2009.07.14

彦十、名古屋へ出稼ぎ

「おや、彦十どの。お久しぶり〕
銕三郎(てつさぶろう 27歳)が声をかけると、〔相模(さがみ)〕の彦十(ひこじゅう 37歳)は、齢甲斐もなく首をすくめて、
(てっ)つぁんよう。、遠国盗(つと)めに出むくんで、しばらく会えなくなりやす」
「ほう、どちらへ?」
「尾張は名古屋でやす」

板場(はんば)を顔をだした〔たずがね)〕の忠助(ちゅうすけ 50がらみ)が、
「名古屋といえば、〔鳴海(なるみ)〕のお頭?」
「こんどは、そうではねえんで。〔万場まんば)〕のお頭の助っ人でやす」

ちゅうすけ注】初代・〔鳴海〕の繁蔵(しげぞう 45歳前後=当時)は、『鬼平犯科帳』文庫巻7[盗賊婚礼]に、また〔万場〕の八兵衛(はちべえ 40歳前後=同)は文庫巻10[むかしなじみ]に、どちらも尾張の盗賊の首領としてでている。

火盗改メ・本役のお頭の息・銕三郎がいても、2人とも遠慮なんかしないで、盗賊の〔通り名、呼び名ともいう〕を口にしている。
それだけ、銕三郎が裏の世界に通じたがっている。
また、香具師の元締や盗賊の首領、盗人(つとめにん)、土地の顔役にも信頼されるようになっている銕三郎である。
げんに、目黒・行人坂の放火犯の逮捕も、銕三郎つながりで挙(あ)がっている。

彦十どの。それじゃあ、しばらく、会えないかもしれない」
「あっしも、名古屋の盗めが終わったら、大坂の〔生駒(いこま)〕の仙右衛門(せんえもん 40歳すぎ=同)お頭のところを手伝ってきやす」
「そういう長旅だと、お(たみ 24歳)どのもお連れかな?」
「とんでもねえ」

は、彦十が手をひょんなことでつけた、内藤新宿の豆腐屋の出もどり娘で、この2年ばかり、本所の中ノ郷・横川町のあばら家でいっしょに暮らしていた。

「おさんが、留守を守ることをよく承知しましたな」
銕三郎もじつは、父・宣雄(のぶお 54歳)が京都西町奉行に転じそうだが、生まれて6ヶ月にもならない長女・於初(はつ)を連れての京のぼりは無理ということで、久栄(ひさえ 20歳)に、しばらく江戸に居残り、来春にでも来るように言ったところ、すねられて困っているのである。
久栄の言い分は、(てつ)さまがご奉行になったわけでもないのだから、銕さまも来春まで居残るべきであると。
たしかに、京都町奉行の任期は、たいてい6,7年だから、嫡男が半年遅れで合体しても、どうということはないのである。

「いえ。おは、大枚5両をつけて、千住2丁目の煮売り屋をしている甚五郎に引きとってもれえやした」
「おいおい、彦十どの。それはむごすぎませぬか」
「なあに、あっしみてえな浮き草稼業の男にくっついているより、おとしても、安定した暮らしができるってえもんで---」
「まあ、夫婦(めおと)仲のことには、他人が口をはさんではならないが---」
どのにとっては、おんなよりも雄鹿の、なんとか言ったな---あっちのほうが頼りになるんであろう)
銕三郎は、それきり、おのことには触れなかったし、
「拙は、父上について、京へ行くことになるかも---」とも言いそびれてしまった。

このあと、銕三郎---いや、この時は火盗改メ・助役(すけやく)の鬼平だが---と彦十が再会するのは、16年後の天明8年(1788)1月、彦十が53歳、鬼平43歳、本所・横川べりで。
そう、文庫巻1[本所・桜屋敷]の中でであった。
この時に彦十は、香具師のあがりということになっている。

彦十はともかく、〔盗人酒屋〕の忠助である。顔色がすぐれない。
「忠さん。躰がどこ悪いんではないですか? そこの田中稲荷西隣りの了庵先生に診てもらったら?」
「診立ててもららいやした。肝の臓がよくねえってことで、酒をとめられやした」

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(四ッ目の〔盗人酒屋〕の南に田中稲荷(赤地))

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2009.07.13

池田又四郎(またしろう)

このあたりで、聖典の文庫16[霜夜]の主役、池田又四郎に触れておかないわけにはいかない。

もちろん、ほかにも、銕三郎(てつさぶろう 27歳)が、京都西町奉行として赴任する父・宣雄(のぶお 54歳)にしたがって京へのぼる前に消息を記しておかなければならない仁には、高杉銀平(ぎんぺい 66歳)師、剣友・岸井左馬之助(さまのすけ 27歳)、井関録之助(ろくのすけ 23歳)、〔(たずがね)〕の忠助(ちゅうすけ 50がらみ)とそのむすめ・おまさ(16歳)、そして〔荒神(こうじん)〕の助太郎(すけたろう 50歳すぎ)とむすめ・お(なつ 2歳)などがいる。
これらの仁は、銕三郎が京から帰ってくるあいだに、身辺が激変しているからである。

にもかかわらず、まず、池田又四郎を選んだのは、池波さんが描いた銕三郎とのかかわり方では、史実とあわないからである。
そこに、ちゅうすけの苦衷がにじむ。

鬼平犯科帳』に描かれている又四郎は、銕三郎の4、5歳下で、200石の幕臣・池田邦之助の弟。
本所・亀沢町の家から高杉道場へ通ってきていた。
〔すっきりとした細身〕の躰つきながら剣の筋はよく、左馬之助でさえ、3本に1本はとられることがあるほどであった。
言葉にときどきどもるくせがあることから、京橋の大根河岸にあるうさぎ汁を名代にしている〔万七〕のふすまごしの声に、平蔵とっさに、又四郎だと察しをつけた。
20数年ぶりにもかかわらずである。

そう、この又四郎は、20数年前に、銕三郎たちの前から、突然、姿を消した。
もし、『寛政重修l諸家譜』に兄・邦之助が収録されていたら、又四郎の項は、

ゆえなく逐電し、行く方知れず

と記述されていよう。

霜夜]は、養子にきてもらって家名を継がせるという銕三郎の申し出を又四郎が断ったためとされている。
もちろん、その裏には、銕三郎が義母を殺害するたくらみを見ぬき、そうはさせないために身を隠さざるを得なかった、とあかされている。

さらに、池波さんは、又四郎銕三郎に恋情をいだいていたことも書きくわえている。
つまり、男おんなになって愛されることをのぞんでいたというのである。

おもしろい設定ではある。
ただ、銕三郎に、稚児を好む性癖がなかったために、又三郎は失意したのである。

しかし、史実は、すでに幾度も明かしてきたように、義母の波津子は、銕三郎が5歳のときに病死していたばかりか、病身で、宣雄の妻ととどけられても、病床から立つことができず、妻としての、義母としてのつとめは一切していないとみる。
宣雄の奥向きの世話は、銕三郎の実母・(たえ)が、長谷川家にいてとり仕切っていたのである。
の実家は、知行地の一つ---上総(かずさ)国武射郡(むしゃこおり)寺崎村の村長(むらおさ)であったと推測されている。

そういう次第だと、銕三郎又四郎を養子にするために、養母・波津子を殺すのをおもいとどまらせるために、又四郎が逐電するというのは、筋がとおらない。

とすると、彼の家出は、やはり、銕三郎への思慕がつうじなかったためとしたほうが、辻褄があう。
とはいえ、又四郎がどのように誘いをかけ、銕三郎がどう拒絶したか、ちゅうすけには想像もつかない。
いや、まったくだらしがない。
ここで、艶っぽい場面が描ければ、ひょっとしたかもしれないのだが。

文庫巻11[男色一本饂飩]で、大男の算者指南・竹内武兵衛木村忠吾の唇を吸う描写---、

侍の、大きな顔がぐっと迫ってきたとおもったら、矢庭(やにわ)に忠吾の唇へ侍のそれが吸いついてきた。あっという間もなく、まるで鯰(なまず)のは切身(きりみ)のような侍の舌がぬるりと忠吾の口中へさしこのまれ---

ぞっとする。
又四郎は、もっと美しく銕三郎をいざなったはずだが---。

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2009.07.12

佐野与八郎政親(2)

佐野与八郎政親(まさちか 41歳 1100石)は、西丸・目付になって満5年近くになる。
目付という職掌がら、口が重い。

その政親は、弟あつかいをしている銕三郎(てつさぶろう 27歳)に、父・平蔵宣雄(のぶお 54歳)が京都西町奉行に取り立てられる風評が、すでに西丸の上層部でもひそかに流れていると漏らしたばかりか、この京都行きには、幕閣から内々の密命がこめられるらしいことを、暗に告げた。

帰宅した銕三郎は、まわりに人の気配がないことをたしかめ、宣雄に話すと、
「番方(ばんかた 武官系)できたわしに、役方(やくかた 行政官系)がつとまるとはおもえぬ」
宣雄は否定はしないで、勤務がきびしいことを匂わせた。

「それはそうでしょうが、番方から役方にまわられた衆は少なくありませぬ。げんに、京都西町ご奉行・太田三郎兵衛正房(まさふさ 59歳 400石)さまも、わが家とおなじ両番の家筋です」
宣雄は、言っても仕方がないとおもったのであろう、太田正房は、実は分家・支家一門の多い水野の家系の五左衛門忠意(ただもと 享年35 500石)の次男で、太田家に養子に入り、そこのおんなを妻したことまでは、教えなかった。
女系のことをいうと、嫁・久栄(ひさえ 20歳)にも、奥どうように遇してきている銕三郎の母・(たえ 47歳)にも、余計なおもわくを与えることもばかったこと。

銕三郎は、そうした父の思慮にまではおもいがいたらない。
なおも、京師東町奉行・酒井善右衛門忠高(ただたか 61歳 1000俵)も両番の家筋だから、父上が任命されても不思議はないと言いはる。
よほどにうれしかったのであろう。
ついでに口をすべらせた。
佐野の兄上は、老・若(老中・若年寄)方から、特別任務が密命されようとも---」

(てつ)。口が軽すぎるぞ。与八郎どのは、伊達に目付をなされてはおらぬ。そのような極秘の大事をお漏らしになるとはおもえぬ」
「あ。父上はご存じなのですね?」
「しらぬ。か、京の極秘のことといえば、だいたいのところは推測がつく」
「わかりました。詮索はいたしませぬ」
「もし、わしが京の町奉行に引き上げられたとしても、おそらく、に、手つだわせるわけにはいかない密事であろう。忘れよ」
「はい」
「そのこと、2度とふたたび、口にだしてはならぬ。久栄に話すことも禁じる」
「断じて---」

「話はかわるが、仮に、仮にだ、わしが京へ赴任することになったとして、久栄はどうするな?」
宣雄は、生後3ヶ月初女孫・於初(はつ)をかかえての道中を案じているのである。

「首がすわるまで、同道は無理かとおもいます」
「かわいそうだが、来春まで、留守番をしてもらうことになろうな」
「拙はお供をします」
「あたりまえだ」
これで、銕三郎は、父・宣雄の京都町奉行は、風説ではないことを確信した。

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(京都西町奉行の前任・太田三郎兵衛正房の[個人譜])

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2009.07.11

佐野与八郎政親

佐野どのの長屋門ができあがったそうな。名代として、午後にでもお祝いをとどけてもらいたい」
銕三郎(てつさぶろう 27歳)が、父・宣雄(のぶお 54歳)に言いつかった。
(そういえば、佐野の兄上にも、4年ほどご無沙汰していたな)

参照】2008年11月7日~[西丸目付・佐野与八郎政親} () () (
2007年9月28日[『よしの冊子(ぞうし]) (27
2008年11月10日[宣雄の同僚・先手組頭] () () () () (

銕三郎は忘れている。
たしかに4年前、佐野政親から、銕三郎は、先手・鉄砲の組頭の誰かに、父・宣雄の役職である先手・弓の8番手の席が狙われていると教えられた。

_100その探索の行きがかりで、〔中畑(なかばたけ)〕のお(りょう 29歳=当時)と躰をあわせてしまった。(歌麿 お竜のイージ)
銕三郎は、おんなおとこ(女男)だったおの中へ入った初めての男となった。

参照】2008年11月17日[宣雄の同僚・先手組頭] (

につながる思い出が強烈だったせいか、銕三郎は、去年の春、茶問屋〔万屋〕源右衛門(げんうえもん 51歳)の頼みをきいて、農家が茶を喫することを禁じた古いお触書(ふれがき)を廃する手くだを伝授した行きかがかりで、田沼意次(おきつぐ 53歳=当時)の用人・三浦庄司と会った。

その1年前---明和7年(1770)だが、おとともに相良へ行き、ほとんど完成していた曲輪内堀の石垣を見、そのことを木挽町の中屋敷で意次に報告したときに、いつものように佐野与八郎も同席していた。

参照】2009年5月6日[相良城・曲輪内堀の石垣] (

参照】2009年6月1日[銕三郎、先祖返り] (

松造(まつぞう 21歳)に角樽をもたせて、永田馬場南横寺町の佐野与八郎政親(まさちか 41歳 1100石)の屋敷へ溜池にそって坂をのぼる。

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(永田町馬場近くの緑丸=佐野家)

あたりの大名屋敷は、さかんに建築の仕上がりがすすんでいる。
そんななか、佐野の屋敷は、長屋門を焼いただけで母屋は奇跡的に火をかぶらなかった。

1000石級の長屋門ともなると、門扉の板も乳房鉄(ちぶさがね)をあしらった堅固なものであった。

ちゅうすけ注】乳房鉄とは、女性の乳房と乳頭の形をした釘頭隠しの金具。

政親が下城したころをみはからっての訪問なので、書院へ通された。
父からの口上を述べると、政親は笑って、
「そう、気ばられずともよい。こたびの、付火人(つけびびと)の逮捕には、銕三郎どのの交誼がずいぶんと役だったそうですな」
「あ、〔愛宕下(あたごした)〕の元締のことまで、お耳に達しておりましたか」
「組頭どのが申されておりました。銕三郎どのの顔は、慮外なほどひろがっておるとな」
「恐れいります。怪我の功名です」

「ところで、柳営では、組頭どののこたびのお手柄で、遠国奉行へ栄転なさるげな噂が、ささやかれておることをご存じかな?」
「いいえ。父からはなにも---」
「京都あたりと、漏れきいております」
「京---」
「西町ご奉行あたり---」

「しかし、佐野の兄上。わが長谷川家は両番(書院番士と小姓組番士)の家柄ではありますが、祖父・宣尹(のぶただ 享年35歳)までは、だれひとり、役付までのぼった者はおりませぬ。父が小十人頭はおろか、先手の組頭まであがっただけで望外なこと---」
「これ。銕三郎どの。お父上の才腕を、低く見つもってはなりませぬ」
「しかし---」
「上つ方々は、もっと買っておられるのですぞ。それに---」
「それに---?」
「禁裏の役人たちの---」
「京のご所のお役人たちの---?」
「いや。これは、口をすべらすわけにはいかぬことでありました」

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2009.07.10

7月の[鬼平クラス]リポート

2009年7月5日の静岡SBS学苑の[鬼平クラス]のテキストは、文庫巻10[むかしなじみ

SBS学苑の主体は、静岡新聞社と静岡放送である。
鬼平クラス]は5年ほど前に開講し、月1で、ふつうは第1日曜の午後1時から1時間半ゆっくりとレクチャー、それからビデオを鑑賞。
年に2回ほど、ウォーキングと称して、東京やそのほかの鬼平ゆかりの地、県内の地をめぐる。
なにしろ、長谷川家の祖で、史料がのこっているのは、焼津市の小川(こがわ)や藤枝市の田中城なのである。

さて、[むかしなじみ]は、1973年の『オール讀物』8月号に掲載された、〔相模さがみ)〕の彦十爺(とっ)つぁんが主役のものがたり。

彦十爺(とっ)つぁんといえば、われわれはとっさに、江戸屋猫八師匠の、あの飄々とした人物を連想する。
しかし、猫八師匠の彦十役は、吉右衛門丈=鬼平からで、原作が書かれていた1973年---幸四郎丈=鬼平がおわって2年後--池波さんが承知していたテレビの彦十役は、河村憲一郎さんであった。

つぎの丹波哲郎さん=鬼平のときの彦十役は、岡田映一さん。
萬屋錦之介さん=鬼平のときが、植木 等さんとのちに西村 晃さん。

いっぽう、彦十が登場した篇を書きだしてみると、

1-2 本所・桜屋敷 p65 新装版p69
1-8 むかしの女 p277 新装版p93
2-6 お雪の乳房 p255  新装版p266
3-1 麻布ねずみ坂 p20 新装版p21
4-6 おみね徳次郎 p227 新装版p238
4-8 夜鷹殺し p278 新装版p292

---と、[夜鷹殺し]で、平蔵に対して初めて、一人前の口をたたく。

「近ごろ、こんなに腹が立つことたあ、ごぜえやせんよ。ねえ、旦那。夜鷹も将軍さまも---」
白髪(しらが)まじりのあたまを振りたてていいかけるのへ、平蔵すかさず、
「同じ人間だからな」
「さすがに銕つぁんの旦那だ」

つぁんではなく、その下にまだ「旦那」がくっついていた。

5-1 深川千鳥橋 p23 新装版p24
5-2 乞食坊主 p71 新装版p74
5-3 女賊 p99 新装版p104
5-4 おしゃべり源八 p143 新装版p150

と、ところを得た魚のように、のべつ、出番をあたえられている。

どうしていこうなったか?
大本は、幸四郎丈=鬼平のテレビ化の実現をすすめた、プロデューサー・故・市川久夫さんの助言だとおもう。
市川さんに、あるとき、
「テレビのシリーズには、柱となるヒロインが必要と、おっしゃって、おまさを登場させたのは、あなたでしよう?」
と問いかけ、
「ご名察のとおり」
と答えられた。

その伝でいくと、テレビのシリーズ化には、狂言まわしのコメディ・リリーフが、木村忠吾ひとりではもたない---とも提言されたのではなかろうか。
で、急遽、彦十爺っあんの狂言まわし化がはかられた。

さらに、

4-1 霧の七郎で、辰蔵
5-2 乞食坊主で、井関録之助http://onihei.cocolog-nifty.com/edo/2008/08/post_3904.html
5-6 山吹屋お勝で、三沢仙右衛門
6-5 大川の隠居で、船頭の友五郎
7-6 寒月六間堀で、茶店〔笹や〕のお熊(くま)、
10-3 追跡で、辰蔵の遊び友人・阿部弥太郎
11-3 で、〔帯川おびかわ)〕の源助
18-1 俄か雨 細川峰太郎

また、テレビでは、料理通という設定で、同心・村松忠之進(この仁は、1-2 本所・桜屋敷に、与力として名があがっている p80 新装版p85)

その中でも、彦十は、鬼平銕三郎時代のつなぎ役として、おまさ、おとともに、重い地保をたもちながら、おかしみをかもしだしているのである。

テレビでの[むかしなじみ]は、幸四郎丈のときと、錦之助さん、吉右衛門丈の3回制作されているが、奇妙なのは、前者の脚本家は野上龍雄さん、錦之介さんと吉右衛門丈の撮影は野波静雄さんの脚本ですすめられている。

クラスでは、吉右衛門丈のビデオをかけたが、幸四郎丈の物語の組み立てと、彦十の性格づくりも見てみたいものである。


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2009.07.09

ちゅうすけのひとり言(35)

当ブログのタイトルは、[『鬼平犯科帳』のWho's Who]である。
仮に訳すと[『鬼平犯科帳の紳士録』]であうろか。

盗賊に「『紳士録』はおかしい」---ということなら、[『鬼平犯科帳』銘々伝]なら、納得していただけよう。

いや、ありていは、[長谷川平蔵をめぐる銘々伝]と呼んだほうが、より正確かもしれない。
もっとも、この場合、「平蔵」は、平蔵宣雄(のぶお)、銕三郎(てつさぶろう)平蔵宣以(のぶため)、辰蔵(たつぞう)平蔵宣義(のぶのり)の3人に「かかわりのある」---と、いうことになるのだが。

うち、宣雄宣以に共通して大きくかかわるのは、火盗改メであろう。

そこで、ブログのタイトルの[Who's Who]にふさわしく、中間報告ということで、これまで『寛政重修l諸家譜』から『個人譜』引いた、火盗改メの逆順リストに、リンクを張って、アクセサーの便宜をはかっておこう。

明和9年(1972)~同年10月3日 助役
 中山主馬信将のぶまさ

明和8年(1971)7月29日~同9年2月22日卒 本役
 中野監物清方きよかた

明和7年(1770)11月24日~同8年5月3日 助役
 永井采女直該なおかた


明和7年(1770)10月21日~同8年11月21日 助役 病免
 平岡与右衛門正敬ただよし

明和7年(1770)7月22日~同8年5月3日 増役 再任
 浅井小右衛門元武もとたけ


明和7年(1770)6月27日~同8年7月29日 本役
 石野藤七郎唯義ただよし


明和6年(1769)9月25日~同7年4月24日 助役
 菅沼主膳正虎常とらつね


明和6年(1769)6月13日~同7年6月27日 本役
 松田彦兵衛貞居さだすえ


明和5年(1768)10月4日~同6年3月29日 助役
 仁賀保兵庫誠善しげよし) 


明和4年(1967)10月23日~同6年10月13日 本役
 長山百助直幡なおはた


明和4年(1767)9月22日~同5年6月2日 助役
 荒井十太夫高国たかくに


明和3年(1766)9Z月8日~同4年4月10日 助役
 遠藤源五郎常住つねずみ


明和3年(1766)3月15日~同4年6月25日 本役
 細井金右衛門正利まさとし


明和2年(1765)9月8日~同3年6月18日 助役
 長谷川太郎兵衛正直まさなお) 


明和1年(1764)9月7日~同2年5月24日 本役
 笹本靱負忠省ただみ


宝暦13年(1763)11月26日~明和1年4月6日 助役
 笹本靱負忠省ただみ


明和13年(1763)10月3日~明和1年5月3日 助役
 長谷川太郎兵衛正直まさなお) 


宝暦13年(1763)2月267日~同年5月14日 助役
 笹本靱負忠省ただみ


宝暦12年(1762)2月27日~同13年5月14日 助役
 本多采女紀品(のりただ)

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(本多采女紀品の[個人譜])


宝暦12年(1762)9月10日~明和2年4月1日 本役
 本多讃岐守昌忠まさただ
 

【参照】松平太郎『江戸時代制度の研究 現代語訳 火附盗賊改

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2009.07.08

もう一人の付火犯

目黒・行人坂の付火(つけび)の犯人を挙(あげ)たということで、火盗改メの頭(かしら)としての長谷川平蔵宣雄(のぶお 54歳)の声価は、江戸城内で一挙に高まった。
とくに、災禍にあい、屋敷を焼かれた幕臣たちは、宣雄をみかけるとわざわざ寄ってき、あいさつを投げかけた。
長谷川どの。胸のつかえがとれた感じですぞ。よくぞ、火刑にもちこんでくだされた」

その成果にかくれて、宣雄が評定所へ伺ったもう一つの付火犯にたいする減刑のことは、ほとんど語られることがなかった。

焼失した幕府の建物---虎門、日比谷門、馬場先門、桜田門、和田倉門、伝奏屋敷、幕府評定所、常盤橋門、神田橋門につづいて、万(よろず)町の西河岸から南伝馬町の商家および牢獄と記しておいた(2009年7月2日 [目黒・行人坂の大火と長谷川組] () )

このうち、牢獄とあるのは、ふつうは小伝馬町の獄舎、あるいは囹圄(れいぎょ)といわれているところである。

火難がおよびそうなときには、獄舎に収容している者たちを解きはなち、一定の期間内に戻ってきた入牢者には、罰一等を減刑することになっていた。

宣雄の先役・中野監物清方(きよかた 50歳)組が捉え、小伝馬町の牢で処刑をまっていた放火犯・武州賀美郡(かみのこおり 現・埼玉県熊谷市)無宿の儀八こと清覚(せいかく)は、明和9年2月29日の大火のおり、解き放たれたが、鎮火後、期限内に帰牢した。

しかし、掛かりの中野清方はすでに病死によって解任され、長谷川宣雄が本役を命じられていたので、評定所へも長谷川宣雄名義で伺われたのである。
それが、『御仕置例類集』に収録されている。

参照】2009年6月15日[宣雄、火盗改メ拝命] (

:現代文に直して転紀してみよう。

火附盗賊改
 長谷川平蔵伺

一、附火いたした者で、牢屋類焼のとき、立ち帰った件について評議

          武州賀美郡無宿
               儀八こと
                  清 覚
右の者は、寺の垣を乗りこえて侵入し、木仏、打敷、多葉粉を盗みとり、または寺で傘をも盗んだ上、武州豊島郡前野村(現・板橋区前野村)・百姓文次郎居宅の前に積まれていた稲に附火したことは、重々ふとどき至極なので、町中引き廻し、5ヶ所に罪状を記した捨札を立て、火罪を申しつける旨、せんだって、中野監物からお仕置きのことを伺っておりました。ところが牢屋が焼失のとき、放(はな)ちましたが、とどこうりなく立ち帰ってきたことを、長谷川平蔵からご報告ずみであります。

この儀、盗みをするべく火をつけたのですから、監物の伺いのとおり、引き廻しのうえ火罪に相当しますが、牢屋類焼のために放ちやりのあと、ちゃんと立ち帰ってきた者は、刑を一等軽くするとのお定(さだ)めにしたがい、死罪は遠島・重追放ですが、火罪の一等軽くは遠島に準じ、無期懲役を申しつけたく、お伺いいたします。
 
 6月
 評議のとおり決。

大円寺の放火犯・長五郎真秀(しんしゅう 18歳)の火あぶりの刑が執行された翌日の、6月22日---。
宣雄銕三郎(てつさぶろう 27歳)を伴い、四谷の香華の寺・戒行寺を訪れ、真秀の鎮魂のための読経を、日選(にっせん)師に乞うた。
陽が照りつけている外では、蝉しぐれが、本堂での読経に和している。

ちゅうすけ補】火盗改メのときに、死罪・火罪にした者たちの供養をしてやる習慣を、銕三郎はこのとき、父・宣雄から学んだ。

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2009.07.07

目黒・行人坂の大火と長谷川組(6)

長五郎真秀(しんしゅう 18歳)は、ずるがしこく、しぶとかった。
昨日の自供と、今日の告白が食いくちがっている点を指摘されると、
銕三郎さまに話す」
と、しらをきる。

そのたびに、銕三郎(てつさぶろう 27歳)が対面した。
「どうしたのだ? 正直に白状する約束ではなかったのか?」
「お役人は、おれがのっぴきならねえ悪(わる)のように、誘いこむだ」
「お前は、のっびきならない悪だ」
「んだども、江戸を焼きつくすほどの悪ではねうだど」
「だから、お前が、極楽へ行けるようにここの住持どのも、火付改メのお頭も導いておられる」
銕三郎さまは、どうだべ」
「拙は半々だな」
「半々?}
{いまのままでは、右足は極楽、左足は地獄」
「なしてだ?」
「お前が、正直でないからだ」

で、正直に自白すると約束をかわすのだが、すぐにまた、ごねた。
一日でも火刑を先にのばすための方便をつくしているとしかおもえない。

銕三郎は、18歳かそこらにも手におえない悪党がいることを悟った。
真秀は、934町が家を失い、14,700人が焼死したことに対して、まったく反省とか同情の念をみせなかったのである。
どこかが狂っているとしかおもえなかった。

父・平蔵宣雄(のぶお 54歳)は、彼が放火から、捕まるまでの行状を、ことこまかに記録し、火刑が妥当との量刑を上申した。

それを待ちかねていたように、老中首座・松平右近将監武元(たけちか 63歳 上野・館林藩主 6万石)は、町中引き廻しの上、小塚原の刑場で火あぶりの刑をいいつけた。
処刑は、6月21日であったという。

宣雄が放火犯を追っていた最中の3月4日に、火盗改メ・本役の中野監物清方(きよかた 50歳 300俵)の死がみとめられた。
私見だが、じつは、中野清方は、大火の直前に卒していたのではなかろうか。
火事騒ぎのごたごたで、先手・弓の4番手の退職願いの届けと認可が4日まで遅れたとみる。
大火の7日前の2月22日に卒したとしている資料もある。

徳川実紀』の安永元年(---じつは改元前の、まだ明和9年)3月6日の項に、

先手頭長谷川平蔵宣雄盗賊考察を命ぜらる。中山主馬信将をもこれにくわえらる。

つまり、宣雄は助役(すけやく)から本役(ほんやく)へよこすべりし、中山信将(のぶまさ 42歳 2100石)が宣雄のあとの助役にうめたということである。、

中山信将の家祖は、水戸家の家老・中山備前守信吉(のぶよし)の二男・吉勝で、信将は四代目、前年、先手・鉄砲(つつ)の19番手の組頭に任じられていた。
屋敷は、小川町裏猿楽町。
組屋敷は、市ヶ谷五段坂。
与力5名、同心30人。

泥棒がはびこる火災後の重責である。

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(中山主馬信将個人譜)

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2009.07.06

目黒・行人坂の大火と長谷川組(5)

「父上。所化(しょけ 修行中の僧)・長五郎真秀(しんしゅう 18歳)の捕縛をお伏せになりましたこと、まこと至極のご処置と、感服つかまつりました」
夕餉(ゆうげ)のあと、茶を喫しながら銕三郎(てつさぶろう 27歳)が言うと、
(てつ)。そちは、焼失させられた町方の衆の恨みによる私刑のことを言うておるのであろう?」
「はい」

「そのような浅慮では、火盗改メは勤まらぬぞ」
「は?」
細井金右衛門正利 まさとし 60歳=明和4年 200俵)どののことを覚えておるか?」
「あっ!」

細井正利は、下掲の【参照】に『寛政譜』をかかげているとおり、明和2年(1765)58歳に先手・弓の5番手の組頭となり、翌3年6月18日から火盗改メの増役(ましやく)を命じられた。
増役とは、臨時に増員された加役(かやく)で、事件が多く、本役(ほんやく)と助役(すけやく)の2組では手がまわりかねるときに発令される。

参照】2008年6月11日[明和3年(1767)の銕三郎] (

細井が役を免じられたのは明和4年(1767)6月20日だが、前年の閏9月16日に、捕らえていた放火犯を獄にくだすべく言上したのはいいが、それが与力まかせの誤認逮捕で冤罪であることがわかり、職務怠慢・職責粗略のうえに誤審を糊塗しようとしたとみなされ、職をうばわれ、小普請におとされ、逼塞を命じられた。

「放火犯の確定はむずかしい。よほどに証拠がためをしてかからないと、評定所でひっくりかえることがあるのだ」
「たしかに。長五郎が放火したところを、大円寺では誰もじかには見ておりませぬ」
「脇の証拠ばかりよ」

そういうことで、平蔵宣雄の取調べは詳細をきわめた。

南本所・三ッ目通り長谷川邸の仮牢から、縄付きの長五郎を目立たないように裏門から横川に待たせある、ぐるりに障子をたてまわした屋根舟にのせ、数人の同心と小者が警備にあたりながら、横川から大川、江戸湾を南行して品川浦へ。
そこから目黒川を遡行、行人坂下の石橋・太鼓橋で下船してからも長五郎には深編笠をかぶせて大円寺の焼け跡へ連行した。

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(目黒・行人坂下の目黒川に架かる石の太鼓橋
『江戸名所図会』 塗り絵師:ちゅうすけ)

大円寺の行人坂に面したところは目隠しの板塀が建てめぐらされ、通りからは証拠調べのぐあいが見とおせないように手くばりされていた。

長五郎は、ほんのボヤをおこして、その騒ぎのすきに金銭を盗んでにげるつもりだったようだが、烈風のために火勢が強められ、おもわぬ大火になってしまったと、悪びれることなく、放火の仔細を白状する。
しかし、宣雄は、それでは満足せず、さらに細かくつめていった。

放火現場の取調べは、3日おきに4日もおこなわれた。
(てつ)。なぜ、日をおくかわかるか? 口供の細部にくいちがいでるのを待っているのだ。そこを衝(つ)けば、真実がこぼれでる」

宣雄の遺漏のない検証は、幕府高官が讃嘆するところであった。

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2009.07.05

目黒・行人坂の大火と長谷川組(4)

「火つけ犯人らしい所化(しょけ 修行僧)を捕えたことは、一言も洩らしてはならぬ」
火盗改メ・助役(すけやく)の長谷川平蔵宣雄(のぶお 54歳 400石)が、組下の者はもとより、大手柄の〔愛宕下(あたごした)〕の伸蔵(しんぞう 42歳)元締、火元の大円寺の住持をはじめ、一同に厳命した。

「洩らした者は、ご公儀に対する反逆の噂を広めた科(かど)で、遠島ではすまさない」
こう言ったときの宣雄の目はつりあがっていた。

もちろん、銕三郎(てつさぶろう 27歳)には、父・宣雄の危惧は痛いほど通じていた。
家を焼かれた者たちが、放火犯が捕縛されていると知れば、徒党を組んで私刑をくわえに押しよせる。
火盗改メの長谷川組の与力5人、同心30名では、とても防ぎきれない。

それでも大事をとった宣雄は、〔愛宕下〕の伸蔵に言いつけ、浜松町の町会所の町(ちょう)役人や書役(しょやく)を監視させるとともに、あの僧は調べた結果、かかわりないとわかったので放免したという噂を、ひそひそとながさせた。
その一方で、銕三郎の下僕の松造(まつぞう 21歳)の頭を丸め、長五郎が着ていた高位の僧衣を着せ、網代笠(あじろがさ)をかぶらせて、別の町を4,5日徘徊させるという念のいれようであった。

ことの経緯は、この明和9年(1772)の1月から3万石に加増されて正式老中に昇格していた田沼主殿頭意次(おきつぐ 54歳)には、こっそりと報告してあった。
意次は、配慮を忘れなかった。
「月番若年寄・加納遠江守久堅(ひさかた 62歳 伊勢・八田藩主 1万石)侯からあがるようになされよ」

幕閣たちは、それどころではなかった。
1000家を越す幕臣の家が焼失したのである。
町方の商家や職人の困窮もなみではなかったが、幕臣のそれは、幕府の威厳にかかわることだから、金蔵を空にしてでも再建資金を貸しあたえないわけにはいかなかった。

風俗画報 臨時増刊 江戸の華 中編』(明治32年1月25日)にによると、このときの幕臣の拝借金は次のように定められた。

1000石以上  50両(800万円)
900~800石 45両(720万円)
700石     40両(640万円)
600~500石 30両(480万円)
400~300石 20両(320万円)
250石     17両(272万円)
200~100石 15両(240万円)
100~80俵   7両(112万円)
 70~50俵   5両( 80万円)
 40~30俵   3両( 48万円)
 20~15俵   2両( 32万円)
   14俵以下 1両( 16万円)
返済は10年年賦

木材や大工手間賃は高騰していたろうから、これしきの拝借金でどの程度の家が建てられたかは記されていない。
火災にあわなかった親類縁者から借財したとしても、災害前の生活水準ができるようになるまで何年かかったろう。

幸いに、長谷川家は本家・支家とも火災にあわなったからいいとして、銕三郎の嫁女・久栄(ひさえ 20歳)の実家は、たしか、このあと30年ほど和泉橋通りの屋敷にとどまったが、けっきょく、大塚へ移転している。
移転の詳細は、いまのところ、未詳。いずれ、暇ができたら、『東京史稿』でもあらためてみるつもりである。

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2009.07.04

目黒・行人坂の大火と長谷川組(3)

「不審な若造を捉えて、浜松町の町会所に監禁しています。もしやして、こんどの大火にかかわりがある者かもしれません」
愛宕下(あたごした)〕の伸蔵(しんぞう 42歳)元締の息・伸太郎(しんたろう 21歳)の言い分に、銕三郎(てつさぶろう 27歳)の胸は高なったが胆力でじっと抑えつけ、すぐさま、平蔵宣雄(のぶお 54歳)の部屋へ告げた。
宣雄は、与力部屋につめていた次席の内山左内(さない 47歳)を呼び、事情を訊くように命じた。

伸太郎によると、延焼をまぬがれた浜松町の家々の前に立ち、悪魔除けの読経をしてまわっている僧がいた。
火がこの家までとどかなかったのは、深い仏恩のゆえと、布施をせがむ。
身にまとっているのが高位の僧衣にもかかわらず、足は汚れており、かかとがひびわれていたので、
「怪しい」
不審とのつげ口があり、〔愛宕下〕一家の若い衆が、饅頭形の網代笠(あじろがさ)を脱がせてみると、まだ20歳にもならないのに、すさんだ顔相の男であった。
とてものことに、高僧の人品ではない。
法名を「新習(しんしゅう)」と名のったが、実名ではない気配でもある。

「お出張りの上、お改めをいただきたく---」

仔細を告げられた宣雄は、すぐさま、与力の一人に騎馬で目黒の安養院能仁寺に仮寓している火元・大円寺の僧を呼びにやった。
伴ってくる先は、いうまでもなく、芝・浜松町の町会所であるが、なるたけ隠密に---と念をおした。

浜松町へは、宣雄自らが、内山次席与力と同心2名、それに銕三郎をつれて出張ったが、近くで分かれて、それぞれ間をおいて入った。

長五郎真秀(しんしゅう)は、はじめは放火を否認していたが、
「まもなく、大円寺の住持どのがお着きになる。さすれば、当日のそこもとの行状、さらにはその法衣のことまであきらかになるわ」
訊問をわざとやめた。
放置された長五郎は、不安を嵩じらせはじめた。

その様子を見きわめた銕三郎が、そっと寄り、
「お主(ぬし)、熊谷宿の生まれと言っているが、石原村の出だな」
ぎょとした長五郎に、
「石原村生まれの女賊(おんなぞく)で、お(てい)をしっておるか? そうさな、齢のころは、いまは35,6の大年増だが---。そうだ、初鹿野はじかの)〕一味では、お松(まつ)と呼ばれていた---」

参照】2008年8月10日~[〔菊川〕の仲居・お松] () (10) (11

長五郎の目に懐疑の色が走った。
「お主の身元は、もう、割れているのだよ。火事のすぐあと、大円寺の者から聞いて、忍(おし)藩(10万石)の町奉行所へ同心どのが調べに行っておるのだ」

忍藩の藩主は、阿部豊後守正允(まさたか 57歳)で、政庁は忍(現・行田市)にあった。
中仙道の要衝---熊谷宿は忍藩の領内で、西に約1里(4km)の宿場を、町奉行が月に2回巡回しており、長五郎の10代前半の所業(放火歴)も忍の町奉行所に記録されていた。

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(栄泉 熊谷宿 八丁堤の景)

石原村は、次の深谷宿とのあいだの集落である。

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(栄泉 深谷之駅 芸者達が宿へ呼ばれた景)

「お主が石原村の実家から勘当され、無宿になったことも、調べがついている。無駄なあらがいはやめて、すんなり応えたほうが、火盗改メのお頭がいい感じをお持ちになり、お慈悲もいただけようというものだ」
「そんなつもりじゃなかっただに、江戸の半分が燃えてしまっただ」
「そうだろう。だれだって、江戸の半分も焼きはらおうなどの大それたことはかんがえぬ」
「騒ぎに、寺から金目のものを盗むつもりだっただ」
「ま、そのように、お頭へ、まっすぐに申しのべるがよい。拙が力になってやる」
「あなたさまは?」
銕三郎という者だ」

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2009.07.03

目黒・行人坂の大火と長谷川組(2)

久栄(ひさえ 20歳)は、臨月であった。
「父上をお助けしなければならぬ」
銕三郎(てつさぶろう 27歳)が、火元の目黒・行人坂の大円寺の納所の者たちから聞き取りをすので、泊り込みで出張るための着替えなどを整えている久栄に言った。

「ご案じくださいますな。2人目は軽いと聞いております。だって、昨夜まで、(てつ)さまが通り道をひろげておいてくださったのですもの、するっと生まれましょう。また、離れには母もおり、母屋には姑(しゅうとめ)どのもお控えでございます」
「用は、2日ほどですもう。それまでの、しんぼうだ」
「お帰りになったら、まだ残している、臨月の睦み、第4の手を---」
久栄か、意味深長な笑顔をつくって、口をさしだした。
隣家の松田彦兵衛貞居(さだすえ 65歳 1500石)は山田奉行に転じていたが、奥方の於千華(ちか 37歳)は付随しないで留守邸にのこり、無聊を久栄への色事話でまぎらせていた。

聞きとり組は、組頭・長谷川平蔵宣雄(のぶお 54歳)と次席与力・内山左内(さない 47歳)、同心3名に小者5名、下僕2名に飯炊き、銕三郎と供・松造(まつぞう 21歳)であった。
宿泊所は、天台宗・泰叡山滝泉寺(現・目黒区下目黒3丁目)---と書くより、目黒不動堂としたほうがわかりがはやかろう。
同寺の塔頭の一つがあてられた。

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(目黒不動堂 滝泉寺 『江戸名所図会』
塗り絵師:ちゅうすけ)

大円寺へは、10丁(1km)ばかり先の目黒川に架かる石の太鼓橋をわたり、行人坂を半分のぼればすむ。

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(夕日丘・行人坂 坂の中途の大円寺に慰霊の五百羅漢石像
同上)

もっとも、寺が焼失してしまっているので、住職たちは、石橋の手前の同宗の、寝釈迦像で有名な安養院能仁寺の離れに避難してきている。
雨がふらなければ、そこから焼け跡の現場までやってきて、訊問をうけた。

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(寝釈迦・安養院能仁寺 同じ上)

宣雄の訊問は、現場でも詳細をきわめた。
とくに、住職にうらみをいだいている者、懲罰を行った者の追究はくわしく訊きとられた。

その結果、大円寺の所化(しょけ)だった、武州・熊谷無宿の破門僧の長五郎(ちょうごろう 18歳)が、容疑者第1号としてあがってきた。

銕三郎は、父・宣雄が、寺の僧職の者や使用人などをやさしく問い、手がかりめいたものが語られると、思いだすまで細部を補いながら慎重に訊いてゆく手練から、多くを学んだ。

長五郎の人相書がつくられ、写しも何枚も描かれて、町廻りの同心たちはしっかり覚えた。

ちゅうすけ注】人相書は、ふつう、親・主殺し、放火犯しかつくらない。

しかし、長五郎は、どこに潜ったか、それらしい報告はあがってこなかった。
人びとは、避難生活と焼け跡の片づけに、それどころではなかった。
放火犯人は、ご公儀の仕事ともおもっていた。

そこへ、芝の香具師の元締・〔愛宕下(あたごした)〕の伸蔵(しんぞう 42歳)の息・伸太郎(しんたろう 21歳)が、銕三郎を訪ねてきた。
大火から丸20日目であった。

怪しい若者が芝のあたりを徘徊していたというのである。

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2009.07.02

目黒・行人坂の大火と長谷川組

「ゆうべの、空を飛んだ光ものはなんだ?」
「品川浦から亀有のほうへ流れるように走った」
明和9年2月29日の早朝から、南西の烈風が吹きまくるなか、井戸端での話題は、昨夜の不可思議な現象にあつまった。
その光ものは坤(ひつじさる 南々西)から、艮(うしとろ 北東)へ江戸の夜空を横ぎっていった。
「なにかの前兆でなければいいが---」
「今朝の、このお天道(てんとう)さまの翳(かげ)りとも、かかわりがあるのだろうか?」

この年の2月29日は、現行の4月1日にあたる。
暗いうちからの烈風は、土ぼこりを舞いあがらせて天をおおい、太陽をさえぎり、五ッ(午前8時)だというのに、江戸の町はうすぐらかった。

町人たちの予想はあたり、大不祥事が江戸の町を襲ったのである。

目黒・行人坂の大火がそれである。

火元は、行人坂の中腹の天台宗・大円寺(現・目黒区下目黒1丁目)であった。
正午前後に出火し、おりからの強風に炎が狂ったように走った。
その惨禍は、白金の町々から麻布一円、三田新網町辺、狸穴(まみあな)、飯倉市兵衛町なだれ、霊南坂、西久保、桜田、霞ヶ関、虎門、日比谷門、馬場先門、桜田門、和田倉門、伝奏屋敷、幕府評定所、常盤橋門、神田橋門を焼き落とした。
火炎はさらに、日本橋通り3、4丁目西側、元四日町、万(よろず)町の西河岸から南伝馬町の商家および牢獄、を軒なみ、
内外神田、神田明神社、聖堂、湯島天神とその周辺一帯、上野広小路、下谷、御徒町、入谷、金杉、三ノ輪、小塚原、吉原、千住となめた。

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(江戸の火事 『風俗画報』明治32年1月25日号より)

ものの本によると、焼失したのは、934町、大名屋敷169、橋170、寺院382、死者14,700人余、行方不明4,
600人余。幕臣の家屋の全焼も1000戸を軽くこしたろう。 

のち、江戸の3大火の一つに数えられた。

もちろん、本所、深川へは飛び火しなかったから、長谷川邸は焼けなかったが、出水には被害をこうむった。
長谷川組---先手・弓の8番手の組屋敷には、火炎はとどいていない。

長谷川一門の本家で表一番町新道の太郎兵衛正直(まさなお 63歳 1450石 先手・弓の7番手組頭)も類焼をまぬがれている。
納戸町の大身・久三郎正脩(まさひろ 4070石 小普請支配)もおなじく助かった。
銕三郎(てつさぶろう 27歳)かかわりでは、若奥・久栄(ひさえ 20歳)の実家が全焼したので、とりあえず、銕三郎たちの離れをあけて、仮普請ができるまで提供した。

火元の大円寺は、火盗改メ・助役(すけやく)の長谷川組の持分の区域にある。
鎮火とともに、長谷川平蔵宣雄(のぶお 54歳 400石)の出火原因の探索がはじまった。

幕府の期待が長谷川組にそそがれたのは、持ち分のためでも、屋敷が被災しなかったためばかりではなかった。
本役・中野監物清方(きよかた 50歳 300俵)の神田門外の役宅が焼失してしまい、臨時役宅は清水門外の幕府用地に仮設されたが、病臥中の清方をはじめ一家は、奥方の里---平岡弥平次正孝(まさのり 26歳 400俵)の四谷新宿屋敷大名小路に仮寓しており、用務は筆頭与力・村越増次郎(jますじろう 51歳)が執りしきっていたからでもある。
目白台の同組屋敷は焼けていない。

ちゅすけ注】銕三郎かかわりでいうと、深川・本所は延焼しなかったのであるから、とうぜん、高杉道場、岸井左馬之助(さまのすけ 27歳)が寄宿している春慶寺、〔風速(かざはや)〕の権七(ごんしち 40歳)の駕篭屋〔箱根屋〕も、本所の弁財天裏の〔相模(さがみ)〕の彦十(ひこじゅう 37歳)の裏長屋も、二ノ橋北詰の〔五鉄〕、弥勒寺門前のお(くま 49歳)の茶店〔笹や〕、四ッ目通りの〔盗人酒屋〕も無事であった。
そうそう、御厩(うまや)河岸・三好町のお(のぶ 31歳)の茶店〔小浪〕も、2筋西まで炎がきたのに、奇跡的に焼けなかった。

今助(いますけ 25歳)・小浪(こなみ 32歳)の〔銀波楼〕は焼けおちた。
浅田剛二郎(ごうじろう 34歳)が用心棒をしていた質商〔鳩屋〕は、東本願寺・浅草寺(本堂は残った)の塔頭などと運命をともにした。
ただし、〔鳩屋〕の質もの蔵は火炎に耐えた。
般若(〔はんにゃ)〕の猪兵衛(いへえ 24歳)の家も、髪結い・お(しな 23歳)も焼けた。おは、とりあえず、故郷の秩父の小鹿野(こがの)村へ帰って、江戸の町の再興を待つことにした。

音羽(おとわ)〕の重右衛門(じゅうえもん 41歳)元締のところも、芝の北新網町の〔愛宕下(あたごした)〕の伸蔵(しんぞう 42歳)元締のところもまぬがれたので、お救い屋の整理に組子たちを動員して、このときとばかりと奉行所や町役人の手助けにはげんでいた。

長谷川組の探索の結果、大円寺の出火は、ふだんは火のない物置き所への放火が原因らしいと推定され、放火犯人の割りだしがはじまった。

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2009.07.01

〔愛宕下(あたごした)〕の伸蔵・元締

長谷川の若さま。ご尊父は、火盗の助役(すけやく)をお勤めでございましたな」
土地(ところ)一帯の香具師の元締・〔音羽(おとわ)〕の重右衛門(じゅうえもん 40歳)が、母親・おくらゆずりの巨躰にちょこんと乗っている顔をかたむけて訊いた。

「さようです」
銕三郎(てつさぶろう 26歳)が応える。
「それならば、芝は、お助役のお持ち場。お引きあわせいたしたい仁がおります」
「元締のご推挙の仁とあれば、よろこんで---」
「では、近ぢか---」

重右衛門が推したのは、芝の飯倉神明宮や増上寺、愛宕山下などの一円を取りしきっている{愛宕下(あたごした)〕の伸蔵(しんぞう 41歳)元締であった。

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(飯倉神明宮 『江戸名所図会』 塗り絵師:ちゅうすけ)

参照】火盗改メの本役・助役の巡邏区分は、2008年2月28日[銕三郎(てつさぶろう) 初手柄] (

香具師の元締だから、闇の実情につうじている。
盗賊や博徒という裏で生きている輩が相手の火盗改メとしては、香具師の元締と知りあっておくことは、裏街道の地図の持ち主とこころ易くなったのにひとしい。

芝・増上寺の表門---通称・大門前で落ちあい、重右衛門に案内されて行くと、伸蔵は、北新網町の小じんまりとしたしもた屋に住んでいた。

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(赤○=北新網町 池波さん゜愛用の切絵図:近江屋板)

虚飾をはぶいた質素なその構えからして、人柄をしのばせたが、家の前にちゃんと水がうってあるのに、銕三郎は好感をもった。
もっとも、
(血なまぐさい出入りごとも取りしきる香具師の元締が、きれいごとだけですまされまいが---)
疑問もおぼえなかったというと、嘘になる。

裏庭が見渡せる部屋へ通された。
伸蔵は、庭での五蓋松(ごがいのまつ)の手入れをやめ、細身の躰を蛙が跳びでもしたように身軽に縁側へ跳びあがると、そこにぴたりと座り、
「お初にお目もじつかまつります。伸蔵と申します」
丁寧に仁義をきった。
銕三郎も、あわてて座布団をはずす。
「長谷川銕三郎です。いまだ、部屋住みの若造です。お見しりおきを---」

音羽〕の重右衛門が、
「そこからでは話が遠すぎます。こちらで、ご両人とも、おくつろぎを---」

「あの鉢の五蓋松は、樹齢150年といわれており、手前の4倍近い長寿です。老父をいたわるよりも手あつく、孫の代まで生きていてもらうように、照ったといえば日陰に寄せ、降ってきたらきたで軒下へ移して、護っております」
ふところの深さを感じさせる、ゆったりと愛情をこめた口ぶりに、銕三郎は、さらに印象を深めた。

「孫の代まで---と言われましたが、ご子息は?」
銕三郎に、伸蔵が、手を打って用意の膳を催促するとともに、
伸太郎をここへ---」

商人が好んで着るような濃紺地に細縞をきっちりとまとった、20歳前後らしい青年が、部屋の隅で正座し、客たちに向かって一礼してから
「父ご。なにかご用で---?」
「おう。いい機会(おり)だ。〔音羽〕の元締の隣りおいでなのが。長谷川の若さまだ。こんご、なにかとお教えをいただくように、ごあいさつをしなされ」

伸太郎でございます。お噂は、かねがね承っておりました。どうぞ、ご配下の衆同様にこき使ってくださいますよう---」
なかなかにできすぎたあいさつふりであった。
銕三郎も、
「部屋住みの銕三郎です。このあたり、父の巡視の供をすることもあります。ご助力ください」
「いつにても、お声のままに---」

銕三郎の頼みは、3ヶ月もたたないうちに実現した。


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2009.06.30

〔般若(はんにゃ)〕の捨吉(2)

御厩(おうまや)河岸の舟着きのところで逮捕された〔衣板(きぬた)〕の宇兵衛(うへえ 45歳)一味は、元締の宇兵衛はとぜんとして、小頭(こがしら)・〔思案(しあん)〕の為平(いへい 32歳)、二番小頭・〔菊名(きくな)〕の六郎(ろくろう)などの主だったところがごっそりであった。

残った幹部は、〔般若(はんにゃ)〕の捨吉(すてきち 24歳)だけで、ほかは20歳(はたち)にもならない、威勢だけはいいが思慮がもう一つといえる連中であった。
宇兵衛には、男の子がいなかった。
それで、女房のお(ひさ 40歳)は、かねてから捨吉に目をつけており、むすめ・お(そめ 18歳)と娶わせようしとしていたのを、この際、実をむすばせた。

捨吉は、
「元締が八丈島からお帰りになるまで、お預かりします」
殊勝なことを誓い、名も、猪兵衛(ゐへえ)と改めた。
いろはにほへと ちりぬるお---うゐのおんくやま けふこえて---
「宇 う」のつぎの「猪 ゐ」なんだと。
小頭・為平の「為 ゐ」は、さすがにはばかった。
は、〔般若〕の猪兵衛---強そうでいいねえ、とまんざらでもなさそうな笑顔であった。

「土地(ところ)をお預かりするについて、2つ、筋をとおさせてくだせえ」
猪兵衛は、さっそくに条件をだした。

一つは、披露の仮親は、〔音羽(おとわ)〕の重右衛門(じゅうえもん 40歳)元締に仮親を頼みたいこと。
二つ目は、同郷で髪結いをしているお(しな 23歳)を、女将(かみ)さんもおも妾としてきちんと認めること。ただしおには子をつくらせない。

二つ目には、おが不服を言ったが、無理に引きさいて首でもくくられたら世間体がわるいと、宇兵衛の妾でさんざ悋気をやいたおが、本妻のふところの広さのみせどころと、納得させた。
もちろん、いまとは夫婦の感触が大きくちがっていた当時だからとおったことである。

音羽〕の重右衛門は、
「もともといえば、〔衣板〕が慾にからんで、〔木賊〕の縄張り(しま)に手をだそうとして失敗(しくじ)ったことゆえ、新二代目が〔銀波楼〕の今助(いますけ 24歳)に遺恨をもたず、義兄弟のちぎりをむすぶなら、よろこんでひきうけさせてもらいますぜ」
であった。

義兄弟というのは、じつは、今助から重右衛門に引きあわされた銕三郎(てつさぶろう 26歳)が言い出した案であった。
宇兵衛は、桟がおとしてある戸を蹴破って押しこみました。いわゆる、重罪にあたる錠やぶりをしたのです。ほかにも博打場もひらいています。遠島はお慈悲です。父が押しこみはしたが、金にもおんなにもまだ手をつけていなかったと、温情を伺いました」
打ちとけて話す銕三郎に、重右衛門はいたく好感をもったようであった。

2人の友情は、このときに結ばれ、のちのちのおまさの誘拐の解決に、京の祇園の元締・〔左阿弥(さあみ〕の円造(えんぞう)三代目の力添えをうけられることになるが、それは、20数年も先のことである。

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