寺は、花園の天寿院で、いずれ、この家に安置してあるおの遺骨も納めるといった。

「迂闊なお質(たず)ねごとだが、拙が貞妙尼と二条油小路町のそなたの家を借りたとき、泊まりにいったのは天寿院の庫裡(くり)でしたか?」
「8年ほども世話になっており、うちのほうが出向きますよって、近所はしりはらしまへん。親戚の家へ姪の子の世話にいっとる、おもうはるようどす」
「つかぬことをお訊きしました。この場かぎりで忘れます」
「おおきに」

隣家の主・お(ぎん)も、寡婦で、齢はおより15も上の、60すぎという。
生活(たつき)は、亭主が残してくれた6軒の長屋の店賃と、呉服屋の通い番頭をしている息子からの仕送りでやりくりしているという。
ちょっとした菓子や漬物などをやりとりする仲らしいが、おの仕立て物は、おの息子のこころづかいだと。

「おどのの菩提寺は?」
「筋屋町の、なんとやらいうお寺と聞いたことがおますが、覚えてェしまへん。すんまへん」

表情を殺してさりげなく、仕立ての仕事をまわしてくれる、おの息子が番頭として勤めている呉服屋の屋号と町名を訊いた。

仏光寺通り・麩屋町通りの〔丹波屋〕との返事。

C_360_3
(太物類〔丹波屋〕 『商人買物独案内』)

(暁達の西迎寺と1丁と離れてはいない)

「ここへ移ってからの仕立てものの受けわたしは?」
「ここからは〔丹波屋〕はんが7丁ばかりと近いよって、じかに、うけわたしょ、おもうてますねん」
「では、まだ、ここのことは、伝えてない?」
「ええ。仕上がったら、うちがもっていこ、おもうて---」
「ここを、決して明かしてはなりませぬ。知られると、命があぶない」


参照】[銕三郎、膺懲(ようちょう)す] () () (4) () () (

2009年10月19日~[貞妙尼(じょみょうに)の還俗(げんぞく) () () () () () () () () () (10

| | コメント (0)

2009.10.30

銕三郎、膺懲(ようちょう)す(2)

「仏光寺通り・富小路通りの角の〔炭屋〕って旅籠の表側の部屋からだと、西迎寺の山門がはすかいに見わたせやす」

相模(さがみ)〕の彦十(ひこじゅう 38歳)が報せてきたので、銕三郎(てつさぶろう 28歳)は早速に〔炭屋〕へ出向き、亭主・善三郎(ぜんざぶろう 48歳)に、西町奉行の息子であることを告げ、江戸から彦十がご用の筋をもってのぼってきたので、表側の客室をしばらくのあいだ借り受けたいと頼んだ。

_360
(寄宿〔炭屋〕善三郎 『商人買物独案内』)

亭主は、銕三郎の顔色で秘密の用向きらしいと察し、番頭にも女中にも伏せておくから、と承諾したうえで、
「うちのすぐ西側には、親鸞上人はん自作の御影(みえい)を祀ってはる本山・仏光寺はんがございます。まわりの塔頭も10寺ではききまへんよって、お坊さんがぎょうさんいはります。よほどにお気張りなさりまへんと---」
助言してくれた。

C_360
(仏光寺 『都名所図会』 塗り絵師:ちゅうすけ)

彦十は、江戸の十手持ち、〔左阿弥(さあみ)〕の若い衆---万吉(まんきち 22歳)と啓太(けいた 20歳)は、地元で雇われた手先ということになった。

網を仕掛けおえた銕三郎は、東町奉行所の同心・加賀美千蔵(せんぞう 31歳)に、役所の南の神泉苑(じんせんえん)の住職を紹介してもらった。
偶数月は、東組の月番で、奉行所の門は開かれている。

神泉苑は、近衛家が別当になっている真言宗・東寺に属する寺である。
池中に善女竜神を請じて旱魃の雨乞いを祈願してきた。

C360
(神泉苑 『都名所図会』 塗り絵師:ちゅうすけ)

銕三郎を茶室に招いた老師は、茶をすすめ、
「伝授をお望みのものは?」
「わが家の香華寺は、江府にありますに日蓮宗の戒行寺でございます。卒爾(そつじ)ながら、宗旨(しゅうし)により、比丘(男僧)が守るべき戒律は異なるものでございましょうか?」
老師は莞爾(かんじ)とした面持ちで、
「人は群れたがりよりますわなあ。群れはさらに鶏頭になりとうて小群れをつくりよる。これを名欲(みょうよく)いいますのんや。まあ、群れの中でだけのことやよって、俗界からの指弾(しだん)もおませんけど」

「俗界から指弾を受けなければ、かまわないのですか?」
「手きびしいの。欲のない人はおらしまへん。名欲くらいは、僧にもゆるしてやらんと、生きてても息がつまりよる。ほれ、この茶の湯も口欲の一つでおます」

「不殺生(ふぜっしょう)、不偸盗(ふちゅうとう)、不邪淫(ふじゃいん)、不妄語(ふもうご)、不飲酒(ふいんしゅ)の五戒は、いかがでしょう?」
「不飲酒は、俗界では戒やおへんな。前の三戒は、世間でも犯戒(はんかい)どすやろ?」
「そのように心得ております」

「殺生すれば死罪。親や主殺しは引きまわしの上、磔(はりつけ)、曝し(さら)しどすな」
「それは、奉行所の裁きです」

「僧職にはあと、不食魚肉、不食獣肉---乳もなりませぬ。人のおなごの乳もですぞ」
銕三郎が顔を赤らめたので、老師は声をだして笑った。
この若者、意外にも正直だとでもおもったのであろう。

「冗談がすぎよりましたかな」
「老師。たびたび、お教えを請けに参上してもよろしいでしょうか?」
「いつにても、お迎えしますぞ」

山門を出ながら、貞尼(ていあま)の悲痛は、きっと鎮(しずめ)てやる、と覚悟を新たにした。

参照】[銕三郎、膺懲(ようちょう)す] () () () () () (

2009年10月19日~[貞妙尼(じょみょうに)の還俗(げんぞく) () () () () () () () () () (10

お断り】あくまでも架空の色模様で、貞妙尼も実在の誠心院、泉湧寺および同派の寺院もかかわりがないことをお含みの上、お楽しみのほどを。

| | コメント (2)

2009.10.29

銕三郎、膺懲(ようちょう)す

(てっ)つぁん。これを、許しておいちゃあいけねえって、ダチがいってますぜ」
与力・浦部源六郎(げんろくろう 51歳)たちが帰ったあと、〔相模(さがみ)〕の彦十(ひこじゅう 38歳)がいきまいた。
左阿弥(あさみ)〕の円造(えんぞう 60歳すぎ)も、
「やらはるんなら、助(す)けさせてもらいます」
2代目・角兵衛(かくべい 42歳)もうなずいた。

「元締。口の堅い若い衆を2人ほど、お貸しいただけますか?」
「2人といわず、5人でも10人でも---」
「いえ。討ち入りするのではありません」
銕三郎(てつさぶろう 28歳)が説明した。

これは、個人的な報復とか復讐ではなく、悪をこらしめる膺懲(ようちょう)なんだと。
奴らは、僧籍にありながら、もっとも基本的な五戒(かい)のうち---不殺生(ふぜっしょう)、不偸盗(ふちゅうとう)、不邪淫(ふじゃいん)の3つまでを犯している。
宗門はそれを見ないふりをし、見のがすといってきているにひとしい。
天にかわって、この不義の徒をこらしめるのであると。

ただ、現世の法は、すべては、町奉行所の裁きにまかすようにと、私的な膺懲を禁じている。
宗門は、あげて、犯人たちの擁護にまわるであろう。
とりわけ、門跡(もんぜき)がからんでいるばあいには---

したがって、こらしめた側が誰かわからず、迷宮入りにしなければならない。
それには、小人数で、ほころびがでないようにしてかかることが肝要。

「盗みもやってますのんか?」
角兵衛が訊く。
「われわれが寄進した10両(160万円)ばかり、盗みました」
「許せまへんな」
元締が歯ぎしりした。
(もっとも3本が義歯なので、さほどに力ははいっていなかったが---)

「邪淫って、そこまで辱めよった?」
彦十が口をすべらせた。
「いや、あ奴たちは、庵主(あんじゅ)に言いよって、拒絶されたのを、逆恨みしたのだ。庵主は、これまで、それを口にしては自分が淫逸(いんいつ)に与(く)みしたと同じことになるとおもい、秘していた。しかし、あ奴らはその上にあぐらをかいていたが、庵主が還俗すれば、いつ暴露(バラ)されるかと、それを恐れての襲撃であったふしも、ないではない。まあ、本筋のところは、嫉妬だが---」

襲撃組にまだ知られていない錦小路通り・室町通り上ルの家を、膺懲の本拠にすることに決め、顔をしられている寺男は外出をひかえること、彦十は滞在している〔瀬戸川(せとが)の源七(げんしち 57歳)のところから、こちらへ移ること、貞妙尼(じょみょうに 享年25歳)の母親を、油小路・二条上ルから、しばらくのあいだ、ここへ住みかえてもらうこと、寺院を通しての葬儀はしないこと、無縁仏を火葬に付する手続きを奉行所でとってもらうことにした。

さんは、筋屋町の西迎寺が見渡せるところに見張り部屋ををみつけ、住持(じゅうじ)・暁達(ぎょうたつ)の出入りを看視し、訪ねてきた坊主がいれば尾行してどこの寺の者かたしかめてほしい。そのための手足を元締のところの若い衆から借りることになっておる」
「合点だ。ついでに、暁達とやらが囲っている妾と、庫裏の間取りも調べますぜ」
「妾をつくっていれば---だが」
みんなで笑った。


参照】2009年10月19日~[貞妙尼(じょみょうに)の還俗(げんぞく) () () () () () () () () () (10

[銕三郎、膺懲(ようちょう)す] () () () () () (

| | コメント (0)

«貞妙尼(じょみょうに)の還俗(げんぞく)(10)