2009.11.23

京都町奉行・備中守宣雄の死(4)

(旧暦)安永2年6月22日

幕府が10数年がかりで編纂した『寛政重修l諸家譜』に記されている、京・西町奉行・長谷川備中守宣雄(のぶお 55歳)の逝去日であることは、これまで何度も告げてき、さらにこれが実際の卒日ではなく、幕府への諸手続きをとどこおりなくすますための公けの歿日であることも報じてきた。

実際の歿日を推測するただ一つの手がかりは、香華寺・戒行寺(新宿区須賀町9)の霊位簿にある、

6月12日歿

これがもっとも史実に近いとおもわれるが、宣雄が歿したのは江戸においてではなく京師であり、戒行寺には、後日、納骨された。

いちおう、一鬼平ファンとしては、6月12 日で納得しておきたい。

想像するに、銕三郎(てつさぶろう 28歳)は、<この日の亥の刻(夜10~12時)>として、江戸の三ッ目通りの屋敷で留守宅を守っていた備中守宣雄の内妻・(たえ 48歳)と、本家の当主・長谷川太郎兵衛正直(まさなお 63歳 先手・弓組頭)には、早飛脚でことを報せたろう。

忌日をめぐって、ずっとこだわっていることがある。


江戸時代の初期から幕末まで、幕府役人の任免記録を役職別に分類した『柳営補任』の記録がそれである。

長谷川平蔵宣雄(備中守)
明和9年(1771)10月15日御先手加役ヨリ
安永2年(1772)7月17日卒


山村十郎右衛門良旺(信濃守)
安永2年(1772)7月18日御目付ヨリ
同  7年(1777)7月20日御勘定奉行 

ちゅうすけ注】(  )内の官名は町奉行着任後に贈られたもの。

なんと、宣雄の卒日が『寛政譜』のそれよりも1ヶ月近くも遅らされている。
後任・山村十郎右衛門良旺(たかあきら 45歳 500石)の発令の前日である。

備中守宣雄が卒したことは、『徳川実紀』には記されていないが、山村良旺の発令は、『柳営補任』のどおりに記載されている。

それで、京で任期中に卒した町奉行の忌日はそのようにしているのかと、あたってみた。

もっとも近いのは、備中守宣雄と同時期に東町奉行だった酒井丹波守忠高(ただたか 没年62歳 1000俵)である。

酒井然右衛門忠高(丹波守)
明和7年(1770)閏6月3日奈良奉行ヨリ
安永3年(1773)3月6日卒


赤井越前守忠晶
安永3年(1773)3月20日御先手加役
天明2年(1782)1月25日御勘定奉行

赤井越前守忠晶(ただあきら 45歳=着任時 1700石)の発令は『寛政譜』のとおりであり、酒井忠高の公式卒日から17日後である。
その間に、継飛脚が往復はする余裕は十分にあった。

もう1例、あげよう。
備中守宣雄と同じ西町奉行である。

井上太左衛門正貞(志摩守 重次)
延宝7年3月4日御先手ヨリ
元禄2年11月12日卒


小出淡路守守秀strong>(守里)
元禄3年1月11日御書院番与頭ヨリ
同  9年5月25日辞

寛政譜】とつきあらせたところ、井上志摩守(丹波守)重次(しげつぐ 没年60歳 3000石)の歿日は22日となっていたが、それにしても、後任の発令まで2ヶ月近くある。

宣雄の分だけが遅らせられた理由は、依然として不明である。

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2009.11.22

京都町奉行・備中守宣雄の死(3)

このタイトルの項(1)で、鬼平こと平蔵宣以(のぶため 享年50歳)の死後、家督した宣義(のぶのり 30歳=寛政11年)が『寛政重修l諸家譜』編纂の基材として上呈した[先祖書]を引き、備中守宣雄(のぶお 享年55歳)が逝去前に、銕三郎(てつさぶろう 28歳)への家督相続を老中に願っていたかのように記していたことをとりあげた。

父・備中守宣雄、京都(西)町奉行を相勤めておりました節、
安永2年(1773)癸巳(みずのとみ)6月21日、京都のご役宅で卒、
同年9月8日、父が願いおきましたとおり、跡目菊之間で
(老中)板倉佐渡守(勝清 68歳 上野国安中藩主 2万石)より
伝えられた。

備中守宣雄の逝去のとき、辰蔵は4歳であったから、経緯のはっきりした記憶はなかったろう。
成人するどの段階かで、父・平蔵宣以か母・久栄から聞かされていたのを、[先祖書]の記したとおもわれる。

_100滝川政次郎先生『長谷川平蔵 その生涯と人足寄場』(朝日選書 のち中公文庫)は、京都在住の牢人・岡藤利忠が書いた『京兆府尹記事』を引き、宣以の機転と利発のあかしとされている。
長くなるが、現代語に置き換えて資として供してみる。

(宣雄が逝去したとき)息子・銕三郎は父に同伴する形で京都にいた。(中略=原著)

まだ、跡目顔いを呈していなかったので、家士たちが銕三郎に、「末期願いの取りはからいを相役の東町奉行の酒井丹波守忠高(ただたか 62歳 1000俵)どのにお願いしました」ことをを告げた。(中略=同)

末期願いは、死去の節は、継嗣のだれそれへ跡式を継がされたくと願いおくことで、それにはお目付役の判元見届が必要なので、「酒井奉行どのが入来されます」と。(中略)

ちょうど、在京している目付役が大坂へ出張中であったので、相役・酒井丹州が判元見届けにやってきた。

ちうすけ注】東・西の京都町奉行の役宅は、3丁と隔たってはいない。

そこで、家士がへ銕三郎にすすめた。
「判元見届けをする役を、誰にかお申しつけになってください」
銕三郎は十三歳(原文のまま)であったが才智抜群で、凡慮の者は及ばないほどであった。
銕三郎は笑って言い放った。
「実子がいるのに、どうして見届の人を臥床へ入れる理由があるものか。拙みづからが応対しよう」

そうはいっても、幼年の銕三郎の言い分なので、家士たちは安堵せず、再度、説得ほ試みたが、聞き入れない。 

仕方なく、ことの次第を東町奉行宅へ参じて酒井丹州に告げた。
「長谷川家のためをおもってのおのおの方の忠告とこころえた。悪くははからわないから安心しておられい」

酒井奉行は西町奉行の役宅に来、
「判元を見届けいたそう」
言いながら案内を求めた。

麻裃で式台で迎えた銕三郎は、
「父の名代として、ここで印形をいたしましょう」
「なるほど。実子どの調印なさるのであれば子細はないが、先例では本人の臥床にいたり、調印を見とどけることになっておりますぞ。それゆえ、この度もそのように致されませぬと、ことが荒立ちます。ご幼年ゆえに案じておられるのであろうが、この丹州を信用なされて、おまかせあれ」

「先例にそむいたときはご役義がはたされないとのお言葉、一見、理があるやに聞こえますが、臥床にいらっしゃっても、お役義が勤まるとは申せませぬ。父・備中守が死去しているので、夜具の袖から代人が印形を捺したものをお持ちになると、後日、そのことが発覚しましたならば、丹州さまのお手落ちということになって、お家がとりつぶされるやもしれませぬ。それより、実子が代印したので、 一応、備中守へは挨拶だけしておいたとお届けになれば、後日露顕しても、、私の不調法とということですみ、丹州さまへはおとがめはありませぬ」

丹州は横手を打って、
「才子なるかなく。その明智に従うべし」
といい、13歳平の銕三郎に教られ、60歳を超えていた丹州も、その言葉に従い、遺願書を持ちかえって、所司代・土井大炊頭利里(としさと 52歳 古河藩主)へ届けた。


このとき、著者・岡藤牢人は銕三郎を13歳としているが、われわれは28歳であったことを熟知している。
岡藤がなぜ銕三郎の年齢を間違えたか、この際、いくら詮索しても解明できはしない。
それよりも、末期(まつご)願いの手続きを学んだほうがよかろう。

ちゅうすけは、酒井丹波守がもともと、銕三郎に好意をいだいていたため>の処置であったと解しているのだが。


参照】2009年9月7日[備中守宣雄、着任] (

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2009.11.21

京都町奉行・備中守宣雄の死(2)

京都西町奉行・長谷川備中守宣雄(のぶお 55歳)の逝去日については、いくつかの記述がある。

まず、『寛政重修l諸家譜』の安永2年(1773)6月22日説。

_360
(『寛政譜』 長谷川家より宣雄の項)

これの基となったはずの、孫・平蔵宣義(のぶのり 『鬼平犯科帳』時代では辰蔵)が幕府に上呈した[先祖書]では、安永2年(1773)6月22日と読める。

_360_3

同じ[先祖書]で、本稿(1)に披露した平蔵宣以の項でも、6月21日になっていたが、どちらにしても、公式の命日で、実際の逝去日ではない。
公式の---とは、幕府に対しての諸届け・手続きをすますための命日の意である。

幕臣の任免・辞職の詳細を記した『柳営補任』にいたっては、安永2年7月17日卒と、半月以上も遅らせている。

長谷川平蔵宣雄(備中守)
明和9年(1771)10月15日御先手加役ヨリ
安永2年(1772)7月17日卒


山村十郎右衛門良旺(信濃守)
安永2年(1772)7月18日御目付ヨリ
同  7年(1777)7月20日御勘定奉行


それで、京都と江戸とのあいだを結ぶ、公用の継飛脚のことをかんがえた。
どれほどの日数で、備中守宣雄の死が、管轄している老中へ届き、後任が選ばれるのかと。
継飛脚でもっとも早いのは、70時間であったとWikipediaにある。

それに近い至急便で、宣雄の死は、老中へ告げられたろう。
秘密の要務---禁裏役人の不正摘発のこともあった。
老中たちは、後任の登用に意をつくしたとみるが、この推測は後日にまわしたい。

いや、推察はもう一つある。
京都へ付随しないで、江戸の留守宅を守っていた、宣雄の非公式の奥方で、銕三郎(てつさぶろう 28歳)にとっては実母の(たえ 48歳)のもとへの知らせは、どれほどの日数で達したか。
早くて7日後か。

陰暦の6月中・下旬といえば新暦の7月下旬で、酷暑の季節であり、遺骸の傷みも早かろう。
の上洛を待って葬儀というわけにもいかなかったろう。
もちろん、遺骸を江戸の菩提寺・戒行寺へ移送して葬るわけにもいかない。

葬儀は、『寛政譜』にあるとおり、京・千本通り出水(でみず)の華光寺(けこうじ)で行われた。
戒名も華光寺が贈った。
叙太夫・従五位下の宣雄にふさわしく、泰雲院殿夏山日晴大居士

参照】2006年5月27日[聖典『鬼平犯科帳』のほころび] (
2005年3月25日[女盗(にょとうおたか(お豊)]

長谷川本家の末・雅敏(まさとし)さんが華光寺へ問い合わせた結果は、すでに記している。

参照】2007年4月14日~[寛政重修諸家譜] (10)おたか(お豊

肝要な史料なので、煩瑣をいとわず、再掲示する。

_300

これには、西町奉行の示寂(じじゃく 死」)は、6月17日亥刻いのこく 午後10~11時代)となっている。

葬儀は23日の酉刻(とりのこく 午後5時)からだが、晩夏なのでもだ明るかった。
所司代に次ぐ要職である京・町奉行の現役の葬儀であるから、弔問者は多かったろう。

進行・整理には、浦部源六郎・彦太郎父子をはじめ、奉行所の同心や小者や、彦十(ひこじゅう 38歳)らがあたったことも想像がつく。

ただし、遺族席に、内妻・の姿はなかった。

回向帳に、化粧指南師・お(かつ 33歳)の名があり、〔狐火きつび)〕の勇五郎(ゆうごろう 53歳)は骨董商・〔風炉(ふろ)屋〕勇五郎と記名していた。

参照】2009年7月20日~[〔千歳(せんざい〕のお豊)] () (

祇園一帯の香具師の元締・〔左阿弥(さあや)〕の父子は、はっきりと屋号と名を記帳していた。

葬儀がおわり、香典をあらためた西町奉行所の同心たちが首をかしげたのは、四条通り麩屋j町の〔紅屋〕平兵衛が1両(16万円)つつんでいたことであった。
「お奉行は、口紅の〔紅屋〕と、どんなかかわりがおありになったのか?」
ひとしきり、隠しおんなの詮索を話題にしてみたものの、けっきょく、わからずじまいで話がつきた。


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2009.11.20

京都町奉行・備中守宣雄の死

平蔵宣以(のぷため いわゆる鬼平)の没後4年---寛政11年(1799)12月20日に、嫡男・平蔵宣義(のぶのり 30歳 辰蔵の家督後の継承名)が幕府に提出した[先書祖]を、にらんでいる。

_300
(平蔵宣義(辰蔵)が上呈した[先祖書]の表紙)

先祖書]は、先の老中首座・松平定信の発案で企画されたもので、お目見(みえ)以上の幕臣、および大名に提出が下達されていた。

12月20日は、締め切りぎりぎりともいえる期日であった。

5,200余家から上提された[先祖書]は、編纂役人たちの照合をへて、13,年後の文化9年(1812)に完成をみた。

参照】『寛政重修諸家譜

にらんでいるのは、『寛政譜』の基となった[先祖書]のほうである。

その[先祖書]は、長谷川本家の末裔である長谷川雅敏氏が国立公文書館からコピーしてきたものが、研究家・釣 洋一氏iにわたり、氏がワープロ活字化したのと、原文のコピーをいただき、おりにふれてにらんできた。

いや、〔にらんでいる〕のは、もっぱら、ワープロ活字化されたほうである。
それの、八代目・平蔵宣以の冒頭部分。

ブログでは、銕三郎(てつさぶろう 27歳)は京都にいる。
在・京都の条をアップにしてみよう。

_360_2

1行目の最初の5文字は、前の事項のしっぽだから無視。

父・備中守宣雄、京都(西)町奉行を相勤めておりました節、
安永2年(1773)癸巳(みすのとみ)6月21日、京都のご役宅で卒、
同年9月8日、父が願いおきましたとおり、跡目菊之間
(老中)板倉佐州(佐渡守勝清 68歳 上野国安中藩主 2万石)より
小普請支配・長田備中守の組へ入ると伝えられた。

ちゅうすけ注宣雄の歿年月日について別の日にふれるので、いまは、ここには立ちどまらない。
小普請支配・長田備中守も、管見では『寛政譜』に見あたらない。
長田(おさだ)越中守元鋪(もとのぶ 74歳 980石)の誤記とみる。

眸(め)を凝らしているのは、

(父が願いおきましたとおり、跡目---)

この1行である。

いつ、願いおいたのであろう?
病床にあり、回復がままならぬと自覚し、急遽、継飛脚便を発したのであろうか。
そのとき、備中守宣雄の胸中には、25年前、病弱だった6代目の従兄・宣尹(のぶただ 没年35歳)の死の前後の末期(まつご)継嗣の手続きのあわただしさ---というより、一種の偽装がよみがえっていたろうか。

参照】2007年4月14日~[寛政重修l諸家譜] (14) (15) (16)(17) (18
2007年5月2日[柳営補任〕の誤植

それで、まだ生きているうちに、願書を江戸へ送ったのかもしれない。
あるいは、死の日時を糊塗し、あたかも生前に願い出たようにしたか。

宣雄が病床にあった期間はどれほどであっか。
病名はなんであったか。
記録はまったくのこされていない。

明和19年(1772)10月15日に京都西町奉行を拝命し、8ヶ月と7日ばかりの、短すぎた病死であった。
備中守宣雄までの京都町奉行で、これほど勤務年月が短かった奉行はいない。


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2009.11.19

三歩、退(ひ)け、一歩出よ。(3)

「ひとりの比丘尼をめぐり、人が死にました」
銕三郎(てつさぶろう 28歳)が告白する気分になった。

老師のやわらかな眸(め)は、動かなかった。

「拙との淫行がもとでした」
「淫行---とは、ちがいまんな」
「は---?」
「おことは俗界の人。いつくしみおうただけのことや」
「------」
「夫婦(めおと)の睦みごとを淫行と禁じよったら、子がでけしまへん。歓喜の所行(しわざ)や」
「比丘尼とは、夫婦ではありませなんだ」
「還俗(げんぞく)しましたやろ?」
「する、と申しておりました」

老師が眸を湖中の弁財天の社へやり、
「あそこのご本尊は、淫らな姿態で修行者を試してはる。釈尊が比丘尼に得度しィはったんも、比丘(男僧)らの淫心を試しはったんかもな」
いいおえて、かっかかかと笑った。

老僧がいうには、、五戒とはいうが、不殺生(ふせっしょう)、不偸盗(ふちゅうとう)は、俗界でも悪行であるが、害を蒙った者とその縁者のほかはこだわりをもたぬ。
不妄語(ふもうご)---うぬぼれて自分を誇大にいう者は、俗界では嫌われる。
不飲酒(いんしゅ)---飲酒は俗界では禁じられてはいないし、罪の意識もない。

やっかいなのは、不邪淫(ふじゃいん)である。
淫心は、老若男女をとわず、だれのこころにもある。
こころにあっても、おいそれと実行できるものではない。
それだけに、やりえた者への妬みが大きい。

釈尊の教えをうまく汲みとって天竺(インド)国で栄えたヒンズー教では、その所行そのものを歓喜であるとしている。
_120仏道では戒のままなので、妬みのほうが害をなしているといっては、いいすぎになるかな---と苦笑した。

「おことの父ごどのが、元賢(げんけん 43歳)坊におだやかなんは、仏門の不邪淫を、悪法と観じていやはるためかもしれへんな」

「かたじけのうございます。いまのお言葉で、かの比丘尼も許されたと喜びましょう」
「なに、あの女性(にょしょう)は、われからわれを許しとったやろ」

(三歩、退(ひ)け、一歩出よ---は、むしろ、貞尼(ていあま)のほうが会得していたとおもいたい。退きすぎたかもしれないが---)

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2009.11.18

三歩、退(ひ)け、一歩出よ。(2)

白居易の、こないな詩ィ、ご存じやろか?」
老師が低い声で楽しげiに朗唱した。

「30、40やと、五欲が牽(ひ)きよる
 70、80やと、、病気の問屋や
 50、60は、いいことだらけ
 愛貧声利、ほどほどに手に
 よたよたなんぞ、はるかに先や

貞妙尼(じょみょうに 享年25歳)と銕三郎(てつさぶろう 27歳)との逢いびきのことを、隣家のお(ぎん 60すぎ)婆ぁが旦那寺・西迎寺の暁達(ぎょうたつ 36歳)にしゃべったことから、2人もの人が死んだ。

銕三郎としては、おを許すわけにはいかない。
そうであろう、嫁入りするまで、お(てい)は、隣の老婆にこころをかけ、なにかと世話をやいてきていたのである。

そのおが、好きな男と睦んだからといって、おにはかかわりはないことだ。

_360
(歌麿『洗い髪』 貞尼(ていあま)とのイメージ)

参照】2009年10月24日[貞妙尼(じょうみょうに)の還俗(還俗)] (

それを、道家者ぶって---。

ただ、相手は60過ぎの婆ぁである。
仕置きするのは、なんとなく、気がとがめる。
手だてもおもいつかないまま、役宅に近い神泉苑(じんせいえん 現・上京区御池通り門前町)に老師を訪ねた。
銕三郎の表情を読んだ老師は、茶を点じながら、白居易の間適詩の断片を暗唱したのである。

「拙は、唄われている30には、まだ、達しておりませぬが---」
「ということは、五欲---とりわけ、淫欲がさかりで、真っ赤に燃えとるいうことやの。この欲はしつこうて、寿量をすぎた愚僧かて、熾火(おきび)のように、かかえとる」
「寿量と申されますと---?」
「80歳のことや」

寿量の80歳は、釈迦が入滅した年齢である。
世俗でいう傘寿(80歳の祝い)---喜寿(77歳の祝い)もこれからきているのであろう。

「ははぁ、80をおすぎになられても---」
「生きとるうちは、淫欲との戦いや。男もおんなも、比丘も、比丘尼も、な」

高僧にしてそういうことであれば、貞妙尼の淫心は、貞尼(ていあま)が打ちあけたとおり、とがめられるおよばないことにもおもいいたった。

また、僧たちの言いより、それを拒まれた憤りと嫉妬もうなずけた。

そればかりか、60すぎのお婆ぁの妬みの変形にもおもいがおよんだ。

すると、父・備中守宣雄(のぶお 55歳)は、どうやって淫欲を抑えこんでいるのであろうか。
白居易によれば、50、60は、淫欲をおのれでほどほどに制御できるいい時期ということか。

しかし、父の立ち居は、いかにも大儀げである。
70、80の病魔が気ぜわしく先ばしって襲ってきているのであろうか。

目の前の老師は、寿量をすぎたとおっしゃっているのに、矍鑠(かくしゃく)としておられるが---。

「(弘法)大師は、中寿(なかじゅ 40歳)までにやるべきことをすませとかな---いうて、さとしてはる。たしかにそうや、中寿からのこっちの歳月の脚の早いこと---矢のようや」

「老師。お名をおうかがいしておりませぬ」
「なんで、そんなもん、訊かはるのや。名ァなんちゅうもんは、かりそめのもんでの。死んだときの戒名も、100年もすぎてみなはれ、ご先祖さま---でいっしょくたにされよる。名ァは、あってなきにひとし。おことの目の前におるのが愚僧、そのもの---」


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2009.11.17

三歩、退(ひ)け、一歩出よ。

(ひこ)さん。膺懲(ようちょう)は、これまでだ」
銕三郎(てつさぶろう 28歳)が〔相模(さがみ)〕の彦十(ひこじゅう 38歳)、万吉(まんきち 22歳)、啓太(けいた 20歳)にいいわたした。

万吉啓太は、せっかく馴れてきて、尾行や噂のばらまきが面白くなってきたところであったので、がっかりした気配をあからさまに示した。

安堵したのは、誠心寺(じょうしんじ)の寺男・又平(またへい 50がらみ)であった。
山端(やまはな)の知りあいの山寺・弘法寺の順慶(じゅんけい 40歳)が逐電しないですんだからである。
つい、調子にのり、貞妙尼(じょみょうに 享年25歳)の問責犯人の一人として順慶の名をあげてしまったことを後悔する気持ちがだんだんに強くなってきていたのである。

参照】2009年11月8日[奉行・備中守の裁処(さいしょ)] (

貞妙尼の母親・お(かね 47歳)は、不満と同時に、油小路・二条通りの家へ戻れることを喜ぶという、奇妙な感覚をかみしめていた。
自分の住まいに帰れば、花園の天寿院の庫裡(くり)へ泊まりに行けるうれしさ半分、むすめ・お(てい)を責め殺した僧たちが死罪になりそうもないくやしさが半分であった。
(死んだえおはかわいそうだが、生きている自分のほうがもっと大事)
おもわぬでもなかった。

彦十が反問してきた。
(てっ)つぁんは、それでいいのかえ?」
「もちろん、気はおさまらない。が、父上の裁決だからな」

銕三郎は、心の中で、高杉銀平師の決別の献辞ともいえる忠告をかみしめていた。

---三歩、退(ひ)け。一歩出よ。

(ここまで、彼らを苦しめたのだから、おれの立場がわかっている貞尼(ていあま)なら、許してくれよう)

ひょんなことから、2人が噂を流した若者と、竜土寺や延命寺のまわりのものに気づかれることをおもんぱかった銕三郎は、万吉啓太に言った。
「元締には、拙から話を通すから、2人は、2年か3年、江戸の〔音羽(おとわ)〕の重右衛門(じゅうえもん 41歳)元締のところで世話をみてもらうことにしてほしい」
重右衛門元締はんのことは、2代目からいつも聞かされてきとります」

音羽〕の重右衛門は若いとき、〔左阿弥(さあみ)〕の円造(えんぞう 60すぎ)に預けられ、角兵衛(かくべえ 41歳)と兄弟のようにして仕込まれた。

誠心寺の寺男・又平は、西町奉行所にとどめおかれ、聞き取りをうけていたことにし、その旨を浦部源六郎(げんろくろう 51歳)与力が告げると、そのまま寺へ戻り、後任の尼僧に仕えるようにとのことであった。

が油小路・二条通りの2軒長屋へ戻ってみると、隣家のお(ぎん 60歳すぎ)婆は、さっさと息子夫婦の家へ越していたあとであった。

が移転する前に、彦十銕三郎に訊いた。
つぁん。これで、ぜんぶ終わったのかえ?」
銕三郎が頚をふり、
「そもそもの始まりをつくった、婆ぁさんの仕置きがのこっておる」
「やるかえ?」
「やらなきゃ、おさまらない」

彦十は、錦小路通り・室町通りの2階家に、居座っていた。
「お婆ぁさんが移った先をあたっとく」
「息子は、仏光寺通り・麩屋町通りの〔丹波屋〕の通い番頭をしておる」
「仏光寺通りの旅籠〔炭屋〕からもう1本東の通りだ」
「その息子の家にでもころがりこんだのかもしれない」

参照】2009年11月7日[奉行・備中守の裁処(さいしょ)] (

そういってから銕三郎は、気がついた。
をこらしめたら、息子がおへまわしていた仕立ての賃仕事がとまるのではないかと。
それでなくても、おを避けて引っ越している。
のこれからの生活(たつき)を、すっかり見てやるというわけにはいかない。
(なんとしたものか---)

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2009.11.16

奉行・備中守の審処(しんしょ)(11)

「父上。いまのままの吟味ですと、元賢(げんけん 43歳)は、島送りとなりますな」
表の役所から役宅へもどり、夕餉(ゆうげ)の席についた西町奉行・備中守宣雄(のぶお 55歳)に、銕三郎(てつさぶろう 28歳)が話しかけた。

晩酌はしない宣雄は、はやくも箸を手にしていた。
銕三郎の膳には、銚子が1本添えられているのは、いつものとおりであった。
書院での夕餉は、ずっと前から、2人だけである。
もっとも、辰蔵(たつぞう 4歳)が元服すれば、3代そろっての食事になったはずだが。

「決裁は、まだ、してはおらぬぞ」
「しかし、拝聴しておりますかぎり、死罪はないと---」
「不満のようじゃな?」
「いえ。流島となれば、どの島であれ、囚人として生きていくのはきわめて困難でしょうから、これから先、10年、15年の苦難をかんがえれば、当人にとっては、死罪にもまさる刑かと存じます」

宣雄は、慮外な---といった面持ちで銕三郎を瞶(みつめ)た。
(てつ)は、人の生死を、そのように観ておったのか」
「は------?」

箸を置き、両こぶしを膝にそろえた宣雄は、
「人はだれも、死後の世界を看(み)てはおらぬ。つまりは想像の国にすぎない。とはいえ、仏道では、極楽と地獄を絵巻にしておる。元賢に死罪を申しわたせば、地獄図をおもいうかべるは必定であろう。そこへおちるよりも、いかになる苦難が待っていようと、流島のほうが苦しみがすくないと推察するのではなかろうか」

「あの者が、そのようにかんがえましょうか?」
元賢は、自分勝手な男である。自分に都合がいいようにかんがえるは必定じゃ。島で生き延びられるほうを選ぶであろう」

銕三郎は、元賢がきせる問屋〔松坂屋〕の後家・お(さと 30歳)との出事(でごと 情事)のときの好みを、ためらいながら父に洩らした。

宣雄は深く嘆息し、
は、そのような細事まで、探索しておるのか?」
「探索したわけではなく、たまたま、知りえましたことで---」
「人には、知られたくない秘事というものがある。たとえ、公事(くじ)であろうと、明かしてはならないものは、そっとしておいてやるのが人情というものである---」
「承りました。爾後、肝に銘じておきます」

「ところで、。だいぶ、酒の腕があがったようであるな。今宵から、銚子は2本にしてよいぞ」
「かたじけのう、ございます。久栄(ひさえ)!」

 【参照】[銕三郎、膺懲(ようちょう)す] () () () () (5) () ()   


2009年10月19日~[貞妙尼(じょみょうに)の還俗(げんぞく) () () () () () () () () () (10

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2009.11.15

奉行・備中守の審処(しんしょ)(10)

「きょうの取り調べは、正式のものである。そのつもりで、よく考えて答えるように」
白洲に引きすえられた元賢(げんけん 43歳)に、吟味方の次席与力・入江吉兵衛(よしべえ 48歳)が申しわたした。


梅雨の晴れ間の白洲ではあったが、1ヶ月をこえた入牢(じゅろう)暮らしと、庵主(あんじゅ)面責の顔ぶれの大半が割れていること、さらには言いよった僧たちの証拠も奉行所がつかんでいるらしいことをにおわされてきた元賢は、眠られない夜をつづけているらしく、顔色もさえず、憔悴しきっていた。

「「その前に、報せておくことがあろう」
奉行・備中守宣雄(のぶお 55歳)が上座からうながした。
ふつう、奉行は口述取りの席には立ち会わないのだが、この日は、とくに着座した。

入江次席与力がかしこまったふうで、
「「その方と親しかった竜土寺の照顕(しょうけん 39歳)と、延命寺の秀涌(しゅうゆう 32歳)は逐電しおった」
元賢が疑うような目で吟味方与力の表情をうかがった。

「逐電の理由(わけ)は、近所の噂の耐えきれなくなったのであろう。
誠心院(じょうしんいん)の庵主(あんじゅ)を問責、死にいたらしめた者たちの一味であったことを奉行所に知られ、吟味を恐れたためとおもわれる。
むろん、奉行所からすべの代官所はいうにおよばす、寺院へも手くばりがまわっておることゆえ、どこを頼るわけにもいくまい。
あわれであるが、いずれ、盗人と化すか、野たれ死にすることになろう」

「これ、吟味役どの。元賢坊がおびえるようなことまでいうでない」
奉行がたしなめたが、入江与力はこころえたもので、ちょっと頭をさげただけで受け流した。

元賢坊。きょうの吟味は、暁達(ぎょうたつ 36歳)坊の死は、自分からご坊の包丁にぶつかってきたものか、ご坊のほうが刺したものかを決めることが主題で、貞妙尼の問責殺しは、別の日の裁きとなるから、暁達坊の死因に集心するように---」
奉行は子どもをさとすようにいうが、それなら、照顕秀涌の逃亡を告げることはなかったのである。

暁達が庫裡(くり)にかけこんできて、なんとわめいたのだ?」
しぱらく思念している体(てい)であったが、
「なんで発覚(ばれ)たんや、と---」
「なんと答えた?」
「11両、盗んださかいに、奉行所が動いたんや、と。そしたら---」
「そうしたら---?」
「淫乱尼(いんらんあま)は、殺してぇへん。引きあげるときには、生きとった、と」
「生きておった?」
「確かに、そない、わめきよりましてん」
「おかしいな。庫裡(くり)の軒下に潜んでいた密偵は、そのわめき声は聞いてはおらんぞ」

奉行・備中守が手で書役(しょやく)を制し、
「庵主のことはおき、ご坊は、いつ、出刃包丁を手にしたかの?」
暁達の剣幕がはげしかったゆえ---」
暁達坊の剣幕は、最初からはげしかったのではなかったのか?」
「はい。そやよって、暁達が駆けこんできてすぐに---」
「出刃は、いつも庫裡に置いておるのか? 仏に任える身で、魚を料理する出刃を---とは、どういうことかな?」
「護身用に---」

「護身用なら、短刀でもよいのではないのか?」
「--------」
「厨(くりや)にあったものを、つい、庫裡へ持ってきてしまったのであろう?」
「そうどした---」
「うむ。与力どの。つづけられよ。この場は、破戒裁きどころではないゆえな」
奉行は、おだやかに微笑み顔で元賢をながめた。

暁達を威嚇する出刃をどのように構えたかを訊いた与力に、元賢は、腹に刃先を相手側に向けて---と答え、備中守が首をかしげ、
「おかしいな。暁達の傷はもっと上方で、あれだと胸のあたりにあげていないと、符合しない」
「あげたかもしれまへん。興奮してましたよって、よう、覚えておりまへん」
「あげたんだな」
「ええ」
「あげて、突きだした。それに暁達がかぶさるように突っこんできた」
「たしか---そないどした」
「しかし、ご坊は、その出刃を抜いている」
「おもわず---」
「ふむ---」

入江与力が代わって訊いた。
「出刃が暁達の心の臓を突き刺したとき---」
奉行が訂正を求めた。
「吟味与力どの。元賢坊は、突き刺したとは申してはおらぬ。向こうが出刃へぶつかってきたのだ」
与力が訂正した。
「出刃に暁達が心の臓をぶつけてきたとき、なんと言ったか?」
「おぼえてぇおへん」

備中守宣雄の後方でやりとりを聞いていた銕三郎(てつさぶろう 28歳)は、尋問の呼吸、安心した罪人にしゃべらせるコツを学んでいた。
それと同時に、
(父上は、殺人の死罪から、裁決を、なんとかして事故殺人にして流島へもちこもうとなさっている)
と感じた。


 【参照】[銕三郎、膺懲(ようちょう)す] () () () () (5) () ()   

2009年10月19日~[貞妙尼(じょみょうに)の還俗(げんぞく) () () () () () () () () () (10

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2009.11.14

奉行・備中守の審処(しんしょ)(9)

「その坊主の名前を、あっしが八幡・橋本村の行慶寺へひとっ走りして、調べてきやしょう」
相模(さがみ)〕の彦十(ひこじゅう 38歳)が、いまにも出かけそうにいったのは、淀川ぞいの橋本津(みなと)には、船頭たち相手に繁盛していた私娼窟が目あてだったかもしれない。

「この雨の中を出かけていくこともあるまい」
銕三郎(てつさぶろう 28歳)は、京都町奉行の父・備中守宣雄(のぶお 55歳)に問うまでもなかろうと判断した。

天慶寺の和尚の稚児趣味と、元賢(げんけん 43歳)と、貞妙尼(じょみょに 享年25歳)の私刑とはつながるまいとふんだこともある。
貞妙尼のうつぶせになっていた死顔は、あくまでおだやかで美しかった。

_100_2元賢貞妙尼を、背後から馬乗りに犯している姿を想像するのもはばかられた。
元賢が懸想したことすら許せなかった。

銕三郎には、謙虚に淫らな尼僧から還俗し、自分なりの考え方にしたがって生きるお(てい)であってほしかった。
そういえば、新造になってからの呼び名も決めないまま逝ってしまった。

貞妙尼へのおもいにふけっていた銕三郎に、〔女誑(めたらし)〕の〔高倉(たかくら)〕の由三(よしぞう 32歳)が問いかけた。
長谷川の若はん。〔松坂屋〕のおは、ご用済みでおますか?」
「惜しいのか?」
「もちぃと、舐(な)めてみとぅおますが---」
「それより、寺町五条上ルのちょうちん問屋〔鎰(ます)屋〕のお(こう 30歳)から、元賢坊の癖をさらに訊きだせないものか」
「ほな、そないに---」

由三は2日目に、
「聞いとるのが阿呆らして---」
帰ってくるなりの嘆息であった。

は、松原通り烏丸の平等寺の塔頭・西の坊に水子地蔵を寄進し、日参しているとわかったので、門前で張っていて、話しかけた。
水子にしたことに同情をしたふりをよそおうと、、にわかに心を許してき、寄進をすすめたのは水子の父親だと打ち明けた。
その父親はなぜだか、あのときに稚児髷(ちごまげ)の鬘(かつら)をかぶり、おを下腹をまたがせるのを好んだと。

「おのときのと、違うではないか」
「あのことの好みは、相手によって変わることもおますよって、いちがいにはきめられしまへん」
「そういうものかの」
「そないなもんどす」
銕三郎の眸(ひとみ)の奥をのぞきこむようにして笑った。
(おんな極めつくしたといううぬぼれの顔つきだな。いずれ、その鼻柱は、おなごによってへし折られるであろう)
銕三郎は自分の予想を、洩らしたりはしなかったが---。

とのときの元賢の好みのことは、父・備中守宣雄には打ち明けることがはばかられた。
(しかし、どちらにしても、橋本村の行慶寺での体験が基になっているに相違なかろう)

このあいだに、万吉(まんきち 22歳)と啓太(けいた 20歳)は、別の計略をすすめていた。
西銅院通り・五条通りあたり---ということは、照顕(しょうけん 39歳)が住職をしている竜土寺のある俗称・湯屋町近辺の一膳飯屋、茶飯屋をわたって昼飯・夕飯を食いながら、あたりの者の耳にはいるほどのひそひそ声で、
「お奉行所は、誠心寺(じょうしんじ)の美人尼殺しの片割れと目ぼしをつけたらし---」
「寺男が顔を見たいうことか?」
「竜土寺はんも、美人尼はんに言いよってひじ鉄くらははった一人やいうことや」
などと噂をまいてまわっていたのである。

夜は呑み屋を3軒も5軒もはしごをするので、きりあげるときには、そうとうにまわっており、あと3日もつづいたら躰がもたないとぼやいていた。

ぶったおれる前に、照顕が夜逃げをしたので、
「明日からは、桂川の西の松室村の延命寺のあたりで、秀涌(しゅうゆう 32歳)について、同様の噂をばらまけ」
げんなりしていたところへ、近くの西芳寺の小坊主が、秀涌も行く方知れずになったとの報らせをとどけてきた。
備中守宣雄が手配しておいてくれたのである。
ちなみに、西芳寺は、俗称・苔寺として知られている。

 【参照】[銕三郎、膺懲(ようちょう)す] () () () () (5) () ()   


2009年10月19日~[貞妙尼(じょみょうに)の還俗(げんぞく) () () () () () () () () () (10

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2009.11.13

奉行・備中守の審処(しんしょ)(8)

手ちがいがおきた。

五条橋下の料理屋〔ひしや〕の女中・お(つね 32歳)が、〔女誑(めたらし)〕・〔高倉(たかくら)〕の由三(よしぞう 32歳)にぞっこんになってしまったのである。
仲居時代の仲よしで、きせる問屋〔松坂屋〕の後妻におさまり、いまは後家になっているお(さと 30歳)に
はんを引きあわせたら、うちから乗りかえはります」

そうではない、おからあることを訊ききだすためだ---どれほどいいきかせても、承知しなかった。
世慣れたおんなの直感で、たくらみを見抜いたのであろう。

彦十(ひこじゅう 38歳)が、業をにやし、
「将を射んとおもえば、まず馬を死よ---とはいうけれど、由どんのように、馬を矢でなく、槍(やり)殺しにしてしまったんでは、しゃれにもならねえ」

「〔女誑〕の面目にかけても---」
由三は、おの名を騙(かた)った文(ふみ)でおを、五条橋下の料理茶屋〔丸中屋〕へ呼びだした。

_360
(五条橋下の料亭〔丸中屋〕 『商人買物独案内』)

は案内された先に、かつての仲よしの同僚ではなく、見しらぬ男がいるのを見て、店の者が案内する部屋を間違えたかと、
「鈍(どん)なことで、かんにんどっせ」
すかさず立ってきた由三が、手首をやわらかくにぎり、肩に触れた掌にそっと力を加え、
「ご新造はんをお待ちしてましてん---」
耳元でいわれただけで下腹がほてり、ふらふらと坐りこんでしまった。

元賢が入牢(じゅろう)してから20日以上も男の肌に触れていなかったこともあり、着物を着たままの相手をあつかうことに馴れている由三のいいなりになったあと、
「お寺はんは、馬みたいのんがお好きどした」けど---」
つい、もらした。

_360_2
(北斎『させもが露』 イメージ)

由三からの仔細を告(つ)げられた銕三郎(てつさぶろう 28歳)は、苦笑まじりに、
「馬みたいに---とは?」
「うしろから、おおいかぶさりまんのんや」
「わかった]

なにかおもいつくことでもあったのか、銕三郎は、
「つぎにおと出あったとき、元賢が稚児として修行した寺と、そのときの住職の名をもらしていないか、訊いてみてくれ」

3日のちに、由三が答えを持ちかえってきた。
寺は、八幡・橋本村の行慶寺、和尚の名は洩らしていないらしかったと。

由三どん。約束してくれるか。おが口にしたことのすべてを忘れ、他には一言も洩らさないと」


うなずいた由三に、銕三郎が真顔で約定した。
こんご、もし、由三が捕まるようなことがあり、拷問にかけられそうになったら、江戸の南本所・三ッ目通りに屋敷がある旗本・長谷川平蔵宣以(のぶため)を呼べ---というがよい。どこの町奉行所であろいう、生きているかぎり、駆けつけて、拷問はさせないと。

さいわい、その後、由三銕三郎(のちの鬼平)も、、この約定をつかうことはなかったのだが---。

ついでだが--と前置きし、
「着付も髪もくずさないで相手を極楽に昇天させる手くだも教わりたいが、それより、おの名を騙って、出あいの場所を五条橋下の、しかも、おの店のならびの〔丸中屋〕にした理由(わけ)は?」

由三の返事は、
「おんないうのんは、おのれがよう知っとる場所やと、安心してしまう動物でやす」

銕三郎は、おもいあたった。
一瞬のうちに浮かんで消えた、ほろ甘い記憶のかずかずであった。

14歳のときにはじめておんなというものに接したお芙佐(ふさ 25歳=当時)も、18歳のときの阿記(あき 22歳=当時)も、それぞれのホーム・グラウンドともいえる家であった。

参照】2007年7月16日[仮(かりそめ)の母・お芙佐(ふさ)] 
2008年1月2日[与詩(よし)を迎に] (13

(いや、かえりみれば、おとお(りょう)は同じ家とはいえ、そうであったな)

参照】2008年6月2日[お静という女] (
2008年11月17日[宣雄の同僚・先手組頭] (

(これはしたり、おとのときも---)

参照】 2009年7月29日[千歳(せんざい)〕のお豊] (10

この、〔女誑〕が体験から編みだした教訓を覚えていたお蔭で、のちの鬼平は、誘拐されたおまさを助けだすこともできたし、〔荒神(こうじん)〕のおを捕らええたが、これは、20年のちの物語である。

 【参照】[銕三郎、膺懲(ようちょう)す] () () () () (5) () ()   


2009年10月19日~[貞妙尼(じょみょうに)の還俗(げんぞく) () () () () () () () () () (10

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2009.11.12

奉行・備中守の審処(しんしょ)(7)

役宅の庭の紫陽花(あじさい)が咲き、京都は梅雨iにはいっていた。

その庭へ勝手にはいってきた〔相模(さがみ)〕の彦十(ひこじゅう 38歳)が
(てっ)つぁん。そろそろ---」
久栄(ひさえ 21歳)の耳を気にした銕三郎(てつさぶろう 28歳)が、目くばせするのもかまわず、
「ゆんべ、ダチが久しぶりにやってきて、この雨は、ホトケが泣いてるんだって、せかしてやしたぜ」

あわてて傘ももたずに塀の外へ連れだし、
「いま、父上が詮議をすすめておられるから、もすこし、様子をみてからでも、遅くはない」

彦十は、山伏山町(錦小路通り・室町通り)の家で待っているといいおいて、尻からげした下帯にはねをあげなら引きとっていった。

銕組(てつぐみ)〕には、〔瀬戸川(せとがわ)〕の源七(げんしち 56歳)の手くばりによる新顔が加わっていた。
今働きの〔牝誑(めたらし)〕・〔梅津(うめづ)〕の由三(よしぞう 32歳)がそうであった。

源七に伴なわられてきた由三に会ったとき、この男が{狐火きつねび)〕や〔蓑火みのひ)〕といった名門盗賊が必要とするときに口をかけるすご腕の〔女誑〕とは、一瞬、信じられなかった。
色黒の丸顔で團子鼻、脊も5尺4r寸(1m62cm)あるかなしのずんぐりむっくりなのである。
世にいう優男(やさおとこ)とはほど遠かった。

ところが、あいさつされて、驚いた。
なんとも透明な響きで、こちらの腹の底へとどくような快い声なのである。
(男のおれが聞いてさえこれだから、おんなだと、下腹の芯がしびれる声とでもいうんだろうな)

源七が口をそえた。
由三どんの小唄で、帯をときたくならなかったらおんなじゃねえ、っていわれてます。65の婆ぁさんでも腰をもぞもぞしはじめるってぐえのもんで---」

「雌犬がよってきて困ったこともありやす」
彦十が大真面目に、
「鹿はどうかね?」

由三の役割は、富小路(とみのこうじ)五条のきせる問屋〔松坂屋〕の後家・お(さと 30歳)に近づき、このあいだまで肌身をあわせていた破戒僧・元賢(げんけん)について、しるかぎりのことを訊きだすことであった、それも短時日のうちに。

に近づくために、〔松坂屋〕へ後妻に入る前にはたらいていた五条橋下の料理茶屋〔ひしや〕で仲のよかったのがお常(つね 32歳)たということは、彦十がしらべずみであった。

さしあたっておのなじみ客になった由三が、おを誘いだそうというわけであった。

もう一人の老〔牝誑〕・〔千本(せんぼん)〕の世之介(よのすけ 60すぎ)は、東山・源泉院の門前の花屋に泊り込み、老躰にむちうって女主人・お(とき 57歳)の夜伽をつとめながら、寺の小坊主・賢念(けんねん 13歳)から、前の住職・元賢の生地やらなにやらを問いただしていた。

小坊主・賢念は山科・花山村の生まれ。
元賢も同村の出ということで、源泉寺へ修行にはいった。
元賢の母親は、村の取り上げ婆ぁで、父親は、本山の事務方らしいということしかしらなかった。
その事務方の引きで、源泉寺の住持になれたと、寺男・五平(ごへえ 59歳)から聞いたことがあると。

元賢は気まぐれなところのある性格で、何かに熱中したかとおもうと、いつのまにやらあきて、ほかのことしに熱中している。おんなのこともそうで、賢念が寺へきたときは、3日にあげずの感じでちょうちん問屋{鎰屋(ますや)〕の後家・お(こう 30歳=いま)を寺町五条上ルに呼びにいかされたが、半年ほど前、ふいと、きせる問屋〔松坂屋〕のお(さと 30歳=いま)に変わったこと暴露(ばら)した。

賢念は、おが水子をして、躰をこわしたことまではしらなかった。


参照】[銕三郎、膺懲(ようちょう)す] () () () () (5) () (7

2009年10月19日~[貞妙尼(じょみょうに)の還俗(げんぞく) () () () () () () () () () (10


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2009.11.11

奉行・備中守の審処(しんしょ)(6)

「わざわざ呼びだして、すなまない。一つだけ、訊かせてもらいたいもとがあっての」
西町奉行・備中守宣雄(のぶお 55歳)が、尋問部屋へ連れてこられた元賢(げんけん 43歳)に、にこやかに話しかけた。

法衣あつらえ司〔岡屋〕の後家・お(りく 34歳)が弘法寺の順慶(じゅんけい 30歳)和尚の子を産んだことを、に告げた翌日である。

東山のふもとの源泉院の住職であった元賢は、同宗派の僧・暁達(ぎょうたつ 36歳を刺殺した疑いで入牢しており、本山から滅擯(めっぴん)の罰をうけていた。
滅擯の罰とは、僧籍を剥奪されて宗門から追放される、もっとも重い処分である。
もちろん、奉行所の刑とは別の、仏門の戒である。

元賢が入れられている六角獄舎から西町奉行所までは6丁ばかりある。
縄をかけられて往還するのは、元賢にとっては屈辱的な6丁であるにちがいない。
思いやりということまだ知らない子どもたちが、伸びかけた坊主あたまの元賢に、
「乞食坊主!」
「やーい、盗人坊主」
罵声をあびせるのである。

「昨日の話した、山端(やまはな)の奥、一本松の弘法寺の順慶坊が、本山へ納める奉恩金(ほうおんがね)は、年にいかほどかの?」

どうして奉行がそんな宗門内のことを訊くのかと、一瞬にうかんだ怪訝な顔をかくすように、
「檀家が少ないあのような寺やと、年に3両(48万円)ほどかと---」
「ほう、檀家が50軒として、1軒割で、年に金子で1万円とは、きびしいものよの」
「お奉行。拙僧の---」
いいかけて、僧籍がなくなっていることに気づき、
「源泉院のように、檀家に商家をかかえとる寺やと、年に9両(144万円)もおさめななりまへん」

「それはことよのう。ては、五条通り毘沙門町の竜土寺では、いかほど?」
「あこも、うちと同格で、9両---」
答えてから、はっとおもいあたったらしく、顔色が青ざめた。

かまわず、宣雄が追い討ちをかける。
「延命寺は?」
元賢の目がつりあがり、うつぶせた、肩を小刻みにふるわせ、慟哭をはじめた。

その姿を冷ややかに見下ろした奉行は、
「大儀であった。退(さ)がって、ゆっくり休むがよい」
警備の小者に目で連れてゆけと指示した。

銕三郎(てつさぶろう 28歳)が、感嘆して、部屋をでていく奉行の父の後ろ姿に礼をした。
横で、浦部源六郎(げんろくろう 51歳)・与力が、たのもしげにその銕三郎をみていた。


参照】[銕三郎、膺懲(ようちょう)す] () () () () (5) () (7


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2009.11.10

奉行・備中守の審処(しんしょ)(5)

「食が口にあわぬとみえるな。しかし、獄舎の勝手方(経理)もやりくりに苦労しておってな---」
六角獄舎から西町奉行所の尋問部屋へ引きだされた犯戒僧・元賢(げんけん 43歳)に、長谷川備中守宣雄(のぶお 55歳)がいたわるように声をかけた。

最初の尋問があってから、5日後であった。

東山の源泉院での酒食ででっぷりと重みのあった元賢だが、半月ほどの入牢で、頬の肉がおちて口元に小皺ができ、目の下が黒ずんできていた。

「まわりの者のいびきが耳について、眠られしまへんのどす」
「だからというて、個牢というわけにもいくまい。あそこは、死罪ときまった者しかはいれない」

(あと、半月も雑居牢へいれておくと、へばるな)
脇にひかえていた銕三郎(てつさぶろう 28歳)がおもったとき、宣雄が書役(しょやく 記録掛)同心に、
「退(ひ)け刻(どき)までの採決はすべてすましてある。よしなしごとを話しあうだけゆえ、筆記はせずともよい」

宣雄が口にしたのは、元賢の情事の前の前の相手であった法衣問屋〔岡屋〕の後家・お(りく 34歳=いま)がややを産んだという世事であった。

お陸のことは銕三郎が耳にいれたのだが、ご用聞きの〔大文字町(だいもんじまち)の藤次(とうじ 50歳前)が聞きこみをしたものらしい。

「京にはめずらしく背筋がぴんとのびたおなごらしいが、おぬしは、なぜ、付きあうのをやめたのかな。ややの父親は、若狭街道に近い弘法寺の順慶(じゅんけい)とか申す僧らしいが、2番番頭を婿にいれて世間体をつくろったとか」
元賢の頬に皮肉な冷笑がはしった。

つづけて、子の父親の僧とは、3ヶ月とつづかなかったことも告げた。
「おぬしの情の細やかさというか、かゆいところに手がとどくような技(わざ)が忘れられなかったらしいぞ」
「ふ、ふ---」
元賢が、おもわず漏らした。

(いったい、父上はなんのために、このような閨房(ねや)ばなしを---?)
銕三郎は、耳をすました。

突然、宣雄が話題を変えた。
「弘法寺の順慶は、おぬしが推薦した住職の資格を、本山からもらえなかったらしい。今度の事件がかかわっておると、順慶は憤慨しておるとか---」
ことばをきって、じっと元賢に視線をそそいだ。
(ひとあし先に、父上の探索の手がのびていたか---さすが、父上)

元賢のこころに、宣雄が懊悩をタネを植えていることに気づいた。
そして、今宵あたり、おとの情事ばかりか、ちょうちんの〔鎰屋(ますや)のお(こう 30歳)とのぬれ場、きせる問屋の〔松坂屋〕のお里(さと 30歳)の白い裸躰の感触をおもいだして、眠れない一夜に呻吟(しんぎん)するさまをおもいえがいた。


参照】[銕三郎、膺懲(ようちょう)す] () () () () (5) () (


2009年10月19日~[貞妙尼(じょみょうに)の還俗(げんぞく) () () () () () () () () () (10

 

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2009.11.09

[鬼平クラス]リポート 11月7日編

静岡SBS学苑[鬼平クラス]の11月は、日曜日でなく第1土曜日の7日でした。
教室でなく、お江戸ウォーキング。
第一目標は、浅草寺の宝物館と本坊・伝法院の小堀遠州の庭園の拝観。

両所とも、同寺教化部の藤本先生の解説つきという、まさに豪華版(ぼくはただついているだけというラクちんの1日となりました)。

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(シャツ姿の方が藤本先生。宝物館には、戦災をまぬがれた名品のかずかずが---)

写真は、館の入口の部屋。巨額に関羽の絵が(館内は撮影禁止なんです)

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(大板碑を読んでくださる藤本先生)

どっちを向いても、国宝・重文級の芸術品・工芸品--。

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(五代将軍・綱吉は玄人はだしの絵描きでもあった。白衣観音像)

撮影禁止では---? そうですよ。撮影はしていません。

『江戸名所図会』の挿絵でおなじみの長谷川雪旦の彩色「桜井駅の別れ」の正成・正行もありました。

宝物館から降りていくと伝法院の小堀遠州の庭園。

「浅草のど真ん中に、こんなに静寂で美しい場所が何百年もたもたれていたのか」と、くちぐちに。

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庭園で心があらわれたあとは、池波さんがご贔屓のティールーム「アンヂェラス」(浅草・オレンジ通り)であわただしくお茶をのんで、
「池波正太郎記念文庫」で、鶴松顧問から親しく解説を。


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来年は、池波さん歿20年ということで、特集企画がどっさり---とお忙しいのに、最後までつきあってくださいました。鶴松先生、ありがとうございました。


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で、仕上げはは、これまた、池波さんご愛用の銀座・{煉瓦亭}で明治の洋食の味を賞味。
16時10分から、行列の一番先頭を占拠すること、30分。隣の店から苦情がきたほど。


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