2008.05.10

高杉銀平師

池波さんは、長谷川銕三郎(てつさぶろう)宣以(のぶための)の高杉道場への入門を、19歳としている。
これは、史実的には、ちょっと無理がありそう。

というのは、銕三郎の19歳というと、明和元年(1764)で、2008年3月2日[南本所・三ッ目へ] (9)に掲出したように、この年の10月に、父・宣雄(のぶお)は懸案の三之橋通りの1238坪の土地を築地・鉄砲洲の屋敷と三角交換によって手に入れた。
家屋は、鉄砲洲の家を解体して移したしとても、竣工は翌年の初春とみる。

【参照】2008年2月23日~[南本所・三ッ目へ] (1) (2) (3) (4) (5) (6) (7) (8)

年が明けると、銕三郎は20歳になっている。

敷地がきまり、移転を見越して道場を変えるという考え方もできなくはないが、やはり、常識的には、転宅後に師を変えるとみるのがふつうではなかろうか。

ま、高杉道場への入門が、19歳であろうと20歳であろうと、読み手にすれば、大差はない。
気にかかるのは、高杉銀平師を、どういう経緯で選んだかである。

高杉道場は、一刀流である。
鉄砲洲時代も一刀流の道場で学んでいたと考えると、その道場主が高杉師を推薦したともいえる。
もうすこしドラマチックに想像して、そうとうの識者が高杉銀平を紹介したという見方もできる。
その識者とは---小野派一刀流の継承者・小野次郎右衛門忠喜(ただよし)である。

助九郎忠喜は、父・忠方(ただかた)の死によって、寛延2年(1749)に家督を相続している。18歳であった。
家禄は800石。うち、先々代からの知行地は、上総(かずさ)国武射郡(むしゃこおり)本須賀村の250石と、同国山辺郡(やまのべこおり)松之郷村の441余石。
察しのいい鬼平ファンなら、長谷川家の知行地のある郡といっしょ---とおもわれよう。
そのとおり。2村からの米の積み出しは、長谷川家もそうしていた九十九里浜の片貝(現・千葉県山武郡九十九里町片貝)の湊を使ったろう。そういう知り合いであったと想像する。

次郎右衛門を襲名した忠喜の出仕は、宝暦9年(1759)に小姓組番士として28歳の時。おそくなったのは、健康に問題があったから、としかおもえない。
その後は快癒したらしく、順調に推移している。
一刀流ということで、宣雄は、浜町蛎殻(かきがら)町の小野邸を訪れ、高杉銀平の名を教えられたのであろう。
宣雄のことだから、剣技もさることながら、人柄をとくに重んじて質したとおもう。

高杉道場は、文庫巻1の連載第2話[本所・桜屋敷]から、はやばやと登場している。

法恩寺の左側は、横川に沿った出村(でむら)町であるが、このあたりは町といっても藁(わら)ぶき屋根の民家が多く、本所が下総(しもうさ)国・葛飾(かつしか)郡であったころのおもかげを色濃くとどめている。
その一角へ、長谷川平蔵は歩み入った。
ひなびた茶店の裏道が、横川べりまでつづき、その川べりの右側に朽(く)ち果てかけた藁屋根の小さな門がある。門内の庭もも、かたく戸を閉ざしたままの母屋(おもや)にも荒廃が歴然としていた。人も住んではいないらしい。
平蔵の唇(くち)から、ふかいためいきがもれた。
この百姓家を改造した道場で、若き日の平蔵は剣術をまなんだものだ。
師匠は一刀流の高杉銀平といい、十九歳の平蔵が入門したころ、すでに五十をこえていたが、この人が亡くなったことを平蔵は京都で耳にしている。
同門の岸井左馬之助(さまのすけ)が知らせてくれたからだ。 
p52 新装版p55

元の高杉道場だった農家は、主を失って15年ほど経っている。

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(法恩寺 左下=出村町 『江戸名所図会』塗り絵師:ちゅうすけ)

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(上絵の部分 出村町)

文庫巻6[剣客]には、高杉師の没年は67歳とある。
遺骨は、岸井左馬之助によって、佐倉在臼井の寺に葬られた。

銕三郎が父・宣雄に随伴して京都の西奉行所の役宅に滞留していたのは、史実では、安永元年(1772)10月から翌年夏までのわずかに8ヶ月とちょっとであった。
父の没後、平蔵を襲名した銕三郎が27~8歳のあいだのことである。

それはそれとして、銕三郎は27歳まで江戸の南本所・三之橋通りの屋敷におり、23歳で将軍・家治にお見得(めみえ)したわけだが、何歳まで高杉道場に通ったか、池波さんは明らかにしていない。
もちろん、そんな史料があるわけもない。

ついでながら。
ずいぶんと先のことだが、長谷川平蔵宣以が天明6年(1786)年7月26日、41歳で先手・弓の2番手の組頭に抜擢された時、鉄砲(つつ)の17番手の組頭に小野次郎右衛門忠喜がいた。3年前に51歳でその任に就き、66歳までの足かけ16年つづけた。
ちなみに、平蔵より13歳年長であった。

 

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2008.05.09

ちゅうすけのひとり言(12)

2008年3月14日分の[ちゅうすけのひとり言](10)は、先手組頭に登用された父・平蔵宣雄(のぶお)の同僚・古郡(ふるこおり)孫大夫年庸(としつね)の『寛政重修諸家譜』の記述の中から、

(享保)十五年(1730)十二月三日父年明(としあきら)致仕するのときにおさめられし新墾田十が一現米三百ニ十石余の地を年庸にたまひ、永く所務すべきむねおほせを蒙る。

を引用した。

代官が新田を開墾すると、その10分の1を与えられるという制度があったことを、初めて知ったと書いて、無知を告白したわけである。

静岡の〔鬼平クラス〕---SBS学苑パルシェ(JR静岡駅ビル7階で毎月第1日曜日午後1時から)で、ともに学んでいる安池欣一さんも、このコンテンツが頭のどこかにひっかかっていたらしい。

近世農政史料集 1 江戸幕府法令 上』(児玉幸多・大石慎三郎編 吉川弘文館 1966.9.10)から、以下をコピーした史料に添えて、古郡家の記述にも関係がありそう---と手紙をくださった。

_120_2史料は、『徳川禁令考』の2123(享和8年 (1723) 11月 )で、現代文に直すと、概要、次のようなものである。

「新田開発をした代官へ、新墾の内の10分の1を下される件について、勘定奉行へ申し上げる書付」
新田を開発した代官は、新墾の内の10分の1を下されると伺ったところ、先だって申しわたされたのは、それは当人一代にかぎって---ということであったが、小宮山杢之進支配の小金佐倉新田の内、当年からある程度収穫ができるようになってきたので、この出来高のうちの公納分の10分の1を、まず当年分としてくだされるへきだと存ずる---うんぬん(以下略)。
(注)代官見立新田による年貢10分の1を支給されたのは、この小宮山杢之進が最初である。

安池さんから送られた史料を手にして、ぼくは、自分の怠慢を責めた。
というのは、引用された『徳川禁令考 前集4』(創文社 1959.5.25)はもちろん、前集6冊、後集4冊を所有していたのに、購入後約50年間、書棚に飾ったまま、ほとんど目を通していなかったからである。

購入した30歳当時は、読破するつもりがあった。ところが、その後、興味の対象がニューヨークのある一派を代表する広告代理店研究へ向かい、その後、池波さんが鬼平像のモデルの一つにしたメグレ警視の生地や住まいの探索、さらには英王室御用達の制度へ移っていった。

関心が江戸時代へ戻ったのは、『鬼平犯科帳』を手にしてからである。
まあ、大きく遠回りをしたとはいえ、『徳川禁令考』全10冊がこうして、曲がりなりにも役に立つことができるようになったのは、『鬼平犯科帳』のお蔭といえる。感謝しなければ。もちろん、安池さんにも---。

代官への「10分の1」下賜は、『徳川禁令考』を読むかぎり、当人1代かぎり---のにように解される。
3月14日に引いた古郡家の場合は、父が新開指導したものを子・孫大夫が請願している。
これは特例であったらしいということも、改めて、安池さんが発見された史料から気がついた。

このところ、佐倉在生まれの〔(たずがね)〕の忠助(ちゅうすけ)にライトを当ててきた。
小金佐倉新田を『旧高旧領取調帳 関東編』(近藤出版社 1969.9.1)で探したら、下総(しもうさ)国葛飾郡向小金新田の137余石があった。印旛沼・佐倉からはかなり離れていた。

新田開発者へ10分の1を与えるというインセンティブ(動機づけ)について、思い当たったことがある。
新墾指揮は平蔵宣雄だったと推定しているのだが、長谷川家が知行地の上総(かずさ)・武射郡寺崎の220石を、新墾によってさらに100石ばかり増やした時、開墾に従事した知行地の農家たちへいくばくかの地を与えたという記録がのこっている。

その土地は、開墾した10分の1に相当するものであったかも知れない。


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2008.05.08

おまさ・少女時代(その3)

字を覚えたいといったおまさ(10歳)のために、銕三郎(てつさぶろう 20歳 のちの鬼平)は、裏庭の納屋へ入り、14年前---6歳の6月6日から手習いを始めたころに使った、安物の今戸焼の硯(すずり)と文鎮、半紙下敷きなどを取り出した。
おまさに与えようとおもった。
与詩は、もっと上品(じょうほん)のを与えられているなあ)
おまさがちょっと可哀相にもおもえた。
だから、擦り口が斜めにちびた墨は、新しいのを購うことにした。

受け取った硯を、おまさは、
「銕お兄(にい)さんのお下がりがいただけて、嬉しい。お兄さんのように上手になります」
素直によろこんで、海から丘にかけてを4本の指で、まるで銕三郎の掌を探っているように、しきりになでまわしたが---。

高杉道場の帰りに、一ッ目・相生町の〔竜雲堂・升屋〕四郎兵衛まで足を伸ばし、おまさの筆初(ふではじ)めの筆と墨、朱を入れる筆、朱墨を求めた。

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(筆・硯・墨の〔升屋〕四郎兵衛 『江戸買物独案内』 1824刊)

品選びをしていると、おまさが実の妹のように、親しく感じられた。

お家流の運筆の銕三郎の手筋は、父・宣雄から受けついでいて、悪くはない。素読が好きでないところは、父に似なかった。

おまさから頼まれたとりあえずの手本は、どこの手習い所でもするように、「いろはにほへと」の7文字としておいた。

〔盗人酒場〕の店内の飯台の一つが、店を開けるまでのおまさの文机となった。
おまさは昼前から、飯台をなんども水拭きして清めていた。

袖に墨がつかないように、おまさは襷(たすき)がけで臨んだ。
銕三郎は、うしろにまわって、背中に胸がつくほどに身を寄せ、筆を持っているおまさの手に竹刀だこで硬くなっている指をそえ、筆運びのコツをじかに教えた。
銕三郎の掌の硬い感触を微妙に感じたおまさの首筋が紅潮している。

「腕から力を抜いて、もっと軽く動かすのです」
そういわれても、おまさは、下腹が熱くなり、肩から腕へかけて緊張しきっている。
初めての習字だからとおもおうとしてみた。緊張は解けなかった。

躰の芯から湧いてきた熱気は、そえられていたお兄(にい)さんの手のせいだとおもいあたったのは、その晩、寝についてからだった。
右の手の甲に、左手をそえてみた。
あげまき結びの髪に、お兄さんの息を感じたことも、ここちよい記憶の一つだった。
それらは、むすめとして成熟していくための特効薬のようにもおもえた。

いろは四十七文字は、7日たらずで書けるようになった。

3日目から、銕三郎は手を添えなくなり、おまさは、うらめしかった。
「もう、コツはつかんだでしょうから、自分でやりなさい。いつまでも甘えていては、上達しませぬ」
上達よりも、おまさは接触していたかった。
 
最初に教えてほしいと頼んだ漢字は、
「鮑(あわび)」

「お父(と)っつぁんの得意料理だから---」
口ではそう言ったものの、こころのうちでおもっていたのは、〔あわびの片おもい〕という俗諺であった。
銕三郎は気がつかないふりをつづける。

つぎに望んだ漢字は、
「鶴(つる)」

父・忠助の綽名(あだな)だと言った。躰つきが鶴のようにひょろりと細くて高いからと、みんなは納得している。
「でも、ほんとうは違うんです。お父っつぁんは、鶴に似て、めつたに口を利きません。でも、歌はとっていい声なんです。だから、鶴と書いて〔たずがね〕と読むんです---鶴(たず)の音(ね)」

忠助からは、入れこむ気質は母親ゆずりだから、自分でほどほどに抑えるようにと、くどいほど言われているし、幕臣の嫡男さまと呑み屋のむすめでは身分が違いすぎるとも言いきかされているから、嫁とか側室とかを考えているのではない。
人柄に触れていればいい---と、自分に言い聞かせている。

おまさが書ける漢字があった。
「酒々井(しすい)」
「酒」は店名の〔盗人酒屋〕からおぼえたという。

「酒々井は、お父っつぁんとおっ母(か)さんの生まれた村なんです。下総(しもうさ 千葉県)の佐倉の城下のすぐ東と聞いてます。まさは行ったことはないのですが---。隣家同士で、おっ母さんは、本郷の紙とか茶葉とかを手びろくあつかっているお店に奉公していて、お父っつぁんとばったり再会して所帯をもったんですって。酒々井には、両方の家の伯父叔母や従兄弟やはとこもいるので、いちど行ってみようとおもっています。とりわけ、おっ母さんの血すじの家に---」

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(赤○=酒々井村 黄=佐倉城下町 明治20年刊)

しゃべってしまってから、
「あたしのおしゃべりは、おっ母さんゆずりだって、いつもお父っつぁんが言うんですよ」
肩をすくめて笑った目の艶っぽさは、一人前のむすめのそれだ---と、銕三郎はおもった。

やがて、銕三郎は、手本をわたすだけで、立ち会わなくなった。
ある晩、銕三郎は、〔盗人酒屋〕のまわり5丁四方の地図を切絵図から写しとった。
それには、おまさがふだん買い物の用足しに行ったり客との会話に出たりする町名はもとより、川や橋、寺院や亀戸天神社なども含まれていた。
おばさんの長屋のある清水裏町も入っている。

わたす時、銕三郎は言った。
「漢字で書かれている町や川などに、覚えたひらがなでふりがなをふりなさい。そうすれば、自然に漢字を覚えるでしょう」
さらに、漢字が偏(へん)と旁(つくり)でできていること、偏は木とかさんずいとか火とか土とか魚であるから、漢字が示しているもののおおよその種類がのみこめること、旁はそのものの意味を暗示しているとおもえばよい、と自習の仕方を教えた。

おまさは、うなづいたものの、銕お兄さんといっしょにいる時間がなくなることをおもうと、泣きだしたかった。
銕三郎に、お目見(めみえ)の予審の日がきていることは、おまさは知らなかったのである。
銕三郎も告げなかった。

【参照】[おまさ・少女時代] (1) (2)
2005年3月3日[テレビ化で生まれたおまさと密偵

参考】 酒々井町Wikipedia

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2008.05.07

おまさ・少女時代(その2)

2組、3組と新しい客がはいってきても、おまさ(10歳)は、注文を板場へ通しては銕三郎(てつさぶろう 20歳 のちの鬼平)の横へ戻ってすわることをやめない。

料理を配膳したおまさに、馴染みの客らしいのがなにか話しかけても、
「いま、手いっぱいなんです」
相手にならないで、銕三郎にぴったりである。

「あら、お酒がこんなに残って、冷えてます。暖かいのに取りかえてきましょう」
「もう、酔っています。お酒は充分です」
「それでは、お料理---今夜は、お豆腐の木の芽田楽があります」
おまさどの。店が混んできています。用事をしてください」
「いいんです。お兄さんのそばにいるのが楽しいんです」

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(清長 おまさのイメージ)
ちゅうすけ注】『鬼平犯科帳』文庫巻4[血闘]に、20余年ぶりに鬼平の前へあらわれた時---、
小肥(こぶと)りな少女だったおまさは、すっきりと〔年増痩(としまや)せしていたのである。p136 新装版p143
---とあるので、ふっくらとした少女の絵を探した。

その時、入江町の鐘楼の鐘が五ッ(午後8時)を報らせた。
店が立て混むわけだ。
もうそんな時間になっていようとは、おもっていなかった。
1刻(2時間)もおまさを独り占めしていたことになる。
(常連客たちに悪いことをした)

表まで送ってきたおまさが、
お兄さん。お願いがあります。手習いのお手本を書いてください」
「承知しました」
「げんまん」
小指と小指がまじわる。

その夜---。
店の灯を落としてから、忠助は、おまさを、銕三郎が使っていた飯台に座らせ、向き合って腰をすえる。
しばらくおまさを見つめてから、
「お美津(みつ)が生きていたら、今夜のおめえの振る舞(め)えを見て、なんと言ったろう---」
それきり、黙ってしまった。
おまさも口を利かない。
悪いことをしたとは、おもっていないのである。

「入れあげるのが、母親似だとしても、相手が悪い」
お兄(にい)さんは、いい方です」
「男としての、いい、わるい、ではない。あの人は、火盗改メのお頭(かしら)の甥ごだ」
「お父(と)っつぁん。それがどうだっていうんです?」

忠助は、また、黙りこんだ。
おまさ が、一気に述べたてる。
お兄さんは、〔樺崎(かばさき)〕の繁三さんおじさんや七五三吉(しめきち)兄(あに)さん、おみねちゃんとこの亡くなったお父(と)っつぁんの〔助戸(すけど)〕の葉造(ようぞう)おじさんが、盗人の一味だということもちゃんと知っていらっしゃいます。きょう、出会った〔法楽寺(ほうらくじ)〕のお頭(かしら)や、〔名草(なぐさ)〕の嘉平(かへい)爺(じい)さんの素性もお察しになっているでしょう。おおばさんの前身だって、推察なさっていましょう。

Photo
(足利近辺の〔法楽寺〕一味の出身地 )

だけど、お父っつぁんに義理立てして、火盗改メには黙っていらっしゃるのです。お父っつぁんには、あの方の度量の大きさが分かってないのです」

おまさ。いいきれるんだな?」
「はい。お父っつぁんも、目と胸を、もっと、しっかりひらいて、あの方を見てごらんなさい」

「おめえ、お美津が生き返ったようなむすめに、なってきた」
「おっ母さんの子ですもの。おっ母さんからは、いい言葉遣(づか)いを教わりました。5つでしたけど、しっかりと覚えています。これからは、お兄さんに、字を教わります。約束したんです。字も読み書きできないんでは、江戸では生きていけません」

手習い所へ通っているという、銕三郎の義妹の与詩(よし 8歳)への競争心もあった。

参照】[おまさ・少女時代] (1) (3)
2007年7月19日[女密偵おまさの手紙
2007年3月10日[男はもうこりごり、とおまさ

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2008.05.06

おまさ・少女時代

いちばん奥の左隅の飯台に、ちろりとあわびの大洗(だいせん)煮を運び盆に載せてきたおまさ(10歳)は、銕三郎(てつさぶろう 20歳)の横にぴたりとすわり、箸をそろえたり酌をしたりと、甲斐々々しく世話をやく。
(てつ)お兄(にい)さんとお呼びしていいですか?」
つぁんのほうが、拙らしい」
「そんな、もったいなくて」

「あわびの大洗煮、お口に合いますか?」
「大豆にも味がしみていて、おいしいです」
「よかった。このあいだの---おみねちゃんのお父(と)っつぁんが亡くなった宵(よい)、半分お残しになっていたでしょう?」
「あのごたごたで---食べそこなったのです」
「よかった---お嫌いかと思ってしまって---。お父っつぁんの、自慢料理の一つなんです。ほんとうは、おっ母(か)さんがお父っつぁんに教えたんですが---」

参照】 [〔盗人酒場〕の忠助] (1) (2) (3) (4) (5) (6) (7)

「お母上はお亡くなりになったんだってね」
「はい。あたしが五つのときに」
おみねどのの齢ごろだったんですね」
「はい。おみねちゃん、可愛いでしょ?」
「拙の義妹(いもうと)の与詩(よし)が、ちょうど、おみねどのの齢のときに、養女にきたんです」
「義妹(いもうと)さんがいらっしゃるのですね?」
「この子を受け取りに、駿府へ行った帰りに、さつた峠をくだったところの倉沢村で、海女のあわび採りを見たのですよ」
「この前、そうおっしゃってました」

参照】2008年1月12日[与詩を迎えに] (23)

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(北斎 海女たち)

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(歌麿 海女たち)

2人づれの客が入ってきた。
おまさは、すっと立っていって注文を板場の父へ通すと、すぐにまた、銕三郎にぴったり寄り添って、話のつづきをうながす。

「このお店は永いのですか?」
「あたしが三つの時ですから、かれこれ、7年になります。それより、与詩ちゃんのお話をつづけてください」
「あは、はは---当人が聞いたら怒るでしょうが、6歳(=当時)にもなっていたのに、お寝しょうぐせがなおらなかったのです」
「まあ---」
相づちの打ち方も、一丁前の女なみである。

板場から、忠助が呼ぶ。
「はい」
と返事して、できあがった酒と料理を客の飯台へ置くと、さっさと銕三郎の横へつく。

与詩ちゃん、いま幾つですか? お寝しょぐせはなおりましたか?」
「8歳です。手習い所へ通っています。お寝しょうのほうは直りました」
「よかった。訊いていいですか? 与詩ちゃんは、お兄さんのお嫁さんになる人ですか?」
「とんでもない。嫁に出す娘(こ)です。武家の家では、そうやって縁をひろげていくのです」
「よかった」

手習い所と言った時、おまさの瞳がちらっと曇ったのを、銕三郎は見逃していない。

ちゅうすけのひとり言】
おまさは、いつ、どうやって字をおぼえたろう? 手習(てなら)い所に通ったふしはない。
鬼平犯科帳』全篇で、おまさは2度、手紙を書く。
最初は、文庫巻4[血闘]で初登場し、下谷・坂本裏町の一間きりの与助(よすけ)長屋に独り住まいをしていてさらわれた時。

〔しぷ江村、西こう寺うらのぱけものやしき〕 p143 新装版p149

かなが主体だが、漢字もまじっている。
池波さんの気持ちとしては、ひらがなとこの程度の漢字なら、見よう見まねで覚えられるということであったろうか。

参照】2007年7月19日[女密偵おまさの手紙

いや、いつも気になっているのは、盗賊たちの識字率である。
連絡(つなぎ)は、口づたえでいいとして、文章で伝えなければならないこともあろう。双方の識字率が高くないと、どちらかが書けても伝わらない。
盗賊になるぐらいだから貧農の子が多かったろうと推察しては、いけないかも知れないが---。
まあ、首領になるほどの男なら、字をおぼえる訓練に耐えたろうか。

もう一度は、文庫巻22[炎の色]で、

おまさが〔笹や〕へ入って行き、
「お熊さん、たのみますよ」
いうや、お熊婆は万事心得て、奥の方を顎(あご)でしゃくった。
おまさは奥へ入り、簡単(かんたん)な手紙をしたためる。
やがて奥へ来たお熊は、その手紙を持ち、弥勒寺へおもむく。 p61 p60

届け先はいうまでもなく、役宅の鬼平
おまさは、天明8年(1788)に登場以来7年目のはずだが、その間に文字を習った気配はないから、この手紙の文章がどんなふうだったかは、おおよそ推測がつく。

ついでに書き添える。おまさがいつも背負って市中を巡回している箱に張りつけられている紙の文字〔まき紙・おしろい・元結(もとゆい)・せんこう〕([血闘]p139 新装版p146)の字は、誰が書いてやったのであろう。

参照】 [おまさ・少女時代] (2) (3) 
[おまさの年譜
[おまさが事件の発端

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2008.05.05

〔盗人酒屋〕の忠助(その7)

腰を折って、おまさ(10歳)の口へ近づけた銕三郎(てつさぶろう 20歳)の耳にささやかれたのは、
「明日も、お越しくださいますか?」
との問いかけであった。
銕三郎は、無意識のうちに、うなずいていた。
もちろん、この店の逸品料理である、あわびの大洗(だいせん)煮を明日は造る---と亭主・忠助(ちゅうすけ 40がらみ)が約したこともあったが、おまさの真剣な口ぶりに気おされたとぃったほうがあたっている。
10歳の少女とはおもえない、迫力であった。

店の前で〔風速(かざはや)〕の権七(ごんしち)と待っていた岸井左馬之助(さまのすけ 20歳)が、
「今宵は、ここで別かれよう。遅い帰りが多くて晩飯を欠かがちにしておるので、倉裡(くり)の大黒のご機嫌がよくないのだよ」

別れてからの銕三郎は、左馬の帰路をたしかめるのが怖くて、振り返らなかった。
左馬が右に押上(おしあげ)への道をとらないで、御旅(おたび)橋へ向かっているように思えたからである。
その先の清水裏町には、お(こん)たちの住む長屋がある。
先刻、〔盗人酒場〕で隣りあって小声で話していた時に打ち合わせができたかもしれない。

その胸の内を察したかのように、権七が、
岸井さまなら大丈夫です。長谷川さまが先ほどおっしゃった、『ふさ(18歳)どのに知れたら、嫌われるぞ』の一と突きがこたえていやすよ」
(そうだと、いいのだが---いや、そうであってほしい)

銕三郎は、14歳の時の芙沙(ふさ 25歳=当時)との一夜、18歳の時の阿記(あき 21歳=当時)との情事は棚にあげて、
左馬は、なにしろ、純情すぎるからな)
と、理にあわない、友情めかしたいいわけをこころの中でくりかえしていた。

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(歌麿『美人入浴』 お芙沙の入浴のイメージ)

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(英泉『玉の茎』部分 阿記との浴中イメージ)

若い時の激情は、友情をすら簡単に超えてしまうものなのに。
そう、若い男の激情に火をつけ、油をぶちかけるのが、女なのだ。

「あっしが心配(しんぺえ)しておりやすのは、岸井さまとお紺じゃねえんで---」
「ほかに、なにか?」
長谷川さまのことですよ」
「拙がなにか?」
「いえね。〔盗人酒場〕のおまさって娘(こ)が、長谷川さまにぞっこんのようなんで---」
「じ、冗談ではありませぬ。おまさどのは、まだ、10(とお)ですよ」
「女の10歳は、気持ちは、もう、りっぱに大人です。もっとも、惚れたとかはれたとかいうんじゃなく---慕わしく感じているってんでやしょうが---」
「いくらなんでも---」
「慕わしい、一刻でも長くそばにいてえ---ってえのが、いつしか惚れたに変わりやすんで。長谷川さまには、女にそう思わせるものがあるんでやすよ。ま、思い違いですめば、言うこたぁねえんですが---」

三ッ目之橋を南へわたると、長谷川邸はすぐであった。
「橋をわたってしまうと、旗本の屋敷ばかりで、あたりにはお茶を飲ませる店もないのですよ」
銕三郎が言うと、
「今夜は、これでお開きにしやしょう。じつをいうと、あっしもこのところ、お須賀(すが 27歳)の奴から嫌味をいわれておりやして。内緒(ないしょ)のを他につくったんじゃねえかって悋気(りんき)で---」
「それは、気の毒なことをしました。お須賀どのには、近く、改めて、お侘びします」
「いいんですよ。女の考えるこたあ、その程度の心配(しんぺえ)ですから---泰平楽ってもんでさあ」
「夜の〔盗人酒屋〕探索は、この先は、拙独りでなんとかなるでしょう。権七どのは、〔須賀〕の客の話にしばらく、耳を研(と)いでおいてください」

翌日---。

午前は、学而塾で竹中志斉(しさい)師の講義の最中に、居眠りをして叱責をうけた。

子曰く、憤(いきどお)らざれば啓せず、悱(ひ)せざれば発せず。一隅を挙げて、三隅を以って反(かえ)さざれば、復たせざるなり。
(情熱がないものは進歩しない。苦しんだあとでなければ上達がない。四隅の一つを数えたら、あとの三つを自分で試してみるくらいの人でなければ、教える値打ちのない人だ。 (宮崎市定『現代語訳 論語』(岩波現代文庫)より)

罰として、これを10回復唱させられた。
(剣術では、このとおりやっておる。捕盗も、そうだ)
銕三郎は、つくづく、自分は漢籍に向いていないとおもった。

午後は、高杉道場で、左馬之助と組太刀を10番こなした。
好きなものは、いくらやっても苦にならない。
もっとも、左馬之助のほうは、昨日の一と言がこたえたか、つねになく、執拗な剣を遣ってきた。

井戸端で汗を落としていると、左馬が、
ふささんが、横川べりの木陰で涼んでいる」

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(春信『水辺の涼み』)

「自分で、声をかけたら---」
銕三郎はそっけなく、とりあわない。

とりあえず自宅へ戻り、夕刻が待たれる。
権七のあんな言い分を聞いてしまった故(せい)だ。今日にかぎって、太陽がゆっくりと移っておる)

夕方が来た。
母に断って、家を出る。
〔盗人酒場〕までは、いまの時計だと、20分とはかからない距離である。
三ッ目之橋をわたっている時、入江町の鐘楼が暮れ六ッ(6時)を告げる。
四ッ目之橋へは10分で着く。

店へ入ってみると、一つ飯台で、3人の男たちが額を寄せ合って話しあっていた。
忠助と、同じような年配だが細身の忠助とは反対にやや太りかけの男、それにもうすこし年配の男である。
こっちをじろりと見た太りかけは、眉の薄い、小鼻の張った男だった。

忠助が、とってつけたように、男たちを紹介した。
太りがはじまっている男は、足利城下から、亡くなった葉造さんのことで見えた、直兵衛と。
50がらみの白髪も少なくなっているほうは、嘉平と。
(それにしては、おどのがいないではないか)

長谷川銕三郎です」
長谷川? いま、火盗改メをなさっている長谷川さまは?」
「本家の大伯父です」
長谷川太郎兵衛正直(まさなお)のことを隠しておいて、あとで露見(バレ)るより、このほうが信用されよう)
とっさに、そう感じた。
その場では、直兵衛が〔法楽寺(ほうらくじ)〕の直右衛門(なおえもん)の変名、そしても嘉平が〔名草(なぐさ)〕の嘉平とは思いもしなかった。

参照】〔法楽寺(ほうらくじ)〕の直右衛門

長谷川さま。ごゆっくり」
男たちは出て行った。入れ替わりに、買いものを言いつかっていたらしいおまさが帰ってきて、銕三郎を見ると、ただでさえ黒々と大きい瞳をさらに大きく見開き、受け唇から、
長谷川さま。いらっしゃいました」
鼻のあたまに小さな汗が浮いている。急いで帰ってきたのであろう。

【参考】 [〔盗人酒場〕の忠助] (1) (2) (3) (4) (5) (6)


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2008.05.04

〔盗人酒屋〕の忠助(その6)

(こん 27歳)も、岸井左馬之助(さまのすけ 20歳)の隣にすわりこんで、さしつさされつ、小声でひそひそとつづけている。

銕三郎(てつさぶろう 20歳 のちの鬼平)は、〔風速(かざはや)〕の権七(ごんしち)に酌をしながら、おがいわゆる、女賊(おんなぞく)なのかそうではないのかを、推量していた。

これまで、男の盗賊には、小田原で会った〔荒神(こうじん)〕の助太郎(すけたろう 45歳?)と娘婿と称していた彦次(ひこじ 25,6歳)がいる。

参照】2007年7月14日~[〔荒神〕の助太郎] (1) (2) (3) (4) (5) (7) 
2007年12月28日[与詩を迎えに] (8)

それと、江ノ島で言葉を交わした〔窮奇(かまいたち)〕の弥兵衛

参照】2008年2月2日[与詩を迎えに] (39)

3人に共通するものを見つけるとすれば、人なつっこさと、話し上手だろうか。

〔盗人酒場〕を仲介にして出会ったのは、目の前にいるおの亭主で、言葉を交わすこともなく卒中で逝ってしまった〔助戸(すけど)〕の葉造(ようぞう 35歳)と、夜道をほんの6丁ほどをいっしょに歩いた〔樺崎(かばさき 35,6歳)〕の繁三(しげぞう)と、その下働きらしい七五三吉(しめきち)とかいう20歳前とおぼしいの、それと、おまさの父親の忠助(ちゅうすけ 40がらみ)---〔荒神〕や〔窮奇〕とF
とは反対に、そろって口が重い。
---ということは、盗賊だからといって共通点はなく、人それぞれということなんであろう。

(まあ、深く立ち入ってみれば、盗みの道へ入った動機や経緯には似たところがあるかもしれないが---)

おまさは、いくつもない飯台をととのえたり、表の看板行灯に灯をいれたりと、せわしなく働いている。
ひとり、放っておかれていたおすみが、お手玉にも飽きたらしく、ぐずり始めた。
が、左馬之助に断り、銕三郎へもあいさつをし、手をつないで帰って行く。

っつぁん。お紺さんが、ご亭主の骨を、足利(あしかが)在へ埋めに行くらしい」
左馬さんもいっしょに行くのか?」
「考えておく、と言っておいたんだが---」
「桜屋敷のふさ(18歳)どのに知れたら、嫌われるぞ」

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(春信 ふさのイメージ)

「おふささんて、岸井さまのいい女(ひと)なんですか?」
おまさが、耳ざとく、ませた口をはさんできた。
「いまはまだ、片思いですがね。いずれ、そうなるでしょう」
銕三郎が冷やかすと、左馬がまごまごして、
「いまは、剣の道をみがくのに精いっぱいで---」
岸井さま。足利は遠いですよ。江戸から20里。おみねさん連れだと、1日5里と見ても、行きに4泊---雨でも降った日にゃあ、5泊6泊になるかも」
権七もからかう。
「変な話。いやらしいったらありゃしない」
おまさが、いっぱしのむすめのような口調で言い、つんとして調理場へ消える。

忠助が、燗のできたちろりを黙って飯台に置いた。
そのまま横に立って目を伏せていたが、やがて、すぅーと板場へ引っこんだ。
銕三郎は、それで、あの晩、おの台詞(せりふ)を思いだした。

(「甘いものに、まるで敵(かたき)みたいに目がない亭主(ひと)だった---そのうえに、お酒もきりがなくって---躰に毒だったいくら言っても聞くものですか---小水にまで蟻(あり)がむらがるようになってきていて、躰もがたがた、亭主としての役(えき)もできなくなっていたのに---いつかは、こんなことになると、恐れていたんだ、わたし---」 ということは、寝間でもかまってもらえなかったということか? 忠助どのが言おうとして言わなかったのは、亭主じゃない男(の)と---噂がないわけではないということ?)

左馬さん。帰ろうか」
銕三郎は、河岸を変えて---と思った。
権七も呑みこんだ感じだった。

勘定を受けとったおまさが、釣りをわたしぎわに、背伸びして口を寄せてきたので、銕三郎は腰をかかがめた。
その耳へ、おまさがささやく。

【参考】 [〔盗人酒場〕の忠助] (1) (2) (3) (4) (5) (7)

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2008.05.03

〔盗人酒屋〕の忠助(その5)

6日後の夕刻---。

3人が、〔盗人酒場〕にあらわれた。
もちろん、銕三郎(てつさぶろう 20歳 のちの鬼平)、岸井左馬之助(さまのすけ 20歳)と〔風速(かざはや)〕の権七(ごんしち 33歳)である。

先に紺麻地の暖簾を割って銕三郎が顔を見せると、おまさが、すぐ、気づいて、
「いらっしゃいました」
浮き浮きした声で、迎えた。

ちゅうきゅう注】「いらっしゃいませ」でなく、「いらっしゃいました」という迎えのあいさつは、東京でも歴史の古い山の手の旅館の老女将が、戦後10年ばかり経った当時も使っていたので、おまさに言わせてみた。おまさの亡母・お美津(みつ)は、忠助と同郷の下総(しもうさ)・佐倉在---酒々井(しすい 現・千葉県印旛郡酒々井(しゅすい)町酒々井)の出身だが、本郷あたりの老舗で仕込まれた女(ひと)ということを暗示したくて。
【参考】 酒々井町Wikipedia

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(下総(しもうさ)国印旛郡酒々井=赤○ 佐倉=黄〇)

いつものとは違ったおまさの張りのある声の感じに、板場にいた亭主・忠助も店のほうをのぞき、3人を認めると出てきて、先日の礼を述べる。
「その場にいた者なら、しなければならないことをしたまでです。ご放念ください」
銕三郎の武家らしくない謙遜した言葉が、忠助をさらに恐縮させた。

おまさ。おさんに、お武家さんたちが見えたと、伝えておいで。いや、なに、おさんが、ぜひにも、お礼を申しあげたいって、ね」
おまさが、いそいそと飛び出す。

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(北斎[川岸の突風]部分 おまさのイメージ)

「亭主どの。いいむすめごですね。母ごはいらっしゃらないようだが?」
「お分かりになりますか? おまさが5歳の時に病死しまして---。以来、あれが嬶(かかぁ)の代わりみたいなもので。あの齢で、繕いものもやってくれるので、ついつい、後添えをもらう気もうせちまって---」
「おいくつです?」
おまさですか? 10歳になります。縫いものを、いま、おさんに習っております」

(こん 26歳)がおみね(6歳)とともにやってきた。
礼とおくやみの応酬がひととおりすんだあと、銕三郎がさりげなく訊く。
「物井(ものい)のお生まれとおみねどのから聞きましたが、下総国印旛郡(いんばこおり 現・四街道(よつかいどう)市物井)の? だったら、左馬さんの臼井に近い---」

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(下総・物井=緑○ 佐倉=黄〇 臼井=赤○ 明治20年刊)

「いいえ。下野(しもつけ)の物井(現・栃木県芳賀郡二宮町物井)でございます」
「ほう。下野にも物井村がありましたか」

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(下野・物井=緑○ 真岡=黄色〇 明治20年刊)
Wikipedia 物井

助戸(すけど)〕の葉三(ようぞう 35歳)が〔盗人酒場〕の店の中で卒中で歿した翌日、銕三郎は、火盗改メ方の次席与力・高遠(たかとう 41歳)から、物井村は、下総と下野の2国にあることを聞いていた。

「助戸」と、「名草(なぐさ)」、「樺崎(かばさき)」、「法楽寺(ほうらくじ)」の名は、伏せた。
理由は、もうすこし探索してからということもあるが、忠助おまさをかばうためのような気がして、自分でも割り切れていない。
もちろん、それらが足利藩内の村落名であることは、父・平蔵宣雄から教えられている。

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(足利城下の法楽寺とその近辺 明治20年刊の地図)

「おさむらい(侍)のにい(兄)ちゃん。おっかぁ(母)は、ものい(物井)にはかえ(帰)らないよ」
「それでは、おみねどのが母上の頼りになるように、しないといけないね」
「うん」
おまさ が言いなおしをさせる。
おみねちゃん。そうします---でしょ」
おみねどのは---そうちます」
「えらい!」
大声をあげたのは左馬之助であった。
が、半泣きの顔を伏せる。

おまさが手際よく、燗をしたちろりと大盃を配膳する。
「おさん。慈眼寺の住職が、過分のお布施をいただいたと、春慶寺へきて申しておりましたぞ。手前の顔も立ちました」
左馬之助が、恥ずかしそうな口調でだが、めずらしく世慣れた文句を言った。
あの夜、慈眼寺からの暗い夜道を帰りながら、こころが通じるものがあったのかも知れない。
世慣れている権七が、おに盃を持たせ、酌をするよう左馬之助をせかした。

調理場から忠助が、あわびの酒蒸しをもって出てきた。
「あわびの大洗(だいせん)煮は、明日ってことにしておりますので、明日もおいでください」
まさが、銕三郎に盃を持たせ、酌をする。
忠助が横目でそれをみて、かすかにぎょっしたようだ。
おまさ が客に酌をするのを、初めてみたからである。
平仮名のちゅうすけには、権七がかすかにうなずいたようにも見えたのだが---。

おまさに注がれた大盃だが、この時期の銕三郎はまだ酒に強くないので、そっと飯台にもどす。
「お酒がすすみませんね」
おまさが、心配げに訊く。
「家では、父上がたしなまれないのです」
「お酔いになったら、おまさが介抱してさしあげます」
(どこかでも、そう、いわれたな。そうだ、2年前、箱根の芦ノ湯の湯治宿〔めうが屋〕の離れで、だった。言ったのは、阿記(あき 21歳=当時)だったか、女中頭の都茂(とも 42歳=当時)だったか)

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(国芳『江戸錦吾妻文庫』 都茂のイメージ)

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(国芳『江戸錦吾妻文庫』 阿記のイメージ)

【参考】 [〔盗人酒場〕の忠助] (1) (2) (3) (4) (6) (7)

ちゅうすけ注】 下総国の物井は、関東・物部(もののべ)によるとも、千葉孝胤の三男の物井殿に由来しするともいわれている。
下野(しもつけ)国の物井も、関東・物部によるとの説がある。二宮町の町名は、荒れ田復興を指導した二宮尊徳にちなんだものか。


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2008.05.02

〔盗人酒屋〕の忠助(その4)

銕三郎(てつさぶろう 20歳 のちの鬼平)が〔盗人酒屋〕へ戻りついてみると、店の常連客らしい数人が、戸板に骸(むくろ)となった〔助戸(すけど)}の葉造(ようぞう 35歳)を載せているところだった。

入っていった〔樺崎(かばさき)〕の繁三は、
「〔助戸〕の---」
と言っただけで、手をあわせ、傍らについているお(こん 27歳)に深く頭をさげ、調理場の入り口に立っていた忠助へ、
「〔名草〕(なぐさ)のには---」
といいかけた。
と、忠助が調理場へ首をかたむけ、繁三をうながして、先に消えた。

ぼんやりとつっ立っている岸井左馬之助(さまのすけ 20歳)に、
「慈眼寺のほうはうまく運んだのかな?」
「ああ。仏を、快く預かってくれることになった」

が寄ってきて、
「いろいろとお世話になり、ありがとうございました」
頭を下げる。
おみねどのから聞きました。仏は、呉服の反物を手びろく行商なさっていたそうで---」
「はい。ご注文をいただくと、わたしが仕立てておりました」
「これからが、たいへんです。お疲れのでませぬように---」
おみねと、2人で、なんとか---」
「お気をしっかりと。おみねどののためにも---」

左馬さん、拙たちはもう用ずみだ。おまさ(10歳)どの。取りこみ中のようなので、お父上にはあいさつをしないで失礼をば。落ち着いたころ、また、手料理をいただきにまいると、お伝えください」
おまさに、こころづけを足した飲食代をわたし、〔風速(かざはや)〕の権七(ごんしち 33歳)に目で合図して店を出ると、表までおまさが提灯を持って送ってきて、
「お客さま方。なにかとお力をお貸しいただき、ありがとうございました。お気をつけてお帰りください。提灯は、またのまお越しの時で結構ですから、お使いください」
まるで、女将(おかみ)のように口上をのべる。

左馬之助などは、どぎまぎと、言葉にならないことを口ごもっている。
「では、拝借させていただく。今夜は、いろいろ、不躾もあったが、お許しいただきたい」
そう言う銕三郎に、おまさは初めて受け唇から白い歯をみせて微笑んだ。10歳の小むすめとはおもえないほどの艶やかな微笑みであった。

竪川ぞいに歩きながら、銕三郎が、
左馬さんは、呑みなおしをしたかろう。この時刻です。権七どの、〔古都部喜楼〕にしますか、それとも、二ッ目まで足をのばして、〔五鉄〕に?」
「〔古都舞喜楼〕では足ばかりか、目玉まででやすよ。〔五鉄〕にしやしょう。それとも〔笹や〕のお婆ぁさんをたたきお起しますか?」
権七どの。冗談がすぎます」
「あは、ははは」
「ふふ、ふふふ」

Photo
(竪川ぞい 〔古都舞喜(ことぶき)楼 〔五鉄〕)

参考】 [〔盗人酒場〕の忠助] (1) (2) (3) (5) (6) (7)

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2008.05.01

〔盗人酒屋〕の忠助(その3)

忠助(40がらみ)の〔盗人酒屋〕を出た5人は、竪川(たてかわ)に架かる四ッ目の橋をわたり、本所から深川へ入っていた。
田んぼの畔(くろ)につくられた南にまっすぐにのびている道である。
昼間なら左手に広い猿江御材木蔵の樹林がのぞめるのだろうが、星明かりでは冥(くら)い気配でしかない。

行く提灯は2個。 
一つはおまさ(10歳)が銕三郎(てつさぶろう 20歳 のちの鬼平)の足元にさしかけている。

もう一つは、岸井左馬之助(さまのすけ 20歳)が、お母子を導いている。

(26,7歳)は、左馬に語りかけるというより、自分に愚痴っているのだ。何か言っていないと落ち着かないのであろう。
「甘いものに、まるで敵(かたき)みたいに目がない亭主(ひと)だった---そのうえに、お酒もきりがなくって---躰に毒だっていくら言っても聞くものですか---小水にまで蟻(あり)がむらがるようになってきていて、躰もがたがた、亭主としての役(えき)もできなくなっていたのに---いつかは、こんなことになると、恐れていたんだ、わたし---」

御材木蔵の南はずれをすぎた三叉路で、銕三郎おまさの組はそのまま直進して小名木川(おなぎがわ)土手を右に折れる。
母子と左馬之助の組は三叉路を左へとって、慈眼寺の山門へ行く。

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(慈眼寺 小名木川 横川 猿江橋 新高橋 扇橋 尾張屋板)

その三叉路で、それまで、一と言も口をきかなかったおみね(6歳)が、
「わたち、まさねえちゃんといっしょに、行きたい」
の気持ちが動揺しているのに、幼いながらに、耐えられなくなったのだ。
母親も、うわの空で、
「そう、おし」

銕三郎・おまさ・おみねは、左手に曲がったお左馬之助を見送ってから、扇橋へ向かう。

銕三郎が、
おみねどのは、父上の親御どのの家のある助戸(すけど)へ行ったことがありますか?」
「ううん」
おみねちゃん。ありません、でしょう?」
おまさが齢上らしく教える。
「---ありましぇん」

「お父上の名は?」
「〔ようぞう---ようは、おかいこ(蚕)さんがすきなくわ(桑)のは(葉)っぱだって」
(そういえば、おも、〔助戸〕は村落名だと言っていた。仲間内の、いわゆる、通り名なのだ)
「そうか。葉造さんか。足利(あしかが)では、絹糸をつくっていたんだ」
「ちがう。父(と)っちゃんは、べべ(呉服)をう(売)った」
「売っておりました、でしょう?」
「---おりましゅた」
与詩とやった道中の再現だな)

「売っていたのは、ご府内で?」
「ちがう。あちこち。だから、いないこと、ばっかし」

小名木川の北堤へ出る。
左に折れると、名高い五本松に行き着く。
銕三郎たちは逆に右へあゆむ。

小名木川の音もなくゆっくりと動いているいる流れは、いまの時刻は、大川の方へだろうか、中川口へだろうか。目をすましても見えない。
舟行灯をつけた西行きの舟と並ぶように、銕三郎たちも小名木川が横川と交差する猿江橋へ。
おみねは、おまさの手をしっかり握っている。

おまさどの。扇橋の繁三というのは?」
「おみねちゃんのお父っつぁんのお友だちです」
「すると、呉服のほうの?」
「それは知りません。うちの店で、よく、いっしょに呑んでいました」
「じゃ、呑み友だちなんだね」

とつぜん、おみねが口をはさむ。
「仕事仲間でしゅ」
「ほう、仕事仲間---?」
おみねちゃん。たしかじゃないことを、よその人に言ってはいけません」
「たしかでしゅ」
それきり、おまさは口をつぐんでしまった。

(深入りしすぎて、警戒されたかな。それほども深入りしたとはおもえないが---)

小名木川を横ぎっているのが横川である。
西のかなたにある江戸城に対して、横(南北)に流れているようにつくられた。

こちら側から小名木川の対岸へ行くには、猿江橋、新高橋と¬(かぎ)の字にわたり、さらに扇橋へという手間をとる。
3橋のとっかかりの橋行灯が、ぼんやりと所在を教えている。

猿江橋の手前で、おまさが、
「お客さん、提灯をお持ちになって、ここで、おみねちゃんとともに待っていてください。これは、点(とも)し替えの代わりの蝋燭です」
たもとからの蝋燭を一本よこすと、さっさと猿江橋をわたって行った。
銕三郎に有無をいうすきを与えないほどに、水際だった行動であった。

待つあいだに、銕三郎は、おみねに話しかけてみた。
おみねどのの母上も、助戸の生まれかな?」
「ちがう---ちがいます」
「ほう。どこかな?」
「ものい、でしゅ」
「ものい?」
「うん---そうでしゅ」

(ものい---とは、どんな字なのだろう。「もの」は「物」として、「い」は「井」でいいのかな? それとも「物言(ものいい)」をおみねが言いちがえたか?)

おまさと男2人があらわれた。
提灯の明かりがとどくようになると、35,6歳にみえるほうに、おみねが呼びかけた。
「かばちゃき〔樺崎〕のおじちゃん」
男は銕三郎に目礼をしただけで、無言のまま先に立って歩きはじめたので、みんなしたがった。

銕三郎は、
(死んだ男が〔助戸(すけど)〕の葉造(ようぞう)、それと関係のあるのが〔法楽寺(ほうらくじ)〕、この男は〔樺崎(かばさき)〕の繁三(しげぞう)---それと、〔名草(なぐさ)〕のなんとやら---明日にでも、高遠(たかとう 41歳)〕次席与力にたしかめてみよう}
反芻しながら、先を行く〔樺崎〕の幅のひろい背をみている。


【参考】 [〔盗人酒場〕の忠助] (1) (2) (4) (5) (6) (7)

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2008.04.30

〔盗人酒屋〕の忠助(その2)

「あっ、〔助戸(すけど)〕の---)
板場から忠助(ちゅうすけ)が、倒れた男にすばやく駆け寄り、おまさに命じた。
「お(こん)さんに、報らせに行け!」
おまさが飛び出して行く。

【参照】 〔鶴(たずがね)〕の忠助

三和土(たたき)に、仰向けに倒れている、〔助戸〕のと呼ばれた太めの男は、かすかにいびきをかいているが身動きもしない。
頭の近くに、落ちて割れた深盃が散っている。

「ご亭主。動かしてはいけねえ。卒中のようだ」
風速(かざはや}の権六(ごんろく)が、抱きおこそうとした忠助をたしなめ、まげたままの右足を、そっとのばしてやった。
「箱根の荷運び雲助で、このように呑み屋で倒れたのを何人も見ておりやす。そっとしておいて、医者を待ちやしょう」
権七に、忠助がうなずいた。

「ご亭主。近まに本道(ほんどう 内科)の医者は?」
岸井左馬之助(さまのすけ 20歳)が訊く。
「すぐそこの、柳原6丁目の田中稲荷の西隣に、了庵先生がおられます」
「あい分かった。連れてくる」
左馬之助も店を出た。

「ご亭主どの。この〔助戸〕どのの家は、ここから---?」
「前の道を竪川(たてかわ)沿いに3丁ばかり東へ行って、御旅(おたび)橋をわたった左手、清水町の裏長屋で---」
「むすめごは、おまさどのと言いましたな。迎えに行ってこよう」

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(田中稲荷西隣の了庵医師 御旅橋、清水町 尾張屋板)

銕三郎(てつさぶろう 20歳 のちの鬼平)が2丁も行かないうちに、向こうから提灯も持たないで駆けてくるおまさと、女房風と5,6歳の女の子に出会った。
おまさどの」
「あ、お客さん。おおばさんと、おみねちゃんです」

参照】 [女賊おみね]

「急いで。いま、左馬了庵先生を迎えに行っております」
銕三郎は、息をきらしているおまさの手を引っぱるようにして、〔盗人酒屋〕へとって返す。

〔盗人酒屋〕の行灯の下で見ると、細面の お紺は27,8歳らしかった。こころを乱してはいるが、場所柄はきちんと心得ている。
母親に手をにぎられているおみねは、勝気そうな表情で父親を見下ろしている。

医師の了庵が、左馬之助に導かれて入ってきた。

おまさ が、〔助戸〕の顔のまわりに散っていた深盃の破片をつまんで調理場へ持ち去り、代わりに新しい行灯に灯(ひ)をいれて、〔助戸〕の顔の近くに置く。
(齢端(としは)もゆかないのに、よく、気のまわる子だな)
銕三郎は、さっき、握って走った掌(てのひら)にのこっている、おまさの小さな指の感触を思い出しながら、
(こんな時に、不謹慎な---)
と自戒する。

みんなが見守るなか、了庵は〔助戸〕の鼻に掌をかざし、さらに左首の脈をたしかめ、首をふった。
「お前さんッ!」
が悲鳴のような声をあげた。しかし、泣かない。くいしばって悲しみに耐えている。
おみねは、母親にしがみついて、亡骸(むくろ)となった父親から目をはなさない。
忠助を見習って、銕三郎なども仏になったばかりの遺体に合掌する。

「おさん。突然、気の毒なことになった。まあ、うちで仏になったのがせめてもの慰めだ。〔法楽寺(ほうらくじ)〕のほうへは、〔名草(なぐさ)〕のから報らせてもらおう」

参照】 〔法楽寺(ほうらくじ)〕の直右衛門

さらに、おまさに、
「深川・扇町の繁三さんのところは知っているな。夜道ですまないが、このことを告げて、手配を頼むと、わしが言っていたと伝えてきてくれ」
おまさ は、殊勝に、こっくりうなずいた。

「亭主どの。夜道には堀川もあって危ない。拙がつき添っていこう」
銕三郎が申し出た。
「初めて来ていただいたお武家さまに、そのようなご迷惑ごとは---」
「かまわぬ。このあたりの地勢には通じておる」
「では、お言葉に甘えさせて貰います。行っておいで、おまさ

っつぁん、ちょっと待ってくれ」
左馬之助が声をあげ、忠助に、
「ご亭主。いま、法楽寺とか耳にしたが、仏の菩提寺かな?」
「いえ。仏は、下野(しもつけ)国足利郡(あしかがこおり)の助戸村の出です。その隣村が法楽寺と聞いております。そうだったな、おさん?」
が意志のない人形のようにぎこちなくうなずいた。

「客商売のここへ、仏をこのまま置いておくわけにはいくまい。内儀。荼毘(だび)に付すまで、内儀のところへ移すか、それとも寺へ預けるか?」
「さすがに、寺へ寄宿している左馬さんらしい気の利(き)きようです」
「うちには無理です。しかし、お寺さんといわれても、ご府内には知り合いはございませんし---」
が眉を寄せた。

「ご亭主は---?」
「生憎と、この近所には、お寺さんがなくて---」

「それでは、どうであろう。手前が寄宿している寺は日蓮宗だが、そのつながりで、深川・猿江のご公儀の材木蔵の先の慈眼寺の住持を存じておる。よろしければ、扇町への道すがらなので、これから、内儀も、っつぁんといっしょに、そちらへ参ろうではないか」

ちゅうきゅう注】慈眼寺は、明治45年(1912)に谷中・妙伝寺と合併して、豊島区西巣鴨4の8へ移転。寺号は未詳。

【参照】 [〔盗人酒屋〕の忠助] (1) (3) (4)  (5) (6) (7)

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2008.04.29

〔盗人酒屋〕の忠助

本所・四ッ目の〔盗人酒屋〕を探ってみよ---と、火盗改メのお頭(かしら)・長谷川太郎兵衛正直(まさなお 57歳 1450石余)からじきじきに言われた銕三郎(てつさぶろう 20歳)は、その諸掛かり費として3両わたされた。

いうまでもないが、太郎兵衛正直は、長谷川一門の本家・当主であり、銕三郎には大伯父にあたる。
正直は、銕三郎が身につけている捜査への目のつけどころと、なみなみでない熱意をみとめて、職制外の要員に登用したのである。

参照】長谷川太郎兵衛正直 [〔荒神〕の助太郎] (10)
[明和2年の銕三郎] (1)
[十如是](3) (4)

3両は、いま(物価暴騰寸前の2008年4月下旬)の価値に換算すると、30万円前後とおもっていい。
もっとも、流行作家になって以後の池波さんの換算率は、これよりもかなり甘い。

篇名(巻数-順)    初出年   1両換算
[1―5 老盗の夢]   1968    4~5万円
[3―3 艶婦の毒]   1969    6万円
[9―2 鯉肝のお里]  1972    7~10万円
[19―1 霧の朝]     1978    10万円
江戸切絵図散歩]   1987    20万円

このところの学会は、池波さんの直感よりもうんとしわく、1両を10万円前後にみているので、今回の換算はそれにしたがっておいた。最近の物価上昇で、いずれ、訂正せずばなるまいが。

銕三郎は、3両のうちの2両を〔風速(かざはや)〕の権七(ごんしち)の掌(てのひら)へのせて、
「あまったら、お須賀(すが)どのと、芝居へでも行くたしにしてください」
「こんなにいただいちまっちゃあ、申しわけありやせん。せめてこれで、於嘉根(かね 2歳)さまへ髪かざりでも---」
返そうとする1両を、さえぎって、
「そちらは、母上がこころがけてくださっているから---」

〔盗人酒屋〕と親しくなる手はずを、あれこれ案じてみた銕三郎は、権七にひと役買ってもらうのがもっとも自然にいけるとの結論に達したのである。

が、権七の住まい兼呑み屋である〔須賀〕から、四ッ目の〔盗人酒屋〕へは、20丁(2kmほど)はある。
ちょっと気に入ったから立ち寄ってみた---という口実は使えない。

それで、腹をこわして寝ている銕三郎から、押上の春慶寺へ寄宿している岸井左馬之助(さまのすけ 20歳)への届けものをした帰り道に、行灯看板が目にとまったので入ってみて、気にいったという筋書きにした。

参照】[岸井左馬之助] (1) (2)[岸井左馬之助とふさ]

もちろん、その口実は、〔盗人酒屋〕の主(あるじ)のほうから訊いてくるまで、言いだすものではない。

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(北本所の図 尾張屋板)

最初の夕刻は、2合の酒と、あわびの大洗(だいせん)煮をとり、小半刻(こはんとき)で引きあげた。
2日おいて、また、酒2合と、あわびの大洗煮を注文したら、10歳ほどの、目のぱっちりした小女から、
「きょうは、大洗煮はありません」
と言われた。
「それゃあ残念。おすすめは---?」
「おすすめというのではなく、あるのは、あわびのわたの煮込みと、胡瓜もみだけです」
「わたの煮込みでいこう。ここのむすめさんかい?」
まさです。板場にいるのが、お父(と)っつぁんです」

参照】 [女密偵おまさ]
 [おまさの年譜]
[おまさが事件の発端]
 [テレビ化で生まれたおまさ]

忠助と名のった40がらみの主(あるじ)は、5尺8寸(1m75cm)はありそうな、鶴をおもわせる長身の男であった。

参照】  [〔鶴(たずがね)〕の忠助] 

「わたの煮込みに、味醂がほどよく効いている」
権七のお世辞にも、ちらっとうなずいただけであった。

3日おいて、こんどは、店に入る前に麻地暖簾を割って、
おまささん。きょうは、あわびの大洗煮はあるかな?」
先に声をかけてみた。
おまさが首を横にふったので、
「あすは?」
忠助がうなずいた。
「では、あす」
そのまま、帰った。

翌日、権七は、銕三郎左馬之助を伴ってあらわれた。2人とも浪人風に着流しである。

「あわびの大洗煮を、ぜひ、この2人に味あわせたくてね」
忠助がはじめて笑顔を見せた。
出されたあわびを箸でつまんだ銕三郎が訊いた。
「どこのあわびですか?」
「浦安の浜です」
「浦安にも海女が?」
「はい。お武家さまは、どこで海女をご覧になりましたか?」
「東海道の倉沢でした」

参照】2008年1月12日[与詩を迎えに] (23)

「ああ。あのあたりは海女が名物です」
「ご存じで?」
「はい。若いころに、上り下りしたもので」

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(北斎「倉沢の海女」)

権七左馬之助は、話にくわわらないで、もっぱら、呑み、かつ、食べている。
おまさが、父親と銕三郎の会話を、目をかがやかせて聞いている。

----と、瀬戸物が割れる音ととともに、人が転んだ。

【参照】 [〔盗人酒場〕の忠助] (2) (3) (4) (5) (6) (7)


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2008.04.28

ちゅうすけのひとり言(11)

長谷川平蔵宣以---いわゆる鬼平---の20歳のころ、といえば、明和2年(1765)だが。
そのころ、盗賊たちはどうしていたかを見るために、まず、〔舟形(ふながた)〕の宗平(そうへえ)と〔初鹿野(はじかの)〕の音松(おとまつ)を登場させてみた。

基準としたのは、火盗改メの任に就いていた時の、平蔵の年譜である。

天明6年(1786)
     7月26日 (41歳)先手弓組頭
 〃7年(1787)
     9月19日 (42歳)火付盗賊改メ(助役)
 〃8年(1788)
     4月28日 (43歳)火付盗賊改メ(助役)免
 〃  10月 2日     再び火付盗賊改メ(本役)
 〃  12月23日     長男:辰蔵、お目見
寛政2年(1790)
    10月16日 (45歳)捕盗そのまま勤むべし
 〃  11月14日  人足寄場発議の件で時服2領、黄金3枚賜る
 〃3年(1791)
    10月21日 (46歳)捕盗、明10月まで勤めよ
 〃4年(1792)
     6月 4日 (47歳)人足寄場免。
             捕盗はそのまま。黄金5枚。
 〃  10月19日  捕盗加役、明3月まで勤めよ。
 〃5年(1793)
    10月12日 (48歳)捕盗、明10月まで勤めよ。
 〃6年(1794)
    10月13日…(49歳)火賊捕盗命ぜらる。
 〃  10月29日……時服3領を賜る。
 〃7年(1795)
     4月   (50歳)病に倒れる。
     5月 6日 家斉、側衆加納遠江守を経て高貴薬・瓊玉膏を賜
            う。
           辰蔵が受領に加納屋敷へ。
          実母死。
     5月 8日 辰蔵、父のお蔭もて両番となる。
     5月10日 薨じたが喪を秘す。海雲院殿光遠日耀居士。
     5月14日 同役彦坂九兵衛岩本石見守を名代として
         お役御免を願う。